元気100教室 エッセイ・オピニオン

大山詣り 石川通敬

 11月21日朝9時、バスは丸の内を出発した。目指すは縄文時代から2000年の歴史を誇る大山の阿夫利神社である。

 この日は、前日の雨が嘘のようにあがり、年に何日あるかと思われるほど、雲一つない秋晴れとなった。
 お陰で首都高速を経て厚木までの一時間、道路の屈折に従い左右の窓ガラス越しに、次々青い空を背景とした雪化粧の富士山の姿が、ダイナミックに目にも鮮やかに表れた。大山詣りというと地味な印象を与えるが、期待以上のサプライズの発見と感動に満ちた小旅行だった。
 富士山はその始まりだ。
 厚木インターを出ると、伊勢原経由大山のふもとに半時間ほどで着く。

午前11時少し早いが、当地の目玉料理、豆腐のうまい茶屋で昼食をとる。腹ごしらいが終わると行動開始だ。神社参拝には、ケーブルカーも利用するが、まず乗車駅まで400段の階段を登らなければならないという問題がある。
 私はこのツアーの幹事の一員だったので、企画を考えた時この点を心配したが、歩き始めてみると、左右に切れ目なく並ぶお土産物屋や、豆腐料理が売りの旅館、お休みどころが点在し、階段を上る苦労を忘れさせてくれた。
 なかでもひときわ目を引くのが、赤、青、紫の絵付けで仕上げられた縞模様の「大山コマ」だ。江戸時代から300年以上子供たちに人気があったそうだ。地元では「人生が上手く回る」等といい、縁起物だという。

 その他にも、昔ながらの銘菓やキャラブキ等の山菜の佃煮、地元の名水で仕込まれた酒など、バラエティーに富んだ品々がいろいろ並んでいる。
 つい衝動買いをしたくなるが、バスガイドさんから、買物は重くなるので帰りにしなさいとアドバイスされていたので、誘惑に負けず、400段の階段を登り無事駅に着けた。


 平日にもかかわらずそこは混雑している。会社は10分おきに臨時便を運行して対応していたが、それでも全便満席で、通勤電車並みの混み具合に驚かされる。なぜか考えてみると、三つのことに気が付く。

 大山は平成28年に日本遺跡に指定された。これを記念して50年ぶりにケーブルカーを新造したところ、同年のカーオブザイヤー賞の栄誉に輝いた。加えて我々が来たこの週が紅葉を愛でるライトアップの週であったということだ。

 混み合う車内で6分ほど我慢し、ホッとした気持ちでケーブルカーの終点駅を出ると、想定外の情報が伝えられた。
 なんと参拝する阿夫利神社までさらに100段階段を登る必要があると言われたのだ。ちょっとショックだったが、気を取り直し歩くことにした。

 こうした気分を吹き飛ばしてくれたのが、見ごろの紅葉だ。
 特に済んだ空気から差し込む太陽光を受けたもみじが、真紅に輝くさまは芸術品だ。神殿は、赤、黄色の木々が色付く山を背に正面に鎮座している。今登ってきた方向を振り返ると、眼下に明るい水色の相模灘が広がり、はるか遠くには伊豆大島がかすんで見える。その雄大さは感動的だ。

 紅葉を愛でた後、直ぐ参拝。その流れで同神社内にある、さざれ石の展示会場を訪ねた。さざれ石と言えば、誰もが君が代を思い出す。
 しかし、それがどういうものであるか、誰からも教えてもらった記憶はない。そこには石灰を含んだ水が小石を固め岩のように育った高さ一メートル程のものが置いてある。展示物以外何の説明もないので、家に帰ってからいろいろ勉強した。

 まず原産地は岐阜県伊賀山。全国の神社仏閣に奉納されている。その中にはずいぶん大きいものもあり、苔が岩を覆うように生したものもある。ついでに君が代ができた経緯を調べると、歌詞は10世紀の「古今和歌集」にある短歌で、以後江戸時代まで広く祝い唄として邦楽の中で唄われてきたそうだ。明治になり外交儀礼上国歌が必要となった政府が、これに目をつけ曲をつけたというのが歴史だ。

 まさか、ここで君が代につき勉強させられるとは思いもしなかった驚きだ。

 参拝後は、お土産物屋さんを冷やかしながらの下山でなかなか楽しかった。境内の案内板によれば、江戸時代人口が100万人の時、年間二〇万の参拝客でにぎわったと書いてある。当時の様子が今も落語や浮世絵に遺されているそうだ。
 大山信仰の特徴は、他に例を見ない庶民参拝で、江戸の鳶など職人衆が、巨大な木太刀を担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指したと言われている。東京にいると過疎地と思いがちな大山だが、参道沿いで営業している店、豆腐料理屋、旅館の賑わいを見ると、そうだったのだろうと納得する。

 下山する途中ふと気が付いたことがもう一つある。
 昼食の時給仕してくれた仲居さんの言葉だ。夫は大工さんだという明るい女性だ。自分は自由気ままに生活しているといいながら、気さくに老人たちの相手をしてくれた。
 お陰で華やいだ気分で食事が楽しめた。思いだしたのは、彼女が老人たちをからかうように「私現役よ」と笑いながら立ち去ったときの言葉だった。忘却の彼方に沈んだ昔懐かしい男社会の温泉旅館時代の香りが残っていたのだ。

 大山詣は、信仰と参拝後の楽しみを求めて集まった江戸庶民の一大歓楽街であったのだとの
認識を新たにした。これが最後の発見だ。
 大山は、山まるごと一つのミュージアムだと誰かが書いているが、全くその通りと同感できたバス旅行だった。


イラスト:Google写真・フリーより

緩やかなカーブ   吉田 年男

 神田駿河台下の三省堂出版部だった。バイトの仲間は、明治、中央大などの文系の学生が主であった。当時文系の学生の多くは、マージャンをやったり、映画を見たりして、学生の身分を利用して時間的に余裕のある生活をしているように思えた。

 そのなかで法学部のK君は、時間を惜しんでは司法試験の勉強をしていた。理系だった私は、授業について行くのにやっとで、時間的に余裕がなかった。お互いになんとなく話をするようになった。昼飯は駿河台下交差点の信号を渡った角の洋食店に、二人でよく食べに行った。

 仕事も慣れてきたときに、彼と一緒に通信販売の業務をすることになった。
 当時の通販とは、手紙で注文を受けていた。封書の中身は、本の名前が書かれた便箋と代金の切手がはいっていた。本の名前と冊数などを確認して、売上伝表を作成し、倉庫から本を受け取る。そして郵便局から注文主へ発送する。
 売上伝票を書くときは、声を出しながら作業をするようにとの指示があった。彼が読み手で、私が台帳に記帳する係りになった。


 彼は事務所に居る人によく聞こえるように、大きな声で伝票を読み上げる。その声は朗朗として滑らかで聞き取りやすい声だった。

 K君の訃報が届いた。喪中はがきでの連絡であったが、差出人はK君の奥さんだった。奥様やお子さんからのものがよく来るようになった。自分が後期高齢者の年齢をすぎていることを再確認させられた。
 と同時に訃報をみて、大きな声と屈託のないK君の笑顔が浮かんだ。あらためてもっと頻繁に会っておけばよかったと思った。

 今でも忘れられない。喪中はがきを見たときに、学生アルバイトをしていたときの声が聞こえてくる気がした。不思議な気持ちになった。
K君との記憶は残念ながら頭の中だけのことだ。街並みは変わっているだろうが、彼と一緒に居たところは実在している。急にその場所に行ってみたくなった。
 郷愁を感じながら、靖国通り、駿河台下交差点まで来た。斜め前にバイトをしていた三省堂の建物が見える。建て替えられていたが場所は変わっていない。
交差点から淡路著方面に向かっての緩やかなカーブ。その場所に身を置いてみると、路面の起伏、位置関係などが、当時と変わっていない。今立っているところが不思議なくらい昔の儘に見える。
よく通った洋食店の所は、ハンバーク店になっていた。たくさんの若者たちがその前を行き交う。風景は変わっても、街を包みこんでいる空気、靖国通りを行き交う車の音などは、臨場感を持って当時を思い出させてくれる。駿河台下交差点からみえる緩やかなカーブは、K君との思い出として強く印象に残った。

甲箱ガニと「ちろり」 廣川 登志男

 昨年十一月に、加賀市大聖寺にある家内の実家から、例年通り甲箱ガニが送られてきた。首を長くして待っていたカニだ。早速、ご馳走になった。

 甲箱ガニはメスのカニで、オスはタラバガニとよばれる。大きなオスのタラバガニは、美味しいのは確かだが、高値のつく料亭などに売られ、地元庶民の口には入らない。しかし、地元の人はそれを悔しがることなどない。

 確かに小さいので、身は少ないし殻から外すのにも一苦労するのだが、身の甘さに加え、甲羅の中にあるオレンジ色の内子と、卵の外子、それにミソが格別の味なのだ。
 地元の人は、その美味しさを知っているのでタラバガニよりも甲箱ガニを好み、市場に届くとすぐに買いあさって無くなってしまう。

 そのカニを実家が送ってくれる。始まったのは家内と結婚した年からで、私のカニ好きを知って、ご両親が毎年送ってくれるようになった。お二人ともすでに他界されたが、跡を継いだお姉さん夫婦もそのまま送ってくれている。

 家内もそこで生まれ育っているので、当然、好物で食べたがると思うのだが、
「私、小さいときからおやつ代わりだったから、食べたいと思わないの」
 と、1杯くらいしか食べない。
 おやつ代わりだったからと言っても、美味しいのは変わらない。私に食べさせたいのだろう。お陰様で、残り十数杯は、全部私のお腹に入る。もちろん一晩で食べてしまうのではない。二杯ずつを六,七回に分けていただいている。
 本当にありがたく、私に食べさせようと我慢している家内、そして送ってくれる実家に心から感謝している。


 カニの食べ方はいろいろあるが、酒飲みというのは、その美味しさを倍加してくれる日本酒を必ずお供にする。それも、人肌の燗酒だ。
 時には、甲羅に熱い酒を注ぎ、ミソを溶かしていただくこともある。

 我が家でも、カニには熱燗、それも人肌と決まっている。酒の種類は、辛口だ。それを「ちろり」で温める。
 石川県の地酒では「天狗舞」などの三大銘柄に加え、「加賀鳶」などが有名だ。隣の福井県では「蟹至福」などが挙げられる。地酒の話になると大変になるのでこの辺でしまいにするが、温める酒器の「ちろり」が、これまた素晴らしい。


 昔、赤ちょうちんで一杯やっていた頃、店では、直径30センチくらいの鍋でお湯を沸かしていて、その中に、二合ほどのお酒が入るアルミ製の「ちろり」で燗をつけていた。

 我が家の「ちろり」は、同じように二合のお酒が入るが、材質は結構重たい錫だ。陶器の器と木枠がセットになっていて、名前は『蓋付き錫ちろり ミニかんすけ』。お値段は少々張って、二万円前後なのだが、これを家内が、「カニは人肌の熱燗に限る」の私の言葉を聞いて、誕生日祝いに探して贈ってくれた。

 陶器にチリチリの熱い湯を入れ、そこに酒の入った「ちろり」を浸ける。すると熱い燗酒になる。少し冷ましたお湯で浸けると、丁度飲み頃の人肌になる。
 冷酒を飲みたいときには、「ちろり」を冷蔵庫で冷やし、陶器には氷水を入れることで簡単に作ることができる。同様にして、冷たいワインもいただける。

 最近、電子レンジで温める「レンチン」なる言葉が聞かれるが、そんな即席の方法では味もそっけもない。風情もない。
「ちろり」を使うと味がまろやかになるという。
 能書きには、『香りが冴え、お酒自体に芳醇さが増し、まろやかに、また口当たり良くおいしいお酒が飲める』とある。錫は、熱伝導性が高く、イオン効果もあってお酒をまろやかにするのだそうだ。確かに、「ちろり」を前にしてお酒を飲むと美味しく感じる。なので、同じ錫製の猪口も買い求めて、冬の晩酌を楽しんでいる。


 この頃は、その効能を信じて高価な大吟醸や吟醸酒の代わりに、庶民的なパック入りのお酒を飲んでいる。それでも、美味しく楽しめていられるのは効能のお陰か。いまではかなりな節約モードになっている。
 ひょっとしたら、家内の思惑はここにあったのかもしれない。
 そういえば、「ちろり」をくれた時に、こんなことを言っていた。
「どんなお酒でも、これで飲むと美味しいらしいわよ」
 そこら辺の意図があったのかどうかわからない。そうだとしても、美味しい甲箱カニと、美味しいお酒を楽しませてくれる「ちろり」を贈ってくれた、家内の優しい心遣いに感謝している。

傘寿の同期会   武智 康子

 同期会というのは、同じ時期に入学、卒業、入社などをした人の集まりのことである。それが、傘寿ともなるとその会を世話する人もされる人も、自身の健康のことや伴侶の事もあって、だんだん足も遠のいてくるのではなかろうか。

 傘寿の会は、人生の一つの節目、いや、公として最後の会になるかもしれないと思われる。

 昨年、私はこの傘寿を祝う同期会に小、中、高校と大学からの4通の案内状をいただき、喜んで出席した。それぞれに趣きがあり、懐かしい友達との語らいの中に、エピソードあり、失敗あり、苦労ありと有意義な会合であった。


 先ず5月半ば、最初に大学の同期会。この会は卒業後58年ほどになるが、お互いに専門も近く、よく会合もあったので特に特別の事も無く、一泊の温泉旅行だった。

 次に、6月末、戦中戦後の疎開先の小、中学校合同の傘寿の同期会である。父の仕事の関係で福岡で生まれた私は、小学校2年の半ばに大分県との県境の浮羽群吉井町に疎開したのである。それは福岡の爆撃の一週間前だった。

 戦後、偶然に焼け残った自宅には両隣の方々が住み着いておられ、食糧事情のこともあって、すぐには福岡に戻れず、吉井町に住み続けた。
 この町は造り酒屋をはじめ、材木商や地域で有名な製粉会社、そして昔のいわゆる庄やなどが多々あり、町として経済的に恵まれていたので、私達も生活し易く、私は沢山の友人達と親しくなった。

 結局、この町で私は、小、中学校の7年間を過ごした。

 約60年振りに訪れた吉井町は、私の想像より近代的になっていた。
 駅前のビジネスホテルで始まった傘寿の同期会では、遠来の私を歓迎してくれたが、失礼ながら名前の分からない人も何人かいた。
 そして、話に花が咲き、宴たけなわになった頃、私をびっくりさせる出来事が起こった。


 それは、一人の男性が突然告白したのだった。
「僕は、伊藤さん(私の旧姓)が好きだった。なかなか言い出せなかったが、伊藤さんが福岡に行ってから、何度か手紙をだしたが返事をもらえなかった。大学生になってからも大学祭に行ったが会えなかった。本当に残念だった」
 私は、本当に驚いたのだった。

 私にとって身に余る話だったが、手紙の件は、恐らく厳格だった両親が私にわたさなかったのであろう。私は見た事がなかったのだ。私は、申し訳ない気持ちで、この年になって謝ったが、実はこのことは地元では有名な話で、皆知っていたそうだ。

「知らぬは、本人ばかりなり」ということだったのだ。

 彼は、町の有力者の息子で、学校の成績も良く坊ちゃん育ちだった。地方の医大を出て、今はもう引退しているが、医者として町で開業し、町の医療に尽力したそうだ。


 東京に戻った私は、このことを主人に話した所、主人は「それは残念だったな~」と言って、茶化されてしまった。
 
 小、中、高校の会では、大学と違って色々な職業の人が居て、話題に尽きない。


 秋には、高校の傘寿の会が東京で行われ、大体サラリーマンが多かったが、今回私の前に座った彼は、大学を出て証券会社に勤めたあと、脱サラをして東京のど真ん中である半蔵門の、あるビルの地下で魚屋をしていたという。
 私は、そのような所の魚屋にどんな人が買いに来るのだろうか、と思い尋ねた所、大半は料亭用だが一般には、近くにある国家公務員官舎の奥方達が客だそうで、皆、高級な魚を求めていくそうである。

 要するに、料亭にしろ結局はお役人用の魚屋だったのである。彼の経営は上手くいき、財を成して65歳で店を閉じたそうである。魚屋にも定年があったのだと大笑いになった。

 他にも、戦火のイラクに行ったことのあるプロのカメラマンの体験談など聞き、貴重なひとときだった。


 11月の下旬には、福岡第一師範男子部付属国民学校という、いかめしい名前の学校の入学時の同期会からも案内状をいただき、初めて出席してみた。
 私は2年生までしか通っていないが、出席してみて驚いた。
 居た居た、幼稚園から一緒だった懐かしい顔の友人、5人に72年ぶりに再会したのだ。

 お互いにいろいろな運命を辿っていたが、入学試験の問題が兵隊さんの行進の絵の説明だったり、教育勅語を冬の寒い講堂で直立不動で、出てきた鼻水もすすることもできず、辛かったことなどなつかしい話題で話に花が咲いた。
 誰かが、一寸だけ教育勅語を口ずさむと次々と言葉が出てきて、80才にしてすらすらと言えたのには、我ながら驚いた。

 余程、何度も復唱させられたのだろう。教育とはこういうものなのかと、教育の重要性を検めて考えさせられたのである。

 今回、4つの傘寿の同期会を通じて、私達の80年の人生には、多くの事があったが、全てを乗り越えて、今があることに感謝したいと思った。

 また、これからもできるだけ元気で、迷惑かけないようにして楽しく過ごしたいと心に誓ったのだった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

昔のズボン  青山貴文

 初冬の静かな朝陽が、引き戸のガラスを通して居間の奥深く射しこんでいる。
 先日、大きく茂った木蓮の枝を、身の丈の高さに思い切って切断してもらった。お陰で居間が明るく、居ながらにして青い空がみえるようになった。

 私が、この陽の当たる居間の安楽椅子で、朝刊を広げて読んでいると、
「このズボン、裁断して使用してもよいかしら」
 と言いながら、妻は思案しかねて、暖色系の派手な柄のズボンを持ってきた。
 いつもならば、私に尋ねることもなく、断捨離をするところだ。

 新聞を片手にもちかへ、身体を捻って眺め入る。橙と黄とこげ茶色の大柄の縞模様で、布地もしっかりしている。
 若い頃、ゴルフズボンに使用していたものだ。少し派手だが格好良く、まだ新品のように折り目が付いている。

「捨てるには、もったいないね。最近、ウエストを絞っているから穿けるかな」
 と、立ち上がって、その派手な細いズボンを両手で持って腰に合わせてみる。
「だめよ。 まだあなたが若いころのズボンよ」
 と、妻は穿けるはずがないと自分の見立てに自信を持っている。


 私も、多分無理だと思ったが、着ているゴム紐付きの普段着のズボンを脱ぐ。生白いかっこうわるい両足を、妻の前で見せるのは気恥ずかしいものだ。

「あら、丁度よいみたいね。今着ている紫色のジャンパーとよく似合ってよ。余り上にあげてはみっともないわよ」
 と、妻は、大もうけしたと、喜んでいる。布地として利用しようとしたものが、本来のズボンとして使えるのだから、もっともな反応だ。


 私は、この6~7年歩きに徹している。夏の暑い日は早朝から、他の季節は、昼間から夕方にかけて毎日3~5キロ歩いている。さらに、この1年半前から、社交ダンスを習い始めて、ウエストを極力絞る努力もしている。

 この細いズボンをするりと穿けた時の感触は、何か新たな若々しい肉体に変身したのではないかと嬉しくなった。
 ご婦人が節食してスリムになり、若い頃のスカートが穿けて小踊りして喜んでいるという記事をよく読むことがある。

 私も、何か新たな気力が湧いてきて、そのズボンをはいたまま二階の書斎に駆け登る。窓際に立てかけた等身大の鏡に向かって、ちょっとルンバのステップを踏んでから机にむかった。

アホらしい話だったけど  林 荘八郎

 大阪にいる父からの突然の電話だった。
「気をつけろよ。お前が自動車事故で大けがをするか死ぬという相が出ていると八卦見にいわれた」
 またかと思った。

 父は家に神棚も仏壇もおいて、毎朝のお祈りを欠かさない人だった。何事につけ八卦見へ行き、占ってもらう。お寺でも神社でも構わず詣でた。

 わたしは就職し上京して間もない頃で、昼も夜も自分で車を運転する外回りの仕事を受け持っていた。確かに事故の心配がないわけではなかった。さらに仕事柄、酒気帯び運転をすることが多いのを父は知っていた。
 しかし、そんなことを言われても仕事を変わるわけにもいかないし、笑って過ごしていたが、やがて父は上京し、一層注意するよう真面目な顔で言い残して帰っていった。


 父の八卦見頼みの歴史は長い。わたしの名前を決めたときの話を聞いた。
「荘」という字が好きなので、親が徳太郎だったことから「荘太郎」と名付けたかったという。しかし八卦見に、
「『太』の字の中の『﹅』は災いのもとだ。末広がりの『八』が良い」
 といわれ今の名前に決めたそうだ。

 商売の都、大阪にはお稲荷さんを敬う人は多い。

 わたしの勤め先は大阪が本社の会社だったが、創業家はお稲荷さんを社長室に祀り、稲荷祭りという行事を設けていた。その日は業務はせず、役員一同が参拝したあと各部署が順次お参りし、社員は稲荷寿司をもらって昼に退社した。

 父は終戦後十年経ったころから、大阪の船場で毛織物の仲介業を始めた。
しかしそこは、誰かが儲けた分を別の誰かが損をしているような厳しい世界だった。父はたたき上げの商人ではないため厳しさに欠け、お人よしで決して商売上手ではなかった。思うに切羽詰まった状況に追い込まれることが多かったのだろう。お寺も神社も当たり構わず詣でたことからも分かる。

 わたしが結婚相手を決めて両親に報告したら、暫くして八卦見の結果を伝えてきた。
「運勢を見ると、相手の星の方が強い。このままでは結婚後、直きに別れるかお前の方が若死にする。二人にとって不幸だ。ふたりで八卦見へ行って直接に話を聞いてきた方が良い」

 しつこく促され、二人で大阪まで行き、父の信用する八卦見を訪ねるハメになった。そこは三軒長屋の中の一軒で、厳かな構えではなかった。先客が去ったあと、六畳くらいの部屋に通されて、四角い大きな火鉢を挟んで易者と向かい合った。
 彼は灰の上に火箸で字を書き、
「あなたの若死にを防ぐには、相手に名前を変えてもらうのが良い」
 という。
 説得力がなく、根拠が疑わしい、非科学的なアホな話と思った。
二人で顔を見合わせ、どうする? と聞くと、
「私は名前を変えません」
 相手の気持ちを尊重したわたしは、父の心配を押し切るような形で結婚した。
「当たるも八卦当たらぬも八卦」というが、思うにあの頃は生きるために、みな必死だったのだ。家内安全、無病息災、商売繁盛を願い、八卦見を頼る人は多かった。
 父もその一人だった。

 わたしはこれまで切羽詰まった立場に追い込まれて神仏を頼みにしたくなる状況に出会っていない。運転では、いつの間にか丁寧で慎重なマナーが身に付いた。これは父の願いが通じているということなのだろうか。

いまも八卦見の言葉を思い出す。

 妻の星は確かに強い。しかし、わたしの人生の末広がりは当たっていたのであろうか、それともこれから実現するのだろうか。

 日の出、日の入りの神々しい太陽に、あるいは雪を頂いた富士山の厳かな姿に出会うと、自然と手を合わせる。家族の安全と幸せを願っている。
 父と似たことをしている自分に気づき苦笑している。

 
イラスト:Googleイラスト・フリーより

涙の手紙=金田絢子  (#ICAN:ノーベル平和賞 授賞式に読んでもらいたい作品)

 その手紙は母宛に、疎開先の「茨城県猿島郡弓馬田村」に届いたものである。手紙の冒頭の「三月丗一日」の日づけから推して、昭和二十一年のことと思われる。

 差出人は、母の友人の花水さんである。母と花水さんは、府立第二高女(現、都立竹早高校)の同級生で無二の親友だったようだ。

「去年の今頃のことなど、いろいろ思ひ出されます。幼馴じみのお心安だてに、お目にかかってお話しする様に何でも書いて見やうかと思ひますの。讀みにくいけど讀んで下さる?」
 このように始まり、おしまいまで仲良しの“あなた”に聞いて欲しいという、一途な思いにつらぬかれている。
 四枚の便箋の三枚目までは、うらおもてをつかってびっしり文字が並ぶ。
 昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾がおとされた。忌まわしいあの日、花水さんのご主人は、役所にいく途中で、自転車にのって橋をわたっているとき、被爆した。
「午後四時頃『ヤラレタ』と云ってそれでも歩いて帰ってきた姿。もう書けません、「とても大火傷でした。よく此処迄かへって来た、それ程の大火傷でした」
「とに角はじめは元気でしたの」
 ご主人も花水さんも治る、と信じていた。


 ふた月まえの、昭和二十年六月、転任の沙汰があり、同月十九日、夫婦と子供四人の一家は、広島にうつった。「その時、本当に生きて再び東京を見る気持ちは全くありませんでした」

 広島に着いたものの、住むところもない有様だった。七月になってやっと、広島から四里程はなれた可部町で、住まいを得た。
「広島の一つ先の横川駅から四十分程省線で山の方へ入った、静かな町で、大田川が流れ」などの記述のあとに、八月五日の描写が涙をさそう。

 広島へ来てからもご主人は日曜日も休まず役所に通っていた。原爆投下の前日、「日曜日でしたが、午後三時ごろかへり、子供三人(末の子はまだ乳飲児)連れて裏の川へ行って、泳がせたり、遊んだり一時間程楽しさうにやってをりました。それが親子の浅いきづなの最後で御ざいました」

 被爆した主人は高熱で三週間、うわごとを言いつづけた。
「私事は一つも無くて、全部役所の仕事のことばかりでした」
「最後の四日程は意識不明のまま、何の遺言ものこさず自分では治りたい治りたいとあせりながら、亡くなりました」

 三枚目のむすびは「こんな大惨事になるなら、どうして(日本は)もう一週間早く、降伏しなかったのかと恨むのは私だけでせうか。でもこれも皆運命でございませう。私がかうして子供四人を負うて先のわからぬ世に生きてをりますのも、私の運命です」
 三十代の若さが書かせたすばらしく悲しい手紙である。

 涙で文字がかすれ、読めない部分もあるが、全面、真情にあふれている。大切にとっておいた母の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 時代をうつして、粗悪な便箋にはやぶれがめだつ。いまにもこわれそうであるが、母の遺志をついで、生涯わたしも、手放すまいと思っている。


【HP管理者より】

「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室、11月度提出作品です。ご本人は都合で当日欠席でした。きょう2017年12月10日に#ICANのノーベル平和賞の授与式がありました。
 被爆者の妻の生々しい描写が、このまま埋もれず、世に知らしめるべきだと判断し、作者・金田さんのご承諾を得ないまま掲載いたしました。(穂高健一)

起こされて  森田 多加子

 暑かった今夏の寝苦しさから解放されて、気持ちよく寝ていた朝、突然スマホのけたたましい大きな音で目覚めた。


 私たち夫婦は、いつも遅起きだ。
 早い朝は熟睡している。けれど、今朝は、突然朝早くから起こされ、何のことやらと、ぼんやりした顔を見合わせた。家は揺れていないので地震ではなさそうだ。
「なんだ?」 
 同時に外からサイレンが聞こえてきた。スピーカーで何か流しているので、聴き耳を立てた。

『北朝鮮によるミサイル発射がありました。北海道地方から太平洋へ通過するもよう』


 このスピーカーは、毎日夕方五時になると、(良い子のみなさん、おうちに帰る時間です)
と、流していた音だ。町全体に響き渡るような音で流れる。当然、これはうるさいと苦情が出たらしいが、
(緊急のお知らせをする必要があるときのための予行練習です)
 と、いう市からの回答だった。

 緊急の時というのが、この報せだったのか。


 すぐテレビをつけた。
 男性のアナウンサーが、私に向かって緊張した面もちで話しかけてくる。外から聞こえているメッセージと同じで、北朝鮮からミサイルが発射されたということと、

「できるだけ頑丈な建物や、地下街などに避難してください」

「できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動してください」

「落ち着いて行動してください」

 何度も、何度も同じ言葉を放送している。

 外ではまだサイレンが鳴っている。
 戦時中の記憶がある私としては、敵機が上空にきているという報せの【空襲警報!】のサイレンにそっくりなので、怖くなって何が何だかわからない状態になった。

「この辺に頑丈な建物や地下街なんてないしねえ」
「うちは鉄骨なので、頑丈な建物のうちにはいるんじゃない? 家にいればいいよ」
「でも、窓のない部屋なんてないものね」
 後から考えると、漫才のような夫婦の会話だったが、ぼそぼそと話しているうちに、ミサイルは北海道上空を通過してしまった。

 Jアラートが発令されて、たったの4分だ。何もできなかった。実際、この上空にミサイルが飛んできたら、避難できる時間ではない。日本のおえら方が「国民を少しおどかしておこう」……なんて……言っている妄想が浮かんだ。

 戦時中の【敵機襲来】の怖さは妄想ではない。
 あの怖さを知っている年齢の人も、もう少なくなってきた。二度と同じ事態にならないようにと、改めて切実に感じた。

 いつもなら、まだ寝ている時間だが、中途半端なので、はっきりしない頭をフリフリして起きることにした。
(大丈夫でしたか?)
(これでは狼少年になりかねませんね)
 ラインに心配したメールがはいる。
 緊急連絡なので、狼少年などになってはいけない。
 ならないように気を付けたいが、4分では避難場所に移動すらできない。

 実際の話、連絡があったときにどんな行動をとればよいのか、未だ全くわからない。

パリ祭の日の恐怖の一人旅 武智 康子

 2001年7月14日、私は国際学会に出席する主人に同道して、スペインのマドリッドに居た。

 ちょうど前日、学会も終了したので、主人は仕事でスペイン北部の鉄鋼会社に行くことになっていたため、私は一人でパリ経由で帰国の途についた。ただ、それは私にとって初めての海外旅行の一人旅だったのだ。
 パリでの乗り換えもあり、不安がいっぱいだった、

 マドリッドの空港で主人と別れ、旅券検査場も無事に通過し、予定のエアフランスに搭乗した。

 しかし、予定の時刻を過ぎてもなかなか飛び立つ気配がない。始めは落ち着いていた私だが、パリでの乗り換えのこともあり、だんだん不安になり、スチュワーデスを呼んだ。そして、拙い英語で尋ねた。すると彼女は

「時間が来ても、搭乗していない人の荷物を降ろしているところだ。」と言う。
 よくあることなので、その時はさほど驚かなかった。

 これが恐怖の前ぶれだった。
 私が乗った飛行機は、約50分ほど遅れて出発し、2時間後無事にパリのシャルルドゴール空港に到着した。

 トランジットの時間は、十分にあったので、一応ホッとした。大きなトランクはスルーにしていたので、機内持ち込みの小さなピギーを引いて、乗り換えのJALのカウンターに行った。

 東京行きの手続きが済むとJALの制服を着たフランス人の女性が「どうぞ、こちらへ」と案内をしてくれた。私は不思議に思ったが、彼女の後に続いた。

 案内された先は、ビジネスラウンジの特別室だった。
 私は驚いて怪訝な顔をしていると、彼女は、私の一人旅を心配して主人が、事前に連絡をしていてくれたことを、明かしてくれた。
 せっかくなので私は、コーヒーを飲みながら一休みすると、未だ時間があるのを見て、ラウンジのフロントにいた彼女にピギーを預けて、免税店に出かけた。
 そして私は、一つの店でフランス刺繍の施された素敵なテーブルクロスを買った。


 その時である。
 広く大きな空港に、けたたましいサイレンと早口での放送が鳴り響いた。何だか意味は分からなかったが、その様子から緊急事態が起きたことは理解できた。

 私は、慌ててピギーを引き取るために、ラウンジに向かった。が、そこには既に警官がロープを張っていて、「逃げろ」と言う。
 私は、ピギーを諦めざるを得なかった。中には、昨日マドリットの市内で買った、ジアドロのお人形が私のパジャマなどに、くるまれて入っているのだ。

 しかし、そんなことは言っていられない。
 私も、ハンドバックとテーブルセンターだけを持って、他の客達の後を追ってラウンジと反対方向に逃げた。

 それから、15分位経っただろうか。先ほどまで私が居たラウンジの方角の外から「ドカーン、ドカドカーン」と言う大きな爆発音が聞こえ、一瞬建物が揺れた。

 周囲の人達と顔を見合わせ、生きた心地がしなかった。気がつくと、隣に居た黒人女性と手を握り合っていた。肌は黒いが手の平は白い。ちょっと違和感はあるが同じ人間の手だ。その時私は、人はみんな同じで通じ合うものがあるのだ、と心に強く感じた。

 30~40分後にやっと緊急事態は解除されたが、その放送の直後に、広い空港に私の名前が響いた。私は急いで指定された場所に走った。

 そこには、チェックインの時私をラウンジに案内してくれたフランス人のJALの女性が、私のピギーを大事そうに持って待っていてくれた。

 私は、驚きで言葉が出なかった。彼女はあの緊急事態の中、私のピギーを持って逃げてくれたのだった。
 一度、諦めたピギーが今、私の眼の前にある。ジアドロの人形も戻ってきた。こんなに嬉しいことはない。
 私は咄嗟に彼女の手を両手で握って「ありがとう」を繰り返した。そして、持ち合わせていた京都の舞妓さんの絵が描かれている縮緬の風呂敷を、感謝の気持ちをこめて渡した。
 彼女も喜んで受け取ってくれた。


 彼女の話によると、不審物は、私の居たラウンジにあったそうで、私が買い物に出た直後に発見され、建物の外に運び出されて、爆発物処理班によって爆破されたそうだ。

 その日は7月14日、ちょうどパリ祭の日である。大勢を狙ったカタルーニヤ地方の民族テロだったのだろうか。
 彼女にとっては、仕事の一部だったかもしれないが、私は買い物に出かけた運も味方してくれて、何事も無かったようにJAL便に搭乗して帰国の途に着くことができた。


 機内では、偶然、隣り合わせになった日動画廊の女性社長と、美術談義ヲ交わしながら翌日の昼に私の一人旅は、無事に終った。

             イラスト:Googleイラスト・フリーより

東洋のシンドラー  桑田 冨三子

 久しぶりに30ほど年下の友人・満子から電話があった。

 数年前、満子は「美智子皇后」という本を婦人公論社から出したが、その時に美智子さまの学生時代の話などをいろいろと教えたりして、それ以来、付き合っている元テレビ局のプロデューサーである。

 藪から棒に「ねえ、李徳全(りとくぜん)て知ってる?」という。

「知ってるわよ。ずいぶん昔のことだけど、中国のおばさんでしょ。」
「ああよかった。きっと知ってると思った。今、李徳全のことを調べて書いているの。日本とのつながりとしてエピソードを書くから、知ってることを全部教えて」


 東西冷戦のさなかの1950代前半、中国には多数の日本人帰国希望者が残っており、大きな問題になっていた。

 当時、日本が国交を持っていたのは台湾の中華民国であり、中国大陸の中華人民共和国とは外交関係がなく、民間の細いチャンネルではどうしようもなかった。
 この苦しい日中関係の壁に風穴をあけたのが一人の中国人女性であった。


 満子の話では、李徳全は大勢の戦争孤児たちのために保護施設を作ったり、戦後、大活躍をした人だそうだ。これらの活動が認められ新中国が誕生した折に衛生部長に選ばれた。

 中国の赤十字である紅十字会の会長になった李徳全は、人道主義精神と平和のために、日本人の引き揚げと戦犯問題解決に心をくだいたという。

 ながらく途絶えていた日中交流の先駆けとして、李徳全女史が日本へやってきたのは、1954年だった。中国紅十字会の代表・李徳全女史が持ってきたのは重厚な戦犯名簿であった。

 名簿は2冊に分かれており、一つは戦犯生存者1068名、もう一つは戦犯死亡者40名であった。名前、部隊名、階級、年齢、出身地などが詳細に記載されていた。


 李徳全は、戦犯の人、大部分と、帰国を希望する一般人2000人を、年内もしくは来春までに帰国できるようにする、と約束してくれた。
 李徳全の持ってきたニュースを聞きたくて詰め掛けていた留守家族たちにとって、つぎつぎに名を読み上げる係員の声は、まるで判決文であるかのような悲喜こもごもの現象を引き起こしていた。


 死亡した日本人戦犯40名のほうに、わたしの祖父、河本大作の名前があった。引揚げ船の入る舞鶴や佐世保の港に、いつ祖父は現れるかと待ちわびていた家族にとって、この李徳全のもたらした突然の訃報は一家にとって灯りが消えてしまったような失望を呼び起こした。

 家族は一家連名で、せめてお骨だけでもと李徳全女史に手紙を書いた。長い間、沙汰は無かった。しかし、ある日、舞鶴港に停泊している船へ、すぐ来るように。荷物を渡す、と短い電報が来た。

 行ってみると渡された物は、河本大作の遺骨と書かれた大きな蓋付きの缶と、なんと、古ぼけてはいるが、見覚えのある祖父の赤革のシューバであった。


 わたしのかかわったエピソードはそれだけだった。
 でも、BC級戦犯も全員帰ってきたし、これも精力的に中国国内に抑留されていた日本人帰還事業に精力を費やした李徳全さんのおかげだと思う。

 今、日本には日中友好を切に望む人が大勢いるが、その人たちの間ではこの李徳全こそ、東洋のシンドラ―だ、と言われている。