「ミュゼ・イマジネール」のこと = 桑田 冨三子
1988年に学生時代の仲間4人で会社をつくった。
ミュゼ・イマジネール有限会社である。定款の目的には、商業デザインの企画、制作および販売、文学、美術および音楽関係の企画、制作、出版、それらに付帯する一切の事業と届け出た。
私たちのやりたい子どもの本に関する活動のためには、組織にすることが好都合と考えたからである。
言い出しっぺの島多代の家の、あまり広い部屋ではないが、古い英国調の応接間を事務所にした。折りたたみドアを引くと、隣の部屋は、天井まで届く本棚が、3方向ぐるりと囲む図書室である。真ん中に4人座りの丸テーブルを置き、これがミュゼの絵本資料室となった。
本棚には世界から集められた貴重な古い本や絵本が3000冊ほど並んでおり、東ドイツ出版で、クレムケの挿絵のある「デカメロン」や、めったに見られない稀覯本もあった。故辻邦生氏が、これらを懐かしんで、よく読みにみえていた。
私たちはそこで、子供の本の歴史をたどり、研究しながら、さまざまな企画を考え、実行してきた。
思い出深いのは、1992年にベルリンで開かれた国際児童図書評議会に参加した時である。東ドイツ開催が決まっていたのに、思いがけなく1990年に東西ドイツが統一された。長い間、分離されていた東と西のドイツが共に、会を主宰することになった。
政治的には、西が、東を吸収する形だったが、文化的には、オリンピック選手の体力の差が顕著だったように、本の世界にも政府が大きく力を注いだ東が、圧倒的に優位だったのである。
崩れたベルリンの壁を越えて、東と西を行き来した私たちは、日本にいては、とてもわからない東西のわだかまりを強く感じた。
ベルリンの、元日本大使館だった建物が日独センターになっていた。そこで日独の児童文学シンポジウムが行われ、両国の専門家の報告があり、詩の朗読などがあった。
日本からは、詩人で作家の阪田寛夫氏や、画家の小野かおる氏、児童文学者の猪熊葉子氏なども参加されていた。
そのほか、印象に残っている事業は、ミュゼの昔の本「マザー・グース」を使って、港区の小学校で低学年の英語教室を開いたり、ベルリンの日独センターで日本の絵本展を開くなど、いろいろな試みをした。
良い絵本には、画家が丹精を込めて描いた絵がある。子どもは、その絵の素晴らしさをちゃんと見分ける力を持っている。
絵本の歴史を辿りながら、ミュゼの本の中にある魅力的な絵を抜き出して、解説付きのカレンダーをつくり、毎年、財団法人東京子ども図書館から販売するようになった。
これがそのまま絵本の歴史書として役に立つから、読聞かせをするお母さん達の間でたいそう好評になり、年末には売り切れるほどになった。
このカレンダーの2011年度版は、ゲルトルート・カスパーリの「小さな子供のための面白絵本」と決まった。
カスパーリは1873年にドイツ東部で生まれ、1948年ドレスデン郊外で生涯を終えた女流画家である。
子ども向け絵葉書デザインを皮切りに、子どもの生活環境を丹念に描き、人気が出て50冊以上の絵本を描いた。詩や昔話、教科書、工作や絵の手引書を描き、ドイツの大人、子どもに広く親しまれた人である。
カスパーリは、子どもを一人の人間として観察し、子どもが見つけたものを創造的な営みへと導き、教条主義からこどもを解放して、20世紀の新しい教育の始まりとなった。カスパーリの絵は明るい灰色、薄茶、又は乳白色のフラットな背景で、遠近法を用いずに、くっきりとした輪郭に澄んだ色で描かれ、世紀末のひとつの典型である。
絵本がドイツ語であるから翻訳は私の役目となった。
言葉は、子ども向けだから易しく、詩のように短い。難しかったのは文字の解読であった。出版は1907年で、文字は現在のドイツでは使わない、ユーゲント・シュティール風の格好いい装飾文字である。
現代の、そう若くもないドイツ人に見せても、両手を広げて首をすくめるだけで、すんなり読める人はほとんどいない。日本でいえば、巻紙に変体仮名でしたためた優雅な文字のごとく、簡単には読むことができなかった。
正直言って翻訳より、この字を読み解くほうがずっとむつかしかった。
ミュゼ・イマジネール有限会は、今年5月で終わりにした。28年間だった。すべてのものには終わりがある。世の習いだ。
でも、ミュゼの本たちに会いたくなったなら、ネットの「絵本ギャラリー国会図書館国際子ども図書館」を開けばよい。
「不思議な国のアリス」の初版本(1865年)でも「ホーンブック」でも、全ページが姿を現してくれる。