元気100教室 エッセイ・オピニオン

青い眼がほしい 金田 絢子

 2019年8月、黒人の女性作家トニ・モリスン(米国人)死去の報が、新聞に載った。

 彼女は、1979年「青い目がほしい」で文壇にデビューし、自分の子が奴隷になるのを逃れるため殺害する女性を描いた「ビラヴド」で88年ピュリツァー賞を、93年にはノーベル文学賞を受賞した。

 まず私は、デビュー作の「青い目がほしい」を読みたいと思った。

 書店に置いてなかったので、アマゾンから娘に取り寄せてもらった。題名に魂をゆさぶられ、黒人のみじめさ、黒人の少女ピコーラのかなしみに、単純にひき入れられると決めてかかっていた私は、正直まごついた。


 同書は、私がこれまで手にしたどの物語ともちがっていた。
 私は、つっかえ、つっかえ読んだ。二度目にやっと半分くらい理解した。モリスンさんは「ピコーラを憐んでしまう解決法は避けたかった」としている。

 急に、それまでとまるで関係のない場面が出てくるが、それらをていねいに読み解くと、モリスンさんの言いたいことが見えてくる。


 例えば、チョリーーピコーラの父ーの生い立ちが語られるが、チョリーは生まれてすぐに母親に捨てられ、親から何も教えてもらえずに育った。
 黒人故に貧しく、それは代々続く屈辱的なものである。

 チョリーがたえず酔っぱらっていることは、妻のプリードラヴにとって自分たちの人生を何とか耐え得る材料になる。チョリーにとっても妻は、実際手で触れ、傷つけることのできる数少ないものの一つなのだ。

 妻の上に、はっきり言葉にできない怒りや、挫折した欲望のありったけをぶちまけ、暗い野獣のような形式にしたがって、お互いに傷つけ合う。二人とも口には出さなかったが、殺し合いはしないという了解が成り立っていた。

 ピコーラは思う。この眼があおかったら、私の顔が黒くなくてかわいかったらチョリーもミセス・プリードラヴもちがっていた筈だ。
「まあ、きれいな眼をしたピコーラをごらん。わたしたち、あんなきれいな眼の前じゃ悪いことをしてはいけないわね」
 チョリーもプリードラヴも、どうしようもない黒人の宿命に苛立って、激しいけんかをするのだ。モリスンさんは言う。


「人種差別が毎日の生活の中で、いかにひとを傷つけるか。黒人対白人の人種差別だけでなく、人種差別のある社会では、その影響は人種内にも出てくる。

 昔、子供たちと読んだ「ドリトル先生」にしろ「チボー家の人々」、シュトルムにしても白人優位の小説である。
 彼らは有色人種を虫けらのように思っていたのだ。

 アメリカが日本に原子爆弾を落としたのだって、東京大空襲で、未曾有の殺戮を行なったのも、人種差別と無縁ではあるまい。


 でも、時代は大きく変わった。少なくとも1960年代から、アメリカの黒人たちの公民権運動がさかんになった」と解説にもあるが、黒人が声をあげはじめてからの小説は、白人至上主義の内容ではなくなっていよう。

 20数年前、私と夫はスペイン旅行のツアーに参加した。旅のおわりはおさだまりのパリであった。


 パリへ向かう飛行機を待つ空港で、私とツアー仲間のS夫人とは、老いた白人夫婦を中に、四人がけの椅子にかけた。するとやにわに、心持ち体をふるわせながらマダムが、皺だらけの右手で、同じようにしわまぶれの夫の左手を固くにぎりしめてこう言った。

「ねぇ、あなた日本人よ。いやだこと」

 ただし、この語は私の創作である。彼女は険しい表情で前方を見つめたまま、無言であった。
いくら世をあげて人類平等を唱えても、潜在意識は変わらない。


「青い眼がほしい、誰よりも青い目にして下さい」
 とピコーラは祈り、奇跡を夢みて、聖職者をたずねる。

 黒い肌という地獄から浮かび上がって、青い眼でこの世を見たいという小さな女の子に、奇跡を行うことができたら、と心底彼は思う。そしてピコーラは、青い眼、だれよりも青い眼を得るが、その青い眼はピコーラにしか見えない。

 ところで私には、どうこのエッセイをまとめたらいいかがわからない。ただ、人種差別は人類永遠のテーマにちがいない、と思うばかりである。

        イラスト:Googleイラスト・フリーより

    

【元気に百歳クラブ】 張作霖爆殺の理由はこうだった  桑田 冨三子

 それは、市井に出ている有名な本達が述べる張作霖を爆殺した理由を読んだ朝起きたら雨が降っていた。いや、よく見ると雨粒は白く見える。

 そうか、みぞれになっているんだ。強く斜めに吹きつけたかと思うと渦を巻いたり、混沌の空中を乱舞し、その行方が定まらぬ。今日は冷える。


「何故この本を書いたのですか」
 昨日、私は突然、こんな質問を受けた。
(え?この本を書いて、何かいけなかったかしら)
 いぶかりながらも私はじっくりと、思い返してみた。いったい私は、此の本を書くことによって何が言いたかったのか。

 それは、市井に出ている有名な本達が述べる張作霖を爆殺した理由を読んだ私が、思わず「違います」と大きな声で言いたくなったからである。
「歴史は真実を語るべきだ」と私は信じている。


1、大江志乃夫の『張作霖爆殺』(中公新書、1989年)

「河本のねらいは、張作霖爆殺により、東方三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて、満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにあった。(16-17ページ)河本としては、日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに現場に駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力の衝突を引きおこす計画であり(後略)(19ページ)。


2、田原総一朗『日本近現代史の「裏の主役」たち」(php文庫2013年)、でこう述べている。

「河本たちは、この爆殺事件による混乱に乗じて、満州で戦争をおこそうと謀ったのである」
3、一番新しいところでは、(新潮新書、2018年刊)『決定版 日中戦争』(中の第1章で「の中戦争への道程」で戸部良一がこう書いている。

「張作霖の部下たちが復讐戦に出てきたところを武力で制圧し、満洲に対するコントロールを強めようとした、関東軍のねらいは達成されなかった」


 いったい何故、河本大作は張作霖を爆殺したのか。張作霖爆殺の目的は何であったのか。これ等の本を見ると、世の作家や評論家は張作霖爆殺の真の目的を解らずに、極めることもなく、証拠もなしに想像からこのような解説をしていると思われる。

 河本大作はその供述書で、張作霖爆殺に至ったその理由をはっきり述べている。その概略はこうである。
 北京から敗走してくる奉天軍は増え続けた。その総勢は30万人になろうとし、侮日の気運は高まっていたため、日本軍と在華邦人一般の憤懣は極点に達し、一触即発の情勢となった。
 こうした状況下でⅠ万人に満たない日本軍では、満洲各地に散らばっている在華邦人と満州鉄道の安全を護るのがむつかしくなる。
 いかにこの苦境を脱するか、関東軍司令官・村岡長太郎は日夜、焦慮し、奉天軍の張作霖総統を殺害する以外に、日中の衝突を回避する方法はないと考えた。

 満州における日本の権益を護り、満鉄やその沿線に住む日本人の生命財産を護ることが、関東軍の使命である。軍司令官のこの意図を知った各参謀は、司令官の意図の実現へ向け、ぜひとも成功させようと意見が一致し、皇姑屯(こうことん)の東方約千メートルで奉山線と満鉄線が交叉する地点に、爆破装置を設置しようと決定した。

 つまり、張作霖爆殺の目的は日本と中国の衝突を避けることであって、在華邦人の命を護るためであった。
 前述の、大江志之夫や田原総一朗、戸部良一が書いているような、満洲を占領することが張爆殺の目的ではなかった。繰り返すが、その真逆の日中の衝突の回避が張作霖爆殺の唯一の理由であった。それを、大作の目的は達成されず、失敗であったという解説は全くの間違いである。

 また、日露戦争以来「馬賊や軍閥」とは度々関係を持ち、馬賊の顧問になった経験もある大作は、「奉天軍のごとき馬賊軍団は日本の軍人とは違って、親分がやられたら子分達がカタキとして反撃をする」などの思想は皆無である」ことを知っていた。だからこの危機を脱する唯一の方法として、奉天軍の張作霖総統の殺害を選択した。

 案の定、金蔓である雇い主が倒れたと知った子分達はすぐに雇い主をかえて、離散してしまったから、張の爆死以後、奉天を始め満州各地の反日運動はぴたりと沈静化した。

 この事実を評論家たちは、「大作の目論見は失敗した」と伝えているが、これもまた真逆の解説であり、大作たちの意図した日中の衝突を回避することは護られ、大作たちの意図した所は大成功だった、と言えよう。
 この間違いの訂正こそが、私がこの本を書く一番の目的であった。

 新しい令和の時代、2年1月11日の朝日新聞には、偶然だと思うけれど、こんな記事を見つけた。
「歴史学会では新しい研究成果が不断に生み出され、通説は日々塗り替えられていく。
 作家や評論家がしたり顔で語る史論が、学会ではとっくの昔に否定された説に依拠していることも珍しくない。」
 外を眺めると、雨もみぞれも、もう止んでいるようだ。


「関連情報」

「張作霖を殺した男」の実像」(文芸春秋企画出版/文芸春秋・1500円+税)、2019年8月30日の出版。

正月に想う   青山 貴文

 令和初の静かな正月が明けた。柔らかい新春の朝陽が居間に差し込んでいる。清酒のお神酒で神に感謝し妻と乾杯する。

 昨暮、近郊の酒専門店でいろいろの銘柄(産地)と値段を天秤にかけ、いつもよりも少し高価な清酒の一升瓶を購入した。日頃でも、どの酒にするか選ぶのは楽しい買物の一つだ。


 この正月の新潟の清酒「菊水の純米酒」は、ほぼ期待通りの清酒であった。なんとも言えない新鮮な芳香と内臓に溶けこむコクのある旨い酒だ。


 私は、生来亡き母に似てアルコールに弱く、特に日本酒は独特の嫌な臭いが鼻を衝いて嫌いであった。お猪口一杯日本酒を飲むと顔が真っ赤になり、心臓が高鳴って、頭痛がして体質的に合わず飲むことを控えた。

 一方、ビールは暑い日や運動した後は、コップ一杯が最高にうまく好んで飲んだ。ただ、数杯飲むとやはり真っ赤になってだるくなり眠くなる。だから、現役のときは、酒の席が苦手であった。


 会社を辞めてから、酒の旨さを知った。亡き父のDNAに、今頃急に影響されるようになったのか、夕方になり周囲が暗くなると、無性に酒が恋しくなる。あれほどいやであった日本酒の臭いが、なぜか鼻腔をくすぐる匂いとなり、飲みたくなるのだから不思議だ。
 さらに、少しのアルコールでは顔色も変わらなくなった。面の皮が厚くなったのか、皮膚の機能が鈍感になり、表皮まで変色しなくなったのかもしれない。

 夕食時、書斎でコップ半分くらいの酒を飲んで階下の食堂に降りて行く。
「一杯やって居たでしょう?」
 と妻は鼻を突き出して臭いを嗅ぎながら言う。
「池井戸潤の本を読んでいて面白くて、酒なんか飲んでいられないよ」
 と自信を持って言う。
 妻は自分の判断ミスかと自問する。この辺のやりとりは愉快だ。父もこの快感を抱きながら、どこかで一杯やって食卓に着いていたのかも知れない。


 最近は日本酒に限る。酒好きの父が、生前「ビールは、水ぽくって腹が張るだけで美味しくない」とよく言っていた。私もそういう歳になったのだろう。

 夏になると、冷蔵庫で冷やした4合瓶の冷酒をコップ半分くらい注いで、二階の書斎で、良薬をなめるように少しづつ飲む。
 特に、大相撲などのTV放映の時は、笹沢佐保等の軽い本を読みながら、「はっけよい」の行司の掛け声で、テレビ画面に見入る。 

 ところが、この頃は友人の多くが日本酒やビールは糖質が多くて体に良くないという。ウイスキーや焼酎のお湯割りがよいらしい。糖質を摂っても、その分、大いに歩き、体を動かせば問題ないとおもうのだが。

 なんといっても、少量の酒は呑むほどに顔がほんのりと火照って、頭がもうろうとなってすべてが鷹揚になってくる。

 書斎の机上が散らかっていようが、エッセイが書けなくて期日が間に合わないだろうが気にならなくなる。今の今がほんわかしていればよい。しくじったことなど全て許されるので、ストレスがなくなる。よって病気とは縁遠くなる。


 古来より「酒は百薬の長」と言われるが、よく言ったものだ。

 父は、普段は静かな男であったが、酒癖がわるかった。特に、日本酒を呑むと際限がなかった。自説を大声で喋りだし、相手を揶揄して意見を聞かない。一升瓶の酒がなくなるまで飲んだ。そして独演者になってしまう。

 それ故に、歳をとってから友人がいなくなった。家族も、酒の席では彼と一緒に話したくなくなる。特に母は父の絶え間ない、だみ声を嫌った。
 母にとって、日本酒は気ちがい水であった。母はいつも私に言っていた。
「貴文! お酒のみになってはいけないよ」


 40数年前の古い話になるが、米国ミシガン州アルマ町に家族と共に赴任し、一年経って両親に来てもらった。母は、父に日本酒を飲ませないでほしいと懇願した。
 米国の隣人に迷惑をかけ、私に恥をかかせることを恐れたのだと思う。

 私は、そのころ日本酒の旨さを知らなかった。アルマの片田舎では日本酒は売ってないことにした。
 バーボン(トウモロコシから作った米国産ウイスキー)のボトルしか、棚に置かなかった。父は、好きでもないビールやバーボンでは酔うほどに呑まなかった。
 母は静かな父と最高の時を過ごした。逆に、父は日本酒が呑めないやるせない3か月を過ごして帰国して行った。

 日本酒の旨さを知ってから、父に本当にすまないことをしたと思うようになった。
 今となっては後の祭りだが、一度でよいからカリフォルニア米の美味しい日本酒を現地で飲んでもらえばよかったとつくづくおもう。

 正月のお神酒を静かに呑むにつけ、父のことが思いだされる。


       イラスト:Googleイラスト・フリーより

   

風景を荒廃させる者  石川 通敬

 最近「日本の美観 遮るもの」という新聞記事が目に入った。
 「清潔なのに風景が荒廃しているような状況を目にしたくない」という記事だ。

 江戸末期から明治初めに来日した多くの外国人が、日本の美しさに魅了された。
「手つかずの自然だけでなく、手入れの行き届いた農地や並木道なども感動の対象になっていた」 
 同記事によると現在「欧州と日本の違いを特に感じるのは電柱と屋外広告だ」と言う。


 電柱については、国も遅ればせながら、2016年に無電柱化推進法を施行している。

 しかし自宅周辺の現状は、やっと目黒通りと山手通りから電柱が無くなった程度だ。一方目黒駅から我が家までは数分だが、この辺りの道路には電柱が林立し、空を見ると蜘の巣のように電線が縦横にはりめぐらされている。

 かねてより私は緑豊かな街に住むことが夢であった。


 そうした街並形成に欠かせないのが、街路樹や住宅に植えられている樹々である。しかし世の中は道路を管理する行政担当者を含め、多様な人々がその管理にかかわっている。
 土地所有者の価値観や、植木屋の都合だと思うが、都会の数少ない木々が、毎年枝を払われ丸坊主にされる事例が実に多ことに私は心を痛めていた。


 そんな問題意識があって私は3年前町内会の理事に加えていただいた。
 昔は少数の戸建て住民により形成された小規模な町会だったが、マンションの増加につれ、今では加入世帯3000、役員も33人と巨大化している。一理事が貢献できる機会はほとんどないままうち過ぎていた。

 私が住む街を貫く細い道路に面した教会には桜と枝垂桜があり、街の風景に潤いを与えてきた。しかし長い間毎年枝が丸坊主に剪定さるので、かねがね残念思っていた。


 ところが10年前から枝落としが抑制さえられるようになったのだ。その結果今では2本とも大きな風格ある樹々に成長、咲き誇る桜が毎年町民を楽しませてくれている。親しくしている教会の信者に聞くと、ある神父さんが、同教会に着任した時、枝を落とすなと命令したのだそうだ。

 年に一度町内会の総会とそれに続く懇親会がある。昨年の秋の会では、私のテーブルに、その年着任したばかりの神父が同席していた。
 この教会は、夏にはビヤパーティーの場所を提供するなど、いろいろ住民に協力的だ。私は日頃からの感謝の気持ちをこめ、思わず神父に声をかけた。

「神父様、私は教会に日頃より感謝しています。特に境内の桜のお陰で、街の要『ドレメ通り』が緑豊かになっています。ありがとうございます」と。


 ところがその途端和やかに談笑していた神父が突然目をむき、顔を真っ赤にして激高したのだ。
「私は法令を守ります。申し訳ありませんが桜の枝落しは実行します」と。

 これには同席して談笑していた一同が、何事かと話をやめ緊張が走った。

 電力会社から道路にはみ出ている枝が危険なので切ってほしいと言われたに違いないと皆が思った。これにはすかさず同じテーブルにいた環境担当の副会長が、
「電線に触れないよう剪定しているケースもありますよ」
 と応酬てくれた。


 その後しばらくたって2本の木を見ると、丸坊主に剪定されずに済んでいた。ささやかだが、これが街の美化に貢献できた私の初仕事になったのだ。

 電柱と屋外広告については、気になっている事例がもう一つある。私は30年前より毎年数回蓼科に行く。
 その経路は長年中央高速道の諏訪インターチェンジを出て、お義理にも美しいと言えない新興市街地を経由してリゾート地に行ったものだ。
 そこは電柱と電線が道路沿いに立てられ、屋外広告も所狭し並ぶ全国どこにでも見られる風景だ。折角のリゾート気分がいつもここで打ち壊わされていた。

 その悲劇を救ってくれたのが10年ほど前の道路の開通だ。諏訪の一つ手前、南諏訪インターチェンジから行ける新しいルートができたのだ。


 料金所を出ると眼前に八ヶ岳連峰がそびえ、背後には南アルプスの山々が連なる。
 新しく開墾された広大な水田と畑とそこここに残る自然林が、東西南北の山裾まで広がる広大な盆地だ。

 その中心部を一本の道が貫く。この農地は諏訪神社の所有する広大な土地を、十数年かけて区画整理したものだ。特に雪の残る八ヶ岳、南アルプスは素晴らしい。
 その景観はスイスを彷彿とさせ、豊かな気分になる。多分それは電柱のない風景のお陰ではないかと感謝している。


 南諏訪からのルートを走り始めて、そろそろ10年になる。しかし残念なことにいつの間にか畑を横切る電柱が立てられ、素晴らしい風景を蝕み始めていることだ。昔仕事で日本来た人々が異口同音に言った褒め言葉は、
「日本の街はチリ一つなく清潔だ」
 であった。

 しかし一度も美しいと言われたことはなかった。
 日本人の清潔好きは世界に自慢でき、嬉しいことだが、一日も早く美しいと言われる国に戻ってほしいものだ。風景を荒廃させる物を除去しようという社会風潮がはぐくまれることを願っているが、年老いてたわごと的コメントしかできない自分が悲しい。


イラスト:Google 写真・フリーより

【元気に百歳】  ベルリンの壁   武智 康子

 2020年正月、世界各地の新年の様子が報じられていた。その中に、ベルリンのブランデンブルグの門前で、新年を祝うドイツの若者たちの姿があった。

 この門前には30年前まで、東西冷戦の象徴と言われた155キロメートルに渡る壁があったのだ。

1989年11月9日、東ドイツの民主化運動によってその壁が崩壊し、自由を求めそれを信じて多くの人が東側から西側に移入した。
 そして、1990年10月3日、ドイツは再び一つの国になった。

 その翌年の春、私たち夫婦はベルリンに滞在していた。

 学会終了後、ベルリン大学のマトロフ教授夫妻とともに、ベルリンの壁があった所に行った。壁は、粉々に壊され、小さな破片がまだ転がってはいたが、既に、ベンツセンターとソニーセンターの工事が、始まりかけていた。私たちはその脇の検問所を通った。

 東側に入ってみると、何だかガランとしていて、人通りも少なくアパートが3、4棟建っていて、遠くに列車の小さな駅が見えた。
 商店が並ぶ賑やかな西ベルリンとは雲泥の差があった。
 私たちは、30分程歩き回ったが、何だか侘しさを感じて西側に戻ったことを覚えている。そして、出口の所の小さな土産屋で、飾り物用として形の良い壁の破片を売っていたので、記念に一つ買った。確か10マルクはしなかったと思う。

 それから5年後、夫と私は、ドイツ、ベルギー、オランダの国境の三角点に位置する、中世の名残が残る都市アーヘンを訪問する機会があった。

 夫は、アーヘン工科大学での講演後、ブレック教授からベルリンが最近少し変わってきたことを聞いた。そこで、当時たまたまアーヘン工科大学に留学していた次男と一緒に、三人でベルリンを訪ねた。

 旧西側では、さらに賑やかになり、メインストリートで同性愛者の行進が行われていたことを覚えている。
 私たちは、ブランデンブルグ門を目指した。既に、検問もなく歩いて旧東側に入った。そこで目にしたのは、冷戦時に、壁を乗り越えようとして、射殺された旧東側の人たちのお墓だった。私は思わず手を合わせた。

 インフラも少し整備され、広い道路わきに小さなカフェがあった。喉が渇いたので、ちょっと立ち寄ってみた。飲み物は、全て缶入りのものだけだった。
 私は、トイレを借りた。ドアを開けて驚いた。隅にバケツに水が入れてあり、柄のない器が置かれていた。形は、水洗トイレだが、「水が出ないのだ」と私は直感した。
 よく見ると、窓ガラスも割れたままである。私は、緊張してしまった。
 

 まだまだ、旧東側は、発展が遅れていることを、身をもって感じた瞬間だった。
 後に旧東ベルリンにあった美術館などの文化遺産の建物が、危険な状態にあることも報道で知った。

 社会主義独裁政権下では、お互いの競争の原理がなく経済の発展が遅れてしまったのであろう。
 ベルリンの壁崩壊後、30年経った今、西側企業の投資や連帯税の国民の負担などで、旧東側地域の経済水準の向上もみられ、インフラも整備された。
 ただ、旧東側地域では、半分強の市民が自らを「二級市民」と言っているそうだ。現在、ドイツでは企業も教育も行政も指導的な立場の人は、旧西側の出身者が大半を占めているそうである。


 旧西側の制度に飲み込まれてしまった旧東側の人たちは、大混乱の中、努力する力がなかったのだろうか。
 いや、メルケル首相のような優秀な人材もいる。彼女は、旧東側出身の物理学者である。長い間、ドイツの首相として世界の首相の中でも、引けを取らない活躍をしている。

 一人一人は、立派な人間であっても、生まれ育った環境から抜け出すことができなかった人たちも多いのかもしれない。

 スポーツの世界においても、ドーピング違反が多いのは、旧東側の選手である。何故だろうか。
 思い当たる節もある。
 私は、スポーツは、真の身体と心体で競ってこそ、意味があると思っている。
 ベルリンの壁が崩壊して30年、今、世界の五大陸のあちこちで、火種がくすぶっている。

 私は、この令和の新年にあたって、また、冷戦の時代が将来も来ないことを、真に願ってやまない。


     イラスト:Googleイラスト・フリーより  

ダイエット 石川通敬

 二か月ほど前のことである。長年にわたり健康診断をお願いしているY医師から突然、「脂肪肝の疑いがある。精密に検査し、一ヶ月様子を見て判断しましょう」と言われ驚いた。

その上いつも温厚な先生が、いつになく厳しく、
「肝脂肪は、油断してはいけない。いつ肝硬変に移行するかわからない。多くの人が、これで命を落としています。あなたも酒を飲むなら、覚悟を決めて飲んだ方がよい」
  と付け加えられたのだ。


 この警告に慌てた私は、その晩岡山の友人に早速電話した。
 彼は高校時代のクラスメートで、中学時代から親しくしている。岡山大学の医学部で肝臓を専攻し、最後は岡山済生会総合病院の院長も務めたプロだ。
 私の話を聞くと、彼は即座に、
「それは軽度の脂肪肝だね。体重を減らし、運動をすれば大丈夫」
 という。

 ホッとしたが、折角の機会だから、とにかくダイエットをしようと、決めた。
 ダイエットは、私の長年の課題で、記憶しているだけで四十年近い歴史がある。色々試みたが、こうすれば確実に計画通り痩せられるという方法は、見つからないままだ。

 こんな体験もあり、今回もどうしたものかと考えていた矢先、近くの本屋で、「内臓脂肪がストン!と落ちる食事術」江部康二著(ダイヤモンド社)という本が目に入り直ぐ入手した。

 数か月前のテレビ放映がきっかけとなり、内臓脂肪・炭水化物をテーマにした本がブームで、ベストセラー本が続出中らしい。
 私が買った本もつい最近ある放送局が取り上げ、著者江部先生が出演され話題になった、と本屋の棚に張り紙が出ていた。


 過去の失敗の歴史もあり、半信半疑だったが、同書が書いている通りの食事をしたところ、驚いたことに一週間ちょっとで3㌔体重が減り、一月で体重の⒑%減量に成功したのだ。
 方法はごくシンプル。要は「炭水化物に代表される糖質のものを食べない」ということだ。

 私の場合は、米の飯、麺類、パンを食事メニューから除外すればよく、一方肉、魚、野菜、乳製品はたらふく食べてよいといううれしい術だ。実行すると内臓脂肪が劇的に落ちるという、アメリカで認知されつつある新セオリーだそうだ。

 著書のタイトル通り「内臓脂肪の数字はストン」と言うほどには落ちなかったが、タニタの体重計で表示される関連数値は、全て順調に減っていった。

 これに並行して、毎日飲んでいた大好きな酒を、週一日程度つき合いで飲むだけにして、自宅での晩酌は一切やめた。その結果一月後の血液検査では、努力の甲斐があり、全数値が正常値に戻った。エコー診断も問題にされずに済んだ。


 今回の出来事は、いろいろなことを気付かせてくれた。特に食事がいかに人間の命に大きな影響を与えているかを再認識させられたのは重要だ。
 書店には山ほど食事による病の克服本が並んでいる。しかしこれまで一つとして試してみようという気になったものはなかった。それはあまりにも、様々な説が述べられ、しかも短時間に結果が出ると主張するものがなかったからかもしれない。

 多くの本の中には、真に役立つ情報があるはずで、残念だが、多くの人はその恩恵浴せていないハズ。何か良い工夫がないかと思った次第。


 もう一つ、再認識したのが、よい医者とのめぐり逢いの大切さだ。人の命も医者次第とよく言われるが、今回もY先生との長年のご縁のありがたさは言うまでもない。
 一方、年に一度年賀状を交わす程度でも、中学、高校以来の友人のようなケースも大切だ。持つべきものは良き友人だと痛感。


 そして、何よりも、大いに感謝しているのが、前出の書のカバー裏に掲載されている「食品糖質量」表と妻の協力だ。
 その表には500以上の食材につき虫眼鏡で見ないと読めない程小さい字で糖質とタンパク質量がびっしり印刷されている。
 食事の都度私は、その表を見て食材を一つ、一つチェックし、糖質ゼロを目指した。これに対し妻が、毎食全面的に協力してくれたのだ。


「私がどんなに苦労しているかわかっているの」
 とぶつぶつ言うが、糖質量を最小にしながらたんぱく質と野菜が豊富な、おいしくて、ボリュームがある献立を考えてくれているのがうれしい。

 今、妻に話しているのは、目標値に到達したら
 「ソバ屋に二人で行こう」である。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

宝くじ 廣川 登志男

 神社の境内は、休日のためか多くの参拝客で賑わっていた。
 広い境内の一角に遠目でもわかる人だかりがあった。そこでは、かなりの人が、黄色い長財布らしきものを取り出し額に押しつけるようにして石造りの塊りをなでている。

 何だろうと近くに寄ってみると立て札があり、そこに「宝くじ高額当選亀 なで亀」と大書してあった。さらに、「これまでの当選金額が30億円越え」と記されている。
 これはすごいと、私たち夫婦もなで亀の背中・頭・足・尻尾と、いたる所を撫でまわした。

 今年のゴールデンウィークに、茨城県ひたちなか市にある酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)を訪れたときのことだ。

宝くじは、これまでも相当買ってきたが成績は芳しくない。というより惨敗に近い。買うのはジャンボくじだけで、一回あたり30枚9,000円の投資をする。
 累計ではかなりの高額になっているはずだが、これで当選したのは、必ず当たる6等300円と、過去に数回、五等3,000円が当たった記憶しかない。
 余りの不成績に、最近はとんとご無沙汰していた。


 しかし、今回はご利益がありそうだと、帰宅してからというもの、家内と目を合わせてはほくそ笑んでいた。
「仕事で東京に行っているのだから、有楽町の、よく一等当選が日本で一番多いという窓口で買ってきてよ。この黄色いくじ入れも渡しておくね」
「了解。だけど、お金くれよ。身銭切って買うのなら僕の取り分を多くするよ」
「えー。分け前欲しいって言うの。そんなの、うちじゃ、あり得ません」
 一旦口に出したら、梃子でも動かないのが家内だ。こっちも「そりゃそうだ」と思ってしまうので、仕方なしに引っ込んだ。


 それにしても、そう簡単に一等が当たるはずもあるまいと、冷静になるのが理系の私の性分だ。そこで、パソコンを使ってシミュレーションを試みた。

 よく使う乱数の関数と、検索機能を用いた。1回の購入枚数を30枚(9,000円)として、30のセルに関数を入れた。
 そして、昨年のサマージャンボ一等当選番号で検索して、合致するセルがあるか調べた。
 20回調べてもまったく合致しない。一回30枚程度の購入では無理か。そこで、一回300枚としたが、結果は同様だった。シミュレーションは諦めた。

 そもそも、この問題は確率論だから、計算で解いてみようとトライした。

 サマージャンボの賞は、一ユニット単位(=1千万枚)に一等から六等まで設定されている。一枚しか買わないときの一等当選確率は単純で、0・00001%(一千万分の一)。とてつもなく小さな値だ。逆に、一千万枚の全部を買えば、一等から六等まで全て当たることになる。

 賞金総額は13億7,000万円になる。一千万枚の購入額は30億円だから、16億3千万円の赤字となる。こんなことをする人はいない。

 小遣いの少ないサラリーマンが買うやり方として、私がしている一回30枚9,000円程度を前提にすると、一等当選確率は、30枚を一千枚で割り返せばよいので、0・0003%。この確率だと33万三千回買えば、買っている間に一回は一等当選を果たす。

 年一回の購入だから、33万3千年のどこかで、一回は当選することになる。気の遠くなる話だ。

 そこで、年5回あるジャンボに、毎回9,000円(30枚)を50年間続けたとしよう。それでも一等当選確率は0・075%だ。
 これは、1,333個のパチンコ玉から、50年に一回一個を取り出し、それがたった一個しかない色付きの玉を引き当てるに等しい。
 奇跡と言われるような引き当てだ。ある数学者は、何かの記事で、絶対に宝くじは買わないと言っていた。

 こう考えると、宝くじに興味を持つこと自体、何とも虚しくなってしまう。


 加えて、宝くじで億単位の高額賞金を当てた人の、その後の人生はハッピーどころではなく、かなりの人が悲惨な人生を送っているそうだ。

「折角当てたのだから、自分へのご褒美」として、ほんの少し高額のものに手を伸ばす。
 この「ほんの少し」が車・旅行・宝飾品などに広がり、あっという間に現金がなくなってしまう。

 もちろん、企業サイドも、急にお金持ちになった人の財布を紐解くための研究は、し尽くしている。
「私だけはそんなことにはならない」
 と断言する人ほど危ないらしい。

 今回の検討で、なで亀から生まれた野心が吹き飛んでしまった。もう買うことはないだろう。

 ところで、平成29年の宝くじ販売総額は約8千億円。その使途はあまり知られていない。調べたところ、概算だが、5割の千億円が当選金として還元される。
 1割の800億円は印刷代や販売経費である。残りの4割、3,200億円は、全国の都道府県と20政令都市に分配されて公共事業などに使われる。
 一枚300円の4割120円は、公共事業などに使われる寄付金なのだ。

「この売り場から一等当選者が3人出ています」などの甘い言葉で、一攫千金の夢を宝くじに載せて人は宝くじを買うが、当選せずに夢破れてもまったくの丸損ではない。


 投資額の4割は立派な寄付金なのだ。これで公共事業などが鋭意推進される。「どんなもんだ」と、意地でも思いたいだろう。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

右総代 筒井 隆一

 我が家の居間の窓際に、幅20センチ、長さ80センチほどの細長い棚がある。
 そこには、和洋酒の空き瓶が10本ほど並んでいる。家内とヨーロッパに出かけ、旅先で買い求めたワイン、シャンパン、親しい友が地方から上京した時、土産に持ってきてくれたその地の銘酒など、ここに並ぶ。
 酒瓶は、充実した酒飲み人生を歩んできた私にとって、それぞれが思い出深く、なつかしい品だ。


 その中に、筒井隆一様「セ・モア」平成元年7月26日、と焼き付けられた焼酎の徳利が、一本置かれている。この徳利には特別な思いがある。
 30年前、平成元年の私は五十歳直前で、気力・体力とも充実していた。建設中の大きなプロジェクトを何件か抱えながら、次の案件受注のため、日夜営業活動に飛び回る毎日だった。


 一見単純明快な建設業だが、最新の技術・工法を駆使し、工期短縮、コスト削減につなげたり、きめ細かい地域対応でトラブルなく工事を進めたり、複雑な推理小説を読み解くように、いろいろなやり方を求められる。
 しかし、最終的に仕事を上手く進めるには、発注者との良好な関係を作ることである。

 こちらの考えを、きめ細かく説明、提案し、それを受け入れてもらうような強い信頼関係を構築することに尽きる。
 その為には、大切な得意先との付き合いも、仕事を進める上で重要な要素の一つだ。


 当時、私たち年代の男性にとって、銀座のバーやクラブは、特別の感慨があった。赤坂や六本木にも高級な店はあったが、銀座は一味違う。格が上で、いわゆる「一流」なのだ。
 夜の銀座で働く女性もそれなりの品位を持っていた。
「昨日は銀座で飲んだ」
 という時の、なんともいえぬ誇らしさがなつかしい。
 得意先も、我々が銀座にご案内したことで、自身の評価を確認するのだ。

 私もその銀座に、大切な得意先をご案内する立場になっていた。
 言葉に出さなくとも、こちらの心情を察し、対応してくれる、気心の知れた店と付き合いを持つ必要を感じた。
 当時は得意先のお好みに応じ、それぞれご案内する店は何軒もあったが、私の気心を知って、ツーと言えば、カーとくる店は、まだ少なかったと思う。


 そのような時、先輩の紹介で利用していたクラブに、アルバイトで3年ほど勤めていた雅子さんが、銀座八丁目に自分の店を出すという。
 それならば、この際応援しよう。会社としても利用させてもらうから、我々の営業にプラスになるように、大事な得意先に対応して貰おう、ということになった。
 そして開店したのが平成元年7月26日だったのだ。


 棚の焼酎の名入りボトルは、開店に当たって特に支援し、今後もフォローしていきそうな二十人に配られたものだった。私もその一人に入っていたのだ。

 酒も飲めず、ろくに商売の柵(しがらみ)も知らぬ若い女性が、ママとして開いた店だ。前のめりで、無邪気に始めた当初は、不慣れで客扱いも、なっていない。
 店に行くたびに、絵の飾り方がおかしい、花籠の位置が違う、カラオケのボリュームが大きすぎる、などなど、細かいご指導が続いた。
 彼女も素直に受け止め、こちらの営業にプラスとなるよう、気くばりをし、かつ得意先を楽しませてくれていた。

 それが、銀座でここまで30年間続いたのは、彼女の人柄、性格、商売の堅実さだろう。


 当時、世の中は景気が良く、先を見通せない銀座のママたちは、儲けた金を無計画に使ってしまい、店が潰れたという話を、よく聞いた。
 堅実な雅子さんは、しっかりため込んでいたのだろう。その結果、無事三十年を迎えたのだ。
 半年ほど前、30周年記念のパーティーを考えているので、是非一緒に祝ってほしい、と連絡があった。

「もちろん喜んで出席させて貰うよ。大きな節目だから、皆さんにお祝いしてもらって、心に残るパーティーにしたいね。どんな段取りでやるの?」
「このお店を支えて下さって、今も来て下さる常連さんは60人位だから、2日に分けて各日ご都合のよい時間に割り振って、ご案内しようと思っているの」
「それがいい。開店当時を知っている人たちで、昔話が出来れば一番いいね」
 30年同じ店に通っても、顔を合わせたことのない人間がほとんどだ。その人たちと話をするのも面白いだろう。

「ところで筒井さんのごあいさつで、パーティーの口火を切るわね」
「俺より一生懸命通っている常連さんがいるだろう。先輩に任せるよ」
「開店の時、馴染みのお客様に、ウィスキーのボトルをキープしていただいたけれど、筒井さんは51番なの。それ以前の方は、もうお店に来て下さらないか、来られなくなってしまい、筒井さんのボトルが一番先輩なの」
「どんな挨拶すればいいんだい?」
「『30年続けて、このような記念日を迎えることができました。今日来ていただいた旧くからのお客様には、心から感謝申し上げます。右総代筒井隆一様からひと言頂き、パーティーを始めます』に続いてスピーチしてください」

 小学、中学時代は引っ込み思案のおとなしい子供で、級長、総代などには全く縁がなかった私である。まさか、この歳で『右総代』とは……。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

大観からの手紙 ~祖父清のこと~」 井上清彦

 夏の朝、「オーシーツクツク」とツクツクボウシが鳴いています。
 鳴き声に耳をすますと、「夏が過ぎてゆくのだなー」と感傷的な気分になります。8月は、沖縄忌、広島・長崎の原爆忌そして終戦記念日と続く「死者を悼む月」です。


 母は東日本大震災の2ヶ月前に亡くなり、母屋にあった仏壇を隣の我が家に移しました。
 私は、朝晩、仏壇で拝んだあと、書斎机にある、母、父そして祖父の写真に語りかけます。祖父は、明治8年に生まれ、私の誕生する3年前昭和十四年に亡くなりました。


 親は、私たち兄弟3人に「祖父は美術学校の卒業で、神社仏閣の調度品のデザインを仕事とした大変尊敬すべき人だ」と子供のころから教えた。

 母が嫁いだ際に「祖父のものは一木一草たりとも手を付けてはいけない」と祖父を尊敬すること尋常でない父から、きつく言われたという。


 子どもたちに、時々、祖父が昭和7年に建てた母屋の書院造りの座敷で、遺品の数々を広げて見せてきた。

 父が、昭和60年に80歳で亡くなったあと、母は、祖父の遺品の扱いに苦慮し、主だった遺品(殿内調度及び御神宝裂地資料)を、平成8年、神社本庁に寄贈した。

 昭和62年「東亰藝術大学創立100周年記念展」が都内各地で開催され、「デザイン・建築」展を見に行った。祖父は明治二十六年、岡倉天心が校長を務める東京美術学校に入学、絵画本科を経て、天心の発議により新設された図案科3年生に編入した。

 展覧会では、図案科の一期生(明治31年卒)の祖父の卒業制作「室内装飾図」が最初に掲げられていた。


 昨年5月、「国立近代美術館」で開催された「生誕150年記念の横山大観」展を鑑賞した。大観は明治元年生まれ、昨年は明治維新150年だった。

 美術評論家によれば、大観は夭折した画友の菱田春草と比べ、決してうまくはない。
 ただ、「朦朧体」と呼ばれた輪郭をはっきりさせない描き方や新しく作られた岩絵の具をいち早く取り入れたりするなど、新しいものを取り入れる先進性、冒険心がある。また、発想が豊かで「奇想天外」なところがあるという。


 彼らが「大観は線の書き方が下手だ」
 と批評しているのを聞くと、大家を引き合いに出して恐縮だが、74歳近くで水彩画を描き始め下手を自認する私としては、そういう大観にどこか親しみを感じる。


 祖父は東京美術学校8期生で、1期生の大観は図案科時代の恩師である。大観との関係は2つの遺品で伺える。

 一つには祖父が昭和13年に内務省を退官後、病に伏せた時に、大観からお見舞いの行灯が届けられたことだ。
 子供の頃に見せられたが、木製枠に和紙が貼ってあって、緑と墨で松林が鮮やかに描かれていたことを思い出す。
 後に母から木の枠や和紙が傷んで、保存できなかったと聞いた。


 もう一つは、大観から祖父に教えを請うことがあり、墨痕鮮やかな短い手紙と絵馬額2つが残っている。
 額は「海辺の松と朝日」と「紅梅」の2つである。「大観」のサインと落款が入っている。同封された手紙は、大きく雄渾な筆致で書かれている。


 大観が祖父に聞きたいことがあって都合を伺っている内容のようだが、くずし字でよく判読できず、ずっと気になっていた。
 先日、エッセイ教室仲間の吉田さんが、書道を通じ、文字解釈に造詣が深いことを知って、思い切ってこの手紙の解読をお願いしたところ、快く引き受けてくれた。次の教室の時に、判読結果を頂いた。
 やはり、大観が何か教えてもらいたいことがあって、祖父に都合を聞いている内容だった。

 吉田さんは、「教え子であるお祖父に、随分へりくだってお願いしていることに驚いた」と言っていた。
 大観については、亡くなる直前まで好物の日本酒を飲む酒豪で、髭をはやした豪放磊落な人物像を想像していただけに、その文面に、私は大観の人となり、人物の大きさを感じた。
 今では確かめようもないが「大観は、何を祖父に聞きたかったのか」と興味を覚えた。

 
 神社本庁の神保郁夫さん(昭和35年生まれ)には、平成8年の遺品寄贈時や、東日本大震災後、母屋を取り壊す際の遺品の扱いで大変お世話になった。
 5年前、神保さんは寄贈した祖父の作品のカラー写真と経歴・功績を7ページに渡ってまとめ掲載した鶴岡八幡宮・季刊誌『悠久』第133号を送ってくれた。

 その中に「美術学校の講師であった伊東忠太の勧めで造神宮司庁、内務省に技手として奉職。神宮を中心に殿内調度及び神宝の図案、今で言うデザイナーとして活躍した」とあった。
 読んで、初めて知ったことが殆どで、祖父清の実像がはっきりと浮かんできた。


 ちょうど1年前の8月の朝、久しぶりに神保さんから電話を頂いた。「伊勢神宮から連絡があって、祖父の遺品がたいへん役に立った。
 祖父のサンプル通りだった。天皇退位の儀式関連のようだ」との内容だった。これを聞いた私の胸に熱いものがこみ上げてきた。

 今朝も、職人のように短く刈り込んだ髪、ふちなしメガネの気難しそうな叙勲時の祖父の写真を見ていると「おれのことを、書き残すのはお前だ」と言われているように感じる。
 喜寿を迎え父の没年齢に近づいてきた私だが「祖父のことを調べる」と妻に告げたら、「自分のことも中途半端なのに、何言っているのよ」と即座に言い返されそうで、そのまま胸に留めている。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

心に残った話  吉田 年男

 日曜の昼下がり、いきつけの理髪店に電話を掛けた。「今、大丈夫?」「大丈夫です」これだけの会話で予約OKなのだが、理髪店までは我が家から意外と遠くて、歩いて15分はかかる。

 店のご主人とは、「環七通り」近くに社宅住まいをしていた時からの付き合いで、四十年近くは経過している。

 お店は道路より一段低くなっている。入って右側一面が鏡で、その前に回転椅子が三台等間隔に並んでいる。かれは仲良く奥様と二人で切り盛りをしている。
「真ん中の椅子にどうぞ」
 奥様に言われて無言で回転いすに座る。手際よく背もたれを倒して、天井を見たままの状態で、ぐるりと180向きが変える。

 頭が洗面台の定位置に止まると、奥さんが、「痒いところはない?」 と髪を洗ってくれる。あおむけに寝かされ、頭を洗ってもらう。この格好のときが一番リラックスできて、日常の煩わしいことなどが、不思議と消えてゆく感じがする。

 洗髪がおわると、ハサミと剃刀を使ってご主人が散髪をしてくれる。あいさつ代わりに彼が「いつもの通りで?」と一言言って作業が始まる。

「毎日どれくらい歩いている?」
「もうペットは飼わないの?」
「善福寺川公園の緑は、今が一番きれいだね」
 などと、ご主人とは他愛無い世間話をすることが多い。しかし今回は、ひげを剃ってもらっている時に、いつもと少し変わった調子で、彼が話を始めた。
「この商売は、ひとさまの身体に触るしごとなので、お客さんが時折見せる細かい所作を見逃せない」
「顔色をうかがいながらの作業だから、傍で見ているより、神経を使うよ」
「わからないかもしれないが、いつも細かな神経を使っているよ」
 と彼は呟くように言った。

 仕事は、何をやっても簡単ではないことはわかっているので、彼の話が初めは何を言っているのか、よくは理解できないでいた。

 彼は話を続けた。「お客さんのタイプは、大きく分けて二通りあって、理髪にできるだけ時間永くかけてほしいと思う人と、それとは反対に、出来るだけははやく済ませてほしいと思う人がいる」と言う。

 しかし、これは内面的なことなので口に出しては言う人は少ない。初対面のお客さんは、当然そんなことは言わないし、常連さんでも、その辺の心情については、はっきり面と向かって言う人は少ないと言う。

 この人はどちらなのかな? その辺の判断は、お客さんに接したときに、その人の仕草や態度を見て咄嗟に見極める。それがプロのする仕事だそうだ。

 永く理髪作業に携わっていてほしいと思うお客さんは、長ければ長いほど、自分に対して、丁寧に扱ってくれていると思うらしい。また、それとは逆に、早く終わらせてほしいと思っているお客さんは、作業のスピード感こそが最高のサービスだと考えるらしい。

 人はそれぞれで、確かにその辺の微妙な感情は、わかるような気がする。医者と患者の間でも、お互いに心を読むには時間がかかる。今はパソコンの画面ばかり観ていて、患者の顔をみない医者もいる。患者の身体に全く触らないで診察を終えてしまい、全くコミュニケーションの足りないケースもよくある。

 理髪店で、お客さんに二つのタイプがあると聞いたとき、この感覚は医者と同じで、人の身体を触る仕事に携わってみないと、理解できないのかなと思った。と同時に彼の話しぶりから、なぜかこの話は新鮮で心に残った。


イラスト:Googleイラスト・フリーより