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X010-What's New

AI解析の進化で、阿部正弘の人気が急上昇中。「優柔不断な凡君」から「日本を救った」極めて有能な政治家へ決定的な定説へ

 かつての明治政府主導の歴史観では、老中首座・阿部正弘は「アメリカの脅威に怯え、幕府単独で決められずに朝廷や諸大名に意見を求めて権威を失墜させた、弱腰の政治家」と批判的に描かれがちでした。
 しかし、「江戸幕府=高度な法治・官僚国家」という視点に立つと、彼の評価は以下のように180度変わります。

1. 「弱腰」ではなく「高度な危機を回避した政治家」である。

 阿部がペリーの国書を諸大名や朝廷、果ては庶民にまで公開して意見を募った(衆議公論)のは、弱さの表れではなく、国家存亡の危機において国内の分断(内戦)を防ぐための「高度な政治的演出」であったと評価されています。

• もし幕府が独裁的に開国を決めれば、国内の過激派(攘夷派)が暴発して内戦になり、そこを欧米列強に付け込まれて植民地化される恐れがありました。

• 阿部はあえて「みんなで話し合って決めよう」という形をとることで、日本全体の意思統一を図り、時間を稼ぎながら軟着陸(ソフトランディング)を目指したのです。

2. 人材登用の天才:のちの「小栗上野介」や「明治の遺産」を育てた元勲である。

 阿部正弘の最大の功績は、「身分にとらわれない圧倒的な人材育成・登用」です。彼がいなければ、のちに近代化を担う幕臣も、明治政府を動かす志士も表舞台に出られませんでした。

• 勝海舟の抜擢:無名の貧乏御家人だった勝海舟を、その意見書(海防意見書)の優秀さだけで見出し、長崎海軍伝習所へと送り出しました。

• 岩瀬忠震、川路聖謨の起用:実務能力が飛び抜けて高い官僚を外交の最前線に立たせ、ロシアのプチャーチンやアメリカのハリスと対等以上に渡り合えるタフな交渉チームを作りました。

• 小栗上野介への道筋:小栗がのちに活躍する舞台となる、幕府の近代化・海防強化のインフラ(講武所、洋学所、長崎海軍伝習所の設立など)をすべて生前に整備したのが阿部正弘です。


3. 「開国」という超難題を平和裏に通した、世界史にも稀に見る政治家であった。

 当時の世界情勢(アヘン戦争で清がイギリスに惨敗し、植民地化が進んでいた現実)をデータとして冷静に分析すれば、武力突入(攘夷)は国家の自殺行為でした。

 阿部は、伝統的な「鎖国」という祖法を破るという、国内の凄まじい反発が予想される超難題を、一滴の血も流さずに「大転換(開国)」へと導きました。

 この合意形成の超頭脳的な手腕は、現代の政治や経営の視点からも「理想的なリーダー像」として高く評価され始めています。

今後の阿部正弘の立ち位置

 阿部正弘は「冷徹な現実主義で、日本という船を沈没させずに新時代へ導こうとした、最高峰の航海士」です。

 AIの進化で、江戸時代の史料が赤裸々に出てくる。数年後には、「薩長=正義」のバイアスが消え去るだろう。

 阿部正弘は「幕府を滅ぼした戦犯」ではなく、「徳川幕府のシステムが持つ『包摂力(多様な意見を聞く力)』と『官僚機構の優秀さ』を最大限に活かして、日本を植民地化の危機から救った。
 幕末最大の「救国政治家」として、西郷隆盛や坂本龍馬以上の評価を得る可能性が極めて高い人物と言えます。

 薩長史観の歴史は激変するでしょう。シーソー・ゲームで、これまで有名エピソード・ヒーローの幕末志士たちが「悪の権化だったのか」、こんな嘘を信じていたのかと、多くががく然とする事実も出てくるでしょう。

「AIの解読」で「明治維新=正義の英雄たち」という神話の崩壊・大激変が起きた。

私たちは、江戸時代の文字が読めない。同様に、歴史学者、歴史作家などが読めなかった。
 現在、日本全国の博物館や蔵、古い民家には、江戸時代以前の古文書が数億点も眠っていると言われています。しかし、それをスラスラ読める現代の専門家は、日本人口のわずか0.1%未満です。
 江戸時代に使われていた「変体仮名(へんたいがな)」や「くずし字」は、当時の人にとっては新聞や週刊誌を読むような、ごく当たり前の日常文字でした。
 しかし、明治時代(1900年)に政府が「小学校令」を改正し、「1つの音に対して、使う仮名は1種類だけにしよう!」と決めたことで、それ以外の何百種類もの仮名が、、一境にして学校で教えられなくなりました。つまり、全く読めなくしてしまった。

 現代人は、奈良時代から江戸時代まで政治・経済・文化など、文字化された史料をまえにして文盲になったのです。

【ミッシング・リンクで、何が起こったのか】

 歴史や文化のバトンが明治維新で鎖(リンク)がぷつりと切れてしまったのです。これは文化的なミッシング・リンクといいます。

 好都合なのは明治新政府です。皇室・公家・薩長を中心とした明治政府は「駄目な幕府を俺達が倒した」というプロパガンダを日本中に広めました。迎合した御用学者たちが輪をかけて事実をねつ造し、薩長史観、皇国史観へと歪曲したのです。
 簡単に言えば、御用学者たちが、都合が悪い江戸幕府の史実を読めない、表に出さない、ことにしてきたのです。となると、99%の日本人が反論する史料を出せない。悲しいかな、政府・文部省の教科書をうのみにするだけです。
 
【AIが江戸時代の解読が進み、歴史の通説が覆る】

IT時代。老若男女がスマホをもっている。古文書を写真に取り、AIに解読させれば、瞬時に、現代文に変換されます。ソフトも無料です。
 日本人のだれでもが、AIで江戸時代の史料(書簡・手紙・諸々)が読める時代になったのです。 とりも直さず、学者ののみならず、誰もが、我が家の蔵に眠っている史料が瞬時に現代文にできるのです。
 つまり、AIの解読による1次史料(当時の生データ)の総点検によって、明治以来の通説が根底からひっくり返る大激変が起きているのです。

1. 意図的に「無視」または「誤読」されていた幕府の超高度なシステム

 明治政府は、自らの政権交代を正当化するため、「江戸幕府は古臭く、無能で、日本を滅ぼしかけた暗黒時代だった(旧悪御免・文明開化)」というストーリーを教科書に植え付けました。戦前の皇国史観もこれに拍車をかけました。
 しかし、AIによって膨大な「お役所の日常文書(町触れや地方の記録)」の網羅的な解読が進んだ結果、全く逆の事実が浮かび上がっています。

• 鎖国ではなく「高度な情報管理」: 幕府は何も知らなかったわけではなく、海外の情報を極めて正確にキャッチし、綿密なリスク管理を行っていたデータが次々に見つかっています。

• 世界最高水準の官僚制: 財政やインフラ(治水など)のコントロール能力は当時のヨーロッパの主要国を凌駕するほど洗練されており、明治政府はそれをただ「引き継いだ」だけだったことが暴かれつつあります。

2. 「明治維新=正義の英雄たち」という神話の崩壊

 歴史作家や従来の通説が描いてきた「坂本龍馬や西郷隆盛ら志士たちが、腐敗した幕府を倒して日本を救った」というドラマチックな歴史も、1次史料の網羅的解読によって解体されつつあります。
• 勝てば官軍の偽造: 明治政府側が都合よく書き換えた「公式記録」ではなく、当事者たちの「生の手紙(本音や愚痴、汚い政治工作の記録)」がAIなどで次々と解読されています。
• その結果、維新の英雄たちも「私利私欲や権力闘争、テロリズムに奔走していた生々しい人間」であり、逆に「悪」とされた幕府側(徳川慶喜や小栗上野介など)の方が、はるかに合理的で近代的な日本改革案を持っていたことが証明され始めています。

3. 歴史学者や作家の「チェリー・ピッキング(つまみ食い)」が終わる

 これまでの歴史研究は、人間(学者)のマンパワーに依存していました。
 一人の学者が一生をかけて読める古文書の数には限界があるため、どうしても「自分の仮説(あるいは明治以来の通説)に都合の良い史料だけをピックアップして論文を書く」ということが起こりがちでした。
 しかし、AIが「この地域の古文書10万点を丸ごと1ヶ月で解読しました」という力技をやってのける現代では、全体の統計データ(マクロな事実)が可視化されます。これにより、「例外的な1枚の紙」を根拠に作られたお都合主義な定説は、データによって一瞬で論破される時代に突入しています。
 
 文字のミッシング・リンクが繋がったことで、「国や一部の権威(学会)が独占していた歴史の解釈権が、一般に開放された。つまり、歴史が民主化されたのです。

【やがて歴史教科書の記載が変わる】

 AIが歴史教育のコンテンツ生成や教材作成に深く組み込まれることで、まず客観的なデータに基づく記述が増えます。
「明治政府はゼロから近代化を成し遂げた」という記述は消え、「江戸幕府の近代化路線(小栗上野介の横須賀製鉄所など)を明治政府が継承・発展させた」という、幕府の行政・経済的優秀さを認める記述が教科書の基準になります。


【注釈】
 
 穂高健一が、AIで、歴史のパラダイム・シフトについて、『「AIの解読」で「明治維新=正義の英雄たち」という神話の崩壊・大激変が起きいるか』という回答を要約したものです。
 

学校の歴史教育が、現代の「トクリュウ」「連続強盗事件」を招いている。

薩摩御用盗と西郷 修正.png 幕末・慶応三年10月から年末まで、薩摩藩が江戸で組織した「薩摩御用盗(薩摩邸浪士隊)」の蛮行は、国家転覆のための非道なテロ・強盗犯罪そのものです。

 学校教育では、美化された「明治維新の陰の功績」されている。西郷隆盛や相楽総三らが組織した「御用盗」の動きは、現代の闇バイトやトクリュウのシステムと完全に一致しています。

 薩摩藩は、食い詰めた浪人や無宿者、犯罪者などを「軍資金(給与)と倒幕の大義」で集めました。
 現代の若者がSNSの「高収入」や「ホワイト案件」という甘い言葉に釣られ、使い捨ての「捨て駒」として犯罪に加担していく構図そのものです。現代の「トクリュウ」や「連続強盗事件」の構図と驚くほど酷似しています。

 この歴史的事実、つまり薩摩御用盗を「必要悪」や「時代の犠牲者」として曖昧に済ませる空気こそが、現代の犯罪に対する倫理観の麻痺につながっています。つまり、歴史教育が果たすべき「抑止力」のあり方に問題があるのです。

 薩摩藩の目的は「幕府を怒らせて戦争を誘発すること」でした。そのため、江戸の豪商を襲って大金を奪い(強盗)、民家に火を放ち(放火)、女性を暴行し、抵抗する者を惨殺しました。これは政治運動ではなく、ただの凶悪な組織犯罪です。

現場で強盗や放火を働いた浪人たちが逮捕・処刑される一方で、三田の薩摩藩邸から彼らに資金を渡し、犯行をコントロールしていた西郷隆盛などの「指示役」は、一切手を汚さずに安全な場所にいました。現代のトクリュウの指示役も、安全なところにいます。

 日本の幕末史は「結果として明治維新という近代化に成功したのだから、途中の綺麗事ではない手段(テロ・強盗)も必要悪だった」という「勝てば官軍」の論理で見逃されています。
「大義名分があれば、犯罪行為も歴史的に許容・美化される」という空気こそが、現代の犯罪の温床になっているのです。

現代の若者の犯罪者たちは「社会が悪いから」「貧しいから」という言い訳で、強盗や殺人を肯定する論理、つまり犯罪者の若者らに『気の毒』という同情の余地を残す空気が根底にある。それは私たちが幕末テロリズムを厳しく断罪してこなかった歴史教育の歪みから、甘さになっているのです。
「いかなる理由があろうとも、一般市民を巻き込んだ略奪、放火、テロは絶対悪である」という普遍的な倫理を次世代に叩き込むことこそが、本来の歴史教育であるべきです。
歴史教育で「ぜったいにやってはいけないこと」を糺(ただ)す。歴史の役割とは、勝者の功績を称えることだけではありません。

150年前の出来事だからと曖昧にせず、薩摩御用盗は「倒幕の志士」ではなく「お雇いの凶悪犯罪集団」であったこと、西郷らの行為は「政治的策略」ではなく「一般市民を恐怖に陥れたテロの首謀」であったこと、これを教科書レベルで強く断罪する。「悪」として教えるべきです。。

ドイツがナチスの罪を法的一切の時効なく追及し続け、教科書で「絶対に繰り返してはならない悪」と徹底教育しています。

 現代の若者に対し「どんなに困窮しても、どんな大義を並べられても、闇の犯罪組織に加担することは絶対に許されない」という強い倫理的ブレーキ(抑止力)をかけるためにも、今まさに学校の歴史教育で最も必要なことです。

「残滓(ショート・ストーリー)⑤」 咸臨丸の蒸気機関室を見る

咸臨丸の機関室 明るさ.png 船長室で、三者会談が始まった。二か所にランプが灯っていた。外国奉行・小栗上野介は、艦長の伴鉄太郎と機関長の肥田浜五郎と向かい合っていた。テーブルには伊能忠敬の日本地図が広げられた。
 航海の機関長を務める肥田は、太平洋横断の航海の際に蒸気方の筆頭で乗船している。汽缶の運転と管理、石炭消費の調整、機関部の安全管理を統括していた。かれは眉が太く、意志の強さを感じさせる。
「蒸気船の汽缶には癖があり、故障も多発するので、機関士は同一の船に張り付いており、異動はあまり行われないものです。あれから二年後の今日も、おなじ専門技術として咸臨丸に乗船しております」
 咸臨丸の対馬行きは、幕府海軍が単なる「練習」ではなく、実戦的な「外交の足」として機能した、極めて初期の重要な事例である。
「江戸湾から、外洋に出ますと、風が使えますから、追い風・横風は帆走です。微風・向かい風は蒸気を併用します。1トンの石炭で100〜200海里以上も進むこともあります。蒸気が主体で『低速巡航』ならば、1トンあたり約80〜120海里です。速力は4〜5ノットです。条件次第で、帆併用ならば、実効的にはさらに伸びます」
 機関長の肥田浜五郎は、数字による説明であった。
「蒸気船と言ってても、あくまで帆走が主体だな」
 小栗忠順が念を押した。
「はい、そうです。世界中の蒸気船は帆走主体です」
 理由は二つ、石炭の積載量の限界。それに蒸気の連続運転は石炭の消費を早めるうえ、ボイラーやパイプに負荷が強まり、故障の確率を高めるからだと説明する。

「危険海域、たとえば鳴門海峡、潮流が速い関門海峡、瀬戸内の狭水道、それに港に入港・出航のときは始めから蒸気を焚きます。高出力運転はあくまで短時間です。速力は6ノット以上になりますが、石炭消費は急増します。それと高圧で連続運転すると、ボイラーを傷めます。パイプのつなぎ目が緩み、破損のもとになります。1トンあたり30〜50海里ていどとなります」
「その判断はだれがする」と小栗上野介が聞いた
「操舵室にいる艦長・船長です。船底の機関室では外は見えません。都度、操舵室から機関室に連絡が入ります。ただ、事前の打ち合わせで、鳴門海峡、馬関海峡など、潮流が渦巻くところは、初めから本気で高出力運転します」

 船長室の船窓からみえる富士山の位置がわずかずつ動いている。遠方の伊豆半島が近づいてくる。ちらっと見ては机上の地図にもどってくる。
 地名が出るたびに、伴鉄太郎の指が本州の南岸をなぞっている。艦長の伴の眼光は強い。測量方として海図を読み、海を読む人間のまなざしだ。
――品川、浦賀、伊豆沖、駿河沖、紀州沖
 小栗の頭の中で地図と数字が重なっていく。この航路の節目ごとに「石炭の消費量、距離、帆走・蒸気の選択もしくは併用を積み上げられていた。
「紀州沖は黒潮になります。潮が速い。向きが合わねば、厄介です。ここで無理に蒸気を焚けば、石炭の消費が大きい」
 肥田が指で地図をさす。
「西国に行くのは、東向きに流れる黒潮に逆らう形になるのか」
 小栗上野介はそのように理解できた。

「はい。それに南寄りの向かい風が多い。ただ、黒潮の本流と陸地の間には、本流とは逆向き(西向き)に流れる『黒潮反流』が生じることがあります」
「さすがです。 紀州沖などでも、黒潮が大きく蛇行している場合、その縁に沿って西向きの流れが発生することがあります」
 伴がそのように説明する。
「すると、それをうまくつかまえて、船を後ろから押す順潮(following current)が約二ノットというわけだな帆走と弱蒸気で走れば、船の対水速度は4〜5ノット。対地速度は6〜7ノットになるのだな」
 数字に強い小栗忠順が、艦長・機関長の専門的な潮流の速さをくみ取って速度と石炭の消費をみずからはじき出しす。船長も、機関長も、小栗の計算力に驚いていた。

 東海道の松並木の、三保の松原から観る富士山はまさに絶景だった。船が紀州へと向かい、消えていく富士山が名残惜しかった。

――航路として紀伊水道、兵庫津、備讃瀬戸、御手洗、周防灘、馬関海峡、下関港に入港する予定である。

「肥田殿。蒸気汽缶が稼働している今、機械室を見分したい」
 小栗は強い好奇心で万延遣米使節として太平洋を横断するときも、最新鋭の蒸気外輪フリゲート艦のポーハタン号で、小栗は何度も機関室に入り、学んでいた。

 小栗は作業帽、短い作業半纏、藍染めの股引(ズボン)を借りた。機関長の肥田浜五郎が先頭に立ち、小栗は洞窟に降りるように機関室への階段を下りた。
 ドン、ドン、ドン......と機関の往復の運動が小栗の全身に伝わり、石炭の熱気が全身をつつんだ。まさに、「狭い」「暗い」「熱い」「うるさい」「振動」の五感を一瞬にして感じとる空間であった。と同時に、咸臨丸の心臓だ、という意識がもてた。

 低い天井が小栗たちの頭が触れるほどで、奥行10メートル前後である。蒸気管・給水管・排気管がまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。巨大な鉄の円筒のボイラーが唸りを上げている。

 足元の鉄板の床は熱を帯びている。

「これは横置円筒式ボイラー(オランダ式)です」
 肥田がそれを説明する、直径1.5〜2mほどの巨大な鉄の円筒だ。前面は真っ赤に焼けた焚口(ファイアドア)がある。ボイラーの表面が熱く、いずれも、手や肌でふれると、即火傷しそうだ。
「......これが、咸臨丸の心臓か」
 ボイラー横の壁際に石炭が山積みにされている。黒い粉が空気中に舞う。石炭の匂いは"焦げた鉄と混じった独特の臭気だ。

「小栗上野介殿。これが石炭庫(コールバンカー)です」
「いま目分量で石炭は九割くらいだな。すると、出航から江戸湾をでるまでの間に、石炭は一割くらいを燃焼したのだな」
「はい。本船が入出港するとき、石炭を目いっぱい焚きますから」
 肥田がそれに応えていた。

 機関室で動き回る上半身裸の作業員(火夫)の腕は太く、火傷の痕が点々としている。かれらの額には手拭を巻き、汗が目に入るのを防ぐ。スコップで石炭をすくうと、火夫はやや腰を落とし、そして焚口を開けると、炉内の真っ赤な炎が獣のように唸る。

 機関室全体が一瞬だけ真っ赤に照らされる。

 石炭を焚口へ投げ込む。蓋が閉まる。焚口が開くたび、炎が轟音で獣のように吠えた。常時40〜50度、焚口を開けると60度近い。このボイラーの上部からは、蒸気管が何本も伸び、機関へと繋がる。
「こちらへ」
 肥田浜五郎は技術職人の鋭い眼になっていた。機関の鼓動の微細な異常音一つも聞き逃すまいとする態度に思えた。

 操舵室(ブリッジ)から機関室へ伝声管(スピーキング・チューブ)で命令が伝わる。騒音の機関室にひびく拡大器になっていた。
「いま、何と言った」
「減速(蒸気を絞れ)です」
「慣れだな。拙者には、ことばが聞き取れない。ほかにどんな用語が交わされる」
「『増速』とはもっと蒸気を送れ、です。『全停止』、『逆転』は船体を後進させる」
「操舵室と機関室は、一心同体だな。感心した」
「よし、蒸気を二分(ふたぶ)上げる。焚口、開け」
 火夫が鉄の扉を開くと、炎が獣のように吠え、機関室全体が赤く染まった。

 肥田は蒸気弁に手をかけ、慎重に開度を調整する。
「このスロットル(蒸気弁)の開閉で、船速を変えるのです」
 肥田がそれを指す。
「そうか。窯の火炎は微調整できないから、ボイラーから送る蒸気の量で、スクリューの回転数を変えるのだな。異国が発明した業技とは恐ろしいものよ、我が国も、このくらいの軍艦を独自に建造できる力を備えねばならぬ。それが近代化だ」
 小栗上野介が細かなところまで、一つずつ身を乗り出して質問している。


「蒸気圧を上げれば、機関の往復が速くなり、推進力が増します。ただし、上げすぎれば汽缶が持ちませぬ」
「蒸気とは、かように速さを変えられるものなのか。列強との戦争は、こうした軍艦で戦う時代だ。刀と弓と槍だけでは戦えぬ」
 シューッと蒸気の漏れる音。ガンッ、ガンッと工具の金属音が耳に飛び込む。船が生きている、と小栗上野介がつぶやいた。

「高圧の連続で無理をすれば、短期間で損傷します。過熱・漏れ・損傷は十分あり得ます。とくに管の焼損 、継ぎ目の緩みは現実的です。壊さないように使います」
 肥田浜五郎から、技術を操る者の誇りが感じとられた。

【残滓(ショート・ストーリー)④】 蚕(かいこ)から横須賀造船所が誕生した

栗本鋤雲と道子 見山楼  明るさ.png 駿河台の小栗邸の奥座敷で、小栗道子が先刻(さっき)から、針と絹糸を通し、夫の羽織のほつれを縫い合わせていた。裾の縫い目が表から見えないように縫う。「くけ縫い」である。
 羽織は公の場にでるための正装だから、夫がほつれたままの羽織で登城することは、妻の落ち度と見なされる。
 このしごとは大身の旗本の妻のしごとである。女中任せにしない。夫が人前で恥をかかないよう、極めて細かく、美しく仕上げる。

 晩秋のやや傾いた陽が、奥座敷の白い障子をかすかに茜色に染める。秋のつるべ落とし。もうすぐ薄暗くなり針が見づらくなるから、行燈に火を灯すまえに節約で、この羽織の袖と裾のくけ縫いを終えておきたい。
 絹糸は木綿とちがい、なめらかで縫いやすい。針先に引かれた一本の絹糸は、とても軽く、陽に当たるとみずから発光しているかのように、やわらかな光を湛(たたえ)ている。 
 小栗家の知行地である上州・権田村からきた家臣らが、この屋敷に幾人かいるが、だれもが上州のお蚕さまを自慢する。
「元気がいい。寒さに強いお蚕さまですから」
 江戸育ちの道子とすれば、蚕を育てことも、見たこともない。蚕自慢はのみ込めないけれど、話に聞けば、蚕のサナギが、外敵から守るために体内から吐きだす分泌物(絹糸腺液)で繭(まゆ)をつくるらしい。
 この繭を釜の湯で煮て、繊維の重なりをほぐし、蚕糸(生糸)を取り出すという。

 権田村に里帰りした女中が、「とても美しく、最高です」と自慢の生糸を手土産に持ってくるのがつねだ。たしかに、権田村の絹糸はしなやかで、やわらかさがとても心地よい。
「お蚕さまは宝石のような糸をおつくりになる」
 道子が羽織の布の折り代の裏から針を入れ、玉結びを折り目の中に隠す。

 奥の回廊廊下で足袋の音が止まった。女中が襖を細く開け、控えめに頭を下げた。
「奥方さま。表門(おもて)に、瀬兵衛(せへえ)という方がいらしております。門番の話しでは、その方が葛飾堀切の妙源寺さまでお墓参りのあと、見山楼が懐かしくて、立ち寄られたそうです。お殿さまがご不在なら、別段、取り次ぐ必要はないと言われているそうです。いかがいたしますか」
「あっ、わかった。栗本鋤雲(くりもと じょううん)さんね。幼名を と瀬兵衛だった時いたわ。夫から」
 瀬兵衛とは、見山楼に通っていた。いまは昌平坂学問所頭取(現・東大総長に類似する)の栗本鋤雲である。
「昌平坂学問所の一番偉い方が、お立ち寄りになったね。粗相のないように表座敷の客間にお通しして。お茶のご用意をして。甘い茶菓子もね」
 道子は、針と絹糸を裁縫箱にもどし、部屋の片隅に押しやった。

 これまでに、栗本鋤雲に関係したうわさはいろいろ聞く。......この小栗家の見山楼で学び、幕府の昌平坂学問所に入学した。二十歳前後の鋤雲はあまりに頭が良く、大柄で顔がもみあげと髭が繋がった張飛(ちょうひ)のような豪胆(ごうたん)な風貌(ふうぼう)だから、周りのものから「お化けの喜多村(旧姓)」と恐れられていた。
「そんなふうな話を聞いたことがあるわ」


 栗本家の家督を継いた鋤雲は、将軍さまを診る奥詰医師となり、かたや医学館で講書を務めていた。幕府の奥医師(将軍の侍医)は、1849年の「蘭方医学禁止令」の名残りがあり『漢方医学を正統とし、蘭学(西洋医学)を勝手に学ぶことを禁じる』という禁令があるらしい。ところが、鋤雲は優秀な頭脳で好奇心が強く、行動力があるから、蘭学(オランダ語)をまなび、幕府の蒸気船の軍艦・観光丸に乗船した。そのことが禁令違反だと咎(とが)められ、いっときは謹慎(きんしん)となっていた。

(こんなうわさ話を思い出している暇はないわ。どんなご挨拶をするべきかしら)
 道子は手鏡で顔を映しだし、頭髪をかるく撫で、身だしなみを整えた。
 道子はふだんなくソワソワと気持ちが高ぶっている自分を意識した。この緊張はなにかしら。悪い胸騒ぎとも言えないし。夫の将来にかかわる重大な予兆を察しているのかしら。
「わたしから、何か話題をつくる必要がるかしら。小栗上野介の妻として、塾頭の話をぼやっと聞いていたといわれると、夫の恥になるし」
 道子の気持ちがせいてくるが、これから迎える栗本鋤雲を考えてしまう。

 ......安政五(1858)年には、医師でありながら蝦夷地在住を命じられ、箱館奉行所勤務となった。......鋤雲は山の上町遊郭の梅毒を駆除するための箱館医学所(のちの市立病院)を建設した。その薬草を栽培するために、七重村薬園を経営する。

 久根別川の川底を浚(さら)い函館までの船運を開通させた。通商条約を締結した国の艦船、商船が入港してくるので、日本人がまだ食べない食用牛の需要が多く飼育事業をはじめさせた。

「表の応接間には上等の座布団を敷かなければ、お松に、それを言いつけなければ」
 最近の噂だと、栗本鋤雲は箱館での行政手腕(病院設立や新規事業や養蚕)などは、だれも真似できないほど意欲的で蝦夷の発展に尽くしていた。優秀な官吏だから、幕府は医師の身分のまま、「昌平坂学問所の頭取」という人材育成の要職に据えたという。役人社会では驚天動地の人事だから、すぐに江戸の噂になった。
「お見えになりましたから、表座敷にご案内しました」
「上等の座布団にしましたか」
「いいえ。ふだん座敷に置いている座布団です。着流し姿ですから、格式ばったお客様ではないと思いましたから」
「そうなの。いまさら言っても間に合わないわね」

 道子は背筋を伸ばし、着物の裾を払ってから、表座敷に向かった。部屋の襖をあけ、両手をついてから、ていねい挨拶をした。

「今日十一月二十一日は安積良斎先生の月命日ですから、先生の墓参りに葛飾堀切の妙源寺で出かけました」
「安積良斎先生を忍んでいらしてくださる。ありがたいことです」
「はや四年が経ちます。歳月は生きているものには光陰のごとくです。お寺さんからの帰り道、拙者の生家がすぐこの近くの猿楽町ですから、駿河台の見山楼が懐かしくて、立ち寄り、表通りから二階建ての楼を眺めておりましたら、門番に声を掛けられましてね。攘夷派の怪しい奴だとでも思ったのでしょう。こんな髭もじゃの顔ですから」
 鋤雲が右手で顎を撫で、蝦夷のヒグマといい勝負の顔でしょう、と気さくな口調で言う。道子は思わず、熊そっくり、と笑ってしまった。
 女中がお茶と御菓子を運んできて静かに立ち去った。
「これは蝦夷の干物と乾物です。それに、これは蝦夷で牛を放牧させて牛乳でつくった『バター・チーズ作り』の試作品です。アメリカに行かれた豊後守どのならば、現地で一、二度は食べられたかと思い、持参しました」
 栗本鋤雲が紙包みを差しだす。

 道子は丁寧にお礼をいった。
「放牧は日本の近代化の一つです。100年先には北海道のバター・チーズが日本中で食べられるようになるでしょう。きょうにでも、奥方が口にされると、思わず顔をしかめて吐き出すかもしれません。腐った味がするとか言い......」
 クマに似た顔の鋤雲が、胸をたたきおう吐の真似をした。
その愉快なしぐさをみて、道子は思わず苦笑した。

「お噂では、蝦夷で種痘(しゅとう)をおこない、大勢のアイヌの方々の生命をお救いになられたとか。うちの殿も、子供のころ天然痘に罹患(りかん)して顔にあざが残っています。江戸はまだ種痘を恐れる空気があります。蝦夷のほうが先行されているのですね」
 道子は、そのように話題を変えた。
「経緯をお話しいたしますと、拙者が箱館に赴任したとき、天然痘が猛威を振っており、免疫を持たないアイヌの集落が、次つぎに全滅しかけていました。現地では『死病』として怖れられていました。このままだと、アイヌ民族が死滅する、思いましてね、幕府の正式許可を待たず、なかば独断にちかいかたちで種痘を開始しました」
「すごい勇気ですね」

 それというのも、鋤雲は蘭方医(西洋医学)の知識から、西洋人がアメリカ大陸に持ち込んだ病原体(天然痘や麻疹)が、免疫を持たない先住民のアメリカ・インデアンを数千万単位で死に至らしめた。最近は天然痘で死滅寸前に追い込まれていたインディアンが牛の種痘で救われたと知りえていた。
「医に国境なし」
 幕臣という立場以上に医師としての本能がはたらき、牛痘種痘法を導入した。

 当初は和人が持ち込んだ「得体の知れない医療」に対して強い警戒心を抱いていた。天然痘でアイヌの人々が絶滅すれば、そこは「無人の地」となり、ロシアに占領される口実を与えてしまう。鋤雲はみずからも、あるいは奉行所の部下らに種痘を施してみせることで、アイヌ人に安全性を証明し、粘り強く説得を続けた、と話す。

 種痘によって劇的に死亡率が下がると、アイヌの人々は深く信頼し、列をなして接種を受けに来た。感謝の印として家宝の品々を贈ろうとするものもいたという。
「いいお仕事をなさったのですね」

 栗本鋤雲は、箱館に医学所(医学校)や病院を設立するよう尽力した。これは単に病気を治す場所ではなく、地域の公衆衛生を底上げし、近代的な医療体制を築くための拠点づくりであった。高価な輸入薬に頼らずとも治療ができるよう、蝦夷地の気候に合った薬草を育てる「薬草園」を作ったという。

夕日が応接の部屋に差し込んできた。
「日没前に、見山楼から一望したい」
「とゔぞ」
――駿河台の街は一帯が高台にある。小栗家の二階からは見事な富士山や丹沢、奥多摩の山々が一望できるので、「見山楼」と名付けられた。
 旗本屋敷の洗練された風雅な離れで、その書斎は安積良斎を慕う文人たちがつどい、海外の知識や政治を論じる優雅な談話室の役割があった。

 訪問客は母屋(主屋)の玄関で取次ぎを受けたあと、庭園を通るか、渡り廊下を経て敷地の北側の神田川を望む崖側にあった見山楼へと案内された。
 私塾の生徒らは、家族が生活する奥御殿を通らず、庭の木々を通り抜けて見山楼に通っていた。見山楼とは、山が見えるという意味合いだけでなく、集う者たちの「志の高さ」を高台にそびえる楼閣になぞらえたからだという。

 小栗邸から多くの旗本屋敷が立ち並ぶ、静謐(せいひつ)な街が一望できるし、神田川のせせらぎが聞こえる崖際の見山楼である。
「お話がとても、興味深くで、時間を忘れるほどです
 鬼才といわれる栗本鋤雲が箱館奉行所に入ったとき、単なる官僚仕事に留まらず、北の大地を「日本の近代化拠点」にしようと決意したという。そのなかのひとつ八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)を移住させて養蚕(ようさん)を興そうとしたと話す。
「なぜ、八王子千人同心ですか」
 道子が興味の目を向けた。

「かれらは武田信玄の遺臣の末裔であり、半分武士・半分農民でいわゆる「半農半士」の集団です。ふだん農業に従事しているため、未開の蝦夷地を切り拓(ひら)く力がありました」

 一方で、武士としての規律もあり、辺境の警備(ロシアへの備え)も兼任できる理想的な人材です。八王子は古くから『桑の都』と呼ばれ、養蚕・織物業が極めて盛んな地域です。だから、幕領地の八王子のかれらに白羽の矢を立てたという。

「蝦夷地で高品質な生糸を量産できれば、日本でいま開港した三つのうちの一つ箱館から、絹を商船に乗せて海外に運べる。地の利もあります。横浜まで持ってくる必要もない。幕府の箱館財政を立て直す、大きな武器になると確信して取り組んでいたのです」

 八王子千人同心は蝦夷の「開拓・警備・産業(養蚕)」の三位一体を実現できる。外貨獲得の切り札になる。

 鋤雲は箱館在住のフランス外交官・カションと親交があり、日本語をカションに教え、かれからはフランス語を習った。その中で、ヨーロッパでは「蚕の病気」が流行しており、養蚕業が壊滅的打撃をうけていると知っていた。
 医者でもある鋤雲は、蚕についても研究にも取組んだと話す。
「蚕は家畜化されて数千年の歴史があます。地域ごとに自然淘汰されたり、人為選抜が進んだため、性質が大きく異なる系統が多数存在しました」
「いろいろあるんですね。存じませんでした」

「蚕の種は古来、病気に強い、寒さに強い、早熟、多収など、性質の異なる多くの系統が存在します。 この系統差が、非常に重視され、地域ごとに独自の品種が育てられております。 微粒子病にかかった蚕は、次のような特徴を示します」

 成長が遅れる、食欲が落ちる、体色が白っぽく濁る、皮膚が薄く、弱々しい、繭をつくれず死ぬことが多い、生き残っても繭が小さい、糸が弱い。
「蚕は外見だけでは、強い種か、弱い種か、初期にはほとんど分からない。育ててみて、これりゃあ、だめだ、とわかるのです。ですから、ひとたび微粒子病(微粒子体=ノゼマ病)、白殻病、黒殻病などが発生すると、地域の蚕は全滅する恐れがあります。一村全滅・一郡全滅は珍しくなかった」
「怖いですね」
「微粒子病(ノゼマ病)は卵に潜むため、翌年も感染が続く。フランスがこの蚕の病魔に、織物業界が苦しんでいるそうです」
「海の向こうでも、そうですか」
「日本でも、殻病・黒殻病は飼育環境で一気に広がるし、実際に『蚕皆死す』『村中の繭が取れず』といった報告が多数ある。ただ、わが日本には、微粒子病、白殻病、黒殻病に耐性(負けない)がある、強い蚕の種がある。山間部の粗放飼育で生き残った系統に多い。とくに信州系、上州系の一部です」
「だから、群馬ではいい種があるから蚕業が盛んなのですね」
「そうです。上州・信州は酷寒の地ですから、寒さにも、病気にも強い種が、数千年の蚕理の歴史という伝統から育てられたのです。世界で一等と称してもいいでしょう」

「とても、懐かしく、夕映え近くの富士山には魅入りました。離れたくない気持ちでした。これ以上は、行灯が必要ですからと
「うちの殿に伝えておきます。きょうは、お構いもなく、申し訳ございません」。お菓子はお持ち帰りください」
 道子は表玄関まで見送った。

 鋤雲が小栗上野介とフランス公司・ロッシェとの対談の席で、フランスの養蚕業が壊滅的打撃をうけており、蚕について議題に乗せた。上州・信州のつよい蚕を家茂将軍の名のもとでフランス皇帝ナポレオン3世へ大量の蚕卵紙(蚕の卵を産み付けた紙)が寄贈することになった。
 ナポレオン3世はその返礼として軍事顧問団の派遣や、横須賀造船所建設のための莫大な担保(生糸)や技術援助を提供しました。まさに「蚕から造船所が生まれた」のです。

「残滓(ショート・ストーリー)③」 勝海舟が九州沿岸を巡航した

勝海舟 長崎製鉄所 明るさ訂正.png 勝海舟が四十歳にして、神戸海軍操練所の正式許可が文久3年4月23日に下りた。その神戸海軍操練所の開設準備や長崎への航海を兼ね、幕府軍艦「観光丸」あるいは咸臨丸で、かれは九州沿岸を巡航した。
 文久三年5月下旬〜6月上旬(1863年7月頃)である。 随行人数はおよそ三十〜五十名規模(士官・操練生・水夫を含む)と推定される。長崎奉行所記録にも「海軍奉行並・勝来崎」の記録がこの時期にある。したがって、この航海は操練所創設の準備行動として位置づけられる。

 とくにこの巡航は、勝海舟の生涯においても非常に重要な時期にあたる。巡航は大坂を出航し、豊後(大分)の佐賀関に上陸し、そこから陸路で阿蘇を越え、熊本へ、ふたたび海を渡り島原を経由して長崎へ向かう。

勝海舟が長崎奉行所を訪ねると、長崎海軍伝習所の第一期の同期である永持亨次郎(ながもち こうじろう)の執務室に招き入れられた。

 老中首座・阿部正弘が、安政二(1855)年に立ち上げた「長崎海軍伝習所」の第一期生として、永持亨次郎は勝海舟ともに艦長候補の入所であった。
 永井は操船、語学、会計、何をやらせても一、二位である。最もずば抜けていた<。そうそうに長崎奉行所の支配吟味役という上級官吏に抜擢された。
かたほうの勝海舟は語学が中位、航海・操船技術は下位、財務・会計は苦手、行政実務は苦手、外交交渉は得意ではない。
 したがってオランダ教官から留年を申し渡された。
 二人の間には、こんな経緯があった。

「長崎は、海の海藻が混じった香りがする。何年も鍛錬した海だ。思いれは強い」
「勝が神戸で海軍の操練所を作るという話は、早々と長崎に伝わってきた。いつ、この長崎に来るのか、と待ち遠しかったぞ」
 永持亨次郎は勝を迎えた。

 同期の永持亨次郎の案内で、勝海舟が長崎の各施設を見学する。そのなかのひとつ、御用船で長崎鎔鉄所に向かった。
 同建物の入り口に入ると、油と石炭の入り混じった臭いが鼻孔を突いた。

「この工場は長崎訓練時代になんどか来たことがある。久しぶりだ。懐かしさよりも、幻滅だ。俺の率直な感想だ」
 勝海舟の辛辣な批判がはじまった。
「完成から一年間は、技術指導のオランダ人が工場にいたから、華々しく活気があった。しかし雇用契約が切れると母国に帰国してしまった。その後はこのとおりだ。オランダ語の仕様書だと、職人はまったくチンプンカンプンだ。オランダ語の通詞も、機械の専門用語は日本語に出来ない。まだ、該当する日本語がない。だから機械が動かせない。勘でうごかし。腕や指を切断する事故が多発してしまった」
 永持亨次郎はまじめな顔で語っていた。
 
 巨大な旋盤が鉄の表面には赤錆が浮き、油の匂いも薄い。オランダ技師が引き上げると、錆びた機械、動かぬ工場である。
 隅のほうで、職人が木工の作業をしている。鉄の音はほとんど聞こえない。機械類は動かさないと錆が出る。
「永持。工場の稼働率は何割だ。大型機械など寺の鐘のように年に一度しか、鳴らんのではないか。オランダに頼る時代は終わったな」
 と揶揄した。
「もう、科学は英米仏の時代だな」
「永持。神戸に期待せよ。必ず、世界に肩を並べる海軍操練所をつくり、このさき上様にお願いし、鉄工所と造船所を建設する。世界に羽ばたくぞ」
「勝は、家茂将軍と直に話ができるそのうえ、要望も出せる。それが、だれにもできない最大の強みだ。悔しいけれど、勝には負けるよ」
 永持亨次郎はまじめな顔で語っていた。
「俺はアメリカも見てきたしな」
「あいかわらず、針小棒大だな。そもそも万延遣米使節の七十七人を遣米使節団を送ったのは、俺だと、勝海舟だと言いふらしておる。アメリカ本国へ運んだのはポーハタン号だ」
「それはそれだ
「だいいち咸臨丸は、太平洋横断の習熟を目的とした訓練航海じゃないか。サンフランシスコまでを往復してきただけだ。咸臨丸は使節の『使節団輸送』には一切関与していない」
「永持亨次郎は、知りすぎておる」
「勝海舟の船酔いは、長崎海軍伝習所で学んだ者ならみんな知っておる。船長なのに、船酔いで寝込んでおったではないか」
「そういうのは福沢諭吉だろう」
「太平洋横断の操船はブルックら米海軍士官が取り仕切った。証人はいっぱいいるんだ。勝の法螺は病癖だな」
「生真面目な生きかたしかできない永持亨次郎には、人を愉しませる話術は理解できないだろうな。永持、おまえは事実を語る。俺は時代を語る。聞く者は、どちらを面白がると思う。歴史というものはな、事実だけでは人は覚えちゃくれねえ。少しくらい色をつけた方が後世のためだ」
 そのように勝海舟は巧妙にかわす。
「相変わらずだな。色をつけるのは構わん。しかし、おのれの名ばかり金箔を貼るのは、史実ではない。自分の手柄にする癖は直したほうがよい」
「永持、お前は伝習所の頃より、ずっと『仕事ができる男』になったな」
 これがいつもの勝海舟だった。
「永持。神戸に期待せよ。必ず、世界に肩を並べる海軍操練所をつくり、このさき上様にお願いし、鉄工所と造船所を建設する。世界に羽ばたくぞ」
「勝は、将軍さまと直に話ができるそのうえ、要望も出せる。それが、だれにもできない最大の強みだ。悔しいけれど、勝には負けるよ」
 永持亨次郎はまじめな顔で語っていた。

「神戸操練所に必要な設備、人材、資材。外国に発注する前にコこの長崎鎔鉄所所の機械を転用するとよい。このままだと、宝の持ち腐れになる」
「それはありがたい。勘定奉行の小栗豊後守が横須賀に造船所をつくると計画をしているようだが、幕府財政はケチケチだからな。超小型の横須賀造船所しかできないだろう」
 勝海舟はあざ笑っていた。

【残滓(ショート・ストーリー②】 坂下門外の変で、桂小五郎・伊藤俊介が調べられる

坂下門外の変で、桂・伊藤が調べられる 訂正.png

 文久2(1862)年1月15日とは、江戸城で執り行われる「嘉例の式日」で、諸大名が江戸城に総登場する。そして、将軍に拝謁する。
 この日、老中首座の安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸の過激派浪士に襲われた。まさに、正月早々に幕府の上層部が襲撃された「坂下門外の変」から激動の文久二年がはじまる。

 この暗殺団の首謀者は尊攘派で、幕府が三日前からその一部を捕縛していた。だが、その網から逃れた一味が襲撃を実行したのだ。
 手口は二年前の桜田門外の変で井伊大老が暗殺とほぼ同じであった。むろん、警備は厳重だったので、斬りこんだ6人は皆その場で斬り殺された。安藤は背中のかすり傷であった。警備陣の死者もいなかった。

            *

 ここ1年半前、水戸藩の西丸(さいまる)帯刀(たてわき)の尊王攘夷派たちが、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵(ごうぞう)と「丙(へい)辰(しん)丸(まる)の盟約」を結び、要人の暗殺や外国人の殺害、外国公使館の放火などが計画されているようだ。町奉行はその情報をつかんでいたから、江戸城坂下門外の決行前に、多くを捕縛していた。

 世の中には、何ごとも遅刻魔がいるものだ。この坂下門の襲撃に遅刻したのが水戸浪士の川辺左治右衛門である。かれがトボトボと長州藩に桂小五郎を訪ねて行ったのだ。桂五郎は不在だった。長州藩の奥平数馬が対応した。長州藩・有備館の講堂で待たせていた。

「切腹の場をお借りしたい」と自刃したのだ。外出先から伊藤俊(しゅん)輔(すけ)伊藤が帰ってきた。

 大声がするので駆け付けると、川辺が脇差で腹を切り、喉を横につらぬいていた。1月16日に、伊藤俊輔が南町奉行所に、川辺自刃を届け出た。18日、奉行所の黒川備中守盛(もり)泰(やす)は桂小五郎と伊藤俊輔を呼びだし尋問した。

 川辺が、『斬奸(ざんかん)趣意書(しゅいしょ)』を持っていた。公儀役人が調べると、坂下門外で斬り殺された浪士の袂から回収した趣意書と同文だった。

 その『斬奸趣意書』は、井伊大老暗殺の趣旨から始まる。そして、安藤老中が自己の権威を守るために、天朝を侮り、和宮降嫁を強請したという。天皇の廃位を企てている、神州の罪人だ。さらには品川御殿山に、夷狄に貸して、公使の建設をはじめている。シーボルトを日本の政務に向かい入れた、奸人(かんじん)だと決めつけている。


 井伊大老の暗殺事件につづく安藤老中の暗殺未遂事件を幕府転覆に類する重大事件として、北町奉行所は、老中暗殺の一味だと明確なので、町奉行所は長州藩の関係者の取り調べに入った。
『斬奸趣意書』と「丙辰丸の盟約」から、長州藩の有備館は水戸過激派と、長州藩不穏分子が連動する集合・密会場所だ、と認定した。
 藩の治外法権を超えた取調べをおこなった。

 長州藩といえば家老・長井雅楽が公武合体と組み合わせた開国論を『航海遠略策』という構想にまとめ上げて、藩主・毛利敬親に提案した。朝廷と幕府が反目するのではなく、たがいに融和し、合体し、国論を統一していくものである。
 そのうえで協力して外交を進め、開港によって国の産業や通商を盛んにし、軍備を高めていくという内容だった。

 朝廷や幕府の公武合体派にこれをした歓迎した。とくに幕府からみると、公武合体、開国容認、国力増強で理想案であった。毛利敬親はこれを長州藩の藩論としたのだ。幕府も、これは卓見だと言い、朝廷に対して、皇妹の和宮と家茂将軍の縁談を勧めたのだ。


 長州藩内で、松下村塾のかつての門下生である久坂玄瑞、来原良蔵などの勤王志士を名乗る者たちが、長井雅樂に反旗が翻ったのだ。
「公武合体とは名ばかりで、幕府が主で、朝廷が従となっている」
「朝廷の権威を弱体化させるものだ」
 水戸藩と長州藩の過激派たちが、安藤信正の殺害を計画したのである。

 しかし反面で、長州藩のちょう高島秋帆内 攘夷断行および朝廷中心国家の思想を拡大する久坂玄瑞、来原良蔵ら松下村塾系は、疚しく承服できないものだった。
 ここから薩長が歴史の中軸として回りはじめるのだ。

小栗上野介忠順のもとに、町奉行所から、『斬奸趣意書』と「丙辰丸の盟約」の写しが回ってきた。
 それを目にしたときに、「表では幕府に従順な顔をし、裏ではテロリストを匿う」という状況に対し、長州藩の統治能力そのものを疑い、あるいはその二面性を「幕府に対する組織的な反逆の準備」と見なした

 藩主の毛利敬親が、藩内の不穏分子(久坂玄瑞ら)を制御できていないという現状をみぬいた。長州藩という組織自体を「信頼に値しない不安定な勢力だ」と断じただろう。

 井伊大老の暗殺が倒幕への第一弾とすれば、文久二年の坂下外の変がる第二弾である。対馬に向かうときに、下関にイギリス艦が長々と停泊していた。その時の疑問が、この坂下門外の変から、警戒心で長州をみるようになった。

 奉行所は、拷問申請も辞さない態度だった。藩士としても、江戸町奉行所に呼び出されて白州で取り調べられること自体が屈辱であろう。
 桂小五郎はいちども面識がない人物が訪ねてきた。長井雅樂に相談に行った。帰ってくると死んでいたという1点張りだ。

 
「有備館の全員を呼び出すことも考えおる。周布政之助も安藤老中の襲撃をしたであろう」
 町奉行への出頭命令は毛利家先祖代々からみても恥辱である、放免を要求する。

 そんな内容の嘆願書が、有備館一同の名の下に、幕閣に提出された。文面は暗に、幕府は長州藩を敵に回して決戦する気か、とにおわせる。
 それを境に、小五郎と伊藤俊輔は、病気を理由に裁判所の出頭を拒みはじめた。武士の治外法権の壁で守られていた。

 身分の低いものが代理で出てくる。片や、長井雅樂が裏から久世大和守など4人の老中に手をまわす。安藤信正自身も、公武合体が進んでいるさなかだし、さして傷は深くないと言い、長州藩の奉行所の襲撃という厄介な事情は回避に回ったのだ。
小栗上野介は3月9日に、小姓組(こしょうぐみ)番頭(ばんかしら)(将軍の身辺警備)となった。
「安藤老中は甘かった。黒川奉行ももっと強気で、桂小五郎を処分すべきだ。後々に遺恨となるだろう」
 小栗上野介はそう呟いた。
 安藤信正は老中から追われた。

【残滓(ショート・ストーリー①】 ボロボロ咸臨丸で、小栗上野介が対馬にむかう  

咸臨丸で対馬へ 小栗忠順 訂正.png白い波頭の玄界灘を、咸臨丸が対馬にむかって突きすすむ。五月の潮風がマスト・トップの日章旗をはためかす。総トン数が625トンの船体が、前後に揺れつづける。
 その船首ちかくで、外国奉行で三十一歳の小栗忠(ただ)順(まさ)が被った陣笠(じんがさ)のひもを締めなおす。その目がかなたの洋上にうかぶ緑の対馬をとらえている。まだ、細長い島の輪郭が荒波の向こうで見えかくれしている。
あの対馬は南北約八十キロ、東西約十八キロの細長い島である。上島(かみのしま)と下島(しものしま)は、ひょうたんの形状のように、中央が絞りこまれている。大小・九十八の属島をもっている。
 小栗が船長から借りた双眼鏡を眼にあてた。二百から五百メート級の緑の山々が連なり、海岸にそって集落の民家が点在する。平たんな耕作地がほとんど見あたらず、島全体が山岳におもえる。

 この対馬は九州と朝鮮半島のほぼ中間に位置する。それゆえに日本海を航行する軍艦にも、貿易の商船にも、寄港するには好都合の位置にある。西洋列国は喉から手が出るほど欲しい島であろう。
「安政の五か国通商条約」で、幕府が開港したのは横浜、長崎、箱田(函館)の三か所のみである。ゆくゆくは新潟と兵庫を開港すると約束している。だが、この対馬は対象外である。

 昨年には、イギリスの軍艦が幕府に対馬に無断で寄港し、測量をしている。イギリスも、フランスも、日本海のど真ん中に立地するだけに、航路の上の最重要拠点として対馬につよい関心を寄せている。

 ロシア帝国の場合は、冬場のシベリアの港が凍結するので、不凍港である対馬をアジア進出の中継地点と鷹の眼のように狙っている。幕府は永年にわたりそのロシアをとくに警戒してきていた。

 とうとう事件が起きた。この文久元年(1861年)二月三日、申の刻(夕刻四時ころ)に、ロシア艦・ポサドニック号が不法にも対馬・浅茅(あそう)湾に尾崎浦に入って きた。二月の真冬の日本海は大荒れにもなる、ロシア艦は難破したと虚偽の緊急避難してきた。そして島の一部を占領したのである。

 ポサドニック号の海兵らが芋崎(いもざき)に無断で上陸し、あろうことか兵舎の建設、井戸の掘削、菜園などをつくりはじめた、と対馬藩から江戸の幕府に報告があった。
 次なる報告では、対馬藩の問情使(外交実務の藩士)が、ポサドニック号の船将ビリリヨフと対談し、立ち退きを要求するも、ロシア側はまったき退却の意思を示さない、という。
 対馬藩から次々と情報が入り、江戸城内の幕閣が協議し、ここまま現地・対馬藩任せにはできないと判断し、幕府がロシア艦占領事件の解決に関わることになった。

 こうして老中・安藤信正が、城内に外国奉行・小栗豊後守忠順と目付の溝口八十五郎を呼びだし、この事件を解決するために、対馬に向かうようと命じたのである。
 日本海の対馬は本州・九州とつながっていないので、海路で行く、と決まった。品川の沖から出帆する。
 このとき幕府の蟠竜丸(ばんりゅうまる)と朝陽丸とが修理中なので、咸臨丸は無人島調査への対応中だが、急きょ対馬行きに回されたのである。

           *

 小栗・溝口一行の十数人が品川に集合したとき、対馬藩の江戸家老が見送りにきて、「よしなに」と頭を下げていた。下関では対馬藩士が咸臨丸に乗り込み、最も新しい現地情報をご説明いたします、という。

 文久元年四月十九日(1861年六月二日)に、品川沖から咸臨丸は出港し、浦賀に立ち寄り、下関では対馬藩士が乗り込み、長崎で石炭の補給を行ってきている。

 ところが、この航海のさなかに咸臨丸がたびたび汽缶(ボイラー)の故障を起こしている。というのも、万延元(1860)年のサンフランシスコへの太平洋横断で深刻なダメージを受けており、それに老朽化と腐食も加わり、この日本で満足に機関・船体を修理できる機械工場がないので、ダマしダマし使っている状態であった。

 対馬でロシア艦を一刻も早く立ち退きさせないと、ロシアの占拠が日増しに拡大してしまう、と小栗・溝口一行は焦るも、こんなことから咸臨丸の蒸気汽缶がうごかず、帆走が多く、予定より大幅に遅れ、五月朔日を越えても、きょう現在もまだ対馬に着いていない状態であった。

「小栗豊後守殿、甲板ですこし腰を据えて休まれたらどうだ。貴殿が、今から気負っても、気が急いたところで、この蒸気船の船速は変わらぬ。この咸臨丸が対馬に接岸するには、あと一日はかかる」
「余の気持ちは、もはや対馬を占拠したロシア艦の艦長と向い合っている」
 そういう小栗忠順がふりむくと、目付・溝口八十五郎(みぞぐち やそごろう)は甲板に搭載した小舟の陰で、荷箱に腰かけ、キセルで煙草を吸う。幕政にも、軍事にも明かるい幕臣である。みるからに落ち着いた態度だ。

「汽缶(ボイラー)の故障で、またまだイライラさせられますぞ。この船の揺れ方は、まるで心臓の不整脈みたいだ」
「余の心配は咸臨丸の機関にあらず。不法にもここ三か月間余り、対馬に居座っておるロシア艦でござる。ロシア海軍の奴らは、日本領地の対馬に上陸し、斧で次つぎと神木を伐り倒し、薪で燃やしておる。海兵の宿舎までも立てている。あきらかに対馬を奪い取る魂胆だ。そんな艦長の胸倉をつかんで張り倒し、対馬から追い出してやりたい」
 かれが憤る。それら対馬のロシア艦の横暴は、下関から乗船した対馬藩士から聞き取っている。

 小栗忠順は対馬のロシア艦の艦長らにたいして殺気立つ自分を意識した。ロシア艦船を退去させる交渉では、小栗はけっして妥協しない強い態度で臨むつもりであった。
「小栗豊後守。貴公がロシア軍艦の艦長の胸倉を掴むのは結構だが、あくまでも演技の範囲にとどめていただかないと、なりませぬぞ」
 溝口がさりげなくいう。
「演技とはなにゆえに、そう申す。旅芸人でもあるまいし」
 小栗忠順の声が、玄界灘に白波を立たせる潮風に吹き飛ばされていた。

「こちらが始からけんか腰だと、交渉に余裕がなくなる。まずは対馬の主権は日本にある、ロシア艦の船長らの行為は国際法違反だと、理路整然にていねいに説明されたほうがよかろう。最初は正論を述べておく。受け入れる、入れないは向こうの判断で」
 幕府目付の溝口が、キセルの煙草のきざみを取り換えている。

 外国との交渉には、幕府の目付が同行し、観察する制度があった。その交渉内容が老中に報告書として上がる。その制度は、幕府がこちらに不利な約束をさせない仕組みでもあった。
「溝口殿。ロシアの本音は聞かずとも、南下政策で日本の対馬を奪うつもりだ」
われらが優柔な態度で会談に臨めば、ロシアは難癖をつけ、ずるずると解決を先延ばし、二年も、三年も解決を長引かせ、あげくの果てに対馬占拠を既成事実にさせてしまう。
 それが予想できるだけに小栗 忠順は、心底から憤然としている。
「小栗豊後守、ロシアとの軍事衝突は避けよ、相手の挑発に乗るな、という幕府の命令に沿うよう。拙者は目付として豊後守の手綱を握りしめておく役でしてな」
溝口が両手で、暴れ馬の手綱をとる素振りをした。

「貴公は目付だから、余がロシアと交渉する過程をみて、幕府の意向通りに対応しているかそれを、とそれを見張る立場だ。監察だ。......だから、余の性格で、暴走しないか、と見張っているのだ」
「まさに。その通り。ロシア人がどんな言い訳をするか。まず相手の言い分を聞いてから、胸倉をつかんでも、遅くはない」
「懐柔策は望まぬ。最初から高飛車に出て、即刻この島から出て行け、と迫ったほうが解決ははやい。アジアで不凍港が欲しいロシアだ。生半可な交渉では事態が解決しない。対馬は日本に主権があるんだ、とロシア人の胸倉をつかんでも、喧嘩腰の気迫で臨まないと、この度の事態は動かないだろう」
 といっても、溝口八十五郎がのんびりキセルのきざみ煙草を取り換えている。
「対馬の島人を、ロシア海兵が二人も殺害しておる。許せぬ。凶暴な相手には、強い態度で対処するのが一番である」
 小栗のやり場のない悪感情を吐きだしていた。

「小栗豊後守。ここは落ち着いて考える。幕府から与えられた我々の役目は、『ロシア艦を退去させよ』でなく、『退去に追い込め』でござる。その違いを認識なさって外国奉行として対応されたほうがよろしい」
 小憎たらしいほど、溝口は冷静である。
「はたして正面からの正攻法の抗議だけで、ロシア艦を追い出せるだろうか。西洋の歴史的をみても、ロシアの南下にはいずこの国もてこずり、戦争に及んでいる。生半可な国じゃない」
「だからこそ、冷静に、国際法で対応されたほうが良い。拙者は幕府の目付だから、助言のみに徹する。交渉の主役は小栗豊後守だ」
「貴公・溝口殿は目付だから、老中にも将軍にも直じきに意見を具申できる、強い立場だ。老中の考え通りにせよといい、余の行動範囲を狭めてしまう。そうなると、対馬をロシアに奪われて、将来の日本に禍根を残だろう」
小栗忠順が攻撃的になると、溝口は無言でかるく視線かわす。

(貴殿も、昨年は遣米使節団の目付だったし、なにを言うか)
溝口はときに、目でそう反論している。
 玄界灘の荒波が、咸臨丸の船側をなんどもたたきつける。咸臨丸の汽缶がどこか不 整脈のような不規則に振動に思える。
「溝口殿。日露和親条約、日露修好通商条約を結んで、両国はたがいに批准しておる。この条約をロシアに順守させる。対馬は開港しておらぬ、と主張する。胸くそが悪い不法者のロシアを恐れ、日本が低姿勢になる必要はない。ロシアの野心は対馬の割譲だ。一坪たりとも渡せぬ。即刻、退去せよ、と強く言い寄る」
 小栗忠順は、熱(いき)り立った口調である。

「あいては海も凍るロシアからきた連中だ。正論だけで首を縦に振るほど、ロシアは甘くない。だいいち日本には軍事力がない、と見透かされている」
この咸臨丸には、小栗家臣ら十数人が乗り込んでいる。船酔いでデッキから身を乗 
りだし、嘔吐している者もいる。
 潮風が強いので、操舵室の船長が緊張した表情で、大きな舵を回している。船員らは帆柱マストを結ぶ太いロープをきつく締めなおしている。

          *

――老中・安藤信正公(陸奥(みちのく)国(こく)磐(いわ)城(き)平藩(たいらはん)の藩主)は、根が弱腰だ。外交では大国へさして強い抗議ができず、自分の代で茶をにごし、後任に解決を託す。そんな態度で、ロシア艦の対馬占拠が未解決のままだと、日本列島は島々が多い、類似の占領事件が多発するだろう。

 昨年11月6日に、非常に優秀な外国奉行の堀利煕(ほりとしひろ)が、プロシアとの通商条約の締結目前にし、老中安藤信正と激論した夜に自刃したのである。なにが、原因か。多くの説があるけれど、安藤の外交政策を批判する堀利煕が死をもって諫言した、という見方がもっとも事実に近いだろう。
 自刃に追いやった安藤信正が、堀利煕の後任に命じたのが、この小栗忠順(のち上野介)である。
 小栗にすれば、外国奉行として、ロシア・ポサドニック号対馬占領事件が初のおおきな外国奉行の仕事であった。
「豊後守殿。貴殿が強い態度で臨んでも、日本はロシア帝国と戦争するほどの海軍力などない。太平洋をたったいちど横断して来たくらいで、この咸臨丸はもう船体がボロボロ、機関はガタガタ、不整脈の汽缶で、品川からこの玄界灘に入るまでも、四度もボイラの小爆発だ。それで帆走に切り替えれば、メイン・マストは折れる。船底の牡蠣(かきがら)を落してないから速力は出ない。十日で対馬に着く予定が、もう一ヶ月を越えた。これがいまの幕府最新鋭の軍艦だ。推して知るべしだ」
 溝口は辛辣に冷静にみている。そのうえで、こう言った。
「帆船と蒸気船の戦いの海戦ではロシア海軍に勝てない。ならば、陸上戦に誘い込んでも、海上から艦砲射撃で住民の犠牲は甚大だろう。どれだけ人命を失おうとも、日本がロシア帝国には勝てない。小栗殿が口で言うほど、ロシア帝国との戦いは生易しくない」
 文久元年(1861)年二月三日に、申の刻(午後3時頃から午後5時)頃に突然、大型のロシア軍艦・ポサドニック号が対馬の尾崎浦に入ってきた。対馬藩の問情使(もんじょうし、朝鮮通信使らとの外交役)が船上で、理由を問えば、二月の荒海で船体を破損したので修理したい、という。

――ロシアの蒸気軍艦・ポサドニック号は約1000~1200トンクラスのコルベットで、三本の帆柱で長さは約70メートルのスクリュー船である。帆走と蒸気汽缶の動力で推進する。定員は約360人であった。

  ここからロシア帝国海軍の対馬占拠事件が起きます。

自民党の新しい総裁が、就任の第一声で「憲法改定」を掲げた。日本国憲法は国際法である。

 自民党新総裁は「憲法改定」を政権の第一目標に掲げた。その語り口には、戦後日本が築いてきた「平和国家」の基盤を、あたかも「占領期の遺物」とみなす響きがある。
 彼女の政治活動には、これまでも靖国神社への参拝を当然視し、特攻隊を「誇り」として語り、天皇制を精神的支柱として再評価している。
 
――これらの新総裁の発言の底には、「歴史修正主義」と呼ばれる風潮が息づいている。

日本国憲法.jpg 日本国憲法は単なる国内法ではないのだ。太平洋戦争の惨禍と、ポツダム宣言受諾という国際的な降伏条約を背景に成立した「国際社会との約束」である。つまり、国際法に準じるものだ。にもかかわらず、現政権の首班から、その視点が驚くほど欠落している。

 そこには、二度と侵略戦争を行わないという、世界に対する宣誓が込められている。

 彼女は記者会見で繰り返す。「私は日本人として」とくりかえす。「日本人として」「日本の誇りを取り戻す」と何度も言っていた。しかし、「日本女性として」という言葉は決して口にしない。ニュースの画面の中で、あの人はなぜ「日本女性として」と一言もいわないのだろう。
 戦争で、いちばん犠牲になったのは――女と子どもたちだったのに。

 戦争の惨禍のなかを生きてきた。戦後の平和憲法を支えてきた女性たちの歴史を、まるで見ていないかのよう
な空白だ。

 国家とは連続している。過去の歴史と断絶できない。太平洋戦争は加害者としての反省も必要なのだ。そのうえ戦後八十年は維持してきた。
 今頃になって「押し付け憲法」という主張はおかしい。

             *

 1945年8月にポツダム宣言を受諾する段階で、無条件で「戦争放棄」を受け入れた。国際社会からの要求と、それに応じたものである。まずGHQは日本政府に対して, 大日本帝国憲法の改正を指示しました。
 しかし、日本政府が当初提示した「松本案」が天皇主権を温存したもので、拒否した。「これでは国民主権ではない。民主主義への移行を示していない」
 そこで、GHQは民政局に憲法草案の作成を命じた。

 GHQはアメリカだけではない。占領方針を決める「極東委員会」はアメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、イギリス領インド、中華民国、米領フィリピンなど計11カ国で構成されていた。ただ、実際のGHQの運営はアメリカが中心であり、ソ連や中華民国などの影響力は限定的であった。
 
 日本国憲法の制定にあたり、GHQは日本政府に対して憲法改正を指示し、その後の草案作成を主導しました。

 草案は米国のケーディス大佐が中心となった。
 かれはハーバード・ロー・スクールを卒業後、ルーズベルト大統領のニューディール政策下で政府の法律顧問を務めるなど、アメリカの自由主義・民主主義の精神を深く理解する人物だった。

 日本の民主化と人権保障、そして恒久平和の確立をわずか1週間ほどの短期間で草案を完成させた。計11カ国で構成されていた。「極東委員会」は日本の国務大臣は文民(軍人でない者)でなければならない、とする文民条項などを追加させた。そして日本政府に提示するにおいて、マッカーサーが代表者の名を冠した。

 このように、日本国憲法は憲法の序文、第9条の戦争放棄を定めている。他国の憲法と違い、日本国憲法は国際法と国内法の両面を持つ。
 憲法九条を「他人事」として見過ごす私たち自身ならば、後世の歴史家は、「傍観者の罪」を問われているのかもしれない。

【孔雀船106号 詩】  承久三年のブロッコリー  望月 苑巳

大皿の上にブロッコリーが
ストーンサークルのように配置されている
母が円形に怒鳴る
「残さないで野菜も食べるのよ」
そそくさとクラウチングスタイルのネズミ一匹
我ながら情けないと思う

藤原定家卿が扇を口に含み笑い シンプルな.pngふむ、枕草子には
野菜はブロッコリーにかぎると、あったな
清少納言の仕草を真似て
定家卿は扇を口に含み笑い
きのう化野念仏寺で密会した女子は
顔色が暗く折りたたまれていたが
後白河院の言葉をなぞれば
すべてはうつつよ、たわむれよ、となるか
十三歳年上の才女に手向けた一首を
思い出して年甲斐もなく心ときめかせる

床の霜枕の氷消えわびぬ結びもおかぬ人の契りに *

ぼくは枕草子を閉じると
ブロッコリーにたっぷりマヨネーズをからませて
ガブリと食らいつく
苦くて柔らかい愛情が口の中にだらしなく広がる
十七歳で深海魚になった弟が
欄間でアッカンペーをしている
もう喧嘩もできない淋しさが
茹でたてのお鍋から立ちのぼる
承久三年のブロッコリーが
本の中で弟の分まで茹であがった

                   *藤原定家


承久三年のブロッコリー.pdf

 【関連情報】
 孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

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