元気100教室 エッセイ・オピニオン

世界の子どもに良い本を = 桑田 冨三子

 1912年に「世界の子どもに本を届ける」という国際シンポジウムがあった。私を含めて子供に良い本を渡す運動をしているJBBYの人達の報告会である。

 皮切りは、朝日国際児童図書普及賞に輝くカンボジアのNGO・SIPARであった。若い男性の発表者は、大きな目をくりくりさせて、希望に満ちあふれた調子で話した。

「30年前の暗黒の歴史を知るカンボジアの若者は少ない。1970年代のクメール・ルージュ独裁との長い内戦で、失われた大切なものを取戻すために、自国の本の出版や、図書館の充実などに最大の努力を払っている。」
 日本からは3・11の震災地を廻る図書館バス「あしたの本プロジェクト」に携わった斎藤紀子さんの報告があった。

 気仙沼にバスを停めた時、4歳の女の子が飛び込んできた。いきなり、
「地震なんかコワクナイ」
 と凄い形相でさけび、繰返しさけんでいる。
 顔が極度の緊張でひきつっている。斎藤さんは思わずその子を抱きしめた。
「一緒に本を探そうね」
 やさしく話かけ、本を選ぶ。
 しばらくすると、女の子の顔がだんだんと、やわらいできた。家で、地震がコワイと言っちゃ駄目と言われた。
 子ども心に地震はコワクナイ、と自分に言い聞かせては、それを大きな声で叫ばずには居られなかったという事だった。

 陸前高田の女の子の話である。
「ア、この本、前、家にあったよ」
 といって『赤頭巾ちゃん』を取り上げた。ついてきたおばあちゃんが、
「この間借りた本じゃないの、他の本にしなさい」
 しかし、その子は頑としてきかない。
 次にやって来た時も、その子はまた、同じ本を選んだ。亡くした本が忘れられず、何度も何度も読むのだろう。


 IBBYの元会長でガテマラ生れのカナダ女性、パトリシア・アルダナは精力的に世界を廻っていた。その時の話をしてくれた。
 レバノン、ガザ地区へも行ったが、アフガニスタンのカブールに入った時は、搭乗した飛行機に危険が迫った。
(ここで撃たれて死ぬのだ)
 と何度も思ったそうだ。しかし、飛行機は奇跡的に無事についた。

(こんなに危険でひどい時期に、アルダナは本当にやって来るはずはない)
 そう思っていたカブールの仲間たちは、感嘆し、大歓迎をした。

 一番先に出迎えたのは、年老いた白髪の女性であった。悟りの境地にあるような、落着き払った長老の態度に、アルダナは、不安定な日常を過ごす仲間たちは きっと、この長老に厚い信望をよせているにちがいないと確信したそうだ。


 カブールの冬は厳しい。凍死する子も出る。そんな厳しい状況下でのIBBYの活動は勇気ある挑戦であった。子どものための学校を開くことである。
 仲間たちは活動名をアシアナと名乗っていた。どこにでもテントを張り、中でアシアナ学校を開く。子どもは親の手伝いをしたり仕事に出たりして、なかなか学校へは行かれない。
 建物よりはテントの方が来やすいらしく、好まれるから、テント張りの学校にしたとのことだ。テント教室の方がずっと効果が高いという。
 テントを開くと、子ども達はすぐに集まってくる。嬉しそうに、しかも、走ってやって来る。
 その喜び勇んで走ってくる様子を見るのは、教えるものにとっては、確信を新たにし、至福となる。子どもたちはテントの中で喜んで教科書を開き、読書を楽しみ、給食を食べて、帰って行くという。


 どの話もみな素晴らしい感激的な報告会であった。運動に携わる者は時として
「一体、自分は何をしているのか?」
 と疑問を持つが、仲間が頑張っている話を聞くと励まされ、やっぱり続けて行こうと思う。


               イラスト:Googleイラスト・フリーより

思いがけない発見! = 廣川 登志男

 5年前の夏、「御府内八十八ヵ所めぐり」をした。会社を卒業したてで巡礼などをしたいと思っていた時だ。四国八十八ヵ所は少し遠すぎる。ならばと、近場の「府内」、これは都内中心部になるが、その八十八ヵ所巡礼に出かけた。

 巡ったお寺さんそのものも興味深かったが、途中での「へー。こんなところがあったんだ」と、名前だけは聞いていたが、実際には行ったことのない神社仏閣や史跡、それに美味しそうなお店など、多くの発見に驚かされ、見聞を広めることができたのは収穫だった。
 というのも、巡礼のほとんどを歩いてまわったので、いろいろなことに出会えたのだと思う。一日にだいたい八時間、延べ十一日ほども歩き回ったのだ。


「街歩きも結構面白い」と、その後もいろいろな街や史跡めぐりに興じた。
 昨年の春には、何度目かの皇居散策に出かけた。東京駅を出て、駅中央の御幸通りから皇居に向かった。
 和田倉噴水公園の素晴らしい噴水を右に見て、内堀通りに差し掛かる。目の前には桔梗濠(ききょうぼり)があり、奥に巽櫓(たつみやぐら)が二つに重なった白壁を陽光に映えらせて、美しい姿を見せてくれる。

 皇居というところは、松の緑に、重層な石垣、白壁と瓦屋根の櫓、それに濠の水面などが、我々を楽しませてくれる。ときには、大きく枝を広げたソメイヨシノが、淡いピンクの花吹雪を、石垣と濠の水面を借景に、えも言われぬ日本的な風情で見せてくれる。


 通りを渡り、巽橋の写真を撮ろうと、濠の角に歩いていくと、石畳の一角に何やら花を刻んだ石板がある。五十センチ四方くらいで、何だろうと覗くと「宮城県 みやぎのはぎ」と刻んである。
 どうも県花のようだ。勿論、写真を一枚。元々、皇居を一周しようと来たので、そこから北にある大手門に向かって歩いた。ちょうど百メートルほど歩いたところに、また一枚の石板がある。
「秋田県、ふきのとう」とある。
 続いて山形県、福島県と続く。私の一歩は、およそ85センチ。なので百十八歩で百メートル。歩きながらそれぞれの石板の間隔を調べると、ほぼ百二十歩前後だったので大体百メートル間隔で設置されているようだ。

 それにしても、皇居には何回か来ていたが、こんな石板が埋め込まれていたのかと驚いてしまった。いつ頃できたのだろうかと疑問に思っていたら、一周ぐるりの最後のころ、二重橋前の信号付近で、県花の石板とは違うのがあった。
 2枚あり、両方とも桜の花柄で、「花の輪 平成五年」とある。今から二十数年前に作られたのだろうか。

 少し手前の桜田門近くに大分県と宮崎県の石板があるが、その中間に、「花の輪 案内」の石板があった。
 なるほど、四十七都道府県すべての県花が石板として設置されている。加えて、先ほどの「花の輪 平成五年」の2枚と、もう1枚「千代田区 さくら」の石板が途中にあったので、計50枚の石板が設置されている。間隔がおよそ100メートルなので、ぐるり一周はおよそ5キロになる。

 確か、皇居ランナーのブログに一周約5キロと記載されていたから、間違いなさそうだ。
ふと、平成5年当時に思いを巡らせてみた。


 この石板設置についてはいろいろな経緯があったのだろう。皇居周りのことだから皇族の方々が知らぬことはないと思うが、この企画を天皇に奏上された方々のご苦労は大変なものだったのではあるまいか。

 東御苑には県木が植えられている。この県花の石板も、国民の象徴としての天皇がお住まいになる皇居には、ふさわしいもののように思えてならない。
 そうか、ひょっとすると天皇ご自身が発案されたのかもしれない。想いをめぐらすと、あれやこれやと興味が湧いてくる。
 歩き始めた矢先で見つけた石板のおかげで、思いがけない発見があった。健康なうちに、街あるきを楽しもう。
 
                    イラスト:Googleイラスト・フリーより 

細目の人相 青山貴文

 電車が止まる。ドアが開き降客が降りると、数人の乗客が乗車してくる。その中に老婆が居ると、彼女は躊躇無く一直線に私のところに歩んできて、わたしの席の前に立つ。

 私は即座に立つ。小中学生のころより、老人には席を譲るのが礼儀であると躾けられている。
あと数駅で降りる場合は、心からどうぞと、格好良くゆとりをもって席をゆずれる。しかし、疲れているときや、まだ下車する駅から遠い時などは、内心いやいやながら立たざるをえない。
寝た振りは、性格的にどうしてもできない。

 そこで、始発の列車に乗るときは、出入り口からなるべく離れた車内の中程の席に座るようにしていた。
 私は、どうも人のよさそうな顔つきをしているらしい。鼻の高い端正な紳士然とした顔つきとは、およそかけ離れている。そうかといって、目つきの悪い怖い顔でもない。どちらかと言えば、四角張った目の細い人のよさそうな顔つきだ。

道を歩いていると、見知らぬカップルから、
「このカメラで撮ってくれませんか」
 と頼まれる。人相的に、悪いことのできない人と思われるらしい。
 私は、母に似て色白で、父に似て目が細く、鼻が横に広がった安定感のある顔つきをしている。


 中学生のころ、色白で目が細いために女々しい男として扱われる。これがすごく嫌だった。男らしく振舞ったが、そうは見てくれない。親にもらった顔つきなので、いたしかたなかった。
 浪人して、酒屋に住み込み店員するようになり、真っ黒に日焼けし、体つきも男らしくがっちりとしてきた。しかし、その時だけで、夏が過ぎると、白い肌に戻り、顔も青白くなる。それがいやであった。

 細目といえば、高校生の頃、瞼が一重の成績の優秀な女子生徒がいた。彼女は、そのころ、教科書にでてくる平安貴族の顔に似ていた。ひと筆で書いたような細い目で、ふくよかな顔つきであった。

 平安時代は、細目が美人の条件であったらしい。私は、一重で細目の人が好きだった。優秀な女子生徒に魅せられていた。自分も目を見開くことはしないで、目を細めにして歩いたものだ。
さらに、この細目は退屈な大会議場では、頗る都合がよかった。目を瞑って聴いていても、目立たないからだ。

 ところが、時代とともに、美男美女の条件が変わってきた。三船敏郎や栗原小巻のように、目玉がやたらと大きくなってきた、当時の私は、目が大きいと、吸い込まれるようで怖かった。

 世が世であれば、細目の私などは上位のランクの筈だった。理想の面相が変わってきたのだから、いたしかたない。
 ここ数十年は、列車に乗るときには、目が疲れるので、もっぱら目を閉じて、いろいろと考えることにしている。老婆が、前に立っても気がつかない。決して、狸寝入りしているわけではない。

 しかし、最近は案ずることも無くなった。列車の出入り口付近に座っていても、老婆がやってこなくなった。
 なんてことはない、日に焼けた浅黒い肌の細目老人になっていた。
 

イラスト:Googleイラスト・フリーより

ザリガニパーティー  石川通敬

 ザリガニを食べたことがある日本人は少ないのではないだろうか。

 今では農薬とあぜ道が整備されたため滅多にお目にかかれないが、私が子供の頃には、田んぼにぞろぞろいたものだ。
 戦後何もない時代の子供たちとってザリガニは、ドジョウやイナゴと並んで手ごろな天然のおもちゃだった。ザリガニが食べられるものであることを知ったのもその頃、小学校一年の時であった。

 敗戦直後の食糧難を逃れて東京から静岡に疎開してきた母方の祖父が、玄関わきの小川からザリガニをとって、みそ汁に入れて食べたのだ。

 家族は驚き、大いに心配したが、本人はすましていた。もともとザリガニは、ニューオルリンズに代表される熱い沼地に生息するもので、フランス人がスープの食材としてきた歴史がある。祖父は一〇〇年前にサンフランシスコに駐在していた。そのときフランス料理としてザリガニを食べていたため抵抗なく食べたのだろうと私は推測している。


 時は移り、我が家ではここ20数年夏には、ザリガニパーティーをしている。ザリガニは春から脱皮を繰り返し八月ごろ立派に成長し食べごろになるからだ。ただし我が家の料理は、フランス風ではなくフィンランド式である。
 その出会いは35年前のヘルシンキ出張にさかのぼる。当時私は銀行の駐在員としてロンドンにおり、北欧には国際金融商品の売り込みによく出かけていた。ある時現地の友人がしてくれたアドバイスが、出会いとなったのである。

 彼は「競争相手と違った方法でフィンランド人の心を捕まえなければビジネスには勝てない。ヘルシンキ一のホテルで、ザリガニ(英語ではクレイフィッシュと呼ぶ)パーティーを企画し、主要顧客を招待するのがお勧めだ。」

 そうすれば「君の会社は、間違いなくフィンランドでのビジネスに成功する」というのである。その狙いは、フィンランドの国民的夏のイベントである、ザリガニパーティーのスポンサーになることにより、会社の名を売るという作戦だったのだ。

 更に彼は「そのパーティーにカラオケを持ち込めばより効果的だ」というのだ。我々は彼の力を借りて約10年近く毎年「クレイフィッシュ&カラオケパーティー」を開催した。そのお陰で、我が社は大きな成果を得ることができた。


 フィンランドは寒冷地だが、夏にはザリガニがとれる。一年のうち八月だけが、地元産ザリガニが解禁になり、捕ることが許される。
 捕れたザリガニは、香草ジルの葉と種をたっぷり使い、塩も驚くほど入れてゆでる。その後二昼夜ゆで汁の中に入れたまま冷蔵庫で寝かせる。
 このゆで汁が各家庭で競いあうポイントなのだそうだ。食べ方は、至極簡単。鮮やかに真紅にゆであがったザリガニは大皿に盛られる。
 これを一匹づつ各人の皿に取って、尾っぽをナイフで切って取り出し、4センチ四方の薄いトーストにバターを塗り、ザリガニと緑のジルの葉を載せて食べるのだ。彼らの楽しみ方は一匹食べるごとに、ウォッカで乾杯し、全員でフィンランドゆかりのフォークソングを歌う。


 国民的行事と希少な季節商品のため、ホテルでは当時1匹1000円と、とても高価な料理だったと記憶している。また、独り占めして食べていないということを示すためか、全員食べた後頭を外に向け何匹食べたかわかるように、皿に並べる風習が面白い。


 ザリガニパーティーにすっかり魅せられ、我が家でもやりたいと思ったが、仕事が忙しく手が付けられなかった。20年前に少し暇ができたので、家内に相談すると、嫁入り道具に持ってきたタイムライフの世界の料理全集の北欧編で、大きく取り上げられていると教えてくれた。

 そのお陰で我が家でもできるようになった。タイムライフ社は、その後破たんしたが、この全集が出版されたのは、今から半世紀以上も前だ。当時の国際情勢は、アメリカが断トツの力で世界を引っ張っていく状況だった。
 そのみなぎる力が、北欧料理の紹介にまで及んでいた証拠と考えると、感無量だ。


 問題はザリガニの調達だった。日本での大口消費者は、フランス大使館だということは分かった。しかし一般のフランスレストランでは、ザリガニを使うところが減り、今ではほとんど需要がないと取扱業者に言われた。

 そんなことから、土浦や茨木の養魚所に手あたり次第電話をかけ、苦労して確保した。幸い近年は埼玉の水産業者から買えるので助かっている。しかし商売の中心が観賞用のザリガニのようなので、いつまで食用の物が手に入るか心配している。

 ザリガニパーティーの評判は、いつも上々だ。ある友人からは、土浦でザリガニレストランを共同で経営しようと申し出があったほどだ。孫に生きたザリガニがよいと思って2、3匹やったら、ゆでたのを食べたいといわれる始末だ。あるときフィンランドの友人を自宅に招いた。
 その時彼らが、日本産ザリガニのほうがおいしいと褒めてくれたのが、今でも忘れられない。


 そうした中、数年前にNHKの歴史ヒストリアでザリガニスープが、大正天皇の即位記念の宮中晩さん会で出されたという話が披露されたのを見て驚いた。

 それによると、「政府は、外国の賓客に日本の国威を示したいと考え、フランスで修行中の秋山徳蔵を帰国させて料理長に任命した」。「彼は、熟慮の末ザリガニスープを目玉料理として出す決断をした」
 これに従い政府は、軍隊の力を借りて、北海道で日本ザリガニを探させた。そして二か月かけて3000匹を京都にまで運ばせたという。なお、スープの絵図を含む詳細な記録が、今も国立公文書館に遺されていると報道していた。


 ザリガニパーティーが気に入っているのは、100匹で数千円と低価格なことだ。伊勢海老2匹程度の値段で調達できるのだ。残念なのは、国家事業の食材とされたにも関わらず、国民から忘れられた運命にあることだ。

 つい2、3年前中国でザリガニの人気が沸騰し、爆食されている様が放映された。いずれおいしい中華風ザリガニ料理が開発されるかもしれないと期待している。


            イラスト:Googleイラスト・フリーより

あつかましくなれる  青山貴文

 5月の陽光を浴びた新緑は、心をうきうきさせてくれるものだ。
熊谷駅北口から、北西に徒歩2分くらいのところに、外壁が若葉の蔦で覆われている『まじま居酒屋』がある。

 その居酒屋の女主人は、私のエッセイを適切に批評してくれる。また、シャンソンが趣味で、なかなかの美人だ。神は2物を与えずと言うが、時たま気まぐれをするのだろう。

 ここでは、毎年2回、5月と11月に彼女の声量のあるシャンソンを聴く会が催される。
 出席者は、彼女の幼稚園、小中高大学時代の同級生が大半で、男女合わせて二十人位が集まる。中には、元早大グリークラブ(男声合唱団)員の美声の持主もいる。

 毎回、彼女のシャンソンのあとには、出席者の自己申告による発表の場がある。出席者が気軽に持ち歌や得意な楽器を披露するのだ。

 私は,これという芸もなく、あつかましく自作エッセイをたんたんと読んでいる。朗読をする方は私以外にいたが、自作エッセイを読む方はいなかった。


 数年前から、自分の芸不足を補うために、この集まりに芸達者な友人2人を伴って出席していた。
彼らは、オペラや合唱をサクラメイト(熊谷市籠原地区の文化会館)などの大舞台で、華麗な唄を生き生きと披露する。
 そのために、わざわざ舞台を借りたり券を売ったりで、その努力は大変なものだ。

 一方、わたしは、自宅で居ながらにして、毎月1回、多くの読者に自作エッセイをブログで配信している。作品を披露する手段は、彼らと比較して、手数がかからず優越感を感じていた。ただ私のエッセイは、彼らのように、お金を取れるような価値のある作品ではない。

 昨年11月の集まりでは、エッセイ『やりがいを感ずる時』の朗読をおこなった。このエッセイの内容は、「自作エッセイをブログで発表するとき、このうえないやりがいを感じる」ことを描いたものだ。

 その日は、友人の芸達者2人も元グリークラブ員も都合がつかず欠席した。そのため、いつものギターや歌あるいは朗読では、時間がもてなくなった。そこで、女主人からなんとか歌ってくれないかと、依頼される。


 わたしは、カラオケ店などに余り行ったこともない。時たま、風呂の中で歌っている詩情豊かな山の唄
『いつかある日』を伴奏なしで気軽に歌った。

 いつも出席する歌の上手な3人が同席していたら、いくら厚かましい私でも、歌えなかったであろう。人間、競合する人が居合わせないと、意外に厚かましくなれるものだ。
 久しぶり、私の愛唱歌の山の唄を、人前で心おきなく唄うと、朗読するよりも、はるかに高揚する自分がいた。

 芸達者の2人が、頭を下げてまで券を売って舞台に立とうとする気持ちが理解できた。今年も、5月の『まじま居酒屋』の催しが近づいてきた。
 

           イラスト:Googleイラスト・フリーより

気付かなかったこと 吉田 年男

 一時的に右眼が不自由になった。白内障の手術を受けたのだが、手術は思っていたより簡単に終わった。

 手術より術後のケアーがしんどかった。時間を決めての目薬の点眼、洗髪、洗顔の制限。でんぐり返しなどの運動の制限。眼の手術とはいっても、身体の一部にメスを入れたのだから、それくらいの辛抱はしなくてならないと思ってはいたが、めんどうくさがりやの私にとっては、どれもが窮屈なことであった。医師の指示に従って、しばらくの間、公園での運動を控えていた。


 穏やかな午後のひと時、久しぶりに、公園に出かけた。歩道から敷石の敷かれた広場に入ろうとした。
広場は、いつも運動をしていたところだ。入り口のところの感じが今までとなんとなく違う。よく見ると、そこにあった大きな石が取り省かれている。

 石があった時も、不自由も感じず、石の存在に気にも留めずに広場へ出入りしていた。石がなくなってみると、確かに広場へ入りやすい。
 石のあった周りをよく観察してみると、きれいに舗装もしなおされている。歩道と広場との間にあった、段差もなくなっている。今は車いすの人でも楽に広場に入ることができる。


 永い間、毎日ここを通行していたのに、なぜ通りにくいことに、気が付かなかったのか? 私が気付いれば率先して、公園を管理している区役所に直してもらえるように働きかけることもできたはずだ。

 ひとへの思いやり、優しさのなさに改めて恥ずかしく思った。私が運動を休んでいる間に、広場への入り口が狭くて、入りたくても入ることができずに、辛い思いをしていた車いす使用の人か、もしくはそれに気が付いた人たちが、車いすでも、幼い子供たちでも、楽に広場に入れることができるように、思い余って陳情を申し入れたのであろう。


 耳の不自由な人たちとのコミュニケーションがとりたくて、手話を懸命に覚えようとしたが、途中で挫折した昔の苦い思いが、頭をよぎった。

 気を取り直して、広場の中央に立って、大きく深呼吸をした。そして両腕を回しながら眼を池のほうに向けると、小高い丘のところに、はなみずきが今を盛りに咲き誇っているのが見えた。

 人工的に作られた公園名物の滝の音も、からだを動かしたことで、すこし気分が変わったのか、いつもと違って聞こえる。曲がりくねった公園内通路の両側には、手すりが設けられている。
 いつもみなれていた手すりだが、それさえも新鮮に見える。手すりに近寄って触ってみた。よくみると手すりの何か所かに点字版がついていた。


 入り口に回って、あらためて公園案内図を探した。
 普通の案内図とは別に、そこには、眼の不自由な人のための、立派な金属製の点字案内図が設置されていた。


          写真:Google写真・フリーより

ビバ・アンダルシア   金田 絢子

 集英社版『スペインうやむや日記』(堀越千秋著)は大層面白い。

 スペインでは、「フラメンコ」とは、踊りではなくて「唄」(カンテ)のことだという。もう長いことスペインに住む画家の堀越さんは、カンテの歌い手でもある。

「アンダルシアは貧しい。ジプシーは悲しい。『おらぁまだセビーリャ見たことがねえ』何故か。貧しいから
である。政府は汚職まみれ。冬、スペインにも冷たい雨が降る」
 西洋崇拝で「何かというとおフランス」の日本人を笑い飛ばし、「EUはそのうちだめになるぜ」なんて警句も吐く。

 平成元年、私たちが「スペイン・アンダルシアを巡る」ツアーに参加した当時、この本はまだ出版されていなかった。
 私は何の予備知識もなしにスペインの土を踏んだ。因みにメンバーは、夫婦ふた組、ミスとミセスが一人ずつ、たったの6人だった。
 グラナダでは、「穴倉のフラメンコ」を観た。山の斜面に掘られた穴倉へと、デコボコの歩きにくい道をすすんだ。穴は、ほかにもいくつかあったと夫は言うが、私は見なかった。


 穴倉の中は、中央に空き地をのこしてぐるりと周囲に、沢山の椅子が並べられていた。薄汚れたロングスカートをはいた、年配のジプシーが、愛想のない目つきで、白人のカップルをじろじろ見ながら、膝の上の楽器を鳴らした。
 彼女の隣に立っていた12、3歳と思われる美少女が、私に笑顔を向けた。

 今では、踊り手の服装も唄も何もかも、かすんでしまっているが、たとえ演出にせよ、ショー化されたものにはない、そこはかとない哀愁があった。

 街灯もない暗闇に、ライト・アップされた、美しいアルハンブラ、何気ないトレモリノスの海岸の様子、どこかさびれた闘牛場など、目の前に浮かんでくるが、ひときわ懐かしいのは、セビーリャの小さなまち、「マカレナ」である。

 昼食をはさんだ観光のあと、ホテルに戻り自由時間となった。ほかの4人は街の中心部に、添乗員と買い物に行ったが、私たちはホテルに残った。


 このへんにどこか観るところがないか、ホテルの人に尋ねると、マカレナ教会に、涙を流しているマリアの像があるという。早速出かけた。

 ひなびた小さな教会で、礼拝堂もせまい。正面に金メッキの大きな像があった。上部が見上げるほど高い位置にあるので、下からではよくわからない。
 見まわすと、二階への階段をのぼったところに、資料室がある。階段をあがり部屋に入ってみた。いろいろなものが並んでいるが、マリアの像らしきは見当たらない。

 そこへ、若い男性が寄ってきて何か言うが、ちんぷんかんぷんである。何せスペイン語は「グラーシアス」と「シー」ぐらいしか知らない。
 そのうち、指を目の下にあてて、涙が落ちてくる仕草をする。涙のマリアのことらしい。夫が「シー、シー」と言った。すると彼は、こっちへ来いという風に手招きをした。

 廊下を幾歩か行ってから、ドアを入ったのだったと思う。気がつくと手の届かんばかりのところに、涙を浮べたマリア様の横顔があった。ふるえるほど感動し、しばらくはただ見とれていた。顔の部分がちょうど階段をのぼった高さだ。

 かなり大きな彫像である。
「グラーシアス、サンキュー・ベリマッチ」
 夫はうわずった声で言った。二人とも気分よく、階段を降りて、礼拝堂の入口まで戻ってきた。一緒について来てくれた若者に
「グラーシアス、アディオス」
 手を振って外へ出た。私にも夫の興奮が伝わり、
「チップをあげなくていいの?」
 とは言い出せなかった。


 歩きながら夫が、
「あのお兄ちゃん親切だったけど、なんで最後に変な顔してたんだ? あ、そうか。チップを忘れたね。わるいことしちゃったな」
 公園の側を通りかかったとき、夫は転びかけた。感動の余韻のせいだったかもしれない。
 近くにいた、ソフトクリームを頬張った青年が、さっと右手を差しのべた。それにはすがらないで、夫は転ばずにすんだのだが、彼のとっさの機転が嬉しかった。

「涙のマリア」は、キラキラではなく、淡いブルーで私の瞼にのこっている。
 ふりかえれば、未知のアンダルシアから、いい思い出だけを持ち帰ったのだ。そんな気がする。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

技術屋の心  廣川 登志男

「ポチョン」
 台所の水場で音がした。見ると、水道の蛇口から、しずくが落ちていた。
 落ちたところは、食器洗いなどに使う台所の盥(たらい)の中だ。水が3センチほど溜まっていて、鏡面のように静寂を保っている。

 そこで、一粒の水滴が音をたてたのだ。
 波紋も広がる。盥の壁に当たるとまた返ってくる。そして波紋同士がぶつかって、面白い紋様を見せてくれる。
 じっと観察していたら、面白い現象に遭遇した。しずくが落ちた反動で跳ね返った水が、小さな水滴となって、スーッと水面上を滑っていったのだ。
「不思議だなー。なんで沈まずに滑っていくのだろう?」
 と、持ち前の「何故なんだろう」が、頭をもたげる。


 原因は表面張力しか考えられない。丸くなるための表面張力の方が、重力より優っているからなのだろう。どの程度の力になっているのか調べたくなった。


 表面張力が顕著に視認できるには狭い空間が必要だ。それに、数値化しなければその先に進めない。どうすれば、数値化できるかだ。

 ガラス板二枚使って、片側は隙間なし、反対側には5㍉程の隙間を作って立てれば、隙間のない側は水が高く吸い上げられ、隙間のある側はその高さが低くなる。きっと放物線が描かれるはずだし、その高さを測れば数値化できる。
 だが、もっと手軽にできないか。

 細い管を水に漬ければ水が管の中に吸い上げられる。それを測るのも一案だ。

 ボールペンなどには、中の芯に太さの違うものがある。そうか、それを使って水に漬ければ、持ち上げられた水の高さで表面張力の程度が測定できる。早速試してみたが、高さ測定がうまくいかない。次に、いったん水中に軸を深くつけて、上の断面を指で押さえて空中まで持ち上げる。管の中に水がかなり入る。

 そこで、ゆっくりと上の指を離していくと、水が下から滴り落ちる。しばらくすると滴下が終わり、少しばかり水が残る。その長さを測定するのだ。横軸に穴径をとり、縦軸に残存水柱の長さをとると、立派なグラフとなった。

 これが何を意味するかは、よく考えなければいけないが、こうして数値化したデータを、縦横斜め、様々な角度から考察することで多くの情報を得、問題解決への大事な一歩を踏み出すことができる。

 それが大きな達成感となり、そして解決に至れば、まさに技術屋冥利に尽きるというものだ。
 私が、「問題現象を数値化する方法」を勉強できたのは、技術者として鉄鋼会社に入り、そこで研究業務に携わったことが一番の要因だと思う。


 鋼材の性質は、機械試験(延性や強度の測定)や組織検査などで調べる。
 当時、いろいろな条件で実験したり、材料を調べたりするのは、他人任せにせず研究員自らが行うことになっていた。
 自分の手を汚して試作し、引っ張り試験などの検査も行い、そこで得たデータを、自ら解析した。強度などの特性値や、時には弾性率(ヤング率)なども算出した。異常値を見つけることもある。これは、時としてダイヤモンドのような発見をもたらしてくれたりする。


 自ら調査を行なうが故に、多くの調査方法を勉強するし、周辺技術も調べる。
 加えて、データの意味するところを執拗に考え、どのようにデータを加工すれば、その意味が見えてくるかも大いに勉強した。
 こうして得た知識が、研究だけでなく、現場操業などでの様々な難題に役立ったのは、言うまでもない。

 技術屋というのは、どんな小さなことでも、「どうしてそうなるのか」と、常に疑問を抱き、解決に必死に取り組む。そんな心を、若いときから先輩に叩き込まれている。

 今回は、台所での一滴のしずくが、小さな研究ワークをもたらし、久しぶりの満足感を得ることができた。
 作ったグラフを眺めていたら、
「パパー。ボールペン、5本もダメにしちゃったじゃない。そんなことして何になるの。それよりバラの手伝いしてよー」
 女房に、技術屋の心が分るはずもないか・・・。
「すまん、すまん。今、そっちに行くよ」


イラスト:Googleイラスト・フリーより

フラワームーンの庭 井上 清彦

「今朝、ヒメウツギが咲いていたのよ。白い小さな花、きれいでしょう」
 と早起きの妻が、摘んだ切り花を、私に見せる。居間に飾るためだ。

 我が家は、南北に細長い敷地に建っている。築26年になる。東側は小径ギリギリだ。多少土地に余裕がある南には、樹木が植わっている。   
 数年前、母が亡くなり、住んでいた母屋を取り壊し、弟妹が相続で売却した地続きの隣地に、三軒の家が建った。子供がいる若い家族が住んでいる。

 相続で、我が家の西側に細長い土地が加わった。この土地を放っておけないと、木や花が植えられるよう、私は、汗水たらして石を取り除き、土を耕して整地した。こうして生まれた土地を「ウエスト・ガーデン」と名付け、一人で悦にいっている。
 南の庭には、我が家のシンボルツリーである白樺の他、ツツジ、どうだん、梅、ゆず、金木犀などの樹木が植わっている。
 西の新しい庭には、二人の好みのオリーブ、ミモザ、月桂樹など外来の木々を植えた。更に、季節の花も楽しみたいと、春と秋に種を播き、球根を植えた。

 植木屋は、一年に一回入るが、それ以外は妻と私の二人で庭仕事をする。整地、施肥、まとまた雑草取り、種播き・球根植えは私の仕事で、妻は、早朝の小径沿いなどの掃除や、水やりなど日常管理の仕事を分担している。

 妻の仕事は、雨が降った時を除いて、毎日だ。時々辛くなるのか、癇癪を起こして、私に当たってくる。
「敷地が細長くて、小径沿いの生け垣の葉が落ちて、毎日掃除が大変よ。庭の管理も、雑草を取ったり、落葉をまとめたりで苦労するわ」。更に「あなたは、花を見たり、写真を撮ったりするだけで、何にもしないわね」と畳み掛けてくる。

 私は、起き抜けに一方的に言われ、へそを曲げ「へー、そーお、何にもしてないよ」と応える。内心では、(生い茂った雑草取りや、種や球根植えをやっているのに)と思いつつ、口答えは火に油と、じっと我慢して、嵐の通り過ぎるのを待つ。

 確かに、毎日の管理は大変だと思う。妻から「これから、ますます大変になって、続けられないわよ。そうなったらどうするの」とも責めたてられる。確かに、今年に入って妻は古希を迎え、私は先月、後期高齢者入りだ。

 隣の母屋に住んでいた父は、私が幼かった頃から、道具を揃え、脚立に乗って、庭木の手入れを続けていた。
「植木屋さんに間違われ、通りがかりの人から、道を聞かれたよ」
 と父がこぼしていたことを、思い出す。それを知っている妻から、
「あなたは、お父さんと違って、庭仕事が嫌いなのね」
 と時々嫌味を言われる。


 家を建てた際、女性建築士が書いた『エクステリア』の本を読んで構想を膨らませた。その後もヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』の本も読んだ。本など頭から入って、行動がともなわないのは、私の悪い癖だ。もう少し、妻の側に寄り添って、庭仕事をやらねばとは思っている。いつになるのやら。そのうち、こちらのほうも草臥れてくる。

 ラジオで別所哲也の「おはよう・モーニング」を聞いている。今朝、アメリカン・ネイティブは、月々の満月を呼ぶ言葉があると放送が流れてきた。
 四月は、「シーズムーン(種の月)」、五月は、「フラワームーン」と呼ぶそうだ。春を迎えて、我が家の庭にも、秋に植えた球根や蒔いた種から、次々に花々が咲いてくる。一年中で、一番の花盛りの時だ。

 白い「梅」の花を皮切りに、「ミモザ」の黄色い小さな花、隣家の女の子が好きな「チューリップ」は、色とりどりの花を咲かせる。近所で見かけ、気に入って植えた古代バラの「ナニワイバラ」は、今年も大輪の清楚な白い花を咲かせ、眼を楽しませてくれる。奈良の旅で気に入り、昨秋、種を蒔いた「レンゲ」もきれいに咲いてきた。

 去年は「スミレ」、今年は「忘れな草」の花盛りだ。
 もともと、花の名前がわからず、聞いても忘れる私には名前の知らない花々が、次々に咲いてくる。
「ウツギ」は、冬の間は、枯れ木で、枯れたのかと思っていると、春を迎えて、瑞々しい葉が伸び、可憐な花を咲かせる。植物の生命力の強さを感じる。
 子供が小さい時、泊まった戸隠のペンションで、苗木をもらって植えた「白樺」は、大きく育って我が家のシンボルツリーになった。この木を見ながら四季の移ろいを感じる。庭から採れる果実は、ジャムや貴重なビタミン源になる。

「ゴーヤ」は緑のカーテンとサラダになる。四季折々の植物は、食卓を豊かにし、見る人に豊かな感情を与えてくれる。我が家の庭もそうだ。

 庭も人生と同じ、愛でているばかりでなく、種を蒔いたり球根を植えたり、水やり、雑草取りなど、日々の管理が欠かせない。
 やがて春が過ぎ、夏の花々が咲き、秋には秋の花が、そして冬が来る。四季の庭の花々を見ながら、自然の営みを人生になぞらえて、ふと物思いにふける。


        写真:Google写真・フリーより

父の遺したもの = 桑田 冨三子

 父は37歳で死んだ。わたしが6歳の時である。

 それは、古びた焦茶色の本であった。手に取って扉を開くと、微かなにおいが拡がった。きらいなにおいではない。古い本を開いた時の、あの、なんとも言えない懐かしい香りである。
文庫本より、ちょっと大きなこの本には、硬い表紙がついており、ドイツ語の古い書体で「ディ・ライデン・デア・ユンゲン・ウェルテル」と書いてあった。
 ゲーテの「若きウエルテルの悩み」である。

 父の名は徹爾(とおる)である。子どもの頃は「とーさ」とよばれていたらしい。

「とうさは、よう、東大(トウデャ)んなんかへ、入った(ヒャアッタ)もんだ。昼間は田圃しながら、夜は勉強していただ。居眠りしないよう頬のそばに、錐を逆さにおったててさ、眠るとほっぺたに触るようにしてただよ。
 とうさはこの村で初めて東大にひゃあった人なんだ。ひゃあった後も、休みというと戻ってきて、肥担ぎなんかをして、たあんと手伝ってくれただよ」

 田舎へ帰ると伯母が、よく、そんな事を言って亡き父の事を褒めてくれた。父は大学を卒業後、満州鉄道のエンジニアとして働く事になり大陸に渡った。

 戦争が激しくなった頃、会社の出張で東京に来て、米軍の激しい空襲に遭遇、滞在していた赤坂の山王ホテルで殉死した。伯父がその確認のため東京へ呼ばれた。変わり果てた弟の姿を見て伯父はこう言ったそうだ。
「まったく、がっかり、だったよ。一体何のために、あんなに勉強して東大へ行ったのか、全部、水の泡だもんなあ。家だけでなく、村の衆がみんなして、希望の星にしていただに、これからという時に死んじまっただ」
 それから何十年も過ぎたある日、わたしは、年老いた伯父に呼ばれた。
「これはな、とうさの生きていた証(しるし)なんだよ」
 大事そうに取り出したのが、この本であった。
「これはお前にはやらないよ。とうさは、この家から出た人だから、これからもずっとこの家に置いておくだ」
 神田の街を歩いているとき、気に入った古本に出遭うことがある。
 そんな時はかならず本の扉をそうっと開いて、父の愛読書だったあの一冊の香りを、密かに懐かしむ事にしている。