寄稿・みんなの作品

【孔雀船88号より】 タッカ・シャントリエリ = 森山 恵

夢の峠の草叢にある

分水嶺

腰のあたりに一輪 黒い花が咲いて

黙りこくってゆれる水辺 めくら柳の根方の


あなたはわたしを巡る わたしの地下を巡る

けれど

水湧きたつ場所をあなたは

知らない

(みを隠す水隠れの みずの想い


道を問う君

そこではないの

ほんのすこし横 そこを過ぎてあとは道なりに

まどろんで ふれる

(まぼろしの迷い家の
 

身隠れ

わたしたちは

もう一度ささやき交わし 愛を交わす

花は根を伸ばし

広がり咲く


タッカ・シャントリエリ

かくれ里に群れ咲く花
 
香りたち昇り

たましいはその濃き香りに引き寄せられる

二つの身を離れ

息づかいのみを残して

たましいは
 

【関連情報】

タッカ・シャントリエリ : 縦書き、PDF


孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【孔雀船88号より】 みづいろ = 浅山泰美


早春の朝ははやく

露に濡れた草ぐさの

まだうすぐらい小径を抜けて

あなたは

旅支度もそこそこに

ゆうべの灯りが

まだ点ったままになっている

ちいさな木の駅から

旅立とうとしていた


氷のようだった手足が

今は空気のように軽くあたたかいので

口笛のひとつも吹きたくなるではないか

そういえば

幼かった頃

一番好きだった色は

水色で

クレヨンはすぐに短くなっていったな

ふいに そんなことを思い出すのは

まだ明けきらぬ空の一角が

あまりにもうつくしい水色に変わりはじめたからか


もう引き返すことのできない小径に

朝の光が射しはじめるまで

影は影のまま

あなたがいなくなれば

あっさりと消えてしまう

この世界にも

モクレンは咲き 小鳥は歌う春はまた巡り来て

やがて

草に紛れた鏡のような

水色の記憶だけが

ひっそりとそこに残されるのだろう

【関連情報】


みづいろ 縦書き ・ PDF

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
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東京都国分寺市富士本1-11-40
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「孔雀船88号より」 まだ封じられないものの夜 = 吉貝甚蔵


消せない星は

あらかじめ失われている流星だろうか


森を抜けるためには木立の残像がいる

と 遊牧の民が告げる

砂塵に巻かれながら お前は

この広漠に水滴の走りを見るのか

さしずめ浦のうらぶれた苫屋に

失われた桜を見るように


むしろ通り雨に

砂漠の匂いを嗅ぐ


他人の夢を見ることはできない

と 夢を違えながら夢を語る

夢を売り買いするように

見るを交換する

お前によって夢見られたものが

私である証は傷になる


埋められたのは

季節をしるした文字であり


凍てつくのは発語に震えているからだ

震えているのは

言葉になりたがらない音たちか

音はすりぬける

言葉にはとどまらない だが

追いかけるのも言葉であり


出会うためには

夜をふるわせる星の音階が必要だ


それでも夢の形象が

眠りの先に表れるのなら

影はいつも眠りの背後に宿り

その影にも

お前の夢見た私が私の夢を差しだすのだ

他人の夢を生きるために


目覚めないのは

あらかじめ失われた眠りだからだ

封じられたものが

永遠だ などと思うには

砂も星も流れやすく

よぎるには時の懸崖は深すぎる だが

お前の夢の欠片たちを紡ぐ私の夢の欠片たちが

ざわめく


渡るのだ

記述の砂漠を


【関連情報】


まだ封じられないものの夜 : 縦書き ・ PDF


孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

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東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

百名山へチャレンジ。98番目の幌尻岳は全方位の絶景=関本誠一

日時 : 2015年7月9日(木) ~ 12日(日)  3泊4日  晴れ

メンバー : 《すにいかあ倶楽部》 関本誠一、 《山の応援団》 中谷順一、高坂忠行 (計3名)

コース : 【1日目】はバス、タクシーの乗り継ぎで「とよぬか山荘」(泊)

 【2日目】 とよぬか山荘(バス) ⇒ 第2ゲート ~ 取水施設 ~ 幌尻山荘(泊)

【3日目】 幌尻山荘 ~ 幌尻岳 ~ 戸蔦別岳 ~ 幌尻山荘(泊)

【4日目】 幌尻山荘 ~ 第2ゲート(バス) ⇒ とよぬか山荘


            戸蔦別岳山頂にて、後方は幌尻岳


 幌尻岳は、北海道・日高山脈の主峰で、読み方は(ポロシリ)といい、アイヌ語で「大きな山」という意味らしい。
 日本百名山に選ばれており、7~9月には額平川上流にある幌尻山荘がオープンした。全国から3,000人の登山者が押し寄せてくる。

 同山荘は木造2階建てで、食事寝具などのサービスはなく、素泊まり50名の完全予約制となっている。
 山頂付近には、氷河期の痕跡・カール(七つ沼カールは有名)と、ヒグマ、ナキウサギ、クマゲラなど手つかずの自然が沢山残っている。

 百名山を目指す筆者にとって、幌尻岳は最後の難関のひとつとして立ちふさがっていた山(98座目)でもある。


 年初から、不安を抱えながら単独行を考えていたところ、昨年の北海道・羅臼岳でご一緒した吉祥寺のハイキングクラブ《山の応援団》会長の中谷氏から声をかけて頂き、計画には力が入る。

 まずは4月1日からの幌尻山荘の予約を取ることからスタートだ。
 装備や渡渉用具などの準備、共同装備など、事前打ち合わせは何回か行う。途中から《山の応援団》会員の高坂氏が参加となって、三人で出発する。

【1日目】まずは苫小牧駅に集合する。バス、タクシーを乗り継ぎ、「とよぬか山荘」に入る。


【2日目】朝5時に起床する。朝食の後、7時のマイクロバスで出発した。

 一般車の乗り入れが禁止となっている第2ゲートに到着した(8:00)。北電取水施設まで、林道歩くこと2時間を要する。
 ここから額平川右岸の登山道を1時間で、渡渉の地点に到着した。沢靴に履き替え、いよいよ川のなかに踏み出す。

 少雨のせいか、水深は深いところで、膝上くらい。雪解け水にしては、さして冷たくない。しかし水流が結構強くもあり、この時に備えたWストックが、身体の安定に威力を発揮する。

 渡渉を繰り返すこと、約二十数回で、幌尻山荘に到着した(12:30)。まずは濡れた衣服を着替え、宿泊の手続き終えると、小屋外ブルーシートで、夕食の準備を開始した。

 夕食後は、小屋内に寝具を持ち込み、19時に就寝。


 【三日目】 夜明け前の3時に起床。朝食を取ってから4時には出発する。いきなり急登である。続くお花畑のなか、幌尻岳に登頂する。7時30分だった。快晴で、遠くには大雪山から石狩平野、さらに日高山脈まで360度の展望である。

 ……音信不通の携帯も、こごては繋がる。休憩した後、右手に七つ沼カールを見ながら下降していく。戸蔦別(トッタベツ)岳の急斜面を登り返す。
 ここから見る幌尻岳も、カール前景が素晴らしい。小屋へと急斜面の戸蔦別尾根を下る。下りきった所で沢靴に履き替え、渡渉を繰り返し、山荘に戻る(13:30)。

 猛暑のなか、9時間以上のハードな周回コースだ。


【四日目】 迎えのバスに乗るために、午前3時に起床し、4時に出発する。一昨日の逆コースを辿り、第2ゲートへと下山(8:00)。

 昨年に引き続いて、北海道山行を満喫。残された大自然に触れあえただけでも、素晴らしい経験である。山仲間に感謝、感激である。
 下山後は、地元温泉で軽く反省会をおこなう。
 99座目の十勝岳を目指し、移動を開始する。 

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№200から転載

新東京百景の天上山(神津島)は砂漠だった = 武部実

平成25年11月24日(日) ~ 11月27日(水)

参加メンバー : L武部、松村、中野計3人
コース : 黒島登山口 ~ 十合目 ~ 表砂漠 ~ 最高点(572m) ~ 新東京百景展望地 ~ 裏砂漠 ~ 文政の石積跡 ~ 黒島登山口

 11月25日。客船・かめりあ丸は順調な航海で、神津島の前浜港に9:50に到着した。民宿「山見荘」の迎えで、宿で一服する。

 天候のくずれを気にしながらも、黒島口登山口へ送ってもらう。


 10:20に出発。登山道の周りはシダで蔽われていて、樹木はあまりない。5分ほど登ると、1合目の標識がある。この標識はどうやら標高30m弱ごとに、設置してあるようだ。

 ウメバチソウの白い花を愛でながら、登り10合目(476m)には11:15に着く。 ここから頂上を時計回りに歩く。
 黒島展望山を登り降りて、少し歩いたところが、表砂漠だ。白い砂地は、まるで海岸を歩いているような感じだ。

 5月中旬頃からは、この白い砂地に、赤いツツジの花が咲くという。テーブルが設置してあって、ここで昼食をとる。

 12:10に出発する。天上山の最高点(572m)をめざす。15分で到着した。さすがに、周りに何もないところは風が強く、景色を眺めるのもそこそこにして、記念写真を撮って下山をはじめた。

 不入ガ沢(はいらいがさわ)の左側は、断崖絶壁のがけ崩れがあるところ。砂防ダムがところどころに見える。
 もう一つの登山口である白島下山口を過ぎた。ババア池や不動池は水が涸れて、草むら状態だ。


 新東京百景展望地に、13:20に着いた。

 くもり空で、富士山までは眺められなかったが、近くの式根島、新島、利島、そして、その先には大島がみえる。片や、東に目をやれば、三宅島や御蔵島がはっきりと見ることができた。

 今にも雨が降りだしそうな空を気にしながら、先を急ぐ。登山路には、赤い実をつけたサルトリイバラや紫色のリンドウなどが目を楽しませてくれる。13:40に裏砂漠に着く。ここも表砂漠と同じで、白い砂地の海岸を歩いている雰囲気がある。

 ただ、残念なのは、黄色いペンキがそこらじゅうに塗りたくっていることだ。道迷いの案内表示だが、これでは興ざめだ。ここらから、雨がぽつりぽつりと降りだし、風もでてきた。

 照葉樹林帯の林の中を10分ほど歩くと、10合目にあるオロシャの石積跡だった。ここで頂上を時計回りで一周したことになる。

 雨のなかを急いで下山し、登山口には14:50に到着した。すると、車が我々の所に停まって「武部さんですか」と問いかけられた。宿の娘さんが迎えに来てくれたのだ。グッドタイミングにびっくり。
 後で聞いたら、宿からは下山してくるのが見えるそうだ。

 夕食は、金目鯛の煮つけ、てんぷら、ロールキャベツなど、豪華なおかずで腹一杯になる。


 翌朝は、帰り支度をして、朝食を摂っていた。このときに島内放送で、欠航の知らせ。延泊を頼む。そして、予定外の秩父山(280m)のハイキングと、島内散歩を楽しむ。

 港に打ち寄せる波は高く、欠航もやむなしと、納得させられた。

 翌日は、反対側の港(多幸湾)から無事10:30には出港できた。客船は竹芝に予定通り午後7時に接岸した。


  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№171号から転載

なんて、ぜいたく、小仏城山・花見ハイク = 岩淵美枝子

日時  :  平成28年4月10日(日)  晴れ

メンバー  :  L上村、三浦、武部、岩渕、市田 (5名)

コース : 高尾山口駅 ~ (6号路) ~ 一丁平 ~ 小仏城山 ~ 小仏城山東尾根 ~ 小仏関跡 ~ 高尾駅
 
 今日は、穂高健一さんチーム欠席となる。「すにいかあ」のメンバーだけでお花見となった。

 高尾山口駅では、人がどんどん増えてくる。今、8時30分だが、あと1時間もすれば、駅はわんさかと、リュック背負った人の待ち合わせで混み合うだろうな。
 お風呂の看板が入口に見えるが、当分の間は入る気しない。芋の子洗いだろう。

 6号路に向かって出発する。今日はのんびり、ゆっくりと歩く。市田さんが一緒なので、むしろ、これがチャンスだ。
 足元のお花に、目がいき、高尾の春を満喫できそう。
「嬉しいな、さっそく、あっ可愛い白い花。二輪草、豆粒ほどの小さな水色の花。山瑠璃草」
 名前がおもしろい、よごれねこのめ、お花も緑色で、形もおもしろい。


(いくつ花の名前を教えてもらったかしら)
 一週間前にも、市田さんと高尾に来た。その時は、今日みたいに、開いていなかった草花さんたちもうこんなの、見るとたまらない。

 落ち葉の下から、けなげにちょこんと芽を出し、いっぱい光を受けたいよーと、小指ぐらいの薄緑の葉っぱちやん、なでなでしたい気分になる。
 こんどは、あでやかな紫ピンクの三つ葉つつじ。そして、城山まじかになると、いよいよ桜の木のオンパレードである。

「満開の桜ちゃんたち、なんて今日は贅沢な一日だろう」
 公園の手入れされた桜も、みごたえあるけれど、自然のままの山の桜のグラデェションは涙がでるほど美しい。また、来年もさいてね。桜ちゃんたち。


 十数年前に、上村さんより、言われた言葉をおもいだす。熊笹がいっぱいある登山道を歩いていたので、この笹で笹団子つくりたいと、4、5枚とっていたら、
「葉っぱ一枚でも、山のものは山に置いておきなさい」
 その言葉を聴いてから、私の山に対する考え方が変ってきた。

 山にある植物の一つひとつが、愛おしくなった。むかしは、山は日本人にとって食料を得るための山であった。日本にウェストンが来て、嘉門次が上高地から案内したことから、山を征服するための登山の始まりでは、ということらしい。


 町には、今の時代は食べ物が溢れている。山は健康志向の時代になり、そのために登山客があふれる。登山道は土からコンクリートになり、植物は芽を出せないほどの硬さになってしまったところもある。
 植生回復のためにロープは張ってあるが、ロープ越えで、休んでいる登山者がいる。

「どうぞ、来年も、お花見が出来ますように」
 そう願うばかりだ。汗を流し、ゼイゼイ言いながらの山登りも、達成感と、してやったりの満足感がある。
 めったに見れない高尾スミレに出会ったりして、心いっぱい感動したりして、心に筋肉をつける山歩きもできて大満足でした。


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№201から転載


長州戦争から150年、高田藩戦没者たちの法要=広島・海田町

 ことしは幕末の長州戦争から、ちょうど150年の節目の年です。芸州口の戦いで、越後高田藩は多くの犠牲者を出しました。


 『長州戦争 高田藩戦没者 第150回大遠忌法要』が、平成28(2016)年8月7日、広島県安芸郡海田町の明顕寺で行われました。

「西国街道・海田市ガイドの会」では、明顕寺の境内も史跡案内しています。芸州口の戦いも組み込んで説明しています。

 こうした有志が、同寺のご住職さんに、150年忌の法要をお願いしたところ、快く承諾してくださいました。


 長州戦争の芸州口の戦いは、慶応2(1866)年6月14日に戦火が開かれました。長州藩の西洋式の最新鋭銃、さらに地の利にたいして、幕府軍は重装備で、旧式の兵器で惨敗だった、と一般に言われています。

 
 兵器の差も確かですが、戦争には戦術や兵力とは別の要因もはたらきます。
 

 
 越後高田藩は前年(1865)5月に越後を出発し、しばらく大坂にとどまり、海田市に到着したのが、同年12月です。さらに、芸州口の戦いまで、半年以上も、海田市の陣営で待たされました。

 あげくの果てに、先陣予定だった芸州広島藩が不戦を表明し、後方支援部隊の越後高田藩と彦根藩がとともに、長州藩との境界で戦うはめになったのです。


 最前線の兵士たちは、1年余も遠征疲れしており、戦意が高まらないまま戦いに臨み、長州藩兵に圧倒され、後退ばかり。
 越後高田藩は慶応2(1866)年8月7日に、「宮内の戦い」で、大量30人の戦死者を出しました。


 その後、援軍にきた幕府歩兵部隊と紀州藩兵が最新銃で応戦し、長州軍を押しもどし、さらに芸州広島藩が廿日市まで押し寄せた長州に怒りを持ち、宣戦布告をしました。

 毛利敬親の命令で、長州軍はたちまち岩国まで退却しました。

 最終的には、長州藩は藩境の拡大にも、さして勝利にもならず、幕府軍は初期の犠牲者だけが目立った戦いになりました。
(同年9月2日には、宮島・大巌寺での停戦協定で終止符を打ちました)。


 それから歳月は150年も流れました。越後高田藩の祥月命日となる8月7日に、海田市ガイドの会では芸州口の戦いで命を落とした人をしのび、法要をさせていただきました。


                       写真・文 土本誠治さん(広島市在住)
                           
                       

【寄稿・写真エッセイ】 警備の仕事で読書 = 原田公平

 警備の仕事で本が読める?
 そう、そういう職種もある。

 今日の仕事はガス会社だ。朝の9時から午後の7時まで、支社の控室で出動を待つ。どこかでガス漏れがあると、現場に飛んでいく。だが、なければ読書だけは許される。

 以前、この仕事で遅くなり、帰り電車がなくなり、二度とやるまいと思っていた。しかし、こんかいは依頼がきたときに、ボクは勘でこの日のガス漏れないなとヨミ、仕事を引き受けた。
 その実、働きながら、読みたい本があったからだ。

 2016年6月21日、梅雨に入り朝から雨だ。しかし、この日は、自宅を出たときからウキウキしている。

  3日前、千葉の朝日カルチャーセンターで穂高健一「写真エッセイ」を受講した。帰りぎわに受付の女性が「穂高先生の本が発売になりました」、とその本が積み上げてあり、1600円(税抜き)を買った。
 
 ボクがエッセイで穂高先生に師事して4年目となる。その間、先生は、東日本大津波を題材にした「小説3.11海は憎まず」、次に先生の郷土の広島、幕末の若者「二十歳の炎」を書き、どちらも読んだ。
 今度は440ページと読み応えありそうだ。
 本の帯がすごい、
「あづみ野の若い娘が徳川将軍を動かし、上高地を拓いた」
 日本山岳会会員で山男の穂高健一さんが本作によって祝日「山の日」と上高地記念大会を祝賀してくれることに感謝する。全国「山の日」協議会会長 衆議院議員 谷垣禎一、と明記してある。


 こんなに読書に適した環境はそうはない。出社すると、今日はガス漏れはないと、すぐさま本に集中する。


 
 この小説の舞台はまず、安曇野平から始まる。
 ボクは50代の夏休みは、家族と安曇野へよくドライブしたものだ。青々とした一面の田圃風景が好きだった。家内は美術館巡り、ボクは道祖神の写真を撮った。そのうえ、上高地にも足を運んでいるので、小説の舞台が身近に感じる。
 最初は「堰(せき)」づくりである。

 ボクの郷土・徳島を思い出した。

 実家は農家で吉野川の北岸地帯にあり、毎年夏は日照りで水田や畑の水が不足し、困っていた。
 中学生のころ、阿波用水の建設が始まり工事はよく見ていた。吉野川の上流から取水し、吉野川の北岸を潤す用水である。しかし、現場は人力が中心で、測量や、段差のあるところの用水路は大変さが実によくわかる。
  
 身近な先生の小説だ。エッセイ教室や飲み会で時折、取材のこととかを話されていたが、断片的でよくわかっていなかった。読むことによって、先生が何故、徳島の秘境の祖谷(いや)や飛騨にいったのかなどがわかった。 

 登場人物の多さには驚いた。先生は実在の人をフィクションで書いたと、まえがきにある。
 主な24人の顔かたち、体つき、そして性格描写、読者がイメージできるように簡潔にきりっと表現している。
 小説とはいままで読む側ばかりであったが、登場人物や女性を描くのは大変だろうと、初めて気が付いた。これが小説家だと思った。


 ボクはいままで多くのエッセイを書いてきているが、自分のことが中心で他人の顔や体形、性格を書いたことがない。これから読み手がわかる、人の描写などの勉強になった。

 また、仕事で交渉事の経験は多々あるが、ビジネスでは対等だった。
 しかしながら、この物語は農民、庄屋、豪商、大地主、郡代、地役人、藩士、勘定奉行に職人、学者と幅広い。その上、身分社会にそれぞれの利害と、メンツがからんでいく。

 賄賂政治や、弱い農民を追い込むと暴発して一揆になる様子は、搾取する側と、される側の実態に、農家の出身だからよく理解できる。

 小説に色を添えているのが、3人の女性だ。先生の好みが色濃くでているかな。

 共感できる本で、読む方はスラスラだ。片や書く人、先生の苦労を身近に思い浮かべながら、読んだ「燃える山脈」だった。


               「エッセイ教室の後のおしゃべり会、先生右から2人目」
 
 ボクは穂高先生に、是非、書いてほしいテーマと人物がいる。
 「四国八十八か所巡礼」と、現在の原型をつくった江戸時代の僧、真念である。
 「四国八十八か所」も、真念もよくわかっていないけれど、先生得意の取材と想像力で書いてほしい。
 定年退職者の多くは、一生に一度は四国巡礼をしたいし、若者は自分試しにと遍路者は増えている。一方、「四国八十八か所」は海外でも話題になり、多くの外国人も歩いている。
 先生は八十八か所の1番札所・霊山寺にも、既に訪れている。
 先生の「四国遍路」が読める日を、楽しみにしています。


【作者紹介】

 徳島県出身、アパレル業界に携わる。リタイアした後、旅行資金稼ぎで、ガードマンをしながら、アメリカ一人旅、世界一周の旅になんども挑戦している。意欲的な性格で、英語落語、民謡、諸々にチャレンジしている。
 リタイア後の人生は、「ひとの3倍生きる」が信条である。


 現在は、朝日カルチャーセンター「写真エッセイ教室」受講生。
 

熊本・被災地で、母と娘の二人展 = 黒木 成子

 母の米寿の記念に、二人の展示会を思いついたのは、一年も前のことだった。展示会の会場に決めた熊本伝統工芸館は、翌年一年分の施設利用の申し込みを4月に行う。

 開催日は母と相談し、季節のいい5月に決めた。

 これが、後になってとても大事な決断になるとは、その時は夢にも思わなかった。

 母は、65歳で水墨画を始めた。昔から絵が好きだったわけではない。私は幼い頃から、母が絵を描いたり、美術館に行ったりする姿など見たことがない。
 子育てが一段落し、親の介護もなくなり、時間に余裕が出てきたので、母は気まぐれにカルチャーセンターに習いに行ったそうだ。
 始めてみると楽しくなり、どんどん大きい作品を描くようになった。

 母は自由な性格で、決まり事に縛られるのは好きではない。そんな母をカルチャーの先生は優しく大らかに指導してくれたらしく、のびのびとした絵を描くようになった。そして、10年もすると、地元のアマチュア展で入選する力量にまで達した。

 20年以上も描き続けた作品はずいぶんたまったし、米寿の記念に個展をしようと持ち掛けた。
 しかし、一人ではとても無理だと母は腰を上げなかった。そこで、私と一緒の二人展ならどうかと提案したら、「それならいいよ」と承知してくれた。
 私も長年パッチワークをやっているので、たくさんの作品がある。
 水墨画とパッチワークという異色の組み合わせだが、母と娘で開催することに意義があると思った。

 会場(熊本伝統工芸館・写真:右)を下見して、広さを確認し、母のどの絵を出品するかを決めていった。額がない物は額装を依頼しなくてはいけない。
 私はふだん千葉に住んでいるので、たまに帰省した時に打合せするしかなく、一年の準備期間があるといっても、展示会の日はあっと言う間に近づいてきた。

 展示会を半年後に控えた昨年12月、母が転んで右肩を骨折した。高齢で骨がもろくなっているので、完治には3か月ほどかかると言われた。

 それでも、「5月の展示会には間に合うから」と母はリハビリに励み、3月初めには退院した。まだ右手は完全に治ってはいないが、以前のような生活ができる。展示会の時は、母は何もしなくても、ただ会場にいてくれればいい。

 ところが、3月末に母が脳梗塞を起こし、再び入院したのだ。幸い、意識ははっきりしているし、特に後遺症もない。順調に回復すれば、車椅子でも会場に来られると、私はまだ望みを捨ててはいなかった。

 そんな4月14日、あの熊本地震が起こった。入院中の母は、医者や看護師さんたちがそばにいてくれたので、さして恐怖は感じなかったようだ。

 しかし、4月末に、母は二度目の脳梗塞を起こした。兄から連絡を受けて、私はあわてて熊本に帰った。
 母は今回、右目があまり見えなくなり、右手も少し不自由になった。私のかすかな望みを打ち砕くかのように、最近の記憶がなくなり、入院した頃のことをすっかり忘れてしまっていた。
 朝食を食べたかどうかも思い出せない。時々つじつまの合わない、おかしな事まで言い出した。
このまま何もわからなくなってしまうのでは、と不安になった。片や、以前の記憶はしっかりしていて、展示会のこともちゃんと覚えていた。

 ただ、もう一人で起き上がることはできず、長く座っているのも苦痛な様子だった。

 熊本では、まだ余震も続いていて危険な状態だ。母も会場に来ることは出来ない。こんな状態で展示会をしてもいいものかと迷った。

 会場の伝統工芸館はあまり被害を受けなかったが、他の催し物はほとんどキャンセルされていた。
 母との展示会は、今やらなければあと1年後にできる見通しなどない。母が展示会のことを理解できるうちにやった方がいいと思った。

 最終的にやろうと決めたのは、展示会開催予定日の2週間程前だった。

 それから、母の知り合いや私の友人たちにも連絡した。皆、地震や母の入院で、展示会は中止だと思い込んでいたようだ。
 母の水墨画の教室の人からは「今回の展示会は、開催できずに残念でした。どうかお体お大事にしてください」という葉書きまで届き、あわてて電話番号を調べて、予定通り開催しますと伝えた。

 母の作品の展示は、額装を頼んだ業者に依頼してあった。電話をしてみると、幸い店の被害は少なかったので、大丈夫だった。私の作品は、搬入日に直接会場に送る予定である。しかし、いつも頼んでいる業者は、現在熊本に関しては、期日指定配達はできないと言われた。

 作品を会場に前もって送り、保管してもらうのは無理だ。別の業者に問い合わせたら、幸いにも熊本でも日にち指定ができるというので、そこに依頼した。


 こうして地震の影響をかなり受けたが、何とか予定通り5月17日に無事に展示会を始めることができた。熊本地震の発生から約一か月後のことである。

 展示会には、思いがけずたくさんの人たちが来てくれた。連絡をした知り合いだけでなく、新聞広告を見てとか、伝統工芸館に来て、ポスターを見て立ち寄ってくれた人もいた。
 会場の人たちは、高齢の母が描いた力強い作品に、驚いていた。


             「かに」(130㎝×110㎝)    

「地震で気が沈んでいたけれど、元気をもらいました」
「年をとってからでも、何かをはじめることができるんですね。私もこれからでも何かやってみようかしら・・・」
 そんな声をたくさん聞くことができた。多くが地震で被害を受け、生活が変わってしまった人たちだ。こんな大変な時に展示会に足を運んでくれたことが、実に嬉しかった。被災者の気持ちが少しでも明るくなれば、と願うばかりだった。

 私の学生時代の同級生もたくさん駆けつけてくれた。さながら小さな同窓会のように、近況を語り合った。

 毎日、展示会を終えると、夕方には母の病院へ行き、今日は誰が見に来てくれて、こんなことがあったと報告した。母は、「それはよかった」と微笑んでいた。
 少しずつ母の記憶が薄くなる中で、この展示会だけはしっかり覚えていてほしいと思った。


            友人宅のリビングに飾られた母の絵「明けゆく我が街」

 5日間の展示会が無事終了し、母の絵は従姉や知人の元へ何枚か引き取られた。今入院している病院にも一枚飾ってもらえた。
 母の病状はなかなか回復しないが、母の絵が、こうして皆の心に残っていくことが何よりの喜びである。
                                       
                                             「了」   


【関連情報】

 作者の黒木成子さんは、朝日カルチャー・千葉の『写真エッセイ教室』の受講生です。

ふるさと・熊本が復興する日まで = 黒木 成子

 私が熊本空港を飛び立った約5時間後、2016年4月14日21時26分、熊本地震の前震と呼ばれる震度7の地震が起こった。

 夜には、千葉の自宅に戻り、テレビの被害状況を見て言葉を失った。

 すぐに熊本にいる兄に電話をしたが、通じない。何度かかけるうちに、やっと連絡が取れた。
兄は、自宅から車で40分ほど離れた実家のマンションにおり、
「食器棚から皿などが落ちてきて散乱しているが、何とか大丈夫」
 と気の安まる言葉をむけてきた。
 母は入院していたので、実家にはいなかった。


 しかし、ほっとしたのもつかの間、その28時間後の16日午前1時25分、のちに本震と呼ばれる、さらに大きな地震が襲って来た。
 兄と一人娘の姪は、その時も実家のマンションにいた。揺れで飛び起きた兄が急いで寝室からリビングに行ってみると、片づけたはずの食器が再び激しく落ちてきたと話す。

 リビングのソファーでうたた寝をしていた姪は、ソファーから転がり落ち、前にあったローテーブルに顔を突っ込んでしまった。それがかえって幸いし、近くの棚から落ちてきた花瓶や置物で怪我をせずに済んだという。
 揺れがおさまると、二人ともすぐ前にある大型スーパーの駐車場に避難した。そこには、近所の人たちが大勢集まっていたそうだ。


 市役所に勤務する姪は、すぐに職場から呼び出され、歩いて20分程の熊本市役所に向かった。それから何日も、避難所で避難してきた人たちの世話をすることになる。

 兄はとっさに物がなくなるかもしれないと判断し、近くの24時間営業のコンビニに走った。コンビニの店内では、商品が落ちて床に散乱していたが、驚いたことに、落下物でも普通に売ってくれたそうだ。
 一方、義姉は一人で自宅にいた。自宅は熊本市の東部、震源地の益城町に近い。
「きのう(14日)の地震で夜ほとんど寝ていないので、今夜こそはゆっくり眠りたい」
 とメールが来たばかりだった。

 義姉は激しい揺れで目を覚まし、しばらくはトイレにいたが、あまりの揺れに家にいるのが怖くなり、やっとの思いで外に出て、車の中で朝になるのを待ったそうだ。

 私は、そんなことになっているとは夢にも思わず、15日の夜に義姉に『ゆっくり休んでください』とメールしてから、安心して寝てしまった。

 16日の朝になり、
「また激しい揺れが来たけど、私は大丈夫です」
 という義姉のメールを見て驚いた。
 テレビをつけてみると、どの局も熊本地震のニュースばかりだった。この地震こそが本震だと訂正されたと聞いた。

 私が熟睡している間に、兄の家族はさらに悲惨な目にあっていたのだ。特に義姉は、一人でどんなにか心細い思いをしただろう。
 それでも、自分から「大丈夫」と連絡してくるとは、すごい精神力だ。普段からしっかりした人だが、こんな時に本当の人間力が試されるのだろう。

 入院中の母は、それほどの揺れも感じなかったようで、家に一人でいて、心細い思いをせずに済んだのは幸いだったと思う。
 この本震で、築浅の実家マンションは無事だったが、築20年の一戸建ての兄の家は傾き、出窓のガラスが割れて、住めなくなった。


 熊本の誇りである熊本城も、石垣や重要文化財である櫓が崩れてしまった。
 
 私は、ふるさとの一大事に、すぐにでも帰りたいと思ったが、飛行場が被害を受けて閉鎖され、ライフラインもストップしていたので、それは叶わなかった。


 約2週間後、母は二度目の脳梗塞を起こし、病状は悪化していた。

 兄の一家は、実家マンションで寝泊まりしていたが、被災した自宅の片づけと母の看病で、悲鳴を上げていた。私は東京での仕事を休み、しばらく手伝いに帰ることに決めた。
 ふるさとがどんな姿になっているか、見るのは正直怖かった。しかし、いつかは直視しなければいけない。


 4月30日、飛行機で熊本空港に着き、迎えに来てくれた兄の車で市内に向かった。途中にはブルーシートで覆われた屋根が目についた。道路も所々盛り上がっている。

 翌日、熊本城の近くを通ったら、見慣れた長塀(写真・右)が大きく崩れている。ぐるりと回って熊本城を外から眺めてみると、石垣や櫓までもが崩れている。

 テレビでは何度も見ている光景だが、実際に接すると、かなり痛々しい。

 城が悲鳴を上げているようにも思えた。しかし、よく見ると、残っている部分はしっかりとそびえ立ち、「負けるものか」と頑張っているようだった。

 街のあちこちに「がんばろう熊本」、「負けんばい熊本」などのポスターが目立つ。

 まだ余震は続いているが、繁華街の商店はほとんど営業を再開していた。しかし、熊本で唯一の大手デパートの鶴屋は、上の階に被害が出たため、地下と1階のみの営業となっている。

 それでも、「くまもとがんばるモン」という大きなポスターを掲げている。(写真:左)

 繁華街を足早に通り過ぎる人々は、そのポスターに背中を押され、笑顔で日常を取り戻そうとしているように見えた。


1週間ほどして母の病状が少し落ち着いてきたので、私はいったん千葉に戻ることにした。

 帰りの空港で、職員たちが「ありがとう頑張るけん熊本」という張り紙を持ち、飛び立つ飛行機に手を振っている。
 これまでの様々な支援に感謝し、これから復興に向けて頑張ろうという、熊本の人々の決意を感じた。
 私も熊本が以前のように緑豊かな美しい街に戻るまで、自分に出来る支援をして、ふるさとの復興を見守り続けていきたいと思う。 
                                 「了」

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