歴史の旅・真実とロマンをもとめて

秋雨前線・大雨の祖谷渓谷(阿波)と、晴れ間の満濃池(讃岐)=同一日

 太平洋気候は台風、春秋の梅雨前線など集中豪雨が多い。一つ台風が来れば、吉野川など河川が大荒れになってしまう。
 片や、瀬戸内海気候となると、夏場にはほとんど雨が降らない。稲作の生育にとって最も水を必要とする真夏に深刻な水不足になる。

 江戸時代、阿波(徳島県)は、年間数回も、大洪水の被害を受けていた。片や、讃岐(香川県)は瀬戸内海気候で、雨が少なく、日照りと旱魃(かんばつ)に悩まされていた。
 

 讃岐山脈(県境の東西に細長い山脈)をはさんで、こうも極端な水問題と対応策に分かれているのか。
 それを実体験で知るために、秋雨前線を狙って取材に出かけた。

 ことし(2015年)9月1日は、徳島地方に、大雨洪水注意報が出された。車で吉野川をさかのぼっていく。眼下の茶褐色の川水は勢いを増している。上流になるほど、V字型渓谷の幅は狭まり、深い谷になった。渓流は轟音の濁流だ。

  
 平家落人の里の祖谷渓谷へとすすむ。曲がりくねった絶壁の道だ。『落石注意』の看板が不気味だ。その数はかぞえきれない。
 車のワイパーが懸命に半円を描く。大粒で叩きつける雨で視界が悪い。ここで落石の被害にでも遭えば、「無謀な取材」だと、メディアのいいカモになるだろう。


 眼下の吉野川は増水している。現代は護岸がしっかりしているが、江戸時代はきっと大洪水だろう。これらの様子を書き取った。

 次なるは香川県だ。
 讃岐山脈を越えた、讃岐(香川県)の雨量はどの程度だろう。あるいは、瀬戸内海地方の讃岐平野だから晴れているかもしれない。
 
 祖谷渓谷から車で、吉野川に沿って下っていく。「三好」という地名から、讃岐山脈へと登っていく。この山脈は東西方向に長く、南北方向には狭い。急角度の急峻な山脈である。

 標高800mほどの山々には雲が厚くかかっている。徳島県側はなおも大雨だ。この山脈で雨が落ちてしまえば、香川県は晴れているはずだ。


 山頂を過ぎると、重い霧と雨がかすれていく。やがて、雲間から青空がのぞく。山脈を下りきると、ふしぎに雨ははなくなり、晴れ間となった。

 

 讃岐地方は古代から、日照り続きの水対策として、溜池(ためいけ)が多く造られ続けてきた。その数は数万か所だという。

 そのなかでも、香川県・満濃池(まんのういけ)は、平安時代につくられた、わが国最大の溜池である。一般には弘法大師が作ったとされている。厳密にいえば、多少、違いがあるとわかった。

 大宝年間(701~704)に、讃岐の国守だった道守朝臣が創築している。

 818年には、洪水で堤防が決壊した。
 821年に、空海(弘法大師)に派遣を要請し、この年に2か月間で再築している。

 これ以降も、堤防が何度も決壊し、復旧工事が行われている。

 1184年に決壊した後、鎌倉時代と戦国時代の450年間は復旧がないまま、荒廃している。

 1628年、德川時代に入り、(家光の時代)、讃岐領主の生駒家4代・高俊が再築した。水掛かり44か村が3万5814石におよぶ。

 満濃町役場を訪ねたが、歴史関係者は不在だった。そこで、図書館を訪ねると休刊日だった。
「ついていないな」
 うどん屋に入った。お客の50~60歳代の女性に話しかけた。
「満濃池は涸れることはないよ」と話す。生まれてこの方、いちども枯れていないと強調していた。


 満濃池の恩恵がどの程度の領域までか。作品を書く都合上、少なくとも、金毘羅さんから琴平あたりは知りたかった。そこで、金毘羅のお土産物屋へと足を運ぶ。
「満濃池の恩恵があったよ」
 このことばで、平安時代の巨大なため池が、かなり広範囲に寄与していたか。実感できた。

 山岳歴史小説は信州・飛騨が中心だから、これだけの取材で、小説のなかでおよそ5-6行の展開になるだろう。
 内容としては、信州の庄屋が金毘羅参りする。現地の人から、讃岐と阿波の水対策の違いを聞く。帰路に満濃池に立ち寄り、平安時代の巨大な工事ににおどろく、という展開を予定している。

                       
 

「歴史の旅・真実とロマンをもとめて」トップへ戻る