元気100教室 エッセイ・オピニオン

居場所探しの旅 鈴木 晃

 サラリーマンと自由業者が高齢化社会になって、逆転するとは思っていなかった。
 友人の自由業者は若い時から金回りが良く、車を毎年買い替えたり、バブル時代には各地に支店を出して、派手な温泉旅行の話を聞かされるなどサラリーマン羨望の的だった。

 当時の彼に言わせると、厚生年金などは無駄だとバカにしており、貯金に励んでいたようだ。
 サラリーマンの私は会社の天引で払っていたので、年金に関心がなかったが、高齢化社会になってみると、厚生年金と国民年金との差が大きいことに驚いた。
 友人は年齢とともに、あちこちに痛みが出て病院通いが多く、タクシー代などで貯金が日毎に減っていくとこぼしていた。

 そんな彼に、気分転換になると思って、ギャンブル型のデイサービス「ラスベガス」を勧めてみたが、彼は共同生活はむさ苦しいから、デイサービスには行きたくないと受け付けなかった。

 高齢者600万人時代と言われる中で、一般的なデイサービスは八割が女性で、折り紙、貼り絵、習字などを楽しんでいる。一方、男性は物足りないのかすぐにやめてしまう。
 報道によると、こうした実態を10年以上体験してきた森氏が、高齢男性を対象にしたデイサービスとして、男性の好奇心と射幸心をくすぐるエンターテイメント型デイサービスとして、本場ラスベガスを模したカジノのあるデイサービスを始めた。これが当たり、男性の七割が定着する盛況になった。

 設備投資は自腹だが、運営費の90%が公費補助(税金と介護保険料)がもらえるとかで、デイサービス業界では、高齢男性の確保競争が始まっているようだ。しかし面倒な規制があって、足立区のラスベガスは盛況だが、隣の荒川区は、ギャンブル依存症を増やすと全面禁止になっている。国の行政は、各地方自治体に任せて責任をとらないので、大阪はいいが、神戸はダメと統一されていない。


 私はまだ要介護の申請をしていないので、入所できないが、居場所探しとして、近所の健康マージャン(個人経営)に入れてもらい、週一回の健康マージャンを楽しんでいる。

 ラスベガスとの違いは、ラスベガスは簡単なリクリーエイッションをすると、その施設内だけで通用する疑似通貨をもらい、賭け金としてゲームに勝敗をつけるので、射幸心の満足度が高いが、健康マージャンはすべてナイナイづくしになっている。

 マージャンというゲームは、一巡ごとに積る牌によって、どんな役作りをするか、場の流れをみながら、点数を高くするゲームで、理論的には、脳の活性化になると言われている。ところがここが勝負所と思うと、つい欲が出て他人のことを忘れて自己中に陥りやすのが玉にキズだ。
 ある日の健康マージャンを再現すると、次のような結末だった。


 東一局。私は西(持ち点二六千点)・ドラ八竹(ソウズ)の8巡目:
(18巡目でゲーム終了)
 先ず、14枚の配牌を見た時に、ドラもなく、役牌もなく、1000~3000点の配牌だと予想した。それもリーチをかけないと上がれないと冷静だった。
 9巡目まできたが、役作りになりそうな牌が来ないので、少しでも点数が増えるようにソウズを集めることに方針転換をした。

 それから、10巡目になって、何とかペン七ピン待ちで聴牌(テンパイ)したが、自模(ツモ)りそうもないので、リーチを控えた。(上がれない)
そして、12巡目に六ソウを積り、四ソウを捨てれば、五ソウと八ソウの二面待ちになった。ダマテンでも1000点になるので、リーチを掛けずに一巡待つことにした。(この時も冷静だった)

 13巡目になっても、誰も五ソウも八ソウも出さないので、三ピンを振ってリーチを掛けた。(ドラ期待のリーチで欲丸出し状態)
ところが、隣の南家が親から出た二ピンであがり、面前、タンヤオ、平和、ドラドラの満貫(8000点)
 で上がって、私はリーチの千点を損した。
(隣の南家の人は冷静だった)
 居場所探しと思って健康マージャンをやっているのに、悪い手でも何とか上がろうと欲が抑えられないうちは、居場所探しにならない気がしている。

       イラスト:Googleイラスト・フリーより

待ち時間 = 筒井 隆一

 築地の朝日ホールで、高木綾子のフルート演奏を聴いた。昼の時間帯に、親しみやすい小品を集めた、ランチタイムコンサートでのことだ。
 隣接したレストランで昼食を済ませた後、新宿に廻る家内と別れた。まだ2時半だ。夜にも、国立小劇場で邦楽の演奏会があるので、6時には半蔵門まで行かなければならない。その間、どのように過ごそうか。家に戻る時間はあるが、着いてもすぐに出直すことになる。思いがけず時間ができて、それをどのように過ごすか、迷う時がある。

 好きな音楽を聴いたり、絵画をゆっくり鑑賞して、のんびりゆったり過ごすのも、一つのやり方だ。しかし、もともとせっかちな私は、悠々と過ごすのは時間の無駄使い、と思い込んでいる。のんびりは、性に合わないのだ。ぼんやりしていないで、密度の濃い過ごし方をしないともったいない、という思いがある。

 人と約束して、待ち合わせの場所に早めに着いた時、それが2、30分であれば、本屋での立ち読みや、コーヒーショップでお茶を飲んで、時間調整をする。今回のように、少しまとまった時間が思いがけず出た時、今までは近所の庭園を散策したり、美術館に出向くことが多かったように思う。ここ築地は、浜離宮恩賜庭園にも近い。汐留には、パナソニックミュージアムがある。さて、どうしよう。

 時間に合わせ、その都度、効率よく的確な対応をするには、常に正確で、幅広い情報を持っていなければならない。

 スマホで検索すれば、どこの美術館で、特別展がいつからいつまで開催されているか、主な出展作品、開催時間、休日、美術館までの道順などの情報が、確認できる。また、周辺には、どのような庭園があるか、すぐ調べられる。
 ただ、その日の体調、天候、時間帯、同行者の好みなど、と合わせた幅広い情報で行動を決めるのは、自分の判断だ。スマホだけでは決められない。

 例えば、あの庭園はこぶしの花が美しい。その最盛期は四月始めで、園内の北側にまとまって咲いている。また、今の時間だと、あの美術館で特別展はみられるが、好きな作品がある常設展も併せて見るだけの時間はない。同じ料金なら、常設展まで見ておきたい、など。
 智慧を絞って、短時間にこれらの情報、条件を組み合わせて対応することは、なかなか面白い。


 過去を振り返ると、スピード第一、効率第一のサラリーマン生活を、長く送ってきた私だ。これからの人生は、豊かにゆとりをもって、生きていけばよいのではないか。無理をすることはない。頑張る必要はないのだ。
 せっかちを少しだけ修正し、待ち時間は、のんびり、ゆったり過ごせるようにしたい。
 今日は快晴、浜離宮庭園に向かってスタートした。満開のこぶしの花を、ゆっくり、のんびり楽しもう。


                    イラスト:Googleイラスト・フリーより

ころんだ話 = 金田 絢子

 それは、1月23日(平成29年)のことだった。二つの動作を一どきにするのは危険だとわかっていながら、いけないと思う間もなく私はころんだ。
 バスが来かかっていた。停留所まではまだ少しある。
「いや、やめよう。次のを待てばいいんだ」と頭のはしで思ったのに、足は動くのをやめなかった。生憎ゴミの日で、歩道にはいくつかビニール袋が置かれてあった。
 私と同年輩の人がかけよってきた。
「大丈夫?私もこのごろよく転ぶわ」
 と慰めるように言った。
 実はゴミの袋にぶつかったのか、どうかあやふやだったが、
「これがね。足に引っかかったの」
 と道端のゴミ袋を指して、言訳につかった。

 これまでにも何度となく転んでいるが、顔に怪我をしたのは初めてである。ショックだった。家から歩いて、3、4分の所だったので、走って戻った。

 眉と眉のあいだから鼻のあたま、鼻の下にかけて、いくつもお焦げのかけらのような傷がついた。
 私はすっかり気が滅入り、「果物もあるし、お肉もあるから今日買物にいかなくても、何とかなるわ」と確かめた上で、籠ることにした。
 傷だらけの顔を見て、大きい孫がかわいそうがって、アイスクリームを買ってきてくれた。傷薬も手持ちのを出してきてくれた。
 たかが顔の傷で、自分がこんなにも悄気たことが、よく言えば、新鮮だった。だが、腫れもしなかったし、まるで痛みもなかったのは不思議である。

 一日で神さまが、傷を治してくれるはずもなく、翌日からマスクをかけて外出した。マスクのゴムが耳に痛かったが、皺がおでこだけに限られてみると、いつもより二つは若く見える、嬉しい発見もあった。

 鼻のあたまの傷は、日を追って目立たなくなったが、眉の間と鼻の右下は、はっきりのこっている。ずっと治らないかもしれない。心配である。
 2月20日に紀尾井ホールで、モーツアルトのシンフォニー39番と、ミサ曲「ハ短調」が演奏される音楽会があった。ミサ曲の合唱に、長女が出演した。
 当日、娘はひと足早く家を出たが、一度閉めかけたドアをあけて、
「ちゃんとファンデーションを塗ってきてね」
 と私に命令した。ぐっと厚ぬりして、一緒に行く三女にも見てもらった。あとになって、
「(傷あとが)全然わからなかったわ」
 長女が合格点をくれた。

 あれから転んでいない。たしかに用心深く、ゆっくり歩くようになったと思う。天は私に、軽い転倒を通して「転ばぬ先の杖」の教訓を、気づかせてくれたのにちがいない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

シャンパンの日々 = 遠矢 慶子

 トランプ大統領と、中国の習近平国家主席の初めての首脳会談がアメリカフロリダ州パームビーチで開催された。パームビーチの強い日差しの中を二人が仲良く歩く姿がテレビで映し出された。

 12年前、パームビーチで過ごした夢のような毎日を私はふっと思い出した。
 アメリカの4か所を、四週間巡るシニアのホームステイのプログラムで、最後の訪問が、フロリダ州のパームビーチだった。


 空港には、ホストのジャネットが車で迎えに来てくれていた。

 背の高い椰子の木々が両側に並んだ、ハイウエイを30分ほど走ると、ジャネットの家があるという。アメリカはどこへ行っても、起伏がなく平地で広い。

 パームビーチは、その広さの中に、南国の紺碧の空と海が広がる、明るい洗練された雰囲気の素敵な町だった。一軒が何千坪はある家々は皆平屋で、前庭が広がる。

 ジャネットの家も入り口から家まで、車で走るほどの距離がある。玄関に入ると広いリビングのガラス戸越しに、大きなプールが見えた。
 プールの周りにはまぶしいほど、白いパラソルと寝椅子が置かれている。

 ジャネットのご主人は歯医者で、医師免許の都合でフロリダでは開業出来きず、隣のサウスカロライナ州で開業し、週末だけ帰って来る。
 子供の居ないジャネットは、大きな家に一人で住み、好きなゴルフ三昧の毎日だ。きれいに片付いた家の中も、手伝いが来て掃除をする。
「このプールで毎日泳ぐの?」
「私はほとんどプールに入らないの、使うのは主人が帰ってきてパーテーする時ぐらいかしら」
 ちょうどプール掃除の若者が来て、掃除をしていた。庭掃除のおばさんたち三人も働いている。
「けいこは、いつでも泳いで。でも、泳ぐ暇があるかな」
 プールの奥の林には、南国特有のパパイヤやグレープフルーツが実っている。
「毎年のようにハリケーンが来て、大きな木はなぎ倒されるので、今植え替えているところよ」と、いとも呑気にいう。

 専業主婦のジャネットはお料理好きだ。広い住宅展示場のようなキッチンの冷蔵庫の横のボードに、私の一週間の滞在中の朝夕の献立が、貼ってあった。
 
 翌朝、起きた時は、ジャネットは、もうゴルフウエア姿で、
「今日は、午前中はゴルフで、午後は友達の家によばれているからね」
 ゴルフ場は3つのコースのある、
 家から道路を渡った所だ。車に乗って行く。
 メンバーは年会費100万円で、一年中、何回でもプレイが無料ので、ジャネットは週に5、6回はプレイしているという。

 今日は、ジャネットの二人の友人も一緒で、カートに乗りスタートする。
「この辺はワニが住んでいるから気をつけて、沼地のボールは拾わないように」
 と言ったその時、向こうの沼地をワニがのそのそと歩いていた。
 大きな白い鶴が三羽緑の芝生に飛んできた。

 途中、小さなレストハウスで休む。そこには雲をつくような大きな男性が4人、休んでいた。
「ハーイ」「ハーイ」と挨拶を交わす。
「バスケットのジョルダン選手よ」
「ハーイ、日本から来たのか?」
 と、気さくな有名人である。

 午後は、小さな船でリバークルーズをする。
 船が真っ赤な灯台を曲がると、高級別荘群が目に入る。
「あの家が15億円」「あれが不動産業の20億円の家」
 と、有名人の別荘めぐりで価格まで説明するのには驚いた。
 アメリカ人は、ウオーターフロントに住むのが夢で、ステイタスだ。庭先に船を置き、船も車感覚で友人宅に出かける。

 午前中はゴルフ、帰ってシャワーを浴びて、友人を訪問かショッピングのセレブとの一週間を過ごした。
 船から見た15億円の家も20億円の家も訪問した。
 その妻たちの話題は、株の話、老後のこと、そして姑と婿の悪口など、世界共通の話題だ。私たち日本人と違うのは、昼間からシャンパンを飲んで、延々と会話が続く。暇を持て余しているのでもなく、日常茶飯事のようだ。

 セレブの婦人たちは、皆スリムで、肌がきれいで、40歳ぐらいかと思ったら、なんと60歳後半から70歳と聞き、驚いた。エステの効用なのか。
 アメリカ人は、7年ごとに家を変える、というのも本当のようで、ステイタスというか趣味の一つらしい。
 優しく料理上手のジャネットも、やっとハリケーンの町パームビーチからノースカロライナに越した。また、遊びに来てと、カードが届いた。
 トランプの別荘もパームビーチで、ハリケーンに遭ったのだろうか。大邸宅を何軒も持つトランプは、家の一軒や二軒はどうなろうと知らないのだろう。

 ゴルフ三昧、シャンパン三昧の毎日は、未知の世界だった。だが、私にとっては一週間がちょうど良い。遊びの毎日もエネルギーがいる。貧乏性なのだ。


                    イラスト:Googleイラスト・フリーより

遺された足あと = 石川 通敬

 古希を過ぎたころから、人生の締めくくりをどうつけるかと考えつつ、何もせず今日に至っている。
 そんな時ふと「足あとを遺す」という言葉が頭をよぎった。

 なぜ、この言葉を思いだしたのか、原因を考えてみると、次の二つの出来事が思い当たる。一つは、父が遺した巨大な足あとが一つ片付いたこと。二つ目が、家内の母が昨年亡くなり、親世代の遺した足あとの整理が、ほぼ終了したことだ。
 そこで気づいたのが、足あとにも、いろいろあるという発見だ。

 まず、私の父は大小おびただしい数の足あとを遺した。共通しているのは、自分の体験を、文書にまとめ、「生きた証」として遺すという考えだ。
 主要な著書の4冊を中心に、生涯にわたり、書き残した文書は、多岐にわたり膨大だ。その中で最大の足あととなったのが、ライフワーク『国家総動員史』(全13巻)だ。

 戦前、内務省の若手官僚として働いた父は、「国家総動員」プロジェクトに携わった。その時、父が担当者として入手した資料を、国家的貴重な記録だと考えたのだろう。戦中はもちろんのこと、戦後も、度重なる転勤にもめげず、生涯大切に持ち歩いていた。

 戦後、世の中が落ち着きを取り戻した時、職務を通じて、見聞きした事実を遺し、後世に伝えることが、自分の使命であり「生きた証」と考えたのだ。

 その背景には、戦勝国による敗戦国の一方的な裁きに対する疑問があり、事実の記録を遺せば真実がわかってもらえる、と父にはつよい信念があったからだ。
 そこで、父が取った行動の第一歩が、直接関係していなかった部署の人たちへの聞き取り調査である。同時に、その証言を裏付ける資料を収集し、さらに関連書籍にはお金に糸目を付けず書店から買いあさってきた。
 現役を退職した後も、15年間かけて、これらを集大成し、世に送り出した。それが『国家総動員史』(全13巻)である。完成までの歳月は、50余年に及んだ。

 その結果、父が亡くなった時、遺されたものは同書の在庫200セット、さらには段ボール箱300個に相当する書籍、同150個の資料という巨大な足あとだ。

 この足あとの処理に、私は父が亡くなってから、30年を要した。書籍は古本屋を経由し市場で売却できた。だが、市場で売れない資料は、神戸大学の先生延40人の方々に、8年かけで整理していただいた。
 それが昨年の夏、トランクルームから、国立歴史民俗博物館に送り出されたのだ。

 これが冒頭で述べた「巨大な足あと」が一つ片付いたということだ。同博物館は2年かけて整理し、その後、一般公開されることになっている。
 これで、父の足あとは、日本の子孫のために残ることになる。

 この本稿を書いているうち、私はこれまで母のことをまったく評価していなかったことに気づいた。
 父が家中に放り出す紙の山を、母は結婚以来、半世紀以上にわたり、整理保管してきたのだ。最後には、母屋の書庫と、屋外の3棟の物置に、ていねいに整理し、収納していた。
 天井が2メートル以上もある物置に、重い本や資料をぎっしり詰め込むのは、どんなにか大変な仕事だったかと思う。
 父の足あとを、縁の下で支えたのが、母だったのだ。今頃、母の貢献を再評価していることを申し訳なく思う。見事な夫婦の連係プレーだったのだ。


 私の両親が遺した足あとと対照的なケースが、家内の両親である。
 義父は、銀行を卒業したあと事業会社に移り、経営不振の会社を立て直し、同社で「中興の人」と言われる業績を上げていた。義父は偉大な足あとを会社には遺した、その一方で、家庭にはお金以外はなにも残さなかった。
 趣味が、ゴルフと英語のパズル程度だったので、自然にお金が残ることになったのだ。

 この状況を見事に生かしたのが義母である。
 専業主婦として、ただ家庭を堅実に守るだけではなかった。よく勉強し、財テクで大きな実績を挙げた。
 私が、とくに義母を尊敬するのは、経済に対する目の鋭さだ。日経新聞は毎日2時間近くかけて精読していた。その上、証券会社のアドバイスを得て、義父が使わないお金をタイムリーに投資し、資産を着実に増やしてきた。
 それだけではない。バブルの頂点で、義母は所有不動産の入れ替えを断行したのだ。その結果、家族の資産構成は確たるものになった。
 義母が遺した足あとは、子供はもとより孫、ひ孫に及ぶほど、計り知れない大きな経済的な恩恵だったのだ。夫婦の連携プレーの妙がここでも発揮されている。


 これまで考察した結果、私が得た結論としては、次の2点だ。この年で、私ができることには限界がある。著書も、財産形成も、いまから取り組むには遅すぎる。

 そこで決意したのが、まず夫婦で要らないものを捨てることだ。
 消極的だが、私の経験から痛切に実感したのが、不要な物の処理がいかに大変か、という問題だ。子供たちに負担のかかることは、遺したくないと思っている。
 
 第2は、生きた証として『ファミリーヒストリー』としてまとめ、足あとを遺すことだ。
 父の七回忌に当たり、兄弟で「愛する孫たちに」という文集をまとめた。母が亡くなったとき『私の自分史』という思い出文集を作り、親族に配った。
 その際に集めた写真、メモなどの他に、これまで整理した日記、ノート、写真、和歌集、手紙、書籍など、捨てかねる思い出の品々がまだ残っている。家族の個人情報の整理は、これから行いたいと思っている。

 子供たちは結婚し、我われ夫婦にも、孫ができた。将来は、我われ子孫のなかで、自分のルーツを知りたい、という希望を持つ子が出てくるかもしれない。
 いまや家族制度が崩壊し、核家族社会になった。ドン・キホーテ的かもしれないが、親族の痕跡がきれいさっぱり何も残っていない、というのは申し訳ないと思う。
 親族のつながりを知る手がかりとなる『ファミリーヒストリ―』を、どうまとめるかが当面の課題だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
                     【了】

ハゼがなつかしい = 林 荘八郎

 金沢八景は、ハゼ釣りの名所だったという。
 駅前に広がる平潟と呼ばれる入江がある。昔はそこへ多くの手こぎボートを繰り出し、のんびりと釣りを楽しんだそうだ。浮かべたボートから、沖には小さな島、陸には三浦半島の山並みがきれいに見えたという。

 しかし平潟の岸辺の風景は変わった。昔にはあったであろう土手や葦などは無くなり、いまはコンクリートや石垣で囲まれてプールのようになった。周りには大小のマンションが並び、東京の品川や芝浦の海のような景色に変わりつつある。
 ボート屋は今も数軒残っていて当時を忍ばせるが、主人も女主人も他界したのだろうか、ボートは陸に引き上げ裏返されている。滅多に動かない。処分に費用もかかるので放置されているのだろうか水質も変わった。
 そして、ハゼはどこかへ行ってしまった。

 でも、秋になれば、いまでも小学生が父親か爺さんに手ほどきを受けながら、岸からハゼを釣っている穏やかな風景で出会う。あごが張った愛嬌のある顔つきのハゼを思い出して、教える方も昔を懐かしんでいるみたいだ。

 沿岸の埋め立て事業に伴い、多くの漁師が漁業権の買い上げに応じ、遊漁船業に転向した。ハゼが減ったため、沖釣りが盛んになった。
 金沢八景には、いま釣り船が多い。ある年のゴールデンウイークの朝、一斉に出て行く船を四十隻まで数えたことがある。その数は東京湾の中では1,2を競う多い数だそうだ。

 釣船が出航する朝の7時半ごろに、私は毎日のように散歩に出かける。大勢の釣り師と会う。道具の積み下ろしや、座席の確保で賑やかなときだ。弁当や飲み物の準備も楽しそうだ。その光景は、活気があって眺めているのもいいものだ。
 釣り師にはいい車を持っている人が多い。ベンツを初め高級車がずらりと駐車場に並ぶ。釣り専用車なのだろうか、道具で一杯の車もある。釣りはどうやら金持ちの遊びになっているようだ。

 夕方には、その船が戻ってくる。嬉しそうな顔つきをしている釣り人もいる。アイスボックスの蓋を開け、釣り宿の女将に獲物を報告し、サイズを測ったりカメラで撮ったり嬉しそうだ。散歩中にそのような機会に出会うとこちらも嬉しくなり、祝福の言葉を投げかける。

 平潟のハゼが減ったように、今度は東京湾では釣れる魚が減ってきた。
 原因はいろいろあるのだろう。それに対応して、沖釣りも毎週木曜日には一斉に休業することになった。これは資源保護対策だが、昔から東京湾で漁れる魚は美味しいと定評があることを思うと、良い取り組みだと思う。


 天気の良い日を選んで、私もときどき船に乗る。
 船頭はお客に満足してもらおうと、よく釣れる漁場を探して海の上をあちらこちらへ船を動かす。移動中、釣り人は竿を上げていなければならない。
 その度に釣り客は竿を挙げたり下ろしたりする。静かに糸を垂れて時を過ごす釣りではない。船頭も釣り人も、どちらも忙しく、何だか慌ただしい。
 水墨画には、仙人が釣りをしている情景が描かれているのが多くある。静かに心落ち着けて釣りをしている情景で、釣れようが釣れまいが頓着しないみたいだ。夕食用に1匹何かが釣れれば良い、釣れなくても良いように見える。見ているだけで心が落ち着く。その世界、その心境に心惹かれる。
 それはハゼ釣りにも似ている。ハゼが釣れていた頃がなつかしい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

見かけだおし = 森田 多加子

「家事の中でなにが一番好き?」
 と、問われて考えた。
 どれもたいして楽しいとは思わないが、食べることが大好きなので、積極的ではないが、まあ、料理かなと思う。
 しかし料理は体調、気分が大いに影響する。雑誌やネットで美味しそうな盛り付けを見て「この料理を作りたい!」となると、大体間違いなく美味しいものができる。
 気分が乗らない時の料理の味は「いわずもがな」だ。最近はこの「いわずもがな」が多く、毎回深く反省するがどうしようもない。

 40代のころは、陶器に凝っていた。気に入ったものが手にはいると、このお皿にはこんな料理を載せたい、小鉢にはあの料理を盛りたいと考える。
 レストランでコース料理を何度か頂くうちに、私もこんな料理で人を招待したいと思うようになった。コース用のセットを買った。
 友人たちに聞いてみた。
「コース料理をするけど、食べに来る?」
「へー、そんなのやるの? 行くにきまってるでしょ」
 そこで張り切った。

 まずオードブルだ。生ハムがまだちょっと高級なイメージのころだ。レストランでも前菜に出ることが多かった。真似をしてメロンに巻く。
 スープはズッキーニのポタージュ。デザートはイチジクか梨の赤ワイン煮。それにサラダ。だいたいこれだけは決まるがメイン料理に毎回苦心をする。フルコースとはいかないが、肉を主にして、簡単で美味しく「見栄えの良い」ものがほしい。

 一番簡単なのがローストビーフだ。奮発した上等の肉の塊に、たっぷりの香辛料をすり込み、フライパンで、焼き過ぎないように注意しながら転がす。様子を見てアルミフォイルに包み、5分ほど冷凍室で急激に冷やす。
 その後冷蔵庫へ移動させる。これでオシマイ。これがメイン料理になるかどうかわからないが、肉料理なので勝手にメインにする。私流の手抜きだが、おいしいと思う自慢料理なのだ。

 友人たちは、招ばれているのだから、間違っても「不味い」とは言わない。たっぷりお世辞の言葉を出してくれる。私はそれが実際の評価以上の誉め言葉であるとわかっていながらも、うれしくて仕方がない。

 和食もやってみたくなって、会席膳を4人分買った。洋食と同じく「入れ物で誤魔化せる」意味合いもある。
 茶道をやっていたので、懐石料理を少し教わっていた。これは、本格的にやると、その細かい作業のむつかしさと、金銭的にも大変なので、私の作るのは、「もどき」もいいところだ。
 しかし、普段のお惣菜を「ちょこっと」この膳に載せるだけで、見かけは高級和食に見える……、という勝手な思いだったと思う。

 ある日、神戸から姉が来るという。友人も一緒だそうだ。私は前日から準備をして、この会席膳に盛り付け、自信をもって出した。
 想像通りに
「まあ、きれい。和食の専門店に行ったよう」
 と、姉の友人は、盛んにほめてくれる。姉もうれしそうだ。私は非常に満足だった。
 ところがのちになって姉の本心がわかった。下の妹に言ったそうだ。
「森田家の料理はきれいでいいけど、私はあれでは全然もの足りないわ。あんなにきれいに盛りつけなくていいから、もう少したっぷり頂きたい」
 そういえば、姉の料理は豪快だ。そして味もいい。

 まあ、人間もそうだが、料理も見かけ倒しは、すぐ看破される。おおいに考えさせられた出来事だった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

もういいわ = 青山貴文

 松の大樹が、校内の歩道のあちこちに葉影を作っている。松の緑と赤レンガの建物がうまく調和して絵のようだ。
 白いユニフォームの十数人の学生たちが、萌黄(もえぎ)色の芝生の上で、大声を出しあって白球を追っている。

「もう一度、若い頃にもどってみたいな」
 と、私は思わず言葉を発し、並んで歩いている妻に同意を求めると、
「私は、もういいわ」
 と、妻は気のない返事をする。
(そうだろうな。品性が少し欠けるが理解力のある亭主を持ったんだからな)とほくそ笑んでいると、
「これから、また同じ苦労するのはごめんだわ」
 と、妻は私の思いをひっくり返し、冷めたことをいう。
(何を言うか)
 と、妻を無視して数歩先を歩くと、
「ご両親を看ながら、出来のあまり良くない二人の子どもを育ててきたのよ。あんな苦労するのは一回で十分だわ」
 と、昔のことをチクリと云う。

 妻は私の肺気腫の父を看取り、さらに認知症気味となった母や子供達のことで、いろいろ苦労をしてきた。
 親しい友から、
「お前のかみさんは偉いよ。今どき、親の面倒を看てくれる奥さんは少ないぞ。大切にしろよ」
 とよくいわれたものだ。

 だが、あのころは、私も一緒にいろいろと手を貸してきたはずだ。ただ、会社に通っている頃は、単身赴任も多く、両親と二人の子供の面倒を、妻一人に任せきりになってしまった。
 これが、いまだに妻に頭が上がらないわけだ。

 今日、わたしたちは熊谷に所在する立正大学のキャンバスに公開講座『ゆとりある社会の実現と労働時間』を聞きにきている。
 この講座は、聴講生の数は500人くらいで、年2回、春秋に開かれている。毎回5~6週間で、土曜日午後1時から2時間余りの授業だ。
 すでに、通い出して7年になる。ほとんど出席しているので、申し込まなくても招待状が来る。

 太っ腹な妻は教授の講義を聞きながら、私の隣で堂々と顔を机に伏せて数分の仮眠を取っている。これだから諸々の面倒をみて来れたのであろう。
 私はといえば、いつもの聴講スタイルで顔を真っすぐに向け、目を瞑って聞きながら、いろいろ考えたり、数秒仮眠したりする。頭がコクリと落ちないのが、私の特技だ。

(学生時代は、アルバイトで明け暮れた。やはりもう一度若返って、クラブ活動をおもいっきりやってみたい)
 講義は、そっちのけで、先ほどの妻との会話を反芻する。

(いまさら若くなれないが、今できることはまだまだある。思いっきりやってやろう)
 そう気を取り直し、ちょっと薄目を開けて教授の顔やパネルを観る。すぐまた目を閉じ講義に耳を傾ける。わたしは目を閉じて聞くほうが、目が疲れず、その上よく理解ができるのだ。
妻は、仮眠から覚め、スッキリした顔て講義に集中している。

 土曜の午後の学舎は静かで、講義は続く。
 似たもの夫婦は、共通の新しい情報を仕入れ、その話題で話し合う。そのことが好きだ。さらに、若々しいキャンパスの雰囲気も嬉しい。
 講義後、キャンパスを散策して、若い学生たちから元気をもらおう。
 熊谷に立正大学があってよかった。

                          イラスト:Googleイラスト・フリーより

忖度の今昔 = 鈴木 晃

 昭和世代の私は、忖度(SONTAKU)を「気配り」と理解していた。それも日本人的妥協文化だと思って行動してきた。
 例えば、オーストラリア五州のステートマネイジャーたちに、会社への忠誠心を上げてもらう手段として、英語ではうまく言えなかったので、マネイジャーの奥さんの誕生日に豪華な花のプレゼントを考えた。
 たまたまこれが当たり、海外子会社で、初めて配当金を払える会社にすることが出来た。

 巨人軍の四番打者だった松井選手が、ニューヨーク・ヤンキースに行って、「フォア・ザ・テイーム」をモットーに活躍したのも、日本人的な忖度だと思っていた。

 森友学園問題で、忖度という日本語が、「気配り「」という解釈でいいのか、と不安だった時に、英国のフィナンシャル・タイムスに、
「まだ出されていない命令に、先回りして、懐柔的(自分の思い通りに従わせること)に従うこと」
 と特派員が、無理に注釈をつけていた。
 日本に住んでいても、外国人には難しいニューアンスの日本語だと思った。

 広辞苑では、「他人の心中をおしはかること」としか出ていない。そこで、「忖度の由来」をインターネットで調べてみたが、すっきりできる解釈がなかった。
 こんどは、図書館で調べてみた。
「新釈漢文大系」の『詩経』編(中)に節南山が「巧言」という詩の中で、「他人心有らば、予(ワレ)之を忖度す」(351頁)とある。
 意味は「他の人に悪心があれば、私はそれを吟味する」とあった。
 これが「忖度」の由来になるようだ。
 由来からすると、物事を念入りに調べる「吟味」が元の意味だった。


 しかし、戦国時代では、秀吉の出世のキッカケになった伝説の『信長の草履を懐で温めていた』行為のことを、私は「忖度」だと思っていた。
 江戸時代末期に、篤姫が徳川家の存続を願う手紙を西郷に送ったという話も、私は「忖度」だと思っていた。

 平成時代になると、忖度には「いい忖度」と「悪い忖度」の二つがあるという。
 それは、「忖度はないと言い張るお役人の忖度」と、「神風が吹いたと証言する忖度」で、喧々囂々(けんけんごうごう)の騒動になっている。


 日本社会を歴史的に眺めてみると、日本民族には、世界のルールがどうあれ、忖度はなくならない社会だと思っていた。
 ところが、他国の大統領が代ると真っ先に駆けつけて、金のゴルフパターを贈る行為は、忖度とは言わず、単なるゴマスリだと感じるのは、昭和世代の私だけだろうか。


 アメリカ金融資本のビジネス・ルールを押し付け、アメリカの巨大な多国籍企業だけが儲かる仕組みのTPPを、トランプ氏に再認識させる。
 そう意気込む姿には、敗戦後70年以上経っているのに、ノモンハン事件以降、ミッドウエー、ガダルカナル、インパール、レイテ作戦などの失敗を分析した『失敗の本質』(中公文庫)から見ると、「悪い忖度」をしたとしか思えない。

 なぜなら、ユニクロの柳井社長は、もしトランプ氏がアメリカで生産せよとうなら、アメリカの大都市50か所で展開する店を撤退すると明言した。

 アメリカの言うことに盲従する政治家などとは違い、自分の金で損得を冷静にみている経営者は、政治家より広い視野で、世界情勢の変化を見ている、と私には感じられた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

男の色気  =  遠矢 慶子

 野生のすみれが一面に咲き。地面を紫色に染めている。その横の菜の花の黄色い群生が良くマッチしている。竹林にかこまれた広い庭、いつ通っても四季折々の花が楽しめ、つい立ち止まってしまう。その隣の家の庭は一面蕗の薹、新緑のフキの葉の間に、花が咲いた蕗の薹がつんつんと立っている。

 庭のないマンションに越してから、人さまの庭を見て楽しませてもらえるのは有難い。手入れもせずに四季折々の季節を満喫できる。

 葉山町民大学講座で教育総合センターへ行く。
 今回の講座は「イギリスの文化」で70名の募集に150名の申し込みがあり、急きょ人数を100人にしたというので、机も3人掛けで少々窮屈だ。

 5回シリーズの2回が終わり、今日は3回目のダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」だ。
子供の頃、童話として読んだ思いはあるが、ダニエル・デフォーが、イギリスを代表するこんなすごい作家という認識はなかった。

 講座中、何気なく私の目が隣の列の斜め前に座っている人の足を捉えた。
 くるぶしまでのスニーカーソックスをはいた男の足だ。チノパンツの骨ばった長い脚、直角に折った膝の下に、赤いふちどりのスニーカーをはいている。

「すてきな足」というより「男の色気」を感じた。
 私はその足にくぎづけにされ、ついちらちらと目が行ってしまう。

 仙葉豊先生の講義も上の空。ロビンソン・クルーソーにみる経済学、宗教学、社会学、伝統主義の非合理性を先生は論じている。
 見知らぬ男の、それも足に色気を感じるなんて、80年生きてきて初めてのことだった。

 そもそも私は、自分自身に色気がない。
 若い頃付き合っていた男性の車に乗ったとき、「女性が乗ってきた感じがしない」と言われたことがある。
 彼はミュージシャンで、玄人の女性との付き合いが多く、そんな女性たちは、車に乗るとぷーんとお化粧の匂いがして、「降りた後までもするんだよ」と言った。私は無臭の色気のない女だった。

 男の色気を持つ男の上半身に目が行くと、なんと八十歳前後のつるつるにはげた頭があった。ユル・ブリンナーのようだ。
 私は、歳を取っても熱心に講義を聴く男の姿に惹かれたのかもしれない。いやいややはり足だ。あの骨ばったくるぶしの魅力だ。

 電車の中で、夏の浜辺で、伸び伸びと育った若い男性の姿はいつも目にする。見ていて気持ちが良いほど張りのある贅肉のないしまった身体は、イタリアの張彫刻を見るようだ。
 でも、今日の男性の足も捨てたものではない。

 美しいというよりある種の、本物の人間の色気があった。

 今日の講義は、ちょっと邪魔が入り、集中していなかった。もらった資料をゆっくり家で読み直そう。
町民大学講座は楽しい。学生時代と違って、本当に熱心に聴く、周りの聴講生も真剣で質問を投げかける。そして試験がないのが嬉しい。
 その上、今日は座った場所の役得で、男の色気のおまけがついた。


イラスト:Googleイラスト・フリーより