登山家

国民の祝日「山の日」の意義を知ろう=山の恩恵と日本人

 世界で初めての、ナショナルホリデー「山の日」の成立過程から、意義、そして日本人が山を愛でる心まで、インターネット 超人大陸で、衆議院議員 務台俊介さんがとても、わかりやすく説明されています。

 タイトルは『2016年8月11日「山の日」 国民の祝日がスタート それは地方を 元気にしていくこと」衆議院議員 務台俊介氏』


 山の恩恵の歴史的・文化的な意義が、『燃える山脈』によっても描かれていますと、務台さんは作品の骨子とテーマにも、簡素にして明瞭にうまく紹介されています。

 拙著『燃える山脈』の本に関心がある人、祝「山の日」の意義を知りたい人、外国人が山を敬虔な存在としてみる日本人をどう見ているか、ことしの8月11日に開催される「第一回全国大会・上高地」がどんな祝典が計画されているか。皇室の方々は参加されるのかしら……、

 それらも知りたい人は一度は見てほしい、You Tubuです。


【関連情報】

① インターネット 超人大陸ここを左クリックしてください。

②山岳歴史小説「燃える山脈」は、各書店、ネット販売でも、品切れ続出です。山と溪谷社は増版の印刷に入っています。6/16頃までお待ちください。

秀麗富嶽十二景の富士山が絶景なり、百蔵山(1003m)=武部実

平成28年1月16日(土) 

参加メンバー : L武部、中野、+武部妻の計3人

コース : 猿橋駅 ~バス~ 福泉寺 ~ 大同山 ~ 下和田分岐 ~ 百蔵山 ~ 下和田分岐 ~ 百蔵山登山口入口 ~ 猿橋 ~ 猿橋駅 

 猿橋駅9時発のハイキングバスで百蔵山登山口入口まで行く予定だったが、9時になってもバスが来ない!
 後で気づいたのだが、バスは4月~11月の期間限定であった。

 急きょコースを変更し、9:13発の小菅の湯行きに飛び乗る。福泉寺までは十数分、ほとんどの登山者がここで下車した。
 9:30に出発する。20分ほど舗装路を登ると、道が左右に分岐する。山道らしい雰囲気の左の道に入ったはいいが、道は荒れていて、登山路は倒木だらけで歩きづらい。
 最初の頃は踏み跡もしっかりしてマーカーテープもところどころ見かけた。だが、だんだん踏み跡も怪しくなり、マーカーテープも見かけなくなった。そして、意外と急登で大変だ。

 この道で間違いないのか、と少し心配になった。とにかく稜線にでれば何とかなると、一生懸命登ること約一時間。ようやく上部に登山者の姿が見えるようになってきた。
 どうやら、私たちより後から出発したパーティのようだ。左右ルートの合流地点には祠があり、一休み。ここからは普通の歩きやすい登山道となった。杉林を歩き、大同山を過ぎて、下和田の分岐を過ぎれば、松林の先は百蔵山の山頂だ。

 12:00ピッタシに、百蔵山の山頂に到着した。

 天気が良くて、ぽかぽか陽気のハイキング日和だ。頂上はざっと数えて60~70人もの登山客で大賑わい。秀麗富嶽十二景の富士山がバッチリと眺めることができた。

 12:45に出発。いま登ってきた道を下り、下和田分岐から猿橋方面に下山していく。他の登山者もこの時間から行動を開始している。続々と、私たちを追い抜いて行く。

 14:00に、百蔵山登山口入口のバス停留所に到着した。名勝の猿橋は、ここから約30分。猿橋には、いつもなら無料の説明してくれるボランティアさんがいると聞いていたが、当日はたまたまお休みだった。上から桂川を眺めたら、ゴムボートを漕いでいるのが見えた。将来、桂川で遊覧船が就航できるかどうかの調査をしているとのこと。
 登山帰りに舟に乗るのもいいかも……。

 今回の山行は、バスの運行時期を間違えたが、たまたま他のルートがあったので、そちらを行くことが出来たので助かった。もっと慎重に調べなくてはいけないですね。反省。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№199から転載

バリエーションは多彩、ぜいたくな孫山・嵐山 = 栃金正一

1.期日 : 2015年12月26日(土)晴れ
2.参加メンバ : L栃金 上村 飯田 野上 武部 佐治 原田 
3.コース : 相模湖駅 ~ 貝沢登山口 ~ 大平小屋跡 ~ 孫山 ~ 小原の郷 ~ 小原本陣 ~弁天橋 ~ 嵐山 ~ 相模湖駅

 JR相模湖駅に8:30に集合した。今日のコース・スケジュール等を皆で確認し、準備をして8:40に出発する。
 線路沿いの細い道路を、藤野方面にむかってすすむ。中央高速道路を潜り抜け、貝沢コース登山口に8:50到着。ここからは貝沢沿いの林道をしばらく歩く。橋を渡った所が林道終点になる。

 ここから登山道に入り、小さな沢を渡ったりすると、やがて道は沢からはずれ、山腹を登る感じになる。緩やかな九十九折りになっていて、思ったより簡単に、稜線の大平小屋跡に9:45到着。ここで少し休憩をしてから出発する。

 途中、コースをはずし大明神山に行ってみたが、ピークと思われる所には何もなく、朽ちた柱みたいなものが横たわっていた。
 コースに戻り、少し先の孫山への踏み跡をたどり斜面を登って行く。やがて平坦な植林地帯となり、木に『孫山548m』と書かれた小さな標識が付いていた。孫山には10:05に到着する。


 ここからは、バリエーションルートである「東尾根下降コース」を小原の郷まで下る。コースの入口はわかり憎い。薄い踏み跡をたどり下って行くと、小原方面への道標があった。
 登山道は相変わらず踏み跡は薄く、緩い下りの傾斜になっている。落ち葉でフカフカしており、足にやさしく良い感じで歩ける。
 バリエーションコースなので、他にだれもいなく静かな山行が楽しめる。
 ところどころに標識があるので、迷う心配はなく、日が当って明るい尾根道をどんどん下って行
く。やがて尾根は終わり、急斜面の下降となる。
 崩れやすい道を慎重に下る。下り切った所の小さな沢を渡り、道路に出て少し行くと、小原の郷に11:35到着した。

 日当たりの良い芝生の上で、待ち遠しかった昼食をとる。


 (写真は小原本陣)

 昼食後は、近くにある「小原本陣」に行き、昔の生活様式等を見学する。12:30、次の目的地である嵐山に向けて出発する。
 途中、相模川に架けられた弁天橋を渡る。この辺りは川幅が広く、入り江などもあり、景色が良いところである。

 13:05。嵐山登山口に到着する。登山道は、しっかりしており傾斜もあまり無いが、登り一辺倒なのでゆっくり登る。13:45嵐山の山頂に到着した。

 山頂は広々として神社がある。展望は良く、眼下には相模湖や奥高尾の山々、および先ほど下ってきた孫山東尾根などを見ることができる。
 日当たりの良い山頂で、ゆっくり休憩をした後、下山。登山口には14:35に着いた。ここからは、最近改修された大きな相模ダムの上を通り、15:00には相模湖駅に全員無事に到着する。

 天気に恵まれ、内容が盛り沢山の充実した山行となりました。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№199から転載

23,528歩なる長距離ハイク・影信山(727m) = 横溝憲雄

 平成28年3月13日(日) 曇、

 参加者:L横溝、松本、(藤田)源氏より4人(7名)       

 コース : 高尾駅 ~(バス)~ 大下(おおしも)バス停 ~ 小下沢林道 ~ 登山口 ~ 影信山(昼食) ~ 小仏峠 ~ 小仏バス停 ~(バス)~ 高尾駅       

 高尾駅に9:00集合だ、私は一足先に着いたが、小仏行バス乗り場は人の群れ、群れである。
 「皆さーん早く来てください……」
 全員が集合した。バスは2台(増便を含めて)用意されたおり、登山予定どうりの9:12発のバスに乗車できた。
 最初の1台を追いやって、増便だったので、全員が座れた。これはラッキー。


 車窓からは、道中の梅祭りの賑わいがみれた。このまま「梅祭り宴会」に切り替えてしまいたいほどの気持ちになる。20分程の乗車で、大下(おおしも)バス停に着いた(9:35)。

  バス停から少し戻り、中央本線のガードをくぐり、小下沢(こげさわ)林道へとむかう。入口は高尾梅林で、梅が満開で、綺麗である。
 しかし、園内は解放されておらず、外部から写真を撮るなどして、しばし鑑賞する。林道はせせらぎの音を耳にしながらの、快適な道だった。

 45分程、森林浴をしながら歩くと、北高尾山稜方面の道と交叉する登山口へ(10:20)でた。
 
 
 山登りの身支度して、いざ出発。以前にも歩いた路だが、表から登るよりも距離がかなり長い。だが、斜度はきつくない。それでも、混成パーテイーで、各人の歩く速さが異なり、速足の人にはゆっくりリズムだとストレスもたまると思い、中腹からは先行してもらい、頂上で落ち合うことに決めた。


 途中の岐路で、間違いのないよう指示する。頂上に近くなると、寒さが増し、何と雪が木々の枝に凍り付いているでは。それは実に綺麗な景色だった。
 何やら、パラッ、パラッという音が聞こえてくる。
 なんと木の枝に凍り付いていた氷が落ちていた。初めての経験で、すごく神秘的だった。


 やがて、頂上へ(12:00)に到着した。
 大勢のハイカーで、にぎわっていた。鍋を囲んでいるグループもいた。われら先行隊が東屋の下を確保してくれていて、「さー、ランチ宴会」となる。

 恒例のワインで乾杯、ビールも。しばしランチタイム。しかし、寒さが身にしみる。ランチ宴会もそこそこに下山することになった(12:55)。当初の計画は小仏城山までであったが、こんかいは景信止まりにした。

 帰路は、直下はせず、小仏峠へまわり込み、小仏バス停へと下る。14:30着。予想通り、やはり、たくさんのひとたちだ。バスは2台待機している。14:40発のバスで、高尾駅へ(15:00)。

 同駅前のソバ屋で、焼き鳥・源氏の煮込みと、味がどう違うかなどと、吟味しながら反省会をおこなう。
 自宅に戻ると、計5H(歩4H) 帰宅時まで23,528歩という、長距離ハイクだった。お疲れさま。
 

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№200から転載

山と溪谷社『燃える山脈』が発売を開始=好調な滑り出し

 国民の祝日「山の日」が、ことし(2016年)8月11日から施行されます。同祝日の制定記念として、「山と溪谷社」から山岳歴史小説『燃える山脈』が6月3日に全国一斉に発売されました。価格は1600円+税。

 前日の2日に「市民タイムス」が紙面で、大きく『待望の全国発売』、『歴史の通説を ひっくりかえす』と報じてくれました。

 発売日にも、同紙が  「市民タイムス講演会 『燃える山脈』連載秘話を語る 7月2日 無料・500人(申し込みは、はがきかFAX)」  と社告を出してくれています。

 こうしたメディアの後押しもあり、発売当日の午前中で、ネット関係が売り切れてしまうなど、好調な滑り出しとなっています。

 さかのぼること、同法案が超党派の議員連盟で提出されて成立したのが、2014年5月23日です。「山の日」がナショナル・ホリディーになるのは世界で初めてであり、ワールドなニュースになりました。

 全国「山の日」制定協議会の個人会員だった私は、法律が成立した後、「山の恩恵と人間とのかかわり」をテーマとした長編歴史小説を書くことになりました。すぐさま長野県・岐阜県・香川県・東京都など、各地へ取材に入り、同時並行で執筆をつづけてきました。
 
 翌2015年10月1日から、松本市に本社がある「市民タイムス」において、新聞小説を開始いたしました。挿絵は中村石浄(せきじょう)さん。この5月31日まで、毎日(新聞休刊日以外)、約237回にわたり連載してきました。

 第1回「山の日」記念全国大会が、ことし8月11日に上高地で開催されます。
 それまでに、山岳歴史小説「燃える山脈」を通して、「山の日」の深さと意義を知っていただきたい。この意向から、新聞連載が終了した直後ですが、山と溪谷社の尽力で、単行本として6月3日から全国一斉販売となりました。
 
 作品は市民タイムスの初出「燃える山脈」に、飛州新道の開通後の、波乱に満ちた主人公や上高地の運命を加筆しています。そして、『幕末に消えた上高地』でエンディングになっています。

 宣教師のウェストンが上高地を開いた、と思い込んでいる方々には、ぜひ読んでいただきたい本です。
 信州・飛騨の人たちが『いのちの源』を切り拓いた壮絶な歴史ドラマです。

登山者に交じってトレランの人が多い、奥多摩・御前山=武部実

 御前山(ごぜんやま 1405m)=武部実

 平成27年10月10日(土) 

 参加メンバー : L武部、上村、佐治、関本、大久保、脇野、松村、中野、針谷の計9人

         すにいかあ祭り参加者:渡辺、石村、横溝、原田、針谷、砂田の計6人

 コース : 奥多摩駅~バス~奥多摩湖~御前山~クロノ尾山~ウッデイハウス

 恒例の「すにいかあ祭り」前の山行。三連休の初日とあって、奥多摩駅の停留所は長い列だった。臨時便のバスに乗って、予定より早く、奥多摩湖の停留所に着いた。


 8:55に出発。ダムを渡って、10分ほど歩いたところが、登山口。最初から、意外と急登だ。天気予報では晴れだったが、当日は曇り空で、暑さを少しはしのげてほっとする。
 コナラやブナの樹林帯のなかなので、ドングリが一杯落ちていた。リスや熊さんの食糧だが、この辺はあまりいないのかな?

 10:10にサス沢山(940m)に着く。三角点があるはずだが、それらしき物が無い。捜すと御影石の上部が欠けている石を発見。どうやらこれが三角点のようだ。

 ここからは、北方面が開かれていて、眼下に奥多摩湖が望めるようになる。小休止して出発。大ブナ尾根の急登はまだまだ続き、境橋や月夜見山との分岐である惣岳山(1348m)に11:30に着いた。
 ここから頂上はあとわずか。最後のふんばりで、11:50に山頂に着く。

 一般の登山者に交じって、トレランの人が多いのが、最近の特徴だ。御前山も多かったので、調べてみると、毎週どこかの山でトレランの大会が開かれているのである。東京近辺でも、これから高尾山、五日市、奥多摩等で大会が計画されているのだ。

 12:25に山頂を出発する。大ダワに向かって稜線歩きだ。13:00に、クロノ尾山に着く。ここから下ったところがウッディハウス。昼なお薄暗い杉林を下って、約25分、最初のポイントの祠に着いた。狛犬が可愛い。

 ここからの道は枝落としなどで、だんだん不鮮明になってくる。もちろん普通の山によくある赤いテープ等のマーキングも無し。いずこも杉林の同じような景色で、道を間違えやすい。
 2時半に着くとメールしたのが、甘かった。心配していると思って、とりあえず私だけが急いでウッディハウスにむかう。3時に着。缶ビールを飲んで、鉄板焼きをほおばってほっと一息。バンガローの準備組の皆さんご苦労様でした。

 そのあと、次々と下山組が集まって総勢15人の乾杯で、楽しいひとときを過ごすことができた。


 ここで、残念なお知らせを伝えることになります。渡辺さんのご主人が設計し、長年「すにいかあ祭り」の会場として利用してきたウッディハウスが、今年の11月で閉鎖し、建物も解体するそうです。
 懐かしい方もたくさんいると思いますが、まだ建築25年、本当に残念です。

         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№194から転載

岩殿山(634m)、目の前は秀麗・富士山、真下は断崖絶壁=渡辺典子

 平成27年12月19日(日)晴、参加者 : L 横溝、針谷、渡辺、佐治(4名)       

 コース : 大月駅 ~ 岩殿城址入口 ~ 岩殿山ふれあい館 ~ 岩殿山 ~ 築坂峠 ~ 鎧岩 ~ 兜岩 ~ 天神山 【昼食】 ~ 稚児落とし ~ 登山口 ~ 浅利公民館前 ~ (バス) ~ 大月駅

 大月駅には9時40分に集合である。新宿8:14発のホリデー快速富士山1号に乗車する。特急券が不要の特急車両に乗れて快適そのもの。大月駅で4人全員が集合した。

 私は今回で、3度目の岩殿山の山行である。このたびも、暖かい穏やかな山行日和で、嬉しい。大月駅から20分程で、岩殿城址入口へ。ここが登山口である。なんと、もう秀麗な富士山が眺められる。

 登山の身支度をしてから、階段や砂利道を登り、岩殿山ふれあい館に着く。大月の市街や富士山を眺め一息入れた。またしても、階段や舗装されたジグザグ道を登り、40分程で、岩殿山山頂へ着く。10:45だった。.(丁度、1時間)。

 山頂では一段と美しい富士山を一望し、かぶと岩分岐まで戻り、狭い山道を下り、築坂峠に着く。11:10だった。それからアップダウンを繰り返し、いよいよスリルある岩場・クサリ場の第1の関門となる、鎧岩へ。
 クサリの張られた大きな岩場を登る。思うように足が上がらない。怖さはないが、足腰の衰えに愕然とする。
 前方で、岩場・クサリ場の訓練グループが大勢訓練中であったが、時間がかかるので、私たちは先に通してもらえた。土曜日で、好天気とあいなり、人出は多い。


 第2の関門の兜岩へ。岩のてすりにすがり、横方向にトラバースしていく。眼下は断崖絶壁。すぐにクサリ場、慎重に登る。腕に力を込め、脚力をカバーする。やっとのことでクリアできた。

 ホットして、周りを一望すれば、山並みが綺麗だ。さらに林の中を歩く。鉄塔が建ち、小さな祠のある天神山に到着した。丁度12:00だった。眼前には大きな富士山を眺められる、風のない暖かな場所で、ランチタイム。幸せをつくづく感じる。

 12:45に出発する、20分程下ると、雄大な大岩壁が見えてくる。稚児落としだ。13:10。大絶壁、何度見てもすごい迫力。ゆっくり慎重に歩きながら、大自然を満喫する。

 ここからは大月駅に向かって、ひたすら林の中を下る。途中には、ロープの張られた岩場の下りもある。一軒の民家が建った所が、登山口だった。
 県道に出て、バス停のある浅利公民館前へとむかう14:00。14:05発のバスに乗り、大月駅には14:15に着いた。

 時間も早く、次の列車までの間、駅構内の食堂で、冷たいビールで乾杯。このたびも気持ち良く楽しい山行ができました。お疲れさまでした。

(総行程4時間30分、歩3時間30分)


           ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№198から転載

芥川龍之介の槍ヶ岳登山 = 上村信太郎

『鼻』『羅生門』『或る阿呆の一生』などの小説によって、芥川龍之介の名はもっとも広く知られた作家である。
 晩年の病弱なイメージが強いせいか、青年時代に登山や水泳が得意な活発なスポーツマンだったことは一般にほとんど知られていない。特に登山は赤城山、木曽御嶽山、浅間山、槍ヶ岳などに自ら計画して登っている。

 芥川は明治25年3月、東京に生まれ、府立三中、一高、東京帝大と学び、小説家として生涯に膨大な作品を遺した。
 昭和2年7月、服毒自殺。享年35。晩年の代表作『河童』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判したものとして社会に衝撃をあたえた。このため命日を「河童忌」と呼ぶことは芥川ファンでない人にも知られている。

 小説『河童』に上高地が出てくる。主人公が〈僕は前に槍ヶ岳にも登ってゐました…〉と語っている。これは芥川が満17歳だった府立中学時代に友人たちと行った槍ヶ岳登山の体験を強く意識した描写と言える。

 この山行の紀行は、大正9年7月1日発行の『改造』第二巻第七号に『槍ヶ嶽紀行』として発表した。このほかに、『槍ヶ岳に登った記』と『槍ヶ岳紀行』という二つの未定稿もある。
 このため以前は、芥川の槍ヶ岳登山の年月が、たとえばA社の『芥川龍之介全集』の年譜では〈明治44年夏、槍ヶ岳に登る〉となり、B社の全集年譜では〈大正9年6月槍ヶ岳旅行〉などとなっていた。
 登ったのが1回か2回かもバラつきがあり、頂上まで登ったのか途中までだったのか出版社によっても違っていた。


 このように、書籍によって混乱が生じた理由は三つの槍ヶ岳作品とも、文章には登山した年と登頂したことについて一言も触れていないうえに、作品によって学友たち(実名)との山行であったり、案内人と2人だけの登山のように描写されているからなのだ。
 昭和54年発行の『三代の山―嘉門次小屋100年のあゆみ』のなかに、上條嘉代吉(嘉門次の長男)が明治42年8月に芥川一行を案内したことが載っているが、〈登頂せずどこまで登ったか不明〉という注釈が入っている。案内人側でもよくわかってないのだ。

 日本近代登山の父とされる英国人ウェストンが活躍していた明治期、創立3年目の「日本山岳会」一行(吉田孫四郎ら)が剱岳に登頂。拓いた谷に「長次郎谷」と案内人の名を命名したエピソードはよく知られているが、芥川の登山はこれと同じ年である。

 芥川龍之介、市村友三郎、中原安太郎、中塚癸巳男の4人が槍ヶ岳の頂に立ったのは、晴天の8月12日午前だった。
 このことが判明したのは、同行していた中塚が後に、旧制一高(東大の前身)旅行部縦の会発行の『失いし山仲間』(限定300部非売品)に登頂の事実を書き、また日本山岳会々員に証言していたからである。


 上高地の登山案内人組合では、平成20年に芥川龍之介槍ヶ岳登頂100周年記念として『芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋』を上梓している。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№132から転載

上高地の開山祭が開催される=さあ、北アルプスへ登ろう

 長野県・上高地で、4月27日(水)12時から、河童橋のたもとで、第48回開山式が行われた。同開山式の実行委員長は松本市長である。北アルプスの登山基地だけに、当日は約3500人が上高地に入っていた。


 穂高連峰の白い峻峰は例年よりも雪が少ない。稜線と谷筋が実に鮮明であり、(上高地がすべて雪で埋まった白一色よりも)、カメラマンが最も狙いたい、上高地のシャッターチャンスの景観にあたった。

 春の花はいつもよりも10日早いと予想されている。このさき二輪草、シャクナゲは早めに咲いて上高地をさらに彩るだろう。


 式典のスタート10分前から、アルプホルンの演奏がはじまった。旋律が豊かな自然美の山間にひびく。

 そして、 開山式の神事が、奥穂高を正面に据えて行われた。穂高神社の神主が登山の安全を祈る。

 ことしは世界で初めて、国民の祝日「山の日」が8月11日にスタートする。第1回全国記念大会が上高地で行われる。
 この点でも、注目度が高く、TV、新聞社など大勢のメディアが取材していた。

 梓川の河岸、河童橋の橋上からも、大勢が聴き入っていた。

 主催者は説明のなかで、上高地の四季を語っていた。
 
『春』 裸木から新芽が出て、柔らかな若葉に包まれる。清らかな花も咲きはじめる。

『夏』 登山シーズンで、国内外からやってきた、大勢の北アルプス登山者でにぎわう。

『秋』 紅葉が9月末に標高2800㍍あたりから、日々、急いで降りてくる。上高地は燃えるカラマツで真っ赤に染まる。10月半ばから末頃が最も見ごろになる。

『冬』 11月15日は閉山式で、豪雪のなかに上高地は眠る。


安全登山に対する留意点が、関係者から述べられた。


① 梓川の川底が持ち上がり、1年に1-2㎝ずつ上昇している。
   大水の氾濫による危険度が増す。雨が降れば、北アルプスの各地に設置した水量計に注意を払ってほしい。

② 10年前にはここ焼岳が噴火した。
   御岳山噴火による大災害が記憶に新しい。活火山の登山には充分気を付けてほしい。

③ 2011年6月には、上高地の釜トンネルの出入口で土石流が発生し、1200人が足止めになった。山崩れなど、自然の猛威はいつ襲ってくるかわからない。

 熊本・大分の大地震が連日報道されている。登山者はつねに安全登山を心掛けてほしい。 

 上高地の象徴の一つ・焼岳の噴煙は見えなかった。風向きで、煙りはきっと飛騨側に流れているのだろう。橋の上では、鏡開きが行われた。


 曇天で、雲行きはあやしかったが、式典のあと、帰路につくまで、雨が降らなかった。ただ、高所の稜線には厚い雲がかかってきた。

 上高地は、国外からの登山者やハイカーが増えてきた。穂高連峰の絶景は、国境超えて、人々を魅了するようだ。


 欧米人は半袖姿の薄着だ。女性も、暑いと上着を取る。日本人は、防寒着なのに……。
 マレーシアからきた女性ふたりは、スカーフを巻いたお国自慢の姿である。色彩豊かな高山植物に似合っていた。

 まさしく、上高地は国際色が豊かになってきた。

100年、数100年後を見据えた壮大な計画だった、明治神宮の杜=市田淳子

 お正月の参拝者数は全国一といわれるのが明治神宮です。原宿駅の真横にあり、交通の便も抜群。表参道という若者の街も至近距離にある、この地に神様の杜があります。

 古代の神社には社殿がありませんでした。動植物を神霊としたり、森そのものを神社と考えていたりしたようです。
 神社をモリと読ませ、社(モリ)は杜(モリ)の同義語だったというのも、うなずけることです。


 明治神宮の杜は明治天皇崩御のあと、国民の間で、ご神霊をおまつりしたいとの熱い願いが湧き上がりました。
 1915年(大正4年)から1920年(大正9年)にかけて、当時、畑や田圃、アカマツが生える代々木御料地に、全国からの献木によって明治神宮がつくられました。


 その杜で2016年1月24日に、日本山岳会・自然保護委員会が主催する自然観察会が行われました。樹木に詳しい森林インストラクターが、明治神宮の樹木の見方などを、丁寧に解説してくださいました。

 雑木林だと、冬は木々が落葉して明るくなるのですが、明治神宮は違います。そのうえ、神社によくある杉並木もありません。

 明治神宮の杜づくりを計画したのは、本多静六、本郷高徳をはじめとする当時の林学・農学・造林の第一線の学者たちです。
 敷地脇を機関車が走ったり、西新宿方面には工場があったりという立地でした。将来は大気汚染も予想していたのでしょう。さらに、乾燥した土地だったので、それら条件をも加味しながら、最終的にカシ類、シイ類、クスノキ類などの常緑樹の杜をつくることでした。
 このように百年、数百年後を見据えた壮大な計画だったのです。


 私たちがいつも登る山の自然環境とは違い、自然界では絶対に隣り合っているはずのない木が、明治神宮では、いっしょに元気に生きています。
 つくられた杜とはいえ、それなりの生態系が出来上がっています。そんな杜は、登山を趣味とする私たちのとてもよい勉強の場となっています。

 もともと私は、ピークハントのために登山をする気は全くなく、山に登る途中、その地に生きる樹木や昆虫や鳥獣類に出会えることこそが、登山の一番の愉しみであり目的です。
 このような観察会に参加することは、登山の愉しみが増え、山に対する気持ちを新たにしてくれる大切なことだと思いました。
 自然が存在するには、必ず意味があります。それは長い間の自然界の変化だったり、人間の影響だったりします。この世に意味のないことはなく、ただ私たちには計り知れないだけだと思います。

 百年後を見据えて杜をつくった英知は、今後、国立公園などの自然保護にも受け継がれるべきです。これから先、ずっと日本の山が破壊されることなく、自然を大切にする心を持って登山を愉しむ、こうした文化が続いて行くことを願います。(森林インストラクター)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№197から転載