元気100教室 エッセイ・オピニオン

私と酒 = 青山貴文

 夕焼け雲が、真っ赤な空に浮かんでいる。
 二階の書斎は、内壁や棚が暖色に染まり、居心地がよい。 私は、小さなグラスに赤ワインを注ぎ、それを夕陽にかざして軽く乾杯する。ワインがなければ、ブランディ、吟醸酒、ウイスキーなど、アルコールであればなんでもよい。夕暮れを愛でながら、明日の晴天を期し、何ともいえないいい気分になる。

 こんなことを書くと、私は酒飲みと思われるが、元来アルコールに弱い。母方の家系に似たのであろう。酒を飲めない祖父が、酒造りを創めて失敗した。もっともなことだと思う。

 19歳のころ、東京麻布の仙台坂の酒店に住み込んで働いていた。当時は、ビールをコップに3分の1ほど飲んで、気持ちが悪くなり吐き気をもよおした。アルコールの入った飲み物は、身体が受け付けなかった。ビールよりも冷水の方がよっぽど旨かった。店主にとっては、盗み飲みもしない良き働き手であったと思う。

 社会人になっても酒席は苦手だったが、飲むことが仕事と割り切って、うまくもない酒を飲んだ。
最初のコップ一杯のビールは水よりうまい。二杯目からは、顔が紅潮し、さらに心臓の鼓動が早くなる。
 その内、ゆったりした話声は、図太く早口になってくる。ビールの味などわからない。そうこうする内に、日本酒が運ばれて来る。同僚と差しつ差されつするうちに、酒の弱さを隠すように大声を張り上げる。
 ところが、会社を辞めてから、アルコールが入ったものなら、何でも好きになってきた。飲むほどに、小さなことはどうでもよくなってくる。部屋が乱雑であろうが、予定どおりことが進まなくても、影口を叩かれようともなんでもない。私はほんわかして、すべてを許してしまう。

 アルコールに弱いから、少し飲んでも直ぐ眠くなる。安上がりの眠り薬だ。数時間で目覚めると頭がすっきりして全てに積極的になれる。

 一方、親父は、アルコールが強かった。酒豪ではないが、酒がすこぶる好きだった。特に日本酒に目が無かった。若い頃は、ご飯に日本酒をかけて食べたというくらいだ。ビールでは酔わないと言い、もっぱら日本酒を飲んだ。独りで一升瓶をあけたこともあったという。
 ただ、酒癖が悪かった。普段、無口でもの静かであったが、酒を飲むと口数が多くなった。理屈っぽく、相手の弱いところを突いてくる。昔の些細なことを、ぐだぐだ言いながら際限なく酒を飲む。自然と、友人は寄り付かなくなる。

 小学生のころ、立川の集合住宅に住んでいた。父が飲みだすと、わたしたち家人は彼を無視した。すると、父は絶え間なく意味不明のことを大声で一人で喋る。薄壁の向こうの隣人はいたたまれなかっただろう。子供ながら、こんな父を持つことが恥ずかしかった。年中付き合わされた母の苦労は大変だったと思う。

「酒は人を狂わせる。お父さんみたいになってはいかんよ」
 と、母は、いつも私にささやいた。
 私は、酒飲みには絶対ならないと心に決めた。

 父は、終戦後、再就職した町工場で大怪我をして、両手とも義手をするようになったが、81歳まで生きた。『人生50年』と言って、いつも飲んだくれ、母を困らせていたが、持説より30年も長く生きた。
 酒の力で生き、働き、そして、私を私大に行かせてくれた。そういう意味では、酒の効用はあると信じている。
 父と同じDNAを持つ私は、会社を辞めてから酒の美味さを知った。このDNAの体質が、もっと早く出て来なかったかと恨んだものだ。

 最近は、ウイスキーでも、小さなグラスなら、顔が赤くならなくなったらしい。夕方、ウイスキーを少し飲んで階下におりていっても、誰にも気づかれない。
 これは愉快きわまりない。
「了」

これってインチではありませんか。天下り天国か=遠矢 慶子

 日本の車社会は1970年頃からで、あっという間に車優先の社会が作り上げられた。

 路面電車はほとんど消え、大きな量販店は郊外に移り、車なしの生活が出来ない地域が増えた。そんな中で、仕方なく高齢者ドライバーは増え続けた。

『83歳の女性の運転する車が歩道に突っ込み、男女二人死亡』
『87歳の男性の運転する車が、小学生の列に突っ込み男女二人死亡』

 高齢運転者の交通事故が、毎日のように報道され、社会問題になっている。 私も、2、3年前から、夫や子供たちから運転を辞めるようにうるさく言われてきた。
「大丈夫、遠出はしないし、夜は運転しないし」
と、車を手放す気にはなれなかった。

 ただ、なぜか車体のあちこちに、知らない間に擦り傷があり、そのうえ車庫入れなどで運転感覚がにぶっている。
 それでも、視野が狭くなる身体的なことと、自分の経験や技能を過信していたことは事実だ。

 こうした高齢ドライバーのデーターを参考に、最近は免許証の自主返納の促進策が叫ばれている。

 昨年、終の棲家、便利なマンションに移って、車の必要性もなくなり、55年の車の運転も終わりにした。
 免許証も、ついにあと1か月で切れてしまう。

 やはり手放し難く、返納して運転歴記録の申請をすることにする。
 免許証と写真を持って交通安全協会に行った。
「証書代1000円と写真代700円です」
「ここに写真は持ってきたのですが」
「6か月以内の写真ではないのでダメです。免許書とまったき同じですから、撮影日は古いですね。ここで撮れば700円ですが、隣のスーパーは800円とられますよ」
「免許証として使うわけでもないのに、6か月以内とはきびしいのですね。それで申請をして、これはなにに使えるのですか」
「さー、シニア割引とか・・」
 あいまいで、首を傾げる。何のために発行しているのか、まったく熟知していない。
「返却すると3万円もらえる市町村もあると聞きますが、葉山町は何か特典がありますか?」
「何もないです。ご自分の運転歴を証明するためです」
 と本音をおしえてくれた。
「マイナンバーと、どう違うのですか?」
 わたしは強い疑問をおぼえた。
「マイナンバーを持っているなら、これは必要ないですね。これはご自分の運転歴を10年間証明するだけのものです」
 事務員の話を聞いて、実にバカらしくなってきた。
 何のため1700円も出して、使えない免許を作るのか。運転歴なら自分が知っている。
「それなら申請やめます。この1000円の証書もお返しします」
 と言って、写真代とも1700円を返してもらう。

 交通安全協会のために、使えもしない免許歴証明を1700円で買うこともないと思い直し、腹が立てきった。このお金は何に使われるのだろうか。
 交通安全協会は、名前はもっともらしいが、警察署長らの定年後の就職口のために作り、運転免許の申請の仕事をしている。かれらの高額な給料にまわるのだろうか。
「免許証自主返納という制度を作って、運転を辞めようとする老人にたちに、免許履歴をちらつかせ、最後まで、お金を取ろうとしている。それが見えみえだ。

 金取り仕事の「交通安全協会」だ。言い過ぎだろうか。これが交通行政か、考えるほどに腹立たしくなってきた。

 免許証は、これまで、身分証明の代わりに使われてきた。生活習慣になっている。マイナンバーははそれに代わる身分証明証だ。国民にまだ浸透していない。
 年配主者は新規なもの、個人情報にたいする警戒心から、その申請に躊躇(ちゅうちょ)している。マイナンバーが浸透まで、数年はかかるだろう。その狭間を狙った、ずるい行政のやり方だ。

 交通安全協会で、『マイマンバーは身分証になります。それでも、運転履歴の証書を必要としていますか』 と親切なマニュアルをつくれば、申請者は半減以下になるだろう。解っていながらやらない。悪質とはいえないにしろ、ちょっとひどすぎではありませんか。
 警察行政のお偉いさん。年金生活者の立場、弱い者の立場に立ってちょうだい。
  
 政府は、いまや高齢者の免許返納の課題視野にして、ライドシェア(自家用有償旅客運送)とか、完全自動運転の規制緩和をすすめている。また、地域ごとの対策も考えられているが、実用化には、時間がかかりそうだ。

 私はこのところ期限の切れた免許証をみせて、美術館の割引を受けているし、映画館のシニア割引の証明にもなっている。
 写真がついているし、住所、年齢と身分を証明するには充分だ。65歳以上、70歳以上の証明は、古い免許証でも、生年月日がわかるから有効だ。

 いま持っている免許証に『免許・返納済み』とハンコを押せば、その手間もお金もかからないはずだ。新規に作る1700円など、まったく必要もない。それが親身な行政だとおもう。

 お役人の天下り対策は、もういい加減やめにしましょう。弱者や高年齢者を敵に回さないでください。

  イラスト=Googleイラストフリーより

新年に想う = 青山貴文

 庭の南天の赤い実がひっそりと輝いている。

 元日の朝は何かが違う。なぜか身と心が引き締まる。庭木に飛んでくる雀たちの鳴き声も、ガラス戸の居間を覗きながら通り過ぎる野良猫の顔も、いつもとは異なるように感じられる。

 ふだんより丹念に化粧をした妻と、お神酒を飲み交わし、お雑煮を頂きながら思いを馳せる。

 昨秋はスピード違反で捕まり、さらに免許証の有効期限が切れていることが発覚して、ひどい目にあった。
 今年は小さな約束事も忘れないように、日記帳の片隅に前もって記帳しよう。その日が来れば、必然的に判る仕組みだ。これは、昨年の後半から励行し、効果をあげている。何しろ、記憶力の減退は、自分ながら恐ろしい。

 しかしながら、記憶が極端に薄れていくなかで、心に響くことはしっかり覚えているものだ。数年前に読んだ本の一節だが、忘れっぽくなった脳裏の隅にこびりついて、何かの拍子に出てくる。紙面に記すにはお粗末であるが、読者諸氏には知らせないわけにはいかない。
 私はそんな一途な性格がある。

 その一節とは、次のような一齣(ひとこま)だ。
「結婚披露宴には祝辞がある。面白くもないスピーチが延々と続くのはお互い閉口する。『スカートとスピーチは短いほうがよい』そういう気のきいたことを言った人があった。『いやどちらも、なければもっといい』というけしからんことをつぶやいた紳士がいる」
 このごろの私は、そのけしからん紳士に似てきた。

 妻が、なにかというと、
「あなたは品性がない」
 と言うが、実に的を得ている。

 今年は、昨年以上に、自分とはいかなるものか、大いに描こうとおもっている。しかし、生真面目なものはどうも書けない。
「あと十年もすると、エロ爺となっている」
 時たまやって来る明るい嘘をつけない保険勧誘員の立花さんに、私の行く末を話すと、にこにこして決して否定などしない。                
 

緑の歓談 = 青山貴文

 梅雨の晴れ間に広がる青空に、白い雲がわずかに浮かんでいる。久しぶりの上天気だ。おまけに、この時期には考えられない、高原を吹くような乾いた風が肌に心地よい。

 玄関の呼び鈴で出てみると、大手証券会社の高木耕輔君で、20歳代の若者だ。数日前に、きょうの来意の連絡があった。

 私は数年前から、異分野の若い方と、いろいろ話す機会を意図的に作ってきた。わが家にやってくる営業マンの中から、元気で馬の合いそうな数人の方に、
「私は技術屋ですが、現役のころ営業にでていたんです。営業マンは、止まり木をつくるとよいと先輩から教わり、当時から、時間ができると、気軽に訪問できる顧客を作るように心がけていたものです。会社を辞めても、止まり木だった方々との付き合いが長く、いまもってメール交換などしているんですよ」
「止まり木ですか」
「そうです。その止まり木の一つに、わたしを考えてください」
 なにかにつけて、そんな風に話している。

 そんな経緯もあって、数人の男女の若い営業マンが折を見て、わが家にやってくる。むろん、私にすれば、居ながらにして、最新事情を聴ける情報網となる。
 高木君にたいしても、
「金融界にいる方と話すと、活字を読まなくても、いろいろのことがわかり、すごく勉強になります。夏の暑い日や冬の寒い日には、あるいは困ったことがあったら、わが家に立ち寄りなさい。お茶でも飲んで、語らいましょう」
 と事あるごとに誘ってきた。

 きょうの高木君は大きな鞄をさげ、力なく肩をおとしていた。高木君は、このところの株安で、苦しい立場にあるらしい。お客から、きっと、いろいろ苦言をいわれているのであろう。株など、また上がってくるものだ。
 そう言いたいところだが、彼の顔の表情からしても、きょうはこの話題をしないことにきめた。

 ひとまず、わが家の南向きの客間に案内する。軒下近く植えた楓の樹が、大きく成長して、葉影を伸ばし、6畳間の客間はわりにうす暗い。
(高木君を元気づけるには相応しくないな)
 そう思った私は、障子戸を開け、さらにガラス戸も開けた。すると、網戸から光とさわやかな風が室内に入ってきた。
 
 ある考えが浮かんだ。

「きょうは残念ながら、話好きの妻が出かけていませんから、庭のキャンピングといきましょうか。この縁側から下駄を履いて、あの楓のそばの、椅子に腰かけて待っていてください」
 と芝庭の丸テーブルを指した。
 彼はすなおに踏み台の下駄を履いていた。

 私は、2階の書斎にある登山リュックから、携帯ガスボンベと取手のついた小さなポットを取りだした。その上で、水を入れた2リットル容器を階下におろす。片や、インスタントコーヒー瓶や2つのカップ、スプーンなども、お盆に載せて庭のテーブルに運んだ。

 ガスボンベに火をつけてから、ポットに水を注ぎ、湯を沸かしはじめた。この間に、台所の冷蔵庫からチョコレートを持ってきて、彼に勧めた。そして、2つのカップには、好みを訊いてインスタントコーヒを入れ、お湯を注ぐ。
「コーヒーには、チョコレートがあうんですよ」
 緑の濃淡の庭園で、ふたりして午後の陽射しをたのしむ。狭い庭だけれど、きょうの高木君にはきっと心休まる場所だろう。

 コーヒーを飲む一方で、時折り、椅子の背板ごとふんぞり返り、空を仰ぎみる。青い空、白い雲などがまぶしい。
「ここは、最高に気持ちがよいですね」
 彼は上着を脱ぎ、手足を伸ばし、周囲に目をやっている。
 楓の緑葉が陽光に当り、輝いている。それにも、こころを止めているようだ。


 若い頃、私はヨーロッパで、複写機用マグロールという磁石製品を拡販し、ヨーロッパ全土をくまなく飛び回っていた。

 顧客の中に、ディベロップ社という中堅複写機メーカーが南ドイツミュンヘンの郊外にあった。その副社長兼技術部長の家に、私はなんどか招ねかれたものだ。副社長だから、大邸宅かと思いきや、わが家の狭い庭とほぼ同じ広さだった。
 そこで、副社長は携帯ボンベでお湯をわかし、歓待してくれた。その奥様も語らいに加わっていた。いまとなれば、仕事の話などはすっかり忘れたが、歓談の光景だけは鮮明におぼえている。

 私は、高木君に、その体験談をゆっくり話して聞かせた。
「ヨーロッパのひとたちは、仕事もさることながら、生活を楽しんでいます。豪華なレストランに招かれるよりも、家族との歓談を考えてくれる顧客の方がうれしかった。いつか、あなたも海外にいくことがあるでしょう。私に似た体験もきっとするでしょう」
 こんな将来の話が、高木君の心にひびいたのか、彼の顔には、なにかふっきれた晴れやかさが戻ってきた。 

 この青年はいずれ結婚し、子供を持ち、いろいろな体験し、成長していくだろう。やがて、ある日、ふと、きょうの庭の緑陰の風景を思い出すかもしれない。そして、別の方法にしろ、年若い人にたいして、止まり木の場を提供する。そうなってくれると、うれしい。
 私はいつしか彼にそんな期待をしていた。


何時に帰る? = 遠矢 慶子

 今日も私はお出かけだ。
 夫は、月に一回の病院と近くの散歩以外、ほとんど出かけることがない。
 我が家では結婚以来、出かけるときは、お互いに玄関まで見送る習慣がある。
「勝手に出ますから見送らないでください」というのに、玄関までくる。
 女性は、出かけるまでに着ていく洋服で迷い、持つバッグに迷い、やっと玄関に出ると、どの靴にしようかと、またあれこれ迷う。その間、夫は突立って待っている。

 今日もやっと決めて出ようと、玄関のドアーを開けると、さーっと冷たいが爽やかな風が入ってきた。
(外は少し寒そう、やはりショールを持って行こうかな)と、あわてて靴を脱ぎ部屋に取って返す。
「行ってきます」
「何時に帰る?」
「分かりません」
「遅くなる時は電話して」
「‥‥‥」
 夫の現役時代、私も玄関で夫を送るとき必ず
「何時にお帰りですか?」と聞いていた。
「何時になるか分からない!」
 それが夫のセリフだった。


 あの頃、朝は10時か11時に家を出て、帰宅はほとんど日にちが変わる12時過ぎだった。

 私は、学校に子供二人を送り出すので、五時半に起きる。早朝、目覚ましが鳴るとたまらない、心臓によくないと文句を言う。
 一方、夜中の1時、2時に、夫が寝室に入ってきて明かりをつけると、いやでも私は目が覚めてしまう。
 そのまままた寝られればよいが、寝そびれる事も度々で、この時間のずれで、お互いに不機嫌になることもあった。

 30年前に家の建て替えで、夫婦別室にし、やっと解決した。
 それ以来、夜は一人で好きなだけ音楽を聴いたり、本を読んだり、自分だけの時間を堪能できるようになった。
 夫婦別室にすると、ベッドメーキングはそれぞれ自分でするようになり、楽にもなった。
 夫は無頓着で、起きた時の布団をはいだまま、その上にパジャマが片袖は内側に入って、とぐろを巻いて脱ぎ捨ててある。
 もう仕事もない暇な毎日で、私は見て見ぬふりをして、手を貸さないでいる。

 友人夫婦10人でクルージングに行ったとき、大型船のキャビンに入ると、ドーンと大きなダブルベッドが真ん中においてあった。
「大変! ダブルベッドよ、どうする!」
 妻たちは大騒ぎをした。
 慌ててメイドを呼ぶと、ダブルベッドを真ん中から二つに離し、サイドテーブルを両側に置いて、ツインに変えてくれた。
 私たちは口をそろえて、「良かったーどうしようかと思った」

 メイドのいうのには、外国の方たちは、ツインにすると怒り騒ぎます。外国の夫婦の在り方と日本の夫婦の違いをまざまざと知った旅だった。
 昔からタタミとフトンの生活をしてきた日本人は、子供を真ん中に、川の字に寝るのが、幸せな家族の象徴とされてきた。

 今夜は、オペラでも聴きながら、クリムトの画集でも楽しもう。
 隣室の夫は、またテレビをつけっぱなしで、グーグー寝ていることだろう。
 

「ミュゼ・イマジネール」のこと = 桑田 冨三子

 1988年に学生時代の仲間4人で会社をつくった。
 ミュゼ・イマジネール有限会社である。定款の目的には、商業デザインの企画、制作および販売、文学、美術および音楽関係の企画、制作、出版、それらに付帯する一切の事業と届け出た。

 私たちのやりたい子どもの本に関する活動のためには、組織にすることが好都合と考えたからである。
 言い出しっぺの島多代の家の、あまり広い部屋ではないが、古い英国調の応接間を事務所にした。折りたたみドアを引くと、隣の部屋は、天井まで届く本棚が、3方向ぐるりと囲む図書室である。真ん中に4人座りの丸テーブルを置き、これがミュゼの絵本資料室となった。

 本棚には世界から集められた貴重な古い本や絵本が3000冊ほど並んでおり、東ドイツ出版で、クレムケの挿絵のある「デカメロン」や、めったに見られない稀覯本もあった。故辻邦生氏が、これらを懐かしんで、よく読みにみえていた。

 私たちはそこで、子供の本の歴史をたどり、研究しながら、さまざまな企画を考え、実行してきた。
 思い出深いのは、1992年にベルリンで開かれた国際児童図書評議会に参加した時である。東ドイツ開催が決まっていたのに、思いがけなく1990年に東西ドイツが統一された。長い間、分離されていた東と西のドイツが共に、会を主宰することになった。

 政治的には、西が、東を吸収する形だったが、文化的には、オリンピック選手の体力の差が顕著だったように、本の世界にも政府が大きく力を注いだ東が、圧倒的に優位だったのである。
 崩れたベルリンの壁を越えて、東と西を行き来した私たちは、日本にいては、とてもわからない東西のわだかまりを強く感じた。

 ベルリンの、元日本大使館だった建物が日独センターになっていた。そこで日独の児童文学シンポジウムが行われ、両国の専門家の報告があり、詩の朗読などがあった。
 日本からは、詩人で作家の阪田寛夫氏や、画家の小野かおる氏、児童文学者の猪熊葉子氏なども参加されていた。

 そのほか、印象に残っている事業は、ミュゼの昔の本「マザー・グース」を使って、港区の小学校で低学年の英語教室を開いたり、ベルリンの日独センターで日本の絵本展を開くなど、いろいろな試みをした。
 良い絵本には、画家が丹精を込めて描いた絵がある。子どもは、その絵の素晴らしさをちゃんと見分ける力を持っている。

 絵本の歴史を辿りながら、ミュゼの本の中にある魅力的な絵を抜き出して、解説付きのカレンダーをつくり、毎年、財団法人東京子ども図書館から販売するようになった。
 これがそのまま絵本の歴史書として役に立つから、読聞かせをするお母さん達の間でたいそう好評になり、年末には売り切れるほどになった。

 このカレンダーの2011年度版は、ゲルトルート・カスパーリの「小さな子供のための面白絵本」と決まった。


 カスパーリは1873年にドイツ東部で生まれ、1948年ドレスデン郊外で生涯を終えた女流画家である。
 子ども向け絵葉書デザインを皮切りに、子どもの生活環境を丹念に描き、人気が出て50冊以上の絵本を描いた。詩や昔話、教科書、工作や絵の手引書を描き、ドイツの大人、子どもに広く親しまれた人である。

 カスパーリは、子どもを一人の人間として観察し、子どもが見つけたものを創造的な営みへと導き、教条主義からこどもを解放して、20世紀の新しい教育の始まりとなった。カスパーリの絵は明るい灰色、薄茶、又は乳白色のフラットな背景で、遠近法を用いずに、くっきりとした輪郭に澄んだ色で描かれ、世紀末のひとつの典型である。

 絵本がドイツ語であるから翻訳は私の役目となった。
 言葉は、子ども向けだから易しく、詩のように短い。難しかったのは文字の解読であった。出版は1907年で、文字は現在のドイツでは使わない、ユーゲント・シュティール風の格好いい装飾文字である。
 現代の、そう若くもないドイツ人に見せても、両手を広げて首をすくめるだけで、すんなり読める人はほとんどいない。日本でいえば、巻紙に変体仮名でしたためた優雅な文字のごとく、簡単には読むことができなかった。
 正直言って翻訳より、この字を読み解くほうがずっとむつかしかった。


 ミュゼ・イマジネール有限会は、今年5月で終わりにした。28年間だった。すべてのものには終わりがある。世の習いだ。
 でも、ミュゼの本たちに会いたくなったなら、ネットの「絵本ギャラリー国会図書館国際子ども図書館」を開けばよい。
「不思議な国のアリス」の初版本(1865年)でも「ホーンブック」でも、全ページが姿を現してくれる。

子供の善意 = 奥田 和美

 社会教育館の窓口に、小学4~5年生の女の子が二人やって来た。もじもじしながら、
「どっちが言う?」
「あたし? あんたが言いなよ」
「じゃあ、一緒に言おうか。せーの」
「スズメが車に轢かれて血だらけになっています」
「あら、そう。どこですか?」
 私はビニール手袋をして、トイレットペーパーと箒とチリ取りを持って外に出た。

 社会教育館は区の施設で、会議や勉強会、体操やダンスなどの会場を提供している。子供たちは、ここの人ならなんとかしてくれると思ったのだろう。二人は自転車に乗って、
「こっちです」
 とスイスイ先を行く。

(えっ、すぐそばじゃないの?)
 私は走って追いかける。この建物の目の前の出来事かと思っていたのだ。一ブロック先の信号のあるところで止まった。
「ここです」
 見ると、スズメはぺちゃんこにつぶれていて、延し烏賊のようになっていた。何の鳥だかわからない。尾羽だけが形を残していた。
 血は乾いていて地面に染みついている。

 私はトイレットペーパーを丸めて、道路にひっついた死骸をこすり取る。気持ち良いものではない。子供たちは、
「バイクにやられたんだよね、きっと」
「車じゃない? かわいそう」
 片付け終わって、
「これでよし。知らせてくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
 私は心とは裏腹な言葉を言っていた。


 以前、車を運転する人に聞いたことがある。
「道路で犬や猫が轢かれると、一時間ぐらいして帰りに見ると、カラカラになっているよ。カラカラ」
 そうなのだ。結局、埃になってしまうのだ。
夜、娘にこの話をしたら、
「その子たちにちゃんと話せばよかったじゃない。どうせゴミ箱に捨てたんでしょう?」
「そうだけど、放っておけないでしょう。あの子たちは善意で言ってきたのだから。好いことをしたと思っているのよ」
 社会教育館の同僚も私と同じ意見だった。
 車に轢かれた鳥はもう助からない。でも、子供たちの善意を無下に断るわけにはいかなかった。

箸と私 = 遠矢 慶子

 夕食の用意をし、皿小鉢をテーブルに並べていた。
 箸、スプーン、フォークを入れた細長いかごの中から、いつものように二人の箸を取り出す。なぜか私の箸が片一方しかない。
「私の箸、知りません?」
「そんなもの知るわけないよ」と、夫はそっけなかった。

 流しの周りを探すが見当たらない。食事もさめるし、他の箸を使い、探すのをやめ食事にした。使い慣れた箸がないと、食事の味まで違って美味しくない。
 食後もあちこちの引き出しを開けて、探し回ったが、見当たらない。


 生まれて百日目に、お食い初めのお茶碗と箸を揃えてもらう。一生ごはんを食べ続けて行けるようにと念ずる、切なる親心というものか。この時から箸との付き合いが始まった。
 一方、子供のころ、親から箸の持ち方を度々注意され、うっとうしく思った覚えもある。食事のしつけとして、箸の持ち方、使い方とうるさかったが、それも慣れるとこんな便利で単純なものはない。

 一番強く叱られたのは、姉とひとつのものを同時に箸でつまんで挟みあうことだった。お葬式のとき、二人で挟みあって骨を拾う習わしが、家庭の食事でそれをすると、エンギが悪いという。
 日本伝統の箸のしきたりは、感心することがなんと多いことか。

 菜箸、盛り付け箸、柳橋、割りばし、利久箸、さまざまの考えから材料も選ばれ、形が決められている。
 10年以上も前、絵を描く仲間と一泊のスケッチ旅行に湯河原へ行った。帰る日の朝、宿の売店で手作りの箸が十膳ばかり置いてあるのが目についた。
 四角にカットされた黒い地に、茶色い線が流れるように所々に入った、折れそうなほど極端に細い。多分、煤竹で作ったものではないか。

 少し高かったが、何故かその地味で華奢な箸に惹かれ、自分用に一膳買った。
 その細さのゆえか、箸を持つ指まで、上のほうを持って品よく優雅に食べるようになったと思う。箸によってこんなに動作から味まで変わるとは思ってもいなかった。箸さばきも良く、野菜やお魚を楽に切ることができる。


 箸の紛失から10日も経ち、やはりあの箸の美味しさに代わるものはないので、また湯河原へ買いに行こうと思った。
 そんなある日
「食器戸棚と壁の間に箸らしいものがあるよ」
 と、夫が懐中電灯を持って隙間を照らした。長い菜箸で細い隙間を手前にかくと、ほこりまみれの黒い棒が一本出てきた。
「あった!大事な箸が!」
 綺麗に洗い、大事にとってあったもう片方とやっと揃い、ほっとした。

 便利さと清潔さを備えた日本の箸の文化は、今や世界に普及してきた。最近は、日本人顔負けの、箸を達者に使う外国人を見かける。そんな外国人に対して、何故かぐっと親しみを持つ。半面、箸の持ち方、食べ方を知らない日本の若者をテレビで見ると、親のしつけを疑いたくなる。

 箸は、敏感な口のどこにもさわらずに、適量の食べ物を巧妙に口に運んでくれる。ごはんひとつぶ、豆ひとつぶでも、容易に口に入れてくれる。これは箸以外では出来ない技だ。
 食事は命につながる大事なことだが、加えて、いかにおいしく食べるかが最大の楽しみだ。箸の使命は大きい。

 何十年と続けてきた箸を持つ毎日の生活、私にとって箸は道具というより手の一部となっている。
今日も、あつあつの湯気の上る白いごはんを、ふんわりとお茶わんに盛って、愛用の箸を使う。もぐもぐと嚙むと、甘い香りが口いっぱいに広がった。

                              了

和服を着た西暦 = 金田 絢子

 先日、『志ん生のいる風景』(文春文庫、矢野誠一著)を読んだ。
 殊にメディアで、事件・事柄を示すのに、西暦を使う風潮を好まない私は、冒頭の一節に違和感を覚えた。
「古今亭志ん生が逝った一九七三年(昭和48)九月十一日、僕は、早めの昼食をとって家を出た」
“一九七三年”と漢数字で記し、括弧して“昭和48”とは何ぞや。志ん生を語るのに、なぜ西暦か。

 全編を通して「西暦(年号)」の方式がとられている。苛立ちながらも、筆者が熱っぽく語るのに引き込まれて読み切った。中でも、火焔太鼓についての考察は、志ん生の語り口の見事さを伝え、繰り返し読みたくなる。

 何と志ん生は、明治四十三年から昭和十四年にかけて、十六回も芸名を変えている。十六行にわたる改名年表は「一九一〇 明43」「一九二七 昭2」と、例のスタイルを簡略化したものになっている。
 あの世で志ん生さん
「このごろはてえと、西洋のこよみをつかうおかた(……)が多いようでござんすなあ。あたしなんざあ、ちんぷんかんぷんで。何しろ、西も東もわからない若輩でして」
 なんて、満座を沸かしていることだろう。

「志ん生」を読んだ同じころ新聞に、加地伸行氏(立命館大学フェロー)の、西暦をテーマにした文章が載った。
「世界は西暦だけで動いてはいない。キリスト教の暦は、西欧キリスト教諸国がアジアを侵略して広めて来たもの。自分はキリスト教徒ではないから、年号をつかう。このごろでは、まず西暦で示すのが普通になってきているが、これでいいのか」
 といった内容である。
 同感だが、時流はいかんともし難く、今や日本は、西暦に侵略されつつある。それにしてもキリスト教の暦をいとも簡単に受け入れ、死ぬと誰もが“天国とやら”へ行くらしい日本て、おかしな国だと思う。

 少なくとも「志ん生のいる風景」の筆者は、文中一切“芸”を用いず“藝”に徹するダンディズムの人である。たとい括弧つきでも、年号が記されてあるのは、粋なはからいと見るのが妥当だろう。
 絶妙な間と、独特の語り口で人々を魅了する噺家志ん生は、明治・大正・昭和を生き、生涯洋服というもの(……)を着なかった。
 くどいようだが、西暦でものを考えたりもしなかったと私は思う。
 身のまわりのことは元より、マネージャーとして志ん生を支えた、娘の美津子さんが、いつも和服だったという。何がなし、いい話である。
 このあたりで、厄介な「西暦」にはお引き取り願って、今夜も『火焔太鼓』に酔い痴れようか。

ふる里を捨てた人 = 鈴木 晃

 2年前の3月10日から、私の家の仏壇には、友人の遺影が置かれている。
 それは今から41年前のロイヤル・メルボルンゴルフクラブで知り合ったビル・イトウ氏への追悼でもある。
 私は戦時中に田舎に疎開していたので、東京の3月10日は体験しなかった。だが、イトウ氏が味わった東京大空襲の悲劇は、私への「戒め」として書き残したいと思っていた。


 知り合った当時のイトウ氏は、オーストラリアのカンタス航空で営業マンとして働いていた。初対面の時に、彼はビルと名乗り、日本人ばなれした英語を話すので、てっきりオーストリア生まれの二世だと思っていた。すると、日本生まれの、アメリカ育ちだった。
 二世ではなかった。


 彼からゴルフに誘われた時、私のボールが右に左に行くのを見ていたイトウ氏が発した一言が、私の癇(しゃく)に障った。
「スズキさん達、駐在員は『ノン気』にゴルフがやれていいですね」
 という皮肉めいた一言だった。
 こちらは下手なりに一生懸命クラブを振り回しているのに、ノン気だと言われてムカついた私は、
「何か言いました?」
 と彼に突かかったこ。それがイトウ氏の経歴を聞くキッカケだった。


 イトウ氏は71年前の昭和20年3月10日、14歳で旧制の都立七中(現隅田川高校)の2年生だった。

 住まいは下町の向島で、東京大空襲の日は、真夜中にたたき起こされた。防空頭巾を被せられて、両親と妹と隅田川に架かる言問橋に向かって逃げた。
 橋の下に避難してやっと焼夷弾から逃げられたと思ったら、橋の下まで炎が吹き込んできたので居たたまれず、すこし上流の桜橋の方に逃げようと土手に上がった。大勢の逃げ惑う人達の群れに巻き込まれ、気が付いた時には親子四人が散り散りになっていた。

 寒い夜明けだったが、火がおさまったので、早く家族を見つけなければ、と言問橋の方に土手を走っていると、父親は焼夷弾の直撃で即死したらしく、その傍らに母親と妹が重なるように焼死体になっているのを見つけた。
 この時の地獄絵図は目に焼き付いてしまい、一人ぽっちになったという孤独感で泣き喚いたことを覚えている。
 家も焼かれ、それからの2年間ぐらいは、上野の地下道をねぐらにして、来る日も来る日も残飯あさりの毎日だった。
 時には、「ガキはとっとと失せろ」と怒鳴られたり、「ドロボーネコはあっちに行け」と追い立てられたりと、世の中がいかに世知辛いかを嫌というほど思い知らされた。二度と思い出したくない悲惨な日々だったと当時の地獄のような有様を語ってくれた。
 私は墨田出身だったが、聴きながら、2歳年下で疎開していてよかったと思った。


 そんなある日、イトウ少年は食べものをタダでくれる教会が湯島にあるというチラシを拾い、その教会に通うようになった。
 アメリカ人牧師と知り合い、彼の紹介でデンバーの篤志家と養子縁組ができ、15歳でアメリカのデンバーに渡り、大学を卒業するまで養父母に優しく面倒を見てもらった。とこれまでの半生を話してくれた。

 恐らく彼が過ごした50年代のデンバーでは、食べる苦労はしなかったが、人種差別的な嫌がらせなどがあり、一人で生きて行く根性(ガッツ)がなければ、アメリカでは生きていけないと自覚したそうだ。
 そんな時に出会った駐在員の人達は、みんな親方日の丸のノン気な人達ばかりだったそうだ。だから発した彼の一言だった。

 彼は大学を卒業して就職する時に、このままアメリカで暮らそうと思った。だが、両親と妹を殺したアメリカはどうしても好きになれなかった。自分を育ててくれたアメリカ人はやさしく恩があると思い、あれこれ悩んだ末に、養父母に英語を活かせるオーストラリアへ移民(アメリカ籍を抜く)として行きたいと相談したところ、
「これからはあなたの人生だから」
 と快くオーストラリアへ送り出してくれた。
 そんなアメリカ人養父母には、いくら感謝してもしきれない思いがあると、長年、心に秘めていた思いを一気に話してくれた。私も聴きながら一緒に泣けてしまった。
 とても辛い話だったので、それ以上のことは聞けなかった。


 10代という思春期に、心に受けた深い傷は、生涯消えないものだと思い知らされたひと時でもあった。


 彼とは同じ下町育ちだったことと、2歳違いの同世代ということで気が合い、海外生活のイロハをいろいろと教えてもらえる心強い味方になってくれた。
 スカイツリーが完成した時に、ふる里の下町もこんなに変わったから、と声を掛けた。だが、イトウ氏は病に倒れており、残念ながら来日はできなかった。
 
 イトウ氏が亡くなったという知らせを聞いて、私はすぐに飛んで行った。だけど、共同墓地にある四角のプレートに合掌することしかできなかった。
 それが私の3月10日のお焼香になっている。