歴史の旅・真実とロマンをもとめて

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて、あなたは日本の歴史教科書を信じますか(1)

 日本人は、「新聞報道を信じますか」と問われると、70%~80%が「はい」と答える。アメリカ・USAは「信じない」が70%以上だという。

 これを日本史にあてはじめると、教科書を信じるがきっと80%以上ではないか、と思う。「お上(政府)のやる事だから信じる」、「文部省選定だから、嘘ではない」、「歴史学者だから、良心があり、ねつ造や、わい曲などしない」と信じ込んでいるだろう。


 私はこんかい「阿部正弘の生涯」(仮題)の書き下ろしを執筆しながら、教科書を鵜呑(うの)みにする日本人の姿をつよく感じた。

 厳密にいえば、「幕末史」において、私たちは「教科書に毒されている」とさえ感じた。

 さかのぼること昨年、新聞連載「阿部正弘」が内諾をうけていた。私の前にふたりの作家が順番待ちだった。つまり、3年後からの連載だった。
 かたや、お世話になっている出版社が、「ぜひ、私の方から出版してください」といわれた。新聞連載が終われば、単行本で結構ですよ、と応えていた。しだいに、「早く出したいので、書下ろしで、原稿をくれませんか」と要望のトーンが挙がってきた。
「決まっているものをひっくり返せませんよ。道義的に」
 やんわり、お断りしていたが、私はこころが揺れはじめた。

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 作家にとって、自分の想いのまま書ける、書き下ろしは魅力である。新聞連載の場合は読者の声が多少なりとも、執筆に影響するし、1週間に一度ぐらいは小さくても盛り上がりのストーリーを折り込む。
「新聞の購読量を挙げる努力」「打ち切られるような無様な作品にしたくない」が暗に筆にも影響してくる。意識・無意識を問わず、読者への迎合となる。ときには娯楽小説、流行作家に近い「売れる商品づくり」のスタンスになりかねない。


 作者の考え方、信条、価値観をつらぬく姿勢が大切だ。殆んどの作者は、新聞連載のあと、作品に手を入れる。
 しかし、一度書いた作品は修正しても、さほど骨組みが変わらず、人間でいえば、脊髄(せきずい)の修正まではできない。

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 約半年間ほど、私の心は新聞連載か、書下ろしか、とゆれ動いていた。
 年初(2019)の出版社と賀詞の電話あいさつのなかで「阿部正弘を、ぜひ書下ろしでください」と頼まれた。「かしこまりました。新聞社は2年先ですから、代替えの企画を入れてみます」と書下ろし単行本の出版を承諾した。
「初稿はいつもらえますか」
 そこまでは深く考えておらず、「阿部正弘」は8年間取材してきていますし、「5月連休が明けたら、お渡しします」と即答した。

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「読売カルチャー金町」の小説講座は第4週の木曜である。勤め人の方が受講できるように夜7-9時。講座が終了すれば、みな空腹なので、会食をして小説談義を楽しんでいる。
 その席で、「阿部正弘の書下ろし」の経緯を語ると、若き女性受講生が、「あと3か月半で、歴史小説が書けるのですか」と質問してきた。
 びっくりしたのは私の方で、指折れば、まさに「3か月半」だ。まずい。出版社に約束はしたし、遮二無二にやるしかない。「穂高健一ワールド」の記事も犠牲になった一つで、手が回らなかった。(約束よりも、1か月半ほど伸びてしまった)。

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 書下ろしの場合は、校正(誤字・脱字・文章の正確さ)、校閲(時代考証)などプロ級の方に頼んでおくものだが、だれもが毎日ヒマをしているわけでない。
 知人の校閲者は、年内は仕事が入っているから、あしからず、だった。
「ここは自分でやるしか、ないか」
 とくに気をつけるのは年代、人名、地名、そして事件・事象の確認だった。

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 IT時代だから、ネットで「用語検索」をかけると、歴史マニア、歴史オタクのブログにも飛んでいく。執筆疲れの癒(いや)しから、バカバカしくとも、そんなブログを読むこともあった。
 その大半が、得意げに上から目線でブログを書いている。薩長史観で、官制『幕末史』を鵜吞(うの)みにしている。それら内容の寄せ集めで、得意がっている。およそ自己努力による新発見などない。
 少なくとも、歴史関係者のブログ80%以上が教科書、既成作家の通念を越えておらず、斬新さがまったくないのだ。
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 かれらは、「幕末史」がいつできたのか。それすらわかっていない。昭和14年の完成である。この時代背景を考えるべきだ。

 幕末史の編さん事業は当初、明治時代の半ばからスタートした。薩長閥の政治家がまず文部省と宮内庁に編さんを命じた。『幕末とはペリー来航から廃藩置県まで』と定義した。この定義そのものが薩長閥には都合がよかった。

 編さん事業は遅々として進まず、途中で中断したり、外務省に移ったり、東京帝国大学に移管されたり、また政府機関にもどったりする。歴史事実を素直に記載せず、政府に都合よくしようと歪曲する意図があるから、異論も出るだろうし、いつまでもまとまらなかったのだ。
 
 長州閥の多い政府だから、歴史学者が長州や薩摩に媚(こ)びて編さんしている。たとえば、長州藩がまったくからんでいない事象でも「薩長」ということばでごまかしてしまう。

 昭和11年「大日本外交文書」が刊行されてから、さらに編集を重ねて昭和14年に「幕末史」が完成した。
 昭和14年とは、どんな時代だったのか。
 満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退、天皇機関説事件、二・二六事件、盧溝橋事件、日中戦争の勃発、国家総動員法、そして昭和14年が治安維持法の制定である。つまり、厳しい言論統制の時代に入った年に、政府刊行の「幕末史」が完成したのだ。

「幕末史の、ここは事実とちがいます。事実誤認があります。真実と真逆です。朝敵の長州はさして倒幕に関わっていません」
 そんな異議を吐く学者がいれば、治安維持法により逮捕される時代である。むろん、研究論文など発表すれば、それは逮捕の証拠品になる。
 
 そして、2年後には太平洋戦争の突入、やがて特攻隊、ガダルカナル、ミッドウェーと進んでいく。この期間となれば、政府刊行の幕末史に異論など言えるはずがない。獄中死を覚悟すれば、別だけれど。

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『歴史は思想教育に利用されやすい』もっとも顕著な学問だ。

 明治・大正・昭和(太平洋戦争終結まで)の官制歴史教育は、国民皆兵(徴兵制)、「祖国のために死す」を美化するものだった。さらに昭和14に完成した「幕末史」は正しい、と金科玉条(きんかぎょくじょう)のごとく扱われ、国定教科書の基本になった。

 つまり、幕末史が、薩長閥政治家に都合よく、軍事教育、および思想教育に使わてきたのだ。
 幕末史は6年間の無修正のまま終戦を迎えた。戦後教育のおいても、日本史の教科書がこの無修正「幕末史」がベースになっている。そのまま現代につながっている。
 だから、私たちが学んできた文部省選定「日本史」は、年表は事実でも、内容には虚偽が多く、公平性に欠ける。だから、いまだに日本史が必須科目にならない。

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 歴史作家たちが描く幕末物も「幕末史」を利用してきた。だから、教科書も、娯楽歴史小説も、出典元はおなじである。 

「阿部正弘は、砲弾外交に蹂躙(じゅうりん)されて、おろおろして開国した」と論じる。軟弱な阿部正弘だと決めつけた、偉そうぶったブログにはなんども出合い、嫌悪をおぼえてきた。自説として掲載しているけれども、治安維持法のできた年・昭和14年に完成「幕末史」をまったく疑ってもいない。実際に、いつできたかも、知らないのではないか。

 ただ、教科書も表現がちがっても、「砲弾外交に屈して開国した」と書いている。出所は、幕末史でおなじなのだ。
 
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「歴史から学ぶには、歴史は真実でなければならない」
 私はその執筆姿勢から、可能なかぎり日本側の資料と、外国側からの資料とつきあわせする、照合する『合わせ鏡』で、既成概念・官制幕末史の打破を試みた。
 
 出版後、多くの日本人が「こんなことは教えてもらっていない」とおどろくだろう。

明と暗の歴史を遺す広島湾を歩く(下)= 似島

 日清戦争のとき大陸の戦地で、コレラなどの伝染病が流行していた。日本兵がそれを持ち帰ったことで、日本全国に広がってしまった。

 大陸からの伝染病を水際で防御する、その「検疫所」の設置が急務となった。


 似島には検疫所の遺構がいくつか残っている。

 大陸からの帰還兵は宇品港に着く。似島が宇品のすぐ沖合に位置していたことから、明治28(1895)年、後藤新平が指揮して、似島検疫所が2ヵ月の突貫工事で建設された。

 同島の検疫所内には、「捕虜収容所」が併設された。第一次大戦時の青島攻撃で、捕虜になったドイツ兵がこの似島に収容された。

 旧陸軍が管轄する似島検疫所は、哨兵が各所に立ち、機密保護に努めていた。 

 ドイツ人捕虜のカール・ユーハイムが、収容ちゅうに「バウムクーヘン」を焼いた。とても美味しくて、広島見本市に出品された。そして、わが国にまたたくまに広がった。
 似島はバウムクーヘン発祥の地といわれている。

 案内してくれる藤井さんが、この公園を手掛けた。思い出話がたっぷり。そのなかには、原爆病で命を落とした人たちの話も多く含まれていた。

 この島はサッカーとして名高かった歴史がある。

 1919年(大正8年)、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となって、似島検疫所に収容されていたドイツ人と、広島高等師範学校の学生による親善試合が行われた。
「日本で初めてのサッカー国際試合」ともいわれる。

 捕虜・ドイツ兵はサッカーがとても妙手で、日本中のサッカー関係者から注目されたそうです。
 

 広島のカキはとても有名です。

 これ以上、語ることもないでしょう。

 ホタテ貝の牡蠣殻に、種付します。

 似島の海岸には、幾何学的に、蛸壺(たこつぼ)が並んでいます。ちょっと愉快な気持ちになれました。

 島の急病人は、救急車と広島消防署・救急艇の連係プレイで、広島市街地の病院に搬送されます。


 
 広島・宇品港にむけて、高速艇は出港の汽笛を鳴らしてから、疾走していきます。約20分間の航海です。

明と暗の歴史を遺す広島湾を歩く(中)=原爆孤児を収容した似島

 似島(にのしま)は、広島湾に浮かぶ孤島である。広島の市街地からでも、似島の安芸小富士(標高278 m)が形よく三角錐で確認できる。

 わたしは広島県の離島で生まれ育っているから、瀬戸内の島嶼(とうしょ)がより身近な存在だ。幼いころ親や教師などから「原爆孤児」を収容した島で、大勢が白血病で亡くなり、焼却された島だと聞かされてきた。


「気色悪いな」という子ども心が残り、似島にはいちども足を踏み入れたことはなかった。ある意味で、大人になっても行きたいと思わなかった。
 そうした気持ちが剥離(はくり)したのは作家という職業柄だろう。

 ことし(2019)4月21日(日曜)に、広島港の宇品から、約3kmの沖合にある似島に上陸した。案内してくれたのが、藤井啓克(広島市在住)さんである。
 同島は広島市だから、離島振興法の対象外であり、人口は約800人くらい。集落は、西と東と、2か所にある。


 宇品港を出発した連絡船の船上で、「この島の西側には、サルベージ船の船主が多いので、お金持ちなんですよ」と藤井さんにおしえられた。

 連絡船が最初の寄港地に着くと、たしかに豪華な一軒家が建ち並んでいた。

 藤井さんは昭和20年代後半から、この似島の都市計画に携わってきた。島内の公園設計と施工管理である。


写真は焼却炉

「当時は、原爆の生々しさが残っていました。原爆病で亡くなった児童たちが火葬された、焼却炉が幾つもありました」
 かれは公園指定地を決めたり、デザイン設計をおこしたりした。そして、業者が施工に入ると、人骨が次から次に掘り出された、と語る。

 当時の状況を聴くほどに、島の全域が墓地にすら感じさせられる。
 藤井さんは同島に泊まり込んでのしごとだから、さぞかし夜は不気味だったことだろう、と思う。

 島には平地が少なく、海水が透明な快い砂浜がある。

「この島には、明治28(1895)年から、旧日本陸軍の似島検疫所が置かれていました。大陸から帰還した人はまずこの島に上陸し、すべての服を脱いで、検疫をうけました。だから、衣類の焼却炉などがあったのです」と話す。
 
 原子爆弾が投下されたあと、宇品の暁部隊(陸軍船舶部隊)から船舶衛生隊の将兵約102名で編成され、被爆者たちは似島に次々に搬送された。
 検疫所が臨時の野戦病院として使用された。その数は1万人とも言われている。

 被災者が似島に運び込まれたあと、多くの死者がでた。そして、埋葬された。慰霊碑も設置されている。

 検疫所跡地には、両親やきょうだいを失った原爆孤児たちに対する福祉を目的とした「似島学園」が設立された。


 
 戦時の歴史は奥深いが、景色だけは自然のままである。

明と暗の歴史をいまに遺す広島湾を歩く (上) = 宇品

 私は初稿で「二十歳の炎」(改訂版・広島藩の志士)で、広島藩・神機隊が戊辰戦争に自費で出陣した。このとき宇品港から豊安丸に乗込んだ、と書いていた。
 江戸時代の回船時代から広島湾に宇品(うじな)があったと、信じ込んでいた。

 校閲してくれた友人の畠堀操八さん(広大付属・東京大学出身)が、「幕末には宇品港はなかったよ、西国街道の草津港だよ」と指摘された。
 歴史を書くうえで、思い込みは怖いな、と思った。

「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんから、明治時代に薩摩出身の千田貞暁(せんだ さだあき)が広島県令(県知事)になり、宇品を拓いたと聞かされていた。

 広島市在住の藤井啓克さんは、原爆で破壊された町の都市計画を推し進めたひとである。このたび、広島市内、宇品、似島(にのしま)をたっぷり一日案内してもらった。
 厚いファイルを片手に、諸々説明してくださった。


 広島はそもそも太田川のデルタ地帯である。中国山地はたたら吹き銑鉄業が古代から盛んだった。その残土・鉱滓(こうさい)を太田川に流していた。千数百年にわたり、堆積した残土の上にできた地盤の悪い都市である。
 
「県知事の千田貞暁が、1884年に宇品港の築港および宇品干拓を着工した。しかし、難工事であった。工事期間中、何度も災害に遭遇し、工事費は跳ね上がった。資金集めにずいぶん苦労し、元藩主の浅野長勲に出資を懇願した。さらに、2度にわたの国庫補助金を受けたけれど、なお完成をみず、築港工事が粗漏(怠慢 ・ 手おち ・手抜り )だとして懲戒処分、さらには左遷されたのです」と藤井さんは語る。

 1889年(明治22年)11月に竣工式が行われた。日清戦争・日露戦争で、宇品港が軍用港として役割が大きかったので、多大な費用をかけた千田は批判されていたが、再評価されて現在に至る。

 日清戦争への緊張感が高まるなかで、山陽本線の広島駅から宇品まで引込み線が敷設された。それが「宇品線」であり、なんとわずか17日間で完成したのである。戦時の動員力には、空恐ろしささえも感じさせられる。

 宇品駅ホームは大量の兵員・物資の荷卸しを円滑にするために、560メートルもあった。東京駅の長い新幹線ホームは440メートルだから、いかに巨大なホームだったかわかる。

 日清戦争のとき、広島が大本営になり、明治天皇も長期に在留し、臨時国会も開かれた。(いっとき首都機能を持った)。兵員、物資の輸送として、宇品港から朝鮮半島にわたった。

 この後、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争のときも、大勢の兵士がこの宇品港から輸送船で中国大陸に出征している。

 

 広島国際フェリーポートがある。船舶の役目を終えて、劇場船「STU48号」として使用されている。


 
 元宇品地区は、宇品灯台の周辺から内港地区にかけて、瀬戸内海国立公園に指定されている。広島では数少ない原生林の1つ、クスノキの巨樹の樹林がある、と藤井さんは語る。

 マツダ宇品工場から船積みする輸送船が、沖合に停泊する。奇異な形状の船体だけに、目を奪われる。(写真の右手奥)
 

 この宇品港から、広島湾に浮かぶ三角錐の似島(にのしま)にむかう。霊感の強い人は、「背筋がぞっとする島だ」という。

                         【つづく】    

小説「阿部正弘」はどこから書きだすか=大奥の悪女と女犯の僧

 約8年間にわたり、備後福山藩主で老中首座だった阿部正弘を取材してきた。書きだしの第一歩がなかなか難しかった。

 阿部正弘が家慶将軍から25歳で老中首座(内閣総理大臣)に大抜擢された。抜擢されるだけの理由があるはずだ。
そこを歴史小説の書きだし・第一歩にする、と決めた。

 正弘は22歳で寺社奉行になり、全国の神社仏閣を統括する。そこで起きた「中山法華経寺の事件」の解決が、老中昇進を決定的なものにした。
 どんな事件か。

 下総中山法華寺(千葉県・市川市)の広い山内には、いくつかの小さな別院がある。智泉院と守法院が事件の舞台である。

 守法院の日啓(71歳)なる僧侶には、頭のよく美顔の娘「美代」がいた。商家に預けて育ててもらい、やがて旗本の養女にしてから、大奥女中に入れた。そこから展開される「お美代の方」の悪事は、江戸時代を通じて稀代の悪女ともいえる。

            *

 家斉将軍に寵愛されたお美代の方は、3人の子どもを産んだ。夜な夜な、将軍に巧妙におねだりする女だった。
 まずは、実父のいる中山法華寺を徳川将軍祈祷所にさせた。将軍代参で出むいた大奥の上臈などと、僧侶が淫ら行為におよぶ場所になった。

 お美代の方は日啓を手引きし、大奥に入りこませる。(男性禁止だが、医者と祈祷師は例外だった)。日啓は家斉将軍に悪霊がついていると脅す。
 その霊を払うために、豪華な2万8000坪の「感応寺」(豊島区雑司が谷)を建立させる。そこも、大奥と僧侶の密会の場所になった。

 そのうえ、大御所の家斉が死去すると、お美代は遺書を偽造し、将軍家を乗っ取りを計ったのである。

 幕閣は放置できなくなくなった。

 名奉行といわれた脇坂安董(わきさか やすただ) が老中に昇格していた。かつて難事件をいくつも解決した凄腕である。その老中・脇坂が、下総中山法華経寺の事件の捜索に入ったのだ。
 ところが、脇坂は1か月後に毒殺されてしまった。

 どこまで悪なのか、と思う。

 当時の寺社奉行は月番制で4人いた。脇坂安董の死後、老中首座の水野忠邦が、寺社奉行の阿部正弘に、その後の解決を命じたのだ。
 女犯の僧を摘発し、深追いすれば、大奥の女臈や奥女中にとどまらず、大御所の家斉一派にまで事がおよぶ。かたや、将軍家に泥を塗ることになる。難解な事件である。

 阿部正弘はだれもが想像できない、意表をついた見事な解決を成すのだ。家慶将軍は、正弘のすぐれた頭脳が幕府に役立つと判断して、25歳で本丸老中に大抜擢をしたのだ。

 アメリカ艦隊のペリー提督がやってきた。大統領の親書を受け取った。かれらが出帆した1週間後、阿部正弘は長崎奉行江戸詰を通じて7、8隻の軍艦を発注したのだ。その1隻がスクリュープロペラ船の最新艦の咸臨丸だった。

 現代に置きかえれば、ジェット戦闘機の発注とおなじで、見積額も、支払い条件も、パイロットの養成機関の創設も、すでに下打ち合わせができていたのだ。

 中山法華経寺の難解な事件にたいして、阿部正弘は人の意表をつく解決をしてみせた。人間の大胆な性格とか、英知とは変わらない。
 まわりが「命を惜しまず、死力を尽くしてアメリカ艦隊と戦う」と武威で息巻いて、ペリー提督に目が奪われているときに、正弘は老中首座の権限で、咸臨丸の発注、海軍兵学校(長崎海軍伝習所)の創設による日本海軍発足まで決めてしまったのだ。
 幕閣のだれもが発想できない、意表をつくものだった。

 ペリー来航の10日後に、家慶将軍が死去している。将軍不在のなかで、最も若い老中首座の阿部正弘が、戦争回避による開国に毅然と立ちむかっていく。水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は、徳川御三家の立場を乱用し、極端な攘夷論の言説を吐きつづける。そのうえ、移り気だ。

 斉昭をかわしながら、ときに内側に取り込みながら、老中首座の阿部正弘は他人が真似できない政治手法を取り入れ、あっという間に250年来の古い体質の祖法(国禁)を次々に破棄し、新しい国家に生まれ変わらせていくのだ。

 だれも、きわだって反対することもなく、かつての老中首座の松平定信、水野忠邦すらも、だれもなしえなかった後世への大改革をやってのけたのである。
 それらを裏付けをもって小説で展開していく。

RRC放送=土曜午前中【明治新政府に封印された芸藩志】連続講座スタート・第一回(全5回予定)

 RCCラジオ放送(中国放送)が、5月4日に放送されました。
 このシリーズは、RCCが一般公開いたしました。フェース・ブック、ブログ、SNSでリンクを張ることが公式に可能です。


 この第一回は、なぜ広島藩の浅野家編『芸藩志』が消されたか。明治43年になぜ時の政権に、この芸藩志が不都合だったのか。それを明快に示しています。

 放送のなかで、広島は「幕末史」が盛り上がっている、穂高健一著『広島藩の志士』が、漫画化の作業、それに対するクランドファンディングされている。さらに、燃えるだろう、と放送のテンションが上がっています。

放送内容はこちらです、17分間

【RCC放送局が発表したコメント】

 今日の深掘りシャベルは、『広島藩の志士』の著者、穂高健一さんに教わる、

「明治維新を再検証するシリーズ第一弾!「明治新政府に封印された芸藩志」というテーマで、お話を伺いました。

ペリー来航から明治4年までの広島藩の歴史が記された芸藩志。

明治政府から指示を受けた浅野長勲が、300人もの人手で、10数年もかけて書いたそうです。

しかし、明治政府にとって都合の悪い内容だったため、芸藩志は封印されてしまいます。

芸藩志とはどういうものなのか、なぜ封印されてしまったのか、その封印に対して、広島藩はなぜ抗議しなかったのか…。

今日の放送では、芸藩志封印の謎について、紐解いていきました。

シリーズ第二弾では、いったいどんな謎が語られるのか…今後の展開もご期待ください!
また、ラジオ番組のブログでも紹介されました。

【関連情報】

放送内容はこちらです

クラウドファンディング公開ページ


写真*RCC(中国放送)HP・番組案内より引用

25歳で老中首座になった阿部正弘(備後福山)の執筆中と狙い

 私はここ6-7年つづいた「阿部正弘」の取材をここで終止符を打ち、単行本「阿部正弘」の執筆をはじめた。
 当初、新聞連載の話しが持ち上がっていた。年一本ずつ、ふたりの連載待ちの作家がいるし、私の掲載は3年先だといわれた。そこで考えた。

 いま芸州広島藩は「広島藩の志士」の人気がたかまっている。この波に乗るべきではないか。

【広島藩は高間省三、備後福山藩は阿部正弘】。広島県内には歴的上の途轍もない大人物がふたりいる。より多くの方々に知ってもらいたい。そこで単行本「阿部正弘」を今年の秋口に発刊を決めて、執筆をおしすすめている。


 阿部正弘とはどんな人物か。

 文政2年10月16日(1819年12月3日)、備後福山藩に生まれた。江戸生まれれ

 天保11年(1840年) 11月8日に 寺社奉行になった。 21歳11か月

 天保14年(1843年) 閏9月11日  本丸 老中に異動。23歳10か月

 天保15年(1844年)7月22日   勝手掛老中(実質・老中首座) 24歳8か月

 弘化2年(1845年)2月22日   勝手掛兼帯のまま、老中首座と就る。25歳7か月
 
 満25歳7か月の内閣総理大臣が、德川250年間の長い保守政治の下で、「鎖国は租法」という強固な観念を破壊し、開国し、近代化へと歩みだす。現代からみれば、貿易立国の祖である。

 現代教科書の歴史すら、ペリー来航は「砲丸外交」で、阿部正弘正は蹂躙されて開国を余儀なくされた。こんな嘘がまだ修正されず、まかり通っている。
 明治政府には都合よく歪曲した歴史である。その延長戦で、日本史の歴史を教えつづけるのはおかしすぎる。
                 ☆   
「阿部正弘のあらまし」

 嘉永5(1852)年オランダの商館長から「別段風説書」が長崎奉行所に届いた。1年後に、アメリカ連合艦隊が日本に来航する。そこにはペリー提督、軍艦名が記載されていた。

 老中首座の正弘は、すぐさま長崎奉行を介して、アメリカ艦隊の軍艦の性能を確認した。西欧はスクリュー船時代なのに、アメリカ艦は時代遅れの蒸気外輪船である。米国海軍力は新しくて実戦経験がほとんどない。ただ、メキシコ戦争で、大砲や小銃は進化している。

 ペリー来航前に、阿部正弘は高性能なプロペラ・スクリュー船の仮見積もりを取る。機をみて発注を出す(後の咸臨丸)。オランダは軍艦を購入しても、操船する海軍将校・海兵を養成する必要があるので「長崎海軍伝習所」の仮建設を提案した。必要ならば、オランダ海軍は協力し、士官の招聘(しょうへい)に応じるとした。

             ☆

 アメリカのベリー艦隊が来航し、江戸湾の湾口(浦賀沖)をいつまでも塞げば、オランダ海軍がジャカルタにいるから、最新鋭の艦隊で、ペリー艦隊を江戸湾から追い出してもよい、と内約をもらう。

 ペリー提督は来航すれば、オランダを意識してか、わずか1週間程度の滞在で、1年後に再来すると早々と出帆していった。
 当時は米中間にもはや郵便定期船が行き来していた。
 ペリー提督に海軍長官の書簡が届いていた。アメリカ大統領が共和党から民衆党に変わった。政権が代われば、海外政策がガラリ変わる。それがアメリカだ。
 新海軍長官から、『植民地的な攻撃や威嚇はしてはならぬ。そういう条約を持ち帰っても、議会の承認は得られない』と厳しい楔(くさび)が撃たれたのだ。

 ペリー提督は当初の計画した砲弾外交が腰抜けになった。沖縄においても、薩摩藩から姿勢蓮を奪って植民地にするつもりでいたが、石炭庫の建設だけに留めた。

 阿部正弘は海外の英文ニュースペーパーから情報を得る国際通だった。と同時に、思い切った人材抜擢主義だった。海軍、陸軍を創設し、洋学所(東大)、医学所、そして極めつけは『富国強兵』を国家の柱においた。

 これは阿部正弘が海外から購入したアダムスミス著「国富論」を、有能な岩瀬忠震に解読させて、国策の柱にしたものだ。

 明治政府は政策の柱に「富国強兵」をおいて、阿部正弘からばくった政策だと、教科書に1行も述べていない。日本国民にまったく教えていないのだ。

 阿部正弘は日露和親条約で、エトロフ・国後島を日本主権の領土であると認めさせ、ロシアのニコライ一世の批准書もとった。現代までも生きている。
 戦後。1945年以降はソ連の侵攻で、施政権は奪われた。しかし、領土そのものは領土主権がある、と阿部正弘によって批准書まで取っている。

 戦後の宰相は数十人いるが、25歳で老中首座になった阿部正弘の実績と比べると、足元にも及ぼないのだ。

 きわめつきは、阿部正弘が大抜擢した外国奉行5人が、絶妙な外交手段で『安政5カ国条約』の決めたことだ。これをもってして日本が決して欧米の植民地にならない、という強烈な条約になったのだ。

 明治以降の教科書は、明治政権を高く見せるために、「阿部正弘」を低く、低く、おさえている。寛永・安政文化は江戸時代で最高級の文化があった。それすら1行も書かれていない。

 官制教科書は、事実は教えない、嘘でごまかす。ここらにメスを入れる。歴史教育を正常化にさせる。5月の10連休は机に向かって意気込んで執筆している。

写真*Googleより

【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクト☆倒幕の主役は広島藩だった!

 「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった)が漫画化になります。

キャラクターデザインは、「幕末彼氏伝」にて、キャラクター・デザインを担当された中久保涼、中久保渉さんです

作画は、フジィFG(藤井勇太)さん  講談社などで受賞歴がある漫画家です

コンセプトとして、穂高健一著「広島藩の志士」を漫画化することで、より読みやすく、いままで歴史にさほど興味を持たなかった方々に、幕末の広島藩の活躍を理解してもらうことです。

総合プロデュースは、「ヒューマンアカデミー広島校」です。


☆ 小説版は全章が16章ありますので、1話~2話 (1話あたり約20ページ)

 1話あたり約2週間~1か月ごと、原則無料で webにて、公開されます。


 【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクトは、大勢の方の支援・クラウドファンディングで推進していきます。

【クラウドファンディングによる支援協力者へのリターン】

  3,000円 メールにて作品(PDF)をでき次第、順次、お届けします。

  5,000円 書籍にて郵送でお届けします

 10,000円 書籍+動画DVDをお届けします

 30,000円 キャラクター化しし登場人物させる(お写真や特徴などからキャラクターを作成)

  ※ 登場 場面については、漫画家にお任せいたします。人数制限20名ていど


クラウドファンディング公開ページ

 みなさまのご協力で、マンガ「幕末彼氏伝〜高間省三物語〜」を世に送りだ、明治政府や御用学者が捻じ曲げた、幕末史を真実のあるべき姿にしていきましょう。

 歴史を知ることは、将来を見通す力をもつことです。それには歴史が真実でなければなりません。みなさんの力で、「ねつ造された歴史を正しましょう」。

幕末彼氏伝 = 広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会のお礼の挨拶

 メインテーマ「幕末彼氏伝 ~集え!広島藩の志士たち、伝説はここから始まる!」が2019年3月21日(祝)、JMSアステールプラザ(広島市中区加古町)1階の市民ギャラリーで開催されました。
 これは穂高健一著「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった)を原作としたものです。主催者から、関係者や来客者、支援してくださった方々感謝のメッセージが寄せられています。

【メッセージ】

 おかげさまで、総来場者数は368名と多くの来場者があり、たいへんな盛会となりました。ありがたい事に、こんかいの関係者の皆さまからは、こちらが驚くような、ご提案を沢山、たくさん頂くことができました。
 そのたびに、担当としては勇気と元気をもらうことが出来ました。

 おかげさまで、当初の予定した何倍も良いものを実現することができました。すべて関係者のみなさまのご協力によるものです。本当にありがとうございました。

 会場の熱気もすさまじく……。わたし自身はサウナにいるような状態で、頭から湯気が出ておりました。

 同イベントでは、老若男女の来場者がありました。広島藩への関心の高さを感じることができました。
 とくに、中央ステージでのイベント時間ちゅうは、これ以上来場者が集まったらどうしよう、会場内がオーバーフローし、危険かもしれない……と、主催者のわたしは内心ヒヤヒヤしておりました。



 こんかいの「幕末彼氏伝 」にはイラスト、マンガ、演劇、アテレコ、さらにコスプレなどサブカルなコンテンツを活用いたしました。
 広島藩の歴史への興味関心を高める、その機会を創出する。その試みの第一歩を踏みだし、今後に大きな可能性を感じることができました。

 関係者・来客者のみなさまの温かいご支援、ご理解、ご協力があってこそ、ここまでの強いうねりとなりました。

「幕末彼氏伝 の打ち上げ懇親会においても、出演者の方、スタッフの方、みなさまの方から、今後もいろいろな創作をしていきたい、というお話もありました。
 今後も多彩なコンテンツが産み出されるのでは……と、胸がワクワクと高まっています。


 会場内でアナウンスしたとおり、こちらの写真はすべてネット、SNS等でのUP、拡散は自由です。

 こちらよりダウンロードしてお使いください。(期限は3月28日までです)。今後とも何卒、どうぞよろしくお願い致します。


 広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会 事務局

  粟河瑞穂(敬称略)

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます

【幕末彼氏伝】第一話~第三話『大政奉還』の制作者たち=メッセージ(下)

 

「幕末彼氏伝」(広島)が、平成31年3月21日(祭)場所 JMSアステールプラザ1階・市民ギャラリーで実施された。
 古今東西、歴史を変えるのは若者だ。「歴史は真実でなければならない」と、広島の若者が、明治政府が歪めた歴史を正す。そのために燃えあがってくれた。
 それは歴史に関わる大きなしごとだといえる。

              ☆
  
 イベントの開催の直後、彼らからコメントをもらいましたので、紹介します。


 総合学園ヒューマンアカデミー広島校 金井さん。

 この度は、貴重な機会を頂きまして、誠にありがとうございました。

 当校の学生・卒業生たちも貴重な体験が出来大変喜んでおり、また多くの方に学生たちの活躍を見て頂く機会を設けられたこと大変ありがたく思っております。

 せっかく頂きましたご縁を大切に、マンガ化計画も追って、ご相談などさせていただきたいと思います。今後共よろしくお願いいたします。

 中久保涼さんは「幕末彼氏伝」で高間省三等のキャラクターデザインを担当された。

「幕末彼氏伝」のイベントお疲れ様でした。高間省三などのキャラクター制作についても、企画当初から色々とアドバイスや助言を頂き誠にありがとうございました。

 とても良いキャラクターが出来たと思います!

 なかなか、ここまで大きなイベントの制作物に携わることがないので、とても良い経験にまりました。自分の制作物がこうやって日の目を見る事は、とても嬉しくもあり、自慢になります。

 イベント中も、貴重なお話などを聞かせて頂きありがとうございました。
 今回のイベントを通して穂高様や多くの方々とお会い出来る良い機会となり、とても貴重な1日となりました。

 またご一緒できる機会があればと思います。

 漫画を担当の藤井(フジィFG)さん

 幕末彼氏伝にて漫画を担当させていただきました。大会当日は、たいへん貴重なお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。

 私自身、教科書で教えてもらった内容でしか歴史を知らず、広島にこのようなすごい人物がいたのかと改めて勉強になりました。
 穂高先生の著書も改めて読み直し、さらに見識を深めていきたいと考えております。そして、このような活動に私自身携われたことを大変嬉しく感じております。

 これをご縁にお話を頂いております、漫画化を進めていけたらと思っております。またご相談させて頂くことも多いかと思いますが、その時はご指導のほど是非ともよろしくお願い致します。

 キャラクターやイラストを担当の中久保渉さん

「幕末彼氏伝」で綾・浅野のキャラクターやイラストを担当させていただきました。開催日はとても充実した一日でした。

 穂高先生ともお話でき嬉しかったです。こんかい幕末彼氏伝に関われて、本当に良かったと思っております。
 また、今後企画などでお会いする機会がございましたら、よろしくお願い致します。


 上口雅彦さん

 大会当日は遅くまでありがとうございました。上口ジョウグチです。初めての聞く話ばかりで、勉強不足ですが、とても興味深い貴重なお話ありがとうございました。

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます