登山家

モンブラン初登頂者の謎=上村信太郎

 スポーツ登山の発祥は、スイスの科学者オーラス・ベネディクト・ド・ソシュールのモンブラン(標高4807m)登山とされる。

 それ以前は「高山の山頂に立つという目的」での登山行為ではなかった。また高山の氷河の上でビバークすると生きて帰れないという迷信もはびこっていた。

 ジュネーブ生まれのソシュールは、幼年時代から博物学に興味を持ち山々を歩き回るのが好きだった。
 20歳のときに植物採集を目的に初めてシャモニーを訪れ、ブレヴァンの展望台からシャモニーの谷越しにモンブランを眺めた。
 このとき、当時は登頂不可能とされていたアルプスの最高峰モンブランに登ろうと固く決心して名案を思い付く。モンブランに登頂できるルートを発見した者には、だれでも多額の報奨金を支払うと発表した。時に1760年7月24日であった。

 それ以後、ソシュール自身も含めた多くの真剣な試登が繰り返されたがいずれも失敗。ようやく初登頂されたのは27年後であった。
 1786年8月7日、シャモニーの医師ミシェル・ガブリエル・パカールと、24歳の水晶採りジャック・バルマの二人がボソン氷河からモンブラン登頂目指して出発。彼らはル・モンという村で落ち合い、その日は氷河の手前でビバーク。
 翌朝4時半に出発し、午後6時32分にモンブランの絶頂に立った。パカールは山頂で高度や気温を観測。19時前に下降を開始。真夜中に出発地点まで下降してビバーク。二人は2400m以上の標高差を一日でピストンしたことになる。
 翌朝、雪目になり両手が凍傷になったパカールはバルマに導かれて下山し、帰宅したバルマは重病だった乳幼児の娘が入山中に亡くなったことを知った。


 下山後、バルマはソシュールを訪ねて報奨金を受け取った。
 その翌年8月、ソシュールは一人の召使とバルマの他に、食料や科学実験用器具などを担ぐ18人のガイドとポーターを引き連れてモンブランに挑み、ソシュール夫人が麓から望遠鏡で見守るなか登頂に成功。
 このソシュールらによる一連の登山行為が「スポーツ登山」を誕生させ、やがて明治期にイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンによって日本にも紹介され、やがて今日の「百名山ブーム」に至ったとされている。

 モンブラン登頂から1ヶ月後、町ではある噂が広がった。「パカールは途中で疲労して落伍した。バルマが一人で登頂した」というもの。この噂は結果的にバルマを英雄に仕立ててしまった。
 1841年、79歳になったバルマは、文豪アレキサンドル・デュマの取材を受けて「パカールは途中で何度ももう歩けないと言ったが無理やり引上げた」などと答えた。
 だがその後、ドイツの科学者ゲルスドルフがたまたまシャモニー滞在中にモンブラン初登頂の様子を望遠鏡で目撃したときの日記とスケッチが発見され、それによれば「彼らはしばしば先頭を代えて進み、6時32分に絶頂に登った」と記されていて、デュマの記述と正反対の内容であった。

 そして、初登頂からじつに143年後になって、パカール本人が書き遺した手記が発見され真相が判明して『アルパイン・ジャーナル』に掲載された。それには、「荷物を分担しょうとバルマの他に案内人を連れていこうとしたが、報奨金を独占したいバルマが断った。私たちはほとんど同時に山頂に着いた。」と記されていた。

 今、シャモニーの町の中心地に二つの銅像が建つ。ソシュールと一緒に並び立ってモンブランの方向を指さしているバルマの像と、もう一つはパカール一人が座っている像でパカールが名誉を回復してから新しく建てられたものだ。
 それにしてもバルマはなぜパートナーを生涯中傷し続け、パカールもどうして自らの山行記を最後まで発表しなかったのであろうか…。永遠の謎である。

           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№216から転載

  
 
  


 

シモバシラ観察会=市田淳子

日 時 : 2016年12月29日(木)高尾山口駅9:00集合

メンバー:L栃金・市田 上村、武部、岩淵、中野、開田

コース:稲荷山コース~高尾山頂 11:15~シモバシラ観察 11:30~一丁平 12:15<昼食>~城山 13:10~西尾根コース~相模湖駅着15:15


 シモバシラ観察会を計画したものの、気温が高すぎてシモバシラが期待できないかもしれないという不安があり、稲荷山コースを歩きながら、もう一つの観察会を行うことにした。

 登山の愉しみは、その山の自然を知ること。高尾山は599mという低い山なのに、なぜ登山客を魅了するのか。一言で言ったら、日本で一番小さな国定公園なのに、生物多様性が考えられないほど豊かだということだ。

 高尾山はケーブルのラインの辺りで西の植物と東の植物が出会う。

 さらに沢があることで渓谷林、針葉樹林がある。植物種が豊かということは、昆虫、鳥類等も豊かになる。
 歩き出す前に、稲荷山コースに多い樹種の葉を見てもらい、それぞれの特徴を思うまま述べてもらった。1種類だけは覚えて帰ろう!という同定の目標を持って歩くことにした。

 同じカシでも葉っぱの形、鋸歯(ギザギザ)の様子が違う「シラカシ」「アラカシ」。ドングリを実らせる落葉樹の「コナラ」。鋸歯に特徴があり、薄くて壊れやすい「イヌシデ」この4種は、都内の公園や雑木林にもたくさん生えている。
 そしてもう1種は「イヌブナ」鋸歯の伸び方が超特徴的! 稲荷山コースを歩くと、南側の斜面に照葉樹であるシラカシやアラカシが目立つ。

 その中にコナラ、イヌシデが混じる。そして、なかなか現れなかったイヌブナはかなり上の方に登ると出会うことができた。植物はちゃんと自分の棲む場所を心得ている、というより適した場所で長い時間をかけて進化してきたのだ。
 こんな目を持って高尾山を歩くのもたまには良いものだ。



 さて、肝心のシモバシラ、貧弱ではあるが、何とか私たちの期待に応えてくれた。暖かい日が続いたが、この日の朝は冷え込んだため凍ったのだ。

 枯れた植物の茎から形成される氷の芸術。これを見ずに春を迎えることはできない。自然は人間と比べることができないほどの才能溢れる芸術家だ。

 しかし、この芸術家も温暖化には勝てない。10年ほど前は、「誰がトイレットペーパーをこんなに落としたんだろう?」と思うほど「氷の花」だらけだったのに。そうは言っても、今冬もシモバシラを見ることができた。来冬も変わらず見られますように。

 高尾山頂では顔を見せなかった富士山も一丁平辺りから綺麗に見えてきた。
 ポカポカ陽気の中、ほぼ予定通り相模湖駅に到着。楽しい一年の締めくくりの山行だった。(森林インストラクター)

        ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№209から転載

カメラで登る北アルプス・針の木峠~七倉

2017年9月9日から、北アルプスに入りました。


 3日間は快晴でした。朝の北アルプス連峰はとても魅せられてしまいます。

  ふだん都会で汚れた心身が洗われます。



 扇澤バスターミナルから、登りはじめる

 渓谷のガレ場をトラバースしながら、高度をあげていく。

 最初に目指すは、針の木峠です。

 針の木大雪渓は、九月ともなると、ダイナミックさが欠けてくる。

 戦国武将の富山城・藩主の佐々成政が、1584年、浜松の徳川家康に会いに行くために、厳冬期に、立山から黒部、さらに針の木峠をこえて信濃に降りてきます。

 富山・芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に、家臣18人とともに往復しました。

 天空に、大鷲(おおわし)が飛来する。

 瞬間の、シャッター・チャンス

 はるか遠方に、岩稜の正殿・剣岳が雲をかぶっていました。


 蓮華岳の山頂から、針ノ木峠が雄大に屹立(きつりつ)しています。

 蓮華岳から北葛岳へと縦走が始まります。

 「上り、下り」、そして休憩の単調さのなかにも、両側の美観が心を癒してくれます。



 ちょいと、ここらで休憩をとろうよ。

 とても、いい顔。


 渓谷からわきあがる白い雲が、稜線に化粧をはじめました。

 

 キレットの難解な痩せ尾根に挑戦します。
 
 まずは小休止で、精神統一です。

 統一しても、滑落する奴は事故るんだよな。

 達成感は格別だね。


 七倉小屋は、ランプと囲炉裏がある、風情豊かな山小屋です。

 売り物の囲炉裏は薪をくべていなかった。

 煙公害で、苦情でも寄せられるのかな。

 囲炉裏をとりかこんで、朝夕の食事を摂(と)ります。

 ビールとアルコールと、会話で満喫です。

 高山植物はわずかに咲いていました。

 ここらは、まだ鹿害が及んでいないようです。


 七倉岳からの下山です。顔がすべてを物語っています。

八ッ場ダム建設予定地一望の高ヂョッキ山行  栃金正一

1.期日 : 2010年4月25日(日) 天気:晴れ

2.参加メンバ : L 上村信太郎 武部実 栃金正一

3.コース : 須賀尾峠~高ヂョッキ・丸岩、八ッ場ダム広報センター

 朝の6:30に、三鷹から車にて出発する。
9:20に、須賀尾峠に到着した。道路脇には石仏があり、その脇の樹木に高ヂョッキの登山口のプレートが小さく付いていた。
「高ヂョッキ」とは「高い突起」と言う意味らしい。
 登山道にはまだ芽吹いていない雑木 林の中に細々と続いている。

  天気は快晴で、少し冷んやりとした空気が心地良い。雑木林のなかを15分位歩くと、傾斜が急になり、痩(や)せ尾根を登っていく感じになる。
 途中、平坦なところで、小休止とする。

 ここで下山してきた2人とすれ違い、見送る。道は岩を含み、さらに急になり、力を振り絞って、一気に登りきると、急に目の前が開けた。10:30、山頂に到着した。

 1,209mからの展望は良く、雪をかぶった浅間山、草津・日光白根、男体山、赤城山、榛名山などが一望出来る。そのうえ、眼下には、八ッ場ダム建設予定地の、長野原の集落が広がっている。


 展望を満喫したあと、昼食をとり、11:30に山頂を出発する。下山する途中、丸岩方面へ続くと思われる道に入るが、不明確のため、須賀尾峠まで戻ってくる。

 丸岩の登山道は、高ヂョッキの麓を回り込むようについており、30分位で、山頂に着く。展望は木々に囲まれていて、あまり良くないけれど、葉のついていない木々の間からは先ほど登った高ヂョッキが天を突くように尖って見える。

 丸岩を後にした私たちは、車で八ッ場ダムの工事地域に向かう。途中、道路からは大きく堂々とした風貌で立っている丸岩と、 その隣に尖った高ヂョッキを見ることが出来た。

 14:30、八ッ場ダムの広報センターに到着する。観光客がバスなどで、大勢して見学に来ている。
 ここからよくテレビに出ている建設中の橋を見ることが出来る。現在、橋は全部つながっている。ダムは出来るかどうかわからないが、高ヂョッキから見た河原畑地区の美しい自然や集落がダムの下に沈むのは、すこし寂しい気がした。

 15:30に出発する。帰りは高速道路がすこし混雑していたが、18:30には三鷹に到着した。高ヂョッキ、丸岩とも無名な山だが、ニュースになっている八ッ場ダム予定地の風景を脳裡に焼き付けることができた。


            ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№128から転載

前日光牧場と横根山   佐治ひろみ

日程 : 2012年5月30日(水) 曇り、晴れ

参加者 : L後藤美代子、佐治ひろみ、本多やよい、脇野瑞枝

コース : 前日光牧場駐車場~横根山~五段の滝~井戸湿原~ぞうの鼻展望台~駐車場


 7:00、都内・目黒駅ロータリーに集合した。後藤さんの車で、前日光県立自然公園へと向かう。

 ここは鹿沼と足尾の中間より、やや足尾寄りにある。牧場と湿原と、今の時期はたくさんのつつじが楽しめるようだ。

 車の中のおしゃべりを楽しみながらも、3時間。前日光牧場に到着する。今日の天気は、曇り時々晴れの予報である。
 日に焼けなくていいが、遠くの展望はどうだろう?
 駐車場にわれらの車を置き、ハイランドロッヂで、トイレや準備を済ませてから10:30にスタートする。
 標高1300メートルの高原は、清々しく、木々や牧草の緑が実にきれいだ。牧場のなかの道を横根山に向かう。
 牧場といっても、牛はいない。後藤さんが前回に来た時もいなかったようだから、夏の間だけ、下の農家から牛を預かるのだろう。

 色とりどりのつつじの花がお出迎えしてくれる。ミツバツツジの濃いピンク、淡いピンクや白のヤシオツツジ、赤い山ツツジ、オレンジのレンゲツツジ、足元には数々のスミレ、まさに高原の春の景色だ。
 急坂も無く、だらだら登ると、横根山の山頂(1372)。展望は無いけれど、回りじゅうツツジ。そこから今度は、井戸湿原へと下る。
 この道も、両側にピンク、ピンク、白と咲く。…地元のおじさんや中学生たちも、大勢来ていた。

 湿原に下り切ると、五段の滝を見てから、一周することに決めた。

 木道を歩いて行くと、森の中にせせらぎが聞こえてくる。大きな滝ではないが、数えると、五段になっている。
 写真を撮り、周回コースに戻ってくる。ちょうど、広々とした草原が見渡せる中間地点で、昼食を摂った。


 12:30、午後の部のスタートである。
 湿原の残りを半分を歩き、それからは林の中を登ること30分。ゾウの鼻という展望台に着いた。晴れていれば、関東平野、富士山、男体山、赤城山などが見えるはずだった。だが、今日は残念ながらどの山も見えない。

 すこし休憩の後、気持ちの良い道を、私たちはハイランドロッヂに向けて戻って行く。ズミだろうか? 白い花があちこちに咲いている。

 13:30、駐車場に到着した。本日のハイキングは無事に終わりました。お陰様で、1年分の美しいツツジの花を堪能するすることができました。

 運転の後藤さん、お疲れ様です。ステキな所を教えてくれてありがとう。

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№156から転載

黒部・下ノ廊下=武部実

 2010年9月30日(木)~10月2日(土)

 参加者 L栃金正一、武部実以上2名

【コース】

 2日目 ロッジくろよん(5時40分出発)⇒下ノ廊下⇒阿曽原温泉小屋(15時40分着)

 3日目 阿曽原温泉小屋(5時00分出発)⇒水平歩道⇒欅平(11時30分着)

【一日目】

 新宿駅7:30発特急「あずさ3号」で信濃大町駅11:01に着いた。
 扇沢までは、バス。そこからトロリーバスに乗り換えて、黒四ダムには13:45に到着した。ダム周辺を少し観光してみたが、雨が本降りになり、明日の天候回復を祈るばかりだった。
 ロッジくろよんには14:40に入る。

【二日目】全員が4:30に起床する。。窓から空を見上げると、これぞ満点の星空だった。ホッとしたのが、正直な気持ち。
 前日にロッジに頼んでいた弁当を食べてから、5:40にロッジを出発する。黒四ダムには6時過ぎについた。丁度、ダムの観光放水が始まるところで、運良く見学することが出来た。

 旧日電歩道の標識にしたがいながら、下って黒部川を渡り、1時間ほどで、内蔵助出合に着く。
 ここらあたりから、岩壁側にワイヤーが付いている。右側は断崖絶壁の幅70~80㎝の歩道が続くこととなる。
 黒部川を見ると、いまだ溶けずに残っている雪がいくつもの自然のスノーブリッジを作っていた。(写真参照)

 歩道はいまだ二ヶ所で、作業員が道の補修工事を実施していた。実際の道は危険な個所もなく、峡谷の絶景を堪能しながら、所どころで、写真を撮ったりして、ゆっくりペースで歩を進めていく。

 歩き始めてから7時間弱で、いくつかの峡谷を通りすぎた。最高の見所十字峡を吊り橋の上から眺め、さらに一時間で半月峡を過ぎた辺り、前方には黒四発電所2棟が姿を現す。

 黒四ダムから、ここ迄水を通して発電しているのだ。さらに一時間弱 歩くと、仙人谷ダムになる。
 登山道はそのダムを渡り、管理棟のドアノブを開けてから宿舎内を通る、不思議な登山道である。
 途中、有名な「高熱隧道」を横切るのだが、2~3m入っただけでも、サウナ状態になる。たしか、岩盤温度が最高で160度になったという。
 戦前に、この作業させられた人たちの苦労がしのばれる。

 宿舎を出てから、すぐにこの道で唯一の急登になる。歩き初めてから9時間後の急な登りは実にきつい。20分くらいで、また平坦な道に戻り、小屋の手前で、今度は急な下り道である。ようやく徒歩10時間で、15時40分に阿曽原温泉小屋に到着する。

 ちょうど入浴時間が男性だから、宿泊手続きをする前に、すぐ入ってほしいとのこと。小屋から歩いて7~8分の所にある野天風呂にでむく。
 旅の疲れに、温泉は最高でした。


【三日目】

 朝5時過ぎに、同小屋を出発する。まだ、暗くヘッドランプをつけた行動である。夜が明けるころには、水平歩道になる。
 こちらの道も下ノ廊下と同じく、岩壁側にワイヤーが張ってあるので、安心だ。折尾の滝に7:50に着いた。ここから一時間弱で、ななめ前方には欅平が望めるようになる。
 そして、このルート一番の絶景ポイントの大太鼓につく。
 絶壁下には、黒部川が前面には数百mはあろうか、という迫力ある赤い岩壁が聳(そび)えていて、迫力満点の絶景である。
 15分で志合谷に、沢の下をくりぬいた登山道唯一の150mあまりのトンネルである。ヘッドランプをつけても、まだ暗く、下は水浸しで濡れるし、頭は天井にぶつけるで、怖くて恐る恐るゆっくりと歩いていく。

 10:40に欅平に到着。トロッコ列車~宇奈月駅~魚津駅~湯沢駅~新幹線と乗りついて帰途につく。

 下ノ廊下は、開通期間が年間のうちで、9月から10月末までの約2ヶ月間に限られている。利用人数は2千人弱ということらしい。
 わずかな登山者しか、せっかくの絶景を見ることができないのは、本当にもったいない話だ。
 皆さんも、来年あたりに挑戦してみてはいかがでしょうか。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№134から転載

「山の日」大崎上島・神峰山大会=『初潮のお地蔵さま』 【冒頭の一節】(4)

 うすい単衣(ひとえ)姿の13歳の恵美(えみ)が、女郎屋(じょろや)『立木屋(たちきや)』に連れてこられてから、すでに2か月半が経(た)つ。

 清楚な娘にはおよそ縁遠い場所だった。
 立木屋は、大崎上島の木江(きのえ)港にあり、『一貫目(いっかんめ)遊郭街(ゆうかくがい)』と呼ばれる目立つ場所にあった。

 朝日が昇るまえ、室内がうす暗いうちから、彼女は働きづめである。釜戸(かまど)に枯れ松葉をつかって火を熾(おこ)す。土間の窓ガラスまだうす闇で、恵美のはたらく姿が写る。
 細面の恵美は、二重瞼で、目鼻立ちがはっきりしている。艶(つや)のある黒髪は、後ろで束ねて輪ゴム一つで結ばれていた。

 台所の一角には、近所の造船所の廃材が積み重ねられていた。恵美はそれを鉈(なた)で細く割り、釜戸に入れて赤い火を大きくする。

 釜戸の火が上手(うま)くまわると、ぞうりを脱ぎ、板の間の食堂にあがり、折り畳み式の長テープを3つならべる。それぞれの四脚を開く。背丈ほどの戸棚(とだな)から、姐さんたち7人の食器、箸、湯呑み茶碗をテーブルにならべていく。

「順番がまちがうと、姐さんたちから癇癪(かんしゃく)玉(たま)を投げつけられる。この位置で大丈夫かしら」
 食器類を個々におく位置すら、彼女は慎重(しんちょう)にも慎重をきす。それとは別に、立木家の四人家族用の食器類をお盆にのせはじめた。


「もう6時まえ。急がなければ……。朝帰りの早い船員がいると、たいへん」
 彼女の視線が壁のながい柱時計にながれた。
 帰りぎわの男の顔を見たらいけない、といわれている。泊り客が帰る前に、玄関を掃除しておかないと叱られる。

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「山の日」大崎上島・神峰山大会=『ちょろ押しの源さん』 【冒頭の一節】(3)

 祖父の大学ノートが押入れの片隅から見つかった。セピア色に染まったノートの書体は古い。

 祖父はいっとき瀬戸内海に浮かぶ大崎上島の木江(きのえ)中学校の教員だった。ノートを読む私には、祖父の島嶼(しま)の生活やしごとメモにさして関心がなかった。

 一方で、克明に記載(きさい)された『ちょろ押しの源さん』には、つよくこころが引き込まれるものがあった。
 太平洋戦争の敗戦後で、世のなかがまだ食糧難のとき、ひときわキラキラ輝いていた港町があった、と祖父は特徴を書いていた。これは日記かな? 祖父は小説家に憧(あこが)れていた節があったようだから、取材メモかな。どちらにでもうけとれる内容だった。


 祖父の古い大学ノートをもった私は、真夏に、現地の島を訪ねることにきめた。呉線の竹原港から、大崎上島行きの高速連絡船に乗船した。
 瀬戸内の澄んだ青い海上に浮かぶ、どこか富士山に似た名峰があった。


 わたしの視線の方角を知ったのだろう、乗船客の年配女性が、
「あれは神峰山(かんのみねやま)よ。悲劇のお地蔵さんが数百体もあるの。いまでも、大切にされてね。夏場は、みんなして冷水をくみ上げて、お地蔵さまを水で洗って、磨いて、亡くなった若い娘たちを祈ってあげているのよ」
 とおしえてくれた。

 その数の多さにおどろかされながら、どんな悲劇なのか、と問う間もなく、高速艇が大崎上島に到着した。

 祖父が『ちょろ押しの源さん』を書いたのは昭和20年代後半だろう。祖父とちょろ押しの源さんは、ともに将棋が好きだったらしい。

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第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(2)

 この島は、瀬戸内海で最大の離島です。名峰・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が眺望できる、絶景です。

 さらなる特徴として、多くの幼い少女、若い娘さんがお地蔵さんとして祀られています。


 室内会場:大崎上島町観光案内所2階 ( 白水港フェリー乗り場から徒歩1分)


開会の挨拶は、大崎上島地域協議会・事務局長  榎本江司 さん (左)


 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から、世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げました。
 このたび、大崎上島において、8月11日の祝日「山の日」に、大崎上島・神峰山大会を開催することができました。


 どんな悲哀があったのか、時代背景などを朗読・小説で知ってください。そして、鎮魂歌の演奏を聴いたうえで、皆さんで神峰山に登り、「悲哀のお地蔵さんを洗う、磨く、祈りましょう」 


 司会  平見健次 さん (右)

 朗読 三原 みずえ さん

     濱本 遊水 さん

 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 「ちょろ押しの源さん」

   第2部 「初潮のお地蔵さま」

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化しています。


音楽演奏者

      Duo de naranjo(デュオ・デ・ナランホ)

・三須磨 大成さん(ボーカル・ギター)

・三須磨 利香さん(ボーカル・パーカッション)

  


 * キューバ音楽による鎮魂歌を聞き入る。



 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート
 
 大崎上島町の木江町は、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。そして、多くの悲劇が生まれた。


 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動しました。~ ハンドタオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布されました。
  
 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいきました。

  石仏の巾や前掛けを付け直します。
 

                       【つづく】        

第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(1)

 大崎上島は、瀬戸内海で、最も大きな離島である。(離島振興法による)。平成の大合併では、周辺の島々は、地方都市に吸収されてしまった。
 しかし、この大崎上島町は、広島県の豊田郡で唯一の市町村として残る。

 この離島で、「山の日」をやろうよ。なぜ?「海の日と勘違いしているんじゃないの」ということばも飛びだしてきた。そうだろうな、瀬戸内海のど真ん中で、「山の日」だから、おどろかれるのは当然だ。

「神事の回伝馬競争、サマーフェスティバル、盆踊り、諸々の行事が立て込んでいる。お盆の時期は、島にはイベントがたくさんある。そんな手が回らないよ」

 8月11日は、ナショナル・ホリディ―だから、別の日にやろう、というわけにもいかない。国家が決めた祝日だから。

「ともかく、やろうよ」 

 広島県・大崎上島町で、平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日)に、11:00~15:00、イベントが開催された。
『第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会』で、主催者:広島県・大崎上島町地域協議会(藤原正孝会長)、後援:全国山の日協議会(谷垣禎一会長)である。

 大会名:悲劇の石仏を「洗う」「磨く」「拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

 瀬戸内の名峰・神峰山は、昨年『しま山100選』に選ばれた。北は利尻富士とか、南は屋久島の宮浦岳とか、その著名な山と肩を並べている。

 神峰山(標高452m)の山頂から、日本一、大小115島が眺望できる、絶景である

 この島は、明治初年からに昭和33年の売春防止法の制定まで、約100年間近く、瀬戸内随一の遊郭が発達した「木江港」(きのえこう)があった。

 明治から戦争の連続で、暗い時代だった。富国強兵だから、国税は軍事費につかわれてしまい、国民の社会福祉や民の生活向上には回ってこない。挙句の果てには、太平洋戦争の敗北で、国民はさらに飢えてしまった。

 この間、「貧乏人の子だくさん」という言葉が日本を支配していた。「口減らし」「満州や海外移民」「ひそかな間引き」とか、食糧に対する過剰人口であった。貧困や食糧難の犠牲になったのが、口減らしの対象となった少女や若き女性だった。

 遊郭に、5~10歳で売られてしまう。そのうえ、14、5歳になると、青春を愉しめず、
「日々、身を売って、親や兄弟に仕送りする」
 という貧困家庭を支える働き手になった。

 遊郭の劣悪な環境の下で、結核や性病、過酷な精神的・肉体的な負担から、いのちを落とした少女や若い娘が多い。
 遺骨が引き取られない、あるいは帰っていく先がなくて、無縁仏になる。

 この島の尼僧が、明治初期から昭和50年代まで、3代にわたり庵を守りつづけてきた。こうした不幸な子どもたちが亡くなると、お地蔵さんを作ってあげる。そして神峰山に奉じてきた。その石仏は、数百体ある。

 島人がいまなお赤いエプロンを着せてあげている。個人なのか、団体なのか、それはよく解らない。

「山の日」に、時代の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることにした。

                    【つづく】