MRJに想う = 遠矢 慶子
国産初のジェット旅客機MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)が初飛行に成功した。半世紀ぶりの国産ジェット旅客機の開発だ。
MRJの初飛行をテレビが映し出し、美しくスマートな機体が降り立った時、私は感慨ひとしおだった。
学校を卒業後、初めて働いたのが航空会社だった。
その頃、日本の空はダグラス機全盛でDC3,DC7、DC8と大型化して行った。私のいた全日空は、31人乗りのDC3が主流だった。
海外路線は、日本国有の日本航空の独占で、日本航空のDC8の姿が眩しく、羨ましかった。日本航空の客室乗務員は、身長162センチ以上が必要とされ、残念ながら私は寸足らずだった。
その頃のパイロットたちは、ほとんどが戦前の戦闘機経験者、いわば特攻隊のパイロットだ。それだけにエマージェンシーの経験は豊富で、瞬時の判断に長けた一流のパイロット達だった。
全日空は31人乗りのDC3に機長と副操縦士、客室乗務員の3人で、北は北海道から南は鹿児島まで、ローカルを飛んでいた。
ある時、ベルリンフィルハーモニー交響楽団が来日し、チャーター便2機で仙台空港へ送るフライトが私に回って来た。
世界でも超有名なベルリンフィル、芸術家は神経質だからと、少々緊張して、
「ウエルカム」と彼らを機内に迎え入れた。
私の先入観とは裏腹に、陽気で、楽しく、ちょっかいも出してくる人間味のある音楽家たちだった。
仙台空港で彼らを降ろし、すぐ羽田にとんぼ返りをした。
復路は、乗客もなく、水平飛行になると、私もコックピットに入って、パイロットの操縦を後ろから見学していた。
「操縦してみないか?」
機長の突然の言葉に驚いて、
「えー、ほんとにいいんですか?」
と、いうと同時に、副操縦士が立ち上がり、私に眼で座りなさいと合図をした。
操縦席に座ると、頭上に、横に、前に、計器やスイッチがやたらと並んでいる。操縦桿を両手で握った。
丸い人口水平儀が、計器群の真ん中にあり、それで水平を保つように必死で、入れなくても良い力が全身に入る。
機内と違って、コックピットは、眼の前が180度開けている。
その闇の中にポツンポツンと灯りが見え、灯の塊が光の島のように広がって延びている。眼を上にすると空は満天の星、星。
私は、地球と宇宙の間に存在している不思議な世界を実感した。
「もうやめときます」
10分か15分の操縦体験は、楽しかったがちょっと恐ろしかった。
羽田に着くと、後ろに付いて来たもう一機も降りてきた。
「私、操縦桿持たせてもらった」というと、
「道理で。後ろについていると、前の機体が左右にユーラユーラ揺れているので、どうしたのかと思ったよ」
どうやら後の機長には、私がちょっと操縦していたのがばれていたようだ。
乗客が乗っていないからと言って、無免許で、たとえ10分でも操縦したら、今の時代は大問題になる。機長は始末書を取られる重大事だ。
まだ空の旅も、ごく一部の人の時代だから出来たのを懐かしく思い出した。
三年半の乗務で、航空性中耳炎になり、仕事を辞めた。
DC3の勇姿の写真に、「滞空時間2000時間」と書かれた盾を退社の時、会社から頂いた。そこには、勿論、操縦時間15分は記載されていない。
日本の技術の高さを内外に示したMRJ、17年には全日空で25機の道入を決めている。私の夢は、あのスマートなMRJの一番機に乗ることだ。
そして日本のMRJが世界で飛躍することに期待したい。