元気100教室 エッセイ・オピニオン

口は動かすだけ   伊藤 毅

 妻と散歩がてら、近所のスーパーへ買い物に出かけた。その途中にある石神井川は桜の名所として地元の人に愛されている。散りはじめたサクラをながめていると、買い物帰りの「ヨシエさん」にばったり出会った。

『ヨシエさん』とは近所の居酒屋『奈々』のママである。この居酒屋は近所のおじさん、おばさん達の社交場でカラオケもあり、それなりに賑わっていた。と、過去形で書いたがコロナ禍になってからは、一度も顔を出していない。「コロナも収まりつつあるし、お客さんも大分、戻ってきたわよ。今度、二人で遊びに来てよ」とママから誘いを受けた。そういえば、『奈々』には3年以上も顔を出していない。「わかった。今夜、二人で遊びに行くよ」と、その場で約束した。

『奈々』の暖簾をくぐると、先客が五人いた。皆さん、顔見知りである。
「よっ、久しぶり」誰からともなく声が掛った。
カラオケ.jpg 我々夫婦もその輪に入り、他愛のない会話が始まった。暫らくすると、ママが私に目配せをして立ち上がり、カラオケを操作した。流れてきたイントロは私の持ち歌である。マイクを片手に気持ちよく歌い始めた。「ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕がわらうだろう...」この曲が世に出たのは、1953年(昭和28年)で、私が小学4年生の時である。
「それにしても、こんな古い歌がどうしてお前さんの持ち歌なの? と訝しがる読者の皆様にご説明いたします」。

 話は50年ほどさかのぼる。
 30歳を過ぎた頃の私は、営業職も板に付き、元気にとびまわっていた。そんなある日、親しくしていたお客と、仕事の帰りに、板橋区・大山のさびれた居酒屋に入った。すると、先客が1人いてカウンター席で歌っている。
「嘆きは誰でも知っている この世は悲哀の海だもの...」その歌を耳にした私は「おいっ、もっと元気が出る歌を歌わんか!」と心のなかで叫んだが、哀愁たっぷりのこの歌に聞き入ってしまった。
 それから何日かが経ったある日、別の居酒屋でこれをうたったところ、気持ちよく歌えるではないか。「それからというもの、この『街のサンドイッチマン』が私の持ち歌になったのです。音楽に造詣が深い方はすでにお気づきと思いますが、この曲は音域が狭く、リズムも単調なので、音痴の私でも、それなりに歌えるのです」。
 
 話は更にさかのぼる。私が小学6年生の時、クラス全員が講堂の壇上に上がり学芸会で歌う合唱曲を練習した。ピアノの伴奏は担任の女性教師、タクトを振るのは音楽担当の男性教師である。全員で大きな声を出して歌っていると、男性教師がタクトを振るのを止めて、しかめ面で私の前にきた。「伊藤、口は動かすだけにして声を出すな」「?????」周りから「クスッ、クスッ」と笑う声が聞こえた。
 
 この時に味わった屈辱感は終生、忘れることはない。が、両親には「口パクで歌うように」と指導されたことは、一切話をしていない。学芸会の当日、私は大きく口をあけて気持ちよく歌っているふりをした。一生懸命歌っている私に両親は暖かい拍手を送ってくれた。という、涙の出そうな親思いの一幕である。

苺「あまおう」   武智 康子

 先日、世田谷の友人の家を訪問した帰りに、駅前のスーパーで「苺まつり」をしていたので、ちょっと覗いてみた。
 すると、10粒入りの苺の「あまおう」1パックが、468円という。普通は、スーパーでも600から800円位だ。デパートでは、1500円位はしている。私は、前日の売れ残りかと思った。
 しかし、よく見ると艶も良く蔕の緑も新鮮だったので、夕食のデザートにしようと2パック求めた。

 帰宅後、夕食の準備の折に、その苺を洗った。洗いながら私は、ちょっと首を傾げた。いつもの「あまおう」と何だか少し手の感触が違うのだ。固く感じる。

あまおう.jpeg「あまおう」は、今世紀の初め、福岡県の農業試験場で五年がかりで開発された、固くもなく柔らかすぎず、酸味と甘味のバランスが取れた、赤くて大きな苺である。名前も「あかい、まるい、おおきい、うまい」の頭文字四つを組み合わせて「あまおう」と名付けられた由縁でもある。原産地は、福岡県の八女市が中心の苺なのだ。

 私は、苺の女王とも言われるこの「あまおう」の安さに、あることが脳裡に浮かんだ。
 実は、この「あまおう」が開発されて世に出た時、私達夫婦は、夫の第二の人生としての福岡に居住していた。だから、そのニュースが大々的に報道されたことを覚えている。
 それは、この「あまおう」の品種登録は「福岡S6号」として既に登録されていたが、商標登録が申請はされていたものの確定される前に、既に、あるアジアの国に苗木が持ち出されていて、小粒ではあるが「あまおう」として逆輸入されて安く売られていたのだ。だから私は、「またか」と思ったのだ。

 私は、翌朝、北九州に住む友人で、当時、苺の品種改良に携わっていた山添さんに電話してみた。
 彼女によると「あの時は、苗木が持ち出されたことが痛手だったが、あれから20年が経ち、福岡農協に所属する多くの苺農家が作って来たので、少しばらつきが出てきて、本来ならジャム用になるのを店頭に並べているのかもしれない」と話してくれた。
 私は、そんなことをしていると「あまおう」のブランド力が落ちるのではないかと、心配になった。
 
 ただ、彼女は、続けて話してくれた。今「あまおう」の偽物が存在することを教えてくれたのだった。
 それは 「おまうあ JAかおふく 八女 日本」 として香港で売られているとのことだった。日本産の 「あまおう JAふくおか 八女」と誤認させる表現が使われているとのことだった。 
 私は、このことを聞いてびっくりした。持ち出された苗木が使われているかどうかは、解らないが、平仮名の4文字を二か所並べ替えるという手法には、開いた口がふさがらなかった。

 彼女自身は、既にリタイアしているが、私は、今回彼女から多くのことを学んだ。
 更に調べてみると、「あまおう」は、昨年10月で販売開始されてから二十年を迎え、そのうち18年間、連続で苺の単価日本一を維持してきたそうだ。それだけブランド力があったのだ。だからこそ、香港で偽物が出てきたのだろう。最近では、「とちおとめ」の流れを組む「スカイベリー」等々、次々に新種の苺が出てきている。

 私は、子供のころ食べた、120年の歴史を誇る静岡の石垣苺が、懐かしく思われた。
 今回、私が買ったあの「あまおう」は、味はまあまあだったが、結局ジャムに変身してしまった。そして、翌日の朝食にパンと共にいただいた。手製のジャムは、今回「あまおう」のことをいろいろ学んだ私の心を、暖かくしてくれた。

花をつけない樹   廣川 登志男 

 昨年の秋に、久しぶりに和食の店で家内と食事をした。ここの和食膳は地域では有名で、美味しい食事をしながら日本酒で一杯やるのが私流だ。茶碗蒸しも、勿論出された。中には緑色のギンナンが入っている。美味しく頂いたが、そのとき、以前感じた疑問を思い出した。イチョウの花を見たことが無いがどうやって実を付けるのだろうか?

 どんな樹木でも、草花でも、実を付ける前に花が咲く。そして花粉を受精し、実となる。しかし、私自身、イチョウの樹を何度も見ているが、花らしいものは見たことがない。友人達に聞いても、「実がなるのだから、花は咲いているんだろうな。でも見たことないよ」とか、「イチョウに花なんてあるのか?」とも言われる。

 既に四月も半ばを迎える。桜の花吹雪も終わり、葉桜になりつつある。きっと、来年の桜の花を咲かせる準備に取りかかり始めるのだろう。数年前に、桜の蕾はいつ頃出てくるのかと、近くの公園で観察したことがある。それほど早い時期に出るはずはあるまいと思ったが、一応、葉桜となった頃から、1,2週間ごとに、同じ枝を詳細に観察した。七月初めだったと思うが、蕾と覚しきものが観察できた。まだ散ってから三ヶ月しかたっていない。桜が満開になる来年の3月ころまでの間、蕾として準備期間に入ることを知った。

 今回も、桜と同様に、イチョウがどのように花をつけ、受粉という命の継続を図るのか調べるため、定点観察を行うことにした。
銀杏.jpgイチョウには、ギンナンができる樹とできない樹がある。これは、イチョウに雄株と雌株があることを示している。そして、雄株には雄花、雌株には雌花がつくのだろう。地元の真舟中央公園にはイチョウの樹が多い。よく行くので、ギンナンのなる樹がどれか分かっている。そこで、ギンナンのなる雄株と、ならない雌株をそれぞれ2本ずつ選び、かつ、それぞれ枝を二つ決めて、散歩のたびに観察した。


 最初に見つけたのは1,2センチで直径5ミリほどの小さなネコヤナギの花のような、尾状でふっくらとしたものだ。雄株にあったので、これが雄花だろうと思い、家にある、厚さ3センチほどの樹木図鑑で調べた.

 雄花の写真が載っていた。今回見つけたものは、間違いなく写真の雄花だった。隣の写真には雌花が載っていた。添え書きによると、雌花は非常に小さく、萼や花弁などなく、1センチに満たない細い花柄の先に2ミリほどの胚珠を二個つけるとあった。しかし、そのような雌花は一度も見つけることはできなかった。咲く時期が違うのかと思ったが、図鑑には書いていない。そこで、インターネットで調べることにしたが、内容は図鑑と同じようなものだった。

 今回、いろいろと調べ、実際に雄花も観察できた。やはり実を付けるのだから花が咲くのは当然のことだ。そして、3億年ほど前に生まれたイチョウという樹木が、最古の現生樹種として現在まで生き残ったしぶとさは、それなりに環境に適合してきた証拠なのだろう。
そういえば、那須に旅行したときだ。楓の老木から面白いかたちの葉っぱが落ちてきた。正月に遊ぶ羽根つきの羽根を小さくしたような形だった。以前、知ったが、これは楓の種子だ。そろそろ枯れる頃になると、種子を作り世代交代の準備をするのだという。このときも、樹高が高いせいか、咲いている花を見ることはなかった。しかし、種子を作るのだから当然花も付けているのだろう。

 人間には見えない形で、樹木も生き残るために必死に頑張っている。生物というものは、どんなものでも、目に見えない隠れた努力をしている。人間は生き残るために何をどりょくしているだろうか。

桜吹雪   青山 貴文

 空に向かって、大木の欅やクヌギあるいはユリの木などが、十数メートル間隔で通路に沿って茂っている。多くの萌黄色の新芽をつけた細い枝が四方に生き生きと伸び広がる。それらの新緑の若芽と織りなすように桜花が咲き誇っている。一陣の風に、数枚の桜の花びらが、陽光に照らされて舞い降りる。

花吹雪.png ここ数日、私はこの自然の樹木が演じる新鮮な春の景観に目を奪われる。方々に顔面を上げ放して、さくら運動公園の弾力性のある歩行通路を踏みしめて歩く。一般道路と違って、自動車などが来ないので、前方を注意することもない。ただ、新緑と桜花の供宴に酔いしれる自分がいる。数日のうちにこのレンガ色の歩行通路は白色の桜の花で敷き詰められていくのであろう。

 いつものカップルが、陽光に輝いて舞い散る桜吹雪の中で、車椅子を伴って歩いている。車いすを動かしている人は、70歳くらいの頑健そうな男性だ。登山か何かスポーツで右脚を骨折し黒色ギブスで固定されているようだ。太い筋肉質の両腕で力強くハンドリムを動かしている。
奥さんらしい同年配の女性は、白い帽子をかぶりスニーカーを履いて、その車椅子を前後して歩く。手押しハンドを押すこともなく連れ添って桜吹雪を楽しんでいる。毎日、ご主人と車椅子を乗用車で公園に運んでおられるようだ。毎日欠かさず補佐する奥様も大変な忍耐力をされていると思う。

 この数か月前から、彼らは車いすで歩行通路にやってきて一周(1キロ)して帰って行く。私が彼らに遇う時は、後ろから追いつき、ゆっくり追い越していくので、どういう顔付きをしているか知らない。すれ違う時の横顔や雰囲気から察するに、静かにお互いを信頼しあっている感じが伝わってくる。多分、あと数か月もすれば、ご主人の右足も完治されるのであろう。この通路は、ハンデのある人たちの心を癒し躰の回復を促す場でもあるようだ。
 私は、7年前ころからほぼ毎日この歩行通路を、3から5周を歩いている。おかげで、そのころ発症した左大腿部の痺れを完治することができた。

 さらに、4年前、ダンス教室の練習で相手の女性の足を踏みそうになり、二人して一緒に床の上に転がってしまった。相手は無傷であったが、私は左脚の脹脛(ふくらはぎ)を捻り、内出血を起こし、黒く変色しパンパンに膨れた。  
 翌日から、その左脚を引きずりながら、超スローでこの通路を歩いた。日々、徐々に歩く距離を伸ばしていって、三週間くらいで完治した経緯がある。その時も、この樹木で囲まれた歩行通路が私の心身の鍛錬にすごく役立った。

 古い話になるが、今から20数年年前、私は60歳で定年退職をした。脳梗塞で半身不随になった当時80歳の母を看病するのが私の主な仕事であった。彼女は介護4で、ひとりで立つこともできなかった。だが動かない方の左手を持って支えてやると立つことができた。薬の適量投薬の効果もあり、歩行訓練で伝え歩きができるようになってきた。
 当時、私はさくら運動公園の存在を知らなかった。半身不随の母の運動のために、というよりも看護という日々の単調さを解消するために、母と折り畳み車いすを乗用車に載せて戸外に出かけた。

 自宅から車で十五分くらいに位置する深谷市の仙元山公園にもよく立ち寄った。この公園は、周囲にプールや遊技場があり、児童の遊ぶ姿が観覧できた。また、仙元山の頂上からは、近くに扇状に広がる田畑が見渡せ、新幹線が走るのが見えた。さらに、北北西遠方には赤城山や榛名山が望まれた。
 仙元山は、小高い二つの丘からなっていて、桜の木が所々に植わっていた。母は少し認知症気味で動作が緩慢であったが、小柄で軽量であった。私は母を車椅子に載せ、一方の小高い丘の頂上に連れて行った。

 春の午後の陽が一本の大きな桜の木に降り注ぎ、花吹雪が舞っていた。その桜吹雪の真下に、車椅子を止めた。
色白の母の顔が、さくら色にほんのり染まり、幼児のように右手を伸ばして桜の花びらを掴もうとしていた。そのころは、スマホもなかった。無心に桜吹雪と戯れる母の姿を写真に撮ることもなかった。
 彼女の半生は、苦労の連続であった。やっと息子のいる熊谷で平穏を得られ、これからという時になって風邪をひき入院する。そして、翌日脳梗塞を再発し、84歳の生涯を閉じた。
 記憶力の著しく乏しくなった私であるが、桜の花弁を右手でつかみ、嬉しそうにしている母の顔が、いまだに脳裏に鮮明に残っている。

サソリの話  桑田 冨三子

 先だって、有栖川公園桜見物を口実に家にやってきた友人が、偶然こんなことを口にした。
「『イソップ』にサソリの話があったと思ってね、調べてみたンだけどないンだよネ」
 彼は物知りでいつも私に種々雑多な知識を提供してくれる人だ。
「サソリ...サソリってどんな話?」
「川を渡りたいサソリが居た。泳げないのでカエルに『背中に乗せて川を渡っておくれ』と頼む。カエルはサソリが刺すから「嫌」と断ったが、サソリは『川の中で刺したりしないよ。そんなことしたら二人とも溺れて死んでしまう。』カエルは(なるほど、そうだ)と思い、サソリを背中にのせて川を渡り始めた。しかし、川の中ほどに来るとサソリは、カエルを刺してしまう。死にかけたカエルが『刺さないって言ったじゃないか。何故だ?』と言うと、サソリは『だってぼく、さそりなンだもン』とキッパリ言った、というのだ。」
 この動物を使った寓話が、最近ビジネス界でもてはやされているらしい。
さそり.png
 その心は、ちょっとすぐには理解しにくいが、
「悪質な人々は、自分の利益にならない場合でも、他人を傷つけることに抵抗は出来ない」
という。
「へえ、イソップにそんな話、あったかなア。でもイソップ寓話は旧い国々のいろんな寓話が集まっていて興味津々。私も探してみるね。」
そう言った私には、あるひらめきのヒントがあった。幼いころ、私は悪魔が出て来る絵本がたいそう気に入って何冊か大事に持っていた。黒いトンガリ帽子の悪魔は手の爪を長くのばし、魅惑的にふるまい、脚は長くてエレガント、何しろ格好良かった。いつも優しそうな猫なで声で「悪いことをしなさい」とささやく。私はそんな絵本が大好きだった。昔のことである。
(ひょっとすると、このサソリはトルストイの童話だったのかもしれない。)
そう思った私はいろいろな本棚を歩き廻り、調べてみた。しかし、残念、トルストイの本には、どこにもそんな話はなかった。その代わり、私はこの寓話が最初に出たのが1933年、ドイツ人地区に棲むロシア人・レフ・ニトブルクが書いた小説、ということをウイキぺデイアでみつけた。
(やっぱりロシア人だった。) 

 私は納得がいった。そう、この話、なぜかは知らねどなんとなくロシア人に違いないと私は思っていたようだ。
 この寓話を私なりに解釈してみると、生まれつき他人を傷つけたい悪い性格の人間は、たとえそれが彼の利益にならない時でさえ、傷つけてしまう。本来からその人に自然に備わっている性質には、逆らえないものだ。言ってみれば、人の性(さが)とでもいうのだろうか。
「だってぼくサソリなんだもン」というサソリは約束しようがしなかろうが、  「なんて言ったってサソリはサソリ。サソリには自然に備わっている衝動には抵抗できないようになっているのです。それはぼくの本来の性質だからです。」    この寓話では、カエルもサソリも死んでしまう。
 余談ですが、
(人間てそういうもンだよ。だってぼくサソリなンだもン)プーチンはそんなこと、つぶやいているのかもしれない。

浮遊体験 桑田 冨三子

(あ、浮遊した!)
 とっさに私はそう思った。もんどりうって空中に放り出された瞬間に、である。
それは本当に不思議な気分だった。体が宙に浮いた。海で浮くのとは違う。ブランコで空中高く揚がるのとも異なる。自分の重さがない。

 そんなことってあるのだろうか?

 お尻から、ドサンッとひどい落ちかたをした筈なのにどこも痛くない。マンションのフロアに見事に仰向けになった私は、周りに誰も居ないのを確かめ起きあがろうとする。マンションの玄関はただ広く何も掴る物はない。濡れてツルツルするだけの中を、もがき泳ぎ、手をつき、膝をついて、なんとか立ち上がった。

(あア、助かったんだ!)
 と、はじめて我に返った。
 体が痛いはずなのに、その時私はなんと、「空中浮遊」を経験したと喜んでいた。

 昨年の暮、「新しい年の夢は何」との問に「空を飛んでみたい、飛行機ではなく風を感じながら空中を!」と私は答えている。
 その時は(富良野のトマムあたりで空中パラグライダーの挑戦)を考えていたのに、思わぬところで、思いがけなくい空中浮遊を体験したことになる。

 新年明けて1月6日、その日の東京は、めったにない大雪が降り積もっていた。

 夕方、出してない人からの年賀はがきが7枚届いていた。
(返事をすぐ出す。さもないと、冨三子は居なくなった、と思われる。今、出せば明日届く。)

 そう思った私は雪途を躊躇することなく出かけて行った。途中で見かけた金髪の可愛い女の子が雪だるまを作っていた。胡瓜のヘタの眼は青い。赤い人参が大きな鼻である。

(なるほどね、この外人雪だるまは大賞ものだ。)

2022.3.22.002.jpg 道中、私はゆっくりと注意深く、慎重に小刻みに歩いた。(無事に帰り着いた。)とほっとしてマンションに入ったその時、私は滑った。身体は、まっすぐ平行に、脚が円を描くように跳ね上がった。

 その瞬間、私は空中浮揚した、と感じたのである。
「大雪の日の夕方なのに、なんでポストまで出かける必要があったの?」
話すたびに、みんなから叱られた。
 整形外科に行った。
「頭と大腿骨は何ともないです。腰椎が4本と、尾てい骨が折れてます。」
(お正月早々ばかなことをやったもんだ)。私は反省した。しかし本音はチョット嬉しい。
「その瞬間に空中浮遊したと感じました。」
 とリハビリの先生に言ったら、
「それは、あなたが転んだ瞬間に(大事にならないように)と必死に願ったからですよ。あなたの命が助かるように、あなたの脳みそが、普段の能力を超えた力を出させたのです。」「えエ、脳みそが私を助けた?いったいそれはどういうことですか?」
「本当ですよ。そういうことは、実際に起き得ることなのです。」
そこで理学療法士の先生はなにやら「心理学のフロー」とかの説明をしてくれた。


 もともと人間には、その人が本来持っている能力(生理的限界)を抑制することによって、その人の筋肉や骨の損傷を防げるように、安全装置がかけられているのです。
 脳がそれを意識的にコントロールします。そのため,何も危険のない通常時には、その人がどんなに力を出して頑張っても、自分の意識の中で限界だと思っているところまでしか(心理的限界という)力を発揮できないのです。

 しかし、ひとたび非常な危険が迫ったり精神的に追い詰められたりした時には、この安全装置が外れて、その人本来に備わっている能力が100%(生理的限界)まで発揮されます。骨や筋肉の損傷を防ぐために脳が働いて、その人が通常時には出せない、とんでもない大きな力が出るのです。ハンマー投げや重量挙げの選手が大会本番に思いがけない自己ベスト記録を出した話など聞いたことがあるでしょう。あれです。いわゆる{火事場の馬鹿力}と言われる現象です。

「あなたは、転んだ瞬間に(大事にならないように)と必死に思ったからです。あなたの命が助かるようにあなたの脳みそが普段の能力を超えた力を出させたのです。」
 先生は同じことをもう一度、繰り返して行ってくれた。この説明を聴いて、あっけにとられて私は、ただ、人体の超自然的な神秘に感動し、感謝するより他のすべはなかった。
とても不思議な体験だった。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                               了

木霊(こだま)  廣川 登志男

 神社の奥に行くと、樹齢2100年といわれる大楠がドーンと鎮座していた。周りを歩きながらその年月を刻んだようなゴツゴツとした表面に触りつつ、普段はしない「家族の幸せと健康」を祈っていた。昨年お参りした。熱海の来宮神社の大楠だ。幹周りを一周すると寿命が一年延びると言われるように、樹木には、不思議と神の存在を匂わせる雰囲気がある。

 庭木を植える時に思うことは、単に緑が欲しいからといった動機も在るのだろうが、やはり、自然の中で生きる樹に癒やされ守られたいと思うことも大きな理由の一つだと思う。

 40年前に家を建てたとき、家相に詳しい家内は、表・裏の鬼門と玄関周りに邪気除けの樹を庭師に頼んだ。小さいときからお茶・お花に親しんでいたせいもあるのだろう。表鬼門には古木の白梅、裏鬼門には金寿木蓮、玄関は南天を入れた。そして庭には辛夷の樹を頼んだ。やはり、樹の神様に守ってもらいたい一心だったのだろう。


 6年ほど前、家内がバラを趣味にするようになった。庭のウッドデッキを囲むようにL字型のバラ用の柵を作った。高さ約3m、幅14、5mほどある。今ではその柵に、つるローズうららなどが、春に数え切れないほど色とりどりの花を枝びっしりとつけてくれ、暖かい日差しの中で、その華やかな色彩や優しい良い香りに癒やされる。

2022.3.22.001.jpg バラ柵づくりのためには、デッキ周りのカイヅカイブキ15本と裏鬼門に植えていた金寿木蓮を伐り倒す必要があった。長年、我が家を守ってくれていた木々に申し訳ないと、家内は心が痛んだのだろう。

「神主さんを呼んでお祓いをしようか」と、ボソッと言っていた。私は、「そんな大仰なことはせんでも良いよ」と気にもとめず切り倒した。

 しかし、半年ほど後の、秩父三十四観音霊場巡りをしていたときのことだ。八番札所の西善寺で急に心臓が苦しくなった。20分ほどじっとしていたら、幸いにも収まった。何とか運転して家にたどり着いた。
 その後、一ヶ月ほどの間に二回発作が起き、最終的にはカテーテル手術を受けステントなる血管拡張子を二本入れて事なきを得た。
 家内は、しきりにバラ柵造りで切り倒した樹の祟りだと言った。


 木を伐ったことによる災いらしき出来事は他にもある。


 二週間ほど前のことだが、部屋飼いのかわいい小型犬が急性白血病に罹り、あっという間に亡くなってしまった。その三ヶ月前に、玄関横にある邪気払いの南天を切り倒していた。 家内は涙に暮れていたが、ふと、「南天を伐ったのが良くなかったのかしら」と言い出した。
 確かに、今回の件といい、6年前のカイヅカイブキといい、何か不幸があるときには、その少し前に樹の伐採をしていた。

 以前より、「木には精霊が取り憑く」との話は知っていた。「木」に「霊」と書き、「こだま」と読む。インターネットで調べると、「でじかん」氏のブログ「木霊と樹木神」に詳述されていた。

 要約すると、
『木霊とは樹木の生命と一体になった精霊のことであり、樹木神とは樹木から自由に抜け出すことの出来る精霊をいう。木が伐採されると木霊は死んでしまう。何かの用に役立てようと木を伐採するときは「ヨキタテ」なる儀式を行って木の神の許可を得る。許可が得られなければ、伐採を諦めねばならない。これらの儀式は、伊勢神宮の式年遷宮でも行われている』
 むやみやたらに木を伐るのではない時でさえ、神の許しを乞う習慣があるのだ。

 今回の我が家の伐採は、「邪魔になったから伐り倒そう」という不純な動機だった。なるほど、木の神様のご機嫌を損ねたということだったのか。

 しかし、「祟り」というような不幸な出来事ばかりではない気がする。

 家を建てた時に植えた辛夷の樹だ。まだ若い樹だったが、幹の直径は二十センチもあろうかという立派な樹だ。植えた翌年には白い花を見事に咲かせてくれた。その翌年も見事なものだった。その夏、幼い長男に木登りはこうやってやるのだぞと、辛夷の木に登って見せた。するとどうだろう、なんと秋には枯れてしまった。
 当時、35歳の働き盛りにあった私の周りでは、大病で会社を休んだり、大怪我をしたりする同年代の人がいた。今にして考えてみると、「あの時の辛夷の木は、私が大病などせずに生きながらえるようにと、私に命をくれたのだろう」と思うようになった。

 樹に宿る「木霊」が、私たちの身の回りでいかに大きな影響をもっているかに、改めて気付くことができた。自然界はまだまだ大きな存在だ。樹と言わず、小さな雑草ひとつにも、謙虚かつ尊敬の念を持って生きていかねばならないと、強く思い知らされた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                         了

拡がる趣味の世界 石川 通敬 

「百歳クラブ」内のスマホ同好会に入会して間もなく一年になる。

 初参加に際し、会のホストから説明されたのは、「ZOOMの背景は何にしますか。好きなものを使ってください」だ。

 予備知識がなかった私は、あわてて手持ちのアルバムから目についた写真を3枚取り出して、これまで使ってきた。
 この先、何事にも凝る性分の私は、段々背景を定期的に入れ替えたいとの思いが募っていった。そんななかで思いだしたのが、エッセイ作品で取り上げた「癒し系 趣味―鳥」だ。

 まず考えたのは、写真のイメージだ。次の二点を反映させたものにすること。
 その一つは、美しさ、面白さなど見て楽しいもの。それには、どんな鳥を狙うのがよいかだ。

 これまで我が家の庭に飛来した野鳥は19種だ。その中で毎日押し寄せる常連は、スズメ、シジュウカラ、メジロとワカケインコ(正式名 ワカケホンセイインコ)の4種。これらが候補だ。
次に取り入れたいのが、鳥が集まってくる場所だ。

2022.3.22.004.jpg これは30年ほど前に、「庭に小鳥を」という小冊子を、散歩の途中で見つけたことが発端となり作られたものだ。
 その冊子は、我が家の近くにあった鳥獣保護財団の売店にあった。現在の環境は同書のアドバイスに沿って作られている。
 それに加え運がよかったのは、その店に、英国から輸入された赤い屋根がついているかわいらしいえさ台といかにもイギリスを彷彿とさせる濃いグリーン色の鳥かごが売りに出されていたことだ。

 私はこの3点を買い、小さい庭の片すみに、野鳥がやってくる場所を作ったという歴史がある。
 こんなイメージをもって庭にでると、写真撮影は簡単でないとすぐわかった。鳥たちは群がり、争って夢中でそれぞれ好みのえさをつついていたが、私の動きを察知すると、パッと一斉に飛び立ち、なかなか戻ってこない。
 そこで一計を案じ駐車している車に乗り、彼らが気付かないところまで近づき、スマホのレンズを最大限望遠に設定して待つことにした。
 
 撮影場所の環境は、日当たりもよく、えさ台の赤い屋根と濃い緑色の鳥かごが庭木を背景にうまく収まっている。環境は申し分なく美しい。
 問題はどの集団を撮るかだ。しばらく観察するうち狙いが定まった。それはワカケインコだ。スズメ、シジュウカラ、メジロは警戒心が強く、私が庭に出たあと姿を消したきりだ。よく考えると、仮に運よく撮影のチャンスが見つかっても、個体が小さく、スマホのカメラの性能では迫力ある写真は撮れないはずだと気が付いた。


 そんなことを考えながら待っていると、ワカケが戻ってきた。この鳥は、もともと中国南部からインドに生息するものだが、日本にはペットとして輸入されてきた。それが野生化し、大田区の東京工大あたりを中心に大きな群れになっているそうだ。体長は4〇センチと大きく、首回りに細い茶色の輪があり、目の周りが黄色、全身が鮮やかな明るい緑色、長い尾が水色と美しい。

 東急ハンズでは、ペットとして一羽3万から5万円で売られているものだ。それがタダで自宅の庭に来てくれるのだから有難い話だ。

 スズメ、メジロ等の小鳥に比べるとずば抜けて大きく、ワカケがくると彼らは追い出される。気が付くと、この日はえさ台に2羽、鳥かごに2羽ずつ仲良く湯然としてえさを啄んでいた。
 周囲にはスズメも目白もいない。シジュウカラも影を潜めている。しかも車内からではあるが、私が撮影を始めても慌てて逃げないのがうれしい。


 私は夢中で30数枚ほど写真を撮った。撮影がすむと早速書斎に戻りZOOMの背景に使える写真を探した。
 結果は上々イメージ通りの写真が数枚見つかった。後はこの中から一枚選び、これをパソコンにインストールする作業だけとなった。
 しかしこれが問題だった。スマホ同好会の皆さんは、簡単に自分で出来ると言っておられたが、物の数分で私にはできない作業であることがわかった。

 こうした難問に遭遇した時の助っ人が、私の場合NTTのサポートセンターだ。
 今回も早速NTTに電話して助けてもらった。写真の最終処理を含めプロでも二時間以上の時間がかかったが、イメージ通りの画像を無事インストールされた。突然の思い付きだったが、この試みは大成功裏に終わった。

 背景写真作成案の立案、撮影からパソコンへのインストール完了までには、合計丸一日もかかった。しかし次のスマホ同好会で、新しい背景を皆さんに披露できることになった達成感と歓びはひとしおだ。

 それ以上にうれしいのは、これまでほとんど取り扱いに関心がなかったスマホを活用した写真の扱いに大いに興味がわいたことだ。
 写真撮影とその加工・処理が自分の趣味の一つに加わると遅ればせながら人生の楽しみが一つ加わることになる。

             イラスト:Googleイラスト・フリーより     

                           了

「元気100教室・エッセイ」 治験 武智 康子

 令和四年一月四日の夕方、突然、自宅の固定電話が久しぶりに鳴った。電話の相手は、私が、日本語教師として学校で最後に教えた卒業生からだった。

「王健です。先生、明けましておめでとうございます。やっと、僕の研究が実を結びそうです。今朝、事初めの席で部長から報告をいただきました。・・・・・・・・・」
 彼の声は喜びにあふれていた。
「それは素晴らしい。本当によく頑張ったね。・・・・・・・・・」
 私も嬉しかった。


 彼は、二十年前、中国のエリート高校を卒業して十八歳で来日した。初めて会った時は、青年というよりまだ少年のような顔つきだった。
 私は、始めて会った学生には、折を見て個別に面接をしていた。その時の彼は、他の学生と違って顔は少年でも、考えや留学の目的がはっきりしていた。まず、日本語を勉強した後、日本の大学で、医学か薬学を学び、「癌」の治療薬を作りたいという目的を持っていた。それは彼の叔母が白血病で非常に苦しんで亡くなったからだった。

 当時の日本は、アジアの最先進国であり工業技術や医学など科学技術の分野においては、世界に冠たる国であった。

 彼は、非常に真面目で、日本の大学に合格するには、普通は二年かかるところを一年で日本語教育を修了して、信州大学で生命科学を学び、大阪大学の大学院に進学した。そして日本のバイオテクノロジー大手の企業に就職して、研究所で十年越しの白血病の治療薬の研究に勤しみ、やっと治験に辿り着いたのだった。

 今は、三十八歳となり結婚もし、チームのリーダーとして活躍しているそうだ。

 ただ、動物実験に成功したからと言って、必ずしも人で成功するとは限らない。思わぬ副作用が出てくるやもしれない。彼自身も嬉しさの反面、一縷の不安ものぞかせているのは事実だ。
 新薬の臨床試験である「治験」は、厚生省により募集されるが、厳しい健康チェックの後、一、二週間病院に隔離される。もちろん謝礼は払われるが、それをアルバイトにしている人もいるという。

 しかし、治験には危険も付きまとう。大半は安全だが、時に「死」に至った人もあったそうだ。だから、アルバイトではなくボランティアであって、報酬ではなくあくまで協力に対する謝礼であると定義されている。

 一方、彼は、研究中思うようにいかずに、やめたいと思ったこともあったという。動物実験では何匹もの動物の命を奪ってしまった。その時「生命とは何か」を考えたそうだ。その気持ちは、私もよくわかる。
 私自身も学生時代に、人における呼吸酵素の働きを解明するための免疫学の実験で、モルモットやウサギの命を奪った経験がある。その時の気持ちは、今も忘れていない。

 そして、彼は最後に
「やっと治験にたどり着いた今、実験で犠牲になった動物たちに感謝するとともに、これから治験に参加してくれる人達、それが例えアルバイトであっても命を懸けてくれる人たちに感謝したいと思っている。そして、薬が安全で効果があることを証明したいと思っている」
 と話してくれた。

 私は、少年のようだった彼が、単に自分の研究成果だけでなく、研究を通して動物や治験者へも感謝の気持ちを忘れない、立派な一人の人間に成長したことが、何よりも嬉しかった。

 治験が成功すれば、世の中の多くの白血病患者が救われる。誠実な心の持ち主である「王健」の治験の成功を、私は祈らずにはいられない。
 コロナ禍で、心が沈みかけている、令和四年の新春に、この明るいニュースを受けた私の心は、少し華やいだ。
                         了

「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子

 令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。

 ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
 私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。

 実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。

 レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。

 痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。

 それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。

 九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。


 思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。

 世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。

 私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。

 普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。

 診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
 するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
 私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。

 歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。

 今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。