元気100教室 エッセイ・オピニオン

白馬岳  青山貴文

 今夏、8月6日(月)東雲がたなびく6時頃、隣町の深谷市に住んでいる古澤光康君からメールが来た。
「おじさんおばさん達が登った白馬岳に週末行ってきました。天気は良かったものの、おばさん達がおっしゃった通り、かなり辛い登りで大変でしたが、なんとか登頂できました。今日からドイツ出張です。頑張ってきます」
 光康君は数週間前、我が家に遊びに来たとき、白馬に会社の部下ら仲間4人と登ってくるとは言っていた。
 しかし、急に決まった出張前の大切な時によく行ったものだと思った。
 私だったら仲間に謝って、登山を取りやめ、出張の準備に精出すと思う。彼は明朗な好青年で、意外と太っ腹だ。仲間たちとの約束を優先したのだろう。

 彼は、港区麻布の仙台坂の升本酒店に生まれた。小学生のころボーイスカウトに入った。
 成長するにつれて、サイクリングなどの戸外のスポーツを行なうようになり、時たま秩父の野山をかけまわっていた。私は浪人時代、彼がまだ生まれていないころ、この遠縁の酒店に店員として住み込んでいた縁がある。

 彼は、芝高校から現役で東京工業大学に入った。私は残念ながら二浪したが、この国立大学に入学できず、致し方なく私大に入った。
 彼は、私と同じ鉄鋼会社に入社し、熊谷工場の研究所に配属になった。8年後、安来工場への転勤を命じられた。その折り、家庭の事情もあり、大企業ではないが、東松山市の中堅優良企業に躊躇なく転職した。 

 彼の白馬岳のメールには、4枚のスナップ写真が添付してある。

 一枚は、サングラスを右手に持って、41歳にしては、若々しい登山姿だ。青色の毛糸の帽子に黄色の長袖を着て、黒いリュックを担ぐ。遠くに雪渓を登る色とりどりの登山者の群れが写し込まれている。

 次は、青色の半そで姿で陽光の下、真っ青な空をいただく頂上塔に右手を置いて、左手に2本の杖を持って立っている。

 三つ目は、山荘のテーブルのケーキとコーヒカップを前に、健康そうな茶褐色に雪焼けした顔が微笑んでいる。

 最後の写真は、画面一杯に、山小屋の野外テーブル上に、食べかけの大きな三角山のかき氷とスプーンが大写されている。その氷の頂上に真っ赤なサクランボが一つ鎮座している。そのサクランボの背後には白馬の山塊と陽を受けた白い雲が湧きあがっている。

 私たちの若いころの登山は、おにぎりやインスタントラーメン・菓子、水などの食糧と、ガスボンベをリュックで運んだものだ。山頂でお湯をわかし、インスタントのコーヒーや味噌汁を作った。ケーキやかき氷などとはおよそ無縁であった。

 古澤君が大切な出張前に、友人たちとの約束を守り、危険な雪渓を登ってきた勇気と果断さには、ちょっと無謀を感じる。
 しかし、その若わかしく優雅な登山姿に羨望を感じる自分がいる。


 私の青色表紙の登山ノートによると、還暦の3か月前、2000年8月10日(木)、白馬岳に夫婦で登っている。
 早朝、まだ自動車のライトを必要とする3時ころ、熊谷を車で発ち、猿倉から白馬の雪渓を登り、お花畑を横切り、14時ころに山小屋に着いたと記す。
 妻が言うには、山荘での生ビールが最高においしかったというが、私には記憶がない。ただ、猿倉で一セットが 1,000円の簡易アイゼンを購入し、堅い雪上を一歩一歩登った感触はいまだに覚えている。妻は、高級アイゼンを事前に準備して登っていた。

 私たちは、翌朝6時ころから紺碧の空のもと、眼下に白雲や雪渓を眺めながら、尾根伝いに白馬岳(2932m)白馬乗鞍岳(2436)、天狗原(2180)などを経由して栂池(つがいけ)ヒュッテに着いた。
 翌日の土曜日に熊谷に戻ってきた。一日は休養を充分にとり、月曜日に出社している。


 一方、古澤君は週末の土・日曜日の休日を利用し、猿倉と白馬山荘の往復登山であった。休日を取ることもなく、翌月曜にはドイツへの出張に出かけている。そして、任務を無事終えたようだ。私たちと違って、超多忙のなかで仕事と趣味を両立させている。

 現在、彼は持ち前の果敢さで、海外出張も多く、時間があると本場のオペラを垣間見ているらしい。私には、そんな高尚な趣味もない。

 後日談であるが、彼は今回の出張前の白馬登山に対し、社長からお目玉をもらったそうだ。


            イラスト:Googleイラスト・フリーより

こころに残るゴルフ

 4月初旬、福岡のゴルフ場から年会費の請求書が届いた。
 私は、主人の帰函以来、諸手続きに追われゴルフ場のことなどすっかり忘れていた。早速、主人の退会手続きをとるのと同時に、17年間預けていた主人と私のゴルフバッグを送り返してもらった。

 そのゴルフ場は、海沿いの美しい松林に囲まれたフラットなコースなので、高齢者向きであった。私達夫婦は東京に戻ってからも、年に5~6回は福岡でゴルフを楽しんでいた。

 手続きの4日後に戻ってきた二つのバッグの中には、それぞれのクラブに私の手作りの名入りのカバーが被せてある。なんだか懐かしかった。だが、主人のはもう使うことはないのだと思うと、少し寂しくもあった。と同時に、楽しかった思い出深いシーンが、私の脳裏をよぎった。


 その一つは、家族ゴルフである。

 ある時、社会人になってまだ日の浅い次男が、福岡の私宅に帰ってきたので、当時、福岡に在住していた私の父を誘って、親子三代のゴルフをしたことがあった。
 その日は、五月晴れの絶好のゴルフ日和であったことを覚えている。

 ゴルフを始めて間もない次男は、とにかくよく飛ぶが、右に左に忙しい。80代の父は、飛距離はなくともグリーン周りでは、熟練の技を見せてくれる。
 スポーツが苦手な主人は、仕事柄しかたなく始めたゴルフだが、その性格のように着実にボールを運んでいく。そして、スポーツが得意な私は、女性としては「飛ばし家」であった。そのため女性用のティーではなく、レギュラーティーから打つのだった。

 ただ、このコースには、私にとって一つの苦手なホールがあった。

 それは、大きな池越えの左ドッグレックのロングホールだ。女性用のティーは池の向こう側に設定されている。しかし、レギュラーティーから打つ私は、目一杯ドライバーを振るしかない。何度も池ポチャを経験した。

 この日、主人と私は何とか池をクリア。一番飛ばす次男が池ポチャ。父の一打は池の淵に当たって、フェアウェイに跳ねた。
 お互いに助け合いながら親子三代のゴルフは、とても楽しかった。スコアが一番良かったのは、経験豊富な父だった。
 父は、孫とも一緒にゴルフを楽しめたことを、とても喜んでくれた。父の笑顔を今も思い出す。しかし、その後、親子三代のゴルフは二度と実現することはなかった。


 そして、もう一つは、主人の大学の教職員のゴルフ大会に、私も初めて参加した時のことである。私の他にも教授夫人が二人ほど始めて参加されていて、女性は8人であった。

 いつものコースなので、私は何も不安はなかった。私の組は、年輩の教授と事務長、それに若い助手と私である。主人は別の組である。

 女性は、「女性用のティーから」とのルールなので、私はいつもと違ってクラブの選択に迷った。出だしは良くなかったが、だんだん距離感がつかめてきた時、あの大きな池越えのホールにきた。女性用のティーは池の向こう側にある。

 私は、池を越す必要がないのである。

 男性群が、池越えを打ち終えた後、急いで先に行って女性用のティーから思いきりドライバーで打った。すると、グリーン手前近くまで飛んだのだ。
 結局、パー5のホールを2オン1パットで上がったのだった。イーグルである。初めてだった。いつもは、パーで上がるのが「やっと」だったのに。「池越え」という精神的なプレッシャーが、無いことの影響の大きさに我ながら驚いた。


 年輩の教授は、やはり着実なプレー。事務長は実力派。若い助手は次男と同じタイプ。四者四様の楽しいゴルフだった。

 そして、笑顔で終了した後、表彰会場に入った時である。突然大きな拍手が湧いた。
「奥さん、優勝、おめでとうございます。」
「エッ。」私は驚いた。

 その日は、女性用のティーから打ったお陰でいつもより少しはスコアがいいが、優勝する程ではないはずだ。すると幹事が説明してくれた。
「初めての参加者は、ハンディキャップが36ですよ」と言う。
 私は、更に驚いた。36を引けば私のスコアは54、プロ並みではないか? いや、スコアだけ見れば、プロよりいい。本当に驚いた。
 思わず主人の顔を見た。主人はにこやかに笑っていた。確かに、他の教授婦人達も、上位を占めていた。

 私は、皆さんの温かい心に感謝しながら、優勝杯をいただいた。ゴルフの優勝はあとにも先にもこれ一回のみである。因みに、その日の主人は、ブービー賞だった。

 そして、よく見ると、いただいた優勝杯には、「武智杯」と掘り込んであった。奇しくも、当時、主人が学長であったからだった。
 その取り切りの優勝杯は、今もリビングの飾り棚に飾ってある。偶然ではあるが、今は亡き主人からのプレゼントのように思えた。

 私は、よく見えるように、戸棚の一番前に置き換えたのだった。私にとって、深く心に残るこの優勝杯を、いつまでも大切にしたいと思う。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

いい人生だった 金田 絢子

 昭和13年生まれの私は、一つから4つ半まで父親の任地、北京にくらした。北京から帰国した17年の9月に弟が生まれた。

 今年(平成30年)はまさに酷暑の夏であるが、昭和17年も記録的な暑さだったらしい。身重の母が日に何べんも水を浴びたというエピソードがのこっている。私は年子の兄と、弟にはさまれた一人娘として、甘やかされて育った。

 疎開先きから東京に帰ってきて、近くの小学校に1年ほど通い、5年生から女子短大と大学が併設されたG校に学んだ。
 因みに、中・高は男女別学であった。当時、女子高等科を卒業後の進路は、大学、短大、社会人の割合が三分の一ずつと均等していた。私は、短大にすすんだ。

 短大に入って間もない日曜日、高等科を出て社会人になっていた親友と二人で、大学のイベントに参加した。ファイアストームを囲んで、フォークダンスを踊った。

 友人は私の一つ前の列にいた。私のとなりの男性は、曲がとぎれてつないだ手が離れる度毎に、手の平の汗をハンカチでぬぐった。友人が小走りにきて、耳元にささやいた。
「ステキ。石濱朗みたいね」
 あとで知ったが、彼はR大の学生で、数人の仲間とわが母校のお祭りに来ていたのである。

 私と友人は、フォークダンスが終わって早々にひきあげた。駅に近づくと“朗くん”を中心にして、男子のかたまりがこちらを見ている。
 私たち、いや私を待ち受けていたのだ。これも、少し経ってからわかったのだが、とくに感動はしなかった。“私は可愛い”とうぬぼれているわりには、異性への関心はないに等しかった。端的に真実をのべるならば、ただぼんくらなだけであった。


 ところが、その私が短大を卒業した翌年、まさかの結婚をしたのである。世の中、何が起こるかわからない。
 間をとりもって下さったのは、北京時代のお仲間の、弁護士夫人Nさんである。初対面の日、Nさん邸へ、私は母と出かけたが、相手は一人でやってきた。
 男性は、背は中くらい、ちょっぴり禿げていて頗る調子がよかった。驚くほど物知りでもあった。つき合っているうちに、頭が良いこともわかった。それが決め手だといえばきこえはいいが、調子のよさにのせられたと見る方があたっている。

 娘たちは、夫がまだ元気なころ、
「お父さんに上手に言いくるめられて、お母さんたら、お父さんひと筋なんだから」
 と揶揄したものだ。

 今年、暑い暑い7月、合間に台風がきて一日だけ涼しい日が訪れた。悪天候を口実に私は一歩も外へ出なかった。折からの風にのって、夫の声がきこえてきた。

 最後の入院の前日のことである。夫はいつものように、介護ベッドに半身を起こし私たちに話しかけていた。体力はとみに衰え、すでに、予定を書き込む手帳に、ちぢこまった字しか書けなかった。“もう長くない”と本人が、誰より自覚していただろう。何の話のつづきか忘れたが、
「いい人生だった」
 と夫が言った。夫がこの言葉を口にしたのは初めてではないが、死の予感も手伝ってか、殊に私の胸にしみた。自分自身に聞かせる風にも
「みんなのおかげだよ」
 と言っているようでもあった。
 ふと耳を澄ますと、風の音、雨の音にまじって
「ただいま」
 爽やかな夫の声がする。うれしくなって玄関へ走った日々が甦える。
 3人の娘や孫たちとのあれこれ、数々の出会い、ちょっとした行違い、人見知りの私。全部ひっくるめて懐しい。私も命の瀬戸ぎわに、
「いい人生だった」
 と言ってみたい。

           イラスト:Googleイラスト・フリーより

一族集合  筒井 隆一

 ガジュマルとマングローブの密林の中に続く、曲がりくねった道を、小型自動車が進む。

 道が高台に出ると、東シナ海の真っ青な海が、樹林の隙間から顔を見せる。今日は長男夫婦の案内で、沖縄本島の最北端、辺戸(へと)岬を目指している。

 道に沿って、所々に「ヤンバルに注意」の標識が立っている。
 この時期、運がよければ国の天然記念物、ヤンバルクイナに出会えることもあるようだ。沖縄本島の北部、ヤンバル地区にしか生息しないヤンバルクイナは、鳥類では最も新しく、1981年に発見されたが、外来生物による捕食と、生息環境の森林破壊で、絶滅の危機に瀕している。

 また鳥類の中で唯一飛べない鳥だが走るのは早く、時速40キロメートル程度というから、マラソン選手の倍のスピードで走ることになる。

 そのヤンバルクイナの飼育、繁殖のため、保護施設が岬近くに設置されている。そこに、たった一羽だけ飼育されているヤンバルクイナ、愛称「キョンキョン」を見学するために、宿泊した西海岸のリゾートホテルから3時間近くかけて走って来た。だが、迂闊にも今日が休園の水曜日ということを忘れており、施設の前まで来て気がついた。大失敗である。


 同じころ、次男一家の5人は、宿泊先のホテルで水遊びに興じていた。ホテル建物内の屋内プール、建物に隣接した屋外プール、そして50メートルほど先は、遠浅、白砂の美しい海岸で、小さな子供から大人まで、安全に泳ぎを楽しめるようになっている。三人の孫たちも夢中になって泳ぎ廻っていたようだ。

 私は、一族の集まりを大切にしている。そして何かの節目には、全員集合して情報交換、懇談をする。私が古希を迎えた時には、大阪勤務だった長男と、東京在住の私たちとが、中間の熱海で合流し、飲んで語って、一夜を明かした。

 今回は私が77歳の喜寿、家内が70歳の古希を迎えるにあたって、長男の勤務地沖縄に集合し、「筒井家一族の会」を開くことになった。現地の受け入れ担当は長男、沖縄への移動担当は次男という役割分担だ。

 筒井家のルーツは、もともと奈良大和の戦国大名からのし上がった、筒井順昭、順慶親子から続いた家柄、と言われている。
「洞が峠を決め込む」「元の木阿弥」などは筒井一族に関係ある言葉だ、と父親から聞いていた。
 近鉄奈良駅の近くにある伝香寺が筒井家の菩提寺で、関西に出向いた時には立ち寄るようにしている。


 さて、長時間のドライブにもかかわらず、ヤンバルクイナを見損なった長男組がホテルに戻った。そして、一日中プールと海岸での水遊びを楽しんだ次男組とが合流し、皆が顔をそろえた。せっかく沖縄に来たのに、ホテルのレストランでの会食はつまらない。向かいにある琉球料理店に席を移し、宴会が始まった。本場の泡盛が、美味しい。

 私たちは、普段は夫婦二人だけの生活だ。
 農園で畑を耕したり、来客を迎える準備をするとき、そしてヨーロッパへの二人旅などを除けば、夫婦の対話も途切れがちである。
 皆が集まれば、息子たちは、転勤転務を含め仕事上の情報交換ができるし、私たちは、三人の孫をからかいながら談笑すれば、老化防止にもなる。お互いの体調、健康のこと、今後を息子たちにどう託していくか、なども大切なテーマである。

 情報は、一方的に提供したり受け取ったりするものではなく、交換するものだ、と先輩に躾けられた。一族集まっての飲み会は、まさに情報交換である。

 この夜も昼の水遊びで疲れ切った孫たちが膝で寝てしまうまで、一族の酒盛りが続いた。


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恥ずかしさを越えて 井上清彦

 今年4月、大型連休の直前の1週間、京橋の「ギャラリーくぼた」で、「元気に百歳」クラブ、スケッチサロン第1回「あとりえ一丁」水彩画展が開催された。私にとって、初めての水彩画展への出品だった。

 私は、前々から絵を描くことに憧れていた。安野光雅の風景画や、テレビ絵画講座の野村重存講師のテキストを見て、「訪れたところを、彼らのように描けたらいいな」と思いを募らせていた。
 夫の私の気持ちを知ってか、誕生日や古希の祝いにと、妻から長沢まこと『絵を書く、ちょっと人生を変えてみる』や玉村豊雄『隠居志願』(季節の野菜、花、果物などの絵入り)の本をプレゼントされた。


 かつて「水彩画を始めるなら、一度ちゃんとしたところで習わなければダメよ」と口を酸っぱく言われてきた。
 その気になって、絵画教室を探してみたが、なかなか合いそうな教室が見つからない。せめて形から入れとばかりに、10年近く前には、水彩画を描く一式、スケッチ用の座椅子まで揃えてしまった。



 2014年夏に「元気に百歳」クラブに入会した。1年後の同クラブの忘年懇親会の席で、スケッチサロン「あとりえ一丁」世話役の喜田さんから「絵を描きませんか、初めての人でも大歓迎ですよ」の誘いに、酒の勢いもあり「絵を描くのは小学校以来ですが、それでもよければ」と返事してしまった。


 その後。開催案内が来て、「武士に二言はない」と出席の返信をした。年明けの初舞台は、新橋にある港区の生涯学習センター「ばるーん」の教室だ。メンバーが持ち込んだモチーフの静物画が対象だ。
 午後1時から教室が始まって最初に喜田先生から、今日の絵を書くポイントの説明があり、それを念頭に置いて、描き始める。途中、先生からアドバイスを受けつつ、制作に励む。「もっとインパクトを付けて」とか「もっと汚して」とか先生独特の指導が入る。午後4時過ぎに描き終わる。
 私は、その間1枚を描くのが精一杯だ。メンバーのなかには、2枚描ける人もいる。皆さん、お上手で、スラスラ描き進めていて、こちらは焦り気味だ。それでも回を重ねるうちに慣れてきて、絵を描くことに集中している時間は貴重だと思えるようになってきた。
 先生から、「井上さんらしい絵ですね」と評されて、「個性を尊重する」という言葉にも励まされ、続けてきた。


 こうして、年月を重ねるうちに、「そろそろ作品を皆さんにご覧頂く機会を設けたら」という提案が先生から出てきた。
「できるかなー」という不安もあったが、展覧会の経験の豊富な先生の情熱も加わって、実現の運びになった。

 家に帰って、「今度展覧会に絵を出すよ」と伝えたら、間髪を入れず「あなたには、まだ早いわよ」と返ってくる。「全員参加なので、出すよ」と押し切った。

 いよいよゴーサイン。各自4点出品することになり、私は、教室で描いた絵しか手持ちがなく、家で候補作品を絞り組む際、「あなたの絵は、小学生並ね」と批評する妻の意見を聞いた。
 展示する候補作品を、直前の教室に持ち込み、最終的に先生の意見も伺って4点が決まった。注文した額が家に届いて、絵を入れると、拙い私の作品も見栄えが良くなる。「どうだ、結構見られるだろう」と問うと、珍しく批判は出ず、少し安心した。

 展示前日の日曜日の夕刻、会場で展示準備を終え、翌日からスタートする。期待と不安の入り混じった気分だ。会員で当番日を決めていたが、私は、連日、顔を出すことになった。妻は「每日行かなければならないの。あんたも好きね」と呆れ顔だった。

 事前に、案内葉書は、在籍日時と「生まれて初めての展覧会。上手より個性がモットーです」と一言添えて、知り合いに配ったり、郵送しておいた。始まって、知り合いが顔を見せてくれると、本当に嬉しい。「ここはいいとか、ここをもうちょっと直すといい」との言葉も素直にうなずける。

 他の出展者10名は、教室外で描いた作品も多くあって、興味深く、制作の裏話や工夫を聞けるのも、普段の教室後の懇親会とは異なって、風景画など勉強になることが多かった。

 そして何よりも、訪れる見知らぬ方々との会話が、得難い。自作について思いもかけず「気に入った」と言ってくれる時は、出品してよかったと思える瞬間だ。
 「元気に百歳」クラブの方々も、沢山顔を見せてくれてありがたい。 

 私の作品に対する批評もあって、作品名『夏の思い出』が良いとかとか、同『春近き卓上の花』は「マチスみたい」とか、『初モデルの喜田さん』は「本人に似ている」とか言われて気持ちがいい。
 知り合いから『初めてのニコライ堂』は「前景を入れた方が、遠近感が出るよ」との批評や「井上さんの作品は、人物も風景もあるし一番バラエティに富んでいるよ」との褒め言葉もある。
「オープニングパーティー」には、大勢が集まり、プレゼントのワイン等も豪華で、当クラブの例会や、忘年会などの行事に劣らぬ盛り上がりを見せた。

 7日間の展覧会が幕を閉じ、帰宅した。12日間のモロッコ旅行から帰国して、続けて1週間の展覧会を終え、さすがに疲れた。片や、ホッとすると同時に達成感がある。
 これからの制作に向けての意欲が湧いてくる。展覧会を開催して皆さんに見て頂くことは「恥ずかしいし、準備も大変だが、今後の成長のためには良いものだな」と思いを強くする自分がいた。  

親父の助言 = 青山貴文

 社会人になって、はじめて、帰省した。
「酒の席が多くて、困ってしまうよ」
 と、アルコールに弱い私は、飲んべえの親父に言った。
「食べてから飲め」
 酒にだらしない親父の助言であった。

 彼は私が母親に似て、アルコールが弱い体質と知っていた。

 私は、父が酒好きで、沢山の酒を飲めるが、呑まれてしまう情けない男と見下していた。よって、彼の忠告は余り信用していなかったが、こと酒に関しては、変に説得力のある彼の戒めを守った。
 要するに、物を先に食べることによって、胃壁や腸壁に粘膜を作り、アルコール分を極力少なく吸収する方法だと勝手に解釈した。

 それからは、酒宴が始まると、刺身とか茶わん蒸しなど自分の好きなものを先に食べてから、好きでもない酒を飲んだ。酒好きには、食前のすきっ腹に酒は美味いという。しかし、私には食前も食後もどちらとも美味くなかった。

 上司や先輩の中には、
「酒が飲めない奴は仕事も出来ない」
 と言う人がいた。そういう人にかぎって、酒が強い。同じように、ゴルフが強い人は、「ゴルフが上手い者は、仕事もよくできる」という。

 私はどちらも弱かった。特に、酒は盃に2~3杯飲むと、目のまわりが赤くなる。さらに飲みつづけると、顔全面が真っ赤になって、心臓が大きく動悸してくる。それでも無理して飲むと、吐き気を催してくる。

 堪え切れないので、トイレで飲み食いしたものをすべてを吐きだす。仕事が出来ない男だと思われては、この会社ではやっていけない。吐いてから、何食わぬ顔つきで、また飲む。上から入れて、上から出す。なんとも、不経済なことをしていたものだ。

 そのうち、顔が蒼白になってくる。すると、もうどうしても飲めない。しかたがないから、先輩だろうが、誰だろうが酒をさされても飲まない。青山は、酒に弱いとレッテルを貼られる。親父のように、酒に呑まれるよりはましだと、誰が無理強いしてもそれ以上は飲まなかった。

 幸い、体力には、自信があった。あまりしつこく注ぐ奴には、にらみつけて拒絶する。若い時、酒屋で住み込み店員をして、力仕事をしたことが幸いした。
 そのうち、注ぐ方に回り、にらむこともなくうまく立ち回れるようになった。

 私は、酒に呑まれるどうしようもない親父をもって、気楽であった。たとえ仕事ができないで落ちぶれても、親父のように、妻子を困らせることはしないという自負があった。経済的には、父より優位であった。そういう意味で、親父は私の精神的な下支えであり、防波堤であった。

 仕事ができて酒の強い親父であったら、彼を追い越せなかったであろう。そういう意味では、非の打どころがない立派な父でなくてよかった。

 私に息子ができたら、大いに酒を飲んで、親父のようにベンチで寝むり込んでみたり、終電車で介抱すりに給料袋を盗られてやろうか。酒が飲めなければ、女遊びをおおいにして、どうしようもない親父を演じてやるか。すると、息子は「親父はどうしようもないな」と、優越感を感じ、力強くなるだろうとすら思っていた。

 いかんせん、生まれたのは娘二人であった。平々凡々の家庭的な親父になった。娘の教育は、主に妻にまかせ、自分を偽り、背伸びする必要もなかった。

 また、お客との酒宴では、直ぐ赤くなるので、「あいつはすでによく飲んだのだろう」と、余り注がれることもなかった。仲間との一杯では、大きな声で騒いでいれば、いつとはなしに酒宴はおわっていたものだ。

 そこへいくと、酒に強く飲んでも顔に出ない人は、ぐいぐい飲まされる。赤くなるのは恥ずかしかったが、これもありかと、酒宴も嫌いでなくなってきた。しかし、真の男は武将の如く泰然と飲めなければだめだと、今でも信じている。

 私は入社して、研究係に配属された。諸先輩は、専門書を読みながら、あるいは議論をしながら、たばこを思慮深く吸っていた。私は、たばこはうまくなかったが、格好だけは先輩たちを真似て思慮深い態度でうまそうに吸っていた。

 親父は、ヘビースモーカーでもあった。
「たばこは肺や胃に吸い込まないで吹かせ。身体にいい吸い方だ」
 と云いながら、彼はたばこを美味そうに吸い込んで、鼻から煙を出していた。

 海外勤務になって、年増でなかなか理知的なアメリカの美人秘書が、「テッド(私のアメリカンネーム)はなぜたばこを吸うのか。ここでは仕事の出来る男はたばこを吸わない」と親切に教えてくれた。
 さすればと、黙ってたばこを吹かすのをやめた。
 たばこをやめるのはすごく難しいといわれていたが、私には簡単であった。親父の助言どおり、肺や胃にたばこの煙を吸い込んでいなかったからだと思う。

 父は、肺気腫になり、たばこの害を息子に示してから死んだ。
 
 今思うに、親父は小心者の私の先行きを見通し、自分のような大物には育たないとみて、いろいろ助言してくれていたのだろう。


  イラスト:Googleイラスト・フリーより

愛しのマドンナ  青山貴文

 私が欠かさない日課は、少なくとも5キロ歩くことだ。ここ十数年、歩かないと何か落ち着かない。歩くことが生活の一部になっている。

 歩く場所は、家の周囲だが、大半は『さくら運動公園』だ。この公園は、我家から車で10分くらいに位置する。足腰に優しいクッション材を敷き詰めた一周1キロの遊歩道が設置されている。そこを日々、5周する。

 その遊歩道の周囲には、大木のクスノキやケヤキあるいは、ソメイヨシノなど40種近くの木々が植えられ、木陰を作っている。

 その他にも、2年前から、足腰と脳細胞を鍛えるために、週2回の社交ダンスを習い始めた。しかし、足腰を鍛えるには生ぬるい。やはり、足腰には早足で歩くのが一番効果があるように思う。



 公園の遊歩道を、スロースロー・クイッククイックとダンスステップで、体幹がぶれないように、胸を張って、足の爪先を伸ばして軽快に歩く。
 第三者が見ると、少しおかしいのではないかと思われるかも知れないが、あまり気にしない。私は一周を約10分弱の速度で歩く。


 4月初旬の夕方のことだ。平日のためか、数人しか歩いていなかった。アカシアの前のベンチで、大きなマスクをした2人のおばさんが話し込んでいる。一周目、さらに2周目も同じく、彼女たちから2~3メートル前の遊歩道を通り過ぎかけると、そのうちの一人が、
「あおやまさんじゃありませんか?」
と、座ったまま、右手を指して、私の名前を呼ぶ。

 立ち止まり、誰かと、その女性の目を凝視する。
 60歳代の目元の涼しい色白のご婦人だ。どこかで会ったような気がするが、憶い出せない。
「マスクが大きくてよくわからないよ。 そのマスクとってくれるかな?」
「はいはい、マスクとったわよ。これでわかるでしょ!」
「ああ、ハワイアンバンドをしていたときのフラダンスの元お嬢さんか」 
 ところが、名前が出てこない。こういう時は、失礼だが聞いてしまうことだ。

「えーと、名前は何だっけ。歳とると人の名が出てこないのだよ」
「きくちゃんよ。思い出してくれました?」 
「ああ、いつも舞台の真ん中で優雅に踊っていたプリマドンナの菊ちゃんか。 相変わらずスレンダーで魅力的だね、2年ぶりだね」
「やっと解ってくれたわね。青山さんは、社交ダンスやっているのでしょ」
「そうだよ。ダンスは脳細胞を活性化してくれるというし、足腰にもいいし、老人には最高にいい運動だよ。なにせ、女性フェロモンが豊富だから、精神的にも良いんだよ。ダンスを習う男性は少ないから、希少価値があり、下手でも大切にしてくれるよ。ところで、菊チャンはまだフラやっているのでしょ?」

「もうやめました。青山さんはハワイアンバンドをまだやっているのですか?」
「ご存じのように、バンドは解散したが、時たまウクレレをつま弾いているよ。ところで、フラやめて、今何しているの?」
「いまは、なんにもやっていませんの」
「なに! 菊ちゃんからフラを取ったら何にもないじゃないか? おっと、これは失敬。男性フェロモンが得られる何かをやったほうがいいよ」
「そうね。でも、あの頃は、老人ホームを慰問したり、楽しかったわ……」
「うん。あの頃は、毎年夏に山荘で合宿したり、みんな若かったしね……」

 菊ちゃんの友達らしい女性を、あまり無視することも出来ず、積もる話を打ち切って、歩き出した。どうも、私の姿勢を正したダンス・ステップを一周目で見て、私と悟ったらしい。


 更に一周してくると、彼女たちはもうすでにベンチには居なかった。
 数十メートル先を左に曲がると、菊ちゃんが、片足を引きずっている友人を気に掛けながら、ゆっくり歩いている。
 老人ホームを一緒に慰問していた時も、菊チャンは明るくてやさしくて、老人の面倒をよく見ていた。だから、みんなから慕われた。でも、なぜ彼女は、フラを辞めてしまったのだろうか。

 私は、彼女等に追いつき、すれ違いざまに、菊ちゃんの耳もとでささやいた。
「もう少し顔を上げて、胸を張って!」
「あら。お金でも、落ちていないかと思って、地面を見ているのよ」
 と、足の悪い友を気遣って、彼女が軽口をたたく。
(菊ちゃんは、いつもやさしいな)
 と愛おしく感じながら、振り返りもせず、右手を肩越しにゆっくり左右に振って、さよならの合図をする。
 彼女たちのクスクス笑う声を聞きながら、振り返るのをぐっとこらえて、手をふりつづけ、歩みを早めて立ち去った。
その後、4周、5周目と、夕焼けの木漏れ陽の中に、彼女たちの姿を探し求めたが、大きなクスノキが静かに佇ずんでいるだけであった。
 
     イラスト:Googleイラスト・フリーより

特急「しなの7号」  林 荘八郎

 3月中旬に、伊勢神宮に参拝した。翌日、長男一家が住む直江津を目指し、名古屋から中央線に乗車し、長野に向かった。

 特急「しなの」は、木曽川の上流を目指して走る。多治見を過ぎると、間もなくポツンと雪山が一つ見えた。近くの山に遮られ、隠れたり現れたりするが、その姿は青い空に映えて美しい。
 山並みが左右から木曽川を挟み込む。狭くなった川沿いに鉄道と道路が走る。鉄橋を渡るたびに、川は車窓の右へ左へと移る。そして次第に細くなっていく。


 ゆれる列車に身をゆだねて、ぼんやりと飽きず景色を眺め続ける。
 山のふもとの街道沿いに並ぶ黒い屋根の古い家、赤いトタン屋根の農作業用のような納屋が日差しを浴びている。新幹線に比べゆっくり走るおかげで、線路わきの野草まで目に入るのがいい。日本の風景も捨てたものではないと思う。


 わたしは中学・高校時代は名古屋で過ごした。
 登山やキャンプ、スキーに出かけるのは長野方面が多かったので中央線を良く利用したものだ。久しぶりの乗車なので、その頃のことを次々と思い出す。


 木曽福島駅を過ぎると、木曽川が一段と細くなり、水が澄んできた。まもなく分水嶺の筈だ。トンネルを抜けると、案の定、水の流れの向きが変わっていた。峠を越えたのだ。すると景色が一変し、遠くに北アルプスが姿を現す。

 特急「しなの」は、塩尻駅で東京方面からのわずかな乗り換え客を積み松本へ向かう。北アルプスを望む壮大な景色が進行方向の左側に広がった。
 一瞬、厳かな静寂が漂う気がした。濃い紺色の空、それを切り裂くような山頂の真っ白な雪、雲の下に拡がる黒い山。あいにく山々の稜線の多くが雲に隠れているため、雪を頂いた山頂がところどころに見えるだけだ。

「あれは乗鞍かな。もう一つは穂高かな」
 もし全山が晴れていたら、どんなに素晴らしい屏風絵になることかと思う。
 尾根のわずかな部分が見えるだけでは、わたしにはそれぞれの山を判別できない。しかし山々は美しく、そして冷たく聳えている。

 列車は松本から篠ノ井線に入り長野に向かう。再び登り続ける。「姨捨駅」を過ぎるとゆっくりと下り始める。目の前には広大な善光寺平が広がる。千曲川の流域だ。この眺望が、JR日本三大車窓の一つとされていることを後で知った。そこには雪はもう無い。


 ぶどう棚、桃畑が暖かい陽を浴び、田んぼは稲を刈り取られたままだ。間もなく耕され田植えが始まるのだろう。近くの山は稜線が黒ずんでいて、まるで淡い水墨画のようだ。


 車掌は、長野到着に備え、忘れ物の注意、乗り換えの列車案内を始めた。車内では読書もせず居眠りもせず、窓の外の目をやり物思いにふけってきた。
「あそこに『くるまや』が見えますよ」
 木曽福島駅では、名古屋の人たちに人気の蕎麦屋を見つけ、家内が教えてくれる。二十年ほど前に、その店に寄るため中央道をわざわざ降り旧道伝いに走って、立ち寄ったことがあった。たしかにあの蕎麦は美味しかった。

 細くなった木曽川を眺めては、群馬の山奥でイワナを追って渓流をさかのぼったことまでも思い出した。10匹も釣れて楽しかった。
 隣に座る家内は、次々と移り変わる景色を眺めて、自分の世界に浸り、懐かしい思い出に酔っていたのだろう。いつもと違って口数が少ない。

 今回は、あっという間の3時間だった。ローカル線はのどかだ。これからは、できれば途中下車し、もっとゆっくり旅をしてみよう。
 10時に名古屋を発った「しなの7号」は、午後1時に長野に着いた。

写真:Google写真・フリーより


一陽来復   筒井 隆一

 7年前の東日本大震災で、親しい友の、石巻に住む娘さん一家が被災した。夫婦は助かったが、3人の子供(友人の孫で、当時13歳の長女、10歳の長男、8歳の次女)が津波にのまれた。

 彼は小学校時代からの友人で、年に3~4回、地元中央線沿線で飲む、気の合う仲間だ。一度に3人の孫を失ったショックは、小さいわけがない。しかし彼も奥さんも、意識的に極めて冷静にふるまっており、私も彼と会う時には、震災の話には触れぬよう、気を遣っていた。

 お互いそのような気遣いを7年間続けていたが、先日彼からメールが入った。


「娘が石巻で被災しましたが、7年目を迎えて、いま元気に暮らしています。その姿を描いたドキュメンタリー映画が、公開されました。先日試写を見てきましたが、暗く悲しい物語ではなく、明るい話題として描かれて、好感を持ちました。時間があれば、観てください」
 と書いてある。案内をもらったので、家内と二人、新宿の映画館に出掛けた。


 映画は、宮城県石巻市、南三陸町、福島県川内村、岩手県釜石市など、震災で大きな被害を受けた地区の、代表的な家族、人物の今を取り上げた、ドキュメンタリーである。

 農業、漁業、牧畜業、花屋、飲食店経営など、10例近くが取り上げられている。特に心に残ったのは、彼の娘さん夫婦のその後の生活と、牛飼いを続けている人の考え方だった。

 娘さんの主人は東京で修行し、故郷石巻に戻った木工のプロである。長女の小学校入学を機に、家族で故郷石巻に戻り、自身の工房を開いて、遊具から家具、小物まで、さまざまな木製品を作っていた。

 震災で家も工房も、そして愛する子供たちも、一瞬に全てを失ったときには、
「生きていても地獄があるのだ」、と思ったと言う。

 同じ石巻に、語学指導の交流で来日し、震災の三年前から地元の小・中学校で英語を教える、米ヴァージニア出身の、テイラー・アンダーソンさんがいた。震災当日、勤務先の小学校で児童を避難させた後、自転車で自宅に戻る途中、津波の犠牲になった。


 震災後間もなく、彼女の両親は全米から集まった寄付金をもとに、NPO『テイラー・アンダーソン記念基金』を立ち上げた。
 二人は毎年石巻を訪れ、24歳で亡くなった娘が生きていたら何をしただろうかを考え、被災者にさまざまなサポートをしてきた。

「震災後生きてこられたのは、寄り添ってくれた人がいたから。今度は自分も寄り添う側の人間になりたい」

 震災後、仕事をする意欲を失って、悲嘆にくれていた木工職人のご主人が、仕事を再開したのは、アンダーソン夫妻と、子を失った悲しみを共有し、以後固い友情で結ばれてからである。


 アンダーソン夫妻は、テイラーさんが勤務した石巻の7つの小中学校に、『テイラー文庫』として、国際交流、異文化の理解、などをテーマにした英語の本を、毎年寄贈している。その書籍を納める木製の立派な本棚は、木工職人のご主人の作である。
 
 もう一つ心に残ったのは、福島県浪江町で、300頭余りの肉牛を預かり、飼育していた牛飼いについての話題だった。

 震災後、放射能を浴びた家畜は、殺処分するよう指示が出された。
 しかし、たまたま自分の牧場が規制線上にあったため、殺処分をまぬがれた。牛飼いであれば、牛たちを見捨てるわけにいかず、世話をし続ける。牛は大切な仲間であり、人間はその命をどう扱うかが問われている。

 経済的に全く意味のない牛を、6年以上、しかも300頭以上も飼い続けている。殺処分するのか、このまま生かし続けるのか、幾通りも正しさがあって、それは全部正しい、と彼は言う。


 映画や芝居は、作り話を演技するものだ。原作で訴えるものが、果たして正しい形で我々に伝わってくるものか、私は疑問と偏見を持っていた。
 しかし、今回の『一陽来復』は、つらい思いをした人たちの、ありのままの姿、言葉を大切に撮っている。
 この映画は、大切なものは何か、それをもう一度考えるきっかけになった。

右手の災難   遠矢 慶子

「痛い!」
 右手にきゅうりを持ち、スライサーをボールの上にのせ、シャキシャキときゅうりの薄切りを作っていた。きゅうりが半分ぐらいの長さになったとき、右手薬指の爪の横を、一緒にスライスしてしまった。

 いつもなら、ちょっと指を切ったぐらいでは、すぐ血も止まるのに、ボトボト出て止まらない。ガーゼを当て、バンドエイドで抑えたがだめだ。

 仕方なく、ゴム輪で、指の第一関節をぐるぐる巻き、手を上に挙げて血の止まるのを待った。 
 救急箱を出したが、中は消耗期限の切れた薬が少し残っているだけで、マーキュロもない。そういえば、3年前の引っ越し以来、幸い救急箱を開けることがなかった。


 翌朝、バンドエイドを外すと、また血が流れてきた。
 心配になり、朝一番に外科へ行く。木曜日で、ほとんどの医院は休診だ。診察カードを出して調べると、唯一、昨年罹った脳神経外科が、午前中だけ診察していた。
「皮膚をそいでしまったのですね」
 温厚そうな、色白の先生が、指を脱脂綿できれいに拭って、
「ゴム輪で止めるのはダメですね」
 と、注意された。
 止血の細いふわふわの糸のような綿をつけ、透明の皮膚の膜のような布を巻き付け、包帯を巻いてもらった。痛々しげだ。
「先生、スライスした皮膚を持ってきた方が良かったですか?」
「指を切り落としたときは、持って来てもらいますが、皮膚はいりませんね」ハハハと先生は笑った。
「明日、消毒にきてください」
 ひと安心して医院を後にした。
 右手の怪我は、これで四回目になる。
 40年以上前、スキーで転んで右手の小指を折った。


 30年前には、家の中で電気コードに脚を引っかけ、転んで、右手首を折った。全治2か月もかかった。
 この時は、3月の税金の申告で町役場に行き、書類が不足で、急いで家に戻った。書類を探し、早く持って行かなくてはと慌てて、電機のコードに足をひっかけ無様に転んだ。
「痛たた!痛い!」
 と言いながら、我慢して、車を運転して役場に取って帰った。

 あまり痛むので、すぐ車で整形外科へ行った。レントゲンで見ると、見事に右手首が折れていた。指先から肘まで、しっかりギブスで固定された。その時、一週間後にアメリカへ一か月行く予定がありどうしようと思案した。

 アメリカ人の友人もがっかりして、
「ギブスをつけたら大丈夫だから、空港は車椅子を使って来なさい」と、電話で命令された。荷物も持てず、書類のサインさえも書けないので、泣く泣く中止した。
 手首を折って、すぐ医者に行かなかったせいか、右手首は、今も少しずれてついてしまっている。


 3度目の災難は、3年前に右てのひらがしびれ「手根管症候群」と診断された。女性に多く、手術すれば治ると言うので、一週間入院手術した。ちょうど生命線の下を縦に切開した。抜糸の時、
「先生、生命線が伸びました」というと、
「良かったですね、長生きして下さいよ」
 と、笑っていらっしゃった。

 大事な右手を何回も痛め、使えなくなり、粗忽な自分を今ごろ反省している。

 それにしても、一センチ半のスライスした指の皮膚は、どこへ行ってしまったのだろうか。
しらす干しを入れたきゅうりもみと一緒に、食べてしまったのか。
 謎が残った。

イラスト:Googleイラスト・フリーより