A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』④=消された歴史ほど、政治家は嫌う

 旗巻峠は、標高280メートルだ。仙台藩から相馬中村藩に通じる、戦略的な重要地点だった。

 戊辰戦争で、仙台藩が最大の犠牲者を出したのは、ここよりもひとつ前、浜通りの戦い『駒ヶ岳の戦い』である。熾烈な激戦となり、仙台藩は数百人の死者を出している。のみならず、官軍側も、多くの犠牲者を出している。
 
 広島側の資料を見ると、戦場が「駒ヶ岳山麓」の水田地帯だった。すさまじい仙台の猛攻に対して遮蔽になるものがない。敵から丸見えの広い田園地帯で行われた。仙台藩が総力をかけた、猛烈なる防戦で、一兵も進めない状態に陥っている。
 芸州・神機隊が「ここは駒ヶ岳の関門に向って、正面突破を図ろう」と提案した。すると、「長州藩の隊長はこれには周章(うろたえ)てしまった」と記す。
 
 下関で四か国と戦い、第二次征長でも練磨の、戦い巧者の長州がおびえるほど、仙台藩は強かったのだ。仙台藩は大小砲を激発し「筑前藩も猶予して進まず」。
「この激戦は環視(みているだけ)では解決できず。敵の飛弾を犯し、切り込まざるは利なし。抜刀し突撃するべきだ」
 神機隊はそう主張するが、長州藩、筑前藩の両隊長はついに動かなかった。

『先鋒の神機隊は突貫、突撃した』
 初めのうちは長州・筑前は無謀だと笑っていた。それが驚きになり、やがて賞賛に変わったのだ。
『われらは駒ヶ岳の砲台に登り詰めた。そして、縦横に敵兵を斬殺していく。乱殺に遭った敵は、兵器や屍を放棄して、仙台藩はことごとく敗走していく』

 仙台藩は藩士、足軽のほかに、荷役の雑兵が大勢いる。かれらは銃撃戦だと、胸壁や物陰に隠れていれば銃弾が避けられる。
 しかし、大勢の抜刀で襲われると、鳩の集団に石を投げたのと同じで、一目散に逃げ出す。数百人が駆けだすと、群集心理が伝染し、もはや藩士たちの手に負えなくなるのだ。

 芸州広島藩の神機隊はわずか270人だが、全員が西洋式訓練で鍛えられた職業軍人だった。一か所を突撃で破れば、大勢の敵の雑兵がすぐに逃げる。これは高間省三砲隊長(20)が広野の戦いから、数千人の兵力の相馬・仙台軍を相手に、幾度もとった攻撃方法である。
 連戦連勝で、北上を続けていたが、高間は浪江の砲台を奪った瞬間に、顔面に銃弾を受けて死す。
  歴史長編小説『二十歳の炎』(6月中旬刊行予定)で、これら戦場をリアルに描いている

  高間戦術はその後も生かされ続けたのだ。

 駒ヶ岳から敗走した仙台軍は、旗巻峠を最後の砦とした。ここを破られると、もはや仙台領内の戦だ。犠牲は領民にまで広く及ぶ。だから死守するところだ。

 史跡の文面の一部を紹介すると、

『仙台藩の鮎貝盛房(参政)の指揮の下、米沢藩、庄内藩、旧幕臣を加えた。歩兵15隊の1200兵、大砲4門を持って守備した。8月20日より、椎木大坪間まできた新政府軍を砲撃し、撃退した。
 9月10日夜には、薩摩、長州、筑前、因州鳥取、相馬の西軍が山道を潜行し、仙台藩の夜襲部隊と激突し、翌朝に至り、西軍は隊を二分し、北方に迂回し、山頂に迫る』 
 ここから激戦(血戦と表記)の様子が書かれている。
 そして、仙台藩46人、庄内・米沢藩が15人の戦死を出し、降伏した。

 宮城県文化財専門委員の撰文である。

 ここでも、芸州広島藩の明記はない。このように、広島藩は歴史から消されている。一方で、なんでも薩長で、この戦いに参戦していない薩摩が名を連ねる。
 文化財専門委員すら、こうである。取材で現地を歩いてみると、こうした歴史のねつ造が発見できる。

1868(慶応4)年9月に、伊達仙台藩が降伏し、会津若松城が落城した。ここから薩長の下級藩士たちの政権の略取の本音が表面化するのだ。
 翌10月13日には、明治天皇が東京に行幸して江戸城の西の丸に入る。(江戸城も東京城と改称し、その後、皇居と定められた)。いちど天皇は京都に帰るが、翌年には実質的な遷都となる、行幸がおこなわれる。

 小御所会議で誕生した京都御所の「新政府」は、もぬけの殻になったのだ。薩長下級藩士たちがもくろんだ、鳥羽伏見に端を発した、戊辰戦争という軍事クーデターがここに成立したのだ。総仕上げが廃藩置県だった。
 厳密に言えば、西郷が策謀した、赤報隊を使った江戸の騒擾、江戸城放火、など軍事テロ活動から、明治の軍事クーデターがスタートした。大政奉還を有名無実にさせてしまった。これが正しい歴史認識だろう。

 薩長の下級藩士たちは、東京に新たな軍事政権をつくりながら、『明治軍事政権』といわず、単なる明治政府としたから、京都御所に誕生した「明治新政府」と混同してしまうのだ。政治体質はまったく違った、軍人優先、軍国主義だった。

 日本が明治時代から軍事国家になったことは事実だ。日本人は戦争好きだったのか。否。 お上には逆らえない、日本人の従順さが利用されてしまったのだ。
 維新は「なんでも薩長」という風土が作られた。それは薩摩は海軍、長州は陸軍を支配した、かれらからの圧力だった。「われら薩長は強い」と言い、富国強兵という軍事政権の強化を推し進めた。
 後にいた政商や財閥たちが戦争への道を突っ走った。
『戦争は儲かる』
 その論理で、日本人やアジア人の血を戦争で流させてしまったのだ。1945年8月の原爆投下まで。


 クーデターの戊辰戦争が勃発すれば、全国諸藩は薩長の政権欲の裏表も見ぬけず、「新政府」という名の下に、勢い多くの隊が戦争に乗ってしまった。そして、血を流した。
 これは歴史的事実だ。

 私たちは二度と戦争をさせてはならない。戦争は勃発してからだと、手遅れなのだ。ひとたび戦争になれば、民は弱者となり、家族・家庭までメチャメチャにされてしまう。
 ふだんから戦争に絡(から)まないか、と政治家と財界の裏表をしっかり見抜く努力をすることだ。

 軍人を英雄視すれば、国難の時には、文政で解決する努力を放棄し、武力主義の英雄待望論が出て主流になる。それが世論になってしまう。
 
 歴史上のできごとは単なる昔話ではない。歴史が過去にとどまらず、ふいに現在や未来によみがえってくるものだ。あるいは復活してくる。だから、正しい歴史認識が必要なのだ。


 
  

                                        【旗巻・おわり】
                                        次回は相馬藩の予定  

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