寄稿・みんなの作品

【孔雀船102号 詩】  捕獲 利岡正人

吐く息のこもった熱が
正面からよく見ようとした鏡を曇らせる
近づき過ぎて ぼんやり映る輪郭
絶えず世界を更新しようと
無数の傷のついた この表面を拭い続けてこそ
私の視界は確保されるのか

何ものかに見られ続ける
密林を何処までも突き進んでいた
鬱蒼とした藪の中で息をひそめる
獲物の微かな臭いを探して
眠るあいだも休みはない
明るい場所に引きずり出してやろうと
薄れゆく意識に抗いながら
感覚だけを研ぎ澄ませ
縄張りを越えてさまよう
飢えた妄念の影となって
意識を取り戻そうとする道のり
けれども 日の光も届かない森の奥処で
ようやく見つけたのは白いマスク
人間という哺乳類の痕跡
何のビジョンもなく
うつろに反射する
誰かが脱ぎ捨てて行ったものだ
傍らの切り株の上には
映写機 ③.jpeg映写機が置かれていた
スクリーンも掲げられていないのに
動物たちのための上映会が開かれようとしている
慎重に近寄ったが
「罠だ!」と気づいた時にはもう遅く
映像のぷっつり途切れた暗闇の中
泥濘にはまったかのように身動き取れず
先行きを見計ろうとする
山猫の眼を光らせ
息を押し殺す以外になかった
ただ映写機の空回りする軽い音だけが
後へも先へも進めない辺りに響いていた

洗面所の窓から見える曇り空が
断片として映る鏡の中
自らの呼吸音に耳を澄ませる
目が据わっている 取り残された顔
どんな獲物が捕らわれているのかも判然としない
だから急いで野に放とうとも思わない

捕獲 利岡正人.PDF縦書き 

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船102号 詩】 夢の傾斜 脇川郁也

黄昏をついばんで山鳩が啼く
姿を求めて見上げれば
竹林を吹き抜ける爽やかな風だ
生まれたての緑色をして
まだ残る空の青さと
はっきりしない明日の行方を示している
竹林.jpg
ゆうべ
危うい夢の傾斜に
おののいて目覚めたのは
うなされたままのぼくの分身
もう片方のぼくは観念して
すでに冷たい視線を送っている

見知らぬ土地の記憶を追って
しばらく彷徨ってみたけれど
神がかたどったころの手触りが
ほんのわずか残っているのだ
夢のなかでさえ後悔ばかりの吐息
立ち尽くし足もとの影を見つめた

その日
尖った顎をさらに細くして
ぼくは静かに眠るだろう
目を閉じてから
小さな声をあげるだろう
圧迫された言葉は苦しげだろう
そのとき誰かが空を仰ぐだろう

空は赤く燃えているか
それとも静寂に満ちているか
湿った空気に包まれていようか
焦げた匂いが漂っているだろうか

あした雨にならないように
子等はてるてる坊主を吊すだろう
そしてぼくが死んだ後も
いまと同じように空は青いだろう
やりきれない青さで満ちているだろう

夢の傾斜 脇川.PDF 縦書き

【関連情報】
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船101号 詩】 秋のくれかた 船越 素子

空だけではない 
そのなつかしさも 空気までも
熟し始めた果物の匂いがしていた
時空が捻れていたことを
痛みが美しすぎて気づけなかった

御機嫌よう 鳩尾の痛み
果樹園.jpg果樹園のなかを 風が透過し
世界がバラ色にそまっていく
ほんの数分間の黙示
裸足で駆けだせばよかった  
気をとりなおし
影踏みをする
ずっと逢えなかった
あなたの影も
からだをよせてたたむ

(避難所のまえには
ちょっとした空き地があって
気高い振る舞いをする野良猫たちが
ゆるやかなコミューンをつなぐ
戸口の正面で
かれらが扉を開くまえに
叩き潰すのが
翼をもつものたちの恩寵)

いまはただじっと
息をひそめて待つ
秋がすとーんと
漆黒の闇をつれてくるから

秋の 船越 素子.PDF 縦書き 

【関連情報】

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船101号 詩】 少年の朝(連作)八木幹夫

もう、そこには戻ることはできないけれど
朝 めざめるたびにわたしは旅にでる

ラシード君のいた夏

早朝午前四時
しずかに家を抜け出す
車には釣り道具一式
仕掛け針
道糸と 0・3号の糸
昨夜握ったにぎりめし 水筒
車の中で反芻する必要なもの
バックミラー.jpeg後ろの座席をミラーで見ると
ラシード君が座っている
アメリカに帰ったんじゃないのか
どうしてまだ日本にいるんだい
ラシード君は笑ったままだ
大きな鮎を釣りに行くんだ
ラシード君は
わたしから離れない
アフリカ系アメリカ人と
結婚してDCで暮らす末娘の息子は
昨年の夏
コロナ禍の心配を押し切って
日本にやってきた
来るたびに
興味関心は変化する
アメリカ人プロレスラーのフィギャー
両生類、トカゲ、カメレオン
海の生き物、ハンマーシャーク
ドルフィン
そして今日は
フィッシング
夢のような
活きのいい大物を
あのエメラルドグリーンの水から
引き抜くんだ
ラシード 
ついておいで
眠るなよ

太古の位置

太古
わたしは
女で
たくさんの子を産んだ
その子たちも
たくさんの子を産んだ
その子もたくさんの子を産んだ

人種はまじりあって
平和だった
ひとはひとを殺すことはなかった
夕暮れに肩を並べて
いつまでも見ていた海
海辺では海の向うから
やってくるものを
手をつないで待っていた
流木をあつめて火をおこし
輪になって踊った
火を見つめていると
心が穏やかになった
わたしたちは洞窟にかえり
腰をゆるやかに動かし
愛する人にふかく愛された
海から押し寄せてくるものを
繰り返し受け入れるように

霧のたちこめる朝
子供になって
わたしは帰ってくる
父さん
母さんの
眠っている枕元へ
小さな庭の
アカバナサヤエンドウの
赤紫の花がいくつも
揺れて 濡れて
夜露にひかる
少年時代の朝よ
駆け足で太陽に
礼をいおう
ありがとう
街が遠い外国のように
幻想的だ
霧よ
ふかくたちこめよ

ナマズ

そこにいる
その草陰に
へどろを足で押し上げて
ふちに追い込む
そっちに逃げた
従弟(いとこ)は
大物だと叫んだ
鬚のある巨大な生きものが
どさっと畦道に
放り出された
どこかで
雲雀の声が聞こえた
堰き止めた用水路の
草束をはずすと
水は勢いよく
青い稲穂の田圃に
流れ込んでいった
空は明るかった


【関連情報】

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船101号 詩】 耳鼻咽喉科の原っぱ 小松宏佳

診察室の前にすわって
耳にふる雨をきく
大人の男女比が一対八だったり
幼児がみな
こおろぎだったりする
九月の匂い
足音がない

問診票に問う
あとどれくらい生きられますか
人間のままでよいですか

耳鼻咽喉科.jpg聖蹟桜ヶ丘のやきとりの日高は
ペンが注文をきき
ペンが復唱した
愛らしい声は
対応をまちがえても怒らない
人に混じって機械のお客さんも増えているが
機械人は背筋と愛想がいいのですぐわかる
話しかけられたら
ドンマイ、ドンマイ

台風がくるから
変調もくる
しかたあるまい
お尻をめくり
しっぽをたらして
湿った土をなめながら帰ろう
わたしは狸
虫のなく原っぱに
雨は消えたり点いたりする

耳鼻咽喉科の原っぱ(小松宏佳.PDF 縦書き

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【孔雀船101号 詩】 春の椿事 望月苑巳

人を省略する息
ひとつ
下駄の音
かなしそうな男が
かなしそうな桜を見上げている
瞳がひらく
凍る時間の外で
未来もかなしそうになる
金縛り
下駄.jpeg君と僕の醗酵した部屋が
子どもを産んでいる
我田引水な看板が
ふらついている
神籬(ひもろぎ)
いろめく
階隠(はしかくし)のこちらがわ
を蹴って出てしまう
のどかに降る雨は
そよめく青空の顰に倣って
我が道を行く
君と僕が醗酵を終えて
息を省略
するから
下駄の音
かなしくなる
春の一日は
そこはかとない椿事

              *神籬・・・神代の神坐。ひるがえって神社をさす
    
春の椿事.望月苑巳PDF 縦書き


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「日記」が教える清白の実像 なぜ幻の詩人になったのか 伊良子 序

詩誌「孔雀船」百号に寄せて

 祖父・伊良子清白(いらこ・せいはく)が六十八年の人生で残した詩集は「孔雀船(くじゃくぶね)」一冊のみである。それも二十八歳での上梓だから、文学青年の感受性、美意識が生んだ「孔雀船」の作品には清白の人生のごく一部が投影されているに過ぎない。しかも、わずか十八編の詩が所収されているだけで、そのうち「漂泊」「安乗の稚児」が知られるものの、ほぼ幻の詩人と言ってよい。
 ずっと忘れられているのに、歳月をおいて再評価の波が起きる不思議な存在だ。

 唯一の詩集「孔雀船」の上梓は明治二十九年。東京で保険会社の嘱託医として働きながら、与謝野鉄幹の「明星」の編集に携わるなど中央詩壇で活動していた清白にとって、念願の初詩集だった。ところが「孔雀船」刊行の日の直前に、結婚したばかりの妻と乳飲み子を残して東京を離れてしまう。山陰・浜田の病院に副院長として採用されての決断だった。その後、東京に戻ることはなかった。
 地方で医師として過ごした清白は、いわゆる「文庫派」をともに支えた河井酔茗ら親しかった文学仲間から度々、中央詩壇への復帰を求められたが、それに応ずることはなく、次第に忘却されてゆく。

 突然、清白に光が当たったのは大正十一年。学匠詩人・日夏耿之介が雑誌「中央公論」の連載で「孔雀船」を明治の詩壇を代表する傑作と激賞し、大著「明治大正詩史」でも改めて評価した。その流れから、昭和四年に「孔雀船」は再刻され、同十三年、岩波文庫になった。
 だが、清白の反応はどこまでも乾いていた。岩波文庫に寄せた序文には過去と決別した思いが凝縮していて興味深い。印象的な序文は次の通りである。


 この廃墟にはもう祈祷も呪詛もない、感激も怨嗟もない、雰囲気を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁断礎の間、奇しくも何等かの発見があるとしたならば、それは固より発見者の創造であつて、廃滅そのものゝ再生ではない。


 再び人々の記憶から遠ざかった清白に二度目の光が当たったのは、長い歳月を経た平成十五年のこと。詩人の平出隆さん(現・多摩美大教授)が幻の詩人に興味を持って、長年の取材、研究の末に「伊良子清白全集」二巻(岩波書店)と評伝二巻(新潮社)の刊行にこぎ着けた。協力したのは、私の父・伊良子正と叔父・岡田朴(すなお)だった。父と叔父は清白が残した日記や創作ノート、蔵書などを手分けして保存していた。それを平出さんに提供し、全集と評伝の出版への準備が整った。しかし平出さんや父の作業は難航し、約二十年もの時間を要して、ようやく形になった。

 岩波全集の上巻は詩歌編で「孔雀船」の作品のみならず、「孔雀船」には選ばなかった多くの詩やその後も作った詩、晩年に打ち込んだ短歌などが収められている。下巻には随筆、評論など散文と、残された日記のうち八年分が所収された。また新潮社の評伝「伊良子清白」は青年期から東京を離れるまでの軌跡が上巻「月光抄」、浜田時代から終焉までの日々が下巻「日光抄」としてまとめられている。

 平成になって再びよみがえった清白評価の動きは、出身地・鳥取と終焉の地・三重でも盛り上がり、鳥取では県立図書館が関連資料の保存に乗り出し、三重では診療所の医師として晩年を過ごした鳥羽市に文学館が開設されることになる。
 近鉄やJRの鳥羽駅に近い市の中心地に平成二十一年にオープンした「伊良子清白の家」は、かつて鳥羽市郊外の小漁村・小浜(おはま)にあった診療所の建物を移築したものである。一度は篤志家に買い取られて小浜から三重県・大台町に移築されていた木造の建物は、風雪にさらされ、かなり老朽化が進んでいたが、鳥羽市教育委員会を中心とする地元の熱意で解体・修理を経て復元された。鳥羽では命日の一月十日前後に追悼忌「木斛忌」も開催されるようになったが、コロナ禍などもあり現在は中断している。

 鳥取県立図書館の清白資料は、平成二十年に死去した父・正の遺志を継いで私が整理、寄贈した。父が長年病床にあったため資料は未整理のままで、かなりの労力を要したが、めぼしいものはなんとか寄贈することができた。

 資料の中でもっとも貴重なのは日記である。三十三年分の三十三冊。明治三十八年から書き始めた日記は、太平洋戦争末期に疎開した三重県大紀町の山村で往診途上に急逝するまで、空白期をはさみながら書き続けていた。鳥取、大阪、東京、浜田、大分、台湾、京都そして鳥羽と漂泊を続けた清白が保管し続けた日記には「生活者」として姿が克明に記されている。日記は現在、三十二冊が鳥取県立図書館に、明治四十年の一冊が鳥羽市教育委員会に所蔵されている。

 文学仲間との文通、職場の人間関係、家族の問題、自身の体調。淡々と記されている日常はあたかも医者のカルテのようだ。高潔な人格、強い正義感、俗を極端に嫌った純粋だが狷介な性格が反映しているものの、事実を克明に綴る姿勢は医者そのもの。父・正から聞かされていた清白像は、肉親ゆえの複雑な愛憎のからんだものであったので、日記によって私は初めて客観的に祖父を知ることになった。

 幼児期に母が他界し、医師だった父の浪費癖で背負うことになった多額の借財の返済に苦しんだ清白の人生は、かなり過酷なものであった。文学と距離を取らざるを得なかったのはそうした実生活上の制約もあったろう。詩壇の新たな潮流を受け入れられなかったのが中央との隔絶の理由のすべてではないのが、日記を読むとよく分かる。

 文学者であるより生活者として人生をまっとうした。それが幻の詩人、伊良子清白の実像である。鳥羽にある記念文学館が、生活と仕事の場であった診療所の建物であるのは好ましい。

 肉親としての清白への愛憎に苦しんだ父・正は鳥羽の記念館のオープンを見ることなく、その一年前に他界した。詩作に興味を持ちながら封印してきた父は、老いてから吹っ切れたように詩を書き始め、短い年月に六冊の詩集を上梓した。若き日の「孔雀船」一冊のみだった清白とは対照的である。


               伊良子 序(いらこ・はじめ)


(筆者略歴)
 鳥取県生まれ。新聞記者生活を経て、現在はフリー・ジャーナリストとして文筆活動。映画とのかかわりが長く、映画関連の著書に「昭和の女優」「小津安二郎への旅」「ジョン・フォード」。ほかに随筆「猫をはこぶ」、原発ルポ「スリーマイル島への旅」など。神戸市在住。

(写真説明)
① 三重県鳥羽市の「伊良子清白」の家
② 若き日の清白
③ 「孔雀船」初版本

【孔雀船101号 詩】 宮沢賢治「青森挽歌」と詩意識   青森から誕生した『銀河鉄道の夜』藤田晴央

パンドラの詩匣
名作文学とポエジー 


季刊「未来」(2022年10月発行)で野沢啓が宮沢賢治の「無声慟哭」に代表される〈トシ挽歌〉について書いていて、うなずくところが多かった。それに触発されて以前にも触れたことがあるが「青森挽歌」について改めて語ってみたい。

――賢治のすぐ下の妹・トシは、日本女子大で学んでいたが肺炎に襲われる。賢治は上京して看病につとめたあと、トシと共に帰郷。やがてトシは、肺炎を再発。翌年、宮沢家ではトシを別宅に移し、賢治もそこから勤務する農学校に通った。しかし、看病の甲斐なく1922年11月27日、トシはこの世を去る。賢治はその死の直後に「無声慟哭」三部作を書いている。(以下、引用は紙幅の都合で文字下げ部分を詰めている。)
けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ/(あめゆじゆとてちてけんじや)/うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる/(あめゆじゆとてちてけんじや)

 よく知られた「永訣の朝」の出だしである。ほかの「松の針」「無声慟哭」を含めてこれらの詩篇は切々と胸を打つものとなっている。野沢は「賢治の意識が詩を構成したというより、トシのことばが賢治の詩意識を震撼させ、この決定的な作品が生まれたのであって、その逆ではけっしてない。」と書いている。単なる意識ではなく「詩意識」が「表現作品」としてこれらの詩を生み出しているというのである。私もそう思う。

 トシの死からおよそ八ヶ月、賢治はほとんど詩作をしておらず、生涯を通じて多作であった賢治にとって、その死の衝撃がいかに大きかったがうかがい知れる。そして、1923年8月、賢治は、青森、北海道、樺太を旅行して幾篇もの挽歌を書く。その冒頭の作品が二百五十四行の長篇詩「青森挽歌」である。野沢はその『移動論』において「認識の地平や人間関係のかかわりのなかで移動することは、ひとつの新しい風景をうみだすことなのである。」と述べている。まさしく賢治はこの北方旅行を通して新しい風景を生み出している。

 こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる/(乾いたでんしんばしらの列が/せはしく遷つてゐるらしい/きしやは銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

 なんと魅力的な書き出しであろう。わたしなども夜行列車に乗り硝子窓の向うに遠い街灯がにじんだ虹彩を放つのに見とれたものだ。そうした実体験に基づく共感性と「銀河系の玲瓏レンズ」のような暗喩が幻想的な世界へといざなう。そのようにして読者を詩の世界に導きながら、賢治は本題に入る。亡くなったトシの死についての「認識の地平」を言葉にしていく、その作業に。
あいつはこんなさびしい停車場を/たつたひとりで通つていつたらうか/どこへ行くともわからないその方向を/どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを/たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか

 トシの死から死後の世界へ。賢治にとってトシは唯一のそして最良の理解者であった。対幻想を共有する対象であったかもしれず、その喪失は大きい。彼女を失ってからずっとその存在の大きさとその人の死後について虜囚のようにとらわれて考え続け、ようやく旅を契機として「無声慟哭」三部作とは異なった次元で言語化したのが「青森挽歌」であろう。

 とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つて行き/それからさきどこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない/感ぜられない方向を感じようとするときは/たれだつてみんなぐるぐるする

「ぐるぐるする」という表現を私は「胸苦しくなる」というふうに解釈する。最愛の者の死は人を胸苦しくするのだ。詩人は、その生理的感情を言語化しようとして「とし子は......」と言葉を繰り出す。

 そしてそのままさびしい林のなかの/いつぴきの鳥になつただらうか/l'estudiantinaを風にききながら/水のながれる暗いはやしのなかを/かなしくうたつて飛んで行つたらうか

 死後の世界でトシは鳥になっただろうかと思う賢治。l'estudiantinaはワルトトイフェル作曲の「女学生」(邦題)のことで華やかなワルツだ。女学生として若々しい生命体であったトシに思いを馳せているのだ。それがかえって痛々しい。
 野沢が言うように「永訣の朝」においてトシの言葉が賢治の「詩意識」を突き動かしたとすれば、「青森挽歌」においては、トシの死から八か月たってその死を受け入れようとする賢治にとって、死者の魂について思いめぐらす観念の移動と夜行列車での移動が合体してその「詩意識」が揺り動かされたはずである。「無声慟哭」三部作と比較すれば、ここでは前者の切迫性よりもファンタスティックなまでの感性的描写が印象深いのはその「詩意識」のなせるわざであろう。ここで賢治は「創作行為」に没頭している。そうして豊かなイメージ世界を造形しながら死者の魂との、あるいはそのことを抱えた自己との対話を計ってゆく。

 あいつがなくなつてからのあとのよるひる/わたくしはただの一どたりと/あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます
『宮沢賢治の世界』において吉本隆明は、この詩について「死のあとに他界が存在し、そこの世界へ死者は霊となってたどってゆく」信仰の世界をもたどっていると書く。確かに賢治には大乗仏教の死後の浄福の世界にトシが行ったはずだと信じたいという思いがあっただろう。そうは思いながら様々に死後のトシの様子を空想しながら、一連の詩行の後に「わたくしはどうしてもさう思はない」と、死後の世界に対する懐疑も記される。

「つまり『わたくし』はじっさいはじぶんの信仰と科学的な実証とを一致させることはできない。そして一致させられないところで詩的な豊饒が成り立っている。」と吉本は述べている。信仰と科学ばかりではないだろう。一人の人間としての感情こそ、信仰や科学的実証を上回るものではなかったか。ただ一人の理解者であった人間を失った喪失の感情こそ最大のものであるはずだ。「詩意識」はなんらかの契機に打たれるように巻き起こった感情によって発動する。そのようにして生まれた最愛の者への挽歌はともすれば感傷に流れやすい。けれど感傷そのものは貶められるべきものではない。感傷を「詩意識」によってハンドリングすることが求められている。賢治は踏みとどまりつつ、夜行列車の幻想性と移動性を取り込みつつ詩作品を造形していく。

 吉本は次のようにも述べている。「意識の流れとしての人間がここに実在し、その実在性が真理を主張しているのを読むことができる気がする。」

 意識を流れさせているのは感情である。そこに身悶える人間がその実在の真理を主張するとき「詩意識」が立ち上がる。

 そのようにして賢治はプリミティブな意識ではなく「詩意識」に拘泥した。そういう観点に立てば、よく言われているような科学者としての賢治に信頼を置きすぎるのもあやまりではないだろうか。肝心なことは、生きて悩み悲しむ一人の人間の感情が、表現者としての「詩意識」によって作品世界に描き込まれ、そこから人間の深い部分の真理を感ずることができる、そのことだ。

 表題が青森となっていることにも触れておきたい
「青森挽歌 三」(『春と修羅 補遺』)では「一」よりもはっきりと移動の磁場としての青森が意識されている。詩の中に次のよう箇所がある。
あけがた近くの苹果の匂が/透明な紐になって流れて来る。/(中略)/青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか。/海が藍靛に光ってゐる/いまごろまっかな苹果はありません。/爽やかな苹果青のその苹果なら/それはもうきっとできてるでせう。

 先達の検証によれば、賢治は7月31日夜、東北本線に乗って花巻を出発し午前4時過ぎ野辺地を通過。同じ車室に前年亡くなった妹トシとよく似た女性を見たと書いている。

 私が夜の車室に立ちあがれば/みんなは大ていねむってゐる。/その右側の中ごろの席/青ざめたあけ方の孔雀のはね/やはらかな草いろの夢をくわらすのは/とし子、おまへのやうに見える。
 賢治にとって花巻から北へ北へと向かうことは、最愛の妹トシの魂と対話するためであった。彼にとって「北」とは「われらが上方と呼ぶその不可思議な方角」であり、魂がいきづく領域であった。この北に向かう旅から生まれた詩群と『銀河鉄道の夜』は深く呼応している。車中の女性がやがてカムパネルラに変身していったと私は想像する。

『銀河鉄道の夜』は1924年に初期形が書かれたと推定されている。亡くなったトシは、北への旅をへて、その銀河を走る列車の中で主人公ジョバンニの前の座席に座ってカムパネルラとなって現れるのである。つまり、文芸的解釈の一つとしてカムパネルラは青森から誕生したとも言えるのだ。「青森挽歌」からは詩人の「詩意識」の中で銀河鉄道が動き出した車輪の音が聴こえるのである。

1923年(大正12)8月1日、朝5時20分青森着、7時55分青函連絡船出航。草野心平は「青森挽歌」について「この詩は妹への挽歌のなかで一番長く、そして一番の傑作だと思っている。」と述べている。私も同感だ。ただ、草野が「花巻から青森行の夜汽車に乗つて、その夜中頃から夜明けにかけて書いたものと思われる。」と述べていて、同じようなことをほかの人の文章でも読んだ記憶があるがこれについては首をかしげざるをえない。
 私も東北本線を何度も利用したが実によく揺れる。しかも薄暗い夜汽車である。賢治がこれらの詩を車中で書いたとは考えられない。揺れて暗い車中ではなく、賢治はこの二時間半の「青森滞在」で「青森挽歌」を綴ったのだ。賢治が歩いた青森駅の長いプラットフォーム、桟橋待合室から眺めた朝の海......。賢治の「詩意識」は車中から持続され激しく明滅していた。そこには文学と土地の関わりの意味も横たわっている。

 (2022年10月)

孔雀船2022年秋・宮沢賢治「青森挽歌」.PDF 縦書き

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船101号 詩】 霧の籬 青木由弥子

くちづけはいのちをすいあげる行為だと
おずおずと舌をからませながら
立ち戻ってしまって
だからあなたは
いつも濃い霧のむこうにいるのだけれど

口づけ (2).jpgうすやみに浮かぶまなざしの
目じりのあたりのこまかい皺や
かたちのよい鼻すじやくちもとが
浮かんでは消える
日盛りの道を
互いに
自分だけの影を踏みながら
歩いた日
たどりついた巣穴は
幾千年の積層で壁を
埋め尽くされていて
干し草の馴染んだようなにおいの
岸辺とも島の奥深いところともつかぬ場所で
言葉の続いていく安堵に身をゆだねる

あの日の薄やみが
わきたち烈しく流れる雲の
乱れた空の下に漂っていて
丘のくぼ地で濃く溜まっている
梅の香に芯を
すすがれてゆくときのように
わたしを受け止めてくれる
霧に充たされていくのを
待ちながら
これで今日を
生きていくことができる

〒146-0085
東京都大田区久が原2‐7‐15
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青木由弥子

Poetess21@gmail.com

詩集『星を産んだ日』土曜美術社出版販売2017年
詩集『しのばず』土曜美術社出版販売2020年

『しのばず』の帯(裏面)に、「モノローグからダイアローグへ――詩と思想新人賞から五年 あらたな境地を開く新詩集」と入れています。


霧の雛  青木由弥子.PDF  縦書き


【関連情報】

 孔雀船は101号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳
 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船101号 詩】 タローはびよびよと 福間明子

秋田犬のタローは
朝四時には吠える
雨の日もタローはびよびよと
風の日もタローはびよびよと
吠えては父を呼ぶのであった
散歩に出かけるのは父の日課だった
この日課は十一年間続いたことになる
物語の犬はいろいろ聞いたことがあるけれど
犬との関係も盟友といえるのだろうか
「ただいまや 過去聖霊は蓮台の上にて
dog_akitainu (2).png ひよと吠え給ふらん」
平安時代の『大鏡』に播磨の国の僧侶が
愛犬家の犬の法事にての説法の話
千二百年前にも畜生の法事をしていたとは
仏教の教えであろうか
タローは盂蘭盆の十五日に
帰省していた家族全員に看取られて身罷った
「散歩しましょうと言いながら あの世で
姿を現すことを信じている」と 父は言った
その父も亡くなった
あの世でタローはびよびよと
吠えては父を呼んでいることだろうか

*平安時代の書物には犬の鳴き声は
「ひよ」または「びよ」と記されている


タロウはびよびよと福間明子 .PDF 縦書き


【関連情報】

 孔雀船は101号の記念号となりました。1971年創刊です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
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イラスト:Googleイラスト・フリーより