A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』③=なんで、ここで忠臣蔵?

 旗巻峠はさかのぼれば、戦国時代は相馬藩領(平将門の血統の地)だった。1585(天正13)年に、伊達正宗が侵攻し、仙台藩となった。その後、現在の宮城県にまで引き継ぐ。
 相馬側には「奪われた土地だ」という意識が300年続いてきた。そして、相馬は戊辰戦争で、官軍に寝返って仙台を攻撃した。

 だから、大勢の仙台藩士が亡くなった。旗巻峠で老人に、そんな話を持ち出すと、薩長が悪いのだと強調する。名君の伊達正宗の相馬領への侵略行為にはふれたくなかったのだろう。


「どこから来たの」
 老人からそう問われたから、広島からです、と出身地で答えてみた。東京在住の作家だと名のりたくない、咄嗟にそんな気持が働いたからだ。
「広島だと毛利だね?」
「関ヶ原の戦いまで広島は毛利です。(毛利元就の出身地)。しかし、戊辰戦争のころの幕末は、浅野家です」
「すると赤穂浅野の関係だね」
 忠臣蔵が有名すぎて、老人は本家が赤穂浅野だったと信じ込んでいる。
「広島浅野は宗家で、浅野は支藩です」
 と話しても、老人はよく解っていない口調だった。
 広島浅野は42万石で、赤穂浅野は5万石である。赤穂藩主の浅野内匠頭の妻・阿久里すら、三次浅野家(広島県)から嫁いでいる。

 元禄・徳川将軍綱吉の時代に、浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で、吉良上野介にたいして刃傷事件を起こした。内匠頭はその日のうちに切腹になった。

 その後の宗家・広島浅野家は、赤穂にたいしてつよい影響力を示した。

 深夜、大勢の町人が略奪目的で、赤穂浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏口に乱入してきた。そこで、広島藩は軍隊を出動し、鎮圧し、上屋敷の治安を取り戻した。
 一方で、妻・阿久里を三次浅野家の屋敷に移させた。


「そんなに広島藩が関わっているの」
「忠臣蔵では、大石内蔵助がすべての主役であり、決断者でないと面白くないからね。宗家や幕府などから言われて、渋々と赤穂城を明け渡した、それだと筋書きは面白くないし」

 広島浅野家から使者が、赤穂城にたびたび出向いている。そして、国家老(大石内蔵助、大野九郎兵)たちに、穏便に開城せよ、と圧力をかけた。むろん、上から目線の強い圧力だ。

 封建制度の下では、5万石の家老は42万石の宗家に反論などできない。藩主ならば、多少の口答えもできるだろう。しかし、1500石取りの家老の身分では、宗家の意向に従わざるを得ない。それが身分制度の秩序だ。せめて、「お家再興の労をお取りください」と願いでるだけだ。

 城明け渡し後に、討ち入る不穏な空気を察した広島浅野家は、「浅野家は赤穂だけではない、他にも支藩がいる。迷惑が及ぶ」と浪士たちの動きを探索し、一本釣りで説得を図り、次々に止めさせている。
 だから、実際は四十七人よりも、かなり多かった人数のはずだ。最初から一途に足並みが揃っていたわけではない。

 討ち入り後、大石内蔵助の妻は広島に引き取った。三男は芸州広島藩藩士として受け入れた。大石内蔵助と力の墓が、いま現在、広島市内の高間省三(遺髪のみ)の墓地とおなじところにある。

 演劇『忠臣蔵』で、広島浅野家が出てくると、舞台が面白くなくなる。庶民が楽しむ観劇だから、史実に忠実に運ぶ必要などない。無視しても当然である。
 忠臣蔵が別段、軍国主義に利用されたわけではないし……。為政者に逆らうのは、庶民の心地良さなのだから。

 ちなみに、高輪泉岳寺には「四十七士の墓」とおなじ墓地の敷地に、『戊辰戦争・芸州広島藩士の墓』が堂々とある。参拝者はなぜ?と思うようだ。
 広島藩は戊辰戦争で、この泉岳寺を中継地で進発しており、さらに戦死者をここに祀った。浅野家の本家だから、菩提寺として当然なのだ。

 宮城県・旗巻峠まで来て、これら広島浅野家と「忠臣蔵」の一端を話していたが、ここであいての理解を得ても仕方ないと冷めてきた。仙台藩には無関係な忠臣蔵など、こちらの方がつまらなくなったのだ。

 私の態度を見とった老人は、道案内の口調で、仙台藩士たちが眠る墓のある方角を指していた。
                                   
                                         【つづく】

『関連情報』
 大石内蔵助と大石力の墓が、広島市内の墓地にあるとはほとんど知られていないので、ここに写真で掲載しておきます。

 赤穂浅野家の藩士たちは、お家断絶になっても、いかに宗家の広島浅野家に顔を向けていたか、それが解ります。

 忠臣蔵フアンは、広島まで、お参りに来ないようで、いつもひっそりしています。それよりも、宗家・広島浅野家の支配の下で、動いていたと認めたくないのでしょうね。


 
 「唯一、生き残った寺坂吉右衛門が広島を訪ね、討ち入り成功を広島藩に報告したという」

 ミステリー小説ならば、この文面から推理すれば、おもしろいストーリーができる。
 浅野家は豊臣家臣の主力だった。徳川の世になり、吉良などが威張りはじめた。広島浅野家は、和歌山から移封(てんぽう)させられた。(和歌山は徳川家が居座った)。さらには赤穂がお家断絶となり、分与していた赤穂5万石が減になってしまった。
 怒った宗家・広島浅野家が外様としても、徳川家に近い吉良に対して怨念を果たす。大石内蔵助を使い、討ち入りさせた。

 何ごとも戦うにはお金が必要だ。約50人の部隊を動かすとなると、半端なお金ではない。浪人者ではできない。陰には真の実行支配者がいた。それが広島浅野だった。
 討ち入りの内情掌握のために、「1人は別途に生き延びて、広島に報告せよ」と命じた。この計画を推し進める途中でも、力のない者は、途中で肩たたきでスポイルアウト(除外)していった。そして、四十七士に絞り込んで、大石に討ち入りさせた。


 当座は、徳川の目をごまかすために、遺髪は菩提寺・国泰寺にはおかず、聖光寺にした。(この寺は広島では随一の広さだ)。

 関ヶ原の戦いから100年後だ。戦国武士の思想や色彩がまだ残っている。戦国大名で大阪城の築城を取り仕切った浅野の頭脳を受け継ぐ宗家ならば、素直に引き下がらず、5万石を失った仇で、この程度の策略はやりそうだけれど……。
 こんな異説の展開もありかな。

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