寄稿・みんなの作品

「孔雀船88号より」 まだ封じられないものの夜 = 吉貝甚蔵


消せない星は

あらかじめ失われている流星だろうか


森を抜けるためには木立の残像がいる

と 遊牧の民が告げる

砂塵に巻かれながら お前は

この広漠に水滴の走りを見るのか

さしずめ浦のうらぶれた苫屋に

失われた桜を見るように


むしろ通り雨に

砂漠の匂いを嗅ぐ


他人の夢を見ることはできない

と 夢を違えながら夢を語る

夢を売り買いするように

見るを交換する

お前によって夢見られたものが

私である証は傷になる


埋められたのは

季節をしるした文字であり


凍てつくのは発語に震えているからだ

震えているのは

言葉になりたがらない音たちか

音はすりぬける

言葉にはとどまらない だが

追いかけるのも言葉であり


出会うためには

夜をふるわせる星の音階が必要だ


それでも夢の形象が

眠りの先に表れるのなら

影はいつも眠りの背後に宿り

その影にも

お前の夢見た私が私の夢を差しだすのだ

他人の夢を生きるために


目覚めないのは

あらかじめ失われた眠りだからだ

封じられたものが

永遠だ などと思うには

砂も星も流れやすく

よぎるには時の懸崖は深すぎる だが

お前の夢の欠片たちを紡ぐ私の夢の欠片たちが

ざわめく


渡るのだ

記述の砂漠を


【関連情報】


まだ封じられないものの夜 : 縦書き ・ PDF


孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

百名山へチャレンジ。98番目の幌尻岳は全方位の絶景=関本誠一

日時 : 2015年7月9日(木) ~ 12日(日)  3泊4日  晴れ

メンバー : 《すにいかあ倶楽部》 関本誠一、 《山の応援団》 中谷順一、高坂忠行 (計3名)

コース : 【1日目】はバス、タクシーの乗り継ぎで「とよぬか山荘」(泊)

 【2日目】 とよぬか山荘(バス) ⇒ 第2ゲート ~ 取水施設 ~ 幌尻山荘(泊)

【3日目】 幌尻山荘 ~ 幌尻岳 ~ 戸蔦別岳 ~ 幌尻山荘(泊)

【4日目】 幌尻山荘 ~ 第2ゲート(バス) ⇒ とよぬか山荘


            戸蔦別岳山頂にて、後方は幌尻岳


 幌尻岳は、北海道・日高山脈の主峰で、読み方は(ポロシリ)といい、アイヌ語で「大きな山」という意味らしい。
 日本百名山に選ばれており、7~9月には額平川上流にある幌尻山荘がオープンした。全国から3,000人の登山者が押し寄せてくる。

 同山荘は木造2階建てで、食事寝具などのサービスはなく、素泊まり50名の完全予約制となっている。
 山頂付近には、氷河期の痕跡・カール(七つ沼カールは有名)と、ヒグマ、ナキウサギ、クマゲラなど手つかずの自然が沢山残っている。

 百名山を目指す筆者にとって、幌尻岳は最後の難関のひとつとして立ちふさがっていた山(98座目)でもある。


 年初から、不安を抱えながら単独行を考えていたところ、昨年の北海道・羅臼岳でご一緒した吉祥寺のハイキングクラブ《山の応援団》会長の中谷氏から声をかけて頂き、計画には力が入る。

 まずは4月1日からの幌尻山荘の予約を取ることからスタートだ。
 装備や渡渉用具などの準備、共同装備など、事前打ち合わせは何回か行う。途中から《山の応援団》会員の高坂氏が参加となって、三人で出発する。

【1日目】まずは苫小牧駅に集合する。バス、タクシーを乗り継ぎ、「とよぬか山荘」に入る。


【2日目】朝5時に起床する。朝食の後、7時のマイクロバスで出発した。

 一般車の乗り入れが禁止となっている第2ゲートに到着した(8:00)。北電取水施設まで、林道歩くこと2時間を要する。
 ここから額平川右岸の登山道を1時間で、渡渉の地点に到着した。沢靴に履き替え、いよいよ川のなかに踏み出す。

 少雨のせいか、水深は深いところで、膝上くらい。雪解け水にしては、さして冷たくない。しかし水流が結構強くもあり、この時に備えたWストックが、身体の安定に威力を発揮する。

 渡渉を繰り返すこと、約二十数回で、幌尻山荘に到着した(12:30)。まずは濡れた衣服を着替え、宿泊の手続き終えると、小屋外ブルーシートで、夕食の準備を開始した。

 夕食後は、小屋内に寝具を持ち込み、19時に就寝。


 【三日目】 夜明け前の3時に起床。朝食を取ってから4時には出発する。いきなり急登である。続くお花畑のなか、幌尻岳に登頂する。7時30分だった。快晴で、遠くには大雪山から石狩平野、さらに日高山脈まで360度の展望である。

 ……音信不通の携帯も、こごては繋がる。休憩した後、右手に七つ沼カールを見ながら下降していく。戸蔦別(トッタベツ)岳の急斜面を登り返す。
 ここから見る幌尻岳も、カール前景が素晴らしい。小屋へと急斜面の戸蔦別尾根を下る。下りきった所で沢靴に履き替え、渡渉を繰り返し、山荘に戻る(13:30)。

 猛暑のなか、9時間以上のハードな周回コースだ。


【四日目】 迎えのバスに乗るために、午前3時に起床し、4時に出発する。一昨日の逆コースを辿り、第2ゲートへと下山(8:00)。

 昨年に引き続いて、北海道山行を満喫。残された大自然に触れあえただけでも、素晴らしい経験である。山仲間に感謝、感激である。
 下山後は、地元温泉で軽く反省会をおこなう。
 99座目の十勝岳を目指し、移動を開始する。 

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№200から転載

新東京百景の天上山(神津島)は砂漠だった = 武部実

平成25年11月24日(日) ~ 11月27日(水)

参加メンバー : L武部、松村、中野計3人
コース : 黒島登山口 ~ 十合目 ~ 表砂漠 ~ 最高点(572m) ~ 新東京百景展望地 ~ 裏砂漠 ~ 文政の石積跡 ~ 黒島登山口

 11月25日。客船・かめりあ丸は順調な航海で、神津島の前浜港に9:50に到着した。民宿「山見荘」の迎えで、宿で一服する。

 天候のくずれを気にしながらも、黒島口登山口へ送ってもらう。


 10:20に出発。登山道の周りはシダで蔽われていて、樹木はあまりない。5分ほど登ると、1合目の標識がある。この標識はどうやら標高30m弱ごとに、設置してあるようだ。

 ウメバチソウの白い花を愛でながら、登り10合目(476m)には11:15に着く。 ここから頂上を時計回りに歩く。
 黒島展望山を登り降りて、少し歩いたところが、表砂漠だ。白い砂地は、まるで海岸を歩いているような感じだ。

 5月中旬頃からは、この白い砂地に、赤いツツジの花が咲くという。テーブルが設置してあって、ここで昼食をとる。

 12:10に出発する。天上山の最高点(572m)をめざす。15分で到着した。さすがに、周りに何もないところは風が強く、景色を眺めるのもそこそこにして、記念写真を撮って下山をはじめた。

 不入ガ沢(はいらいがさわ)の左側は、断崖絶壁のがけ崩れがあるところ。砂防ダムがところどころに見える。
 もう一つの登山口である白島下山口を過ぎた。ババア池や不動池は水が涸れて、草むら状態だ。


 新東京百景展望地に、13:20に着いた。

 くもり空で、富士山までは眺められなかったが、近くの式根島、新島、利島、そして、その先には大島がみえる。片や、東に目をやれば、三宅島や御蔵島がはっきりと見ることができた。

 今にも雨が降りだしそうな空を気にしながら、先を急ぐ。登山路には、赤い実をつけたサルトリイバラや紫色のリンドウなどが目を楽しませてくれる。13:40に裏砂漠に着く。ここも表砂漠と同じで、白い砂地の海岸を歩いている雰囲気がある。

 ただ、残念なのは、黄色いペンキがそこらじゅうに塗りたくっていることだ。道迷いの案内表示だが、これでは興ざめだ。ここらから、雨がぽつりぽつりと降りだし、風もでてきた。

 照葉樹林帯の林の中を10分ほど歩くと、10合目にあるオロシャの石積跡だった。ここで頂上を時計回りで一周したことになる。

 雨のなかを急いで下山し、登山口には14:50に到着した。すると、車が我々の所に停まって「武部さんですか」と問いかけられた。宿の娘さんが迎えに来てくれたのだ。グッドタイミングにびっくり。
 後で聞いたら、宿からは下山してくるのが見えるそうだ。

 夕食は、金目鯛の煮つけ、てんぷら、ロールキャベツなど、豪華なおかずで腹一杯になる。


 翌朝は、帰り支度をして、朝食を摂っていた。このときに島内放送で、欠航の知らせ。延泊を頼む。そして、予定外の秩父山(280m)のハイキングと、島内散歩を楽しむ。

 港に打ち寄せる波は高く、欠航もやむなしと、納得させられた。

 翌日は、反対側の港(多幸湾)から無事10:30には出港できた。客船は竹芝に予定通り午後7時に接岸した。


  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№171号から転載

なんて、ぜいたく、小仏城山・花見ハイク = 岩淵美枝子

日時  :  平成28年4月10日(日)  晴れ

メンバー  :  L上村、三浦、武部、岩渕、市田 (5名)

コース : 高尾山口駅 ~ (6号路) ~ 一丁平 ~ 小仏城山 ~ 小仏城山東尾根 ~ 小仏関跡 ~ 高尾駅
 
 今日は、穂高健一さんチーム欠席となる。「すにいかあ」のメンバーだけでお花見となった。

 高尾山口駅では、人がどんどん増えてくる。今、8時30分だが、あと1時間もすれば、駅はわんさかと、リュック背負った人の待ち合わせで混み合うだろうな。
 お風呂の看板が入口に見えるが、当分の間は入る気しない。芋の子洗いだろう。

 6号路に向かって出発する。今日はのんびり、ゆっくりと歩く。市田さんが一緒なので、むしろ、これがチャンスだ。
 足元のお花に、目がいき、高尾の春を満喫できそう。
「嬉しいな、さっそく、あっ可愛い白い花。二輪草、豆粒ほどの小さな水色の花。山瑠璃草」
 名前がおもしろい、よごれねこのめ、お花も緑色で、形もおもしろい。


(いくつ花の名前を教えてもらったかしら)
 一週間前にも、市田さんと高尾に来た。その時は、今日みたいに、開いていなかった草花さんたちもうこんなの、見るとたまらない。

 落ち葉の下から、けなげにちょこんと芽を出し、いっぱい光を受けたいよーと、小指ぐらいの薄緑の葉っぱちやん、なでなでしたい気分になる。
 こんどは、あでやかな紫ピンクの三つ葉つつじ。そして、城山まじかになると、いよいよ桜の木のオンパレードである。

「満開の桜ちゃんたち、なんて今日は贅沢な一日だろう」
 公園の手入れされた桜も、みごたえあるけれど、自然のままの山の桜のグラデェションは涙がでるほど美しい。また、来年もさいてね。桜ちゃんたち。


 十数年前に、上村さんより、言われた言葉をおもいだす。熊笹がいっぱいある登山道を歩いていたので、この笹で笹団子つくりたいと、4、5枚とっていたら、
「葉っぱ一枚でも、山のものは山に置いておきなさい」
 その言葉を聴いてから、私の山に対する考え方が変ってきた。

 山にある植物の一つひとつが、愛おしくなった。むかしは、山は日本人にとって食料を得るための山であった。日本にウェストンが来て、嘉門次が上高地から案内したことから、山を征服するための登山の始まりでは、ということらしい。


 町には、今の時代は食べ物が溢れている。山は健康志向の時代になり、そのために登山客があふれる。登山道は土からコンクリートになり、植物は芽を出せないほどの硬さになってしまったところもある。
 植生回復のためにロープは張ってあるが、ロープ越えで、休んでいる登山者がいる。

「どうぞ、来年も、お花見が出来ますように」
 そう願うばかりだ。汗を流し、ゼイゼイ言いながらの山登りも、達成感と、してやったりの満足感がある。
 めったに見れない高尾スミレに出会ったりして、心いっぱい感動したりして、心に筋肉をつける山歩きもできて大満足でした。


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№201から転載


長州戦争から150年、高田藩戦没者たちの法要=広島・海田町

 ことしは幕末の長州戦争から、ちょうど150年の節目の年です。芸州口の戦いで、越後高田藩は多くの犠牲者を出しました。


 『長州戦争 高田藩戦没者 第150回大遠忌法要』が、平成28(2016)年8月7日、広島県安芸郡海田町の明顕寺で行われました。

「西国街道・海田市ガイドの会」では、明顕寺の境内も史跡案内しています。芸州口の戦いも組み込んで説明しています。

 こうした有志が、同寺のご住職さんに、150年忌の法要をお願いしたところ、快く承諾してくださいました。


 長州戦争の芸州口の戦いは、慶応2(1866)年6月14日に戦火が開かれました。長州藩の西洋式の最新鋭銃、さらに地の利にたいして、幕府軍は重装備で、旧式の兵器で惨敗だった、と一般に言われています。

 
 兵器の差も確かですが、戦争には戦術や兵力とは別の要因もはたらきます。
 

 
 越後高田藩は前年(1865)5月に越後を出発し、しばらく大坂にとどまり、海田市に到着したのが、同年12月です。さらに、芸州口の戦いまで、半年以上も、海田市の陣営で待たされました。

 あげくの果てに、先陣予定だった芸州広島藩が不戦を表明し、後方支援部隊の越後高田藩と彦根藩がとともに、長州藩との境界で戦うはめになったのです。


 最前線の兵士たちは、1年余も遠征疲れしており、戦意が高まらないまま戦いに臨み、長州藩兵に圧倒され、後退ばかり。
 越後高田藩は慶応2(1866)年8月7日に、「宮内の戦い」で、大量30人の戦死者を出しました。


 その後、援軍にきた幕府歩兵部隊と紀州藩兵が最新銃で応戦し、長州軍を押しもどし、さらに芸州広島藩が廿日市まで押し寄せた長州に怒りを持ち、宣戦布告をしました。

 毛利敬親の命令で、長州軍はたちまち岩国まで退却しました。

 最終的には、長州藩は藩境の拡大にも、さして勝利にもならず、幕府軍は初期の犠牲者だけが目立った戦いになりました。
(同年9月2日には、宮島・大巌寺での停戦協定で終止符を打ちました)。


 それから歳月は150年も流れました。越後高田藩の祥月命日となる8月7日に、海田市ガイドの会では芸州口の戦いで命を落とした人をしのび、法要をさせていただきました。


                       写真・文 土本誠治さん(広島市在住)
                           
                       

【寄稿・写真エッセイ】 警備の仕事で読書 = 原田公平

 警備の仕事で本が読める?
 そう、そういう職種もある。

 今日の仕事はガス会社だ。朝の9時から午後の7時まで、支社の控室で出動を待つ。どこかでガス漏れがあると、現場に飛んでいく。だが、なければ読書だけは許される。

 以前、この仕事で遅くなり、帰り電車がなくなり、二度とやるまいと思っていた。しかし、こんかいは依頼がきたときに、ボクは勘でこの日のガス漏れないなとヨミ、仕事を引き受けた。
 その実、働きながら、読みたい本があったからだ。

 2016年6月21日、梅雨に入り朝から雨だ。しかし、この日は、自宅を出たときからウキウキしている。

  3日前、千葉の朝日カルチャーセンターで穂高健一「写真エッセイ」を受講した。帰りぎわに受付の女性が「穂高先生の本が発売になりました」、とその本が積み上げてあり、1600円(税抜き)を買った。
 
 ボクがエッセイで穂高先生に師事して4年目となる。その間、先生は、東日本大津波を題材にした「小説3.11海は憎まず」、次に先生の郷土の広島、幕末の若者「二十歳の炎」を書き、どちらも読んだ。
 今度は440ページと読み応えありそうだ。
 本の帯がすごい、
「あづみ野の若い娘が徳川将軍を動かし、上高地を拓いた」
 日本山岳会会員で山男の穂高健一さんが本作によって祝日「山の日」と上高地記念大会を祝賀してくれることに感謝する。全国「山の日」協議会会長 衆議院議員 谷垣禎一、と明記してある。


 こんなに読書に適した環境はそうはない。出社すると、今日はガス漏れはないと、すぐさま本に集中する。


 
 この小説の舞台はまず、安曇野平から始まる。
 ボクは50代の夏休みは、家族と安曇野へよくドライブしたものだ。青々とした一面の田圃風景が好きだった。家内は美術館巡り、ボクは道祖神の写真を撮った。そのうえ、上高地にも足を運んでいるので、小説の舞台が身近に感じる。
 最初は「堰(せき)」づくりである。

 ボクの郷土・徳島を思い出した。

 実家は農家で吉野川の北岸地帯にあり、毎年夏は日照りで水田や畑の水が不足し、困っていた。
 中学生のころ、阿波用水の建設が始まり工事はよく見ていた。吉野川の上流から取水し、吉野川の北岸を潤す用水である。しかし、現場は人力が中心で、測量や、段差のあるところの用水路は大変さが実によくわかる。
  
 身近な先生の小説だ。エッセイ教室や飲み会で時折、取材のこととかを話されていたが、断片的でよくわかっていなかった。読むことによって、先生が何故、徳島の秘境の祖谷(いや)や飛騨にいったのかなどがわかった。 

 登場人物の多さには驚いた。先生は実在の人をフィクションで書いたと、まえがきにある。
 主な24人の顔かたち、体つき、そして性格描写、読者がイメージできるように簡潔にきりっと表現している。
 小説とはいままで読む側ばかりであったが、登場人物や女性を描くのは大変だろうと、初めて気が付いた。これが小説家だと思った。


 ボクはいままで多くのエッセイを書いてきているが、自分のことが中心で他人の顔や体形、性格を書いたことがない。これから読み手がわかる、人の描写などの勉強になった。

 また、仕事で交渉事の経験は多々あるが、ビジネスでは対等だった。
 しかしながら、この物語は農民、庄屋、豪商、大地主、郡代、地役人、藩士、勘定奉行に職人、学者と幅広い。その上、身分社会にそれぞれの利害と、メンツがからんでいく。

 賄賂政治や、弱い農民を追い込むと暴発して一揆になる様子は、搾取する側と、される側の実態に、農家の出身だからよく理解できる。

 小説に色を添えているのが、3人の女性だ。先生の好みが色濃くでているかな。

 共感できる本で、読む方はスラスラだ。片や書く人、先生の苦労を身近に思い浮かべながら、読んだ「燃える山脈」だった。


               「エッセイ教室の後のおしゃべり会、先生右から2人目」
 
 ボクは穂高先生に、是非、書いてほしいテーマと人物がいる。
 「四国八十八か所巡礼」と、現在の原型をつくった江戸時代の僧、真念である。
 「四国八十八か所」も、真念もよくわかっていないけれど、先生得意の取材と想像力で書いてほしい。
 定年退職者の多くは、一生に一度は四国巡礼をしたいし、若者は自分試しにと遍路者は増えている。一方、「四国八十八か所」は海外でも話題になり、多くの外国人も歩いている。
 先生は八十八か所の1番札所・霊山寺にも、既に訪れている。
 先生の「四国遍路」が読める日を、楽しみにしています。


【作者紹介】

 徳島県出身、アパレル業界に携わる。リタイアした後、旅行資金稼ぎで、ガードマンをしながら、アメリカ一人旅、世界一周の旅になんども挑戦している。意欲的な性格で、英語落語、民謡、諸々にチャレンジしている。
 リタイア後の人生は、「ひとの3倍生きる」が信条である。


 現在は、朝日カルチャーセンター「写真エッセイ教室」受講生。
 

【寄稿・エッセイ】 緑の歓談 = 青山貴文

 梅雨の晴れ間に広がる青空に、白い雲がわずかに浮かんでいる。久しぶりの上天気だ。おまけに、この時期には考えられない、高原を吹くような乾いた風が肌に心地よい。

 玄関の呼び鈴で出てみると、大手証券会社の高木耕輔君で、20歳代の若者だ。数日前に、きょうの来意の連絡があった。

 私は数年前から、異分野の若い方と、いろいろ話す機会を意図的に作ってきた。わが家にやってくる営業マンの中から、元気で馬の合いそうな数人の方に、
「私は技術屋ですが、現役のころ営業にでていたんです。営業マンは、止まり木をつくるとよいと先輩から教わり、当時から、時間ができると、気軽に訪問できる顧客を作るように心がけていたものです。会社を辞めても、止まり木だった方々との付き合いが長く、いまもってメール交換などしているんですよ」
「止まり木ですか」
「そうです。その止まり木の一つに、わたしを考えてください」
 なにかにつけて、そんな風に話している。

 そんな経緯もあって、数人の男女の若い営業マンが折を見て、わが家にやってくる。むろん、私にすれば、居ながらにして、最新事情を聴ける情報網となる。
 高木君にたいしても、
「金融界にいる方と話すと、活字を読まなくても、いろいろのことがわかり、すごく勉強になります。夏の暑い日や冬の寒い日には、あるいは困ったことがあったら、わが家に立ち寄りなさい。お茶でも飲んで、語らいましょう」
 と事あるごとに誘ってきた。

 きょうの高木君は大きな鞄をさげ、力なく肩をおとしていた。高木君は、このところの株安で、苦しい立場にあるらしい。お客から、きっと、いろいろ苦言をいわれているのであろう。株など、また上がってくるものだ。
 そう言いたいところだが、彼の顔の表情からしても、きょうはこの話題をしないことにきめた。

 ひとまず、わが家の南向きの客間に案内する。軒下近く植えた楓の樹が、大きく成長して、葉影を伸ばし、6畳間の客間はわりにうす暗い。
(高木君を元気づけるには相応しくないな)
 そう思った私は、障子戸を開け、さらにガラス戸も開けた。すると、網戸から光とさわやかな風が室内に入ってきた。
 
 ある考えが浮かんだ。

「きょうは残念ながら、話好きの妻が出かけていませんから、庭のキャンピングといきましょうか。この縁側から下駄を履いて、あの楓のそばの、椅子に腰かけて待っていてください」
 と芝庭の丸テーブルを指した。
 彼はすなおに踏み台の下駄を履いていた。

 私は、2階の書斎にある登山リュックから、携帯ガスボンベと取手のついた小さなポットを取りだした。その上で、水を入れた2リットル容器を階下におろす。片や、インスタントコーヒー瓶や2つのカップ、スプーンなども、お盆に載せて庭のテーブルに運んだ。

 ガスボンベに火をつけてから、ポットに水を注ぎ、湯を沸かしはじめた。この間に、台所の冷蔵庫からチョコレートを持ってきて、彼に勧めた。そして、2つのカップには、好みを訊いてインスタントコーヒを入れ、お湯を注ぐ。
「コーヒーには、チョコレートがあうんですよ」
 緑の濃淡の庭園で、ふたりして午後の陽射しをたのしむ。狭い庭だけれど、きょうの高木君にはきっと心休まる場所だろう。

 コーヒーを飲む一方で、時折り、椅子の背板ごとふんぞり返り、空を仰ぎみる。青い空、白い雲などがまぶしい。
「ここは、最高に気持ちがよいですね」
 彼は上着を脱ぎ、手足を伸ばし、周囲に目をやっている。
 楓の緑葉が陽光に当り、輝いている。それにも、こころを止めているようだ。


 若い頃、私はヨーロッパで、複写機用マグロールという磁石製品を拡販し、ヨーロッパ全土をくまなく飛び回っていた。

 顧客の中に、ディベロップ社という中堅複写機メーカーが南ドイツミュンヘンの郊外にあった。その副社長兼技術部長の家に、私はなんどか招ねかれたものだ。副社長だから、大邸宅かと思いきや、わが家の狭い庭とほぼ同じ広さだった。
 そこで、副社長は携帯ボンベでお湯をわかし、歓待してくれた。その奥様も語らいに加わっていた。いまとなれば、仕事の話などはすっかり忘れたが、歓談の光景だけは鮮明におぼえている。

 私は、高木君に、その体験談をゆっくり話して聞かせた。
「ヨーロッパのひとたちは、仕事もさることながら、生活を楽しんでいます。豪華なレストランに招かれるよりも、家族との歓談を考えてくれる顧客の方がうれしかった。いつか、あなたも海外にいくことがあるでしょう。私に似た体験もきっとするでしょう」
 こんな将来の話が、高木君の心にひびいたのか、彼の顔には、なにかふっきれた晴れやかさが戻ってきた。 

 この青年はいずれ結婚し、子供を持ち、いろいろな体験し、成長していくだろう。やがて、ある日、ふと、きょうの庭の緑陰の風景を思い出すかもしれない。そして、別の方法にしろ、年若い人にたいして、止まり木の場を提供する。そうなってくれると、うれしい。
 私はいつしか彼にそんな期待をしていた。


【寄稿 エッセイ】 何時に帰る? = 遠矢 慶子

 今日も私はお出かけだ。
 夫は、月に一回の病院と近くの散歩以外、ほとんど出かけることがない。
 我が家では結婚以来、出かけるときは、お互いに玄関まで見送る習慣がある。
「勝手に出ますから見送らないでください」というのに、玄関までくる。
 女性は、出かけるまでに着ていく洋服で迷い、持つバッグに迷い、やっと玄関に出ると、どの靴にしようかと、またあれこれ迷う。その間、夫は突立って待っている。

 今日もやっと決めて出ようと、玄関のドアーを開けると、さーっと冷たいが爽やかな風が入ってきた。
(外は少し寒そう、やはりショールを持って行こうかな)と、あわてて靴を脱ぎ部屋に取って返す。
「行ってきます」
「何時に帰る?」
「分かりません」
「遅くなる時は電話して」
「‥‥‥」
 夫の現役時代、私も玄関で夫を送るとき必ず
「何時にお帰りですか?」と聞いていた。
「何時になるか分からない!」
 それが夫のセリフだった。


 あの頃、朝は10時か11時に家を出て、帰宅はほとんど日にちが変わる12時過ぎだった。

 私は、学校に子供二人を送り出すので、五時半に起きる。早朝、目覚ましが鳴るとたまらない、心臓によくないと文句を言う。
 一方、夜中の1時、2時に、夫が寝室に入ってきて明かりをつけると、いやでも私は目が覚めてしまう。
 そのまままた寝られればよいが、寝そびれる事も度々で、この時間のずれで、お互いに不機嫌になることもあった。

 30年前に家の建て替えで、夫婦別室にし、やっと解決した。
 それ以来、夜は一人で好きなだけ音楽を聴いたり、本を読んだり、自分だけの時間を堪能できるようになった。
 夫婦別室にすると、ベッドメーキングはそれぞれ自分でするようになり、楽にもなった。
 夫は無頓着で、起きた時の布団をはいだまま、その上にパジャマが片袖は内側に入って、とぐろを巻いて脱ぎ捨ててある。
 もう仕事もない暇な毎日で、私は見て見ぬふりをして、手を貸さないでいる。

 友人夫婦10人でクルージングに行ったとき、大型船のキャビンに入ると、ドーンと大きなダブルベッドが真ん中においてあった。
「大変! ダブルベッドよ、どうする!」
 妻たちは大騒ぎをした。
 慌ててメイドを呼ぶと、ダブルベッドを真ん中から二つに離し、サイドテーブルを両側に置いて、ツインに変えてくれた。
 私たちは口をそろえて、「良かったーどうしようかと思った」

 メイドのいうのには、外国の方たちは、ツインにすると怒り騒ぎます。外国の夫婦の在り方と日本の夫婦の違いをまざまざと知った旅だった。
 昔からタタミとフトンの生活をしてきた日本人は、子供を真ん中に、川の字に寝るのが、幸せな家族の象徴とされてきた。

 今夜は、オペラでも聴きながら、クリムトの画集でも楽しもう。
 隣室の夫は、またテレビをつけっぱなしで、グーグー寝ていることだろう。
 

【寄稿 エッセイ】 「ミュゼ・イマジネール」のこと = 桑田 冨三子

 1988年に学生時代の仲間4人で会社をつくった。
 ミュゼ・イマジネール有限会社である。定款の目的には、商業デザインの企画、制作および販売、文学、美術および音楽関係の企画、制作、出版、それらに付帯する一切の事業と届け出た。

 私たちのやりたい子どもの本に関する活動のためには、組織にすることが好都合と考えたからである。
 言い出しっぺの島多代の家の、あまり広い部屋ではないが、古い英国調の応接間を事務所にした。折りたたみドアを引くと、隣の部屋は、天井まで届く本棚が、3方向ぐるりと囲む図書室である。真ん中に4人座りの丸テーブルを置き、これがミュゼの絵本資料室となった。

 本棚には世界から集められた貴重な古い本や絵本が3000冊ほど並んでおり、東ドイツ出版で、クレムケの挿絵のある「デカメロン」や、めったに見られない稀覯本もあった。故辻邦生氏が、これらを懐かしんで、よく読みにみえていた。

 私たちはそこで、子供の本の歴史をたどり、研究しながら、さまざまな企画を考え、実行してきた。
 思い出深いのは、1992年にベルリンで開かれた国際児童図書評議会に参加した時である。東ドイツ開催が決まっていたのに、思いがけなく1990年に東西ドイツが統一された。長い間、分離されていた東と西のドイツが共に、会を主宰することになった。

 政治的には、西が、東を吸収する形だったが、文化的には、オリンピック選手の体力の差が顕著だったように、本の世界にも政府が大きく力を注いだ東が、圧倒的に優位だったのである。
 崩れたベルリンの壁を越えて、東と西を行き来した私たちは、日本にいては、とてもわからない東西のわだかまりを強く感じた。

 ベルリンの、元日本大使館だった建物が日独センターになっていた。そこで日独の児童文学シンポジウムが行われ、両国の専門家の報告があり、詩の朗読などがあった。
 日本からは、詩人で作家の阪田寛夫氏や、画家の小野かおる氏、児童文学者の猪熊葉子氏なども参加されていた。

 そのほか、印象に残っている事業は、ミュゼの昔の本「マザー・グース」を使って、港区の小学校で低学年の英語教室を開いたり、ベルリンの日独センターで日本の絵本展を開くなど、いろいろな試みをした。
 良い絵本には、画家が丹精を込めて描いた絵がある。子どもは、その絵の素晴らしさをちゃんと見分ける力を持っている。

 絵本の歴史を辿りながら、ミュゼの本の中にある魅力的な絵を抜き出して、解説付きのカレンダーをつくり、毎年、財団法人東京子ども図書館から販売するようになった。
 これがそのまま絵本の歴史書として役に立つから、読聞かせをするお母さん達の間でたいそう好評になり、年末には売り切れるほどになった。

 このカレンダーの2011年度版は、ゲルトルート・カスパーリの「小さな子供のための面白絵本」と決まった。


 カスパーリは1873年にドイツ東部で生まれ、1948年ドレスデン郊外で生涯を終えた女流画家である。
 子ども向け絵葉書デザインを皮切りに、子どもの生活環境を丹念に描き、人気が出て50冊以上の絵本を描いた。詩や昔話、教科書、工作や絵の手引書を描き、ドイツの大人、子どもに広く親しまれた人である。

 カスパーリは、子どもを一人の人間として観察し、子どもが見つけたものを創造的な営みへと導き、教条主義からこどもを解放して、20世紀の新しい教育の始まりとなった。カスパーリの絵は明るい灰色、薄茶、又は乳白色のフラットな背景で、遠近法を用いずに、くっきりとした輪郭に澄んだ色で描かれ、世紀末のひとつの典型である。

 絵本がドイツ語であるから翻訳は私の役目となった。
 言葉は、子ども向けだから易しく、詩のように短い。難しかったのは文字の解読であった。出版は1907年で、文字は現在のドイツでは使わない、ユーゲント・シュティール風の格好いい装飾文字である。
 現代の、そう若くもないドイツ人に見せても、両手を広げて首をすくめるだけで、すんなり読める人はほとんどいない。日本でいえば、巻紙に変体仮名でしたためた優雅な文字のごとく、簡単には読むことができなかった。
 正直言って翻訳より、この字を読み解くほうがずっとむつかしかった。


 ミュゼ・イマジネール有限会は、今年5月で終わりにした。28年間だった。すべてのものには終わりがある。世の習いだ。
 でも、ミュゼの本たちに会いたくなったなら、ネットの「絵本ギャラリー国会図書館国際子ども図書館」を開けばよい。
「不思議な国のアリス」の初版本(1865年)でも「ホーンブック」でも、全ページが姿を現してくれる。

【寄稿 エッセイ】 子供の善意 = 奥田 和美

 社会教育館の窓口に、小学4~5年生の女の子が二人やって来た。もじもじしながら、
「どっちが言う?」
「あたし? あんたが言いなよ」
「じゃあ、一緒に言おうか。せーの」
「スズメが車に轢かれて血だらけになっています」
「あら、そう。どこですか?」
 私はビニール手袋をして、トイレットペーパーと箒とチリ取りを持って外に出た。

 社会教育館は区の施設で、会議や勉強会、体操やダンスなどの会場を提供している。子供たちは、ここの人ならなんとかしてくれると思ったのだろう。二人は自転車に乗って、
「こっちです」
 とスイスイ先を行く。

(えっ、すぐそばじゃないの?)
 私は走って追いかける。この建物の目の前の出来事かと思っていたのだ。一ブロック先の信号のあるところで止まった。
「ここです」
 見ると、スズメはぺちゃんこにつぶれていて、延し烏賊のようになっていた。何の鳥だかわからない。尾羽だけが形を残していた。
 血は乾いていて地面に染みついている。

 私はトイレットペーパーを丸めて、道路にひっついた死骸をこすり取る。気持ち良いものではない。子供たちは、
「バイクにやられたんだよね、きっと」
「車じゃない? かわいそう」
 片付け終わって、
「これでよし。知らせてくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
 私は心とは裏腹な言葉を言っていた。


 以前、車を運転する人に聞いたことがある。
「道路で犬や猫が轢かれると、一時間ぐらいして帰りに見ると、カラカラになっているよ。カラカラ」
 そうなのだ。結局、埃になってしまうのだ。
夜、娘にこの話をしたら、
「その子たちにちゃんと話せばよかったじゃない。どうせゴミ箱に捨てたんでしょう?」
「そうだけど、放っておけないでしょう。あの子たちは善意で言ってきたのだから。好いことをしたと思っているのよ」
 社会教育館の同僚も私と同じ意見だった。
 車に轢かれた鳥はもう助からない。でも、子供たちの善意を無下に断るわけにはいかなかった。