歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「あずみの」開拓は信玄・謙信の侵略から=安曇野ブームの原点①

 長野県・安曇野(あずみの)は、いまや年代層を問わず人気スポットだ。過疎化ばやりの地方にして、安曇野は流入する人口が増加している。その人気の秘密はなにか。
 
 全国でも最大級の美観の土地だが、江戸時代中期まで、豊科と呼ばれ、荒れた扇状地だった。飛騨山脈の裾野にあって山肌が数千年、数万年前にわたり崩れて、川で運ばれ、堆積した石と砂礫の不毛の土地だった。
 上高地から流れてくる梓川は、この扇状地の豊科までやってくると、厚い砂利の堆積岩が、底の抜けた笊(ざる)と同じで、川水が地下水に変わってしまう。
 結果として、山間の上流には水があるが、扇状地の下流に水が及ばない。上流の田畑でたっぷり給水してしまうと、下流の水が枯れ、凶作になる。村どうしの対立が数百年もつづく。さして遠くから、足を運んでくるほどの景観でなく、緑のない灰色の大地だった。

 水は高い処から低いところに流れる。川は上流から下流に流れる。これは水の原理である。

 それを覆(くつが)して、水を真横に流す用水路(横堀)ができれば、扇状地に広域に川水がいきとどく。耕作の水があれば、新田開発ができる。米の石高も上がる。
 江戸時代初期から、しだいに真横に川水を流す、開削技術が発達してきた。この技術は信州地方で自然発生的にできたのではない。

 信州の歴史をひも解くと、武田信玄と上杉謙信が何度も侵略を試みた。その都度、地元の武将や民が犠牲になってきた。戦争は悲惨なもので、人間の醜さが極度に現れる。斬殺された山城も信州に残る。戦争は美化してはならない。とはいっても、一面で兵器や高度な科学技術が持たされて、民政に転用され、その進歩が産業を興したり、発展に寄与したする面がある。

 甲州・武田はなんといっても金銀掘削の鉱山技術が優れている。さらに「信玄堤」で有名な河川土木の技術は日本一だった。
 武田軍勢の豊富な資金と優れた戦術と巧妙な戦術は、信州の武将が太刀打ちできず、落城続きだった。武田軍勢の強い武将たちが、つど長野への侵攻となった。
 侵略者たちは占領地の民から搾取ばかりでなく、経済の向上を図るのが常だ。それがを安定した統治になるからだ。

 武田の鉱山技術や河川土木の技術が信州に入り込んだ。
 それを裏付けるとなるのが、安曇野には甲府武士たちの苗字をもった子孫が実に多い点にある。このことは何を物語るか。武田軍の侵略後、武士は統括の為政者として住み、甲州の技術と知恵を授けながら、信州に定住したきたと解釈できる。

 安曇野には、大小の横堰(真横に流れる川)がおどろくほど多い。これらは『信玄堤』の河川の掘削技術が信州に入ってきたから、成せる技だった。

 代表的な用水路が「十か堰」(じっかせき)で、1817年(文化14年)に完成した。奈良井川(別名・木曽川)から川を横に引き、水を取り入れ、約15キロにわたり、ひたすら標高570メートルに沿って、狂いもなく真横に流れる用水路を作ったのだ。

 この十か堰の完成で、川が養分が豊かな水を運び、豊科の扇状地全体が肥沃な土地になった。 本流の奈良井川にしろ、梓川にしろ、雪解け水で冷たい。稲は南洋からの植物だ。横に流れる浅い川は、本流の冷たい水を直接引き込むよりも、水温が高くなる。それが稲の発育を促した。まさに、松本藩は安曇野だけでも、一万石の石高が上がったのだ。

 松本藩は安曇野だけでも、年間2万5000俵の増産となり、緑豊かな稲作地帯となった。


 安曇野のどの地点に立っても、広大な田園と山岳に囲まれた絶景である。風光明媚な情景にみせられてしまう。聳(そび)え立つ豪快な峻峰が西北にどこまでも連なる。魅せられて見飽きない。黄金色に染まった夕陽が、稜線の肩に知てくると、自然の神秘が心の奥まで染めてくれる。

 江戸時代の長野・善光寺参りの人々はこの美観に感銘し、あえて安曇野を通っていく参拝客が増えてきたのだ。飛騨山脈の美峰が聳(そび)え、安曇野の緑の大地が拡がり、そのコントラストが途轍もなく、旅人の心を潤してくれる。
 それが現在における、安曇野観光ブームの原点にもなったのだ。
 
【つづく】

  

播隆上人はなぜ信州側から槍ヶ岳を開山?(下)=務台家史料より

 播隆上人が笠が岳の山頂でブロックン現象を見て、そこに阿弥陀様がいると信じた。槍ヶ岳に初登頂をしたいならば、なぜルートがわかりやすい飛騨側から登らなかったのか。少なくとも、笠が岳山頂から地形をつかめば、奥飛彈から猟師に連れられて登攀(とうはん)できたはずだ。そして、飛騨側の信者を連れていく槍ヶ岳に登る開山はできた。

 播隆はなぜ、あえて信州に来たのか。播隆の真意は何だったのか。ここらは不思議な疑問だった。

 播隆上人の残された自筆の書簡だけで、それを解き明かすのは内容が薄い。まわりの裏付け史料が必要だ。
 その認識から、旧野沢村の務台家に残る『務台与一右衛門景邦記』にたどり着いた。この史料は「三郷村史」から知ったのが最初だった。

 ことし(2014)10月1日には、旧野沢村の務台亥久雄(むたいいくお)さんを訪ねた。その原本を見させてもらった。

 景邦が、父親の後をついで庄屋になった文政10年から明治10年まで、克明に記載されている。公私年々雑事記で、大干ばつ、大凶作、若者が踊り狂う大黒おどり、痘瘡の流行などが記録されている。

 想像を絶する、松本城下の長称寺の大騒動も紹介されている。余談だが、紹介したい。……住職が下女を妾にし、新造を迎え入れた。怒った妾が深夜その寝床に入り、男根を切り落とし、自分も腹を切った。即日、ふたりは死去した。
 死んでも罰するのが江戸時代の法である。妾の死骸を塩漬けにして牢内においておく。主殺しの罪が決まると、妾の死骸は町中引き回し、1日は本町にさらし、その上、磔(はりつけ)。現代では信じられない、死後の処罰である。
 ただ、これが犯罪抑止につながっていた。だから、世界一、犯罪の少ない国家だった。

『務台与一右衛門景邦記』がいかに信ぴょう性あるか。それを証明する事例にもなる。なぜならば、庄屋の仕事として、松本藩からお触れ、お達しなどがくると、村民に伝える義務があるからだ。景邦はそれを書き残していたのだ。
 当時は、警察官も、消防官もいない。松本藩士が村をまわらなくても、大庄屋~庄屋が行政を大きく担っていたのだ。庄屋から申し立てがあれば、掛の藩士が出向く制度だった。
 

 景邦は、播隆上人に対して「播隆上人の入村」「槍ヶ岳初めて開く」「与一右衛門が槍ヶ岳に参拝」「播隆上人が長尾に越冬」「播隆上人が美濃へ出立」と記載している。

 訪れた亥久雄さんから、他の各種史料の提供を受けた。のみならず、旧野沢村、旧小倉村など、播隆の足跡を追って案内してもらった。道々で、江戸後期に綿糸で繁栄していた野沢村の特徴を聞いた。
「そうか。だから、播隆上人が信州・野沢村に来たのか」
 私は思わずつぶやいた。

 播隆は特別人間・高僧と見なさず、私たちが見聞する修行僧から見れば、野沢村に来る理由があったのだ。それは浄財を求める僧侶の播隆の姿だった。
 この閃きはきっと当たっていると思う。
「播隆も、ふつうの僧侶ですよね。槍ヶ岳の開山前は」
 亥久雄さんも、納得していた。
「だから、播隆も人間の味があるんですよね。生前から、純真無垢で崇高な仏僧にしてはいけない」
 私はそう語った。

 務台家の世話で、紫雲庵(修行のための庵)が播隆のために用意されていた。ここを拠点に布教活動を行い、信者の獲得につとめたのだ。
 念仏講で民の心を救う。一方で、「播隆が槍ヶ岳に登ったから、大雨が降り続き凶作になった」と悪評がたった。播隆は失意で信州を去っていく。
 景邦はこれらを記し「御気毒之至に候」と同情の念を示している。見送る景邦とは最期の別れとなった。まさに映画のシーンにもなる。

 
 現地を歩くほどに、天保時代の安曇野が身近に感じられてくる。播隆は内心、どんな生き方を求めていたのか。どのような感情を持っていたのか。これらを歴史小説で、人間・播隆をどのような人物として表現するか。
 
 奥深い山岳から川が流れてくる。用水路をもって水田が潤う。平地にすむ人々が豊かになる。この歯車が狂うと、今度は人間どうしの諍いになってしまう。播隆の生き方と無関係ではなかったはずだ。 
 
 

播隆上人はなぜ信州側から槍ヶ岳を開山?(上)=務台家史料より

 私の歴史興味の入口は、「どこか違うな?」という関心からである。
「本当かな?」「辻褄(つじつま)が合わないな」
 それはある種の歴史的な勘であり、矛盾に対して落ち着かない疑問だ。そこで、ともかく現地を歩く。歩けば、なにか真実の一端が発見できる。


 直近では、『船中八策は偽物のすら存在しない』という、龍馬崇拝への強い批判の裏付け取材だった。それは薩長同盟への疑問につながった。
 蛤御門の変で、朝敵になった長州藩は、京都に入れば、会津・桑名の藩士や新撰組の問答無用で殺されていた。大政奉還は蚊帳の外、小御所会議の大号令で、明治新政府ができた。
「長州など倒幕になにも関わっていないじゃないか」
 だれが薩長倒幕と教えたのだ。

 その疑問から入っていくと、芸州広島藩の浅野藩士たちが浮かび上がってきた。それが『二十歳の炎』の執筆につながった。
 私は読者からサインを頼まれると、「歴史の真実はとかく隠される、掘り起こすのが作家のしごとだ」と記している。そのくらい、真実は陰に隠れてしまう。


 いまは文化・文政・天保の信州・飛彈を追っている。「山と人間の関わり」がテーマである。槍ヶ岳と・上高地といえば、西洋人のウェストンと連想してしまう日本人が多い。
「ちがうだろう」
 上高地に湯屋をつくったのが岩岡志由であり、槍ヶ岳の初登頂と開山は播隆上人だ。

 2016年8月11日には祝「山の日」が施行される。それを機会に、隠れた偉人の功績を世に広めたい。その執筆にからむ取材をしている。
 播隆上人については務台家、飛彈街道には岩岡家に焦点を当てはじめた。このさき予定しているのは、十ヶ堰(安曇野の用水路)の開拓である。いま資料を読みこんでいる。


 歴史小説の執筆は、手順として関連書籍を読破する必要がある。そこから取材の手がかりをつかんでいく。播隆上人の研究者では、槍ヶ岳山荘の穂刈父子が有名である。
 穂刈貞夫著『槍ヶ岳開山 播隆』を一読したときに、いくつかの疑問がでてきた。この著書は「開山暁播隆大和上行状略記」(行状記)を信じ込みすぎている。そんな疑問である。

 行状記は、播隆の巡錫(じゅんしゃく・同行)し、親しく追従していたという愛弟子の棚橋智暁さんが、播隆の死後に編纂(へんさん)を志した。しかし、完結しなかった。(どこまで書いたか不明瞭)。
 棚橋さんの死後に、同門の住職・岡山隆応から、漆間戒定さんに執筆が委託した。……穂刈著の同書の説明による。

 明治26年に印刷されている。播隆の死後から64年が経っている上、執筆には3人を介している。播隆の顏も知らない、明治半ばの筆者がまとめあげている。
『のちの時代になって書かれた昔の話は嘘が多い』(山本夏彦翁)
 美化したり、崇拝したりする。小説的なフィクションが織り交じっている可能性が高い。ここらはかなり割り引いて読む必要がある。

 実際、「行状記」は最上級の用語が多く使われているし、文脈からしても、「嘘だろうな」という、作り物特有の文章の不自然さがつきまとう。俗にいう、播隆がスーパーマンになっている。(幕末志士を英雄したてにした小説とよく似ている)。
 
 穂刈氏はこの行状記をストレートに受け入れている。その上、氏はさらに播隆をもちあげた美辞麗句と、推測と推論で展開している。
 語尾の「~と思う」「~という」がやたら多い。
「穂刈氏は、歴史書ならば、あまり推測で書いてほしくなかったな」
 そんな気持が読むほどに強くなってきた。

 一方で、播隆の直筆の書簡、たとえば『槍ヶ嶽略縁起』などが紹介されている。この原文は丹念に史料として利用させていただいている。

 私は「人間・播隆上人」を描くためにも、美辞麗句が多い「行状記」は無視するか、読み飛ばした。むしろ、親鸞聖人のように、人間の煩悩を描きたい。          【つづく】
 

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(下)=岩岡伴次郎と飯島善三

 ことし(2014)8月には、飛騨高山市の市史編纂室の学芸員を訪ねた。飛騨新道が小倉村から神河内まで出来た。そのさき飛騨まで、なぜ7年間も新道掘削の許可がなされなかったのか。その背景を知らずして、小説は書けないと思った。
 飛騨郡代の職域を聞いた。幕府の勘定奉行の直轄下にあった。その権限は強く、実石20万石以上があり、大大名に匹敵していた。

 飛騨郡代は、勘定奉行の直轄にあったと知った瞬間、
「これだと、小さな松本藩も、まして庄屋も手も足もでないな」
 とすぐさま理解できた。
 実際に、松本藩は小藩だし、郡代の足元にも及ばず、新道共同掘削などつよく申しできなかったようだ。
 むしろ、7年にして、よく許可が下りたな、と思った。

「飛騨代官、郡代のうち、19代の大井帯刀永昌(ながまさ)が、最も好かれた人物でした」
 学芸員からそう聞いて、幸運だったな、と思った。


 新田次郎著「槍ヶ岳開山」で、庄屋の伴次郎と、農夫の又重郎を並列に置いているのは、かなり違和感がある。

 播隆上人と道案内役の又重郎が槍ヶ岳に登った。それは間違いない歴史的な事実。庄屋の岩岡伴次郎と、農夫の又重郎がふたりして、飛騨新道許可(上高地から飛騨の間)を求めて、本覚寺の椿宗(ちんじゅ)和尚に頼みに行った、と物語は展開する。

 寺の住職は寺社奉行の管轄であり、飛彈郡代に影響を及ぼさない。もし、僧侶が大名格の飛騨郡代に直訴すれば、重罪だった。(1770年代の飛騨・大原騒動で、郡代の施政に口出しした僧侶や神官は死罪になった)。かれらが椿宗和尚に頼むことは、死を覚悟させることであり、あり得ないだろう。大原騒動は上宝村が中心の一つだから。

 さらに、庄屋と農夫とでは、身分の差がありすぎる。新田氏は、庄屋の機能をあまり掌握していなかったのか。あるいは史実が判らず、想像で埋めてしまったのか。
 故人になったから、もはや聞きようがないけれど。


「森を伐り開いて、どのような工法で牛馬が通れる山道が造れるのか」
 小説で新道作りの技法を描くとなると、私には知識がない。そこで、岩岡さんに訊ねてみると、新道の開削技術に関連した資料が焼失しているので解らないという。


 岩岡伴次郎と飯島善三にはしっかりした共通点が見いだせる。幕末と明治初年と、多少の年月のずれはある。しかし、安曇野と信濃大町は隣り合っている。
 北アルプスを越える新道づくり。その掘削技術はほぼ同じだろう。となると、10年前の飯島善三取材が、いまや伴次郎史料の不足を補ってくれる。

「善造は北アルプスの新道現場に何度も出向いている」
 庄屋は多忙だ。伴次郎も当然ながら、時おり、飛騨街道の新道現場に出向いていただろう。実際に道路を作っていたのは、開削技術を持った黒鍬職(くろくわしょく)に依頼していたはずだ(請負業)。

 現代の文献を見ていて、大名や藩がからむ「御普請」制度をあまり理解していないのではないか、と懐疑的になる。松本藩が飛彈新道に対して、ある割合で費用分担している。これは「御普請」である。
 松本藩(役所)を窓口とした請負契約が必要となる。現代でいえば、請負はゼネコン(黒鍬職)である。江戸時代の行政のやり方が、現代に通じている面が多々ある。行政が金を出す決定となると実に長いが、一旦、予算が下りると、工事は短期に仕上げる技術がある。


 工事を請け負ったゼネコン(黒鍬職)は測量や土木技師や監督官をだす。村人は一般に特殊技術がないので、単なる手間賃の労働者だ。飛彈新道が「御普請」である以上、小倉村の農夫だった又重郎(播隆上人筆『槍ヶ岳略縁起』の表記)は、道路人足、単なる下働きだった可能性が高い。むしろ、そう考える方が自然だ。

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北アルプスの新街道に情熱をかけた人(中)=岩岡伴次郎と飯島善三

 北アルプスは登るだけでも難儀だ。そこに街道を通す。難工事がかんたんに想像できる。

 信濃大町の大きな庄屋・飯島善造は、信濃大町から針ノ木峠(標高約2800m)を越え、黒部川に橋をかけ、立山(標高約3000m)を越え、富山まで道路を完成させた。幕末期から計画を立て、明治に入ると、松本藩と富山・加賀の双方に許可をとった。
 緻密な計画と設計と、膨大な人員の投入で2年間で完成させた。新道は越中から牛馬で塩を運ぶ道となり、日本初の有料道路だった。

 しかし、冬場は雪崩や土砂崩れで、メンテナンス費用の調達が難しく、完成からわずか2年で廃道に追い込まれた。そして、飯島家は破産してしまった。
 それから150余年が経って、新たに黒部アルペンルートとして蘇(よみが)えってきた。いまは立山、針ノ木峠はトンネルで抜けられる。

 私が今から10余年前に、長野県大町市の飯島善造りの子孫に取材した。電話で取材を申し込んだ当初、御主人は電力ダムに勤務する技術屋だった。

「私は歴史はなにもわからないんですよ。養子にきた善造が、新道作りで庄屋を破産させて、座布団が数枚しか残らなかった、という言い伝えしか聞いていません」
 と拒絶された。
 そこは厚かましく粘り、あえて大町市の自宅にお伺いした。

 1時間ばかり夫婦の話に耳を傾けた。電話の通り、なにも新しい情報がなかった。ほぼ雑談だった。
「納屋の奥に、むかしから長持ち(約1.2m)が2つありました。何が入っているか、知りません。子どもの頃から明けたことがありませんし。作家の方がくるので、とりあえず、別室に出しておきました」
 と案内された。

 長持ちを開けてビックリした。アルプス越えの新道開削の資料がびっしり詰まっていたのだ。設計図、人足の延べ人数、黒部川に架けた橋の設計図。富山側からの掘削の費用や延べ人員。さらには新街道に沿った旅館開業や宿賃、通行券、各種の看板の資料が目一杯詰まっていた。
 さらには江戸初期の検地の史料までも残されていた。

「150余年、密封された長持ちを開けて、空気に触れてので、専門家による保存をする必要があります」
 私は子孫の方と、その日のうちに、「大町山岳博物館」に出向き、学芸員の方に事情を説明し、文化財として保護をお願いした。
 数か月後、520点余りが大町市の指定文化財になりましたと連絡がきた。その新聞発表の記事が私のもとに送られてきた。無事保管で、安堵したものだ。

 歴史小説の取材をしていると、随所で、思わぬ発見がある。過去の作家が知りえなかったと思うと、灌漑を覚える。
 飯島善三の史料は私の経験のなかで、最大の発見だった。

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(上)=岩岡伴次郎と飯島善造

 江戸時代には偉人が多い。一つの目標に人生をかける。命をかける。
 歴史小説の取材をしていると、それら偉人が思わぬところで結びついたりする。信州の庄屋・岩岡伴次郎が造った飛彈新道と、大町の庄屋・飯島善造が作った「信越連帯新道」だ。ともに北アルプスの2座を越える、大工事だった。
 完成後、ともに自然の威力に負けて廃道になり、波乱に満ちている

 岩岡伴次郎の新道から紹介しよう。
 文政3(1820)年から天保6(1835)年にわたり、信州(長野県)の安曇~上高地~飛騨(岐阜県)の飛騨の上宝村を結ぶ、飛騨新道(別名・伴次郎街道)が作られた。
 伴次郎は二代にわたり長い歳月をかけて新道を開削した。そして、上高地に湯屋(旅館)を開業した。ここから問題が起きた。肝心の飛騨側の工事許可が取れなかったのだ。
 飛騨は幕領で、郡代(勘定奉行が任命した者が江戸から赴任する)が為政者だった。実質、20万石以上を支配する。
 郡代がなぜ7年間も許可を出さなかったのか。そこが小説的な好奇心だった。調べるほどに、飛騨の18年間に及ぶ悲惨な百姓一揆「大原騒動」が、底流においてかかわっていた。
 第19代郡代・大井帯刀永昌(ながまさ)は、歴代の郡代のなかで、とくに有能だった。松本藩と連帯で、幕府に自責で申請したのだ。

 岩岡伴次郎(英棟)、2代目・英総、3代目の英勝たち3代は、約41年間にわたり北アルプスに情熱をかけた。命を懸けたといっても、決して大げさではない。
 完全開通から26年間が経った。飛騨新道は暴風雨で破損し、通行不能となった。文久元年(1861)年には新道の歴史に終止符が打れたのだ。

 ことし(2014)9月30日に、伴次郎の子孫である岩岡弘明さんを訪ねた。かつて3代にわたる資料が行李(こおり)2個があったらしいが、火事で消滅したと話す。
「このままでは、岩岡家の歴史が消えてしまう」
 そう考えた弘明さんは、関係者の証言や資料を収集し、限定私家版『飛彈新道と有敬舎』を出版されていた。
 筆者のひとり植原脩市さんも、この日、同席された。飛騨新道と播隆上人(槍ヶ岳初登頂)について、私が用意した質問に数々応えてくれた。

 播隆上人は北アルプスの名峰・槍ヶ岳を初登頂し、信者たちが登れる山にした(開山)。「播隆を最も支えていたのが、野沢村の務台家ですよ」
 弘明さん、脩市さん、ともに口をそろえていた。

 歴史小説では、岩岡家3代の波乱万丈の生き方、山に対する情熱と、播隆とは深い人間な関わりをもった務台家を立ち上げていく執筆をしたい。

写真:植原脩市さん(左)、岩岡弘明さん(右)

                                     【つづく】

日露和親条約からみた、阿部正弘(下)=明治政府が偽った評価

 明治政府は尊皇攘夷派の志士の視点から、老中首座(当時の内閣総理大臣)の阿部正弘の評価をことさら低く行っている。
 教育の力は怖ろしい。学者や歴史小説家の多くは、幼い頃に学んできた、政府発表をことさら信じている。そのまま歴史観にしている。
『大平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず』
黒船の川柳すら信じている。この川柳は無意味で、単なる茶化しだ。

 鎖国だからといって、世界の戦争情報にブラインドをかけるバカはいない。英字新聞は西洋の通信技術の発達で、アジアまでかなり早いスピードで情報提供ができていた。正弘は列国の黒船の軍艦の戦力など知り尽くしている。

 だから、ペリー提督が浦賀に来航した、わずか半月後に、正弘はすぐさま長崎奉行に指図し、オランダに黒船を4隻発注しているのだ。(咸臨丸など)。世界が見えて、事前準備していなければ、そんな器用な発注などできない。

 この緊迫した国際情勢の下で、正弘は翌年から、日米、日露、日英と立てつづけに国交を開いた。特に重要視したのが、日露和親条約だ。交渉の結果、国後島、エトロフ島を日本領土に認めさせた。(ロシアはエトロフは自国領だと、とくにこだわっていた)。
 
 明治政府は、危険な攘夷・戦争思想で、10年に一度はみずから戦争した。アメリカ、ロシア、イギリス、フランスと、すべて戦争した。(~原爆投下まで)。クリミア戦争のさなかに、正弘は戦争に巻き込まれずに国交を開いた。
 歴史から学ぶとすれば、水戸斉昭からの尊皇攘夷の志士たちを美化してはいけない。明治政府の要人の軍事思想につながっていく。
 正弘が叡智と正しい判断で、戦争回避の開国だ、と評価するべきなのだ。
 
 正弘の最も高い評価は、戦争なくして、対ロシアに足して、エトロフ島、国後島を日本領として条約を制定したことだ。この実績は大きい。
 一方で、尊皇攘夷派が作った明治政府以降をみれば、外国との領土問題はすべて戦争に絡んでいる。戦争とは庶民が血を流すことである。庶民がかり出されない戦争などない。
 明治政府が作ってきた偽りの開国論、富国強兵の美化の歴史教科書に踊らされて、戦地に行った人たちだ。
 終戦の1945年に立てば、日本列島しか残っていなかった。なんのために77年もつづいた、庶民の血だったのか。
 平和と戦争を考える時、ここらの正しい歴史認識が必要だ。


 21世紀の日露外交交渉の場において、安政の日露和親条約でエトロフ・国後島が日本領だと、ニコライ1世すらも認めて批准したのだと、日本側の強い後ろ盾になっている。
 日本がもし戦争で奪った島々ならば、北方4島の正当な主張などできない。

 1945年以降の内閣総理大臣は数十人も出ているが、誰も北方四島の国境画定はできていない。それと正弘とを比べると、かれの世界的な視野による高い政治指導力が解るだろう。
 老中首座の正弘の適切な評価をできずして、幕末史を語ってはいけない。歴史的な正しい認識ができない、洞察力・推察力がないと自覚するべきだ。

 現代は川柳ブームだ。世の中を風刺しているにせよ、真実の報道だと思えるだろうか。いかがわしい黒船の川柳を真に受けている、お粗末な史家も多い。


 歴史はくり返す。21世紀に入っても、またしてもウクライナ紛争が起きている。北方領土問題は解決していない。ロシアはよく似た状況だ。
「あなたが政治家だったら、どのように北方四島を日本領だと認めさせ、ロシアと平和条約を結びますか」
 阿部正弘を貶(け)す人たちに、そう質問したい。応えられない人は、安政の日露和親条約を勉強した方が良い。むろん、阿部正弘の采配の視点で。

日露和親条約からみた、阿部正弘(上)=明治政府が偽った評価

 このところウクライナとロシア問題のニュースが世界中に駆け回っている。ロシアと日本は、北方領土問題が未解決で、平和条約が結ばれていない。
 大国間どうしが、半世紀以上も国交条約がない不自然さ。解決ができない、日本の政治家の能力が問われる。

 世界中の学生に、1853年の出来事は何か、と問えば、クリミア戦争の勃発と答えるだろう。
 不凍港を求める南下政策のロシア帝国と、黒海を支配するオスマン帝国が激突した。それに英仏が参戦した。近代史上稀にみる、第1次世界大戦前に起きた世界規模の大戦争となった。

 日本人となると、1853年はペリー来航と答えるだろう。老中首座(現代の内閣総理大臣)の安倍正弘が右往左往し、翌年には開国を押し付けられた。そんな優柔不断な正弘の行動だったのだろうか。意図的に歴史をひん曲げていないだろうか。

 同年(1954)、正弘はむずかしいロシアと北方領土問題を解決してみせた。相手はプチャーチン提督である。
 正弘は尊皇攘夷を唱える水戸斉昭を抑え込んで、日露和親条約を結んだのだ。さらに、日米和親条約、日露和親条約、日英和親条約、すべて天皇の勅許をとった。
 斉昭は攘夷思想の元祖なのだ。さらに水戸家は皇国思想だと自負しながらも、天皇の勅許では正弘に完全に無視されたのだ。

 尊王攘夷派の志士が作った明治政府は、正弘の開国の実績を認めたくなかった。攘夷派をコケにした正弘だけに、明治政府は歴史教科書で、偽りの低い評価をした。
『大平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず』
 こんな無意味な川柳すら、教科書で紹介している。

 正弘は老中首座になってから、約10年間、上海・香港で発行されている英字新聞を、オランダ商館に必ず日本に持ち込ませていた。

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江戸時代に、槍ヶ岳に鎖がつけられたのか~=播隆上人を訪ねる

 江戸時代には、日本で鉄鎖が作れなかった。その技術がなかった。
 日露和親条約の締結にきた、プチャーチン提督の乗ったディアナー号が、1853年の東海大地震の大津波で大破した。下田から修理のために、伊豆半島の付け根にある戸田(へた)港に曳航中に、富士山の吹き下ろしの突風に遭い、沈没してしまった。

 私は今、それを素材にした歴史小説を執筆中である。
 一方で、天保の信州の歴史小説を書くために、長野と飛騨(岐阜)の両面から取材している。安曇野、飛騨高山、奥飛騨と8月18日-20日まで出むいた。(写真・飛騨高山の陣屋跡)
 ふたつの作品が妙なところで結び付いた。

 501人のロシア人を帰国させてやりたい。老中首座の阿部正弘は、戸田で新造船を作らせてやる、と決めた。このときのドラマがある。
 水戸斉昭は攘夷(じょうい)論のかたまりで、「元寇以来の神風が吹いた。ロシア船を沈めてくれたのは、神の思し召しだから、500人を皆殺しにしろ」と正弘に迫った。

 それは国際信義に反すると、御三家の意向を突っぱねた。

 斉昭はこんな狂気の思想だった。「尊王攘夷」の提唱者で、生みの親だ。なんでも薩長で、尊王攘夷が正しい、と思っている人のなかには、斉昭の崇拝者すらいる。
 攘夷とは問答無用で砲撃してしまう戦争理論であり、下関の四カ国砲撃、薩英戦争などにつづいた。第二次世界大戦までも。

 江戸時代のヨーロッパの軍艦には、船体が砲撃された時でも自前で修理できるように、造船技師や設計者が多く乗り込んでいる。母国への道を閉ざされたロシア人は、戸田で建造をはじめたのだ。

 狂気の斉昭を相手にしなかった阿部正弘は、全面協力で、木材、鉄材、銅、むろん人手も含めて最大に協力した。
 黒船来航の時代で、鉄が重要である。江戸から東海道筋の鍛冶屋が、幕府の命令で、戸田に集められた。現地では、鍛冶屋小屋の設備も作った。

 ロシア海軍だから、当時の様子が克明に記録されている。日本の大工は器用で素晴らしい、と讃えている。ただ、鍛冶屋の腕前は旧態としていたようだ。

『船首から鎖(くさり)を下ろし、錨(いかり)をうつのであるが、鉄の輪を製造することは、日本の技術と戸田村の施設ではとうてい不可能で、船の用材として用いた木の根を焼き、「木タール」を作り、これを麻縄に浸透させて「タールロープ」を作り、これをもって代用した』

 幕府が集めた有能な鍛冶屋でも、鉄鎖(チェーン)は作れなかったのだ。それからさかのぼること、1/4世紀(25年前)に、播隆上人の頃、日本で鉄鎖ができていたと思えない。その考えすらも、ありえたか否か?

 私は、できるだけ歴史的な事実に立脚した作品を書きたい。それが私のポリシーである。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」とか、穂刈貞夫著「槍ヶ岳開山」とかがある。作家の勘で、これはあやしいな、調べてみよう、と思うものが出てくる。

 播隆上人の初登頂は素晴らしい。だから、より事実で書いてあげたい。信州側を取材していくと、庄屋の家書には「天保の凶作で、稲が取れなかった。播隆上人が槍の穂先に使う、縄を分けてほしい、と言われたので、一昨年の古いのしかなく、それを差し上げた」と記録に残っていた。
 古い藁でも、ありがたがる播隆上人の姿がより鮮明になってくる。これぞ、あるべき人間の姿だろう。

 しかし、多くの作品は、この後、播隆上人は槍穂に鉄鎖をかけるために、各地を回り、鍋、釜など鉄類を集めてきた。松本藩に鉄鎖を差し止められた。播隆上人の死後に、念願の鉄鎖が槍穂にとり付けられた、と記す。

 幕末の造船技師の大尉や少尉たちが、指導しても、日本人は鉄鎖が作れなかったという事実がある。これに照らし合わせると、播隆上人が鉄鎖の発想をもちえたのだろうか、という疑問になる。
 鉄の輪は一見安全ではあるが、一か所でも外れると、人命にかかわるものだ。拙劣な鉄鎖は付けられない。

 ある書物には、播隆上人のかけた鉄鎖が何者かに盗まれたとある。こうなると、裏付けを消す、虚構の世界になる。
 
『開山暁播隆大和上行状記』(通称・行状記)は明治26年に世に出た。播隆上人の死後、約半世紀以上もたっているし、棚橋智暁→岡山隆応→漆間戒定へと執筆が委託されている。3人の手を回って書いているので、フィクションも加わってくる。小説と同じスタイルになりがち。歴史の真実が曲がったする。

 行状記には疑問の所が随所にある。たとえば、播隆上人の道案内役は中田又重郎となっている。

 江戸時代は庄屋でなければ、名字帯刀はもらえない。又重郎は庄屋ではなかった。松本藩の資料にも、庄屋として存在しない。中田又重郎ではおかしい。
 行状記が史実とするならば、小倉村又重郎、と正確に記するべきだ。

 播隆自身は「槍嶽畧縁起」でどのように表記したのかと、原文を調べてみた。『農夫又重郎』だった。播隆自身の表記にするべきだった。

 歴史小説の執筆は、ちょっとした疑問から、途轍もなく真実に近づくことがある。だから、時間もかかる。権威者・著名作家の名に惑わされない。どこまでも、歴史の真実を掘り起こしていく。それが私の仕事だ。

 

安曇野に学ぶ「土木技術史」=水を制する者、国を制する

 長野県・安曇野(あずみの)は、かつて北アルプス山麓の広大な原野だった。古代から急峻な山が崩れ、その砂礫が厚く堆積した大地である。結果として、上高地から流れてくる梓川の水が、安曇野に入ると、途中で水が消えてしまう。川底から地下に水が消えるのだ。

 水が枯渇すれば、田畑の耕作に甚大な影響がでる。農家の近隣、村単位、上流と下流とで水争いが絶えなかった。

 村人や松本藩も、なんとか奈良井川の豊富な水量を広域で分け合うことができないだろうか、と考えてきた。それには川を中流で堰(せ)き止め、真横に水路を造り、水を村々で分け与えよう、と計画された。砂礫の原野に川を通す。その治水は簡単ではない。

「水を制するものは国を制する」
 戦国大名や江戸時代の為政者たちは、叡智(えいち)を集め、治水に膨大な資金をつかってきた。それでも、川は氾濫を起こす。人間は自然を力で制圧できない。
 武田信玄の信玄堤など特殊な方法らしい。


 江戸時代の後期、1816(文化13)年に、安曇野に十ケ堰(じっかせき)ができた。その調査・測量などには26年間を要している。
 総延長は15キロで、等高線に添った、ほぼ水平・真横に流れる川を造ったのだ。勾配は約3000の1。3キロ進んで、わずか1メートル下がるだけだ。
 槍ヶ岳が標高3180メートルだから、横倒しにして1メートル下がっているくらい。超精巧な川である。おどろくことに、計画に26年間を要し、工期はわずか3か月である。述べ6万7000人の人手を使ったという。

 十ケ堰が完成すると、安曇野は米や作物は豊富になり、藩外に売れるほど10か村が潤った。

 
 現在も十ケ堰は現役だ。実にゆるやかに水が流れる。江戸時代に、どんな風に川が出来上がったのか。人間はどのように水(自然)と戦ってきたのか。それを歴史小説で書くことになった。

 十ケ堰の功労者は数多くいるようだ。庄屋の中島輪兵衛がくわしい記録を残している。図書館で見てみた。文系の作家にはとても理解できない。
 歴史小説でも、事実にそくした面が必要だ。河川工学とか、土木工学とか、専門知識がないと執筆などできない。ここから勉強することに決めた。


 私は知識を得るために、8月14日、長瀬龍彦さん(都市環境エネルギー協会の専務理事)を訪ねた。そして、3時間にわたり「土木技術史」のレクチャーを受けた。ボードに数式を書いて、実例で教えてくれる。

 水は真正面から腕ずくで抑えない。水は自然の原理しか動かない。

 水は液体だが、零下になれば、氷で個体になる。温度をあげれば、湯気で消えてしまう。水は無音だが、高い処から落とせば音が出る。
「水は奥行きの深いな」。それを実感させられた。