元気100教室 エッセイ・オピニオン

右総代 筒井 隆一

 我が家の居間の窓際に、幅20センチ、長さ80センチほどの細長い棚がある。
 そこには、和洋酒の空き瓶が10本ほど並んでいる。家内とヨーロッパに出かけ、旅先で買い求めたワイン、シャンパン、親しい友が地方から上京した時、土産に持ってきてくれたその地の銘酒など、ここに並ぶ。
 酒瓶は、充実した酒飲み人生を歩んできた私にとって、それぞれが思い出深く、なつかしい品だ。


 その中に、筒井隆一様「セ・モア」平成元年7月26日、と焼き付けられた焼酎の徳利が、一本置かれている。この徳利には特別な思いがある。
 30年前、平成元年の私は五十歳直前で、気力・体力とも充実していた。建設中の大きなプロジェクトを何件か抱えながら、次の案件受注のため、日夜営業活動に飛び回る毎日だった。


 一見単純明快な建設業だが、最新の技術・工法を駆使し、工期短縮、コスト削減につなげたり、きめ細かい地域対応でトラブルなく工事を進めたり、複雑な推理小説を読み解くように、いろいろなやり方を求められる。
 しかし、最終的に仕事を上手く進めるには、発注者との良好な関係を作ることである。

 こちらの考えを、きめ細かく説明、提案し、それを受け入れてもらうような強い信頼関係を構築することに尽きる。
 その為には、大切な得意先との付き合いも、仕事を進める上で重要な要素の一つだ。


 当時、私たち年代の男性にとって、銀座のバーやクラブは、特別の感慨があった。赤坂や六本木にも高級な店はあったが、銀座は一味違う。格が上で、いわゆる「一流」なのだ。
 夜の銀座で働く女性もそれなりの品位を持っていた。
「昨日は銀座で飲んだ」
 という時の、なんともいえぬ誇らしさがなつかしい。
 得意先も、我々が銀座にご案内したことで、自身の評価を確認するのだ。

 私もその銀座に、大切な得意先をご案内する立場になっていた。
 言葉に出さなくとも、こちらの心情を察し、対応してくれる、気心の知れた店と付き合いを持つ必要を感じた。
 当時は得意先のお好みに応じ、それぞれご案内する店は何軒もあったが、私の気心を知って、ツーと言えば、カーとくる店は、まだ少なかったと思う。


 そのような時、先輩の紹介で利用していたクラブに、アルバイトで3年ほど勤めていた雅子さんが、銀座八丁目に自分の店を出すという。
 それならば、この際応援しよう。会社としても利用させてもらうから、我々の営業にプラスになるように、大事な得意先に対応して貰おう、ということになった。
 そして開店したのが平成元年7月26日だったのだ。


 棚の焼酎の名入りボトルは、開店に当たって特に支援し、今後もフォローしていきそうな二十人に配られたものだった。私もその一人に入っていたのだ。

 酒も飲めず、ろくに商売の柵(しがらみ)も知らぬ若い女性が、ママとして開いた店だ。前のめりで、無邪気に始めた当初は、不慣れで客扱いも、なっていない。
 店に行くたびに、絵の飾り方がおかしい、花籠の位置が違う、カラオケのボリュームが大きすぎる、などなど、細かいご指導が続いた。
 彼女も素直に受け止め、こちらの営業にプラスとなるよう、気くばりをし、かつ得意先を楽しませてくれていた。

 それが、銀座でここまで30年間続いたのは、彼女の人柄、性格、商売の堅実さだろう。


 当時、世の中は景気が良く、先を見通せない銀座のママたちは、儲けた金を無計画に使ってしまい、店が潰れたという話を、よく聞いた。
 堅実な雅子さんは、しっかりため込んでいたのだろう。その結果、無事三十年を迎えたのだ。
 半年ほど前、30周年記念のパーティーを考えているので、是非一緒に祝ってほしい、と連絡があった。

「もちろん喜んで出席させて貰うよ。大きな節目だから、皆さんにお祝いしてもらって、心に残るパーティーにしたいね。どんな段取りでやるの?」
「このお店を支えて下さって、今も来て下さる常連さんは60人位だから、2日に分けて各日ご都合のよい時間に割り振って、ご案内しようと思っているの」
「それがいい。開店当時を知っている人たちで、昔話が出来れば一番いいね」
 30年同じ店に通っても、顔を合わせたことのない人間がほとんどだ。その人たちと話をするのも面白いだろう。

「ところで筒井さんのごあいさつで、パーティーの口火を切るわね」
「俺より一生懸命通っている常連さんがいるだろう。先輩に任せるよ」
「開店の時、馴染みのお客様に、ウィスキーのボトルをキープしていただいたけれど、筒井さんは51番なの。それ以前の方は、もうお店に来て下さらないか、来られなくなってしまい、筒井さんのボトルが一番先輩なの」
「どんな挨拶すればいいんだい?」
「『30年続けて、このような記念日を迎えることができました。今日来ていただいた旧くからのお客様には、心から感謝申し上げます。右総代筒井隆一様からひと言頂き、パーティーを始めます』に続いてスピーチしてください」

 小学、中学時代は引っ込み思案のおとなしい子供で、級長、総代などには全く縁がなかった私である。まさか、この歳で『右総代』とは……。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

大観からの手紙 ~祖父清のこと~」 井上清彦

 夏の朝、「オーシーツクツク」とツクツクボウシが鳴いています。
 鳴き声に耳をすますと、「夏が過ぎてゆくのだなー」と感傷的な気分になります。8月は、沖縄忌、広島・長崎の原爆忌そして終戦記念日と続く「死者を悼む月」です。


 母は東日本大震災の2ヶ月前に亡くなり、母屋にあった仏壇を隣の我が家に移しました。
 私は、朝晩、仏壇で拝んだあと、書斎机にある、母、父そして祖父の写真に語りかけます。祖父は、明治8年に生まれ、私の誕生する3年前昭和十四年に亡くなりました。


 親は、私たち兄弟3人に「祖父は美術学校の卒業で、神社仏閣の調度品のデザインを仕事とした大変尊敬すべき人だ」と子供のころから教えた。

 母が嫁いだ際に「祖父のものは一木一草たりとも手を付けてはいけない」と祖父を尊敬すること尋常でない父から、きつく言われたという。


 子どもたちに、時々、祖父が昭和7年に建てた母屋の書院造りの座敷で、遺品の数々を広げて見せてきた。

 父が、昭和60年に80歳で亡くなったあと、母は、祖父の遺品の扱いに苦慮し、主だった遺品(殿内調度及び御神宝裂地資料)を、平成8年、神社本庁に寄贈した。

 昭和62年「東亰藝術大学創立100周年記念展」が都内各地で開催され、「デザイン・建築」展を見に行った。祖父は明治二十六年、岡倉天心が校長を務める東京美術学校に入学、絵画本科を経て、天心の発議により新設された図案科3年生に編入した。

 展覧会では、図案科の一期生(明治31年卒)の祖父の卒業制作「室内装飾図」が最初に掲げられていた。


 昨年5月、「国立近代美術館」で開催された「生誕150年記念の横山大観」展を鑑賞した。大観は明治元年生まれ、昨年は明治維新150年だった。

 美術評論家によれば、大観は夭折した画友の菱田春草と比べ、決してうまくはない。
 ただ、「朦朧体」と呼ばれた輪郭をはっきりさせない描き方や新しく作られた岩絵の具をいち早く取り入れたりするなど、新しいものを取り入れる先進性、冒険心がある。また、発想が豊かで「奇想天外」なところがあるという。


 彼らが「大観は線の書き方が下手だ」
 と批評しているのを聞くと、大家を引き合いに出して恐縮だが、74歳近くで水彩画を描き始め下手を自認する私としては、そういう大観にどこか親しみを感じる。


 祖父は東京美術学校8期生で、1期生の大観は図案科時代の恩師である。大観との関係は2つの遺品で伺える。

 一つには祖父が昭和13年に内務省を退官後、病に伏せた時に、大観からお見舞いの行灯が届けられたことだ。
 子供の頃に見せられたが、木製枠に和紙が貼ってあって、緑と墨で松林が鮮やかに描かれていたことを思い出す。
 後に母から木の枠や和紙が傷んで、保存できなかったと聞いた。


 もう一つは、大観から祖父に教えを請うことがあり、墨痕鮮やかな短い手紙と絵馬額2つが残っている。
 額は「海辺の松と朝日」と「紅梅」の2つである。「大観」のサインと落款が入っている。同封された手紙は、大きく雄渾な筆致で書かれている。


 大観が祖父に聞きたいことがあって都合を伺っている内容のようだが、くずし字でよく判読できず、ずっと気になっていた。
 先日、エッセイ教室仲間の吉田さんが、書道を通じ、文字解釈に造詣が深いことを知って、思い切ってこの手紙の解読をお願いしたところ、快く引き受けてくれた。次の教室の時に、判読結果を頂いた。
 やはり、大観が何か教えてもらいたいことがあって、祖父に都合を聞いている内容だった。

 吉田さんは、「教え子であるお祖父に、随分へりくだってお願いしていることに驚いた」と言っていた。
 大観については、亡くなる直前まで好物の日本酒を飲む酒豪で、髭をはやした豪放磊落な人物像を想像していただけに、その文面に、私は大観の人となり、人物の大きさを感じた。
 今では確かめようもないが「大観は、何を祖父に聞きたかったのか」と興味を覚えた。

 
 神社本庁の神保郁夫さん(昭和35年生まれ)には、平成8年の遺品寄贈時や、東日本大震災後、母屋を取り壊す際の遺品の扱いで大変お世話になった。
 5年前、神保さんは寄贈した祖父の作品のカラー写真と経歴・功績を7ページに渡ってまとめ掲載した鶴岡八幡宮・季刊誌『悠久』第133号を送ってくれた。

 その中に「美術学校の講師であった伊東忠太の勧めで造神宮司庁、内務省に技手として奉職。神宮を中心に殿内調度及び神宝の図案、今で言うデザイナーとして活躍した」とあった。
 読んで、初めて知ったことが殆どで、祖父清の実像がはっきりと浮かんできた。


 ちょうど1年前の8月の朝、久しぶりに神保さんから電話を頂いた。「伊勢神宮から連絡があって、祖父の遺品がたいへん役に立った。
 祖父のサンプル通りだった。天皇退位の儀式関連のようだ」との内容だった。これを聞いた私の胸に熱いものがこみ上げてきた。

 今朝も、職人のように短く刈り込んだ髪、ふちなしメガネの気難しそうな叙勲時の祖父の写真を見ていると「おれのことを、書き残すのはお前だ」と言われているように感じる。
 喜寿を迎え父の没年齢に近づいてきた私だが「祖父のことを調べる」と妻に告げたら、「自分のことも中途半端なのに、何言っているのよ」と即座に言い返されそうで、そのまま胸に留めている。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

心に残った話  吉田 年男

 日曜の昼下がり、いきつけの理髪店に電話を掛けた。「今、大丈夫?」「大丈夫です」これだけの会話で予約OKなのだが、理髪店までは我が家から意外と遠くて、歩いて15分はかかる。

 店のご主人とは、「環七通り」近くに社宅住まいをしていた時からの付き合いで、四十年近くは経過している。

 お店は道路より一段低くなっている。入って右側一面が鏡で、その前に回転椅子が三台等間隔に並んでいる。かれは仲良く奥様と二人で切り盛りをしている。
「真ん中の椅子にどうぞ」
 奥様に言われて無言で回転いすに座る。手際よく背もたれを倒して、天井を見たままの状態で、ぐるりと180向きが変える。

 頭が洗面台の定位置に止まると、奥さんが、「痒いところはない?」 と髪を洗ってくれる。あおむけに寝かされ、頭を洗ってもらう。この格好のときが一番リラックスできて、日常の煩わしいことなどが、不思議と消えてゆく感じがする。

 洗髪がおわると、ハサミと剃刀を使ってご主人が散髪をしてくれる。あいさつ代わりに彼が「いつもの通りで?」と一言言って作業が始まる。

「毎日どれくらい歩いている?」
「もうペットは飼わないの?」
「善福寺川公園の緑は、今が一番きれいだね」
 などと、ご主人とは他愛無い世間話をすることが多い。しかし今回は、ひげを剃ってもらっている時に、いつもと少し変わった調子で、彼が話を始めた。
「この商売は、ひとさまの身体に触るしごとなので、お客さんが時折見せる細かい所作を見逃せない」
「顔色をうかがいながらの作業だから、傍で見ているより、神経を使うよ」
「わからないかもしれないが、いつも細かな神経を使っているよ」
 と彼は呟くように言った。

 仕事は、何をやっても簡単ではないことはわかっているので、彼の話が初めは何を言っているのか、よくは理解できないでいた。

 彼は話を続けた。「お客さんのタイプは、大きく分けて二通りあって、理髪にできるだけ時間永くかけてほしいと思う人と、それとは反対に、出来るだけははやく済ませてほしいと思う人がいる」と言う。

 しかし、これは内面的なことなので口に出しては言う人は少ない。初対面のお客さんは、当然そんなことは言わないし、常連さんでも、その辺の心情については、はっきり面と向かって言う人は少ないと言う。

 この人はどちらなのかな? その辺の判断は、お客さんに接したときに、その人の仕草や態度を見て咄嗟に見極める。それがプロのする仕事だそうだ。

 永く理髪作業に携わっていてほしいと思うお客さんは、長ければ長いほど、自分に対して、丁寧に扱ってくれていると思うらしい。また、それとは逆に、早く終わらせてほしいと思っているお客さんは、作業のスピード感こそが最高のサービスだと考えるらしい。

 人はそれぞれで、確かにその辺の微妙な感情は、わかるような気がする。医者と患者の間でも、お互いに心を読むには時間がかかる。今はパソコンの画面ばかり観ていて、患者の顔をみない医者もいる。患者の身体に全く触らないで診察を終えてしまい、全くコミュニケーションの足りないケースもよくある。

 理髪店で、お客さんに二つのタイプがあると聞いたとき、この感覚は医者と同じで、人の身体を触る仕事に携わってみないと、理解できないのかなと思った。と同時に彼の話しぶりから、なぜかこの話は新鮮で心に残った。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

曲がったキュウリ 筒井 隆一

 釜に湯を沸かしてから畑に出て、実ったトウモロコシと枝豆を取り、それをその場で茹でて食べるのは最高の贅沢だ、と言われている。

 大型連休の、爽やかな晴れ間を見計らって、家内と二人で農園に出かけた。園主の指導のもとに、選ばれた種と苗、肥料を使って、正しい手順で野菜作りをする体験農園通いも、もう二十数年になる。

 今日の作業は、先日の講習会で指導された、トウモロコシ、大根、カブの間引きと追肥、そして枝豆の根切りである。夏の野菜は、この時期の丹精が収穫時にものをいう。中でも、トウモロコシ、枝豆は、手入れ次第で、口では言い表せないほど、甘くて美味しくなるのだ。

 ところで最近は、夏野菜が冬に、冬野菜が夏の店先に並んでいる。それが当たり前になっているようだ。しかも、その季節外れの野菜が、売り場では主役面をしており、値段も高い。
 時期外れの野菜が年中食べられるのは、ある意味では魅力かもしれないが、どう考えればいいのだろうか。食材に対する季節感が失われ、トウモロコシや枝豆は冬の野菜だ、と思い込む子供も出てくるかも知れない。

 一方東京を離れ、群馬や栃木でゴルフをした帰りに、その土地の農協の直売店や、道の駅に立ち寄ってみると、曲がったキュウリやナス、ひび割れたトマトなどが並んでいる。家の近所のスーパーなどで売られる野菜と違って、不揃いで見てくれは良くないが、昔ながらの新鮮でなつかしい味だ。値段も安い。

 曲がったキュウリが、なぜ商品価値が無いのか、どうすれば高く売れるのか、を考えてみると、どうやら形をそろえることが重要らしい。見栄えは無論のこと、箱詰めする時に、長さ、太さが揃っていれば、効率的に、収納できるからだろう。

 子供の頃味わったキュウリ独特の青臭さや、太陽を浴びたトマトの香りは、どこに行ってしまったのだろう。形と大きさをそろえるために、本来の味まで無視されてしまった野菜は、恰好や見てくれだけが重要視されるのだろうか。

 長年一緒にフルートを吹き、ともに例会、発表会を続けている笛仲間との飲み会でも、不揃い野菜の話題が出た。
「笛の世界でも同じことが言われている」
 と言い出した男は農学部出身で、かつ大学オーケストラの団員としてフルートを吹いていた。
「どんな曲でも、同じ息遣いで平坦な吹き方しかしない笛吹きが、最近増えていますね」
「リズムを犠牲にして淡々と歌い上げるのは、ある意味では時代に合った魅力的な演奏かも知れないけれど、個性が感じられず、俺の吹き方とは合わないな」
「最近の演奏の流れを、どう考えればいいのでしょうかね」
 私には聴き分け、分析する能力もない。
 しかし彼の話では、地方に出て、その土地のフルート愛好家の演奏を聴くと、昔ながらの、感じたまま、思ったままに、個性を主張した純粋な演奏に触れることができるという。

「地方で聴くと、都会で耳にする、妙に洗練された気取った演奏とは違って、素朴さがなつかしいですね」
「そういう純粋で素朴、かつ個性的な演奏が理解されず、平板で単調な演奏が好まれる時代なのかな」
 全員が同じ、という今の義務教育基本方針に通じるのかもしれない。不揃いの野菜から現代のフルートの演奏法まで話が飛んだが、
「調理すればキュウリの曲がりなど分からなくなる。商業主義に踊らされることなく、美味しい新鮮な野菜を食べようよ」
 ということで飲み会は打ち上げになった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

ビール讃歌 林 荘八郎

「カンパーイ!」
 初夏に飲む生ビールはうまい。ビアホールでのひとときは楽しい。

 五〇〇〇年ほど前、エジプトで誕生して以来、利尿作用がある、材料のホップには男性ホルモンが豊富だといって、ビールは身体に良い酒とされ、人気を続けてきた。

 大戦後、日本経済が復興した昭和四十年ころからは、ビール消費の伸びは酒類の中では最も高かった。飲食店、中でもビールを大量に消費するキャバレーは賑わい、中元贈答も盛んだった。食事習慣も洋風化し、その味は家庭にも浸透していった。

 

 我が国はビールの作り方をドイツから学び、モデルにした。そのため原材料は大麦、ホップ、水だけに限ると定義された。すなわち、ビールであるためには醸造発酵用の原料は大麦100%でなければならない。その酒税法がずっと続いていた。

 日本のビール酒税は他国に比べ、とても高い。業界は価格を下げて消費を増やしたいと考え、課せられている酒税の引き下げを、国税庁へ求め続けた。しかし、国の税収の中で所得税、法人税に次ぐ大きな財源だ。
 ビール酒税はその中でも筆頭なので抵抗は強く、引き下げてくれない。

 平成時代に入るとその消費が減り始めた。ビールメーカーの格闘が始まった。あるメーカーは、発泡酒を発売した(平成六年)。
 原料の大麦比率を99%にして米や澱粉を混ぜた。酒税の安い製品だ。ビールと呼ばれなくても、味はほとんど同じである上に、値段が安い。消費者に受け入れられて発泡酒は大流行した。そのため、ビールの消費は減り発泡酒が増加した。

 すると国税庁は酒税法を改定し、大麦の使用比率が67%以上はビールとし、発砲酒の酒税を引き上げた。ビール酒税は七十七円(一缶当たり)、発泡酒は四十七円と定めた。メーカーは発泡酒の大麦比率を66%にして対抗した。

 今度は別のメーカーが、大麦を全く使用せず、豆や米やトウモロコシなどを原料にする酒を発売した(平成十五年)。
 ビールの風味を持ち、それも消費者に歓迎され、第三のビールと呼ばれた。今では大麦比率が25%未満の酒として立派に君臨している。酒税は二十八円のリキュールに分類されている。

 ビールメーカーと国税庁の知恵比べはまだまだ続くのだろう。


 残念ながら、ビール・発泡酒・第三のビールの消費量の合計は、十一年連続で減少し続け、ビールメーカーは頭を抱えている。その中で、発泡酒と第三のビールの割合は増え続け、国税庁にとって不都合な結果になっている。
 わたしも第三のビールの愛飲者だ。しかし昔ながらの本当のビールは、やはりうまい。その中でも生ビールは美味しい。

 いまは、居酒屋でも、回転寿司でも、ラーメン屋でも飲める時代になったが、ビアホールで飲む生ビールは最高だ。天井が高く室内が広いビアホールは明るくて楽しい。プロが、良く洗浄された大きな器に注いだビールは格別にうまい。のどの渇きを潤し、ソーセージが空腹を満たす。何ものにも代えがたい一瞬だ。

 仕事に就いて初めてのボーナスをもらった最初の土曜日。半ドンの仕事を終え、ボーナスを懐にビアホールへ向かった。
 ビールには、楽しい仲間が欲しい。音楽があると、なお良い。清酒はしんみりと一人で飲むのがわたしは好きだが、生ビールを飲むときは違う。

 若かったわたしは、興に乗って中ジョッキを十杯飲んだ。翌日の日曜日は独身寮で二日酔いに苦しみ、月曜日の出勤もつらかった思い出がある。いまでも、中ジョッキ十杯がわたしの最高記録だ。

 いまでは世界中から、いろいろなタイプのビールが我が国へやってくる。
 ドイツ産に限らず、ベルギー産もデンマーク産もおいしい。外国へ出かけて、その地のビールを飲むと、最初の口当たりは自分の好みとは違っても、暫くその地で過ごすと、その味に慣れ美味しいと感じる。

 その伝でいうと、日本人には日本の製品が一番口に合っているということになる。狭い日本で数少ない種類のビールを飲みながら、能書きを垂れていたころがなつかしい。
 日本はビール大国ではない。消費量では中国、アメリカ、ブラジルが多く、日本は七番目だ。一人当たりの消費量ではチェコ(年間一八三L)、オーストリア、ドイツが多く、日本は五十番目(四十L)だ。

 平成六年に酒税法の改正があり、ビール製造の免許が緩和された。それまでは国税庁は販売能力が二〇〇〇KL/年以上見込まれる企業にしか製造免許を下ろさなかった。酒税の財源確保のためだ。それを、六〇KL/年でも製造することを認め、その結果、中小企業にも道が開かれた。
 ビールづくりに各地の日本酒メーカーが参入し、いまでは三〇〇社に達する。はじめは彼らが製造するビールは「地ビール」と呼ばれた。それが、いまでは「クラフトビール」と呼ばれる、新しいジャンルのビールとして育ち始めている。清酒の分野で地酒が人気を博するようになったのとよく似ている。

 うまけりゃいいのだ。わたしも昔ながらのビールの定義に凝り固まっていたようだ。ますますビール談義は楽しくなる。「カンパーイ!」        


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六兵衛さんの徳利  石川通敬

 私はこよなく酒を愛す。その種類はいとはない。料理も好き嫌いがないので、仕事に出向いた世界各地で、それぞれのご当地自慢の酒と料理を楽しんだ。
 しかし最近は年のせいか、日本酒と日本料理の比重が上がってきた。その際重要な役割を果たすのが酒器だ。

 そんなある日、妻が興奮して徳利を持ち帰ってきた。
「これH子ちゃん(妻の従姉妹)にもらったの」という。
 それは彼女たちの祖父の遺品整理の時見つかったのだ。白と藍色が美しいひょうたん型だ。
「六兵衛さん作のものだけれど、注ぎ口が欠けているので捨てようと思っているの。よければあげる」と言われたそうだ。

 私は一目見て気に入った。ひょうたんの形がバランスよく、持ち具合もいい。欠けがあっても、実用には差し支えない。
 調べてみると五代目(1875~1959年)の作品だ。もし傷がなければ私が買える品ではない。いつもの性癖で、何とかかけを修復したいと情報を集めながら、毎日晩酌で使っていた。
 しかし修復不能と分かりあきらめかけていた。そんなとき妻の兄が、日曜職人で修復してくれるというので早速頼んだ。うれしいことに結構見栄えが良くなったので、しばらくよろこんで使っていた。

 ところが寿命なのか、半年もしないうちに、突然粉々に自壊してしまった。私は、大いにショックを受けた。実は10年ほど前に京都で買った猪口が気に入り、以来愛用していた。これに六兵衛さんが加わり、満足度の高い晩酌を楽しんでいたからだ。

 最近目に着くのが、ネオジャポニスムという言葉だ。一九世紀に浮世絵が頂点になり、フランスを中心に日本ブームがあった。
 今回はアニメ、漫画等を中心に形を変えた日本ブームの再来らしい。しかしそれをさかのぼること三百数十年以前の17世紀に、ヨーロッパの人々が、日本の磁器に熱い視線を向けていたことを、多くの日本人は忘れている。
 学校教育ではろくに教えてもらった記憶がない。近年日本人が、気軽に海外に行けるようになり、各地の美術館を訪ねて、始めてその偉大な存在と歴史を知るのだ。

 ボストン、大英博物館に陳列される有田焼、古伊万里、鍋島、柿右衛門、古九谷等見ると圧倒される。小、中規模の美術館に行ってもヨーロッパの王侯貴族に、これらがいかにもてはやされたていたかがわかり驚かされる。

 一方ブランド志向の日本人が憧れる西洋の磁器、例えばドイツでマイセン、デンマークのロイヤルコペンハーゲン、イギリスのボーンチャイナ等が日本からの輸入品に刺激されてヨーロッパ人が必死に開発したなどという苦労話は、日本にいては、実感がわかない。

 茶人であれば別だが、今日自宅に自慢の陶磁器をそろえてお客をもてなす人は、ほとんどいないのではないだろうか。
 その結果、家庭内に自慢の陶磁器を揃えもつ風習はすたれる一方だ。私の両親の世代はそれでも明治、大正の生活風習が抜けなかったのだろう、今の時代では考えられない程、いつの間にか和、洋食器を買いそろえていた。遺産整理をして初めて知った始末だ。

 現在私の机に「徳利購入券 3万円」というカードが飾ってある。六兵衛の徳利を失い、嘆いている私を見て、誕生日に妻がくれたものだ。もらって直ぐ神楽坂の陶器屋に行ったが、気に入ったものは見つからない。
 話を聞くと
「近年徳利型は流行っていないので東京ではおいていない。今度京都に仕入れに行くとき探してみる」と言ってくれた。

 東京では無理かとあきらめかけていた2018年冬に、東京ドームで開催された「テーブルウェア―・フェスティバル」が目に留まった。
 さっそく期待をもって会場に向かった。しかし場内は大変にぎわっていたが、出点数が少なく、プレゼンテーション・ブースも、欧米と比較すると質量ともに貧弱で、迫力にかけておりがっかりした。
 それでもひょうたん型の徳利が一つ見つかった。当代の柿右衛門の作という。値段を聞くと十万円だ。それもさることながら、図柄が好みでなかったので買うのは見送った。

 今私が後悔しているのは、何一つ本腰を入れて勉強せず、記録を残さなかったことだ。欧米での見聞録をエッセイにしておけばよかったと今頃悔やんでいる。
 その一方で時間もなく、お金もない自分には、陶磁器を趣味にすることも、道楽に走ることもできなかった。この点いついては、自然な結果で、無駄遣いをしないで済んでよかったとよろこんでいる。

 徳利カードを眺めながら、京都の骨董屋に夢を託している毎日だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

1泊2日の「土佐日記」 井上清彦(蒼樹)

 6月4日早朝、羽田空港から高知に向けて飛び立ってしばらく経った頃だ。私の座る窓側から、富士山の位置を探す。目を凝らすと、はたして眼下の雲間に、富士山が見える。「ラッキー!」。広重の浮世絵で見たような、雪の白い筋が縦に流れている。夢中でカメラのシャッターを切る。

 今から27年前の欧州エネルギー調査団参加メンバーで、1年おきに会合と旅を続けている。メンバーが東日本、西日本に住んでいるので、交互に当番を決めている。今回は、西日本の担当で、土佐の1泊2日の旅を企画してくれた。

 龍馬・高知空港で朝10時の集合だ。羽田からの東日本組は、私を含め3名だ。西日本は、九州・佐賀から岩永さんご夫妻、大阪から池田さん、神戸から立道さんの4名、合計7名の参加だ。池田さん、岩永さんとは久々のご対面だ。岩永さんは、ご病気や交通事故の後遺症もあって、奥さん同伴の参加だった。

 運転手がガイドを兼ねる観光タクシーで、空港を出発し高知周辺を観光する。先ず、桂浜に向かう。最初の訪問先、豪族を倒して四国統一を果たした「長宗我部元親の像」に着く。元親が初陣で武功を上げた時の像だ。見上げると鎧兜に、両手に持つ長槍が格好いい。この男前の若武者は、女性にも人気があったという。その元親が初陣の際、戦勝を祈願した「若宮八幡宮」を参拝し、旅の無事を祈った。

 もう一つの見学場所、「坂本龍馬像」を見るため、太平洋に面した桂浜に出る。車を降り、上り坂を歩いて見晴らしのいい高台にたどり着く。白い荒波が打ち寄せる桂浜の長い海岸線と、緑の立派な松並木を見渡す。そして「龍馬像」に対面する。像の見ている方向は、アメリカだとか。維新後の日本の歩みや日米関係を龍馬はどのように思っているのか?

 高知市内戻り、昼食は「ひろめ市場」だ。ここで、タクシーとはお別れだ。
 市場に入ると、60軒もの店が軒を連ねている。好みの店で、食べ物と飲み物を買い、空いている席に持ち込んで食べる。私は、名物カツオ丼を買い求め、ビールは小瓶を探しベルギーの「シメイ」という僧院ビールを見つけた。餃子や、珍味もあり、気楽な雰囲気のなかで昼食を味わった。

 食事後、歩いて近くの高知城に向かう。城壁の岩の積み重なりも本格的だ。石段を何段も歩いて上り、天守閣前に到着した。
 ここまで来たので、皆、靴を脱いで天守閣に登る。天守にたどり着くと、風通しもよく、高知市内がよく見える。帰りの城門前で全員の記念撮影を通りすがりの若者に頼むと、快く引き受けてくれた。どこから来たのと尋ねると、「タイワン」との返事。気持ちの良い好青年だった。
 夜の宴会は、明治3年「陽暉楼」として創業した「得月楼」(映画化された宮尾登美子作「陽暉楼」の舞台となった)。極上の皿鉢料理、大皿二枚が、どんと卓上に並ぶ。盛り沢山で食べきれないと思ったが、中年の和服姿の似合う中居さんが、うまくとりわけ、各自の皿に盛ってくれる。
 爽やかな口あたりの日本酒「陽暉楼」を飲みながら、各自のこれまでと近況を懇談するうちに、二皿は見事に空になった。帰りは、歩いて雨に濡れた赤い欄干が光る「はりまや橋」を見て、ホテルに戻った。

 明けて2日目、朝8時30分に、高知駅前のトヨタレンタカー店に全員集合。立道さんの運転で、高知駅から「四万十川」を目指す。私が、今回の旅で一番行きたかったところだ。沈下橋を見ようと120キロ走り、「三里沈下橋」で車を降りた。近づくと、清流が見えてくる。観光客は見当たらず、鳥のさえずりの他は物音一つしない静かな雰囲気だ。

 川に架かる沈下橋は、欄干もなく、水位が上がった時には、水面下に沈む。橋を渡りつつ、周りの緑あふれる景色や、川魚に目を凝らす。屋形船が水紋を残して橋の下を通り過ぎる。
『鳥唄ふ四万十の碧(あお)夏の雲』 蒼樹

 帰路の途中、「安並水車の里」へ立ち寄る。川の支流に水車が十数基廻っていて、周りの土手の紫陽花とよく似合う里だ。今回欠席だった団長の佐々木さん(一昨年一緒に訪れた奈良井宿を描いて堺市絵画展で入選)好みの風景だ。

 昼食は、中村地域の季節料理店「たにぐち」だ。定食に加えてアオサとゴリの天ぷら、テナガエビのから揚げを、担当の長身・短髪の若い美人に注文した。仕事で何度も高知を訪れている池田さんの選択に間違いなく、文句なしの美味だ。

 食後は、道順を教えてもらった一條神社に向かう途中、店の彼女は、2度も息せき切って駆けつけ、最後尾を歩く私に仲間の忘れ物を届けてくれた。

「得月楼」の中居さんといい、「たにぐち」の女性といい、さすが、「山内一豊の妻」の伝統を受け継ぐ、土佐女の心意気を感じた。佐賀から来た岩永さんの奥様も、ご主人の健康を祈願し、四国八十八箇所の霊場を歩いて達成したという。

 今回の旅の締めくくりとして、一条神社に、旅を無事終えようとしていることを報告しお参りをした。一条家は、遠く五摂家の一つであり、中村の地に下向されて後に、ここにご廟所をお祀りしたという。京文化が根づいている。

 この集まりはメンバーの旧交を温めると共に、新しい発見、素晴らしい景観、郷土料理、等旅の魅力が溢れている。私も、喜寿を過ぎて2ヶ月、1泊2日の短い旅だったが、土佐が大好きになり、生きる活力を頂いた気持ちになった。

文化財 金田 絢子

 目黒のアトレへ買物に行った。帰り、表通りから一本入った住宅街を歩いていたら、三人の女子高生が談笑しながらくるのに出会った。
(平成二十年ごろだったろうか)

 中の一人が
「お父さんが席についてから食事がはじまる」
 と言った。すると、もう一人が大口をあけて笑いながら
「昭和だぁ」と叫んだ。

 先日(平成三十一年)この時の光景が、目の前に浮かんだ。ふと、昭和三十年になる以前、英語の授業中に、英国人教師が、たどたどしいが、やわらかいイントネーションで口にした日本語を思い出した。
「わかりなさる?」
 おそらく、お父さんがすわってから「いただきます」をするのがあたりまえだったころ、「なさる」という語は、しばしば使われていたのだと思う。
 最近は「される」に変わり、アナウンサーが「どうなさいましたか」でなく「どうされましたか」と聞く。

 言葉遣いは流動的で、次第に変わってゆくものだし、目くじら立てるほどのことではない、と考える人が大半かもしれない。
 でも、しっとりした柔らかい語調が、次々、どこか品のないものになっていくのは寂しい。

 四、五年前だが、通りを歩いていた時、私のすぐ前をゆく若い男女の、女の方が「ヤバイ」をつづけざまにつかった。
 思わずけとばしたくなったが、仕方がないので「バカ」と呟くだけにした。

 今年四月、新聞に、いつもイタリア便りをのせるS氏が、ルネッサンス期に法王シストゥス五世が、サン・ピエトロ広場からローマ中心部までを、敷石で舗装させた石畳の道(「サンピエトリーノの石」とふつうよばれている)について書いていた。
 昨今は馬車でなく、大型ダンプ、大型観光バスの時代である。敷石がぐらつき剥がれて事故が相次ぐ。市当局はアスファルトにしたいが、歴史的価値を重んじる、文化財保護局の許可が一向におりないのだという。

 S氏はコラムをこう結んでいる。
「文化財を後世に残すには、このくらいの頑固さが必要かもしれない」
 言語だって文化財である。
 右のコラムと同じころ、胸のすくような投書があった。
 タイトルは「英語重視の教育には違和感」。書き手は十六歳の女子高校生だ。まず、出だしの文章にびっくりさせられた。
「私たちの学校では、英語の授業が国語の授業よりも多い」
 教育現場では、そんなことになっているのか。とんでもないと思った。
 さらに、若者の間で、たとえば「了解」を「り」とするような極端な省略が定着してきているのだそうだ。
「日本人として生まれたからには、日本語を正しく後世に継承する義務があるはずだ」
 と彼女は主張する。まさに正論である。

 少女は、しっかと現実を見据え、母国語を大切に思っている。
 次第に私の身内には、彼女と同じ意見の若者が、きっと何人もいるにちがいない、とうれしい連想が広がっていった。

おふざけだが真面目  廣川 登志男

 4歳になる孫娘が、咄嗟に言った言葉に感心してしまった。バナナを食べさせていた時のことだ。

 孫娘が、皮の最後の所に残った短い長さの部分を食べようとしたときに、握っていた左手に力を入れすぎたせいか、スポッと抜けて床に落ちてしまった。
「バナナって美味しいけどすっごく滑るのよ! おじいちゃん」
 バナナの皮が滑るというのは、少し大人になればみな知っているが、四歳の孫娘が当たり前のように言った。過去に、皮を踏みつけて痛い目に遭ったのかどうかわからないが、小さい子供が滑ったことを心に残している。子供の観察力・記憶力は大したものだ。

 そういえば、「バナナの皮はなぜ滑る」を研究した人がいたのを思い出した。
 4年ほど前のことで、新聞で紹介されていた。

 北里大学の馬淵教授たちの研究だ。教授はその成果を論文にまとめ上げて発表していた。それをイグノーベル賞選考委員たちが見つけ出して、2019年の物理学賞を授与することになった。

 教授は関節潤滑の研究者で、関節が痛くなく曲げ伸ばしできるのには、滑りが重要だと言っている。ある著書の中で、
「関節潤滑の良さは、バナナの皮を踏んだ際の滑りの良さを連想させる」
 と記している。
 しかし、なぜバナナの皮は滑るのだろう。教授はふと疑問に思った。バナナの皮の滑り良さは当たり前のことと思っているが、その証拠のデータはあるのだろうか。
 教授はかなり調べたが、データは見つからなかった。ここで持ち前の探求心が頭を持ち上げ、「それなら自分が調べてやろう」と、調べるに至った経緯を述懐している。

 教授たちは、顕微鏡などでの調査で、バナナの皮に存在する「小胞ゲル」が靴で踏まれることで破れ、中の粘液を放出して潤滑の役目を果たすという事実を突き止めた。これを論文に仕上げたことで、イグノーベル賞受賞となったのだった。

 この賞は、毎年5千件ほどの受賞候補者から、10の個人あるいは団体に与えられる。賞の基準は、「まず人を笑わせ、そして考えさせる研究成果」となっている。
 1991年に、ノーベル賞のパロディとして創設されたもので、人間に直接役立つ内容ではないが、「少しおふざけが入っているものの、極めて真面目な研究」を対象にしている。

 ノーベル賞とは正反対な面があるが、興味深いテーマが盛りだくさんで人気がある。昨年まで十二年間連続で受賞している日本の受賞テーマを少し紹介する。

・足の匂いの原因となる化学物質の特定(92年・医学賞・神田不二宏他5名)

・夫のパンツに吹きかけることで浮気を発見する「Sスプレー」の開発(99年・科学賞・牧野武(セーフティ探偵社))

・台所の生ゴミ90%が削減可能な、パンダの排泄物中のバクテリア(09年・生物学賞・田口文章:北里大学名誉教授)

 なかなか面白いテーマだ。ひょっとすると人間に役立つものもありそうだ。
 2番目のテーマなぞは特に面白い。加えて、開発者の会社名が何とも言えない。探偵社なのだ。いつの日にかアングラ商品として売り出され、買って使う人が出てくるかもしれない。

 これまでの国別受賞者数(‘91年~‘14年)は、1位が断トツのアメリカ、2、3位に英国と日本が拮抗していて、四位を引き離している。
 英国と日本についてのイグノーベル賞創設者談を引用すると、「両国とも、研究者に変人が多いが、社会に許容されている」ことが、受賞者が多い一番の理由だと断じている。

 私は変人ではない(と思っている)が、入社して研究部門に配属された。最初に指導されたことは、
「何でも疑問に思え。ナゼ・ナゼ・ナゼである」
「グラフで、相関を示す帯から外れた異常点には重要なことが隠れている」
この『二つの教え』を肝に銘じて仕事をしていた。
 5年の研究生活の後、研究成果を現場で実機化する技術者となった。

 異動先は、同じ君津製鉄所のUO鋼管工場だった。当時は、薄板工場と肩を並べる高収益工場で、石油・ガスを運ぶパイプライン用の大径鋼管の製造を担っていた。色々な操業トラブルに見舞われたが、前述した教えを守って何とか切り抜けてきた。

 5年前にエッセイ教室に入った。穂高先生からは、「目を皿のようにして社会や自然を観察することが大事だ。そして、少しでも何か異常を感じたら、そこにエッセイのネタが隠されている」。研究と同じことを仰る。

 まだ70歳前だ。まだまだ時間はある。イグノーベル賞を狙って、とは言わないが、子供が持つ感性を失わずに、そして、『二つの教え』を守って「少しおふざけで、だけど真面目」なエッセイを書きたいと思う。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

女ごころ  金田 絢子

 作家、岩橋邦枝さんのエッセイ、「平気でばあさんという男ども」を共感をもって読んだのは、15年ほど前になるだろうか。未だに頭にこびりついている。

 彼女は、50歳そこそこで、ばあさん扱いをされた。学生たちの飲み会に仲間入りしたとき、会費が、女子は男子学生よりも二、三千円安かった。
 彼女は男性並みの会費を払い、律儀に差額を持ってきた学生に「いいんですよ」とお釣りをことわった。すると同席していた中年の大学教師が口をはさんだ。
「そう、こちらはいいの。ばあさんは女のうちに入らない」
こんな奴は、ビールでもぶっかけてやればいいのだ。


 私にもいささか苦い思い出がある。(当時、私は60代であった)近所の若夫人が娘とみちですれちがい、
「よく、お宅のおばあさまにお目にかかります」
 それを聞いて私はショックで暫く口がきけなかった。
(なぜ、お母さまにって言わないのかしら、まちがってる)
 と思ったからだ。

 我が家では、「おばあちゃん」は禁句である。
 私が四八歳の時に生まれた初孫にも「アーバ」とよばせてきた。私の気持ちを慮って娘たちは決して「おばあちゃん」とはよばない。「アーバ」もしくは「お母さん」である。

 そんなことを露知らないひとさまが、お婆さんよばわりをするのは仕方がないとも言えるが、どうしてもその時、こだわらずにはいられなかった。私は娘の母親であって祖母ではない。

 フランスでは、いくつになってもマダムだそうである。フランスはうぬぼれの強い国で私は好きじゃないけれども、”なんでもかでもおフランス”の日本人が、この風習をまねないのは、片手落ちだと思う。

 岩橋さんは、この彼女のエッセイのはじめに、
「今年は大学を卒業して40年目にあたるので、クラス会の趣向をかえて小旅行をしよう。夫婦づれ歓迎という案が出て、旧友数人で会食をした」
 のだが、中の一人が
「(主人が)ばあさん連中に囲まれておともする気はないって」
 というかと思えば
「うちもそうよ」
 なんて合づちを打つのまでいる。


 60歳を一つ二つ過ぎた女に、ばあさん呼ばわりはないだろう、と彼女は言う。
 私もそう思う。たしかにおばあさんと呼ばれただけで、腹をたてるのは度量がせまい人間のあかしには違いない。
 でも人はみな、煎じ詰めれば問題にするにも当たらない事柄に、一喜一憂する生きものではないか。
 ずっと昔、背の高い友人が、もう一人の背の高いクラスメートをさして何気ない調子で「Dさんは背が高いからいいのよ」と言った。私が背の低いことにコンプレックスを持っていたら、カチンときたかもしれない。
 私は学校ではコンプレックスの固まりだったのに、「チビ」については何とも思っていなかった。
 私は周囲の人、殊にオバサマ連にちやほやされたが、小さくてかわいいからだと勝手に決めこんでいた。

 また、小さいと年をとってから、皺なんかも全身が手狭な分、めだたなくてすむと楽観視してきた。
 ところが、ある時、私より小さくて、すっかりしなびた人を目にして、ぎゃふんとなった。老いてちぢんで歩いている姿は、目立たないの次元を越えて、いじましかったのである。勝手な思いこみをしたがる、私の性癖が地に落ちた瞬間であった。
(もうやめよう、意地を張るのは)と思った。

 ああ、それなのに、数日経ったら、当たり前のように以前の私に戻っていた。年をとってばあさんとよばれるのは当たり前、とうそぶく度量を未だもちあわせぬ、私の苦闘は続く。


イラスト:Googleイラスト・フリーより