歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「薩長倒幕」は史実でない、歴史のわい曲は国民のためにならない(上)=東京・講演より

 歴史は現在、および将来の指針の役割を果たす。1000年の太古から、社会環境の違いがあっても、人間の考え方、心理はほとんど変わらない。突然変異ような政治体制にならない。

 歴史から学ぶためには、歴史は真実でなければならない。ただ、権力者、為政者、歴史作家、学者などよって、とかく捻じ曲げられる。それが教育に乗せられると、真実だと国民は疑わないで、真に受けてしまう。
 討幕直後から、薩長政権ができたと信じ込んでいる人が、いかに多いかだ。

 2018年6月1日のシニア大樂「公開講座」の壇上で、「幕末の広島藩がどんな活躍をしたか、ご存知ですか」と私がそう質問しても、誰ひとり知らない顔だった。

「そうでしょうね。数年前は広島市、広島県民などは100人中100人が知りませんでしたからね。無理からぬことです。明治政府、とくに長州政権になってから、広島藩の浅野家史が封印されて、まったく知り得る機会がなかったのです。みなさんが知らない。当然ですよ」

 数年前、私がこの講演の場で「坂本龍馬」を演題にしたときは、会場から溢れる100人以上だった。今回の講演で、私はあえて演題「倒幕の主役は広島藩だった」(広島藩の志士・帯)を謡ってみた。予想通り80人ていどだった。
 
「ひとり浪人スーパーマンが幕末史を動かすなんて、あり得ない。坂本龍馬が教科書から消える。あと5年、10年先には『薩長倒幕』ということばも教科書から消えますよ」
 会場は、まさかという顔をしていた。

 幕末史には人間業とは思えないスーパーマンが出現する。日本一の数万人の大企業を社長一人が興したような表現になる。非現実な展開を史実と信じてしまう。


「慶応3年10月15日、同年12月9日で、大政奉還、小御所会議で、明治新政府ができました。このとき、京都に潜伏していた毛利家家中は、品川弥二郎たった一人ですよ。ひとりが倒幕できますか。朝敵の長州藩は倒幕に役立つ藩ではなかった」

 龍馬にしろ、品川弥二郎にしろ、国家の転覆など、1人で出来るはずがない。学者も作家も、そこは目をつぶり、長州が倒幕に大きな力を持ったとする。「薩長ごっこ」を楽しんでいるのですよ。
 長州と薩摩とは、8月18日の変、禁門の変で、心底から憎しみ合っていた。仲がメチャメチャ悪い。それなのに薩長は仲良くなったと、ムリくりこじつけている。

「慶応3年11月末、広島藩が主導した薩長芸軍事同盟により、3藩が倒幕のために京都に挙兵したのです。広島藩と薩摩藩は、朝敵の長州藩兵をいかに上洛させるか、と知恵を絞ったのです」
 御手洗(広島県・大崎下島)と尾道とに、長州藩1000人強ずつを呼び込んだ。そして、その長州藩兵にはみな軍服、襟章も広島藩の格好にさせたのです。軍旗も広島藩の旗をもたせた。これは軍人として屈辱ですよね。
 軍団の船で畿内にむかっても、長州藩はいきなり京都に上がれず、西宮と淡路沖で待機しておれ、と命じられた。
「慶応3年12月半ばに、やっと京都に上洛できたのです。広島藩の軍服を着せられた長州藩が、翌年の明治元年に政治のトップに立てますか。無理でしょう。突然変異で、新政権は生まれないのです」

 徳川倒幕は人民革命ではなく、260藩の大名は誰ひとり殺されていない。倒幕からいきなり薩長政権ではない。ここに祭政一致という津和野藩の政権が存在する。

 明治新政府の発足は皇室、公卿、津和野藩、五大名家(尾張・徳川、福井松平家、広島・浅野家、土佐・山内家、薩摩島津家)の大名と家老クラスによるもの。これら五家はいずれも松平家か徳川家ですから、まだまだ德川政権が9割以上だったのです。

 かんたんにいえば、徳川家・松平家の譜代による老中支配政権が解体しただけです。倒幕というよりも、厳密にいえば、徳川どうしの争い、徳川支配体制の内部崩壊、もしくは分裂である。

 薩摩や長州の下級藩士は、おそれおおくもトップには程遠かった。かれらが実質的な薩長政権についたのは、廃藩置県の4年後からである。

             写真提供:シニア大樂

                     【つづく】  

神機隊~志和で生まれた炎~≪8≫福島県に眠る高間省三=プスネット連載より 

 いわき平城が自焼し、陥落した。新政府軍は白河・会津方面と、相馬・仙台方面の二手に分かれた。
 慶応4年7月22日、広島藩から自費で参戦した神機隊と、鳥取藩の2隊とが兵卒600人弱でいわき平から太平洋沿岸に沿って北上していく。

 かれらの大砲は4斤山砲(よんきん・さんぽう)だった。4斤とは砲弾の重量が4キログラムである。山砲は分解して、馬の背にのせて山路や悪路でも運搬できた。最大射程は2・6キロメートルである。

 砲手(ほうしゅ)には、弾道(だんどう)計算や火薬の幾何学の専門知識が必要である。砲隊長の指揮能力は、軍隊の勝敗にも影響する。

 翌23日、浅見川(あさみがわ)の戦い、24日から広野(ひろの)宿で大激戦となった。相馬・仙台連合と旧幕府軍は推定4000人強の兵力である。敵は高台の有利な立地から、連日、昼夜問わず、狙い撃ちしてくる。

 7月26日、鳥取藩の砲隊長の近藤類蔵(るいぞう)が重傷を負った。久ノ浜の旅籠(はたご)・亀田屋に搬送されたが、当日に息絶えた。享年37歳だった。
 広野の戦いは神機隊の砲隊長・高間省三の奇策で、大逆転して切り抜けられた。

 7月晦日、高間は武具奉行の多須衞あてに手紙を書いている。『皇道の興廃(こうはい)は今日(こんにち)の役にあり。私は王事のために死せん。願わくは、両親は喜びて哀しむなかれ』と死を覚悟した内容だ。
 これは日露戦争の有名な「皇国の興廃この一戦にあり」は、神機隊・第一小隊長の加藤種之介から、実弟の友三郎が高間の決意をおそわり、連合艦隊参謀長(後に総理大臣)として、「三笠」の艦上に伝わったものと思わる。

 翌・8月1日の朝、神機隊は先手として高瀬川の木橋を渡り、浪江の砦に迫った。その勢いで高間が敵陣に一番乗りした。刹那(せつな)、敵弾が額から後頭部に抜けた。壮絶な死だった。

 高間省三の遺体は双葉町の自性院に葬られた。享年21歳である。現在は、広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。

 奇(く)しくも神機隊と鳥取藩の双方の砲隊長(ほうたいちょう)が命を落としているのだ。


 久ノ浜の木村芳秀(よしひで)さん(亀田屋の遠戚)宅には、近藤類蔵の霊璽(れいじ)という位牌と、「神霊・砲手19人の名入り」幟(のぼり)が5流残されている。命日の7月26日にはその幟を庭先に立てて供養している。150年間の今日もつづく。
 現地のひとの慰霊の精神には頭が下がる。

 かたや、高間省三は東日本大震災による放射能の被災地に眠るので、一般人の墓参はむずかしい。


 写真:広島護国神社・藤本武則宮司が特別立入許可で、自性院(福島・双葉町)に眠る高間省三の墓に詣でる。


【関連情報】
「神機隊」ウィキペディア


                   【つづく】
                     
                    

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(下)

 坂本龍馬は幕末・維新史にどの程度の関わりの人物だったのだろうか。

 歴史を後ろからみる人は、「薩長同盟」を重要視する。龍馬が薩長同盟の成立に尽力したから、第二次長州征討が勝利に導いたとする。
 これは事実誤認に等しい。これを検証してみたい。


 まずは長州征伐という用語が、最近は消されつつある。
 孝明天皇が禁門の変から、朝敵の毛利家を討て、という命令したものだ。毛利家と天皇家の戦い。この構図からいえば、天皇軍は古来から征伐なのだ。「幕長戦争」という表現は、歴史のねつ造用語である。
 
 德川政権が望んだ戦争ではない。京都の一会桑が、孝明天皇に逆らえず、西側の諸藩に出陣を呼びかけたもの。大藩の広島藩と薩摩藩は、ともに出兵拒否に出た。他にも諸々の藩が非戦の態度を取ったが、幕府はペナルティーを課したわけでもない。


 島津家は経済の損得勘定で動く大藩だ。浪人・龍馬に云々されて、77万石の大藩・島津家の政治が、儲かりもしない戦争に動くはずがない。


 島津家は経済的な視点で考えないと、歴史を見誤る。
 同藩は商人にたいして250年の無利息・分割払いを強要する。薩英戦争ではイギリスに支払う賠償金を徳川家から借りた。いつまで経ってもその金は返さず、結果として頬被りする。
 鹿児島の鋳造工場で大量の贋金をつくり、イギリスから軍艦・兵器を購入し、メッキ2分金で払う。明治2年にはたいへんな外交問題になる。(木戸孝允から、薩摩は贋金で日本を全身不随にする気か、と叱責されているくらいだ)。


 木戸孝允が鉄砲密売人の龍馬に、最新武器の斡旋を依頼した。ところが、龍馬からなんら返事がない。龍馬に苛立った木戸の判断で、伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に送り込み、薩摩から武器を購入させた。

 慶応2年の薩摩は贋金でイギリスから武器を買っていたから、儲かりさえすれば、幕府に隠れて、どの藩にでも密売していた。長州も例外ではなかったのだ。薩摩がわの資料によると、別段、龍馬から斡旋がなかった。
 
 つまり、龍馬は薩長の仲介におおきな影響は与えていない。 

 長州藩が最新兵器で幕府軍に勝ったというが、これまた怪しい。
 大村益次郎が浜田、さらに石見まで進軍できたのは、津和野藩が「うちで戦わないでくれ」と道案内し、通り抜けさせたから、スルーできたのだ。

 芸州口の戦いでも、最初は彦根・越後高田に襲いかかったが、広島城下まで行くと、こんどは紀州軍や幕府軍の最新部隊に追い返されていく。幕府海軍から艦砲射撃を打ちこまれてしまい、長州藩兵は岩国まで逃げ帰った。

 ここらは芸藩志にくわしく乗っている。幕府海軍の軍艦の船名までも、明確に記している。

 城を自焼した小倉軍だったが、9月の宮島の和平協定のあとも、長州藩兵と戦いつづけている。

 龍馬の橋渡しで、長州が薩摩から最新兵器を購入できた。だから、幕府に大勝ちしたように記すのは、歴史の真実からかなり外れている。


 これらをまとめて単純化すれば、島津家は闇で毛利家に武器を売って儲けたけれど、出兵したところで、天皇家からも徳川家からも、恩賞や戦費は出るわけではないし、「当藩は出兵しません」と老中・板倉勝静に捻じ込んだにすぎない。

 慶応2年の薩摩は、長州あいてに儲かったけれど、無駄な金を使わなかった。それ以上でも、それ以下でもない。


 龍馬は、慶応3年10月の大政奉還にはまったく関わってない。
 芸藩志を精読すれば、広島藩の大政奉還が後藤象二郎が横奪したと、推移を克明に記している。そこには龍馬の入る余地などみじんもない。

 ちなみに、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛も、土佐藩を信用していない。薩土盟約が崩れて、後藤が抜け駆けで、板倉勝静に大政奉還の建白書を出したものだと見なしている。


 ただ、慶応3年11月に龍馬が実名で「新政府綱領八策」に署名している。当時の仕来りからすれば、重要な会談には書役(秘書役)がいる。それが龍馬だったのだろう。


 明治新政府の方針づくりの場に龍馬がいた。この事実は侮れないし、明治維新にむかって存在感のある人物だった、それには間違いないだろう。
 

 写真は、穂高健一「坂本龍馬と瀬戸内海」の連載・第3回の1ページより

         
           【了】

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(中)

 芸州広島領の浅野家が、なぜ徳川家の倒幕運動の先がけとなったのか。その理由はとても、明快だ。浅野家は、豊臣秀吉に正室(北の政所・高台院こうだいいん)を嫁入れさせている。家の格として、豊臣方の筆頭格の存在なのだ。

 かつて徳川家康すら、浅野家には一目も、二目もおく存在だった。
 浅野家の上屋敷には、江戸城登場に最も近い桜田門の目の前(現・警視庁と霞が関)に、広大な敷地を与えるほどの気の使いようだ。
  
 
 秀吉には頭が上がらなかった家康だった。その家康が戦国時代の戦いを休戦させた。そのうえで、以降の260余年間にわたり、江戸城に政治の中心をおいた。それは国家統一でなく、戦国戦乱の一時停戦だったのだ。


 日本列島に260諸国があった。戦国大名は、江戸時代になっても、いずこも世襲で「お家」主義であった。
『日本国』『わが国』という概念が薄く、分断された独立国家だった。(国民の末端まで、日本国、という意識が及んだのは日清戦争から)

 德川家の15代にわたる将軍は、戦国時代の群雄割拠のまま、政治・社会体制システムの根本を変えなかった。結果論からみると、それが徳川政権の最大の弱点となった。

 諸国は参勤交代や普請命令など、徳川政権の命令に従う。だが、豊臣対徳川の対立精神が底流で脈々と生きており、分断した独立国家体制のままだった。ペリー提督の黒船来航のあと、西側雄藩(豊臣色)と東軍(徳川色)という対立構造が、急激に浮上してきたのだ。

             *

 徳川時代には「藩」の呼称はなかった。「藩」という呼称は明治2年に、廃藩置県に移行させる暫定処置である。明治4年にはもう鹿児島県、山口県、広島県、和歌山県になり、郡県制度に変わった。
 わずか2年間の『藩』だった。それにもかかわらず、150年後の私たちが、「藩の意識」で幕末史を理解しようとするから、倒幕の本質が見えにくいのだ。

             *

 禁門の変で、毛利家は御所に発砲し、乱入した、「天皇家の敵なり、征伐せよ」と孝明天皇が征夷大将軍の家茂(いえもち)将軍家に命じた。

 第一次長州戦争へと進軍してくる幕府軍と、朝敵・長州の間はどの大名家が仲介するか。毛利家の親戚筋の福岡藩や、宇和島藩すらも、徳川家の怒りを怖れて断った。

 広島藩・浅野家がみずから仲介を買ってでた。それは関ヶ原の戦いで、毛利家が豊臣方の総大将だった。浅野家の藩主のこころに、いまや豊臣方の元総大将・毛利家の窮地だという、強い意識があったと容易に想像できる。
 つまり、徳川家と豊臣家という対立構造が、戦国時代から底流に脈々と生きていたのだ。少なくとも、その片鱗をみることができる。

         *
 
 第一次長州征討は、毛利家の家老や参謀の切腹や斬首で決着をつけ、広島城下の国泰寺で、幕府側の首実検をして、決着をみた。

 ところが第二次長州戦争へと、徳川家茂将軍の采配の下で、大勢の幕府軍が広島表にやってきた。浅野家は徹底した抵抗運動をおこなう。
 執政(家老)・辻将曹、野村帯刀のふたりが幕府から謹慎処分をくらう。藩校出身者の若者55人が小笠原老中の暗殺計画を街角にはりだす。


 浅野家の藩主から末端の家中まで、これほどまでに巨大な徳川家に盾つける抵抗運動はどこから来ているのか。その精神とはなにか。北の政所・ネネを嫁がせた浅野家は、豊臣家の本流だという自負心である。
 毛利家は豊臣方の総大将で、敗れて萩に落ちた。ここは見捨てられない、という意識がなければ、500万石の徳川家にたいして、42万石の浅野家がつよく楯突(たてつ)けない。

 それでも、第二次長州征討が起きてしまった。宮島の大願寺で、幕府の勝海舟と毛利家臣との間で、休戦協定がむすばれた。

            *

 徳川家がやがて、威厳を保つために第3次長州征討を言いだした。

「こんな徳川政権ではわが国を亡ぼす。亡国となれば、民が外国人の農奴・奴隷となろう。徳川家には政権を奉還し、天皇の王政社会にしよう。浅野家は正論で行こう。正論を堂々と言えるのは、秀吉公にネネを嫁がせた浅野家だけだ」
「徳川はまだまだ強い勢力を持っております。毛利家は朝敵で、倒幕に役立ちません。島津家は密貿易と贋金づくりで、徳川の公儀隠密や密偵にびくびくしております。後からはついてくるでしょう。いま、わが浅野家が徳川幕府の倒幕に動かずして、どこの藩がうごきましょう」
「浅野家が倒幕の先がけになろう」

 浅野家は藩校・頼山陽を生んだ。日本外史の皇国思想の下で、反論を一致し、真っ先に徳川家に反旗を挙げたのだ。

 やがて島津家、毛利家をも巻き込んだ。
 藝薩長の軍事同盟の成立を見たが、いっとき土佐の後藤象二郎に振りまわされて失敗した。しかし、それも立て直しができた。


 徳川慶喜将軍が、世の意表をついて、短期間で大政奉還を成した。はたして、天皇・公卿ら朝廷は国家統一の政権運営ができるのか。

             *

 大政奉還後の、天皇制には2つの問題があった。

① 天皇は軍隊を持っていない。幼い明治天皇がいつ徳川方に浚(さら)われるかわからない。天皇が指揮命令できる皇軍が必要である。

② 天皇制を敷いても、収入が全くなかった。税収がないと、国家統一の行政はできない。

 この2つの問題を解決しないと、後醍醐天皇の建武の中興 (けんむのちゅうこう)の二の舞になる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の謀反で、ふたたび武家政治に戻ったように。


「これは防ぎたい。二つの課題を達成する」


 広島藩主の浅野長訓(ながこと)、世子・長勲、執政・辻将曹らが、有能な家臣を使って、小御所会議(慶応3年12月9日)の開催の根回しに走った。そこで、王政復古の大号令による明治新政府の誕生をめざす。
  
             *

 寺尾生十郎は慶應3年10月23日の広島を発ち、薩摩藩主、土佐藩主へ、某は宇和島藩主へ、とむかった。
 寺川文之進は松平春嶽に会う使者として、おなじく同月23に広島を発ち、同28日に福井に着いた。そして、春嶽に会う。
「新たな王政の国事に尽力してほしい」
 と膝を交えて協議する。


 大政奉還から約10日後である。
 徳川家は政権を放棄したというが、どの大名家も、内実はどうなのか、とわかっていない。混沌とした政治状況下で、だれもが疑心暗鬼だった。このさき徳川慶喜将軍とはどう向かいあうべきなのか。

 人間は誰もが明日を完全予測できない。
 
『京都に上京し、国事に尽力していただきたい』
「王政復古は賛成だが、徳川家には260余年の御恩がある」
「御意に」
「わが家は松平家だ。尾張家も同様だろう、あちらは徳川家だ。新政府の政治に協力したいところだが、徳川宗家・将軍家には不義理になってしまう。国家のためならば、たしかに広島藩の言うとおりだ、もう慶喜公には政治の場から下りてもらうしかない。余(春嶽)はその板挟みで迷っておる」
 どの大名も、浅野家の使者の熱意から、広島藩の本気度をさぐっているのだ。

 遠くて近いのが歴史だ。天下人の秀吉の妻として北政所は、朝廷との交渉を一手に引き受け、家康すらも助けられている。この『浅野家』には、豊臣政権時代の影を感じさせるのだ。だから、浅野家は堂々と論陣を張れるのだ。

             *

 広島の使者は、主君(長勲)の命令だから、結果をだす必要がある。上洛・小御所会議の参列に乗らなければ、かえって情報が他に漏れてしまう。
「長勲公からの親書は受け入れ難し、お受け取りできません」
 と突き返される。

 宇和島藩・伊達宗城公への使者は、おおかた失敗したのだろう。
「芸藩誌」には使者の名前が「某」とのみ表記されている。伊達宗城は12月9日の小御所会議に参加していない。
 使者・某は説得に失敗し、切腹している可能性がある。

           *

 福井で春嶽に直接会った寺川文之進は、松平春嶽が小御所会議に上洛する、と承諾を取り付けた。翌29日付長文で『~ 越前福井より 春嶽 拝復』が手渡されている。
 寺川はそれをもって急ぎ広島に帰藩している。
  
 この一連の動きのなかで、広島藩の浅野家臣・寺川文之進が、浪人の坂本龍馬を福井に連れて行った可能性が大である。

 応接掛(外交官)の寺川が、大物の松平春嶽と小御所会議招集を語る重大な場に、浪人風情の龍馬を同席させるはずがない。


「拙者は春嶽公に会う、そなた龍馬は、謹慎の身である由利に会ってくれ。いずれ、謹慎を解いてもらい、明治新政府の財源づくりの役に付いてもらう人材だ。ここら具体策を双方で話しておいてくれ」
 寺川が龍馬に、そう指図したと理解する方が自然である。
 

 明治新政府が誕生すると、浅野長勲公が大蔵卿になり、由利 公正(ゆり きみまさ)が財政を担っている。その根回し役が、浅野家臣・寺川文之進だった。

 坂本龍馬の福井行きは、広島藩・寺川文之進の行動と、浅野長勲の施策と並列してとらえないと、たんなる想像の世界となってしまう。
 浅野家の家史「芸藩志・第81巻」を読みたまえ。


                               【つづく】


 写真: 穂高健一『坂本龍馬と瀬戸内海』ま雑誌連作の2回目「いろは丸事件」です。2010年5月号。
 ちなみに、いろは丸事件が起きた慶応3年4月です。
半年後の秋口から、藝薩長同盟の成立、慶喜の大政奉還、龍馬の福井行き、龍馬暗殺、御手洗条約、3藩進発(挙兵)、小御所会議による明治新政府誕生と、目まぐるしく幕末動乱に及びます。

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(上)

 坂本龍馬の福井行・由利公正(ゆりきみまさ)の手紙が出たとか、折々に、世のなかを大騒ぎさせている。

 その手紙や史料の「真・贋」は、学者の判定に任せている。
 古文書シンジケートが巧妙に偽造し、売りつけているのでは、とわたしは疑問におもうことすらもある。
 なぜならば、手紙の内容をみると、現代の薩長史観からであり、広島藩側からみると、これは実態に合致していないし、嘘だ、と明瞭におもわれるからだ。
 たとえば、龍馬の福井行は、かなり怪しげな手紙だといえる。

「広島藩の志士」、「神機隊物語」と歴史ものの出版が重なり、このところ私は講演に招かれることが多い。「龍馬の福井行」の質問がよくでる。
 龍馬ファンは真実を知らないのだな、広島側からみれば、いとも簡単にわかるのにとおもう。
「龍馬は政治にはさして絡んでない、鉄砲密売人の目で見るべきですよ」と応えている。

              *

 芸州広島藩の世子・浅野長勲は、慶応3(1867)年、京都の小御所(こごしょ)会議による、明治新政府の誕生を強くはたらきかけた人物である。その開催準備には、命をかけた、並々ならぬ努力をしている。

 4月1日に、拙書「芸州広島藩 神機隊物語」(平原社)を発刊した。同書P139には、慶応3年10月30日、浅野長勲(ながこと)が広島藩船でみずから岩国新港にでむき、朝敵で領地の外へ出られない毛利家世子の長門守、木戸孝允(きどたかよし)らと直接会談をおこなった、と記載している。

 現代流にいうと、封鎖された北朝鮮に、当時・小泉首相があえてみずから同国にでむき、拉致被害者たちの帰国問題を話し合った。
 長勲の朝敵・長州行の行動は、あの小泉さんの行動に似ている。封鎖された相手の要人は、隣国の広島でも、正面切って出てこれないのだから、こちらからでむく行為だ。

  わたしは平成22(2010)年3月から、雑誌に『坂本龍馬と瀬戸内海』を6回にわたり連載した。徹底取材した経験から、龍馬の知識はかなりあるつもりだ。
 しかし、当時は広島藩の実態を知らなかった。だから、薩長史観にもずいぶん影響されていたとおもう。(写真・第1回です)


 それから約8年間にわたり、わたしは幕末広島藩を追求し、同藩の活躍をふかく知ることができた。一方で、坂本龍馬の虚像メッキが随所で、あばたのごとく剥がれてきた。
「ずいぶん英雄視されすぎてきたな」、という近況のおもいだ。

 歴史は真実でなければならない。間違いはまちがいとして糺(ただ)す。それが作家の責務だろう。『坂本龍馬と瀬戸内海』の一部否定も含めて、龍馬を記してみたい。

 浅野家の家史「芸藩志」は、橋本素助・川合鱗郎編さんしたものである。明治42(1909)年に完成した。約300人の編さん員がかかわっていた。
 ところが、明治政府は驚愕とした。あまりにも官製幕末史とちがい、「藝薩長による倒幕」と歴史の真実がずばり書かれているからである。修正などさせず、即刻そのまま封印させた。訂正がないことが、現代ではかえって幕末史がリアルになった。

 昭和53年にわずか300冊が復刊として世にでてきた。
 司馬遼太郎『竜馬がゆく』の完結が昭和41年だから、それよりもなお12年後に、幕末広島藩の実態がほんのちらっと世に芽が出たことになる。
 これはなにを意味するか。
 司馬遼太郎は芸藩志をまったく知り得ずして、坂本龍馬を描いた。これは事実だ。つまり、明治政府がねつ造した官製幕末史と、司馬氏の想像でできた読み物が、さも幕末史のごとく信じられて歴史街道の中心で大手を振って歩いてきた。それが司馬史観である。

 毛利家は倒幕にはほとんど関わっていない。しかし、司馬氏が「薩長倒幕」の視線で、龍馬を書いているから、生の龍馬の実態とはかなり乖離(かいり)している。

 倒幕に動き始めた先がけは、広島藩である。慶応2年の長州戦争、家茂将軍の死去、孝明天皇の崩御、そのうえハイパーインフレで民が塗炭(とたん)の苦しみで「えいじゃないか運動」が起きたときだ。
「もうこんな徳川家に政権を任せていられない。わが国が西洋諸外国に攻撃され、亡国となるおそれがある。王政で国を作り替えよう」
 広島藩は頼山陽を生み出した。山陽が藩校・学問所の助授のまえに書き上げたのが日本外史だ。後輩の藩士たちは日本外史を歴史書として学んできた。
 だから、「倒幕のさきが」の藩論統一は容易かった。

 人間だれもが「明日はわからない」。歴史は後ろからみれば、徳川家の倒幕など、既成路線、ごく自然に歴史の必然におもえる。しかし、一口で倒幕というが、民が将軍の悪口を一つでもいえば、獄門・死罪の時代だ。
 神田に住む職人が、仲間がつい口を滑らせて、公方様の悪口を言ったので相槌をうったところ、八丁堀が家にずかずかと入ってきて、後ろ手に踏縛り、「御用だ、神妙にしろ」と引き立てた。入牢から19日後に、牢から引き出されて取り調べ、拷問に及んだ。(拷問は老中の許可がいるために、19日後になったのだろう)。
 
 こんな時代に、倒幕など口にすれば、外様大名、譜代大名を問わず、改易、お家とりつぶしに遭う。
 徳川家の倒幕のさきがけは、歴史を後ろからみるほど、安易な行動ではない。内密、極秘で、展開する。薩摩藩すら、久光は公武合体派で貫らぬいていたし、徳川家に盾つく気など毛頭なかった人物である。
 
 広島藩はその環境下で、倒幕運動をやってみせたのだ。まず大政奉還へとうごく。薩摩と手を結び、朝敵・長州をつかって慶応3年に藝薩長同盟を結ぶ。その後、いちどは後藤象二郎に裏切られながらも、大政奉還にすすむ。

 徳川家は政権を戻しても、それはまだ表向きで、王政のトップの座を狙っている。

 ここから、芸州・広島藩はふたつの動きに出る。一つは約6500人の天皇の皇軍(近衛兵)として、「藝薩長」の3藩による軍事挙兵である。長州藩は広島藩の軍服・徽章、戦旗を持たせて、カムフラージュし、上洛させる。3藩進発、という御手洗条約がやがてむすばれる。

             *

 芸藩志が封印されたのは、この3藩進発が最大に影響したのだろう。

 明治政府の長州閥の政治家には、2000人の長州兵がかつて広島藩・浅野家の軍服で挙兵されせられたという嫌な思い出がある。
 制服は武士(軍人)にとって自国のもっとも象徴するもの。3藩進発のときは、怒り心頭でも、従わざるを得ず、朝敵の汚名のつらさを感じ取っていたにちがいない。

 長州出身の政治家は明治時代の頂点に立った。薩長倒幕だと胸を張っていた。浅野家の家史「芸藩志」は冷や水を浴びせる、最大級の屈辱をよみがえらせたのだろう。
「こんなものの、世に出すな」と怒鳴る総裁級の政治家の姿が、容易に想像できる。

                            【つづく】

神機隊~志和で生まれた炎~≪6≫藝薩長軍事同盟の倒幕=プスネット連載より 

 幕末史は謎めいたミステリーがある。

 慶応3年10月15日の大政奉還から、同年12月9日の小御所(こごしょ)会議(京都)で明治新政府ができる間、約一か月半にわたり、幕末史の空白がある。全国にまたがって大名、公卿などの史料が皆無なのだ。
 なぜ、こうも歴史が消される必要があったのか。
 推量の段かいだが、明治政府による歴史資料の焚書(ふんしょ・書類が焼かれる故事)の可能性が高い。薩長閥の政治家が、「薩長倒幕」をいう用語を正当化する、悪質な歴史のねつ造があった、と見なしても、まず間違いないだろう。


 くわしくは拙著「広島藩の志士」(南々社)の「まえがき」、「あとがき」には歴史の真実を折り曲げる、ねつ造、改ざんの証拠だてを克明に記している。


 神機隊幹部の黒田益之丞(ますのじょう)、船越洋之助、川合三十郎、小林柔吉(じゅうきち)などが、浅野長勲(ながこと)や辻将曹(つじしょうそう)の手足となり、京都や大坂で、諸藩の同志と連絡をとり、活発な倒幕活動する。
「倒幕の主役は広島藩だった」とそれら展開が同書で展開されている。明治政府がつくった「官製幕末史」や「司馬史観」に影響された鵜呑みの人には、広島藩が主役とはかつて考えも及ばなかっただろう。


 同年9月に薩長芸3藩による大掛かりな挙兵(きょへい)が成立した。芸藩誌は「藝薩長」と記す。薩摩藩も広島藩と長州藩の上洛の挙兵が、準備万端と整った。実行に移りはじめた。

 ところが、薩芸と手を組めなかった土佐藩の後藤象二郎が、二藩との密約に反し、大政奉還の建白書が幕府に提出したのだ。結果として、後藤は広島藩が「軍事圧力で大政奉還を迫る作戦」を横取りされたうえ、山内家が建白書の紙っペラを提出したのだ。

 薩芸は信義にも劣る後藤象二郎だと、怒り心頭だったが、結果として、薩長芸軍事同盟による挙兵は、後藤にふり回されて失敗した。
 

 あらためて京都で、薩長芸による軍事同盟を結び直がおこなわれた。徳川慶喜の大政奉還とおなじ時機になった。

 同年11月末には、広島藩が主導した藝薩長による挙兵・3藩進発(しんぱつ)は約6000人の軍隊にもおよぶ。突然、畿内にあらた最新式武装の兵力だった。幕末で最大級の挙兵を成功させたのだ。
 だれが、いつ、どこかで、ち密な作戦を練ったのか。それは歴史の謎である。


 確認できるところから、ひも解いてみよう。

 芸州広島藩の浅野家・家史「芸藩誌」によると、慶応3年10月末、広島藩世子の浅野長勲が岩国新港に出向いて毛利の世子と会う。
 同10月晦日、長勲が木戸孝允を乗船させて広島に着く。(長州は朝敵だから、大手を振って広島藩領に入れない)。木戸孝允は船越洋之助に会ったり、広島城で長勲と細かく密議する。


 薩摩の密貿易港でもある御手洗(広島県・大崎下島)で、4藩の大物があつまり、挙兵計画がち密にねられたのだ。木戸孝允は御手洗に出向いた。この御手洗の密議は、4藩の関係者の日記が現存しない。
 まさしく、明治政府による焚書だ。


 明治初期の御手洗港(大崎下島)(御手洗重伝建を考える会・提供)


 歴史はいくらねつ造しても、どこかに漏れがあるものだ。
 60年間沈黙を守った新谷(にいや)道太郎(御手洗出身)の口実自伝があった。昭和10年発行で、諏訪正編「維新志士・新谷翁の話」がある。
 そこには同年11月3日から6日まで、広島、薩摩、長州、土佐による「4藩軍事同盟」が大崎下島・御手洗でおこなわれたと記す。
 
 どんな挙兵だったのか。

 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十二巻に、くわしく書かれている。
『長藩(長州藩)の一半はわが藩兵(広島藩兵)を装うために、軍旗、徽章など皆わが広島藩と同じにした。御手洗を出航し、淡路沖に停泊する。27日、兵庫沖にて、川合三十郎(神機隊)が長州人を同地に上陸させる。このとき幕兵が通過したので、長兵は打出浜より上陸し、後日、西宮に転営させる』


 長州藩兵は、広島藩の軍服・広島の軍旗をもって、毛利の家老を罪人の搬送をやったのだ。これは歴史的事実だった。これが長州藩の恥部となり、広島藩は恨みを買った。
              
           *


 慶応3年12月9日に明治新政府が誕生した。毛利家の朝敵も解除され、西宮に待機して長州藩が大坂経由で上洛した。さらに土佐藩も京都に挙兵してきた。

 ここの藝薩長土の軍隊が出そろう。明治天皇の近衛兵(このえへい)が主目的だった。後醍醐(ごだいご)天皇が「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」で失敗したように、武門政治(ぶもんせいじ)にもどさせないためのものだった。


 ところが戦争思考が強い西郷隆盛が「島津幕府」をめざして、「鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦い」を仕掛けたのだ。つまり、天皇を守る皇軍が、薩摩藩の政権欲に使われたのだ。


 広島藩兵は伏見に出陣していた。平和主義の辻将曹は一発の銃弾も撃たせなかった。「徳川家の大政奉還で平和裏に政権移譲がおこなわれている。天皇を守る軍隊を、会津と島津の遺恨に使うな」という指示を出していたのだ。

 辻将曹の判断が、薩長の軍隊の反発を招いた。芸州広島藩が明治政府の主流から外された、主なる原因となった。

 明治後半、内閣総理大臣まで輩出した長州藩士としては、毛利家の家臣なのに広島軍服で鳥羽伏見で戦った、長年の屈辱だったのだろう。
 藝薩長軍事討幕から、德川倒幕から藝州広島をはずし、「薩長倒幕」という言葉に帰られたのだ、それが焚書になったと十二分に推量できる。

 大崎下島の御手洗の金子邸で協議の上、3藩進発(挙兵)で、軍略にしろ、毛利家の藩士が他の制服を着せられるのは、耐え難い屈辱なのである。そのうえ、わが毛利家・家老を罪人護送させた役をやらされた。この屈辱と怨みが底流にあったから、それを明記した浅野家史「芸藩志」が封印させられたのだ。



 鳥羽伏見の戦いのあと、北関東、北陸、奥州で、旧幕府軍が反乱・暴走して戦火が拡大した。
 このままでは5年、10年戦争となり、西洋の侵略の口実にもなりかねない。わが国が重大な危機におよぶ。
 そう判断した広島藩・神機隊は、藩庁に出兵申請をした。藩内の認識は「島津幕府」づくりの戦争だ、徳川幕府を薩摩幕府に変えても、何になろうと拒否した。

 しかし、藝薩長同盟の中心となって活躍した神機隊の若者たちは、このままだと戊辰戦争が国内のし烈な内戦に拡大していく。早期に戦争を終結するのが民の安堵になるし、外国の餌食になるのを防ぐことになると、自費で約320余人が奥州戦争への出陣をきめたのだ。

「芸州広島藩 神機隊物語」には、『民のために生命を惜しむなかれ』とかれらを克明に記している。
 この東西に分かれた戦争では、日本の260余藩からそれぞれ複数の諸隊、草莽の隊、旧幕府軍など合わせると、軍隊は数千の数におよんでいる。
 そのなかでも、全額自費は広島藩の神機隊だけである。

神機隊  《7》 ~志和で生まれた炎~ 神機隊と神木隊

「神機隊物語」の取材、執筆するさなかに、『まさか』という偶然の出会いがあった。

 慶応4年3月11日に、神機隊が自費で、志和から戊辰戦争へと出兵した。会津にむかう途中、海路で品川に上陸した。浅野家の菩提寺・泉岳寺(せんがくじ)(忠臣蔵で有名)に滞在中、上野戦争への参戦をきめた。

 地形偵察に行った藤田太久蔵(たくぞう)参謀たちが、上野の山で道に迷い、敵陣の彰義隊のなかに入ってしまった。
 敵方は刀を抜いて殺到してきた。
「諸君、早まり給うな。われらは敵意があって上野にきたのではない。隊長どのに会いにきたのだ」というと、敵兵は斬るに及ばず、隊長のところに案内した。

「隊長とは、どこかでお目にかかったようだが」
 機知に優れた藤田がほほ笑んだ。
「先年、長州征伐で、広島に長く滞在して大変お世話になった。そのとき確か貴殿にお目にかかったはず」
 藤田も久しぶりに会った懐かしげな顔で、広島藩も長州征伐当時に苦労したと聞かせた。やがて、心を開いた隊長が道案内し、上野の山から脱出させてくれた。(広島郷土史談)。

 この敵陣はどこか。越後(えちご)高田藩(たかだはん)の江戸詰だろう。

 先立つこと、鳥羽伏見の戦いのあと、神機隊の小林柔吉(じゅうきち)が、北陸鎮撫使(ちんぶし)の参謀となった。慶応4(1868)年2月には高田会議を開き、越後高田藩の榊原家を新政府側に恭順(きょうじゅん)させている。


 同高田藩江戸詰の武士らは、芸州口の敗北で、徳川四天王もこのありさまか、と嘲笑われた。ここは徳川家に最後までご奉仕するべきだと言い、脱藩したうえで、上野の彰義隊に加担した。
 かれらは榊(さかき)の漢字を分解し、「神木隊」を結成した。神木隊=シンキタイとも読める。奇異な偶然である。

 この神木隊には橋本直義(なおよし)がいた。かれは勇敢な武士で、芸州口の戦い、上野戦争、宮古湾の海戦、箱館戦争の激戦地で負傷しながらも戦っている。

 明治8年頃から、かれは「最後の浮世絵師=揚州周延(ようしゅう ちかのぶ)」として戦争画、歴史画、開化錦絵、役者絵、美人画など、さまざまなジャンルで活躍している。

 橋本直義はかつて海田市に滞在している。絵師の腕前から広島・船越(ふなこし)の大江谷(おおえだに)の「誰故草(たれゆえそう)」と縁もあるだろうと、拙著「芸州広島藩 神機隊物語」で取り上げた。


 揚州周延「帝国万歳憲法発布略図」= 提供・上越市立総合博物館

明治維新150年周年記念、歴史講演会(4月15日)=広島市・船越

 広島市民が、幕末・維新の「広島藩」にたいして燃え上がってきた。

 3月12日に発売した「広島藩の志士」が、広島市内の大手書店で、軒並みベストセラーになっている。立て続けの出版となった「芸州広島藩 神機隊物語」(4月4日発売)が、既に品切れがでるなど、順調に推移している。

 いまや『広島藩』人気が急上昇している。 
 この背景の下で、広島市船越公民館で、4月15日午後1時15分から、講師・穂高健一「知られざる幕末の芸州広島藩・神機隊の活躍」の講演をおこなう。

 中国新聞が4月11日朝刊で「神機隊の歴史 穂高さん語る」と前打ち記事を掲載してくれた。

 新聞をみた方から、問い合わせが多く寄せられています。(岡田館長談)

 さかのぼること昨年の春、船越の「唯故草(たれゆえそう)」を観ませんか、と紹介してくださった人がいた。
 私の知識は皆無だった。作家は好奇心が強い。ひとこと返事で出むいた。

 現地の船越公民館に訪ねると、唯故草同好会の方が、可憐な唯故草の特性を説明してくださった。
 岡田館長が植生する船越中学の周辺とか、岩滝神社とかを案内してくれた。


 わたしはちょうど浅野家の家史「芸藩志」から、「神機隊物語」の取材・執筆の着想を練っていた。そんな話を岡田館長にすると、「唯故草」を作品のなかに、登場させてください」と依頼された。

 神機隊の兵卒が華麗な花にこころが休む、というていどならば、いかようにも書けるし、とかんたんに引き受けた。


 後日、日浦山(船越・海田と登山口が多い)の山頂まで登ってみた。
 作者として、美景の情感を文章スケッチした。このとき、プロローグとエピローグは護国神社の巫女を登場させることに決めた。巫女の名は大和倭香(やまとしずか)とし、海田出身の短大で、唯故草を愛でる20代の女性とした。
 初稿はそうしておいた。
 
 初稿を一読した編集者(東京在住)から、作品の書きだしが長州戦争からだと、広島の気質や文化はわかりづらい。全国のひとは、江戸時代の広島魂が知り得ないまま読まされてしまうよ、とつけ加えた。
「現代の広島人すらも、江戸時代の広島なんて、知っていませんからね」
 私は苦笑しながら、妙に納得させられた。
「2稿では、浅野家が紀州和歌山藩から広島へ移封してきたところから、書きだしたほうが良い」
 江戸時代の広島の政治、経済、文化、広島の気風や、広島魂を読者にしっかり理解されたうえで、『幕末に、なぜ広島藩が倒幕の主役に躍りでたのか。なぜ倒幕で藩論統一ができたのか。なぜ、神機隊が自費で戊辰戦争に出兵したのか』とストーリーを展開すれば、全国の読者に理解されるし、共感を得られるよ、と助言をうけた。

 作家と編集者は両輪で、作品を生みだすもの。わたしは編集者のことばに、もっともだと納得しながらも、
「初稿で幕末10年間を濃密に書いているのに、2稿では250年もさかのぼるの……」
 このさきの原稿の締め切り、出版日を考えると、大変な忙しい作業になった。

 小説家は、文章を書き足すのはさほど労苦はない。かたや、推敲(すいこう)までした1行一句には愛着があるから、削除が難儀だ。
 巫女が日浦山に登る。ここらは全面カットしないと、全体の枚数がオーバーする。


 岡田館長と約束した唯故草はいかにつかうか、と思慮した。神機隊の兵卒が唯故草を愛でる。これは月並みで、だれにでも書けるし、プロ作品じゃない。

 長州戦争のとき、越後高田藩が海田市に長期に宿陣し、そして長州軍に大敗した。かれらのなかに、唯故草を愛でる人がいたと想定してみた。
 高田藩(榊原家)の掘り下げが始まった。上越市立博物館の学芸員から、著名な郷土史家の村山和夫さんを紹介してもらった。

 村山さんと諸々と語るうちに、「明治時代の有名な『最後の浮世絵師』の揚州周延(ようしゅうちかのぶ)が、長州戦争で広島表に行っていますよ。この方を登場させたら、いかがですか。本名は橋本直義(なおよし)」
 とアドバイスを受けた。電話取材のさなか、パソコンで画像を確かめると、教科書に載っている「越後高田藩の出陣」の絵があった。
 これは素晴らしい人を紹介してくれた、と感謝の念をもった。


 その後、越後高田藩と広島藩との接点が次つぎと発見できた。上野戦争では、「こんな偶然が現実にあるのか」、と途轍もない広島藩側のエピソードと結びついた。気持が震えた。作家みょうりだと感動した。「神機隊物語」のなかでも、盛り上がりのひとつになった。
 
 広島・船越の「唯故草」から、思いもかけない大きな歴史的な発見があった。船越公民館の講演では、ふだん聞けない作家の裏舞台も語るつもりである。

「神機隊物語」は徹底した取材で、歴史新発見とか、通説をくつがえす場面が随所にある。なぜ、それら発見にたどり着いたか、と作家の書斎側を中心に、芸州広島藩とか、神機隊とかを紹介していくつもりである。


    『揚州周延の歴史画は、上越市立博物館・蔵』

【チラシ情報】

神機隊テーマ『幕末維新史 広島藩の躍動』= 中国新聞・文化

 中国新聞の3月16日の朝刊「文化」欄に、「穂高さん新小説」と題して、新刊「芸州広島藩 神機隊物語」と、再判される「広島藩の志士」のふたつが紹介されました。記名記事で、林淳一郎さん。



 記事の一部をご紹介します。
 
 新刊「芸州広島藩 神機隊物語」(2160円)が4月初めに刊行される。神機隊は、明治時代へ移り変わる150年前にの内戦で、激戦をくりひろげた実在の部隊だと記す。

 若き隊員たちの足跡を軸に、長州と薩摩だけでは語りきれない、歴史の変革を新鮮に描く。

 新政府軍に加わっていた広島藩は、戊辰戦争で旧幕府軍と戦った。広島藩士や地元農家の志願兵で結成された神機隊の約300人も参戦した。東北へ向かい、現在の福島県浜通り一帯で、激戦を重ねた。

 小説では、内線に至るまでの広島藩の奔走ぶりもたどる。薩長と軍事同盟を結んだほか、大政奉還では徳川幕府にたいして政権を朝廷へ返上するように促す。その建白書も提出した。大崎下島の御手洗(呉市)で密議された出兵計画や、御手洗が薩摩との密貿易の拠点になったいきさつにも迫る。

「中略」

 広島藩の記録「芸藩志」などをひもとき、福島や鹿児島で取材も進めて、ストーリーを紡いだ。
 いずれの登場人物も実在し、描写に心を砕いたと、作者は語る。さらに、プロローグとエピローグで、高間省三を祀る広島護国神社の巫女(みこ)が、浪江へ墓参に向かうシーンなども盛り込んでいる。

 さらに、同記事では「広島藩の志士」(1728円)の再刊にもおよぶ。

 穂高さんは4年前に、高間省三を主人公にした「二十歳の炎」も刊行している。このたび発行元を変えたうえで、3月半ば、広島市東区の南々社が新装版「広島藩の志士」として発行した。

 穂高さんは「神機隊」をテーマにしながら、「埋もれつつある郷土の歴史に、若い人たちの関心が向くきっかけになれば」と願う。

神機隊~志和で生まれた炎~≪5≫隊を創設した木原秀三郎=プスネット連載より 

 木原秀三郎(適處)はどんな人物か。
 東広島市高屋町(旧・檜山村)の庄屋で、志高く、満27歳で長崎に遊学している。その後は江戸で勝海舟の門下生になり、築地の軍艦操(そう)練所(れんしょ)で航海術、砲術を学ぶ。やがて、広島藩・江戸藩邸で抱えられ、応接方(おうせつがた)(藩の外交官)に任命された。広島に帰国して軍艦付となった。

 第二次長州征討のまえ、広島藩の若者たち55人は切腹覚悟で、小笠原老中の暗殺で戦争を止めようとした。木原もいた。しかしながら、戦争が勃発した。

 長州藩兵が岩国から小瀬川(おぜがわ)を越えてきた。芸長の不可侵条約を無視し、幕府軍を追って大竹、大野、廿日市、広島城下近くまで攻めてくる。この間、広島領民にたいして強奪、略奪、放火までやった。

 広島藩の農兵といえば警防団ていどで役立に立たず。やがて、西洋式軍隊の紀州藩兵と幕府海軍の艦砲射撃で、長州藩兵は岩国まで追い返された。

 木原は農閑期のみ訓練をする農兵でなく、毎日、訓練する壮兵(そうへい)(職業軍人)の軍隊をつくるべきだと、約一年前から主張していた。木原は洋学をも学び、世界最強のイギリス軍隊の知識があったのだ。
 
 広島藩庁は、領民の大被害を知り、やっと木原の考え方を理解し、神機隊の創設を許可したのだ。
 志和盆地の地形・風土を知りつくす木原が、本拠地を志和にきめた。

 結成時、志和冠村の庄屋・近藤権之助が山野の練兵所、食糧の確保、兵舎づくりなどおおいに協力した。優秀な家中(浅野家臣)が約30人と、賀茂郡八十八か村を中心に近郊から1200人が隊中として入隊してきた。
 藩庁の許可は200人の費用のみだった。

 差額の隊費は、藩の要人・小鷹狩(こだかり)介之丞(かいのじょう)が配慮し寄付金でまかなった。武器弾薬は、武具奉行の高間多須(たす)衛(え)(省三の父親)が、西洋式最新銃と銃弾を貸与し、志和練兵所の訓練では十二分につかえた。

 神機隊の優秀な家中が交代で、城下から約30キロの志和にきて、数日間は寄宿し、寝食をともにし、思想教育、軍事教育、軍律の厳しい指導にあっても、家中・隊中の人間関係は良好で、日本最強の軍隊をつくりあげていくのだ。

                     【つづく】


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。