レバー料理 武智 康子
先月中旬、久しぶりに上京してきた主人の弟夫妻を迎え、都内在住の妹も含めて、お台場のあるホテルの三十五階にある、鉄板焼きのレストランで会食をした。
ちょうど天候にも恵まれ、東京湾に沈む太陽を見た後、レストランに入った私達は窓越しに見える夕暮れの東京の街を見ながら、お互いの元気な姿にビールで乾杯、そして食事に入った。
前菜に続いて、いよいよ本番の鉄板焼きに入ろうとした時、四種類の「垂れ」がだされた。
丁度、私の後ろに立っていた料理長が、その「垂れ」について説明を始めた。
最初は、一般的なポン酢に胡麻垂れ、三番目はトマトを細かく刻んだものをオリーブオイルなどの調味料で和えたイタリア風の「垂れ」、そして最後の「垂れ」の説明を聞いた時、私の背筋に寒気が走った。
それは、レバーをベースに調味料と和えた「垂れ」だったのだ。
レバーと言う言葉を聞いたとたん、私の頭の中を約六十年前のことが、閃光のように過ったのだった。
それは、私が大学四年生の時のことだ。当時、生化学を専攻していた私は、教授から卒業論文研究に「カタラーゼの免疫学的研究」と言うテーマを頂いた。
カタラーゼは、呼吸酵素の一種で人体には不可欠の物質である。
しかし、当時、岡山大学の高原教授によって、カタラーゼを持たずに生存している人がいる事が、発表されたのだ。そこで、カタラーゼの人体での働きの研究が盛んになったのだった。はからずも、私もその研究の一端を担うことになったのだ。
私とペアの友人は、先ず、カタラーゼの結晶をつくることにした。それには新鮮な肝臓が必要である。私達は、教授がコンタクトしてくださった県営のとさつ場へ向かった。
勿論、私達はとさつ場に行くのは初めてだったが、門を入るなり、牛をたくさん乗せたトラックが目に入った。私達は、あの牛の一頭から肝臓をもらうのかと思ったら、何だかやるせない気持ちになった。
それでも、私達は勇気をふるい、事務所で手続きをとると、案内された控え室で肝臓をいただくのを待った。
外から時折聞こえる牛の鳴き声に、ブラインドの隙間から覗くと、遠くに見えたのは、トラックから降りようとしない牛の姿だった。
彼らも、本能的に分かっているのだろう。断末魔のような鳴き声をよそに、無理矢理トラックから降ろされていく牛達の姿だった。
なんとも落ち着かない風景に、実験に張り切っていた私達の気持ちは、だんだん萎えていくようだった。
それからまもなく、ノックされた控え室のドアを開けると、厚手のビニール袋に入れられた、ほんの今、殺されたばかりの一頭分の大きな肝臓を渡されたのだった。
受け取った私達は、新鮮とはいえ、生暖かい肝臓に顔を見合わせて、何ともいえない悲しい気持ちになった。一体、私達は今から何をしようとしているのだろうか、と考え込んだのだった。
気を取り直して、肝臓を冷蔵のバックにいれ、事務所の方にお礼を言うと急いで大学の研究室に戻った。そして、さっそく肝臓を切り刻んで実験に取り掛かったのだ。
「牛さん、ごめんね。」
と心の中で言っていたのを思い出す。
それ以来、私はレバーを食べる事が出来なくなったのは勿論だが、「レバー」と言う言葉を聞いただけでも、あの日のとさつ場での出来事が、頭の中を過るのである。だから、今もって、レバーの料理を作った事もない。
その日の「垂れ」にはレバーの形こそないが、レバーをベースにした事を聞いた以上は、私は、どうしてもその垂れに手をつけることは出来なかった。
主人をはじめ弟や妹たちは、珍しいお味でとても美味しいと言っていたが。
料理も進み、久しぶりの逢瀬に話に花も咲き、そろそろデザートが出る頃に近づいた時、ふと、窓の外に目を向けると、既に沢山のビルに灯がともり、眼下に見える東京の街は、星を散りばめたように輝いていて、その中で東京タワーとスカイツリーが、くっきりと浮かんでいた。
その美しい幻想的な風景に、レバーのために少し萎えかかっていた私の気持ちも、華やいできた。
そして、私達、兄弟姉妹が元気なうちに、また集まろうと約束をして夫々の帰途に着いた。
私達にとって、思い出となる夏の一夜だった。
Googleイラスト・フリーより