元気100教室 エッセイ・オピニオン

好みの陶器  廣川 登志男

 今年の正月、玄関の三和土(たたき)にある下駄箱の上に、干支のお戌(いぬ)様の置物がなかった。6年ほど前から、その年の干支の置物を飾ることにしているのだが、お戌さまは、まだ持っていなかった。

 正月も終わりに近い頃、
「ゲン担ぎかも知れないが、そろそろ近場の笠間か益子の窯元に行って干支の手ごろな陶器を探そうや」
 と、妻と話していた。
 そんな中、新聞に『大陶器市』なる広告があった。
 場所は千葉県の日本ハムファイターズ鎌ケ谷スタジアムの特設会場。2月3日から16日まで開催されるとあったので、さっそく初日の3日土曜日に出かけた。

 渋滞もあって、会場に着いたのは、開場時間の10時を20分ほど過ぎたころだった。開場直後にもかかわらず、第一駐車場は満杯。少し離れた駐車場に車を置き、会場まで歩いた。
 特設会場は、仮設テントを繋げたもので、さほど大きくは見えなかったが、中に入ると結構広い。それに多くのお客で賑わっていた。

 全国の有名どころの陶器が、ところ狭しとぎっしり並んでいる。有田・伊万里・九谷、それに、私の好きな美濃・志野・信楽・瀬戸などがある。
 高価なものは数十万円。安いものは一個2、300円で、手ごろなものも並んでいる。全部を見終えるのに、2時間半ほどかかった。

 私たちは、まず干支の「戌の陶器」を探した。しかし、残念なことにそこにはなかった。干支にまつわるものは、年の変わる年末に出るようだ。
 次に、湯飲みとしても使える、素焼きで模様のない単純な形の「蕎麦猪口」を探した。


 現職時代、私が会社で使っていたお茶碗を、女性事務員が、新しいお茶に入れ替えようとして割ってしまった。恐る恐る私の所に謝りに来た。
 後日、代わりの茶碗を持ってきてくれた。茶色の薄造りで、手触りが何とも言えない素焼きのものだった。大きさもしっくりと手になじむ。
 その事務員は、私の秘書の役割もする、気立ての良い可愛い女性だった。それもあって、長いこと愛用していた。

 しかし、その後の転勤間もない職場で、私はうっかりそれを割ってしまった。
 仕方なくその後は、普通の湯呑み茶碗を使っていたが、割った蕎麦猪口を忘れられず、陶器店や窯元に行くたびに、同じようなものを探していた。

 今回も、その素焼きの蕎麦猪口を探した。目についたものは、ほとんどが、波模様が入っていたり、肉厚だったり、釉薬をたっぷりかけてすべすべだったりで、幻滅してしまった。

 蕎麦猪口も良いのが見つからなかったので、今度は、お酒を美味しくいただける「ぐい吞み」を探し回った。
 お気に入りのぐい吞みとは、何といっても、わが手のひらにしっくりと収まる大きさで、粗削りのゴツゴツ感のあるものだ。
 現役時代、二次会のあと、いつも一人で立ち寄った、馴染みのスナックでのぐい吞みがそれだった。ママが私のために探し求めてくれたものだ。残念ながら、そこはすでに閉まっている。

 5年ほど前に、陶器の中でも私の好きな、美濃・信楽・志野を見に、岐阜・滋賀を旅行した。そのとき、好みのぐい吞みを8つほど求めた。
 美濃焼の一種の黄瀬戸は、肉厚で釉薬をしっかりかけたものだ。ゴツゴツ感はないが、手にしっくりとなじむ。鼠志野も同様だった。
 これらも酒を美味しくしてくれるが、特に気に入っていたのは、織部と伊賀、それに信楽のものだ。薄く塗った釉薬とゴツゴツ感のお陰か、手にしっくりとなじむ。

 最近は、錫製チロリでつけたヌル燗をこれらでチビチビやるのがたまらない。そして、その都度スナックママを思い出す。
 好みの陶器には、それを愛用した時代の、素晴らしい思い出が隠されている。素焼きの蕎麦猪口、ゴツゴツ感のあるぐい吞み。どれもその通りだった。


 次は、陶器ではないが、透き通ったウィスキーグラスを探してやろう。底が、丸く厚い形状をしているが、決して転倒しないグラスだ。ストレートかロックで、好きなシングルモルトの「ボウ・モア」を飲もう。

 このグラスは、茅場町にある、入り口がくぐり戸のバーで、私専用に使わせていただいた。他にお客がいないとき、妙齢のママとしっとりと飲んでいた。

  イラスト:Googleイラスト・フリーより

近場のラグビー観戦   青山 貴文

 冬の朝陽が射しこむ書斎で読書をしていると、ノックをして妻が入ってきた。普段はかたちばかりのノックしかしないが、何か改まったときは、慇懃にノックをする。
「午後から、ラグビーの試合見にいかない。優待券があるわよ」
 と、『ジャパンラグビートップリーグ熊谷陸上競技開催』という優待券付きのビラを、机上に広げた本の横に大切そうに置く。朝刊の広告の中にあったらしい。

 今日、12月10日は、「パナソニックワイルドナイツ」対「宗像サニックスブルース」の試合が組まれている。午後1時、キックオフだ。陸上競技場は、自宅から車で30分くらいに位置する熊谷スポーツ文化公園内だ。

 昼からさしたる用もない。久しぶりのラグビー日和だ。妻も私も、ジャンパーの下に重ね着をし、マフラーを首に巻きつけて着膨れ状態だ。格好など、どうでも良い。温かいウーロン茶を魔法瓶に入れて出かける。

 来年9~10月は、この熊谷ラグビー場で、ワールドカップが開催される。現在、国の予算も組まれ、観客席を拡げるために大工事中だ。数ヶ月後は、立派なラグビー場に生まれ変わり、国際ラグビー観戦には多くの外国人もやってくるのだろう。

 公園正門から一番奥に立地する陸上競技場に着いてみると、観客数は思ったよりも少なく、全座席の3分の1の入りだ。
 しかしながら、試合開始のころには半分以上になってきた。広々とした緑の人工芝の競技場を見渡すだけで、日常のこまごまとした心配ごとなど忘れる。明るくゆったりとした気分になれる。こんな豊かな気持ちになれるのは、われわれだけではあるまい。

 わたしたちにとっては、どちらが勝っても負けてもよい試合だ。いろいろ日常生活用品でお世話になっているパナソニック側の席に座ることにする。
 午後の燦々と輝く太陽の光が背中に暖かく当たっている。眼前のグランドも逆光でないので、まぶしくない。一般席としては、まずまずの席だ。


 広い楕円形のグランドに、がっちりとした体格のカラフルなユニホームの選手たちが入場して来た。お目当ての選手が出てくると、大声でその名を呼んでいる。
 パナの青色のユニホームと宗像の橙色のユニホームの戦いだ。両軍ともに、最初は互角の戦いであったが、やがて自力の優っている青色軍が徐々に点数を稼いでいく。青いユニホームの速力抜群の選手のトライに、「ナイストライ」と、口々に叫ぶ。みんな手をたたき、身体を揺すっている。周囲の観客の目も、一様に輝いている。

 十数分もすると、知らぬ観客同士にも一体感が生まれてくる。自分がトライしたかのように喉が渇く。温かいお茶がなんとうまいことか、一瞬の幸せを感じる。


 試合を見ながら、35年前のころ、フットボール観戦をしたことを想い出す。
 そのころ、ミシガン州アルマ町に、妻と2人の小学生の娘たちと家族4人で住んでいた。自宅から徒歩で、10分くらいのところにアルマ大学の陸上競技場があった。地元の高校生のフットボールの対抗試合がよくおこなわれた。多くの住民が、家族連れで応援していた。わたしたちも休日には子供2人を連れて、よく応援に出かけたものだ。

 ミシガンの夏は日本の高原の気候に似て涼しく、応援も半ズボンであったが、冬になると雪が数センチ積もり酷寒となる。そういう過酷な自然条件でも、夜間照明の下で、高校生たちは、果敢に試合をしていた。
 その家族や地元の人たちも、厚手の防寒着に身を包み、あるものは毛布にくるまって応援する。中にはウイスキーをなめながら応援している人も居る。選手がトライすると、歓声を張り上げて、夜の冷気を揺るがす。見ず知らずの観客同志、目を見合わせて、にやっとする。
 これぞ、ヤンキー魂ではないかとうれしくなった。
 妻や私は、この光景にアメリカの質実さと剛健さを感じ、アメリカが大好きになった。そのうえ、応援する楽しさを知った。

 数年後に帰国してからも、スポーツ観戦の楽しさに惹かれ、ゴルフ、野球、テニス、サッカーなど野外の観戦に、夫婦で参加するようになった。
 歳取ってきても、外気に触れて知らぬ者同士で楽しく観戦が出来る。良き趣味をもったものだと思っている。

 特に熊谷ラグビー場には、無料の練習試合を狙って毎年出かけている。その都度、メリハリのきいた生活が可能となる。
 今日のラグビーの試合は、前半で青が橙を14対0と圧倒し、休憩になった。私たちは、夕方の用があるので、この時点で最終結果を見ることもなく退出することにした。幸い、試合終了後でなく、公園周辺の車の大渋滞もなかった。
 冬の太陽がまだ西方の青い空に輝いているなかを、家路に着くことができた。
 
         イラスト:Googleイラスト・フリーより
 

ふたりでひとり 森田 多加子

 夫婦という単位になって58年。男女の役割は、結婚したころのままずっと続いていた我が家だが、最近、夫婦間の仕事の役割が曖昧になってきた。

 重い荷物を持つ、ビンの蓋を開ける、電球の取り換えなど、今までは夫がやっていたのに、いつの間にか私の仕事になっている。
 電球の取り換えを、私がやるようになったのは、夫に比べると、高いところに上るのは、まだ私の方に安定感があるような気がするからだ。


 しかし怖い。若いころには、このくらいの高さに登ることなどは何でもなかった。たかが電球の取り換えじゃないかと思うが、足元が安定しないこの作業は、非常に怖い。おまけに頻度が高いのだ。


 平成元年に家を建てたときに、蛍光灯の明るさが嫌いだという夫が、室内の大部分を電球にしてしまった。リビングには装飾的な室内灯が二か所あるが、それに4個ずつ付いている。ほかに単独に天井に直接ついている電球が4個、合計12個だ。

 LEDという半永久的な電球ができたので、室内灯など変更できるものは徐々に取り替えていった。しかし、天井の4個は調光システム(明るさを調節できる)になっていて、LEDが使用できない。
 同じものが寝室にも4個ある。
 門灯などを含めると、調光システムの10個の電球を取り替える作業は、私にとっては、わりに早めにまわってくる。
 どうしてこんな不必要なものにしたのかと、少々腹もたてている。

 1個でも切れると、光は弱くなる。暗いのは嫌だ。仕方がないので、天井につくくらいの大きなスチールの脚立を買ってきた。重いが安定感はある。それでも足元がおぼつかないので、夫にしっかり支えてもらう。
 電球一つ取り替えるのに、夫婦二人で大変な思いをしなければならない。脚立に登れるのもいつまでか、と心配になっている。


 夫はというと、キッチンに立つことが少しずつ多くなった。料理教室に月に一度参加していて、かれこれ7年になる。
 ある日、帰宅してみると、食卓に二人分の料理が並んでいた。「ジャガイモのガレット・ベーコンエッグ添え」なるものだそうだ。
 一見、ちょっとした店のランチに出てくるようにきれいに盛り付けてあった。
「おお、やるじゃない!」
 ジャガイモを細い千切りにして固めたガレットは、なかなか美味しかった。


 最近は、レシピを見ながらの料理ができるようになったのだ。子どもたちが来るというと、張り切って何やら作る。
 勿論、必要な買い物も自分でする。正月には、ココットを買ってきて、「筑前煮」を作った。レンコン、ゴボーなど、硬い野菜が、ほどよく柔らかくなっている。
 悔しいけれど味も良い。子どもたちからも大変評判がよかった。

 ……が、考えてみると、何をするにもまず形からの夫。テニスをするからと、ラケット、シューズを揃えたが、何度やったのだろう。
 登山のリュックと靴、キャンプの道具一式、一番長く続いたゴルフの道具もたくさんあるけれど、今はやっていない。
 ココットが同じ目にあわなければいいのだが。

 ともあれ、最近の二人は、今までの男の仕事、女の仕事を越えてしまった。

 二人とも体力が落ちてきているので、どれが男の仕事か、女の仕事かなど考えることもない。二人でできることをやっていくしかない。
 結婚した58年前には、夫が料理を作るなど、思ってもいなかった。
 夫「作る人」私「食べる人」。ああ、善きかな。


                     イラスト:Googleイラスト・フリーより

コストコ•カークランド 遠矢 慶子

 30年前、初めて夫とアメリカへ行った。

 ワシントン州シアトルから車で40分のカークランドに、オズボーン夫妻を訪ねた。彼らは、前の年に、我が家に一週間滞在した関係で、1年ぶりの再会は懐かしく、嬉しかった。ミセスは、太った大きい体一杯に、その喜びを表わし、両手を大きく広げて迎えてくれた。

 カークランドは、アメリカで初めてヨットハーバーが出来た海辺の町だ。
 毎日、車で川のある別荘や、あちこちと観光案内をしてもらった。
 ある日「今日はスーパーに行きましょう」
 と、連れて行かれたのが、大型スーパーコストコだった。


 体育館のようなドームのような建物、中は一面に広がるデパートのような、大規模の売り場のある平屋の建物。あまりの大きさ、広さにびっくりした。
「グレート!」
「ヒュージ!」
 と、私の知っている(大きい)という単語が思わず口から出た。

 エデイー夫人は、「驚いただろう!」と、私達のびっくりする様子に、満足げに胸を張って喜ぶ。
いきなり大国アメリカを見せつけられた。

 胸の高さ位はある大きなカートを押して、天井のバカ高い売り場を歩く。カートは子供が五、六人は乗れる大きさだ。
 実際、カートに子供を3人乗せて買い物をしているファミリーもいた。売り場の広さと品物の種類の多さ、大きな段ボール箱が、レンガのように高く、天井まで積んであり、あの上の段ボールはどうやって取り出すのだろう。

 野菜、果物は段ボール単位で買う。大きな肉のかたまり、カニの足の束、鮭一匹、人間が食べる量とは思えない大量売りに、一瞬たじろいでしまう。
 大箱に入った派手なデコレーションのケーキ類、ロールパンは200個単位でビニール袋に入っている。まるでサンタクロースの持つ袋のようだ。

 衣類から電気製品、食器、皮製品、宝石と、食品スーパーというよりは、店員のいないデパートだ。
買い物客はそれらを、慣れた手つきで大型カートに、溢れんばかりに積み込んでいる。
 確かにすべて大量だが、安さには、更に驚く。

 なんと私達も、天井につけるプロペラファンをつい買ってしまった。

 30年前に行ったアメリカで、びっくり仰天したコストコが、日本でも同じ規模のスーパーで、広がりつつある。
 1999年からコストコが日本に参入し、今や、全国30店舗を構えて居る。

 私の住む葉山町も、日本で初めてヨットハーバーが出来た場所で、海を目の前にして、入江になったハーバーと、どこか似ている。

 友人に誘われ、車で横浜のコストコへむかった。逗子の山を越え金沢八景に出る。金沢八景は都市計画が良くされている町で、広い道路、幅の広いグリーンベルトと、車にやさしい道路だ。30分ほどで会員制のコストコに到着、会員は、2人まで友人を同伴出来る。

 私達3人は、それぞれ大きなカートを引いて自由に買い物をして、時間を決めて、レジの前で落ち合うことにした。
 アメリカで出会ったのと同じ、胸まである大型のカートを引く。
 大量のトイレットペーパー、菓子類、果物、野菜、缶詰め、鶏の丸焼きを、カートに入れても、底の方に小さく収まっている。レジで精算すると1人3万円位、普段のスーパーの買い物よりかなり多い。二階の広い駐車場に、がらがらと、3台のカートを引いて行き、車に積み込む。見境なく三人が買った品物は、トランクと後部座席の半分には収まらない。

 3人で、顔を見合わせ、呆れた顔で、
「どうしよう!」
 上に上にと積み込んで、膝の上にも乗せて、帰ることにした。
 それぞれ三軒の家に運び込むのも、また一仕事だ。
 何でもかんでも、その安さと量に、見境もなくカートに入れてしまう人間の心理を上手く捉えている。
どの段ボール箱にもKIRKLANDの英語の文字が付いているのを見つけ、30年前に訪ねたカークランドが、コストコの発祥の地だと初めて知った。


 海辺のハーバーのある小さな町が、世界を制する大型スーパーを作ったのには驚き、感心した。
カークランドのオズボーン夫妻も亡くなられた。
 コストコ•カークランドが、日本に進出し、30店舗もあると知ったら、彼らも、どんな顔をして、喜び、得意になったことか。
 世界はどんどんボーダーレスになって来ていると痛感した。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

大山詣り 石川通敬

 11月21日朝9時、バスは丸の内を出発した。目指すは縄文時代から2000年の歴史を誇る大山の阿夫利神社である。

 この日は、前日の雨が嘘のようにあがり、年に何日あるかと思われるほど、雲一つない秋晴れとなった。
 お陰で首都高速を経て厚木までの一時間、道路の屈折に従い左右の窓ガラス越しに、次々青い空を背景とした雪化粧の富士山の姿が、ダイナミックに目にも鮮やかに表れた。大山詣りというと地味な印象を与えるが、期待以上のサプライズの発見と感動に満ちた小旅行だった。
 富士山はその始まりだ。
 厚木インターを出ると、伊勢原経由大山のふもとに半時間ほどで着く。

午前11時少し早いが、当地の目玉料理、豆腐のうまい茶屋で昼食をとる。腹ごしらいが終わると行動開始だ。神社参拝には、ケーブルカーも利用するが、まず乗車駅まで400段の階段を登らなければならないという問題がある。
 私はこのツアーの幹事の一員だったので、企画を考えた時この点を心配したが、歩き始めてみると、左右に切れ目なく並ぶお土産物屋や、豆腐料理が売りの旅館、お休みどころが点在し、階段を上る苦労を忘れさせてくれた。
 なかでもひときわ目を引くのが、赤、青、紫の絵付けで仕上げられた縞模様の「大山コマ」だ。江戸時代から300年以上子供たちに人気があったそうだ。地元では「人生が上手く回る」等といい、縁起物だという。

 その他にも、昔ながらの銘菓やキャラブキ等の山菜の佃煮、地元の名水で仕込まれた酒など、バラエティーに富んだ品々がいろいろ並んでいる。
 つい衝動買いをしたくなるが、バスガイドさんから、買物は重くなるので帰りにしなさいとアドバイスされていたので、誘惑に負けず、400段の階段を登り無事駅に着けた。


 平日にもかかわらずそこは混雑している。会社は10分おきに臨時便を運行して対応していたが、それでも全便満席で、通勤電車並みの混み具合に驚かされる。なぜか考えてみると、三つのことに気が付く。

 大山は平成28年に日本遺跡に指定された。これを記念して50年ぶりにケーブルカーを新造したところ、同年のカーオブザイヤー賞の栄誉に輝いた。加えて我々が来たこの週が紅葉を愛でるライトアップの週であったということだ。

 混み合う車内で6分ほど我慢し、ホッとした気持ちでケーブルカーの終点駅を出ると、想定外の情報が伝えられた。
 なんと参拝する阿夫利神社までさらに100段階段を登る必要があると言われたのだ。ちょっとショックだったが、気を取り直し歩くことにした。

 こうした気分を吹き飛ばしてくれたのが、見ごろの紅葉だ。
 特に済んだ空気から差し込む太陽光を受けたもみじが、真紅に輝くさまは芸術品だ。神殿は、赤、黄色の木々が色付く山を背に正面に鎮座している。今登ってきた方向を振り返ると、眼下に明るい水色の相模灘が広がり、はるか遠くには伊豆大島がかすんで見える。その雄大さは感動的だ。

 紅葉を愛でた後、直ぐ参拝。その流れで同神社内にある、さざれ石の展示会場を訪ねた。さざれ石と言えば、誰もが君が代を思い出す。
 しかし、それがどういうものであるか、誰からも教えてもらった記憶はない。そこには石灰を含んだ水が小石を固め岩のように育った高さ一メートル程のものが置いてある。展示物以外何の説明もないので、家に帰ってからいろいろ勉強した。

 まず原産地は岐阜県伊賀山。全国の神社仏閣に奉納されている。その中にはずいぶん大きいものもあり、苔が岩を覆うように生したものもある。ついでに君が代ができた経緯を調べると、歌詞は10世紀の「古今和歌集」にある短歌で、以後江戸時代まで広く祝い唄として邦楽の中で唄われてきたそうだ。明治になり外交儀礼上国歌が必要となった政府が、これに目をつけ曲をつけたというのが歴史だ。

 まさか、ここで君が代につき勉強させられるとは思いもしなかった驚きだ。

 参拝後は、お土産物屋さんを冷やかしながらの下山でなかなか楽しかった。境内の案内板によれば、江戸時代人口が100万人の時、年間二〇万の参拝客でにぎわったと書いてある。当時の様子が今も落語や浮世絵に遺されているそうだ。
 大山信仰の特徴は、他に例を見ない庶民参拝で、江戸の鳶など職人衆が、巨大な木太刀を担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指したと言われている。東京にいると過疎地と思いがちな大山だが、参道沿いで営業している店、豆腐料理屋、旅館の賑わいを見ると、そうだったのだろうと納得する。

 下山する途中ふと気が付いたことがもう一つある。
 昼食の時給仕してくれた仲居さんの言葉だ。夫は大工さんだという明るい女性だ。自分は自由気ままに生活しているといいながら、気さくに老人たちの相手をしてくれた。
 お陰で華やいだ気分で食事が楽しめた。思いだしたのは、彼女が老人たちをからかうように「私現役よ」と笑いながら立ち去ったときの言葉だった。忘却の彼方に沈んだ昔懐かしい男社会の温泉旅館時代の香りが残っていたのだ。

 大山詣は、信仰と参拝後の楽しみを求めて集まった江戸庶民の一大歓楽街であったのだとの
認識を新たにした。これが最後の発見だ。
 大山は、山まるごと一つのミュージアムだと誰かが書いているが、全くその通りと同感できたバス旅行だった。


イラスト:Google写真・フリーより

緩やかなカーブ   吉田 年男

 神田駿河台下の三省堂出版部だった。バイトの仲間は、明治、中央大などの文系の学生が主であった。当時文系の学生の多くは、マージャンをやったり、映画を見たりして、学生の身分を利用して時間的に余裕のある生活をしているように思えた。

 そのなかで法学部のK君は、時間を惜しんでは司法試験の勉強をしていた。理系だった私は、授業について行くのにやっとで、時間的に余裕がなかった。お互いになんとなく話をするようになった。昼飯は駿河台下交差点の信号を渡った角の洋食店に、二人でよく食べに行った。

 仕事も慣れてきたときに、彼と一緒に通信販売の業務をすることになった。
 当時の通販とは、手紙で注文を受けていた。封書の中身は、本の名前が書かれた便箋と代金の切手がはいっていた。本の名前と冊数などを確認して、売上伝表を作成し、倉庫から本を受け取る。そして郵便局から注文主へ発送する。
 売上伝票を書くときは、声を出しながら作業をするようにとの指示があった。彼が読み手で、私が台帳に記帳する係りになった。


 彼は事務所に居る人によく聞こえるように、大きな声で伝票を読み上げる。その声は朗朗として滑らかで聞き取りやすい声だった。

 K君の訃報が届いた。喪中はがきでの連絡であったが、差出人はK君の奥さんだった。奥様やお子さんからのものがよく来るようになった。自分が後期高齢者の年齢をすぎていることを再確認させられた。
 と同時に訃報をみて、大きな声と屈託のないK君の笑顔が浮かんだ。あらためてもっと頻繁に会っておけばよかったと思った。

 今でも忘れられない。喪中はがきを見たときに、学生アルバイトをしていたときの声が聞こえてくる気がした。不思議な気持ちになった。
K君との記憶は残念ながら頭の中だけのことだ。街並みは変わっているだろうが、彼と一緒に居たところは実在している。急にその場所に行ってみたくなった。
 郷愁を感じながら、靖国通り、駿河台下交差点まで来た。斜め前にバイトをしていた三省堂の建物が見える。建て替えられていたが場所は変わっていない。
交差点から淡路著方面に向かっての緩やかなカーブ。その場所に身を置いてみると、路面の起伏、位置関係などが、当時と変わっていない。今立っているところが不思議なくらい昔の儘に見える。
よく通った洋食店の所は、ハンバーク店になっていた。たくさんの若者たちがその前を行き交う。風景は変わっても、街を包みこんでいる空気、靖国通りを行き交う車の音などは、臨場感を持って当時を思い出させてくれる。駿河台下交差点からみえる緩やかなカーブは、K君との思い出として強く印象に残った。

甲箱ガニと「ちろり」 廣川 登志男

 昨年十一月に、加賀市大聖寺にある家内の実家から、例年通り甲箱ガニが送られてきた。首を長くして待っていたカニだ。早速、ご馳走になった。

 甲箱ガニはメスのカニで、オスはタラバガニとよばれる。大きなオスのタラバガニは、美味しいのは確かだが、高値のつく料亭などに売られ、地元庶民の口には入らない。しかし、地元の人はそれを悔しがることなどない。

 確かに小さいので、身は少ないし殻から外すのにも一苦労するのだが、身の甘さに加え、甲羅の中にあるオレンジ色の内子と、卵の外子、それにミソが格別の味なのだ。
 地元の人は、その美味しさを知っているのでタラバガニよりも甲箱ガニを好み、市場に届くとすぐに買いあさって無くなってしまう。

 そのカニを実家が送ってくれる。始まったのは家内と結婚した年からで、私のカニ好きを知って、ご両親が毎年送ってくれるようになった。お二人ともすでに他界されたが、跡を継いだお姉さん夫婦もそのまま送ってくれている。

 家内もそこで生まれ育っているので、当然、好物で食べたがると思うのだが、
「私、小さいときからおやつ代わりだったから、食べたいと思わないの」
 と、1杯くらいしか食べない。
 おやつ代わりだったからと言っても、美味しいのは変わらない。私に食べさせたいのだろう。お陰様で、残り十数杯は、全部私のお腹に入る。もちろん一晩で食べてしまうのではない。二杯ずつを六,七回に分けていただいている。
 本当にありがたく、私に食べさせようと我慢している家内、そして送ってくれる実家に心から感謝している。


 カニの食べ方はいろいろあるが、酒飲みというのは、その美味しさを倍加してくれる日本酒を必ずお供にする。それも、人肌の燗酒だ。
 時には、甲羅に熱い酒を注ぎ、ミソを溶かしていただくこともある。

 我が家でも、カニには熱燗、それも人肌と決まっている。酒の種類は、辛口だ。それを「ちろり」で温める。
 石川県の地酒では「天狗舞」などの三大銘柄に加え、「加賀鳶」などが有名だ。隣の福井県では「蟹至福」などが挙げられる。地酒の話になると大変になるのでこの辺でしまいにするが、温める酒器の「ちろり」が、これまた素晴らしい。


 昔、赤ちょうちんで一杯やっていた頃、店では、直径30センチくらいの鍋でお湯を沸かしていて、その中に、二合ほどのお酒が入るアルミ製の「ちろり」で燗をつけていた。

 我が家の「ちろり」は、同じように二合のお酒が入るが、材質は結構重たい錫だ。陶器の器と木枠がセットになっていて、名前は『蓋付き錫ちろり ミニかんすけ』。お値段は少々張って、二万円前後なのだが、これを家内が、「カニは人肌の熱燗に限る」の私の言葉を聞いて、誕生日祝いに探して贈ってくれた。

 陶器にチリチリの熱い湯を入れ、そこに酒の入った「ちろり」を浸ける。すると熱い燗酒になる。少し冷ましたお湯で浸けると、丁度飲み頃の人肌になる。
 冷酒を飲みたいときには、「ちろり」を冷蔵庫で冷やし、陶器には氷水を入れることで簡単に作ることができる。同様にして、冷たいワインもいただける。

 最近、電子レンジで温める「レンチン」なる言葉が聞かれるが、そんな即席の方法では味もそっけもない。風情もない。
「ちろり」を使うと味がまろやかになるという。
 能書きには、『香りが冴え、お酒自体に芳醇さが増し、まろやかに、また口当たり良くおいしいお酒が飲める』とある。錫は、熱伝導性が高く、イオン効果もあってお酒をまろやかにするのだそうだ。確かに、「ちろり」を前にしてお酒を飲むと美味しく感じる。なので、同じ錫製の猪口も買い求めて、冬の晩酌を楽しんでいる。


 この頃は、その効能を信じて高価な大吟醸や吟醸酒の代わりに、庶民的なパック入りのお酒を飲んでいる。それでも、美味しく楽しめていられるのは効能のお陰か。いまではかなりな節約モードになっている。
 ひょっとしたら、家内の思惑はここにあったのかもしれない。
 そういえば、「ちろり」をくれた時に、こんなことを言っていた。
「どんなお酒でも、これで飲むと美味しいらしいわよ」
 そこら辺の意図があったのかどうかわからない。そうだとしても、美味しい甲箱カニと、美味しいお酒を楽しませてくれる「ちろり」を贈ってくれた、家内の優しい心遣いに感謝している。

傘寿の同期会   武智 康子

 同期会というのは、同じ時期に入学、卒業、入社などをした人の集まりのことである。それが、傘寿ともなるとその会を世話する人もされる人も、自身の健康のことや伴侶の事もあって、だんだん足も遠のいてくるのではなかろうか。

 傘寿の会は、人生の一つの節目、いや、公として最後の会になるかもしれないと思われる。

 昨年、私はこの傘寿を祝う同期会に小、中、高校と大学からの4通の案内状をいただき、喜んで出席した。それぞれに趣きがあり、懐かしい友達との語らいの中に、エピソードあり、失敗あり、苦労ありと有意義な会合であった。


 先ず5月半ば、最初に大学の同期会。この会は卒業後58年ほどになるが、お互いに専門も近く、よく会合もあったので特に特別の事も無く、一泊の温泉旅行だった。

 次に、6月末、戦中戦後の疎開先の小、中学校合同の傘寿の同期会である。父の仕事の関係で福岡で生まれた私は、小学校2年の半ばに大分県との県境の浮羽群吉井町に疎開したのである。それは福岡の爆撃の一週間前だった。

 戦後、偶然に焼け残った自宅には両隣の方々が住み着いておられ、食糧事情のこともあって、すぐには福岡に戻れず、吉井町に住み続けた。
 この町は造り酒屋をはじめ、材木商や地域で有名な製粉会社、そして昔のいわゆる庄やなどが多々あり、町として経済的に恵まれていたので、私達も生活し易く、私は沢山の友人達と親しくなった。

 結局、この町で私は、小、中学校の7年間を過ごした。

 約60年振りに訪れた吉井町は、私の想像より近代的になっていた。
 駅前のビジネスホテルで始まった傘寿の同期会では、遠来の私を歓迎してくれたが、失礼ながら名前の分からない人も何人かいた。
 そして、話に花が咲き、宴たけなわになった頃、私をびっくりさせる出来事が起こった。


 それは、一人の男性が突然告白したのだった。
「僕は、伊藤さん(私の旧姓)が好きだった。なかなか言い出せなかったが、伊藤さんが福岡に行ってから、何度か手紙をだしたが返事をもらえなかった。大学生になってからも大学祭に行ったが会えなかった。本当に残念だった」
 私は、本当に驚いたのだった。

 私にとって身に余る話だったが、手紙の件は、恐らく厳格だった両親が私にわたさなかったのであろう。私は見た事がなかったのだ。私は、申し訳ない気持ちで、この年になって謝ったが、実はこのことは地元では有名な話で、皆知っていたそうだ。

「知らぬは、本人ばかりなり」ということだったのだ。

 彼は、町の有力者の息子で、学校の成績も良く坊ちゃん育ちだった。地方の医大を出て、今はもう引退しているが、医者として町で開業し、町の医療に尽力したそうだ。


 東京に戻った私は、このことを主人に話した所、主人は「それは残念だったな~」と言って、茶化されてしまった。
 
 小、中、高校の会では、大学と違って色々な職業の人が居て、話題に尽きない。


 秋には、高校の傘寿の会が東京で行われ、大体サラリーマンが多かったが、今回私の前に座った彼は、大学を出て証券会社に勤めたあと、脱サラをして東京のど真ん中である半蔵門の、あるビルの地下で魚屋をしていたという。
 私は、そのような所の魚屋にどんな人が買いに来るのだろうか、と思い尋ねた所、大半は料亭用だが一般には、近くにある国家公務員官舎の奥方達が客だそうで、皆、高級な魚を求めていくそうである。

 要するに、料亭にしろ結局はお役人用の魚屋だったのである。彼の経営は上手くいき、財を成して65歳で店を閉じたそうである。魚屋にも定年があったのだと大笑いになった。

 他にも、戦火のイラクに行ったことのあるプロのカメラマンの体験談など聞き、貴重なひとときだった。


 11月の下旬には、福岡第一師範男子部付属国民学校という、いかめしい名前の学校の入学時の同期会からも案内状をいただき、初めて出席してみた。
 私は2年生までしか通っていないが、出席してみて驚いた。
 居た居た、幼稚園から一緒だった懐かしい顔の友人、5人に72年ぶりに再会したのだ。

 お互いにいろいろな運命を辿っていたが、入学試験の問題が兵隊さんの行進の絵の説明だったり、教育勅語を冬の寒い講堂で直立不動で、出てきた鼻水もすすることもできず、辛かったことなどなつかしい話題で話に花が咲いた。
 誰かが、一寸だけ教育勅語を口ずさむと次々と言葉が出てきて、80才にしてすらすらと言えたのには、我ながら驚いた。

 余程、何度も復唱させられたのだろう。教育とはこういうものなのかと、教育の重要性を検めて考えさせられたのである。

 今回、4つの傘寿の同期会を通じて、私達の80年の人生には、多くの事があったが、全てを乗り越えて、今があることに感謝したいと思った。

 また、これからもできるだけ元気で、迷惑かけないようにして楽しく過ごしたいと心に誓ったのだった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

昔のズボン  青山貴文

 初冬の静かな朝陽が、引き戸のガラスを通して居間の奥深く射しこんでいる。
 先日、大きく茂った木蓮の枝を、身の丈の高さに思い切って切断してもらった。お陰で居間が明るく、居ながらにして青い空がみえるようになった。

 私が、この陽の当たる居間の安楽椅子で、朝刊を広げて読んでいると、
「このズボン、裁断して使用してもよいかしら」
 と言いながら、妻は思案しかねて、暖色系の派手な柄のズボンを持ってきた。
 いつもならば、私に尋ねることもなく、断捨離をするところだ。

 新聞を片手にもちかへ、身体を捻って眺め入る。橙と黄とこげ茶色の大柄の縞模様で、布地もしっかりしている。
 若い頃、ゴルフズボンに使用していたものだ。少し派手だが格好良く、まだ新品のように折り目が付いている。

「捨てるには、もったいないね。最近、ウエストを絞っているから穿けるかな」
 と、立ち上がって、その派手な細いズボンを両手で持って腰に合わせてみる。
「だめよ。 まだあなたが若いころのズボンよ」
 と、妻は穿けるはずがないと自分の見立てに自信を持っている。


 私も、多分無理だと思ったが、着ているゴム紐付きの普段着のズボンを脱ぐ。生白いかっこうわるい両足を、妻の前で見せるのは気恥ずかしいものだ。

「あら、丁度よいみたいね。今着ている紫色のジャンパーとよく似合ってよ。余り上にあげてはみっともないわよ」
 と、妻は、大もうけしたと、喜んでいる。布地として利用しようとしたものが、本来のズボンとして使えるのだから、もっともな反応だ。


 私は、この6~7年歩きに徹している。夏の暑い日は早朝から、他の季節は、昼間から夕方にかけて毎日3~5キロ歩いている。さらに、この1年半前から、社交ダンスを習い始めて、ウエストを極力絞る努力もしている。

 この細いズボンをするりと穿けた時の感触は、何か新たな若々しい肉体に変身したのではないかと嬉しくなった。
 ご婦人が節食してスリムになり、若い頃のスカートが穿けて小踊りして喜んでいるという記事をよく読むことがある。

 私も、何か新たな気力が湧いてきて、そのズボンをはいたまま二階の書斎に駆け登る。窓際に立てかけた等身大の鏡に向かって、ちょっとルンバのステップを踏んでから机にむかった。

アホらしい話だったけど  林 荘八郎

 大阪にいる父からの突然の電話だった。
「気をつけろよ。お前が自動車事故で大けがをするか死ぬという相が出ていると八卦見にいわれた」
 またかと思った。

 父は家に神棚も仏壇もおいて、毎朝のお祈りを欠かさない人だった。何事につけ八卦見へ行き、占ってもらう。お寺でも神社でも構わず詣でた。

 わたしは就職し上京して間もない頃で、昼も夜も自分で車を運転する外回りの仕事を受け持っていた。確かに事故の心配がないわけではなかった。さらに仕事柄、酒気帯び運転をすることが多いのを父は知っていた。
 しかし、そんなことを言われても仕事を変わるわけにもいかないし、笑って過ごしていたが、やがて父は上京し、一層注意するよう真面目な顔で言い残して帰っていった。


 父の八卦見頼みの歴史は長い。わたしの名前を決めたときの話を聞いた。
「荘」という字が好きなので、親が徳太郎だったことから「荘太郎」と名付けたかったという。しかし八卦見に、
「『太』の字の中の『﹅』は災いのもとだ。末広がりの『八』が良い」
 といわれ今の名前に決めたそうだ。

 商売の都、大阪にはお稲荷さんを敬う人は多い。

 わたしの勤め先は大阪が本社の会社だったが、創業家はお稲荷さんを社長室に祀り、稲荷祭りという行事を設けていた。その日は業務はせず、役員一同が参拝したあと各部署が順次お参りし、社員は稲荷寿司をもらって昼に退社した。

 父は終戦後十年経ったころから、大阪の船場で毛織物の仲介業を始めた。
しかしそこは、誰かが儲けた分を別の誰かが損をしているような厳しい世界だった。父はたたき上げの商人ではないため厳しさに欠け、お人よしで決して商売上手ではなかった。思うに切羽詰まった状況に追い込まれることが多かったのだろう。お寺も神社も当たり構わず詣でたことからも分かる。

 わたしが結婚相手を決めて両親に報告したら、暫くして八卦見の結果を伝えてきた。
「運勢を見ると、相手の星の方が強い。このままでは結婚後、直きに別れるかお前の方が若死にする。二人にとって不幸だ。ふたりで八卦見へ行って直接に話を聞いてきた方が良い」

 しつこく促され、二人で大阪まで行き、父の信用する八卦見を訪ねるハメになった。そこは三軒長屋の中の一軒で、厳かな構えではなかった。先客が去ったあと、六畳くらいの部屋に通されて、四角い大きな火鉢を挟んで易者と向かい合った。
 彼は灰の上に火箸で字を書き、
「あなたの若死にを防ぐには、相手に名前を変えてもらうのが良い」
 という。
 説得力がなく、根拠が疑わしい、非科学的なアホな話と思った。
二人で顔を見合わせ、どうする? と聞くと、
「私は名前を変えません」
 相手の気持ちを尊重したわたしは、父の心配を押し切るような形で結婚した。
「当たるも八卦当たらぬも八卦」というが、思うにあの頃は生きるために、みな必死だったのだ。家内安全、無病息災、商売繁盛を願い、八卦見を頼る人は多かった。
 父もその一人だった。

 わたしはこれまで切羽詰まった立場に追い込まれて神仏を頼みにしたくなる状況に出会っていない。運転では、いつの間にか丁寧で慎重なマナーが身に付いた。これは父の願いが通じているということなのだろうか。

いまも八卦見の言葉を思い出す。

 妻の星は確かに強い。しかし、わたしの人生の末広がりは当たっていたのであろうか、それともこれから実現するのだろうか。

 日の出、日の入りの神々しい太陽に、あるいは雪を頂いた富士山の厳かな姿に出会うと、自然と手を合わせる。家族の安全と幸せを願っている。
 父と似たことをしている自分に気づき苦笑している。

 
イラスト:Googleイラスト・フリーより