元気100教室 エッセイ・オピニオン

我家の教訓 青山貴文

 吹き抜けの玄関を内から見上げると、二段に折れ曲がった階段が登っている。
 その中段の踊り場の壁には、『我家の教訓』という標語がある。A3の大きさのカレンダーの裏面を利用して、墨汁で大書している。

 この標語の3項の内、最初の2項「第一、健康」と「第二、努力」は、小学校の高学年の頃
からそう思っていた。自分の生きる大切な願いとして心の中に納めていた。

 私が小学生のころ、父は仕事がうまくいかず、酒とたばこで憂さを晴らし、不健康な生活をしていた。その影響も多分にあり、旧家出身の母は心身を病み、寝込むことが多かった。そこで病気がちの両親が反面教師となり、健康は最も大切なことだと思うようになった。

 学校では、日本は資源が乏しい国なので、原料を輸入し、それらを加工して輸出しないと外国に負けてしまうと教わった。よって、日本人は、他の国の人たちが作れないような精巧な機械を工夫して作って行かなければならない、そのためにはいろいろ努力しなければならない。この努力は健康の次に大切なものだと考えた。

 小学校の卒業の時、友達同士で、自分の願いを相手のサイン帳に書いた。「第一健康 第二努力」と、同じ文句をクラスの殆どの人に、書いたものだ。

 中学、高校と順調に進んだが、大学にはスムーズに進めなかった。父の失業と重なり、受験勉強だけが出来る環境ではなかった。
 酒屋の住み込み店員として、午前中に勉強をさせてもらい、何とか大学に入った。高校までは痩せていたが、住み込みで力仕事が多かったので、体力に自信がもてるようになった。よく食べ、よく学んだ。期末試験も、あくまで健康第一と、徹夜などせず、さっさと寝てしまう。
 よって成績も中くらいで、優等生とは縁遠いものであった。このとき、自分の生きる大切な指針としてこの2項目が心の中に定着した。


 就職は、努力すればなんとかなると、皆が敬遠する重厚長大の鉄鋼会社を希望し、熊谷工場に同期11人と共に配属された。
 同期の中に勤勉で、あまり寝ずに仕事一途に頑張っていた一人が夜勤明けに、倒れて急死した。自分の生きるうえで大切な教訓となった。それから、健康が絶対的なものとなった。
 結婚して、3歳ちがいの2人の娘を授かった。下の子が小学校に行くようになって、この2項目を我家の教訓として、壁に掛けた。

 妻や子供たちは、それについて何も言わなかった。
「お父さんがまた好きな標語を壁に掛けている」と思っていたようだ。

 子供たちは、それぞれ小学校6年と中学校3年になり、普段は仲が良いが、時に自己主張のあまり喧嘩もする。我々夫婦も、子供の教育のことや、いろいろのことで意見が合わず口論する。お互い自己主張し、相手のことをあまり考えない。
 各自が自分の意見を押しとうそうとしていた。


 私は、会社でも、自分の意見に固守して、突き進み、周りから孤立することもあった。いろいろの人と和していかねば、大きな仕事はできない。
 その都度、たとえば「短期は損気」、「人の一生は重荷を背負い・・・徳川家康」、あるいは「人は書くことにより確かになる」などと壁に張り出した。

 そのころ、家を改築し、立川の両親を呼び寄せ、同居するようになった。親とは言え、第三者が加わると、家の中の雰囲気がどうもしっくりいかない。どうも何かが足りない。この2項目の教訓だけでは、大切なことが欠けているのではないかと思うようになった。

 子供たちは、身体も大きくなり、健康で、頑張りの効く人間に育ってきているようだった。しかし、さらに友達同志と慈しみあっていかなければならない、さらには、年老いた祖父母を思いやるように、子供たちを導いていかなければならないと感じた。

 今から丁度30年前の正月、「第三、思いやり」を追加し、新しい「我家の教訓」とした。そしてカレンダーの裏紙に大書して壁に掛けた。

 『我家の教訓」
    第一、 健康
    第二、 努力
    第三、 思いやり
   
              平成元年 正月

 それから、十数年後、父母は他界し、さらに数年して子供たちも巣立っていった。
 この教訓は、時の経過とともに紙が変色すると、その都度、和机に座り、習字の練習とばかりに、新しい真っ白な裏紙に同文を書き、飾っている。
 我々老夫婦にとって、第三項目が、いやに目につくようになってきた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
 

薬膳 =  筒井 隆一

 現役の企業人として業務に追われていた時期に、
「このまま仕事人間で人生を終わるのは、もったいない。卒業した後は何をし
たらよいか」
 を常に考えていた。

 その時思い立って始めたものの一つに、料理がある。料理教室に通いはじめ、それが何と20年間続いている。

 今までに、家庭料理、洋風、和風、中華、野菜、肉、魚、おもてなし、などのコ ースを、年に一つずつこなし、一通りの料理は体験した。月に一度の教室通いは、食文化を見直し、年間の生活リズム作りには、最適だった。

 20年はひとつの節目と考え、通い続けた料理教室のけじめに、あまり縁のなかった薬膳料理に挑戦してみよう、と思いついた。

 今までは、親しい友人たちが我が家に集まった時、復習を兼ねて、習った料理を披露していた。「美味しい、美味しい」とモリモリ食べてくれた仲間も、歳と共に、食が細くなってきた。ふるまう料理も、身体によいものがよかろう、との思いから『からだを整えるバランスごはん』というコースを選んでみた。健康、長寿のためには、味覚や食感より、何をどう食べるかが大切だ、と考えたからだ。

 このコースでは、薬膳の知恵を取り入れて、身体によい料理が習える、とうたっている。 月ごとに、「ストレスを和らげる」「質のよい眠り」「夏バテ防止」「血行改善」などのテーマが挙っている。このようなテーマに沿って、毎日の食事を少しでも工夫して体調を整え、元気に若々しく過ごせれば、言うことはない。

 転勤族の長男が、2年半ほど前から沖縄に勤務している。今回4度目の沖縄行きを、家内と二人で計画した。
 長男夫婦は、私たちの訪問にそなえ、毎回現地の観光コース、飲み会の場所などを調べ上げ、計画的、効率的に案内してくれる。

 今回は、素材から調理に至るまでこだわりがあり、身体が喜ぶというヘルシーバイキングに、案内してくれた。私が料理教室で選んだ、薬膳のコースにも共通点がありそうなので、興味を持って店に向かった。

 ハーブカフェ「ウコンサロン」は、空港から車で4~50分、那覇市の南東、南城市に位置し、沖縄最大の薬草農園に付属するレストランだ。4500坪の面積を有する農園で採れた、新鮮な無農薬野菜と、ハーブをたっぷり使用したランチバイキングが人気の店で、特に女性客が多い。

 メニューは、ハーブ野菜のしゃぶしゃぶ、ハーブ酒で豚足を煮込んだテビチ(代表的な沖縄料理)、ウコンスパイスを使ったカレーなど、野菜をふんだんに使った料理が、ところ狭ましと並んでいる。三十八種のブレンドティーを中心にしたハーブティー、デザートも、飲み放題、食べ放題だ。
 時間制限はなく、大人一人1100円とは、ずいぶん割安に感じる。

 一通り食べ終えて、隣接する庭園に出た。爽やかな香りの漂うハーブ植物園を、のんびり歩く。普段の食事に比べ、かなりの量を食べたのに、野菜主体のせいか満腹感はない。まだまだいけそうだ。散策後、再度バイキングに挑戦する客もいる、と聞いた。
「沖縄の食文化、香り、癒し空間」
 を目指し、長い準備期間を経てこの地にハーブカフェ「ウコンサロン」を20年ほど前に立ち上げた創業者に、感謝の気持ちが湧いてきた。

 幸い料理には、まだまだ興味がある。料理は、食材の組み合わせ、調理法、味付け、盛り付けなど、自分のセンスを活かせる幅が広い。老化防止にも最適だ。
 沖縄での体験と、料理教室で始まる薬膳コースを活かし、仲間に健康維持、体質改善を目的とした新しい料理を披露できる日も、間近いと思う。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

重い判断   =  森田 多加子

 最近、通報で駆け付けた救急隊員が、高齢者の蘇生処置を拒まれるケースが多くなったという。
「末期がんで、すでに主治医には、本人からも延命処置はしないようにお願いしてある」
 と、言われた救急隊員は、人の命を助けることが使命の一つである。救急車の中で、それができないなら、非常に苦しいことだろう。

「処置中止の書類があるからと言って簡単に割り切れない」
 その場に居合わせた救急隊員の話だ。

 患者の家族が書類に署名をして、医師が同意すれば蘇生処置の中止をするというが、救急車に乗せたときには、ほとんどがまだ息があるのだから、何もしないではいられないと思う。

 救急車を呼ぶのは、「助けてください」という意志表示である。最初から延命処置をしないと決めているなら、呼ぶべきではない。だが、出先で倒れて、近くにいた人が救急車を呼ぶこともあるだろうし、本人が、すでに意識がないときは、どうしようもない。


 救急処置のおかげで、命を長らえたが、ただ息をしているだけの人間になっ てしまうこともある。
 この状態が本人にとっても、家族にとっても大きな問題となることが多いという。


 私の母を最期まで看てくれたくれたのは、弟夫婦だ。義妹は看護師である。母が入院した時に、身体中の検査が何度もあり、それが母にとって耐えがたい苦しみであった。
「もうやめていただけませんか」
 と、義妹は、医師にお願いした。
「病院は治そうと努力するところです。何もしないでいいのなら、病院では預かれません」
 医師は、明らかに怒りを表して言ったそうだ。
 そういわれた義妹は、じゃあ私が看ようと思ったという。
「では連れて帰ります」
 と告げ、以来9年間働きながら、家で私の母の介護をしてくれた。

 薬も飲まさず、食事は、最期まで口から食べられた。
 朝食は義妹、昼食はヘルパーさんが食べさせてくれた。夕食は毎日早めに帰宅する弟が、一時間くらいかけて、話しかけながらゆっくり食べさせていた。
「僕も呑みながら一緒に食べるんだから、ちっともかまわないよ」
 私が感謝の言葉を口にすると、いつも笑いながら言った。
 97歳の生涯だったが、病院だったら、多分、こんなに(楽に)長生きは出来なかったと思う。
 しかし、介護をする時間と費用を、多くもっている家族は少ないと思う。

 高齢者は家で死にたいと思う人が大部分だろうが、連れ帰っても、配偶者も高齢なので、身体的に無理だ。仕事を持った子どもたちは、時間がない。必然的に病院、または高齢者施設に頼ることになる。
 ところが、テレビや、新聞などをみていると、高齢者を施設に預けないで、連れ帰ることが「立派な行為」だと言っている気がしてならない。家で介護をすることだけが、美談になってはいけないと思う。

 誰でもそうしたいし、してもらいたいが、できない環境の人もいるのだ。特に夜中に起きなければならない介護は、翌日の仕事に支障をもたらす。

 政府は、入院させると医療費がかかるので、家で看ることを一生懸命説得しているような気がする。実際、家庭にヘルパーや医師を派遣しても、本人が入院する方が何倍も費用が、かかるという。
 私自身は、子に迷惑をかけないように病院、施設などにお世話になろうと思うが、長生きすれば、これには莫大な費用がかかる。政府だけではなく、個人にもかかるのだ。
我々夫婦は同じ80代だ。そろそろ最期のことを考えなければいけないところに来た。
「延命処置はしないでほしい」
 と、口では言っているが、なかなか細かな書類を作れないでいる。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

ときの移りかわり = 吉田 年男

 ダックスフンドの愛犬レオが亡くなって二年が過ぎた。仏壇の隅に置いてあるレオの写真を見ていると、公園を一緒に散歩していた当時のころを思いだす。

 特に我が家に来た子供のときのレオとの散歩が印象に残っている。いまから15年前のことだ。散歩は、近くの蚕糸の森公園内を一周することであった。あずまや近くの水飲み場に立ち寄り、必ずそこで水を飲む。コースは、毎日ほぼ決まっていた。


 蚕糸の森公園は、小学校の校庭を含めて、約七千坪程度の公園なので、大きい方ではない。蚕の試験場跡地で、今から32年前にできた。園内には今でも何種類かの桑の木が、一か所にまとめて植えられている。
 そしてメモリアルとして大切に保存されている。

 ほかにも、スズカケの木、ヒマラヤ杉、銀杏などの大きなものと、桜、アジサイ、藤の木、百日紅、ツツジ、ハナミズキなど、季節の変化を感じさせてくれる木々も植えられている。花は早々に散ってしまったが、桜の木には小さな若草色の葉が元気よく芽吹いている。

 3月も下旬になると、毎年大がかりに行われている池の清掃や、恒例になっている小学校校庭でのイベント「蚕糸の森祭り」も終って、何となく今が一年を通じて公園内が一番落ち着いて見える。

 ワンちゃんの散歩は、糞の置き去りなどルールを守らない人たちが居たため、園内禁止になったことがあった。その後、ワンちゃんを連れて入れない場所が何か所かにできたが、それでも今は愛犬との散歩ができる貴重な公園の一つになっている。

 レオとの散歩は、子犬のときからで15年と永い。レオが亡くなって散歩は途絶えてしまったが、蚕糸の森公園には、日課にしている体操をするために、出来るだけ行くように心がけている。

 公園に来ているワンちゃんの種類は、ミニチュアダック、パピヨン、マルチーズ、ホメラニアンなどと多様で、レオと散歩していた当時といまでも変わっていない。ワンちゃんたちを見ていると、レオを思いだしてしまう。

 歩いている姿は、犬種に関係なく仕草が忠実で、みていて微笑ましい。なかでも私は、生まれて間もない子イヌに出会うと、その可愛らしさに思わずみとれて立ち止まってしまう。

 ワンちゃんによっては初対面のとき、散歩中に激しく喧嘩をしてしまうことがある。どうなるものかと心配しながら見ていると、お互い匂いの確認が済むと自然と仲良く収まってしまう。

 一方、飼い主たちは、初対面であっても連れのワンちゃんを介して、大抵の場合、その場ですぐに仲良くなってしまうから不思議だ。いわゆる「犬友」の仲間意識なのか? 顔見知りのご近所さんの時はもちろんのこと、自転車の前籠に愛犬を乗せて、遠方から散歩に来ている人であっても、すぐに犬友として仲良しになってしまう。

 レオとの散歩を思い出しながら、ひとりで公園内を歩いてみた。木々は、季節の変化に合わせて臨機応変に容姿を変えて、周囲とうまく調和をとりながら、たくましく生きているように見えた。その様子は、池やあずまやなどの無機質な佇まいと同じように、一見レオと散歩をしていたころと変わったとは思えない。

 そんな中で、明らかに大きく変わったとおもったのは、ワンちゃんと一緒に歩いている飼い主(犬友メンバー)たちの顔ぶれだった。彼らを見ていたら、否が応でも大きな時の移ろいを感じずにはいられなかった。


         イラスト:Googleイラスト・フリーより

孤独な生活  =  和田 譲次

 五木寛之さんが昨年、晩年の生活をテーマにしたエッセイ集を出した。人生の晩年に自由な時間が出来て孤独を楽しんでいるという。

 私は若いときにこの人の著作をよく読み、親近感がある。それに五木さんは音楽にも造詣が深く歌謡曲、ポップスなどについてラジオ深夜便で歌詞などを取り上げて解説をされていて、面白く聴いている。

  皆さんと楽しく酒を飲みながら騒ぐのが私の本来の性格で、周りの人達もそのように理解している。
 ある席で、「美術館で好きな絵をぼんやりと眺めているときが最高に幸せだ」と話したら、「あなたにそんな一面があるの」と、言われてしまった。


 現役時代、人前で話す機会が多く、人材育成の講師などを務めていた。そのような時、始まる前の30分ほどは控え室で静かに過ごすようにしていた。
 私が話しのための準備をしているとまわりの人たちは感じていただろう。私は、何もしないでぼんやりと過ごしていただけである、

 音楽活動の場でも同じで、本番の前短い時間、仲間から離れ静かに過ごすのが習慣になっている。多くの仲間は緊張を解くために冗談を言ったり、お菓子などをほおばっているのだが。

 私の中に孤独な環境を求める静の部分があり、大事な事態に立ち向かうときには緊張感を求め独りぼっちになりたがる。
 ところが一人ぼっちの孤独な生活が続くとマイナス思考になり悲観的になる。
 昨年3月に肺炎になり、治療のためにステロイド剤を大量に長い期間、飲まされ、体調が狂った。これが回復した6月後半に、今度は転倒し首を痛めた。70日ほどカラーを首に巻いて過ごした。この間、医師からは人込みを避け、遠出も避けるように指示されていた。


 病院通いと家の周囲を散歩する生活が半年以上続き、引きこもり状態の生活をおくった。
 何もしないで無為に過ごした日の方がいやな感じの疲労が残った。不思議なことに、手帳に予定がいっぱい書き込まれ忙しく動き回っている方が体に疲れは残るのだろうが、充実感はある。

「あなたの部屋の中にCDや本が何冊も乱雑に散らばっている」
 と家内から何度も注意された。音楽を聴いたり、読書にかける時間は十分にあるのだが、集中力が欠けているのか、すぐ飽きてしまう。ぼんやりとテレビを観て過ごしていた。


 暇だから好きなことに時間が使える筈だが、心身が健康でなければ満足のいく生活が送れないことに気が付いた。このような生活を続けていると、精神的に落ち込み、うつ状態になる。幸いにも重症化する前に、これではいけないと気が付いた。

 五木さんは、孤独だから人生豊かに生きられると書かれている。しかし、心が充実していないとみじめな生活を送ってしまう。特に病気療養中だと、その傾向が強くでてくる。

 日野原先生は「人との触れ合いから、ときめきの心がおきる」そして、ときめきの心が沸かないと、美しいものに接しても、美味しいものを食べても満足に受け入れられないという。今になって先生の言葉が実感できた。


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

身が引き締まる 青山貴文 

 夜、9時半ころだった。2階の書斎の子機の電話が鳴った。階下の居間の妻が親機を先に取り上げた。
「中央警察署から電話よ」妻の声が、いつもと違って、緊張している。
 何の用だろう、と電話の相手を切り替える。最寄りの警察署の、野太い警察官の声が恐縮している。
「青山貴文さんですね。今日、検問した木村巡査長です。罰金を支払われましたか?」

 今日の昼間、東松山市の高速道路を降りた先で、25キロオーバーのスピード違反でネズミ捕りに捕まった。どうも、そのときの巡査長かららしい。

「郵便局へ支払いに行きましたが、夕方4時を過ぎていましたので、今日の支払いができませんでした」
「そうでしたか。実は、靑山さんの免許証の有効期限が切れていることが判明しました。夜分すみませんが、これからお宅へ伺ってもよろしいですか?」
「本当ですか。ちょっと待ってください。今、確かめますから……」

 免許証を手にとって、良く見ると、平成27年11月の私の誕生日が有効期限になっている。

 今日は平成28年7月29日。有効期限が切れて、すでに9カ月以上も経っている。この間、無免許で運転していたことになる。
「仰るように、期限が切れていますね。お手数かけて誠にすみません。お待しておりますので、いらしてください」
 と、私は、かしこまって承諾せざるをえなかった。 
 妻に、電話の内容を伝えた。
「あなたは去年10月ころ、高齢者講習を受けて、終了証明書をもらったでしょ。A4サイズの封筒に入っているはずだから、その証明書を探しておいた方がいいわよ」
「そういえば、そうだったな」
 その証明書を警察署に持参して、免許の更新をすべきであった。それを完全に忘れていた。そろそろ免許書の更新の通知のハガキが来るころと思っていた。

 机の引き出し、本箱、書類の積んであるところをくまなく探す。これから起こることを考えると、冷や汗が出てくる。汗びっしょりになって、やっとその書類が入った封筒を見つけだした。
 その封筒には、免許の更新通知のハガキも同封してある。本来ならばカレンダーに、講習日と更新期日とをメモするべきだった。
 その時は、後期高齢者の講習日が当面の大切な予定だとカレンダーには記入した。片や、免許更新日は、講習会後に記入すれば良いと軽く考え記入していなかった。

 講習会後、免許更新する日はすでに記入してあると勘違いして、カレンダーに明記しなかった。そんな経緯から、警察に行くことを完全に忘れてしまった。
 カレンダーに記入してあるか否かを、なぜチェックしなかったのか、いまさらながら、軽率な自分が残念で、無念でしょうがない。

 しかし、中央警察署の警察官が何のためにこんな夜遅くにやってくるのだろう。明日は土曜日で、その警察官が休みだからなのであろうか。
 あるいは、先方も、チェックミスで、無免許違反を帳消しとしてくれるのかと、はかない望みをもって待つ。
 夜10時過ぎ、木村巡査長が、もう一人の警察官を伴って、玄関先にやってきた。客間に丁重に、お二人をご案内した。
「いやア、昼間お会いしたとき、青山さんの温厚な受け応えに、免許証が正しいものと思い込みました。良く見なかったので、こんなに遅くお邪魔することになりました」
 電話の応対時と同じく、すごく下手に出られている。
「私は、最近記憶が吹っ飛んでしまうことがあるのですよ。免許が切れているとは、まったく思いもよりませんでした」
 と、巡査長の質問に気まずい口調でお答えする。

 彼は、ボールペンで青色のA4サイズの申請書に、免許のチェック時のいきさつをこまごまと、私に確認しながら書いている。最後に、私の同意を求めて、認め印を捺してくださいと丁寧にその書面を提示する。ひょっとすると、無免許を許してくれるのかもしれないと淡い期待が脳裏をよぎる。
 数日経って、中央警察署から通知がきた。
『平成29年1月末日までに、免許証を取得するように。ただし、無免許期間が1年未満なので、仮免許は免除いたします』
 覚悟していたとはいえ厳しい通告であった。
 木村巡査長が夜中にやってきてまで、細かいことを書面に記述していった理由が分かったような気がする。
 免許証の再取得のために、学科試験並びに実技試験に、思わぬ苛立たしい時間と大きな経費を費やさざるをえなかった。
 あれから、1年半が経った。今でもカレンダーへの記入忘れを思い出すと、うかつさで身が引き締まる。

          イラスト:Googleイラスト・フリーより

単細胞の人 森田 多加子

 昼間の常磐線は、わりに空いている。

 三人がけの座席に座っていたが、さっきから向かいの席が気になって仕方がない。同じ三人がけの真ん中に、若い男性がいるが、右足を隣の人の前に投げ出しているのだ。
 私がとやかくいうことではないが、自分の座席の前に、人の足があるのは不愉快だろう。見ていると腹が立ってくる。しかし何も言えない。じくじくとした気持ちだった。

 落語家の立川談志師匠の話がある。車内で、乗車してきた老人を見かけて、前にすわっている中学生に、「譲ってあげたらどうだ」と言って中学生を立たせた。
 老人は当然のような顔で座った。感謝の一言もなかった。その時談志は、車内中に響き渡る、どすの効いた声で言ったという。
「悪かったなあ、坊や! おじさんが余計なことを言った。席を譲ってもらってありがとうの一つも言えねえくそじじいに席を譲らせちまった。すまねえ。今度からじじいがいても、金輪際席なんざあ譲るんじゃねえぞ!」
 車内の人たちは驚いただろう。私にも覚えがある。

 シルバーシートに座っていると、ちょうど顔の前に、やや大きめのトートバッグがあり、そこに『私は妊娠中です』と書いてあるカードがぶら下がっていた。
 はっとして見上げると、三十代くらいの女性が立っていた。私の隣には若い男性が座っている。替わってあげてほしいな、と思ったが、カードは私の真ん前だ。彼は気づいていないだろう。
 あと三十分も乗っていなければならないのだが、「替わりましょう」と、仕方なく立った。妊娠中という女性は、当然のようにだまって座った。
 機嫌の悪い顔は(早く気づいてよ)と言っているように見えた。腰の痛みを抱えた老女が、意を決して立ったのである。少しは感謝の意を表してもいいのではないかと、談志師匠と同じ思いになった。


 席を譲ろうとして大変な思いをしたことがある。眼科に行ったとき、待っている人が多くて椅子の数が足りない状態だった。
 私は座っていたが、妊婦らしき人が立っていた。
 腰をあげながら「ここへどうぞ」と言うと、その人はすぐ「結構です」と答えた。少々齢はとっているが、妊娠初期のつらさを考えると、まだ私の方が譲るべきだと思った。
「私は大丈夫ですからどうぞ。お腹に赤ちゃんがいるのでしょ?」
「居ません!」
 怒りを顔全体に表しながらのきつい声だった。その時になって、初めてとんでもない間違いをしてしまったことに気づいた。
「ごめんなさい」と謝ったが、その女性の怒りがおさまらない雰囲気は、ずっと続いていた。看護婦さんから名前を呼ばれるとほっとして、思わず診療室まで急ぎ足になった。


 そんな出来事を思い出しているとき、前の席で足を投げ出していた若い男性が立ち上がった。誰が見ているわけでもないが、私はどんな顔をすればいいのかわからないほど、うろたえてしまった。

 その男性は、義足だったのである。足を曲げることが出来なかったのだ。
 隣席の人は、とうに察していたのだろう。いや、もしかして男性は(すみなせん)と断っていたのかもしれない。またもや思い違いだ。恥ずかしかった。自分の単細胞を呪った。

 以前、杖を使用した時期があった。車中で目立たないように隅に立っていても、肩をポンポンとたたいて、座るように言ってもらった。感謝した。
 杖を捨ててからは、ほとんど声をかけられない。

 ひと目見て、高齢者、妊産婦、体の不自由な人など、わかればいいが、目には見えないハンディを抱えているのに、カードもぶら下げられない人がいると思う。
 見えるものには対応しやすいが、見えないものは、本人が申告しなければどうしようもない。
 ハンディがある人に席を譲るのは当然なことであって、お礼を言われることも期待してはいけないのだろう。
 しかし……、やっぱり「ありがとう」の一言は気持ちがいい。(譲ってよかった)と、単純にうれしい。
 譲るときも、譲られるときも、相手の気持ちをよく考えなければならないと、改めて思った。

       イラスト:Googleイラスト・フリーより
  

旅は道づれ  金田 絢子

 平成6年の「ポルトガルとスペインの古都を訪ねる12日間」のツアーは、たのしかった。メンバーが全員で九人きりなのもいい。その上、添乗員を含めて、いい人ばかりだった。

  かれこれ20数年前のポルトガルは、いにしえの面影がのこり、ひなびていて土の匂いがした。くずれかけた石の坂みちを若い男女が、すれちがいながら短いキスを交わした。すぐ上と下とに別れた、束の間のラブシーンは、カッコよかった。

 道ゆく大学生はみな、エリートの顔である。古い歴史をもつ、コインブラ大学のオレンジ色のやねが目に浮ぶ。


 コインブラから、中世以来の巡礼の聖地、サンチャゴ・デ・コンポステラへ向う。大聖堂の前には、白っぽい大きな地面がひろがり、老若男女が、列をなしていた。大勢なのに騒がしくない。私も何だか、しんとした気持ちになった。

 飛行機に1時間乗って、マドリード、パルマ・デ・マヨルカへ。

    地底湖にショパンホフマン聴きし日よ
    辛き水さえめぐしマヨルカ

 この詩歌がごく自然に創作できた。
                                     
 バルセロナ郊外のモンセラート(のこぎり山)観光もよかった。ふもとの僧院から賛美歌が流れ、崖には、おだまきが咲いていた。

 旅のおしまいは、地中海に面する港町、バルセロナである。バルセロナは、ガウディ・オンパレードで飽きてしまった。私だけの感想だろうが、グエル公園なんかちっともいいと思わなかった。

 いよいよスペインともお別れの一夜、「サヨナラ・ディナー」の席で、夫とツアー仲間のヒロイン、中里さんがカンツォーネをうたった。

 中里さんは、仲良しの吉村夫妻と三人で、仙台からやってきていた。
 われら九人の年齢は、私が上から五番目、中里さんは下から二番目といったところ。子供はない。ご主人と店をやっている。何の店かは聞きおとしたが、吉村さんの奥さんが私に、
「(お店は)この人でもってるのよ」
 と中里さんを指して言った。


 日本に帰ってから、旅行中の写真を送った。中里さんからの返事は、彼女らしさにあふれていた。行をはみだすほどの颯爽とした文字で、
「杜の都仙台の五月は緑いっぱいで、とても気持ちのいい毎日です。昨晩も吉村洋子さんと、今度は何処にしようかと、モチロン、ビールを飲みながら、旅の話題でもり上がりました。(中略)ご立派なご主人とでうらやましかったです。お元気で」
 私の方こそ、輝いている中里さんがうらやましかった。

 バスの運転手さんとも、すぐ仲良しになる、中里さんの人柄は天性のものにちがいない。年上の私の他愛ない打ち明け話も「ふん、ふん」と膝をのりだして聞いてくれる。明るくて、歌がうまくてあねご肌の、こんな人に生まれたかったとつくづく思う。

 3.11のとき、仙台に電話をした。停電などはあったが、大事には至らなかったと知り、ほっとした。

 吉村さんの年賀状にはいつも「仙台に遊びにきて下さい」と書いてある。長の年月、夫と二人で「仙台にいきたいね」と話していたのに。果たせないうちに二年半前、夫にガンが見つかった。それと前後して吉村さんは亡くなった。

 先日、久しぶりにアルバムをひらいた。おひるどき、サンチャゴのレストランで、吉村さんが撮ってくれた一枚に、胸がつまった。

 私の向いに中里さんがいる。夫も私のとなりのオジサマも、あふれんばかりの笑顔である。サンルームのような部屋だったっけ、と写真をみて思い出した。
 私の小さいノートに、この日のメモがのこっている。
「ひる。レストランで9人+1人。散々食べて飲んで笑って。中里さんのま上に太陽。3時半おひらき」
とにもかくにも、ポルトガル、スペインはさて置き、行ったことも見たこともない仙台が懐かしい。


       イラスト:Googleイラスト・フリーより

百十回記念 筒井 隆一

 前面三方を取り囲む大きなガラス戸越しに、手入れの行き届いた、緑一杯の日本庭園が広がる。庭園からの光の差し込み具合によって、時と共にコンサートホール内の明暗、色調が変わるのが、とても魅力的だ。
 ここは、国立市の一橋大学キャンパスに隣接する、「佐野書院」ホールである。初代学長が、私邸を大学に寄贈し、改修、保存されている、格調高く由緒ある建物だ。


 フルート独奏団「ナナカマド」は、西武鉄道沿線に住む、当時の日本フルートクラブ会員に呼びかけがあって、平成五年秋に誕生した。
 どんな難曲でも、初見で合わせてくれるピアニストに、練習してきた楽譜をその場で渡し、伴奏してもらう。会則などややこしいものはない。
 演奏を始めたら、「止まらない」「戻らない」が唯一の申し合わせだ。また、他人の演奏を一切批評しないのも、会の約束ごとである。

 会の名前は、当初「西武沿線の会」としていた。しかし、それではあまりにも味気ない。毎回例会終了後、二次会で利用する所沢駅ビルの居酒屋の名前を頂戴して、「ナナカマド」と名付けた。

 その「ナナカマド」の会が、何と25年間続いた。そして3か月に一度開いている例会も、節目の100百回記念例会を、今日この「佐野書院」ホールで、迎えたのだ。

 常時活動している会員は、現在12名ほどだが、例会、発表会に、以前参加されたOB、OGにも声掛けし、お誘いしたところ、8人のなつかしい仲間が参加してくれた。

 ホールに隣接した部屋に、国立駅前の喫茶店からコーヒーと紅茶のポットを、ケータリングしてもらった。クッキーなどの茶菓子も用意して、新旧会員が演奏の合間に、自由に利用できる段取りをした。


 今日の演奏は、参加者自身の「思い出の曲」の独奏と、フルート四部の合奏、そして最後は、参加者の全員合奏で締めくくるプログラムとした。
 思い出の曲については、「ナナカマド」に在籍した期間の思い出、自分のフルート人生での思い出、どちらでもよいが、それぞれ曲目の選定理由を1~2分で説明してから、演奏に入る。


 前半の独奏の最後に、バッハの『ガヴォット』と、ハイドンの『セレナーデ』を、四部合奏した。「ナナカマド」は、フルート独奏団と称している。普段の例会ではソロが中心だ。しかし、四部の合奏は迫力があったし、何より皆で一つの音楽を創り上げる、という楽しさが感じられた。


 いつもは、私たちの伴奏をしてもらうピアニストにも独奏をお願いし、モーツァルトとショパンの小品を二曲弾いてもらった。また三年前から、金のフルートをギターに持ち換えたOBも、『サラバンド』『アルハンブラの思い出』を演奏してくれた。

 申請のあった思い出の曲の独奏を、全員が終え、フィナーレは、ジョップリンの『ストレニュアス・ライフ』の全員合奏だ。この曲は会の創設当初から、ことあるごとに合奏してきた。前回の節目、五十回記念例会でも、参加者全員で合奏している。
 限られた時間ではあったが、なつかしい仲間たちと、素晴らしい会場で、楽しく充実した時間を過ごせた。

 会を仕切る世話役として、私はこの20数年間、例会を一度も欠席することなく、参加してきた。振り返ってみると、いろいろ考えさせられることも多い。
 まず、この25年間で、「ナナカマド」も、着実に高齢化が進んでいることだ。
 創設時代からの年配者は、
「世話役が段取りしてくれるから、例会に参加して笛を吹くのは、とても楽しい。しかし、自分が練習会場の予約や、会員への連絡、二次会の段取りなどはやりたくないし、できない。そんな役が回ってくるなら、会をやめる」
 一方、意欲的な若手は、
「自分の音楽性向上のために参加したのに、気ままに楽しんでいる、おじさんレベルの音楽とは、付き合いきれない」
 規模の大小はあれ、組織を立ち上げ、仲間と充実した活動を続け、さらに若い人たちにスムーズに引き継いでいくのは、大変難しい。
 反面、この集まりが、今後どのように展開していくのか、想像力を維持して見守る楽しみがある。
 次の記念例会の設定は、どうしよう。「ナナカマド」が150回まで続けば、12年後になる。それまで元気に笛を吹いていられるだろうか。次の目標は、110回でどうだろう


     イラスト:Googleイラスト・フリーより

うまいよ! うまいよ! 林 荘八郎

 体調が良いのだろうか。いたって質素なメニューだが、このところ朝食のたびに
「おいしい!」
 言葉がつい、口に出る。
 ごはんも、みそ汁もそれぞれが美味しいと思う。いつも通りのメニューだが、こんな思いは今までそうはなかった。有難いことだ。時間をかけてゆっくりと味わっているからなのか。

 78歳になって食は細くなり、胸の肉もお尻の肉もすっかり落ちてきている。肩もひじも痛い。これでも本当に体調が良いのだろうかと疑いたくなる。
 和食の方が好きなわたしの朝食には、ごはんとみそ汁に、あとは何か一品あればよい。一品は納豆でも前日のおかずの残り物でもよい。
 とりわけ好物を挙げるとすれば魚の干物だ。

 あるデパートの物産展で鹿児島の水産会社が売っていた干物のなかに、うるめイワシの丸干しがあった。干し加減により三種類あった。
 良く干して固いのは酒のつまみに良い、一日干しで柔らかいのはごはんのおかずに向いている、その中間のものは両方に向いているという。中間のものを買って満足した。その後はその水産会社が出店しているのを見つけると、いつもそれを買うことにしている。


 1月のある朝、鎌倉の八幡さまへ初詣に行こうと家内が言い出した。それもいいかと思い、彼女の提案に乗った。途中、逗子でJRへ乗り換える。
 じつは駅前に私の大好きなタイプの魚屋がある。相模湾や東京湾で採れた魚を中心に沢山の種類の魚を店頭に並べている昔ながらの魚屋だ。魚をトレーに入れず丸ごと並べているのが、スーパーの魚屋と違って楽しいのだ。

 その日は珍しく「青あじ」を開いたのが一枚だけあった。「くさや」の材料にもする、「あじ」としては少し大ぶりな魚だ。仕入れた沢山の魚の中に一匹だけ交じっていたのかもしれない。干物にして売ってしまえ!となったのだろう。
 年配で腰の曲がった馴染みの店員が、
「うまいよ!うまいよ!」
 声を張り上げて客に呼び掛けていた。
 その日の朝に割いて生干しにしただけのもので、塩も振ってないという。主婦たちは興味を示さなかった。

 売値は350円、それを300円にする、と私の前で一段と声を張り上げた。あうんの呼吸を感じた。
「じゃあ わたしがいただこう」
 彼は嬉しそうな顔をした。
 脂が乗って旨いから、わたしに食べさせたくて一段と声を大きくしたように思った。冷えて赤くなった手で魚を新聞紙に包んでくれた。

 その日の夕食と翌日の朝食の二回分のおかずになった。塩だけを振った家内の味付けは懐かしくて嬉しかった。むかしの干物の味を思い出した。

 当時はまだ、冷凍庫は勿論、冷蔵庫も、家庭には普及していなかった。長く保存できないので、塩を振っただけの味付けで、痛まないうちに早め早めに、結果的に新鮮なうちに干物を食べていたのだろう。

 やがて冷凍・冷蔵技術の発達に伴い、物流面でも冷凍貯蔵・冷蔵輸送が可能となった。スーパーマーケットが誕生し、商品の大量仕入れ、大量販売の時代になり、干物は保存料と色々な調味料を使用した、長期保存ができる商品になった。
 干物の味も変わってくるわけだ。

 昨今は干物が嫌われ者になりつつあるらしい。マンションではアジやサンマを焼く匂いが嫌われ、入居者からクレームが来ると聞く。
 さらに箸を使うのが苦手なため、魚の骨が邪魔な小魚を避ける若者が増えていると聞く。たしかに、店頭ではトレーに入った切り身の魚が増えている。
 残念で淋しくて、面倒な世の中になってきたものだ。

    イラスト:Googleイラスト・フリーより