【歴史から学ぶ】広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち (1/2)= RCCラジオ放送
RCC(中国放送)ラジオで、一文字弥太郎さんのインタビューとして『穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ』が、毎月第2土曜日・午前9時05分から放送されています。
2021年2月13日(土)は広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち= RCCラジオ放送
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新型ワクチンの接種が、世界じゅうの話題になっています。人間の歴史は、疫病と戦争の歴史の積み重ねです。ウイルスには根本的な治療薬はありません。病原菌ならば、菌を殺せば、消えます。ウイルスは殺せません。
私たちの体内に軽くかるくウイルスに感染させ、二度目に発症させない、という手法とるのです。それが抗体です。
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人間が有史以来、恐怖のウイルスに打ち勝って撲滅しできのは天然痘のみです。『勝者から学ぶ』。天然痘ウイルスはつよい感染力をもち、致死率が約20%~50%と非常に高かったのです。インカ帝国も欧州人が持ち込んだ天然痘で滅びた、アメリカインデアンも種族によって9割が全滅、日本ではアイヌ人が滅亡寸前までなりました。
この天然痘は完治しても、顔など全身に膿疱の痕(あと)が醜く残ってしまう。史上最悪の疫病でした。
1796年、エドワード・ジェンナー(英国)が牛からの種痘法(しゅとうほう)を発見した。それから完全に撲滅するまで、約200年かかっています。
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ジェンナーの天然痘が日本に入る初期の頃、広島藩領には牛の天然痘に取り組んだ人物たちがいます。この方々に絞り込んで、ワクチンの普及がいかに困難だったか、歴史をさかのぼってみましょう。
① 安芸国・川尻浦(現・呉市川尻町)の久蔵を紹介します。
ロシアから日本に伝えるのが、35年も早すぎた。かれは歴史に名を残せなかった人物です。
安芸国・川尻浦(現・呉市川尻町)の久蔵は貧農の子で、臨済宗の仏通寺(三原市)の小僧にされた。すごした6年間で読み書きができた。
幼い13歳の禅僧は、寺を出て兵庫で水(か)主(こ)(下級船員)とし摂津国の欣喜(きんき)丸(まる)に乗り込んだ。文化7(1810)年11月、江戸行の酒樽を運ぶ廻船は、紀州沖の大嵐で難破し、3か月間の漂流した。
文化8(1811)年3月10日、真冬の海にカムチャッカ半島に漂着した。乗組員16人ちゅう9人が凍死するほど酷寒だった。
ロシア人に発見された生存者は、酷寒のオホーツクの町に送られた。
凍傷にかかった久蔵は、現地のロシア人医者によって右足の指2本と、左足の甲から5本の指先が切断されて死をまぬがれた。歩行困難に陥ったが、善意で義足がつけられた。
10代の久蔵は禅僧で学問ができた。3年間で積極的にロシア語を吸収した。医者の助手として種痘の接種を学んだ。その書物も入手した。
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文化8(1811)年6月に、日本の国後島でゴローニン事件が起きた。
千島列島を測量するロシア軍艦のディアナ号艦長のゴローニン海軍大尉が、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されたのだ。ゴローニン海軍大尉は陸路を護送されて松前に移されて、監禁されたという事件である。
文化10(1813)年8月、大物・ゴローニン海軍大尉の捕虜交換として、久蔵はオホーツクにいた他の日本人とともに箱館(函館)に送致されたのだ。
帰国の前、久蔵はロシア人医師から、ガラス板に挟んだ痘苗(とうびょう・弱毒化した痘瘡ウイルスの液)を5枚もらった。そして、蝦夷につくと、異国人と接した漂流民は罪人扱いで松前や江戸で、厳しく取り調べをうけた。
ただ、禅僧の久蔵はキリスト教に帰依していなかったので、罪に問われなかったのだ
江戸で調べが終わった久蔵は、文化11(1814)年4月に、芸州広島藩に引き渡された。
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漂流民で帰還した久蔵は、広島8代藩主の浅野斉賢(なりかた)に呼び出された。久蔵は、とわれるままに、ロシアの文化・生活について語って聞かせた。
藩主から、強靭な精神とロシア見聞について褒められたのである。
この折、久蔵は浅野藩主に種痘苗の接種を進言した。
ところが、牛の天然痘を人体に植えるなど、奇抜すぎたのだ。『牛の角が生えるのではないか』と効能を信じてもらえず、一笑されてしまった。
藩主は久蔵が持ち帰ってきた地図(アジア地図)とか、ロシアの見聞とか、斬新なものに興味を示した。
藩の要望で、久蔵は三年間の漂流記を書いて提出している。
天然痘ワクチンが日本に入ってくるのは、35年後の嘉永2年である。つまり、若き久蔵が持ち帰った天然痘ワクチンの種痘と技術は約35年も早すぎたのだ。それが生かされず、埋没してしまった。
もし、広島藩主が領内の子どもに接種し、それが拡がっていたならば、久蔵は後世において、ジョン万次郎よりも有名な人物だったことは間違いない。
【つづく】