元気100教室 エッセイ・オピニオン

見かけだおし = 森田 多加子

「家事の中でなにが一番好き?」
 と、問われて考えた。
 どれもたいして楽しいとは思わないが、食べることが大好きなので、積極的ではないが、まあ、料理かなと思う。
 しかし料理は体調、気分が大いに影響する。雑誌やネットで美味しそうな盛り付けを見て「この料理を作りたい!」となると、大体間違いなく美味しいものができる。
 気分が乗らない時の料理の味は「いわずもがな」だ。最近はこの「いわずもがな」が多く、毎回深く反省するがどうしようもない。

 40代のころは、陶器に凝っていた。気に入ったものが手にはいると、このお皿にはこんな料理を載せたい、小鉢にはあの料理を盛りたいと考える。
 レストランでコース料理を何度か頂くうちに、私もこんな料理で人を招待したいと思うようになった。コース用のセットを買った。
 友人たちに聞いてみた。
「コース料理をするけど、食べに来る?」
「へー、そんなのやるの? 行くにきまってるでしょ」
 そこで張り切った。

 まずオードブルだ。生ハムがまだちょっと高級なイメージのころだ。レストランでも前菜に出ることが多かった。真似をしてメロンに巻く。
 スープはズッキーニのポタージュ。デザートはイチジクか梨の赤ワイン煮。それにサラダ。だいたいこれだけは決まるがメイン料理に毎回苦心をする。フルコースとはいかないが、肉を主にして、簡単で美味しく「見栄えの良い」ものがほしい。

 一番簡単なのがローストビーフだ。奮発した上等の肉の塊に、たっぷりの香辛料をすり込み、フライパンで、焼き過ぎないように注意しながら転がす。様子を見てアルミフォイルに包み、5分ほど冷凍室で急激に冷やす。
 その後冷蔵庫へ移動させる。これでオシマイ。これがメイン料理になるかどうかわからないが、肉料理なので勝手にメインにする。私流の手抜きだが、おいしいと思う自慢料理なのだ。

 友人たちは、招ばれているのだから、間違っても「不味い」とは言わない。たっぷりお世辞の言葉を出してくれる。私はそれが実際の評価以上の誉め言葉であるとわかっていながらも、うれしくて仕方がない。

 和食もやってみたくなって、会席膳を4人分買った。洋食と同じく「入れ物で誤魔化せる」意味合いもある。
 茶道をやっていたので、懐石料理を少し教わっていた。これは、本格的にやると、その細かい作業のむつかしさと、金銭的にも大変なので、私の作るのは、「もどき」もいいところだ。
 しかし、普段のお惣菜を「ちょこっと」この膳に載せるだけで、見かけは高級和食に見える……、という勝手な思いだったと思う。

 ある日、神戸から姉が来るという。友人も一緒だそうだ。私は前日から準備をして、この会席膳に盛り付け、自信をもって出した。
 想像通りに
「まあ、きれい。和食の専門店に行ったよう」
 と、姉の友人は、盛んにほめてくれる。姉もうれしそうだ。私は非常に満足だった。
 ところがのちになって姉の本心がわかった。下の妹に言ったそうだ。
「森田家の料理はきれいでいいけど、私はあれでは全然もの足りないわ。あんなにきれいに盛りつけなくていいから、もう少したっぷり頂きたい」
 そういえば、姉の料理は豪快だ。そして味もいい。

 まあ、人間もそうだが、料理も見かけ倒しは、すぐ看破される。おおいに考えさせられた出来事だった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

もういいわ = 青山貴文

 松の大樹が、校内の歩道のあちこちに葉影を作っている。松の緑と赤レンガの建物がうまく調和して絵のようだ。
 白いユニフォームの十数人の学生たちが、萌黄(もえぎ)色の芝生の上で、大声を出しあって白球を追っている。

「もう一度、若い頃にもどってみたいな」
 と、私は思わず言葉を発し、並んで歩いている妻に同意を求めると、
「私は、もういいわ」
 と、妻は気のない返事をする。
(そうだろうな。品性が少し欠けるが理解力のある亭主を持ったんだからな)とほくそ笑んでいると、
「これから、また同じ苦労するのはごめんだわ」
 と、妻は私の思いをひっくり返し、冷めたことをいう。
(何を言うか)
 と、妻を無視して数歩先を歩くと、
「ご両親を看ながら、出来のあまり良くない二人の子どもを育ててきたのよ。あんな苦労するのは一回で十分だわ」
 と、昔のことをチクリと云う。

 妻は私の肺気腫の父を看取り、さらに認知症気味となった母や子供達のことで、いろいろ苦労をしてきた。
 親しい友から、
「お前のかみさんは偉いよ。今どき、親の面倒を看てくれる奥さんは少ないぞ。大切にしろよ」
 とよくいわれたものだ。

 だが、あのころは、私も一緒にいろいろと手を貸してきたはずだ。ただ、会社に通っている頃は、単身赴任も多く、両親と二人の子供の面倒を、妻一人に任せきりになってしまった。
 これが、いまだに妻に頭が上がらないわけだ。

 今日、わたしたちは熊谷に所在する立正大学のキャンバスに公開講座『ゆとりある社会の実現と労働時間』を聞きにきている。
 この講座は、聴講生の数は500人くらいで、年2回、春秋に開かれている。毎回5~6週間で、土曜日午後1時から2時間余りの授業だ。
 すでに、通い出して7年になる。ほとんど出席しているので、申し込まなくても招待状が来る。

 太っ腹な妻は教授の講義を聞きながら、私の隣で堂々と顔を机に伏せて数分の仮眠を取っている。これだから諸々の面倒をみて来れたのであろう。
 私はといえば、いつもの聴講スタイルで顔を真っすぐに向け、目を瞑って聞きながら、いろいろ考えたり、数秒仮眠したりする。頭がコクリと落ちないのが、私の特技だ。

(学生時代は、アルバイトで明け暮れた。やはりもう一度若返って、クラブ活動をおもいっきりやってみたい)
 講義は、そっちのけで、先ほどの妻との会話を反芻する。

(いまさら若くなれないが、今できることはまだまだある。思いっきりやってやろう)
 そう気を取り直し、ちょっと薄目を開けて教授の顔やパネルを観る。すぐまた目を閉じ講義に耳を傾ける。わたしは目を閉じて聞くほうが、目が疲れず、その上よく理解ができるのだ。
妻は、仮眠から覚め、スッキリした顔て講義に集中している。

 土曜の午後の学舎は静かで、講義は続く。
 似たもの夫婦は、共通の新しい情報を仕入れ、その話題で話し合う。そのことが好きだ。さらに、若々しいキャンパスの雰囲気も嬉しい。
 講義後、キャンパスを散策して、若い学生たちから元気をもらおう。
 熊谷に立正大学があってよかった。

                          イラスト:Googleイラスト・フリーより


忖度の今昔 = 鈴木 晃

 昭和世代の私は、忖度(SONTAKU)を「気配り」と理解していた。それも日本人的妥協文化だと思って行動してきた。
 例えば、オーストラリア五州のステートマネイジャーたちに、会社への忠誠心を上げてもらう手段として、英語ではうまく言えなかったので、マネイジャーの奥さんの誕生日に豪華な花のプレゼントを考えた。
 たまたまこれが当たり、海外子会社で、初めて配当金を払える会社にすることが出来た。

 巨人軍の四番打者だった松井選手が、ニューヨーク・ヤンキースに行って、「フォア・ザ・テイーム」をモットーに活躍したのも、日本人的な忖度だと思っていた。

 森友学園問題で、忖度という日本語が、「気配り「」という解釈でいいのか、と不安だった時に、英国のフィナンシャル・タイムスに、
「まだ出されていない命令に、先回りして、懐柔的(自分の思い通りに従わせること)に従うこと」
 と特派員が、無理に注釈をつけていた。
 日本に住んでいても、外国人には難しいニューアンスの日本語だと思った。

 広辞苑では、「他人の心中をおしはかること」としか出ていない。そこで、「忖度の由来」をインターネットで調べてみたが、すっきりできる解釈がなかった。
 こんどは、図書館で調べてみた。
「新釈漢文大系」の『詩経』編(中)に節南山が「巧言」という詩の中で、「他人心有らば、予(ワレ)之を忖度す」(351頁)とある。
 意味は「他の人に悪心があれば、私はそれを吟味する」とあった。
 これが「忖度」の由来になるようだ。
 由来からすると、物事を念入りに調べる「吟味」が元の意味だった。


 しかし、戦国時代では、秀吉の出世のキッカケになった伝説の『信長の草履を懐で温めていた』行為のことを、私は「忖度」だと思っていた。
 江戸時代末期に、篤姫が徳川家の存続を願う手紙を西郷に送ったという話も、私は「忖度」だと思っていた。

 平成時代になると、忖度には「いい忖度」と「悪い忖度」の二つがあるという。
 それは、「忖度はないと言い張るお役人の忖度」と、「神風が吹いたと証言する忖度」で、喧々囂々(けんけんごうごう)の騒動になっている。


 日本社会を歴史的に眺めてみると、日本民族には、世界のルールがどうあれ、忖度はなくならない社会だと思っていた。
 ところが、他国の大統領が代ると真っ先に駆けつけて、金のゴルフパターを贈る行為は、忖度とは言わず、単なるゴマスリだと感じるのは、昭和世代の私だけだろうか。


 アメリカ金融資本のビジネス・ルールを押し付け、アメリカの巨大な多国籍企業だけが儲かる仕組みのTPPを、トランプ氏に再認識させる。
 そう意気込む姿には、敗戦後70年以上経っているのに、ノモンハン事件以降、ミッドウエー、ガダルカナル、インパール、レイテ作戦などの失敗を分析した『失敗の本質』(中公文庫)から見ると、「悪い忖度」をしたとしか思えない。

 なぜなら、ユニクロの柳井社長は、もしトランプ氏がアメリカで生産せよとうなら、アメリカの大都市50か所で展開する店を撤退すると明言した。

 アメリカの言うことに盲従する政治家などとは違い、自分の金で損得を冷静にみている経営者は、政治家より広い視野で、世界情勢の変化を見ている、と私には感じられた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

男の色気  =  遠矢 慶子

 野生のすみれが一面に咲き。地面を紫色に染めている。その横の菜の花の黄色い群生が良くマッチしている。竹林にかこまれた広い庭、いつ通っても四季折々の花が楽しめ、つい立ち止まってしまう。その隣の家の庭は一面蕗の薹、新緑のフキの葉の間に、花が咲いた蕗の薹がつんつんと立っている。

 庭のないマンションに越してから、人さまの庭を見て楽しませてもらえるのは有難い。手入れもせずに四季折々の季節を満喫できる。

 葉山町民大学講座で教育総合センターへ行く。
 今回の講座は「イギリスの文化」で70名の募集に150名の申し込みがあり、急きょ人数を100人にしたというので、机も3人掛けで少々窮屈だ。

 5回シリーズの2回が終わり、今日は3回目のダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」だ。
子供の頃、童話として読んだ思いはあるが、ダニエル・デフォーが、イギリスを代表するこんなすごい作家という認識はなかった。

 講座中、何気なく私の目が隣の列の斜め前に座っている人の足を捉えた。
 くるぶしまでのスニーカーソックスをはいた男の足だ。チノパンツの骨ばった長い脚、直角に折った膝の下に、赤いふちどりのスニーカーをはいている。

「すてきな足」というより「男の色気」を感じた。
 私はその足にくぎづけにされ、ついちらちらと目が行ってしまう。

 仙葉豊先生の講義も上の空。ロビンソン・クルーソーにみる経済学、宗教学、社会学、伝統主義の非合理性を先生は論じている。
 見知らぬ男の、それも足に色気を感じるなんて、80年生きてきて初めてのことだった。

 そもそも私は、自分自身に色気がない。
 若い頃付き合っていた男性の車に乗ったとき、「女性が乗ってきた感じがしない」と言われたことがある。
 彼はミュージシャンで、玄人の女性との付き合いが多く、そんな女性たちは、車に乗るとぷーんとお化粧の匂いがして、「降りた後までもするんだよ」と言った。私は無臭の色気のない女だった。

 男の色気を持つ男の上半身に目が行くと、なんと八十歳前後のつるつるにはげた頭があった。ユル・ブリンナーのようだ。
 私は、歳を取っても熱心に講義を聴く男の姿に惹かれたのかもしれない。いやいややはり足だ。あの骨ばったくるぶしの魅力だ。

 電車の中で、夏の浜辺で、伸び伸びと育った若い男性の姿はいつも目にする。見ていて気持ちが良いほど張りのある贅肉のないしまった身体は、イタリアの張彫刻を見るようだ。
 でも、今日の男性の足も捨てたものではない。

 美しいというよりある種の、本物の人間の色気があった。

 今日の講義は、ちょっと邪魔が入り、集中していなかった。もらった資料をゆっくり家で読み直そう。
町民大学講座は楽しい。学生時代と違って、本当に熱心に聴く、周りの聴講生も真剣で質問を投げかける。そして試験がないのが嬉しい。
 その上、今日は座った場所の役得で、男の色気のおまけがついた。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

きりぎりす = 桑田 冨三子

「きりぎりす なくや霜夜のさむしろに衣かた敷き独りかも寝む」


 百人一首で聞いた歌だ。
 今までは「恋人に逢えない一人寝の寂しさを吟ずる作者はさぞかしイケ面の若い公家で、金色刺繍を施した派手な衣装をまとい、傍のきりぎりすの緑が映える美しい絵」と想像していた。

 ある日、ふと、「きりぎりすはそんな寒い冬に居るのかな?」と不思議に思い、調べたところなんと、「こおろぎ」の事を、昔は「きりぎりす」といっていたそうだ。

 なるほど。こおろぎなら、この寒そうな筵の部屋に居ただろうな。これまで想像していた華やかな絵は跡形もなく消え去り、後にはしょぼくれた男が筵の上に衣を敷いてすわり一匹の小さな黒い虫が一緒にいるという、淋しい墨絵が残った。


「蟻ときりぎりす」の話がイソップにあるが、きりぎりすは、お洒落なタキシード姿で、夜じゅう音楽を奏でるアーティストらしく描かれている。プライド高い音楽家だから、冬になって働きものの蟻の家へ行って食べ物を請うなど、とてもつらかったろうに。それとも「武士は食わねど高楊枝」と、我慢したのかなあ。タキシードのきりぎりすには、なんとなくそんな想いをよせている。


 昭和の終り頃、母についてパリ、コレクションに行った時のことだ。グランド・ホテルでファッション・ショウが開かれた。デザイナーは久しぶりに戻ってきたイヴ・サン・ローランであった。ショウの最後を飾ったのは、思いもかけない、男性の燕尾服を基に巧みに変身させた女性のイヴニング・ドレスである。とっさに私は思った。

「あ、きりぎりす。」
 それは、まことに優雅な女らしい雰囲気が漂う見事なスワロー・テイルで、病後のサン・ローランの復活を憂いていた会場を一気に魅了した。「天才、サン・ローランは健在」と、居並ぶ観客たちは安堵した。

 以前、ディオール後継者のジョン・ガリアーノが、カモシカの美しい線を取り入れ、天才的なデザイン力をしめした事があったが、今度はきりぎりすの番だった。羽や身体の曲線、脚の直線と鋭い角度などが見事に取り入れられ気品高いクラシック・エレガンスを創り出していた。

 自然界の虫には、人間の思いつきをはるかに超える美しい線を持つものが沢山居て、これは航空機や自動車などの工業デザイナー達に大きなヒントを与えているのは周知の事だ。


  イラスト:Googleイラスト・フリーより

出前授業 = 石川 通敬

 トランプ大統領の出現は、戦後70年間世界をリードしてきた価値観を根底から揺さぶっているように見える。

 私の関心事は、これがこれまで喧伝されてきたグローバル化時代の潮流を変えることになるのかという点だ。こんなことを、心配するのはここ5年ほどかかわっている小、中、高等学校生への「出前出張授業」というボランティア活動のスタンスに関係するからだ。


 この活動に参加することを決めた遠因は、退職後二つの女子大で10年間教えたことにある。10数年前「グローバル化」という言葉が一世を風靡した。
 私も乗り遅れてはいけないと思った。授業を通しこれを教え、グローバル社会で生き抜くすべを教えるのが使命だと考えたからだ。

 更に授業だけでは不十分と思い、大学生のために、「グローバル社会を生き抜く」というタイトルで本を書き、アマゾンから売り出した。
 しかし売れ行きは良くなく、改訂版も出し3年ほど頑張ったが、期待した結果は出なかった。
 そうした時、『DF』という社会人OBが集まる団体の中に、出前出張授業チームが結成されたことを知った。私は本で訴えたかったことが直接若者に伝えられるよい機会だと思い早速参加した。

 出前出張授業という言葉は、一般的には聞きなれない。わかりやすく言うと「社会人が講師として学校に出向き、仕事で得た知恵やノウハウを生かし授業を行うこと」だ。
 なぜ、我々が助っ人として期待されるのかというと、今教育界が抱えている課題解決に役立つと思われているからだ。

 目的は、二つある。
 一つは生徒たちの進路指導の応援である。もう一つが日本人に共通する「発信力がない」といわれる問題点の克服策支援である。
 日本では伝統的に「出る杭は打たれる」「沈黙は金」」等という価値観が尊重され、我々の行動、発言をマインドコントロールしてきた。

 最近日産のカルロス・ゴーン社長が、日経の私の履歴書で次のようなことを書いている。「日産とルノーのアライアンス・ボード・ミーティングを初めて開いた時、会議でずっとしゃべっていたのはフランス一人だった。
 他の日本人は静かに聞いていた。だから私はフランス人には「仲間の意見も聞こう」と言い、日本人には「もっと意見を言って」と促したものだった」と。

 DFのチームに参加してよかったと思うのは、授業後に生徒が書いてくれる講師あての感想文から生徒の反応が直にわかることだ。感想文に「海外で仕事をしてみたくなった」とか「スイスの話は面白かった」などと書いてあると、授業を準備してきた苦労も報われたとうれしくなる。

 出前出張授業の様子を、ある記事が次のように紹介している。「普段の授業と違うから楽しいというのではない。参加している子どもたちの目の輝き。先生がたが一生懸命にフォローする姿勢。それらがうまく解けあったとき、大きな成果が生まれる」と。

 まさにその通りなのだ。これを、ワークショップ型授業で実施すると効果は倍増する。これも聞きなれない言葉だ。

 簡単に言うと、先生が一方的に話す講義型ではなく、先生と生徒が対話する形で進める授業なのだ。ハーバード大学のサンデル先生がテレビでやっているような授業もその一つだ。私の場合は、自分が経験した「インドネシアに銅線工場を建設する」というテーマを使い総当たりで対話させるのだ。

 具体的に言うと、クラスの生徒を「社長」「販売部長」「総務部長」「製造部長」にグループ分けする。生徒は、それぞれ自分の役割が何か検討し、その結果を、グループ内で討議。最後にクラスメンバーに発表するという授業形式である。


 その効果は確かだ。例えば、ある女子高校で年間7回のワークショップを実施した結果だ。四月にはほとんど何も話せなかった生徒達が、一年後の3月には大きな声で意見を述べられるところまで成長した。また、男子校の例では 授業終了後生徒たちが「今日は楽しかった」「学校はこのような形式の授業をもっと提供すべきだ」と喜び、興奮したのだ。

 こうした活動の中で、私には驚きの発見があった。ある公立中学の校長先生から、自治体の教師は一生同じ自治体内を転勤するだけ、と聞かされた時の衝撃は強烈だった。彼らには海外転勤はなく、国内の転勤すらない。公立校の先生達は異動を禁じられた江戸時代の農民と同じ状況に置かれているという事実だ。

 全国で公立の中学、高校の先生の人数は40万弱と聞く。ほとんどの教師は海外生活体験がないはずである。そうした実体験のない先生方が、グローバル社会への対応を指導できるのだろうかと、素朴な疑問を抱いたのである。

 最後に話をトランプ大統領に戻そう。仲間とも議論したが、我々の授業へのスタンスは変える必要がないというのが、私の結論だ。それは国際社会において、
「自分の意見が言えない」
 という日本人の弱点の克服は、大統領に関係なく世界中の人々を相手に生きて行かなくてはならない日本人にとって重要課題だからだ。

 因みに我々のメンバーは30人弱、訪問する学校数は高校を中心に小、中学校25校。参加生徒数は、年間延1万人。規模では二階から目薬の状況だ。それでも、一人でも多くの若者がグローバル社会を力強く生きてゆけるようになることを期待して皆頑張っている。

 イラスト:Googleイラスト・フリーより

パパの小言 = 林 荘八郎

 いつもの夕方の散歩の時間になった。                     
「パパ! そろそろ出かけようか!」
 ママのかけ声で腰を上げる。散歩と言っても、ほんの少し家の外へ出るだけだ。用を果たすだけの外出だ。家のそばに小さな花畑がある。土の匂いを嗅ぐとオレは催す。そして用を果たす。後始末をしないまま、ママと一緒に急いで家へ戻る。


 オレは体高二十センチにも満たない小型犬のチワワだ。年齢は、多分十歳くらい。なぜ一緒に暮らし始めることになったのか、何処で出会ったのか分からない。多分、ご主人が亡くなって、毎日がさみしかったころ、ペットショップでオレを見つけたのだろう。その頃は小さくて可愛かったはずだ。そしてパパと名づけて大事にしてくれている。楽しい二人暮らしではある。

 住いは横浜郊外の海辺の小さな町だ。漁師町のため、昔から犬よりも猫の方が大事にされてきた。ヤツラは自由で、鎖に繋がれることもない。我が物顔で町の中を行き来している。三毛猫なんぞは女王気取りのように見える。それにしても恋の季節のヤツラはうるさい。ヤツラに比べると、犬は恋もままならない。だから町内で子犬が生まれたという目出度い話もないし、近所には子犬がいない。オレは高齢者なのだ。仲間も同じだ。隣の家では、オヤジも犬もヨボヨボだ。このあたりは人間も犬も揃って年寄り社会だ。

 オレはそんな町で暮らしている。

 エサは通信販売で買ってもらう缶詰品だ。メニューは豊富で、まぐろ味、かつお味、しらす味、とり味などがある。レトルトもある。スナックもある。オレはこれらの加工食品の味しか知らない。ママの食事の残り物を食べることは滅多にないからだ。

 ママが元気だったころは一緒に遠くまでお出かけした。散歩に出かけるとシベリアン・ハスキーやゴールデン・レッドリバーなど、見上げるような大型犬によく出会ったものだ。今は彼らには滅多に出会わない。町内の知り合いは小型犬ばかりだ。すっかり小型の世界になった。恐い大型犬がいなくなったのは、なぜだろう。


 恐いといえば、ここは車が恐い。閑静な町だが朝夕には多くの軽自動車やバイクが猛スピードで通り抜ける。オレの散歩コースはどうやら彼らの抜け道らしい。背が低いので車はデカく見える。それが通り過ぎる時は本当に恐い。あの大型犬よりも恐い。そのうちに誰かが犠牲になるだろう。事故が起こる前に何とかできないものかと思う。

 昨今は犬の糞の始末にはうるさい。オレが用を足すのは近所の花畑だ。最も快適な所だが、用を果たすと、ママはそれを見て見ぬふりをして、さっさと家へ戻る。だって町内はいたるところ舗装されているので、糞をした後、足で土を蹴って隠すこともできないからだ。気持ちよく用を果たし自分で始末できるところは、今やなかなかないのだ。

 その畑でせっせと花を育てて楽しんでいる老人がいる。その人には顔を合わせると睨みつけられる。どうやら糞の犯人がオレであることを知っているようだ。咎められたことはないが、あの人には嫌われているな、と、ひと目で分かる。おまけにあの人には、

「犬の分際で、人間様にケツを拭かせる不届きな奴」とも思われているみたいだ。
 あの人は苦手だ。

 ふと思うことがある。人間って勝手だ、と。
 子犬がいないのも、缶詰のエサばかり食べさせられるのも、小型犬ばかりの世の中になったのも、危険な車が多くなって、安心して町の中を散歩できないのも、気持ちよく糞をできないのも、みんな人間の勝手ではないのか。

 人間が作ったこの世相も環境も好きではない。犬にとっては住みにくいのだ。

 オレは寒くもないのに毛糸のセーターを着せられている。仲間も同じだ。先行き長くない気がする。飼い主も犬も医者通いだ。こんな暮らしで、こんな姿で長生きはしたくない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

人形たちの供養 = 金田絢子

 わが家のちかくに、急勾配の「天神坂」がある。ちなみに坂の名の由来は、菅原道真の祠があったからとされる。
 ずっと以前、買物の帰りにこの坂をのぼったことがある。坂に足を踏み入れた刹那、自転車に小さい子を乗せた母親が、ケイタイをかけながら猛スピードで降りてきた。私は「バカヤロウ」と怒鳴った。
 こうした手合いには、あれ以来会っていない。それは私が歳をとって坂を避けて歩いているからかもしれない。

 うちの周囲は坂の多いところだが、天神坂は急な点で群をぬいている。それでも清正公(覚林寺)のお祭りには、日頃人もまばらな坂道に露店が並び、大勢の人で賑わう。

 坂をあがりきったあたりに、どことなく時代がかった葬儀社がある。昨年(平成二十八年)の十月下旬に、たまたまその前を通りかかった末の娘が、いい知らせを持ってきた。

 お払い箱にしたい人形の供養をしてくれるという。私がかつて何体か持て余している日本人形があると話したことがあった。店の貼紙をスマホに写してきて見せてくれた。カラーの写真がついているが、殆どがぬいぐるみなのにびっくりする。目を凝らすと、赤いおべべの日本人形も写っているので安心した。

 受付は、十一月五日土曜日十時半からである。うちから、坂のてっぺんまでまっすぐに行ける平らな道があるので具合がいい。

 私は、ベッドわきの人形ケースを引き出し、俄かに忙しくなった。人形本体だけを持ってこいという。人形はいずれもケースの床から、ひきぬかないとならない。人形がそんな風にして立っていたのだと、初めて知る。

 四、五日して葬儀社を、前もって見ておこうと思い立った。案内を乞うと男の人と女の人と二人出てきて、愛想よく応対した。
「じゃあ、十時半に持ってきます」
「お経は三時半からです。三時ごろお持ちになってはいかがですか」
「お預けしてすぐに帰ってはいけませんか」
 と私が質問したからである。


 さて、私が物事を処すのに、誰の手も借りずにやるなんて、未だかつてない。多分に、緊張していたのか、興奮していたかのどちらかである。落ち着かない気持ちのまま、その日が来た。
 都合よく、納戸にあった紙袋に人形を入れ、ごく小さいトートバッグに二千円の入った封筒を入れた。“いざ出陣”である。ところが着いてみると
「(供養は)あしたですが」
 と言われた。
 あがっている証拠に、土曜だと早合点して颯爽(?)と家を出たのだ。幸い、「お預かりします」と言ってもらえた。
 既に事務所の隣の部屋に、お布施の箱が置かれ、祭壇も準備されていた。丸いテーブルがいくつか並んでいる。茶菓を振舞うからだろう。

 私は、まだ二つ三つある日本人形と、ぬいぐるみの行く先きを思って、こうした催しは来年もあるのかと尋ねた。これまでにもずっと行なっているのだという。天神坂が難所でなかったら、貼紙に気がついた年だってあったに違いないと思うとちょっぴりおかしかった。

 今回、ひと仕事終えてよかったと、胸なでおろしながら、なにかしら淋しかった。長く一緒に暮らした人形たちへの、愛着のせいだったろう。


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

生(なま)が最高 = 和田 譲次 

 生が好きだというと、皆さん方は、私がビールは生を好み、新鮮な魚介類や肉も生で食べるのが好きだと思われる。飲食に関わることではなく、音楽や演劇など趣味の世界のことである。

 私は、生まれついての音楽好きで、聴き手だけではなく自分で音も出している。仕事や諸団体の活動を離れた今、音楽が生活の一部どころか殆どを占めている。
先日、中高時代の仲間との昼食会の席で、私が注がれたビールを殆ど口にしないのを気にして、となりに座った西村が、
「体の具合が悪いの」
 と、心配して声をかけてきた。

「このところ体調は安定しているよ」
 仲間に心配させてもいけないと思い、音楽会のチケットを取り出して見せた。


「夕方から音楽会があるので飲めないのだよ」
「なに、これオーケストラのコンサートが二万円以上もするの」
 と、あきれられた。CDやDVDなら二、三千円で同じ音楽が聴けるのにどうして、そんなお金を使うの、などいろいろな意見が出た。
「ライブの魅力にはまってしまったのだよ」
 と、会場で聴く音の魅力をといた。
「わかるな、私は落語は寄席で観るのが好きだ」
 と言う意見に続いて、
「私は歌舞伎が好きで、良い席が取れなくても歌舞伎座で観たいわ」
 と言う女性の発言の後、テレビ観戦か現場へ足を運ぶかと言うことで議論が沸いた。

 年寄りのサッカーファンがいて、まずスタジアムへ足を運び、勝った試合は後でビデオも見るという。サポーターの中で大声を張りあげて応援することが自分の健康の維持に役立っていると言う。

「音楽会場や芝居小屋でも、多くの聴衆の中で観たり聴いたりしたほうが臨場感があり。気持ちが高揚するよ」
 と言う私の意見でひとまず議論は収まった。
 少し体調が悪くても、前もって購入したチケットがあれば出かける。どうしてこんなに熱心になったのだろう。歳をとるごとにこの傾向は強くなってきている。


 この二十数年の間に東京には、サントリーホールをはじめ、オペラシティ、ミューザ川崎など、世界的にみても一流のコンサートホールが出現した。ここで、オーケストラ音楽を聴くと、今まで聞きなじんでいた音楽のイメージが一変する。全身が音に包まれ、自分も演奏に参加しているような気分になる。
 良い会場のおかげで、そこで演奏するオーケストラのレベルも向上し、東京のメジャーのオーケストラは欧米一流のそれらと比較して、見劣りしない音が出せるようになった。このような状況の中で、今、オールド音楽ファンで音楽会場があふれている。興行者たちもこの事態を見て、平日の昼間の公演を増やしてきている。

 私がライブにこだわるのは、音楽や芝居など、観客の中に身をおくと、お互いに脳からエネルギーを発散しているようで、会場内が熱いムードで覆われ、高揚感がましてくる。間合いの静寂、終了時の熱狂、知らない人同士でも「良かったですね」と言葉を出さなくても通じ合っている。

 昨年一年の日程表を見ると、音楽会に五十回以上通っている。中には招待いただいて出向いたものもあるが、半病人ながらよく出かけたものだと思う。このほか。音楽会への出演、そのための練習などもあり、おおきな楽器を抱えて出かける私を、家内は不安そうに見ていたが、今では気にしないどころか安心している。音楽に関心が薄れたら先が長くないと判断しているのだろう。

 私は生身の人間だ。家で静かに読書や音楽を聴く姿は私らしくない。仲間と好きなことに取り組んでいたほうが体にはよさそうだ。
                                 (了)

私と酒 = 青山貴文

 夕焼け雲が、真っ赤な空に浮かんでいる。
 二階の書斎は、内壁や棚が暖色に染まり、居心地がよい。 私は、小さなグラスに赤ワインを注ぎ、それを夕陽にかざして軽く乾杯する。ワインがなければ、ブランディ、吟醸酒、ウイスキーなど、アルコールであればなんでもよい。夕暮れを愛でながら、明日の晴天を期し、何ともいえないいい気分になる。

 こんなことを書くと、私は酒飲みと思われるが、元来アルコールに弱い。母方の家系に似たのであろう。酒を飲めない祖父が、酒造りを創めて失敗した。もっともなことだと思う。

 19歳のころ、東京麻布の仙台坂の酒店に住み込んで働いていた。当時は、ビールをコップに3分の1ほど飲んで、気持ちが悪くなり吐き気をもよおした。アルコールの入った飲み物は、身体が受け付けなかった。ビールよりも冷水の方がよっぽど旨かった。店主にとっては、盗み飲みもしない良き働き手であったと思う。

 社会人になっても酒席は苦手だったが、飲むことが仕事と割り切って、うまくもない酒を飲んだ。
最初のコップ一杯のビールは水よりうまい。二杯目からは、顔が紅潮し、さらに心臓の鼓動が早くなる。
 その内、ゆったりした話声は、図太く早口になってくる。ビールの味などわからない。そうこうする内に、日本酒が運ばれて来る。同僚と差しつ差されつするうちに、酒の弱さを隠すように大声を張り上げる。
 ところが、会社を辞めてから、アルコールが入ったものなら、何でも好きになってきた。飲むほどに、小さなことはどうでもよくなってくる。部屋が乱雑であろうが、予定どおりことが進まなくても、影口を叩かれようともなんでもない。私はほんわかして、すべてを許してしまう。

 アルコールに弱いから、少し飲んでも直ぐ眠くなる。安上がりの眠り薬だ。数時間で目覚めると頭がすっきりして全てに積極的になれる。

 一方、親父は、アルコールが強かった。酒豪ではないが、酒がすこぶる好きだった。特に日本酒に目が無かった。若い頃は、ご飯に日本酒をかけて食べたというくらいだ。ビールでは酔わないと言い、もっぱら日本酒を飲んだ。独りで一升瓶をあけたこともあったという。
 ただ、酒癖が悪かった。普段、無口でもの静かであったが、酒を飲むと口数が多くなった。理屈っぽく、相手の弱いところを突いてくる。昔の些細なことを、ぐだぐだ言いながら際限なく酒を飲む。自然と、友人は寄り付かなくなる。

 小学生のころ、立川の集合住宅に住んでいた。父が飲みだすと、わたしたち家人は彼を無視した。すると、父は絶え間なく意味不明のことを大声で一人で喋る。薄壁の向こうの隣人はいたたまれなかっただろう。子供ながら、こんな父を持つことが恥ずかしかった。年中付き合わされた母の苦労は大変だったと思う。

「酒は人を狂わせる。お父さんみたいになってはいかんよ」
 と、母は、いつも私にささやいた。
 私は、酒飲みには絶対ならないと心に決めた。

 父は、終戦後、再就職した町工場で大怪我をして、両手とも義手をするようになったが、81歳まで生きた。『人生50年』と言って、いつも飲んだくれ、母を困らせていたが、持説より30年も長く生きた。
 酒の力で生き、働き、そして、私を私大に行かせてくれた。そういう意味では、酒の効用はあると信じている。
 父と同じDNAを持つ私は、会社を辞めてから酒の美味さを知った。このDNAの体質が、もっと早く出て来なかったかと恨んだものだ。

 最近は、ウイスキーでも、小さなグラスなら、顔が赤くならなくなったらしい。夕方、ウイスキーを少し飲んで階下におりていっても、誰にも気づかれない。
 これは愉快きわまりない。
「了」