寄稿・みんなの作品

【孔雀船100号 詩】 白雲 紫 圭子

真夜中

窓をあけてベランダにでる

頭上に白い雲が大きく楕円にひろがっていた

空は群青に冴え渡って

白雲.jpg白い雲は

かたちをくずしながら呼吸している


(宇宙からきた巨大雪玉が大気に触れて白雲に変化し雨をふらせる

と言った科学者がいた


真夜中の白雲

眺める眼の淵で量感を増し

雲の縁はきらきらとゆれて

なにかが吹雪いた

はなびら

雲に宿るいのち

水分だった


真昼

境内で満開の桜を見上げたとき

鈴の音がひびいてきた

鈴のなかの桜の昼が呼ばれて

わたくしの鳩尾をゆすった


そっと

足裏のはなびらを踏みしめて

真夜中

あの白雲を追っていた

PDF・縦書き 白雲 (紫.pdf

【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

『いたましい海難事故』 1955(昭和30)年5月11日は? 土岡健太

 土岡健太です。広島県・呉市在住です。

 広島県大崎上島がご出身の穂高健一先生の著作「神峰山(かみのみねやま)」を再度ご紹介させてください。

 この本は5作の短編で構成されています。先夜、その中の「女郎っ子」をまた読んで、また泣きました。
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 1955(昭和30)年5月11日、大崎町木江南小学校6年生の修学旅行で、主人公の乗船していた"宇高連絡船"「紫雲丸」が高松沖で沈没。多くの方が犠牲になりました。

 犠牲者は168名に上り、うち修学旅行中の四校の児童生徒、先生は100名を数え、木江南小学校は児童22人、先生3人が犠牲になったとあります。大惨事でした。
 主人公も亡くなりました。

 じつは父の実家が香川県にあるので、幼いころこの宇高連絡船には何度か乗って、四国に渡ったことがあります。

 連絡船は岡山県の宇野港から高松港まで貨車も積む大きな船で、出航を知らせるドラの音も懐かしく思い出されました。

 その記憶と小説の描写が重なります。また、私(土岡健太)の修学旅行も「金毘羅さん、屋島」、とよく似たコースでしたので、尚更共感しました。

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   栗林公園で昼弁当 1962(昭和37)年


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   丸亀城 1962(昭和37)年

  1957(昭和32)年4月12日、広島県生口島瀬戸田港近くで起きた、忘れてならない身近な大海難事故に「北川丸沈没事故」があります。

 あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

                        【了】   

【特別・寄稿】 津田正生と『天保鎗ヶ嶽日記』=上村信太郎

 槍ヶ岳は登山者なら登ってみたくなる日本を代表する名山である。記録に残る槍ヶ岳開山は意外に新しく、江戸時代の文政11年7月、念仏行者「播隆(ばんりゅう)」と安曇野の村人たちによって成し遂げられた。


 播隆が3度目の槍ヶ岳登山をした天保4年に、尾張の地理学者、津田正生(つだまさなり)が槍ヶ岳に登頂してその記録を『天保鎗ヶ嶽日記』として1冊の書物に纏めたとされている。
 だが、新田次郎の小説に津田は登場しない。また、平成17年発行の『日本登山史年表』(山と溪谷社)にも津田の名前は出てこない。

 なぜかといえば、登山史研究者の間では津田の日記は「幻の登山日記」とも呼ばれていて長い間存在は知られているのに、原本を見た者が殆んどいなかったからだ。

槍ヶ岳.jpg
 ところが昭和57年に進展があった。『天保鎗ヶ嶽日記』の草稿が発見されたのだ。発見の経緯は『岳人』(419号)に杉本誠氏が《幻の書ー世に出る》の見出しで写真入り4ページにわたって紹介している。

 ただし、愛知県下の旧家(服部家)から発見されたのはあくまで草稿で、和紙2枚の表裏に墨書して綴じた4ページ分と別紙1枚である。


 文章の冒頭に、槍ヶ岳登山の動機が述べられている。

 それによれば、39歳のとき加賀白山を登った折りに、ひときわ高い飛騨の乗鞍岳と信濃の槍ヶ岳を望見して、その時からずっと登りたいと思っていた。そして58歳になった天保4年7月、いよいよ友人と尾張を出立した......。と書き始めている。だが、中山道の妻籠に入ったところまでのわずか3日分で終わっている。

 草稿発見のスクープを中日新聞社の杉本氏に知らせたのは、杉本氏の友人である民俗学研究者の津田豊彦氏(津田正生から6代目子孫)だった。

 一方、『天保鎗ヶ嶽日記』の写本を実際に目にしたという人物がいるのだが、結局みつかっておらず今でも「幻の書」なのである。

         *

 ところで津田正生とはいったいどんな人物なのだろう。安永5年に尾張国(現愛知県愛西市)の津田與治兵衛盛政の子として生まれる。

 生家は酒造りを営み、地元では近村に並びなき豪農と言われていたという。幼い頃より様々な習い事を体得し、20歳頃から学問に励み、旅行や史跡を訪ね、高山にも登った。

 やがて寛政12年頃から号を「六合庵」と名乗り、多数の書物を著す。なかでも文化年間から長い期間を費やし天保7年に完成したのが『尾張地名考』全12巻。尾張藩に納められた。今では尾張地方の歴史研究には必需書とされているという。

 平成9年、槍ヶ岳山荘の穂刈三寿雄氏、長男の貞雄氏共著による『槍ヶ岳開山 播隆〔増訂版〕』(大修館書店)が刊行され、この本で初めて津田の登山について初めて簡単に紹介された。

           *
 
 国民の祝日「山の日」が平成28年に新設された。これを記念して『燃える山脈』というタイトルの安曇野と上高地を舞台にした時代小説が執筆された。
 作品は前年~翌年にわたり地方新聞『市民タイムス』(本社・松本市)に連載され、連載終了後に山と溪谷社から単行本として出版された。


 著者は穂高健一氏。小説では槍ヶ岳を登攀した津田正生が出てくる。

 穂高氏は、執筆前に津田の故郷、愛知県愛西市を訪れて取材を重ね、津田の槍ヶ岳登山を裏付ける有力な史料を確認している。それは《尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ヶ嶽とほ登りしに1番にあらず2番と代わりしも口惜候也...》と記された短冊だという。

 また、津田の2年後には安曇野の庄屋・務台景邦が信仰心からでなく槍ヶ岳に登った記録が松本の玄向寺に残されているという。当時の槍ヶ岳には津田のような知識人が他にも登っていたかもしれない...。(白山書房刊『山の本』119号記事を縮小)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

雪化粧した富士山くっきりの矢倉岳(870m)=関本誠一

日時 : 2021年11月25日(木) 晴れ

参加メンバー : L佐治ひろみ、武部実、佐藤京子、開田守、関本誠一(計5人)

コース : 新松田駅(バス)⇒矢倉沢BS~矢倉岳(昼食)~(足柄万葉公園)~地蔵堂BS⇒新松田駅

登山記録

 これから登る矢倉岳は、おむすびの形をした山で、その特徴的な形状から、標高が高くないにもかかわらず、街なかからも目立ち、地元の人たちからは「たけのこし」と称して親しまれている。

 ここ南足柄市周辺はフィリピン海プレートと北米プレートの境目になっており、世界でもまれな場所である。
 国府津-松田断層があり、山頂付近はマグマが噴火せず、地下深くでゆっくりと冷え固まってできた「深成岩(石英閃绿岩)」 と呼ばれる岩石が、現在の高さ(870m)まで隆起してできたもの。しかも、数キロしか離れていない箱根山が、今も活発な火山活動しているのとは対照的である。
 この場所がダイナミックに変動したかを物語ってくれる。ブラタモリもびっくり!ジオサイトだ。


 新松田駅に8:40集合した。8:45発のバスで、南麓登山口のある矢倉沢BSに9:20到着する。

 バス停からジオパークを過ぎ、民家(?)の壁に大きく書かれた標識に従って進む。舗装路から急な登りが始まり、さらに鹿(イノシシ)柵をくぐると、本格的な登山道に入る。

 緩急の坂を繰り返しながら、日当たりのよい登山道を登ってゆく。紅葉が一部残っており、これを目の当たりにすると、息苦しさも忘れるくらい和ましてくれる。
 山頂直下の最後の急登を登りつめると、矢倉岳山頂に到着(11:25)した。

 山頂には数パーティーが休憩中だったが、我々が登ったコースで他の登山者とすれ違うことはなかった。
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 山頂からの展望はいうことなし。かつては木製の展望台(櫓)があったらしいが、この山には不要である。

 箱根・神山と外輪山の金時山、明神が岳、7~8合目まで雪化粧した富士山、愛鷹山群にかけての眺望撮影に30分も夢中、落ち着いたところでようやくランチタイムとなる。

 山頂滞在1時間後に出発(12:30)する。足柄峠方面に向かう。途中、万葉集が書かれた立て札のある足柄万葉公園を通過する。

 下山は足柄古道を下る。

 この道は1200年前の奈良・平安時代の東西交易路の一部で御殿場からこの地(足柄峠)をえて、坂本(関本)を通り小絵(国府津)から箕輪(伊勢原)、武蔵へと続いていた。だが、富士山の噴火で一時通行止めになってから東海道が主流となり人々の往来も少なくなり、わずかに残る石畳がかつての風情を醸し出していた。

 車道を横切るように道が続いており、ところどころ矢倉岳を正面に見ながら下ってゆく。地蔵堂BSには約1時間で到着する(15:00)。

 バス便までの40分ほどバス停脇の茶屋でミニ反省会。その後は有志で新松田駅近くでの反省会で締める。新型コロナが落ち着いているなかのハイキング日和と、筆者とって2年ぶりの会山行、同行した山仲間に感謝だ。


            ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報266から転載

高尾東山稜 ~ 初沢山(294m)の新雪ハイク =佐藤京子

日時 : 2022.2.12(土)                
メンバー  : L上村信太郎、佐治ひろみ、宮本武、佐藤京子                           
集合場所 : 京王高尾山口駅 10時集合
コース :  高尾山口駅~四辻~金毘羅山~初沢山~高尾駅


今年初めての山行だ。風もなく天気も上々である。

 2日前に都心にも新雪が降ったので、アイゼンをというアドバイスをいただき、スパッツとともにリュックに詰める。
 高尾山口に10時に集合。パソコン検索で良い地図が見つからなかったこともあり、駅の売店で「新版高尾山登山詳細12,500分の1」を買う。これで今後、自分の行動範囲が少しは広がると思う。 

 西氷川橋を渡り、甲州街道を右へ。ホテルTAKAONE(タカオネ)の前を右に少し進むと商店と駐車場の間に細い道があり「登山道ではありません」という看板があった。
 紛らわしいがここを入る。
「かたらいの路・高尾・草戸コース 四辻・高尾駅」の看板が見えたところから細い山道に入ると、雪道が山へと続いていた。
 リーダーの指示によりアイゼンを装着しストックを出す。私は、アイゼンを使用するのが3回目なのでとても嬉しい。
 
 雪道を登っていくと遠くになだらかな初沢山がくっきりと見えた。椿の花が冬景色にいろどりを添えている。
 四辻から金毘羅神社に向かうところに蝋梅が咲いていた。茶色の枯れた大きな実をつけている。
 ろうばい園などでは、きれいに見せるため種を取っているのだと佐治さんが教えてくれた。

 金毘羅特別保全地区を歩き、浅川金毘羅宮の長い階段を登る。12時20分に狭い頂上に着いた。ここで昼食を摂る。
kamimura2022.3.8.001.jpg
 この神社では、雨水を大きなドラム缶に貯めて、蛇口をつけて利用し「自然護持 未来永劫 天水尊」と書いてある。

 午後は、1時に出発した。初沢山高尾天神社の階段を登ると、境内には蝋梅が咲いていた。二宮尊徳像もあった。
 1時40分頃、山頂の初沢城址跡に到着する。

<やすべえの森>と書いた手作りの看板に「やすべえさんは身代を興し、せっせと土地を買って、誰でも散歩できるよう柵もせず、ぐるぐる小径をつくった。のちに、山口安兵衛さんのご子孫が市に寄付された。」《高尾 浅川の自然を守る会》と書いてあった。


 ここでのんびりコゲラ、メジロ、ヤマガラをウオッチする。しばらく下ると、黄色い円錐形の巨大な塔が見えてきた。「高尾みころも霊堂」だ。
 みころも公園にシラサギが1羽が羽ばたく。雑木林から小鳥の鳴き声がたくさん聞こえる。カワセミもいた。
 双眼鏡で美しい姿に見とれる。
 いつか鳥の名前と鳴き声が、それぞれ聞き分けられるようになりたいものだ。

 久々に山歩きができて楽しい一日だった。高尾駅前で反省会をしたのは久しぶりだ。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

【孔雀船99号 詩】 思い出集め  望月苑巳

公園で孫とキャッチボール

鬼ごっこ

かくれんぼ

家では誕生日のケーキの上の蝋燭を吹き消す

(何だか命の灯を消すみたいで悲しい気分になるが、本当のことは誰にも言えない

お正月、普段顔を見せない娘夫婦が

birthday-cake 2022.2.14.pngこぞって笑顔を持ってくる

(作り物でないことを祈ろう

そんな時、ビデオで撮っておきたいと思う

ビデオならいつでも再生できるから

(ただ、ビデオには心まで映らないから残念だ

友人が訪ねてくる

スリッパを出す

たくさんの人を招き入れたスリッパだ

匂いがつけば鼻つまみものにされ

ボロボロになれば即お役御免

それまでは文句ひとつ言わず

どんなに臭い足で

穴の開いた水虫たっぷりの靴下も

受け入れてきた可哀想なスリッパよ

お前も思い出集めの仲間になりたくはないか

そうだお前こそ家族の一員だった

ビデオの主役になる権利がある

だからこっそり撮っておこう

孫たちから文句が出ようが

消去しはしない

(そう決めたのに今朝起きてみるとスリッパラックにお前がいない

妻に問えば「昨日、ごみに出したわよ」

思い出集めの終楽章はいつもこんなに

たわいなく残酷だ


思い出集め (1).pdf


【関連情報】

 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【孔雀船99号 詩】 青へ翔ぶ 高島清子

郭公や鶯や名も知らぬ鳥の声が満ちている朝

私は窓の奥に逃げてジャマイカのコーヒーを淹れ

ひと時の安らぎを飲みながら

危険な隣人となったコロナのことを思った

2022.2.15 003jpg.png
テレビにはIQ240だという

台湾のオードリー・タンの大顔が映り

私は心は女性なのよと言っている 

救世主となった今はそのどちらでも差し支えは無いだろう

あの時いち早く世界中のマスクを買い集め国民を救った

超天才の次の言葉を待ちながらテレビは消せない


私は香しいカフェインのせいで詩的脳になる

地球が首に巻いている青い紗のスカーフは

バンアレン帯でありそのまた奥は漆黒の宇宙で

正体不明の暗黒物質だと知ったのだが

そこまでで夢は終りなのだ


私の夢の先のそのまた遠くで

静かにサイコロを振っている者がいる

ひとまず神とすればイメージしやすいので神とすると

台湾の天才も釈迦もキリストも私たちも

神の手が振るサイコロの目で

この世界は神の遊びの庭であると思えば

なんだか嬉しくはないか

君の運命も私の今日も設計図の点に過ぎないとすれば


北半球に六月の匂いが満ちているのに

この頃は人たちの心の枠が少しづれて

無いものをかき集めて無理やり(幸福)と言ったり

当たり前のことにやたら(ありがとう)と言うのには

うんざりである


今朝私の窓を掠めて飛び去った一羽の鳥が

澄んだ声で歌いながら

碧の中へと落ちて行くのを見た


青へ翔ぶ(高嶋 (1).pdf


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 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【孔雀船99号 詩】 贋札の肖像 尾世川正明

おんな友達と住む

庭付きの小さな家を

東京の西の方で林のなかに探して借りる

朝晩に

わざとゆうれいのようにそっと裏口から出入りすると

なんだか彼女の同居人としてのよろこび

シックリ感がたまらなく心地よく
2022.2.15 002.jpg
たとえば試みに

わたしの新品のシャツを洗って庭に干して

わざと十日間ぐらいそのままほっておいても

なんの違和感もなくぶら下がったまま

シャツは干物のように干からびてしまう

ところが深夜のためにかるい菓子など買い揃えて

テレビの前にそっと置いておくと

いつの間にかちゃんと減っているので

うれしくなって庭の木にも

小鳥箱を作って餌を置いてみたりしたくなってくる

掘り返した

庭の隅に

水仙の球根などを植える

出てきた先のとがったうすみどりの芽を見ている

彼女の横顔が

おさな友達の女の子の顔に見えてきて

ある日

「××ちゃん」と呼んでみたところ

ちょっと不思議な虫のような顔に変って

「それは私の名前じゃないみたいだけど」と

振り向いてくれたりもする

ほとんど食事は別々だけど

たまに食堂で一緒に食べる夕食で

きまって彼女は冷えた白ワインを飲むので

つきあって飲んでしまうわたしが

いつも先にすっかり酔っぱらって

知らないうちに床で寝てしまう

そんなときも

朝にはたいていテーブルの上は

百人の女官の仕える

宮廷の奥の掃除が行き届いた

ちりひとつない鏡の表面ように片付いている

夏の夕暮れには彼女がゆったりと風呂場で歌うので

家中に

古いイタリア歌曲がとてもよく響く

それがなにより楽しみでわたしは

仕事もせずにじっとリビングで音を立てずに待っている

旅行好きの彼女が旅行にでると

家の中はすっかり隅々まで空白に満たされて

わたしの生活は

時計のように金ぴかで無機質で正確になる

ところが

年初に南方の島でひどい火山の噴火があった年に

彼女は春になって旅に出かけたまま

いつまでたっても帰ってこない

わたしは彼女との楽しかった生活を小説に写そうと

記憶をたどりながら

なんとか数百枚の原稿を書いたところで

ある朝目覚めたら

ずっと思い描けなかった

彼女の顔が

財布のなかの

外国から持ち帰った贋の十ポンド紙幣に描かれた

ジェーン・オースティンの肖像のように

美しく

脳裏にくっきりと見えてきた

贋札の肖像(尾世川.pdf


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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船99号 詩】 スノードーム 䑓 洋子

透明な 空になったジャム瓶の蓋の内側に

一〇〇均の小さなサンタを貼り付け

ラメと星形のスパンコールをひとつまみ入れ

薄めた洗濯のりをビンいっぱいに流し込み

しっかりと蓋を閉め

さかさまにすると

2022.2.15 004jpg.jpg
サンタの上に煌めく雪が降りしきる

大人たちの玩具づくり


ささやかな 一〇分足らずの工芸を

「ひさしぶりに楽しかった」と口々に言い

ひととき病は影を潜め

デイルームに 笑い声が降りしきる


くるりくるり さかさまにしては

舞い踊る雪の中の人形に微笑み

話しかけている


棚に飾ります

いいクリスマスになります

誰も来ないけど 今夜は寂しくありません


大切に 大切に両手で包んで

それぞれの

吹雪の部屋へ帰っていく


孔雀船99号 スノードーム(臺).pdf


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【孔雀船99号 詩】 父の書架 福間明子

晩春の書斎にはうっすらと黴がはびこり

ひっそりとして その静けさの中に侵入する

主がいないとはこういうことかと思いながら

いない主を探しているわたしだった

2022.2.15 005.jpg「その名を水に書かれし者 ここに眠る」⋆

父の愛したキーツの本がずらりと並んでいる

生前聞いたイタリア旅行の話を憶えている

ローマのスペイン階段のそばのキーツ館

病療養中に住んでいたという館の寝室のこと

残されたキーツのデスマスクのことなど


今思えば内なる魂のありようを問われていた

通り過ぎていった声の先には表現のありようを

わたしは父に問われていたのだ

デスマスクの存在は死後に他者によってとられる

「わたしの死はわたしのものではない」⋆

デスマスクの前で父はキーツに何を問われたのか


小さな額縁の父が描いた桃の絵が掛かっている

やわらかな風合いの桃の実ひとつ

わたしが食べますと言ってしまいそうな絵

桃色とはこんなにも美しいものだったのか

「こんな風に世界は終わる」のフレーズの

T.Sエリオットの詩集を選んで持ち帰った

*キーツの墓碑銘
*岡田温司著「デスマスク」から


父の書架(福間明子.pdf


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