寄稿・みんなの作品

岩殿山(634m)、目の前は秀麗・富士山、真下は断崖絶壁=渡辺典子

 平成27年12月19日(日)晴、参加者 : L 横溝、針谷、渡辺、佐治(4名)       

 コース : 大月駅 ~ 岩殿城址入口 ~ 岩殿山ふれあい館 ~ 岩殿山 ~ 築坂峠 ~ 鎧岩 ~ 兜岩 ~ 天神山 【昼食】 ~ 稚児落とし ~ 登山口 ~ 浅利公民館前 ~ (バス) ~ 大月駅

 大月駅には9時40分に集合である。新宿8:14発のホリデー快速富士山1号に乗車する。特急券が不要の特急車両に乗れて快適そのもの。大月駅で4人全員が集合した。

 私は今回で、3度目の岩殿山の山行である。このたびも、暖かい穏やかな山行日和で、嬉しい。大月駅から20分程で、岩殿城址入口へ。ここが登山口である。なんと、もう秀麗な富士山が眺められる。

 登山の身支度をしてから、階段や砂利道を登り、岩殿山ふれあい館に着く。大月の市街や富士山を眺め一息入れた。またしても、階段や舗装されたジグザグ道を登り、40分程で、岩殿山山頂へ着く。10:45だった。.(丁度、1時間)。

 山頂では一段と美しい富士山を一望し、かぶと岩分岐まで戻り、狭い山道を下り、築坂峠に着く。11:10だった。それからアップダウンを繰り返し、いよいよスリルある岩場・クサリ場の第1の関門となる、鎧岩へ。
 クサリの張られた大きな岩場を登る。思うように足が上がらない。怖さはないが、足腰の衰えに愕然とする。
 前方で、岩場・クサリ場の訓練グループが大勢訓練中であったが、時間がかかるので、私たちは先に通してもらえた。土曜日で、好天気とあいなり、人出は多い。


 第2の関門の兜岩へ。岩のてすりにすがり、横方向にトラバースしていく。眼下は断崖絶壁。すぐにクサリ場、慎重に登る。腕に力を込め、脚力をカバーする。やっとのことでクリアできた。

 ホットして、周りを一望すれば、山並みが綺麗だ。さらに林の中を歩く。鉄塔が建ち、小さな祠のある天神山に到着した。丁度12:00だった。眼前には大きな富士山を眺められる、風のない暖かな場所で、ランチタイム。幸せをつくづく感じる。

 12:45に出発する、20分程下ると、雄大な大岩壁が見えてくる。稚児落としだ。13:10。大絶壁、何度見てもすごい迫力。ゆっくり慎重に歩きながら、大自然を満喫する。

 ここからは大月駅に向かって、ひたすら林の中を下る。途中には、ロープの張られた岩場の下りもある。一軒の民家が建った所が、登山口だった。
 県道に出て、バス停のある浅利公民館前へとむかう14:00。14:05発のバスに乗り、大月駅には14:15に着いた。

 時間も早く、次の列車までの間、駅構内の食堂で、冷たいビールで乾杯。このたびも気持ち良く楽しい山行ができました。お疲れさまでした。

(総行程4時間30分、歩3時間30分)


           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№198から転載

芥川龍之介の槍ヶ岳登山 = 上村信太郎

『鼻』『羅生門』『或る阿呆の一生』などの小説によって、芥川龍之介の名はもっとも広く知られた作家である。
 晩年の病弱なイメージが強いせいか、青年時代に登山や水泳が得意な活発なスポーツマンだったことは一般にほとんど知られていない。特に登山は赤城山、木曽御嶽山、浅間山、槍ヶ岳などに自ら計画して登っている。

 芥川は明治25年3月、東京に生まれ、府立三中、一高、東京帝大と学び、小説家として生涯に膨大な作品を遺した。
 昭和2年7月、服毒自殺。享年35。晩年の代表作『河童』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判したものとして社会に衝撃をあたえた。このため命日を「河童忌」と呼ぶことは芥川ファンでない人にも知られている。

 小説『河童』に上高地が出てくる。主人公が〈僕は前に槍ヶ岳にも登ってゐました…〉と語っている。これは芥川が満17歳だった府立中学時代に友人たちと行った槍ヶ岳登山の体験を強く意識した描写と言える。

 この山行の紀行は、大正9年7月1日発行の『改造』第二巻第七号に『槍ヶ嶽紀行』として発表した。このほかに、『槍ヶ岳に登った記』と『槍ヶ岳紀行』という二つの未定稿もある。
 このため以前は、芥川の槍ヶ岳登山の年月が、たとえばA社の『芥川龍之介全集』の年譜では〈明治44年夏、槍ヶ岳に登る〉となり、B社の全集年譜では〈大正9年6月槍ヶ岳旅行〉などとなっていた。
 登ったのが1回か2回かもバラつきがあり、頂上まで登ったのか途中までだったのか出版社によっても違っていた。


 このように、書籍によって混乱が生じた理由は三つの槍ヶ岳作品とも、文章には登山した年と登頂したことについて一言も触れていないうえに、作品によって学友たち(実名)との山行であったり、案内人と2人だけの登山のように描写されているからなのだ。
 昭和54年発行の『三代の山―嘉門次小屋100年のあゆみ』のなかに、上條嘉代吉(嘉門次の長男)が明治42年8月に芥川一行を案内したことが載っているが、〈登頂せずどこまで登ったか不明〉という注釈が入っている。案内人側でもよくわかってないのだ。

 日本近代登山の父とされる英国人ウェストンが活躍していた明治期、創立3年目の「日本山岳会」一行(吉田孫四郎ら)が剱岳に登頂。拓いた谷に「長次郎谷」と案内人の名を命名したエピソードはよく知られているが、芥川の登山はこれと同じ年である。

 芥川龍之介、市村友三郎、中原安太郎、中塚癸巳男の4人が槍ヶ岳の頂に立ったのは、晴天の8月12日午前だった。
 このことが判明したのは、同行していた中塚が後に、旧制一高(東大の前身)旅行部縦の会発行の『失いし山仲間』(限定300部非売品)に登頂の事実を書き、また日本山岳会々員に証言していたからである。


 上高地の登山案内人組合では、平成20年に芥川龍之介槍ヶ岳登頂100周年記念として『芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋』を上梓している。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№132から転載

【寄稿・エッセイ】 ふる里を捨てた人 = 鈴木 晃

 2年前の3月10日から、私の家の仏壇には、友人の遺影が置かれている。
 それは今から41年前のロイヤル・メルボルンゴルフクラブで知り合ったビル・イトウ氏への追悼でもある。
 私は戦時中に田舎に疎開していたので、東京の3月10日は体験しなかった。だが、イトウ氏が味わった東京大空襲の悲劇は、私への「戒め」として書き残したいと思っていた。


 知り合った当時のイトウ氏は、オーストラリアのカンタス航空で営業マンとして働いていた。初対面の時に、彼はビルと名乗り、日本人ばなれした英語を話すので、てっきりオーストリア生まれの二世だと思っていた。すると、日本生まれの、アメリカ育ちだった。
 二世ではなかった。


 彼からゴルフに誘われた時、私のボールが右に左に行くのを見ていたイトウ氏が発した一言が、私の癇(しゃく)に障った。
「スズキさん達、駐在員は『ノン気』にゴルフがやれていいですね」
 という皮肉めいた一言だった。
 こちらは下手なりに一生懸命クラブを振り回しているのに、ノン気だと言われてムカついた私は、
「何か言いました?」
 と彼に突かかったこ。それがイトウ氏の経歴を聞くキッカケだった。


 イトウ氏は71年前の昭和20年3月10日、14歳で旧制の都立七中(現隅田川高校)の2年生だった。

 住まいは下町の向島で、東京大空襲の日は、真夜中にたたき起こされた。防空頭巾を被せられて、両親と妹と隅田川に架かる言問橋に向かって逃げた。
 橋の下に避難してやっと焼夷弾から逃げられたと思ったら、橋の下まで炎が吹き込んできたので居たたまれず、すこし上流の桜橋の方に逃げようと土手に上がった。大勢の逃げ惑う人達の群れに巻き込まれ、気が付いた時には親子四人が散り散りになっていた。

 寒い夜明けだったが、火がおさまったので、早く家族を見つけなければ、と言問橋の方に土手を走っていると、父親は焼夷弾の直撃で即死したらしく、その傍らに母親と妹が重なるように焼死体になっているのを見つけた。
 この時の地獄絵図は目に焼き付いてしまい、一人ぽっちになったという孤独感で泣き喚いたことを覚えている。
 家も焼かれ、それからの2年間ぐらいは、上野の地下道をねぐらにして、来る日も来る日も残飯あさりの毎日だった。
 時には、「ガキはとっとと失せろ」と怒鳴られたり、「ドロボーネコはあっちに行け」と追い立てられたりと、世の中がいかに世知辛いかを嫌というほど思い知らされた。二度と思い出したくない悲惨な日々だったと当時の地獄のような有様を語ってくれた。
 私は墨田出身だったが、聴きながら、2歳年下で疎開していてよかったと思った。


 そんなある日、イトウ少年は食べものをタダでくれる教会が湯島にあるというチラシを拾い、その教会に通うようになった。
 アメリカ人牧師と知り合い、彼の紹介でデンバーの篤志家と養子縁組ができ、15歳でアメリカのデンバーに渡り、大学を卒業するまで養父母に優しく面倒を見てもらった。とこれまでの半生を話してくれた。

 恐らく彼が過ごした50年代のデンバーでは、食べる苦労はしなかったが、人種差別的な嫌がらせなどがあり、一人で生きて行く根性(ガッツ)がなければ、アメリカでは生きていけないと自覚したそうだ。
 そんな時に出会った駐在員の人達は、みんな親方日の丸のノン気な人達ばかりだったそうだ。だから発した彼の一言だった。

 彼は大学を卒業して就職する時に、このままアメリカで暮らそうと思った。だが、両親と妹を殺したアメリカはどうしても好きになれなかった。自分を育ててくれたアメリカ人はやさしく恩があると思い、あれこれ悩んだ末に、養父母に英語を活かせるオーストラリアへ移民(アメリカ籍を抜く)として行きたいと相談したところ、
「これからはあなたの人生だから」
 と快くオーストラリアへ送り出してくれた。
 そんなアメリカ人養父母には、いくら感謝してもしきれない思いがあると、長年、心に秘めていた思いを一気に話してくれた。私も聴きながら一緒に泣けてしまった。
 とても辛い話だったので、それ以上のことは聞けなかった。


 10代という思春期に、心に受けた深い傷は、生涯消えないものだと思い知らされたひと時でもあった。


 彼とは同じ下町育ちだったことと、2歳違いの同世代ということで気が合い、海外生活のイロハをいろいろと教えてもらえる心強い味方になってくれた。
 スカイツリーが完成した時に、ふる里の下町もこんなに変わったから、と声を掛けた。だが、イトウ氏は病に倒れており、残念ながら来日はできなかった。
 
 イトウ氏が亡くなったという知らせを聞いて、私はすぐに飛んで行った。だけど、共同墓地にある四角のプレートに合掌することしかできなかった。
 それが私の3月10日のお焼香になっている。

【寄稿・エッセイ】 ひとりご飯 = 森田 多加子

 お昼だ。今日は何にしよう。冷蔵庫を開けてみる。卵が可愛いい顔をして並んでいる。
(うーん、ベーコンがあるから、卵の大好きな夫にベーコンエッグでも作るか)
 汁物がないと機嫌が悪いのでスープを作ることにする。
 これに、昨夜素揚げしておいた茄子に生姜とおかかを載せたもの。お昼はこれだけ決まれば、あとは、常備菜と保存食のいくつかあれば、それでいいだろう。

 それにしても、毎日3食どうして食べなければいけないのだろう。買い物に行く、献立を考える、食事の用意、後片付け。毎日これを3回やっていると、昼間のほとんどの時間が失われる。これを何十年も続けてきた。

 結婚した当時は家族2人、子どもが2人生まれて4人、両親と同居して6人、そして両親が亡くなりまた4人、現在は子どもが独立して振出しの2人に戻った。

 子どもがいる間は、作ったものを「おいしい、おいしい」と食べてくれるので、面倒とは思わなかった。今は夫婦とも齢をとり、食欲はなくなり、嗜好も狭くなった。おまけに作る方も手抜きが多くなっている。
 作ったものが全て「おいしい」とはいかない。夫が仕方なく食べているように見えると、本当に情けなくなる。


 まだ私の子どもが幼児のころ、お隣さんは小学生二人の子持ちだった。昼前になり、立ち話をやめようとした時、彼女が言った。
「子どもたちは給食だし、私は今から一人ご飯よ」
「一人ご飯? それは淋しいわね」 
「えっ、どうして? 一人でのんびりできるのよ。こんな楽しいことはないわよ」
 私は、まだ小さな子ども二人と、お庭で食べたり、お握りを持って、公園に行ったりしていた。その子たちがいなくなって、一人で食事など、考えられなかった。

 今の私は、一日三食二人ご飯なので、時には一人でゆっくり食事がしたいと思う。たまに夫が何かの用事で外出すると、いそいそとお昼の準備をする。準備と言っても、茶碗一杯のごはんに、残り物と常備菜だけである。
 しかし、それだけをお盆に載せて、テレビの前に陣取り、録画している好きな番組を見ながらの昼食は、何よりのご馳走に思える。この何もしないで食べられる、という時間が、たまらなくうれしい。


 夫の親しい友人が訪ねてきたときの話だ。
「その日、外で夕飯食うことになっていたのだが、急に取りやめになったんだ。家に帰ってびっくりしたよ、アイツ、うまそうにステーキを食っていたんだよ。そんな大きなもの、オレは食ったことないよ、というと、だって、今日は二人分の食事代を私ひとりで使えるでしょ、とシャーシャーと言うんだぜ、まいったよ」
 あまり怒っている風でもなく、むしろのろけているような笑顔に魅せられて、大笑いをした。こんな一人ご飯もあるのだ。

 しかし、これがずっと続くとどうだろう。我々夫婦は、もう五十年以上も一緒に暮らしている。やがてどちらかが残され、一人になる。残された者の「一人ご飯」はどんな味だろうか。
 今の一人ご飯の楽しみは、夫婦が元気な時だけの、贅沢な時間なのだ、と改めて考えた。贅沢はたまにで結構。なるべく長く二人ご飯を続けたい。

100年、数100年後を見据えた壮大な計画だった、明治神宮の杜=市田淳子

 お正月の参拝者数は全国一といわれるのが明治神宮です。原宿駅の真横にあり、交通の便も抜群。表参道という若者の街も至近距離にある、この地に神様の杜があります。

 古代の神社には社殿がありませんでした。動植物を神霊としたり、森そのものを神社と考えていたりしたようです。
 神社をモリと読ませ、社(モリ)は杜(モリ)の同義語だったというのも、うなずけることです。


 明治神宮の杜は明治天皇崩御のあと、国民の間で、ご神霊をおまつりしたいとの熱い願いが湧き上がりました。
 1915年(大正4年)から1920年(大正9年)にかけて、当時、畑や田圃、アカマツが生える代々木御料地に、全国からの献木によって明治神宮がつくられました。


 その杜で2016年1月24日に、日本山岳会・自然保護委員会が主催する自然観察会が行われました。樹木に詳しい森林インストラクターが、明治神宮の樹木の見方などを、丁寧に解説してくださいました。

 雑木林だと、冬は木々が落葉して明るくなるのですが、明治神宮は違います。そのうえ、神社によくある杉並木もありません。

 明治神宮の杜づくりを計画したのは、本多静六、本郷高徳をはじめとする当時の林学・農学・造林の第一線の学者たちです。
 敷地脇を機関車が走ったり、西新宿方面には工場があったりという立地でした。将来は大気汚染も予想していたのでしょう。さらに、乾燥した土地だったので、それら条件をも加味しながら、最終的にカシ類、シイ類、クスノキ類などの常緑樹の杜をつくることでした。
 このように百年、数百年後を見据えた壮大な計画だったのです。


 私たちがいつも登る山の自然環境とは違い、自然界では絶対に隣り合っているはずのない木が、明治神宮では、いっしょに元気に生きています。
 つくられた杜とはいえ、それなりの生態系が出来上がっています。そんな杜は、登山を趣味とする私たちのとてもよい勉強の場となっています。

 もともと私は、ピークハントのために登山をする気は全くなく、山に登る途中、その地に生きる樹木や昆虫や鳥獣類に出会えることこそが、登山の一番の愉しみであり目的です。
 このような観察会に参加することは、登山の愉しみが増え、山に対する気持ちを新たにしてくれる大切なことだと思いました。
 自然が存在するには、必ず意味があります。それは長い間の自然界の変化だったり、人間の影響だったりします。この世に意味のないことはなく、ただ私たちには計り知れないだけだと思います。

 百年後を見据えて杜をつくった英知は、今後、国立公園などの自然保護にも受け継がれるべきです。これから先、ずっと日本の山が破壊されることなく、自然を大切にする心を持って登山を愉しむ、こうした文化が続いて行くことを願います。(森林インストラクター)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№197から転載


瀬戸内しまなみ海道サイクリング = 飯田慎之輔  

 2015年7月2日(木)自転車で、「しまなみ海道」を走ってきました。

 しまなみ海道は尾道から四国の今治まで、橋と島で結ばれた道です。約70キロ、一番長い橋は来島大橋で、長さは4.105キロ、高さは80メートルくらいあります。橋は全部で7本あります。

 こんかい私の友人と、北山さんの次男隼地(はやくに)君と、私の3人で走ってきました。隼地君はすにいかあ倶楽部のホームページを作成してくれた人です。

 私の友人とは東京駅の新幹線で、隼地君とは福山駅で11時頃に集合しました。

 1日目は福山から川沿いに18キロぐらい鞆の浦へ向いました。そこは古い家並みの残る小さな潮待ちの港です。自転車だと30分走ると全部です。
 レストランを探してうろうろ。一日10食限定のランチを食べて、3人は元気になり尾道を目指して走りました。

 60㌔くらい走って、4時過ぎにホテルに到着し、シャワーを浴びてビールです。一休みして尾道の街にくり出し、夜ご飯です。

 2日目は8時に出発し、まずは尾道港から向島まで渡船で渡りました。1.5㌔100円です。自転車代が10円です。
 島の道路には、しまなみ海道沿いにブルーのラインが引いてあり、それに沿って走れば今治まで走れます。

 1本目の橋、因島大橋の取り付け道路で、友人の自転車が車輪同士が接触して、落車した。転車は何ともなかったのですが、本人軽い脳震盪を起しました。40分くらい休んで、友人は元気になり、次の島因島へむかう。


 しまなみ海道からはずれた因島水軍城を見学し、次の島生口島へむかう。景色の良い海岸線をはしってサンセットへ。ここでお昼ご飯を食べて大休止となる。
 多々羅大橋を渡り、大三島友人の知り合いの家に寄ってから、大山祗神社。そして、ミュージアム大三島、伊東豊雄建築ミュージアムを覗いて伯方島へ……。

 次の島大島の友浦港が、今日の宿です。3日目の天気が良くないので、今治まで行くことになり、大変です。
 一番大きな橋来島海峡大橋を渡って、今治のサイクルターミナルには夕方5時に着いて、一休みしてから友浦港の民宿へ。7時に着いて、7時半から食事です。120キロも走ったので、全員が疲労困憊ですぐに就寝です。

 3日目は、朝7時に食事、8時には出発です。ところが、友人の自転車がスローパンクしてやり、パンク修理に手間取り、出発が9時過ぎになりました。
 昼頃から雨が降り出す、との予報で、同じ道を一生懸命走って11時半には尾道に到着した。この間が50キロです。
 尾道駅12時45分発の普通列車に乗って福山へ。新幹線待ちで、ビールを飲んで昼飯を取り、2時50分の新幹線に乗って帰宅。梅雨の晴れ間のサイクリング、くたびれましたが、楽しかったです。


         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№190から転載

落葉が黄色・黄緑・オレンジ・赤色・緑の絨毯(じゅうたん)だった、鎌倉アルプス=藪亀徹

平成27年12月5日(土) 晴れ

参加メンバー : L武部実、渡辺典子、野上とみ、松本洋子、中野清子、砂田亮子、籔亀徹、他2名

コース : 北鎌倉駅~明月院~大平山~天園~獅子舞~鶴岡八幡宮~鎌倉駅


 北鎌倉駅に9:40集合した。(円覚寺寄り)。予想通り、きょうは土曜日と紅葉の時季が重なり、かなりの人手であった。
 どうにか、全員が揃い、円覚寺前から10時に出発する。武部さんの友人2名を加え、9名の参加でした。

 鎌倉アルプスは約3時間のハイキングコースである。入山は明月院の手前から入り、民家の脇からコースの入り口になる。

 竹やぶの登り道で、やぶ椿も見えた。
 紅葉はどこにも見ることなく、所どころで富士山が見えたり、スカイツリーが見えたりする場所などがあった。人出は多く、気楽な歩きなので、後ろから来る人は先に行かせた。

 ある程度登ると、後は尾根を歩くコースである。11:35には、鎌倉市最高地点(海抜159.2M)の大平山に到着した。

 山頂らしき場所には、小さな看板があるだけだった。その直ぐ下には広場があり、多くの人が休んでいた。真横には、鎌倉カントリークラブがある。このコース途中にはトイレは無く、この広場を過ぎたところに一箇所だけある。

 12:15には広場を離れ、出発する。10分程で、天園峠を通り過ぎる。さらに10分程で、本日のメインである獅子舞の紅葉の場所に到着した。

 ここは大きい木が多くて、色とりどりで…黄色・黄緑・オレンジ・赤色・緑、落葉が黄色の絨毯(じゅうたん)になっていた。
 太陽と空の青が、いっそう色彩を鮮やかにさせていた。ここを後にして……沢を横に見ながら、下山する。
 民家が見え出すと、永福寺跡の整備がされている場所に出る。ここは源頼朝が建てた大寺院跡である。この後、鎌倉宮に出て鶴岡八幡宮へ。大勢の人の中で、結婚式が執り行われていた。 

 記念撮影をして、いざ鎌倉へ……。鎌倉駅には14:35に着いた。ここまで4時間30分の所要時間だった。
 いちおう解散という事で、男性4人はいざ天狗へ……。ところが、女性も合流して全員で乾杯になりました。17:00前には、気持ち良く電車の中へ。
 こんかいは野上さん、松本さん、砂田さんとは初めての山行でした。

 (鎌倉八幡宮にて)
                 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№197から転載
                           

【寄稿・エッセイ】 一緒に生きた物たち = 森田 多加子

 最近は、いつも頭のどこかで物の整理、というより捨てることを考えている。一番てっとり早いのは、引っ越しをすることだ。夫が現役のころは、転勤のあるたびに家はすっきりした。引っ越す前に捨てる。行ってからもその家に合わないものを捨てる。両方で捨てるので、少なくともその時点で不要なものはなくなった。

 夫のリタイア後は、転居がない落ち着いた生活をしているが、すでに二十年以上同じ家に住んでいるので、荷物は増え続けている。断捨離は大変な作業だ。

 私の母は、長男である弟夫婦と一緒に九州に住んでいたが、割に早くから身辺整理をやっていた。たまに訪れるといつもアルバムを出して、ほしい写真はないかという。子どもたちが行くたびに、それぞれに分け与えた。

 着物は、洗い張りをしてきちんと取ってあった。それらを何かに利用しなさいというが、私は不器用で何もできない。
 古い鋏や裁縫道具、鼈甲(べっこう)の櫛、ちょっと壊れている珊瑚の簪(さんごのかんざし)類、袋ものなども持って帰れという。鋏はすべて研ぎ直して刃の部分は銀色に光っていた。裁ち物鋏くらい大きい握り鋏は、確かに珍しく、どこかの博物館にでも持って行きたいくらい立派なものだが、縫い物をしない私には無用の長物だ。

 しかし、それらの品物にたいする母の思いはよくわかるので、いらないとは言えない。とりあえず家に送る箱に詰める。実家に行くといつもこの箱が数個できてしまう。

 妹に話すと、同じようにもらって帰るが、ほとんどのものは、捨てているという。たしかに、母にとって大切なものでも、子の私たちにはなんの思い出もない。特に食器などは、それが上等の塗り物であっても、なかなか使う気にはなれない。

 そういうことがあったので、断捨離の時期に入った私は、子どもたちに残すものはない、と考えている。どんなに私が一つ一つを大事にしていても、私以外の人には何の思い出もないだろう。自分の好みを押し付けることはできない。

 そんな決心をしているのに、先日、娘に洋食器の一揃いは要らないかと、つい尋ねてしまった。勿論断られた。使い易い食器を揃えているので、余分なものは要らないと言う。

 この食器は、友人たちを招いた折、コース料理もどきを作っていたものだ。お世辞でも「すごーい」「おいしい」と言われると、鼻ぴくぴくでうれしがっていた。セットで五人分揃っている。大事に使っていたが、最近は面倒な料理をしなくなったので、要らなくなった。

 その頃の経済事情から言って、一大決心をしてやっと買ったものなので、このまま処分することはどうしてもできない。
 食器類は、料理を載せられてこそ美しくなると思う。これからは普段使いにして、皿としての生涯を全うさせるしかない。
 母と同じような齢になって、その頃の母の気持ちがわかるようになった。

 周りにあるものは、全て私と一緒に生活してきたものだ。もっと言えば、一緒に生きて来たものだ。しかし、どんなに大切な宝物であっても、それは私だけの宝物であって、私以外の人には要らないものなのだ。
 最後は全部すてられるのだろう。

【寄稿・エッセイ】 忘れられない = 吉田 年男

 入り混じった花のかおりで目がさめた。「レオ」の写真がたくさんの花でうずまっている。白を基調にした花は、書道教室に来ている子供たち、散歩仲間(イヌ友)、ご近所の方などから、いただいたものだ。写真のまえは花でいっぱいになっている。愛犬「レオ」は、16歳の誕生日を待たずに死んだ。

 12月初め急に体調を崩した。下痢をする毎日が続いた。見るみる間に痩せた。5キロあった体重は、片手で持ち上げられあるくらいに軽くなってしまった。

 正月三が日は、往診をたのんで点滴を受けた。いっこうによくならない。点滴をすればするほど状態が悪くなった。点滴をやめてみた。レオの表情が変わった。楽になった感じがした。点滴をやめる前は、水も飲めずにいたが、一人で水飲み場に行って、飲めるようになった。

 人間であれば気分の良し悪しは、顔色をみて状況を察し、話をして気持ちを確か会うことができる。しかし、このようなときでも言葉でのコミュニケーションはできない。それがもどかしい。

 それでも直観的に気持ちは通じるものだ。鼻の湿り具合、身体を触った感触、目の表情、毛の艶などで体調が判断ができた。点滴をしている時よりも点滴をやめてからのほうが、確かに体調がよくなっている。レオの「少し楽になった感じ」がなによりうれしかった。

 あと1か月でレオは誕生日を迎える。体調がこのまま順調に回復してくれることを、妻と一緒に願った。近所の公園をしっかりした足取りで歩いていた散歩中のことや、食事を美味しそうにしている時の情景が思い浮かんだ。

 正月明けの夜、事態は急変した。午前1時を少し回っていた。いままで聞いたことのない鳴き声を発した。悲鳴にも似た声であった。
 妻があわてて毛布にくるんで抱きかかえた。手足が小刻みに痙攣をしている。なにが起きたかまったくわからない。

 泣き止まない。泣いているというより、泣き叫んでいるという感じだ。レオを毛布ごと妻から受け取り、赤子をあやすように揺らしながらレオの背中をさすり続けた。寒かったので、急いでジャケット着込んだ。ジャケットの腕の周りがレオのよだれで濡れた。

 敵に襲われてしまうという警戒心から、野生の動物は弱みをみせないという。レオは、野生ではないかもしれない。それでも大声を出して泣き叫んだ状況は、ただ事ではなかった。
 くるしくて苦しくて耐えきれなかったのであろう。痛みが少し治まったのか、明け方になって眠った。それから小康状態が続いたが、誕生日を前に死んでしまった。耐えきれずに泣いた、あの時のレオの声が忘れられない。 

奥多摩 ロン・ヤス会談の「日の出山荘」 = 松元兵八

期 日 : 2012年4月29日 (日) 晴

メンバー : L松元兵八 上村信太郎 岩淵眞一 西村美智子 松村幸信 

コース : JR武蔵五日市線武蔵増戸駅前 → 網代弁天山(網代弁天洞窟)…武蔵増戸駅前(昼食) 
→ 横沢入里山保全地域…落合バス停 → 日の出山荘 → 武蔵五日市駅前 (歩行 約4時間)

「日の出山荘」掲示のロン・ヤス写真


 10時30分に、武蔵増戸駅前に集合した。
 秋川に架かる網代橋を渡り、貴志嶋神社入口まで1.3kある網代の弁天様といわれるこの神社の奥の院弁天洞窟に入る。

 洞内をヘッドランプで照らしながらいく。財宝・福徳を授ける神 毘沙門天立像(多聞天)は、高さ35センチの大黒天像(伊奈石製)のご尊顔を拝してから、下山する。駅前のベンチで昼食。
 12時10分過ぎに、駅前を出発した。

 北伊奈集落を縫って、西側の広葉樹林の尾根道を20分ほど登りつめると、目ざす横沢入里山保全地域である。ここは野生動植物保護地区に指定されている。


 ルートマップにも載っていない急坂を一気に辷り下りると、下ノ川という谷戸にでる。下ノ川の沢が、横沢入の中央を流れる横沢川に合流する。そこには戦車橋が架かっている。この橋は、横穴に残っていた旧陸軍の大砲などの牽引車の部品を利用したものだという。

 西に進むと、宮田西沢の標識があり、この谷奥には伊奈石の石切り場跡がある。さらに百歩足らず行った右の山腹に入口が急斜面になっている地下壕がある。
 根っこに掴まり、よじ登って壕の中を覗く。戦争末期の昭和20年に旧陸軍によって掘られている壕内に軍需品を保管したという痕跡を辿った。
 壕を掩う軟らかい砂岩が剥がれそうだ。我々はこの遺跡の現状を損なわないように注意しながら、崖を下りた。


 横沢入の拠点ログハウスの斜め前に、横沢川を北側に渡る橋の護岸の石垣に注目した。メンバーの皆が「あっ臼だっ」と声を上げる。
 石垣に茶臼の未成品が、そのまま組み込まれている。

 戦車橋に戻って下ノ川を渡り、横沢入の東側尾根を登る。ロープを伝って急斜面を登ること10分で、中腹となり、一休み。頂上付近からは西の山々の日の出山・御岳山・大岳山等を仰ぎ見る。

 30分位で、保全地域を通り過ぎて、日の出団地の北側のテラスに出る。ここは、伊奈石露頭で、地層が地表に露出している。
 八坂神社の脇をZ字形に下り、落合バス停へ着く。歩くと入館受付に間に合わないので、タクシーを呼んで日の出山荘へ駆けつける。

 15時からは館内見学。1983年、日米首脳会談「ロン・ヤス会談」の舞台となった記念館である。母屋の「青雲堂」中座敷に掲げられた中曽根氏の書「太平洋波静」を見ても当時、いかに日米関係が強固だったかが窺えよう。
 我ら一行は青雲堂を背景に写真撮影する。そして、武蔵五日市駅前で乾杯した。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№53から転載