悩むところだ
朝5時だ。二月の空は真っ暗だ。朝型なので自然と目覚める。
書斎の西側に一間幅の窓がある。その前に、2個の机を並べている。電気スタンドとパソコンがある右側の机に向かって座る。同時に、左の机上にある湯沸かし器で湯を沸かし、少し濃い目の緑茶を作る。
私はお茶を飲みながら、今朝方浮かんだ面白い文章や、数日来あたためていた話などを、パソコンに入れる。
誤字があろうが、下手な表現のままでも、文脈が噛み合わなくとも、結論は必ず入れて、とりあえず打ち込む。
打ち込んだ大雑把な文章を類語辞典や諸々の辞書を駆使して、誤字や表現の言い回しを訂正する。不適切な箇所は大胆にカットする。カットしすぎて、また新たな言葉を加える。この文章の継ぎ貼りの作業に没頭する。
窓外が明るくなっているのも気が付かない。面前の窓に蛇腹のすだれがある。ふと蛇腹の隙間から朝日を浴びた隣家の白壁に気付く。
急いで立ち上がり、南側のガラス引き戸に近づき、こげ茶色の厚手のカーテンを開く。白いレースのカーテンを通して、朝の陽光が書斎に入ってくる。
(おっと、電気代がもったいない)
と、天井の蛍光灯のスイッチを慌てて切る。
現役の会社時代に叩き込まれた「ケチケチ精神」が身に沁みついている。
真っ赤な暖かい太陽が、雲間から光り輝き全身を包みこむ。精気が身体の隅々に充填される。(今日も、頑張るぞ!)と心に誓う。
この一瞬がなんとも好きで、一日を力強く生きられる。
コロナ禍で何処にも行けなくなっても、この推敲の時間があれば幸せなのだから安上がりな人間だ。
ところが、加齢のためか記憶力が極端に減退し、何かきっかけがないと過ぎ去った想い出が浮かばなくなった。さらに、コロナ禍のため外部の方と接触がなくなり、新たな情報も得られなくなった。そのためか、いい加減な文章もなかなか出てこない。
一方、いささか古い話だが、昨年4月、私は「孤高のミニは癒やしをくれる」というエッセイをブログに載せた。
すると、元研究所の所長で、人間味のある人から、次のような感想文を頂いた。
「中高年にとって『ミニ』と言えばミニスカートです。そして『癒される』と有りましたので青山さんにもこんな一面があるのかと思って、ドキドキしながら読み始めました。予想に反し、ミニはウサギの名前でしたね。初めの下司の勘ぐりはどこかへ消え失せて、……」
とある。やはり、エッセイの題名は、この手の読者を掴むためにも、大切であると痛感した次第だ。
勘ぐるに、「ミニと来れば、青山さんの好まれるミニスカート」と暗にいっている。はなはだ怪しからんが、確かに嫌いではないから致しかたない。流石、研究所長ともなると、人を見る目が出来ている。
実を言えば、彼は私とほぼ同年配で、同期入社ではないが熊谷工場内の研究所に勤めていた。頭脳的な仕事をしながら、勤務後は暗くなるまでサッカーに興じていた。脚が長く、筋肉質で性格のサッパリしたスポーツマンだ。
他方、私は彼より少し背が低く短足で太っていた。性格は短気であったが、カラッとしたところは彼と似ていた。現場の研究係りで、フェライト磁石の性能向上のため、粉体の焼結温度や粉砕粒度の関係を調べていた。いわゆる重労働で体力勝負の仕事をしていた。
お互い若く、20才代の頃の話だ。週末になると職場の仲間と一杯やり、酔った勢いで熊谷市近郊にある太田劇場に出かけた。
劇場の暗がりの中で、ライトに照らし出された女体の肌は綺麗だ。舞台に少しでも近づこうと、まわりの人を押し除ける。肩と肩がぶつかり、ほんの数秒向き合った。
なんと、ぶつかった相手は彼であった。彼は袖を巻くって太い腕をむき出して、やるかと私を睨めつける。(こんな太いゴツイ腕と張り合っても勝ち目がないと)先を譲った。それから、親しくなった。
時は移り、二人とも太田劇場にも興味がなくなり、紳士となった。
(うむー。この辺のことを、読者は待っているかもしれない)
自分を偽らず、少し品性が落ちるが、自分とはいかなる人間かを描こうと思う。
しかしながら、妻は、品性が落ちるようなことを書くと機嫌が悪い。
同年配の読者の期待に応えるべきか、あるいは長年苦労を共にした妻の機嫌をとるべきか、悩むところだ。