寄稿・みんなの作品

【孔雀船93】 永遠の春  齋藤 貢 ( 2019年度・現代詩人賞の受賞者)

背後から

おいと呼ばれて

振り向きざまに

鈍い痛みが下腹部に走った。

無数の刃が、高波のように

防波堤を越えて

からだの入り江に

槍のように突き刺さっている。

見えない相手の

喉元や顎のあたりを

両手で押し返して

必死に振り払おうとするが

肩の力が抜けてしまって

だめだ。

だれかを呼ぼうとしても、声にならない。

身をそらそうとしても

からだが動かない。

歯を食いしばって

こらえているが

そのとき

唐突に、大きな海の膝が抜け落ちて。

永遠の春が

しびれるように、皺よって。

防災スピーカーの男の声は

北へ逃げるようにと告げている。


狼狽する春の背中を抜けて

重く沈んだ悔いが

空からみぞれのように降ってくる。

屈辱が

仰向けになって、道端に倒れ伏している。

あの日まで、ずっと

高い鉄塔と

排気筒のむこうには

ひねもすのどかな春がたたずんでいたのだが

いまにしておもえば

それは

痛みも、真実のことばも

何ひとつ言わない春にすぎなかった。

阿武隈の寒い雲から

逆さまになって墜ちていく春。

見えないし、匂いもしない

新しい恐怖が

ぐいぐいとからだの岬のふかいところまで

からだの堤防を越えて

押し寄せてくる。

いつのまにか

根こそぎ、こころまで奪いとって。

 ☆ 齋藤貢さんは、2019年『夕焼け売り』で現、代詩人賞を受賞されました。 おめでとうございます。

 永遠の春 齋藤貢PDF・縦書き


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

奥多摩の低山・戸倉城山(434m)  佐治ひろみ

日時:2019年1月29日(火)晴れ

メンバー : リーダー・佐治ひろみ、栃金正一、野上とみ、中野清子、宮本武

コース : 武蔵五日市バス9:31 → 上町 ~ 光厳寺10:30 ~ 城山山頂11:36 昼食12:10 ~ 盆堀山12:55 ~ 荷田子峠14:00 ~ 登山口14:20 ~ 瀬音の湯15:00/17:18バス → 武蔵五日市駅17:30



 天気は晴れだが北の、風10メートルの予報だったので、どんなに極寒かと恐れをなしていた。だが、実際はそれほど寒くなく、幾つものピークを登り下りして、汗をかいた。

 集合は武蔵五日市である。右手に見える尖がった山が、きょう登る戸倉城山だ。標高は434mと低いが、ちゃんと多摩百山に入っている。

 まずは上町までバスで行き、そこから秋川まで下って、川沿いを上流に向かって行く。民家の庭先にはロウバイが良い香りを漂わせる。梅の蕾もかなり膨らんで、春も近い感じがする。

 沢戸橋を越え、山に向かって歩いて行くと「戸倉しろやまテラス」の手前に、小さくてステキな『小春日和』というお蕎麦屋さんがあるのだが、私のお薦めの蕎麦屋さんなので、本当は寄りたかった。

 急な舗装道路をグングン登って行くと、登山口のある光厳寺に着く。とても立派なお寺で中を見学し、すぐ近くにある樹齢400年の大きなヤマザクラも見に行く。ここで身支度を整えて、登山を開始する。


 最初は山の裾を巻きながら、林の中を進む。稜線に出ると、あとは一気に頂上まで稜線を直登である。

 上に行くにつれて岩が出てくるし、傾斜もきつくなる。落ち葉が積もっているので、滑らないように注意! 左側は断崖になっていて、眺めが良い。

 山頂直下は大きな岩場になっていて両手を使いながら登るのだが、落ちないように左側にてすりが付いている。
 登る時間は1時間程だが、面白いルートだった。


 山頂はとても良い眺め。東側が開け五日市の町並みや周りの低山、それらを眺めながらベンチで30分のお昼休憩。

  ここからは荷田子峠まで、1時間の行程だと高をくくっていたが、それは大間違いだった。林の中を登ったり下ったりの連続である。
 名前の付いているのは盆堀山だけだが、他にも小さいピークをたくさん越えるのだ。


 展望の開けたところで休憩を取りながら、山頂から2時間で分岐の荷田子峠に着いた。ここを下れば温泉が待っている。

 急坂を20分程下り道路に出る。あとは瀬音の湯の案内標識道通りに、里山の梅の花など見ながらダラダラと下る。

 15:00に音の湯に到着する。ゆっくり温まり、みんなツヤツヤになってビールで乾杯。お疲れ様でした。


       ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№233から転載 

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三浦半島の最高峰・大楠山(240m)  岩淵美枝子

2018年2月25日(日)  曇り

参加者 : リーダー・上村信太郎、渡辺典子、野上とみ、中野清子、宮本武、古賀雅子、岩渕美枝子  
コース : 京急安針塚駅9時30分集合 ~ 塚山公園(安針塚) ~ 大楠山 ~ 前田橋バス停(14時49分発バス乗車⇒逗子駅着)


 大楠山は、三浦半島の最高峰である。
 山というよりは丘陵ゆえに、頂上にとりつくまでに塚山公園がある。舗装道路の歩きが長すぎる。大楠山と三浦按針はセットだから、はずせない。

 三浦按針(ウイリアム・アダムス)は、日本を訪れた最初の英国人で、航海士。江戸時代には、幕府の外交顧問として、重用された。
 この地に領地をもらいうけ、日本人妻を迎えて帰化した。按針夫妻の慰霊のために作られた供養塔が、立っている。


 按針塚を後にして、林の中を歩くと思ったら、住宅地の中も歩いていく。途中、無人販売あり、早春の香りの ふきのとうあり、春を手に入れほっとする。

 遠くに、白い鉄塔が、見えてきた。頂上までは、まだ230段の階段が待っている。
 この階段、歩幅と合わず、てこずる。快適ではない。登りきったところで、リーダーから昼食休憩の合図。ゴルフ場横目に、楽しいランチタイムである。


 目の前の風景を見ながら、30数年前に来た大楠山のことを思い出す。そう、あのときは、前田橋から入り、阿部倉温泉の方へ、1月だったので正月料理、お風呂が売りだった阿部倉温泉、帰りには、塗り箸がお土産についてきて、ご主人から一言もらう。


             (福の箸・『阿部倉』)

 あの時代、人情も厚く、時間もゆっくり流れていた気がする。今はもう阿部倉温泉は時代とともに消えていったことが、残念だ。
 ただ、この塗り箸だけは、しっかりと残っている。阿部倉温泉様ありがとう。なんだか久しぶりの大楠山で思い出の山行記になってしまいました。皆さんお疲れさまでした。


  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№222から転載

戦国時代の山城跡・要害山(536m) 武部実

2019年3月12日(火) 

参加メンバー : リーダー・大久保多世子、栃金正一、蠣崎純子、武部実、佐治ひろみ、宮本武

コース : 上野原駅からバス ~ 尾続 ~ 尾続山 ~ 実成山 ~ コヤシロ山 ~ 風の神様 ~ 要害山~
山神社 ~ 新井バス停 ~ 上野原駅

 今年は正月早々に風邪をひき、寝て覚めても咳は止まらず、そのせいだと思うが、圧迫骨折(骨密度はOKなのに)で腰痛になり、歩くのも苦痛であった。

 したがって、山行には2カ月半もご、無沙汰の状態であった。すこし不安であったが、この日に備えてリハリビのつもりで、街中を少しずつ歩いていた。

 9:05に、尾続停留所を出発した。江戸幕府が甲府に置いた「甲府徽典館」の立派な門が移築されてある。門の横からが登山路だ。天気は上々、暑いくらいだ。

 45分ほどで、最初のピークに到着した。前を歩いていた2人組が尾続山だといって休んでいた。しかし標識もなく変だ。少し登り返すこと7分位で、尾続山(538m)に到着する。


 山頂から眺めれば、綺麗な富士山を望むことが出来た。今回のコースの特徴は低山ながら、どの山も富士山をはじめとした眺望がいいのが特色である。

 25分も歩けば、2番目の実成山(みなしやま 609m)に着く。本日の最高地点だ。しかし、富士山は冬枯れの木立の間から見えるだけで、眺望と高さは関係なかった。

 コヤシロ山(600m)には15分ほどで到着。権現山方面の分岐になっていて、標識には墓村の文字も、ちょっと怖いですね。
 数年前のトレラン大会時に、樹木を伐採したので道志の山々や富士山の眺めがよく見えるようになったという。

 4番目の山風の神様(540m)には35分ほどで着いた。小さな祠があるだけの狭い山頂なので先を急ぐことにする。

 12:05に要害山(536m)着。戦国時代に築かれた山城跡ということで、広々として気持ちのいい場所だ。
 見渡せば陣馬山から石老山、丹沢山系、道志の山々、そして富士山がのぞめる眺望のいい山頂だ。
 景色を見ながらゆっくりと昼食を摂り、13:00に出発。あとは降るだけである。鏡渡橋に14:00着いた。この辺から眺める要害山は、通称「オッパイ山」と呼ばれているらしいが、私には真ん中の杉の巨木が兜のように見えた。


 新井まで行けば、2つの路線バスに乗れるということで、舗装路を歩いて停留所の近くに来た時にバスが丁度発車したところ、呼び掛けて待ってもらい全員乗車できた。運転手さんありがとう。

 今回は緩やかな登りで急登もなく、景色も良く誰でも楽しめるコースだと感じられた。私も腰痛がひどくならずにすんでホットした。


  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№235から転載

【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクト☆第一話が完成しました

『ばくまつ彼氏伝 マンガ化プロジェクト』 より、

いつもご支援賜り誠にありがとうございます。

第一話が完成しましたので、報告させて頂きます。

第一話は見本として公開しております。

 また、一般公開用としてはYoutubeにて見れるようにしていきます。

今後共よろしくお願いいたします。

【facebook】
https://www.facebook.com/bakumatsukareshi.mangapj/


【twitter】
https://twitter.com/bakumatukareshi

【寄稿 エッセイ】   また、延岡へ = 永野 さくら

 昨年(2018年)の秋、別居中の夫から、体調が悪いと連絡があった。
「食欲がなくなり、身体がだるく、微熱が続くので、1週間ほど前から病院に検査入院している。担当医から、どうしても家族と話したいと言われているから来てほしい」という。
 夫とは別居して8年になる。病院は彼の単身赴任先で、夫の実家のある宮崎県延岡市である。その間、娘の結婚式で会った以外、ほとんど連絡をとっていなかった。

 
 夫の女性問題がきっかけで夫婦仲がうまくいかなくなり、別居を始めた時、私は一刻も早く離婚届けを出したかった。
 だが、夫からは「会社の単身赴任寮(延岡)に入るためには家族が必要なので、在職中、籍はそのままにしてほしい」と言われた。私も、夫の扶養家族のままならば、保険料などを支払わなくて済む。お互いの利益のために、籍は抜かないままになっていた。

 戸籍上は妻だが、実生活は無関係に埼玉県で暮らしている。妻として病院に行くのには抵抗があった。私の住む埼玉から延岡へはかなり遠い。

 私たち夫婦の不仲を、夫の両親や親戚たちは、なぜか一方的に私の責任だと思っていた。私たちがもめていると聞いた義母からは、かつて「こうなったのも、すべてあんたが悪い」と、私を誹謗中傷する電話がかかってきたものだ。義母の強い口調に、私はひどく傷ついた。親戚たちまでもが、夫に都合のいい話だけを鵜呑みにして、かなり誤解していたようだ。

 私は「事実はこうです」と反論したかったが、すでに夫とは別れる決心をしていたので、あえてそれを口にしなかった。私を悪者にした夫や義父母を心から憎み、二度と会いたくないと思っていた。
「交通費も出すからどうしても来てほしい」
 という夫の言葉に、これはただ事ではないとの予感がして、迷った末、私は延岡まで行くことにした。

 延岡は、旭化成の工場がいくつもある街だ。中心部にはシンボルの大きな煙突がそびえ立つ。24時間稼働している工場からは、白い煙りがもくもくと立ち上っている。
 もう二度と行くことはないと思っていたこの街に、こんな形で再訪するとは、思ってもみなかった。


 夫から連絡があった約二週間後、昨年の11月の末、私は約20年振りに延岡を訪れた。

 JR延岡駅で汽車を降りるとすぐにタクシーに乗り、夫が入院する医師会病院に向かった。病院で再会した夫は、憐れな病人だった。太り過ぎたと言い、高いお金をかけてダイエットしていたころとは、まるで別人だった。

 夫は私を見ると、小さく手をあげて「すまんね」と言った。
 そんな彼を見て、私はどうしようもない複雑な気持ちになった。過去にはさんざん恨んだりしたが、別居して何年もたつと、そんな気持ちも消えていた。
 私は、夫のあまりのやつれように驚き、急に夫が可哀相になった。
 そうは言っても、この街には、さんざん私の悪口を言っていた義父母や親戚たちがいる。病気になった夫には同情するが、私にもプライドがある、と心の中で我を張った。

 医者と話をする時間になった。担当医からは
「色々調べても原因がわらないので、宮崎県立延岡病院へ転院して調べてほしい」と言われた。
 これはもしかすると、相当深刻な病気かもしれない。

 その日、義父母たちは遠慮していたらしく、病院で顔を合わせることはなく、私は一人で夫を転院させ、いったん埼玉に帰った。
 その後、転院先の病院で、胃カメラや大腸の内視鏡検査やリンパの組織検査などをしたが、いっこうに病名はわからなかった。私はその間、夫からのメールや電話で様子を聞いていた。夫は「相変わらず食欲がなく、どんどん痩せていく」と不安そうに話していた。私の心もやり切れなかった。


 転院して1か月半ほど経ち、年が明けて、やっと病名が「原発不明ガン」だとわかった。これは、ガンがどこから発生したかわからないが、どんどん転移していく恐ろしい病気である。
 私はその知らせを自宅で夫から電話で聞いた。夫はかすれた声でそう話すと「もう疲れた」と電話を切った。冷静さを装っていたが、内心は動揺しているようだった。
 私も心が大きく揺れた。
 夫が命に係わる病気になった今となっては、たとえ長期になっても、看病しに行こうと決めた。それは、愛情というよりも憐みに近い感情だった。義父母との確執も、この際忘れるよう努力しようと思った。

 幸い、私に一番辛くあたっていた義母は数年前から認知症になり、すでに自分の息子が病気だと認識できないという。

 私は、夫が先日生まれた初孫に会いたがっていると聞き、娘と孫を連れて、1月末に再び延岡を訪れた。
 夫は嬉しそうに痩せた手で孫の頭をなでていたが、すでに抱っこする力は残されていなかった。

 その後私はホテルに滞在し、病院を往復する日々が続いた。医師からは、もう抗がん剤を投与しても体力はないので、緩和療法で少しでも苦痛を和らげるしかないと言われた。

 本人も病状は理解しており、自分に万が一のことがあれば、遺産は私と子どもたちとで分け、住んでいた単身寮の後片づけをしてほしいと、かすれた声で私に話した。私も「あとのことは心配しないで」と応えた。正直、どんどん弱っていく夫にいたたまれなく、どんな言葉をかければいいかわからなかった。
 2月になり、夫は急激に衰弱していき、水を飲むことさえ困難になった。医師からは、会いたい人がいたら、会わせておいた方がよいと言われた。
 私は子どもたちに急いで来るよう連絡した。近くに住む親戚たちも集まって来た。皆が涙ながらに別れを悲しむが、本人の意識はだんだん薄れていき、どこまで認識していたかはわからない。

 そして2月10日早朝、ベッドの横に置かれた装置に、それまでは規則正しく山型に刻まれていた呼吸の波形がだんだんと崩れて不規則になった。血圧も下がってきた。そして呼吸の波が徐々にゆるやかになり、ついに平らな一本の線になった。同時に、赤いランプが点滅し、ピーピーという電子音がけたたましく鳴り響いた。

 これが、人の一生の終わりの瞬間なのか。夫は薄目をあけているが、呼吸はしていない。夫の妹たちの嗚咽が聞こえる。

 私は、ベッドの足元にいてその様子を見守った。涙は出なかった。ただ、夫には「ご苦労様でした」と言いたかった。
 痛みなどの苦しみはなかったものの、食べ物が食べられなくなり、やせ細り、だんだんと歩くこともできなくなる夫の様子を見ていただけに、楽になってよかったとさえ思った。

 夫が亡くなってからは、通夜や葬儀の準備で急にあわただしくなった。
 私が「喪主」だったので、棺桶や骨壺から来客に出す料理まで、すべてをすぐに決めなければいけない。悲しみに浸っている暇などない。
 私は数日前から病院に泊まり込んでいたので、ほとんどまともに眠ることができず、時々めまいがしていた。それに、折り合いの悪い親戚たちとの共同作業は、いやな思いをすることもしばしばあった。皆が私を嫌っているようにさえ思えた。

 習慣の異なる土地で、葬儀の作法も違い、戸惑うことも多かった。そんな時は「夫を見送るのは私の義務で、これさえ済めば私の仕事は終わる」と自分に言い聞かせ、無難に乗り切ろうと思った。

 葬儀での喪主の挨拶は、長男である息子が引き受けてくれた。100人を超す弔問客の名簿は、娘婿がすぐに作ってくれた。子どもたちの存在が、私の心の支えとなった。
 通夜、葬儀をなんとか無事に終え、数日中にあわただしく夫の住んでいた寮を引き払った。その後、市役所や入院していた病院を回り、一通りの手続きを終え、私は埼玉の自宅に帰った。夫が亡くなって、一週間たっていた。心身ともに疲れきっていた。

 帰宅して、持ち帰った色々な書類に目を通していると、昨年12月に夫が書いた入院同意書の署名が目に入った。文字が震えてゆがんでいる。このころすでに、かなり身体がきつい状態に陥っていたのだろう。
 60歳という年齢で、まだまだやりたいこともあったのに、きっと無念だっただろうと、このとき初めて私の目がしらが熱くなった。


                                 了

「寄稿・孔雀船93号」(詩誌)  桜印の殺人ナイフ 望月苑巳

赤ちゃんは白紙で生まれてくるから

泣き方が完璧なのだ

母に抱かれながら


喜怒哀楽を

乳首から思い切り吸い込む

見上げれば

へこんだ空に桜印

いつの間にか春になっている

明るい少年が

故郷を歌っている

時々暗くなって

時計回りにひねくれてしまったので

若返りの招待状を破って

貧相な大人になる

ナマ乾きの夢

つまみあげてポケットにしまう

ポケットの中で申し訳なさそうに

骨に擬態して

カラカラと鳴る

悲しい色で

大人になってこの色に染まったのか

手にはアーミーナイフが握られている

かつて赤ん坊だったころの

喜怒哀楽が

音階状にこみあげてくる

標的は

桜印の

自分自身

夕暮れの自分自身

桜印の殺人ナイフ : PDF 縦書きで読めます

                      イラスト:Googleイラスト・フリーより

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

富士山は雲の中だった大蔵高丸(1770m)=大久保多世子

1 登山日 :2018年6月9日(土)晴れ                             

2 参加メンバー : L佐治ひろみ、栃金正一、武部実、中野清子、開田守、金子直美、大久保多世子

3 コース :甲斐大和駅 ~ 湯ノ沢峠登山口 ~ 湯ノ沢峠~大蔵高丸 ~ ハマイバ丸 ~ 米背負峠 ~- 大谷ケ丸 ~ コンドウ丸 ~ 大鹿山分岐 ~ 景徳院 ~ 甲斐大和駅


 8:40 甲斐大和駅に集合する。予約してあったタクシーで約20分、湯ノ沢峠登山口に到着した。中止もあり得る雨予報だった。だが、終日最高のハイキング日和になり、緑を満喫した爽やかな1日になった。


 降車するなり、春ゼミの大合唱と、ウグイスの鳴き声が迎えてくれた。落ち葉が柔らかくなった山道は、足に優しく歩きやすい。

 沢沿いに歩いたりクリンソウを愛でたりして、1時間で到着した避難小屋は、室内も綺麗に整えられていた。
 その小屋からしばらく歩くと、尾根に出た。草原が広がっている。

 可憐なスズランやキンポウゲの花が、目を楽しませてくれた。大蔵高丸は秀麗富士12景で展望は良いが、肝心な富士山は雲のなかに隠れたままである。

 朗らかな健脚2人組に会い、集合写真のシャッターを押してもらった。


 なだらかに起伏した尾根が続き、ゆるい登り下りを繰り返し、11:25にハマイバ丸に到着した。ここで昼食となった。

 山頂の脇に「破魔射場丸」との表示があり、珍しい山名に納得できた。

 山頂から少し下ったところは、露岩が散在した荒地で、破魔射場と呼ばれるそうだ。急な下りや笹やぶ・灌木帯を過ぎて少し登ると、【大きな岩=天下石】がある。

 ここから先は広葉樹林帯が続き、木々の緑が一層美しい。下りきって、米背負峠に着き、正面の坂を登ると、大谷ケ丸に到着。先着の3人組が、「1時間ほど前に、すぐそこにクマが出た。」と教えてくれた。

 若い男性とにらめっこを2回して、離れて行ったと話す。皆、緊張して顔を見合わせる。この山の西側から南アルプスも見えるそうだが、それよりクマ鈴を身に着けたり、話し声を大きくしたり……。幸い、熊に出会うことはなかった。

 滝子山への分岐や滑りやすい急な下りを過ぎると、カラマツ林に変わる。地図には「防火帯に入らない」と注意書きがある通り、やや戸惑った。
 右側に目印のリボンが5~6個ついていて、難なく進むことができた。大鹿山への分岐で、男性3人は山頂まで往復し、女性はそのまま下ることになった。

 急な下りに時間がかかり、30分ほどで合流できた。大鹿山への往復は10分弱だったという。男性陣は皆、健脚揃いだった。

「間もなく景徳院だろう」
 と思われる所。左にコンクリートで固められた山道、右に手すりのある急な細道があり、無標識なので全員で相談して、右に進んだ。だが、2か所も大きな柵で、塞がれていて大変であった。

 二つ目の柵を過ぎてから、左の道が正解だったことが分かった。西日が強く、どっと疲れが出たが、傍らのヒメレンゲの群生が美しかった。

 景徳院で休憩後、県道に出て、4:22のバスで甲斐大和へ向かった。

 全体を通して、何か所か急な下りはあったが、最後まで歩きやすい柔らかな道の連続で疲れが少なかった。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№226から転載

全山錦秋の雨飾山(1,963m) = 佐藤京子 

登山日 : 2018年10月14日~16日

 
参加メンバー : L武部実、SL開田守、中野清子、佐藤京子の計4人


コース: 1日目 東京駅から新幹線で糸魚川へ。駅からジャンボタクシーで雨飾山荘(泊)

      2日目 雨飾山荘 ~ 梶山分岐 ~ 雨飾山 ~ 梶山分岐 ~ 笹平 ~ 荒菅沢 ~ 雨飾山登 山口 ~ 雨飾高原キャンプ場 ~ 小谷温泉 雨飾荘(泊)

3日目 雨飾高原~(バス)~南小谷駅~信濃大町~松本駅~新宿駅


 今回のテーマは、「紅葉と秘湯の山旅」である。東京駅を昼過ぎに、のんびりと出発した。

 雨飾山には、新潟県の糸魚川側から登る今回のコースと、長野県の小谷温泉から登るコースがある。
 糸魚川は、初めての場所である。糸魚川断層の博物館もあるようだが、予約のタクシーで、まっすぐ雨飾山荘へ。
 そこは日本秘湯を守る会の加盟の1軒宿である。自家発電の山小屋で、9時には消灯となる。 今回は、男女別で泊まれた。

 5時の夕食まで、たっぷり時間があるので温泉につかる。食堂は、木造りで明るい。主人がにこやかに見守っており、客に声をかけていた。
 玄関前の露天風呂には、男性陣が暗闇の中ヘッドランプで入る。夜空にはカシオペアがみえる。明日の天気がいいことを願い、7時半には寝床に入る。

 隣の部屋からいびきが聞こえてきたそうだが、私は疲れていたため、ぐっすり眠れて幸せ。


 2日目。8時間は歩くというので、5時に朝食をとる。6時には出発。登るにしたがって、ブナの林が広がり、ナナカマドは赤みを増していく。

 日本海と糸魚川市街も見渡せた。登りは結構きつく、到着が正午頃とだいぶ時間をとられてしまう。

 山頂は、双耳峰である。南方に着いた時は、全方位が見渡せたが、それもつかの間だった。すぐ雲がかかってしまう。

 下りも時間がかかりそうなので、のんびりはできない。残念だが、北方には登らず、山頂直下の分岐で昼食。下山を急ぐ。
 笹平を過ぎると、進行方向が全山が錦秋である。

 梯子を二つ降りただろうか。 荒菅沢で、すこし休憩し先を急ぐ。途中「携帯トイレ使用場所」という看板のある建物があった。


 長野県側の道には、登山口まで、2/11、7/11など、11分割の標識がかけられていて目安になった。ふもと近くの道には、木道がかけてあり、沢沿いに泳ぐ魚も見えた。岩魚のようだ。


 二日目の宿泊先となる雨飾荘についたのは、4時頃だった。予定を超え、10時間の行程になった。
こちらの温泉は、ぬるめ。いつまででも入っていられる。

 夜の献立は、たいそう立派なものだった。清流岩魚の姿造りを、生のわさびを擂っていただく。手打ち蕎麦にもまた擂る。


 翌日は、宿で土産を買ってからバスに乗り込む。乗り換え駅の信濃大町の立ち蕎麦もおいしくいただきスーパーあずさに乗り込んだ。

  リーダーの武部さんほか皆さまには大変お世話になりました。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№230から転載
   

「はやち」は「疾風」を意味する早池峰山(1917m)=武部実

登山日 : 2018年6月30日(土) 晴れ

コース : 盛岡駅バス ~ 小田越 ~ 早池峰山 ~ 小田越 ~ バスで盛岡駅


 大人の休日俱楽部東北4日間15,000円パスを使って、丁度この時期、6月上旬~8月上旬の土日に盛岡駅から早池峰山の登山口まで直通バスが運行されるということで計画した。

 盛岡に前泊し、7:00に出発。2時間弱で、登山口である小田越に着いた。(8:55)。


 登山口で登山者に呼び掛けているのが、携帯トイレの販売である。山頂に3か所の携帯トイレブースがあり、使用した袋を登山口の返却ボックスに入れるというもの。利尻山でも勧めていたが、自然保護ということだけで、定着するのはなかなか難しそうだ。そう思うのは、私だけか。

 歩き始めは樹林帯である。緩やかな登山路を進むと、所々に一斗缶とこん棒がつるされているのが目に入る。クマよけの音だしだ。

 30分弱ほど歩くと、樹林帯を抜け、森林限界になり、見晴らしのいいところに出る。ここが一合目である。蛇紋岩の岩がゴロゴロしているところを登る。
 当日は風が強くバランスをくずさないように慎重に登るが、登山路に張られているロープを掴む登山者もいた。

 すると、下山中の登山ガイド(?)が
 「ロープは緩くて危険ですから、ハイマツを掴んでください。根っこが一本位抜けてもすぐ生えますから」
 と大きな声で怒鳴っていたのが、印象的だった。

 “はやち”とは風が強いこと、ここから早池峰山と名付けられたことがよくわかる。

 一合目あたりから、ミネウスユキソウをぼちぼち見かけてきた。

            【ハヤチネウスユキソウ】

 下山中のの登山者が上のほうに行けば、ハヤチネウスユキソウがたくさん見られるとのことで、少し様子をみる。周りを見渡すと、紫色のミヤマオダマキがいっぱい咲いていた。

 今回の高山植物の主役は、この花に間違いなし。その他にミヤマアズマギク、ミヤマシオガマ等が良く咲いていた。

 しかし、この山で有名な高山植物は何といっても早池峰が頭につく、固有種のハヤチネウスユキソウだ。
 登るにつれて、たくさん咲いていた。
 綿毛が特徴らしいいが、以前に見た礼文ウスユキソウとの違いがよくわからなかった。だが、なんとなく納得できた。

 山頂の直下では、途中の登山路で見かけなかった、イワカガミ、コバイケイソウ、チングルマ等咲いていた。
 剣が峰と山頂との分岐には11:10に着く。ここから山頂は15分で到着した。残念ながら、ガスが出て見晴らしは無かったし、記念の山頂写真は小さな標識しかなくて、少しがっかり。


 今回の東北の旅は、山以外にも10年ぶりの友人に会うこともでき、とても有意義な旅だった。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№228から転載