寄稿・みんなの作品

前泊は温泉で心地好く、登る赤城山(1828m)は雨と霧=籔亀徹

日時 : 2016年10月8日(土)

メンバー : 籔亀徹・北山美香子・北山明親

コース : 黒檜山登山口8:43 ~ 黒檜山10:07 ~ 駒ヶ岳10:57 ~ 駒ヶ岳登山口11:52

 10月7日、栃金さんと別れて、創業が明治23年の赤城温泉の花の宿(湯ノ沢旅館)に宿泊した。山の中の温泉で、いろんな手作りの料理に興味を引かれた。
 いまはさびれて? 3件のみの開業になっているらしい。古いけれど、とっても趣きがあった。温泉は鉄分が強そうで、やや白く濁っていた。


 翌朝、本来ならば、8時からの朝食時間だが、山へ行くからというと、7時からにしてくれた。朝食もほんとうに丁寧にいろんな食材で、作られていた。
 ありがたくいただいて、7時半に出発する。1時間ほどで、大沼のそばの黒檜山・登山口の駐車場に到着した。天気予報は曇りのち時々雨・・。

 朝、宿を発った時から、ずーっとすごい濃霧で、車の峠越えは大変だった。雨が降り出したら、やめようかということだったが、なんとか雨は免れた。

 8時43分に出発する。登山道は思っていたより歩きづらく、大きい石が山頂近くまで延々と続いていた。
 10分くらい歩くと、霧のなかに大沼が見えた。これは晴れると思った。しかし、甘かった。途中から、霧と風と雨で、雨具(上着だけ)を着る。

 10時7分に、黒檜山の山頂(1828m)に到着した。

 濃霧で、景色は何にも観えず、残念だった。早そうに下山することにした・・。
 当初の予定を変更して、きっと雨が降るだろうと思ってピストンにするつもりだった。せっかくここまできたのだから、そのうえ雨もたいして降ってないし、ということで、即座にまた変更して最初の計画通り、駒ヶ岳経由で行くことにする。


 こんどは山道がハイキングコース並みの、歩きやすい登山道に変わる。登りの時とはちがい、天気が穏やかになってきた。
 時どき、遠くの空が明るくなったり、大沼の湖面が観えたりしての歩きになってきた。55分で、駒ヶ岳(1685m)に到着した(10:57)。
 すぐに通過して、下山する。やはり天気が悪かったら、景色が観えず、楽しみが半減する。45分(11:52)で、駒ヶ岳登山口に下りたった。

 下の方は天気が良くなっていた。雨具を脱いで、赤城神社に立ち寄る。この神社はかつて地蔵岳の中腹にあったそうだ。

 赤城山は黒檜(くろび)、神庫(ほくら・・地蔵)、荒山、鍋割。鈴が岳の雄峰を中心に、峰峰が幾重にも重なっているそうだ。
 紅葉にはまだ早いけれど、赤く染まった赤城山にも、魅力を感じる。駐車した車には12時40分に戻り、帰路につく。

 妙義山と2日間の連続の登山だった。準備不足もあるが、脚と腰に疲れがたまり、がたがただった。でも、楽しい山行だった。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№207から転載


からだが凍っても、美観の魅力、冬の権現山(1312m) = 関本誠一

日時 : 2014年1月27日(月) 晴れ

メンバー : L関本誠一、栃金正一、武部実、佐治ひろみ、籔亀徹  (5名)

コース : JR猿橋駅(バス)⇒ 浅川BS ~ 権現山(1312m・昼食) ~ 高指山 ~ 不老山(570m) ~ 不老下BS(タクシー)⇒ JR四方津駅

 権現山は日本各地にある山名である。その数を数えたらなんと92座もある。中国・九州で半数近くあるが、東京近郊にも丹沢付近に3つあり分布は全国に散らばっている。
 権現とは徳川家康の死後に、東照大権現として祭られている印象か仰々しい名前だが、家康と関係があるのかは全く不明だ。

 きょう行く山は、大月市と上野原市の境にあり、標高は長野県(1749m)と愛媛県(1593m)に次ぐ第三位の立派な山だ。
 例年この時期になると、ほど良い積雪になっているだろう、との予想のもとに計画した。


 集合はJR猿橋駅8:10だった。一番乗りは、自宅から車を運転してきた籔亀さんだ。30分も前に到着していたそうな…。一番遠いところから来ているのに頭が下がる。

 この日はとにかく寒く、大月駅始発のバスを待っているだけでも、身体が凍えてしまうくらいだ。定刻(8:18)のバスに乗り込む。乗客は我われ5人だけである。バスに揺られること30分で、登山口のある浅川に到着した(8:50)。

 早そうに準備をして出発する。最初は林道を行くが、陽が射さないため寒さが身にしみる。50分ほどで浅川峠に到着した。尾根に出ると、風もなく日当たりがよく、温かくなってきた。

 木々の間からは、富士山をはじめ、まわりの山もだんだん見えるようになってきて、快適な登りだ。途中は休むことなく、一気の登り、権現山の山頂には10:55に到着する。

              (権現山山頂にて)


 山頂からの眺めは、これまた一段と素晴らしい。富士山はもちろんのこと、北側の奥多摩方面も一望できる。
 ただ、雪はほとんどなく、むしろ雪解けでぬかるんだ状態だ。すこし早い昼食をとる。50分ほどのたっぷりの休憩をとったのち、下山を開始する。
 まず目指すのは高指山。所どころ凍っていて、滑りやすい。これも山頂付近だけで、しばらく下降すると氷結はまったくない。

 途中、舗装された林道を横切る。だが、林業のためとはいえ、山奥までの自然破壊はむなしい。

 高指山に到着して、小休止をとる。次は不老山を目指す。アップダウンをいくつか繰り返したのち、南側が開けた不老山頂に到着する(13:40)。


 正面遠くには丹沢主稜がある。手前には、倉岳山から矢平山、高柄山と連なる尾根が一望できた。眼下には、中央高速の談合坂SA(下り)がある。四方津、上野原市の町なみがはっきりと見える。

 不老山という名前の山も、全国各地に沢山あると思っていた。ところが、九州にある徐副伝説のところを含めても5座しかないのは意外だ。

 小休止の後、不老下に向けて下山していく。バス停に14:50に到着。平日の昼間はバス便がないため、四方津からタクシーを呼び、駅に向かう。
 籔亀さんとは駅で別れた。残り4人は恒例の立川駅で途中下車し、反省会をしてから家路に向かう。お疲れさまでした。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№174から転載

【寄稿・コラム】 奇跡ってあるんだ~!ご縁も奇跡?= 広島hiro子

 新聞の正月記事は特に念入りにチェックする。国の行く末、平和につながる良いアイデアはないかーと、もう20数年になるだろうか、お陰で私の部屋は新聞記事、書籍などのスクラップの山なのです。あ~~若いころは音楽と恋とお洋服が私のすべてだったのに。
 ひとは出会う人やきっかけ次第でこうも変わるものなのですね。ひとの縁こそが私にとっての奇跡・・・感謝&畏怖する年初であります。

 今日は、1月3日の中国新聞オピニオン記事のなかの奇跡(?)を他ふたつご紹介します。
 ひとつは、物や仕事の縁のことです。穂高健一氏が掘り起こしたといえる「芸藩誌」がそうだと思います。核兵器で壊滅し、歴史をさぐる資料をほとんど失くした広島に、奇跡的に残った「芸藩誌」、これなくしては『二十歳の炎』という高間省三を描いた歴史小説も、生まれていませんよね!?

 仏教大歴史学部の青山教授も史料から、芸州が明治新政府の中心の可能性もとお考えです。学会はまだ注目されていないようですが、青山教授を中心にこれから研究のご予定らしく、歴史を覆す新しい発見になるのではないかと私もワクワクしています。

 しかし、こんなすごい史料、よくぞ突き止められましたね。穂高さんの行動する執念がこの奇跡を呼んだのでしょうね。 求めれば与えられるという奇跡があるんだということが、またすごいと思います。


 それともうひとつの奇跡があります。それは偶然のようなひらめき、インスピレーションです。例えば小説家ならば、予期せぬ言葉が、話をしているときや、一心不乱に小説を書いているときなどに湧いてきたりします。
 私でもありますよ。お風呂で髪を洗っているとき、あるいは目覚める前とか。これがイノベーションに繋がったりしてきます・・・、皆さまのひらめき経験はどうでしょうか?

 このオピニオン記事にある『富国富民』は、きっとインスピレーションという奇跡が起こした言葉なのでしょう。少なくとも私のなかでは奇跡です。
 歴史にある「富国強兵」とは真逆の言葉なのですから。私の希望する平和は、軍事国家で儲ける富国でなくて、民が強く優しく豊かになる国です。

 歴史はシロウトの私が想像するに、幕末の志士たちが欲したのは、近代技術や金融システム以上に、それまでの身分がすべてであった封建時代とは相反する、理想的な民主主義の考え方だったのだと思います。
 実際には本物の民主主義にはほど遠いものにすり替わったのですが、福沢諭吉や二宮尊徳の名言が、これから未来にこそ生きてくると期待しています。

 穂高さんの持っておられる奇跡は、歴史家に不足しがちな経済的理論です。経済学部首席で卒業された? 異色の歴史作家の強み。それに広島出身という地縁も、奇跡的だと感じられます。

 できれば、これからの先生方の歴史の検証をきっかけとして、今昔、誰も民を中心に考えなかった施策に、歴史の偉人たちの熱き志を呼び戻してもらえますように願っています。

 ちなみに、宗教学者からの重要なメッセージがありました。奇跡は、宗教だけの専売特許ではなく、どこにもあるのだそうです。2017年は良くも悪くも、「変化の年」だと思います。勇気ある行動は、思いがけない奇跡を呼ぶかもしれませんね。
 皆さまに、たくさんの奇跡や幸せがありますように。年の初めにて、お祈り申し上げます。


            写真:広島城(原爆で完全焼失したので、復元です)


                                             【了】

【寄稿・】 創造する平和にむけて = Hiro子

 今日、金融機関は平常勤務なのだが、一日早い休みを取った。
 みんな年末であわただしいというのに、私は原爆ドームを前に新しくできた「折り鶴タワー」で、コーヒーブレイクだ。正直、年末大掃除もまだだけど、ちょっとだけ勘弁して下さい。

 今、幕末・明治維新の歴史が熱い。
 明治維新の近代化が日本の夜明けとなったとの一言で、かたずけられている空白の10年。その歴史の大転換点に、注目が集まっている。
 メディアでは最近こぞって、徳川の埋蔵金や、坂本龍馬が死の間際に得た8万両もの資金をめぐる番組などを流している。歴史にうとい私の家族も、いつもならすぐにバラエティー番組に変えてしまうところなのに、先日は最後まで釘づけだった。

 もう何年も前から、幕末の志士たちによる美談にぼやかされた近代のイメージに、待ったをかける話題や書籍は多くなっていた。
 しかし、今は歴史オタクでなくとも、頻繁に庶民が目にするようになってきた。事の正否は別にしても、だ。

 数年前より先んじてネットや新聞で、歴史作家兼ジャーナリストの穂高健一氏が、
「明治維新以来、10年ごとに戦争する国に誰がしたのか?」
 と訴えておられた。

 同氏は更に、こう言われていた。
「明治維新は、それまで(江戸幕府時代)の、封建社会から資本主義社会に変わる転換点だったのだと、日本の金融から世界の金融に変わったのだと、はっきり教科書で教えればいいんだ」、と。

 世の流れは、さらに隠された歴史に潜り込む。
 年始の地元紙では、明治維新に関わる、それぞれの話題を特集するようだ。
(何かが変わってくるのかもしれない……)
 また密かではあるが、そう思えてくる。

 師走の原爆ドームは、今日も静かにたたずむ……、何をかいわんや。

 そうだ、帰って掃除しよう!
 まずは家族の平和から創造するのだ!!


                                【了】

【寄稿・写真エッセイ】 2016年の「謡」と「演」 = 原田公平

 ここ2年間の行動を漢字で表してみると、「書」エッセイ、「話」スピーチ、「演」落語、「撮」写真、「歩」お遍路、 「立」警備、今年はそれに、「謡」・民謡が加わっている。

 こんかいは「謡」・「演」の4つを振り返ってみたい。


謡う」 民謡

 ボクと民謡の出会いは、前回のピースボート(2013~14)で民謡を謡う会に参加してから、民謡が好きになった。それまで6年間は、詩吟を習っていたので、これが大いに生かされた。

 2015年11月に、2か所の民謡クラブに入会した。

 1つは、民謡のベテランばかり15人(女性10)、女性の先生が三味線、尺八が男性の先生である。ここは月2回で、1回に2曲、自分の好きな民謡が謡える。

 他は、船橋市の福祉センターで月2回、50人前後が、みんなで7曲くらい合唱する。プロの原田英昌先生と弟子の女性3人が三味線に、尺八や太鼓を組み合わせたそうそうたるスタッフで、先生が選んだ曲を謡う。

 ここの原田先生は元民謡のプロ歌手で、個人教授をしていると知る。
 民謡は「こぶし」が難しい。2つのクラブでは謡うだけで、一切指導してくれない。習うならプロに、と今年1月から月3回、先生の自宅へ通い出した。2人の女性が名取を目指し、他に5名の男女だ。

 最初は全員で声出しに3曲一緒に謡ってから、個人レッスンに入る。指導をいただけるのは2曲、1曲を2回謡う。

 ボクは子供のころから歌謡曲が大好きで、メロディはラジオを数回聞くだけで覚えられた。民謡は難しく「こぶし」が連続し、まったく異なる。先輩に聞くと、プロの唄を耳で聞いて、口に出しての繰り返しだと教わった。
 民謡でどうしても謡いたかったのは「新相馬節」、非常に難しい曲から始めた。出だしの♪ハアーーーーーーアアアアアアアアーーーーが命である。

 まず、レンタルショップで民謡のCDを借り、ダビングしてプロの「新相馬節」を仕事の行き帰りに繰り返して聞き、家ではイヤホーンで聞きながら同時に声を出して一緒に謡う。

 ボクはこの「新相馬節」が好きで、好きで、三味線の前奏、チャチャンチャチャチャチャが始まると、全身が民謡モードになり、♪ハアーーーーーーアアとはいる。歌詞を伸ばしすぎたり、短かったり、音程が狂うと、先生からストップがかかる。そして、一緒に謡ってくれ、とっても親切だ。最初から終わりまで録音して、後で何度も聞く。 

 「新相馬節」を謡い出してから8か月を過ぎ、ボツボツこれの卒業と思っていた時に、他の曜日の方が、ぼくたちの教室に来た。彼は80歳の名取である。そして、「新相馬節」を謡った。美声と声量、朗々と流れる。謡いこんだ味がにじみ出て聞きほれた。これが民謡の真髄なのだと、あらためて歌謡曲との違いを知った。


 そうだ、「新相馬節」をボクの持ち歌にして、もっともっと謡いこんでいこうと思った。


 民謡を始めての大発見がある。この春、仲間が謡った「祖谷(いや)の粉ひき唄」、ボクの郷土・徳島の民謡だ。四国山脈の秘境、平家の落人の唄で哀調漂うメロディはいっぺんに好きになった。

 先生に秋の同窓会で謡いたいと申し出て、熱心に取り組んだ。先生からOKをもらい、別の民謡クラブで謡ったら、初めて拍手喝采。拍手が、この唄はボクの声にも合っていると教えてくれた。

 そして、10月の徳島の同窓会で「祖谷の粉ひき唄」を披露した。(写真)

 今、取り組んでいるのが「小諸馬子唄」だ、これは後1年はかかる。 


「演」 英語落語

 今年一番苦しんだことがある。それは英語落語だ。11月27日の開演日が近づくが、演目「転失気(てんしき)」が覚えられない。英語落語を初めて9年目だが、これは20数分間で、2100語もある。74歳、暗記の難しさを知る。
 練習時間はたっぷりあった。

 友人に苦しんでいることを話したら、「原田さん、いつも歩いて覚えていたじゃない」と教えられた。そうだ、61歳で退職後、英語・日本のスピーチ、日本語と英語の落語他、暗記を得意としていた。
 常に歩きながら覚えていた練習方法をすっかり忘れていた。

 そこで、歩きながらに切り替えた。しかし、20分もやると脳がイヤイヤしてくる。ボクが座長である以上、逃げるわけにはいかない。

 「転失気」の見せ場は5場面あり、どこをとっても笑わせる。落語の大切なのは、「出だし」をスムーズに、そして「最後のオチ」で笑わせたら成功だ。この部分に集中する。しかし、それさえも四苦八苦、やろうとするほど気が乗らない。

 「転失気」は数年前に日本語で演じている。

 内容は小坊主・珍念とプライドの高い和尚のやりとり。住職が具合が悪くなり、医者が来て診断、「転失気はありますか」の問いに、住職は転失気を知らないが、知った振りをする。その後で珍念に転失気を調べさす。
 だが、誰も知らない、最後は医者に聞いたら、「おなら」だと知る。


 珍念は知ったかぶりする和尚に、転失気は酒だと嘘をおしえる。珍念は和尚に物事は、恥をかいて覚えなさいといわれ続け、そこで、ラストに和尚に大恥をかかす。
 
 笑いいっぱいの古典落語だ。

 遂に開き直り、英語での丸暗記をあきらめた。場面を想定しながら、自分の知っている英語でジェスチャーを中心にやったら、笑いと拍手で無事に演じることが出きた。

 主催者の理事長が、外国人も笑ってくれ、今までで一番よかったといわれ、来年もやると約束してしまった。

【寄稿・写真エッセイ】 2016年振り返って「撮る」と「歩く」 = 原田公平

 まえがき

  ここ2年間の行動を漢字で表してみると、

「書」はエッセイ 「話」はスピーチ  「演」は落語  「撮」は写真  「歩」はお遍路  「立」は警備、

 と言いえる。今年はそれに、「謡」・民謡が加わった。


  この7つからまず「撮」を振り返ってみたい。


撮る:あいさつ

 四国八十八か所巡礼、「歩き」遍路で楽しいのはなんといっても旧道で、車も少なく、古い町並みが残り、地元の人とのふれあいがある。

 朝、集団登校の小学生と出会い、「おはようございます」と元気なあいさつを受けた。同じ年齢の孫を思い出し、「写真を一緒に撮りたいのだけど」と声を掛けた。リーダー格の女性が「いいよ」と、みんな喜んで集まり、ポーズをとってくれ、一人がシャッターを押してくれた。

 今や世間には変な大人が多いが、お遍路姿だと子供たちは無条件に信用してくれ、うれしかった。今回、500枚余の写真を撮ったが、この天真爛漫な子供たちの笑顔の写真が、今年一番のお気に入りだ。
  
 また、旧道の遍路道を歩いていると、わき道から一人の女子高生が出てきて、ボクをチラッと見て無言で前方に歩いて行った。ボクは足早に彼女に追いつき、「あなたの人生に役に立つ話をしてあげたいのだけど、いい」と声をかける。彼女はボクの顔を見て、うなずいてくれた。

 ボクは彼女に、「ここはお遍路道です。毎日、あなたの学校の行き帰りに多くの『歩きのお遍路』に会います。そこで、朝なら『おはようございます』、午後なら『こんにちは』と、それに一言付け加えて、『お気をつけて』と声を掛けてみませんか。

 最初はなかなか声がでません。でも、ここが『勇気』の出しどころです。家で何度も声を出して練習してください。すると、お遍路さんを見ると大きな明るい声がでるようになります。

 人生で大事なのは、こちらから先手を取って、あいさつをすることです。あなたにとって幸せなことは、遍路道があなたの通学路です。いくらでもチャンスがあります。

 それに、今、外国人のお遍路さんが増えています。やがて、四国八十八か所は世界遺産になります。そうなると、外国人がさらに増えます。日本人のお遍路さんに挨拶ができるようになると、外国人にも英語で、“Good morning! ”,“Good afternoon!”もできるようになる。さらに一歩踏み込んで“どちらのお国からですか”と、会話の幅が広がり、学んでいる英語の実践の場になります。
 人生で、あいさつという簡単なことが一番むつかしい。是非、『挨拶という魔法の言葉』をどんどん発し、あなたの人生を豊かにしてください」と、ボクは話した。
 彼女は素直にうなずいた。遍路姿が功を奏したようだ。


 【歩く: お遍路
 
 有森裕子がバルセロナのオリンピックでマラソンのゴール後、「自分をほめてやりたい」といった。今年は自分にもそういうことがあった。
 退職して13年目、いつしか74歳になり、この間、自分にとって最高の偉業は、「四国八十八か所巡礼」を『結願(けちがん)』したことである。

 他に、「アメリカ一周鉄道の旅」や「地球一周の船旅」などあるが、鉄道や船を使ってだ。一方、「四国巡礼」は、あくまでも自分の足の一歩いっぽの積み重ねが、延べ45日間、1132㌔、東京から博多の距離を歩いた。 


 2016年10月4日、6回目、最後の遍路は、台風18号直撃予想がボクを避けてくれ、天気に恵まれた。松山市の平たん地、53番円明寺からスタートしたが88番の大窪寺まで、9つの山の上の寺が待ち受けていた。

 四国最高峰、石鎚山近くの横峯寺は745㍍、遍路最高峰の雲辺寺は910㍍、結願寺88番の大窪寺445㍍の手前に774㍍の女体山があり、山上の寺の高さを合計すると、4381㍍、富士山よりさらに603㍍も高い。

 71番の弥谷寺は1キロの山道をだらだら登り、次には540の石段である。弘法大師の修行の寺というように厳しかった。
 10㌔の荷物を背負い、312㌔を13日間歩き、毎日、夕方にはヘトヘトに疲れた。が、翌朝には元気が戻り、74歳の歳を感じることなかった。
 自分でも不思議であった。考えてみた。この歩くパワーの源は、毎月、20日間前後の警備の仕事だ。仕事は、1日に7~8時間、唯、「立つ」だ。

 立つことが足の訓練になることを知ったのは、ボクが50代、夫婦で毎年、志賀高原へスキーに行った。夜行バスで着いたその朝から帰るまで、時間いっぱい滑った。ボクは当時、毎年のようにフルマラソンに参加し、常に足は鍛えていた。
 一方、家内はスポーツをしていなかったが、美容師で終日立っての仕事だった。友人たちがよく言っていた。午前中滑るだけで、脚がガタガタになると、ボク等には関係なかった。

 お遍路さんは足が命だ。讃岐の寺で感じたのは、たくさんの寺の山門にあった『わらじ』だ。山門の正面が仁王像で背面にわらじや、山門がわらじだったり、仁王さんの前に置いたり、『わらじ』が目についた。
 参拝客が「足が丈夫になるよう」と、わらじを触る人も多いという。今も昔の足・脚の大切さは変わりないのだろう。

 結願して、あらためて警備での「立つ」が、足・脚を丈夫にすることを知り、自分の足をほめてやった。
 まだやりたいことが多々ある。健康が第一、その原点は、たっしゃな足腰だ。これからも会社が雇ってくれる限り、感謝の気持ちで「立ち」続けたい

【寄稿・写真エッセイ】 夕暮れに犬が走る 阿河 紀子

 秋田犬のミックス犬、『ぷりん』は、あっという間に大きくなった。先代犬のごん太が、晩年、室内で過ごすことが多かったので、ぷりんも同様に、家の中で暮らさせることになってしまった。
近所の人たちからは、「こんな大きな犬を家の中で飼っているの?」と、あきれられた。
 私は、「もう、家が犬小屋よ~」と、笑って受け流す。

 まさか、近所の人も、ぷりんが家の中で運動会を開いているとは想像もしていなかっただろう。ぷりんは、誰からも愛される、美しい犬に成長した。そして、自由に、家中を走り回っていた。

リビングのソファーで飛び回るぷりん

 母犬譲りの賢さを受け継いだのか、ぷりんは、近所の人との付き合い方も実に上手だった。散歩帰りのぷりんは、庭いじりの好きな、おとなりの奥さんを見かけると、まるで自分の家の庭のように勝手に入り込んだ。そして、「お水が飲みたいの」と言うかのように甘えた。

 奥さんがバケツに水をなみなみと汲んでくれると、実にうまそうに飲み、満足げに帰るのが日課だった。
 斜め向かいのご主人は、ぷりんに、走って飛びつかれるのが好きだった。彼は飛びつかれても、嬉しそうに、
「痛いじゃないか、痛いじゃないか」
 と大騒ぎをしては、ぷりんとじゃれあうのが常であった。
                                    
 ある日、向かいの浪人中のお兄ちゃんが、緊張した顔で、
「ぷりんと一緒に散歩してきていいですか?」
 と、唐突な申し出をしてきた。
「ぷりんが、うんこをしたら、その始末もしなきゃならないのよ。」
「大丈夫です」
 と自信ありげに頷く。
「通行人や、他の犬に迷惑をかけないように出来る?」
「大丈夫です」
 と胸を張る。


         「1歳になったころのぷりん」 

 私は、少し不安だったが、散歩用のバッグとぷりんのリード(引き綱)をお兄ちゃんに託した。その不安は的中した。3時間も帰ってこないのだ。

 携帯電話もない。どうしたのだろうかと、心配でたまらず、何度も表通りに見に行った。薄暗くなったころ、やっと無事に帰ってきてくれた。
 かなり遠くまで行ったらしい。ぷりんが疲れて歩けなくなったので、途中で休憩していたと言う。
「ぷりん、ありがとうな!」
 とお兄ちゃんは、嬉しそうに帰っていった。


 翌日、我が家のポストに「ぷりんへ」と書かれた封筒が入っていた。
 それはお兄ちゃんから、ぷりんへのラブレターだった。少し困惑したが、ぷりんに代わって私が読むことにした。「川べりで、ぷりんは、並んで一緒に時を過ごしてくれたね。それがとても嬉しかった。ありがとう」と書かれてあった。

 この手紙の事は、私の胸の中にしまっておくことにした。

 私たち家族は、ぷりんを連れて 色々な所へ旅をした。富士山、那須高原、軽井沢、清里など数えきれない。

    「富士山5合目の駐車場で」                 「清里で友人家族と」

 大阪に住んでいた頃、家族ぐるみの付き合いをしていた友人と、現地で合流したこともあった。
 ぷりんを家に置いて、人間だけで旅行するなど、私たち家族の辞書から消えてしまった。それほど、魅力的でかけがえのないぷりんとの時間だった。ところが、一緒に連れて行けないところがあった。大阪に住む私の両親の家だ。

「家の中に犬を入れる」
 など、両親の辞書には無い。

 仕方がないので、帰省するときは、ぷりんを預けるところを探した。ある年は、警察犬の訓練所だったり、ある年は、オープンしたてのドッグホテルだったりした。
 少しでも居心地の良い設備と環境を、探して預けたが帰るまでは、心配だった。その頃、いつも世話になっている獣医が、「ドッグホテル」も始めた。私は、よく知っている獣医の処なら安心とばかりに、すぐ予約した。ぷりんが3歳の冬だった。

 晦日に預け、三が日は大阪で正月を祝い、4日に帰宅するや否や、ぷりんを迎えに行った。すると、獣医が「大変だったんですよ」と言う。
 何があったのだろうか。

 31日の夕方、散歩帰りのぷりんは、病院の前までは、おとなしく付いて来た。獣医がドアの鍵を開けているすきに、首輪もハーネスもリードもぷりんは、勝手に自分で外し、走り去ってしまった。呼んでも知らん顔で、走る。
 大晦日の夕暮れだ。赤く染まった空が紫色になり始める。正月の買い物の車で渋滞する道を、ぷりんは、車と車の隙間を駆け抜け、とうとう走り去ってしまった。

「いやぁ、かっこ良かったなぁ~」
 などと獣医はトンチンカンなことを言う。

 人間の足では到底追いつけない。ふと気づいて、カルテで住所を確かめると自宅方面に走っていったことが分かった。獣医は、急いで、車で追いかけ、私の家に着くと、庭にぷりんが居た。
「よかったですよ、ホッとしました。」
 無事であったから、「良かった」で済むが、もし、車に轢かれたり、行方が分からなくなってしまったりしたら、どう責任を取るつもりだったのだろうか。

走るのも早かったぷりん

 腹わたが煮えくり返り、悪態のひとつや二つ、ついてやりたいところだったが、獣医の顔など、これ以上は、見たくないので我慢して、早々に帰宅した。

 だが、1つ分からないことがあった。
「ぷりんは、庭にいた。」
 と獣医は言ったが、どうして入れたのだろうか?

 門には鍵がかかっており、勝手には入れないはずだった。見たことのない、古い陶器の鉢が庭に転がっていた。
 正月明けのごみ集積場は、新年の挨拶を交わす絶好の場になる。私は、会う人、会う人にぷりんのことを尋ねた。
 表通りを走るぷりんを見かけた人や、自宅付近をウロウロしている姿を目撃した人はいた。しかし、「何故、ぷりんが庭に入れたのか、知らない人」ばかりだった。

 やがて、お隣りの奥さんや、斜め向かいの奥さんの話から、謎が解け始めた。
 自宅にたどり着いたぷりんは、斜め向かいの家の駐車場に入りこんだ。いつものように、門扉は開いたままだった。帰ってきたご主人を見つけると、大喜びでじゃれついた。
「もう少しで、車で轢いてしまうところだったのよ。」
 と斜め向かいの奥さんは、少し怒ったように言った。

 私は、正月に帰省するのを、お隣りの奥さんだけに伝えてあった。
 ご主人は、インターホンを何回も押したが、誰も出てこない。
「留守中にぷりんが、戸外に出てしまったのだろう」
 と思ったそうだ。
「さて、どうしよう」
 と思案に暮れているところに、お向かいのお兄ちゃんが帰宅した。ぷりんが周辺をウロウロしていると何があるか分からない。
「心配だ。」
 そこで、長身のお兄ちゃんが塀を乗り越え、ぷりんを庭に抱き入れた。古い陶器の鉢に水を入れてもらうと、いかにも「のどが渇いていました」と言う様子でぷりんは、ぐびぐびと飲んだ。
 少し落ち着いたぷりんを見て、ご主人も、お兄ちゃんも、それぞれ家に帰った。その頃、獣医が車で到着したらしい。
 ぷりんが吠えた。
 その声を聞きつけたお隣りの奥さんは、最初は空耳だと思ったらしい。
「ぷりんは獣医さんに預けられているはずだ。」と最初は、無視をした。ところが、あまりにも吠えるので「やっぱり、ぷりんの声だ。」
 と玄関先に出てきた。獣医が、名刺を取り出し、事情を説明した。ぷりんは、庭じゅうを逃げ回り、獣医には捕まえられなかった。そこで、奥さんも、塀を乗り越え、ぷりんの捕獲に協力した。
 やっとのことで、捕まえ、獣医の車に乗せた。
「ぷりんが可哀想だった。」
 と奥さんは、ぷりんに謝っていた。ぷりんは、いつものように尻尾を力いっぱい振っていた。
 もし、近所の人がぷりんに優しく接し、守ってくれなかったらどうなっていたのだろうか。私は、ただ、ただ感謝するだけだった。

                              【了】

大久保昇さんが句集『天職へ』を発刊する=後世に残る名句だろう

 大久保昇さんは、全国の大きな俳句の特選を数多く受賞されている。栄光として、4カ所には受賞記念の句碑がある。かれは正直なところ口下手だ。俳句教室でもやれば、30-50人の受講生は集められるだろう。それが未だなされていない。器用な生き方が苦手な類だ。

 かれはかつて30代~40代の頃、毎日、清掃業の過労な職種で、老母を養し、貧乏しながらも懸命に創作活動をしていた。朝4時台に起きて、まだ戸外が薄暗い5時頃に一番電車に乗って職場に向かう。大手デパートの清掃会社の下請けならず、さらに孫請けの零細会社だから、夜までサービス労働だ。黙々と働きながらも、創作活動をする。

   『噴水の飛沫過労の口濡らす』と俳句にしている。

 それでも、かれは『一日、10句を作る』。それを自分に課している。現代の山頭火だと、私は思っている。

 大久保昇さんは努力家だ。
『飴ほどの石につまづく夜業明け』と俳句に詠う

 過酷な職場でも、かれは寝る時間を惜しんで、23歳から8年間かけて、通信教育課程で東洋大学を卒業している。と同時に、俳句の創作に専念してきたのだ。他の遊びごと、賭け事などはいっさいおこなわない。

 著名な俳人でも、句集の単行本は商業的に成り立たないので、まず出版社は乗ってくれない。ほとんどが自費出版だ。かれは受賞金をこつこつ貯めて「天職へ」を自費出版したのだ。


 自費出版といえば、どこか見下した社会の風潮もあるが、島崎藤村の名作「破戒」すらも、差別部落の教員を主人公に扱い、どこも出版してくれなかった。藤村は自費出版し、後世の名作となった

 山頭火が旅先から仏教学者・大山澄太(すみた)に日記と俳句を送っていた。大山氏が出版したことから、山頭火が世に知れた、という経緯もある。
 大久保昇さんの『天職へ』も、どこか後世の名句への道をたどるような気がする。


 同書の帯には、鍵和田柚子さんが、『雪の窓を開け天職へ踏み出さむ』を取り上げてから、『自分にあった職業を大切にして、懸命に生きる誠実な作者像が見えてくる。とくに「天職」の惜辞に心打たれるものがある」と記す。

 大久保さんの自選としては、

  『捨てられし豆電球の下萌ゆる』

  『着ぶくれて銀座すばやく通り抜け』

  『池の底真っ直ぐに這う蛙かな』

  『鴨さざめき夕闇の水傷だらけ』

  『チューリップ飴の包みを入れられる』

  『雪だ雪だと椅子のみんなが立ち上がる』  
 
  『噴水の飛沫過労の口濡らす』

  『飴ほどの石につまづく夜業明け』

『汗にじむネクタイ助言受け止むる』

『帰省して柱の夕立撫でてをり』

『向日葵の先住民の如く立つ』

『雪の扉を開け天職へ踏み出さむ』


【関連情報】

 句集「天職へ」本体2300円+税

 購入先 : 大久保昇

 〒112-0002
 文京区小石川3-25-4-301
 03-3816-3417


 発行所 北溟社(ほくめいしゃ)☎04-2968-5349

 

高川山(975m) = 大久保多世子

1. 期日 :2016年6月12日(月)晴れ
                         
2. 参加メンバー : L武部、市田、原田、大久保 (計 4名)

3. コース :初狩駅―― 自徳寺 ―― 高川山 ―― 天神峠 ―― むすび山―― 大月駅 


 梅雨時にしては、珍しく最高のハイキング日和だった。
 初狩駅を9:40に出発した。駅前から右に進み、中央線のガードをくぐり、右手の自徳寺に入る。

 武部さんの案内で、色とりどりの花が綺麗な墓地の中を進む。大きなイチョウの傍らに、ビッキーのお墓はあった。可愛らしい墓石には「ビッキー安らかに」の文字と、ビッキーの絵がくっきり。硬貨がたくさん供えられていた。

 ビッキーは高川山の頂上辺りに住んでいて、登山者に人気の犬だった。そうとは知らず、私は友人と登ったとき出会い、「野犬だ!」と怖がったことを思い出した。


 登山道はしばらく道幅が広いが、山道は狭く急坂になる。
 女坂と男坂の分岐で、小休止をとり、当然のごとく男坂に進む。夏のように暑いが林の中は快適で、時折吹くそよ風が嬉しい。
 横1列に並んで、下向きに咲く清楚な白い花はネジキである。幹がねじれる木だが、地方によって、花の様子から「飯粒の木」とも呼ぶそうだ。


 11:40に頂上に到着する。 まさに大月市の秀麗富嶽十二景の十一番山頂!パッと開けた視界に雄大な富士山がそびえ、何とも清々しい。

 ヤマボウシ・コアジサイ・シモツケ・ウツギ・テリハノイバラなどが咲き、アオダモは実をつけていた。

 花と富士山を見ながら昼食をとり、記念写真。

 展望の良い頂上には30人ほどの人がいた。低学年の女子が3人で追いかけるのは、何と、トカゲだ。逃げ回るトカゲの藍色が美しい。
 標識の下に入れてあるビッキーの写真を皆で見て、12:30に、むすび山に向けて出発。すぐ林の道で、木陰の涼しくて、とても心地よい、コアジサイがたくさんあって、優しい薄紫の花には何度もカメラを向ける。アップダウンを繰り返しながら、なおも進む。

 禾生駅への分かれ道。さらに天神峠や田野倉駅への分かれ道を過ぎると、パタリと人に会わなくなった。
 道の上には植物が伸びていて、実に歩きにくい。

 ウルシも枝を伸ばしているので、半袖だと心配になるほどだ。むすび山までの道のりはかなりあり、「峰山585m」と木の幹に取り付けた標識を過ぎても、まだ着かない。
 少し焦れてきた頃、癒してくれたのがイチヤクソウの可憐な花だった。草の間、木の根元などにけっこうたくさん咲いていた。

 目に優しい鮮やかな緑はカエデの木。たくさんあったので、
「ここは秋にも是非来たいね。」
「すぐ暗くなるから逆コースがいいね。」
 などと話しながら進む。


 九鬼山とリニア実験線が見えてきた。リニアモーターカーは九鬼山と高川山の真下を通っている。
 「この急坂はむすび山に違いない。」
 と頑張って登ると、大きな石があって、「おむすびにそっくり!」と一瞬喜んだが、GPSを見た原田さんの「むすび山はまだ先。」の声にガックリ。

 後日「ぼたもち岩」と呼ばれていると、佐治さんに教えてもらった。

 この岩からしばらく歩いて、ようやくむすび山に到着する。眼下には大月の街並みが広がっていた。ここからは下るだけで、4:00頃に大月駅に到着した。

 反省会の生ビールは格別においしかった。ゆったりと花々を観賞し、写真も撮り、体の芯まで緑色に染まった、楽しい日帰りハイキンクであった。

          ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№204から転載

高水三山(793m)=武部実

登山日 : 平成28年7月 2日(土) 

参加メンバー : L武部、渡辺、野上、中野、+武部友人(色川)の計5人

コース : 軍畑駅 ~ 高水山 ~ 岩茸石山 ~ 惣岳山 ~ 御嶽駅

 集合時間である軍畑駅9:10着の電車からは、登山客がぞろぞろと降りてくる。5~60人はいるだろうか。
 私はたまたま早く集合時間の30分前の電車に乗ったが、同じ状況の混みようであった。ここからは御岳渓谷のハイキングコースもあるが、ほとんどが高水三山に行くようだ。


 9:20に出発する。踏切を越えて、舗装路を歩くこと約30分で、高源寺に着いた。ここから少し登ったところが、登山口だ。いきなり、急登の長い階段が現れる。
 きつくて途中で、一回休憩をとる。天候が曇り空で、樹林帯の歩きなので、すこしはましだが、今日は30度超えの予報だから、こまめな水分補給は必須だ。

 登山路には、『合目』が彫り込んである石柱が設置してあり、三合目だ、四合目だ、と確認しながらのんびり歩くのも楽しいものだ。
 高水山直下の常福院に11:30に着いた。山頂はすぐだが、混み合っているのではないかと考えて、ちょうど通り道に誰もいない東屋があり、ここで昼食にすることに決めた。

 12:10に出発。5分で一番目の高水山(759m)に着く。曇り空とあって開けている南面の見通しが無く、集合写真の記念撮影をして、すぐに出発する。
 山頂直下は急降下だが、その後は緩やかな稜線歩きが続く。白いキノコの群生やギンリョウソウを発見したりしてのゆっくり歩きだ。
   
 ところが、二番目の山頂直下になると、急な登りになってくる。12:53に岩茸石山(793m)に着いた。三山の最高峰で、北方面が開けていて、手前には黒山が、その先は棒ノ折山が眺められた。

 小休憩して歩き始めたころには、お日様がでてきた。だが、樹林帯のコースなので日陰で快適だ。しかし三番目の山頂直下が急な岩登りで大変なところ。登り切ったところが、惣岳山(756m)で13:34に着。

 山頂には青謂神社奥の院が鎮守してある。見通しはないが、杉林に囲まれて広々とした気分が好いところだ。

 14:10に出発。ここからは御嶽駅に向かって下りのみ。杉林の中を歩くが、ここは『関東ふれあいの道』でよく整備されてあった。快調に歩いていたと、いいたい所だが、湿った登山路に見事にスッテンころり転ぶ。擦り傷だけですんだが、油断はまさに禁物だ。

 15:50に御嶽駅に着いた。恒例の反省会は、最近よく行くようになった立川の「弁慶」。焼酎のボトルを新たにキープし、8割方残っているので、早い者勝ち、遠慮はいりません。

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№205から転載