歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 第二次長州征討は、奇兵隊の暴走で引き起こされた。(上)

 幕末史のなかで、慶応2(1866)年6月に勃発した第二次長州征討が、大きな位置づけがなされている。事実、そのさなかに、家茂将軍が死去し、将軍の不在がつづき、片や狂乱物価(ハイパーインフレ)による庶民の塗炭(とたん)の苦しみから『ええじゃないか」運動が起きてしまった。
 徳川幕府の衰退が顕著となった。

 この第二次長州征討という戦争は、だれが引き起こしたのか。
 
 歴史家、歴史作家の多くは、幕府が一方的に長州に襲いかかった、と展開する。司馬史観などは、薩摩、長州びいきというか、幕府側の不条理のように描いている。
 それは事実と違うし、公平さや客観性を欠いている。


 長州藩の第二奇兵隊が、とてつもない暴走をおこしたのだ。
 幹部の立石孫一郎がほとんど全員の約100人の兵を連れて、幕府直轄の倉敷代官所と、浅尾藩陣屋(京都見回役・蒔田広孝)を襲った。この暴挙が、朝廷や幕府を怒らせて、もう長州に対して寛大な対応はできない、と第二次長州征討へと突入していく。


 【大きな流れとして】

① 過激攘夷論の長州藩が、八月十八日の七卿の都落ちで、京の朝廷から締め出された。


② 池田屋事件で、『祇園祭の前の風の強い日を狙って、御所に火を放ち、中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺する。そして、孝明天皇を長州へ連れ去る」(古高俊太郎の自白)というものであった。
 天皇を連れ去る。これは池田屋事件のみならず、以降も、なんどか見え隠れしている。

 
③ 「禁門の変」が起きた。長州藩の家老3人が約2000人の兵を連れて京都に挙がった。『京都守護職』を寄こせ、と威圧した。むろん、幕府側の一橋慶喜と松平容保は拒否する。

 元治元(1864年)7月19日、長州勢は京都御所へと進撃ていく。(池田屋事件に起因した天皇拉致の実行か)、御所に銃を撃ち込む。会津、桑名、そして薩摩藩が出てくると、長州藩は形勢が逆転し、敗走しながら火を放ち、京の都の八方を火の海にした。


④ 朝廷は怒り、長州を『朝敵』とし、徳川幕府に長州追討の勅命を発した。幕府軍が35藩、総勢15万が防長に州を二州を取りかこんだ。
 総督府(総大将)は、尾張藩主から紀州藩主に代わっていたが、戦争回避策がとられた。過去から 徳川家御三家(尾張、紀州、水戸)には、戦争をきらう体質があった。大名家の処罰は厳格だが、みずから国内外で戦争はしない。だから、260余年の長期政権を維持できたのだ。

 京都に挙がった長州藩の3人の家老は切腹、4人の参謀は斬首、五卿の追放で処した。


⑤ しかしながら、広島・国泰寺で、大目付の永井尚志(作家・三島由紀夫は子孫)はそれだけだと甘すぎると言い、『藩主父子を後ろ手で罪人として引き渡す』、『萩の開城』という、2つの条件をつけ加えた。そして、実行を迫った。

⑥ 毛利家を代表する岩国・吉川経幹は、永井の案をつよく拒否した。それからは、『長州処分案』がいつまでも決まらず、やっと慶応2年1月24日に、幕府は『長州藩の10万石削減』と『毛利敬親の謹慎処分』と決めた。
 一橋慶喜をはじめとした幕府関係者は、おどしで『戦争するぞ』と軍隊をチラつかせながらも、開戦の気迫などほとんどなく、上記の2案で穏便に解決したかったのだ。(慶喜の頭のなかは長州のことよりも、兵庫開港問題の方が重要だった)

⑦ 幕府から芸州広島藩を通して、『長州処分案』が長州藩に提示がなされた。

 約2か月後の4月9日に、長州の正規軍「第2奇兵隊」が、山口の港から出航し、(芸州広島藩、福山藩の先にある)、倉敷代官所を襲ったのだ。長州側からの開戦だ、と幕府は怒り心頭になった。

『禁門の変で、天皇拉致の実行を謀り、京都の民が《どんどん焼け》というほど、兵火よる家屋の損失はおおきく約2万7000世帯におよぶ。京都の貴重な神社仏閣も半数以上も焼失させた。応仁の乱以来の大惨事だった。
 そのうえ、江戸幕府の勘定奉行所直轄・代官所を襲撃する。奇兵隊の兵士を捕えてみると、「長州藩政府の指図だ」と自白する』

 
 木戸孝允が、第2奇兵隊から脱走した「浮浪の者」だの、自白は「虚言」だの、と幕府側に懸命にとりつくろう。
 幕府とて盲目ではない。「第2奇兵隊ほぼ全員なのに、脱走とはおかしい」、倉敷から逃げ帰った先は長州だろう。
 長州の宣戦布告だと判断し、2か月後の6月7日に、幕府軍が一斉に攻撃を開始したのだ。


                                      【つづく】 

【近代史革命】 第二次長州征討は、奇兵隊の暴走で引き起こされた。(下)

 司馬史観において、なぜか、長州藩の第二奇兵隊による倉敷代官所襲撃はほとんど取り上げていない。それは「薩長同盟」を強調するストーリーに不都合だからか。

 木戸孝允と西郷隆盛による談論が、「薩長同盟」となり、さらには「薩長による倒幕」へと昇華させていく。
 はたしてそうだろうか。

 木戸孝允には開明的な思想があった。西欧に肩を並べるには、封建制の強い徳川幕府ではダメだ。西欧型の政治にする必要がある。それには、頂点に天皇をおく中央集権政治であった。

 後醍醐天皇が成した「建武の中興」とおなじように、天皇のための『皇軍』が必要になる。片や、親政が実現しても、長州藩がいつまでも『朝敵』だと、自分たちは政治活動などできない。毛利敬親の指図で、これまでは敵視していた薩摩と和合し、『朝敵外し』の尽力を頼みに京都・小松邸にやってきたのだ。

 この段階で、木戸孝允自身は『武備恭順』の施策を取りながらも、幕府と単独で戦う気などなかった。


 木戸孝允は早くから水面下で、芸州広島、備中岡山、鳥取、徳島、対馬ら六藩同盟・盟約へと働きかけていた。朝廷の権威を高めるには、これら諸侯(大名)の協力が不可欠だと考えていたからだ。京都の留守居役として、六藩が一つ意思にまとまりかけていたところ、自藩の暴発による「禁門の変」でぶち壊されてしまったのだ。

 それから2年後、こんどは倉敷代官所の襲撃だ。幕府のみならず、親しい他藩(五藩)からも、長州からの開戦疑惑がむけられた。

『なにかと暴走してしまう長州藩は、すでに正当性を失っている』
 長州藩江戸詰が長かった木戸孝允は、誰を最も怒らせてしまったか、とわかっていた。ここはせめても開戦疑惑を晴らすためにも、第二奇兵隊の参戦の隊士ら全員を切り捨てる手段にでた。幕府対策として、脱退の暴徒だ、大罪だと決めつけ、斬首など厳罰で臨んだのだ。

 それらを書簡にして幕府側に提示し、懸命に戦争回避に尽くしていた。
 
 しかしながら、幕府には通用せず、大軍が長州に襲いかかってきた。
 ところが思ったよりも、長州軍は善戦していた。この段階になって、はじめて『この勝敗が朝廷の盛衰にかかわる戦争だ』と木戸には位置づけできたのだ。兵士らを鼓舞し、火の粉を懸命に払っているうちに、家茂将軍が亡くなった。これが長州に幸いした。

 芸州広島藩の辻将曹が仲立ちし、勝海舟と長州藩が宮島で和平協定を結んだ。

 木戸孝允は、この辻将曹と広島藩世子の浅野勲訓(ながこと)と強いつながりがある。薩長芸軍事同盟ができた。それに土佐藩を加えて、徳川幕府に軍事圧力をかけた。結果として、「薩長土芸」が明治新政府を樹立させる。(肥前は動いていなかった)


 そして、木戸孝允が新政府の政策ブレーンの頂点に招かれた。かれの頭脳はフル回転をはじめた。……五箇条のご誓文、版籍奉還、四民平等、外国公使と天皇の面談など、斬新な政策が怒涛のごとく打ち出されていく。勝海舟と西郷隆盛による江戸城開城がなされる前からだった。
 むろん、木戸孝允は鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の戦場にはいちども出ていかず、財政・金融の面からも、新政府の新たな経済面の構築にむかった。
 
 第二奇兵隊の総督は山内梅三郎、軍監は白井小助と世良修蔵が就いていた。しかし、世良は謹慎中の身だったことから、倉敷代官所襲撃には参戦していない。

 学生論議のように、歴史に、もしもはないけれど、世良修蔵が謹慎ちゅうでなければ、会津戦争は起きなかったかもしれない。軍監の世良も倉敷襲撃に参戦し、暴走責任者として斬首されていただろうから。

 世良は、仙台藩士に福島の旅籠で斬首された。仙台がわの立場からすれば、世良の人格、性格に問題があったとする。この斬首が会津戦争のおおきな引き金になった。


 新政府になった明治2年に、長州藩内で奇兵隊が反乱を起こした。
 木戸孝允は長州意識よりも、朝廷の臣民の意識が強く、みずから反乱兵の鎮圧に乗りだした。徹底した処罰で臨んだ。そこには高杉晋作がつくった奇兵隊だ、という親近感などなかった。まるで逆だった。

 理性的な木戸からすれば、藩主・毛利敬親の「そうせい公」の態度を甘くみて、長州藩士がまたしても好き勝手に暴走・暴挙したか、という腹立たしさ。それ以上に、倉敷代官所襲撃の暴走が長州から開戦した、という汚名を歴史に残した口惜しさが強かったのだろう。


 現代の史学では、慶応2年4月9日の第二奇兵隊による、倉敷代官所の襲撃は歴史の片隅に置かれている。しかし、第二次長州征討の開戦という、実に大きなターニングポイントであることは事実だ。わずか100人と言えども、これを見落としてはならない。

 石見銀山から大坂に運ぶルートを守る重要な役所だった。幕閣で最も権威あるのは、徳川幕府500万石をぎゅうじる真の実力者は勘定奉行だ。金山・銀山も極秘に支配下にある。全国の津々浦々に隠密網を張り巡らせている。老中、ときに将軍すらもお金のために頭を下げる。

 その勘定奉行所の人体に、田舎侍の奇兵隊が知ってか知らずしてか、細長い刀を刺し込んだ。直属部下である有能な官吏が殺されたと言い、江戸勘定奉行を強烈に怒らせてしまったのだ。
 ちなみに、幕末の最大の実力者である小栗上野介 忠順( ただまさ)が勘定奉行であった。木戸孝允は事の重大さを知っていた。

                                    【了】

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (5)

 私は宮古島の取材で、学芸員に民族的な質問を向けてみた。
「私たちは琉球人です。日本民族とはちがいます」
と躊躇(ちゅうちょ)なく言い切った。
「それは、島民の全員の認識ですか?」
「そうです。宮古島、石垣島など先島(さきしま)諸島のひとは、ほぼ日本人ではないとおもっているでしょう」
 島の人たちをみるかぎり、顔立ちは違う。やや小柄な体躯だ。そのうえ、宮古島は立地的にも、中国大陸には近く、那覇にいく距離とじくらい。
 考古学的にも、先島諸島は縄文文化(北の日本文化)の影響がみられず、台湾に類似した土器が多く見つかっているという。
 たしかに、小さな帆舟時代には、黒潮に影響されて海上交通のもどり船は逆流で難儀だ。難破の危険度が高い。
「沖縄本島とは、これまた文化圏がちがうのですよ」
 学芸員の説明には、わたしは驚かされた。

 取材した当日の宮古島は、台風の直撃だった。それが少し止んできた。宮古島と小島を渡す長い橋が、暴風警報の解除と渡れた。
『海外派兵とはなにか』
 橋を渡りながら、あれこれ考えてみた。
 
 外国へと大量の兵士や軍物資を往復で、くり返し、遠距離輸送する。そこには運輸業が膨大な利益を得る。政商が儲かる構造がある。つまり、海外派兵で儲かる産業があるのだ。
 
 西郷従道の独断の強引な台湾出兵で、岩崎弥太郎の「三菱商会」が台湾出兵の頃から飛躍的に伸びた。
 つけ加えるならば、兄の西郷隆盛が起こした明治10年の西南戦争(双方の死者1万4119人)では、三菱商会は軍用船を独占し、大きく儲けた。
 この戦争のさなか、新しい汽船を購入する目的で、新政府から大幅な補助金を受けている。戦争終了後には、これらの船がすべて三菱商会に下附されている。


 当時の日本政府は、台湾出兵の政治的な解決が成されたと信じていた。

 下級藩士たちがつくった明治新政府は、德川幕府時代の外交をあれこれ難癖をつける。しかし、巨大大国の西欧諸国と修好条約、通商条約を結んできた。

 切れ者といわれた大久保利通すら、下級藩士で、調停工作は上手くても、外交は未熟で拙劣だった。清国に乗り込んでも、フランス人、イギリス人外交官の手を借りても、宮古島遭難事件と台湾出兵は、琉球問題の外交上の最終決着がつかいていなかったのだ。

 その大きな理由は、日本と清国の直接交渉の際、肝心な琉球王国の要人がまったく加わっていなかったのだ。
 アメリカ艦隊のペリー提督すらも、琉球を独立国として流米和親条約を結んでいる(1854年)。 琉球国は江戸時代に薩摩藩が侵略した。古来から、『琉球人の島、琉球王国の島』で、日本人の島ではなかった、民族も違う、という認識だった。

 大久保利通はそれがなかった。琉球を独立国として認めていない。外交交渉で、これが大きな落とし穴となった。後世にまでも、琉球問題、沖縄問題へと後を引いていく結果にもなる。


 まず明治8年(1875年)、明治政府は琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止を命令した。しかし琉球国は清との関係存続を主張した。つまり、日本合併の一本化に反対したのだ。と同時に、清国が琉球の朝貢禁止に抗議してきた。

 明治12(1879)年、明治新政府はの琉球処分(琉球を日本領とするので、清国との断交をもとめる)に際しても、清国は反対した。
 あらためて翌・明治13年に北京で、日清双方の交渉が行われた。

『交渉として』

① 日本政府から提案として、「宮古島列島、八重山列島(尖閣諸島を含む)」は清国領土とする。「沖縄本島、奄美諸島」は日本支配とする。

 ※日本は分割し、清国の領土として放棄する案をだしたのだ。(古来からの日本領土ではない、と認めたことになる)

② 清国政府からの提案は、2島の領有は望んでいない、従来の冊封関係を維持していくために、2島は日本から琉球国へ返還する。そして、琉球王国を再興させる。

③ 交渉に加わらない琉球人から、日本案の分島にたいする反対運動が起きた。


①~②で、日清は仮調印寸までいった。だが、清国側から正式な調印を拒絶してきた。


 最終的に決着したのは日清戦争の後だった。『琉球は日本領土とする』。戦争によって、日本の所有権は一応の決着がついたのだ。むろん、琉球人の頭越しの決着だった。

 地方の下級藩士がいきなり外務大臣、内務大臣になった。拙劣な外交が、台湾出兵、日清戦争、そこから三国干渉の問題が起きて、日露戦争、ひたすら戦争の道へと突っ走る。原爆投下まで。

 これも戊辰戦争で、徳川時代の実務に長けた有能な外交官たち(戦争無くして、欧米の巨大大国と修好条約、通商条約を取り交わした旗本)を殺してしまったことにも起因している。

 

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (4)

 明治7年4月5日に一度は、台湾征討は西郷従道(じゅうどう・隆盛の弟)に命令が下った。鹿児島県の士族は競って駆けつけた。翌日、谷千城と赤松則良の両将軍に参軍を命じた。
 西郷従道は3隻の軍艦で、兵員3658人を従えて、鹿児島から長崎へとむかった。まずは軍事物資の補給である。鹿児島の将兵は先勝気分だった。

 このとき、米国大使と英国大使パークスから、台湾征討にクレーム(異議あり)が出た。米英が清国に味方すれば、先行きが見えなくなる。政府内部で、大もめになった。木戸孝允たちはもともと台湾への出兵には反対だ。結果として、政府は台湾征討の中止を決めた。

 政府は、大久保利通を長崎に派遣し、『西郷従道に対して、台湾征討中止、出航停止』を言い伝えるように、と命じた。
 ところが、鹿児島出身の大久保は、ここで尻込みしてしまった。長崎で出航を止めようものなら、鹿児島士族の大反発を食らい、わが命が危ない。制止は不可能と思ったのだろう。
 大久保がもたもたとしている間に、西郷従道が明治7年5月2日に、長崎港から出港してしまったのだ。


 西郷軍は台湾に上陸した。そして、琉球遭難者54人を殺した部族の探索をはじめた。やがて事件発生の「牡丹社(ぼたんしゃ)」という地区の蕃社に絞り込んでいく。そして、総攻撃をかけて、集落を次つぎと焼き払った。蕃人たちは山奥に逃げ込んだ。
 日本軍は、宮古島難民事件が発生した牡丹社を制圧し、そのまま占領をつづけた。

 ただ、西郷軍の戦死者は12人であったが、占領地の環境は劣悪で、凱旋の途に就く7か月間に、マラリア病で561人の死者を出した。

 明治政府は、西郷軍が強引に出兵したことを清国に通達していなかった。アヘン戦争後に、清国に権益を持つイギリスにも知らせていなかった。外交的には失策であった。
 清国の実力者の李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは、日本の軍事行動にたいして激しく反発した。
 台湾出兵の事件処理として、日本政府は内務卿の切れ者の大久保利通を全権弁理大臣として北京に向かわせた。9月から清国政府と交渉した。
「台湾蕃地は、先に外務卿の副島種臣が交渉したときに、清国の領土ではないと言ったではないか」
 大久保は主張するが、
「もともと台湾は古来の中国領土である」
 李鴻章が反発する。
 双方が決裂寸前で、日清の双方が戦争でも起こりかねない雰囲気になってきた。北京駐在の英国大使・エドワードが調停を申し出てきた。

①台湾は清国の領土と認める
②清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払う。
③日本軍が台湾に道路をつくり、営舎を建てた40万両を払う。
④1874年12月20日までに征討軍を撤退させる。
 
 清国は、日本軍の台湾出兵の理由が、宮古島難民の義挙と承認した。つまり、江戸時代に薩摩藩が侵略した琉球の民が、いまや日本人だと清国が認めたのだと、鹿児島出身の大久保利通はそう認識したのだ。
 琉球の事務はすべて外務省の管轄であった。琉球国の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなったといい、大久保は内務省の管轄に移させた。

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (3)

 日本国内では、このごろ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平などを中心として「朝鮮討つべし」という征韓論が巻き上がっていた。
 鎖国政策の朝鮮が、明治天皇の国書の受理を拒否した。その国書には「皇」、「勅」という文字があり、それは清皇帝しか使えないものだ、こんな国書は朝鮮に対して無礼だと言い、突き返したのだ。
 江戸時代を通して、朝鮮は対馬藩しか交易をしていない。新政府とは交易しないという。日本政府が幾度となく交渉をくりかえしても、国書を突き返される。

「明治天皇の国書は、欧米の国は快く受け取っておる。隣国の朝鮮がひじ鉄をくらわすとはけしからん。朝鮮を征討するべし」
 それはかつてペリー提督がわが国にみせた、武力威圧的な開国要求を真似たものだった。日本中がその方向に流れていた。征韓論が閣議決定された。
 
 明治6年9月13日、岩倉使節団が欧米9か国から帰国すると、征韓論に反対を唱えた。西郷たち征韓論派は、政府の中心から排除された。

 徳川幕府を倒した主力は薩摩藩なのに、新政府は冷遇している。薩摩の下級藩士は爆発寸前にあった。下級武士の不満のエネルギーを台湾征伐に使おうと、薩摩出身の西郷隆盛も、大久保利通も、大山綱良の出兵提案にたいして賛成、推進派だった。
「ここは、清国に琉球住民は日本に帰属すると意思表示する好機だ」
 日本が清に対して強気の態度を見せる。
 宮古島の台湾遭難事件が、征韓論から台湾出兵に目を逸らす好機ととらえたのだ。

 明治政府は、まず外交交渉に及び、副島種臣を清に派遣した。
 清国側は、「琉球は清国の属国であり、琉球人が害を受けたか、否かを問わず、日本には全然関係ない事件である」と突き放した。
「それでは清国は、台湾の生蕃(せいばん、中央政府に従わない原住人)をしっかり統治しているのか」
 副島種臣が問うた。
「生蕃は化外(国家統治の及ばない地)の民である」
「化外の民とは、つまり統治できていない民という意味だ。わが国は兵を派遣して、害を及ぼす台湾の生蕃を討つ。そのときになって異議を唱えないように」
 副島は揚げ足を取ったのだ。

 副島は帰国して、台湾征討の必要性を強調した。薩摩藩の下級士族などは狂喜した。

 しかし、徹底して反対したのが木戸孝允だった。日本国内は経済的も疲弊している。
「国力増強、富国と近代化が優先だ。戦争などすれば、日本は疲弊してしまう」
 それでなくとも、明治の御一新で期待した人民の不平が高まり、士族の乱、農民一揆が多発している。戦争などしている場合ではない。木戸孝允はかたくなに台湾出兵を反対して下野してしまう。

 明治7年、閣議決定で台湾征討が決定した。明治天皇は出兵の勅許を出した。そして、西郷従道にたいして台湾征伐の命令が下った。

 ところが、台湾征伐中止の事態が起きるのだ。
                              
                                     【つづく】

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (2)

 明治時代~昭和半ばまで、海外侵略の軍事国家となった。日本の為政者たちは、「戦争」という表現を回避し、事変とか、征討とか、出兵とか、自国民の目をごまかす言いまわしが得意だ。その実、やましい侵略だから、事故・出来事のような語彙でカムフラージュしてしまう。

 私たちは、歴史年表で明治7年の『台湾征伐』と教わるていどで、経緯などほとんど知らない。ましてなぜ、他国を征伐する必要があったのか。

 この『台湾征伐』には3つの侵略目的があった。
① 明治新政府には、一つは独立国の琉球国を日本に組み入れる。
②「台湾」を植民地にする。
③ 国内的には、戊辰戦争の原動力になった下級藩士らが、職も、身分も奪われた新政府の冷遇にたいして反乱を起こしはじめたから、台湾征討で、その不満を逸(そ)らすためである。


 琉球国とはどんな国であったのか。歴史をさかのぼってみた。

 文保元(1317)年には、宮古島の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)と記録されている。このころから「蜜牙古(みやこ)」と歴史書に現れてくる。
 1365年には、与那覇原軍が宮古全島を統一した。豊見親(とぅゆみゃ)時代となった。
 
 沖縄本島に琉球王国ができたのは、14世紀から15世紀だった。この琉球王国が武力で、先島諸島を攻めてきた。結果として、宮古群島と八重山群島が、琉球王国の支配下に入った。16世紀である。

 17世紀に入った途端に、1609年3月、薩摩藩が軍船100余隻、兵3000余を投入して琉球全土を侵略してきたのだ。わずか一週間で、琉球王府を屈服させた。

琉球は清国の属国でもあり、薩摩藩の植民地であった。

 琉球王朝は、「清王朝」を宗主国として、君臣関係の冊封(さくほう)あった。わかりやすくいえば、琉球の産物を貢物として清の国王に献上し、「臣」(属国)となっていた。
 片や、17世紀に薩摩藩が侵略した殖民地でもあった。沖縄本島の那覇には、れっきとした琉球政府があり、薩摩藩はそれを認めながらも、過酷な税で搾取していたのだ。

 薩摩藩の侵略の狙いはなにか。それは琉球・清国貿易に目をつけたもので、その「交易」利益を薩摩に貢がせるものだった。片や、領土権、施政権は琉球王府にあり、独立国家として存続させた。

 ここに複雑な問題が残った。
 宗主国の清王朝からみれば、琉球国府は存在しており、君臣関係の冊封(さくほう)があり、支配下にある、という考えだ。

 那覇の琉球王府は、清王朝と薩摩藩に、二重に貢ぐことになった。自分たちの負担を軽減するために、1637年から宮古・八重山に『在番』が常駐させて、人頭税を課した。
 15歳から50歳まで(数え年)の男女にたいして、頭割で村ごとに連帯責任による税を課した。その平均税率は8公2民であり、世界でもっも重い過酷な税だった。
 土地は硬く粘土質で、石ころの痩せており、肥料も買えず、毎日が重労働だった。栄養失調と体力消耗で過酷な使い捨ての命だった。

 人頭税反対の一揆も起きたが、弾圧されてしまった。先島諸島のかれらは、毎年、帆船で那覇に税を運んでいた。(明治36(1903年)に廃止)。

 ペリー提督が浦賀に入港し、翌年に「日米和親条約」を結んだ。同じ(1864)年に、同提督は琉球国政府と交渉し、『米琉和親条約』を結んだ。欧米から見れば、琉球は国際的には独立国だった。これは歴史的事実である。
「植民地になったからと言い、国家が消えたわけではない」
 ここらは現代でも、勘違いしているひとが実に多い。


 明治4(1871)年9月に、明治新政府は清の間で、「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」を結んだ。双方が対等な立場で結んだ条約だった。

 ところが翌年、明治5(1872)年9月に、明治新政府が、琉球国(尚泰王・しょう たいおう、19代最後の琉球王)を琉球藩として、日本に日本の版図(はんと。勢力範囲)に組み込み、琉球藩とし、尚泰王は藩主となった。
 怒ったのは清国である。日清の双方はここから対立がはじまった。

 このときに、宮古島の台湾遭難事件が起きた。同年10月18日、宮古島の『頭』(郡長・島のトップ)仲宗根玄安ら、主従が那覇に人頭税(年貢)を納めた帰り船(144石積み船)4隻が、嵐に遭遇し、台湾に漂着したのだ。
 台湾の原住民(パイワン族、クスクス族)によって、54人が殺害された。

 鹿児島県知事の大山綱良が、明治政府へ提出した「上陳書付属書類」には、生き残った者の証言から、
「殺した人の肉を食うという説がある。また、脳を取りだして薬用にする、という説がある」
 と報告がなされた。
「琉球藩の日本国民だ。国民に害を及ぼしたものを問罪(罪を問いただす)する」
 大山綱良が出兵を明治新政府に要請した。

 琉球国を琉球藩にした直後だ。当然ながら、琉球は日本人ではない、と清国は猛烈に明治新政府に抗議する。

【つづく】

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (1)

 私の歴史的なテーマは、徳川家が政権をもった江戸幕府が260年間は戦争しなかったのに、明治政府になって10年に一度戦争する国家になった。なぜか。政治・思想、事件を含めて、それらを深く追いもとめるものだ。

 江戸時代に、外国と戦争したのは薩英戦争(薩摩藩)、下関戦争(長州藩)の2回だけである。この薩長が明治新政府の指導権をとり、戦争国家をつくったと言っても、過言ではない。


 明治時代の最初の海外侵略戦争が、「台湾出兵」である。宮古島の琉球人が、台湾に漂着し、54人が殺害された事件がある。ここから端が発せられている。

 台湾出兵はたんに日本と台湾の関係だけでなく、琉球問題が深く絡んでくる。「琉球人による琉球政府」が、日本に組み入れられて沖縄県と称された。ペリー提督すら、独立国と見なし、米琉和親条約を結んでいる。
 1945年の太平洋戦争の終結の後、米軍はアメリカに施政権を持った。琉球民族は、日本民族と違う、というのも理由の一つだった。

 平成の現在の沖縄問題も根っこのところで、この台湾出兵を直結している。ここらも歴史的に理解しておかないと、現在の米軍基地の移転問題も上滑りになってしまう。

 台湾出兵関連資料の入手や取材は、現地・宮古島にいかないと実態がわからないので、9/25日から4日間の予定で宮古島に入った。

 ちょうど台風が接近し、猛烈な嵐となった。最大瞬間風速40㍍を実体験した。と同時に、明治4(1871)年に、年貢船が台風で遭難した、という情況が肌で感じ取ることができた。

 明治4(1871)年10月18日に、那覇を出港して宮古島、八重島にむかう4隻の船があった。年貢を納めた帰り船である。追い風がつづかず、慶良間島の湾内で数日間、止まっていた。そして、同月29日に出帆した。

 翌11月1日、北北西の暴風雨に遭ってしまった。猛烈な風が吹き、海上は大しけで、4隻の船は航行の自由を失った。そのうちの1隻はかろうじて宮古島に帰着した。もう1隻は完全に消息を絶った。

 残る2隻は海上で積荷を捨て、舵と帆柱も切って漂流した。当時の難破の処方の一つである。

 11月12日、2隻が台湾の南西部にかろうじで漂着したのである。この時点で、琉球人は69人にいた。荒波と岩礁で、本船が破壊された。脱出するうち、3人が溺死した。

 生存者の66人が、不遇にも、台湾の現地人に襲われた。衣類を盗られたうえ、首を刎(は)ねられた。彼らは野蛮な風習で、刎ねた首の数で、部族の力を見せる習慣があった。漂着できた琉球人の計54人が殺害されたのである。

 それでも、生存者はかろうじて12人いた。翌1872年7月12日に、清国・福州を経由し、那覇に帰ってきた。
 この事件が鹿児島県から、東京の外務省に「台湾遭難事件」として報告された。県令(:県知事)の大山綱良が問罪(責任追及)で、軍隊を台湾に派遣したいと添えていた。

 先んじること戊辰戦争で、奥州越同盟の会津藩・仙台藩が、新政府軍と熾烈な戦いに及んだ。この大山は、会津戦争の発端となった人物の一人である。つまり、戦争発端の前歴が、この薩摩人にあったのだ。

                          【つづく】

防護服で、「高間省三」碑に墓参 = 福島・双葉町

神機隊の砲隊長・高間省三が、戊辰戦争の激しい戦いの浪江の攻防戦で死す。有能な藩士で、頼山陽2世ともいわれた、頭脳明晰で、文武両道に通じる若者だった。

 広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。



 さらいねんは維新150年である。広島護国神社(藤本宮司・写真の右端)は、高間省三の遺品が劣化しつつあるので、約200点をすべて写真撮りし、永久保存版の本にしたい意向がある。

 その作業がスタートした。

 神社の所蔵写真から、現在は広島藩の兵士らの墓地の写真撮りへと移った。ことし2016年7月20日から2泊3日で、茨城県・福島県の、それぞれの墓地に出むいた。
 
 高間省三が眠る双葉町は、福島第一原発の事故から、現在も残留放射能の濃度が高く、特別許可が必要である。

 7月22日は、その双葉町に出むいた。


 戊辰戦争で亡くなった広島・浅野家藩士ら一部は、東京・泉岳寺にも祀られている。そちらの写真撮りも成されている。

 泉岳寺といえば、赤穂浪士「四十七士」の墓で名高い。なぜ、と思われるだろうが、広島・浅野藩42万石は宗家であり、赤穂浅野家は5万石で分家だった。

 赤穂浅野家はお家おとり潰し(改易)で、家臣は浪人になり、四十七士は斬首でなく、切腹になった。むろん墓地などない。浪人といえども、元もとは浅野家の家臣たちである
 宗家・広島浅野家の配慮で、菩提寺・泉岳寺に祀られたのである。


 ちなみに、大石内蔵助の遺髪は、当時、生き残った志士のひとりが宗家・浅野家で祀ってほしい、と広島まで持ってきた。その遺髪が現在、広島市内の墓地に祀られている。
 あまり知る人がいないけれど。(そこには高間省三の顕彰碑もある)。

 浅野家家臣の有能な高間省三は、なんと18歳で、藩校・学問所(現在の修道高校)の助教だった。第二次長州征討が勃発寸前には、同校OBら55人で、広島にきた小笠原老中を暗殺を企ててまで、戦争を阻止しようとした。

 しかし、それはかなわず第二次長州征討は起きてしまった。大政奉還後も、鳥羽・伏見の戦い、さらに戊辰戦争へと戦火が拡大した。

 高間省三ら神機隊は自費で出陣した。そして、相馬・仙台軍と激しい戦いに望んだ。

 ひとたび戦争がおこると、反戦の若者でも出征して命を落とす。「戦争は起こさせたら駄目だ」。それを小説で感じ取ってほしい、と私は高間省三を主人公にした「二十歳の炎」を出版した。

 現在は三版。少しずつではあるが、高間省三の生き方を通して、明治政府が封印した芸州広島藩の幕末の動きが知られはじめた。
 
 幕末の中心は薩長土肥でなく、「薩長土芸」だと認知されてきた。

【近代史革命】 木戸書簡は「薩長同盟」でなく「皇軍挙兵」の談論だ (上)

 歴史観は、固定観念にとらわれると、その枠組みから脱皮できず、真実、事実に近づけなくなる場合が多い。顕著な例が、「薩長同盟」だ。

 第二次長州征討で、長州藩は勝っていない。
『朝敵になった毛利敬親(たかちか)と、世子を後ろ手に縛ってでも、江戸に連れてくる』
 これが幕府がわの戦争目的だった。
 しかしながら、戦争のさなかに、德川家茂将軍が死去したので、一ツ橋慶喜が勝海舟を広島に送り込んで、休戦協定させた。

 毛利家は現・山口県から勢力圏を拡大したり、京都・江戸まで侵攻し、勝利したりしたわけではない。別段、勝ってもいないのに、明治政府の御用学者が、「長州藩が勝った、勝った」とするから、無理な辻褄合(つじつまあ)わせが必要になってくる。

 長州藩は長崎で西洋最新銃を購入し、その仲立ちは龍馬で、1866年1月21日、薩摩の小松帯刀と木戸寛治(桂小五郎)で、6か条の『薩長同盟』を結んだとする。

 1866年1月に、毛利敬親の命令で、家臣の木戸寛治ら4人が、京都の小松帯刀邸にでむいた。木戸は現代でいえば、長州の外務大臣だった。小松邸には、薩土長の関係者ら11人がそろった。


 長州藩は、「禁門の変」で京都御所に銃弾を放ち、京都を火の海にし、幕府、民衆、朝廷から敵視されていた。長州は朝敵だった。
『朝敵という汚名を外してほしい』
 これが毛利家の最大の目標だった。

 朝敵の長州が外れないかぎり、政治的な行動は一切できない。


 小松邸で、三藩の話し合いが行われた。長州藩が幕府から宣戦布告されていない段階である。あえて厳密にいえば、くしくも木戸が京都を立ち去った翌日、1月22日、幕府は長州処分の最終案を決めたのである。そして、
「毛利家の封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶」
 と奏上し、勅許が下された。

 つまり、三藩の話し合いは、毛利家の処分案が決まる前段階で、藩主の蟄居が取りざたされている段階である。
 長州藩が戦時下の体制に入るのは、
『蟄居処分が決まっている毛利敬親と、世子を後ろ手に縛って差し出せ』
 と大目付の永井尚志(なおゆき)が、広島藩を介して要求した。それにたいして広島藩も、長州藩も拒絶した。この段階から、きな臭くなってきたのだ。
 それはまだ数か月先だ。

 では、1月の小松帯刀邸の密会は何だったのか。薩長同盟ならば、薩摩4人、長州4人だけで、土佐側から3人の立会いなどは必要ない。坂本龍馬はこの中のひとりである。
 この11人で、一体なにが話し合われたのか。


 ややさかのぼれば、1864年に第一次長州征討が決着した。その直後から、江戸幕府への失望感が出てきた。

『德川幕府は、解決した長州問題を言いだしてきた。そのうえ、天皇と幕府と双方から、政治指図が出てくる日本は危うくなる。こんな德川幕府ではもうダメだ。皇軍の挙兵が必要だ』
 鎌倉幕府を倒した、後醍醐天皇の挙兵、つまり「建武の中興」がひそかに話題にあがりはじめたのだ。

 「建武の中興」とはなにか。蒙古襲来の元寇以来、鎌倉幕府の政局が極度に不安定になり、幕府はしだいに武士層からの支持を失っていた。

 その一方で、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒をひそかに計画をはじめた。天皇の討幕は、なんどか失敗した。けれど、やがて元弘3(1333)年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇がみずから行う政治)が成就したのだ。

 蒙古襲来後の鎌倉幕府の末期症状と、いまや通商条約後の尊王攘夷論がうずまきはじめた江戸幕府と、酷似してきた。孝明天皇の発言がより強くなってきた。後醍醐天皇に似てきた。


 『われらは、孝明天皇の下に挙兵する』
 薩摩藩、広島藩、土佐藩の家老級の人物が、極秘に皇軍の模索をはじめていたのだ。

 幕府ににらまれている毛利家だが、長州藩は下関戦争の経験がある。このさき皇軍として組み込むには、長州の代表者から胸の内を聞く必要がある。
 
 坂本龍馬、中岡慎太郎などが毛利家に働きかけ、薩摩憎しの木戸寛治(桂小五郎)が殿の命令で渋々京にやってきたのだ。
 小松邸に入った当初、木戸は怨念で薩摩攻撃が激しく、話し合いにもならず、品川弥次郎などは唖然としていたようだ。

【近代史革命】 木戸書簡は「薩長同盟」でなく「皇軍挙兵」の談論だ (下)

 1866年1月、薩摩藩・小松帯刀邸で、三藩が「建武の中興」についてひそかに話し合った。
 
 木戸寛治(桂小五郎)は、それを手紙・覚書にして、坂本龍馬の許に送った。それが6か条から成り立っている。(現存している)。
 その6か条には、いっさい薩摩(島津家)、長州(毛利家)とも記載されていない。聡明な外交官の木戸は、主語を抜かしても、文脈が通じる書簡にしていた。(書簡が、公儀隠密に奪われる警戒から当然である)。
 木戸があえて抜かした、その主語とはいったい何か。

 しかしながら、後世の学者、歴史作家、司馬史観に陶酔する人たちは、「長州が戦争になった時には薩摩が協力する」と無理してあてはめる。
 一条ずつみれば、論旨がめちゃくちゃで、国語力はあるのか、と疑いたくなるものも多い。むしろ、殆どである。

 なぜならば、明治政府の長州閥の政治家が、声高に言ったのが薩長同盟だ。木戸書簡をそこにあてはめる、こじつける、だから文章になっていない。


一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


 【木戸があえて抜かした主語を、『皇軍』として当てはめ、現代文にする、と下記のように文意が明瞭・明白になる】

① 皇軍が戦いとなった時は、薩摩は直ぐさま2000人規模の兵員を鹿児島から急きょ挙げて、いま在京の兵と合流し、大坂にも1000人程を差し置いて、京都・大坂の両所の地域を固める。

② 皇軍の戦いで、我の勝利がみえるとき、その節は、薩摩・土佐が朝廷に申し上げ、長州の朝敵を解除するように、かならず尽力する。

③ 皇軍が万が一、敗色が濃くなっても、一年や半年で壊滅いたすことはないので、その間にも、長州の朝敵解除にかならず尽力する。

④ 幕府軍が江戸へ帰ったときは、きっと朝廷に申し上げ、すぐさま朝廷より長州の朝敵が免罪になるように、かならず尽力する。

⑤ 德川幕府兵が上京のうえ、一橋、会津、桑名などが、今のような状況で、もったいなくも朝廷を擁し奉り、正義に逆らって、薩摩・土佐がおこなう周旋の尽力の道を遮るならば、終に決戦におよぶほかはない。

⑥ 長州の冤罪が赦された上は、薩摩・土佐と長州の双方は、誠心をもって合い協力し、皇国の御為、皇威が輝き、(建武の中興のように)ご回復に立ち至ることを目標に、誠心を尽くし、かならず尽力つかまつることにいたす。


 坂本龍馬が、桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名したもの

【龍馬の原文】
 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違これなく候。将来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。


【龍馬の現代文】

 表に記入された6カ条は、小松帯刀、西郷隆盛の両氏および老兄(木戸貫治)、龍馬などもご同席にて談論したもので、少しも相違ない。将来になっても、決して変わることがないと、天地神明の知るところである。


 木戸があえて外した主語の下でも、龍馬は「天地神明の知るところである」と言い切った。まさに天皇挙兵への談論として、第1回目の話し合いだったと認めている。

 これがやがて翌年には、薩長芸軍事同盟となり、御手洗(広島県・大崎下島)から三藩進発で、6500人の兵が皇軍として京都に挙がってきた。(土佐藩は遅れてくる)。
 長州の朝敵が解除された。それから半月足らずして、薩摩、長州、土佐、鳥取藩などが「鳥羽伏見の戦い」を起こす。かれらはつねに皇軍と称している。これは歴史的事実である。


 木戸寛治6か条を再度、確認すれば、第二次長州征討に類する記載など、まったくないのだ。この木戸書簡から半年後、第二次長州征討が勃発した。
 司馬遼太郎は、長州が勝った、勝ったのひとりで、その結果論から、「薩長同盟」だと、不自然に導いている。その物語が現代にも、大きく影響している。

 司馬史観などで凝り固まって、柔軟な思考がなき人たちは、最初の条項など次のようにメチャクチャである。

 長州が戦いとなった時は、薩摩は直ぐさま2000人規模の兵員を鹿児島から急きょ挙げて、いま在京の兵と合流し、大坂にも1000人程を差し置いて、京都・大坂の両所の地域を固める。

 こんな現代語訳などは、ロジックもあわず、まさに陳腐としか言いようがない。

 
 後醍醐天皇の「建武の中興」を模範とした、第一回目の「孝明天皇の下で、皇軍挙兵」の談論とすれば、すべてにおいて文脈が通じるのである。

 このとし慶応2年(1866年)12月25日は、孝明天皇が在位21年にして崩御した。満35歳の奇怪な病死だった。

 満14歳の若き明治天皇になっても、薩長土芸の皇軍挙兵の思想は消えなかった。大政奉還の後も、良し悪しは別にしても、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと、つながっていった。