元気100教室 エッセイ・オピニオン

笑いも人それぞれ  月川 りき江

 20年ほど前、健康体操の先生が、1日に1回、大声をだして「ワッハッハ」と笑いなさいと言われた。
「夫と2人暮らしでは、あまり大声だして笑うことはありませんよ」
 と言っても先生は、
「ワッハッハと言うだけでもいい」
 と言われたがむずかしい。


 以前、夜ベッドに入って、ある本を読んでいる時、夜中の1時頃声に出して笑ったことがある。

『ある男がいた。彼は酒も飲まず、たばこも吸わず、美味しいものも食べず、旅行も行かず、賭け事もせず、女遊びもせず、百歳まで生きた馬鹿がいた。』
 と書いてあった。

 私はこの「落ち」が面白くて大声をだして笑った。

 この本は、面白半分の本ではなく、まともな作家の本で、テーマは人生に関する内容だったと思う。(現在は百歳まで生きる人は多いが、昔は少なかった)
 そして翌日、夫(六五歳)に、この話をした。
 いつも明るい性格だから、一緒に大笑いするものと思っていたが、夫は笑わなかった。ニコリともしないで、ぶすっとしてリビングのソフアーに座った。


 その日は朝から機嫌が悪かった。
 多分前日、会社で面白くないことがあったのだろう。私としては、よかれと思って言ったのだが、タイミングが悪かった。

 やはり男性と女性は受け取りかたが違うのかな? と思い、九州の妹に電話をした。本の話をしたら、妹は大声をだして笑った。
「そこでお願いだけど、あなたの旦那に話して反応をみてよ」
 と頼んだ。


 この妹婿は地味な性格で、常々ユーモアもなく、会ってもあまり会話も無い面白くない人だ。ただ年齢が五十代だから、ちょっと期待した。
 翌日、妹から電話があり、
「笑いもなし、コメントもなし」
 と言う。
 そして妹は小声で、
「やっぱり面白くない男ね~」
 と二人で笑った。


 次に同じ長崎に住む姉に電話をした。この家は自営業で洋品店をしているので、姉がすべてに支配しているから、夫は尻にしかれている。真面目で、おとなしい性格である。

「百歳まで」の話しは姉も大笑いした。そして又、旦那の反応を聞いてみた。
 翌日、姉からの返事は、
「笑顔もなく、『可哀想に』と言ったよ」
 と笑っている。


 おそらく自分の立場に置き換えたのかもしれない。そういえば、義兄は酒も、たばこも、旅行も、賭け事も、女遊びも、しない大真面目な人だ。
 しかし、兄弟みんなが驚くほど、義兄は妻を愛している。幸せな人である。


 日本人はユーモアが少ない、と常々思っている私は、軽い気持ちで面白がって人の気持ちを試したことを、少々反省している。


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

話すは敏になる  青山貴文

 我が家の近くには美土里町という風情のある名の街がある。


 その住宅街の北東隅に、茂木浩一先生のお住まいがある。茂木先生は、十数年まえに籠原公民館で、私たちに習字を教えてくれていた。習字の合間に、奥さんと日本の各地をドライブされたお話をよくされていた。いつもにこやかで話好きな先生だった。


 毎朝の日課は、般若心経(約260文字)を達筆な楷書で写経されることであった。80歳を過ぎた頃、ご高齢を理由に習字の先生を自ら辞退された。 

 先日、小春日和の昼下がり、久しぶり先生宅の前を通り、
(先生は、お元気かな。お一人でお寂しくされておられないかな)
 と思いながら、私宅への道に向かった。

 途中にある外原公園の広場を斜めによこぎっていると、前方から自転車に乗って来る人がいる。どこか、茂木先生に背格好が似ている。自転車など乗られるわけがないと、上目つかいに仰ぎ見ると、
「これは珍しい、青山さんですね」
 と、先方から私の名を呼ばれる。

 懐かしいご尊顔が、満面に笑みを浮かべて、自転車を降りられた。
 以前、習字を教えておられたころよりも、顔に張りがあり、生き生きしたお顔だ。
「今、先生宅の前を通り、お元気にしておられるかなと思いながら、歩いて来たところです。あの頃と少しもお変わりなく、本当にお元気そうですね」
 と、7~8年振りの再会を心から喜んで、声がはずんで言うと、
「青山さんも、お元気そうですよ。今、グランドゴルフのことで、仲間とお話をしてきたところです」
 と、先生は、赤銅色のお元気そうな顔をほころばされる。


 内心は今の今まで、「茂木先生」と、苗字を覚えていたのに、「苗字の茂木」が出てこない。思い出そうと焦るほど、その名前が出てこない。

 こういうことが、このごろよくある。どうも、脳が委縮してきているのか、数分前までは明らかに覚えていた人の名前が、いくら思い出そうとしても出てこない。

 致し方ないので、先生と再会したことを心から喜んで、あれからエッセイ教室に通っていることなど、話をつづけた。
 丁重な口調でお話をしながら、その間も、何度も先生の苗字を思い出そうとしたが、どうしても思いだせない。別れ際に、
「先生も、お元気で」
 といって、最敬礼してからお別れをした。


 直後に、なぜ、苗字まで言えなかったのか、自分の記憶力の乏しさに情けなくなった。家に着いて、妻に習字の先生にお会いしたことを話す。

「ところで、習字の先生の苗字は、何だっけ」
 と、問うと、
「先生のお名前はねー、えーと。ここまで、出てきているのだけど」
 と、妻も首をひねっている。
「そうだわ、先生が清書された『般若心経』の掛軸が床の間の左側面に飾ってあるわよ。あそこに先生のお名前が記述してあるわ」
 と、彼女も、私も同じ事を瞬時に考えている。


 茂木先生は、確か90歳以上なのに、私を見るなり、青山さんと私の苗字を躊躇なくはっきりと発せられた。私とはすごい違いだ。
 私は、外観は年相応に先生より若いはずだが、脳年齢は先生より遙かに劣っている。
 先生は、私より受け答えが機敏で、はっきり発音されていた。固有名詞などもスムーズに几帳面に話されていた。脳は柔らかく、記憶力もすぐれているのだろう。


 仲間とグランドゴルフをされていると仰っておられた。あのグランドゴルフで大きな声を出しあったり、仲間と談笑されていることが、機敏さを生み、記憶を良くする方法に結びついているのではないだろうか。

 私は毎日、一人で黙々と1時間ばかり歩いて、足腰を鍛えている。さらに毎週2~3日は、公民館で同好の志の集まりに出かけて、手足をうごかしている。

 その多くの人たちが休み時間にいろいろ世間話しをかわしているが、わたしは入り込まない。考えるに、このような無駄話が脳を活性化する大切な働きがあるのかもしれない。

 そういえば、最近、足腰の強化はしているが、脳の働きを機敏にする運動はどうも、おろそかにしている。脳の運動とは、いったい何か。昔から、読み、書き、そろばんというではないか。それに「話す」ことか。

 わたしは妻と話す以外に、一日中口を開かないことがある。他人ともっと話さなくてはならない。話すことは人を機敏にすると言うではないか。


      イラスト:Googleイラスト・フリーより

ハウス・トホター制度 桑田 冨三子

 ドイツのライン河のほとりにボンという街がある。ベートーベンの生地として有名だ。

 まだドイツ統一の成る前の話だから、ベルリンが連合国とソ連に分割統治され、当時の西ドイツのアデナウアー首相の地元であるボンが西ドイツの首都になっていた。
 ボンは小さな町だった。当時の西ドイツ人は、ボンのことを、首都ではなくブンデスドルフ(首都の村)とよんだ。


 1963年、25歳の私はそこに10カ月ほど住んだ。ドイツ語を覚えるためだった。
 ドイツには、ドイツ語を習得するのにハウス・トホター(家の娘)という習わしがある。日本の家事見習い女中奉公みたいなものだが、トホター(娘)というのが重要で、雇い主はハウス・トホターに仕事をさせるが、家族だから給料は払わない。そのかわり、なにがしかの小遣いをくれる。

 つまり、女中や運転手の使用人ではなく、身分はその家の娘として扱われる。だから食事は家族と共にテーブルにつき、同じものを食べる。一家団らんの席にも加わる。
 誕生日が来るとパーテイを開き、友人を招いてくれる。


 ボンのワルダーゼー伯爵家での私の仕事は、4人のこどもの世話であった。長男のベルンハルトは5年生、次男ゲオルグは4年生、長女イザベルが2年生、1歳の赤んぼうのメラニーだった。
 ベルンハルトは聡明な子だった。算数が得意で、ラテン語とギリシャ語を学んでいたが、体が弱く、よく学校を休んだ。
 ゲオルグは暴れん坊で、ふざけるのが大好き、いつも学校から洋服を汚して帰ってきた。金髪の可愛いイザベルは、あまえっこの泣き虫、末っ子のメラニーは、いつも機嫌のいい健康な赤ちゃんで、ミルクを調合し、飲ませて、おしめを取り換えるのが私の仕事だった。

 ユルゲン・ワルダーゼ―伯爵は40代の格好いい人で、博士号を持つドイツ財務省の役人だった。気のいい、やさしいお父さんだったが、ギゼラ夫人にはとても、気を遣っているように見えた。

 
 高校の同級生だったというギゼラ伯爵夫人は、背が高く、やせ型で、アデナウーアー首相の姪に当たる人だったが、なるほど、なんとなくアデナウアー首相に姿が似ていると思った。
 小児科の医者で、家の中でいつも白衣を着ていた。大変な清潔好きで、子どもたちは、いつも手洗いや、うがいをしないと叱られていた。

 子どもたちはドイツ語に慣れていない私なのに、容赦ないはやくちのドイツ語でしゃべりたてる。私は、彼らの表情や、声のトーンに、勘を働かせて、何とか対応し、その場をしのいだ。それでも上手くいかないことがあった。
 そのときは、前掛けのポケットにしのばせてあるコンサイス辞典の助けを借りた。ベルンハルトは私の顔をみてニヤニヤしながら、私の解らなかったドイツ語の綴りを紙に書いてくれる。こうして殆どはクイズ・ゲームのような形で平和におさまった。

 私がもらった小遣いは100マルクだった。日本の1万円ほどである。

 夕方になると仕事を解放された私は、ボン大学の夜学講座に通った。大学は無料だったから助かった。ドイツ語もだいぶ上達したようで、友達もできた。


 楽しい10ヶ月は瞬く間に過ぎた。
 帰国の日には、ギゼラ伯爵夫人から、金色と紺色のワルデルゼー家紋章付きの修了書をもらった。それには、我が家に10カ月滞在し、ドイツ語を習得したことを証明する。話すことはほぼ良好、聞き取りは大変良い、と書いて署名がしてあった。

 この証明書は帰国後の私の就職に絶大な効果を発揮した。東京オリンピックを控えていたドイツ航空会社にすぐ採用された。
 航空会社に職を得たおかげで、私はドイツに出かけることも多く、ワルダーゼー家をしばしば訪問した。夏休みには、キールにあるエヴァスドルフ城に行った。

 そこは、彼らの何代か前のおじいさんにあたえられた城だそうで、いずれはベルンハルトが受け継ぐと聞いた。
 1899年、清国に義和団の乱(北清事変)が発生した時、ドイツのウイルヘルム2世は、彼らのおじいさんに当たるアルフレート・フォン・ワルダーゼー伯爵元帥のひきいる遠征軍をはるばる清まで派遣した。ワルダーゼーは、列強8か国連合軍全体の最高司令官として北京を占領したと、世界史の本に書いてあった。


 ボンの家にいた往年の聡明な少年・ベルンハルトは今、在アルゼンチン・ドイツ大使だそうだ。赤ちゃんだったあのメラニーはドクターになって、今、デュッセルドルフで小児科の医院を開いている。
ドイツのハウス・トホター制度は、私の人生にあざやかな彩を添えてくれたと、ほのぼの嬉しく思っている。

 イラスト:Googleイラスト・フリーより

ごきげんよう 月川 りき江

 長崎に住んでいる二つ上の姉が認知症らしい、と妹からの電話で知った。
 他人の話しは気軽に聞いていたが、やはり身内になると少々寂しくなった。


 先週、出かけた時、東中野のバス停で隣合わせた女性と、雑談をかわして別れる時、その女性が「ごきげんよう」と言った。歳はたぶん六十歳前半かなと思った。この「ごきげんよう」の言葉で六十数年前の姉のことを思い出した。

 長崎市内から離れた田舎に住んでいた私達は、九州で一番都会だと思う博多に、行くことは夢であり、楽しいことだった。
 音楽会も美術展も観劇もすべて博多だけなので、年に一、二回、姉と二人で行って楽しい日を過ごしていた。博多には昔から親しくしている家庭があるので、いつも泊めてもらった。そこには同じ歳頃の娘さんが二人いるので好都合だった。

 ある日、母がきれいなピンクのスーツケースを買ってきて、
「仲良く交替で使いなさい」と言った。

 その頃、博多で杉村春子の舞台公演があることを知り、姉と二人で行くことになった。前夜、旅行の準備をする時、お土産などもあり、スーツケースだけでは入らなくなった。
 今のようなお店のしゃれた紙のバックなどはなかったので、残りの荷物は風呂敷に包んだ。姉が
「重いものはスーツケースに入れたから、あなたはこの軽い方の風呂敷を持ちなさいね」
 と優しく言う。私だって重くてもいいからスーツケースの方がいい。と言いたいが言えない。最初から不平いっぱいの思いで出かけた。


 博多では泊めていただく家の、娘さん二人と一緒に観劇を楽しみ、おしゃれなレストランで食事をして、夜の博多を堪能した。翌日、帰りにはお土産も加わり風呂敷包みが大きくなった。右手にはしゃれた小型のハンドバックを持ち、片方には大きな風呂敷包みを持つ、なんともみじめな姿だった。
 博多駅では娘さん二人が見送りにきてくれた。

 今は列車の窓は絶対に開けられないが、当時は自分達で開け閉めができるので、発車するまで窓をあけてホームの人とおしゃべりをしていた。
 いよいよ発車のベルがなり、窓を閉める時、友人も私も、
「さようなら」と言った。その時、姉が
「ごきげんよう」
 と言って窓を閉めた。私はびっくりして姉の顔を見た。

(なにをカッコつけてるのよ)
 と言いたかったが何も言わず、二人並んで席に座った。

 座席は四人掛けなので、私達の前には中年の女性二人が座っている。
 その時、その女性が、
「上方(かみがた)のお方ですか?」と姉に聞かれた。「ごきげんよう」の言葉を聞き、おそらく東京の人だと思ったのだろう、と感じた。

 姉は、笑みを浮かべただけで(はい)とも(いいえ)とも言わない。
 そして私に近寄り耳元で、
「私に話しかけてはだめよ」
 と言う。
 私が長崎弁の方言まるだしでおしゃべりしては(上方のお方)が台無しになってしまうと思ったのだろう。
 私だって馬鹿ではない。
「おばさま達はどこまで行かれるのですか?」
 と丁寧に聞いた。
「私達は諫早ですよ」の返事。

 ウエ~ッ。最悪。諫早は長崎駅の一つ手前の駅だ。
 これでは二時間半、無言でいなければならない。諦めてバックから文庫本を取り出した。しかし読んでいても、字を追うだけで、風呂敷包みの不満と「ごきげんよう」のカッコつけで、腹がたち、頭にはいらなかった。


 今でも妹と話すが、「あの頃のお姉ちゃんは強かったね。長女の特権かしら」と二人で笑う。
 秋には、年に二回と決めている長崎へ行く。認知症が始まったという姉に、
「ごきげんよう」と言ってみよう。認知症の初期は、直近のことは忘れても、昔のことは覚えている、という。何と答えるだろうか。

 おそらく笑みをたたえるだけで、フフフというだろう。

Googleイラスト・フリーより

レバー料理 武智 康子

 先月中旬、久しぶりに上京してきた主人の弟夫妻を迎え、都内在住の妹も含めて、お台場のあるホテルの三十五階にある、鉄板焼きのレストランで会食をした。


 ちょうど天候にも恵まれ、東京湾に沈む太陽を見た後、レストランに入った私達は窓越しに見える夕暮れの東京の街を見ながら、お互いの元気な姿にビールで乾杯、そして食事に入った。

 前菜に続いて、いよいよ本番の鉄板焼きに入ろうとした時、四種類の「垂れ」がだされた。
 丁度、私の後ろに立っていた料理長が、その「垂れ」について説明を始めた。

 最初は、一般的なポン酢に胡麻垂れ、三番目はトマトを細かく刻んだものをオリーブオイルなどの調味料で和えたイタリア風の「垂れ」、そして最後の「垂れ」の説明を聞いた時、私の背筋に寒気が走った。
 それは、レバーをベースに調味料と和えた「垂れ」だったのだ。


 レバーと言う言葉を聞いたとたん、私の頭の中を約六十年前のことが、閃光のように過ったのだった。
 それは、私が大学四年生の時のことだ。当時、生化学を専攻していた私は、教授から卒業論文研究に「カタラーゼの免疫学的研究」と言うテーマを頂いた。

 カタラーゼは、呼吸酵素の一種で人体には不可欠の物質である。
 しかし、当時、岡山大学の高原教授によって、カタラーゼを持たずに生存している人がいる事が、発表されたのだ。そこで、カタラーゼの人体での働きの研究が盛んになったのだった。はからずも、私もその研究の一端を担うことになったのだ。

 私とペアの友人は、先ず、カタラーゼの結晶をつくることにした。それには新鮮な肝臓が必要である。私達は、教授がコンタクトしてくださった県営のとさつ場へ向かった。
 勿論、私達はとさつ場に行くのは初めてだったが、門を入るなり、牛をたくさん乗せたトラックが目に入った。私達は、あの牛の一頭から肝臓をもらうのかと思ったら、何だかやるせない気持ちになった。
 それでも、私達は勇気をふるい、事務所で手続きをとると、案内された控え室で肝臓をいただくのを待った。


 外から時折聞こえる牛の鳴き声に、ブラインドの隙間から覗くと、遠くに見えたのは、トラックから降りようとしない牛の姿だった。
 彼らも、本能的に分かっているのだろう。断末魔のような鳴き声をよそに、無理矢理トラックから降ろされていく牛達の姿だった。
 なんとも落ち着かない風景に、実験に張り切っていた私達の気持ちは、だんだん萎えていくようだった。

 それからまもなく、ノックされた控え室のドアを開けると、厚手のビニール袋に入れられた、ほんの今、殺されたばかりの一頭分の大きな肝臓を渡されたのだった。

 受け取った私達は、新鮮とはいえ、生暖かい肝臓に顔を見合わせて、何ともいえない悲しい気持ちになった。一体、私達は今から何をしようとしているのだろうか、と考え込んだのだった。

 気を取り直して、肝臓を冷蔵のバックにいれ、事務所の方にお礼を言うと急いで大学の研究室に戻った。そして、さっそく肝臓を切り刻んで実験に取り掛かったのだ。
「牛さん、ごめんね。」
 と心の中で言っていたのを思い出す。


 それ以来、私はレバーを食べる事が出来なくなったのは勿論だが、「レバー」と言う言葉を聞いただけでも、あの日のとさつ場での出来事が、頭の中を過るのである。だから、今もって、レバーの料理を作った事もない。
 その日の「垂れ」にはレバーの形こそないが、レバーをベースにした事を聞いた以上は、私は、どうしてもその垂れに手をつけることは出来なかった。
 主人をはじめ弟や妹たちは、珍しいお味でとても美味しいと言っていたが。

 料理も進み、久しぶりの逢瀬に話に花も咲き、そろそろデザートが出る頃に近づいた時、ふと、窓の外に目を向けると、既に沢山のビルに灯がともり、眼下に見える東京の街は、星を散りばめたように輝いていて、その中で東京タワーとスカイツリーが、くっきりと浮かんでいた。

 その美しい幻想的な風景に、レバーのために少し萎えかかっていた私の気持ちも、華やいできた。
 そして、私達、兄弟姉妹が元気なうちに、また集まろうと約束をして夫々の帰途に着いた。
 私達にとって、思い出となる夏の一夜だった。


                     Googleイラスト・フリーより

使い分け 筒井 隆一

 パソコンの画面が、最近見づらくなってきた。また、葉書や手紙を読み書きするときも、今まではっきりしていた小さな文字にピントが合わず、違和感を覚える。老眼が進み、手持ちの眼鏡では対応できなくなってきたのだろうか。

 親から貰った歯と目は、私の自慢だった。
 歯については、年二回のチェック、クリーニングをするだけで、何の手入れもいらない。歯科クリニックの女性院長は、「筒井さんは、とてもよい歯です。私からみても、本当にうらやましい」
「この歳で虫歯が一本もなく、永久歯三十二本が全部自前なんて、両親に感謝しなければなりませんね」
 一方目に関しては、高校時代の山岳部の後輩が、JR大塚駅前で、眼科クリニックを開業している。ここにも年に二回定期的に通い、彼から視力、視野、眼底などの検査を含めた、総合的な検診を受けている。
 これまでは、特に問題なく推移してきた。この後輩も、
「筒井先輩は、もともと乱視が若干入っていますが、今日の視力検査でも異常によく見えてますね。優等生ですよ」
「先日運転免許の更新があった。視力検査の結果では、眼鏡使用の条件が付かなかったよ。でも最近、特に近距離の視力が落ちてきているようで、今日は相談に来たんだ」
 歯は、まだ大丈夫そうだが、目は少々問題が出てきたようだ。

 同年代の人は、眼鏡を何個位持っているのか分からないが、私は現在、四種類を使い分けている。
 まず、車の運転時に使用する遠距離用。そして街歩きに遠・中用。次に中・近用、これは笛の演奏をするときに、楽譜を見るためのものだ。最後に近・近用は、パソコンの利用時や読書、筆記用に使っている。

 眼鏡の使い分けが、少々面倒くさい時もある。それぞれの性能に合わせ、その場の用途で使い分けるには、常時四種類の眼鏡を持ち歩き、都度かけ替えなければならない。それぞれの持てる機能を発揮させ、活かすためには、それもやむをえないのだろう。しかし、遠から近まで一つの眼鏡で全てカバーできるのであれば、四つを持ち歩く必要がない。それは可能なものだろうか。

 例えばゴルフのプレーを考えてみる。ドライバーで打ち出した球を目で追う。ナイスショットが出れば、二百ヤードを超える先まで、ボールの行方を追わねばならない。グリーンにオンしたら、ラインを読んでパッティングする。ボールと目の距離は一、五メートルほどだ。ホールアウトしたら、スコアをカードに書き込む。こちらは至近の三~四十センチメートル。

 一度スタートしたら、プレー中に眼鏡をかけ替える余裕など無いから、この一連の作業を一つの眼鏡にカバーしてもらわなければならない。
 一つの眼鏡で、何から何まではっきり見られるなら、結構な話だ。ただ、全ての対象が同じレベルでシャープに見えることはないだろう。例えば見える範囲が狭まるとか、若干ゆがみが生じるとか、完璧なものはなかなか手に入らないのではないか。
 守備範囲が拡がれば、どこかに手抜きが出るのは、よくあることだ。どちらを選ぶか。

 グズグズ思案していても仕方がない。
 近所の眼鏡店、「パリ・ミキ」に行ってみた。
「四つ使っている眼鏡を一つにまとめてみようと思うんだけど、近くから遠くまで同じようにはっきり見える眼鏡なんて作れるの?」
「新聞などで宣伝していますが、今の技術で全てを完璧にカバーするのは無理です。近くを主体にするか、遠くを主体にするか、どちらかに絞って頂かないと、目の方が参ってしまいますね」
 商売っ気がないのか、正直なのか、店員が分かりやすく説明してくれる。

「それなら、近くを見るのを主体に作ってみてください。葉書の文字が読みやすくなり、且つ数メートル離れたTVも、その眼鏡を掛けたまま見えるように調整してほしいな」
 検査用レンズを何度も入れかえ、細かい調整をしてレンズが決まった。


 数日たって受け取り、実際にかけてみると、守備範囲は確かに拡がっている。が、なぜかしっくりこない。かけ続けていると、慣れて馴染んでくる、という感じでもない。
 眼鏡に限らず、身近な道具の使い分けは難しい。しかし煩わしさがあっても、時と場合によって使い分けるしかないな、というのが結論だった。


                         Googleイラスト・フリーより

ストレスは必要なり  青山貴文

 新橋のエッセイ教室に通って、10年近くになる。

 毎月1回、エッセイ教室の穂高健一先生と十数人の生徒仲間とお会いし、事前に配布されたお互いの作品について批評しあう。
 当初、教室で褒められることは少なく、どうしようもない作品が多かった。それでも、10年近くやっていると、それなりの評価を頂くようになってきた。それらすべてを、必要に応じて修正し、選ぶことなく無作為に毎月1回、私のブログに載せている。

 上手く書けるときも、下手なときもある。ただ、書いているときは最良の作品を書こうと懸命に苦心している。
 エッセイ教室の仲間内では、書くネタが無くなったと思い込んだり、あるいは新たな習い事に注力する人など、この教室をやめていく人もいる。

 私も、そろそろやめるかなと思い詰めたりしていると、
「エッセイは書くネタがなくなってから、本当に味のある、読者に感動を与えられる作品が書けます」
 と、先生は私の心を見透かすようにおっしゃる。そのノウハウを求めて通っているが、未だにどのように書けばよいのかよく解らない。

 その一方で、以前と同じことを教室で聞いたにも関わらず、「あそうか、そこが問題であったか」とか、「こんな光った表現になるのか」とか、一瞬ひらめくことがある。自分の作文力が、先生の言うことを理解できる段階になり、閃いたのかもしれない。そして、自分のノウハウの一つに加わってくる。

『継続は力なり』とはよく言ったものだ。自分の力が、ほんの僅かに上向いてきたり、あるときは下向いたり蛇行しながらもほんの僅かに上昇してゆくのだと思う。
 よって、先生の助言を聞き漏らせないよう、エッセイ教室は休むことなく、毎回出席を心がけている。

 エッセイの投稿納期が近づいてくると、推敲中のエッセイ数編の中から、
(今月は、これにするか)
 と、選べばよいのだから、余り心労にはならない。心労は、健康に良くないというから、作文力の乏しい私には適切なやりかただ。

 ところが、手持ちの推敲中のエッセイが少なくなると、しだいに不安となり、大きな精神的な苦痛が生じてくる。何とか拙作でも良いから数編を書き上げ、推敲するエッセイ群の仲間にしている。
 それらを、数日、時間をかけて推敲する内に、思わぬ優れものに化ける時がある。だから、推敲は面白くてやめられない。

 油絵で、絵の具を混ぜ、塗り加えている内に、思わぬ傑作ができてくるのに似ている。どうも、私のエッセイは、偶然性が大きく影響しているようだ。
 一方、緊張感が無いと、人間いい加減になり、怠惰になるともいわれている。すなわち、少しの刺激は必要であると感じる。


 NHKの早朝4時過ぎのラジオに、「明日への言葉」という番組がある。一分野で事をなしとげた90歳前後の多くの方が、大切なことは「挑戦」だと語る。挑戦は、多大な苦痛を伴う。この苦痛が大切らしい。
 先日、この番組に出演され、多くの患者の心の病を治されてきた高橋幸枝医師が、
「私の今日あるは、挑戦であった。100歳になったので、ほんのチョット無理をすることにする」
 と、仰っておられた。
 百歳になったので、無理をせず、ゆっくりしようと言わず、少し無理をしようと言っておられた。人間、何歳になっても、少々のストレスは必要ということらしい。

 さすれば、私はまだまだ挑戦しなければならない。あと、20年は、生ある限り、挑戦しよう。ただ、この挑戦は、事を成し遂げた方の生き方だ。私のように中途半端な者は、もう少し楽しい方法を考えることも大切であろうと、逃げの手も考えている。ここに、事を成し遂げられなかった凡人のしたたかさがある。

 エッセイ教室は、毎回新しい短文を提出しなければならない。よって、都度、適度な刺激を与えてくれる。いいものを趣味にしたものだ。
 趣味の一つになったエッセイを書けなくなったら、自分の成長代もなくなった時と、あきらめようと考えている。

 若い頃、嫌っていた作文に、こうまでのめり込んだのは、なぜだろう。
多分、私のブログを多くの読者が待ってくれているからであろう。その読者の中には、適切な批評をくれる方もいる。
 自分でも上手く書けたエッセイだと思う時は、それなりの意見をくれる。不毛・不作のときは、やんわりとその改善点を突いてくれる。中には、核心を突いて、厳しく批評してくれる方もいる。どちらの批評もうれしいものだ。
 読者のために、いや自分のためにも、適量のストレスを頂きながら引き続いてエッセイを書くことにしよう。            

7月のつぶやき 桑田 冨三子

 7月は、七夕に詩歌を短冊にかいてそなえる月だから文月、夜は月が明るく、すずやかだから涼月ともいうそうだ。

 昨日は、わたしの誕生日だった。傘寿のお祝いと書かれたカードがついた花束が届いた。息子家族からだった。孫の佳凜から電話が来た。
「お誕生日おめでとうございます。ねエ、オーミ(ドイツ語・お婆の意)。オーミは、ほんとに30なの?」
 声のトーンが、いかにも訝しげだ。
 電話の向こうは、さぞかしアンビリーバブルといいたげな顔付きだろうと想像し、思わず笑ってしまった。
「3年生じゃァ、未だ傘という漢字、習ってないよね」

 夕方からイル・デ―ヴの「魂のうた」リサイタルに出かけて行った。
 イル・デ―ヴは、4人の男性ヴォーカルで全員、主役級のトップオペラ歌手である。
 前半は一人づつのソロであったが、後半は、かもめ、サボテンの花とか懐かしい昭和ソングス、特攻隊員への鎮魂、復興、未来の子供たちへ、など、「魂のうた」と名付けただけあって、内面的メッセージがよく伝わってきた。
 輝かしい歌声や、極上の男声合も、大変、楽しめるものだった。

 特に最後がよかった。
 それはイル・デ―ヴ版アレンジ・本邦初演の「花は咲く」であった。歌の最後の歌詞、いつかは生まれる君のために・・・、私は何を残しただろう、は何度も繰り返された。
 山下浩二のバリトンの響きは素晴らしく、望月哲也の振るえる抒情的テノールは、心の琴線にふれた。会場の人々はみな心を奪われ、感動で魂を揺さぶられた。

 鳴りやまぬ喝采の中に、壇上の司会者は一人のうら若き女性を見つけて、皆に紹介した。それは、今歌った歌、あの3.11の「花は咲く」の作曲者・菅野ようこさんであった。日本だけでなく、世界の人々を感動に導いた歌の作曲者は、謙遜で美しい、しなやかな人だった。

 久しぶりに感動したコンサートが終わり、家へかえって一人に戻ると、なんだかあの歌が、あの歌詞が、いつまでも心に残っている。

 80年も生きてきたわたしは一体、何を残したのだろうか?これは、かなりきつい問いかけだ。


 自然界の生き物は皆、子孫を残すと死んでしまう。
 生まれた川に戻ってきて産卵を済ませた鮭が、すぐ死んでしまうのを見たことがある。子孫を残せば、それで生きる役目は終わるのだ。
 生殖を済ませた後でも長く生き残っているのは、人間だけらしい。特に女性は閉経後も、とても長く生きることが出来る。進化論学者が言ったのを聞いたことがある。
 人間という種が長生き出来るようになったのは、それが種にとって有利だからです。その種にとって有利なことだけが、進化するのを許されるのです。

 フウン、そうなのか。
 でも、長生きすることが人間という種にとって有利とは、一体どういうことなのだろうか?


 進化論学者は、こうも言っていた。子どもを産んで良く育てる。
 これは人間という種にとって大事なこと。でも子どもの代だけでは心配だ。その子供がちゃんとまた子供を産んでよく育てられるかまで、見守る必要があるのです。
 だから、我々は、働く息子夫婦の孫の世話を引き受けるというのは、長生きするようになった進化の重要な要素なのです。 

                       完

              イラスト:Googleイラスト・フリーより

テル先生 遠矢 慶子

 ごっとん、ゴトゴト、ゴトゴト。飛行機は、深夜の羽田空港に着陸した。

  隣に座っているテル女史先生をそっと見る。ほっとした表情、やっと日本に戻って来られたという10年の疲れと安堵が顔にも表れている。 二人分の荷物をカートに載せ、車椅子のテル先生とタクシー乗り場へ急いだ。最終便で人影もまばらの空港待合室。テル先生が八十二歳で急にオーストラリアに移住して、ちょうど十年が経っていた。


 私は、学友たち4人でブリスベンの友人所有のコンドミニアムに長期滞在をしていた。毎日ゴルフにショッピングと遊びまわっていた。
 少々飽きてきて、やっとアデレードに住む先生に電話をかけてみた。
「とにかく1日でも2日でもいいから、アデレードに来てちょうだい」
 一人異国で住むテル先生に会わずに帰国するわけにもいかず、懇願されて、西オーストラリアのアデレードに飛んだ。

 7年ぶりに会う先生は、外国人のように体いっぱいに喜びを表し、両手を広げてハグされた。
 毎日、車椅子を押して一緒に街を歩き、いつも厳しい表情の凛とした先生が、信じられないほど優しい。
「お願いがあるの。私に日本に帰るチケットを買ってきてくれない?慶子さんと一緒に帰りたいから」
 弱音を吐いたことのない、いつもと違う表情で訴える眼差しに、私も
「分かりました」と、一人でダウンタウンのJALのオフィイスに行った。


 東京行きは満員で、大阪行きがやっと取れ、大阪から国内線で羽田へ飛ぶことにした。 帰国当日の朝、小さなバッグを持ったテル先生は、広いコンドミニアムに何もかも残して、急に帰ることに何の未練もない様子だった。

 私が45年前、葉山に越した時、母に「先輩が葉山に住んでるから、一度訪ねてごらんなさい」と言われた。
 一色海岸を見下ろす高台のテル先生の家を初めて訪問した。ちょうど先生は、主婦たちに英会話を教えていた。即、私も入会させられた。

 佐藤テル先生は1904年生まれ、英語学校を出て、その頃としては珍しい職業婦人で、日本進出のフォード社で働いた。
 戦後は磨きのかかった英語力で駐留軍の司法政治の顧問、教科書の翻訳とキャリアウーマンとして活躍した。


 その間、登山に目覚めニュージランドへ女性五人の遠征隊の隊長として最高峰クック山に登る。得意の語学力で、ヒラリー郷やノーマン・ハーデイと交流を深め、その頃、女性アルピニストとして一世を風靡した。

 世界的な登山家というと、がっちりした体格の真っ黒に日焼けした体育系の女性を想像する。テル先生は原節子そっくりの色白で、鼻が高く美人で外国人のようだ。そのうえおっしゃれで、白髪に紫色がトレードマークだ。

 葉山国際交流協会、湘南ウイメンズクラブとつぎつぎと国際的組織を作り、その行動力と企画力には感心する。

 そんなテル先生が急に思い立って、82歳でオーストラリアに移住するという。移住先は、何回も訪れたニュージランドでも、2年留学したアメリカでもなく、訪れたことのないオーストラリアで更に驚いた。世界の経済を考えてのことだった。

 その後、テル先生の住む町と葉山町は姉妹都市となり、賑々しく市長、議員らが大勢アデレードに集い、私も公費で、初めて参加させてもらった。
 その時が、テル先生の人生最後のハイライトで、その後、両市とも不景気で、学生の交換も途絶えている。

 私に付いて帰国してから、テル先生は元気を取り戻し、ネイビーの婦人たちとの会、山岳協会の名誉会員としての会合に、私はよく運転手をしてあげた。


  時々おのせした車のシートがしめっていることがあり、誰からともなく会員に
「テル先生、時々おもらしすることがあるので、横須賀ベースの家に行くときは、当番が必ず先生のために座布団を持参するように」と、申し伝えが来た。
 ある時、東京の山岳クラブの会合に出かけるテル先生を、逗子駅に送った。
「お気を付けて、いってらっしゃい」と、車から降り改札口に向かうテル先生の後ろ姿に声をかけ、思わず
「あっ! 大変、どうしよう」
 スカートのお尻の辺りが丸く大きく、濡れているのがありありと分かる。
自分のことのように狼狽してもどうすることも出来なかった。

 歳をとることの残酷さを見て、何とも悲しく、おそろしくなった。

 92歳でオーストラリアから帰国して8年、先生は、100歳の時久里浜のホームに入られ、102歳で、波乱万丈の輝かしい生涯を終えた、
 私の最も尊敬する女性、佐藤テル先生、天は頭脳、行動力、語学力、健康とすべてのものを与えてくださったが、子供もなく、最後は一人だ。
 どんな人も、人知れない苦しみを背負って生きている。

                           【了】

                           
            イラスト:Googleイラスト・フリーより

 

変わらない坂道 吉田 年男

 中学校の正門まえの路を歩いた。そこは自転車に乗って走ってみないと判らないくらいのわずかな起伏がついている。

 我が家からその路までは、トウモロコシなどが植わっていた広い畑を通って行かれた。直線にすると500mにも満たない距離であった。その路に立っていると、始業ベルを聞いてから畑を突っ切って登校していた懐かしい中学生のころを思い出す。

 畑だったところは、今では全て宅地に変わってしまい、二階建てなどの高いたてもが立ち並び、路も、中学校の校舎も我が家からは見えなくなった。
 都内を歩いていると、目印にしていた家やビルなどが、いつの間にか取り壊されて、街並み、風景が変わってしまうことがある。ここはどこなのか? 一瞬迷ってしまう。

 そういう時に、私がたよりにしているのは、路の起伏であり、曲がり角などの形だ。建物は変わっても、わずかな路の起伏や曲がり角をチエックすることで、変わる前の街の風景が見えてくる。


 JR市ヶ谷駅をおりて、外堀通りを飯田橋方面に向かって歩いた。いつも定量の水を蓄えている堀は、どこからの水なのか? ふっと思った。
 都内でも比較的高台の城西地区に水源をもつ、何本かの河川からという話を聞いたことがあった。起伏のことを考えながら歩いているうちに詳しく知りたくなった。
 時間をつくって調べてみたいと思う。
 東京の坂を撮影した写真展を観た。大きいサイズのものから小作品まで50点の、魅力ある写真が並んでいた。リストには、なんと展示作品の十倍の501か所の坂の名前が記されていた。あらためて東京の起伏の多いことにビックリした。


 501か所のうちの神田明神坂や昌平坂など300以上の坂の名前は、江戸時代からのものとリストに書かれていた。起伏や土地の形状は、大火や震災、戦災などに遭っても、そう簡単には変わるものではないのだと改めて思った。
 中学校正門前の緩やかな坂道は、周りの景色は目まぐるしく変わっても、そのたたずまいは、中学生のころから半世紀以上も全く変わっていない。

 その坂道を見たくなれば、思い出した時に、いつでもすぐそこに行かれる。ながく地元に住んでいるからできるありがたさだ。

 些細なことであるが、中学校正門前の、緩やかで変わらない坂道をみると、落ち着いてきて幸せな気持ちになる。

【了】


           イラスト:Googleイラスト・フリーより