【近代史革命】 第二次長州征討は、奇兵隊の暴走で引き起こされた。(上)
幕末史のなかで、慶応2(1866)年6月に勃発した第二次長州征討が、大きな位置づけがなされている。事実、そのさなかに、家茂将軍が死去し、将軍の不在がつづき、片や狂乱物価(ハイパーインフレ)による庶民の塗炭(とたん)の苦しみから『ええじゃないか」運動が起きてしまった。
徳川幕府の衰退が顕著となった。
この第二次長州征討という戦争は、だれが引き起こしたのか。
歴史家、歴史作家の多くは、幕府が一方的に長州に襲いかかった、と展開する。司馬史観などは、薩摩、長州びいきというか、幕府側の不条理のように描いている。
それは事実と違うし、公平さや客観性を欠いている。
長州藩の第二奇兵隊が、とてつもない暴走をおこしたのだ。
幹部の立石孫一郎がほとんど全員の約100人の兵を連れて、幕府直轄の倉敷代官所と、浅尾藩陣屋(京都見回役・蒔田広孝)を襲った。この暴挙が、朝廷や幕府を怒らせて、もう長州に対して寛大な対応はできない、と第二次長州征討へと突入していく。
【大きな流れとして】
① 過激攘夷論の長州藩が、八月十八日の七卿の都落ちで、京の朝廷から締め出された。
② 池田屋事件で、『祇園祭の前の風の強い日を狙って、御所に火を放ち、中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺する。そして、孝明天皇を長州へ連れ去る」(古高俊太郎の自白)というものであった。
天皇を連れ去る。これは池田屋事件のみならず、以降も、なんどか見え隠れしている。
③ 「禁門の変」が起きた。長州藩の家老3人が約2000人の兵を連れて京都に挙がった。『京都守護職』を寄こせ、と威圧した。むろん、幕府側の一橋慶喜と松平容保は拒否する。
元治元(1864年)7月19日、長州勢は京都御所へと進撃ていく。(池田屋事件に起因した天皇拉致の実行か)、御所に銃を撃ち込む。会津、桑名、そして薩摩藩が出てくると、長州藩は形勢が逆転し、敗走しながら火を放ち、京の都の八方を火の海にした。
④ 朝廷は怒り、長州を『朝敵』とし、徳川幕府に長州追討の勅命を発した。幕府軍が35藩、総勢15万が防長に州を二州を取りかこんだ。
総督府(総大将)は、尾張藩主から紀州藩主に代わっていたが、戦争回避策がとられた。過去から 徳川家御三家(尾張、紀州、水戸)には、戦争をきらう体質があった。大名家の処罰は厳格だが、みずから国内外で戦争はしない。だから、260余年の長期政権を維持できたのだ。
京都に挙がった長州藩の3人の家老は切腹、4人の参謀は斬首、五卿の追放で処した。
⑤ しかしながら、広島・国泰寺で、大目付の永井尚志(作家・三島由紀夫は子孫)はそれだけだと甘すぎると言い、『藩主父子を後ろ手で罪人として引き渡す』、『萩の開城』という、2つの条件をつけ加えた。そして、実行を迫った。
⑥ 毛利家を代表する岩国・吉川経幹は、永井の案をつよく拒否した。それからは、『長州処分案』がいつまでも決まらず、やっと慶応2年1月24日に、幕府は『長州藩の10万石削減』と『毛利敬親の謹慎処分』と決めた。
一橋慶喜をはじめとした幕府関係者は、おどしで『戦争するぞ』と軍隊をチラつかせながらも、開戦の気迫などほとんどなく、上記の2案で穏便に解決したかったのだ。(慶喜の頭のなかは長州のことよりも、兵庫開港問題の方が重要だった)
⑦ 幕府から芸州広島藩を通して、『長州処分案』が長州藩に提示がなされた。
約2か月後の4月9日に、長州の正規軍「第2奇兵隊」が、山口の港から出航し、(芸州広島藩、福山藩の先にある)、倉敷代官所を襲ったのだ。長州側からの開戦だ、と幕府は怒り心頭になった。
『禁門の変で、天皇拉致の実行を謀り、京都の民が《どんどん焼け》というほど、兵火よる家屋の損失はおおきく約2万7000世帯におよぶ。京都の貴重な神社仏閣も半数以上も焼失させた。応仁の乱以来の大惨事だった。
そのうえ、江戸幕府の勘定奉行所直轄・代官所を襲撃する。奇兵隊の兵士を捕えてみると、「長州藩政府の指図だ」と自白する』
木戸孝允が、第2奇兵隊から脱走した「浮浪の者」だの、自白は「虚言」だの、と幕府側に懸命にとりつくろう。
幕府とて盲目ではない。「第2奇兵隊ほぼ全員なのに、脱走とはおかしい」、倉敷から逃げ帰った先は長州だろう。
長州の宣戦布告だと判断し、2か月後の6月7日に、幕府軍が一斉に攻撃を開始したのだ。
【つづく】