元気100教室 エッセイ・オピニオン

昔のズボン  青山貴文

 初冬の静かな朝陽が、引き戸のガラスを通して居間の奥深く射しこんでいる。
 先日、大きく茂った木蓮の枝を、身の丈の高さに思い切って切断してもらった。お陰で居間が明るく、居ながらにして青い空がみえるようになった。

 私が、この陽の当たる居間の安楽椅子で、朝刊を広げて読んでいると、
「このズボン、裁断して使用してもよいかしら」
 と言いながら、妻は思案しかねて、暖色系の派手な柄のズボンを持ってきた。
 いつもならば、私に尋ねることもなく、断捨離をするところだ。

 新聞を片手にもちかへ、身体を捻って眺め入る。橙と黄とこげ茶色の大柄の縞模様で、布地もしっかりしている。
 若い頃、ゴルフズボンに使用していたものだ。少し派手だが格好良く、まだ新品のように折り目が付いている。

「捨てるには、もったいないね。最近、ウエストを絞っているから穿けるかな」
 と、立ち上がって、その派手な細いズボンを両手で持って腰に合わせてみる。
「だめよ。 まだあなたが若いころのズボンよ」
 と、妻は穿けるはずがないと自分の見立てに自信を持っている。


 私も、多分無理だと思ったが、着ているゴム紐付きの普段着のズボンを脱ぐ。生白いかっこうわるい両足を、妻の前で見せるのは気恥ずかしいものだ。

「あら、丁度よいみたいね。今着ている紫色のジャンパーとよく似合ってよ。余り上にあげてはみっともないわよ」
 と、妻は、大もうけしたと、喜んでいる。布地として利用しようとしたものが、本来のズボンとして使えるのだから、もっともな反応だ。


 私は、この6~7年歩きに徹している。夏の暑い日は早朝から、他の季節は、昼間から夕方にかけて毎日3~5キロ歩いている。さらに、この1年半前から、社交ダンスを習い始めて、ウエストを極力絞る努力もしている。

 この細いズボンをするりと穿けた時の感触は、何か新たな若々しい肉体に変身したのではないかと嬉しくなった。
 ご婦人が節食してスリムになり、若い頃のスカートが穿けて小踊りして喜んでいるという記事をよく読むことがある。

 私も、何か新たな気力が湧いてきて、そのズボンをはいたまま二階の書斎に駆け登る。窓際に立てかけた等身大の鏡に向かって、ちょっとルンバのステップを踏んでから机にむかった。

アホらしい話だったけど  林 荘八郎

 大阪にいる父からの突然の電話だった。
「気をつけろよ。お前が自動車事故で大けがをするか死ぬという相が出ていると八卦見にいわれた」
 またかと思った。

 父は家に神棚も仏壇もおいて、毎朝のお祈りを欠かさない人だった。何事につけ八卦見へ行き、占ってもらう。お寺でも神社でも構わず詣でた。

 わたしは就職し上京して間もない頃で、昼も夜も自分で車を運転する外回りの仕事を受け持っていた。確かに事故の心配がないわけではなかった。さらに仕事柄、酒気帯び運転をすることが多いのを父は知っていた。
 しかし、そんなことを言われても仕事を変わるわけにもいかないし、笑って過ごしていたが、やがて父は上京し、一層注意するよう真面目な顔で言い残して帰っていった。


 父の八卦見頼みの歴史は長い。わたしの名前を決めたときの話を聞いた。
「荘」という字が好きなので、親が徳太郎だったことから「荘太郎」と名付けたかったという。しかし八卦見に、
「『太』の字の中の『﹅』は災いのもとだ。末広がりの『八』が良い」
 といわれ今の名前に決めたそうだ。

 商売の都、大阪にはお稲荷さんを敬う人は多い。

 わたしの勤め先は大阪が本社の会社だったが、創業家はお稲荷さんを社長室に祀り、稲荷祭りという行事を設けていた。その日は業務はせず、役員一同が参拝したあと各部署が順次お参りし、社員は稲荷寿司をもらって昼に退社した。

 父は終戦後十年経ったころから、大阪の船場で毛織物の仲介業を始めた。
しかしそこは、誰かが儲けた分を別の誰かが損をしているような厳しい世界だった。父はたたき上げの商人ではないため厳しさに欠け、お人よしで決して商売上手ではなかった。思うに切羽詰まった状況に追い込まれることが多かったのだろう。お寺も神社も当たり構わず詣でたことからも分かる。

 わたしが結婚相手を決めて両親に報告したら、暫くして八卦見の結果を伝えてきた。
「運勢を見ると、相手の星の方が強い。このままでは結婚後、直きに別れるかお前の方が若死にする。二人にとって不幸だ。ふたりで八卦見へ行って直接に話を聞いてきた方が良い」

 しつこく促され、二人で大阪まで行き、父の信用する八卦見を訪ねるハメになった。そこは三軒長屋の中の一軒で、厳かな構えではなかった。先客が去ったあと、六畳くらいの部屋に通されて、四角い大きな火鉢を挟んで易者と向かい合った。
 彼は灰の上に火箸で字を書き、
「あなたの若死にを防ぐには、相手に名前を変えてもらうのが良い」
 という。
 説得力がなく、根拠が疑わしい、非科学的なアホな話と思った。
二人で顔を見合わせ、どうする? と聞くと、
「私は名前を変えません」
 相手の気持ちを尊重したわたしは、父の心配を押し切るような形で結婚した。
「当たるも八卦当たらぬも八卦」というが、思うにあの頃は生きるために、みな必死だったのだ。家内安全、無病息災、商売繁盛を願い、八卦見を頼る人は多かった。
 父もその一人だった。

 わたしはこれまで切羽詰まった立場に追い込まれて神仏を頼みにしたくなる状況に出会っていない。運転では、いつの間にか丁寧で慎重なマナーが身に付いた。これは父の願いが通じているということなのだろうか。

いまも八卦見の言葉を思い出す。

 妻の星は確かに強い。しかし、わたしの人生の末広がりは当たっていたのであろうか、それともこれから実現するのだろうか。

 日の出、日の入りの神々しい太陽に、あるいは雪を頂いた富士山の厳かな姿に出会うと、自然と手を合わせる。家族の安全と幸せを願っている。
 父と似たことをしている自分に気づき苦笑している。

 
イラスト:Googleイラスト・フリーより

涙の手紙=金田絢子  (#ICAN:ノーベル平和賞 授賞式に読んでもらいたい作品)

 その手紙は母宛に、疎開先の「茨城県猿島郡弓馬田村」に届いたものである。手紙の冒頭の「三月丗一日」の日づけから推して、昭和二十一年のことと思われる。

 差出人は、母の友人の花水さんである。母と花水さんは、府立第二高女(現、都立竹早高校)の同級生で無二の親友だったようだ。

「去年の今頃のことなど、いろいろ思ひ出されます。幼馴じみのお心安だてに、お目にかかってお話しする様に何でも書いて見やうかと思ひますの。讀みにくいけど讀んで下さる?」
 このように始まり、おしまいまで仲良しの“あなた”に聞いて欲しいという、一途な思いにつらぬかれている。
 四枚の便箋の三枚目までは、うらおもてをつかってびっしり文字が並ぶ。
 昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾がおとされた。忌まわしいあの日、花水さんのご主人は、役所にいく途中で、自転車にのって橋をわたっているとき、被爆した。
「午後四時頃『ヤラレタ』と云ってそれでも歩いて帰ってきた姿。もう書けません、「とても大火傷でした。よく此処迄かへって来た、それ程の大火傷でした」
「とに角はじめは元気でしたの」
 ご主人も花水さんも治る、と信じていた。


 ふた月まえの、昭和二十年六月、転任の沙汰があり、同月十九日、夫婦と子供四人の一家は、広島にうつった。「その時、本当に生きて再び東京を見る気持ちは全くありませんでした」

 広島に着いたものの、住むところもない有様だった。七月になってやっと、広島から四里程はなれた可部町で、住まいを得た。
「広島の一つ先の横川駅から四十分程省線で山の方へ入った、静かな町で、大田川が流れ」などの記述のあとに、八月五日の描写が涙をさそう。

 広島へ来てからもご主人は日曜日も休まず役所に通っていた。原爆投下の前日、「日曜日でしたが、午後三時ごろかへり、子供三人(末の子はまだ乳飲児)連れて裏の川へ行って、泳がせたり、遊んだり一時間程楽しさうにやってをりました。それが親子の浅いきづなの最後で御ざいました」

 被爆した主人は高熱で三週間、うわごとを言いつづけた。
「私事は一つも無くて、全部役所の仕事のことばかりでした」
「最後の四日程は意識不明のまま、何の遺言ものこさず自分では治りたい治りたいとあせりながら、亡くなりました」

 三枚目のむすびは「こんな大惨事になるなら、どうして(日本は)もう一週間早く、降伏しなかったのかと恨むのは私だけでせうか。でもこれも皆運命でございませう。私がかうして子供四人を負うて先のわからぬ世に生きてをりますのも、私の運命です」
 三十代の若さが書かせたすばらしく悲しい手紙である。

 涙で文字がかすれ、読めない部分もあるが、全面、真情にあふれている。大切にとっておいた母の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 時代をうつして、粗悪な便箋にはやぶれがめだつ。いまにもこわれそうであるが、母の遺志をついで、生涯わたしも、手放すまいと思っている。


【HP管理者より】

「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室、11月度提出作品です。ご本人は都合で当日欠席でした。きょう2017年12月10日に#ICANのノーベル平和賞の授与式がありました。
 被爆者の妻の生々しい描写が、このまま埋もれず、世に知らしめるべきだと判断し、作者・金田さんのご承諾を得ないまま掲載いたしました。(穂高健一)

起こされて  森田 多加子

 暑かった今夏の寝苦しさから解放されて、気持ちよく寝ていた朝、突然スマホのけたたましい大きな音で目覚めた。


 私たち夫婦は、いつも遅起きだ。
 早い朝は熟睡している。けれど、今朝は、突然朝早くから起こされ、何のことやらと、ぼんやりした顔を見合わせた。家は揺れていないので地震ではなさそうだ。
「なんだ?」 
 同時に外からサイレンが聞こえてきた。スピーカーで何か流しているので、聴き耳を立てた。

『北朝鮮によるミサイル発射がありました。北海道地方から太平洋へ通過するもよう』


 このスピーカーは、毎日夕方五時になると、(良い子のみなさん、おうちに帰る時間です)
と、流していた音だ。町全体に響き渡るような音で流れる。当然、これはうるさいと苦情が出たらしいが、
(緊急のお知らせをする必要があるときのための予行練習です)
 と、いう市からの回答だった。

 緊急の時というのが、この報せだったのか。


 すぐテレビをつけた。
 男性のアナウンサーが、私に向かって緊張した面もちで話しかけてくる。外から聞こえているメッセージと同じで、北朝鮮からミサイルが発射されたということと、

「できるだけ頑丈な建物や、地下街などに避難してください」

「できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動してください」

「落ち着いて行動してください」

 何度も、何度も同じ言葉を放送している。

 外ではまだサイレンが鳴っている。
 戦時中の記憶がある私としては、敵機が上空にきているという報せの【空襲警報!】のサイレンにそっくりなので、怖くなって何が何だかわからない状態になった。

「この辺に頑丈な建物や地下街なんてないしねえ」
「うちは鉄骨なので、頑丈な建物のうちにはいるんじゃない? 家にいればいいよ」
「でも、窓のない部屋なんてないものね」
 後から考えると、漫才のような夫婦の会話だったが、ぼそぼそと話しているうちに、ミサイルは北海道上空を通過してしまった。

 Jアラートが発令されて、たったの4分だ。何もできなかった。実際、この上空にミサイルが飛んできたら、避難できる時間ではない。日本のおえら方が「国民を少しおどかしておこう」……なんて……言っている妄想が浮かんだ。

 戦時中の【敵機襲来】の怖さは妄想ではない。
 あの怖さを知っている年齢の人も、もう少なくなってきた。二度と同じ事態にならないようにと、改めて切実に感じた。

 いつもなら、まだ寝ている時間だが、中途半端なので、はっきりしない頭をフリフリして起きることにした。
(大丈夫でしたか?)
(これでは狼少年になりかねませんね)
 ラインに心配したメールがはいる。
 緊急連絡なので、狼少年などになってはいけない。
 ならないように気を付けたいが、4分では避難場所に移動すらできない。

 実際の話、連絡があったときにどんな行動をとればよいのか、未だ全くわからない。

パリ祭の日の恐怖の一人旅 武智 康子

 2001年7月14日、私は国際学会に出席する主人に同道して、スペインのマドリッドに居た。

 ちょうど前日、学会も終了したので、主人は仕事でスペイン北部の鉄鋼会社に行くことになっていたため、私は一人でパリ経由で帰国の途についた。ただ、それは私にとって初めての海外旅行の一人旅だったのだ。
 パリでの乗り換えもあり、不安がいっぱいだった、

 マドリッドの空港で主人と別れ、旅券検査場も無事に通過し、予定のエアフランスに搭乗した。

 しかし、予定の時刻を過ぎてもなかなか飛び立つ気配がない。始めは落ち着いていた私だが、パリでの乗り換えのこともあり、だんだん不安になり、スチュワーデスを呼んだ。そして、拙い英語で尋ねた。すると彼女は

「時間が来ても、搭乗していない人の荷物を降ろしているところだ。」と言う。
 よくあることなので、その時はさほど驚かなかった。

 これが恐怖の前ぶれだった。
 私が乗った飛行機は、約50分ほど遅れて出発し、2時間後無事にパリのシャルルドゴール空港に到着した。

 トランジットの時間は、十分にあったので、一応ホッとした。大きなトランクはスルーにしていたので、機内持ち込みの小さなピギーを引いて、乗り換えのJALのカウンターに行った。

 東京行きの手続きが済むとJALの制服を着たフランス人の女性が「どうぞ、こちらへ」と案内をしてくれた。私は不思議に思ったが、彼女の後に続いた。

 案内された先は、ビジネスラウンジの特別室だった。
 私は驚いて怪訝な顔をしていると、彼女は、私の一人旅を心配して主人が、事前に連絡をしていてくれたことを、明かしてくれた。
 せっかくなので私は、コーヒーを飲みながら一休みすると、未だ時間があるのを見て、ラウンジのフロントにいた彼女にピギーを預けて、免税店に出かけた。
 そして私は、一つの店でフランス刺繍の施された素敵なテーブルクロスを買った。


 その時である。
 広く大きな空港に、けたたましいサイレンと早口での放送が鳴り響いた。何だか意味は分からなかったが、その様子から緊急事態が起きたことは理解できた。

 私は、慌ててピギーを引き取るために、ラウンジに向かった。が、そこには既に警官がロープを張っていて、「逃げろ」と言う。
 私は、ピギーを諦めざるを得なかった。中には、昨日マドリットの市内で買った、ジアドロのお人形が私のパジャマなどに、くるまれて入っているのだ。

 しかし、そんなことは言っていられない。
 私も、ハンドバックとテーブルセンターだけを持って、他の客達の後を追ってラウンジと反対方向に逃げた。

 それから、15分位経っただろうか。先ほどまで私が居たラウンジの方角の外から「ドカーン、ドカドカーン」と言う大きな爆発音が聞こえ、一瞬建物が揺れた。

 周囲の人達と顔を見合わせ、生きた心地がしなかった。気がつくと、隣に居た黒人女性と手を握り合っていた。肌は黒いが手の平は白い。ちょっと違和感はあるが同じ人間の手だ。その時私は、人はみんな同じで通じ合うものがあるのだ、と心に強く感じた。

 30~40分後にやっと緊急事態は解除されたが、その放送の直後に、広い空港に私の名前が響いた。私は急いで指定された場所に走った。

 そこには、チェックインの時私をラウンジに案内してくれたフランス人のJALの女性が、私のピギーを大事そうに持って待っていてくれた。

 私は、驚きで言葉が出なかった。彼女はあの緊急事態の中、私のピギーを持って逃げてくれたのだった。
 一度、諦めたピギーが今、私の眼の前にある。ジアドロの人形も戻ってきた。こんなに嬉しいことはない。
 私は咄嗟に彼女の手を両手で握って「ありがとう」を繰り返した。そして、持ち合わせていた京都の舞妓さんの絵が描かれている縮緬の風呂敷を、感謝の気持ちをこめて渡した。
 彼女も喜んで受け取ってくれた。


 彼女の話によると、不審物は、私の居たラウンジにあったそうで、私が買い物に出た直後に発見され、建物の外に運び出されて、爆発物処理班によって爆破されたそうだ。

 その日は7月14日、ちょうどパリ祭の日である。大勢を狙ったカタルーニヤ地方の民族テロだったのだろうか。
 彼女にとっては、仕事の一部だったかもしれないが、私は買い物に出かけた運も味方してくれて、何事も無かったようにJAL便に搭乗して帰国の途に着くことができた。


 機内では、偶然、隣り合わせになった日動画廊の女性社長と、美術談義ヲ交わしながら翌日の昼に私の一人旅は、無事に終った。

             イラスト:Googleイラスト・フリーより

東洋のシンドラー  桑田 冨三子

 久しぶりに30ほど年下の友人・満子から電話があった。

 数年前、満子は「美智子皇后」という本を婦人公論社から出したが、その時に美智子さまの学生時代の話などをいろいろと教えたりして、それ以来、付き合っている元テレビ局のプロデューサーである。

 藪から棒に「ねえ、李徳全(りとくぜん)て知ってる?」という。

「知ってるわよ。ずいぶん昔のことだけど、中国のおばさんでしょ。」
「ああよかった。きっと知ってると思った。今、李徳全のことを調べて書いているの。日本とのつながりとしてエピソードを書くから、知ってることを全部教えて」


 東西冷戦のさなかの1950代前半、中国には多数の日本人帰国希望者が残っており、大きな問題になっていた。

 当時、日本が国交を持っていたのは台湾の中華民国であり、中国大陸の中華人民共和国とは外交関係がなく、民間の細いチャンネルではどうしようもなかった。
 この苦しい日中関係の壁に風穴をあけたのが一人の中国人女性であった。


 満子の話では、李徳全は大勢の戦争孤児たちのために保護施設を作ったり、戦後、大活躍をした人だそうだ。これらの活動が認められ新中国が誕生した折に衛生部長に選ばれた。

 中国の赤十字である紅十字会の会長になった李徳全は、人道主義精神と平和のために、日本人の引き揚げと戦犯問題解決に心をくだいたという。

 ながらく途絶えていた日中交流の先駆けとして、李徳全女史が日本へやってきたのは、1954年だった。中国紅十字会の代表・李徳全女史が持ってきたのは重厚な戦犯名簿であった。

 名簿は2冊に分かれており、一つは戦犯生存者1068名、もう一つは戦犯死亡者40名であった。名前、部隊名、階級、年齢、出身地などが詳細に記載されていた。


 李徳全は、戦犯の人、大部分と、帰国を希望する一般人2000人を、年内もしくは来春までに帰国できるようにする、と約束してくれた。
 李徳全の持ってきたニュースを聞きたくて詰め掛けていた留守家族たちにとって、つぎつぎに名を読み上げる係員の声は、まるで判決文であるかのような悲喜こもごもの現象を引き起こしていた。


 死亡した日本人戦犯40名のほうに、わたしの祖父、河本大作の名前があった。引揚げ船の入る舞鶴や佐世保の港に、いつ祖父は現れるかと待ちわびていた家族にとって、この李徳全のもたらした突然の訃報は一家にとって灯りが消えてしまったような失望を呼び起こした。

 家族は一家連名で、せめてお骨だけでもと李徳全女史に手紙を書いた。長い間、沙汰は無かった。しかし、ある日、舞鶴港に停泊している船へ、すぐ来るように。荷物を渡す、と短い電報が来た。

 行ってみると渡された物は、河本大作の遺骨と書かれた大きな蓋付きの缶と、なんと、古ぼけてはいるが、見覚えのある祖父の赤革のシューバであった。


 わたしのかかわったエピソードはそれだけだった。
 でも、BC級戦犯も全員帰ってきたし、これも精力的に中国国内に抑留されていた日本人帰還事業に精力を費やした李徳全さんのおかげだと思う。

 今、日本には日中友好を切に望む人が大勢いるが、その人たちの間ではこの李徳全こそ、東洋のシンドラ―だ、と言われている。

笑いも人それぞれ  月川 りき江

 20年ほど前、健康体操の先生が、1日に1回、大声をだして「ワッハッハ」と笑いなさいと言われた。
「夫と2人暮らしでは、あまり大声だして笑うことはありませんよ」
 と言っても先生は、
「ワッハッハと言うだけでもいい」
 と言われたがむずかしい。


 以前、夜ベッドに入って、ある本を読んでいる時、夜中の1時頃声に出して笑ったことがある。

『ある男がいた。彼は酒も飲まず、たばこも吸わず、美味しいものも食べず、旅行も行かず、賭け事もせず、女遊びもせず、百歳まで生きた馬鹿がいた。』
 と書いてあった。

 私はこの「落ち」が面白くて大声をだして笑った。

 この本は、面白半分の本ではなく、まともな作家の本で、テーマは人生に関する内容だったと思う。(現在は百歳まで生きる人は多いが、昔は少なかった)
 そして翌日、夫(六五歳)に、この話をした。
 いつも明るい性格だから、一緒に大笑いするものと思っていたが、夫は笑わなかった。ニコリともしないで、ぶすっとしてリビングのソフアーに座った。


 その日は朝から機嫌が悪かった。
 多分前日、会社で面白くないことがあったのだろう。私としては、よかれと思って言ったのだが、タイミングが悪かった。

 やはり男性と女性は受け取りかたが違うのかな? と思い、九州の妹に電話をした。本の話をしたら、妹は大声をだして笑った。
「そこでお願いだけど、あなたの旦那に話して反応をみてよ」
 と頼んだ。


 この妹婿は地味な性格で、常々ユーモアもなく、会ってもあまり会話も無い面白くない人だ。ただ年齢が五十代だから、ちょっと期待した。
 翌日、妹から電話があり、
「笑いもなし、コメントもなし」
 と言う。
 そして妹は小声で、
「やっぱり面白くない男ね~」
 と二人で笑った。


 次に同じ長崎に住む姉に電話をした。この家は自営業で洋品店をしているので、姉がすべてに支配しているから、夫は尻にしかれている。真面目で、おとなしい性格である。

「百歳まで」の話しは姉も大笑いした。そして又、旦那の反応を聞いてみた。
 翌日、姉からの返事は、
「笑顔もなく、『可哀想に』と言ったよ」
 と笑っている。


 おそらく自分の立場に置き換えたのかもしれない。そういえば、義兄は酒も、たばこも、旅行も、賭け事も、女遊びも、しない大真面目な人だ。
 しかし、兄弟みんなが驚くほど、義兄は妻を愛している。幸せな人である。


 日本人はユーモアが少ない、と常々思っている私は、軽い気持ちで面白がって人の気持ちを試したことを、少々反省している。


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

話すは敏になる  青山貴文

 我が家の近くには美土里町という風情のある名の街がある。


 その住宅街の北東隅に、茂木浩一先生のお住まいがある。茂木先生は、十数年まえに籠原公民館で、私たちに習字を教えてくれていた。習字の合間に、奥さんと日本の各地をドライブされたお話をよくされていた。いつもにこやかで話好きな先生だった。


 毎朝の日課は、般若心経(約260文字)を達筆な楷書で写経されることであった。80歳を過ぎた頃、ご高齢を理由に習字の先生を自ら辞退された。 

 先日、小春日和の昼下がり、久しぶり先生宅の前を通り、
(先生は、お元気かな。お一人でお寂しくされておられないかな)
 と思いながら、私宅への道に向かった。

 途中にある外原公園の広場を斜めによこぎっていると、前方から自転車に乗って来る人がいる。どこか、茂木先生に背格好が似ている。自転車など乗られるわけがないと、上目つかいに仰ぎ見ると、
「これは珍しい、青山さんですね」
 と、先方から私の名を呼ばれる。

 懐かしいご尊顔が、満面に笑みを浮かべて、自転車を降りられた。
 以前、習字を教えておられたころよりも、顔に張りがあり、生き生きしたお顔だ。
「今、先生宅の前を通り、お元気にしておられるかなと思いながら、歩いて来たところです。あの頃と少しもお変わりなく、本当にお元気そうですね」
 と、7~8年振りの再会を心から喜んで、声がはずんで言うと、
「青山さんも、お元気そうですよ。今、グランドゴルフのことで、仲間とお話をしてきたところです」
 と、先生は、赤銅色のお元気そうな顔をほころばされる。


 内心は今の今まで、「茂木先生」と、苗字を覚えていたのに、「苗字の茂木」が出てこない。思い出そうと焦るほど、その名前が出てこない。

 こういうことが、このごろよくある。どうも、脳が委縮してきているのか、数分前までは明らかに覚えていた人の名前が、いくら思い出そうとしても出てこない。

 致し方ないので、先生と再会したことを心から喜んで、あれからエッセイ教室に通っていることなど、話をつづけた。
 丁重な口調でお話をしながら、その間も、何度も先生の苗字を思い出そうとしたが、どうしても思いだせない。別れ際に、
「先生も、お元気で」
 といって、最敬礼してからお別れをした。


 直後に、なぜ、苗字まで言えなかったのか、自分の記憶力の乏しさに情けなくなった。家に着いて、妻に習字の先生にお会いしたことを話す。

「ところで、習字の先生の苗字は、何だっけ」
 と、問うと、
「先生のお名前はねー、えーと。ここまで、出てきているのだけど」
 と、妻も首をひねっている。
「そうだわ、先生が清書された『般若心経』の掛軸が床の間の左側面に飾ってあるわよ。あそこに先生のお名前が記述してあるわ」
 と、彼女も、私も同じ事を瞬時に考えている。


 茂木先生は、確か90歳以上なのに、私を見るなり、青山さんと私の苗字を躊躇なくはっきりと発せられた。私とはすごい違いだ。
 私は、外観は年相応に先生より若いはずだが、脳年齢は先生より遙かに劣っている。
 先生は、私より受け答えが機敏で、はっきり発音されていた。固有名詞などもスムーズに几帳面に話されていた。脳は柔らかく、記憶力もすぐれているのだろう。


 仲間とグランドゴルフをされていると仰っておられた。あのグランドゴルフで大きな声を出しあったり、仲間と談笑されていることが、機敏さを生み、記憶を良くする方法に結びついているのではないだろうか。

 私は毎日、一人で黙々と1時間ばかり歩いて、足腰を鍛えている。さらに毎週2~3日は、公民館で同好の志の集まりに出かけて、手足をうごかしている。

 その多くの人たちが休み時間にいろいろ世間話しをかわしているが、わたしは入り込まない。考えるに、このような無駄話が脳を活性化する大切な働きがあるのかもしれない。

 そういえば、最近、足腰の強化はしているが、脳の働きを機敏にする運動はどうも、おろそかにしている。脳の運動とは、いったい何か。昔から、読み、書き、そろばんというではないか。それに「話す」ことか。

 わたしは妻と話す以外に、一日中口を開かないことがある。他人ともっと話さなくてはならない。話すことは人を機敏にすると言うではないか。


      イラスト:Googleイラスト・フリーより

ハウス・トホター制度 桑田 冨三子

 ドイツのライン河のほとりにボンという街がある。ベートーベンの生地として有名だ。

 まだドイツ統一の成る前の話だから、ベルリンが連合国とソ連に分割統治され、当時の西ドイツのアデナウアー首相の地元であるボンが西ドイツの首都になっていた。
 ボンは小さな町だった。当時の西ドイツ人は、ボンのことを、首都ではなくブンデスドルフ(首都の村)とよんだ。


 1963年、25歳の私はそこに10カ月ほど住んだ。ドイツ語を覚えるためだった。
 ドイツには、ドイツ語を習得するのにハウス・トホター(家の娘)という習わしがある。日本の家事見習い女中奉公みたいなものだが、トホター(娘)というのが重要で、雇い主はハウス・トホターに仕事をさせるが、家族だから給料は払わない。そのかわり、なにがしかの小遣いをくれる。

 つまり、女中や運転手の使用人ではなく、身分はその家の娘として扱われる。だから食事は家族と共にテーブルにつき、同じものを食べる。一家団らんの席にも加わる。
 誕生日が来るとパーテイを開き、友人を招いてくれる。


 ボンのワルダーゼー伯爵家での私の仕事は、4人のこどもの世話であった。長男のベルンハルトは5年生、次男ゲオルグは4年生、長女イザベルが2年生、1歳の赤んぼうのメラニーだった。
 ベルンハルトは聡明な子だった。算数が得意で、ラテン語とギリシャ語を学んでいたが、体が弱く、よく学校を休んだ。
 ゲオルグは暴れん坊で、ふざけるのが大好き、いつも学校から洋服を汚して帰ってきた。金髪の可愛いイザベルは、あまえっこの泣き虫、末っ子のメラニーは、いつも機嫌のいい健康な赤ちゃんで、ミルクを調合し、飲ませて、おしめを取り換えるのが私の仕事だった。

 ユルゲン・ワルダーゼ―伯爵は40代の格好いい人で、博士号を持つドイツ財務省の役人だった。気のいい、やさしいお父さんだったが、ギゼラ夫人にはとても、気を遣っているように見えた。

 
 高校の同級生だったというギゼラ伯爵夫人は、背が高く、やせ型で、アデナウーアー首相の姪に当たる人だったが、なるほど、なんとなくアデナウアー首相に姿が似ていると思った。
 小児科の医者で、家の中でいつも白衣を着ていた。大変な清潔好きで、子どもたちは、いつも手洗いや、うがいをしないと叱られていた。

 子どもたちはドイツ語に慣れていない私なのに、容赦ないはやくちのドイツ語でしゃべりたてる。私は、彼らの表情や、声のトーンに、勘を働かせて、何とか対応し、その場をしのいだ。それでも上手くいかないことがあった。
 そのときは、前掛けのポケットにしのばせてあるコンサイス辞典の助けを借りた。ベルンハルトは私の顔をみてニヤニヤしながら、私の解らなかったドイツ語の綴りを紙に書いてくれる。こうして殆どはクイズ・ゲームのような形で平和におさまった。

 私がもらった小遣いは100マルクだった。日本の1万円ほどである。

 夕方になると仕事を解放された私は、ボン大学の夜学講座に通った。大学は無料だったから助かった。ドイツ語もだいぶ上達したようで、友達もできた。


 楽しい10ヶ月は瞬く間に過ぎた。
 帰国の日には、ギゼラ伯爵夫人から、金色と紺色のワルデルゼー家紋章付きの修了書をもらった。それには、我が家に10カ月滞在し、ドイツ語を習得したことを証明する。話すことはほぼ良好、聞き取りは大変良い、と書いて署名がしてあった。

 この証明書は帰国後の私の就職に絶大な効果を発揮した。東京オリンピックを控えていたドイツ航空会社にすぐ採用された。
 航空会社に職を得たおかげで、私はドイツに出かけることも多く、ワルダーゼー家をしばしば訪問した。夏休みには、キールにあるエヴァスドルフ城に行った。

 そこは、彼らの何代か前のおじいさんにあたえられた城だそうで、いずれはベルンハルトが受け継ぐと聞いた。
 1899年、清国に義和団の乱(北清事変)が発生した時、ドイツのウイルヘルム2世は、彼らのおじいさんに当たるアルフレート・フォン・ワルダーゼー伯爵元帥のひきいる遠征軍をはるばる清まで派遣した。ワルダーゼーは、列強8か国連合軍全体の最高司令官として北京を占領したと、世界史の本に書いてあった。


 ボンの家にいた往年の聡明な少年・ベルンハルトは今、在アルゼンチン・ドイツ大使だそうだ。赤ちゃんだったあのメラニーはドクターになって、今、デュッセルドルフで小児科の医院を開いている。
ドイツのハウス・トホター制度は、私の人生にあざやかな彩を添えてくれたと、ほのぼの嬉しく思っている。

 イラスト:Googleイラスト・フリーより

ごきげんよう 月川 りき江

 長崎に住んでいる二つ上の姉が認知症らしい、と妹からの電話で知った。
 他人の話しは気軽に聞いていたが、やはり身内になると少々寂しくなった。


 先週、出かけた時、東中野のバス停で隣合わせた女性と、雑談をかわして別れる時、その女性が「ごきげんよう」と言った。歳はたぶん六十歳前半かなと思った。この「ごきげんよう」の言葉で六十数年前の姉のことを思い出した。

 長崎市内から離れた田舎に住んでいた私達は、九州で一番都会だと思う博多に、行くことは夢であり、楽しいことだった。
 音楽会も美術展も観劇もすべて博多だけなので、年に一、二回、姉と二人で行って楽しい日を過ごしていた。博多には昔から親しくしている家庭があるので、いつも泊めてもらった。そこには同じ歳頃の娘さんが二人いるので好都合だった。

 ある日、母がきれいなピンクのスーツケースを買ってきて、
「仲良く交替で使いなさい」と言った。

 その頃、博多で杉村春子の舞台公演があることを知り、姉と二人で行くことになった。前夜、旅行の準備をする時、お土産などもあり、スーツケースだけでは入らなくなった。
 今のようなお店のしゃれた紙のバックなどはなかったので、残りの荷物は風呂敷に包んだ。姉が
「重いものはスーツケースに入れたから、あなたはこの軽い方の風呂敷を持ちなさいね」
 と優しく言う。私だって重くてもいいからスーツケースの方がいい。と言いたいが言えない。最初から不平いっぱいの思いで出かけた。


 博多では泊めていただく家の、娘さん二人と一緒に観劇を楽しみ、おしゃれなレストランで食事をして、夜の博多を堪能した。翌日、帰りにはお土産も加わり風呂敷包みが大きくなった。右手にはしゃれた小型のハンドバックを持ち、片方には大きな風呂敷包みを持つ、なんともみじめな姿だった。
 博多駅では娘さん二人が見送りにきてくれた。

 今は列車の窓は絶対に開けられないが、当時は自分達で開け閉めができるので、発車するまで窓をあけてホームの人とおしゃべりをしていた。
 いよいよ発車のベルがなり、窓を閉める時、友人も私も、
「さようなら」と言った。その時、姉が
「ごきげんよう」
 と言って窓を閉めた。私はびっくりして姉の顔を見た。

(なにをカッコつけてるのよ)
 と言いたかったが何も言わず、二人並んで席に座った。

 座席は四人掛けなので、私達の前には中年の女性二人が座っている。
 その時、その女性が、
「上方(かみがた)のお方ですか?」と姉に聞かれた。「ごきげんよう」の言葉を聞き、おそらく東京の人だと思ったのだろう、と感じた。

 姉は、笑みを浮かべただけで(はい)とも(いいえ)とも言わない。
 そして私に近寄り耳元で、
「私に話しかけてはだめよ」
 と言う。
 私が長崎弁の方言まるだしでおしゃべりしては(上方のお方)が台無しになってしまうと思ったのだろう。
 私だって馬鹿ではない。
「おばさま達はどこまで行かれるのですか?」
 と丁寧に聞いた。
「私達は諫早ですよ」の返事。

 ウエ~ッ。最悪。諫早は長崎駅の一つ手前の駅だ。
 これでは二時間半、無言でいなければならない。諦めてバックから文庫本を取り出した。しかし読んでいても、字を追うだけで、風呂敷包みの不満と「ごきげんよう」のカッコつけで、腹がたち、頭にはいらなかった。


 今でも妹と話すが、「あの頃のお姉ちゃんは強かったね。長女の特権かしら」と二人で笑う。
 秋には、年に二回と決めている長崎へ行く。認知症が始まったという姉に、
「ごきげんよう」と言ってみよう。認知症の初期は、直近のことは忘れても、昔のことは覚えている、という。何と答えるだろうか。

 おそらく笑みをたたえるだけで、フフフというだろう。

Googleイラスト・フリーより