歴史の旅・真実とロマンをもとめて

これはスゴイ!北辰一刀流・宗家が協力 『紅紫の館』の紹介・動画

 穂高健一著「紅紫の館」(郷士・日比谷健次郎の幕末)の 動画による紹介が、ユーチュウブで公開されました。
 
 江戸時代には天下にひびいた北辰執刀流が、現代も元水戸藩をくんだ剣道道場で脈々と生きています。

 このたび『紅紫の館』の執筆には、北辰一刀流・宗家の椎名市衞成胤さんが協力してくださいました。
「江戸時代の武芸者の剣道は、一本勝負ではありません。なんど技が入っても、2時間でも、3時間でも戦いつづけたうえで、どちらかが最後に『参った』という声を吐いたときに勝負が決まります」
 それは初耳で、とてもおどろきでした。

「紅紫の館」の第二章『北辰一刀流』に組み込みました。

「内密御用家」の日比谷健次郎と土方歳三が日比谷道場で、練習試合している気迫に満ちた場面から書き出しています。
 宗家の椎名さんが門弟らと、その場面を動画(ユーチューブ)で再現してくださいました。すごい場面です。まさに、本物の北辰一刀流です。
 真剣で、わら人形をすぱっーと斬ってみせる場面もあります。

 この迫力は、ことばで言い表せません。

            *   

「紅紫の館」の女雛の表紙はとても美しい、と大評判です。作者の私が類推する「日本一の人形」も動画に組み込まれています。

 第一章『桜田門外の変』は、このひな人形が江戸城・白書院に飾られていた、という場面からスタートします。

 上巳の日(桃の節句)には江戸在府の全大名、旗本の登城日です。井伊大老が将軍家の威厳と威光をみせるために制作されたものだった。しかし、雪降る中で、彦根藩主の井伊直弼は暗殺された、というストーリーです。

           *    

 この動画には、日比谷家が「内密御用家」だったと裏付ける史料も紹介しています。
 動画は1分15秒にまとめられています。

 制作 = 株式会社アイムプロダクション(代表取締役 梅田朋美)
 制作協力 = 北辰一刀流
 制作者 = 日比谷二朗

 こちらからユーチューブ「紅紫の館」(郷士・日比谷健次郎の幕末)が見られます(1分15秒)。左クリックしてください。


 参考:「日比谷家の雛人形 ~幕末期江戸古今雛の最高峰~ ロングバージョン」、ユーチューブで見られます(8分49秒)。
 

「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた(下)

 作家の高橋克典さんと、居酒屋で、日比谷家の執筆を受けるか否かと話をかわしていた。私の気持ちはいま一つ乗り気ではなかった。
「日比谷家の人たちは、穂高健一さんが出版された阿部正弘を読んで、この作家にぜひ書いてもらいたいと言っている。なにか条件を出してもらいたいらしい」
 高橋さんは強く押してくる。
「別に、条件などないよ。引受けた作家に、逃げられないような縛り?」
「そんなところかな」
 高橋さんは、執拗に条件を出してくれと迫る。
「先祖のよいしょ作品など書かないからね」
 私は金銭など貰いたくないとつけ加えた。
「それはわかっているさ。でもさ。何か条件を出してよ。あいてを納得させないといけないから」
 酒の場となると、物事はほどほどに纏まるものだ。
「だったら、広島の中国放送(RCC)で、一年間の幕末・明治・大正の『穂高史観ヒストリー』の企画があるから、スポンサーになってもらうかな。ただし、金のやり取りは直接ぼくがやらないからね」
「それでいこう」
「言っとくけれど、広島の放送だし、東京・江戸の日比谷家の話など一切でてこないよ」
「それで良いんだよ」
 高橋さんはくりかえし、掘り出し物があるよ、とつけ加えていた。

           *

 紡績王の日比谷平左衛門は東京商工会議所の副会頭で、会頭の渋沢栄一と渡米している。日露戦争のあと、日比谷焼き討ち事件が起こり、日米関係が悪化していく。面白いな、と思いつつも、他の日比谷家の一族とはまったくもって結びつかない。

 武蔵国足立郡(東京都足立区)には、幕末・明治に活躍した郷士・日比谷健次郎という人物がいる。明治十年に日本語をドイツ語で引ける『和独対訳字琳』を世に出している。
 紡績王の日比谷平左衛門とはまったく接点がない。
「学者が結びつけられないのだから、作家も難儀だな」
 そう呟きながら、私は日比谷健次郎の取材もつづけていた。

           *  

 日比谷健次郎は北辰一刀流の免許皆伝であり、取材するほどに「内密御用家」の動きがちらつきはじめた。
 さらに日光街道に沿った日比谷家(足立)のみならず、佐藤家(八潮)、加藤家(三郷)が、隠密御用の色合いが強まったのだ。
 ここを掘り下げるうちに、日比谷健次郎そのものが幕末の「内密御用」(隠密)と、明治に入ってからの「日独辞書作り」が分離してしまったのだ。厄介だ。とうとう健次郎は同一人物ながら、小説上のテーマが分れ、一つにならなくなったのだ。


 北辰一刀流・日比谷健次郎、  天然理心流・土方歳三 『武術英名録』にならぶ

 私は高橋さんに、こういった。
「日比谷家を一つにまとめると引受けたけれど、3つに分解してしまったよ。ひとつは日比谷平左衛門。もうひとり日比谷健次郎だが、健次郎はテーマが一つにまとまらず、幕末ものと、明治の日独辞典とわかれてしまった。ついては作品を三つに分けるから」
「三部作なの?」
「全部、ばらばらだよ。セパレートになった」
「穂高さんの好きなように書けば」
 高橋さんは、あきれ顔で、私にまる投げになった。

「実は、日比谷健次郎だけれど、幕末だけでもすごいことになるよ。たんに掘り出し物でなく、幕末史を根底からくつがえす。そんな予感がしてきた」
 私はまず「激流」という題名で、幕末の健次郎から書きはじめてみた。

 ある日、足立の日比谷家の招待で、東京国立博物館(上野)の内覧会に出向いた。そこには日本一とおもわれる雛人形が展示されていた。
 5段飾りで、内裏雛は高さ32センチある。
 徳川時代は御三家でも8寸(24センチ)以上の内裏雛は、奢侈禁止令で作れないはずだ。なぜ、こんな豪華な雛人形が足立区の郷士・日比谷家に伝わっていたのだ。

 ふしぎな疑問だった。
「日比谷家のひな人形の桐箱には、毛筆で、安政七年春三月と書かれています」
 説明者から、それを聞いたとき、私は耳を疑った。
「ええっ。安政七年上巳の節句に、桜田門外の変が起きていますよね。井伊大老が暗殺されたときですよね」
 その井伊大老を暗殺したのが、水戸藩浪士たちだ。

 徳川御三家の水戸藩といえば、有名な千葉周作の北辰一刀流だ。
「このひな人形の裏には、何かあるな」
  この内覧会には、偶然にも、私と15年ほど前に面識があった林さんが招かれていた。かれはTV鑑定団にも出演している人形の専門家だ。
「なぜ、豪農(大きな名主・郷士)の家に伝わったのか。歴史の謎ですね」
 私のことばに対して、人形専門家の林さんも同感だという顔をしていた。そして、こう説明してくれた。
「人形づくりはすべて分業です。だが、この日比谷家の五段飾りは、一体ずつ一人の人形師が造っています。5段のすべての人形が一人の手です。他には例がない。人形の着物の生地は、本物の十二単よりも豪華です。見てください。ひな形の箪笥もすごい精密です」
 林さんは立場上、日本一ですね、という私の質問には答えなかったけれど、否定はしなかった。

 東京国立博物館が一年かけて補修したものだという。学術的に価値が高いからだろう、と私はそこに執着した。
 そして、幕末歴史小説の題名を「紅紫(こうし)の館」とした。日比谷家は幕末の隠密、将軍家の特命を授かる「内密御用家」だろうと、より的を絞って取材してみた。これが当たった。
 足立区の日比谷家には一級史料がたくさんあり、これまで未公開だったが、特別に開示してくれた。
「内密御用家」を裏付ける資料が次々に出てくる。まさに、歴史ミステリーを解き明かした瞬間に思えた。
      
            *
            
 日比谷健次郎の実の伯母が、三河島でおおきな「村田屋」という植木業者を営む。その村田屋は表・裏で讃岐高松藩松平家と深くつながっていた。この藩主が井伊大老と二人三脚で政権を担っていた。ここで「桜田門外の変」へと点と点が結びつく。

 さらに老中首座・阿部正弘に見いだされた天才・鬼才の三浦乾也が、これら隠密御用家の三家と縁戚関係でつながっている。かれは名陶芸家でありながら、仙台藩で大型洋船を建造した奇才な人物だ。井伊大老とは陶芸で師弟関係にあった。乾也が伝授した陶芸秘伝書が、彦根の資料館に現存する。

 歴史ミステリーを一歩ずつ丹念に取材を重ねていくと、内密御用として日比谷家(足立)、佐藤家(八潮)、加藤家(三郷)の三家がより強く結ばれた深い縁戚関係だった。
 三家の家主はすべて北辰一刀流の免許皆伝の腕前である。この三家は影の存在として、松平太郎の指示の下で100万両の徳川埋蔵金を隠す役をになう。
 その舞台が三河島の村田家だろう。昭和(戦後)になって、この村田家から新鋳造の小判の一部が見つかっているのだから。

           *

 上野戦争(新政府軍と彰義隊の戦い)では、日比谷健次郎たち隠密御用家の面々が、戦火のなかから、寛永寺の貫主の輪王寺宮(21歳)を間一髪で救出する。
 その輪王寺宮が孝明天皇の義弟として東武天皇になった。皇位継承権は学説によって分かれるところだろう。
 ただ当時としては、西は幼帝(のちの明治天皇)、東は東武天皇という、2つの皇族を擁立した国家分断の戦争が起きたのだ(戊辰戦争)。南北朝の再来である。これまで新政府軍と旧幕府軍との戦いという一般の戊辰戦争の常識を覆すものだった。
 睦仁帝はまだ天皇になっておらず、皇太子である。

 東武天皇が慶応3(1868)年3月に、元号として「延壽」を発布していたのだ。(明治の元号は慶応4年9月8日からである。この間は「延壽」であった)。
 こうした新発見の連続になった。

           *  

 日比谷健次郎を追求するほどに、德川側の視点からみた幕末歴史小説が斬新な作品になっていく。執筆中に、芸州広島藩・新機隊の隊士の史料から、えっと驚くべき、歴史的事実が出てきた。
 東武天皇が発布した元号「延壽」が一般にも使われていたのだ。それも西側の、広島からである。こんな偶然は、神がかりにしか思えなかった。
 歴史的な事実として認めれば、慶応、延壽、明治と元号の書き換えが起きるかもしれない。

「紅紫の館」の「あとがき」を書く段になり、神機隊の隊員が記した「関東征旧記・延壽元年」を証拠(エビデンス)写真として載せた。
 思うに、明治時代の薩長政権とすれば、徹底して抹消した元号『延壽』だったはずだろうが、こんな偶然から令和2(2020)年によみがえるとは口惜しいだろう。政治上の巧妙な隠ぺい策はどこかで残っているものだ。

「穂高健一ならば、掘り下げた取材をするから、とてつもない掘り出し物がでてくるよ。きっと」
(高橋克典さんという作家の勘が当たったな)
 この仕事を当初は断ったという経緯が、私の脳裏によみがえってきた。これはエッセイとして書き残しておこうと考え、ここに記した。

                     【了】

  写真提供 = 日比谷二朗さん
  写真(輪王寺宮・東武天皇)はウィキペディア 
                 

「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた (上)

 小説がときに歴史の定説を変えることもある。それらは意外にも、偶然から生まれた作品に多い。

 戊辰戦争は、「新政府と旧幕府軍の戦い」と刷り込まれている。私自身も信じて疑わなかった。
 しかし、このたび歴史小説「紅紫の館」を書くうちに、戊辰戦争は南北朝時代(後醍醐天皇と足利尊氏の戦い)に似た、天皇家の戦いだったとわかった。
 つまり、京都の幼帝(のちの明治天皇)と東の東武天皇(21歳・孝明天皇の義弟)の戦いであった。

 江戸城無血開城の日に、徳川慶喜は水戸に引っ込んだ。旧幕臣も奥羽越連合ももはや慶喜を見棄てていた。かれらは東武天皇を擁立した東日本政府樹立の戦いであったのだ。
 私が「紅紫の館」を執筆しなければ、東武天皇とか、元号「延壽」とか、闇に消えたままで聞くこともなかっただろう。

         *

 一般読者には、作家の裏舞台ともいえる執筆の動機など、あまり知る機会がないとおもう。一つのエッセイとして紹介してみたい。まさに、偶然の連続であった。

 ちょうど1年前の令和2年1月5日だった。日暮里の居酒屋で、高橋克典さん(日本作家協会・理事)から、
「前にも話したけれど、日比谷家について書いてみない?」
 と話題がそちらに進んだ。
「先祖をよいしょする歴史小説など、書きたくないよ」
 私は難色を示し、断った。
「3か月前(10月)に、いちど電話で話したように、徳川・明治に詳しい作家じゃないと書けないとおもう。うちの日本作家協会には書き手はいろいろいるけれど、この作品は穂高健一しか書けない」
「おだてないでよ。ところで、東京の日比谷公園など、全国に名の知れた地名があるけれど、そこと関係あるの?」
「そうらしい。聞いたところによると、鎌倉末期から室町時代までさかのぼれば、日比谷が先祖の発祥の地らしい。東京湾はそのむかし日比谷湊と言われていたようだ」
 高橋さんはすでに同家の方々と2、3度会ったうえで、私に話を持ち込んできていたのだ。
 

         日比谷健次郎は北辰一刀流の免許皆伝だった

 徳川家康が江戸に入府してきた。多くの武家屋敷の拡張工事で、日比谷郷の人たちは武蔵国足立郡(足立区)に移住させられた。そこで新田開発をおこなった。千代田さん、牛込さん、飯倉さん、という名字の方々もおなじで、豪農として、名主(庄屋)として、関東地方に定着したという。

「この話しの発端は、ゴルフ場で、日比谷という名字の方が出会った。『あなたも、日比谷さんですか』と言い、話すうちにルーツは日比谷郷だとわかった。しかし、江戸時代の中期あたりから分化しらしいたけれど、そこらはわからない。『日比谷という名字は少ないし、いちど声がけして会ってみましょうよ』となった」
 7、8人が都内で会った。かれらの曽祖父あたりに「日比谷平左衛門」という明治の紡績王がいる。日本で初めて和独対訳字琳』(日独辞典)を作った日比谷健次郎がいる。
 ともに、ルーツは戦国時代の日比谷郷だという。菩提寺も同じ。だが、幕末・明治のころになると、有力に結びつけるものがない。最近は個人情報保護法で、お寺も過去帳を公開しない。学者に当たってみたが、明確なエビデンス(証拠)がない。
「ここは想像で書ける作家に、結び付けて、本にしてもらおう」
 それが高橋さんのところに持ち込まれた経緯だった。
 
            *    

 高橋さんは徳利を傾けながら、こういった。
「穂高健一はお金で筆を曲げない、ゴーストもやらない。自分の名前でしか書かない。それは日比谷家の人たちに伝えているよ。書きたいように書いてよ」
「高橋さんは、もう引き受けてきたんじゃないの」
「まあね。これは勘だけれど、この日比谷家は穂高健一にとって、大きな掘り出し物になるよ」
「作家の勘も当たることがあるからな」
 私は2022年に、幕末歴史小説の新聞連載(日刊)が入っている。連載が決まった当初は、阿部正弘を予定していた。あまりに先になるので、書下ろし「安政維新」(阿部正弘の生涯)の単行本で出版した。別企画(京都と江戸を舞台)は新聞社に了解をもらっている。
 2年間先まで、ずっと取材に没頭するわけではない。一年間ぐらいは日比谷家の作品は書けなくもないと、私の気持ちが傾いた。

写真提供=日比谷二朗さん


                    【つづく】

12月8日は真珠湾攻撃。歴史の歪曲は国民のためにならない。阿部正弘を考える ④

 阿部正弘は、日本を豊かで強い国にするために、安政2年に富国強兵策を柱とします。大船建造の禁を解き、日の丸の制定、海外渡航も認め、通商条約も唱えます。いっそうの人材の抜擢と、人材育成に力を注ぎます。

 矢つぎ早に、長崎に新設の海軍伝習所(海軍兵学校)、講武所(陸軍士官学校)、番所調所(東京大学の前身)などを設立します。

『西洋の植民地主義とは、1か国が一つの国を支配するものだ』
 わが国が西洋5か国に対して同年同月に通商条約を結べば、殖民地にならないですむ。むしろ、日本主導で通商条約が締結できる、と知的な戦略を立てたのです。
 阿部正弘は享年39歳の若さで死去します。

 阿部の遺志を継いだ5人の外国奉行は三か月以内に、5か国と修好通商条約を結びます。輸入関税として食品は飢餓を回避するために5%で、全般は20%、酒は35%に決めました。

 当時のアジア・アフリカなどを見渡せば、清国は一律5%、インドは2.5の低関税です。日本はとても有利な通商の条件だったのです。ワイン輸出国のフランスは今もって当時の日本には35%の不平等条約を結ばされたと言っています。

 しかし、私たちはなぜ日本が不平等条約を結ばされたと教わっているのでしょうか。

 
 文久3年(1863年)に長州藩の過激攘夷派が馬関海峡で、アメリカ、フランス、オランダの船舶に無差別攻撃し、4か国連合艦隊に敗北しました。
 戦争の賠償責任から輸入関税を5%に引き下げられてしまったのです。結果として、明治政府は「天に唾を吐いた」と同様に、不平等条約に苦しむことになったのです。

            *

 現在は薩長史観の見直しがはじまり、幕末の歴史認識も変わってきます。
 かつては西洋に蹂躙(じゅうりん)されたとする阿部正弘ですが、日本側は、ペリー提督と対等に外交交渉したと史料が出てきています。 
 明治新政府の文明開化は、徳川政権の近代化路線のもの真似だった、とも言われはじめています。富国強兵策すらも阿部正弘が安政2年に国家の柱にしたものです。その受け売りです。

 阿部正弘の人気がしだいに高まっていすます。当時のアジア・アフリカ・中南米を見わたしても、戦争をせず植民地にならず、開国・通商の道を開いたのはわが国だけです。
 
 昭和16(1941)年12月8日は、旧日本軍がアメリカの海軍基地の真珠湾を攻撃します。そこには、ペリー提督に蹂躙されたと信じてやまない国民の熱狂的な姿がありました。そうした軍国教育の下で、育った国民は何の疑いを持っていませんでした。

 太平洋戦争の敗戦で、多くの日本人は戦争の悲惨さを学びました。ただ、まだペリー提督からの幕末史が、歴史の歪曲の原点になっている、と知るべきです。

 日米のあけぼのは、それよりも100年前の弘化2(1845)年のアメリカ捕鯨船が、鎖国日本への恐怖を押して、日本人遭難民22人を送り届けた。それを人道的に受け入れた。
「釜石の親も見捨て孤児ならば、幕府が救うだ。長崎に回航していれば、10歳の命は持たない。浦賀で引き取れ」
 古い体質の幕閣、大目付役を左遷してまで、26歳の青年の老中首座・阿部正弘の人道的な決断から、日米の近代史がはじまったと、再認識するべき時に来ました。
  
 21世紀の現在、天然資源のない日本が人材資源をもって世界貿易のなかで、戦争せず、高度な社会を維持できています。この原点は、人材育成で国家の繁栄を尽くすという阿部正弘の施策に通じています。
 阿部正弘が誇りに想う時代になってきたのです。
 
 かたや、現在の私たちすらも、軍国主義の明治政府がわい曲した史観からも抜け切れておらず、アメリカ艦隊のペリー提督が浦賀沖に現れた『幕末は発丑から(1853)年』と信じています。
 明治時代から太平洋戦争の終結まで77年間です。終戦から2020年まで75年です。ほぼ同じ歳月です。
 明治政府が行った歴史の歪曲は国民のためにならない。最悪の結果で、日米の大戦争にまで発展してしまった。
 日米の夜明けはマンハッタン号の浦賀入港(1845)年からです。
 あらためて、歴史教育の重さを考えてみましょう。

 写真=ウィキペディア(Wikipedia)

                            【了】

12月8日は真珠湾攻撃。歴史の歪曲は国民のためにならない。阿部正弘を考える ②

 阿部正弘は、備後福山藩(現・広島県)の藩主です。江戸時代後期に、21歳で寺社奉行、24歳で老中、26歳で若き老中首座(現・内閣総理大臣)となり、戦争なく開国し、通商の道筋をつけた偉大な人物です。

             *

 徳川幕府は、群雄割拠の長い戦国時代のあと、250年余にわたり、平和を維持してきました。ところが、天明・天保の時代には、天候不順による大飢饉と疫病により、全国で年間に数十万人の餓死者を出しつづけました。おなじころ、中国大陸ではアヘン戦争が起こります。日本が師とあおぐ清国が、産業革命に成功した先進国の英国との戦いに大敗します。

 わが国は、このときから国内外にやっかいな問題が山積した「内憂外患」の時代がはじまったのです。

 第11代德川家慶将軍のもとで、老中首座の水野忠邦が「天保の改革」を推し進めます。その改革に失敗し、国民の信頼を失って失脚します。
 家慶将軍は26歳の阿部正弘を大抜擢し、老中首座に据えます。弘化2(1845)年2月です。時おなじく同月に、阿部正弘はいきなり国際問題に向かい合います。

           *  

 アメリカ捕鯨船マンハッタン号のクーパー船長が、鳥島で日本人遭難者11人を救助し、捕鯨を中断して、鎖国主義の日本に送りとどける決意をしました。むかう洋上で、釜石の難破船を発見し、乗組員11人を助けます。計22人の日本人を乗せて房総沖までやって来ました。

 船長は身振り手振りで、4人の日本人遭難者を下船させました。かれらは浦賀奉行所、および江戸の清水徳川家に連れていかれます。そこで、「異国の捕鯨船に助けられた。沖合の船には日本人遭難者が18人おる」と申し出ました。

 報告を受けた阿部正弘は、老中首座の立場で評定所に諮問します。幕閣たちは「マンハッタン号は浦賀に入港させず、長崎に回航させよ。従来通りの手順を踏ませよ」という意見です。

 釜石の遭難船には十歳の孤児が乗っていたのです。釜石の入港中に、孤児に食事を与えたら、出航でも下船せず、そのまま乗せていたら難破したという。
 250年間つづいた徳川幕府は旧態の体質ですから、幕閣のほとんどが浦賀入港に強い反対です。阿部には旧い仕来りを打ち破る強さがありました。

「親が見捨てた孤児ならば、幕府が救う」
 阿部正弘は人道主義から、長い慣例を破り、アメリカ捕鯨船を浦賀港に入港させて22人の日本人遭難民を引き取ったのです。
 このように、ペリー来航8年前に、アメリカ捕鯨船が浦賀に入港していたのです。

 翌年には、クーパー船長の情報から、東インド艦隊のビットル提督が、アメリカ大統領の国書をもって浦賀港に入港してきました。黒船来航の7年前です。
 正弘はアメリカ国書の受理を拒否しましたが、薪、水、食料を満載させて丁重に帰ってもらっています。その後も、デンマーク軍艦が三浦半島沖、イギリスの海図作成の測量船が下田、伊豆大島にやってきます。

 一方、アメリカ人冒険家のマクドナルドが利尻島に上陸してきました。阿部はかれを長崎に移送させたうえで、オランダ語通詞たち14人に英語を学ばせました。かれらは約10か月間、昼夜なく、生の英語を聴き取れるヒアリング力を身につけたのです。
 それゆえに、ペリー提督の来航時には、日本人通訳たちは英語が話せたのです。

            *

 19世紀になると、東南アジアでは英字新聞が発行されました。その記事情報が毎年オランダ貿易船で、徳川幕府に届けられていました。阿部正弘たち幕閣は豊富な世界情報をもっていたのです。
 ロンドンの産業博覧会、ドーバー海峡の海底通信の開通、スエズの鉄道開通、蒸気船の運航、サンフランシスコの大火など、政治、経済、文化の多岐にわたっています。
 世界の潮流は通商・交易にある、と阿部は国に腹を決めていました。一方で、水戸藩の徳川斉昭が、列島の近海に異国船が現れるたびに、「大和魂で打ち払え」と過激な攘夷運動を全国に展開していました。

「アヘン戦争のような戦争でなく、優秀な知的人材でわが国を守る」
 徳川政権は古い家柄、世襲を重んじる旧態とした体質です。世襲制にしがみ付きたい幕閣ばかり。しかし、阿部は慣例を破り、大胆な人材の抜擢を行います。江戸時代後期は、最も優秀な人材が発掘・登用されたといわれています。

 オランダ商館長から1年後の嘉永6(1853)年、にアメリカ東インド艦隊のペリー提督が日本にやってくると、通告を受けます。
 アメリカの目的は、西海岸との中国の太平洋航路を開設するために、蒸気船の石炭貯蔵地を日本にもとめるもの。もう一つはアメリカ遭難船の人道的救助の要請。その趣旨を記した大統領国書をもってくるという内容でした。艦隊の艦船名、種類、大砲の数など情報は正確でした。

    写真=ウィキペディア(Wikipedia)
                         【つづく】
                            

12月8日は真珠湾攻撃。歴史の歪曲は国民のためにならない。阿部正弘を考える①

 わが国には国難を救った人物が二人います。ひとりは鎌倉時代に2度の蒙古襲来に立ち向かった鎌倉幕府の執政・北条時宗です。もうひとりは徳川幕府の老中首座・阿部正弘です。

 明治時代になると、約77年間にわたり太平洋戦争の終結まで、十年に一度は海外戦争をする軍事国家になりました。
 ふたりの偉人は明治以降の軍国主義の為政者たちに利用されました。

 北条時宗は「神風」を呼び起こし、蒙古軍を打ち破った英雄です。日本は戦争すれば、かならず神風が吹く。それが軍国少年の教育に使われました。記憶に新しい、「神風特攻隊」という若者の命を奪うものでした。

           *

 明治政府は『幕末は発丑から』と定義しました。発丑(きちゅう)とはアメリカ艦隊のペリー提督が浦賀沖に現れた1853年のことです。その意図は何か。
「黒船が来航すると、阿部正弘は優柔不断でペリー提督に蹂躙(じゅうりん)されて開国した。幕府は西欧列強と不平等な通商条約を結ばされた。そんな無能な徳川政権だった。だから、薩長が主体で討幕し、新政府をつくった」
 外国人を敵視した過激攘夷派が戊辰戦争を経て、明治新政府を樹立しましす。そして、軍事力で西洋列強にならぶ国策を取ります。

 とくに、日清・日露戦争からアメリカを仮想徹国にします。ペリー提督への砲弾外交で開国・不平等条約を押し付けられた。その「怨念」(おんねん)があると言い、アメリカ敵視の教育に利用されたのです。
 日本は武士道と大和魂でアメリカを打ち負かす。ほとんどの国民が教育で信じ込みました。昭和16年12月8日には、ついに真珠湾攻撃、太平洋戦争にまで及びました。
 この原点は『幕末は発丑(きちゅう)から』のアメリカ敵視にあるのです。 

  写真=ウィキペディア(Wikipedia)

                            【つづく】

「歴史から学ぶ」(下)加藤友三郎 = アドミラル・ステイツマン

 日露戦争で勝利したあと、日本国民は早くも日米開戦を叫びはじめた。広い大平洋の西と東である。当然ながら、陸軍でなく、日本帝国海軍への期待が高まった。

 太平洋戦争の真珠湾攻撃の原点は、日露戦争の終戦処理からはじまったのである。その理由をあげてみると、
 
 当時、世界最強というバルチック艦隊を撃破したと、日本国民は完ぺきな勝利だと酔っていた。その実、日露戦争は終了していなかったのだ。

 日本は多大な戦費から財政が悪化していた。多額の増税・国債、外債の増発が次つぎになされていた。それは国家予算の6年分に相当した。もう日露戦争の継続は無理だった。(メディアはこれを報じていなかった。敵国に日本の不利な情報を与えるから、と)
 ロシアがわも、血の日曜日事件など革命運動が激化していた。


 双方とも戦争の継続が困難な状態に陥っていた。それこでセオドア・ルーズベルト米大統領が、停戦へと乗りだしてきたのだ。

 日本の大半の大手新聞は、10年前の日清戦争では清国から膨大な賠償金が得られているから、この日露戦争の戦費は膨大だし、それに見合う賠償金が取れると予測した、派手な記事を連日掲載しつづけていた。
 ある報道では、『賠償金50億円、遼東半島の権利、旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡』と個人の予測を掲載し、国民の期待を高く誘導していた。希望的観測が高いほど、個々の新聞が良く売れる。

 この過剰期待がおおきな失意と、反米感情をあおる要因となった。

 日露はアメリカのポーツマスで、講和会議に入った。
  ロシア側は賠償金の支払いをいっさい拒否した。理由は、戦場は満州南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく攻撃されていない。ゆえに賠償は生じないというものだった。

 日本の全権・小村寿太郎は、これ以上戦争の継続はできないと、
 樺太の南半分の割譲
 大韓帝国にたいする指導権の優位
 この点を認めさせることで、講和条約に調印したのだ。


 戦勝気分だった国民は、ポーツマス条約で落胆の底に突き落とされたのだ。
 戦争の戦費による増税の圧迫に苦しんで耐えてきたのに、ロシアから賠償金が皆無だったと、国民の不満が一気に高まり、ポーツマス講和条約の反対を唱える大暴動が起きた。

 東京では、「日比谷公園焼き討ち」だった。民衆が日比谷公園に侵入し、皇居前から銀座方面へむかい、新聞社を襲撃した。内務大臣官邸には抜刀した5人組が襲撃した。交番、警察署なども破壊された。市内の13か所以上から火の手が上がった。まさに、無政府状態に陥った。

 激怒した群衆は、講和を斡旋したアメリカに攻撃の矛先をむけた。東京の駐日アメリカ公使館が襲われた。アメリカ人のキリスト教会までも襲撃の対象となったのである。

 国民の批判は、賠償金を払わなかったロシアよりも、講和をあっ旋したアメリカへとむかった。アメリカの立場とすれば、まさに逆恨みであった。
 ここに対米不信から対米戦争へと、過激な対米攻撃が生まれたのだ。
 日本は大国を相手にしても勝てる。建国から一度も敗けたことのない国だ。その自負心から、対米戦争の期待が国民に根付いてしまったのである。

『大国のロシアに勝ったのだ。アメリカを相手にしても勝てる』
 そこには日英同盟への期待という背景があった。日本はイギリスと日英連合艦隊で、アメリカ艦隊と戦えば、これならば海戦で勝てる、と思い込んだのである。
 


 政府を攻撃する暴徒の渦が大阪、神戸、横浜と全国に拡大していった。戒厳令がだされて鎮圧された。一方で、内閣は倒れた。
 ただ、対米戦争の期待の芽は、そこから摘み取れていなかった。

 内閣が国民に眼をむけて、「対米戦争の期待」に応えようとすれば、海軍力の強化が必要になる。形であらわす。アメリカが新たな仮想敵として、対抗戦力の整備目標の検討がはじまったのだ。基本は太平洋におけるアメリカとの海軍力の対比だった。
 2年後、明治40(1907)年には「八八艦隊」(戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻)が帝国国防方針として示された。これが日本海軍の基本だと長く底流にながれつづけた。

           *
 
 日英同盟の期限は10年だった。第一次世界大戦で、日本がこの同盟を利用して、青島のドイツ軍を攻めた。
 当のイギリスはヨーロッパ戦線で甚大な被害を受けているのに、日本が『漁夫の利を得た』と条約継続は不可だと臭わせはじめた。
 となると、日本は独自に対米開戦を組み立てる必要が生じてきた。

 加藤友三郎は海軍大臣に着任すると、明治40(1907)年から対米戦争を前提にした「八八艦隊」の構想の実現に着手したのだ。
 毎年、軍艦を2隻ずつ作りつづけてみると、維持費の累積が膨大になり、国家の財政が破たんしてしまうと、加藤は考えはじめた。この作戦はどこかで終止符を打つ。
 
 イギリスとアメリカから「ワシントン軍縮会議」の提案があった。これはビッグチャンスだ、多少の妥協はあっても条約締結につなげていく、と加藤は決意をもって臨んだのである。

 原敬首相が青年に東京駅で暗殺された。

 となると、責任の一端を首相にふれない。加藤友三郎は主席全権として全責任をもって同条約を締結する、それには仮想敵国アメリカとの対米戦争の棚上げの覚悟が必要だった。

 このときの口述が書き残されている。加藤の考え方がよく解る。

①『国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。

② 仮に軍備が米国と同等でも、日露戦争のごとき少額の金では戦争はできない。

③ 戦争をやるのに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかし、その米国が敵であるとすれば、この途は塞がる。

④ 結論として、日米戦争は不可能である。
 
⑤ 国防は国力に相応ずる武力を備うる、と同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

 ①~⑤は対米戦争の全面否定である。

 加藤でなければ、軍令部など抗戦派の反対を抑え、平和・軍縮条約締結にまでこぎつけることはできなかっただろう。

            *


『加藤友三郎が内閣総理大臣になり、現職で亡くなったことから、内閣としては短命だった」
 だが、その短い期間内に、
 陸海軍の大胆な軍縮
 シベリア撤兵の実行
 日ソ国交樹立の先鞭をつける
 などと外交面の功績が極めて大きい。

 加藤友三郎の知名度はさほどなくても、歴代首相のなかでも、歴史的評価は高いものがある。

 当時、ワシントン軍縮会議の条約参加国から、「アドミラル・ステイツマン」(一流の政治センスを持つ提督)と海軍の知性派として高く評価されていたのである。


日露戦争の旗艦・三笠

【加藤友三郎の横顔】

 広島藩浅野家臣、長兄の加藤種之介は20歳で、弟の友三郎は3歳で、父親の加藤七郎兵衛(53)を亡くした。父の加藤七郎兵衛は儒学者だった。路地奉行で学問所でも藩校の世子(浅野長勲)に講義した。

 兄の種之介(写真・中央)は弟の友三郎(写真左)を加藤家の養子にし、父親代わりで生活の面倒をみていた。
 友三郎は幼年期に広島・修道館(現修道学園)で山田十竹らに学びんだ。


 父・加藤七郎兵衛の教え子には、優秀な家臣が多い。執政(家老)の辻将曹は薩長芸軍事同盟を成立させ、かつ慶喜に大政奉還を為さしめた。

 若きエリートたち高間省三、加藤種之助、船越陽之助、川合三十郎、橋本素助らが「神機隊」を立ち上げた。そして、神機隊は選抜320人をもって戊辰戦争に自費で参戦した。
 上野戦争、奥州戦争と激戦のなかで、死を恐れず、最大の犠牲者を出しながらも、剛毅不屈の進軍していった。

 砲隊長の高間省三が、浪江の戦いで敵の銃弾で死す。それでも、かれらは目標とした仙台藩陥落の執念で北に進攻していった。
 第一小隊長の加藤種之助(25)は、駒ヶ峰の戦いで傷を負いながらも、仙台藩を打ち破るおおきな成果を出している。

                *            
 
 陸軍中尉だった加藤種之助が明治5年、なぜか海軍の少尉に変わっている。東京に出てきた。加藤兄弟はともに築地の東本願寺に寄宿した。

 翌明治6年、友三郎(13)は官費の海軍兵学寮(海軍兵学校・写真)の受験に合格し、入学した。この年から入学が15歳から13歳に引き下げられており、友三郎は最年少だった。
 海兵7期生で成績は2番で卒業している。

 海大に学び、日清・日露戦争では砲術長、参謀長として参加した。
 日本海海戦時で、加藤友三郎は連合艦隊の参謀長であった。戦艦「三笠」の艦橋に立ち、東郷元帥の横で司令していた。

 明治39(1906)年、海軍次官になる。

 明治42(1909)年 呉鎮守府司令長官に着任する。

 大正2(1913)年 第一艦隊司令長官 青島でドイツ軍と戦う

 大正4(1915)年から海軍大臣で、「八八艦隊」の政策の推進者になる。

 大正12(1923)年8月24日、現職の総理として死去した。
 それは大正関東大地震の8日前だった。

・2008年、広島市中央公園内に、ワシントン軍縮会議時のフロックコート姿の加藤の銅像が新しく建立された。

・広島・呉市においても、銅像の建立がすすめられている。

写真 = ネットより引用させていただきました。

                               【了】

「歴史から学ぶ」(中)加藤友三郎 = 世界最大規模の軍縮を達成させた海軍大臣

 大正10(1921)年10月15日、加藤友三郎(ともさぶろう)が日本首席全権委員、全権委員の徳川家達(いえたつ)、そして随行委員など含めた63人が横浜を発った。
 ワシントンで、全権委員となる駐米大使の幣原(しではら)喜重郎と合流した。

 日本全権委員は加藤友三郎、徳川家達、幣原喜重郎の三人である。そのなかでも、加藤が主席である。

 大正10年(1921)年11月11日~翌年2月6日まで、米国のワシントンD.C.で「ワシントン軍縮会議」が開催される。
 そのなかで主要な討議は、五か国の戦艦、航空母艦など海軍の軍縮問題である。とくに、英米日の三か国の軍縮が中心だった。
 海軍力の弱いフランスとイタリアはさして議論にならない存在である。

 

 全権の加藤友三郎の同会議での処し方からすると、英米10にたいして対7割、妥協して6割でも決着をつける、と出発前から、この軍縮会議を成功させると、原敬首相と決めていたのではないだろうか。

 明治からの「八八艦隊(はちはちかんたい)計画」は、大正時代も引き継がれた海軍の理想像となっている。しかし、軍艦が大型化するにつれて、建造費もうなぎ上りになる。
 8年過ぎた戦艦も第二線級として保有し続ける必要がある。(主力艦運用年数は24年である)。
 つまり年々、保有戦艦が増え続けるのである。並行して海軍の兵員数の増加、維持費の増大、人材養成も累積されてつづけていく。
 これらはすべて膨大な海軍予算の増加となる。と同時に、国家の財政圧迫になってきている。もはや、日本の国力を越えるものだ。軍事拡大競争が、日本経済を破綻させる。

 ここらで「八八艦隊計画」から脱皮する必要があると、加藤友三郎が考えても不思議ではない。むしろ、あるべき姿だ。

 国内の議会で海軍予算案を縮小するとなると、正当な理由が必要だ。この軍縮会議がよいチャンスである、と加藤は考えたとおもわれる。

 ふだんの加藤友三郎は軍服で押し通しているが、ワシントンでは山高帽をかぶったスーツ姿だった。
 胃炎で感情が顔に出やすく、しかめ面が多い加藤友三郎だが、この会議では終始ニコニコ顔で振るまっていたという。
 それはぜひ軍縮を世界規模で、成功させたい信念がそうさせたのだろう。少なくとも、日本がごねて会議から抜ければ、この世界規模の軍縮は破たんするのだから。

 この軍縮会議に入る直前(ワシントンに到着した2日後)、加藤友三郎たちに訃報が飛び込んできた。

 大正10年11月4日午後7時10分、原敬首相(写真)が東京駅で、大塚駅に勤務する19歳の青年に短刀で、胸を刺されたのだ。医師の手当てを受けたが、心臓内出血でまもなく絶命した。

           *

 加藤友三郎は首席全権委員だ。本国の原敬首相につど打診がいっさい叶わない。すべて自己責任で処していくしかない責務を負った。それは表現できない重圧感だろう。
 月並みな表現でいえば、「背水の陣」でのぞむ。それゆえに微笑をふります。好印象をつくる。   

 会議は、5か国の軍艦の建造競争を抑制するために、厳しい制限を加えたものだが、各国の思惑が飛び交う。
 アメリカにおける加藤友三郎の評判は高く、誠意と信頼のおける人物だと評されている。
 
 日英米の3か国において、主力艦の制限の枠組みについて討議された。建造中の軍艦はすべて破棄する。それも前提になった。
 当初の日本は英米七割を要求していた。しかし、加藤は最終的に6割で妥協した。

①主力艦は、米英はともに50万トン、日本は日30万トンに決った。
  つまり、英米の六割である。

② 建設中の軍艦はただちに破棄する。

③ 戦艦の新造は、条約締結後から10年間は凍結する。

④ 1艦あたり基準排水量3万5000トン以下、主砲の口径は16インチ以下とする。

 加藤は首席全権委員として、「日本は米英と同等の軍備を保有する必要はない。6割で応じる」と表明したとき、会場から大喝采となった。
 5大海軍列強国は建艦競争を抑制するために、日本が戦艦等の建造に厳しい制限を加えることに合意したからである。 まさか、日本が譲歩するとは考えていない節があった。

 史上初のおおきな軍縮が成立した瞬間だった。
 

『他にも決議された項目がある』

・イギリスは、日米が戦争になれば、巻き込まれたくなかったのだろう。
「ロシアのアジア南下政策の侵略脅威がなくなった無用な条約だ」とイギリスから、日英同盟の破棄の要求があった。大正12年8月17日をもって破棄させられた。

・日本はシベリア出兵に野心は持っていない。適当な協定ができれば、撤兵する。約束通り、加藤友三郎が総理になると、撤兵に踏み切った。

・山東省問題は難航した。
 原敬首相は暗殺されている。全権となった加藤友三郎は、日本に問い合わせる相手はいない。この難儀な中国問題の解決が任されたのだ。

 第一次世界大戦で、日本軍が青島でドイツ軍に勝利し、旧ドイツの山東省の租借地を奪ったものだ。

 しかし、中国がわの主張は、旧ドイツ権益は日本に譲渡されたものでなく、直接、中国に返すべきだものだと主張した。
 これには大隈重信首相から大正4年に『対華二十一カ条要求』が出されているので、それがおおきく絡んでいる。
 
 欧米からみれば、第一次世界大戦で、欧州でドイツと戦っているさなか、日本が日英同盟の名のもとに軍隊を派兵し、強圧で中国から青島と膠州湾が奪ったものだ。それは《火事場泥棒》だ。中国の主張に正当性がある。
 このように当初から、むしろ大隈首相時代から歴史的にも、とても評判が悪い。
 
「ワシントン軍縮会議」に参加してきた中国代表は、ここぞとばかりに、山東省の全面返還を求めてきたのだ。
 アメリカがふたたび日本の《火事場泥棒》だとして中国に味方した。

 ワシントン軍縮の席で、日本側の全権委員はもう軍縮会議を破棄できない。中国の主権独立を尊重し、領土的、行政的な保全を認める、とした。
 これはアメリカが唱える《中国の門戸開放、機会均衡》の原則も組み込まれたものだ。

 中国の領土的保全は、昭和6年9月の満州事変以降、つねに日本の中国侵略のブレーキをかけてきた。国際連盟でも、中国の領土的保全が問題となり、日本が孤立化へと進むことになった。

 とくに日本が中国大陸に擁立した「満州国」という別国家の独立は、国際連盟の全体会議で、全世界から途轍もなくバッシングをうけた。

 当時の松岡外相がその場がいたたまれず、日本が常任理事国にもかかわらず、かれの独断で国際連盟を脱退した。その感情的な独断が日本で追及されると怖くて、松岡はしばらく帰国できなかったという。

 あえて、加藤友三郎の軍縮会議の平和志向と比較してみると、世界会議の場における松岡外相の独断的な態度は、日本国民を悲劇にみちびくおおきな要因だったともいえる。
 
 その先、太平洋戦争に突入してからも、日本と世界の戦争を止めさせようとする、仲介国(進んで労をとる国)が一か国も現われなかった、という悲劇につながった。余談だが、日本は最後の最期でソ連に仲介をたのんだけれど、裏をかかれて、千島列島の侵攻に及んだ。

                *

 加藤友三郎たち「ワシントン軍縮条約」を締結して日本に帰った。主力艦保有量を対米6割に抑制されたことに一定の不満は抱いたものの、「八・八艦隊計画」が、実現を目指すほどに国家財政は破たんにつながると誰もが解っていた。

 野党は議会で、加藤友三郎に、なぜ7割でなく、6割で妥協したのかと、通り一遍の質問だった。

 建造中の戦艦「陸奥」はスクラップを要求されだが、完成していると押し通すことで、6割で妥協したと加藤は応えた。
 そのほか、アメリカとか、イギリスとかの交渉プロセスを説明した。

 日本の野党はさしたる追及をしてこなかった。同条約は批准された。

                *

 ワシントン軍縮条約の期限は、昭和11(1936)年であった。

 日本は昭和8(1933)年3月の国際連盟を脱退した。翌昭和9(1937)年7月には、帝国弁護士会が条約廃止通告を求める声明を発表した。政府は1同年2月に条約の破棄を通告した。(破棄通告後二年間は有効)。

 昭和11(1936)年12月に本条約は失効した。ここから、無制限の建造艦の競争時代に入った。そして、4年後に太平洋戦争に突入したのである。

   写真 = ネットを使わせていただきました。

                       【つづく・加藤友三郎の横顔】

「歴史から学ぶ」(上)加藤友三郎 = 世界最大規模の軍縮を達成させた海軍大臣

 明治・大正時代の庶民生活が知りたくて、「台東区立下町風俗資料館」(上野公園内)に出むいた。上野・浅草の暮らし、生活道具、風俗など日常生活が展示されている。遠い存在でなく、「懐かしいな」と思うものが沢山あった。

 身近な生活も、歴史の断絶がなく、連続していると実感した。ふと脳裏をかすめたのが、スペインかぜが世界戦争を止めさせ、なおかつ史上最大の「ワシントン軍縮」を成功させたという歴史だった。
 新型コロナは世界経済を疲弊されている、いまこそ軍縮の最大の好機ではないかな、と思った。

             *
             
 大正時代はわずか15年間であるが、この間には第一次世界大戦、スペインかぜ、大正関東大震災と、三つのおおきな出来事が起きている。「大正ロマン」という用語が浮かぶ。月の砂漠、浜辺の歌、城ケ島の雨、朧月夜、浜千鳥、ペチカなどの唱歌はいまも耳にすることがある。

 世界をみわたせば、第一次世界大戦が勃発し、欧州戦線では多大な戦死者をだしていた。全世界で戦死者は2,711万人にも及んでいた。その上、スペインかぜが猛威を振るい、「これ以上は戦争が続けられない」とパリ講和会議による終結を早めさせた。 

 主要国はイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の5か国だった。全世界では33カ国の参加である。米国ウィルソン大統領は、ドイツへの領土割譲、賠償金要求には強く反対していた。

 ところが、パリでスペインかぜに罹患し、気力を失くしてしまった。ヨーロッパ戦勝国は秘密裏に会議を進めており、ドイツにたいして天文学的な賠償金を課した。そして、1919年6月28日にフランスで「ヴェルサイユ条約」が調印された。

 ヨーロッパ各国が決めた膨大な賠償金が、後年、ドイツに国粋主義のナチスを台頭させて、第二次世界大戦へとつながってしまった。

 パリ講和会議で、ウィルソン米大統領が提案した国際連盟が発足した(アメリカは議会で批准できなかった)。
            *

 わが国は日露戦争の日本海海戦においてバルチック艦隊に勝利し、世界第三位の海軍力になっていた。海軍は花形で華やかな光を浴びていた。

 しかし、第一次世界大戦で、日英同盟にもとづいて青島(中国)のドイツ軍を攻撃して勝利した。結果として、最小の犠牲で、大きな利益を得た「漁夫の利」として、世界からは「好戦国日本」の悪印象を与えていた。

 明治40年に、わが国は中国問題から対立を深めていたアメリカを仮想敵国とした「八八艦隊(はちはちかんたい)計画」を国防方針にした。
 アメリカはダニエルズ計画で、超ド級戦艦(どきゅうせんかん・巨砲の搭載)を16隻そろえる三年計画をもっていた。
 日米はともに海軍の軍備拡大競争をやっていた。

【八八艦隊計画とは】

「艦齢(建造から)8年未満の主力戦艦が8隻、および巡洋戦艦が8隻とする」。毎年2隻の新造艦を起工し続けることとなる。


 加藤友三郎(広島市出身)が、大正4(1915)年に第2次大隈重信内閣の海軍大臣に就任した。同時に、海軍大将になった。
 その後、寺内内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣で兼務(現職で亡くなるまで)連続して海軍大臣に留任している。

 加藤は海軍大臣として軍事強化の最先端にいた。第一次世界大戦の好景気を背景に、大正5年、6年はまず「八・四艦隊案」を議会に通過させた。

 その後も加藤は八・八作戦の推進者の立場から、大正7年「八・六艦隊案」、大正9年度の「八・八艦隊案」と、毎年、斬新的に予算の増額を要求して通過させてきた。

 日本海海戦では旗艦・三笠に乗り、東郷元帥の横(東郷元帥の左)で、参謀長として勤めていた。『日本海戦史』などでは、加藤参謀長よりも、部下になる秋山参謀のほうが天才的な戦術家だった。秋山参謀のほうが敵艦の動きにたいする読みとか、作戦とか勝っている、という記載が目立つ。

 加藤友三郎は、戦争の勘とか閃きとか戦術家よりも、軍政畑の腕の良い人物だったのだろう。
 一方で、日本海海戦は下瀬雅允(まさみつ・広島鉄砲町出身)が発明した下瀬火薬が、バルチック艦隊を粉砕した。秋山参謀の称賛よりも、下瀬雅薬が勝利のおおきな要因だ、と見なす軍事専門家も多い。

 パリ講和会議から2年が経った。大正10(1921)年だった。英米が共同で『ワシントン軍縮会議』を呼びかけてきたのだ。
 というものも、イギリスは第一次世界大戦の経済疲弊から立ち上がっておらず、日米の軍拡を見過ごすと、海軍二流国になると焦りをおぼえていた。
 そこでアメリカを巻き込み、大規模な軍縮会議を呼びかけたのだ。それに成功すれば、史上最大の軍縮となる。


 会議の招集は英首相のロイド・ジョージである。参加国はイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの5か国だった。
             
 平民宰相といわれた原敬首相は、海軍大臣の加藤友三郎を日本首席全権委員として参加することに決めた。それには世間は驚いた。

「加藤海軍大臣は現役の軍人であり、軍服に人を殺す剣が下っているではないか。顧問として参加するならともかく、全権大使など、世界の軍縮の精神にそぐわない」(尾崎行雄)
 加藤のほかに、貴族院代表の徳川家達、駐米大使の幣原喜重郎という三人が全権をつとめることになった。 
「徳川公など、旧将軍さまで封建時代の遺物ではないか」
 こうした痛烈な批判が湧き起っていた。原敬首相の軍縮への本気度が問われていた。

写真= ネットより使用させていただきました。

                       【つづく】

【新事実】(下)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記

 輪王寺宮能久(よしひさ、京都生まれ・21歳)は寛永寺貫主、日光門主、全国天台宗の座主である。つまり、京都の比叡山も統括するほど、絶大なる権限がある。
 江戸の元幕臣と奥州列藩は、ここに手を結び、慶応4年3月15日に、「東武天皇」として奉り、元号を慶応から『延壽』(えいじゅ)として布告したのである。

                   *   

 その輪王寺宮(東武天皇)は、薩摩をつよく批判している。「君奸の賊」(くんかんのぞく・二・二六事件でも使われた言葉)だと激しく攻撃している。
 京都には、「無名の天皇」および摂政も存在していないのに、慶喜追討令、錦の旗、東征令などを乱発し、3月15日を江戸攻撃の日としている。

『無名の師』(独裁的指導者による名分のない戦争)だ。

 皇族の輪王寺の立場とすれば、睦仁(むつひと)親王はまだ皇太子なのに、薩摩に利用されたという怒りがあった。そこには薩長と驕(おご)る平家と重なり合うものがあったのだろう。

 かつて孝明天皇は八月十八日の変で、これまでの勅書、詔書は毛利家による偽書であり無効とした。これと同様に、睦仁親王が天皇の即位するまで、すべてが無効である、とした。
 こうなると、東征軍としては、江戸侵攻の大義が無くなる。

 上野山にこもる彰義隊を撃つ。それは名目であり、輪王寺宮をいっしょに葬る必要があったのだ。それが刻々と近づいてきた。

                  *

 輪王寺宮「東武天皇」を奉じる智者は、徳川宗家はもはや盟主にならず、と見切ったのだ。

 徳川政権をつぶした慶喜はもう水戸に帰れ、勝海舟・大久保一翁は徳川の残務処理で江戸を火の海にしない代わりに、江戸城は明け渡してもいい。その役目の範囲内に閉じ込めたのである。それ以上は、出しゃばるな、と。

 戦争には戦費がいる。勝海舟などは2年無役であったから、江戸城の金庫の内情すら無知だったのだ。だれも勝や大久保一翁らには教えようとしない。

 東日本の雄たちは、江戸城の金庫蔵を空にしたうえ、新鋳造金をつくる金座・銀座から、ひそかに関東・東北の各拠点に移動させたのだ。

 江戸にやってきた大村益次郎は、軍資金が江戸城になく愕然としたという。大村は1日にして上野彰義隊を壊滅させると豪語していたという。
 目的は一つ、東西朝時代の到来をさける。一日にして、寛永寺にいる輪王寺(東武天皇)を殺戮する。なにしろ京都の「無名の天皇」をかつぎだし、江戸侵攻してきたのだから。大義はない。
 殺意は別にしても、寛永寺に輪王寺宮がいると、大村益次郎は知っていた、些細な理由で大規模な戦争を仕かけたのだ。

                 *

 長雨つづきの日だった。上野戦争の火焔のなかから、輪王寺宮(東武天皇)が、榊原鍵吉(江戸随一の剣豪)、三河島の植木職人、僧侶3人と巧妙に逃げている。
   
 彰義隊を攻撃した翌朝、西軍の兵士は輪王寺宮さがしに駆り出された。広島の神機隊らも加わっており、どこにも輪王寺宮が見当たらなかったと、浅野家史「芸藩志」に詳細が書かれている。

 浅草を経由し、輪王寺宮はやがて品川沖からは榎本武揚の軍艦によって平潟(福島)へ、そして仙台、会津、奥羽一帯で東武天皇として君臨するのだ。

                 *

 京都で、明治天皇が即位したのが慶応年4年8月27日で、大嘗祭は11月18日である。延壽は同年9月7日で終わっている。

 慶応時代、延壽時代、明治時代、と歴史の順番のなかに書き加えても、別に問題ないのではないか。延壽時代は約半年間だが、幕末には一年未満の元号は他にもある。

 その方が戊辰戦争はわかりやすい。
 後醍醐天皇のときに南北朝時代があり、幕末の延壽に東西朝時代があった、とすればよい。

 広島・神機隊の隊士の「関東征日記」の表紙には、延壽元年・3月15日と表記されている。いま広島の郷土史家の手元にある。
 西側の資料からでも、『延壽元年』が出てくるのである。

 鎌倉時代の年号が変わったり、聖徳太子の像が紙幣になりながらも違っていたりする。
 戊辰戦争が従来の「新政府と旧幕府の戦い」とするのはご誤認であり、延壽元年の東西朝時代に関東・奥羽越の広い範囲を戦場にした大戦争が起きたとしても、決して不合理ではない。すべて人間がやることだから。

 歴史は真実を隠さないことである。歴史は私たちの財産である。


 写真(2枚)=広島・神機隊 二番中隊 伍長・清原源作さんの従軍日記 (上野戦争に参加)