寄稿・みんなの作品

長続きの訳は 吉田 年男

 いま、私が続けていることの一つにウォーキングがある。少しでも時間が取れそうなときには、なにをさておき、家の周りを気軽に一回りしてくる。ひとまわりといっても2~30分ほどで、距離にして3000歩くらいか? 近所のこの程度の歩きでは、ウォーキングとはいえないかもしれない。

 ほかに、隔月に一回、江戸東京歴史探訪と称して、主に都内の由緒ある神社・仏閣などをめぐるウォーキングの会に、参加させてもらっている。

 2009年5月、杉並区主催の「知的好奇心生活を始めよう」という集まりがあった。キャスター・リポーターの 東海林のり子氏による「好奇心からすべてが始まる」という講演を聞いた。ウォーキングの会は、この集まりが誕生のきっかけになっている。

 その時に用意されていた「応援教室」に、マージャン、江戸・東京を歩く、読み聞かせ入門、パソコン、ダーツ等があった。
 集まりに参加していたのは、60歳~70歳前後のひとたちであった。区としてはこの集まりをきっかけに、各「応援教室」からの自主グループが立ちあがることを期待してのことであったように思う。

 私は、幼少のころから東京の町並みには少なからず興味があった。迷わず応援教室の中にあった「江戸・東京を歩く」を選択した。
「江戸・東京を歩く」グループに集まった人は、男女半々で20名ほどであった。
一週間後に、「江戸・東京を歩く」グループは、徳川記念財団の学芸員から、「篤姫の生きた江戸・東京を歩く ~調べて・歩いてその魅力を再発見~ という資料をもとに、江戸市中の話を聞く機会に恵まれた。そのあと、場所を杉並保健所に移して、五人一組の四班に分かれて、班毎にコースを決めて都内を歩き、歩いたコースの紹介のような発表会を何度か繰り返ししたことをおぼえている。

「江戸・東京を歩く」グループに集まった人は一年後には、十名ほどになった。
残ったのが、今のウォーキングの会のメンバーたちで、年齢もだいたい同じくらいの仲間だ。
とりあえず会の名称を何にするかを話し合った。2008年1月から始まった、NHKの大河ドラマ、天璋院「篤姫」にちなんだ名前がいいのではないか。ということで、「於篤の会」に決まった。於篤の会は、今年で12年目になる。

 会の運営は、あえてキーマンを作らず、幹事は三人一組で、(そのうち一人は女性)で一年を通して輪番制にした。そして、一年後にまた新しい組み合わせで、幹事を決める。
ウォーキング計画の当番になった幹事は、次回歩くコースを話し合って決める。コースが決まったら、昼食はどこでするかなど、予めコースを幹事3人で下見をする。そして、コースの地図を添付した計画書を作って、定例会にて全員に発表する。

 定例会、ウォーキング、定例会、ウォーキングと、歩くのは隔月にして、1年に6回になっている。

 コロナ禍で、ちょうど一年前から、まともなウォーキングは全くできなくなってしまった。今年、四月になって久しぶりに歩くことに決めた。今までより、内容が乏しいが、冊子「すぎなみ景観ある区マップ」和田・堀ノ内編の一部を歩くことにした。
 コロナ禍以前は、昼食はファミレスなどですることが多かったが、天気もよかったので、各自コンビニでおにぎりや弁当を買って、済美山運動場に隣接した芝生で、ひとやすみしながらの昼食になった。それでも久しぶりの気晴らしウォーキングが実現した。

 このコースは、「和田・堀ノ内編」をできるだけ時間短縮して幹事(私を含めて三人の輪番制幹事)が、今年一月の定例会で「第六十八回ウォーキング計画書」として、会のメンバー全員に発表したものであった。

 緊急事態宣言が出ている最中は、外出も儘ならない。計画書は作ったものの、未実施のコースがまだ数件ある。しばらくは新しく計画書は作らず、すでに計画したコースを、歩く距離と時間を短くアレンジをして、歩こうと皆で話し合って決めた。

「於篤の会」が、長続きしているのは、あえてキーマンを置かずに、幹事は輪番制にして、歩く距離や時間はその場に合わせて、あまり堅苦しく考えないで、臨機応変に行動していることかもしれない。

                    イラスト:Googleイラスト・フリーより

つながる・つなげる 井上 清彦

 ジャロジーを少し開けると、北からの涼しい風が入ってくる。坪庭みたいに居間との間に隙間があるからだろう。
 先週、いつもZOOMミーティンで使っている居間から、一坪ほどの書斎にパソコンを移して、初めてZOOMミーティングを行った。昨年、書斎で受けようと、PCを持ち込んだが、ワイファイの受信が不安定で、せっかく机の上や背後を片付けたのに無駄だった。

 
この一月近く、頼みのワイアレスのワイファイの受信が、不安定になった。親機のルーターの向きを変えたりして、うまくゆくこともあるが、椅子から立ち上がり、席を空け戻ってくると、扇マークが消えて受信できなくなっている。我慢の限界に来て精神衛生上も良くない。
 月500円で契約しているニフティに相談し、「中継機」を教えてもらった。早速、自転車で井草八幡宮近くの家電量販店で購入した。親機が古くて、セットを手動でやらねばならず、同じく月額500円で契約しているNTTに教えてもらって、なんとか中継機をセットできた。コンセントに差し込むとランプが2つ点灯し、居間は言うに及ばず、書斎でも安定して受信出来たときには、胸のつかえがとれた気分だった。

 オンラインの雄であるZOOMとの出会いは、昨年、夏から、所属する会のホームページ委員会の縁だ。仲間の大学名誉教授に志願して、彼の懇切丁寧な指導で、ZOOMをやっとマスターした。コロナ感染を避けるため、ホームページ委員会で使うようになった。ここで自信をつけ、昨年秋からは、「元気に百歳」クラブの編集長を務める季刊誌の編集会議にも使うようになった。


 今年に入ってから、自宅近くの「ゆうゆう桃井館」で月1回開催される発足6年目に入った「おとこのおしゃべり会」も導入した。最高齢は90歳の方も居て難航したが、スマホで対応する人もいる。昨年名誉教授に教えて頂いたことへの恩返しで、「ZOOM伝道師」を自認している。

 妻は、私の教え方が、「教えて上げるんだの気持ちが強くて、上から目線よ」と、指摘が入った。たしかにそうだ。その後は気をつけて対応している。

「おしゃべり会」がうまく行ったことを、ゆうゆう桃井館運営側が評価し、同じゆうゆう桃井館の調理室で開催している、今年で12年めに入った「男の台所教室」は、昨年3月から、コロナ感染を避け、調理を行っていない。これを打破するためZOOMを使って活動ができないかとの話が持ちあがった。運営するNPO法人の旧知の女性代表からも私宛に正式依頼があった。この件も、時間はかかったが、なんとかうまくいき、先月は、初めてZOOMで今年度の運営方針を決めた。

 降って湧いたコロナ危機に対応するため、様々な、つながる方法がある。伝統的な電話とパソコンメールに加え、進歩系の「ライン」が登場し、つながりが便利になってきた。私も、所属クラブのスケッチサロンや、大学同期のサークル仲間や家族のグループラインを活用している。

 さらに進んだZOOMだ。所属クラブのリーダー会議やスケッチサロンの講評会もZOOMで行っている。
 コロナでデジタル時代が進化した。「巣ごもり生活」が続く中、人々の「つながりたい」との気持ちは強い。私も微力ながら「繋げる」ことを続けて行きたい。

            イラスト:Googleイラスト・フリーより

記憶の計らい 金田 絢子

 つい先日(令和3年3月)、スペインのアンダルシア地方に旅したときの、大学ノートが見つかった。淡いブルーの表紙に「スペイン記」と書いた覚えがあるのに、すでに表紙はない。最初のページに4・24と日付が記され、その右、欄外に平成元年とある。咄嗟に「平成元年のわけがない。間違いじゃないか」と思った。
 娘にも、
「平成元年と書いてあるけど、ちがうの。もっとずっと後の筈よ」
 とまくしたてた。

 というのも、夫と私は昭和63年に初めての海外旅行をしたが、阪急交通社のツアーだった。とっかかりの旅行社に操をたてて、次もその次も同じ阪急の企画に参加したのだと、私の記憶にある。だから、ジャルパックで行ったアンダルシアが、何で、平成元年であるものか。

 ノートには明らかに私の筆跡で平成元年となっている。そうだったんだと素直に認める前に、記憶を優先させたのだ。ほかの資料をあたったら、私の独り合点であった。

 こうした場面に馴れっこの娘たちは少しも驚かない。終始、何をかいわんやの心境であったろう。とこうするうち、娘が言った。
「ロエベの商品を買ってきて欲しいって、女性社員に頼まれたってお父さん言ってたわね」
 初耳である。ロエベにまるで興味のない私の耳を、夫の言葉は素通りしたものと見える。
 ここで私は、
「ロエベにはいかなかったわ、バカラには行ったけど」
 と愚にも付かぬ発言までしたのである。

 もちろんガラス製品を扱うバカラに行ったのは、全く別の旅行で、コート姿の私が写っている写真をおもいだしたからにすぎない。
 バカ丸出しの発言をくりかえしているうち、ようやっとわたしも記憶の一端をとり戻した。娘たちの土産にロエベのバッグを買ったっけ。色も形も目に浮かんできた。私がロエベに行かなかったなんて、まさに嘘っぱちだ。


 さて、私の記憶にもノートの記述にも、はっきりと残っているのは、グラナダのフラメンコである。
「洞窟のフラメンコを見に、デコボコの夜道をゆく。ライトアップされたアルハンブラ(アラビア語で『赤い王城』の意)宮殿が美しく暗闇に浮かびあがる」
洞窟の情景は、今も瞼に鮮明だ。
 ノートには
「まだ多分、とおくらいのかわいい顔立の髪の黒い女の子が、おばあさんのとなりの椅子から、私と目が合うとにっこり笑ってくれた」
 と書かれている。だが、むしろ、汚れた身なりの、そのおばさんが、膝の上の楽器を鳴らしながら、アメリカ人のカップルをじろじろ眺めまわしていた姿の方が、はっきり記憶に残っている。

 スペインに入国するとから
「ジプシーには気をつけろ。金持ちの日本人を集団でとり囲み、盗みを働くから」
 と忠告された。

 流浪の民ジプシーも、現在ではその多くが定住しているそうだが、ナチスによる絶滅政策など、各地で厳しい迫害を受けた歴史を持つ。未だに爪はじきされているらしい。彼らが、かっぱらいもどきに走るのは、無理からぬ行いではないだろうか。ノートにはないが私はひとり、複雑な気持ちに駆られた。

 フラメンコを見に、デコボコ道を歩いたのも、ジプシーのおばさんが薄汚かったのも、演出だったろうか。
 セビリアで教会の「涙のマリア」の像に感動しての帰りみち、夫はころんだ。すると、歩きながらソフトクリームを食べていた青年が、まるで舞台のワンシーンのように救いの手を差しのべた。

 手に触れそうに蘇るアンダルシア!

 30年の月日をはねのけて、わたしに近づいたアンダルシア。ひょっとしてそれは「記憶」の粋な計らいだったかもしれない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

雨雨雨と、雨て読み? 廣川 登志男

 五月も中旬となった。先日、沖縄が梅雨入りしたと天気予報が告げていた。今年も早や梅雨の季節だ。この時期になると思い出す句がある。句と言っても、これは古川柳だと記されていた。漢文好きが高じて漢字に興味を持ち始めた頃に、強烈に印象に残ったものだ。『漢字遊び』(山本雅弘著)にあった。

「同じ字を 雨雨雨と 雨て読み」(作者不明)


 どのように読むかと、問いかけとなっていた。ずいぶんと悩んだが、それらしい答えが見つからない。古川柳だから、十七文字の読みがベースなのだろう。
 読み方は、「おなじじを あめ さめ だれ と ぐれてよみ」と書かれていた。

【雨】の字は、読み方が結構多い。「あめ」は当たり前の読み方で、「さめ」は【氷雨】、「だれ」は【五月雨】で、「ぐれ」は【時雨】だという。なるほどと納得した。特に、最後の「ぐれ」は語調が良い。それに、「ぐれ」は「ぐれる」の掛詞で、面白おかしく読みましたと解釈される。

 これは、日本語だからこその表現だし、トンチでもある。

 同じ字でも全く異なる意味を持つ熟語がある。【良い加減】には、二つの意味が辞書に載っている。読み方は、「よいかげん」でも「いいかげん」でもよいが、辞書には、両方とも同じ意味のことが記されている。
 一つは、お風呂などの温度が適切な状態で、入るとちょうど良いという意味だ。文字を反対にすればよくわかるが、「加減が良い」で、日本語大辞典では、①ほどほどであるさま・なまぬるいこと、とある。

 もう一つの意味は、②でたらめ・おざなり、とある。「いい加減な男だ」といった使い方だ。

 イントネーションの違いでわかりそうに思える。
 前者の意味では、「かげん」に力点を置いているようだし、後者の意味では、全体的に平坦なトーンとなるような気がする。万事においてこのような違いがあるわけでも無いのが難しい。

 漢字の熟語には、よく考えないと思いもかけない意味を表しているものもある。例えば、【親切】などは、外国人には理解不能な字のようだ。
 八年ほど前になるが、「外国人による日本語弁論大会」で、ネパールの専門学校生が「日本語のおもしろさ」と題して「親切」に言及していた。「おや」を「きる」と書いて、『情が厚く、丁寧なこと・さま』を意味するなんて理解できない、と。

 これなどは、日本人にとっては早くから覚える熟語だが、外国人にはどうしてそのような字を充てるのか理解できないだろう。
 個々の漢字の意味を調べると、「新字源」では次の説明になっている。

【親】①みずから。②親しむ、親しい。③みうち、みより。④おや(父母)。

【切】かなりの多義語であるから、簡潔にまとめられたものを引用すると、

(せつ)切る。こすり合わせる。ぴったりする。さし迫る。身に迫って感じる。しきりに。・・・
(さい)すべて。

【親切】は、「身に迫って親身に世話する」という、我々が普段から無意識に理解しているとおりの「情が厚く丁寧なこと・さま」の意味になる。
 ここで思うのは、単純にそれぞれの漢字から意味を推察するにしても、それぞれに、思いも寄らない意味が含まれていることに注意しなければならないことだ。

 特に【切】は「切る」とは全く違った意味をもっていて、こういう言葉・漢字の勉強が大事なのだろう。
 雑誌「武道」の本年一月号に「日本人の心根を考える」と題して、東京大学名誉教授・竹内整一氏が、「切なさ」について寄稿していた。
「切なさ」だけで、図表も入れて六頁四千文字にもなる説明が展開されている。確かに難しい内容だったが、興味あるものだった。その最後に、「切なさ」とは、『ある種の「耐えがたさ」であり行き場のなさである』とあった。序文だけ簡単に紹介する。

『幼い子どもたちは、「せつない」という言葉を使わない。「かなしい」「さびしい」は子どもたちにわかっても、「せつない」は、大人にならなければわからない、ある独特なニュアンスがあるからだ。また、これに該当する欧米語をもたない。それは、漢字「切」から発した独自な日本語だからである』。

 色々と書いてきたが、漢字には、その成り立ちからして意味があり、それを理解することは非常に大事だと思う。
 文字を書く、すなわち文章を書くにあたって、作家の人達は、行間の空気にふさわしい最適な文字を選択することで、自分の「思い」を読み手に深く伝えようと努力するのだろう。

 これまで私は、理学書や新聞・雑誌などを中心に読んでいたが、これからは、小説や詩集などにも目を通していきたいと思う。作家が、思いを込めて選び抜き充ててきた、興趣を覚える言葉・漢字を調べ、日本語のおもしろさをこれまで以上に勉強しようと思う。時間はかかるだろうが。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

清い水槽は誰のため   青山 貴文

 吹き抜けの玄関を入った左側に、大人の背丈の半分くらいの高さの下駄箱がある、その上に水槽(巾60×奥40×深さ30センチ)を置いて、ほぼ5年になる。この水槽の水は、フィルターを通して循環し、かつポンプで空気を水中に補給している。だから、常に酸素の豊富な水流を水槽の中に作っている。


 これまで、この水槽の清掃は、毎年数回行っていたが、だんだん億劫になってきた。ここ数年は年一回しか洗浄や水の入れ替えをしていない。

 5年前、当時小学4年生の孫が、近郊の別府沼の小川から1センチくらいの小魚6匹を捕まえて、この水槽に入れた。
 そのうち4匹は、1年経って子供の拳くらいの大きさに育ち、髭もある。鯉であったら、この水槽は小さすぎる。妻と孫たちと一緒に元の小川に行って、放流してやった。残っているのは2匹だけで、大きさ7センチくらいだ。魚の種類はどうもタナゴらしい。


 数日前から、妻と顔を合わせると、
「青苔が水槽に付着して中が見えないわ。そろそろ清掃しなくてはね」と言う。
「我家の水槽は、水が循環しているから魚は平気だよ」
「清掃しないなら水槽を片付けるから、魚を別府沼の小川に戻してきてよ」
「今ごろ戻したら、自然対応力がないから、すぐ死んでしまうよ」
 と言って、水槽の洗浄を伸し伸しにしていた。
 
 事実、水槽のガラス全面に苔が付着しているが、水流のお陰で水質は綺麗で無臭だ。しかし、玄関に苔むした水槽が置いてあると、はなはだ格好がわるい。特に、来客があると見栄えが悪く、妻はそれが嫌なようだ。

 水温むころになった4月11日、天気予報によると翌日から天気が下り坂になるらしい。水槽の洗浄は、晴天の今日こそやるべきだと重い腰をあげた。 
 3年日記を見ると、水槽の洗浄は、去年5月12日、一昨年4月7日に行っていて決して遅くはない。

 私は昼食後、掃除道具として、水槽の水を吸い上げるサイクロン、バケツ2個、ブラシ類や網などを玄関に揃える。まず、ホース付きのサイクロン全体を水槽に沈めて、出口側のホースをバケツに入れる。
 だが、うまく水が出てこない。一年前は難なく出来たのに、どうも巧くできない。いろいろ試して、やっと水を上手に吸い上げられるようになる。私もまだ捨てたものではない。

下駄箱より低い踏み台に載せたバケツに水槽の水を貯める。バケツの7分目くらいに水が入ると、空のバケツに置き換える。交互にバケツを替えながら、水槽の中の水を殆ど放出する。二匹のタナゴを網で掬いだし、バケツに移す。魚たちは、毎年のことで覚えているのか、バケツの中では静かにしている。

 水がなくなり軽くなったとはいえ、水槽の底に砂粒が入っているので、一人では水槽を上げ下ろしができない。妻と声を合わせ、水槽の両端を両手で持って、下駄箱から玄関の外の三和土(たたき)に降ろす。去年は、確か、自分一人で動かしたはずだ。傘寿を過ぎてから、急に用心深くなった。

 私は水槽のガラスや砂粒を、妻は循環器の部品やパイプあるいはフィルターなどの洗浄をおこなう。私が中腰になって、水槽のガラスに付着したコケをブラシで落とす。
 なかなか落ちない。
 何度も丹念にブラシをかける。また、水槽の砂粒の水を何度も入れ替えて砂粒同志を擦りながら洗浄する。腰が痛くなり、何度も立ち上がって、腰を伸ばす。

 十数年前から、中腰の仕事をすると直ぐ足腰が痛くなる。妻を見ると、水道栓の近くで、彼女専用の折り畳み台に腰かけて、一心にパイプなどの苔を除去している。彼女は、なかなの合理主義者だ。

 洗浄後、水槽を下駄箱の上に設置し、水の循環装置を取り付ける。ホースで水道水を水槽に入れる。水槽の中で、2匹のタナゴが、よりそって泳いでいる。苔むしていたころは、2匹は別々にわかれて物陰に隠れてじっとしていた。

 玄関の水槽回りの空気がよどんでいて暗かったが、洗浄後は、透き通った水槽の回りが明るい清潔な雰囲気に様変わりした。
 清掃はやり出せば、3時間弱で滞りなく終わった。終わってしまえば、腰の痛さも心地よく、何か新しい力が湧いてきた。
 自分の心の内にはいつももやもやとした闇が漂っていた。清掃が終わったとたん、その闇がすっと消えて心身ともにすっきりした。

 水槽の洗浄は、タナゴのため、いや来客のためと思っていた。ここまで言うのは妥当性を欠くかもしれないが、妻のため、いや自分のためであったのか。

 今朝も、透き通った水槽に二匹のタナゴがゆったりと泳いでいる。

              イラスト:Googleイラスト・フリーより

小京都ミステリー ~大崎上島への想い~  黒木せいこ

 私は、2時間ドラマ、中でもミステリーが大好きだ。なぜなら、1話(2時間)ですべてが完結するからだ。どんな難解な事件でも、お気に入りの主人公たちが、困難を乗り越えながら、さっそうと事件を解決する。旅のシリーズならば、各地の観光地にも必ず訪れる。名所での謎解きは、売りになっている。

 そんなわけで「西村京太郎トラベルミステリー」や内田康夫の「浅見光彦シリーズ」など、私にはいくつかの好きなシリーズがある。

 その中のひとつに山村美紗の「小京都ミステリー」がある。これは、片平なぎさ演ずるフリーライターの柏木尚子(しょうこ)が、相棒のカメラマン山本克也(船越英一郎)とともに、取材のため日本各地にある「小京都」と呼ばれる場所を訪れ、そこで起こる難事件を解決していくドラマである。


 20年ほど前の作品だが、人気シリーズなので、CS放送で継続して再放送している。その日も私は、あらかじめ録画しておいた「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」を何気なく見始めた。今回は広島の話らしい。
 小京都とは、古い街並みや風情が京都に似ている街である。現在は、日本全国で40ほどの市町が小京都と呼ばれているという。

 今回の舞台、竹原市は広島県の南部にあり、室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。今は「安芸の小京都」と呼ばれており、街並地区が「都市景観100選」に選定されている。

 ドラマでは竹原市で、尚子と克也が、全国的に有名な俳句の先生が主催する「小京都吟行」が行われると聞き、取材に出かける。街を歩きながら俳句を作る吟行は、この竹原の街にぴったりと言えるだろう。

 そこで二人は、俳句の天才少女の川口真木という女子高生と知り合う。知り合った途端、まきの父親が今度の「小京都吟行」に、娘のまきを参加させるかどうかで、俳句協会の役員ともめている現場を目撃する。
 それには、どうやらまきの交際相手の昭一(しょういち)の父親が関係しているらしいので、父親の住む大崎上島へ行ってみることになった。


「えっ、大崎上島?」
 針仕事をしながら何気なくテレビを観ていた私は、思わず顔を上げた。
 大崎上島は、私のエッセイの師である穂高健一先生のふるさとである。と同時に、私の好きな先生の著『神(かみの)峰山(みねやま)』の舞台でもある。

 この本は、太平洋戦争後の庶民の悲惨な姿を描いた五つの中編小説で構成されている。先生御自身の記憶も織り交ぜ、しっかりとした昭和史の証言が、叙情的な文章で描かれている本である。

 なかでも「ちょろ押しの源さん」を読んだ時は、涙がこぼれた。中年男の源さんは、船員らにからだを売りに行く女郎が乗る「おちょろ船」の船頭である。
 
 女郎たちの悲惨な生活が、源さんによって静かに語られていく。亡くなった女郎たちの霊を弔う石仏を、神峰山にかつぎ上げる源さんはどんな想いだっただろう。本を読んだ時から大崎上島には興味があった。


 そんな時、偶然にもドラマに登場するとわかり、私は身を乗り出してテレビ画面にくぎ付けになった。


 大崎上島は、竹原港からフェリーで30分ほど、人口約8,000人の瀬戸内海に浮かぶ島である。造船業や、温暖な気候を利用した柑橘類の栽培が盛んだという。


 ドラマでは、こんなのどかな島の果樹園で、俳句の天才少女・真木の恋人の父親がナイフで殺害されるという事件が起こる。第一発見者はライターの尚子(しょうこ)とカメラマンの克也である。

 そして、その時島に来ていた、真木の父親が犯人として逮捕される。以前から、真木と昭一のことで、もめ事があったとの情報があったからだ。まきの父親は、警察の取り調べで、なんと「自分が殺した」と自供してしまう。謎は深まり、ドラマは大きく動いていく。

 あまりのショックに、高校生の真木は「小京都吟行」には出場しないと言い始める。十八年前に行われた俳句会での事件や、真木の出生の秘密など複雑に絡み合った謎を、尚子がさまざまな推理を働かせ、次第に明らかにしていく。


 だが、私としては、こんな平和な島が殺人事件の舞台となってしまったことが、とても残念だった。それも、果樹園で刃物で刺されて亡くなるとは、何ともむごい話である。


 尚子の活躍で、事件は、俳句協会の役員が、以前の俳句会での不正を隠すために行った犯罪だったとわかり、真木の父親は釈放された。彼は、真木の実の父親でもある俳句の師匠が犯人ではないかと思い込み、嘘の自白をしていたのだった。

 こうして真木の家族に再び平穏が戻り、まきはまた俳句の道をまい進する決意をした。
 

 同じ土地が舞台でも『神峰山』で描かれたのは、女郎たちの悲惨な出来事だった。
 時代の流れの中で、若い女性が生きて行くための必死な生活から生まれた悲劇である。一方、現代のドラマでは、人間の欲や恨み、妬みなどの薄汚れた感情が動機となった犯罪から生まれたものである。悲劇といっても、ずいぶん質が違う。時が流れ、戦争もなく平和な時代でも様々な形で悲劇は起こるものだ。
 
 今回、ドラマでは島の情景を見ることができたが、私は、いつか『神峰山』の本を携えて、実際に自分の目で大崎上島の地を踏み、ちょろ押しの源さんの足跡をたどりながら、神峰山に登ってみたいと思っている。

                       了

【関連情報】

・ 黒木せいこ さん
   熊本市出身、趣味はパッチワーク、エッセイ歴は約10年。

・アサヒカルチャ―センター 千葉教室 フォトエッセイ提出作品 

・ ストーリー写真:日本テレビ系「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」より

   竹原市(ウィキペディアより)         

       

【孔雀船97号 詩】 「眠れぬ夜の百歌仙夢物語 八十三夜」= 望月苑巳

 うっかりマグロの女房どのに「アイロンで顔のシワをとれば」と言ったら、
「あなたの足のニオイを先に取りなさいよ」と言い返された。
 天に召されたばあちゃんもさぞかし笑い転げているだろう。笑い過ぎて落ちてこないといいけどな。
 痒いのでふと腕を見たら真ん中に赤い切り取り線がある。
「それは蕁麻疹でしょ。バカな事言わないで」
 またばあちゃんに笑われるかな。
相変わらず焼肉定食、失礼、弱肉強食の我が家である。楽しいな。

 朝日新聞に掲載されているピーター・マクミランの詩歌翻遊「星の林に」は目からうろこ、なるほどと感心させてくれることが書いてある。日本人が見落としてしまう事をちゃんと発見してくれているからだ。例えば、

 梅の花誰が袖触れし匂ひぞと春や昔の月に問はばや
                (新古今和歌集、春上、源通具)

 この歌について「もののあわれ、儚さなどは日本の美学としてよく言われるが、連想についてはあまり言及されないような気がする。しかし私は、連想が日本の美学の基礎にあると思う。今回の歌はまさにごちそうのような作品だ」と書いている。

                     【つづく】

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【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

         

【孔雀船97号 詩】 ビスケット謀反す = 望月苑巳

ふわっ、
と、ひと吹き
素肌を駆け巡る
春の風はひとり旅
おちこちに孤独が降り積もっている
花びらのように
空には気難しい
オゾンの穴
取り返しのつかない人間の業
ぼくの武蔵野夫人は天を仰いで
ビスケットを一枚
カリリと噛んだ
仲直りした夫婦が垣根越しに
手をつないで通り過ぎる
永遠とは瞬間のことなのだと
悟る
もうすぐ穀雨ね、と
えくぼを作る
「奥さん、お届け物です」
玄関で配達人の明るい聲
春の風を払いのけ
素肌を脱ぎ捨てて
夫人が出てゆく
春の風は嫉妬して
テーブルの上のビスケットを吹きとばす
謀反は起きた
「あらあら大変」
夫人は掃除機と格闘する
慌てて地球が傾ぐ
時間が永遠を噛み砕く
春のひととき
ふわっ、と。

縦書き  ビスケット謀反す

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
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【孔雀船97号 詩】 軍艦島の春 =  淺山泰美

わだつみの深い青のただなかに
睡る島がある
かつて 遠くから
人々が集い ともに暮し
栄えた 島
人呼んで
「軍艦島」

すべての住民が退去して
四十年余り
樹木のない島だったというが 今
朽ち果てた鉄筋コンクリートの壁と険しい崖の間に
人知れず
一本の桜の木が満開の刻を迎えている
幻影のようなこの風景を
いったい誰が見ているというのだろう

かつて
この島の住民たちは 春
舟をしたて
よその島に花見に出かけたという
何組もの家族の
若い父親と母親と子供たち
さぞかし賑やかな花見船であったことだろう
今はとおい昔のこと

何度ものコンクリート住居の屋上で
住民は草花を育てていた
そこにはどんな花が咲いていたのだろう
絶海の孤島の陽を浴びて

島で唯一の映画館の名は「昭和館」
それは今 かろうじて建物の外側だけを残し
遠い西陽を浴びている

小学校の名は「端島(はしま)小学校」
そこで学んでいた子の影が揺れる
残された住居の壁に
見おぼえのあるシールが貼られていた
かつて
私のセルロイドの文具に貼られていたものと
同じ時代のものだ
子供たちは 皆どこへ行ったのだろう
今でも 夢に
この島での記憶が
潮風のように吹きこむことはあるのだろうか

彼らは知っているだろうか
誰もいないあの島で
一本の桜の木が
来年も また次の年の春も
花を咲かせつづけることを


縦書き 軍艦島の春


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船97号 詩】   この単純さで = 坂多瑩子

「カタチをかかえていくしかないんだよ
私たち にんげんって」
なんという詩的なことばと
耳を傾けていたら
「昨日さ あちこがね」


あちこ と聞こえ
ちがうかな
なんかぐじぐじしながら
空白の輪郭が
あいまいになり
彼らの話は
とつぜん小声になり
よくある愚痴が続いている
よくあると思ったことに
ちがう
なにかが違うはずだ
ときれいにまとめようとすると
あちゃこ
花菱アチャコ あちゃこが出てきて
にぎにぎしい風が吹き
こみあげてくる愉快さに
バスの窓をたたく
バスが走っている
その正当性に笑いをこらえる
どうしてかね
にんげんらしい
そう聞こえたかどうか
にんげんたちはちゃんと歩道の上をあるき
あたしもあとを追う この単純さで
夕飯の支度にとりかかり
家族で
豆ご飯をたべる


縦書き この単純さで


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
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