【歴史から学ぶ】 恐怖の天然痘とワクチン(上)=幕末期の日本人たち
人類の戦いは、疫病と戦争のくり返しである。疫病は人命を奪い、ときには戦死者以上の犠牲を伴い、国力を弱めてしまう。その渦中にいれば、先行きが見えない心理的な不安と恐怖に襲われる。
細菌は最新医学の発展で抗菌薬(抗生剤、抗生物質)などが開発されている。しかし、感染病のウイルスの場合、完全な封じ込めた成功例となると、有史以来、天然痘のみである。唯一の人間の勝利ともいえる天然痘撲滅の歴史から、学ぶ点が多い。
「天然痘ウイルス」はラクダから人間に入り込み、変異したともいわれている。この天然痘ウイルスはつよい感染力をもち、致死率が約20%~50%と非常に高かった。そのうえ、完治しても、顔など全身に膿疱の痕(あと)がひどく残てしまう。
気味が悪い顏だ。そうはなりたくないと、発症そのものが恐れられた。徳川将軍でも、何人も罹患(りかん)しているので、身分や生活環境に影響されないウイルスだった。
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教科書で習っているとおり、エドワード・ジェンナーが1796年に、牛からの種痘法(しゅとうほう)を考案し、人類初の天然痘の予防ワクチン接種が開発された。ここから天然痘の撲滅への戦いが始まる。決して平たんな道ではなかったのだ。
WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言をおこなった。天然痘ウイルスに勝利するまで、人類は約200年も近くかかっている。
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いま、新型コロナウイルスのワクチン接種が世間の注目をあつめている。世界中の人々が期待と不安で成り行きを見守っている。成功するか、失敗するか。まだ予断を許さない。
歴史には光と影がある。天然痘ウイルスは成功事例だが、その裏には忘れ去られた失敗や悲劇があるものだ。成功と失敗の双方から検証すると、学ぶ点は多くなる。
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天然痘ウイルスとの戦いで、気の毒な人物として案外知られていないが、芸州広島藩の漂流民・久蔵(きゅうぞう)がいる。苗字はない。
天明7(1787)年に安芸国・川尻浦(現・呉市川尻町)で、僧侶の子として生まれた。
文化7(1810)年11月の真冬の海だった、かれが13歳の時で、摂津国の欣喜丸が江戸に向かう途中、紀州沖で嵐で遭難したのである。乗船客だったのか、乗組員だったのか。それもわからない。
真冬の海で黒潮で約3か月におよぶ漂流は想像を絶する。豪雪風の凍りつく2月のカムチャッカ半島(ロシア)に漂着した。乗船員は16人中9人が凍死していた。
文化8(1811)年3月10日、生存者はロシア人に発見された。そして、カムチャッカ半島の根元を通り、オホーツクの町に送られことになった。
かれらは途中の豪雪のなかで、埋もれたまま2-3日を過ごした。凍傷にかかった久蔵は、両足が黒ずんだ。現地の医者によって久蔵の右足の指2本と、左足の甲から5本の指先が切断されてしまった。
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文化8(1811)年6月に、日本の国後島でゴローニン事件が起きた。
千島列島を測量中であったロシア軍艦のディアナ号艦長のゴローニン海軍大尉が、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されたのだ。そして、徒歩で陸路を護送されて松前に移されて、監禁されたという事件が起きた。
約2年3か月間、ゴローニンは日本に抑留された。ゴローニンが捕虜交換で帰国したあとに執筆した『日本幽囚記』は、ヨーロッパに日本人をより広く知られせることになった。
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かたや、カムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛らの尽力で、事件解決が図られた。
文久9(1821)年6月に捕虜交換が行われた。歓喜丸の乗務員、松前の商人と名乗る中川五郎治(別名・中川良左衛門)らの日本送致が決まった。
久蔵は凍傷が治り切っていなかった。欣喜丸の仲間などが働きかけて、いちどは久蔵の乗船が許されたのである。しかし、沖合の船に乗り込んだ久蔵だったが、切断した足の悪臭がただよい、医者の判断でボートで港にもどされたのである。
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その後、久蔵はロシア語をおぼえ、イルクーツクへ移された。そこで日本語学校の教師になる予定だった。同校は閉鎖が決まっており、ふたたびオホーツクに戻る。足の手術をした医者の世話になり、天然痘の予防知識を学んだ。
文化10年8月に、オホーツクにいた他の日本人とともに、久蔵も箱館に送致されることになった。帰国の際に、久蔵は痘苗(とうびょう・弱毒化した痘瘡ウイルスの液)をガラスの容器に入れて持ち帰ってきたのだ。異国人と接したものは罪人扱いで松前や江戸で、厳しく取り調べを受ける。キリスト教に帰依していないか、と。
江戸で調べが終わった久蔵は、芸州広島藩に引き渡された。
当時は半ば鎖国状態で、外国の見聞情報は、どの藩でも貴重な情報であった。漂流民の下層階の久蔵だったが、広島8代藩主の浅野斉賢(なりかた)からも、お目通りの声がかかった。
大黒屋光太夫も、吉宗将軍のまえで簾(すだれ)越しに話している。
久蔵は、藩主の斉賢にロシア事情を語った。かれが持ち帰った物にはギヤマン、イギリス産とっくり、メリヤス足袋など、珍しいものが多い。そのうえ、ガラス容器のなかに、疱瘡(ほうそう)の種を入れてきていたのだ。
「この疱瘡の種は、ロシアでまだ疱瘡にかかっていない小児に植えております。ほんの少々、疱瘡を出しますが、それきりにて軽い症状ですみます。なおもまた、疱瘡にかかった者にも、植えると軽くすみます。私(久蔵)は、治療法も見習ってきました」
わが国に、最初に持ち込まれた牛の痘苗(とうびょう・植物の苗の栽培に似た観念)である。
久蔵は自分も家伝として実行したいので、許可が欲しいと藩主に、種痘苗の接種を進言したけれど、効能を信じてもらえず、一笑されてしまった。
天然痘そのものが恐怖である。牛の角が生えるのではないか。牛の天然痘を人体に植えるなど、奇抜すぎたのだ。広島藩から天然痘ウイルスの接種が広まることはなかったのだ。
久蔵は、脚光を浴びることなく極貧のまま生涯を終えている。久蔵の漂流の経緯、ロシア風俗、ロシア語の口述『ロシア漂流聞書』が残されているらしいが、所在は不明である。同藩の役人が聞き書きしたのだろう、浅野家史料のなかに未だ眠っている可能性がある。
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松前商人の中川五郎治にも、筆を運んでおこう。本名は小針屋佐七である。商人だが、択捉島の番人(役人)となった。ロシア軍のニコライに、択捉島が襲撃されて捕らわれた。中川は5年間の抑留の間に脱走したり、捕まったりしている。
ゴローニン中佐と捕虜交換で、文化6(1812)年に日本に送致された。この直前に、オホーツクで「種痘書」を入手し、医者の助手として技術を会得していた。送還されたあと、かれは松前奉行に仕えた。
娘のイクに種痘を施した。日本最初のジェンナー式(牛痘)の予防接種である。松前、函館で、種痘法を広めている。
「恐ろしい疱瘡を自分の体内に入れる」
予防接種の恐怖から、北海道の民にどのていど寄与したのか、不明である。一方で、種痘が金になると言い、中川五郎治は自分の秘術にしたために、数百人にとどまり、医学的には広がりをみせなかったという。
安芸国の久蔵の行動は浅野藩主に一蹴された。中川は技術の独占を図った。二人の努力は天然痘のワクチンの初期段階という医学上重要な人物だが、それぞれの理由で、広い範囲の天然痘ウイルスの予防には生かされなかった。
長崎に来日したシーボルトに学んだ医者が、「牛の疱瘡から種が取れる」と聞いたけれど、国内産の牛から疱瘡が見つからなかった。
文政11(1828)年にシーボルト事件が起きたために、牛痘法は立ち消えになった。そこで、日本人の医者は人痘法を考えた。
天然痘の罹患者のカサブタを採取し、乾燥し、粉にして、それをワクチンとして鼻の奥に吹き込む。成功したり、本当の天然痘にかかり発狂死したりと、決して安全でなく、むしろ危険を伴うので普及しなかった。
やがて、天保の時代から、嘉永の時代へと入っていく。
写真=ネットより
【つづく】