歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 木戸書簡は「薩長同盟」でなく「皇軍挙兵」の談論だ (上)

 歴史観は、固定観念にとらわれると、その枠組みから脱皮できず、真実、事実に近づけなくなる場合が多い。顕著な例が、「薩長同盟」だ。

 第二次長州征討で、長州藩は勝っていない。
『朝敵になった毛利敬親(たかちか)と、世子を後ろ手に縛ってでも、江戸に連れてくる』
 これが幕府がわの戦争目的だった。
 しかしながら、戦争のさなかに、德川家茂将軍が死去したので、一ツ橋慶喜が勝海舟を広島に送り込んで、休戦協定させた。

 毛利家は現・山口県から勢力圏を拡大したり、京都・江戸まで侵攻し、勝利したりしたわけではない。別段、勝ってもいないのに、明治政府の御用学者が、「長州藩が勝った、勝った」とするから、無理な辻褄合(つじつまあ)わせが必要になってくる。

 長州藩は長崎で西洋最新銃を購入し、その仲立ちは龍馬で、1866年1月21日、薩摩の小松帯刀と木戸寛治(桂小五郎)で、6か条の『薩長同盟』を結んだとする。

 1866年1月に、毛利敬親の命令で、家臣の木戸寛治ら4人が、京都の小松帯刀邸にでむいた。木戸は現代でいえば、長州の外務大臣だった。小松邸には、薩土長の関係者ら11人がそろった。


 長州藩は、「禁門の変」で京都御所に銃弾を放ち、京都を火の海にし、幕府、民衆、朝廷から敵視されていた。長州は朝敵だった。
『朝敵という汚名を外してほしい』
 これが毛利家の最大の目標だった。

 朝敵の長州が外れないかぎり、政治的な行動は一切できない。


 小松邸で、三藩の話し合いが行われた。長州藩が幕府から宣戦布告されていない段階である。あえて厳密にいえば、くしくも木戸が京都を立ち去った翌日、1月22日、幕府は長州処分の最終案を決めたのである。そして、
「毛利家の封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶」
 と奏上し、勅許が下された。

 つまり、三藩の話し合いは、毛利家の処分案が決まる前段階で、藩主の蟄居が取りざたされている段階である。
 長州藩が戦時下の体制に入るのは、
『蟄居処分が決まっている毛利敬親と、世子を後ろ手に縛って差し出せ』
 と大目付の永井尚志(なおゆき)が、広島藩を介して要求した。それにたいして広島藩も、長州藩も拒絶した。この段階から、きな臭くなってきたのだ。
 それはまだ数か月先だ。

 では、1月の小松帯刀邸の密会は何だったのか。薩長同盟ならば、薩摩4人、長州4人だけで、土佐側から3人の立会いなどは必要ない。坂本龍馬はこの中のひとりである。
 この11人で、一体なにが話し合われたのか。


 ややさかのぼれば、1864年に第一次長州征討が決着した。その直後から、江戸幕府への失望感が出てきた。

『德川幕府は、解決した長州問題を言いだしてきた。そのうえ、天皇と幕府と双方から、政治指図が出てくる日本は危うくなる。こんな德川幕府ではもうダメだ。皇軍の挙兵が必要だ』
 鎌倉幕府を倒した、後醍醐天皇の挙兵、つまり「建武の中興」がひそかに話題にあがりはじめたのだ。

 「建武の中興」とはなにか。蒙古襲来の元寇以来、鎌倉幕府の政局が極度に不安定になり、幕府はしだいに武士層からの支持を失っていた。

 その一方で、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒をひそかに計画をはじめた。天皇の討幕は、なんどか失敗した。けれど、やがて元弘3(1333)年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇がみずから行う政治)が成就したのだ。

 蒙古襲来後の鎌倉幕府の末期症状と、いまや通商条約後の尊王攘夷論がうずまきはじめた江戸幕府と、酷似してきた。孝明天皇の発言がより強くなってきた。後醍醐天皇に似てきた。


 『われらは、孝明天皇の下に挙兵する』
 薩摩藩、広島藩、土佐藩の家老級の人物が、極秘に皇軍の模索をはじめていたのだ。

 幕府ににらまれている毛利家だが、長州藩は下関戦争の経験がある。このさき皇軍として組み込むには、長州の代表者から胸の内を聞く必要がある。
 
 坂本龍馬、中岡慎太郎などが毛利家に働きかけ、薩摩憎しの木戸寛治(桂小五郎)が殿の命令で渋々京にやってきたのだ。
 小松邸に入った当初、木戸は怨念で薩摩攻撃が激しく、話し合いにもならず、品川弥次郎などは唖然としていたようだ。

【近代史革命】 木戸書簡は「薩長同盟」でなく「皇軍挙兵」の談論だ (下)

 1866年1月、薩摩藩・小松帯刀邸で、三藩が「建武の中興」についてひそかに話し合った。
 
 木戸寛治(桂小五郎)は、それを手紙・覚書にして、坂本龍馬の許に送った。それが6か条から成り立っている。(現存している)。
 その6か条には、いっさい薩摩(島津家)、長州(毛利家)とも記載されていない。聡明な外交官の木戸は、主語を抜かしても、文脈が通じる書簡にしていた。(書簡が、公儀隠密に奪われる警戒から当然である)。
 木戸があえて抜かした、その主語とはいったい何か。

 しかしながら、後世の学者、歴史作家、司馬史観に陶酔する人たちは、「長州が戦争になった時には薩摩が協力する」と無理してあてはめる。
 一条ずつみれば、論旨がめちゃくちゃで、国語力はあるのか、と疑いたくなるものも多い。むしろ、殆どである。

 なぜならば、明治政府の長州閥の政治家が、声高に言ったのが薩長同盟だ。木戸書簡をそこにあてはめる、こじつける、だから文章になっていない。


一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


 【木戸があえて抜かした主語を、『皇軍』として当てはめ、現代文にする、と下記のように文意が明瞭・明白になる】

① 皇軍が戦いとなった時は、薩摩は直ぐさま2000人規模の兵員を鹿児島から急きょ挙げて、いま在京の兵と合流し、大坂にも1000人程を差し置いて、京都・大坂の両所の地域を固める。

② 皇軍の戦いで、我の勝利がみえるとき、その節は、薩摩・土佐が朝廷に申し上げ、長州の朝敵を解除するように、かならず尽力する。

③ 皇軍が万が一、敗色が濃くなっても、一年や半年で壊滅いたすことはないので、その間にも、長州の朝敵解除にかならず尽力する。

④ 幕府軍が江戸へ帰ったときは、きっと朝廷に申し上げ、すぐさま朝廷より長州の朝敵が免罪になるように、かならず尽力する。

⑤ 德川幕府兵が上京のうえ、一橋、会津、桑名などが、今のような状況で、もったいなくも朝廷を擁し奉り、正義に逆らって、薩摩・土佐がおこなう周旋の尽力の道を遮るならば、終に決戦におよぶほかはない。

⑥ 長州の冤罪が赦された上は、薩摩・土佐と長州の双方は、誠心をもって合い協力し、皇国の御為、皇威が輝き、(建武の中興のように)ご回復に立ち至ることを目標に、誠心を尽くし、かならず尽力つかまつることにいたす。


 坂本龍馬が、桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名したもの

【龍馬の原文】
 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違これなく候。将来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。


【龍馬の現代文】

 表に記入された6カ条は、小松帯刀、西郷隆盛の両氏および老兄(木戸貫治)、龍馬などもご同席にて談論したもので、少しも相違ない。将来になっても、決して変わることがないと、天地神明の知るところである。


 木戸があえて外した主語の下でも、龍馬は「天地神明の知るところである」と言い切った。まさに天皇挙兵への談論として、第1回目の話し合いだったと認めている。

 これがやがて翌年には、薩長芸軍事同盟となり、御手洗(広島県・大崎下島)から三藩進発で、6500人の兵が皇軍として京都に挙がってきた。(土佐藩は遅れてくる)。
 長州の朝敵が解除された。それから半月足らずして、薩摩、長州、土佐、鳥取藩などが「鳥羽伏見の戦い」を起こす。かれらはつねに皇軍と称している。これは歴史的事実である。


 木戸寛治6か条を再度、確認すれば、第二次長州征討に類する記載など、まったくないのだ。この木戸書簡から半年後、第二次長州征討が勃発した。
 司馬遼太郎は、長州が勝った、勝ったのひとりで、その結果論から、「薩長同盟」だと、不自然に導いている。その物語が現代にも、大きく影響している。

 司馬史観などで凝り固まって、柔軟な思考がなき人たちは、最初の条項など次のようにメチャクチャである。

 長州が戦いとなった時は、薩摩は直ぐさま2000人規模の兵員を鹿児島から急きょ挙げて、いま在京の兵と合流し、大坂にも1000人程を差し置いて、京都・大坂の両所の地域を固める。

 こんな現代語訳などは、ロジックもあわず、まさに陳腐としか言いようがない。

 
 後醍醐天皇の「建武の中興」を模範とした、第一回目の「孝明天皇の下で、皇軍挙兵」の談論とすれば、すべてにおいて文脈が通じるのである。

 このとし慶応2年(1866年)12月25日は、孝明天皇が在位21年にして崩御した。満35歳の奇怪な病死だった。

 満14歳の若き明治天皇になっても、薩長土芸の皇軍挙兵の思想は消えなかった。大政奉還の後も、良し悪しは別にしても、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと、つながっていった。

歴史家 武田正視先生の横顔 = 土本誠治

 2018年は、明治維新150年の節目の年である。

 維新の戦い・戊辰戦争で自費出兵した広島藩の神機隊は、最も長期にわたり 最も激しい戦いを重ね、官軍側勝利の立役者となった。
 神機隊の活躍を学習する人たちは、かならず歴史家・武田先生の著書にたどり着く。

 歴史作家・穂高さんもそのお一人でしょう。

 
 右から武田正視先生、穂高健一さん、筆者(土本誠治)


 大正15年生まれの武田先生は、呉市の在住で、現役の歯科医師である。先生は歴史上の登場人物について 一人ひとりをていねいに語られる。お声がはっきりしており 記憶力には、実に感心させられる。

 半世紀にも及ぶ幕末史の研究や、講演活動の賜物だと思われる。

 武田先生のお話や著書からは、大政奉還を含めて 維新に対する広島藩の貢献を啓蒙したい・・・。維新の志しが本当に成し遂げられたかを問いたい・・・。

 広島の原爆投下につながる戦争国家は、どうして生まれたのか・・・等など、先生のテーマが感ぜられる。

 2018年までに 武田先生の研究成果を歴史映像作品として、まとめてみたいと思う、今日この頃である。
 武田先生からは、「撮影には協力します」と了承をいただいている。このプロジェクトの難易度は、非常に高いと考えています。

幕末史の真実を明らかにする。「近代史革命」と名づけたい

 最近は海外で、江戸幕府の政治が注目を浴びてきているという。それを『德川の平和(パックス・トクガワ)』と称しているようだ。

 戦国時代という大混乱を経験した後、徳川政権が樹立した。延々と260年間も戦争しなかった、平和を維持できた要因はなにか。政権の仕組み、豊富な人材、戦争否定の思想と掘り下げられているようだ。

 私たち日本人は、明治政府が作った教科書の延長線上いる。だから、維新三傑「木戸孝允(長州). 西郷隆盛(薩摩). 大久保利通(薩摩)」.は素晴らしいとおしえられてきた。

 それは本当だろうか、と疑う日本人は少ない。『民を豊かにし、富国にする』のが、真の政治家の努めだ。それでなければ、政治家になる資格がない。それなのに、広島・長崎に原爆投下されるまでの、77年間もの戦争国家の下地を作った人物たちを英雄視している。


 「島原の乱」を経験した江戸幕府は、そこから治安の安定を図るために長く鎖国をしてきた。しかし、西欧列強のアジア進出が強まり、中国から、琉球、さらには日本(当初は長崎)へ外国船がやってくる。

「天保の改革」に失敗した水野忠邦だが、開国への模索をはじめていた。つぎなる阿部正弘政権になると、米国の国書をもったビットル提督、7年後にはベリー提督がともに江戸湾の浦賀に来航してきた。


 江戸幕府は、德川将軍の独裁性を放棄し、全藩の合議、意見を聞くという、中央政権型に移行させた。大小の藩主、公家、楼閣の主までも意見書(上書)を出し、そこで幕府が選択したのが『戦争しないで開国』する道だった。
 日米和親条約の第1条の自由尊重にもとづいて、みずから全国一斉に「踏絵」を禁止させた。開港し、友好を高めながら、通商・貿易で国を富ませる近代化へのレールを敷設させたのだ。

 これらができる有能な人材が政権内にいて、近代化路線と中央政権づくりを進めていく、自浄能力があったのだ。
 ある意味で、日本人の素晴らしさだ。


「外国に蹂躙(じゅうりん)されて開国した」、「德川は無知蒙昧だった」、「西南雄藩は先進性で、江戸幕府は後進性だった」、そんなふうに、私たちは学校教育でおしえられてきた。
 
 その論旨は日本国内で通用しても、『德川の平和(パックス・トクガワ)』を高く評価する海外の人たちには通用しない。

 なぜならば、雄藩と自負する薩摩や長州などは、藩政改革と言いながらも、藩=領地にこだわる保守型で、後進性が強かったからだ。
 德川政権がおしすすめる開国思想には猛反対し、藩の権利を守ろうと、攘夷(じょうい)を叫び、国内を騒擾(そうじょう)させた責任は重い。


 徳川幕府は政権の限界を知り、みずから平和裏に天皇に大政奉還をした。ところが「鳥羽伏見の戦い」という下級藩士のクーデターで、京都にできた明治新政府を転覆させてしまったのだ。それが東京の明治政府だ。


 暴力で政権を得れば、おおくは戦争国家をつくる。この政権は、崇拝すべき天皇を神として利用し、国民を支配し、戦争へと突き進んだ


 このところ『維新150年』と一部で声高になってきている。この節目が、もしや潮流の変わり目で、歴史評価があるべき姿に変わるかもしれない。
 なぜならば、日本は海外からの影響を受けやすい民族だから、『德川の平和(パックス・トクガワ)』が広まるほど、対比法で、明治時代の恥部が次つぎに露呈してくる可能性がある。


 これまで日本人が声を大にしなかった出来事が、表面化してくる。たとえば、キリスト教徒の外国人からみれば、浦上四番崩れ(よんばんくずれ)などは問題視する。江戸幕府は「踏絵」を止めさせた。しかしながら、明治政府は一転し、日本は神の国だと言い、長崎市・浦上天主堂を中心としたキリスト教徒たちへ大規模な弾圧事件をおこなったのだ。

 かつての隠れキリシタンの信者たちは、数千人の大規模で、津和野、萩、福山に送り込まれた。老若男女を問わず、真冬の水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前で子供を拷問するなど、その陰惨さ・残虐さは近代史最大の恥部だ。

 それを長崎で指揮したのが木戸孝允だった。ローマ法王など外国からみれば、木戸孝允は無辜(むこ)の民のいのちを蔑にした、異常な性格の政治家だと言い、日本近代史のなかで、とてつもなく評価を下げる。
 海外の目からみれば、ゼッタイに許せない非人道的な宗教弾圧なのだ。150年経っても、その恥部は消えない。

 
 鳥羽伏見の評価も変わるだろう。……、「鳥羽伏見の戦い」が、德川政権り平和国家から、明治政府の軍事政府に変わったターニングポイントだ。

 京都の天皇に「討薩の表」を持参する德川家の大目付役、それを警備する先頭の数百人(見回り組)は銃に弾詰していなかった。つまり、戦う軍隊ではない。
 それなのに、西郷隆盛の命令で、無抵抗な相手に銃弾を撃ち込んだ。

 当初から戦闘する気などない相手に奇襲して勝った、幕府軍に勝った、慶喜将軍は大阪城から逃げだした、と明治政府はおしえてきた。
 明治政府の情報にはウソが多く、これみよ、と高々に謳(うた)いあげる英雄史観で金メッキをほどこされている。虚偽が多いから、鵜呑(うの)みにできない。

「まだたった150年ですからね、真実は幾らでも出ますよ」
 これが歴史学者の共通認識だ。150年前の家屋、物置などが現存し、そこに資料が眠っている。海外の大学、博物館の倉庫は、日本の幕末史料の宝庫かもしれない。 
 なぜならば、当時はかなり外国人が日本にいたからだ。
 イギリス、フランス、アメリカ、オランダ人(軍隊指導者)から、実態はこうだった、と書き残した客観的な目撃証言なる海外資料がきっと発見されてくるだろう。

 
 明治10年の西南戦争は、西郷隆盛にしろ、大久保利通にしろ、必要な戦争だったのか。大勢の薩摩の若者を死へ導いた。むろん、政府軍側も血を流させた。
 戦争終結後から、結果として、山縣有朋の徴兵制を勢いづかせてしまった責任は重い。


 長州閥の政治家の伊藤博文、井上 馨、山形有朋が共謀し、日本の公使・三浦 梧楼(ごろう)が実行犯で、朝鮮の王妃・閔妃(びんひ)を殺害した。
 4人とも長州出身だ。
 かれらの残虐な行為が日清戦争の引き金になった。そして、10年に一度の戦争国家へと突き進む。

 他国の王室の皇后陛下を殺害した事実は、日本の歴史教科書で学べなくても、海外からはなんども発火してくる。隠しようもない事実だから。


 『德川の平和(パックス・トクガワ)』が発端となり、明治政府がねつ造した幕末史のメッキが、海外からはがされてくる可能性は否定できない。
 となると、維新三傑「木戸孝允. 西郷隆盛. 大久保利通」などは、逆評価が加速し、日本史上の最悪の人物とみなされる可能性すらある。

 過去の英雄たちの歴史評価が真反対にくつがえされる。歴史学からすれば、『近代史革命』と称しても良いのではなかろうか。

 
 私は各講演、講座で、この『近代史革命』を推し進めようと考えている。それが私のテーマ、だれが77年間もの戦争国家をつくったのだ、という解答になるからだ。


写真撮影、土本誠治さん : 第6回幕末芸州広島藩研究会  

鳥居耀蔵(ようぞう)のワナにはまった天草の豪商=石本平兵衛

 2016年7月22日は天草下島一周のさなか、まさか鳥居耀蔵の毒牙にかかった人物と出会うとは思いもよらなかった。
 私は、幕末に開国させた『阿部正弘』を書くために各地を取材している。すでに、4-5の歳月をかけている。むろん、そればかりに時間を費やしているわけではないけれど。

 狙いは、阿部正弘は戦争せずに開国したけれど、もし鎖国にこだわり、西洋列強を武力で排除する策に出たならば、どうなっていたか。まちがいなく日本列島は戦禍で、国土を乗っ取られる。
 しかし、後世の評価は、阿部正弘は西欧列強に蹂躙(じゅうりん)された、ひ弱な政治家だと見なしている。むろん、明治政府のねつ造だけれど。

 阿部は、德川政権下の有能な人材を惜しみなく大胆に登用した。その知恵を絞り、きわめて重大な局面を救った、歴史上まれなるり有能な政治家だった。
「西洋には武力でなく、優秀な人材で対抗する」
 誇大に阿部正弘を持ちあげる気はないが、「元寇を撃退した北条時宗と同様に、阿部は日本を救った」という見方には賛成している。それを小説で、表現したい。


 こんかいの取材中に、天草の豪商・石本平兵衛を知った。かれは長崎の海外貿易で、巨大な経済力を持つにいたり、大名貸しはつねに100万両を越えるほどにまでなった。
 九州各地の財政顧問の地位にまで、石本は登りつめている。

 ところが、高島秋帆(しゅうはん)事件に連座し、石本は江戸に送られていた。そして、天保14(1843)年、57歳で獄中死している。


 老中・阿部正弘と、高島秋帆事件は無縁でない。私の関心は一気に高まった。これは、小説の素材のひとりになる人物だとも思った。なぜ、石本平兵衛は連座を問われたのか。


 まず高島秋帆事件とはなにか。

 中国大陸でアヘン戦争(1840~42年)が起きた。翌年、長崎会所(後の長崎税関)・調役頭取の高島秋帆が、『イギリス軍が清国に圧勝したのは大砲の差である。わが国も砲術の近代化と西洋化を図らなければならない』と意見書を長崎奉行に提出した。

 それが江戸に送られた。「目付」の鳥居耀蔵は、洋学が大嫌い人間だった。かれは精神主義で文武奨励で西欧列国に対峙できると言い、高島秋帆の意見をとるに足りないものだとした。

 しかし、数人の砲術家が、老中首座の水野忠邦に「高島の砲術を見分してみてはどうだろう」と進言した。そこで、天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国・徳丸原(板橋区)で、大砲の演習が行われた。
 演習見学は水野忠邦、各大名、さらに囲いの外では一般の群衆の見学も許されていた。


 わが国の砲弾は鉄製の球形が飛んでくるだけだ。しかし、高島の造った大砲は洋式で、約800㍍先の目標に着弾すると、火薬が炸裂する。死傷者は数多く出る。

 徳丸原ま演習では、不発弾は一発もなかった。火薬技術の優秀さを物語っていた。

 当時の日本は、火縄銃だと誰もが知るところだ。
 秋帆の指揮の下で、97人のゲーベル銃が一斉射撃する。さらに、剣付ゲーベル銃で、銃隊を組んで突き進む。

 これら西洋式の兵器の威力は、幕閣たちをおどろかさせた。
「これでは、清国はイギリスに負けるはずだ」
 だれもがそう認識させられた。

 阿部正弘は後に、高島の砲術を賞賛し、「火技中興洋兵開基」(読み方は不明)という称号をあたえている。つまりは、「高島秋帆なる者は西洋式の砲術・洋兵法の開祖である」と認定したのである。

 老中首座・水野忠邦は、江川英龍への伝授を認めた。さらに、砲術の専門家として、幕府・諸大名の家臣に、自由に砲術の伝授を認めた。

 当時は、西洋の船が日本沿岸にきたら撃ち払う、という「異国船打払令」だった。相手が軍艦だったら、艦砲射撃で応戦される。とても太刀打ちができない。水野忠邦は、「異国船打払令」から「薪水給与令」に切りかえるのだった。


 高い評価を得た秋帆にたいして、おもしろくないのが、忠邦の腹心の鳥居耀蔵だった。
 鳥居はなんと「高島は外国と結託し、日本を攻撃する、謀叛を計画した」という、根も葉もない事件をでっち上げたのだ。親せき筋にあたる長崎奉行・伊沢政義に取調べを命じた。しかし、そんな疑いはない、と回答した。

 鳥居耀蔵の頭脳は良かったが、性格が良くなかった。かれは洋書を学ぶ者を儒学の反逆者とみなし、根絶やしにしようとしたり、陰険な手段で追い払ったりする人物だ。
 その上、執念深いから、「だったら、江戸で調べる」と、井沢長崎奉行に高島秋帆を逮捕させ、江戸送りにさせたのだ。

 石本平兵衛も、同事件の連座で、江戸送りになった。「オランダから輸入した大砲は、長崎貿易を仕切っていた石本平兵衛が、密貿易で購入した」と言い、讒訴(ざんそ)したのだろう。


 水野忠邦が天保の改革の失敗で、失脚すると、阿部正弘が27歳の若さで老中首座(内閣総理大臣)になった。
 阿部は、鳥居を片腕にしてきた水野忠邦の失政を糾弾し、さらに高島秋帆事件を再調査させたのだ。その結果、鳥居が仕組んだねつ造事件だと断定した。

 勘定奉行の座にいた鳥居を解任させたうえで、丸亀藩(現香川県)に軟禁した。(明治になるまで、20年間にわたり丸亀藩に軟禁されていた)。


 高島秋帆は軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に幽閉された。しかし、ペリー提督来航の折、高島は免罪になり、江川太郎左衛門の手付となった。阿部は翌年(1854)のペリー来航の間、諸藩に意見をもとめた。ほとんどが異国排斥を唱える攘夷論だった。


 高島秋帆は平和主義による開国「嘉永上書」を幕府に提出した。
「いま、外国と戦争してはなりません。交易は両国に利潤があります。外国は貿易を望んでいるのです。銀・銅で支払った通商で、医術などが進歩し、国益が増進します」
 阿部は高島の意見を尊重し、安政元(1854)年の日米和親条約の締結へと臨んだ。


 鳥居耀蔵は「蛮社の獄」などで、有能な人物を無実で獄に入れるなど、日本史のなかでも特筆される、悪辣(あくらつ)な人物の一人だろう。

 その罠にはまった、天草の豪商・石本平兵衛ははやくに獄中死した。石本家は断絶させられた。気の毒なかぎりだ。

 それが私の天草旅行で、最も心に残る切ない想いだった。

                                 【了】

淑徳大学・公開講座「知られざる幕末史」=7月30日より

 淑徳大学の2016年夏・公開講座で、『知られざる幕末史』の募集が行われている。

場所は淑徳大学・池袋サテライト・キャンパス(池袋東口から徒歩3分)

期 間  平成28年7月30日~9月24日 (6回)

曜 日   土曜日

時 間 13時15分~14時45分

受 講 料 12,000円

『講演のポイント』

 江戸時代は260年間、戦争しない国家だった。明治に入ると10年に一度海外と戦争をする軍事国家となった。原爆投下まで77年間続いた。日本人は戦争好きの民族に思われてしまった。誰がこんな国家にしたのか。

 明治政府は歴史教科書で、うそと歪曲した幕末史を教えた。それが未だ続くから、高校で日本史が必修科目にならない。

 学校教育で事実・史実を教えないならば、作家は小説で教えていく。それが歴史作家の役目だ。
幕末歴史小説『二十歳の炎』、『燃える山脈』の著者が、明治政府が隠ぺいした歴史を掘り起こします

【講座内容】

1. 7月30日 幕府、藩という呼称は江戸時代になかった。幕府=公儀、領=大名家である

2. 8月 6日 ナポレオン侵攻でオランダが滅びた、日本はアメリカと貿易していた

3. 8月27日 薩長同盟は軍事密約ではない。薩摩側はいちどの口約束に過ぎなかった

4. 9月10日 鎖国から開国、安政改革へと、徳川時代から文明開化がスタートした

5. 9月24日 朝敵の長州藩は京都に入れず、政権交代の大政奉還もカヤの外だった

6. 10月8日 軍事思想家の吉田松陰「松下村塾」が、明治からの戦争国家をつくった


【申し込み先】

淑徳大学エクステンションセンター(池袋サテライト・キャンパス)

TEL 03-5979-7061

FAX 03-3988-7470

〒171-0022
東京都豊島区南池袋1-26-9 第2MYTビル7F


               写真提供:川上千里さん

德川家の金融支配力と抜擢主義をひも解く=石本平兵衛

 徳川家はなぜ260年間も、幕府を維持できたのか。家康からはじまり、十五代将軍慶喜まで、つねに260余藩(家)の頂点に立っていた。
「金の力が政治権力の源である」
 これは疑いようもない事実である。

 歴代の德川将軍の能力が、個人的に出来ふできに関わらず、財政・金融政策が優れていたから、長期政権が維持できた。あえて言えば、大政奉還後も、德川家は滅亡せず、現在も脈々と子孫は資産の一部を保持できている。

 2016年7月21日~22日の天草訪問で、坂本龍爾さん(世界平和大使の会・理事)の案内で天草下島を一周した。とくに興味を引いたのが、豪商・石本平兵衛だった。

『石本家の屋敷は約1,200坪(約3,900㎡)。御領石を加工した石垣』


 敷地内には、石本平兵衛の偉業をたたえる歴史案内板があった。興味ぶかく、じっくり読んだ。そして、希代まれなる巨大な豪商に伸し上がった背景を推量した。


 平兵衛は天明7(1787)年に、同島・御領村の旧家・石本家の5代目の長男として生まれている。かれは少年時代に長崎で学び、語学、経済、財政、貿易を学んでいる。

 天草、長崎はともに幕府直轄領で、江戸・勘定支配の影響力がつよい。石本の卓越した能力が幕府側の官吏に認められたのだろう。

 德川政権の特徴の一つは、、『人材抜擢システム』があった。勘定奉行所(大蔵省・法務省・外務省の機能)は、農商出身者でも、有能、秀才となると、家柄、身分制度を超えた登用をおこなう。そして、精鋭たちは能力を発揮しながら、競争で這いあがってくる。それは吉宗将軍がつくった制度で、能力主義である。


 ちなみに、日田代官所(現・大分県)の小役人の倅だった川路聖謨(としあきら)は、貧しく育った。父親とともに江戸に出てきた。やがて勘定奉行所に採用となり、抜群の能力を発揮し、奈良奉行、佐渡奉行、勘定奉行となっていく。
 水野忠邦、阿部正弘の政権では欠かせない人物になった。日露和親条約ではエトロフ・国後を日本領土に決めた、幕末史には大きく登場する人物である。


 あまり語られていないが、現代の官僚システムよりも勝る、し烈な抜擢主義である。役高が付き、御家人、旗本と身分も上がってくる。発掘された有能な人材、卓越した人材の厚みが、260年間にわたり、德川政権を維持できた所以(ゆえん)の一つである。

「天草・島原の乱」の以降は、天草は長崎代官所、日田代官所の支配下にあり、石本平兵衛と川路聖謨の超出世とは折重なるものがある。



 長崎と天草で商いを行う石本平兵衛は、「松坂屋」の屋号をもらっている。長崎出島の海外貿易にたずさわり、さらには九州各地の年貢米の取扱、産物の専売権を保有し、巨大な金融力をもった。
 天保5(1834)年に、幕府勘定奉行所から御用達を拝命されている。かれは当時の三井、住友、鴻池と肩をならべる金融大資本家になった。薩摩藩・島津家をはじめとした九州諸藩の『大名貸し』をおこなった。


 德川家は表だって、直接、大名貸しをしていない。幕府直轄領には巨大な豪商をおいて、そこから大名貸しをおこなっている。
 諸大名が豪商から金を借りる時は、いまならば銀行に金を借りる際に財務諸表を提示するように、その台所情報をだす。返済の繰り延べなど、大名の負債がみえてくる。それら情報が代官所を通じて江戸勘定奉行に集められるシステムになっていた。
 
 このように幕府領の豪商には、諸大名の金融情報の収拾(スパイ活動)の責務が負わされていたのである。

 飛騨高山でも、大坂の豪商でも、諸国の天領の豪商でも、石本もそうだが、天明・天保の大飢饉のときには、かれらの利益の一端が難民救済にまわされている。
 こうした利益の再配分の義捐救済は、幕府の指図だと推量できる。各地には、商人の個々人の顕彰碑が立ち、現在に言い伝えられている。


 幕府直轄領を取材する私が出した、結果として、
『幕府は金融に顔を出さず、商人を前面におく、という建前をつらぬいている』
 という点である。
 徳川はどこまでも武士支配による農本主義で、金・銀・銭をあつかう商業主義を低くみている。支配構造として、「士農工商」という身分制度の維持が根底にあるからだ。
 

 天保13年(1842)4月、石本平兵衛は『高島秋帆事件』に連座し、逮捕されて江戸送りとなった。天保14年(1843)、獄中死している。57歳。

「鳥居耀蔵(とりい ようぞう)の罠に、はめられたな」
 私は思わずつぶやいた。

                                  【つづく】


  
 

 

天草・島原の乱と、その後の幕府直轄領の善政を知る

 江戸時代の天草といえば、「天草・島原の乱」(1637) 、そして「隠れキリシタン」が有名である。あまりにも、有名な事象があると、それ一色に染まり、他の有益な史実が陰に隠れたり、研究者が不在で、歴史的な重要な事実が消されたりするものだ。

 2016年6月21日に、熊本から遠距離バスで天草を訪ねた。松岡さん(目黒学園カルチャーの受講生)がセッティングしてくれたので、本多康二さん (天草市観光文化部文化課 管理係長)と歴史的な意見交換ができた。

 本多さんは古代史が専門である。天草には恐竜が存在していた。その肉片が出てきたので、世界的にも珍しいものだと、説明してくれた。私はひたすら聞き役で、古代ロマンのひとときを過ごした。

 天草・島原の乱が終結した後に、天草は幕府直轄領になった。「2度と天草・島原の大乱」をおこすな、という趣旨で、江戸勘定奉行所から、特別な優秀な人材が送り込まれたはずですが、と本多さんに質問をむけてみた。

 というのは、私が『燃える山脈』で、飛騨高山を取材したときに、ひとつの特徴をつかんだからである。飛騨国では18年にわたる大原騒動が起きた。当時の大原(代官、後には郡代)は、一般にいう悪代官の典型だった。
 それが終結後から、勘定奉行所から派遣される官吏(現代の大蔵官僚)は、みな有能だった。大井帯刀郡代、小野朝右衛門(山岡鉄舟の父)など、農民の立場を斟酌(しんしゃく)し、農民に目をむけた施政ができる人材である。

 天草・島原の乱が農民一揆だとすれば、幕府はきっと有能な人材を送り込み、二度と大乱を起こさせない前向きな施策を取ったはずである。

「たしかに、そうです。初代代官に任じられたのが鈴木重成(しげなり・京都代官)です。寛永18(1641)年。かれは荒廃した天草の復興に尽力し、現在も「鈴木さま」と慕われています」と本多さん

「どのような施策ですか」
 私は質問してみた。

 
 天草・島原の乱前の天草は、唐津藩・寺沢家の支配下にあった。悲惨で過酷だった。秋の刈り入れの米が全部年貢にとられてしまう。これでは農民が生きていけない。年貢滞納者には両手を縛って蓑(みの)を着せ、火をつけて生きたまま殺す。「蓑踊り」などの惨刑を科していた。
 それら苛政が天草・島原の乱となった。

 幕府軍の鎮圧で、農民たち3万7千人が殺された。天草では人口が2万人から約8千人にまで激減したと推定されている。働ける農民が少なくなった。

 初代の鈴木重成代官は、他からの移民を推しすすめる。
 
 片や、天草領地の検地を実施した。実高が2万1千石なのに、4万2千石になっている、と判明した。税率は石高に応じて4割から6割である。石高(収穫)が2倍だから、収穫期に全部、年貢にもっていかれてしまう。この重税が天草の人々を苦しめ、「天草・島原の乱」の元凶だったと言い、鈴木代官は「石高半減」を幕府に嘆願した。

 しかし、唐津藩領から徳川幕府直轄領になり、とたんに石高を減らす(年貢の減となる)のは前例がないと、幕閣は聞き入れなかった。
 鈴木代官は江戸でくりかえし抗議し、書面を残し切腹して果てたのだ。

 旗本が農民のために切腹まで為した。幕府はおどろいた。他方で、天草の人々は、鈴木重成代官の死が伝わると、みんなして号泣したという。

 重成は老中・松平信綱の信任が篤(あつ)かった。本来ならば、切腹した場合にはお家断絶だが、病死扱いにし、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を天草の2代目代官にすえた。

 重辰は同様に繰り返し天草の石高半減を訴えて、それに成功している。そこから天草の人々は平穏な生活にもどった。天草は幕府直轄領として、江戸の色彩が強くなっていく。


 一般の認識では、天草・島原の乱は、『キリシタンの反乱(宗教戦争)』と捉えられている。否定はできないけれど、主要な要因は島原藩主・松倉勝家の苛酷な年貢搾取だった。過酷な支配に対する農民一揆である。
 江戸幕府は島原の乱をもって、その後のキリシタン弾圧の口実に利用した。

 (天草四朗たちが立ち上がった、本渡城~富岡城への海岸線を走る)

 悪い奴、政治をかく乱した奴、戦争を起こした奴は歴史に名を残す。民を犠牲にするほど、英雄になる。片や、善政・善人はいつしか歴史から消えていく。

 現地取材すると、歴史認識が変わる。「鈴木さま」と崇められる人物を発見できたように、消えた人物の掘り起しにもなる、と私は再認識させられた。

 極貧の庶民・農民の立場になり、いのちを投げ出した鈴木さまの、善政には感動させられたし、聞くほどに胸を打たれてしまう。『燃える山脈』の飛騨国・大井郡代と重なり合うものがあった。


 

西南戦争の田原坂は激戦だった。政府軍の真の勝因はなにか

 2016年7月21日、鹿児島から、熊本を経由し、植木駅前からタクシーに乗り、「田原坂西南戦争資料館(藤本典子館長)を訪ねた。
 明治10(1877)年の西南戦争で、薩摩軍と政府軍の戦いで勝敗を決めたのが、田原坂(同年3月4日~3月20日)の戦いだった。

 取材目的は、芸州広島藩の「神機隊」は戊辰戦争で戦い、さらに西南戦争に出むいて戦死した兵士がいる。戊辰戦争と西南戦争をつなぐものだ。
 ことし5月下旬には、中国新聞の岩崎論説副主幹がこの趣旨の下に、同館を訪ねている。私はそれを引き継いで訪問した。

 同館の中原幹彦学芸員から、まずは西南戦争の全体像を訊いた。
「ブック本などで紹介されている内容は、田原坂の実際の戦いとはかなり乖離(かいり)しています」
 中原さんはそう前置きをされた。

 一般に言い伝えられているのは、政府軍は最新の武器を装備し、軍服が統一されており、片や、粗末な薩摩軍に比べると、圧倒的な差があったとする。

 政府軍の勝因は、兵員と物資の補給力、それに情報力の差だった、と中原学芸員は強調された。

「当時、東京、長崎、植木、熊本まで電信通信網(有線)ができていました。『越すに越されぬ田原坂』と歌にもあるように、田原坂など大激戦で、政府側が不利な戦況が電信で、中央(東京)に即座に伝えられました。熊本城が燃えた。それらもいち早く電信で、中央に報告されたのです」

 1869年(明治2年)には東京・横浜間で、電信による電報の取り扱いがはじまった。明治政府は電信に力を入れており、数年で電信網は全国へと張り巡らされていく。
 西南戦争のときは、熊本、長崎まで有線が敷設されていた。

「政府軍は形勢不利だ、という戦地情報が通信で入ると、北海道、東北から、各地から兵をあつめ、援軍を次つぎに戦場に送り込んだのです」
 明治6年からは徴兵制が制定されていた。政府側は兵士あつめに、この徴兵制が有効にはたらいた、とつけ加えた。

「通信網は、鹿児島までは開通していなかった。この差は大きかったのです」


 田原坂(標高105㍍)は細い坂道である。
 政府軍は大砲を熊本に運び込もうとする。薩摩軍が細い道の両側に待ち伏せをしており、政府軍に襲いかかる。
 至近距離なので、発砲は味方をも傷つけてしまう。そこで、薩摩軍は抜刀で襲いかかった。

 同館の展示室にはかつて「かち弾(だま)」が展示されていた。(弾丸と弾丸が空中でぶつかった)。これをみた観客は銃撃戦を想像してしまう。
 実際には日本刀による戦いが主力だったから、かち玉の展示は引き下げたと話された。

 武器はイギリス製が多かった。大阪、東京にも、軍事工廠があったが、不発弾が多く、海外製品に比べると、質が劣っていた。

 3月29日の日奈久(ひなぐ)へ、政府軍が海上から上陸作戦をとった。軍艦は10隻余り、三菱などから借り上げた徴用の官船が60隻。政府軍が薩摩軍の退路を断った。


 薩摩はなぜ明治政府と戦ったのだろうか。

「島津家は幕末に国力がありました。織物、紡績が盛んで豐かであり、薩摩藩じたいでパリ万博に出展するほどの力がありました。戊辰戦争に勝った自負心があり、日本国の新政府をリードするのは薩摩だという強い意識があったのです。それに西郷隆盛というカリスマがいましたから」
 中原学芸員はそのように見解を述べた。

 薩摩は他に比べて士族・郷士の人口比率が高かった。かれらは幼いころから示現流(じげんりゅう)の軍事訓練を受けている。
「サーベルでは人を斬れなかったようです。簪かんざしみたいで」
 そう説明されてから、示現流の日本刀の威力は強かったという。

 薩摩軍の兵士らには、天皇をトップとした政府を自分たちが作りなおすのだ、という強い意識が底流にあった。


 片や、政府軍の兵士らは、「天皇の下に戦う」という、天皇の意義すらもわからない。「なんで」上官の指示に従うのか、と理解できなかった。
 農業は自営業だから、ふだん誰からも一挙手一投足の働きに口出しされた経験がない。組織で活動。それ自体が理解できない。

 その上、戦地ではいのちをかけた戦いにおびえていた。しかし、恐怖が連日だと、恐怖ではなくなる。練度が上がってくる。
 実戦が連日になると、薩摩の示現流にも立ち向かうほど、政府軍は優秀な兵士に成長してくる。

 西南戦争は7か月間も続いた。結果として、政府軍が勝った。東京・日比谷に意気揚々と凱旋した。
 ただ、政府軍の兵士が長崎で流行っていたコレラを持ち帰り、関西、関東、と全国に広がっていったという付属があった。


「戊辰戦争と西南戦争は切り離せないないし、一体です。戊辰戦争で戦い、西南戦争にも参戦し、そして亡くなった兵士は多い」
 薩摩側の戦没者の研究は進んでいる、と中原学芸員は教えてくれた。

 その一方で、政府軍側で、戊辰・西南戦争で戦った戦没者たちの研究はなされていない、と話す。

 広島の神機隊は戊辰戦争後、明治5年頃に解散している。その後、政府軍として出兵し、戦死した人がいる。こんかいの田原坂の取材を足がかりにした、追跡調査は学術的にも価値がありそうだ。
 

                       写真提供(同行者) = 浦沢誠さん

江戸の飲料水は井戸にあらず。江戸城のお堀の水はどこから?

 江戸城のお堀の水はどこからきているのか。さらには、100万人の住む世界最大級の人口の水は、どのように供給されているのか。単純な質問を私自身にむけてみても、明確な答えは出てこない。


「東京水道の歴史紹介~江戸から東京へ~」、(東京区政会館1階エントランスホール:28年7月12日から8月4日)と、さらに東京都水道博物館に出むいてみた。


 江戸からの歴史を知れば、人間の英知を知ることができる。一方で、ふしぎな疑問も生じてくる。すぐには解明できない。それが歴史の面白さだろう。

 徳川家康が江戸幕府を開いたときから、人口は膨張している。関東ローム層だから、井戸を掘っても、さして水は出てこない。そこで、神田上水や、玉川上水がつくられた。

 玉川上水は、奥多摩・羽村の堰(せき・堤防)から延々と水を引いてくる。

 基本的な考えは、現在の水道管と同様に、木樋(もくひ)や石樋を地下に埋め込み、上水を引いているのだ。

  神田上水が、お茶の水の神田川の上を架けて給水されていく。

  懸樋(かけひ)の技術は、ただ感心するばかりだ。



  参勤交代で江戸にきた大名や家臣、大工、商人、諸々の住民は水がなければ、1日も生きていけない。
 
 武家屋敷、長屋ごとに、大きな円筒の桶(井戸代わり・写真の桶)が造られている。それを汲み上げている。

 江戸全域を考えると、それを網羅(もうら)する、とてつもないぼう大な工事だ。徳川幕府の豊富な資金力が容易に想像できる。


 ちなみに、江戸幕府は身分に応じて大名、旗本、御家人に屋敷、家屋を貸与(拝領居屋敷・上屋敷)していた。ご公儀に盾突くと、「お家とり潰し」で、江戸の住いを幕府に明け渡さねばならない。むろん、国許のお城も、武家屋敷も。

 こういう目線で、武家諸法度をみると、士農工商といえども、武士たちはつねに「路頭に迷うわが身」を案じて、幕府の大目付、目付たちの監視に脅えていたのだ。
 狂気の殿様でもいれば、座敷牢に入れて口塞ぎをした。領内の悪いウワサにも、かれらは敏感に反応し、幕府の目を怖れていた。、

 人間は楽に生きることはできない。
 


 2階は江戸時代。1階が「近現代の水道」である。私たちはふだん水道の蛇口しか見ていない。ダムのみならず、巨大な水道施設をみるほどに、水のありがたみがわかる。


 夏休みに入れば、親子連れなどがたくさん勉強にくるだろう。

 江戸城のお堀の水はどこからきているのか。それは東京区政会館1階のパネル展、東京都水道博物館で、回答が出なかった。

 お城は極秘で作られる要素がつよい。多摩川、神田川から木樋で引いてきたのか。まてよ。現代も、お堀の水はある。

 かつて西新宿の淀橋浄水場から、1日2万トンの水がお堀に流れ込んでいた。この浄水場は1965年に廃止されて、雨水だけだという報道もある。これには疑問がある。

 雨水だけが頼りならば、極度の渇水期が到来すれば、お堀は枯れるはずだ。八木沢ダム、小河内ダムなど、底をみせる年もある。

 ネットで調べると、徒歩で調べた方がいる。神田川から、日本橋を通ってたどり着いたようだ。ただ、お堀の手前で、地下に潜ったようで、目視はできていない。  

 これも歴史ミステリーなのか。