歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【新事実】(上)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記

 作家仲間から、新年に飲もうと誘われた。

「日比谷という苗字だけで集まった会がある。大学教授、大企業の重役、歯医者、医者とさまざまだが、各自の伝承だと、東京の日比谷が発祥らしい。現在は横のつながりがない。学者らに依頼してみたが、巧く結びつけられないようだ。ならば、小説で書いてもらおう、となったようだ」
 かれが所属する作家協会に、それが持ち込まれたという。
 
 幕末には武蔵国足立郡(現・足立区)の郷士で、日比谷健次郎という人物は北辰一刀流免許皆伝だ。武術英名録の《ひ》の欄に、天然理心流の土方歳三、日比谷健次郎と列記されている。明治になると、その彼が日本で初の日独辞典を作っているんだ。ドイツ医学、科学の導入という近代化にはおおいに役立っている。

 丁稚から紡績王になった日比谷平左衛門もいる。

「条件は付けないから、書けるところから書いてほしい、という依頼だ。日比谷健次郎などは、德川方の目線から幕末を書けば、薩長史観とはちがう、新発見が出てくるとおもうよ。勘だけれど」
 足立の日比谷家は、幕末に文人墨客がよく泊っていたらしい。水戸藩ともつながりがある。最近、家屋を解体したところ諸々の資料が出てきて、地元資料館が目の色を変えて蒐集しているようだ。その協力はあおげるとつけ加えていた。

               
【武蔵国・郷士だった日比谷家に伝わる甲冑】

「それは面白いな。書いてみるか。ただ、先祖をよいしょする作品は書かないからな」
 なかでも、日比谷健次郎からみた幕末史は面白そうだ。

 昨年、「安政維新」(阿部正弘の生涯)を発刊しているので、徳川の視点から歴史を見ていくには難なくできそうだ。
 そこからこの9月までに、「桜田門の変」~「戊辰戦争」まで、丹念に描いてみた。面白いほど、新発見があった。どうして、いままで徳川の目線で、歴史が書かれていないのか、と不思議におもえるほどだった。

                *

 文久2年は、ふつう「文久の改革」と恰好良いものとして伝わっている。だが、長崎に上陸した麻疹(ましん・はしか)が、久光一行によって大阪、京都、江戸に運ばれて、江戸100万人の人口のうち24万人も罹患して死んでいる。大惨事になっていた。

 鹿児島でも、西郷隆盛を大坂で捕縛し、山川港、徳之島に流すとき、かれらは感染病を鹿児島に運んだのだろう。そして、鹿児島でも大流行したのか、久光の実娘が二人、さらに娘婿らが麻疹で死んでいる。
 生麦事件は殺戮だから歴史に記載されているが、麻疹は感染病だから、明確な証拠なしか。

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 もっともおどろいたのは、2年間も無役だった勝海舟が陸軍総裁、隠居の身で剃髪していた大久保一翁が会計総裁、慶喜は15代将軍の在職中は京都で、一度も江戸城に入っていない。江戸城内本丸を知らない連中ばかりが仕切っている。


 しかし、北日本の諸藩・武士階級は、この顔ぶれをみて、「これで徳川政権が完全に終った。慶喜は水戸に帰ればよい。我々で新しい政権を擁立しよう」
 と動きはじめたのだ。

 知能の優れた元幕臣が江戸に多くいるし人材の宝庫だった。かれらは勝・大久保を見限っている。もう徳川家のために、われわれは戦わない。天皇のための戦いをする、と決めたのだ。

 ここで彼らがかついだ天皇とはだれか。

 孝明天皇の崩御(慶応2年12月25日)のあと、睦仁(むつひと)親王は践祚(せんそ)しているが、元服していない。つまり、天皇ではない。摂政として二条斉敬(にじょうなりゆき)がついていた。摂政は天皇の代行ができる。

 ところが、慶応3年12月9日の小御所会議で「王政復古の大号令」が出された。天皇親政をうたう。かたや、摂政・関白が廃止されたのだ。
 なぜ、廃止したのか。これでは京都において天皇の執務がまったくなくなる。

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 東日本の叡智ある人物たちは、ここに目をつけたのだ。「天皇親政ならば、われわれは輪王寺宮(りんのうじのみや)を天皇に擁立しよう」と動きだしたのだ。
 睦仁親王は元服するまで天皇になれないのだから。

 かえりみれば、源平合戦で、幼い安徳(あんとく)天皇が、平家に都合良よく政治に利用されたあげくの果てに、6歳の若さで壇ノ浦に身を沈めて崩御させられた。

 この事例があるので、睦仁親王は践祚(せんそ)していても、元服するまで天皇になれない。

                  * 
 
 上野にある東叡山・寛永寺の貫主(かんしゅ)は、德川家光の時代から200年間、京都の皇子(親王殿下)が就任している。そして歴代、輪王寺宮(りんのうじのみや)としてきた。
 その目的は、
『西の藩が京都で、勝手に天皇を立てたならば、東では輪王寺宮が天皇になり、対抗する』
 と南北朝時代の再来があると、つねに警戒していたのだ。
 ついに、その時がきたのだ。

【つづく】

【歴史から学ぶ】 西郷、木戸、大久保はなぜ「明治の三傑」と呼ばれるのか

 明治時代の初期、戊辰戦争から西南戦争までは、日本の社会が根底から変化した画期的な10年間である。
 西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通のこの3人は、幕末に活躍したことで、よく知られている。だが、「幕末三傑」とはいわず、「明治の三傑」といわれる。なぜか。明治に日本の重要なかじ取りをしてきたのか。そうとばかり言えない、大隈重信、 江藤新平、岩倉具視、井上馨、伊藤博文と明治には次つぎと名まえがでてくる。

「明治の三傑」は一つの時代を築いた3人だが、明治10~11年にかけて、西郷は戦死、木戸は病死、大久保は暗殺で亡くなっている。
 
            *
 
 明治初期の10年間は、政治、経済、社会が急激に変化した。しかし、解らない点が多々ある。素朴な質問として、

① 薩長の志士は、倒幕まで「尊王攘夷」を掲げていたのに、明治になると、なぜ開国主義になり、西洋化、近代化の道に進みはじめたのか?

② 明治新政府の誕生では、「王政復古」を掲げながらも、なぜ「文明開化」の路線をつづけたのか?

③ 源平時代からの武士政権が、なぜいとも簡単に消えてしまったのだろう?

 この3つを一度に的確に応えられるひとは、歴史学者でもそんなにはいないだろう。

           *

 明治の10年間で、武士社会と封建制度がなぜ一気に消えたのか。廃刀禁止令、断髪禁止令はかたちから入り、袴姿の武士たちが、西洋のダンディな洋服に変わらせた。風俗・社会ではたしかに見た目は変わった。
 このときから、現代の服装とまったく変わらなくなった。


写真・肖像画=ネットより(左寄り・木戸孝允、西郷隆盛・大久保利通)

 明治4(1871)年の廃藩置県で、300余藩の大名(殿さま)が一瞬にして日本中からなくなってしまった。そして、府県の中央政権になった。現在における都道府県の知事制度である。

 こんな大事件の明治4年に、主要な政治家の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允たちがそろって大勢で外遊する。日本国の政治は大丈夫なのか。そんな不安はなかったのか、と首を傾げたくなる。あまりにも大胆すぎる。

           * 

 岩倉使節団が横浜から出発するときには武士の姿であるが、西洋社会・近代文明と出合い、帰国するときはハイカラな洋装だった。

「西洋かぶれ」と批判される大久保利通と木戸孝允だった。留守組みの西郷隆盛は征韓論を掲げて、ハイカラ組と対立した。
 西郷は政論に敗れて下野していく。おなじく下野した江藤新平などは「士族の反乱」を起こし、西郷隆盛も蜂起した西南戦争が起きた。政府軍(大久保利通)が勝利し終結した。

 西郷隆盛は賊軍の将という理由で、いまだ靖国神社に祀られていない。太平洋戦争のA級戦犯は祀られている。その基準はよく解らないけれど。
 靖国神社=長州神社だと陰でいわれている。幕末の当初は薩摩と長州の仲が悪かった。薩長同盟は結んだけれど、心底からの和解でなかったのか。となると、西郷隆盛は未だに長州からよく思われていないのかもしれない。(推測だけれど)。

           *

 薩摩藩の西郷隆盛といえば、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、廃藩置県などで、日本の歴史をおおきく変えた人物にまちがいない。
 その西郷・大久保から、追討令を出されて打ち負かされたはずの徳川慶喜(15代将軍)が、明治35(1902)年には公爵に叙せら、6年後の明治41年には 勲一等旭日大綬章が授与されている。

 何のための戊辰戦争だったか、よく解らない。これらの歴史的な矛盾は理解されないまま、今日に至っている。

           ※

 武家社会のスタートは、平安時代の後期の源平のころにさかのぼる。特定の領主が土地と人民を支配する、という封建制度が約700年間にわたり続いてきた。

 明治に入ると、木戸孝允と大久保利通は中央集権化を目指した。それは約300藩をすべて廃止して、明治中央政府に一元化するものだった。
 薩長両藩で、その廃藩置県の案が密かにすすめられていた。

 かたや、全国の300諸藩は、戊辰戦争の過大な戦費から、赤字財政に悩み苦しんでいた。なかには贋金(にせがね)で対応する藩もあった。もはや藩運営の限界、藩政を投げ出したい気持の大名が多かったのである。
 明治2年には「版籍奉還」によって大名から「知藩事」になっていた。それはただ形だけのものであった。

 明治4(1871)年7月14日、明治政府は在東京の知藩事を皇居にあつめたうえで、廃藩置県を命じた。
 抵抗すれば、西郷隆盛が、薩長土の兵からなる親兵をもって鎮圧する予定だった。軍事クーデター計画すら練っていたのだ

① 大名の収入は従来の藩収入の10%として補償する。

② 大名の家族は、全員が東京に居住する。

③ 藩の債務はすべて明治政府が引き継ぐ。
 
 藩財政に悩む知藩事は、まさに「渡りに船」である。かたや、軍事制圧でのぞむ西郷隆盛は拍子抜けで、腕の振るいようがなかった。

           *
 
 西洋諸国では、封建制度の貴族階級をつぶすのに50年~100年かかっている。日本は1日にして武士特権階級が消えたのだ。あえて抵抗勢力がいるとすれば、薩摩藩の島津久光である。それは西郷・大久保の頭を悩ますだけのものにとどまった。

 西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の3人が密にして、機をみて、この大事業をおこなったことから、日本が根底から変わってしまったのだ。大事業どころか、大革命となったのだ。まさに政治革命、経済革命、社会革命が一夜にして成功したのだ。

 
写真=横浜港

 わが国は一夜にして「封建主義」から脱却し、西洋の「資本主義」導入へと突き進むんでいくことになった。
 産業構造が手作業から機械化へと変わった。民は土地に縛られず、職業選択の自由が得られた。四民平等で、利と金さえあれば資本家にもなれた。
 西洋化が激流のごとく勢いが止まらず、道路・鉄道・通信のインフラが全国各地ですすむ。

 国内のどの港からでも海外に行けるから、国際化の商業と貿易へと難なくすすむ。外国人の往来が多くなると、西洋の明るい文明が流入する。通信とか、新聞とか、ジャーナリズムの発展になった。
 日本人の強い好奇心から、ハイカラな文化に憧れて、丁髷(ちょんまげ)など恥ずかしいものになった。
 ただ、ふしぎなのはキリスト教の信者が思いのほか伸びず、クリスマス、お盆、お宮参り、と吸収してしまったことである。それが現代にまで及んでいる。

           *

 明治の三傑の3人らは五里霧中の改革であったが、「廃藩置県」で世のなかがここまで大改革になる、とは思わなかったのだろう。だから、かれらは悠長に1年半も外遊できたのだ。

『いさぎよく水に流す』日本人の気質なのか。

 過ぎてしまえば、慶喜すら勲一等だ。
 尊王攘夷など、理屈抜きで吹き飛んでいた。だれも問題にしない。「王政復古」の祭政一致など西洋文明の下に蹴散らされてしまったのだ。
 結果として、廃藩置県が「明治における最大の改革」となった。明治の三傑と称される由縁である。と同時に、現代社会への出発点となった。

                    【了】

 

 

【歴史から学ぶ】上野戦争(彰義隊の戦い)のあと、東武天皇が擁立されたのか

 江戸城の無血開城が、慶応4年4月11日におこなわれた。265年間にわたる徳川政権の象徴だった江戸城の落城である。

 安政7年3月3日の桜田門外において、井伊直弼大老が暗殺されたが、それに匹敵するほど、世のなかが激変した日でもある。

 この当日に、いったいなにが起こったのだろうか。
 15代将軍だった徳川慶喜公が謹慎する上野寛永寺から、元幕臣の高橋泥周(でいしゅう)らの護衛で、水戸へと下っていった。德川将軍の存在が、この世から完全にきえてしまったのだ。
 同日、陸軍の歩兵奉行・大鳥圭介(おおとりけいすけ)の指揮する伝習隊(でんしゅうたい)、および緒隊が江戸から脱出していった。伝習隊などは本所、市川、小山、宇都宮、日光へと転戦していくのだ。

 松平太郎の極秘作戦で重要な軍資金が、浅草・銀座から秘かに運びだされた。約100万両だったという。
 軍隊と軍資金とが、江戸城の無血開城で一気にうごいたのだ。つまり、江戸城の無血開城が旧幕府軍と新政府軍との本格的な交戦へと突入する、おおきなきっかけとなったである。

 この2日前の4月9日だった。江戸城の大奥からは実正院(家茂の生母)、静寛院(せいかんいん・和宮親子内親王)が、牛が淵の清水邸に移られた。
 翌10日には天璋院(てんしょういん・篤姫あつひめ・家定の正室)、本寿院(家定の生母)が江戸城をでて一橋家にむかった。
 これらは大奥政治の終焉(しゅうえん)を意味した。


 江戸湾においてもおおきな変化が生じた。4月11日には、榎本武揚が新政府軍にたいする降伏条件の一つ旧幕府艦隊の引き渡しを拒否し、艦隊8隻に遊撃隊などをのせ、品川沖から安房国・館山へと脱走を謀ったのである。

 陸上は東征軍の支配下になりつつあるも、関東北部の海上はいまだ旧幕府が制海権を確保していた。
 これによって旧幕府軍の江戸湾における兵員の大量輸送が可能となり、このさき小田原・箱根戦争、さらには奥州戦争、箱館・宮古沖戦争へと戦争が拡大していく起因となった。
 その意味で、榎本武揚の存在がおおきかった。

 明治新政府の総督府は4月11日を機に、東北の諸藩にたいして会津倒幕を命じた。これが大反発を招き、奥羽越列藩同盟の32藩の結束になったのである。

            *

 勝海舟・西郷隆盛による「江戸城無血開城」は、無血ということばの響きから美化されているが、はたしてそうだろうか。
 この4月11日は実質的な戊辰戦争のスタートの日となったのだ。日本人どうしが憎しみ、血を流し、国内が分断する大戦争の火ぶたをきることにつながった。
 それは西軍と東軍の「関ヶ原の戦い」以上に、長期にわたり、悲惨な戦争であった。


 4月11日の江戸城無血開城から、閏4月をはさんで、5月15日の彰義隊壊滅作戦がなぜ強行されたのか。
 単一民族の日本人は「和の精神」で平和主義が柱である。「話せば、わかる」という対話による解決精神がある。
「戦争で、一気に白黒の解決をはかる」
 総督府が拙速に話合いの精神を放棄し、江戸城開城からわずか2カ月間で、上野の彰義隊の壊滅作戦にでたのである。

 この上野戦争が成功事例として、その後の薩長閥の政治のなかに脈々と引き継がれていった。
 外交面でも征韓論、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと戦いで解決する方策がとられた。つまり、明治時代以降は双方の話合いよりも、戦争による解決が国論となったのである。

 慶応4年5月15日の上野戦争は、単に江戸の戦闘のみでなく、日本人の貴重な「対話の美」という精神が、無残にも破壊されたおおきな出来事だったともいえる。

           

写真=ウィキペディア(Wikipedia)・輪王寺宮・のちの北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)


 上野山は東叡山(とうえいざん)寛永寺といわれる。(京の比叡山、東の比叡山)。寛永二(1625)年に、德川三代将軍家光(いえみつ)が開基(かいき)した。

 初代は慈眼(じげん)大師の天海(てんかい)大僧正(だいそうじょう)(初代住職)である。17世紀半ばから、京都の皇族を迎え、住職としてきた。
 輪王寺宮(りんのうじのみや)という。
 東叡山寛永寺は、日光山、比叡山の三山を管掌する、強大な勢力をもった大寺院である。德川御三家とならぶ格式だった。

 4代将軍の家綱公から、将軍家の霊廟(れいびょう)となり、6人が寛永寺に眠る。子院は36におよぶ。寺領は1万1790石で、東叡山の全域は約30万5000坪の広大な敷地だった。

 徳川家はなぜ代々、皇族から住職を迎えているか。それは西国の諸藩が、京都の皇族を擁(よう)して倒幕に決起すれば、この関東で輪王寺宮を天皇として擁立(ようりつ)することができる。
 裏を返せば、德川家を朝敵にさせないという狙いがあった。


 薩長が明治天皇を擁立するのならば、徳川家は輪王寺宮を天皇にする。それ自体は南北朝時代の構図になる。

 德川慶喜公が皇国思想の下で、北朝、南朝という天皇家の分断を避けて、水戸にすなおに下って行ったのだ。

 しかし、江戸城の無血開城のあと、関東・東北の諸藩から、輪王寺宮天皇を擁立しよう、という動きがあった。
 総督府は寛永寺の輪王寺宮能生(よしひさ )、清水家にいる静寛院(せいかんいん・和宮親子内親王)はすみやかに京都に連れもどしたい意向があった。


 輪王寺宮天皇が誕生すれば、関東・東北の諸藩が、薩長を朝敵として錦の旗を挙げることも可能だった。


 慶応4年5月15日に上野戦争がはじまった。彰義隊の敗北が見えてくると、寛永寺の住職で、皇族の輪王寺宮能生(りんのうじのみや よしひさ)は逃亡を図った。
 総督府の探索を潜り抜けた。三河島の植木屋職人の粗末な家、翌日には浅草の東光院と泊した。


 彰義隊の脱走兵の多くは、千住から日光方面にむかっている。

 格式の高い寺には、護衛団の剣客がいる。かれら寺侍(てらさむらい)は、剣の護衛のみならず、事務も執るのである。
 東光院の寺侍の護衛で、輪王寺宮一行は翌17日午前10時に、市ヶ谷の自證院(じしょういん)へむかった。
 大胆にも、寺侍たちは上野山下を通る。本郷より、小石川の水戸家邸前を過ぎると、お濠に沿いにいく。
 わざわざ江戸城下にひそむ者などいないだろう、という総督府の盲点を突いていたのだ。一行は市ヶ谷の自證院へと入った。

           *  

 輪王寺宮はご滞在中、表向きは同寺の徒弟に撤していた。居間には粗末な机、古びた経巻をのせ、座布団も供えず、勉学をする。
 元評定所の留役が画策(かくさく)し、軍艦提督・榎本武揚に交渉し、奥州への脱走を図った。
 鉄砲州・舩松町2丁目には、回漕業の「松坂屋」がある。屋主の星野長兵衛には義気があり、極秘に手を貸した。
 5月25日の夕刻、輪王寺宮一同は松坂屋の裏手から伝馬船をつかって、首尾よく長鯨艦に乗り込んだ。

 総督府が目の色を変えて、京都に連れ戻そうとする皇族の輪王寺宮能生は、奥州にむかったのだ。

 奥羽越列藩が輪王寺宮を擁して東武天皇に推載(すいたい)した。元号は『大政(たいせい)』と改めた、という法学説がある。

 当時のアメリカ公使は「いま、日本にはふたりの帝(みかど)がいる。現在、北方の政権の方が優勢である」と伝えている。ニューヨークタイムスの1868年10月18日に、「北部日本は新たなミカドを擁立した」と報じている。

 
 これが歴史的事実ならば、幕末にはいっとき南北朝の戦乱時代のように、明治天皇、東武天皇と国家が分断していたことになる。

 奥州戦争において32藩が皇族の輪王寺宮を奉り、それを精神的な柱とし、総督府軍に激しく抵抗したことは事実である。少なくとも、徳川家のご恩や慶喜公の返り咲きをねがう戦争ではなかったのである。

 歴史は為政者によって都合よく書き換えられる。敗者側の真実は闇のなかに消えていくものだ。学者は宮内庁に遠慮して、東武天皇など認めたくないのだろう。

                   【了】

【歴史から学ぶ】「鳥羽伏見の戦い」ではなく、「討薩の戦い」が実態を表している

 鳥羽伏見の戦いは、薩長側からみれば、実に大きくみえる戦争である。

 慶応4年正月3日午後5時に、薩長勢と旧幕府軍が激突し、寡勢(4500人)ながら、薩長は武器と装備に優れており、また、なによりも官軍の標識の「錦の御旗」が大きな闘志になった。4日間の戦いの末、幕府軍はなだれを打って敗走したのである。

 德川側の立場からみれば、この戦いはどうなるのだろうか。

 この3日間の犠牲者の数は、旧幕府軍280人、新政府軍は110人で併せて390人だったとされている。双方が2万人の兵をもって戦ったのに、戦死者が2%の数からして、大戦争だったといえるのだろうか、という疑問が生じる。

 鳥羽伏見の戦いの発端はなにか。

 慶応3年10月の大政奉還後、西郷隆盛がしかけた赤報隊が江戸や関東一円で、秩序破壊をおこなった。
 庶民を恐怖に陥れる略奪、強奪、放火、さらには二の丸炎上など、くり広げたのである。非戦闘の民は犠牲にしない、という倫理観の欠如だった。


 芝赤羽橋の庄内藩警備屯所にも、銃弾が撃ち込まれた。三田同朋町の屯所も銃撃された。いまふうにいえば、警視庁の交番に銃が撃ち込まれたのだ。罪もない町人が流れ弾で死んだのだ。
「倫理観も、道徳観もない連中だ。これ以上、市民を犠牲にさせられない」
 旧幕閣はとうとう堪忍袋が切れた。

 顧問のフランスの教官らも、市民生活を破壊する卑劣なテロイズムである。国家騒乱罪にあたり、かれらは国際法の無智から生じた狼藉の行為である。許さない方がよい助言した。報復は認められる見解を示した。

 当時は、西洋諸国の見解を無視ではない状況にあった。

 横浜に駐留する英、米、独、和蘭、伊の公使たちも同意見だった。天皇の勅許を取ったうえで、テロイズムの薩摩藩攻撃の『討薩の表』は、国際法上からも、合法性がある、とした。

「西郷隆盛は、国際法の認識欠如だ。非戦闘員の市民を犠牲にしてはならぬ」

 小栗上野介ら幕閣は、庄内藩など諸藩に12月25日に、約1000人で薩摩邸を包囲させた。フランスの教官らは国際法から報復を認められると、大砲の攻撃を指導した。そして高輪薩摩藩の屋敷に大砲を撃ちこんで焼打ちにした。

 逃げだす薩摩藩士らは、市街戦で49人が死んだ。

 残りの藩士らは品川沖から薩摩艦で逃げていく。榎本武揚らの幕府軍艦は執拗に追う。慶応4年元旦、兵庫湾に停泊する薩摩の軍艦、「春日」、「平運」と海戦状態になる。
 翌2日、江戸湾から脱出してきた薩摩藩の「翔鳳」が兵庫湾に入ってきた。薩摩艦の3隻は遁走した。
 榎本武揚海軍は、「翔鳳」を撃沈した。他の2隻は逃げてしまい、大坂湾の制海権は旧幕府のものになった。

            *
  
 元幕閣は即座に討薩(とうさつ)を決めた。「討薩の表」をもった陸軍は軍艦「順動」も大坂湾にむかっていた。
 旧幕府軍として大坂城に終結した。1万5000人の旧幕府軍だった。『討薩の表』を持って京都に入り、少年天皇に裁許をもらってから、薩摩藩だけを討つ。順序良く手順を決めていた。

 鳥羽街道の道路幅は、馬道の扱いならば、幕府の規定から2間(約3・6メートル)である。
 旧幕府軍は縦隊列の兵士が、道幅一杯に2列で京都に進んでいた。大目付役の滝川具挙は、騎馬が得意ではなかったようだ。
 滝川の馬が薩摩の大砲におどろいて狭い街道を逆走したのだ。
 縦隊列の兵士たちを跳ね飛ばす。馬の蹄で圧死する。大混乱になった。狂った馬が何匹いたのか、確認できない。戦争にかぎらず、なにごとも最初が肝心である。統率の乱れた幕府軍は、不統一のまま、それぞれが戦闘を開始した。
「討薩」が目的だが、薩摩藩に加勢する藩が出てくる。かたや、德川に味方する藩もある。敵・味方の判別・識別がつかない戦争状態に陥ってまったのだ。


 狭い路地で撃ち合う。夜の戦闘では同士討ちもある。戦闘は精神的な苦痛から3~4日が限界だという。
 品川薩摩屋敷から追ってきた討薩隊は、戦端を開いて4日も経ったし、もう止めて帰ろう、軍資金もかかることだし、江戸に妻子もいるし、となった。
 陸路、海路から総引き揚げになったのだ。
 
 かれらにすれば、『討薩の戦((とうさつのたたか)い』だったのだ。

           *  

 新政府軍の西郷隆盛には、
「まったく敵影見えず」
 と各地の斥候たち、報告があがってきている。

 総力を挙げて華城(大坂城)に籠城するだろう。その予測の下に次なる戦略を練っていた西郷はおどろいた。
 なんど確かめても、德川兵の姿がいないという。びっくり仰天だ。


 総大将の徳川慶喜公は、すでに大坂城を脱出し、数人の幕臣や会津・桑名藩主らと江戸に帰ってしまっていたのだ。
 德川1万5000人の全兵が、畿内からあっというまに消えたのだ。戦争の常識ではあり得ない。
 德川方は江戸薩摩屋敷の撃ち払いから続いた「討薩の戦い」に過ぎなかったのだ。

           *

『慶喜が兵士を見捨てたから、総崩れになった』
 実にもっともらしい。
『錦の旗に恐れをなした』
 そんな歴史観は江戸人にあろうはずはない。将軍は知っていても、天皇の存在すら知らないのだ。

 錦の旗とはなにか。鎌倉、室町の時代に、天皇の治罰論旨がくだされた一門が使えるものだった。それすら国学者の一部が知っている程度だ。

 日本人はとかく勝者と敗者に明瞭に分けたがる。引き分けという中間色は嫌う傾向にある。
鳥羽伏見の各地の戦況を調べると、おおむね新政府軍がやや押していたようだ。
 歴史は後から創られるものだから、大勝利と誇張されたのだろう。


 いずれにせよ、德川家の家臣は、西郷隆盛が仕掛けた江戸騒擾に頭にきたから、場当たり的な出陣だったことは間違いない。

           *

 当時の江戸市民の情報は「かわら版」である。戯作者、絵師、彫師たちによってつくられる。無届の出版である。だから、真実はどのていど伝わっていたのかわからない。おおむね『城州伏見大火の図』として市中に出回っている。

 その内容は、「慶応四年辰正月三日、申の刻より、出火いたし、同五日に鎮火いたし候、伏見や淀そのほか所々にあって竃の数およそ四五六七軒、土蔵およそ三八か所という。神社仏閣もあまたある」と大火の扱いだ。
 なかには合戦だと、面白くおかしく揶揄しているかわら版もある。

            * 

 当時、制海権を持っていたのが幕府海軍である。榎本武揚の采配する軍艦が、品川から逃げた薩摩艦を追って紀州沖で沈没させている。

 榎本武揚は江戸っ子で無頓着な性格であるが、後に、戊辰戦争・箱館戦争について、「ドイツ留学から帰国したばかりで、長州人と言われても、どこの馬の骨かわからなかったから、抵抗してみた。いまなら、あんな幼稚なことしない」と語っている。
 
 撃沈された薩摩海軍の死者は、発表されていない。軍艦の海兵まで入れると、100人はゆうに超えているだろう。
 となると、「討薩の戦い」では旧幕府軍と新政府軍の戦死者の数はさほど変わらないか、あるいは逆転しているかもしれない。

 德川慶喜にしても、天皇親政に反対していたわけではない。
 半月前の12月14日、新政府の出納係・戸田忠至(ただゆうき)が、大坂城にきて、
「新政府の国庫に金がなく、明治天皇の1周年祭に、職員の弁当代も払えない」
 と泣きついてきた。
 慶喜も気前よく5万両を貸しているのだ。


 その慶喜は後年、「長州は許せても、薩摩は許せない」と語っている。
 それは西郷隆盛が仕掛けた江戸騒擾の非人道的な行為が許せなかったのだ。その行動にたいする報復が、「討薩の戦い」だったと考えた方が自然である。

 幕府陸軍は1万数千人の兵力を擁し、フランス式の洋式軍隊に変身つつあった。討薩の戦いが起きた。
 陸軍奉行の不在だったことから、指揮統一が書けていた。中隊、小隊の判断に任させた戦闘だった。
 どの隊が勝っているのか、負けているのか。情報が1か所にあがってこない。

 幕府陸軍の歩兵隊長の松平太郎は、計略にすぐれた策略家(謀将)であった。
「薩摩の意表をついて、一夜にして京の都を攻め落とす。形勢一変させる」
 松平太郎の奇策の進言にたいして、会津藩の松平容保が「もう少し待ってくれ」と延期を申し込んでいた。
 
 松平太郎が待ちくたびれて、大坂城に来てみれば、慶喜公も容保の姿もなく、おどろいたという。これでは会津藩を中心とした京都への総攻撃などできない。
「勝算がなければ、大坂城に踏みとどまる理由などない」
 陸軍の松平太郎たちは海上の榎本武揚と図り、大坂城内の銃や刀剣類、18万両を軍艦に積み込み、海路で江戸に移した。

 その折、大坂城内の書類はすべて焼かせている。残りの全兵は紀州の港から海路、引き揚げさせた。

「大坂城は秀吉以来の名城だが、関東武士には不要だ。度胸がある妻木多宮がこの城に残り、一泡吹かせて、爆発せよ」
 そう言い残しおいた。

 新政府軍の長州藩兵らが、華城(大坂城)に入ってきた。敵影がみえず。応対に出てきたのが江戸旗本の妻木多宮だった。
「2日間の猶予をもって、大坂城は尾・越藩に引き渡す。受領書をもってきてほしい」
と妻木に言われるし、城兵の影はいない。

 新政府軍のみならず、無人の城だと知った大坂市中の民、3里5里の近郊からも、我も我もと広大な大坂城に入り込み、思い思いに品を持ちだす。そうは甘くなかったのだ。

 德川の巧妙な仕掛けには、だれも気付いていない。引渡し式のさなか、突如として、城内で地雷が爆発し、同時に火災が発生し、火薬庫が大爆発を引き起こしたのだ。
 城は数日間も燃えつづけた。

           * 

 被害はそれだけではなかった。大坂一円の諸奉行など為政者・統括者がすべて消えていたのだ。行政と治安の引継ぎすらない。
 豪商で豊かな大坂が、無政府状態の大混乱に陥ってしまったのだ。


 西郷隆盛は、まさか、こんなかたちで江戸騒擾の報復があるとは信じがたかったようだ。ちなみに薩摩藩兵の死者は72人である。軍費を使って得るものは焼け落ちた華城である。そして、収拾がつかない商都・大坂だった。

 大政奉還からはじまり、小御所会議の王政復古を経て、「討薩の戦い」をもって德川幕府がみずから幕引きしたのだ。

           *

「いまの少年天皇は監禁状態だ。自由意思で行動していない。京都で権力を握った連中は、天皇親政の名の下に、天下にその勢力を拡大しようとしている」
 天皇の命令に従う意志はあるけれど、薩長の下級藩士には従いたくないと、徳川家のなかに抗戦派が出てくる。

 大坂から慶喜が江戸に帰る船上で、「自分は江戸に帰ったら、抗戦せず、恭順するつもりだ」と老中・板倉勝静に語っている。
 慶喜が江戸城に入ると、徹底抗戦と恭順派と意見は二つに割れた。江戸城内は大荒れだった。
『東征軍は箱根の山の西側に留めおく。軍艦の一部を砲撃する』
 勘定奉行を5回もやった小栗上野介は、新政府軍を攻略する、勝てると主張した。

 しかし、慶喜はフランスのロッシェなどとも会談し、将来を見通し、和戦の意志を固めたのだ。
 小栗上野介、榎本武揚ら抗戦派の意見は退けられた。

 小栗は慶応4年1月15日にお役御免だ。同月28日には、上野国群馬郡権田村への「土着願書」を提出している。小栗上野介は、三野村利左エ門から千両箱を送られて、アメリカへの亡命を勧められているが、国家の難に海外亡命はせぬ、と断っている。

 幕末では、最も優秀な頭脳だった小栗上野介は、権田村で斬殺される。

「日露戦争に勝てたのは、横須賀製鉄所・ドックを造ってくれた小栗上野介どののお蔭です」
 東郷元帥がそう語っている。

 そのことばで、「討薩の戦い」が幕引きになったのかもしれない。 

【読者の投稿】 高間省三様のお墓に参る  hiro_king

 毎年、「お盆の墓参り」といえば、大方のひとは8月15~16日を指しています。私が東京に来ておどろいた一つには、「東京のお盆」は、なんと7月15~16日である。奇異な感じがしました。江戸っ子はいまでもそうです。

 学生時代には夏・冬のギフトシーズンには、三越・池袋店で、お中元・お歳暮の販売と包装を行っていた。それを資金に、夏山・冬山と登山に明け暮れていました。

 夏のギフトは印象的です。
 お客さんから承ったとき、品物が7月15日まで届かない場合は、熨斗(のし)は「お中元」でなく、「暑中見舞い」です。8月中旬から「残暑見舞い」としてください。熨斗(のし)をまちがうと、三越の恥になりますから、と売り場主任に言われました。

 東京は不思議だな、と思ったものです。かたや内心、届け先が地方だと、8月にお中元でも、三越の恥にはならないのにな、と感じていました。

                 * 

 読者のhiro_kingさんから「高間省三様のお墓に参る」というレポートをいただきました。それから3か月余り。
 当初は、「新型コロナの爆発的な感染に警戒を」と連日、おおきく報道されていました。重篤者の数が増えてくる。しだいに、東京オリンピックが怪しくなったので、掲載を躊躇(ちゅうちょ)していました。レポートは下記の内容です。


『修行院のレポートの続きです。4月初旬の話になります。
 先日、オリンピックの聖火が福島jビレッジで展示された事をテレビ情報で知りました。場所は神機隊のみなさんが眠る修行院さんの側で、そこに行く途中には、高間省三様の眠る自性院さんもある。

 御墓参りに参りついでに聖火も見れると考え、広島に居る妻から送って貰った西条のお酒、白牡丹のワンカップを持ち出かけました。自性院さんは双葉駅の側にあり、帰宅困難地域です。
バリケードは駅の周りだけ取り外されてますが奥の方はまだまだです。
道のそばにある家は取り壊しが進んでます。入る事は許可されてますが住む事や家に立ち入る事が出来ないので仕方ない事です。』


 東京都知事が、東京オリンピックの延期を表明しました。その直後に、「オリンピックの聖火が福島jビレッジから」という行事は、ことしは取りやめです、と地元・楢葉町の町会議員(郷土史家)から、残念な内容のメールをいただきました。

 hiro_kingさんから「高間省三様のお墓に参る」は、実にタイミングが悪いな、と思っていますと、非常事態宣言が出てしまった。レポートの掲載は先延ばしにきめました。

 7月のお盆は東京だけで、他の府県は月遅れのお盆(8月15日)ですから、hiro_kingさんレポートは、その直前に紹介しようときめていました。

 下記の内容です。
 
『高間省三様のお墓に参ると前に参った時とは違う花が供えてありました。
 大変ありがたいことです。ちなみに福島の方はお供えの花は造花が多くホームセンターにもお供え花として売られてます。
 高間省三様にまた参った旨や私の近況等を話し、この後、修行院さんに行く事を伝えお墓を後にしました。』


 現在は、これまた新型コロナの拡大で、お盆の帰省にたいして国の方針は、実にあいまいで逃げ回っているし、都道府県の知事の指針は帰省に賛否両論です。

 いま、遠路福島への高間省三の墓参りは迷惑を及ぼします。hiro_kingさんが撮影された、《高間省三の墓》の写真で、手を合わせてあげてください。

                   *

【穂高のヒストリー】

 「GoToトラベル」キャンペーンが昂じて、先の4連休で、沖縄県に多大な迷惑をかけている。政治家は、だれも責任を感じていない。
 過去の不祥事では、「責任は私にあります」と何回も口に出す政治家がいる。その実、待てど暮らせど責任は取らない。
 これが武士社会ならば、責任とは切腹だけれどな、と考えてしまう。現代だから、別に腹を切らなくても良いけれど、政治責任とは内閣か国会の解散である。

 ここで政治家に武士道を説いても、日本人として虚しく情けなくなる。
 
 芸州広島藩の神機隊の隊員が、責任を取った事件があった。紹介してみたい。

                *

 神機隊の加藤善三郎は賀茂郡竹原村の農民出身である。暦は慶応4年でなく、もはや戊辰戦争が終わった明治元年11月4日である。
 
 神機隊は仙台陥落のあと、帰路として福島・白河ルートを取っていた。加藤善三郎が木立にうずくまる人物を発見した。呼びかけても、返事がない。旧幕府軍の脱走兵だと思い込み、かれは斬り伏せてしまった。
 ところが、長州藩が雇った農民で、誤殺だった。善三郎はその場で長州兵に連行されていった。

 事態を知った神機隊が長州隊におしかけた。双方で、一触即発の空気がみなぎった。善三郎の身柄は、ひとまず事情を聴くために神機隊が引き取った。

「無実の農夫を誤殺した自分に責任があります。自分の切腹で、事態の解決をはかってください」
 福島県白河市の萬持寺の本堂で、

【莞爾(にっこり)と笑ひ散りけり桜花】

 と辞世の句を詠んで。広島に帰る希望も捨て、農民出身の加藤善三郎は、両隊の立会いの下で、切腹したのである。
 
           *  

 加藤善三郎の墓はその萬持寺の墓地にあります。当時から、眼病の神さまだと、現地の多くのひとが参られています。
 
 徳川時代~大正まで、日本人の病気で最も多かったのが眼病です。それは屋敷のなかに囲炉裏があり、薪を炊く、その煙とススが眼球を痛めるからです。

 加藤善三郎の墓が眼病に効く。それだけ大勢の人の墓参りがあったことを意味します。当時の農民比率は約85%です。白河などは9割がたでしょうから、農民どうしの死は痛ましく悲しくて、大勢の涙を誘ったのでしょう。

 機会がありましたら、「加藤善三郎の墓」
(所在地: 〒961-0945 福島県白河市巡り矢65 電話: 0248-23-2939)も、お参りしてあげてください。(写真でお参りは青字をクリック)。
 

明治時代の広島⑥ 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(下)

 慶応4年(明治元年)に戊辰戦争が終結した。と同時に、薩長による明治新政府が立ち上がったと、誤解している人がじつに多い。

 会津攻めは、薩土の二つの軍隊が「官軍」と称して約3000人で攻めた。このときの指揮官が板垣退助、伊地知正治である。
 会津藩は早々と籠城(ろうじょう)作戦をとった。


 1か月ほど包囲しているうちに、全国の緒隊が新政府「官軍」が有利とばかりに会津に集まってきた。その兵の数は3万人にも及んだ。

 会津が白旗を上げると、「官軍」はその場で解散してしまった。薩摩、土佐、長州の藩兵など、全軍はさっさと帰藩していったのだ。
 西郷隆盛もそのひとりだった。

 新政府は兵を養う財源がないし、「官軍」の解散を止めようにも止められなかったのだ。諸藩の藩兵は、国許から扶持(給料)が出てくるから、当然といえば、当然である。

               *

 これでは戊辰戦争が終っても、幕藩体制とおなじ図式だった。幕末史のなかで、この認識がとても重要である。
 くり返すが、戊辰戦争、箱館戦争が終わっても、薩長閥の明治政府ではなかった。
 
           *                

 すると、明治新政府はだれが政権を運営していたのか。

 新政府の頂点は公卿と強力な大名である。しかし、かれらには実務力がない。そこで、全国諸藩から優秀な藩士を引きぬいて、明治政府(東京)に出仕させたのだ。
 大隈重信、大久保利通、木戸孝允など、かれらは名高い徴士(述べ123人)であるが、給料は自藩からもらっていた。まさに、「宮仕え」の身だった。だから、藩の代表者的な対立も数多くあった。
 かれらは曲がりなりにも租税、貨幣、外国との交渉などに携わっていた。

 大蔵、外務、兵部などの大臣は公卿や大名である。これは飾り物に等しかった。徴士は実務最高ポストである次官や局長クラスに座った。
 現在でいう財務省の主計局長は、薩長土肥から選ばれた徴士である。財政・金融の実権を握った。
 かれらの部下となると、課長以下は実務に精通した旧幕臣時代のエリート官吏たちだった。旧幕臣たちは家族を養うために、新政府に雇われたのである。
 これが各省庁の配置図だった。つまり、公卿(大名)、徴士、旧幕臣で、明治の御一新政治を行っていたのである。
             *  

 新政府は当初から財源確保に苦しんだ。
 大蔵省の徴士と出仕した由利公正(ゆりきみまさ)(福井藩)が、やみくもに紙幣の「太政官札」を増刷するから、物価高騰である。
 御一新政治になっても、庶民は生活はひとつも豊かにならなかった。新政府への不満は拡大し、農民一揆まで起きはじめていた。(徴士は明治2年6月27日の「達」で、表向きは廃止。かれらは高官として政治に関与した。ここでは、以降も徴士として表現します)

            *   

「このさいだ、新政府の財源確保のために、家康の再来といわれた慶喜がやったことと同じことを、すべての藩にやらせよう。大政奉還とおなじ版籍奉還をやろう。名案だろう。まずは毛利家(長州)、島津家(長州)、山内家(土佐)の3藩が率先してやる」
 これは木戸孝允の発案だろう。
「このさいだ、鍋島家(肥前)も入れてみよう」
 新政府は天下の知恵者ぞろいだ。薩摩藩の寺島宗則、大久保利通、長州藩の木戸孝允、土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信、副島種臣たちである。


「全国の土地と人民は天皇のものです」
 薩長土肥の徴士(ちょうし)が率先して、自藩の殿さまを説得してまわった。
「いったん返上された土地や人民は、新政府から再交付される予定です」
 と、予定とは嘘も方便、大名たちに期待もしくは誤解させたのだ。
 そして、版(土地)と籍(人民)を天皇に返させたのである。
 『王政復古の大号令』という大義名分を利用して、こうして口先ひとつで、律令時代のように天皇を使い、日本中の土地財産を手に入れたのだ。            

 302藩の藩主は、知藩事という地方行政官になった。お殿さま時代の世襲制が禁じられた。この版籍奉還の成功で、藩主たちの権力が一気に薄められてしまったのだ。
 
 徴士(ちょうし)たちは全国からあつめられた知恵者ぞろいだ。もう次の手を考えている。


 
「日本を一つにした統一国家をつくろう。これは生きるか、死ぬか、どちらかひとつだ」
 木戸孝允の邸宅で、緊迫した密議がはじまった。
「この際、藩をやめて県を置こう。廃藩置県だ。中央管下の府県を一本化する」
「天皇を利用しよう」
「それが良い。勅書で応じなければ、一万人の軍隊をもって大名の首を刎(は)ねよう」
 西郷隆盛は、戦争とならば、勇み立つ。

「武士階級は日本の全人口の5%だ。しかし、扶持(給与)を計算してみると、国家財政の4割近くをうけとっている。これが問題だ。このさいだ、武力解除、つまり武士階級をなくそう」
 これも木戸孝允の案だった。
「武士がいなくなって、国を守る軍隊はどうする?」
「国民をつかえば無料だ。必要なときに徴兵すればよい。武士のように固定すると、高いものにつく。全国の武士をいちどすべて解雇する」
 その上で、20歳以上の成年男子を徴兵検査する。合格したものを招集すれば、安くつく。三度の飯と制服を貸与すれば、それでよいのだから。

 知恵者はなおも考える。
「いっそう、武士階級と同様に、元大名もクビにしてしまう。知藩事には甘い餌(えさ)を与えれば、ぱくりと食らいつく」
 徴士は半分、無責任だ。他人事である。失敗すれば、辞表を出し、出仕を止めて国許に帰ればよいのだから。
 歴史には登場しない、辞表を出した徴士は数限りなくいる。

          *

 知藩事たちは、いずこも戊辰戦争の出費で疲弊していた。その上、一昨年の大凶作で、藩財政は大きな赤字だった。破綻も同然だ。
「ここは好機到来だ。甘い条件をやたら並べよう。飛びつくように」
 成功したから歴史学者たちに称賛されているが、一般には「悪知恵」といわれる類のものだった。

① 藩知事は藩士への家禄支給の義務がなくてもよい。

② 藩財政の大赤字は明治新政府が代行する。

③ 藩収入の1割を永年で支給する。

④ 藩知事は東京に移住する。

⑤ 藩札は、当日の相場で、新政府の紙幣と交換する。

⑥ 天皇の詔書で、すべての知藩事は失職する。
         
            *

 抵抗する知藩事、藩にたいしては、薩長土三藩出身の強大な親兵をもって鎮圧する。

 実行する徴士たちは、この段階まで、まだ薩長土肥の下級武士の身分だった。これに成功すれば、下剋上で、クーデターの成功になり、明治政府の頂点に立てる。
 全国統一の為政者になれるのだ。緊張感に満ちているが、まさに一か八だった。

聖徳記念絵画館壁画 「廃藩置県」 小堀鞆音画

 明治4(1871)年7月14日年8月29日14時、在東京の知藩事を皇居にあつめて、明治天皇が詔書を読み上げる。廃藩置県を命じるものだった。 楯(たて)突く知藩事はいなかった。

 むしろ、知藩事は(元大名)は、藩の借金苦から解放されたうえ、特別に優遇されたことから、無抵抗で廃藩置県に応じたのである。そこにはしわ寄せが民に及ぶという、在民思想など微塵(みじん)もなかった。

 中央政府から県令(現在の県知事)が、302県すべてに派遣された。ここにおいて下級藩士(徴士)たちのクーデターが成功したのである。
 1000余年つづいてきた武士統治が、完全に消えた。
 封建制度の崩壊の速さは、全世界をおどろかせたのだ。

            * 
 
 明治4年7月14日の廃藩置県で、広島藩から広島県に変わった。知藩事の浅野長勲は罷免されて、東京移住となった。すでに東京にいた。
 広島県知事(大参事)に内定していたのは、土佐出身の河野敏鎌(こおの とがま)であった。

 同年8月4日、浅野家の長訓一行が広島から海路で東京に向かう予定だった。

「お殿さま、お止め申す…お止め申す」
 群衆が大声で口々に叫んだ。

 広島領内の「武一騒動」は、明治4年 10 月の鎮静(ちんせい)化した。逮捕者は 573 名に達した。
 首謀者(しゅぼうしゃ)として、北広島町(旧千代田町)有田村の山縣武一(寺子屋を開き石門心学を教えていた)が、一揆の責任者として逮捕された。そして、48 歳の若きで、梟首(きゅうしゅ)にされた。武一のほか 8 名が死刑となった。

 かれが首謀者にされた理由として、武一が同年 8 月 11 日に提出した「御藩内十六郡百姓共」の名による嘆願(たんがん)書の起草者だったという。

           *

 この「武一騒動」は中国地方・四国地方にまで「一揆」として影響を及ぼした。
 
 明治新政府のトップに立てた薩長土肥の徴士たちはクーデターが成功した、と思った直後に起きた民衆の「武一騒動」だった。
 優秀な徴士たちは、これは一過性の騒動でなく、反政府運動として震撼したのだ。

 かれらは廃藩置県で武士階級をなくし、国民徴兵制を導入する。「戸長制度」の充実で徴兵検査・徴兵出征がスムーズに行くとストーリーを描いていたのだ。
 
 大名クラスはまんまと排除できた。ところが、武士階級にも及ばない農民階級が、反政府運動に及んだ。政権トップに立った徴士には、民衆というとてつもない敵ができたのだ。

 徴兵制度が発表されると、大規模な血税一揆となった。
「人間の血が奪われる」。これはまさに武一騒動の流言と同じだった。

 この民衆運動に、「武士を解雇して、百姓に鉄砲をもたせる。とんでもない新政府だ」と、徴兵制を反対する職を失った元武士の士族階級が結びついたのだ。そして、大規模な士族の乱に及んだ。
 萩の乱、佐賀の乱、西南戦争へと、徴士たちの自国のひざ元で大きな反乱が起きてしまった。武力鎮圧に労した。

「武一騒動」は民が戦う、という全国規模の自由民権運動に発展していくのである。
 
 廃藩置県をもって幕藩体制が終結したけれど、同時に起きた「武一騒動によって、わが国の民衆運動の発端になったのである。
 これは歴史的事実である。
                       【了】

 

【歴史から学ぶ】 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(中)

「殿さまが東京に行くぞ。お引留めせねばならぬ」
 広島城の、竹の丸館から浅野長訓(ながみち)一行が大名カゴで出てきた。
「お止め申す……。お止め申す……」
 庶民の行動が、なぜ巨大な騒動になったのか。

 大きな要因の一つには、倒幕志士たちが徳川政権下で、攘夷思想を煽(あお)り、それが庶民の末端まで浸透していたことにある。

「キリスト教は邪教(じゃきょう)である」
 それが日本人の一般的な考えで、外国人と交わらないというスタンスだった。

           *  

 徳川幕府の下、安政5(1858)年、米艦隊のミシシッピー号の複数の船員が、コレラ患者だった。長崎に上陸した。またたくまに長崎市内の住民に感染し、勢い拡大した。そして、九州地方、中国地方、近畿、京都、さらに江戸城下へと拡大していった。
 「ころっとすぐに死ぬ・ころり(虎列剌)だ」と庶民は恐れ慄いた。

           *

 すさまじい死者を出した江戸の町では、毎日、蔵前通りだけでも250人くらいの葬式の列が通る。火葬場は棺桶があふれた。
江戸と京都を結ぶ東海道だが、上り下りとも人通りが途絶えた。江戸の町、宿場町など、諸国の商いが極端に冷え込んだ。まさに、前代未聞の大惨事であった。


 写真 : 『安政箇労痢流行記』(国立公文書館所蔵)の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」  

 文久2(1862)年にも、ふたたびコロリが大流行したのだ。
「異人が井戸に毒を投げ込んだ」といううわさがひろがった。正確な統計はないが、安政5年、文久2年のコロリの死者は合わせると、江戸だけでも約10万人~30万人、それ以上の記録が残っている。

 日本人は、この病魔を持ち込んだ外国人に恐怖心をもったのだ。

           *

 かたや、開国して以来、物価が高騰し、農民の副収入だった綿糸が輸入品にとって代わり、農民たちの生活がいっそう圧迫されてしまった。
「聖地の日本を犯した異人を排斥すべきだ」
 攘夷派の主張はつよい説得力を持った。
 日本人のほとんどが攘夷運動に賛成だった、と言っても過言ではなかった。と同時に、外国人排他の思想がふかく根を張ってしまったのだ。
            
 まさに、外国人は凶兆(きょうちょう)であり、庶民に災いをおよぼす存在だった。

            *

 幕府が瓦解したあと、明治新政府になっても、一般庶民の攘夷思想が消えておらず、コロリの恐怖も冷めやらず、明治新政府の開化策にたいして、疑問と反発があった。
「おいおい。薩長は攘夷じゃなかったんか。なぜ、開化政策なんじゃ」
 その不信感がつよかった。

 新政府は近代化を急ぐあまり、各省庁で、「お雇い外国人」を数多く雇った。かれら外国人の指導の下、言われるまま、日本の政治が動いているようにみえたのだ。
「太政官は、異人が政事をする取扱い処である」
 この流言は、庶民たちのただの空想ではなかった。

 わが国の政治家たちは、西洋の文化と技術を持ち込んだ「お雇い外国人」に、すべて牛耳(ぎゅうじって)られて、言われるままの下僕に映ったのだ。
「こんど来る県知事は、攘夷とうそを言った奴らだ。国を売った奴らだ。異人の手下だ。ろくなことを考えおらんぞ」

           *
 
 群衆は口々に叫んだ。
「わしら領民はだれが守ってくれるのだ。新政府の県知事か。ちがうだろう。怖い異人から守ってもらえるのは、お殿さまだ、藩主さまだ」
 農民は260年余にわたり、年貢を出す代わりに、身の安全と村の平和を守ってもらっていた。その意味で、武士はありがたい存在だったのだ。

「殿様が、東京に強制的に奪われてしまう。残された、わしら庶民はどうやって自分を守るんだ。領民は、だれが守ってくれるのだ。武士しかいないではないか」 
 各地とも、武士社会をなくす廃藩置県へのつよい反発と抵抗になったのである。
「殿さまは、下々を見捨てた」
 そう叫ぶ者もいた。

                

 「大元師陛下御還幸日比谷原凱旋門図」 楊洲延保/画 江戸東京博物館蔵

 ここで見落としてはならないのが、一か月前の明治4年5月23日に制定された『戸籍法』である。明治新政府が、国民の成人男子を「懲役」にとるために、戸籍を整備した。
 徳川時代は、お寺の人別帳であった。これでは徴兵検査ができないからと、法改正したものだ。

 徳川時代から、年貢は村ごと単位で決められていた。庄屋(名主)がすべてにその責任を持っていた。
 ところが、この法律で名主・庄屋が廃止されたのだ。農民たちは戸惑った。年貢の納め方のかたちが見えなくなってしまったのだ。

 新政府は、新たに村々の庄屋たち6-8人を一つにした戸長(こちょう)・副戸長がおかれた。そして、県庁指導で、大庄屋などから戸長が選ばれていた。
(現在でいえば、集落(郷)単位でなく、大枠の町長や市長の制度がうまれた)
 戸長はあらたな村の支配層となった。

「こやつら戸長は、政府の指示で、娘と牛を徴収して、外国人に引き渡す役だ。まちがいない」
「そうだ。こんどできた戸長は、政府のまわし者だ。わしらの敵じゃ」
 かれらは白い目でみた。
「県の役人と戸長はつるんで、2万円(現在・400万円)がもらえるらしい、東京の政府から」 
 騒動のなかで、戸長制度への不信感が増幅していく。

 8月4日からの騒動が3日、4日とつづくほどに、群衆のなかには竹やり、鉄砲、鎌、鉈(なた)などを凶器をもつ者もいた。
 群集心理が昂じると、暴徒化してしまう。「娘と牛を渡す役だ」とうわさになった戸長たちが狙われたのだ。激昂し暴徒化したかれらは、新政府への手先だと決めつけた戸長宅で、住居や蔵に連続放火した。
 各村々に説諭書を持ってきた県庁の関係者らに、激怒した群衆は竹やりで突き刺し、殺傷した。ついに、各県庁の役人は、新政府に軍隊の出動を要請した。各鎮台(ちんだい・国内の軍事拠点)からやってきた制服軍人が、城下の数万の群衆にたいして解散を叫び、発砲した。
「なんだ、空鉄砲じゃないか。腰抜け軍隊じゃ」
 竹やりや鎌、猟銃をもった群衆が、そのようにあなどった。
「実弾で、殺してもよい」
 戊辰戦争で実戦なれした軍人だから、こちらも気が荒かった。
「武一騒動」はとうとう血で洗う武力闘争に変化していったのだ。広島県から、さらに備中福山県、姫路県、他にも4、5か所でも、軍隊による発砲がおこなわれた。

 徳川時代には『農民は国の宝だ』という認識から、農民一揆に銃の鎮圧は原則・厳禁だった。この武一騒動の明治4年から、県庁側はすぐに鎮台に軍隊出動を要請するかたちが生まれたのである。
 現代の香港問題もそうだが、軍隊の民衆鎮圧は、世界史からみても、決して望ましいものではない。
 武一騒動という幅広い反政府活動が、銃血に染まった惨事になっていくのだ。
                                           【つづく】

    

【歴史から学ぶ】 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(上)

「お殿さま、お止め申す…お止め申す」
 群衆が大声で口々に叫んだ。
 それは広島藩の前藩主・浅野長訓(ながみち)の一行が、東京に向かう日のできごとだった。
「お殿さま、広島を見捨てないでくださいませ」
  かれらは広島城の城門から出てきた長訓の駕籠をとりかこんだ。
 その数は増えるばかり。すぐさま数千人、さらに数万人規模まで膨らんできた。長訓一行が進むにすすめない状態に陥ったのである。

 予定では、広島城の長訓が住んでいた「竹之丸」から、南御門を出て西国街道を西にすすみ、水主町の船着き場から御座船に乗る。そして、宇品沖で停泊する本船に乗り込む。兵庫湊(神戸港)では大型蒸気船を乗り換えて、横浜にむかうものだった。

                 *

 この広島城下の群衆が、明治政府を震撼させる大事件になるとは、この段階で、おそらくだれも想像していなかっただろう。
 県内16郡の庶民にとって、長訓は11代藩主時代に幕末の政治に関与し、頼りになる存在だった。と同時に、民衆想いで好かれていた。
 山県郡、高田郡、佐伯郡を筆頭に、大勢の農民があつまった。当初、純朴に、お世話になった殿さまに、ご餞別を渡したい、という人々が多かった。そうした史料が多い。

 数万人千規模の群衆が、広島の1か所(長勲のカゴ)へと、われ先に、と競うと、異様な雰囲気に陥ってくる。
「いま、ここで群衆を割って、無理して押し進むこともないだろう。出発の日を改めよ」
 人柄のよい長訓は、つきそう供に延期を命じた。

 県庁の役人にすれば、東京の新政府に長訓公の出発日を伝えているから、予定変更は落ち度になると思い、群衆らに帰村を叫びはじめた。
「散れ、散れ。むらに帰れ」
 多勢に無勢である。
「おどれら、役人がなに抜かす。政府のまわしものじゃないか」
 群集は役人の態度に反発して、解散も、帰村も応じなかった。

  後世の歴史学者、歴史研究者たちは、この事件のあとづけで、騒動の首謀者とされて悲運な処刑をされた人の名をとって、「武一騒動」という。
 
                 *      

「おらは聞いたぞ。新政府の太政官(政治家)は、異人の政治を取り扱うところだって。西洋人は女の血を絞りだして、それを毎日飲み、牛肉を食べているそうだ」
 群衆のなかで、誰がそう叫んだのか、いまでは判明できない。

「なんでも、新政府は異人の言われるままらしい。こんど藩主さまに変わってくる県知事が、戸長(こちょう)に、女子15歳から20歳まで3人、牛を1頭つけて差し出せ、と命令したようだ」と尾びれがつく。
 この流言飛語はとんでもない惨事をまねくのだ。

 悪いうわさが広島県内を皮切りに、4日後には瀬戸内をわたり、四国に上陸する。流言飛語が中国地方・四国地方にあっという間に拡散し、新政府に反発して暴徒化した。

 「武一騒動」を超えた、『旧藩主引留め一揆』となったのである。


 8月8日 伊代・大洲  (現・愛媛県)で、藩主(加藤泰秋)の引留め、租税軽減要求、蘭方医の襲撃がおきた。

8月9日 筑前  (現・福岡県)で、藩主(黒田長知)の留任要求、年貢の減額要求

8月12日 美作・津山   (現・岡山)で、権大参事の暗殺

8月15日 伊代・松山   (現・愛媛県)で、藩主(久松定昭)の引留め、大庄屋・庄屋襲撃、帳簿類の焼却

8月16日 美作・真嶋   (現・岡山)で、藩主(三浦顕次)の留任要求、砂鉄稼小屋の焼払い


 さらに、伊代・小松
      伊代・今治
      出雲・母里
  と、8月中に「旧藩主引留め一揆」が伝播していった。

 9月8日には讃岐・高松(香川県)の藩主(松平頼聰)の出船の阻止、豪農・豪商の焼き討ち
         長門・豊浦(山口県)
         但馬・久美浜(兵庫県・京都府)
         備後・福山(広島県)
         備中・倉敷(岡山県)

  9月中には、本州側の各地に拡大した。新政府に反発し、焼き打ち、打ち壊しなどがおこなわれていく。

「10石当たり、女子15歳から20歳まで3人、牛を1頭つけろ、と言われている」
 各地でその数がちがっても、西洋人(異人)は、血を吸って生きている、とまことしやかに流言が拡散していた。

 10月6日に入ると、石見・浜田(島根県)は一向宗の擁護、邪宗(キリスト教)反対、増税反対と拡大した。宗教とからめた外国人の排斥運動である。

         因幡・鳥取(鳥取県)
         播磨・姫路(兵庫県)
         但馬・生野(兵庫県)
         播磨・山崎(兵庫県)
         長門・清末(山口県)

 このなかには県官殺傷、大庄屋宅焼き打ち、高札破却など、まさに暴動そのものがあった。

  11月2日には伊予・宇和島(愛媛県)
           備前・岡山(岡山県)
  12月に入ると、土佐・高知(高知県)、美作・豊岡(兵庫県)と、年内に、ここまで発展したのだ。もはや、全体を「武一騒動」とくくれない、大規模な一揆、反政府活動になったのだ。

                 * 

  明治4年7 月 14 日の「廃藩置県」の詔書とはなにか。全国の302藩を廃して、府県を置いたことである。
 これにより、源平の平安時代から1000余年つづいた武士支配が、完全に終結した。そして、中央集権的な統一国家が確立されたのである。

 ヨーロッパでは、貴族社会の崩壊まで100年余りかかっている。しかし、日本では倒幕のあと、わずか4年間で封建制度の身分が崩壊した。
 欧米の各新聞は、日本発として、その奇跡的なスピードの速さに驚愕(きょうがく)して報じていた。

 しかし、廃藩置県の直後、民衆はなぜ封建の武士社会の継続を望んだのだろうか。

                          【つづく】

明治時代~昭和中期の広島⑤ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(下)

 明治5年2年の「銀座大火」のときウォートルスから提案された、製紙工場が稼働する明治7年8月まで、約2年半の歳月を要していた。

 英国人のジョン・ローゼルスの指導は親切だが、言葉が通じない。叱咤激励(ししったげきれい)する。だんだんと手馴れてきた。ところが、洋紙の需要はさしてない。注文は来ない。倉庫には洋紙が滞留するばかり。

 かたや、職工は元武士でロスが多く、効率の意識がない。さらに新たな問題が起きた。真っ白い洋紙ができないのだ。大金1000円かけて井戸を掘ってみたが、赤く濁った水だった。結局、600坪の貯水池を作り、近くの隅田川?(掘割かもしれない)から水を引きいれたのだ。そして、無漂白の紙ができた。


             【神戸大学経済研究所・新聞記事文庫の資料より】

 新聞の枠組み : 報知新聞 1933.4.10 (昭和8)

『我国における製紙事業発達のあとを見るに、その初めて洋紙製造の計画を立てたのは実に明治五、六年の頃である、
そして明治五年二月、旧広島藩主浅野侯が大蔵省(土木)雇イギリス人技師ウォーター氏の意見に基づき、英国から機械を輸入し、東京日本橋区蠣殻町に工場を設け社名を有恒社と称したのが、我国が洋紙製造の濫觴(らんしょう 大河の源流)とされている』

                *

 襤褸(ぼろ・繊維)を使った破れにくい洋紙がやっとできた。ここからスタート。ところが、教師(指導者)ジョン・ローゼルスとの雇用契約の1年が経ってしまったのだ。
 浅野長勲(ながこと)は6カ月の雇用延長を申し入れた。そして、1/4の給料を増していた(月250ドル)。ひとをつかうのが実に上手だ。

 元武士の職工たちが技術を覚え、手が慣れるほどに、ほとんど売れず、倉庫は在庫が溜まる一方だった。
「どんどん積んでおきなさい。周辺は空地だらけだ。倉庫は幾らでも造れる」
 長勲はあせらなかった。
 耐忍不抜(けんにんふばつ)の精神だ。それは意志がきわめて強く、どんなことがあっても心を動かさず、じっと我慢して堪え忍ぶ人をいう。

 幕末には大政奉還、新政府樹立という修羅場をくくってきた大物はちがう。先見の眼があるというか、時代の先読みができるのか。
 苦労の末に、幸運を引き込むのだ。


 イギリス人製紙技師のジョン・ローゼルスは、紙の需要がないし、月給は水増ししてもらったし、特殊技術「透かし」技法を有恒社の職工たちにおしえたのだ。現代でも使える紙幣の透かし技法である。かれにすれば、おおかた遊び心だろう。

 紙に浅野家の家紋(写真)を透かして、大量生産のロール紙で巻き取ることができたのだ。いろいろな透かしデザインで楽しんでいた節がある。


 一流の建築設計者・トーマス・ウォートルスが世話してくれただけに、ジョン・ローゼルスは、とてつもなく優秀な製紙技師だったらしい。
 それはドイツの透かし技術を超えるほどだった。 

             *

 明治9年から有恒社に光明が差した。大蔵省紙幣寮(印刷局)から、証券印紙の原紙の委託がきたのだ。
 これは長勲のみならず、元武士の職工、浅野家の関係者まで、最大の喜びと、感動だろう。万歳をしたかもしれない。なにしろ、国家の税収に関わる「証券印紙」の洋紙が、上海ものから国産に変わったのだ。近代化へすすむ日本人の、最大の誇りのひとつとなったのだから。

 有恒社の製紙技術の優秀性は、見るひとはしっかり見ていたのだ。


 明治10年に西南戦争が勃発した。

 新聞、雑誌の戦記ものは飛ぶように売れる。新聞の購読数がうなぎのぼり。雑誌は増刷つづき。西南戦争が活版印刷が大ブームを起こしたのだ。紙幣すらも、増刷つづきだった。
 紙市場は好況を呈し、メーカも問屋在庫も底払いしてしまった。

 蠣殻町の有恒社の工場前には、早朝から、紙を買いもとめる業者がならぶほど盛況となった。サイズとか、品質とか、まったく問わず、洋紙ならば、ともかく買いたいのだ。


 有恒社が初期のころ、赤茶けた洋紙が倉庫に滞留していたが、深川の日本一の燐寸(マッチ)製造所が、こん包用に、と全部まとめて買い求めていった。

                *

  大蔵省印刷局・抄紙部(しょうしぶ)は、紙幣の偽造防止から高度な「透かし」製紙が必要で、アメリカ、ドイツに製造を委託していた。それらの紙幣に耐久性がないという欠点があった。

 明治12年から国産「透かし」に取り組んだ。
 印刷局は上質な水が豊富な王子(東京都・北区)に独自の工場を建てた(現・王子製紙の一角)。極秘の「透かし」技術の開発に、白羽の矢が有恒社にあたり、技術提供をもとめてきたのだ。

「これで、念願の国家に寄与できる。紙幣は国の宝だ」
 浅野長勲は、明治新政府を樹立し、国家の源である紙幣づくりに寄与したのである。

 私費を投じてから、7年間かかっている。

 紙幣は機密性が高いことから、長勲の称賛はさして語り継がれていない。

 それよりも、洋紙業の発祥の地は大阪だの、王子だの、京都だの、神戸だの、と全国各地に史跡表示板が目立つ。長勲は「国家に尽くす」という一念で、激動の時代を生きてきた。かれのおう揚さからか、そんなことはどうでもよいのだろう。


《トピック》

 浅野長勲は昭和12年(1937年)2月1日、94歳の長寿をもって死去した。広島の人たちは、芸州広島の最後の良いお殿さまだったのう、と涙したという。
 広島の練兵場には、葬儀に3万人が参列した(当時の中國新聞)。

 ちなみに国葬だった山形有朋は、一万人のテントを用意していたが、わずかに千人だったと伝えられている。
 王子製紙を興した渋沢栄一の会葬者は、3万人を越え、その死を惜しんだといいます。(大正時代の童謡「赤い靴」、「青い目の人形」は、日米親善につくした渋沢の功績として光り輝いています)
 浅野長勲や渋沢栄一は、私欲をすてて近代国家づくりにまい進し、なおかつ庶民に親しまれている。
 それが双方の会葬者が3万人の数に表れているのでしょう。
 

《有恒社のその後》

 同社は成長産業だったが、蠣殻町が東京府の道路拡張工事で、製紙工場は立ち退きを求められた。浅野長勲はここで製紙業から手を引いた。
「それは実にもったいない」

 有志が浅野家から社名をもらい、東京・亀戸に新会社「株式会社有恒社」を設立した。製紙機械はそちらに移った。
 当然ながら、紙幣の「透かし」技術は国家の重要機密だから、継承されなかった。

 紙業は年々消費が上昇する産業だったが、大正関東大震災の翌年、同社は王子製紙と合併している。


 私たちが使う紙幣には、偽札防止の透かし、という特殊技術がなされている。世界最高水準の紙幣である。
 それは有恒社の技術が源流である。
 国家繁栄をおもう浅野長勲が、私費を投じて洋紙工場を造った。この功績は永くたたえていきたい。

明治時代~昭和中期の広島④ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(中)

 明治近代化の象徴のひとつ「銀座煉瓦街」、「銀座ガス灯」がある。その設計者がトーマス・ジェームズ・ウォートルス(Thomas James Waters,で、とても著名である。
 ウォートルスが、長勲の私邸に訪ねてきた。


「製紙工場を建てる。建築のお知恵ならば、お貸しします。私は、製紙について知識がありません」
「製紙工場のどんな知識でも結構です。おしえてください」
「洋紙の原材料は、木材パルプ、藁パルプ、これらに紙屑、マニラ麻,木綿、麻襤褸(ぼろ)などを混ぜて、紙すき機械で梳(す)いてつくります」
「質問ですが、ボロというと、着物の切れですか」
 古綿やぼろ布から、純白の洋紙ができる。それはおどろきでしかなかった。
「そうです。とても、重要な役目の材料です。紙の材質は、植物性の繊維(せんい)です。ただ、私はイギリスの学生時代に、机上で習っただけの知識です。経験や体験はありません」
「1枚の紙がえらく複雑ですね」
 長勲は、室内の障子(しょうじ)を透かして、じっとみた。

 陽光が透き通ってくる。この和紙よりも、一枚の洋紙のなかが複雑なのか。一方で、製紙業の重要性を認識していた。


* 写真「トーマス・ジェームズ・ウォートルス」は、ネットより

「輸入した製紙機械を据え付ける、そのくらいならば、私の実弟をイギリスから呼び寄せられます。機械は水平に据えつけないと、故障やトラブルのもとになりますから。最初が肝心です」
「それはありがたい。お願いします。渡航費用は、この浅野家から出させてもらいます」
 長勲は、一歩も、二歩も前進だと思えた。

          *

 家令の中野が、横浜などで工場建設費など、見聞してきたところ、10万円くらいだろう、と概算の費用がつかめた。
 (明治6年の国家予算は4、659万円)
 銀座竹川町の紙商人の杉田が、横浜の貿易商を介し、正式に見積もりを取った。

 イギリス製の抄紙機(しょうしき)は、60インチ長網多筒式(乾燥筒は0.91mφ12筒)で、購入代金は4万2000円は、前払い条件だった。
(ほんとうに新品か。中古ではなかろうか。黄色人種のアジア人をあなどってないだろうか)
 長勲は不安だった。機械を据えて紙を梳(す)くまで、担保できないだろうか、と思案していた。

 それをウォートルスに相談してみた。すると、英国領事館(当時・築地居留地)が紹介されたのだ。

「浅野さんが、製紙機械を据え付け、紙を梳(す)くるまで、私どもで預かりましょう」
 公使がイギリス・機械メーカーに担保してくれたのだ。
「安心です」
「お金を預かるのですから、利子をつけます」
 保管料を覚悟した長勲は、運用利息までもらえる、という資本主義の金融システムにもおどろかされたのだ。

 機械の据え付けには、イギリスから来日した実弟のトーマス・ウォートルスが当たってくれた。その助手として、国内で多少は機械知識のある岡田楽三郎を月給30円で雇った。
 
 製紙機械工場の建設ができても、運転・生産・在庫管理・販売というソフト(技術)には、日本人のだれもが経験ない。
 たちまち、機械はうまく動かせない。木綿や麻のぼろ布の比率も皆目見当がつかないのだ。
「イギリスから技術者一人を雇う必要がある」
 それにはいくつもの省庁の許可が必要だった。

 長勲や家令は、その嘆願で、外務省や各省庁をまわってみた。

「お雇い外国人は官吏のみです。民間では前例がありません。かれらは高額な給与です。貿易収支が赤字のいま、民間に対応できません」
 そんな対応は現在もおなじ。

 技術者がいなければ、有恒社の製紙機械は運転できない。
「ここであきらめられない。困ったときは、あのひとだ。土木技師のウォートルスさんだ」
 銀座煉瓦街づくりの設計・監理で、ウォートルスはとても忙しいはずだ。

 ウォートルスは、長勲の熱意に応じて、浅野家に足を運んでくれた。

「製紙の製造に精通した外国人を、ひとり雇いたいのですが。うまい手はありませんか」
 長勲は機械をあつかえない現況を説明した。

「そうですね。私がイギリスの知人に声掛けして、製紙技術者を探してもらいましょう」
「ぜひ、お願いします」
「適任がみつかれば、表向きは土木技師の助手として、日本に呼びましょう。それならば、日本政府からクレームは来ないでしょう」
「重ねがさね。ありがたい。もちろん、イギリスからの渡航費、毎月の給料、一流の築地ホテルの滞在費、いっさいはこの浅野家が出させてもらいます」
 成功すれば、高額な費用でも、生きたお金だ。
 ウォートルスは快諾してくれた。

           *

 イギリス人の製紙技師ジョン・ローゼルス(John Rogers)でが来日した。かれはおもてむき技術者でなく、「教師」の雇い入れとして契約書を作った。
 のちに、渋沢栄一も王子製紙においても、おなじ方法をまねて外人技師を雇い入れた。

①  雇用期間は明治7(1874)年の3月~12か月間
②  毎月の給料は200円(あるいは200ドル:当時は1円金貨=1ドルで、同一の金含有量である)
③  教師として雇っている間は、浅野家が賃貸する

 浅野長勲の名義で、東京府知事・大久保一翁(おおくぼ いちおう、写真・右)に許可書を提出した。大久保はかつて幕臣で、阿部正弘に抜擢された有能な人物である。


 鳥羽伏見の戦いのあと、謹慎する慶喜将軍から、大久保はトップの会計総裁に任命された。勝海舟よりも実力があり、江戸城無血開城の実質の立役者といわれている。

「浅野さん、製紙工場は大賛成です。安政のころ、阿部正弘公が蕃書調所(ばんしょしらべしょ・後の東京大学)を創設された。そこでは西洋文明の書籍を翻訳し、イギリスから購入した活版印刷機も導入しました」
 大久保はくわしい。さらに、こう言った。

「輸入洋紙は高価で、日本中に文化を広めるには難でした。浅野さんが有恒社を起ち上げ、製紙技術者を招聘(しょうへい)してくださった。近代化には洋紙と印刷がとても大切です」
「ご理解、ありがたい」
「あとは府知事の私が、大蔵省、外務省、文部省の許可を取ります。私の役目とさせてください」
 大久保がいっさいの許認可を引き受けてくれたのだ。
            
           * 

 明治初期は、蠣殻町のまわりの大名屋敷は、すべて取り壊されて茶・桑畑である。製紙工場の騒音は問題にはならなかった。

 長勲は人材登用の能力は抜群だ。執政・辻将曹とか、神機隊とか、浅野学校(現・修道中高)の創設とか、下級にあっても人材を育てることに喜びを感じる人物だ。

 有恒社は、元広島藩士の失業士族を大勢雇い入れた。全員が機械など触ったことがない。手先の器用な江戸職人をつかえば、物覚えがはやく、軌道にのるだろう。長勲は不器用なかれらが育つまで、じっと待ち続けていた。
 なにしろ、指導者の技術用語はすべて生の英語だ、理解すらたいへんである。

 記録によると、売れる製品ができるまで、竣工から1年以上かかっている。
                          
                【つづく】 
            
《トピック》
 孟子の「恒産あれば、恒心あり」(一定の職業や財産を持たなければ、しっかりとした道義心や良識を持つことはできない)、ここから社名を有恒社(ゆうこうしゃ)となづけた。

 長勲は明治に入り、失業した広島藩士の困窮に胸を痛めていた。製紙業を興し、脱落士族に救いの手を差し伸べた。人間は、単なる施しや寄付では心がいじけます。しっかりした仕事を与えてあげる、と考えたのでしょう。