「良書・紹介」 出久根達郎著『恋の石ころ』 = 戦後80年の人生がここにあり
2023年の秋から出版された「出久根達郎のエッセイ」シリーズが、手もとに8冊ある。これこそ世の大勢の方に読んでもらいたい。第1冊目「千字の表うら」から、そのおもいが強かった。想う気持ちのまま、今日に至っておる。
「一千字」シリーズの延べ四冊は、一冊ずつ、古今東西の名作に対する、出久根達郎の鋭い眼力と豊かな感性による論評がなされている。わかりやすく、読者の心が引き寄せられる。見出しがとてつもなくうまい。度肝を抜かれた。ただ驚愕するばかり。
比べて私(穂高健一)は、出久根達郎が推薦する名作の図書で完読したものはかぎられている。本音を明かせば、完読、深読みした名作など一作もないのだ、といったほうが正確だろう。
それゆえに、出久根達郎の「一千字」シリーズは凄すぎて、このHPで「良書・紹介」として記事を書く前から、私にはどうにも手が付けられなかった。
それでも、あえて私が強引に、このシリーズを良書として紹介するとなると、作中の名作を羅列し、ひたすら間接法でうわべを記すにとどまる。それだと、出久根達郎の筆の精神が伝わらない。作者や読者にたいして失礼にもなる。
歳月は光陰矢の如し。あっという間に7冊が手元にたまってしまった。この間にも、圧倒されるばかりで、紹介できず心苦しかった。
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出久根達郎の近著『恋の石ころ』が八冊目として私にとどいた。2025年6月30日発行てある(写真の下段・右から2番目)。ことしは戦後80年だ、出久根達郎の人生80年が絶妙なる生々しい筆で描かれた作品である。
弟一章 石をかえす
第二章 私の東京物語
第三章 恋の石ころ
かれの幼少時からの展開だけに当然ながら文章が平易だし、とても読みやすく、ページを捲るたびに臨場感に満ちていた。楽しかった。一気に読むともったいないなと思うも、私とすれば同世代だけに世情・世相もわかるし、親しみ深く、おなじ目線であり、一晩で読まされてしまった。
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かれは茨城県北浦村という田舎の、極貧の家庭で生まれ育っている。とはいえ、終戦後は全国津々浦々の家庭は、いずこも食糧難で貧しいから、みんな明るい生き方ができた。子どもらは自然のなかで、遊び方をよく知っている。
山野にいけば、いまは雑草といわれようとも、当時は貴重な食糧だ。無収入・無銭でも生き永らえた。父親が印刷業を廃業し、小説・俳句など投稿のみで生きている。それを克明に描いている。
「この出久根家の貧乏家庭は品質が高く、味があるな」。さすが直木賞作家の父親だと感銘した。やや変わり種でも、そういう生き方ができた時代なのだ。
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中学を卒業すると、達郎少年は金の卵といわれた集団就職で、東京・月島の古本屋の店員として住み込みで働く。作中ではこの昭和三十年代のエピソードが、筆の上手さで、平明に快く推し進められていく。
やがて、恋をする。読者としては、達郎青年は独身時代には、どんな女性と交際したのか。奥さん以外の女性とは? 興味津々で目を凝らすも、映画館の銀幕に映し出される女優の列記で逃げられてしまう。ここは「夫婦ケンカ」を避けたのだろうか。まあ、当然だろうな。
ユーモラスなのは、求婚を承諾してくれた記念に、彼女の希望で「三越劇場」で高倉健の『八甲田山』を観たことだ。たしか零下四十度という酷寒の猛吹雪なかで、明治の軍人たちが訓練中に大量遭難する、という実話が映画化されたもの。深読みもすれば、若き頃の達郎青年はどこか高倉健に似ていたのかな。だから、この映画を記念に観たかったのかな。
結婚後は、「カミさん」という呼称だ。これは巧い。ぴたり決まっている。......細君とか。女房とか、今流のママとか、となれば、作品全体に幻滅を覚えるだろう。このカミさんが登場するたびに、きわだって作中から彼女が立ち上がってくる。読者として、次はいつ登場するのか、とめくるページに期待してしまう。
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独立して杉並区内で5坪という狭い古本屋を開業する。本が売れない。夫婦で食べていくのも難儀だ。「一人で食べられなくても・ふたりは食べられる」。夫婦はともに創意工夫をし、古本の出張販売、手書きの通信販売などで活路を見出す。しだいに登りつめていく。やがて、直木賞の受賞になる。
サクセスストーリーは、おおむね鼻持ちならないのが常だが、『恋の石ころ』はさわやかに読めるからふしぎだ。出久根達郎の生き様の底辺が苦労人だから、ごう慢さがない。周りにはやさしい。作家として大成功しても、庶民のなかに溶け込んでいる。それがなせる業だろう。
今、テレビや新聞などメディアは「戦後80年特集」で人物紹介が多い。これらジャーリズムの取材ものよりも、直木賞作家のみずからの筆による、リアルなショート・エッセイの連続作品のほうが、はるかに好感度が高く、楽しめるといえる。
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