寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】 夕暮れに犬が走る 阿河 紀子

 秋田犬のミックス犬、『ぷりん』は、あっという間に大きくなった。先代犬のごん太が、晩年、室内で過ごすことが多かったので、ぷりんも同様に、家の中で暮らさせることになってしまった。
近所の人たちからは、「こんな大きな犬を家の中で飼っているの?」と、あきれられた。
 私は、「もう、家が犬小屋よ~」と、笑って受け流す。

 まさか、近所の人も、ぷりんが家の中で運動会を開いているとは想像もしていなかっただろう。ぷりんは、誰からも愛される、美しい犬に成長した。そして、自由に、家中を走り回っていた。

リビングのソファーで飛び回るぷりん

 母犬譲りの賢さを受け継いだのか、ぷりんは、近所の人との付き合い方も実に上手だった。散歩帰りのぷりんは、庭いじりの好きな、おとなりの奥さんを見かけると、まるで自分の家の庭のように勝手に入り込んだ。そして、「お水が飲みたいの」と言うかのように甘えた。

 奥さんがバケツに水をなみなみと汲んでくれると、実にうまそうに飲み、満足げに帰るのが日課だった。
 斜め向かいのご主人は、ぷりんに、走って飛びつかれるのが好きだった。彼は飛びつかれても、嬉しそうに、
「痛いじゃないか、痛いじゃないか」
 と大騒ぎをしては、ぷりんとじゃれあうのが常であった。
                                    
 ある日、向かいの浪人中のお兄ちゃんが、緊張した顔で、
「ぷりんと一緒に散歩してきていいですか?」
 と、唐突な申し出をしてきた。
「ぷりんが、うんこをしたら、その始末もしなきゃならないのよ。」
「大丈夫です」
 と自信ありげに頷く。
「通行人や、他の犬に迷惑をかけないように出来る?」
「大丈夫です」
 と胸を張る。


         「1歳になったころのぷりん」 

 私は、少し不安だったが、散歩用のバッグとぷりんのリード(引き綱)をお兄ちゃんに託した。その不安は的中した。3時間も帰ってこないのだ。

 携帯電話もない。どうしたのだろうかと、心配でたまらず、何度も表通りに見に行った。薄暗くなったころ、やっと無事に帰ってきてくれた。
 かなり遠くまで行ったらしい。ぷりんが疲れて歩けなくなったので、途中で休憩していたと言う。
「ぷりん、ありがとうな!」
 とお兄ちゃんは、嬉しそうに帰っていった。


 翌日、我が家のポストに「ぷりんへ」と書かれた封筒が入っていた。
 それはお兄ちゃんから、ぷりんへのラブレターだった。少し困惑したが、ぷりんに代わって私が読むことにした。「川べりで、ぷりんは、並んで一緒に時を過ごしてくれたね。それがとても嬉しかった。ありがとう」と書かれてあった。

 この手紙の事は、私の胸の中にしまっておくことにした。

 私たち家族は、ぷりんを連れて 色々な所へ旅をした。富士山、那須高原、軽井沢、清里など数えきれない。

    「富士山5合目の駐車場で」                 「清里で友人家族と」

 大阪に住んでいた頃、家族ぐるみの付き合いをしていた友人と、現地で合流したこともあった。
 ぷりんを家に置いて、人間だけで旅行するなど、私たち家族の辞書から消えてしまった。それほど、魅力的でかけがえのないぷりんとの時間だった。ところが、一緒に連れて行けないところがあった。大阪に住む私の両親の家だ。

「家の中に犬を入れる」
 など、両親の辞書には無い。

 仕方がないので、帰省するときは、ぷりんを預けるところを探した。ある年は、警察犬の訓練所だったり、ある年は、オープンしたてのドッグホテルだったりした。
 少しでも居心地の良い設備と環境を、探して預けたが帰るまでは、心配だった。その頃、いつも世話になっている獣医が、「ドッグホテル」も始めた。私は、よく知っている獣医の処なら安心とばかりに、すぐ予約した。ぷりんが3歳の冬だった。

 晦日に預け、三が日は大阪で正月を祝い、4日に帰宅するや否や、ぷりんを迎えに行った。すると、獣医が「大変だったんですよ」と言う。
 何があったのだろうか。

 31日の夕方、散歩帰りのぷりんは、病院の前までは、おとなしく付いて来た。獣医がドアの鍵を開けているすきに、首輪もハーネスもリードもぷりんは、勝手に自分で外し、走り去ってしまった。呼んでも知らん顔で、走る。
 大晦日の夕暮れだ。赤く染まった空が紫色になり始める。正月の買い物の車で渋滞する道を、ぷりんは、車と車の隙間を駆け抜け、とうとう走り去ってしまった。

「いやぁ、かっこ良かったなぁ~」
 などと獣医はトンチンカンなことを言う。

 人間の足では到底追いつけない。ふと気づいて、カルテで住所を確かめると自宅方面に走っていったことが分かった。獣医は、急いで、車で追いかけ、私の家に着くと、庭にぷりんが居た。
「よかったですよ、ホッとしました。」
 無事であったから、「良かった」で済むが、もし、車に轢かれたり、行方が分からなくなってしまったりしたら、どう責任を取るつもりだったのだろうか。

走るのも早かったぷりん

 腹わたが煮えくり返り、悪態のひとつや二つ、ついてやりたいところだったが、獣医の顔など、これ以上は、見たくないので我慢して、早々に帰宅した。

 だが、1つ分からないことがあった。
「ぷりんは、庭にいた。」
 と獣医は言ったが、どうして入れたのだろうか?

 門には鍵がかかっており、勝手には入れないはずだった。見たことのない、古い陶器の鉢が庭に転がっていた。
 正月明けのごみ集積場は、新年の挨拶を交わす絶好の場になる。私は、会う人、会う人にぷりんのことを尋ねた。
 表通りを走るぷりんを見かけた人や、自宅付近をウロウロしている姿を目撃した人はいた。しかし、「何故、ぷりんが庭に入れたのか、知らない人」ばかりだった。

 やがて、お隣りの奥さんや、斜め向かいの奥さんの話から、謎が解け始めた。
 自宅にたどり着いたぷりんは、斜め向かいの家の駐車場に入りこんだ。いつものように、門扉は開いたままだった。帰ってきたご主人を見つけると、大喜びでじゃれついた。
「もう少しで、車で轢いてしまうところだったのよ。」
 と斜め向かいの奥さんは、少し怒ったように言った。

 私は、正月に帰省するのを、お隣りの奥さんだけに伝えてあった。
 ご主人は、インターホンを何回も押したが、誰も出てこない。
「留守中にぷりんが、戸外に出てしまったのだろう」
 と思ったそうだ。
「さて、どうしよう」
 と思案に暮れているところに、お向かいのお兄ちゃんが帰宅した。ぷりんが周辺をウロウロしていると何があるか分からない。
「心配だ。」
 そこで、長身のお兄ちゃんが塀を乗り越え、ぷりんを庭に抱き入れた。古い陶器の鉢に水を入れてもらうと、いかにも「のどが渇いていました」と言う様子でぷりんは、ぐびぐびと飲んだ。
 少し落ち着いたぷりんを見て、ご主人も、お兄ちゃんも、それぞれ家に帰った。その頃、獣医が車で到着したらしい。
 ぷりんが吠えた。
 その声を聞きつけたお隣りの奥さんは、最初は空耳だと思ったらしい。
「ぷりんは獣医さんに預けられているはずだ。」と最初は、無視をした。ところが、あまりにも吠えるので「やっぱり、ぷりんの声だ。」
 と玄関先に出てきた。獣医が、名刺を取り出し、事情を説明した。ぷりんは、庭じゅうを逃げ回り、獣医には捕まえられなかった。そこで、奥さんも、塀を乗り越え、ぷりんの捕獲に協力した。
 やっとのことで、捕まえ、獣医の車に乗せた。
「ぷりんが可哀想だった。」
 と奥さんは、ぷりんに謝っていた。ぷりんは、いつものように尻尾を力いっぱい振っていた。
 もし、近所の人がぷりんに優しく接し、守ってくれなかったらどうなっていたのだろうか。私は、ただ、ただ感謝するだけだった。

                              【了】

大久保昇さんが句集『天職へ』を発刊する=後世に残る名句だろう

 大久保昇さんは、全国の大きな俳句の特選を数多く受賞されている。栄光として、4カ所には受賞記念の句碑がある。かれは正直なところ口下手だ。俳句教室でもやれば、30-50人の受講生は集められるだろう。それが未だなされていない。器用な生き方が苦手な類だ。

 かれはかつて30代~40代の頃、毎日、清掃業の過労な職種で、老母を養し、貧乏しながらも懸命に創作活動をしていた。朝4時台に起きて、まだ戸外が薄暗い5時頃に一番電車に乗って職場に向かう。大手デパートの清掃会社の下請けならず、さらに孫請けの零細会社だから、夜までサービス労働だ。黙々と働きながらも、創作活動をする。

   『噴水の飛沫過労の口濡らす』と俳句にしている。

 それでも、かれは『一日、10句を作る』。それを自分に課している。現代の山頭火だと、私は思っている。

 大久保昇さんは努力家だ。
『飴ほどの石につまづく夜業明け』と俳句に詠う

 過酷な職場でも、かれは寝る時間を惜しんで、23歳から8年間かけて、通信教育課程で東洋大学を卒業している。と同時に、俳句の創作に専念してきたのだ。他の遊びごと、賭け事などはいっさいおこなわない。

 著名な俳人でも、句集の単行本は商業的に成り立たないので、まず出版社は乗ってくれない。ほとんどが自費出版だ。かれは受賞金をこつこつ貯めて「天職へ」を自費出版したのだ。


 自費出版といえば、どこか見下した社会の風潮もあるが、島崎藤村の名作「破戒」すらも、差別部落の教員を主人公に扱い、どこも出版してくれなかった。藤村は自費出版し、後世の名作となった

 山頭火が旅先から仏教学者・大山澄太(すみた)に日記と俳句を送っていた。大山氏が出版したことから、山頭火が世に知れた、という経緯もある。
 大久保昇さんの『天職へ』も、どこか後世の名句への道をたどるような気がする。


 同書の帯には、鍵和田柚子さんが、『雪の窓を開け天職へ踏み出さむ』を取り上げてから、『自分にあった職業を大切にして、懸命に生きる誠実な作者像が見えてくる。とくに「天職」の惜辞に心打たれるものがある」と記す。

 大久保さんの自選としては、

  『捨てられし豆電球の下萌ゆる』

  『着ぶくれて銀座すばやく通り抜け』

  『池の底真っ直ぐに這う蛙かな』

  『鴨さざめき夕闇の水傷だらけ』

  『チューリップ飴の包みを入れられる』

  『雪だ雪だと椅子のみんなが立ち上がる』  
 
  『噴水の飛沫過労の口濡らす』

  『飴ほどの石につまづく夜業明け』

『汗にじむネクタイ助言受け止むる』

『帰省して柱の夕立撫でてをり』

『向日葵の先住民の如く立つ』

『雪の扉を開け天職へ踏み出さむ』


【関連情報】

 句集「天職へ」本体2300円+税

 購入先 : 大久保昇

 〒112-0002
 文京区小石川3-25-4-301
 03-3816-3417


 発行所 北溟社(ほくめいしゃ)☎04-2968-5349

 

高川山(975m) = 大久保多世子

1. 期日 :2016年6月12日(月)晴れ
                         
2. 参加メンバー : L武部、市田、原田、大久保 (計 4名)

3. コース :初狩駅―― 自徳寺 ―― 高川山 ―― 天神峠 ―― むすび山―― 大月駅 


 梅雨時にしては、珍しく最高のハイキング日和だった。
 初狩駅を9:40に出発した。駅前から右に進み、中央線のガードをくぐり、右手の自徳寺に入る。

 武部さんの案内で、色とりどりの花が綺麗な墓地の中を進む。大きなイチョウの傍らに、ビッキーのお墓はあった。可愛らしい墓石には「ビッキー安らかに」の文字と、ビッキーの絵がくっきり。硬貨がたくさん供えられていた。

 ビッキーは高川山の頂上辺りに住んでいて、登山者に人気の犬だった。そうとは知らず、私は友人と登ったとき出会い、「野犬だ!」と怖がったことを思い出した。


 登山道はしばらく道幅が広いが、山道は狭く急坂になる。
 女坂と男坂の分岐で、小休止をとり、当然のごとく男坂に進む。夏のように暑いが林の中は快適で、時折吹くそよ風が嬉しい。
 横1列に並んで、下向きに咲く清楚な白い花はネジキである。幹がねじれる木だが、地方によって、花の様子から「飯粒の木」とも呼ぶそうだ。


 11:40に頂上に到着する。 まさに大月市の秀麗富嶽十二景の十一番山頂!パッと開けた視界に雄大な富士山がそびえ、何とも清々しい。

 ヤマボウシ・コアジサイ・シモツケ・ウツギ・テリハノイバラなどが咲き、アオダモは実をつけていた。

 花と富士山を見ながら昼食をとり、記念写真。

 展望の良い頂上には30人ほどの人がいた。低学年の女子が3人で追いかけるのは、何と、トカゲだ。逃げ回るトカゲの藍色が美しい。
 標識の下に入れてあるビッキーの写真を皆で見て、12:30に、むすび山に向けて出発。すぐ林の道で、木陰の涼しくて、とても心地よい、コアジサイがたくさんあって、優しい薄紫の花には何度もカメラを向ける。アップダウンを繰り返しながら、なおも進む。

 禾生駅への分かれ道。さらに天神峠や田野倉駅への分かれ道を過ぎると、パタリと人に会わなくなった。
 道の上には植物が伸びていて、実に歩きにくい。

 ウルシも枝を伸ばしているので、半袖だと心配になるほどだ。むすび山までの道のりはかなりあり、「峰山585m」と木の幹に取り付けた標識を過ぎても、まだ着かない。
 少し焦れてきた頃、癒してくれたのがイチヤクソウの可憐な花だった。草の間、木の根元などにけっこうたくさん咲いていた。

 目に優しい鮮やかな緑はカエデの木。たくさんあったので、
「ここは秋にも是非来たいね。」
「すぐ暗くなるから逆コースがいいね。」
 などと話しながら進む。


 九鬼山とリニア実験線が見えてきた。リニアモーターカーは九鬼山と高川山の真下を通っている。
 「この急坂はむすび山に違いない。」
 と頑張って登ると、大きな石があって、「おむすびにそっくり!」と一瞬喜んだが、GPSを見た原田さんの「むすび山はまだ先。」の声にガックリ。

 後日「ぼたもち岩」と呼ばれていると、佐治さんに教えてもらった。

 この岩からしばらく歩いて、ようやくむすび山に到着する。眼下には大月の街並みが広がっていた。ここからは下るだけで、4:00頃に大月駅に到着した。

 反省会の生ビールは格別においしかった。ゆったりと花々を観賞し、写真も撮り、体の芯まで緑色に染まった、楽しい日帰りハイキンクであった。

          ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№204から転載

高水三山(793m)=武部実

登山日 : 平成28年7月 2日(土) 

参加メンバー : L武部、渡辺、野上、中野、+武部友人(色川)の計5人

コース : 軍畑駅 ~ 高水山 ~ 岩茸石山 ~ 惣岳山 ~ 御嶽駅

 集合時間である軍畑駅9:10着の電車からは、登山客がぞろぞろと降りてくる。5~60人はいるだろうか。
 私はたまたま早く集合時間の30分前の電車に乗ったが、同じ状況の混みようであった。ここからは御岳渓谷のハイキングコースもあるが、ほとんどが高水三山に行くようだ。


 9:20に出発する。踏切を越えて、舗装路を歩くこと約30分で、高源寺に着いた。ここから少し登ったところが、登山口だ。いきなり、急登の長い階段が現れる。
 きつくて途中で、一回休憩をとる。天候が曇り空で、樹林帯の歩きなので、すこしはましだが、今日は30度超えの予報だから、こまめな水分補給は必須だ。

 登山路には、『合目』が彫り込んである石柱が設置してあり、三合目だ、四合目だ、と確認しながらのんびり歩くのも楽しいものだ。
 高水山直下の常福院に11:30に着いた。山頂はすぐだが、混み合っているのではないかと考えて、ちょうど通り道に誰もいない東屋があり、ここで昼食にすることに決めた。

 12:10に出発。5分で一番目の高水山(759m)に着く。曇り空とあって開けている南面の見通しが無く、集合写真の記念撮影をして、すぐに出発する。
 山頂直下は急降下だが、その後は緩やかな稜線歩きが続く。白いキノコの群生やギンリョウソウを発見したりしてのゆっくり歩きだ。
   
 ところが、二番目の山頂直下になると、急な登りになってくる。12:53に岩茸石山(793m)に着いた。三山の最高峰で、北方面が開けていて、手前には黒山が、その先は棒ノ折山が眺められた。

 小休憩して歩き始めたころには、お日様がでてきた。だが、樹林帯のコースなので日陰で快適だ。しかし三番目の山頂直下が急な岩登りで大変なところ。登り切ったところが、惣岳山(756m)で13:34に着。

 山頂には青謂神社奥の院が鎮守してある。見通しはないが、杉林に囲まれて広々とした気分が好いところだ。

 14:10に出発。ここからは御嶽駅に向かって下りのみ。杉林の中を歩くが、ここは『関東ふれあいの道』でよく整備されてあった。快調に歩いていたと、いいたい所だが、湿った登山路に見事にスッテンころり転ぶ。擦り傷だけですんだが、油断はまさに禁物だ。

 15:50に御嶽駅に着いた。恒例の反省会は、最近よく行くようになった立川の「弁慶」。焼酎のボトルを新たにキープし、8割方残っているので、早い者勝ち、遠慮はいりません。

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№205から転載

伊吹山と生物多様性 = 市田淳子

期日 : 2016年7月31日(日)

コース : 伊吹山 1合目~山頂~東遊歩道~駐車場~中央遊歩道~西遊歩道



   
                     イイブキジャコウソウ


 長い間行ってみたかった伊吹山に登ることができた。なぜ行きたかったかというと、特異な気候と地質、固有種の多さ、そしてお花畑を見たかったからだ。

 1合目に前泊して、31日の朝、5:30に伊吹高原荘を出発した。3合目で朝食をとる。1合目から3合目までは普通の山道で、クサフジ、ヤマホタルブクロ、カワラナデシコが咲く道を歩く。

 上に行くに従って、琵琶湖が大きくなってくる。途中、樹林帯を通るが、殆どが日差しのある草原だった。麓の方はスギ・ヒノキの針葉樹で、かつて林業の大切な林だったのだろう。
 その上は、広葉樹林体で、コナラ・ミズナラなどのいわゆる雑木林だ。かつては人々の暮らしに欠かせないフィールドだと思える。

 3合目のお花畑に着くと、フェンスで囲まれている中にユウスゲが咲いていた。柵を設けないと残せないのだろう。そして、5合目・・・と登っていった。
 山頂付近では、いくつかの花が顔を見せてくれた。

 山頂の三角点を確認し、東遊歩道へと向かった。予想した通り、柵に囲まれていた。それでも、柵の中にはクガイソウ、ミヤマコアザミ、サラシナショウマなどの群落があり、お花畑を楽しませてくれた。

 一旦、駐車場まで下りて、再び山頂目指して中央遊歩道を歩く。

 先ほど上から眺めたお花畑を下から見ることになる。そして、西遊歩道を行くと、完全に保護された区域があり、その中にはシモツケソウが我が物顔に咲いていた。
 かつては、この地域一帯にシモツケソウを始めとする植物が、百花繚乱の如く咲き乱れ、人々は中に入ってその美しさを楽しんだそうだ。

 しかし、今は保護しなければ、それらを見ることはできない。保護が必要となったのは、シカなどの食害というより、温暖化によるアカソ、センニンソウ等の繁殖力だそうだ。

 花の百名山の中でも、伊吹山は特異な存在だと思う。
 麓のスギ・ヒノキを材として使い、広葉樹を雑木林として使い、薬草の宝庫として利用してきた伊吹山。人々との暮らしが、ここまで密接な花の百名山は、他にないのではないかと思う。

 生物多様性とは、人間の勝手で作った言葉だ。人が生きて行くために必要だから、その多様性を守ろうという言い訳に過ぎない。その生物多様性の恵みを享受しているのは、野生生物ではなく人間だ。

 だとしたら、温暖化という自然の流れに任せることなく、人の手で元々あった自然の姿を守っても、神様は許してくれるのではないかと思う。

 伊吹山を訪れた後も、他の山でも同じように今、抱えている問題を目の当たりにした。山好きにどうやって自然が守れるのか。自分自身でよく考えてみたいと思う(森林インストラクー)。             

 
    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№205から転載

来年度で歴史の幕が閉じる、住吉小学校(鹿児島県)の大運動会 :郡山利行

 2016(平成28)年9月25日(日)に、鹿児島県日置市立住吉(すみよし)小学校の運動会が開催された。

 同校は創立125周年の長い歴史をもつ。来年度を最後として、統合によ.り、その歴史に幕が下ろされる。

 地元の山から切り出された、銘木「杉の木」の枝で作られた入場門がひと際は目立つ。運動会の前日に、学校職員、PTA、地域の人たちの手で、製作されたものだ。

 その入場門には、小学校児童たちの手作りの手旗が数多く飾られていた。運動会への深い想いのメッセージが綴られていた。


 本部テントの前では、成田浩さん(69)が、≪放送係≫として、プログラムのひとつを実況中継していた。その成田さんと筆者とは同年の友人である。

 ちなみに、筆者が学んだ小学校は約2kmほど離れた、隣の小学校である。


 住吉小学校の全校生徒は、29名である。

 男子の全校児童による「赤組白組対抗のリレー競走」がおこなわれた。


 少人数なので、小学生たちの競技はあっという間に終了した。



 ソメイヨシノは、30年以上も万国旗を飾り続けてきた。

 かつて何百人もの児童たちを、見守ってきた桜の木である。


 成田さんは、日置市のこの住吉地区で生まれて育った。

 現在は日置市の市会議員であり、同議会の議長である。


 母校・住吉小学校の運動会の歴史について、それはそれは、熱く語ってくれた。



 午前の部のフィナーレは、華やかな家族・親類の対抗リレーである。小学生から、同校を卒業した中学生、さらに大人まで、親きょうだい親戚らが一つのチームとなった。
 
 3人、4人、5人の編成別でレースが開始された。


 リレー競走のさなかは、会場の観客全体が盛り上がる。

『○○ドンの(○○家の)、○○ちゃーん、きばれー(頑張れ)!!』

 バトンを渡したひと、受けた人、みんなの笑顔が美しい。


 走路の円形コーナーには、杉の小枝が地面に差し込んである。

 来年入学予定の、就学前幼児たちによる、リレー競技のような、かけっこがはじまる。走るのを嫌がっている子どもがいる。これも年齢的にごく普通のことかもしれない。

 見るかぎり、この炎天下でも、多くの幼児は平気で100mも走り抜いていた。



 小学校と児童家庭と地域とが、まさに完全に一体となっている運動会である。

 終了と同時に、銘木「杉の木」の枝で作られた入場門(冒頭の写真)が、静かに片づけられた。

 あと1年と思うと、どこか淋しさがつのる。

 来年も、がんばろう。


                     写真・文 郡山利行(かつしかPPクラブ) 

山頂の神事から温泉まで、四国・石鎚山の山行 = 渡辺典子

日程:平成28年5月 26日(木)~29日(日) 

メンバー : L藪亀徹 、 上村信太郎 、 武部実 、 栃金正一 、 松村幸信 、 中野清子 、 渡辺典子 、 佐藤京子 、 (北山美香子)

 5月26日(木)、松山空港 = 石鎚スカイライン = 土小屋(登山口) ~ 石鎚山山頂山荘(泊)

 13:00頃、土小屋を出発する。すぐに雨が降りだし、本降りになる。整備された道だが、レインウェア着装で蒸し暑く、汗と雨でズブ濡れになる。その上、細かい虫が顔にまとわりつかれ、とても歩きにくかった。

 雨のため、鎖場はさけ、鉄板階段の多い迂回路を慎重に登り、16:00頃に、頂上山荘に到着した。他に登山客はなく、大きな部屋に全員で就寝する。


 
                 石鎚山山頂にて、後方は天狗岳


 5月27日(金)、山頂山荘 ~ 土小屋 ~ 岩黒山 = 山荘しらさ(泊)

 全員が6:00からの、山頂神社の神事に参加する。正装された神主さんが最後の儀式として、全員に三体の御神体をふれさせていただけた。
 初めての貴重な体験なので、御加護を祈り「お守り」を購入した。

 その後、昨日のコースを下山していく。すっかり晴れ、昨日は見られなかった美しい石鎚の山系が続き、気持ちが良い。
 10:00頃、土小屋に到着した。近くの岩黒山に全員で登る。眺望の良い頂上で、昼食をとる。下山後は、瓶ヶ森方面にある「山荘しらさ」に向かう。

 この山荘には大きく広い内部空間があり、設備は完備し、暖炉もある。ジャズの流れるくつろぎの場がある魅力的な山荘だった。
 美しい夕焼けを撮影したり、ゆったりと時を過ごした。


 5月28日(土)、山荘しらさ =久万高原町 = 松山市(ホテル玉菊荘)泊

 起床してびっくり、激しい雨が降っていた。
 山行は取り止めとなり、久万高原町にある面河渓谷、面河山岳博物館、久万美術館、道の駅などを楽しみながら、道後温泉近くの「ホテル玉菊荘」に到着する。
 さっそく、日本最古の歴史を誇る道後温泉や商店街を散策にむかう。

 5月29日(日) ホテル玉菊荘 ~ 松山城 ~ 松山市内 ~ = 松山空港

 5:30、道後温泉前に全員が集合する。6時の入湯まで、長い行列ができた。短い時間の入浴だったが、独特の雰囲気を味わえた。
 朝食後、北山さんは大分へ帰途についた。その後、松山城の見学。小雨が降っていたが、多くの人出で賑わっていた。
 松山城史跡庭園などをまわり、松山空港へむかう。

 今回、数ヶ月前から準備をしていただいた飯田さんの不参加はとても残念でした。北山さん、藪亀さんには、大変お世話になり、楽しい旅が出来て、ありがとうございました。
 石鎚山での虫刺されたのが、3週間たっても治らず、想い出が続きます。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№203から転載

苦闘の末に美景あり。珍名の山・ソーヤノ丸デッコ = 栃金正一

1.実施日 : 2015年12月8日(火) 晴れ

2.参加メンバ : L武部実 飯田慎之輔 佐治ひろみ 栃金正一

3.コース : 奥多摩湖 ~ 清八新道 ~ 小河内峠 ~ ソーヤノ丸デッコ ~ 惣岳山 ~ 奥多摩湖


 ソーヤノ丸デッコは、2015年に、JAC東京多摩支部の奥多摩百山に選定された。とても珍しい名前の山なので登ってみることにした。

 奥多摩駅に9:35に集合し、9:40の鴨沢行きのバスに乗車した。平日なので混雑はなく、9:50に奥多摩湖に到着する。準備を済ませてから、出発する。

 大きな小河内ダムを渡り、途中の展望台を過ぎると、対岸の広場に着く。ここから湖に沿った遊歩道に入る。途中、サス沢山に行くコースを左に見て、さらに進み、入り江の奥まった所には、小河内峠への道標があった。
 ここから清八新道に入る。

 道はかなりの急斜面で、ふくらはぎが痛くなり、あえぎながらも、一気に尾根まで登り切る。尾根道は、防火帯となっており、広々として明るくて気持ちが良い。
 しばらく行くと道は、だんだんと傾斜が急になってきて、直登する道と、その脇には九十九折りの道がついている。そこを登り切ると、惣岳山に続く稜線に出る。道なりに左に行くと、11:55、小河内峠に到着した。

 ここで待ち遠しかった昼食をとる。峠は、広々としてベンチがあり、休息には良い場所である。昼食を済ませ、12:15に出発する。道は尾根道でさほど傾斜はない。

 ソーヤノ丸デッコは、地図に載っていなく、ブロク゛によると、標高が1200m位。山頂には東京都が設置した道標があり、そこに(05-340)と書いてあると記していた
 尾根上の1200mに近づいたので、ヤフ゛をかき分け、ピークらしき所に登った。だが、山頂らしき印はなかった。
 しかたがないので、更に道を進んでいくと、尾根を登る薄い踏み跡があったので、そこに行ってみる。道は傾斜が急でサ゛レ場もあり、崩れやすい。両手を使いながら、登り切ると、ピークに道標がある。


 ここに(05-340)の数字が確認できた。13:10、ソーヤノ丸デッコに、ようやく到着した。


 山頂は、展望が良く、三頭山や六ツ石山などが大きく見える。しばらく展望を楽しんだあと、13:30、惣岳山に向けて出発する。稜線の道は良く整備されており、どんどん登って行くと、13:40、急に目の前が開け、広々とした惣岳山に到着した。

 ここからは、ハ゛スの時間に間に合わせるため、急ピッチで下山する。途中、サス沢山を通過する。この先は傾斜が急になるので補助ローフ゜等につかまり、慎重に下山した。

 15:00に小河内タ゛ムに到着し、ハ゛スの時間に間に合った。

 今回の山行は、ソーヤノ丸デッコを探すのに苦労したが、どうにかピークにたどり着くことができ、達成感のある山行となりました。


           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№198から転載

武家の古都で、新田義貞の鎌倉攻めを想う。「鎌倉七口」=後藤美代子

実施日 2010年6月4日(金)

参加者 L 後藤 伊東 尾碕 中村 野上

 鎌倉は三方を山に囲まれており、一方は海に面した自然の要塞である。その地形のために、外部からの出入りは非常 に不便であった。
 周辺との往来を図るべく、山には切通、海には港(和賀江島)を設け、交通が容易に行われるようにした。 この山の切通と坂を併せて「鎌倉七口」と称している。

現在、往時の面影を多く留めているのは、大仏切通(土砂崩れのため通行止め)、朝夷(比)奈切通である。残念ながら化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、名越切通は極一部に名残りを留めているていどであった。

 新田義貞が鎌倉攻めた。新田軍は三手に分かれて、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂から攻め入ったのである。待ち受ける鎌倉幕府軍の守りは堅く、新田軍はことごとく討ち破られた。いったんは腰越付近まで退却し、稲村ガ崎の 海上からの侵攻を図った。
 だが、そこには幕府軍の船が矢を射掛けようと待ち受けていたのだ。


 攻め倦んだ新田義貞が、黄金造りの太刀を「竜神 我が願い叶えさせ給え」と言って、海中に投げ入れた。すると、その夜は潮が沖まで退いたので、新田軍は攻め入る事ができた、という有名な話が伝えられている。

 そんな昔に思いを馳せながら、私たちは鎌倉七口を歩き通した。その距離は20キロ余。 現在、鎌倉は「武家の古都・鎌倉」として、世界遺産登録を目指しています。

 しかし、岩手県の中尊寺が落選したので、その代わりに鎌倉という訳には行かず、中尊寺が再チャレンジしてからです、と地元の事情通は言っています。

  今回の山行は、無数に広がる枝道に、悪戦苦闘しながらだった。秋風の吹く頃には、いま一度、迷わず行けるのか、再チャレンジしたいと思っています。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№130から転載
                                                     

【詩集『こんなもん』より】 どこへ = 坂多瑩子


大根を切っていると

窓ごしに

男がよぎっていった


風でとばされた

ぼうしを追っかけている赤毛の男だ

いるな

と思ったら

ぼうしのほうが

あたしのところにきて

水を一杯のんだ

これから旅にでるという

たしかにリボンのわきに切符をはさんでいる

ザーッアルマからノマロフ越えて

橋をわたって

ニェスニュススチック停車場から

ぼうしのくせにおしゃべりだ

聞き流しながら

里芋と人参を切って

鍋に湯をわかしていると

台所は湯気のあたりから暗くなりはじめた

夜になっちまった

ぼうしがいった


ずいぶん昔に

お土産って

大叔母さんがくれたグリーンの表紙の本

色の悪い花びらが舞っていて

ぼうしがあご髭をはやしていた

遠い夜のはずれで

赤毛男

ゆくえふめい

【関連情報】

どこへ  縦書き PDF


「こんなもん」 2016年9月30日発行 
         著者 坂多瑩子
         発行所 生き事書房 
              〒 151-0073
  東京都渋谷区笹塚3-45-4
              ☎ 03-3377-6168