寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】 雨の柴又を歩く (下) = 阿河 紀子

「ローアングルで撮る写真も面白いよ」

 穂高先生が熱くレクチャーしている。


 私も挑戦してみる。シャッター・チャンスが、なかなか掴めない。

 地べたに這いつくばって、夢中で写真を撮っていると、なんと「寅さん登場」だ。


「え~~~」とびっくりしていると、この界隈では有名な「物まね芸人」だそうで、先生とも顔見知りらしい。

 観光客から「一緒に写真を」とせがまれている。

「お控えなすって」の手と、雨にもかかわらずの「雪駄」と絶やさぬ「笑顔」が彼の心意気なのか。


「雨だれを有効に使って写真を撮る」という課題で撮った1枚がこの写真だ。

 矢切の渡しに乗船予定だったが、雨天運休していた。

代りに、昭和の雰囲気がぎゅっと詰まった喫茶店で、休憩を兼ねて写真撮影のコツのレクチャーがあった。船に乗れなかったのは残念だったが、有意義な技術習得の時間だった。


「何を主役にして、何を脇役にするか」と言う、課題を意識しながら撮った写真がこの1枚だ。主役は写真を撮る「彼女」で脇役はカメラの「画面」だ。


 上手、下手はさておき、今までと違う視点から写真を撮るのは、面白かった。

 雨降りでも、楽しく充実した講座だったが、次回はやはり、晴れた柴又を歩きたいものだ。


                         【了】

【寄稿・写真エッセイ】 雨の柴又を歩く (上) = 阿河 紀子

 ずっと京成沿線に暮らしている。それにもかかわらず、私は金町線に乗るのも初めてなら、柴又を歩くのも初めてだ。だから、「朝日カルチャーセンター千葉」主催の「柴又を歩く、撮る」の講座を楽しみにしていた。

 当日は、あいにくの雨だった。その上、寒い。気分は上々と言うわけには、いかない。
「せっかく来たのだから、楽しまなければ」
 と自分で自分を盛り上げながら、「柴又」の駅で下車する。

 講師は、「写真エッセイ」でお世話になっている「穂高健一先生」である。


 日本ペンクラブに所属する、高名な作家だと言うのに、先生自ら、テンション低めの受講生を盛り上げようと道の真ん中でポーズをとり被写体になる。

 これでは、雨が降っているからと、私がテンションを下げてはいられない。本日のテーマは、「動きのある写真を撮る」「主役と脇役を考えながら撮る」である。


 さぁ、気を取り直して、出発だ。駅前には有名な寅さんの像がある。

 さっそくカメラを構える。ここで私たちが撮りたいのは「記念写真」ではない。

 寅さんの像と撮られる人、撮る人との関係、場所や時間、季節などを説明無しに、どこまで表現できるかに挑戦する。難しい。


 次から次へと、観光客が寅さんと一緒に写真を撮る。どの顔も笑っている。

 寅さんは、今でも変わりなく人気者だ。


 私たちが、カメラを構えているので、通りがかる人すら、カメラを意識する。

 この若いカップル、一旦、寅さんの前から立ち去ったのに、再びカメラの前に登場する。

 どうしたのかなと、様子を見ていると、どうも彼女の方が、カメラマンたちのモデルになろうと彼氏をそそのかしたようだ。

 彼女の堂々としたモデルっぷりに比べて、彼の方は、目が泳いでいる。主導権は彼女にあるようだ。

 心の中で「彼氏、頑張れ」つぶやきながら、小走りに一行を追いかけた。


 帝釈天に続く雨の商店街は、予想以上に人通りが多かった。

 軒先で一杯やっていた3人連れに穂高先生が「撮らしてもらっていいですか?」と声をかける。
快くモデルになってくれた。

 私はこの眼光鋭いおじさんが気になって仕方がない。
「3人のご関係は?」
 と尋ねると、その辺はうまく誤魔化されてしまったが、青年がモンゴル出身の「元力士」だったことを教えてくれた。
 彼は引退後、100キロ以上あった体重を、ランニングでここまで減量したそうだ。

 さらに行くと香ばしい美味しそうな臭いが鼻をくすぐる。焼き鳥やさんだ。通りがかる人が、思わず笑顔になっている。

 焼いている彼の真剣な眼差しや、綺麗な手、繊細な指先に、私は、しばし見とれる。  


 先生は「煙を撮れ」と言う。

 動きを煙で表現するのだ。


「くし刺し3年、焼き4年」などと言われている。

 彼に「焼きになってから何年?」

 と尋ねると、にっこり笑って「4年」と答えてくれた。

もうすぐ店を任してもらえるのかもしれない。

「頑張ってね」
 と声をかけると、恥ずかしそうに頷いた。

                                【つづく】

【寄稿・エッセイ】 身障者手帳 = 和田 譲次

 家内は二年前に膝に人工関節を取り付けた。手術後も元気で、腰が悪い私より速く歩く。それなのに病院の指示で身障者手帳の申請をし、交付された。

 本人は何も不自由を感じていないように見えるが、いろいろな恩典が受けられる。
 自動車関係はフルに利用したら利用者のメリットは大きい。税金も安くなるし、歩行困難者使用中のカードを付ければ自由に駐車ができる。地域が限られるが、無料バスカード、タクシー割引券、JRも割引が適用になる。

 家内が積極的に利用しているのが公共の美術館、博物館への入場が無料になる権利である。本人だけではなく付添一名も適用になる。今年の秋は素晴らしい企画展が多く、上野や六本木などへたびたび出かけていた。毎回、近所の奥様が一緒である。

「今日は上野で三カ所回ったの、窪田さんが疲れたと言うのでアメ横にはよれなかった」
「付き添いが疲れたと言ったのではついてきた意味がないな」
 と私が言って二人で笑った、
「ご主人に悪いわね、私ばかり素晴らしい絵を観させていただいて」
 モネ展の会場で絵を見ながら窪田さんが話したという。
「いいのよ、主人は美術館には、いつも一人で行っているわ、自分のペースで静かに観たいのよ」と、家内が応じたらしい。

 家内の行動を観ていると無意識で、無料バスやタクシーを利用している。歩こうと思えば歩けるのだが、恩典があるとつい、利用してしまう。付き添いの制度も当初は車椅子利用者のために用意されたのだろうが、家内に限らず、今では自分の足で歩ける人が遊びのために友達を誘っている。 夫婦で川崎市内から川崎ナンバーのタクシーを利用すると、かなり長距離のりようが可能である。一度だけ違法すれすれのタクシーの利用をしたことがある。

 身障者の方への恩典は、必要がある人が、必要な時に利用すべきものだと思う。申し訳ないことをしてしまった。

 私の友人が心臓ペースメーカーを付けている。今の機械は改善が進み電波障害もなく安定している。私は心臓に障害があり、不整脈がよく出る。脈が遅くなるタイプなので本来ならばペースメーカー使用の対象になる。
 循環器担当の主治医と具体的に話し合ったことがある。
「ペースメーカーを付ければ脈が落ち着いて安心できると思うのですが、それに身障者の扱いを受けるといろいろな恩典があると聞いていますが」
「体に異物が入るということは本来の体のリズムが狂うということですよ、心臓に良くても他の器官に影響が出ます。貴方は未だ自力で活動できます。わざわざ体をいためることはありません、自然体でいきましょう」とたしなめられた。

 家内は、膝の前に、脊柱管狭窄症の手術を受け、こちらの方も後遺症がある。既定では手帳が支給されない。人前では明るくふるまっているが、寒くなると膝の患部が痛くなり側に暖房機を置く、寝付けなくて夜中に痛み止めを飲むこともあるようだ。
 人工関節も性能が向上しているのだが、体本来のものとは違う。疲れたり、温度、湿度の変化で痛みが出る。口には出さないが、夫婦を永く続けていると家内のつらさが感じとれるときもある。


【寄稿・エッセイ】 上首尾 = 金田絢子

 10月2日(平成27年)に、クラス会があった。
 私の母校は、幼稚園から大学まで続く一貫校だが、この日ひらかれたのは、初等科のクラス会であった。男女合わせて40人が参加した。

 予め幹事が「エッセイのお話をしていただきたいと思っています」と往復ハガキに書いて寄越した。
 眠れない夜が続いた。というと、ちょっと大袈裟だけれど、少なくともハガキを受けとった日は、夜通し挨拶の文句を練った。

 草案は、前のエッセイ教室をやめた理由に始まり、延々と”私”を語るものだった。何度も推敲(?)を重ね、余分なものをカットしていった。

 クラス会はレストランで行われ、丸いテーブルを6、7人が囲むスタイルである。
 レディ・ファーストということで、女性3人が先きに話をした。私は2番目に呼ばれた。自分の椅子から立って、そのまま話し出せばよかったので、緊張しないですんだ。

 まず、学校時代まさに落ちこぼれだったと自己紹介をしてから、先日エッセイに書いた、「私がメチャクチャにした、球技会の日のバレー・ボール」の話をした。
 この文章はエッセイ教室で、拍手喝采だったと嘘までついた。

 試合ののっけから、ヘマをくりかえす私を怒鳴って泣かせたTも、別のテーブルにいた。面白そうに笑顔で聞いている姿が、私の席からよく見えた。
 彼女は私に「君ってホント、怖いもんな」と男子連にからかわれたと話した。

 クラス会が跳ねてから、幹事に、「Tさんを散々さかなにして悪かったかしら」と言ったら、「そんなことないわよ。喜んでらっしゃるわよ」と請け合ってくれた。

 私のスピーチは、殊のほか評判がよかった。

 つまるところ、文章を時間をかけて練り、書いて書いてかきまくり、声に出して読め、とエッセイ教室で教えられたことが、役に立った。
 もう一つ、次期幹事に指名されなかった幸運が加わり、るんるん気分で二次会にものぞんだのであった。

【寄稿・エッセイ】 ドロボウ?  = 奥田 和美

 私の母は4人の子供を産んだ。男3人と女1人。長男が7歳、次男が5歳、三男が3歳の時、私は母のお腹の中にいた。戦後の昭和24年のことである。

 母はその地に引っ越してきたばかりで、大きなお腹を抱えながら、荷物の整理で大忙しだった。3人の男の子達は一緒に遊んでいると思っていた。ところが三男の行方が分からなくなった。あちこち探したあげく、小川に浮いている子供が見つかった。

 三男は川にはまって死んだのだ。遊び盛りの2人の兄たちを責めるわけにはいかない。母は悲しんでいる暇はなかった。間もなく私が生まれたからだ。

 私が3歳になったころ、夜中におしっこがしたくて目が覚めた。畳の部屋が一部屋と台所と便所だけの狭い一軒家だ。1人で便所に行こうとすると、押し入れの前に白い着物に黒い袴を着た男の子が立っていた。同じくらいの背丈だった。
「だれだ?おまえ」
 私が指でつつくと、その子は黙って小さな刃物を突き付けてきた。
「こわいよう、おかあちゃん」
 寝ていた母にすがりついた。振り向くとその子は消えていた。

 3歳の時の記憶だが、繰り返し話しているうちに、私は幽霊を見たことがあると思うようになった。きっと死んだ兄が、幸せそうな私を見て、うらやましくなって出てきたのではないかと。
 挫折した時、私はこう思うようにした。
『私は兄と2人分を生きている。だから苦しむ時は人の2倍苦しむんだ。幸せだって2倍。いや、自分の努力で3倍の幸せにしてやる』
 高校受験の失敗や就職がなかなか決まらなかった時、子育てで悩んだ時、離婚した時、株で大損した時、交通事故に遭った時など、落ち込みはひどかったが、それを跳ね返してきた。

 母が晩年私に、
「ねえ、あんたが幽霊を見たっていう話。あれ、本当は泥棒だったんじゃない? あの頃は泥棒が多かったからねえ」
「ドロボウ?」
 冗談じゃない。あんな小さな泥棒がいるはずがない。刃物を出したのは幽霊らしくないけど、あれは兄だ。
 兄に違いない。そう思わなければ、私の努力は何だったのだろう。

【寄稿・エッセイ】 大名華族・蜂須賀家  = 桑田 冨三子

 1954年、大学に入った私は、寮生活を始めた。
 夏休みが近づくと寮生たちは、皆そわそわし始める。親たちが待つ故郷へ帰るとか、海外旅行に出かけるなど、それぞれに楽しいプランを立てている。
 そんな中、貧乏学生の私に学長のマザー・ブリットがこんな話を持ってきた。
「夏休みの2か月間、『住込みの家庭教師』の仕事が来てます。行ってみたらどうですか」
 行く先は、熱海の蜂須賀・元侯爵邸である。私より4歳年下で、インターナショナルスクールの高校生、正子の「数学」をみる、という話だった。
 英語は不得手だが、数学なら、なんとかなるだろうと引き受けることにした。

 熱海駅について、改札口を出るとそこに、迎えの車がいた。
「山崎冨三子さんですね。どうぞ、お乗りください」
 いわれるままに乗りこむ。車は海辺を抜けて山道にさしかかり、ぐるぐると回り登って行く。やがて、門らしきところで、車は止まった。
 そこには、身なりを整えた白髪の老人が立っていた。
「おひいさまのテユーター(家庭教師)ですね。執事の加藤です。これから貴女が住むコテッジへご案内します」
 かばんをかかえて、庭石づたいについていくと、そこには「ミモザ」と札のある洒落た洋風の離れ屋があった。それが、これから私の住むところであった。

 生徒の正子(マアコ)は、阿波の国・徳島藩主だった蜂須賀家17代目、と聞いている。背丈は、私と同じぐらいである。長い黒髪をむぞうさに後ろで束ね、アーモンド型のぱっちり目で、ブルー・ジーンズの良く似合う姫様だった。
 なるほど、軽井沢で裸馬を乗り回すというはなしは、さもありなん。

 正子は私の事を、気軽にフクチャンとよび、まるで新しい友達が出来たかのように扱った。私としては「先生」とよばれるよりは、ずっとありがたい。
 私達は、とくだんに勉強時間をとり決めもせず、遊びに来た友人みたいに、ともに食事し、ともに音楽を聴き、気が向いたときを見計らって、アルジェブラ(幾何)の本を開いた。

 この屋敷には、沢山の部屋があちこちにあるが、いくつあるのかは、不明だ。正子と私が、よく行ったのは、山に沿って建てられている階下の部屋で、屋根もガラス張りの、巨大な温室である。
 温室といっても、床は大理石でできている大広間であって、真ん中に深い温泉プールがあり、そばに真湯(まゆ)のバス・タブが埋め込まれていた。背の高い緑の植栽があり、その下に古ぼけた籐椅子がふたつ、並んで置いてあった。

 私達はそこで遊びながら、アルジェブラをやった。
 ひと夏の宿題の量は、多くなかった。勉強机の前で、しかめっ面でやる数学とは縁のない、楽しいお遊びの宿題作業だった。これは、きっと勉強嫌いのまあこの戦術だったのだろう。私自身にとっても、楽しい夏休みだった。

 正子の父親は鳥類学者だった。
 その置き土産の、どでかい鳥の剥製が在ったり、執事や召使が登場したり、驚くことは多かった。なかでも心に残ったのは、そこに住んでいた正子の伯母・デザイナーの蜂須賀年子(としこ)女史である。
 蜂須賀年子は、德川慶喜の孫で、德川家や、皇室とのつながりが深い人だ。子ども時代には12人もの家庭教師がついていて、書家や国文学者など、皆、当時、一流の人物だったという。とにかく年子夫人は、教養溢れる、魅力的な人物であった。

 広い屋敷の中、南のどこに住んでいたのか、皆から「南邸様」とよばれていた。私は、その「南邸様」から、日本古来の行儀作法の歴史など、もろもろの興味深い話をたくさん聴くことができた。50年も前のことである。

 教わったことなど、とうに記憶の彼方に消え去ったが、あの時、「南邸様」から一冊の本をもらった。それは「大名華族」という題で、阿波の藩主・蜂須賀家に生まれ育った年子が、思い出をつづったものだった。
 大名華族の家では、嫁入りを控えた娘に、どんな性教育を授けるのか。
 お付きの老女が、まくら絵をみせると、
「そんな、みだらなものは、みとうない」
 と、姫は横を向いてしまう。云々・・などと、この本には書いてあった。

 1969(明治2)年から1947年まで存在した貴族階級には、元皇族を皇親華族、公家を公家華族、江戸時代の藩主は大名華族、国家への勲功により新しく華族になった新華族、がある。
 同じ華族でも、蜂須賀家のような大名華族は、行儀作法や家庭のしつけに、侍の気風が色濃く残っているのは、きわめて興味深い。
 神田では、古本屋まつりが開かれる季節になった。
 ちなみに、この古本をアマゾンで検索してみたら、1万2000円の値がついていた。

貸し切りの山だった 奥多摩・大塚山(鉄五郎新道)= 栃金正一

1.期日 : 2015年4月17日(金)晴れ時々曇り

2.参加メンバ : L佐治ひろみ 栃金正一

3.コース : 古里駅~金毘羅神社~広沢山~大塚山~大楢峠~小楢峠~鳩ノ巣・城山~鳩ノ巣駅

 古里駅に8:30に集合。準備をして出発。青梅街道から左に入り、大きな橋を渡り切ってすぐ、右手の登山道を行く。
 更に少し行くと沢があり、小さな橋を渡り立派な滝を眺めながら道を右に分けて登ると大塚山への道標がある。杉の植林された道をどんどん行くと金毘羅神社の鳥居がある。鳥居をくぐり右手の高台に祠があるのでお参りする。

 登山道に戻り尾根伝いの道を行くと、道の脇の枝に「岩団扇保護地」の標識が付けてあった。あたりを見回すと、白い小さな「イワウチワ」が咲いていた。
 この辺りは、自然林になっており芽吹いたばかりのうす緑の若葉もきれいだ。道は傾斜が急になりジグザグの道を登りきると尾根上の広場に出て、ここから平坦な道になり、少し行くと10:50広沢山に到着。木に広沢山の標識が付いている。

 更に尾根上の平坦な道を行くと電波塔があり、少し登ると大塚山に11:15到着。山頂には、人は誰もいなく貸し切り状態でゆっくりと昼食をとった。
 標識の前で記念写真を撮り11:55に出発した。

 ここから道はハイキングコースになっており、途中の富士峰園地では、大きな「カタクリ」の花が咲いていた。
 ワラぶき屋根の宿坊のところを右に曲がり山道に入り、延々と山腹をトラバースして行くと大きな「コナラ」の木がある大楢峠に13:15到着した。

 今にも倒れそうな巨木の脇を通り上坂方面の道に入り、途中から道標に従い鳩ノ巣・城山方面に行く。

 小楢峠までは、急斜面の下りで慎重に足を運ぶ。小楢峠には、すごく小さな標識が付いていた。ここからは前方に鳩ノ巣・城山が大きくそびえているのが見える。
 登りはかなり急だが道がしっかりしているので、思ったより苦労しないで鳩ノ巣・城山に14:00に到着。

 山頂は、広々としていて「ヒノキ」の30m位ある立派な植林に囲まれており三等三角点もある。展望はないが静かで何故か気持ちが落ち着く。

 ここからは、尾根伝いに急な下りが続くが、道はしっかりしているのでゆっくり歩けば問題はない。最後に杉林のジグザグの道を下り14:40道路に出た。大きな橋を渡ると鳩ノ巣駅はすぐそこである。駅の近くのおいしいお蕎麦屋さんで反省会を行った。
 天気も良く花や新緑もきれいで、人のいない静かな山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№189から転載

なぜ板橋区に? 植村冒険館・見学 = 武部 実

平成27年8月13日(木) 

参加メンバー:L武部、伊東、三浦、蠣崎、中野の5人

 この日は御岳山の山行が予定されていたが、雨天予報で中止になったので急遽計画したのである。
 植村冒険館という名の通り、冒険家植村直己を顕彰するために設立したものであるが、生誕地の兵庫県日高町(現在の豊岡市)には、植村直己冒険館が設立されているのである。

 なぜ板橋区に、と思うが、植村直己が東京にいた15年間を板橋区に住んでいて、ここからエベレストの登頂や北極圏の犬ゾリ単独行が行われたという縁で設立したということだ。

(冒険館の写真パネルより、エベレスト登頂)

 【植村直己の簡単な足跡】冒険館パンフより
1941年 兵庫県日高町生まれ
1966年 モンブラン、キリマンジャロ単独登頂
1968年 アコンカグア単独登頂
1970年 エベレスト日本人として初めて登頂
 
 マッキンリー単独登頂(世界初の五大陸最高峰登頂者)
  注;8月30日マッキンリーを、先住民が読んできたデナリと改称。

1977年 北極点単独犬ゾリ到達(世界初)
1984年 冬季マッキンリー単独登頂(世界初)登頂成功を伝える無線交信を最後に消息を絶つ(43歳)
      
 冒険館に入って1階は図書館だ。冒険、探検、登山、アウトドアに関する本が5000冊もあるそうだ。ちなみに上村代表の書かれた本も、ざっと見つけただけでも4冊はありました。『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』といった雑誌のバックナンバーも揃っているということだ。

 貸出もできるが、遠くの人は返却が大変だ。郵送での返却もOKだが、郵送料と交通費とどっちが安いか考えますよね。
 オリジナルグッズも販売しているので、お求めになるのも記念になっていいかも。

 2階は展示室。1970年に日本人として初めてエベレストに登頂した時の装備品、写真パネルはエベレストのほか北極点犬ゾリ単独到達などが展示してある。国民栄誉賞の楯や賞状も展示されている。
 DVD「植村直己の世界」が1時間10分おきに放映されていて、ゆっくりと鑑賞するのもいいだろう。
 2階建ての小さな記念館だが、いまどき入場料無料は立派。ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

【植村冒険館の行きかた】

所在地 東京都板橋区蓮根2-21-5
 TEL 03-3969-7421

開館時間 10:00~18:00

交通 都営三田線 蓮根駅 徒歩5分

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№193から転載

山岳エッセイ・梅雨空に白 = 市田淳子

 今日7月7日は二十四節気の小暑。昨日6日は朝から雨で次の日が小暑とは思えない気温だった。
 職場では窓を開けっぱなしにしておくと寒くなって、春先に着るパーカーを羽織るほど。蒸し暑いばかりの梅雨だけではないと、ちょっとホッとする。

 少し遡って7月2日は七十二候の半夏生(はんげしょう)。農家ではこの日に天から毒気が降りてくるから、この頃までに農作業を終えなければならないという言い伝えがあるそうだ。ちょうどこの頃咲く花にハンゲショウがある。

 音が同じでも直接の関係はないというのが面倒だ。ハンゲショウが花開く頃、花に近い葉の一部またはほとんどが白くなる。花と言っても花弁も萼もない。

 だから、花粉を運んでくれる昆虫に目立つように、雄花と雌花のめぐり逢いのお膳立ての時期が近づくと白くなるらしい。植物は肉食だ!

 誰もが知っている同じ仲間のドクダミも、よく似た特徴がある。

 花弁のように見える4枚の白い部分は総苞片といい花弁ではない。ハンゲショウ同様、昆虫を誘惑するためのものらしい。この二つ、私は匂いも結構似ていると思う。

 ドクダミの白い部分は花が終わるころには枯れて茶色くなるが、ハンゲショウの白い部分は、再び緑色になるのは凄いと思う。
 白いままだと光合成できないから、確かに枯れてしまっては不経済だが、そんな戦略を進化の過程で選択したのだろう。

 ハンゲショウと同様、マタタビも花が咲く時期になると、花が咲く枝の先端の葉の一部かほとんどが白くなる。(左の写真は葉、右は花)。

 山に行っても目の前で見られることは少なく遠くの山肌に白く見えるだけ。花は下向きなので、遠くから見ると白く変わった葉だけが目立つのだ。

 動物たちは動き回ってパートナーを見つけられるが、植物は自力でパートナーを見つけることが難しい。動物よりはるかに下等な植物がこうして長い年月をかけて進化してきたことを知れば知るほど、植物が愛おしくなる。

 そんな健気に生きる植物満載の山に登り、山頂で写真を撮るだけではもったいない。彼らの生き方に目も心も向けたい。心惹かれたら、下界に下りてから誰かに話して、山の素晴らしさをたくさんの人に伝えられたらと思う。
                           (森林インストラクター)

         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

「寄稿・エッセイ」 ほっとする = 中村誠

 じりじりした日照りの酷暑がなくなった。金木犀の香りが漂い始めやっと落ち着いた秋になった。誰しもほっとするだろう。
 晩の食事を済ませテレビを観ていた。居間の天井隅に五センチほどの灰色のヤモリを見つけた。妻に「ほら」と天井を指さした。
「先日のヤモリ、元気に生きているのね」。
 時たま夕刻になると何処からともなく現れ、我々を見守っているようだ。時には玄関の三和土でジッとしている。あたかも見られているのを避けて擬態に成っているのだ。翌朝、玄関の外の壁に張り付いているのを見つけた。

 油虫を見つけると「やだ!早く」と妻は目をそらし、殺虫剤の缶を持ってくる。私は直ちに、たたんだ新聞紙で叩き殺し、片手でさーっと紙で摘み、外に捨てる。私の得意とする仕事だ。その間彼女は顔を背けている。滅多にないが家具の隙間に逃げ込んだ時は、殺虫剤のスプレーを充分に振りかける。

 庭に出る時、足元にちょろちょろと姿を隠そうとするトカゲに気がついた。相手もこちらの突然の姿を目にして、慌てて床下に姿を隠した。天候不順の今年は百足の姿が全然見られない。これはトカゲのお蔭かもしれない。

 四、五年前、特に夏に現れていた蛇や蛙が今年は全然見かけない。原因は異常気候か、あるいは植木屋の撒く殺虫剤か除草剤の影響と思っている。
 気になる生き物が現れないと何となく寂しくなる。縁起をかつぐわけでは無いが、蛇には親しみがある。巳年の妻も好きではないが、けっして嫌いでもない。他人には想定出来ない親しみを持っている。以前、隣家との垣根の上を音も無く移動する蛇を見つけた。妻は視線を投げて、じい―と観察していた。パチンと手を叩くと、一旦止まりこちらを見た様で、音も無く移動して消えた。薄気味悪さよりも可愛げな動作に見とれていた。

 歓迎するのは雀たちの朝と夕刻の飛来で、わが家の二度の餌まきが日課だ。
 だが、からすはどうしても歓迎できない。今年の夏は絶好の陽気だったので、真向い家の柿は鈴なりで日増しに黄色くなる。それを四,五羽の親子からすが狙っている。洋間の真正面で気になってしょうがない。喧しい彼らが一瞬静かになった、柿にありついたのだ。「こらー」と手をたたき追い立てた。しばらくすると周りはもとの静けさが戻った。
 金木犀の香りが辺りに漂って本格的な秋になった。