【エッセイ】 文字の獲得 = 廣川登志男
両目と両手とを失った「高野さん」と名乗る人がテレビに映し出されていた。戦後一年が経過していた小学校二年のときに失ったという。
しかし、映し出された姿は、大学生たちを前にした82歳の講師としての姿だった。
柳田邦男がナレーターをしていたNHKの番組「文字の獲得は光の獲得でした」を見ていたときのことだ。
高野さんは、拾った鉄のパイプを弟と持て遊んでいたときに、突然爆発し被災した。不発弾だったのだ。弟は即死した。それからの12年間は、面倒を見てもらっていた病院の看護師とも喧嘩するほどの、自暴自棄に近い無為の生活だったという。
転機が訪れたのは19歳のとき。看護師が読んでくれた一冊の本「いのちの初夜」との出会いだった。
著者の北条民雄さんは、ハンセン病だった青年のときに自らの体験をもとに書いていた。そこには、病気のために目や指を失った人たちが登場する。
高野さんは、本の中で自分より不幸な人がいることを知り、心が荒れなくなったと述懐している。さらに、その人たちが唇や舌を使って点字を読んでいることも知ることとなり、以降、その練習を始めたという。
四六時中に近いほど練習したが、なかなか読めるようにはならなかった。
しかし、「継続は力なり」で、そのうち文字がわかりはじめ、徐々に言葉になり文章になっていったという。
高野さん自らが執筆した手記『人と時代に恵まれて』に「文字の獲得は光でした」とあるそうだ。番組のタイトルとなっている。
それからは、勉強に目覚め、無我夢中となって一年後の二十歳のときに、大阪市立盲学校中学部に入学することができた。さらに通信制大学を経て教員免許を取得したが、すぐには教員になれず、非常勤講師として教壇に立った。
正教員となったのは34歳のときだ。以降30年にわたり盲学校の世界史の教師として活躍した。いまでも、年に一回、教師を目指す大学生のために教壇に立ち、「これからを生きる若者達を照らす光となっている」と、テレビは締めくくっていた。
番組では、他に3名の方が紹介されていた。重い障害や病気を持った方や、障害を持つ人と接していた美容師の方たちだ。
この番組は、NHK厚生文化事業団が主催する障害福祉賞に応募した、障害者及び障害者と共に歩んだ人たちの体験記(手記)をもとに制作されている。
柳田邦男さんは、35年もの間、選考委員の一人として携わってきた。これまでの応募数は1万3000件にも及び、その体験記には、社会に呼びかけるメッセージ性が強く織り込まれており、人間理解の宝庫だと語っていた。
さらに、次のような言葉も残している。
「作品応募のために自分の体験を書くということは、自分の汚い部分や嫌な部分をさらけ出すことで、それを許容する新しい自分、すなわち自分の心構えや気持ち、人生観を変えていく大事なポイントとなる」
「人間が生きるということは、自分の人生観などをしっかり踏まえながら、自分の人生を開く道をどう見つけ出していくか。人生を開く道は、自分を見つけることからしか生まれない」
番組を見て、深く考えさせられた。
「自分は恵まれて育ってきた」
「障害者に対して思い上がった誤解をしていた」
「障害者に学ぶべきことは多い」
などと、胸が締め付けられた。
7月にはオリンピックが始まる、今までは、障害者のためのパラリンピックに興味が湧かなかったが、今回は真剣に見なければと思う。それに障害者と呼ぶことすら不遜に思えてきた。
書くという作業の大事さも、今更ながら思い知らされた。通っているエッセイ教室の先生から常日頃言われてきた「汚い自分をさらけ出せ」と、全く同じだ。
さらに「『人間ってそうだよなー』と、読み手が感じとれる内容を書くことが大事だ」と。これはまさに人間理解の極みだ。
今、このエッセイを書いているときも、「何を書こうか」「ネタが思いつかない」などと愚痴をこぼしていたが、まだまだ自分をさらけ出していないのだろう。「だろう」と書いていること自体が真剣さの欠如だ。
裸の自分とは何者なのかと、自分を見つけようとする努力の気持ちは大いにあるのだが、どうしたら自分を見つけることが出来るのか、それすらわからない。
とにかくエッセイを書き続けていこうと、決意を新たにした番組だった。
了
イラスト:Googleイラスト・フリーより