元気100教室 エッセイ・オピニオン

シャンパンの日々 = 遠矢 慶子

 トランプ大統領と、中国の習近平国家主席の初めての首脳会談がアメリカフロリダ州パームビーチで開催された。パームビーチの強い日差しの中を二人が仲良く歩く姿がテレビで映し出された。

 12年前、パームビーチで過ごした夢のような毎日を私はふっと思い出した。
 アメリカの4か所を、四週間巡るシニアのホームステイのプログラムで、最後の訪問が、フロリダ州のパームビーチだった。


 空港には、ホストのジャネットが車で迎えに来てくれていた。

 背の高い椰子の木々が両側に並んだ、ハイウエイを30分ほど走ると、ジャネットの家があるという。アメリカはどこへ行っても、起伏がなく平地で広い。

 パームビーチは、その広さの中に、南国の紺碧の空と海が広がる、明るい洗練された雰囲気の素敵な町だった。一軒が何千坪はある家々は皆平屋で、前庭が広がる。

 ジャネットの家も入り口から家まで、車で走るほどの距離がある。玄関に入ると広いリビングのガラス戸越しに、大きなプールが見えた。
 プールの周りにはまぶしいほど、白いパラソルと寝椅子が置かれている。

 ジャネットのご主人は歯医者で、医師免許の都合でフロリダでは開業出来きず、隣のサウスカロライナ州で開業し、週末だけ帰って来る。
 子供の居ないジャネットは、大きな家に一人で住み、好きなゴルフ三昧の毎日だ。きれいに片付いた家の中も、手伝いが来て掃除をする。
「このプールで毎日泳ぐの?」
「私はほとんどプールに入らないの、使うのは主人が帰ってきてパーテーする時ぐらいかしら」
 ちょうどプール掃除の若者が来て、掃除をしていた。庭掃除のおばさんたち三人も働いている。
「けいこは、いつでも泳いで。でも、泳ぐ暇があるかな」
 プールの奥の林には、南国特有のパパイヤやグレープフルーツが実っている。
「毎年のようにハリケーンが来て、大きな木はなぎ倒されるので、今植え替えているところよ」と、いとも呑気にいう。

 専業主婦のジャネットはお料理好きだ。広い住宅展示場のようなキッチンの冷蔵庫の横のボードに、私の一週間の滞在中の朝夕の献立が、貼ってあった。
 
 翌朝、起きた時は、ジャネットは、もうゴルフウエア姿で、
「今日は、午前中はゴルフで、午後は友達の家によばれているからね」
 ゴルフ場は3つのコースのある、
 家から道路を渡った所だ。車に乗って行く。
 メンバーは年会費100万円で、一年中、何回でもプレイが無料ので、ジャネットは週に5、6回はプレイしているという。

 今日は、ジャネットの二人の友人も一緒で、カートに乗りスタートする。
「この辺はワニが住んでいるから気をつけて、沼地のボールは拾わないように」
 と言ったその時、向こうの沼地をワニがのそのそと歩いていた。
 大きな白い鶴が三羽緑の芝生に飛んできた。

 途中、小さなレストハウスで休む。そこには雲をつくような大きな男性が4人、休んでいた。
「ハーイ」「ハーイ」と挨拶を交わす。
「バスケットのジョルダン選手よ」
「ハーイ、日本から来たのか?」
 と、気さくな有名人である。

 午後は、小さな船でリバークルーズをする。
 船が真っ赤な灯台を曲がると、高級別荘群が目に入る。
「あの家が15億円」「あれが不動産業の20億円の家」
 と、有名人の別荘めぐりで価格まで説明するのには驚いた。
 アメリカ人は、ウオーターフロントに住むのが夢で、ステイタスだ。庭先に船を置き、船も車感覚で友人宅に出かける。

 午前中はゴルフ、帰ってシャワーを浴びて、友人を訪問かショッピングのセレブとの一週間を過ごした。
 船から見た15億円の家も20億円の家も訪問した。
 その妻たちの話題は、株の話、老後のこと、そして姑と婿の悪口など、世界共通の話題だ。私たち日本人と違うのは、昼間からシャンパンを飲んで、延々と会話が続く。暇を持て余しているのでもなく、日常茶飯事のようだ。

 セレブの婦人たちは、皆スリムで、肌がきれいで、40歳ぐらいかと思ったら、なんと60歳後半から70歳と聞き、驚いた。エステの効用なのか。
 アメリカ人は、7年ごとに家を変える、というのも本当のようで、ステイタスというか趣味の一つらしい。
 優しく料理上手のジャネットも、やっとハリケーンの町パームビーチからノースカロライナに越した。また、遊びに来てと、カードが届いた。
 トランプの別荘もパームビーチで、ハリケーンに遭ったのだろうか。大邸宅を何軒も持つトランプは、家の一軒や二軒はどうなろうと知らないのだろう。

 ゴルフ三昧、シャンパン三昧の毎日は、未知の世界だった。だが、私にとっては一週間がちょうど良い。遊びの毎日もエネルギーがいる。貧乏性なのだ。


                    イラスト:Googleイラスト・フリーより

遺された足あと = 石川 通敬

 古希を過ぎたころから、人生の締めくくりをどうつけるかと考えつつ、何もせず今日に至っている。
 そんな時ふと「足あとを遺す」という言葉が頭をよぎった。

 なぜ、この言葉を思いだしたのか、原因を考えてみると、次の二つの出来事が思い当たる。一つは、父が遺した巨大な足あとが一つ片付いたこと。二つ目が、家内の母が昨年亡くなり、親世代の遺した足あとの整理が、ほぼ終了したことだ。
 そこで気づいたのが、足あとにも、いろいろあるという発見だ。

 まず、私の父は大小おびただしい数の足あとを遺した。共通しているのは、自分の体験を、文書にまとめ、「生きた証」として遺すという考えだ。
 主要な著書の4冊を中心に、生涯にわたり、書き残した文書は、多岐にわたり膨大だ。その中で最大の足あととなったのが、ライフワーク『国家総動員史』(全13巻)だ。

 戦前、内務省の若手官僚として働いた父は、「国家総動員」プロジェクトに携わった。その時、父が担当者として入手した資料を、国家的貴重な記録だと考えたのだろう。戦中はもちろんのこと、戦後も、度重なる転勤にもめげず、生涯大切に持ち歩いていた。

 戦後、世の中が落ち着きを取り戻した時、職務を通じて、見聞きした事実を遺し、後世に伝えることが、自分の使命であり「生きた証」と考えたのだ。

 その背景には、戦勝国による敗戦国の一方的な裁きに対する疑問があり、事実の記録を遺せば真実がわかってもらえる、と父にはつよい信念があったからだ。
 そこで、父が取った行動の第一歩が、直接関係していなかった部署の人たちへの聞き取り調査である。同時に、その証言を裏付ける資料を収集し、さらに関連書籍にはお金に糸目を付けず書店から買いあさってきた。
 現役を退職した後も、15年間かけて、これらを集大成し、世に送り出した。それが『国家総動員史』(全13巻)である。完成までの歳月は、50余年に及んだ。

 その結果、父が亡くなった時、遺されたものは同書の在庫200セット、さらには段ボール箱300個に相当する書籍、同150個の資料という巨大な足あとだ。

 この足あとの処理に、私は父が亡くなってから、30年を要した。書籍は古本屋を経由し市場で売却できた。だが、市場で売れない資料は、神戸大学の先生延40人の方々に、8年かけで整理していただいた。
 それが昨年の夏、トランクルームから、国立歴史民俗博物館に送り出されたのだ。

 これが冒頭で述べた「巨大な足あと」が一つ片付いたということだ。同博物館は2年かけて整理し、その後、一般公開されることになっている。
 これで、父の足あとは、日本の子孫のために残ることになる。

 この本稿を書いているうち、私はこれまで母のことをまったく評価していなかったことに気づいた。
 父が家中に放り出す紙の山を、母は結婚以来、半世紀以上にわたり、整理保管してきたのだ。最後には、母屋の書庫と、屋外の3棟の物置に、ていねいに整理し、収納していた。
 天井が2メートル以上もある物置に、重い本や資料をぎっしり詰め込むのは、どんなにか大変な仕事だったかと思う。
 父の足あとを、縁の下で支えたのが、母だったのだ。今頃、母の貢献を再評価していることを申し訳なく思う。見事な夫婦の連係プレーだったのだ。


 私の両親が遺した足あとと対照的なケースが、家内の両親である。
 義父は、銀行を卒業したあと事業会社に移り、経営不振の会社を立て直し、同社で「中興の人」と言われる業績を上げていた。義父は偉大な足あとを会社には遺した、その一方で、家庭にはお金以外はなにも残さなかった。
 趣味が、ゴルフと英語のパズル程度だったので、自然にお金が残ることになったのだ。

 この状況を見事に生かしたのが義母である。
 専業主婦として、ただ家庭を堅実に守るだけではなかった。よく勉強し、財テクで大きな実績を挙げた。
 私が、とくに義母を尊敬するのは、経済に対する目の鋭さだ。日経新聞は毎日2時間近くかけて精読していた。その上、証券会社のアドバイスを得て、義父が使わないお金をタイムリーに投資し、資産を着実に増やしてきた。
 それだけではない。バブルの頂点で、義母は所有不動産の入れ替えを断行したのだ。その結果、家族の資産構成は確たるものになった。
 義母が遺した足あとは、子供はもとより孫、ひ孫に及ぶほど、計り知れない大きな経済的な恩恵だったのだ。夫婦の連携プレーの妙がここでも発揮されている。


 これまで考察した結果、私が得た結論としては、次の2点だ。この年で、私ができることには限界がある。著書も、財産形成も、いまから取り組むには遅すぎる。

 そこで決意したのが、まず夫婦で要らないものを捨てることだ。
 消極的だが、私の経験から痛切に実感したのが、不要な物の処理がいかに大変か、という問題だ。子供たちに負担のかかることは、遺したくないと思っている。
 
 第2は、生きた証として『ファミリーヒストリー』としてまとめ、足あとを遺すことだ。
 父の七回忌に当たり、兄弟で「愛する孫たちに」という文集をまとめた。母が亡くなったとき『私の自分史』という思い出文集を作り、親族に配った。
 その際に集めた写真、メモなどの他に、これまで整理した日記、ノート、写真、和歌集、手紙、書籍など、捨てかねる思い出の品々がまだ残っている。家族の個人情報の整理は、これから行いたいと思っている。

 子供たちは結婚し、我われ夫婦にも、孫ができた。将来は、我われ子孫のなかで、自分のルーツを知りたい、という希望を持つ子が出てくるかもしれない。
 いまや家族制度が崩壊し、核家族社会になった。ドン・キホーテ的かもしれないが、親族の痕跡がきれいさっぱり何も残っていない、というのは申し訳ないと思う。
 親族のつながりを知る手がかりとなる『ファミリーヒストリ―』を、どうまとめるかが当面の課題だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
                     【了】

ハゼがなつかしい = 林 荘八郎

 金沢八景は、ハゼ釣りの名所だったという。
 駅前に広がる平潟と呼ばれる入江がある。昔はそこへ多くの手こぎボートを繰り出し、のんびりと釣りを楽しんだそうだ。浮かべたボートから、沖には小さな島、陸には三浦半島の山並みがきれいに見えたという。

 しかし平潟の岸辺の風景は変わった。昔にはあったであろう土手や葦などは無くなり、いまはコンクリートや石垣で囲まれてプールのようになった。周りには大小のマンションが並び、東京の品川や芝浦の海のような景色に変わりつつある。
 ボート屋は今も数軒残っていて当時を忍ばせるが、主人も女主人も他界したのだろうか、ボートは陸に引き上げ裏返されている。滅多に動かない。処分に費用もかかるので放置されているのだろうか水質も変わった。
 そして、ハゼはどこかへ行ってしまった。

 でも、秋になれば、いまでも小学生が父親か爺さんに手ほどきを受けながら、岸からハゼを釣っている穏やかな風景で出会う。あごが張った愛嬌のある顔つきのハゼを思い出して、教える方も昔を懐かしんでいるみたいだ。

 沿岸の埋め立て事業に伴い、多くの漁師が漁業権の買い上げに応じ、遊漁船業に転向した。ハゼが減ったため、沖釣りが盛んになった。
 金沢八景には、いま釣り船が多い。ある年のゴールデンウイークの朝、一斉に出て行く船を四十隻まで数えたことがある。その数は東京湾の中では1,2を競う多い数だそうだ。

 釣船が出航する朝の7時半ごろに、私は毎日のように散歩に出かける。大勢の釣り師と会う。道具の積み下ろしや、座席の確保で賑やかなときだ。弁当や飲み物の準備も楽しそうだ。その光景は、活気があって眺めているのもいいものだ。
 釣り師にはいい車を持っている人が多い。ベンツを初め高級車がずらりと駐車場に並ぶ。釣り専用車なのだろうか、道具で一杯の車もある。釣りはどうやら金持ちの遊びになっているようだ。

 夕方には、その船が戻ってくる。嬉しそうな顔つきをしている釣り人もいる。アイスボックスの蓋を開け、釣り宿の女将に獲物を報告し、サイズを測ったりカメラで撮ったり嬉しそうだ。散歩中にそのような機会に出会うとこちらも嬉しくなり、祝福の言葉を投げかける。

 平潟のハゼが減ったように、今度は東京湾では釣れる魚が減ってきた。
 原因はいろいろあるのだろう。それに対応して、沖釣りも毎週木曜日には一斉に休業することになった。これは資源保護対策だが、昔から東京湾で漁れる魚は美味しいと定評があることを思うと、良い取り組みだと思う。


 天気の良い日を選んで、私もときどき船に乗る。
 船頭はお客に満足してもらおうと、よく釣れる漁場を探して海の上をあちらこちらへ船を動かす。移動中、釣り人は竿を上げていなければならない。
 その度に釣り客は竿を挙げたり下ろしたりする。静かに糸を垂れて時を過ごす釣りではない。船頭も釣り人も、どちらも忙しく、何だか慌ただしい。
 水墨画には、仙人が釣りをしている情景が描かれているのが多くある。静かに心落ち着けて釣りをしている情景で、釣れようが釣れまいが頓着しないみたいだ。夕食用に1匹何かが釣れれば良い、釣れなくても良いように見える。見ているだけで心が落ち着く。その世界、その心境に心惹かれる。
 それはハゼ釣りにも似ている。ハゼが釣れていた頃がなつかしい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

見かけだおし = 森田 多加子

「家事の中でなにが一番好き?」
 と、問われて考えた。
 どれもたいして楽しいとは思わないが、食べることが大好きなので、積極的ではないが、まあ、料理かなと思う。
 しかし料理は体調、気分が大いに影響する。雑誌やネットで美味しそうな盛り付けを見て「この料理を作りたい!」となると、大体間違いなく美味しいものができる。
 気分が乗らない時の料理の味は「いわずもがな」だ。最近はこの「いわずもがな」が多く、毎回深く反省するがどうしようもない。

 40代のころは、陶器に凝っていた。気に入ったものが手にはいると、このお皿にはこんな料理を載せたい、小鉢にはあの料理を盛りたいと考える。
 レストランでコース料理を何度か頂くうちに、私もこんな料理で人を招待したいと思うようになった。コース用のセットを買った。
 友人たちに聞いてみた。
「コース料理をするけど、食べに来る?」
「へー、そんなのやるの? 行くにきまってるでしょ」
 そこで張り切った。

 まずオードブルだ。生ハムがまだちょっと高級なイメージのころだ。レストランでも前菜に出ることが多かった。真似をしてメロンに巻く。
 スープはズッキーニのポタージュ。デザートはイチジクか梨の赤ワイン煮。それにサラダ。だいたいこれだけは決まるがメイン料理に毎回苦心をする。フルコースとはいかないが、肉を主にして、簡単で美味しく「見栄えの良い」ものがほしい。

 一番簡単なのがローストビーフだ。奮発した上等の肉の塊に、たっぷりの香辛料をすり込み、フライパンで、焼き過ぎないように注意しながら転がす。様子を見てアルミフォイルに包み、5分ほど冷凍室で急激に冷やす。
 その後冷蔵庫へ移動させる。これでオシマイ。これがメイン料理になるかどうかわからないが、肉料理なので勝手にメインにする。私流の手抜きだが、おいしいと思う自慢料理なのだ。

 友人たちは、招ばれているのだから、間違っても「不味い」とは言わない。たっぷりお世辞の言葉を出してくれる。私はそれが実際の評価以上の誉め言葉であるとわかっていながらも、うれしくて仕方がない。

 和食もやってみたくなって、会席膳を4人分買った。洋食と同じく「入れ物で誤魔化せる」意味合いもある。
 茶道をやっていたので、懐石料理を少し教わっていた。これは、本格的にやると、その細かい作業のむつかしさと、金銭的にも大変なので、私の作るのは、「もどき」もいいところだ。
 しかし、普段のお惣菜を「ちょこっと」この膳に載せるだけで、見かけは高級和食に見える……、という勝手な思いだったと思う。

 ある日、神戸から姉が来るという。友人も一緒だそうだ。私は前日から準備をして、この会席膳に盛り付け、自信をもって出した。
 想像通りに
「まあ、きれい。和食の専門店に行ったよう」
 と、姉の友人は、盛んにほめてくれる。姉もうれしそうだ。私は非常に満足だった。
 ところがのちになって姉の本心がわかった。下の妹に言ったそうだ。
「森田家の料理はきれいでいいけど、私はあれでは全然もの足りないわ。あんなにきれいに盛りつけなくていいから、もう少したっぷり頂きたい」
 そういえば、姉の料理は豪快だ。そして味もいい。

 まあ、人間もそうだが、料理も見かけ倒しは、すぐ看破される。おおいに考えさせられた出来事だった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

もういいわ = 青山貴文

 松の大樹が、校内の歩道のあちこちに葉影を作っている。松の緑と赤レンガの建物がうまく調和して絵のようだ。
 白いユニフォームの十数人の学生たちが、萌黄(もえぎ)色の芝生の上で、大声を出しあって白球を追っている。

「もう一度、若い頃にもどってみたいな」
 と、私は思わず言葉を発し、並んで歩いている妻に同意を求めると、
「私は、もういいわ」
 と、妻は気のない返事をする。
(そうだろうな。品性が少し欠けるが理解力のある亭主を持ったんだからな)とほくそ笑んでいると、
「これから、また同じ苦労するのはごめんだわ」
 と、妻は私の思いをひっくり返し、冷めたことをいう。
(何を言うか)
 と、妻を無視して数歩先を歩くと、
「ご両親を看ながら、出来のあまり良くない二人の子どもを育ててきたのよ。あんな苦労するのは一回で十分だわ」
 と、昔のことをチクリと云う。

 妻は私の肺気腫の父を看取り、さらに認知症気味となった母や子供達のことで、いろいろ苦労をしてきた。
 親しい友から、
「お前のかみさんは偉いよ。今どき、親の面倒を看てくれる奥さんは少ないぞ。大切にしろよ」
 とよくいわれたものだ。

 だが、あのころは、私も一緒にいろいろと手を貸してきたはずだ。ただ、会社に通っている頃は、単身赴任も多く、両親と二人の子供の面倒を、妻一人に任せきりになってしまった。
 これが、いまだに妻に頭が上がらないわけだ。

 今日、わたしたちは熊谷に所在する立正大学のキャンバスに公開講座『ゆとりある社会の実現と労働時間』を聞きにきている。
 この講座は、聴講生の数は500人くらいで、年2回、春秋に開かれている。毎回5~6週間で、土曜日午後1時から2時間余りの授業だ。
 すでに、通い出して7年になる。ほとんど出席しているので、申し込まなくても招待状が来る。

 太っ腹な妻は教授の講義を聞きながら、私の隣で堂々と顔を机に伏せて数分の仮眠を取っている。これだから諸々の面倒をみて来れたのであろう。
 私はといえば、いつもの聴講スタイルで顔を真っすぐに向け、目を瞑って聞きながら、いろいろ考えたり、数秒仮眠したりする。頭がコクリと落ちないのが、私の特技だ。

(学生時代は、アルバイトで明け暮れた。やはりもう一度若返って、クラブ活動をおもいっきりやってみたい)
 講義は、そっちのけで、先ほどの妻との会話を反芻する。

(いまさら若くなれないが、今できることはまだまだある。思いっきりやってやろう)
 そう気を取り直し、ちょっと薄目を開けて教授の顔やパネルを観る。すぐまた目を閉じ講義に耳を傾ける。わたしは目を閉じて聞くほうが、目が疲れず、その上よく理解ができるのだ。
妻は、仮眠から覚め、スッキリした顔て講義に集中している。

 土曜の午後の学舎は静かで、講義は続く。
 似たもの夫婦は、共通の新しい情報を仕入れ、その話題で話し合う。そのことが好きだ。さらに、若々しいキャンパスの雰囲気も嬉しい。
 講義後、キャンパスを散策して、若い学生たちから元気をもらおう。
 熊谷に立正大学があってよかった。

                          イラスト:Googleイラスト・フリーより


忖度の今昔 = 鈴木 晃

 昭和世代の私は、忖度(SONTAKU)を「気配り」と理解していた。それも日本人的妥協文化だと思って行動してきた。
 例えば、オーストラリア五州のステートマネイジャーたちに、会社への忠誠心を上げてもらう手段として、英語ではうまく言えなかったので、マネイジャーの奥さんの誕生日に豪華な花のプレゼントを考えた。
 たまたまこれが当たり、海外子会社で、初めて配当金を払える会社にすることが出来た。

 巨人軍の四番打者だった松井選手が、ニューヨーク・ヤンキースに行って、「フォア・ザ・テイーム」をモットーに活躍したのも、日本人的な忖度だと思っていた。

 森友学園問題で、忖度という日本語が、「気配り「」という解釈でいいのか、と不安だった時に、英国のフィナンシャル・タイムスに、
「まだ出されていない命令に、先回りして、懐柔的(自分の思い通りに従わせること)に従うこと」
 と特派員が、無理に注釈をつけていた。
 日本に住んでいても、外国人には難しいニューアンスの日本語だと思った。

 広辞苑では、「他人の心中をおしはかること」としか出ていない。そこで、「忖度の由来」をインターネットで調べてみたが、すっきりできる解釈がなかった。
 こんどは、図書館で調べてみた。
「新釈漢文大系」の『詩経』編(中)に節南山が「巧言」という詩の中で、「他人心有らば、予(ワレ)之を忖度す」(351頁)とある。
 意味は「他の人に悪心があれば、私はそれを吟味する」とあった。
 これが「忖度」の由来になるようだ。
 由来からすると、物事を念入りに調べる「吟味」が元の意味だった。


 しかし、戦国時代では、秀吉の出世のキッカケになった伝説の『信長の草履を懐で温めていた』行為のことを、私は「忖度」だと思っていた。
 江戸時代末期に、篤姫が徳川家の存続を願う手紙を西郷に送ったという話も、私は「忖度」だと思っていた。

 平成時代になると、忖度には「いい忖度」と「悪い忖度」の二つがあるという。
 それは、「忖度はないと言い張るお役人の忖度」と、「神風が吹いたと証言する忖度」で、喧々囂々(けんけんごうごう)の騒動になっている。


 日本社会を歴史的に眺めてみると、日本民族には、世界のルールがどうあれ、忖度はなくならない社会だと思っていた。
 ところが、他国の大統領が代ると真っ先に駆けつけて、金のゴルフパターを贈る行為は、忖度とは言わず、単なるゴマスリだと感じるのは、昭和世代の私だけだろうか。


 アメリカ金融資本のビジネス・ルールを押し付け、アメリカの巨大な多国籍企業だけが儲かる仕組みのTPPを、トランプ氏に再認識させる。
 そう意気込む姿には、敗戦後70年以上経っているのに、ノモンハン事件以降、ミッドウエー、ガダルカナル、インパール、レイテ作戦などの失敗を分析した『失敗の本質』(中公文庫)から見ると、「悪い忖度」をしたとしか思えない。

 なぜなら、ユニクロの柳井社長は、もしトランプ氏がアメリカで生産せよとうなら、アメリカの大都市50か所で展開する店を撤退すると明言した。

 アメリカの言うことに盲従する政治家などとは違い、自分の金で損得を冷静にみている経営者は、政治家より広い視野で、世界情勢の変化を見ている、と私には感じられた。

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男の色気  =  遠矢 慶子

 野生のすみれが一面に咲き。地面を紫色に染めている。その横の菜の花の黄色い群生が良くマッチしている。竹林にかこまれた広い庭、いつ通っても四季折々の花が楽しめ、つい立ち止まってしまう。その隣の家の庭は一面蕗の薹、新緑のフキの葉の間に、花が咲いた蕗の薹がつんつんと立っている。

 庭のないマンションに越してから、人さまの庭を見て楽しませてもらえるのは有難い。手入れもせずに四季折々の季節を満喫できる。

 葉山町民大学講座で教育総合センターへ行く。
 今回の講座は「イギリスの文化」で70名の募集に150名の申し込みがあり、急きょ人数を100人にしたというので、机も3人掛けで少々窮屈だ。

 5回シリーズの2回が終わり、今日は3回目のダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」だ。
子供の頃、童話として読んだ思いはあるが、ダニエル・デフォーが、イギリスを代表するこんなすごい作家という認識はなかった。

 講座中、何気なく私の目が隣の列の斜め前に座っている人の足を捉えた。
 くるぶしまでのスニーカーソックスをはいた男の足だ。チノパンツの骨ばった長い脚、直角に折った膝の下に、赤いふちどりのスニーカーをはいている。

「すてきな足」というより「男の色気」を感じた。
 私はその足にくぎづけにされ、ついちらちらと目が行ってしまう。

 仙葉豊先生の講義も上の空。ロビンソン・クルーソーにみる経済学、宗教学、社会学、伝統主義の非合理性を先生は論じている。
 見知らぬ男の、それも足に色気を感じるなんて、80年生きてきて初めてのことだった。

 そもそも私は、自分自身に色気がない。
 若い頃付き合っていた男性の車に乗ったとき、「女性が乗ってきた感じがしない」と言われたことがある。
 彼はミュージシャンで、玄人の女性との付き合いが多く、そんな女性たちは、車に乗るとぷーんとお化粧の匂いがして、「降りた後までもするんだよ」と言った。私は無臭の色気のない女だった。

 男の色気を持つ男の上半身に目が行くと、なんと八十歳前後のつるつるにはげた頭があった。ユル・ブリンナーのようだ。
 私は、歳を取っても熱心に講義を聴く男の姿に惹かれたのかもしれない。いやいややはり足だ。あの骨ばったくるぶしの魅力だ。

 電車の中で、夏の浜辺で、伸び伸びと育った若い男性の姿はいつも目にする。見ていて気持ちが良いほど張りのある贅肉のないしまった身体は、イタリアの張彫刻を見るようだ。
 でも、今日の男性の足も捨てたものではない。

 美しいというよりある種の、本物の人間の色気があった。

 今日の講義は、ちょっと邪魔が入り、集中していなかった。もらった資料をゆっくり家で読み直そう。
町民大学講座は楽しい。学生時代と違って、本当に熱心に聴く、周りの聴講生も真剣で質問を投げかける。そして試験がないのが嬉しい。
 その上、今日は座った場所の役得で、男の色気のおまけがついた。


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きりぎりす = 桑田 冨三子

「きりぎりす なくや霜夜のさむしろに衣かた敷き独りかも寝む」


 百人一首で聞いた歌だ。
 今までは「恋人に逢えない一人寝の寂しさを吟ずる作者はさぞかしイケ面の若い公家で、金色刺繍を施した派手な衣装をまとい、傍のきりぎりすの緑が映える美しい絵」と想像していた。

 ある日、ふと、「きりぎりすはそんな寒い冬に居るのかな?」と不思議に思い、調べたところなんと、「こおろぎ」の事を、昔は「きりぎりす」といっていたそうだ。

 なるほど。こおろぎなら、この寒そうな筵の部屋に居ただろうな。これまで想像していた華やかな絵は跡形もなく消え去り、後にはしょぼくれた男が筵の上に衣を敷いてすわり一匹の小さな黒い虫が一緒にいるという、淋しい墨絵が残った。


「蟻ときりぎりす」の話がイソップにあるが、きりぎりすは、お洒落なタキシード姿で、夜じゅう音楽を奏でるアーティストらしく描かれている。プライド高い音楽家だから、冬になって働きものの蟻の家へ行って食べ物を請うなど、とてもつらかったろうに。それとも「武士は食わねど高楊枝」と、我慢したのかなあ。タキシードのきりぎりすには、なんとなくそんな想いをよせている。


 昭和の終り頃、母についてパリ、コレクションに行った時のことだ。グランド・ホテルでファッション・ショウが開かれた。デザイナーは久しぶりに戻ってきたイヴ・サン・ローランであった。ショウの最後を飾ったのは、思いもかけない、男性の燕尾服を基に巧みに変身させた女性のイヴニング・ドレスである。とっさに私は思った。

「あ、きりぎりす。」
 それは、まことに優雅な女らしい雰囲気が漂う見事なスワロー・テイルで、病後のサン・ローランの復活を憂いていた会場を一気に魅了した。「天才、サン・ローランは健在」と、居並ぶ観客たちは安堵した。

 以前、ディオール後継者のジョン・ガリアーノが、カモシカの美しい線を取り入れ、天才的なデザイン力をしめした事があったが、今度はきりぎりすの番だった。羽や身体の曲線、脚の直線と鋭い角度などが見事に取り入れられ気品高いクラシック・エレガンスを創り出していた。

 自然界の虫には、人間の思いつきをはるかに超える美しい線を持つものが沢山居て、これは航空機や自動車などの工業デザイナー達に大きなヒントを与えているのは周知の事だ。


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出前授業 = 石川 通敬

 トランプ大統領の出現は、戦後70年間世界をリードしてきた価値観を根底から揺さぶっているように見える。

 私の関心事は、これがこれまで喧伝されてきたグローバル化時代の潮流を変えることになるのかという点だ。こんなことを、心配するのはここ5年ほどかかわっている小、中、高等学校生への「出前出張授業」というボランティア活動のスタンスに関係するからだ。


 この活動に参加することを決めた遠因は、退職後二つの女子大で10年間教えたことにある。10数年前「グローバル化」という言葉が一世を風靡した。
 私も乗り遅れてはいけないと思った。授業を通しこれを教え、グローバル社会で生き抜くすべを教えるのが使命だと考えたからだ。

 更に授業だけでは不十分と思い、大学生のために、「グローバル社会を生き抜く」というタイトルで本を書き、アマゾンから売り出した。
 しかし売れ行きは良くなく、改訂版も出し3年ほど頑張ったが、期待した結果は出なかった。
 そうした時、『DF』という社会人OBが集まる団体の中に、出前出張授業チームが結成されたことを知った。私は本で訴えたかったことが直接若者に伝えられるよい機会だと思い早速参加した。

 出前出張授業という言葉は、一般的には聞きなれない。わかりやすく言うと「社会人が講師として学校に出向き、仕事で得た知恵やノウハウを生かし授業を行うこと」だ。
 なぜ、我々が助っ人として期待されるのかというと、今教育界が抱えている課題解決に役立つと思われているからだ。

 目的は、二つある。
 一つは生徒たちの進路指導の応援である。もう一つが日本人に共通する「発信力がない」といわれる問題点の克服策支援である。
 日本では伝統的に「出る杭は打たれる」「沈黙は金」」等という価値観が尊重され、我々の行動、発言をマインドコントロールしてきた。

 最近日産のカルロス・ゴーン社長が、日経の私の履歴書で次のようなことを書いている。「日産とルノーのアライアンス・ボード・ミーティングを初めて開いた時、会議でずっとしゃべっていたのはフランス一人だった。
 他の日本人は静かに聞いていた。だから私はフランス人には「仲間の意見も聞こう」と言い、日本人には「もっと意見を言って」と促したものだった」と。

 DFのチームに参加してよかったと思うのは、授業後に生徒が書いてくれる講師あての感想文から生徒の反応が直にわかることだ。感想文に「海外で仕事をしてみたくなった」とか「スイスの話は面白かった」などと書いてあると、授業を準備してきた苦労も報われたとうれしくなる。

 出前出張授業の様子を、ある記事が次のように紹介している。「普段の授業と違うから楽しいというのではない。参加している子どもたちの目の輝き。先生がたが一生懸命にフォローする姿勢。それらがうまく解けあったとき、大きな成果が生まれる」と。

 まさにその通りなのだ。これを、ワークショップ型授業で実施すると効果は倍増する。これも聞きなれない言葉だ。

 簡単に言うと、先生が一方的に話す講義型ではなく、先生と生徒が対話する形で進める授業なのだ。ハーバード大学のサンデル先生がテレビでやっているような授業もその一つだ。私の場合は、自分が経験した「インドネシアに銅線工場を建設する」というテーマを使い総当たりで対話させるのだ。

 具体的に言うと、クラスの生徒を「社長」「販売部長」「総務部長」「製造部長」にグループ分けする。生徒は、それぞれ自分の役割が何か検討し、その結果を、グループ内で討議。最後にクラスメンバーに発表するという授業形式である。


 その効果は確かだ。例えば、ある女子高校で年間7回のワークショップを実施した結果だ。四月にはほとんど何も話せなかった生徒達が、一年後の3月には大きな声で意見を述べられるところまで成長した。また、男子校の例では 授業終了後生徒たちが「今日は楽しかった」「学校はこのような形式の授業をもっと提供すべきだ」と喜び、興奮したのだ。

 こうした活動の中で、私には驚きの発見があった。ある公立中学の校長先生から、自治体の教師は一生同じ自治体内を転勤するだけ、と聞かされた時の衝撃は強烈だった。彼らには海外転勤はなく、国内の転勤すらない。公立校の先生達は異動を禁じられた江戸時代の農民と同じ状況に置かれているという事実だ。

 全国で公立の中学、高校の先生の人数は40万弱と聞く。ほとんどの教師は海外生活体験がないはずである。そうした実体験のない先生方が、グローバル社会への対応を指導できるのだろうかと、素朴な疑問を抱いたのである。

 最後に話をトランプ大統領に戻そう。仲間とも議論したが、我々の授業へのスタンスは変える必要がないというのが、私の結論だ。それは国際社会において、
「自分の意見が言えない」
 という日本人の弱点の克服は、大統領に関係なく世界中の人々を相手に生きて行かなくてはならない日本人にとって重要課題だからだ。

 因みに我々のメンバーは30人弱、訪問する学校数は高校を中心に小、中学校25校。参加生徒数は、年間延1万人。規模では二階から目薬の状況だ。それでも、一人でも多くの若者がグローバル社会を力強く生きてゆけるようになることを期待して皆頑張っている。

 イラスト:Googleイラスト・フリーより

パパの小言 = 林 荘八郎

 いつもの夕方の散歩の時間になった。                     
「パパ! そろそろ出かけようか!」
 ママのかけ声で腰を上げる。散歩と言っても、ほんの少し家の外へ出るだけだ。用を果たすだけの外出だ。家のそばに小さな花畑がある。土の匂いを嗅ぐとオレは催す。そして用を果たす。後始末をしないまま、ママと一緒に急いで家へ戻る。


 オレは体高二十センチにも満たない小型犬のチワワだ。年齢は、多分十歳くらい。なぜ一緒に暮らし始めることになったのか、何処で出会ったのか分からない。多分、ご主人が亡くなって、毎日がさみしかったころ、ペットショップでオレを見つけたのだろう。その頃は小さくて可愛かったはずだ。そしてパパと名づけて大事にしてくれている。楽しい二人暮らしではある。

 住いは横浜郊外の海辺の小さな町だ。漁師町のため、昔から犬よりも猫の方が大事にされてきた。ヤツラは自由で、鎖に繋がれることもない。我が物顔で町の中を行き来している。三毛猫なんぞは女王気取りのように見える。それにしても恋の季節のヤツラはうるさい。ヤツラに比べると、犬は恋もままならない。だから町内で子犬が生まれたという目出度い話もないし、近所には子犬がいない。オレは高齢者なのだ。仲間も同じだ。隣の家では、オヤジも犬もヨボヨボだ。このあたりは人間も犬も揃って年寄り社会だ。

 オレはそんな町で暮らしている。

 エサは通信販売で買ってもらう缶詰品だ。メニューは豊富で、まぐろ味、かつお味、しらす味、とり味などがある。レトルトもある。スナックもある。オレはこれらの加工食品の味しか知らない。ママの食事の残り物を食べることは滅多にないからだ。

 ママが元気だったころは一緒に遠くまでお出かけした。散歩に出かけるとシベリアン・ハスキーやゴールデン・レッドリバーなど、見上げるような大型犬によく出会ったものだ。今は彼らには滅多に出会わない。町内の知り合いは小型犬ばかりだ。すっかり小型の世界になった。恐い大型犬がいなくなったのは、なぜだろう。


 恐いといえば、ここは車が恐い。閑静な町だが朝夕には多くの軽自動車やバイクが猛スピードで通り抜ける。オレの散歩コースはどうやら彼らの抜け道らしい。背が低いので車はデカく見える。それが通り過ぎる時は本当に恐い。あの大型犬よりも恐い。そのうちに誰かが犠牲になるだろう。事故が起こる前に何とかできないものかと思う。

 昨今は犬の糞の始末にはうるさい。オレが用を足すのは近所の花畑だ。最も快適な所だが、用を果たすと、ママはそれを見て見ぬふりをして、さっさと家へ戻る。だって町内はいたるところ舗装されているので、糞をした後、足で土を蹴って隠すこともできないからだ。気持ちよく用を果たし自分で始末できるところは、今やなかなかないのだ。

 その畑でせっせと花を育てて楽しんでいる老人がいる。その人には顔を合わせると睨みつけられる。どうやら糞の犯人がオレであることを知っているようだ。咎められたことはないが、あの人には嫌われているな、と、ひと目で分かる。おまけにあの人には、

「犬の分際で、人間様にケツを拭かせる不届きな奴」とも思われているみたいだ。
 あの人は苦手だ。

 ふと思うことがある。人間って勝手だ、と。
 子犬がいないのも、缶詰のエサばかり食べさせられるのも、小型犬ばかりの世の中になったのも、危険な車が多くなって、安心して町の中を散歩できないのも、気持ちよく糞をできないのも、みんな人間の勝手ではないのか。

 人間が作ったこの世相も環境も好きではない。犬にとっては住みにくいのだ。

 オレは寒くもないのに毛糸のセーターを着せられている。仲間も同じだ。先行き長くない気がする。飼い主も犬も医者通いだ。こんな暮らしで、こんな姿で長生きはしたくない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより