登山家

純白の富士山には感動、笹子雁ガ腹摺山 = 脇野瑞枝

笹子雁ガ腹摺山(1358m)

2012年5月19日(日)晴れ

メンバー:L佐治ひろみ、石村宏昭、大久保多世子、北山美香子、脇野瑞枝

コース: 初狩駅8:00集合、バス8:45発 → 新中橋9:10着 → 笹子雁ガ腹摺山10:40着 → 米沢山11:55着 ― 昼食 → 御坊山13:15着 → 大鹿山13:55着 → 景徳院15:05着 - バス15:37発 → 甲斐大和駅15:51発 → 帰路

 初狩8:45のバスに乗り、新中橋にて下車した。
 登山口から杉木立の中をしばらく登ると、そびえ立つ鉄塔の下に出る。鉄塔の右側を通り抜け、さらに登りつめて尾根筋に出ると、右手にはこれから登るだろう稜線が続く。
 藪の中、かなり急な登りを頑張ると、笹子雁ガ腹摺山(1357)山頂に着いた。

 まわりには、東国三葉ツツジ? の灌木が目立つ。山頂からの眺めは、続く山々と雪をかぶった美しい富士山とで最高です。
 10:40着。細い道を下って、やせ尾根が続き、三つのピーク、クサリ等を使ってかなりきつい。


 1時間ほどで米沢山(1357)山頂に着いた。昼食を取る。山頂は樹林に囲まれていて展望はありません。

 登り降りを繰り返し、間井沢ノ頭/トクモリ(1412)を過ぎると、西側がパッと開けて展望が良い。しばらく進むと、お坊山山頂に着いた。
 またまた一気に下がって大鹿峠に着く。
 樹林に囲まれ、道も狭く、いよいよ下山になる。目指す景徳院の道がちょっと見つけにくい。暗い樹林の中を一気に下って氷川神社を過ぎ、民家を通り抜けると、立派な山門が目に入る。景徳院です。
 この寺は徳川家康が建立している。二度の火災にあい、山門を残すのみとのこと。手入れが行き届いた庭園を見物した。

 15:37発のバスに乗り、15:51甲斐大和駅発にて帰路に向かう。立川にて反省会。

 全体に道が狭く、樹林の中で、アップダウンが思ったより激しかったように思った。笹子雁ガ腹摺山からの雪をかぶった富士山が素晴らしかったです。

 また、大菩薩山塊には三つの雁が腹摺山にあるが、いずれも雁の飛翔コースにあたるので名づけられたと思われます。
 笹子雁ガ腹摺山は大菩薩連嶺の最南端に位置しています。中央自動車道笹子トンネルはこの山の下を通っているそうです。
 リーダー佐治さん、ありがとうございました。
(なお、トンネルの天井板落下事故が起きたのは、この山行の7ヶ月後です)。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№159から転載

山岳歴史小説『燃える山脈』・連載150回へ=市民タイムス・特集

 国民の祝日「山の日」制定の記念として、山岳歴史小説「燃える山脈」の新聞連載小説が昨年10月1日から始まり150回になってくる。予定としてはことし5月31日まで約240回である。
 松本市・本社『市民タイムス』において、2月19日に特集号市民タイムス・「燃える山脈」佳境へ熱くが組まれた。

『今年開削200年を迎えた安曇野の「拾ケ堰(じゅうかせぎ)」の開削に取り組んだ人々の姿を生き生きと描いた章から、「湯屋の若女将」、「水の危機」、「伴次郎街道の運命」、「湯屋への危機」へと続き、今後も「飛騨の惨状」、「江戸からきた隠密」へと展開する。

 物語はいよいよ最大の山場へと進んでいき、毎回目が離せない』と紹介してくれている。

「あらすじ・これからの展開」「温知堂の雰囲気 務台さん宅に残る」と紙面を割いている。


 筆者側としては「当時の生活思い描く」(挿絵・中村石浄さん)も顔写真入り。「知ってほしい格差構造」(作者・穂高健一)とつづく。

 トップ写真の槍ヶ岳の写真はとても素晴らしい。山岳写真家なのか、報道写真部なのか。昨年12月撮影と記す。
 

沼津アルプスの最高峰392mなり。甘くみたらダメだよ = 武部実

平成27年 2月 7日(土)

参加メンバー : 佐治ひろみ、渡辺典子、後藤美代子、武部実、石村宏昭、市田淳子、中野清子の計7人

コース : 沼津駅バス~多比~多比口峠(大平山分岐)~鷲頭山~志下山~徳倉山~横山峠~沼津商業高校~香貫小学校~バスで沼津駅


 多比の停留所を9:30出発。

 しばらく舗装路歩きだが、水仙や白梅を眺め、みかんの無人スタンドで買い物したり、と最初はゆったりだ。
 30分で、登山口に入る。寒いと思って着込んできた服を脱ぐことにした。15分で大平山との分岐(多比口峠)に着く。
 今回は、大平山はパスして鷲頭山に向かうことに。ここからが、ウバメガシ(備長炭の原料)の長い群生地を左に眺めながら歩く。

 11:20沼津アルプス最高峰の鷲頭山(392m)に着く。
 往きの電車から眺められた富士山は、この時間になると、愛鷹山先の雲の中で裾野が少しだけ見えるだけだ。
 しかし、駿河湾の景色は抜群。眺望を楽しみながら昼食を摂り、11:55に出発する。

 頂上直下には2日前に降った雪が残っていたし、ぬかるんだ登山路で滑りやすい。平重衡終焉切腹地を過ぎると、すぐが小鷲頭山(330m)だ。

 急な下りだが、ロープが設置されていてありがたい。他の登山者を見ると、何人かはお尻が泥まみれ
になっていた。

 すれちがった登山者がどこかで見た顔だと思ったら、登山家の岩崎元朗さんだ。3人を引き連れての大人の遠足だ(HPに書いてあった)。
 そういえば、岩崎さん選定の新日本百名山に沼津アルプスが選ばれているので納得。

 平重衡が隠れていた洞窟を過ぎ、パノラマ展望台等を通り、12:50に志下山(214m)着。太平洋戦争時の防空壕跡を過ぎると、最後の急な登りだ。
 昇り降りをこれだけ繰り返すと、累計標高はいくらになるのだろうか。400mに満たない山だが、1500m以上の山に登った感覚かもしれない。


 13:40今回の縦走最後の頂である徳倉山(256m)着。富士山は相変わらず雲の中だが、箱根の山々や駿河湾の曲線がきれいだ。
 眼下の沼津市内を望みながら、一服する。

 ここからも急な下り道。ぬかるんだ山道だが、クサリが設置されていてホッとする。30分で横山峠に着き、左に香貫小学校方面に降りようとしたら、なんと木の柵で、通行禁止になっているではないか。
 しかたなしに、右折の沼津商業高校に下る。

 10分で高校に着き、地元の人に尋ねたら、トンネルを抜けて15分位で、香貫小学校の停留所に着くと教えられる。
 予定通りの14:55発のバスに乗車した。駅前のマグロ料理屋で、軽く反省会。暖かくて恰好のハイキング日和の一日であった。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№186から転載

秀麗富嶽12景5番山頂なり、ビューポイントは1か所。奈良倉山(1349 m)=松村幸信

平成27年9月5日(土)曇り時々晴れ

参加メンバー : L武部実、渡辺典子、大久保多世子、中野清子、松村幸信

コース : 上野原駅~鶴峠~奈良倉山~松姫峠~山沢入りのヌタ~トチノキの巨樹~小菅の湯~上野原駅        

 
 小生は昨年暮れ、低山で下山途中に雪で滑り右膝を捻挫した。それから初の復帰の山行なので、まだ違和感もあり、躊躇(とまど)っての参加であった。
 高尾駅で、1年振りに武部氏の顔を見つけると、躊躇(ちゅうちょ)していたものが、すっと消えてしまう。


8:07 上野原駅に到着した。集合と同時に、8:10発の鶴峠行きのバスに乗車する。

 8月下旬からもずっと雨が続いていた。また明日から天候が崩れるためだろうか、雨の合間をぬった山好きでバスはいっぱいだった。
 乗客のほとんどが、途中のバス停で次々と下車し、終点鶴峠のバス折り返し場に到着したのが9:17で、われわれと6人グループの2組となる。


 登山準備を整えてから、9:25に出発する。この時期はまだ蒸し暑いはず。半袖で歩いていると、木立の中は肌寒さを感じるほどの涼しさである。


 落ち葉が踏み固められた山道は、膝にやさしく歩きやすい。緩やかな上りで、中野さんはきのこ探しをしながらゆっくりと進む。


               
 10:51 奈良倉山(1349 m)に到着した。山頂は大月市と小菅村の境にあり、木々に囲まれ平坦な場所である。眺望は無いが、一箇所は木々を伐採して富士山が見えるビューポイントがある。

 山頂の標識には、秀麗富嶽12景5番山頂と書かれてある。だが、あいにく今日は雲が低く垂れ込め、霞んでいて富士山は見えない。
 しかし、目の前には、雁ヶ腹摺山がはっきり見える。


 この時期まだまだ暑いのに、ススキの穂がたれており、秋の訪れを感じながら山頂でちょっと早めの昼食を摂る。


 11:35 奈良倉山を出発。下り始めて間もなく林道となる。路肩にはツリフネソウ、キバナアキギリ、ソバナ、フシグロセンノウ、ハギなどの花を次々と見つけ、歩行のピッチが一段と遅くなる。

12:27 国道139号線と交わる松姫峠に到着した。信玄の娘・松姫がこの峠を越えて、織田軍勢から逃れたことに由来しているそうだ。
 バス停とトイレがあり、ちょうど1日1本のバスが折り返し待機していた。牛ノ寝・大菩薩峠登山口から再び登山道に入る。
 鶴寝山を上らず、巻き道の二輪草コースを行く。

13:27山沢入りのヌタを通過。


13:36 牛ノ寝通りのトチノキの巨樹がある。推定樹齢は650年らしい。幹囲は5人で手を繫いでも届くかどうかである。
 幹のごつごつとした大きなコブと、真っ直ぐ高く伸びている巨樹は実に堂々として、森の番人のようだ。
 予定時間を大幅に遅れた。


15:07小菅の湯到着。バスを一便遅らせて温泉に浸かることにする。
 この日は土曜日、湯船は芋洗いのごとく人がいっぱいだったが、温泉で汗を流しさっぱりする。

 上野原駅行きのバスまでの時間は喉を潤して待つ。

16:30発の上野原行きバスに乗車する。上野原の町はちょうど祭礼の神輿巡行が行われ、十数基もの神輿が街中に溢れていた。
 
 少々遅れたが、上野原駅に17:55到着する。いつものように立川駅で途中下車し、反省会を以って散会となる。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№195から転載

初夏の北ア・唐松岳山行で思ったこと=市田淳子

期日:2015年7月11日~12日

参加メンバー :  L原田一孝、 脇野瑞枝、 市田淳子

 撮影自粛の山行でしたが、見たものは全てしっかり目と脳裏に焼き付けてきました。

 今回、高山植物をたくさん見られたのは感動しました。ただの感動ではないのです。それは・・・「~は高山植物の宝庫」という言葉を、私たちは当たり前のこととしてとらえています。しかし、当たり前ではないと知ってからの山行だったため、その感動はひとしおでした。


 ここからの話は、昨年末、私がある講座で聞いた話。つまり受け売りなのですが、山好きの皆さんにはお伝えしたいのです。
 日本の個性ある山々 ―剣岳、至仏山、富士山、飯豊山、白馬岳、北岳、尾瀬ヶ原等々― これらは、殆どが標高3,000m弱で、富士山でさえ3,776mです。
 この山々にさまざまな高山植物があります。

 しかし、これは不思議なことなのだそうです。

 ヒマラヤ山脈のエベレストは8,848m、アルプス山脈のモンブランは4,810mです。私たちが必死に登っている日本の山は、決して高くないのです。また、ヨーロッパアルプスは北緯46度、日本アルプスは北緯36度にあり、日本アルプスは南に位置しています。
 この緯度の差は、距離で約1,000km、標高で1,000m分に相当するそうです。

 さらに、世界の基準に当てはめると、2,870mぐらいには森林限界があり、3,200mくらいまでハイマツの生育が可能になるはずです。
 ということは、日本の山には高山植物が分布する可能性がないことになります。しかし、実際には日本の森林限界は2,500mくらいに存在しています。
 それはなぜか? 
 世界の気候を考えると、日本の山は3,000m級の山としては、世界一の強風にさらされているのです。強風は「吹きさらし」と「吹き溜まり」を作り、稜線付近の雪は吹き払われ反対側に堆積します。


 針葉樹もハイマツも広く生育できず、そのために、高山植物の生育が可能になるのです。
 ではなぜ、そんなに風が強いかというと、あまりに高いヒマラヤ山脈で分流した気流が日本列島で力を倍増するからです。

 ところで、日本の高山植物に固有種が多いのはなぜでしょう。それは、地質と深い関係があり、また、日本の地質の複雑さは、日本列島の成り立ちと深く関係しているからです。

 まとめると、日本で言う高山は世界的に見たら高くはなく、気候と地質が関係して、世界的には珍しく低い山に高山植物が分布し、しかも固有種が多いということなのです。

 ちなみに、同じ島国の英国とニュージーランドと植物(高山植物を含む)の数を比べると、日本は1800/5300〔固有種/総数〕、英国は160/1623、ニュージーランドは1654/2089となっており、この数からも、日本の植物相の豊かさがわかると思います。

 それは、その上にいる生きものたちの数もおおいことになります。だから、というわけではありませんが、この貴重な自然を大切にしたいと、山に登るたびに思います。(森林インストラクター)


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№192から転載

北アルプス薬師岳=関本誠一

日時:2015年7月28日(火)~31日(金)  3泊4日・曇り時々晴れ(一日目は一時雨)

メンバー : L佐治ひろみ、武部実、岩淵美枝子、脇野瑞枝、関本誠一  (計5名)

コース

【一日目】室堂~一の越~五色ヶ原山荘(泊)

【二日目】五色ヶ原山荘~越中沢岳~スゴ乗越小屋(泊)

【三日目】スゴ乗越小屋~薬師岳~太郎平小屋(泊)

【四日目】太郎平小屋~折立

 今回行く薬師岳は、日本百名山とともに、花の百名山にも選ばれており、北アを代表する縦走コースに鎮座する山の一つだ。

 薬師岳という山名は各地に多数ある。そのなかでも、最高峰で、人気ある山だ。ちなみに第2位は鳳凰三山の一峰(2730m)。


【一日目】

 今春に開通した北陸新幹線で、富山駅についた。駅前のホテルで前泊する。

 朝6時発の直行バスで、室堂に入る(9:30)。BT前で、水を補給してから出発する。しかし、学校登山の生徒さん達と一緒になって、思うように歩けない。

 一の越でこの渋滞から逃れ、五色ヶ原に向かう。

 天気は予報に反し、徐々に悪化する。鬼岳の雪渓をトラバースする頃は、見通しも悪くなって、雪上ステップを作ってくれた山小屋の尽力に感謝しながら、慎重に進む。


 獅子岳を超え、まもなくザラ峠だ。戦国時代の武将・佐々成政の「さらさら越え」で、有名とか……。昔日伝説に思いを馳せながら、小休止する。ここからゆるやかな登りで、五色ヶ原だ。

 この一帯は最盛期過ぎたと言っても、20種類以上の高山植物の宝庫で、咲きほこっている。


 小雨降るなか、五色ヶ原山荘に到着する(16:00)。雨具などを乾燥室に干し、落ち着いたところで無事到着の乾杯!


【二日目】

 5時起床。6時半に出発する。ここからエ久ケープない領域を進む。天気も回復して、登山道のまわりはお花畑が連続している。

 鳶山を過ぎると、越中沢乗越に下り、次のピークである越中沢岳に到着(9:30)。ここで小休憩した後、急斜面を下ったところで、ランチタイムとなる。

 さらに下ったのち、スゴノ頭の手前をトラバースした後、急な下りになる。鎖や梯子の難所だが、注意して下りきる。スゴ乗越に到着(13:00)。


 休憩中、来年は日本縦断トレランにエントリー(予定?)のアスリートが通りがかる。かれらにコースタイムを聞いてビックリした! 
 剱岳の早月尾根を深夜に出発し、一日でスゴ乗越小屋とは……。その超人ぶりと、レースの厳しさを痛感する。

 ここから緩やかに登ると、小屋に到着(14:10)。


【三日目】

 5時に朝食をとった後、6時に出発。

 今日は薬師岳に登る日だ。間岳、北薬師といくつかピークを越えるが、疲れも溜まって、一番キツイところだ。

 今回の楽しみの一つの雷鳥に、まだ会ってない。遠くの雪渓に鳥らしきものが見え、鳴き声は聞こえるが確認できない。
 標高3000m近いのに晴れると、日差しが強く、雷鳥も悲鳴をあげているような思いがした。

 薬師岳に近づくにつれ、風が冷たく、一時は視界不良になった。山頂に到着した(11:10)ころには、雲が取れ、一瞬の晴天景色を満喫する。

 薬師岳は北アルプス有数の大きな山だ。東側は氷河の痕跡(カール)があり、国の特別天然記念物に指定されている。
 山頂には薬師如来を祀った小さな祠がある。三角点は祠の影に設置されていた。

 下りは緩やかな南斜面を行き、途中の山荘で、昼食をとる。やがて、太郎平小屋に到着(15:00)。


【四日目】

 折立へと、薬師岳、剱岳、それら立山連峰を眺めながら、整備された道を快調に下って行く。 折立に下山した(9:35)。最寄りの温泉に立ち寄り、反省会をする。

 北ア山歩を無事に踏破した。名残惜しみながら、帰宅の途へ…お疲れさまです。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№194から転載

作家・北杜夫のヒマラヤ遠征=上村信太郎

「どくとるマンボウ」の作品名で知られる作家の北杜夫は、昭和40年にカラコルムの未踏峰ディラン(7273㍍)遠征に参加し、その体験を描いた小説『白きたおやかな峰』を発表している。

 北杜夫(本名・斎藤宗吉)は昭和2年生まれ。精神科医にして芥川賞作家。父は精神病院長で歌人。兄茂太は精神科医であり、著名なエッセイストでもある。


 作家として脚光を浴びた契機は『どくとるマンボウ航海記』という作品で、これは水産庁漁業調査船の船医として乗船。その航海生活を描写したもの。
 当時は自由に海外旅行が出来ない時代であった。

 航海記で人気を博した北は、次にディラン遠征隊付医師の経験から『白きたおやかな峰』を書いた。医師の著した遠征記としては、P・スチール著『エべレスト南壁1971国際隊の悲劇』時事通信社刊があるが、登山経験のない著者には登山描写に限界が見える。
 その点、作家北杜夫が医師の目線で描くヒマラヤ遠征隊の内側は実におもしろい。


 では、そもそも作家がどうして遠征隊の一員になれたか、また遠征隊の派遣母体はどこか、またディラン峰はどんな山なのか、作家北に登山経験があるのか、それらは一般にあまり知られていないようだ。

 まず、北杜夫は旧制松本高校のOBである。ディラン隊の小谷隆一隊長も松高OBで、北の2年先輩。隊付医師が見つからず、後輩にお鉢が回ってきたようだ。

 遠征隊の派遣母体は京都府山岳連盟、「京都府岳連西部カラコルム遠征隊」は、小谷隊長以下隊員10名。この隊で特徴的なのは、塚本珪一副隊長、高田直樹隊員ら4名もの高校教諭が参加していること。

 山岳連盟隊というのは一般には大学山岳部や社会人山岳会と違って選りすぐりだが、寄せ集め集団でもある。

 ディラン峰はパキスタンのフンザ地方に位置し、別名ミナピン。山容は白く雪に覆われ端正なピラミッド形をしている。京都府岳連隊は惜しくも登頂に失敗。3年後、オーストリアのハンス・シェル隊が初登頂を果たしている。


 北の登山経験は、旧制松本高校時代に上高地や穂高の山を登るために、徳本峠を15回は越え、ディラン峰ではミナピン氷河上4236㍍まで登ったという。

 ところで、この小説には不思議なことに女性が登場しない。このことについて作家の林房雄は書評を次のように書いている。
「女は一人も出てこない。いや、出てくる。巻頭から巻末まで、純白の雪の肌の太古の乙女よりもたおやかな容姿を持つ、海抜七〇〇〇㍍の絶世の美女が…」と。なるほど納得である。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№142から転載

            ※北杜夫(本名・斎藤宗吉)さんの写真は、インターネットから引用しています

こんなにも大勢、高校生の登山大会ですって、雲取山=佐治ひろみ

 日時:2015年5月10日(日)、11日(月)

 メンバー:L武部実、脇野瑞枝、原田一孝、中野清子、佐治ひろみ、

『コース』

 ①西武秩父駅 9:10バス→三峰神社10:30~霧藻ヶ峰12:20/50~白岩山頂15:20~大ダワ16:15~雲取山荘16:45

 ②雲取山荘 5:50~山頂6:25~七ツ石8:45~七ツ石小屋9:00~鴨沢バス停12:45/バス13:53→奥多摩駅 


 西武秩父から、9:10の三峰行きのバスに乗る。休日の晴れとあって、人出が多く、バスは3台出る事になった。

 約1時間、山が近づくと、道路脇には真っ赤な山ツツジの花が咲いている。良い季節に登れて、この先楽しみだ。

 10:30 三峰神社駐車場をスタートし、白い鳥居の登山口で、登山届を出す。あんなにいたバスの乗客たちは、もはや四方に散ってしまい、登山者もまばらだ。ところが、奥宮分岐を過ぎ、霧藻ヶ峰に向かって歩いて行くと、若者のグループが次から次へと下りてくる。

 何ごとかと思い尋ねてみると、

 昨日、今日は埼玉の高校の登山大会だそうで、彼らは朝4時起きで、三峰神社から雲取山日帰りと言うからビックリだ。

 下りてくる高校生は、疲れも見せず、大きな声で挨拶してくれる。こちらも元気をもらう。延べ200人くらいの高校生と所々ですれ違いながら、12:20に霧藻ヶ峰に着く。


 ここで30分の昼食休憩をとる。西側の展望が良く、和名倉山方面が見える。

 霧藻ヶ峰からいったん下ると、すぐにお清平である。ここで昼食を食べている人がいた。これからが本格的な登りとなる。

 狭い尾根の急坂を一歩一歩登ってゆく。周りはツガ、シラビソの原生林で、下にはコケが密生し、いかにも奥秩父の山といった雰囲気が、とても素敵だ。


 前白岩、白岩小屋と過ぎてから、いよいよ白岩山頂が近づいてくる。原生林の中には鹿の姿が! やはり出たか!この辺を縄張りにしているらしく、かならず現れる鹿である。

 白岩山頂で休憩し、疲れた体に糖分を補給する。芋の木ドッケの木道は、すこし危なっかしい所もあるが、イワウチワの花があちこち咲いていて、カメラに収めながら歩く。


 大ダワを過ぎテント場に入ると、また高校生が沢山いた。各校、上級生たちはここでテントの一夜を過ごすそうだ。

 16:45に山荘に到着した。

 私たちは5人で一部屋を使わせてもらった。あまり混んでいないようだ。夕食までの時間ゆっくり一杯やる。夕食を食べ、明日のために早寝する。

 朝食は5時。今日も晴れの天気の中、5:50にスタートした。

 山頂まで30分の登り途中、ウソ鳥を発見。グレーと赤と黒色の綺麗な鳥だった。

 6:30 山頂からは富士山をはじめ周りの山々の景観がとても素晴らしく、感激。そして、みなで記念写真を撮った。
 石尾根を七ツ石まで下りて行く。

 この石尾根のカラマツの芽吹きが美しく、本当に見とれてしまう。七ツ石山頂から小屋まで下り、時間がたっぷりあるので、コーヒーを飲んだり、大休憩した。
 一つ驚いたことは、あのワイルドなトイレが素晴らしく綺麗になっていたことだ。


 50分の休憩後は、下山を開始した。
 12:45に、鴨沢バス停に着いた。13:53に、奥多摩行きのバスに乗る。月曜はどこも温泉が休みなので、駅前のお蕎麦屋さんで反省会をして、東京に戻る。


 新緑の山道が、とても印象的な2日間でした。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

新聞連載小説・山岳歴史小説「燃える山脈」が郷土の話題=松本・市民タイムス

 日本ペンクラブの忘年会が12月15日、東京・中央区の鉄鋼会館で開催された。夕方6時から2時間足らずで終わり、作家たちはそれぞれが2次会に流れた。

 私はあちらこちらから声をかけられた。野坂昭如さんが数日前に亡くなり、小中陽太郎さんが「野坂さんの歌のテープを聞かせるよ」というので、そちらに出むいた。
 

 その席上で、長野県安曇野市出身の作家・高橋克典さんから、
「市民タイムスの連載小説がすごい人気だよ。まさか、私の地元ちゅうの地元、おひざ元で、広島出身の穂高さんが連載するとは夢にも思わなかった」

 と絶賛してくれた。

「なにしろ、田植えも、稲刈りも、まったく知らない人が田園地帯の歴史小説を書くんだから、おどろきだよ」

「穂高って、だれだ。穂高岳、穂高神社など、著者名からして長野県人だと信じて疑わない。本名探しがはじまっている。それほど注目されているよ」

 飲み会の席で、松本市を中心とする新聞社だけに、東京では読めない。いろいろ質問された。

 10月1日に連載を介してから、約1か月後、同紙が10月29日号に、「燃える山脈」の特集号を掲載してくれた。

 その紙面を紹介してみた。

『物語は「プロローグ」から、来年開削200年を迎える安曇野の「拾ケ堰」(じゅうかせぎ)の章へとすすみ、水がないために米が作れない安曇野の地に、奈良井川から灌漑用水を引こうという当時の先駆者の勇気ある行動が展開されている

 年内は「湯屋の若女将」、「水の危機」の章が続く。物語はこれからが佳境、ますますめが離せない』

 燃える山脈では、拾ケ堰の開削や、上高地を越えた、岐阜県の飛彈を結ぶ、「飛州新道」の開拓に取り組んだ人たちの郷土愛や人間愛を描く。


 こうしたリード文で紹介されている。



 作者の私は「国民の祝日」が来年8月11日から施行されます。人間は山から多大な恩恵を受けています。それを改めて見直してみよう、というのがメインテーマです。

 拾ケ堰は水の恩恵、飛州新道は山道の恩恵、そして山岳信仰の三部構成になっています。人名と地名は実名ですが、物語はフィクションです。

 史料・資料の列記の学術書とは異なり、歴史小説は「人間って、こういうところがあるよな」と描写する文学です。そんなことを頭の片隅において、たのしんでください、と記している。


「拾ケ堰計画、次々と難問」と「ここまでのあらすじ」で、登場人物が紹介されている。


 同紙面では、
【拾ケ堰】が平成18年に農林水産省の「疎水百選」に選ばれた、と写真付きで紹介されけている。

【飛州新道】は当時の小倉村(現・安曇野市三郷小倉)から、大滝山(2,616㍍)を越え、上高地を経由し、焼岳(2,455 ㍍)の中尾峠を越え、飛騨高原中尾村に至った。
 着工から16年目にして、天保6(1835)年に完成した。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人も、この道を利用した。

紫蘭会40周年祝賀会=東京・京王プラザホテル

 朝日カルチャーセンターの登山教室から、紫蘭会はスタートした。いまから、40年まえだ。若き女性が青春の日々を過ごしてきた。当時は20歳だった人が、いつしか還暦になっている。

 カルチャーセンターで知り合った人が、こうも長く人間関係がつづけられるものか。おどろきだ。それじたいが登山の魅力を物語っているのだろう。

 国内外の山を歩く。天候の変化は激しい。時には生死をさまよう。テントの中で共同生活をしてきた。だから、強い絆ができたのだろう。

 厳しさの積み重ねは、人間の精神力を鍛える。とりもなおさず、仲間の連帯感を生みだす。山の魅力は仲間の魅力でもある。それぞれの心を惹きつけてはなさない。
 


 

 紫蘭会のリーダーは小倉董子さんだ。早稲田大学の初代女性登山部長だ。婦人画報社の記者の人生とともに、登山活動をつづけられてきた。

 山の指導者のエキスパートだ。現在は森林インストラクターの主任試験官でもある。



 紫蘭会では、『山の歌(40年の軌跡)」ができた。

 作詞は小倉董子さん、作曲は早稲田大学山岳部の後輩の久新太郎さんだ。

「素晴らしい歌です。『山歩き賛歌』として、公正に引き継ぎ、紫蘭会の歌として、伝えていきたいとねがっています」と司会者は語った。

 わたしは、小倉さんと知り合ったのは、ジャーナリスト活動をしていたころである。彼女の基調講演を聞いて、世に、それを送った。

 もはや10年になるだろう。活発な活動をしている。田部井順子さんなどと、TVなどでは、並行して、紹介されている。


 わたしは、小倉さんと同じ主賓席で、日本山岳協会の会長・神﨑忠男さんと同席した。12月5日の日本山岳会晩餐会で、神﨑さんは「永年勤続会員」で表彰された方である。代表スピーチは実にユーモアがあった。そんな話題で盃を重ね合った。