元気100教室 エッセイ・オピニオン

きりぎりす = 桑田 冨三子

「きりぎりす なくや霜夜のさむしろに衣かた敷き独りかも寝む」


 百人一首で聞いた歌だ。
 今までは「恋人に逢えない一人寝の寂しさを吟ずる作者はさぞかしイケ面の若い公家で、金色刺繍を施した派手な衣装をまとい、傍のきりぎりすの緑が映える美しい絵」と想像していた。

 ある日、ふと、「きりぎりすはそんな寒い冬に居るのかな?」と不思議に思い、調べたところなんと、「こおろぎ」の事を、昔は「きりぎりす」といっていたそうだ。

 なるほど。こおろぎなら、この寒そうな筵の部屋に居ただろうな。これまで想像していた華やかな絵は跡形もなく消え去り、後にはしょぼくれた男が筵の上に衣を敷いてすわり一匹の小さな黒い虫が一緒にいるという、淋しい墨絵が残った。


「蟻ときりぎりす」の話がイソップにあるが、きりぎりすは、お洒落なタキシード姿で、夜じゅう音楽を奏でるアーティストらしく描かれている。プライド高い音楽家だから、冬になって働きものの蟻の家へ行って食べ物を請うなど、とてもつらかったろうに。それとも「武士は食わねど高楊枝」と、我慢したのかなあ。タキシードのきりぎりすには、なんとなくそんな想いをよせている。


 昭和の終り頃、母についてパリ、コレクションに行った時のことだ。グランド・ホテルでファッション・ショウが開かれた。デザイナーは久しぶりに戻ってきたイヴ・サン・ローランであった。ショウの最後を飾ったのは、思いもかけない、男性の燕尾服を基に巧みに変身させた女性のイヴニング・ドレスである。とっさに私は思った。

「あ、きりぎりす。」
 それは、まことに優雅な女らしい雰囲気が漂う見事なスワロー・テイルで、病後のサン・ローランの復活を憂いていた会場を一気に魅了した。「天才、サン・ローランは健在」と、居並ぶ観客たちは安堵した。

 以前、ディオール後継者のジョン・ガリアーノが、カモシカの美しい線を取り入れ、天才的なデザイン力をしめした事があったが、今度はきりぎりすの番だった。羽や身体の曲線、脚の直線と鋭い角度などが見事に取り入れられ気品高いクラシック・エレガンスを創り出していた。

 自然界の虫には、人間の思いつきをはるかに超える美しい線を持つものが沢山居て、これは航空機や自動車などの工業デザイナー達に大きなヒントを与えているのは周知の事だ。


  イラスト:Googleイラスト・フリーより

出前授業 = 石川 通敬

 トランプ大統領の出現は、戦後70年間世界をリードしてきた価値観を根底から揺さぶっているように見える。

 私の関心事は、これがこれまで喧伝されてきたグローバル化時代の潮流を変えることになるのかという点だ。こんなことを、心配するのはここ5年ほどかかわっている小、中、高等学校生への「出前出張授業」というボランティア活動のスタンスに関係するからだ。


 この活動に参加することを決めた遠因は、退職後二つの女子大で10年間教えたことにある。10数年前「グローバル化」という言葉が一世を風靡した。
 私も乗り遅れてはいけないと思った。授業を通しこれを教え、グローバル社会で生き抜くすべを教えるのが使命だと考えたからだ。

 更に授業だけでは不十分と思い、大学生のために、「グローバル社会を生き抜く」というタイトルで本を書き、アマゾンから売り出した。
 しかし売れ行きは良くなく、改訂版も出し3年ほど頑張ったが、期待した結果は出なかった。
 そうした時、『DF』という社会人OBが集まる団体の中に、出前出張授業チームが結成されたことを知った。私は本で訴えたかったことが直接若者に伝えられるよい機会だと思い早速参加した。

 出前出張授業という言葉は、一般的には聞きなれない。わかりやすく言うと「社会人が講師として学校に出向き、仕事で得た知恵やノウハウを生かし授業を行うこと」だ。
 なぜ、我々が助っ人として期待されるのかというと、今教育界が抱えている課題解決に役立つと思われているからだ。

 目的は、二つある。
 一つは生徒たちの進路指導の応援である。もう一つが日本人に共通する「発信力がない」といわれる問題点の克服策支援である。
 日本では伝統的に「出る杭は打たれる」「沈黙は金」」等という価値観が尊重され、我々の行動、発言をマインドコントロールしてきた。

 最近日産のカルロス・ゴーン社長が、日経の私の履歴書で次のようなことを書いている。「日産とルノーのアライアンス・ボード・ミーティングを初めて開いた時、会議でずっとしゃべっていたのはフランス一人だった。
 他の日本人は静かに聞いていた。だから私はフランス人には「仲間の意見も聞こう」と言い、日本人には「もっと意見を言って」と促したものだった」と。

 DFのチームに参加してよかったと思うのは、授業後に生徒が書いてくれる講師あての感想文から生徒の反応が直にわかることだ。感想文に「海外で仕事をしてみたくなった」とか「スイスの話は面白かった」などと書いてあると、授業を準備してきた苦労も報われたとうれしくなる。

 出前出張授業の様子を、ある記事が次のように紹介している。「普段の授業と違うから楽しいというのではない。参加している子どもたちの目の輝き。先生がたが一生懸命にフォローする姿勢。それらがうまく解けあったとき、大きな成果が生まれる」と。

 まさにその通りなのだ。これを、ワークショップ型授業で実施すると効果は倍増する。これも聞きなれない言葉だ。

 簡単に言うと、先生が一方的に話す講義型ではなく、先生と生徒が対話する形で進める授業なのだ。ハーバード大学のサンデル先生がテレビでやっているような授業もその一つだ。私の場合は、自分が経験した「インドネシアに銅線工場を建設する」というテーマを使い総当たりで対話させるのだ。

 具体的に言うと、クラスの生徒を「社長」「販売部長」「総務部長」「製造部長」にグループ分けする。生徒は、それぞれ自分の役割が何か検討し、その結果を、グループ内で討議。最後にクラスメンバーに発表するという授業形式である。


 その効果は確かだ。例えば、ある女子高校で年間7回のワークショップを実施した結果だ。四月にはほとんど何も話せなかった生徒達が、一年後の3月には大きな声で意見を述べられるところまで成長した。また、男子校の例では 授業終了後生徒たちが「今日は楽しかった」「学校はこのような形式の授業をもっと提供すべきだ」と喜び、興奮したのだ。

 こうした活動の中で、私には驚きの発見があった。ある公立中学の校長先生から、自治体の教師は一生同じ自治体内を転勤するだけ、と聞かされた時の衝撃は強烈だった。彼らには海外転勤はなく、国内の転勤すらない。公立校の先生達は異動を禁じられた江戸時代の農民と同じ状況に置かれているという事実だ。

 全国で公立の中学、高校の先生の人数は40万弱と聞く。ほとんどの教師は海外生活体験がないはずである。そうした実体験のない先生方が、グローバル社会への対応を指導できるのだろうかと、素朴な疑問を抱いたのである。

 最後に話をトランプ大統領に戻そう。仲間とも議論したが、我々の授業へのスタンスは変える必要がないというのが、私の結論だ。それは国際社会において、
「自分の意見が言えない」
 という日本人の弱点の克服は、大統領に関係なく世界中の人々を相手に生きて行かなくてはならない日本人にとって重要課題だからだ。

 因みに我々のメンバーは30人弱、訪問する学校数は高校を中心に小、中学校25校。参加生徒数は、年間延1万人。規模では二階から目薬の状況だ。それでも、一人でも多くの若者がグローバル社会を力強く生きてゆけるようになることを期待して皆頑張っている。

 イラスト:Googleイラスト・フリーより

パパの小言 = 林 荘八郎

 いつもの夕方の散歩の時間になった。                     
「パパ! そろそろ出かけようか!」
 ママのかけ声で腰を上げる。散歩と言っても、ほんの少し家の外へ出るだけだ。用を果たすだけの外出だ。家のそばに小さな花畑がある。土の匂いを嗅ぐとオレは催す。そして用を果たす。後始末をしないまま、ママと一緒に急いで家へ戻る。


 オレは体高二十センチにも満たない小型犬のチワワだ。年齢は、多分十歳くらい。なぜ一緒に暮らし始めることになったのか、何処で出会ったのか分からない。多分、ご主人が亡くなって、毎日がさみしかったころ、ペットショップでオレを見つけたのだろう。その頃は小さくて可愛かったはずだ。そしてパパと名づけて大事にしてくれている。楽しい二人暮らしではある。

 住いは横浜郊外の海辺の小さな町だ。漁師町のため、昔から犬よりも猫の方が大事にされてきた。ヤツラは自由で、鎖に繋がれることもない。我が物顔で町の中を行き来している。三毛猫なんぞは女王気取りのように見える。それにしても恋の季節のヤツラはうるさい。ヤツラに比べると、犬は恋もままならない。だから町内で子犬が生まれたという目出度い話もないし、近所には子犬がいない。オレは高齢者なのだ。仲間も同じだ。隣の家では、オヤジも犬もヨボヨボだ。このあたりは人間も犬も揃って年寄り社会だ。

 オレはそんな町で暮らしている。

 エサは通信販売で買ってもらう缶詰品だ。メニューは豊富で、まぐろ味、かつお味、しらす味、とり味などがある。レトルトもある。スナックもある。オレはこれらの加工食品の味しか知らない。ママの食事の残り物を食べることは滅多にないからだ。

 ママが元気だったころは一緒に遠くまでお出かけした。散歩に出かけるとシベリアン・ハスキーやゴールデン・レッドリバーなど、見上げるような大型犬によく出会ったものだ。今は彼らには滅多に出会わない。町内の知り合いは小型犬ばかりだ。すっかり小型の世界になった。恐い大型犬がいなくなったのは、なぜだろう。


 恐いといえば、ここは車が恐い。閑静な町だが朝夕には多くの軽自動車やバイクが猛スピードで通り抜ける。オレの散歩コースはどうやら彼らの抜け道らしい。背が低いので車はデカく見える。それが通り過ぎる時は本当に恐い。あの大型犬よりも恐い。そのうちに誰かが犠牲になるだろう。事故が起こる前に何とかできないものかと思う。

 昨今は犬の糞の始末にはうるさい。オレが用を足すのは近所の花畑だ。最も快適な所だが、用を果たすと、ママはそれを見て見ぬふりをして、さっさと家へ戻る。だって町内はいたるところ舗装されているので、糞をした後、足で土を蹴って隠すこともできないからだ。気持ちよく用を果たし自分で始末できるところは、今やなかなかないのだ。

 その畑でせっせと花を育てて楽しんでいる老人がいる。その人には顔を合わせると睨みつけられる。どうやら糞の犯人がオレであることを知っているようだ。咎められたことはないが、あの人には嫌われているな、と、ひと目で分かる。おまけにあの人には、

「犬の分際で、人間様にケツを拭かせる不届きな奴」とも思われているみたいだ。
 あの人は苦手だ。

 ふと思うことがある。人間って勝手だ、と。
 子犬がいないのも、缶詰のエサばかり食べさせられるのも、小型犬ばかりの世の中になったのも、危険な車が多くなって、安心して町の中を散歩できないのも、気持ちよく糞をできないのも、みんな人間の勝手ではないのか。

 人間が作ったこの世相も環境も好きではない。犬にとっては住みにくいのだ。

 オレは寒くもないのに毛糸のセーターを着せられている。仲間も同じだ。先行き長くない気がする。飼い主も犬も医者通いだ。こんな暮らしで、こんな姿で長生きはしたくない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

人形たちの供養 = 金田絢子

 わが家のちかくに、急勾配の「天神坂」がある。ちなみに坂の名の由来は、菅原道真の祠があったからとされる。
 ずっと以前、買物の帰りにこの坂をのぼったことがある。坂に足を踏み入れた刹那、自転車に小さい子を乗せた母親が、ケイタイをかけながら猛スピードで降りてきた。私は「バカヤロウ」と怒鳴った。
 こうした手合いには、あれ以来会っていない。それは私が歳をとって坂を避けて歩いているからかもしれない。

 うちの周囲は坂の多いところだが、天神坂は急な点で群をぬいている。それでも清正公(覚林寺)のお祭りには、日頃人もまばらな坂道に露店が並び、大勢の人で賑わう。

 坂をあがりきったあたりに、どことなく時代がかった葬儀社がある。昨年(平成二十八年)の十月下旬に、たまたまその前を通りかかった末の娘が、いい知らせを持ってきた。

 お払い箱にしたい人形の供養をしてくれるという。私がかつて何体か持て余している日本人形があると話したことがあった。店の貼紙をスマホに写してきて見せてくれた。カラーの写真がついているが、殆どがぬいぐるみなのにびっくりする。目を凝らすと、赤いおべべの日本人形も写っているので安心した。

 受付は、十一月五日土曜日十時半からである。うちから、坂のてっぺんまでまっすぐに行ける平らな道があるので具合がいい。

 私は、ベッドわきの人形ケースを引き出し、俄かに忙しくなった。人形本体だけを持ってこいという。人形はいずれもケースの床から、ひきぬかないとならない。人形がそんな風にして立っていたのだと、初めて知る。

 四、五日して葬儀社を、前もって見ておこうと思い立った。案内を乞うと男の人と女の人と二人出てきて、愛想よく応対した。
「じゃあ、十時半に持ってきます」
「お経は三時半からです。三時ごろお持ちになってはいかがですか」
「お預けしてすぐに帰ってはいけませんか」
 と私が質問したからである。


 さて、私が物事を処すのに、誰の手も借りずにやるなんて、未だかつてない。多分に、緊張していたのか、興奮していたかのどちらかである。落ち着かない気持ちのまま、その日が来た。
 都合よく、納戸にあった紙袋に人形を入れ、ごく小さいトートバッグに二千円の入った封筒を入れた。“いざ出陣”である。ところが着いてみると
「(供養は)あしたですが」
 と言われた。
 あがっている証拠に、土曜だと早合点して颯爽(?)と家を出たのだ。幸い、「お預かりします」と言ってもらえた。
 既に事務所の隣の部屋に、お布施の箱が置かれ、祭壇も準備されていた。丸いテーブルがいくつか並んでいる。茶菓を振舞うからだろう。

 私は、まだ二つ三つある日本人形と、ぬいぐるみの行く先きを思って、こうした催しは来年もあるのかと尋ねた。これまでにもずっと行なっているのだという。天神坂が難所でなかったら、貼紙に気がついた年だってあったに違いないと思うとちょっぴりおかしかった。

 今回、ひと仕事終えてよかったと、胸なでおろしながら、なにかしら淋しかった。長く一緒に暮らした人形たちへの、愛着のせいだったろう。


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

生(なま)が最高 = 和田 譲次 

 生が好きだというと、皆さん方は、私がビールは生を好み、新鮮な魚介類や肉も生で食べるのが好きだと思われる。飲食に関わることではなく、音楽や演劇など趣味の世界のことである。

 私は、生まれついての音楽好きで、聴き手だけではなく自分で音も出している。仕事や諸団体の活動を離れた今、音楽が生活の一部どころか殆どを占めている。
先日、中高時代の仲間との昼食会の席で、私が注がれたビールを殆ど口にしないのを気にして、となりに座った西村が、
「体の具合が悪いの」
 と、心配して声をかけてきた。

「このところ体調は安定しているよ」
 仲間に心配させてもいけないと思い、音楽会のチケットを取り出して見せた。


「夕方から音楽会があるので飲めないのだよ」
「なに、これオーケストラのコンサートが二万円以上もするの」
 と、あきれられた。CDやDVDなら二、三千円で同じ音楽が聴けるのにどうして、そんなお金を使うの、などいろいろな意見が出た。
「ライブの魅力にはまってしまったのだよ」
 と、会場で聴く音の魅力をといた。
「わかるな、私は落語は寄席で観るのが好きだ」
 と言う意見に続いて、
「私は歌舞伎が好きで、良い席が取れなくても歌舞伎座で観たいわ」
 と言う女性の発言の後、テレビ観戦か現場へ足を運ぶかと言うことで議論が沸いた。

 年寄りのサッカーファンがいて、まずスタジアムへ足を運び、勝った試合は後でビデオも見るという。サポーターの中で大声を張りあげて応援することが自分の健康の維持に役立っていると言う。

「音楽会場や芝居小屋でも、多くの聴衆の中で観たり聴いたりしたほうが臨場感があり。気持ちが高揚するよ」
 と言う私の意見でひとまず議論は収まった。
 少し体調が悪くても、前もって購入したチケットがあれば出かける。どうしてこんなに熱心になったのだろう。歳をとるごとにこの傾向は強くなってきている。


 この二十数年の間に東京には、サントリーホールをはじめ、オペラシティ、ミューザ川崎など、世界的にみても一流のコンサートホールが出現した。ここで、オーケストラ音楽を聴くと、今まで聞きなじんでいた音楽のイメージが一変する。全身が音に包まれ、自分も演奏に参加しているような気分になる。
 良い会場のおかげで、そこで演奏するオーケストラのレベルも向上し、東京のメジャーのオーケストラは欧米一流のそれらと比較して、見劣りしない音が出せるようになった。このような状況の中で、今、オールド音楽ファンで音楽会場があふれている。興行者たちもこの事態を見て、平日の昼間の公演を増やしてきている。

 私がライブにこだわるのは、音楽や芝居など、観客の中に身をおくと、お互いに脳からエネルギーを発散しているようで、会場内が熱いムードで覆われ、高揚感がましてくる。間合いの静寂、終了時の熱狂、知らない人同士でも「良かったですね」と言葉を出さなくても通じ合っている。

 昨年一年の日程表を見ると、音楽会に五十回以上通っている。中には招待いただいて出向いたものもあるが、半病人ながらよく出かけたものだと思う。このほか。音楽会への出演、そのための練習などもあり、おおきな楽器を抱えて出かける私を、家内は不安そうに見ていたが、今では気にしないどころか安心している。音楽に関心が薄れたら先が長くないと判断しているのだろう。

 私は生身の人間だ。家で静かに読書や音楽を聴く姿は私らしくない。仲間と好きなことに取り組んでいたほうが体にはよさそうだ。
                                 (了)

私と酒 = 青山貴文

 夕焼け雲が、真っ赤な空に浮かんでいる。
 二階の書斎は、内壁や棚が暖色に染まり、居心地がよい。 私は、小さなグラスに赤ワインを注ぎ、それを夕陽にかざして軽く乾杯する。ワインがなければ、ブランディ、吟醸酒、ウイスキーなど、アルコールであればなんでもよい。夕暮れを愛でながら、明日の晴天を期し、何ともいえないいい気分になる。

 こんなことを書くと、私は酒飲みと思われるが、元来アルコールに弱い。母方の家系に似たのであろう。酒を飲めない祖父が、酒造りを創めて失敗した。もっともなことだと思う。

 19歳のころ、東京麻布の仙台坂の酒店に住み込んで働いていた。当時は、ビールをコップに3分の1ほど飲んで、気持ちが悪くなり吐き気をもよおした。アルコールの入った飲み物は、身体が受け付けなかった。ビールよりも冷水の方がよっぽど旨かった。店主にとっては、盗み飲みもしない良き働き手であったと思う。

 社会人になっても酒席は苦手だったが、飲むことが仕事と割り切って、うまくもない酒を飲んだ。
最初のコップ一杯のビールは水よりうまい。二杯目からは、顔が紅潮し、さらに心臓の鼓動が早くなる。
 その内、ゆったりした話声は、図太く早口になってくる。ビールの味などわからない。そうこうする内に、日本酒が運ばれて来る。同僚と差しつ差されつするうちに、酒の弱さを隠すように大声を張り上げる。
 ところが、会社を辞めてから、アルコールが入ったものなら、何でも好きになってきた。飲むほどに、小さなことはどうでもよくなってくる。部屋が乱雑であろうが、予定どおりことが進まなくても、影口を叩かれようともなんでもない。私はほんわかして、すべてを許してしまう。

 アルコールに弱いから、少し飲んでも直ぐ眠くなる。安上がりの眠り薬だ。数時間で目覚めると頭がすっきりして全てに積極的になれる。

 一方、親父は、アルコールが強かった。酒豪ではないが、酒がすこぶる好きだった。特に日本酒に目が無かった。若い頃は、ご飯に日本酒をかけて食べたというくらいだ。ビールでは酔わないと言い、もっぱら日本酒を飲んだ。独りで一升瓶をあけたこともあったという。
 ただ、酒癖が悪かった。普段、無口でもの静かであったが、酒を飲むと口数が多くなった。理屈っぽく、相手の弱いところを突いてくる。昔の些細なことを、ぐだぐだ言いながら際限なく酒を飲む。自然と、友人は寄り付かなくなる。

 小学生のころ、立川の集合住宅に住んでいた。父が飲みだすと、わたしたち家人は彼を無視した。すると、父は絶え間なく意味不明のことを大声で一人で喋る。薄壁の向こうの隣人はいたたまれなかっただろう。子供ながら、こんな父を持つことが恥ずかしかった。年中付き合わされた母の苦労は大変だったと思う。

「酒は人を狂わせる。お父さんみたいになってはいかんよ」
 と、母は、いつも私にささやいた。
 私は、酒飲みには絶対ならないと心に決めた。

 父は、終戦後、再就職した町工場で大怪我をして、両手とも義手をするようになったが、81歳まで生きた。『人生50年』と言って、いつも飲んだくれ、母を困らせていたが、持説より30年も長く生きた。
 酒の力で生き、働き、そして、私を私大に行かせてくれた。そういう意味では、酒の効用はあると信じている。
 父と同じDNAを持つ私は、会社を辞めてから酒の美味さを知った。このDNAの体質が、もっと早く出て来なかったかと恨んだものだ。

 最近は、ウイスキーでも、小さなグラスなら、顔が赤くならなくなったらしい。夕方、ウイスキーを少し飲んで階下におりていっても、誰にも気づかれない。
 これは愉快きわまりない。
「了」

これってインチではありませんか。天下り天国か=遠矢 慶子

 日本の車社会は1970年頃からで、あっという間に車優先の社会が作り上げられた。

 路面電車はほとんど消え、大きな量販店は郊外に移り、車なしの生活が出来ない地域が増えた。そんな中で、仕方なく高齢者ドライバーは増え続けた。

『83歳の女性の運転する車が歩道に突っ込み、男女二人死亡』
『87歳の男性の運転する車が、小学生の列に突っ込み男女二人死亡』

 高齢運転者の交通事故が、毎日のように報道され、社会問題になっている。 私も、2、3年前から、夫や子供たちから運転を辞めるようにうるさく言われてきた。
「大丈夫、遠出はしないし、夜は運転しないし」
と、車を手放す気にはなれなかった。

 ただ、なぜか車体のあちこちに、知らない間に擦り傷があり、そのうえ車庫入れなどで運転感覚がにぶっている。
 それでも、視野が狭くなる身体的なことと、自分の経験や技能を過信していたことは事実だ。

 こうした高齢ドライバーのデーターを参考に、最近は免許証の自主返納の促進策が叫ばれている。

 昨年、終の棲家、便利なマンションに移って、車の必要性もなくなり、55年の車の運転も終わりにした。
 免許証も、ついにあと1か月で切れてしまう。

 やはり手放し難く、返納して運転歴記録の申請をすることにする。
 免許証と写真を持って交通安全協会に行った。
「証書代1000円と写真代700円です」
「ここに写真は持ってきたのですが」
「6か月以内の写真ではないのでダメです。免許書とまったき同じですから、撮影日は古いですね。ここで撮れば700円ですが、隣のスーパーは800円とられますよ」
「免許証として使うわけでもないのに、6か月以内とはきびしいのですね。それで申請をして、これはなにに使えるのですか」
「さー、シニア割引とか・・」
 あいまいで、首を傾げる。何のために発行しているのか、まったく熟知していない。
「返却すると3万円もらえる市町村もあると聞きますが、葉山町は何か特典がありますか?」
「何もないです。ご自分の運転歴を証明するためです」
 と本音をおしえてくれた。
「マイナンバーと、どう違うのですか?」
 わたしは強い疑問をおぼえた。
「マイナンバーを持っているなら、これは必要ないですね。これはご自分の運転歴を10年間証明するだけのものです」
 事務員の話を聞いて、実にバカらしくなってきた。
 何のため1700円も出して、使えない免許を作るのか。運転歴なら自分が知っている。
「それなら申請やめます。この1000円の証書もお返しします」
 と言って、写真代とも1700円を返してもらう。

 交通安全協会のために、使えもしない免許歴証明を1700円で買うこともないと思い直し、腹が立てきった。このお金は何に使われるのだろうか。
 交通安全協会は、名前はもっともらしいが、警察署長らの定年後の就職口のために作り、運転免許の申請の仕事をしている。かれらの高額な給料にまわるのだろうか。
「免許証自主返納という制度を作って、運転を辞めようとする老人にたちに、免許履歴をちらつかせ、最後まで、お金を取ろうとしている。それが見えみえだ。

 金取り仕事の「交通安全協会」だ。言い過ぎだろうか。これが交通行政か、考えるほどに腹立たしくなってきた。

 免許証は、これまで、身分証明の代わりに使われてきた。生活習慣になっている。マイナンバーははそれに代わる身分証明証だ。国民にまだ浸透していない。
 年配主者は新規なもの、個人情報にたいする警戒心から、その申請に躊躇(ちゅうちょ)している。マイナンバーが浸透まで、数年はかかるだろう。その狭間を狙った、ずるい行政のやり方だ。

 交通安全協会で、『マイマンバーは身分証になります。それでも、運転履歴の証書を必要としていますか』 と親切なマニュアルをつくれば、申請者は半減以下になるだろう。解っていながらやらない。悪質とはいえないにしろ、ちょっとひどすぎではありませんか。
 警察行政のお偉いさん。年金生活者の立場、弱い者の立場に立ってちょうだい。
  
 政府は、いまや高齢者の免許返納の課題視野にして、ライドシェア(自家用有償旅客運送)とか、完全自動運転の規制緩和をすすめている。また、地域ごとの対策も考えられているが、実用化には、時間がかかりそうだ。

 私はこのところ期限の切れた免許証をみせて、美術館の割引を受けているし、映画館のシニア割引の証明にもなっている。
 写真がついているし、住所、年齢と身分を証明するには充分だ。65歳以上、70歳以上の証明は、古い免許証でも、生年月日がわかるから有効だ。

 いま持っている免許証に『免許・返納済み』とハンコを押せば、その手間もお金もかからないはずだ。新規に作る1700円など、まったく必要もない。それが親身な行政だとおもう。

 お役人の天下り対策は、もういい加減やめにしましょう。弱者や高年齢者を敵に回さないでください。

  イラスト=Googleイラストフリーより

新年に想う = 青山貴文

 庭の南天の赤い実がひっそりと輝いている。

 元日の朝は何かが違う。なぜか身と心が引き締まる。庭木に飛んでくる雀たちの鳴き声も、ガラス戸の居間を覗きながら通り過ぎる野良猫の顔も、いつもとは異なるように感じられる。

 ふだんより丹念に化粧をした妻と、お神酒を飲み交わし、お雑煮を頂きながら思いを馳せる。

 昨秋はスピード違反で捕まり、さらに免許証の有効期限が切れていることが発覚して、ひどい目にあった。
 今年は小さな約束事も忘れないように、日記帳の片隅に前もって記帳しよう。その日が来れば、必然的に判る仕組みだ。これは、昨年の後半から励行し、効果をあげている。何しろ、記憶力の減退は、自分ながら恐ろしい。

 しかしながら、記憶が極端に薄れていくなかで、心に響くことはしっかり覚えているものだ。数年前に読んだ本の一節だが、忘れっぽくなった脳裏の隅にこびりついて、何かの拍子に出てくる。紙面に記すにはお粗末であるが、読者諸氏には知らせないわけにはいかない。
 私はそんな一途な性格がある。

 その一節とは、次のような一齣(ひとこま)だ。
「結婚披露宴には祝辞がある。面白くもないスピーチが延々と続くのはお互い閉口する。『スカートとスピーチは短いほうがよい』そういう気のきいたことを言った人があった。『いやどちらも、なければもっといい』というけしからんことをつぶやいた紳士がいる」
 このごろの私は、そのけしからん紳士に似てきた。

 妻が、なにかというと、
「あなたは品性がない」
 と言うが、実に的を得ている。

 今年は、昨年以上に、自分とはいかなるものか、大いに描こうとおもっている。しかし、生真面目なものはどうも書けない。
「あと十年もすると、エロ爺となっている」
 時たまやって来る明るい嘘をつけない保険勧誘員の立花さんに、私の行く末を話すと、にこにこして決して否定などしない。                
 

緑の歓談 = 青山貴文

 梅雨の晴れ間に広がる青空に、白い雲がわずかに浮かんでいる。久しぶりの上天気だ。おまけに、この時期には考えられない、高原を吹くような乾いた風が肌に心地よい。

 玄関の呼び鈴で出てみると、大手証券会社の高木耕輔君で、20歳代の若者だ。数日前に、きょうの来意の連絡があった。

 私は数年前から、異分野の若い方と、いろいろ話す機会を意図的に作ってきた。わが家にやってくる営業マンの中から、元気で馬の合いそうな数人の方に、
「私は技術屋ですが、現役のころ営業にでていたんです。営業マンは、止まり木をつくるとよいと先輩から教わり、当時から、時間ができると、気軽に訪問できる顧客を作るように心がけていたものです。会社を辞めても、止まり木だった方々との付き合いが長く、いまもってメール交換などしているんですよ」
「止まり木ですか」
「そうです。その止まり木の一つに、わたしを考えてください」
 なにかにつけて、そんな風に話している。

 そんな経緯もあって、数人の男女の若い営業マンが折を見て、わが家にやってくる。むろん、私にすれば、居ながらにして、最新事情を聴ける情報網となる。
 高木君にたいしても、
「金融界にいる方と話すと、活字を読まなくても、いろいろのことがわかり、すごく勉強になります。夏の暑い日や冬の寒い日には、あるいは困ったことがあったら、わが家に立ち寄りなさい。お茶でも飲んで、語らいましょう」
 と事あるごとに誘ってきた。

 きょうの高木君は大きな鞄をさげ、力なく肩をおとしていた。高木君は、このところの株安で、苦しい立場にあるらしい。お客から、きっと、いろいろ苦言をいわれているのであろう。株など、また上がってくるものだ。
 そう言いたいところだが、彼の顔の表情からしても、きょうはこの話題をしないことにきめた。

 ひとまず、わが家の南向きの客間に案内する。軒下近く植えた楓の樹が、大きく成長して、葉影を伸ばし、6畳間の客間はわりにうす暗い。
(高木君を元気づけるには相応しくないな)
 そう思った私は、障子戸を開け、さらにガラス戸も開けた。すると、網戸から光とさわやかな風が室内に入ってきた。
 
 ある考えが浮かんだ。

「きょうは残念ながら、話好きの妻が出かけていませんから、庭のキャンピングといきましょうか。この縁側から下駄を履いて、あの楓のそばの、椅子に腰かけて待っていてください」
 と芝庭の丸テーブルを指した。
 彼はすなおに踏み台の下駄を履いていた。

 私は、2階の書斎にある登山リュックから、携帯ガスボンベと取手のついた小さなポットを取りだした。その上で、水を入れた2リットル容器を階下におろす。片や、インスタントコーヒー瓶や2つのカップ、スプーンなども、お盆に載せて庭のテーブルに運んだ。

 ガスボンベに火をつけてから、ポットに水を注ぎ、湯を沸かしはじめた。この間に、台所の冷蔵庫からチョコレートを持ってきて、彼に勧めた。そして、2つのカップには、好みを訊いてインスタントコーヒを入れ、お湯を注ぐ。
「コーヒーには、チョコレートがあうんですよ」
 緑の濃淡の庭園で、ふたりして午後の陽射しをたのしむ。狭い庭だけれど、きょうの高木君にはきっと心休まる場所だろう。

 コーヒーを飲む一方で、時折り、椅子の背板ごとふんぞり返り、空を仰ぎみる。青い空、白い雲などがまぶしい。
「ここは、最高に気持ちがよいですね」
 彼は上着を脱ぎ、手足を伸ばし、周囲に目をやっている。
 楓の緑葉が陽光に当り、輝いている。それにも、こころを止めているようだ。


 若い頃、私はヨーロッパで、複写機用マグロールという磁石製品を拡販し、ヨーロッパ全土をくまなく飛び回っていた。

 顧客の中に、ディベロップ社という中堅複写機メーカーが南ドイツミュンヘンの郊外にあった。その副社長兼技術部長の家に、私はなんどか招ねかれたものだ。副社長だから、大邸宅かと思いきや、わが家の狭い庭とほぼ同じ広さだった。
 そこで、副社長は携帯ボンベでお湯をわかし、歓待してくれた。その奥様も語らいに加わっていた。いまとなれば、仕事の話などはすっかり忘れたが、歓談の光景だけは鮮明におぼえている。

 私は、高木君に、その体験談をゆっくり話して聞かせた。
「ヨーロッパのひとたちは、仕事もさることながら、生活を楽しんでいます。豪華なレストランに招かれるよりも、家族との歓談を考えてくれる顧客の方がうれしかった。いつか、あなたも海外にいくことがあるでしょう。私に似た体験もきっとするでしょう」
 こんな将来の話が、高木君の心にひびいたのか、彼の顔には、なにかふっきれた晴れやかさが戻ってきた。 

 この青年はいずれ結婚し、子供を持ち、いろいろな体験し、成長していくだろう。やがて、ある日、ふと、きょうの庭の緑陰の風景を思い出すかもしれない。そして、別の方法にしろ、年若い人にたいして、止まり木の場を提供する。そうなってくれると、うれしい。
 私はいつしか彼にそんな期待をしていた。

何時に帰る? = 遠矢 慶子

 今日も私はお出かけだ。
 夫は、月に一回の病院と近くの散歩以外、ほとんど出かけることがない。
 我が家では結婚以来、出かけるときは、お互いに玄関まで見送る習慣がある。
「勝手に出ますから見送らないでください」というのに、玄関までくる。
 女性は、出かけるまでに着ていく洋服で迷い、持つバッグに迷い、やっと玄関に出ると、どの靴にしようかと、またあれこれ迷う。その間、夫は突立って待っている。

 今日もやっと決めて出ようと、玄関のドアーを開けると、さーっと冷たいが爽やかな風が入ってきた。
(外は少し寒そう、やはりショールを持って行こうかな)と、あわてて靴を脱ぎ部屋に取って返す。
「行ってきます」
「何時に帰る?」
「分かりません」
「遅くなる時は電話して」
「‥‥‥」
 夫の現役時代、私も玄関で夫を送るとき必ず
「何時にお帰りですか?」と聞いていた。
「何時になるか分からない!」
 それが夫のセリフだった。


 あの頃、朝は10時か11時に家を出て、帰宅はほとんど日にちが変わる12時過ぎだった。

 私は、学校に子供二人を送り出すので、五時半に起きる。早朝、目覚ましが鳴るとたまらない、心臓によくないと文句を言う。
 一方、夜中の1時、2時に、夫が寝室に入ってきて明かりをつけると、いやでも私は目が覚めてしまう。
 そのまままた寝られればよいが、寝そびれる事も度々で、この時間のずれで、お互いに不機嫌になることもあった。

 30年前に家の建て替えで、夫婦別室にし、やっと解決した。
 それ以来、夜は一人で好きなだけ音楽を聴いたり、本を読んだり、自分だけの時間を堪能できるようになった。
 夫婦別室にすると、ベッドメーキングはそれぞれ自分でするようになり、楽にもなった。
 夫は無頓着で、起きた時の布団をはいだまま、その上にパジャマが片袖は内側に入って、とぐろを巻いて脱ぎ捨ててある。
 もう仕事もない暇な毎日で、私は見て見ぬふりをして、手を貸さないでいる。

 友人夫婦10人でクルージングに行ったとき、大型船のキャビンに入ると、ドーンと大きなダブルベッドが真ん中においてあった。
「大変! ダブルベッドよ、どうする!」
 妻たちは大騒ぎをした。
 慌ててメイドを呼ぶと、ダブルベッドを真ん中から二つに離し、サイドテーブルを両側に置いて、ツインに変えてくれた。
 私たちは口をそろえて、「良かったーどうしようかと思った」

 メイドのいうのには、外国の方たちは、ツインにすると怒り騒ぎます。外国の夫婦の在り方と日本の夫婦の違いをまざまざと知った旅だった。
 昔からタタミとフトンの生活をしてきた日本人は、子供を真ん中に、川の字に寝るのが、幸せな家族の象徴とされてきた。

 今夜は、オペラでも聴きながら、クリムトの画集でも楽しもう。
 隣室の夫は、またテレビをつけっぱなしで、グーグー寝ていることだろう。