登山家

新聞連載小説・山岳歴史小説「燃える山脈」が郷土の話題=松本・市民タイムス

 日本ペンクラブの忘年会が12月15日、東京・中央区の鉄鋼会館で開催された。夕方6時から2時間足らずで終わり、作家たちはそれぞれが2次会に流れた。

 私はあちらこちらから声をかけられた。野坂昭如さんが数日前に亡くなり、小中陽太郎さんが「野坂さんの歌のテープを聞かせるよ」というので、そちらに出むいた。
 

 その席上で、長野県安曇野市出身の作家・高橋克典さんから、
「市民タイムスの連載小説がすごい人気だよ。まさか、私の地元ちゅうの地元、おひざ元で、広島出身の穂高さんが連載するとは夢にも思わなかった」

 と絶賛してくれた。

「なにしろ、田植えも、稲刈りも、まったく知らない人が田園地帯の歴史小説を書くんだから、おどろきだよ」

「穂高って、だれだ。穂高岳、穂高神社など、著者名からして長野県人だと信じて疑わない。本名探しがはじまっている。それほど注目されているよ」

 飲み会の席で、松本市を中心とする新聞社だけに、東京では読めない。いろいろ質問された。

 10月1日に連載を介してから、約1か月後、同紙が10月29日号に、「燃える山脈」の特集号を掲載してくれた。

 その紙面を紹介してみた。

『物語は「プロローグ」から、来年開削200年を迎える安曇野の「拾ケ堰」(じゅうかせぎ)の章へとすすみ、水がないために米が作れない安曇野の地に、奈良井川から灌漑用水を引こうという当時の先駆者の勇気ある行動が展開されている

 年内は「湯屋の若女将」、「水の危機」の章が続く。物語はこれからが佳境、ますますめが離せない』

 燃える山脈では、拾ケ堰の開削や、上高地を越えた、岐阜県の飛彈を結ぶ、「飛州新道」の開拓に取り組んだ人たちの郷土愛や人間愛を描く。


 こうしたリード文で紹介されている。



 作者の私は「国民の祝日」が来年8月11日から施行されます。人間は山から多大な恩恵を受けています。それを改めて見直してみよう、というのがメインテーマです。

 拾ケ堰は水の恩恵、飛州新道は山道の恩恵、そして山岳信仰の三部構成になっています。人名と地名は実名ですが、物語はフィクションです。

 史料・資料の列記の学術書とは異なり、歴史小説は「人間って、こういうところがあるよな」と描写する文学です。そんなことを頭の片隅において、たのしんでください、と記している。


「拾ケ堰計画、次々と難問」と「ここまでのあらすじ」で、登場人物が紹介されている。


 同紙面では、
【拾ケ堰】が平成18年に農林水産省の「疎水百選」に選ばれた、と写真付きで紹介されけている。

【飛州新道】は当時の小倉村(現・安曇野市三郷小倉)から、大滝山(2,616㍍)を越え、上高地を経由し、焼岳(2,455 ㍍)の中尾峠を越え、飛騨高原中尾村に至った。
 着工から16年目にして、天保6(1835)年に完成した。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人も、この道を利用した。

紫蘭会40周年祝賀会=東京・京王プラザホテル

 朝日カルチャーセンターの登山教室から、紫蘭会はスタートした。いまから、40年まえだ。若き女性が青春の日々を過ごしてきた。当時は20歳だった人が、いつしか還暦になっている。

 カルチャーセンターで知り合った人が、こうも長く人間関係がつづけられるものか。おどろきだ。それじたいが登山の魅力を物語っているのだろう。

 国内外の山を歩く。天候の変化は激しい。時には生死をさまよう。テントの中で共同生活をしてきた。だから、強い絆ができたのだろう。

 厳しさの積み重ねは、人間の精神力を鍛える。とりもなおさず、仲間の連帯感を生みだす。山の魅力は仲間の魅力でもある。それぞれの心を惹きつけてはなさない。
 


 

 紫蘭会のリーダーは小倉董子さんだ。早稲田大学の初代女性登山部長だ。婦人画報社の記者の人生とともに、登山活動をつづけられてきた。

 山の指導者のエキスパートだ。現在は森林インストラクターの主任試験官でもある。



 紫蘭会では、『山の歌(40年の軌跡)」ができた。

 作詞は小倉董子さん、作曲は早稲田大学山岳部の後輩の久新太郎さんだ。

「素晴らしい歌です。『山歩き賛歌』として、公正に引き継ぎ、紫蘭会の歌として、伝えていきたいとねがっています」と司会者は語った。

 わたしは、小倉さんと知り合ったのは、ジャーナリスト活動をしていたころである。彼女の基調講演を聞いて、世に、それを送った。

 もはや10年になるだろう。活発な活動をしている。田部井順子さんなどと、TVなどでは、並行して、紹介されている。


 わたしは、小倉さんと同じ主賓席で、日本山岳協会の会長・神﨑忠男さんと同席した。12月5日の日本山岳会晩餐会で、神﨑さんは「永年勤続会員」で表彰された方である。代表スピーチは実にユーモアがあった。そんな話題で盃を重ね合った。

自民党・谷垣禎一さんから『穂高さん、名刺頂戴よ』= 日本山岳会・晩餐会

 日本山岳会は、創立110周年記念式典と、祝賀晩餐会が、2015年12月5日に、京王プラザホテル本館5階で開催された。皇太子殿下の参列の下、約600人があつまった。


  来賓祝の壇上で、「全国山の日」協議会の谷垣禎一(さだかず)会長が、来年8月11日から施行される国民祝日は、すでにカレンダーに赤い印がついており、第一階の全国大会は長野県・上高地に決まっています、と述べられた。

 この法律は、「山の日」が単に登山の日だけではなく、私たちが山に親しみ、山の恩恵を享受する場だと広く国民に認めてもらう機会であります。

 親と子が山の自然を楽しむ。そして、たくましい人材になってもらう。こうした取り組みでもあります、と述べられた。

 さらに、来年は日本山岳会がマナスル初登頂(世界初)の大偉業を成功させてから60周年記念にあたります。「山の日」と重ねあわせると、2016年は同山岳会にとっても、たいへん意義あるものです、と他に学会長は語った。

 日本山岳会晩餐会では会長挨拶、永年会員、新人紹介、鏡開など、恒例の催しものが展開された。
 これら一連の祝賀が終わると、各テーブルマスターの下で、歓談が行われた。


 わたしは歓談が一段落したころ、 「全国山の日」協議会の谷垣禎一会長のところに、タブレットをもって出むいた。現在・松本市本社の「『市民タイムス社』で、山の日に関連した、新聞連載をしています、とつたえた。「山岳歴史小説・『山は燃える』です。

『毎日なの?」
「はい。この10/1から来年3/31まで8か月、毎日ですから、240回連載です。松本市の画家の絵も毎回入っています。「山の日」に向けた記念小説です。

 さかのぼること、昨年五月に同法案が衆参両議院で可決された後、「山の日」推進メンバーの衛藤代議士、務台代議士などから、「山の日」らしい歴史山岳小説を書いてよ、と言われました。
 
 毎月2度は信州・飛騨に入り、深く取材してきました。約一年余りで、連載に入り、来年8月11日には単行本にして出版します。と概略伝えた。



「楽しみだね。ぜひ読ませて」
 そう言いながら、どんな内容なの? と質問された。


 安曇野は北アルプスの数千年、数百年のがけ崩れから、厚い砂礫岩の地層でした。川が地表深く入り、地表は水田ができない、不毛の地でした。とりもなおさず、水がない貧農の集落でした。

 安曇野は九州の海賊・あずみ族が移り住んだところである。
 農民らはいちずに水が欲しいと思いながら、飢えていた。

 文化・文政のころ、村の有志が、数百年の夢だった、農水路の開削に取り組んだ。奈良井川(旧・木曽川)から、15キロにもおよぶ等高線に沿った水平線の農水路だった。難行苦行。貧農には金がない。土木技術がない。まして水争いの地だ。土地の提供などあり得ない。暴漢に襲われるなど、不承諾の抵抗運動が起きた。十数年の粘り強い努力がなされても、光が見えなかった。


 東海道五十三次の続編の取材で、十辺舎一九が安曇野にやってきた。ここで、大逆転が起きた。そして、 松本藩も協力し、巨大な拾ケ堰が完成した。

 農水路が完成する。喜んでばかりいられない。青々とした水田が広範囲にできることは、米が余り、米価が暴落するになる。そこで、山国の飛騨へ米を送る道を手がけた。


 安曇野からまず常念岳山脈を越えて上高地に下る。そこから焼岳の肩を越える(旧・鎌倉街道)を通り飛騨への道をつくる。これは2600~2700の高所を二座越える、とてつもない大事業だった。

 さらには、政治的な高い壁があった。

 松本藩は許認可を出した。だが、飛騨がわは幕府の支配地で、機密主義である。鎌倉街道はかつて武田軍が信濃から五度も飛騨を攻めた、軍事の道だった。

 徳川家は江戸防衛から、鎌倉街道の開削を承諾しない。しかし、好機がきた。それが天保の大飢饉だった。交易の道が飛騨がわに必要となったのだ。

 この当時、槍ヶ岳を開山した播隆上人が安曇野にやってくる。農民らはそれを支援する。


   【皇太子殿下が撮影された写真のまえで、谷垣禎一さん】


 谷垣会長さんには、、『山の恩恵』の水で、拾ケ堰ができて、いまでは日本一住みたい緑豊かな安曇野になった。上高地を経由する山道で、江戸時代のいっとき交易が盛んになった。そして、山岳宗教が同時代にあった。

 文化・文政、天保時代の安曇野には、まさに祝「山の日」の恩恵を描く素材がありました「新聞小説は実名です。過去には地元作家すら書いたことがなく、大人気だそうです」
 とタブレットをみせながら、説明した。

「来年の8月11日に、その小説も花を添えるね」
 谷垣さんは、大いなる期待をしてくれた。
「期待しているよ。穂高さんの名刺を頂戴よ」
 谷垣さんから言われた。

2年前に名刺を交わしているが、その時は儀礼的だった。こんかいは自民党幹事長みずから、名刺を頂戴、と言われたので、この連載小説にたいして谷垣さんは期待してくれている、と強い気持ちが持もた。

第1回「山の日」記念全国大会は、長野県・上高地に正式決定

「山の日」協議会(谷垣会長)の臨時総会が、2015.11.20日(金)に、新宿区の主婦会館プラザで開催された。
 祝「山の日」が8.11が衆参両議院で可決成立するまで、同協議会は設立への推進団体だった。

 こんごは一般財団法人へと移行する。その承認ための臨時総会だった。近い将来は公益財団法人化を目指することへの承認を要する総会だった。

 来年は8月11日に、第1回国民の祝日「山の日」記念全国大会(仮称)が、長野県上高地で開催される。

(規約による)目的は、記念大会を開催を通し、『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日』である。そのうえで、山の日の意義、山の持つ多様な価値や恩恵ひろく周知・共有していく。と同時に、山の恵みに感謝する。理解を深めていく機会とする。

 第2回の同大会からは、『原則的に、本会会員であり、県、市町村、地域が一体となって招致するところ』とすることが、このたびの臨時総会で決められた。
 


 会場では、丸川珠代環境大臣がスピーチをしていた。同協議会の幹事長である。忙しいのかな。谷垣会長は最後まで議長役を務めていたけれど、早々と帰っていった。

貸し切りの山だった 奥多摩・大塚山(鉄五郎新道)= 栃金正一

1.期日 : 2015年4月17日(金)晴れ時々曇り

2.参加メンバ : L佐治ひろみ 栃金正一

3.コース : 古里駅~金毘羅神社~広沢山~大塚山~大楢峠~小楢峠~鳩ノ巣・城山~鳩ノ巣駅

 古里駅に8:30に集合。準備をして出発。青梅街道から左に入り、大きな橋を渡り切ってすぐ、右手の登山道を行く。
 更に少し行くと沢があり、小さな橋を渡り立派な滝を眺めながら道を右に分けて登ると大塚山への道標がある。杉の植林された道をどんどん行くと金毘羅神社の鳥居がある。鳥居をくぐり右手の高台に祠があるのでお参りする。

 登山道に戻り尾根伝いの道を行くと、道の脇の枝に「岩団扇保護地」の標識が付けてあった。あたりを見回すと、白い小さな「イワウチワ」が咲いていた。
 この辺りは、自然林になっており芽吹いたばかりのうす緑の若葉もきれいだ。道は傾斜が急になりジグザグの道を登りきると尾根上の広場に出て、ここから平坦な道になり、少し行くと10:50広沢山に到着。木に広沢山の標識が付いている。

 更に尾根上の平坦な道を行くと電波塔があり、少し登ると大塚山に11:15到着。山頂には、人は誰もいなく貸し切り状態でゆっくりと昼食をとった。
 標識の前で記念写真を撮り11:55に出発した。

 ここから道はハイキングコースになっており、途中の富士峰園地では、大きな「カタクリ」の花が咲いていた。
 ワラぶき屋根の宿坊のところを右に曲がり山道に入り、延々と山腹をトラバースして行くと大きな「コナラ」の木がある大楢峠に13:15到着した。

 今にも倒れそうな巨木の脇を通り上坂方面の道に入り、途中から道標に従い鳩ノ巣・城山方面に行く。

 小楢峠までは、急斜面の下りで慎重に足を運ぶ。小楢峠には、すごく小さな標識が付いていた。ここからは前方に鳩ノ巣・城山が大きくそびえているのが見える。
 登りはかなり急だが道がしっかりしているので、思ったより苦労しないで鳩ノ巣・城山に14:00に到着。

 山頂は、広々としていて「ヒノキ」の30m位ある立派な植林に囲まれており三等三角点もある。展望はないが静かで何故か気持ちが落ち着く。

 ここからは、尾根伝いに急な下りが続くが、道はしっかりしているのでゆっくり歩けば問題はない。最後に杉林のジグザグの道を下り14:40道路に出た。大きな橋を渡ると鳩ノ巣駅はすぐそこである。駅の近くのおいしいお蕎麦屋さんで反省会を行った。
 天気も良く花や新緑もきれいで、人のいない静かな山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№189から転載

なぜ板橋区に? 植村冒険館・見学 = 武部 実

平成27年8月13日(木) 

参加メンバー:L武部、伊東、三浦、蠣崎、中野の5人

 この日は御岳山の山行が予定されていたが、雨天予報で中止になったので急遽計画したのである。
 植村冒険館という名の通り、冒険家植村直己を顕彰するために設立したものであるが、生誕地の兵庫県日高町(現在の豊岡市)には、植村直己冒険館が設立されているのである。

 なぜ板橋区に、と思うが、植村直己が東京にいた15年間を板橋区に住んでいて、ここからエベレストの登頂や北極圏の犬ゾリ単独行が行われたという縁で設立したということだ。

(冒険館の写真パネルより、エベレスト登頂)

 【植村直己の簡単な足跡】冒険館パンフより
1941年 兵庫県日高町生まれ
1966年 モンブラン、キリマンジャロ単独登頂
1968年 アコンカグア単独登頂
1970年 エベレスト日本人として初めて登頂
 
 マッキンリー単独登頂(世界初の五大陸最高峰登頂者)
  注;8月30日マッキンリーを、先住民が読んできたデナリと改称。

1977年 北極点単独犬ゾリ到達(世界初)
1984年 冬季マッキンリー単独登頂(世界初)登頂成功を伝える無線交信を最後に消息を絶つ(43歳)
      
 冒険館に入って1階は図書館だ。冒険、探検、登山、アウトドアに関する本が5000冊もあるそうだ。ちなみに上村代表の書かれた本も、ざっと見つけただけでも4冊はありました。『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』といった雑誌のバックナンバーも揃っているということだ。

 貸出もできるが、遠くの人は返却が大変だ。郵送での返却もOKだが、郵送料と交通費とどっちが安いか考えますよね。
 オリジナルグッズも販売しているので、お求めになるのも記念になっていいかも。

 2階は展示室。1970年に日本人として初めてエベレストに登頂した時の装備品、写真パネルはエベレストのほか北極点犬ゾリ単独到達などが展示してある。国民栄誉賞の楯や賞状も展示されている。
 DVD「植村直己の世界」が1時間10分おきに放映されていて、ゆっくりと鑑賞するのもいいだろう。
 2階建ての小さな記念館だが、いまどき入場料無料は立派。ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

【植村冒険館の行きかた】

所在地 東京都板橋区蓮根2-21-5
 TEL 03-3969-7421

開館時間 10:00~18:00

交通 都営三田線 蓮根駅 徒歩5分

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№193から転載

山岳エッセイ・梅雨空に白 = 市田淳子

 今日7月7日は二十四節気の小暑。昨日6日は朝から雨で次の日が小暑とは思えない気温だった。
 職場では窓を開けっぱなしにしておくと寒くなって、春先に着るパーカーを羽織るほど。蒸し暑いばかりの梅雨だけではないと、ちょっとホッとする。

 少し遡って7月2日は七十二候の半夏生(はんげしょう)。農家ではこの日に天から毒気が降りてくるから、この頃までに農作業を終えなければならないという言い伝えがあるそうだ。ちょうどこの頃咲く花にハンゲショウがある。

 音が同じでも直接の関係はないというのが面倒だ。ハンゲショウが花開く頃、花に近い葉の一部またはほとんどが白くなる。花と言っても花弁も萼もない。

 だから、花粉を運んでくれる昆虫に目立つように、雄花と雌花のめぐり逢いのお膳立ての時期が近づくと白くなるらしい。植物は肉食だ!

 誰もが知っている同じ仲間のドクダミも、よく似た特徴がある。

 花弁のように見える4枚の白い部分は総苞片といい花弁ではない。ハンゲショウ同様、昆虫を誘惑するためのものらしい。この二つ、私は匂いも結構似ていると思う。

 ドクダミの白い部分は花が終わるころには枯れて茶色くなるが、ハンゲショウの白い部分は、再び緑色になるのは凄いと思う。
 白いままだと光合成できないから、確かに枯れてしまっては不経済だが、そんな戦略を進化の過程で選択したのだろう。

 ハンゲショウと同様、マタタビも花が咲く時期になると、花が咲く枝の先端の葉の一部かほとんどが白くなる。(左の写真は葉、右は花)。

 山に行っても目の前で見られることは少なく遠くの山肌に白く見えるだけ。花は下向きなので、遠くから見ると白く変わった葉だけが目立つのだ。

 動物たちは動き回ってパートナーを見つけられるが、植物は自力でパートナーを見つけることが難しい。動物よりはるかに下等な植物がこうして長い年月をかけて進化してきたことを知れば知るほど、植物が愛おしくなる。

 そんな健気に生きる植物満載の山に登り、山頂で写真を撮るだけではもったいない。彼らの生き方に目も心も向けたい。心惹かれたら、下界に下りてから誰かに話して、山の素晴らしさをたくさんの人に伝えられたらと思う。
                           (森林インストラクター)

         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

【読書の秋・推薦図書】 山の不思議 事件簿=上村信太郎 

 山は不可思議な現象が起きる。登山中に体力を使いきると、幻覚、幻聴に襲われたりする。しかし、数多くの登山者が、そうとばかり言えない奇異な経験するようだ。

 上村信太郎著「山の不思議 事件簿」山と渓谷社・900円+税では、ミステリアスな事件が国内外で、こうもあるのか、とおどろかされる。作者・上村さんも、類似的な経験をしている。

 実は、私にも2度ある。それを先に紹介しておこう。一度は奥多摩・川苔山だった。滝の寄り道しようと予定外のルートに入った。「道に迷ったかな」と疑心暗鬼になった。

 さっきから、後に誰かついてきているな、と思っていた。こちらは不確かなルートになっているし、私の後ろに付いてきても迷ってしまうぞ、と教えたい気持ちだった。
 ふり返ると女性だった。単独行か。わずか数分後、足音の気配が消えた。えっと思ってふり返ったが、そこには誰もいなかった。
「幻覚だったのか」
 そう自分に言い聞かせても、不気味だった。この付近に女性死体が埋まっているのかな、と考えると、早くその場から立ち去りたくなり、滝の探索は止めてしまった。

 南アルプスでの体験は、私が40歳くらいで単独行だ。いまでも鮮明だ。登山ブームも去り、3日間の強い雨のなかの縦走で、ほとんど人に会わなかった。まして、雨続きだと、稜線から日ましに登山者がいなくなった。やっと雨が上がった。
 農鳥岳(標高3,026 m)から下山を開始した。岩稜から森林地帯に入った。誰も会わない。森はうす暗く、私にしては妙な冷気を感じていた。下りが得意なのでハイスピードだった。「重力に逆らわなければ、スピードが出る」。それがモットーだから、転倒しないためにも、足もと(一歩ずつ)から目を離せない。

 ふいに前方にひとの気配を感じた。視線をあげると、30歳前後の女性が登ってくる。すれ違う距離感を捉えてから、ふたたび視線を足もとに落した。「豪雨のあと、こんなにも早くに登れって来れたの? 女性が一人で。軽装すぎる登山服だな」とふしぎに思い、早めに眼をあげると、無人だった。えっと、おどろいた。

 山腹の山小屋から標高差100mくらい上部だ。女性が殺されて埋められているのかな、と思うと、さすがにぞっとした。山小屋を横目で見て、見透しのよい川原に降りた。
 ここで気持ちを落ち着かせないと、事故ると判断した私は、コーヒーを沸かして飲んで気持を落ち着かせた。バス停まで、不気味だった。いまでも、女性の年恰好はことばにできる。だが、幻覚だろうと、殆どはなしたことはない。

 「山の不思議 事件簿」の紹介に入ろう。新聞で目にしたふしぎな事件も数多くある。北海道・大雪山に残されたS0S文字の謎である。平成元年、遭難者をさがすへリーが、湿地帯で、巨大なS0Sを見つけたのだ。男性の遺品に、助けてくれ、というテープが入っていた。白骨体は女性だった。
 
 世界一遭難者の多い、谷川岳の一ノ倉で、著名登山者がテントを張っていたら、深夜に雪を踏みしめて近づく足音がある。テントのまえでぴたり止まる。

 昭和13年に、黒部渓谷で、第3発電所の建設現場で、作業員の宿舎の3-4階が深夜跡形もなく消えていた。100人あまりの作業員もいなくなかった。雪崩だろう。しかし、2人の遺体しか見つからなかった。

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仙丈岳と甲斐駒岳に登った男たちと、山頂に登らない奴の物語り。(下)

 黙々と登る。ひたすら登る。これしか道はない。

 青い空に、地球の美を感じる。雄大な心にもなれる。

 でもさ、イジケルのもいる。

 「ぼく、疲れたんだもの」

 だれも背負ってくれない。

 それが山里の厳しさだ。


 
 まだ、あんなに遠くにあるの、きょうの目標は。

 泣き言をいっても、距離は縮まらない。

 ひたすら歩くのみ。

 笑顔で歩く者もいれば、うつむいて、うな垂れて、ただ歩く者もいる。
 

 「えっ、うそっ。ここはまだ頂上じゃないの」

 山は偽のピークがたくさんあるのさ。

 蝶々にも、心する。

 ゆとりが欲しいね。

 甲斐駒ヶ岳は快晴だった。


 仙丈岳は、寒かったな。

 ともかく、2座を登れた。

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仙丈岳と甲斐駒岳に登った男たちと、山頂に登らない奴の物語り。(中)

 山岳で遭難しない、最大のコツはなにか。それは「ムリしない」ことである。なにをもって無理だ、無謀だと判断するか。これがむずかしいね。

「ムリに山頂に登ろうとしない」。これが安全登山の一つ指針だ。『山頂まで登らない訓練』が、いま開発ちゅうだという。

 隠忍自重の精神を養う。それが安全登山教育だ

 集団登山でありながら、最初から単独行だから、被写体がいない。「モデルになってくれますか」と声がけすれば、快く応じてくれた。

 東北大学・山岳部の部員だった。

 将来の日本山岳会のメンバーかもね。

 

  

 9月12日(土)10時の広河原行きのバスが集合だった。
 早朝。東京に強い地震があった。JR電車、私鉄、高速バスの交通機関はガタガタに狂ってしまう。もう、ここから7人のパーティーはずっこけていた。

 甲府からの臨時バスはガラガラで、乗客は5人ていどだった。それでも、女車掌が美声で、ずっとガイドしてくれる。いまどき定時バスにガイドとは驚きだったな。

 年季が入っていたね、その内容には。

「よし。帰りは甲府城と信玄堤に立ち寄って帰えろっ」と気持はもはや下山後になっていた。

 

 登山基地の北沢峠についた。

 3日後の帰路のバスの時間を確かめる。平日と祝日は違う。季節によっても違う。それをAとBで表示するから、妙に解りにくい。

 あげくの果てに、いいや、下山してからでも、そんな時間は、となってしまう。


 最初から、仙丈岳と甲斐駒岳をめざす男たちと、頭から、山頂に登らない奴がひとりいた。


 交通費と3泊の山小屋の費用(ビール代を入れると、30000円強)、かなりのコストをかけてきて、頭から山頂をめざさない。これには精神力がかなり要求される。

「これからの登山には、山頂に登らない訓練が必要である。遭難しないためには、自制心を養う必要がある」
 ものは言いようだね。高所登山には体力が追い付かない。そんなことはおくびにも出さないし。

「体力に見合った登山も、自制心だよ」というならば、勝手にどうぞ、と若者は見下すのみである。


 古代から江戸中期まで、修験者たちは山腹の洞窟で念仏修行したり、滝に打たれたりしたものだ。日本人が競って山頂を目指すようになったのは、元禄時代の円空上人あたりからだ。山頂に祠をおいて開山・開闢(かいびゃく)するようになった。

 西洋登山は信仰よりも、貴族のスポーツとして、ひたすら険しい登攀(とうはん)をおこなっていた。やがて、それがエベレストなど、ヒマラヤ登山に結びついた。


 日本でも、江戸時代初期に、谷川岳の一ノ倉の大岩壁に仏像を奉納されているから、技量的な面では、たいしたものだと思う。

 決して、日本の岩登りの技術が劣っていたわけではない。それなのに、明治時代から、西洋式の貴族アルピニズムに支配されてしまった。

 劣るとすれば、技量でなく、装備だった。日本はワラジ・金剛杖、片や西洋はピッケル・アイゼンだった。つまり、お金持ちでなければ、山に登れなかった。


 孤独のなかで撮影する。これは芸術的な美の表現か、小学生でも撮影できる写真か。観る人によって評価がちがうはずだ。

 その実、著名写真家の撮影だといえば、すごい、というし。ずぶの素人が撮ったといえば、なんだ、こんな写真となる。

 人間の価値観って、そんなものだよな。写真展、絵画展に行けば、そんな人だらけだったな。

 9月13日(日)お昼時に、全員が会いましたね。小仙丈岳の手前だった。

 仙丈岳の山頂は、「寒かったな。風が強くて。とても長くいられなかった」という感想からしても、懸命に登ったのだろう。アルピニズムで。

 あと2か月もすれば、凍死していたかもね。この季節でよかったね。


 森林を舞台に、一つ余興でもやるか。動画で撮るほどの演技でもなかった。

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