元気100教室 エッセイ・オピニオン

曲がったキュウリ 筒井 隆一

 釜に湯を沸かしてから畑に出て、実ったトウモロコシと枝豆を取り、それをその場で茹でて食べるのは最高の贅沢だ、と言われている。

 大型連休の、爽やかな晴れ間を見計らって、家内と二人で農園に出かけた。園主の指導のもとに、選ばれた種と苗、肥料を使って、正しい手順で野菜作りをする体験農園通いも、もう二十数年になる。

 今日の作業は、先日の講習会で指導された、トウモロコシ、大根、カブの間引きと追肥、そして枝豆の根切りである。夏の野菜は、この時期の丹精が収穫時にものをいう。中でも、トウモロコシ、枝豆は、手入れ次第で、口では言い表せないほど、甘くて美味しくなるのだ。

 ところで最近は、夏野菜が冬に、冬野菜が夏の店先に並んでいる。それが当たり前になっているようだ。しかも、その季節外れの野菜が、売り場では主役面をしており、値段も高い。
 時期外れの野菜が年中食べられるのは、ある意味では魅力かもしれないが、どう考えればいいのだろうか。食材に対する季節感が失われ、トウモロコシや枝豆は冬の野菜だ、と思い込む子供も出てくるかも知れない。

 一方東京を離れ、群馬や栃木でゴルフをした帰りに、その土地の農協の直売店や、道の駅に立ち寄ってみると、曲がったキュウリやナス、ひび割れたトマトなどが並んでいる。家の近所のスーパーなどで売られる野菜と違って、不揃いで見てくれは良くないが、昔ながらの新鮮でなつかしい味だ。値段も安い。

 曲がったキュウリが、なぜ商品価値が無いのか、どうすれば高く売れるのか、を考えてみると、どうやら形をそろえることが重要らしい。見栄えは無論のこと、箱詰めする時に、長さ、太さが揃っていれば、効率的に、収納できるからだろう。

 子供の頃味わったキュウリ独特の青臭さや、太陽を浴びたトマトの香りは、どこに行ってしまったのだろう。形と大きさをそろえるために、本来の味まで無視されてしまった野菜は、恰好や見てくれだけが重要視されるのだろうか。

 長年一緒にフルートを吹き、ともに例会、発表会を続けている笛仲間との飲み会でも、不揃い野菜の話題が出た。
「笛の世界でも同じことが言われている」
 と言い出した男は農学部出身で、かつ大学オーケストラの団員としてフルートを吹いていた。
「どんな曲でも、同じ息遣いで平坦な吹き方しかしない笛吹きが、最近増えていますね」
「リズムを犠牲にして淡々と歌い上げるのは、ある意味では時代に合った魅力的な演奏かも知れないけれど、個性が感じられず、俺の吹き方とは合わないな」
「最近の演奏の流れを、どう考えればいいのでしょうかね」
 私には聴き分け、分析する能力もない。
 しかし彼の話では、地方に出て、その土地のフルート愛好家の演奏を聴くと、昔ながらの、感じたまま、思ったままに、個性を主張した純粋な演奏に触れることができるという。

「地方で聴くと、都会で耳にする、妙に洗練された気取った演奏とは違って、素朴さがなつかしいですね」
「そういう純粋で素朴、かつ個性的な演奏が理解されず、平板で単調な演奏が好まれる時代なのかな」
 全員が同じ、という今の義務教育基本方針に通じるのかもしれない。不揃いの野菜から現代のフルートの演奏法まで話が飛んだが、
「調理すればキュウリの曲がりなど分からなくなる。商業主義に踊らされることなく、美味しい新鮮な野菜を食べようよ」
 ということで飲み会は打ち上げになった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

ビール讃歌 林 荘八郎

「カンパーイ!」
 初夏に飲む生ビールはうまい。ビアホールでのひとときは楽しい。

 五〇〇〇年ほど前、エジプトで誕生して以来、利尿作用がある、材料のホップには男性ホルモンが豊富だといって、ビールは身体に良い酒とされ、人気を続けてきた。

 大戦後、日本経済が復興した昭和四十年ころからは、ビール消費の伸びは酒類の中では最も高かった。飲食店、中でもビールを大量に消費するキャバレーは賑わい、中元贈答も盛んだった。食事習慣も洋風化し、その味は家庭にも浸透していった。

 

 我が国はビールの作り方をドイツから学び、モデルにした。そのため原材料は大麦、ホップ、水だけに限ると定義された。すなわち、ビールであるためには醸造発酵用の原料は大麦100%でなければならない。その酒税法がずっと続いていた。

 日本のビール酒税は他国に比べ、とても高い。業界は価格を下げて消費を増やしたいと考え、課せられている酒税の引き下げを、国税庁へ求め続けた。しかし、国の税収の中で所得税、法人税に次ぐ大きな財源だ。
 ビール酒税はその中でも筆頭なので抵抗は強く、引き下げてくれない。

 平成時代に入るとその消費が減り始めた。ビールメーカーの格闘が始まった。あるメーカーは、発泡酒を発売した(平成六年)。
 原料の大麦比率を99%にして米や澱粉を混ぜた。酒税の安い製品だ。ビールと呼ばれなくても、味はほとんど同じである上に、値段が安い。消費者に受け入れられて発泡酒は大流行した。そのため、ビールの消費は減り発泡酒が増加した。

 すると国税庁は酒税法を改定し、大麦の使用比率が67%以上はビールとし、発砲酒の酒税を引き上げた。ビール酒税は七十七円(一缶当たり)、発泡酒は四十七円と定めた。メーカーは発泡酒の大麦比率を66%にして対抗した。

 今度は別のメーカーが、大麦を全く使用せず、豆や米やトウモロコシなどを原料にする酒を発売した(平成十五年)。
 ビールの風味を持ち、それも消費者に歓迎され、第三のビールと呼ばれた。今では大麦比率が25%未満の酒として立派に君臨している。酒税は二十八円のリキュールに分類されている。

 ビールメーカーと国税庁の知恵比べはまだまだ続くのだろう。


 残念ながら、ビール・発泡酒・第三のビールの消費量の合計は、十一年連続で減少し続け、ビールメーカーは頭を抱えている。その中で、発泡酒と第三のビールの割合は増え続け、国税庁にとって不都合な結果になっている。
 わたしも第三のビールの愛飲者だ。しかし昔ながらの本当のビールは、やはりうまい。その中でも生ビールは美味しい。

 いまは、居酒屋でも、回転寿司でも、ラーメン屋でも飲める時代になったが、ビアホールで飲む生ビールは最高だ。天井が高く室内が広いビアホールは明るくて楽しい。プロが、良く洗浄された大きな器に注いだビールは格別にうまい。のどの渇きを潤し、ソーセージが空腹を満たす。何ものにも代えがたい一瞬だ。

 仕事に就いて初めてのボーナスをもらった最初の土曜日。半ドンの仕事を終え、ボーナスを懐にビアホールへ向かった。
 ビールには、楽しい仲間が欲しい。音楽があると、なお良い。清酒はしんみりと一人で飲むのがわたしは好きだが、生ビールを飲むときは違う。

 若かったわたしは、興に乗って中ジョッキを十杯飲んだ。翌日の日曜日は独身寮で二日酔いに苦しみ、月曜日の出勤もつらかった思い出がある。いまでも、中ジョッキ十杯がわたしの最高記録だ。

 いまでは世界中から、いろいろなタイプのビールが我が国へやってくる。
 ドイツ産に限らず、ベルギー産もデンマーク産もおいしい。外国へ出かけて、その地のビールを飲むと、最初の口当たりは自分の好みとは違っても、暫くその地で過ごすと、その味に慣れ美味しいと感じる。

 その伝でいうと、日本人には日本の製品が一番口に合っているということになる。狭い日本で数少ない種類のビールを飲みながら、能書きを垂れていたころがなつかしい。
 日本はビール大国ではない。消費量では中国、アメリカ、ブラジルが多く、日本は七番目だ。一人当たりの消費量ではチェコ(年間一八三L)、オーストリア、ドイツが多く、日本は五十番目(四十L)だ。

 平成六年に酒税法の改正があり、ビール製造の免許が緩和された。それまでは国税庁は販売能力が二〇〇〇KL/年以上見込まれる企業にしか製造免許を下ろさなかった。酒税の財源確保のためだ。それを、六〇KL/年でも製造することを認め、その結果、中小企業にも道が開かれた。
 ビールづくりに各地の日本酒メーカーが参入し、いまでは三〇〇社に達する。はじめは彼らが製造するビールは「地ビール」と呼ばれた。それが、いまでは「クラフトビール」と呼ばれる、新しいジャンルのビールとして育ち始めている。清酒の分野で地酒が人気を博するようになったのとよく似ている。

 うまけりゃいいのだ。わたしも昔ながらのビールの定義に凝り固まっていたようだ。ますますビール談義は楽しくなる。「カンパーイ!」        


イラスト:Googleイラスト・フリーより

六兵衛さんの徳利  石川通敬

 私はこよなく酒を愛す。その種類はいとはない。料理も好き嫌いがないので、仕事に出向いた世界各地で、それぞれのご当地自慢の酒と料理を楽しんだ。
 しかし最近は年のせいか、日本酒と日本料理の比重が上がってきた。その際重要な役割を果たすのが酒器だ。

 そんなある日、妻が興奮して徳利を持ち帰ってきた。
「これH子ちゃん(妻の従姉妹)にもらったの」という。
 それは彼女たちの祖父の遺品整理の時見つかったのだ。白と藍色が美しいひょうたん型だ。
「六兵衛さん作のものだけれど、注ぎ口が欠けているので捨てようと思っているの。よければあげる」と言われたそうだ。

 私は一目見て気に入った。ひょうたんの形がバランスよく、持ち具合もいい。欠けがあっても、実用には差し支えない。
 調べてみると五代目(1875~1959年)の作品だ。もし傷がなければ私が買える品ではない。いつもの性癖で、何とかかけを修復したいと情報を集めながら、毎日晩酌で使っていた。
 しかし修復不能と分かりあきらめかけていた。そんなとき妻の兄が、日曜職人で修復してくれるというので早速頼んだ。うれしいことに結構見栄えが良くなったので、しばらくよろこんで使っていた。

 ところが寿命なのか、半年もしないうちに、突然粉々に自壊してしまった。私は、大いにショックを受けた。実は10年ほど前に京都で買った猪口が気に入り、以来愛用していた。これに六兵衛さんが加わり、満足度の高い晩酌を楽しんでいたからだ。

 最近目に着くのが、ネオジャポニスムという言葉だ。一九世紀に浮世絵が頂点になり、フランスを中心に日本ブームがあった。
 今回はアニメ、漫画等を中心に形を変えた日本ブームの再来らしい。しかしそれをさかのぼること三百数十年以前の17世紀に、ヨーロッパの人々が、日本の磁器に熱い視線を向けていたことを、多くの日本人は忘れている。
 学校教育ではろくに教えてもらった記憶がない。近年日本人が、気軽に海外に行けるようになり、各地の美術館を訪ねて、始めてその偉大な存在と歴史を知るのだ。

 ボストン、大英博物館に陳列される有田焼、古伊万里、鍋島、柿右衛門、古九谷等見ると圧倒される。小、中規模の美術館に行ってもヨーロッパの王侯貴族に、これらがいかにもてはやされたていたかがわかり驚かされる。

 一方ブランド志向の日本人が憧れる西洋の磁器、例えばドイツでマイセン、デンマークのロイヤルコペンハーゲン、イギリスのボーンチャイナ等が日本からの輸入品に刺激されてヨーロッパ人が必死に開発したなどという苦労話は、日本にいては、実感がわかない。

 茶人であれば別だが、今日自宅に自慢の陶磁器をそろえてお客をもてなす人は、ほとんどいないのではないだろうか。
 その結果、家庭内に自慢の陶磁器を揃えもつ風習はすたれる一方だ。私の両親の世代はそれでも明治、大正の生活風習が抜けなかったのだろう、今の時代では考えられない程、いつの間にか和、洋食器を買いそろえていた。遺産整理をして初めて知った始末だ。

 現在私の机に「徳利購入券 3万円」というカードが飾ってある。六兵衛の徳利を失い、嘆いている私を見て、誕生日に妻がくれたものだ。もらって直ぐ神楽坂の陶器屋に行ったが、気に入ったものは見つからない。
 話を聞くと
「近年徳利型は流行っていないので東京ではおいていない。今度京都に仕入れに行くとき探してみる」と言ってくれた。

 東京では無理かとあきらめかけていた2018年冬に、東京ドームで開催された「テーブルウェア―・フェスティバル」が目に留まった。
 さっそく期待をもって会場に向かった。しかし場内は大変にぎわっていたが、出点数が少なく、プレゼンテーション・ブースも、欧米と比較すると質量ともに貧弱で、迫力にかけておりがっかりした。
 それでもひょうたん型の徳利が一つ見つかった。当代の柿右衛門の作という。値段を聞くと十万円だ。それもさることながら、図柄が好みでなかったので買うのは見送った。

 今私が後悔しているのは、何一つ本腰を入れて勉強せず、記録を残さなかったことだ。欧米での見聞録をエッセイにしておけばよかったと今頃悔やんでいる。
 その一方で時間もなく、お金もない自分には、陶磁器を趣味にすることも、道楽に走ることもできなかった。この点いついては、自然な結果で、無駄遣いをしないで済んでよかったとよろこんでいる。

 徳利カードを眺めながら、京都の骨董屋に夢を託している毎日だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

1泊2日の「土佐日記」 井上清彦(蒼樹)

 6月4日早朝、羽田空港から高知に向けて飛び立ってしばらく経った頃だ。私の座る窓側から、富士山の位置を探す。目を凝らすと、はたして眼下の雲間に、富士山が見える。「ラッキー!」。広重の浮世絵で見たような、雪の白い筋が縦に流れている。夢中でカメラのシャッターを切る。

 今から27年前の欧州エネルギー調査団参加メンバーで、1年おきに会合と旅を続けている。メンバーが東日本、西日本に住んでいるので、交互に当番を決めている。今回は、西日本の担当で、土佐の1泊2日の旅を企画してくれた。

 龍馬・高知空港で朝10時の集合だ。羽田からの東日本組は、私を含め3名だ。西日本は、九州・佐賀から岩永さんご夫妻、大阪から池田さん、神戸から立道さんの4名、合計7名の参加だ。池田さん、岩永さんとは久々のご対面だ。岩永さんは、ご病気や交通事故の後遺症もあって、奥さん同伴の参加だった。

 運転手がガイドを兼ねる観光タクシーで、空港を出発し高知周辺を観光する。先ず、桂浜に向かう。最初の訪問先、豪族を倒して四国統一を果たした「長宗我部元親の像」に着く。元親が初陣で武功を上げた時の像だ。見上げると鎧兜に、両手に持つ長槍が格好いい。この男前の若武者は、女性にも人気があったという。その元親が初陣の際、戦勝を祈願した「若宮八幡宮」を参拝し、旅の無事を祈った。

 もう一つの見学場所、「坂本龍馬像」を見るため、太平洋に面した桂浜に出る。車を降り、上り坂を歩いて見晴らしのいい高台にたどり着く。白い荒波が打ち寄せる桂浜の長い海岸線と、緑の立派な松並木を見渡す。そして「龍馬像」に対面する。像の見ている方向は、アメリカだとか。維新後の日本の歩みや日米関係を龍馬はどのように思っているのか?

 高知市内戻り、昼食は「ひろめ市場」だ。ここで、タクシーとはお別れだ。
 市場に入ると、60軒もの店が軒を連ねている。好みの店で、食べ物と飲み物を買い、空いている席に持ち込んで食べる。私は、名物カツオ丼を買い求め、ビールは小瓶を探しベルギーの「シメイ」という僧院ビールを見つけた。餃子や、珍味もあり、気楽な雰囲気のなかで昼食を味わった。

 食事後、歩いて近くの高知城に向かう。城壁の岩の積み重なりも本格的だ。石段を何段も歩いて上り、天守閣前に到着した。
 ここまで来たので、皆、靴を脱いで天守閣に登る。天守にたどり着くと、風通しもよく、高知市内がよく見える。帰りの城門前で全員の記念撮影を通りすがりの若者に頼むと、快く引き受けてくれた。どこから来たのと尋ねると、「タイワン」との返事。気持ちの良い好青年だった。
 夜の宴会は、明治3年「陽暉楼」として創業した「得月楼」(映画化された宮尾登美子作「陽暉楼」の舞台となった)。極上の皿鉢料理、大皿二枚が、どんと卓上に並ぶ。盛り沢山で食べきれないと思ったが、中年の和服姿の似合う中居さんが、うまくとりわけ、各自の皿に盛ってくれる。
 爽やかな口あたりの日本酒「陽暉楼」を飲みながら、各自のこれまでと近況を懇談するうちに、二皿は見事に空になった。帰りは、歩いて雨に濡れた赤い欄干が光る「はりまや橋」を見て、ホテルに戻った。

 明けて2日目、朝8時30分に、高知駅前のトヨタレンタカー店に全員集合。立道さんの運転で、高知駅から「四万十川」を目指す。私が、今回の旅で一番行きたかったところだ。沈下橋を見ようと120キロ走り、「三里沈下橋」で車を降りた。近づくと、清流が見えてくる。観光客は見当たらず、鳥のさえずりの他は物音一つしない静かな雰囲気だ。

 川に架かる沈下橋は、欄干もなく、水位が上がった時には、水面下に沈む。橋を渡りつつ、周りの緑あふれる景色や、川魚に目を凝らす。屋形船が水紋を残して橋の下を通り過ぎる。
『鳥唄ふ四万十の碧(あお)夏の雲』 蒼樹

 帰路の途中、「安並水車の里」へ立ち寄る。川の支流に水車が十数基廻っていて、周りの土手の紫陽花とよく似合う里だ。今回欠席だった団長の佐々木さん(一昨年一緒に訪れた奈良井宿を描いて堺市絵画展で入選)好みの風景だ。

 昼食は、中村地域の季節料理店「たにぐち」だ。定食に加えてアオサとゴリの天ぷら、テナガエビのから揚げを、担当の長身・短髪の若い美人に注文した。仕事で何度も高知を訪れている池田さんの選択に間違いなく、文句なしの美味だ。

 食後は、道順を教えてもらった一條神社に向かう途中、店の彼女は、2度も息せき切って駆けつけ、最後尾を歩く私に仲間の忘れ物を届けてくれた。

「得月楼」の中居さんといい、「たにぐち」の女性といい、さすが、「山内一豊の妻」の伝統を受け継ぐ、土佐女の心意気を感じた。佐賀から来た岩永さんの奥様も、ご主人の健康を祈願し、四国八十八箇所の霊場を歩いて達成したという。

 今回の旅の締めくくりとして、一条神社に、旅を無事終えようとしていることを報告しお参りをした。一条家は、遠く五摂家の一つであり、中村の地に下向されて後に、ここにご廟所をお祀りしたという。京文化が根づいている。

 この集まりはメンバーの旧交を温めると共に、新しい発見、素晴らしい景観、郷土料理、等旅の魅力が溢れている。私も、喜寿を過ぎて2ヶ月、1泊2日の短い旅だったが、土佐が大好きになり、生きる活力を頂いた気持ちになった。

文化財 金田 絢子

 目黒のアトレへ買物に行った。帰り、表通りから一本入った住宅街を歩いていたら、三人の女子高生が談笑しながらくるのに出会った。
(平成二十年ごろだったろうか)

 中の一人が
「お父さんが席についてから食事がはじまる」
 と言った。すると、もう一人が大口をあけて笑いながら
「昭和だぁ」と叫んだ。

 先日(平成三十一年)この時の光景が、目の前に浮かんだ。ふと、昭和三十年になる以前、英語の授業中に、英国人教師が、たどたどしいが、やわらかいイントネーションで口にした日本語を思い出した。
「わかりなさる?」
 おそらく、お父さんがすわってから「いただきます」をするのがあたりまえだったころ、「なさる」という語は、しばしば使われていたのだと思う。
 最近は「される」に変わり、アナウンサーが「どうなさいましたか」でなく「どうされましたか」と聞く。

 言葉遣いは流動的で、次第に変わってゆくものだし、目くじら立てるほどのことではない、と考える人が大半かもしれない。
 でも、しっとりした柔らかい語調が、次々、どこか品のないものになっていくのは寂しい。

 四、五年前だが、通りを歩いていた時、私のすぐ前をゆく若い男女の、女の方が「ヤバイ」をつづけざまにつかった。
 思わずけとばしたくなったが、仕方がないので「バカ」と呟くだけにした。

 今年四月、新聞に、いつもイタリア便りをのせるS氏が、ルネッサンス期に法王シストゥス五世が、サン・ピエトロ広場からローマ中心部までを、敷石で舗装させた石畳の道(「サンピエトリーノの石」とふつうよばれている)について書いていた。
 昨今は馬車でなく、大型ダンプ、大型観光バスの時代である。敷石がぐらつき剥がれて事故が相次ぐ。市当局はアスファルトにしたいが、歴史的価値を重んじる、文化財保護局の許可が一向におりないのだという。

 S氏はコラムをこう結んでいる。
「文化財を後世に残すには、このくらいの頑固さが必要かもしれない」
 言語だって文化財である。
 右のコラムと同じころ、胸のすくような投書があった。
 タイトルは「英語重視の教育には違和感」。書き手は十六歳の女子高校生だ。まず、出だしの文章にびっくりさせられた。
「私たちの学校では、英語の授業が国語の授業よりも多い」
 教育現場では、そんなことになっているのか。とんでもないと思った。
 さらに、若者の間で、たとえば「了解」を「り」とするような極端な省略が定着してきているのだそうだ。
「日本人として生まれたからには、日本語を正しく後世に継承する義務があるはずだ」
 と彼女は主張する。まさに正論である。

 少女は、しっかと現実を見据え、母国語を大切に思っている。
 次第に私の身内には、彼女と同じ意見の若者が、きっと何人もいるにちがいない、とうれしい連想が広がっていった。

おふざけだが真面目  廣川 登志男

 4歳になる孫娘が、咄嗟に言った言葉に感心してしまった。バナナを食べさせていた時のことだ。

 孫娘が、皮の最後の所に残った短い長さの部分を食べようとしたときに、握っていた左手に力を入れすぎたせいか、スポッと抜けて床に落ちてしまった。
「バナナって美味しいけどすっごく滑るのよ! おじいちゃん」
 バナナの皮が滑るというのは、少し大人になればみな知っているが、四歳の孫娘が当たり前のように言った。過去に、皮を踏みつけて痛い目に遭ったのかどうかわからないが、小さい子供が滑ったことを心に残している。子供の観察力・記憶力は大したものだ。

 そういえば、「バナナの皮はなぜ滑る」を研究した人がいたのを思い出した。
 4年ほど前のことで、新聞で紹介されていた。

 北里大学の馬淵教授たちの研究だ。教授はその成果を論文にまとめ上げて発表していた。それをイグノーベル賞選考委員たちが見つけ出して、2019年の物理学賞を授与することになった。

 教授は関節潤滑の研究者で、関節が痛くなく曲げ伸ばしできるのには、滑りが重要だと言っている。ある著書の中で、
「関節潤滑の良さは、バナナの皮を踏んだ際の滑りの良さを連想させる」
 と記している。
 しかし、なぜバナナの皮は滑るのだろう。教授はふと疑問に思った。バナナの皮の滑り良さは当たり前のことと思っているが、その証拠のデータはあるのだろうか。
 教授はかなり調べたが、データは見つからなかった。ここで持ち前の探求心が頭を持ち上げ、「それなら自分が調べてやろう」と、調べるに至った経緯を述懐している。

 教授たちは、顕微鏡などでの調査で、バナナの皮に存在する「小胞ゲル」が靴で踏まれることで破れ、中の粘液を放出して潤滑の役目を果たすという事実を突き止めた。これを論文に仕上げたことで、イグノーベル賞受賞となったのだった。

 この賞は、毎年5千件ほどの受賞候補者から、10の個人あるいは団体に与えられる。賞の基準は、「まず人を笑わせ、そして考えさせる研究成果」となっている。
 1991年に、ノーベル賞のパロディとして創設されたもので、人間に直接役立つ内容ではないが、「少しおふざけが入っているものの、極めて真面目な研究」を対象にしている。

 ノーベル賞とは正反対な面があるが、興味深いテーマが盛りだくさんで人気がある。昨年まで十二年間連続で受賞している日本の受賞テーマを少し紹介する。

・足の匂いの原因となる化学物質の特定(92年・医学賞・神田不二宏他5名)

・夫のパンツに吹きかけることで浮気を発見する「Sスプレー」の開発(99年・科学賞・牧野武(セーフティ探偵社))

・台所の生ゴミ90%が削減可能な、パンダの排泄物中のバクテリア(09年・生物学賞・田口文章:北里大学名誉教授)

 なかなか面白いテーマだ。ひょっとすると人間に役立つものもありそうだ。
 2番目のテーマなぞは特に面白い。加えて、開発者の会社名が何とも言えない。探偵社なのだ。いつの日にかアングラ商品として売り出され、買って使う人が出てくるかもしれない。

 これまでの国別受賞者数(‘91年~‘14年)は、1位が断トツのアメリカ、2、3位に英国と日本が拮抗していて、四位を引き離している。
 英国と日本についてのイグノーベル賞創設者談を引用すると、「両国とも、研究者に変人が多いが、社会に許容されている」ことが、受賞者が多い一番の理由だと断じている。

 私は変人ではない(と思っている)が、入社して研究部門に配属された。最初に指導されたことは、
「何でも疑問に思え。ナゼ・ナゼ・ナゼである」
「グラフで、相関を示す帯から外れた異常点には重要なことが隠れている」
この『二つの教え』を肝に銘じて仕事をしていた。
 5年の研究生活の後、研究成果を現場で実機化する技術者となった。

 異動先は、同じ君津製鉄所のUO鋼管工場だった。当時は、薄板工場と肩を並べる高収益工場で、石油・ガスを運ぶパイプライン用の大径鋼管の製造を担っていた。色々な操業トラブルに見舞われたが、前述した教えを守って何とか切り抜けてきた。

 5年前にエッセイ教室に入った。穂高先生からは、「目を皿のようにして社会や自然を観察することが大事だ。そして、少しでも何か異常を感じたら、そこにエッセイのネタが隠されている」。研究と同じことを仰る。

 まだ70歳前だ。まだまだ時間はある。イグノーベル賞を狙って、とは言わないが、子供が持つ感性を失わずに、そして、『二つの教え』を守って「少しおふざけで、だけど真面目」なエッセイを書きたいと思う。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

女ごころ  金田 絢子

 作家、岩橋邦枝さんのエッセイ、「平気でばあさんという男ども」を共感をもって読んだのは、15年ほど前になるだろうか。未だに頭にこびりついている。

 彼女は、50歳そこそこで、ばあさん扱いをされた。学生たちの飲み会に仲間入りしたとき、会費が、女子は男子学生よりも二、三千円安かった。
 彼女は男性並みの会費を払い、律儀に差額を持ってきた学生に「いいんですよ」とお釣りをことわった。すると同席していた中年の大学教師が口をはさんだ。
「そう、こちらはいいの。ばあさんは女のうちに入らない」
こんな奴は、ビールでもぶっかけてやればいいのだ。


 私にもいささか苦い思い出がある。(当時、私は60代であった)近所の若夫人が娘とみちですれちがい、
「よく、お宅のおばあさまにお目にかかります」
 それを聞いて私はショックで暫く口がきけなかった。
(なぜ、お母さまにって言わないのかしら、まちがってる)
 と思ったからだ。

 我が家では、「おばあちゃん」は禁句である。
 私が四八歳の時に生まれた初孫にも「アーバ」とよばせてきた。私の気持ちを慮って娘たちは決して「おばあちゃん」とはよばない。「アーバ」もしくは「お母さん」である。

 そんなことを露知らないひとさまが、お婆さんよばわりをするのは仕方がないとも言えるが、どうしてもその時、こだわらずにはいられなかった。私は娘の母親であって祖母ではない。

 フランスでは、いくつになってもマダムだそうである。フランスはうぬぼれの強い国で私は好きじゃないけれども、”なんでもかでもおフランス”の日本人が、この風習をまねないのは、片手落ちだと思う。

 岩橋さんは、この彼女のエッセイのはじめに、
「今年は大学を卒業して40年目にあたるので、クラス会の趣向をかえて小旅行をしよう。夫婦づれ歓迎という案が出て、旧友数人で会食をした」
 のだが、中の一人が
「(主人が)ばあさん連中に囲まれておともする気はないって」
 というかと思えば
「うちもそうよ」
 なんて合づちを打つのまでいる。


 60歳を一つ二つ過ぎた女に、ばあさん呼ばわりはないだろう、と彼女は言う。
 私もそう思う。たしかにおばあさんと呼ばれただけで、腹をたてるのは度量がせまい人間のあかしには違いない。
 でも人はみな、煎じ詰めれば問題にするにも当たらない事柄に、一喜一憂する生きものではないか。
 ずっと昔、背の高い友人が、もう一人の背の高いクラスメートをさして何気ない調子で「Dさんは背が高いからいいのよ」と言った。私が背の低いことにコンプレックスを持っていたら、カチンときたかもしれない。
 私は学校ではコンプレックスの固まりだったのに、「チビ」については何とも思っていなかった。
 私は周囲の人、殊にオバサマ連にちやほやされたが、小さくてかわいいからだと勝手に決めこんでいた。

 また、小さいと年をとってから、皺なんかも全身が手狭な分、めだたなくてすむと楽観視してきた。
 ところが、ある時、私より小さくて、すっかりしなびた人を目にして、ぎゃふんとなった。老いてちぢんで歩いている姿は、目立たないの次元を越えて、いじましかったのである。勝手な思いこみをしたがる、私の性癖が地に落ちた瞬間であった。
(もうやめよう、意地を張るのは)と思った。

 ああ、それなのに、数日経ったら、当たり前のように以前の私に戻っていた。年をとってばあさんとよばれるのは当たり前、とうそぶく度量を未だもちあわせぬ、私の苦闘は続く。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

令和の花束   武智 康子

 令和元年五月二日の朝、日比谷花壇から大きな箱に入った花が届いた。

 私は、「母の日には早すぎるし、私の今年の誕生日は過ぎたし、今頃、どうしてお花が届くのだろう。いったい誰からの贈り物だろう」と不思議に思った。
 とにかく花を受け取った。伝票を見て驚いた。(U S A)という大きな文字が私の眼に飛び込んだのだ。よく見ると、贈り主は、ロスアンゼルスに住む教え子からだった。

 そっと箱を開けた。中には、ピンクの薔薇を中心に淡いピンクとグリーンのカーネーション、それに濃い紫と白の小花を散らして、それらを大きな葉っぱ五枚で包み込んだ素敵な花束が入っていた。手紙も添えられていた。

「先生、お元気ですか。日本の新しい年をお祝いします。ロスアンゼルスでも、日本人と一緒にみんなでお祝いしています」
 と、丁寧な日本語で書かれていた。

 そう、改元のお祝いの花束だったのだ。私は、相変わらずよく気が利く彼女だと感心した。
 その教え子とは、百歳クラブのクラブ誌十七号で、「日本のお母さんへ」というサブタイトルつきの手紙を、紹介したことがある彼女である。

 彼女は、京都大学経済学部の卒業式を待つだけになった三月初め、両親が滞在しているロスアンゼルスに十日間ばかりの予定で、渡米したのだ。だが、いよいよ日本に戻ろうとした時、米国を出国できなかった。彼女は、泣きながら日本語学校で担任だった私に、電話をかけてきた。手紙も頻繁に来た。パソコンがまだ普及していない時代だった。

 大使館や大学にも相談したが、私にはどうすることも出来なかった。理由もわからなかった。今は、家族全員が米国籍だが、当時、彼女は、大連出身の中国籍だった。丁度、香港の返還が成される時代だった。関係があるかどうかはわからない。

 私は、両親の下、米国のビジネススクールで、もう一度学び、会計士の資格を取得して、米国で仕事をすることを勧めた。それから半年ぐらい何も連絡がなかった。心配していたところ、カリフォルニア大学のビジネススクールで学び始めたとの手紙を受け取り、安心した。

 努力家の彼女は、その後米国の会計士の資格も取得して、順調に会計士の道を歩んでいる。現在は独立し、ロスアンゼルスの市内で、国際弁護士のご主人とともにオフィスを構えて、米、日、中の三ヶ国語を使って多くの顧客に対応しているとのことだ。今回は、彼女のきめ細かい心遣いから、きっと日本人の顧客には、花束を贈っただろうと、私は想像している。

 彼女は、「令和」の意味も理解していた。英語では「Beautiful Harmony」 というそうだ。彼女は、日本を離れて二十年近く経つのに、日本の文化を忘れていなかった。私は嬉しかった。さっそく、メールではなく、直筆のお礼の手紙を送った。

 実は、平成二十八年の秋、彼女はやっと訪日の機会を得て、約十六年ぶりに日本を訪れた。私は、東京のプリンスホテルで日本到着の翌日と、帰国前の日と二回、彼女の一家と会食をした。
 彼女の明るく真っ直ぐな性格は少しも変わっていなかった。むしろ、私の方が変わっているはずだが、彼女は「先生は、年をとっても若い。少しも変わっていない」とお世辞をいってくれた。その言葉は、お世辞とわかっていても私を元気付けてくれた。

 彼女の夫も立派な紳士で、中学生と小学生の二人の息子達も素直に育っていて、素敵な家族だった。
 なかでも、私が一番嬉しかったのは、彼女が京都大学で十六年ぶりに、真の卒業証書を受け取ったことだった。それまでは卒業証明書だけだったそうだ。その卒業証書を見せてくれた。私は、彼女にとっては、努力と苦労が報われた一瞬だっただろうと思い、心から「おめでとう」と言って労った。これからも遠く日本から、エールを送りたいと思っている。

 現在、元号があるのは世界中で日本だけだが、これは日本の文化であり、ある出来事を知るのに、すぐにその時代背景も頭に浮かぶと言う便利さも持っている。今回のように、お祝いで改元が迎えられるのは、気持ちを一新する意味でも素晴らしいことだと思う。

 令和の時代が、真に「Beautiful Harmony」であることを願ってやまない。


         イラスト:Googleイラスト・フリーより  

ワラビ採り  青山貴文

 今年のゴールデンウイークは十連休だ。
 毎日が日曜日の私には、余りうれしくもない。新緑を求めて皆が出かける。帰省客で高速道路は渋滞だ。列車も、飛行機も予約で満杯だ。だからと言って、この最高に良い時候に家で過ごすのは、もったいない。

 3年日記を、ひもといてみる。この時期は、我が家から、約15キロに所在する釜伏せ山近くの中間平(ちゅうげんだいら)に出かけている。そこは、海抜150キロの高台だ。その見晴らしの良い丘から東北方向に、双眼鏡で熊谷の我家周辺がよく見える。南東の方角遠望、約70キロには、新宿の高層ビル群が眺められる。

 そこで、薄曇りだがサンドイッチを作って、近場の中間平に妻とドライブがてら出かけた。私は登山パンツに愛用の登山靴を履く。妻はノルディック姿で、ウオーキングシューズにズボンだ。遠目からは、40歳代の夫婦に見える。

 毎年訪れる見晴台が、真新しい木材で改築されている。4人掛けのがっちりした椅子付きの木製テーブルが、その周辺に5台も備えてある。
 そのひとつに腰掛け、眼下に広がる景色を見ながらサンドをほおばる。家で頂くより遙かにうまい。鳴き始めたばかりの、未熟な鳴き声のウグイスの声が可愛い。空気が澄み切っている。家に居ては、この清々しい空気と野鳥の囀りは、体感できない。さらに、新緑の中間平には、この頃に限り、ワラビが出現する。

 数十年前に山菜に詳しい妻が、シダの葉伝いに茂みの中に入って行って、ワラビの群生している場所を見つけた。我々の秘密の場所としていたが、数年前から、シダの葉が倒されており、数人の方がワラビ採りに来ていると感じていた。我々と同じようなカップルと会うことがあり、獣道らしい細い道もできて秘密でもなくなった。

 そこは、東電の鉄塔を目当てに、背丈の高さくらいの土手を這い上ると、急に拓けた傾斜地になっている。その鉄塔の周辺は、おおきな木々が伐採されて日当たりがよく、ワラビの群生地になっていた。
 ワラビは、同一シーズンでも、3回くらい再生するので、採られても、数週間すると、また採れる。誰かが先にきて、ワラビがほとんど取られていることが多くなった。それでも、5~6本採れると大切に持ち帰り、湯がいて甘辛く煮て、酒の肴にしている。
 先客が来ているときは、挨拶がてら
「こんにちは、採れますか?」と、にっこり笑って問い掛ける。
「いや、だめですね、すでに採られていますよ」と、愛想笑いが戻ってくる。


 ところが、昨年、二人の人影が、傾斜地の上方で動く気配がした。彼等は、男の二人連れで、私と同年配らしい。口の開いた篭を腰につけ、地下足袋を履いている。山菜取りのセミプロの恰好だ。
「どうですか? ・・・ワラビが採れますか?」
 と挨拶をしたが、無言だ。
(なにも、黙っていることもないだろう。ワラビの一つや二つでガツガツするな)
 と思いながら、私もガツガツ探す。
 当方は登山靴だけは立派だが、手ぶらだ。ただ、小鳥の声を聴きながら、数本のワラビが採れればよい。彼らは、いつの間にか立ち去っていた。

 今回は、車を見晴台の駐車場に置き、勝手知った東電の鉄塔の所まで、運動がてら歩いて行った。車で動くのと違って、草木や小鳥のさえずりが間近かに感じ新鮮だ。登る土手をやっと見つけた。
 簡単な木の階段が出来ている。東電の職員の点検用なのだろう。ところがシダの葉が無い。人が入った形跡もない。雑草が伸び放題になっている。目的の場所は、荒れ果てた斜面に変貌していた。

 しかたなく、やって来た車道を引き返すのも、折角履いてきた登山靴が泣く。眼前の山道に沿って草木を愛でながら、迂回して駐車場に戻ることにした。

 今まで雲間に隠れていた太陽が顔を出した。新緑が陽に映えて、行く手が明るい。ワラビが皆無の山菜採りもこの晴天で救われた。時々立ち止まって妻を立たせ、新緑を撮る。久し振りの山歩きは、足腰を鍛えてくれ、心が洗われる。

 私たちの駐車場が眼下に見える丘に出てきた。なんとシダの葉が斜面一面に群生している。ここなら、ワラビが絶対見つかる。妻も私も無口になり、シダの日だまりの中に入って行く。
ところが、シダはほとんどが大きく生長し、来るのが一ヶ月くらい遅かった。
 待望のワラビは細く短くお粗末だが10本くらい採れた。釣りでいう坊主の日ではなくなった。
「ヤッホー。どこに居るの?」
 と、妻の声が丘の上の方でする。二人合わせて、20数本のワラビを採取することができた。
 来年は、3週間くらい早めにこの丘にやって来ようと、話しながら帰宅した。早速、3年日記の来年4月5日の欄に「中原平ワラビ採集のこと」と記す。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

「元気に百歳」クラブってどんなところ?

「元気に百歳」当クラブ は2000年に設立し、2014年に15周年を迎えました。

高齢化時代の中で社会と家族に負担をかけないで元気に生きられるよう、社会・友人・家族と良好なつながりを持ち、心身の健康を保つことをクラブの目標としています。

「元気であることが社会に対する最高のボランティア」「自立(自律)と支え合い」が合言葉です。

 私達のような考え方の輪が広がり、少しでも社会貢献できることを願って活動を続けています。

 当クラブは首都圏とその周辺及び関西が活動の中心ですが、中部、九州や北海道に在住の会員も含めて現在、会員数は約200人です。

 クラブの目標に沿って地域毎の活動を行っていますが、首都圏とその周辺地区についていえば、年2回の例会と、「パソコン教室」、「俳句の会」、「エッセイ教室」、「日だまり」、「ゴルフ会」、「健康体操と歌の会」、「スケッチ会」の7種のサロンを中心に活動しています。

 (詳細は「元気に百歳」当クラブのホームページをご覧ください)

90%以上の会員の方々が何らかのサロンに参加して「学び」と「遊び」を楽しみ、その中で「仲間意識」を醸成しているのが本クラブの特徴の一つです。

 心を開いた仲間としてのつながりを深めて交流の輪を広げましょう。そして、社会に私達の活動を発信していきましょう。



「元気に百歳」クラブってどんなところ?

 平均年齢60代後半!

 まだまだ元気一杯なシニア達が"元気が最高のボランティア"をモットーに、特技や趣味を生かして活動の場を広げています。

  本クラブは、そんな皆様方が精力的に活動できる場を作ると共に、様々なイベントを通して個人交流の場(グループサークル)を提供しています。

 『活躍の場がほしい』『気の合う友人を増やしたい』、余った時間は是非「元気に百歳」クラブでご活躍下さい。

 本ホームページでは、クラブの活動の内容や予定を随時公表していきます。会員の皆様も、イベントスケジュールの確認などにお役立て下さい。また、活動報告なども公開していきますので、お楽しみ下さい。


 (詳細は「元気に百歳」当クラブのホームページをご覧ください)


【補足説明】

 穂高健一は同クラブで「エッセイ教室」の指導をしています。すでに120回を超えています。

 作品は、任意に、「穂高健一ワールド」の『元気100教室・エッセイ&オピニオン』に掲載しています。
 掲載作品は教室に提出された原稿どおりで、講師の手を加えていません。