寄稿・みんなの作品

熊本・被災地で、母と娘の二人展 = 黒木 成子

 母の米寿の記念に、二人の展示会を思いついたのは、一年も前のことだった。展示会の会場に決めた熊本伝統工芸館は、翌年一年分の施設利用の申し込みを4月に行う。

 開催日は母と相談し、季節のいい5月に決めた。

 これが、後になってとても大事な決断になるとは、その時は夢にも思わなかった。

 母は、65歳で水墨画を始めた。昔から絵が好きだったわけではない。私は幼い頃から、母が絵を描いたり、美術館に行ったりする姿など見たことがない。
 子育てが一段落し、親の介護もなくなり、時間に余裕が出てきたので、母は気まぐれにカルチャーセンターに習いに行ったそうだ。
 始めてみると楽しくなり、どんどん大きい作品を描くようになった。

 母は自由な性格で、決まり事に縛られるのは好きではない。そんな母をカルチャーの先生は優しく大らかに指導してくれたらしく、のびのびとした絵を描くようになった。そして、10年もすると、地元のアマチュア展で入選する力量にまで達した。

 20年以上も描き続けた作品はずいぶんたまったし、米寿の記念に個展をしようと持ち掛けた。
 しかし、一人ではとても無理だと母は腰を上げなかった。そこで、私と一緒の二人展ならどうかと提案したら、「それならいいよ」と承知してくれた。
 私も長年パッチワークをやっているので、たくさんの作品がある。
 水墨画とパッチワークという異色の組み合わせだが、母と娘で開催することに意義があると思った。

 会場(熊本伝統工芸館・写真:右)を下見して、広さを確認し、母のどの絵を出品するかを決めていった。額がない物は額装を依頼しなくてはいけない。
 私はふだん千葉に住んでいるので、たまに帰省した時に打合せするしかなく、一年の準備期間があるといっても、展示会の日はあっと言う間に近づいてきた。

 展示会を半年後に控えた昨年12月、母が転んで右肩を骨折した。高齢で骨がもろくなっているので、完治には3か月ほどかかると言われた。

 それでも、「5月の展示会には間に合うから」と母はリハビリに励み、3月初めには退院した。まだ右手は完全に治ってはいないが、以前のような生活ができる。展示会の時は、母は何もしなくても、ただ会場にいてくれればいい。

 ところが、3月末に母が脳梗塞を起こし、再び入院したのだ。幸い、意識ははっきりしているし、特に後遺症もない。順調に回復すれば、車椅子でも会場に来られると、私はまだ望みを捨ててはいなかった。

 そんな4月14日、あの熊本地震が起こった。入院中の母は、医者や看護師さんたちがそばにいてくれたので、さして恐怖は感じなかったようだ。

 しかし、4月末に、母は二度目の脳梗塞を起こした。兄から連絡を受けて、私はあわてて熊本に帰った。
 母は今回、右目があまり見えなくなり、右手も少し不自由になった。私のかすかな望みを打ち砕くかのように、最近の記憶がなくなり、入院した頃のことをすっかり忘れてしまっていた。
 朝食を食べたかどうかも思い出せない。時々つじつまの合わない、おかしな事まで言い出した。
このまま何もわからなくなってしまうのでは、と不安になった。片や、以前の記憶はしっかりしていて、展示会のこともちゃんと覚えていた。

 ただ、もう一人で起き上がることはできず、長く座っているのも苦痛な様子だった。

 熊本では、まだ余震も続いていて危険な状態だ。母も会場に来ることは出来ない。こんな状態で展示会をしてもいいものかと迷った。

 会場の伝統工芸館はあまり被害を受けなかったが、他の催し物はほとんどキャンセルされていた。
 母との展示会は、今やらなければあと1年後にできる見通しなどない。母が展示会のことを理解できるうちにやった方がいいと思った。

 最終的にやろうと決めたのは、展示会開催予定日の2週間程前だった。

 それから、母の知り合いや私の友人たちにも連絡した。皆、地震や母の入院で、展示会は中止だと思い込んでいたようだ。
 母の水墨画の教室の人からは「今回の展示会は、開催できずに残念でした。どうかお体お大事にしてください」という葉書きまで届き、あわてて電話番号を調べて、予定通り開催しますと伝えた。

 母の作品の展示は、額装を頼んだ業者に依頼してあった。電話をしてみると、幸い店の被害は少なかったので、大丈夫だった。私の作品は、搬入日に直接会場に送る予定である。しかし、いつも頼んでいる業者は、現在熊本に関しては、期日指定配達はできないと言われた。

 作品を会場に前もって送り、保管してもらうのは無理だ。別の業者に問い合わせたら、幸いにも熊本でも日にち指定ができるというので、そこに依頼した。


 こうして地震の影響をかなり受けたが、何とか予定通り5月17日に無事に展示会を始めることができた。熊本地震の発生から約一か月後のことである。

 展示会には、思いがけずたくさんの人たちが来てくれた。連絡をした知り合いだけでなく、新聞広告を見てとか、伝統工芸館に来て、ポスターを見て立ち寄ってくれた人もいた。
 会場の人たちは、高齢の母が描いた力強い作品に、驚いていた。


             「かに」(130㎝×110㎝)    

「地震で気が沈んでいたけれど、元気をもらいました」
「年をとってからでも、何かをはじめることができるんですね。私もこれからでも何かやってみようかしら・・・」
 そんな声をたくさん聞くことができた。多くが地震で被害を受け、生活が変わってしまった人たちだ。こんな大変な時に展示会に足を運んでくれたことが、実に嬉しかった。被災者の気持ちが少しでも明るくなれば、と願うばかりだった。

 私の学生時代の同級生もたくさん駆けつけてくれた。さながら小さな同窓会のように、近況を語り合った。

 毎日、展示会を終えると、夕方には母の病院へ行き、今日は誰が見に来てくれて、こんなことがあったと報告した。母は、「それはよかった」と微笑んでいた。
 少しずつ母の記憶が薄くなる中で、この展示会だけはしっかり覚えていてほしいと思った。


            友人宅のリビングに飾られた母の絵「明けゆく我が街」

 5日間の展示会が無事終了し、母の絵は従姉や知人の元へ何枚か引き取られた。今入院している病院にも一枚飾ってもらえた。
 母の病状はなかなか回復しないが、母の絵が、こうして皆の心に残っていくことが何よりの喜びである。
                                       
                                             「了」   


【関連情報】

 作者の黒木成子さんは、朝日カルチャー・千葉の『写真エッセイ教室』の受講生です。

ふるさと・熊本が復興する日まで = 黒木 成子

 私が熊本空港を飛び立った約5時間後、2016年4月14日21時26分、熊本地震の前震と呼ばれる震度7の地震が起こった。

 夜には、千葉の自宅に戻り、テレビの被害状況を見て言葉を失った。

 すぐに熊本にいる兄に電話をしたが、通じない。何度かかけるうちに、やっと連絡が取れた。
兄は、自宅から車で40分ほど離れた実家のマンションにおり、
「食器棚から皿などが落ちてきて散乱しているが、何とか大丈夫」
 と気の安まる言葉をむけてきた。
 母は入院していたので、実家にはいなかった。


 しかし、ほっとしたのもつかの間、その28時間後の16日午前1時25分、のちに本震と呼ばれる、さらに大きな地震が襲って来た。
 兄と一人娘の姪は、その時も実家のマンションにいた。揺れで飛び起きた兄が急いで寝室からリビングに行ってみると、片づけたはずの食器が再び激しく落ちてきたと話す。

 リビングのソファーでうたた寝をしていた姪は、ソファーから転がり落ち、前にあったローテーブルに顔を突っ込んでしまった。それがかえって幸いし、近くの棚から落ちてきた花瓶や置物で怪我をせずに済んだという。
 揺れがおさまると、二人ともすぐ前にある大型スーパーの駐車場に避難した。そこには、近所の人たちが大勢集まっていたそうだ。


 市役所に勤務する姪は、すぐに職場から呼び出され、歩いて20分程の熊本市役所に向かった。それから何日も、避難所で避難してきた人たちの世話をすることになる。

 兄はとっさに物がなくなるかもしれないと判断し、近くの24時間営業のコンビニに走った。コンビニの店内では、商品が落ちて床に散乱していたが、驚いたことに、落下物でも普通に売ってくれたそうだ。
 一方、義姉は一人で自宅にいた。自宅は熊本市の東部、震源地の益城町に近い。
「きのう(14日)の地震で夜ほとんど寝ていないので、今夜こそはゆっくり眠りたい」
 とメールが来たばかりだった。

 義姉は激しい揺れで目を覚まし、しばらくはトイレにいたが、あまりの揺れに家にいるのが怖くなり、やっとの思いで外に出て、車の中で朝になるのを待ったそうだ。

 私は、そんなことになっているとは夢にも思わず、15日の夜に義姉に『ゆっくり休んでください』とメールしてから、安心して寝てしまった。

 16日の朝になり、
「また激しい揺れが来たけど、私は大丈夫です」
 という義姉のメールを見て驚いた。
 テレビをつけてみると、どの局も熊本地震のニュースばかりだった。この地震こそが本震だと訂正されたと聞いた。

 私が熟睡している間に、兄の家族はさらに悲惨な目にあっていたのだ。特に義姉は、一人でどんなにか心細い思いをしただろう。
 それでも、自分から「大丈夫」と連絡してくるとは、すごい精神力だ。普段からしっかりした人だが、こんな時に本当の人間力が試されるのだろう。

 入院中の母は、それほどの揺れも感じなかったようで、家に一人でいて、心細い思いをせずに済んだのは幸いだったと思う。
 この本震で、築浅の実家マンションは無事だったが、築20年の一戸建ての兄の家は傾き、出窓のガラスが割れて、住めなくなった。


 熊本の誇りである熊本城も、石垣や重要文化財である櫓が崩れてしまった。
 
 私は、ふるさとの一大事に、すぐにでも帰りたいと思ったが、飛行場が被害を受けて閉鎖され、ライフラインもストップしていたので、それは叶わなかった。


 約2週間後、母は二度目の脳梗塞を起こし、病状は悪化していた。

 兄の一家は、実家マンションで寝泊まりしていたが、被災した自宅の片づけと母の看病で、悲鳴を上げていた。私は東京での仕事を休み、しばらく手伝いに帰ることに決めた。
 ふるさとがどんな姿になっているか、見るのは正直怖かった。しかし、いつかは直視しなければいけない。


 4月30日、飛行機で熊本空港に着き、迎えに来てくれた兄の車で市内に向かった。途中にはブルーシートで覆われた屋根が目についた。道路も所々盛り上がっている。

 翌日、熊本城の近くを通ったら、見慣れた長塀(写真・右)が大きく崩れている。ぐるりと回って熊本城を外から眺めてみると、石垣や櫓までもが崩れている。

 テレビでは何度も見ている光景だが、実際に接すると、かなり痛々しい。

 城が悲鳴を上げているようにも思えた。しかし、よく見ると、残っている部分はしっかりとそびえ立ち、「負けるものか」と頑張っているようだった。

 街のあちこちに「がんばろう熊本」、「負けんばい熊本」などのポスターが目立つ。

 まだ余震は続いているが、繁華街の商店はほとんど営業を再開していた。しかし、熊本で唯一の大手デパートの鶴屋は、上の階に被害が出たため、地下と1階のみの営業となっている。

 それでも、「くまもとがんばるモン」という大きなポスターを掲げている。(写真:左)

 繁華街を足早に通り過ぎる人々は、そのポスターに背中を押され、笑顔で日常を取り戻そうとしているように見えた。


1週間ほどして母の病状が少し落ち着いてきたので、私はいったん千葉に戻ることにした。

 帰りの空港で、職員たちが「ありがとう頑張るけん熊本」という張り紙を持ち、飛び立つ飛行機に手を振っている。
 これまでの様々な支援に感謝し、これから復興に向けて頑張ろうという、熊本の人々の決意を感じた。
 私も熊本が以前のように緑豊かな美しい街に戻るまで、自分に出来る支援をして、ふるさとの復興を見守り続けていきたいと思う。 
                                 「了」

【関連情報】

 作者の黒木成子さんは、朝日カルチャー・千葉の『写真エッセイ教室』の受講生です。


秀麗富嶽十二景の富士山が絶景なり、百蔵山(1003m)=武部実

平成28年1月16日(土) 

参加メンバー : L武部、中野、+武部妻の計3人

コース : 猿橋駅 ~バス~ 福泉寺 ~ 大同山 ~ 下和田分岐 ~ 百蔵山 ~ 下和田分岐 ~ 百蔵山登山口入口 ~ 猿橋 ~ 猿橋駅 

 猿橋駅9時発のハイキングバスで百蔵山登山口入口まで行く予定だったが、9時になってもバスが来ない!
 後で気づいたのだが、バスは4月~11月の期間限定であった。

 急きょコースを変更し、9:13発の小菅の湯行きに飛び乗る。福泉寺までは十数分、ほとんどの登山者がここで下車した。
 9:30に出発する。20分ほど舗装路を登ると、道が左右に分岐する。山道らしい雰囲気の左の道に入ったはいいが、道は荒れていて、登山路は倒木だらけで歩きづらい。
 最初の頃は踏み跡もしっかりしてマーカーテープもところどころ見かけた。だが、だんだん踏み跡も怪しくなり、マーカーテープも見かけなくなった。そして、意外と急登で大変だ。

 この道で間違いないのか、と少し心配になった。とにかく稜線にでれば何とかなると、一生懸命登ること約一時間。ようやく上部に登山者の姿が見えるようになってきた。
 どうやら、私たちより後から出発したパーティのようだ。左右ルートの合流地点には祠があり、一休み。ここからは普通の歩きやすい登山道となった。杉林を歩き、大同山を過ぎて、下和田の分岐を過ぎれば、松林の先は百蔵山の山頂だ。

 12:00ピッタシに、百蔵山の山頂に到着した。

 天気が良くて、ぽかぽか陽気のハイキング日和だ。頂上はざっと数えて60~70人もの登山客で大賑わい。秀麗富嶽十二景の富士山がバッチリと眺めることができた。

 12:45に出発。いま登ってきた道を下り、下和田分岐から猿橋方面に下山していく。他の登山者もこの時間から行動を開始している。続々と、私たちを追い抜いて行く。

 14:00に、百蔵山登山口入口のバス停留所に到着した。名勝の猿橋は、ここから約30分。猿橋には、いつもなら無料の説明してくれるボランティアさんがいると聞いていたが、当日はたまたまお休みだった。上から桂川を眺めたら、ゴムボートを漕いでいるのが見えた。将来、桂川で遊覧船が就航できるかどうかの調査をしているとのこと。
 登山帰りに舟に乗るのもいいかも……。

 今回の山行は、バスの運行時期を間違えたが、たまたま他のルートがあったので、そちらを行くことが出来たので助かった。もっと慎重に調べなくてはいけないですね。反省。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№199から転載

バリエーションは多彩、ぜいたくな孫山・嵐山 = 栃金正一

1.期日 : 2015年12月26日(土)晴れ
2.参加メンバ : L栃金 上村 飯田 野上 武部 佐治 原田 
3.コース : 相模湖駅 ~ 貝沢登山口 ~ 大平小屋跡 ~ 孫山 ~ 小原の郷 ~ 小原本陣 ~弁天橋 ~ 嵐山 ~ 相模湖駅

 JR相模湖駅に8:30に集合した。今日のコース・スケジュール等を皆で確認し、準備をして8:40に出発する。
 線路沿いの細い道路を、藤野方面にむかってすすむ。中央高速道路を潜り抜け、貝沢コース登山口に8:50到着。ここからは貝沢沿いの林道をしばらく歩く。橋を渡った所が林道終点になる。

 ここから登山道に入り、小さな沢を渡ったりすると、やがて道は沢からはずれ、山腹を登る感じになる。緩やかな九十九折りになっていて、思ったより簡単に、稜線の大平小屋跡に9:45到着。ここで少し休憩をしてから出発する。

 途中、コースをはずし大明神山に行ってみたが、ピークと思われる所には何もなく、朽ちた柱みたいなものが横たわっていた。
 コースに戻り、少し先の孫山への踏み跡をたどり斜面を登って行く。やがて平坦な植林地帯となり、木に『孫山548m』と書かれた小さな標識が付いていた。孫山には10:05に到着する。


 ここからは、バリエーションルートである「東尾根下降コース」を小原の郷まで下る。コースの入口はわかり憎い。薄い踏み跡をたどり下って行くと、小原方面への道標があった。
 登山道は相変わらず踏み跡は薄く、緩い下りの傾斜になっている。落ち葉でフカフカしており、足にやさしく良い感じで歩ける。
 バリエーションコースなので、他にだれもいなく静かな山行が楽しめる。
 ところどころに標識があるので、迷う心配はなく、日が当って明るい尾根道をどんどん下って行
く。やがて尾根は終わり、急斜面の下降となる。
 崩れやすい道を慎重に下る。下り切った所の小さな沢を渡り、道路に出て少し行くと、小原の郷に11:35到着した。

 日当たりの良い芝生の上で、待ち遠しかった昼食をとる。


 (写真は小原本陣)

 昼食後は、近くにある「小原本陣」に行き、昔の生活様式等を見学する。12:30、次の目的地である嵐山に向けて出発する。
 途中、相模川に架けられた弁天橋を渡る。この辺りは川幅が広く、入り江などもあり、景色が良いところである。

 13:05。嵐山登山口に到着する。登山道は、しっかりしており傾斜もあまり無いが、登り一辺倒なのでゆっくり登る。13:45嵐山の山頂に到着した。

 山頂は広々として神社がある。展望は良く、眼下には相模湖や奥高尾の山々、および先ほど下ってきた孫山東尾根などを見ることができる。
 日当たりの良い山頂で、ゆっくり休憩をした後、下山。登山口には14:35に着いた。ここからは、最近改修された大きな相模ダムの上を通り、15:00には相模湖駅に全員無事に到着する。

 天気に恵まれ、内容が盛り沢山の充実した山行となりました。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№199から転載

23,528歩なる長距離ハイク・影信山(727m) = 横溝憲雄

 平成28年3月13日(日) 曇、

 参加者:L横溝、松本、(藤田)源氏より4人(7名)       

 コース : 高尾駅 ~(バス)~ 大下(おおしも)バス停 ~ 小下沢林道 ~ 登山口 ~ 影信山(昼食) ~ 小仏峠 ~ 小仏バス停 ~(バス)~ 高尾駅       

 高尾駅に9:00集合だ、私は一足先に着いたが、小仏行バス乗り場は人の群れ、群れである。
 「皆さーん早く来てください……」
 全員が集合した。バスは2台(増便を含めて)用意されたおり、登山予定どうりの9:12発のバスに乗車できた。
 最初の1台を追いやって、増便だったので、全員が座れた。これはラッキー。


 車窓からは、道中の梅祭りの賑わいがみれた。このまま「梅祭り宴会」に切り替えてしまいたいほどの気持ちになる。20分程の乗車で、大下(おおしも)バス停に着いた(9:35)。

  バス停から少し戻り、中央本線のガードをくぐり、小下沢(こげさわ)林道へとむかう。入口は高尾梅林で、梅が満開で、綺麗である。
 しかし、園内は解放されておらず、外部から写真を撮るなどして、しばし鑑賞する。林道はせせらぎの音を耳にしながらの、快適な道だった。

 45分程、森林浴をしながら歩くと、北高尾山稜方面の道と交叉する登山口へ(10:20)でた。
 
 
 山登りの身支度して、いざ出発。以前にも歩いた路だが、表から登るよりも距離がかなり長い。だが、斜度はきつくない。それでも、混成パーテイーで、各人の歩く速さが異なり、速足の人にはゆっくりリズムだとストレスもたまると思い、中腹からは先行してもらい、頂上で落ち合うことに決めた。


 途中の岐路で、間違いのないよう指示する。頂上に近くなると、寒さが増し、何と雪が木々の枝に凍り付いているでは。それは実に綺麗な景色だった。
 何やら、パラッ、パラッという音が聞こえてくる。
 なんと木の枝に凍り付いていた氷が落ちていた。初めての経験で、すごく神秘的だった。


 やがて、頂上へ(12:00)に到着した。
 大勢のハイカーで、にぎわっていた。鍋を囲んでいるグループもいた。われら先行隊が東屋の下を確保してくれていて、「さー、ランチ宴会」となる。

 恒例のワインで乾杯、ビールも。しばしランチタイム。しかし、寒さが身にしみる。ランチ宴会もそこそこに下山することになった(12:55)。当初の計画は小仏城山までであったが、こんかいは景信止まりにした。

 帰路は、直下はせず、小仏峠へまわり込み、小仏バス停へと下る。14:30着。予想通り、やはり、たくさんのひとたちだ。バスは2台待機している。14:40発のバスで、高尾駅へ(15:00)。

 同駅前のソバ屋で、焼き鳥・源氏の煮込みと、味がどう違うかなどと、吟味しながら反省会をおこなう。
 自宅に戻ると、計5H(歩4H) 帰宅時まで23,528歩という、長距離ハイクだった。お疲れさま。
 

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№200から転載

【寄稿・写真エッセイ】 お義母さん(おかあさん) =  阿河 紀子

 愛犬の朝の散歩を終え、家に帰り着いた丁度その時に、電話が鳴った。
 今年で13歳になる大和(やまと、秋田犬)は、機敏に動けない。尻を押すようにして家に入れて、慌てて受話器を取る。予想通り義母(はは)からだった。

「紀子さん、さくらんぼ 着いたよ。ありがとうね。」
「開けてみた?」
「あ~ 開けたよ。さくらんぼとカーネーションが綺麗な箱に入ってたわ。」
「美味しいうちに食べてね。」
「大きくて、美味しそうな さくらんぼ。高かったやろ。気ぃ遣わせて、悪かったなぁ」
「さくらんぼなら食べられると思って」
「ああ、大丈夫や、頂くわ。ありがとうね。」

 それは5月8日「母の日」の会話だった。
 実母は2年前に亡くなったから、私にとって「はは」と呼べるのは「姑」だけになった。7月には、数えで91歳になる。義母は足が悪い。それ以外は、元気そうに見える。
 しかし本当は、「糖尿病」で週に3回「透析」を受けていて食事制限もある。毎年の事だから、「母の日」は、何をプレゼントしたらよいか、頭を悩ませる。
「さくらんぼ」なら食べられるかなと思い、贈った。
 もしかしたら、さくらんぼも「糖尿病患者の食べられない食品」かもしれない。

 しかし、電話口の姑は、とても喜んでくれている。

 私と義母は、割と「いい関係」を築いてきた。結婚してから30有余年、何もなかったわけでは無いけれど、「上手くやってきた」と、思っている。
 結婚前、義母が私に言ったことがある。
「紀子さん、あのな、相性を見てもらったのよ。そうしたら、私とあんたとの相性、すごくいいんだって」
私は、少し返答に困った。
「よかったぁ。その占い師に礼を言わないとあかんね。」
 義母は、私の答えが気に入ったようだった。
「ほんま、あの占い師、よう当たるわ。」
 実の母の子育ての方針が「獅子が子供を崖から蹴り落とす」ようなものなら、義母は「雌鶏(めんどり)が、羽の下に子供を隠して外敵から守る」ように接し育てた。
 まさしく正反対だ。
 結婚して娘になった私も、義母は、羽の下に入れてくれた。お義母さんの羽の下は、居心地が良かった。

 だが、義母は私を時々困らせる。
 義母さんのお姑さん、つまり、義父の母親は、それはそれは気の強い人だったそうだ。
「黒いものでも白と言われたら、絶対逆らえなかった。」
「嫁いでから姑が亡くなるまで、朝早くから、夜遅くまで、言われるがままに働きづめで、自分の自由な時間なんか、無かった」
 そんな話を、何かあると、私に聞かせた。
 そのたびに、私は相槌に困る。
 何故なら、私は気ままに自分の好きなようにさせてもらっているからだ。
 一緒に笑っていいものやら、嫁としての未熟さを謝ればよいのか、悩む。結局、妙な笑顔で、
「私はお義母さんがお姑(しゅうとめ)さんでよかった。」
 と、言うしかない。

 正月もそうだ。
 友人たちの話を聞くと、大晦日から婚家に行き、お姑さんから命じられるままに、台所の掃除や、おせちの準備を手伝うと言う。
 ところが私ときたら、義母の作ったおせちを食べ、お酒が入れば、後片付けも手伝わず、ソファーでうたた寝をしてしまう。そんな私に、そっと毛布を掛けてくれるのが、お義母さんなのだ。
 こんなに、甘やかされていいのだろうか。


 もうずいぶん前の事だが、ある夜の事、疲れて寝込んでいる義母を起こさないように、そっと、夕飯の後片付けをしたことがあった。目を覚ました義母は、
「もう、こんなことせんといてや」
 と何度も繰り返し、
「もう、しない」と約束させられた。
 お義母さんの言葉に裏は無く、ましてや嫁の私を困らせる気も無い。30年以上の付き合いで分かったことだ。

「お義母さん、この頃、体の方はどう?変わりない?」
「最近なぁ、ますます足が弱ってしもて、家の中でも歩行器使っているんやでぇ」
「それでも、自分の足で、歩けるならいいやないの。」
「あんたは、犬の散歩、毎日してるから、足腰が丈夫でええなぁ」
「お義母さん、このごろあかんのよ。大和(愛犬)も年とってしもてなぁ、さっさと歩かれへんの。運動になれへんわ。」
「そうなんかい。大和も、そんな年になるんかねぇ」
「今年で13歳やから、人間で言うたら、80歳くらいかな。お義母さんよりは、まだ若いけどね。」

 義母との会話は続く。

俳句、狂歌、四つ目の石碑が建立 = 大久保昇さん

 狂歌読む心のゆとりあるかぎり

    争い事の芽は育たない

                          大久保昇

  東京都文京区在住の大久保さんが、平成27年度「なめかた狂歌」の茨城県知事賞を受賞した。主催は行方市教育委員会・生涯学習課である。

  同狂歌の石碑が、茨城県・行方市の霞ヶ浦ふれあいらんどに建立された。(写真提供・大久保さん)  

 平成27年度「なめかた狂歌」の応募総数は、北海道から九州まで、全国各地より2083首だった。年齢層は9歳の小学生から97歳の最高齢の方までと幅広い。入選総数は170首で、そのなかから、大久保昇さんが茨城県知事賞にはかがやいたものだ。

 大久保さんは、同年にも、「平成27年 いいやま俳句大賞」においても、大賞を受賞し、長野県飯山市の明昌寺に建立されている。(写真提供(上):信州いいやま観光局)

 主催は飯山市飯山観光局である。信濃毎日新聞社・北信濃新聞・(株)テレビ飯山などが後援。


 北竜湖水の底まで蝉時雨
                           大久保昇

 
 (右・写真提供:大久保さん)


 主催者によると、「飯山は、豊かな自然と原風景が残されており、寺町や歴史的な文化遺産が多くあります。また、素朴で雪国の温かい人々の心があります」という。

 飯山の四季折々の美しさ、人々とのふれあい、生活の情景など、それらの感動を俳句で詠み投句したもの。

 投句箱は、投句は、10(とう)9(く)であることから、10月9日(とうく)の日に、投句箱に投句された句を集めもの。

 「いいやま俳句大賞」受賞句については、市内の明昌寺参道に句碑として建立される。供養塔ならぬ「句養塔」で丁重に供養されている。

 大久保さんは過去においても、石碑の建立がある。

 平成22年「さらしな・おばすて全国俳句大会」において、「さらしな・おばすて」大賞を受賞している。

 帰省して牛の匂ひの中にをり

                         大久保 昇
 


 さらにさかのぼること、平成17年には「はるな梅祭全国俳句大会」において榛名町長賞を受賞している。

 厩舎より馬の貌出る梅日和

                     大久保 昇


 群馬県・榛名町の上里見公園内に建立されている。
  
 

登山者に交じってトレランの人が多い、奥多摩・御前山=武部実

 御前山(ごぜんやま 1405m)=武部実

 平成27年10月10日(土) 

 参加メンバー : L武部、上村、佐治、関本、大久保、脇野、松村、中野、針谷の計9人

         すにいかあ祭り参加者:渡辺、石村、横溝、原田、針谷、砂田の計6人

 コース : 奥多摩駅~バス~奥多摩湖~御前山~クロノ尾山~ウッデイハウス

 恒例の「すにいかあ祭り」前の山行。三連休の初日とあって、奥多摩駅の停留所は長い列だった。臨時便のバスに乗って、予定より早く、奥多摩湖の停留所に着いた。


 8:55に出発。ダムを渡って、10分ほど歩いたところが、登山口。最初から、意外と急登だ。天気予報では晴れだったが、当日は曇り空で、暑さを少しはしのげてほっとする。
 コナラやブナの樹林帯のなかなので、ドングリが一杯落ちていた。リスや熊さんの食糧だが、この辺はあまりいないのかな?

 10:10にサス沢山(940m)に着く。三角点があるはずだが、それらしき物が無い。捜すと御影石の上部が欠けている石を発見。どうやらこれが三角点のようだ。

 ここからは、北方面が開かれていて、眼下に奥多摩湖が望めるようになる。小休止して出発。大ブナ尾根の急登はまだまだ続き、境橋や月夜見山との分岐である惣岳山(1348m)に11:30に着いた。
 ここから頂上はあとわずか。最後のふんばりで、11:50に山頂に着く。

 一般の登山者に交じって、トレランの人が多いのが、最近の特徴だ。御前山も多かったので、調べてみると、毎週どこかの山でトレランの大会が開かれているのである。東京近辺でも、これから高尾山、五日市、奥多摩等で大会が計画されているのだ。

 12:25に山頂を出発する。大ダワに向かって稜線歩きだ。13:00に、クロノ尾山に着く。ここから下ったところがウッディハウス。昼なお薄暗い杉林を下って、約25分、最初のポイントの祠に着いた。狛犬が可愛い。

 ここからの道は枝落としなどで、だんだん不鮮明になってくる。もちろん普通の山によくある赤いテープ等のマーキングも無し。いずこも杉林の同じような景色で、道を間違えやすい。
 2時半に着くとメールしたのが、甘かった。心配していると思って、とりあえず私だけが急いでウッディハウスにむかう。3時に着。缶ビールを飲んで、鉄板焼きをほおばってほっと一息。バンガローの準備組の皆さんご苦労様でした。

 そのあと、次々と下山組が集まって総勢15人の乾杯で、楽しいひとときを過ごすことができた。


 ここで、残念なお知らせを伝えることになります。渡辺さんのご主人が設計し、長年「すにいかあ祭り」の会場として利用してきたウッディハウスが、今年の11月で閉鎖し、建物も解体するそうです。
 懐かしい方もたくさんいると思いますが、まだ建築25年、本当に残念です。

         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№194から転載

岩殿山(634m)、目の前は秀麗・富士山、真下は断崖絶壁=渡辺典子

 平成27年12月19日(日)晴、参加者 : L 横溝、針谷、渡辺、佐治(4名)       

 コース : 大月駅 ~ 岩殿城址入口 ~ 岩殿山ふれあい館 ~ 岩殿山 ~ 築坂峠 ~ 鎧岩 ~ 兜岩 ~ 天神山 【昼食】 ~ 稚児落とし ~ 登山口 ~ 浅利公民館前 ~ (バス) ~ 大月駅

 大月駅には9時40分に集合である。新宿8:14発のホリデー快速富士山1号に乗車する。特急券が不要の特急車両に乗れて快適そのもの。大月駅で4人全員が集合した。

 私は今回で、3度目の岩殿山の山行である。このたびも、暖かい穏やかな山行日和で、嬉しい。大月駅から20分程で、岩殿城址入口へ。ここが登山口である。なんと、もう秀麗な富士山が眺められる。

 登山の身支度をしてから、階段や砂利道を登り、岩殿山ふれあい館に着く。大月の市街や富士山を眺め一息入れた。またしても、階段や舗装されたジグザグ道を登り、40分程で、岩殿山山頂へ着く。10:45だった。.(丁度、1時間)。

 山頂では一段と美しい富士山を一望し、かぶと岩分岐まで戻り、狭い山道を下り、築坂峠に着く。11:10だった。それからアップダウンを繰り返し、いよいよスリルある岩場・クサリ場の第1の関門となる、鎧岩へ。
 クサリの張られた大きな岩場を登る。思うように足が上がらない。怖さはないが、足腰の衰えに愕然とする。
 前方で、岩場・クサリ場の訓練グループが大勢訓練中であったが、時間がかかるので、私たちは先に通してもらえた。土曜日で、好天気とあいなり、人出は多い。


 第2の関門の兜岩へ。岩のてすりにすがり、横方向にトラバースしていく。眼下は断崖絶壁。すぐにクサリ場、慎重に登る。腕に力を込め、脚力をカバーする。やっとのことでクリアできた。

 ホットして、周りを一望すれば、山並みが綺麗だ。さらに林の中を歩く。鉄塔が建ち、小さな祠のある天神山に到着した。丁度12:00だった。眼前には大きな富士山を眺められる、風のない暖かな場所で、ランチタイム。幸せをつくづく感じる。

 12:45に出発する、20分程下ると、雄大な大岩壁が見えてくる。稚児落としだ。13:10。大絶壁、何度見てもすごい迫力。ゆっくり慎重に歩きながら、大自然を満喫する。

 ここからは大月駅に向かって、ひたすら林の中を下る。途中には、ロープの張られた岩場の下りもある。一軒の民家が建った所が、登山口だった。
 県道に出て、バス停のある浅利公民館前へとむかう14:00。14:05発のバスに乗り、大月駅には14:15に着いた。

 時間も早く、次の列車までの間、駅構内の食堂で、冷たいビールで乾杯。このたびも気持ち良く楽しい山行ができました。お疲れさまでした。

(総行程4時間30分、歩3時間30分)


           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№198から転載

芥川龍之介の槍ヶ岳登山 = 上村信太郎

『鼻』『羅生門』『或る阿呆の一生』などの小説によって、芥川龍之介の名はもっとも広く知られた作家である。
 晩年の病弱なイメージが強いせいか、青年時代に登山や水泳が得意な活発なスポーツマンだったことは一般にほとんど知られていない。特に登山は赤城山、木曽御嶽山、浅間山、槍ヶ岳などに自ら計画して登っている。

 芥川は明治25年3月、東京に生まれ、府立三中、一高、東京帝大と学び、小説家として生涯に膨大な作品を遺した。
 昭和2年7月、服毒自殺。享年35。晩年の代表作『河童』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判したものとして社会に衝撃をあたえた。このため命日を「河童忌」と呼ぶことは芥川ファンでない人にも知られている。

 小説『河童』に上高地が出てくる。主人公が〈僕は前に槍ヶ岳にも登ってゐました…〉と語っている。これは芥川が満17歳だった府立中学時代に友人たちと行った槍ヶ岳登山の体験を強く意識した描写と言える。

 この山行の紀行は、大正9年7月1日発行の『改造』第二巻第七号に『槍ヶ嶽紀行』として発表した。このほかに、『槍ヶ岳に登った記』と『槍ヶ岳紀行』という二つの未定稿もある。
 このため以前は、芥川の槍ヶ岳登山の年月が、たとえばA社の『芥川龍之介全集』の年譜では〈明治44年夏、槍ヶ岳に登る〉となり、B社の全集年譜では〈大正9年6月槍ヶ岳旅行〉などとなっていた。
 登ったのが1回か2回かもバラつきがあり、頂上まで登ったのか途中までだったのか出版社によっても違っていた。


 このように、書籍によって混乱が生じた理由は三つの槍ヶ岳作品とも、文章には登山した年と登頂したことについて一言も触れていないうえに、作品によって学友たち(実名)との山行であったり、案内人と2人だけの登山のように描写されているからなのだ。
 昭和54年発行の『三代の山―嘉門次小屋100年のあゆみ』のなかに、上條嘉代吉(嘉門次の長男)が明治42年8月に芥川一行を案内したことが載っているが、〈登頂せずどこまで登ったか不明〉という注釈が入っている。案内人側でもよくわかってないのだ。

 日本近代登山の父とされる英国人ウェストンが活躍していた明治期、創立3年目の「日本山岳会」一行(吉田孫四郎ら)が剱岳に登頂。拓いた谷に「長次郎谷」と案内人の名を命名したエピソードはよく知られているが、芥川の登山はこれと同じ年である。

 芥川龍之介、市村友三郎、中原安太郎、中塚癸巳男の4人が槍ヶ岳の頂に立ったのは、晴天の8月12日午前だった。
 このことが判明したのは、同行していた中塚が後に、旧制一高(東大の前身)旅行部縦の会発行の『失いし山仲間』(限定300部非売品)に登頂の事実を書き、また日本山岳会々員に証言していたからである。


 上高地の登山案内人組合では、平成20年に芥川龍之介槍ヶ岳登頂100周年記念として『芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋』を上梓している。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№132から転載