歴史の旅・真実とロマンをもとめて

下田港でアメリカ家族(男・女)を初めてみた驚き=川路聖謨

 川路聖謨(かわじとしあきら)は、幕末に活躍した人物である。1854(安政元)年に、「日露和親条約」を結び、エトロフ・国後が日本領土と認めさせた。
 大分・日田代官所に勤務する父親の長男で生まれ育った。行く末は勘定奉行(現在の財務大臣)となり、ロシアとの外交交渉の日本代表(外務大臣)にまでなった。身分制度の厳しい中で、旗本の子だった勝海舟よりも、さらに出世したといえる人物である。

 川路聖謨著「長崎日記・下田日記」を読んでいて、くすくす笑ってしまった描写がある。面白いところを抜粋して紹介したい。

 その前に背景を知っておく必要がある。日米和親条約から、ちょうど一年経った頃である。長崎、下田、箱館が開港した。捕鯨船などが薪水で立ち寄ることを認めても、居住は禁止だった。

 条約の内容を十分に理解していないアメリカ商船のカロライン・フート号が、船員の家族ら11人を下田の玉泉寺に預けて、ロシアの傭船として出航してしまった。女性は船長の妻(35)、操舵手の妻(20)、商人の妻・ダハティ(23)である。ほかに子供たち。
 下田奉行は当然ながらカリカリくる。江戸表の幕府は怒る。しかし、強制退去をさせたくても、商船がいないので致し方ない。

 この頃、日露和親条約交渉が下田で行われていた。川路聖謨が最高責任者下田にやってきた。旅日記は誰しも、めずらしい見聞を書き記す。下田日記の後半になると、アメリカ人風紀がかなり多くなる。


・弁天島に参拝した折、境内にアメリカ人夫婦がいた。(川路の)伴の中間が持参していた床几を見て、この夫婦はめずらしがり、中間から借りめと、ふたりはいろいろしたし(坐ったり)、眺めていた。

・この婦人は、容貌美麗、丹花の唇、白雪の膚、衆人の目を驚かし、魂をとばす。

・アメリカ美人は、日曜日と申すに、黒襦子の衣服を着て、大造りのかみかざりをし、顏は人形遣いのごとく布(きれ)を下げ、装っている。ひょうたん型の三弦(ギター?)をひき、歌っている。人間の声とは聞こえず。されど異人は涙を流している。

・アメリカ人(軍艦?)上官が上陸してきた。遊歩(散策)中に、女湯を見て、ふし穴よりのぞき見ていた。

・今日、アメリカ人の美女をみるに、髪黒し。絹で編んだ頭巾をかぶる。瓔珞(ようらく)なるものを下げていた。腰の細きこと、蜂の如し。日本の女の半分もなし。肌は白きに誇りて、紗(しゃ)のごとき着物をきて、肌がみえることもある。

・アメリカ人の男が上陸し、女房と子供を並べ、眺めて愉しんでいた。(子どもの側で)女房の口を吸うので、番人の日本人は大いに驚いていた。

・船大将なのに、アメリカ美人の上着を持ってあげ、その女の首を抱えながら、白昼に、下田の町を遊歩する。(レディーファスト)国風とてみたり。

・玉泉寺に参り、アメリカ人より、立ちふる舞われた。境内のところどころ花をさし、魚とけだものの肉などを煮て、酒を出す。例の美女は、なり物にてさわぎ、踊る。夜四ツ(午後10時)より暁七ツ(午前4時)まで、踊りづめ。よくもくたびれないことだ。

・船が帰ってくると、夫婦は顔を見て、駆けより、抱き合って、いろいろ泣きくどき、人目を少しもはばからず、口を吸う。そのうえ、夫婦手を引きあい、一間の内に入り、戸を締めて出てこず。見るにたえず。

 
 アメリカ人の男女が白昼、堂々とキスしている。川路聖謨は驚き、奇異に映ったらしい。その瞬間の、川路の心理を読みとると、苦笑してしまう。
 一方で、アメリカ美人の賞賛などはイキイキした文章だ。美女を見つめる男の心理は、いつの時代も変わらないらしい。

 長崎言葉の「よかよか」が下田の異人たちに流行り、下田の勤番役人がなにかしら注意しようものなら、「よかよか」と言い、無視されると記している。


 
 

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(5)

 阿部正弘(福山城主)は25歳にして老中職に就き、その重職を14年間もつとめた。その実、寺社奉行だった阿部は、本来ならば登用ルートとして、京都所司代、大阪城代へと進むところ、徳川将軍が大抜擢をしたのだ。

 鎖国を継続するか。開国するか。国を託するには、若き老中首座の阿部しかいなかったのだ。かれはとてつもない未曾有の国難を乗り切る要職におかれた。幕藩体制を超えた「挙国一致体制」以外に方途はしかない。それが “若き宰相”の阿部の判断だった。

 かれの人材登用の才能は、けた違いに優れている。

 江川英龍はもとより、川路聖謨、筒井政憲、岩瀬忠震、大久保忠寛、堀利煕、松平近直、伊沢政義、永井尚志、勝海舟といった面々を勘定奉行や外国奉行などに抜擢し、活躍の場を与えている。さらには封建制度の枠組みを超え、土佐の漁民ジョン万次郎までも直参旗本として取り立てている。
 これら人材をもとに、外国と戦争をすることなく、和親条約と修好通商条約へと日本の国際化へと路線を敷いたのだ。
 
 この間に、阿部はこれまでの老中とは違って、徳川将軍に媚(こ)びず、外様大名にまで幅を広げて意見を聴取している
 これは徳川将軍の独裁主義からの脱却であった。「挙国一致体制」最も理に叶った、現実的な仕組みへと、阿部は大きく転換させ、ほぼ誤りなく対処した。
 平和裏に国交を開いた、有能な若き宰相だと私は考える。
 

 明治に入ると、戦争国家となった。はたして一般庶民は幸せだったのか。『倒幕から数えて77年しか持たない軍事国家だった』。そこには数千万の死者(国内外)を出す、悲惨な道があった。
 こんな国に誰がしたのだ。

 現代でも、明治維新で英雄だと持て囃(はや)されている人物たちだ。外国人とみれば殺す。薩摩や長州の攘夷派、500人のロシア人を殺せ、と阿部に迫った老獪(ろうかい)な水戸斉昭からの攘夷思想に染まった連中である。

 近年でも、学者、小説家、演劇人も映画人らは「尊王攘夷」が正しかったと描く。他方で、若き老中首座の阿部の開国は無能だったとする。

 誰がどう考えても、外国と敵対する道は決して良くない。尊皇は認めても、攘夷は評価してはいけない。明治政府の「挙国一致」は徴兵制であり、最悪の軍事国家への道筋だったのだから。

 江戸時代は封建制度だ、士農工商だ、と一刀両断で斬るべきではない。日本人が260年間も戦争のない、自慢の国家だった。平和主義・人道主義を再認識するべき。阿部などは誇りとすべき人物だろう。

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「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(4)

『阿部正弘は、黒船の来航に対して何らなすことがなかった。無能な老中だった』
 明治の為政者たちは、老中首座だった阿部を悪くいう。かれの態度が優柔不断で、無能だったと、でっち上げてきた。ここに、明治維新の歴史のねつ造がある
 現代でも、歴史家、小説愛好者はそれを鵜呑みにして、盲目的に信じている。

 もし、首席老中の阿部が開国を導くのに、独裁的な決定をしていたならば、それこそ日本は最大の不幸だった。
 阿部暗殺が起きるだろう。国内は騒乱状態になり、どの国とも和親条約を結ばずして、アヘン戦争の二の舞になったはずだ。

  文明開化の象徴の一つに、新橋と横浜の鉄道開通がある。明治政府の快挙だと教えられてきた。それすらも、誤認がある。

 ペリー提督が開国のメリットとして、蒸気機関車の縮小版、地球儀、無電通信設備などサンプリングとして持参してきた。
 当時の先進技術である。日本人は書籍で知識があっても、実物を見るのは初めてである。日本人は真似ることは得意だ。ここから西洋文明の導入が図られはじめた。
 有能な幕府の人材が海外遊学などで学び、外国人技師を数多く国内に招いたのだ。

 攘夷と叫ぶ志士は、かれら外国人の技術者たちの生命を狙っていた。決して英雄ではない。単なるテロリストだ。 だから、明治の新政府の要人となった彼らは、何をしたのか。
 過去の政権を罵詈雑言で罵倒し、いっぽうでは国民の目を欺(あざむ)いた。かれらは牙(テロリスト)を隠し、海外で侵略戦争ばかりやる軍事政権をつくったのだ。

 徳川幕府の老中たちには、高い外交交渉力があった。現代でも学ぶべきものは多い。老中は決して戦争で解決しようとは考えていなかった点だ。平和裏に最大限に誠意を尽くしていた。だから、諸外国は日本で武力を使えなかったのだ。

 誠意とは何か。

 米国のビッドル提督がくれば、鎖国は国論だが、友好的な態度をとった。幕府は大勢の日本人を米国軍艦の見学会に出かけさせた。そのうえ、薪の松5000本、水2000トン、卵3000個、小麦2俵、大根、ナス、ニンジンなど生鮮食品を大量に贈ったりしている。まさしく、誠意ある友好態度だ。

 ペリー提督にしても下田上陸すれば、音楽隊が軍人パレードして見せるなど、じつに友好的だった。ペリー提督すら、日本に戦争をしにきていないのだ。大砲だって、礼砲を打っただけだ。

 日露和親条約の締結に来たロシア・プチャーチン提督が、安政の大地震と大津波で軍艦を失えば、帰国用の船をつくってあげた。
 水戸の徳川斉昭は攘夷の象徴的な存在で奉られているが、ロシア人500人が大津波で難破して沼津海岸に上陸しているから、全員皆殺しにせよ、と叫んだ。まさに狂人だ。

 老中首座の阿部正弘はその主張を正面から拒絶し、造船材と人手をすべて無償で提供した。そして、かれらロシア人たちは妻子のいる母国に送り返す道をとった。この人道的な処置で、ロシアの提督は感動し、北方四島において妥協し、日本の領土として、かれらが帰国する直前に日露和親条約を結んだのだ。

 この阿部老中は無能だと言えるだろうか。

 全員を殺せと言った水戸派の斉昭の思想が、維新志士たちの攘夷思想の根幹となり、明治時代へと受け継がれている。
 冒頭から、征韓論、日清戦争、日露戦争へと海外で戦争をくりかえせば、当然ながら敵がいっきに増えてくる。気づけば、日独伊三国同盟のほかは、欧米・アジア諸国はすべて敵だった。おそろしくも、第二次世界大戦まで続いた。

 軍事国家がいかに脆(もろ)かったか。国内の大空襲、広島・長崎の原爆投下で終った。だから、維新から軍事政権は77年しか持たなかったのだ。
 徳川幕府は260年間も続いた。それは一度も戦争をしなかったから。

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(3)

 教科書が正しいと信じていた。小説家になり、歴史を深く掘りさげる機会が増えるほどに、明治政府にごまかされていたのか、と思う。教科書や歴史小説を信じてきた私自身はバカだったな。

 私はこのところ開国の時の、老中首座・阿部正弘(福山藩主)にスポットを入れはじめている。
 日米和親条約で固定化した、無能あつかいにされた阿部正弘像はそう簡単に覆らないだろう。私が小説のなかで取り込んでも……、阿部の低い世の認識は変えられないと思う。

 となると、日露和親条約から開封してみよう、と私は思った。他の歴史小説家すら阿部と日露和親条約の流れは手掛けていないだろう。研究者もほどんどいないだろう、という勘だった。

 日露の争いはさかのぼること18世紀頃からで、約100年以上にわたり、松前藩と南下政策のロシアがもめつづけていた。北方四島では戦争すらあった。捕虜交換などもあった。
「北方四島はロシア系アイヌ人の居住地だ」
 それがロシア側の主張だ。21世紀の現在も、ロシアはおなじ考え方だ。

 阿部は日露和親条約で、国後・択捉は日本領としてロシア側に認めさせたのだ。つまり、国境線は択捉島と得撫島との間で確定した。
 日露和親条約がいつ結ばれたか。それが重要になる。1855(安政元)年12月21日に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された。
 日米和親条約の翌年である。つまり、徳川幕府が開国を決めてから、わずか一年で、北方問題が解決できているのだ。
 阿部正弘の素晴らしさは、身分にとらわず有能な人材を多数登用したことだ。ロシア外交の交渉団の人選は、阿部がみずから行った。そして、江戸表から下田港での日露交渉を指図している。

 阿部がいかなる指図を出したのか。それを細かく知りたくなった。そこで5月には福山城を訪ねてみた。予想通り、具体的な史料はなかった。
「道は遠いな」
 私はつぶやいた。

 第二次世界大戦の後、ロシアはサンフランシスコ条約を結ばなかった。それから独自に、日露(日ソ)交渉は行われてきた。どの総理も北方領土問題を解決できていない。

 吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤榮作、田中角榮、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦~、

 これらが束になっても、阿部正弘を越えていないのだ。現代の政治家と比べてみても、阿部がどれだけ有能な政治家かわかる。阿部老中の功績で最大級のものだ。なにしろ、現在でも、日本はこの条約を根拠にしているのだから。

 これだけの事実がありながら、阿部はなぜ評価されないのだろうか。明治政府は開国の最高責任者の阿部正弘を持ち上げたくなかったのだ。明治の政治家たちが小さく見えてしまうからだ。


                                 【つづく】

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(2)

 東インド艦隊司令官のビッドル提督と浦賀奉行所の与力が、アメリカの軍艦の船上で交渉している。それは老中首座の阿部正弘(福山藩主)の指示で行われていた。

 ビッドル提督は、中国(清)と条約批准書の交換の帰路に立ち寄ったと日本側に説明した。老中の阿部正弘は「日本は開国・通商の意志がない」と浦賀奉行所を介して、英文の論書で言い渡した。
 ビッドル提督は「了解した」と紳士的な態度だった。

 幕府はビッドル提督に、薪の松5000本、水2000トン、卵3000個、小麦2俵、大根、ナス、ニンジンなど生鮮食品を大量に贈っている。この間に、日本人が多数、米艦に乗船している。ビッドル提督が率先して軍艦の船内を案内している。スケッチすら許可している。双方の敵対関係は皆無だ。

 それら交渉内容がビッドル提督によってアメリカ政府に持ち帰られた。米大統領はあらためてオランダを介して、ペリー提督に親書をもたせるから、と日本側に伝えているのだ。

 ペリー提督が蒸気船で来て、浦賀には物見の人が一杯になった。ビッドル提督は帆船だったが、蒸気船はめずらしい。

『泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず』という狂歌が詠まれた。詠んだ当人は、自分も浦賀に行きたい、夜も眠れぬほどに興奮している、と解釈すべきだろう。

 ところが明治政府は悪用し、江戸幕府がおたおたして何もできなかった、と教科書でもそう解釈させている。
「黒船来航の無能な幕府に対して、尊皇攘夷がはじまった」
 ペリー来航が歴史の基点にしている。
『ビッドル提督の米軍艦は初の日本寄港だった』
 それを教えないのは、卑怯(ひきょう)だと思った。
 ビッドル提督から教えると、幕府が米国事情を知り尽くしていた、となってしまう。ビッドル提督はあらゆる米国事情を語っているのだから、ベリー提督に驚くはずがない。むろん幕府は冷静な対応している。一年後に、回答するからと言い、まずは引き取ってもらったのだ。
 阿部正弘はあらゆる意見を求めた。徳川将軍の独断で、決めることではないと判断したからだ。
 

 ビッドル提督の来航から、日本史の教科書で幕末史を教えてくれていたならば、ペリー提督来航の狂歌など、単なるブラック・ユーモアだとかんたんに理解できた。
 国民の目を欺く作為は、教育から入るのが手っ取り早い。無能な老中などあり得ないのに、狂言をもって歴史的な事実だ、と学生を信じ込ませた。教育は怖い。

 明治政府が教科書をつくったころ、日本に帝国大学はできておらず、さして独自研究者や楯突く者もおらず、官吏の思いのままに教科書ができたのだ。

                                      【つづく】

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(1)

 歴史は折り曲がりやすい性質がある。 いずこも新政権はつねに前政権を悪くいう。貶(けな)す。功績などねじ曲げて、悪者にしてしまう。
「歴史は勝者がつくる。自分たちに都合よく改竄(かいざん)する」
 よく言われることわざに現れている。
 
 顕著なのが、明治政府の要人たちだ。攘夷を声高に叫んでいたのに、それら志士が政権を取ると、とたんに徳川幕府の開国路線を真似した。
 真似だけならばよいが、まるで自分たちの手柄のように言い、先の徳川政権の罵詈雑言を並べる。あらゆる事実を曲げている。

 明治政府は国民の前に、かれらは牙を隠すために、あらゆる悪知恵を使っていた。それが最近の私の史観と認識になってきた。理由はかんたんだ。学校で学んだ歴史教科書に裏切られたからだ。
 
「ペリー来航・黒船が現れると、幕府はおたおたして、無能な政権となった」
 私は幼いころから真に受けて、それを信じてきた。

 1853年に黒船が現れた。翌年は日米和親条約を結んだ。私はふと考えた。英語の原文はだれがチェックしたのか。サインする以上は、英語を理解していないとできない。それが最初の疑問だった。
 ジョン万次郎は身分が低くて、同席していない。となると、だれか英語を理解したのか。
 まず、日米和親条約の原文とにらめっこした。

Treaty between the United States of America and the Empire of Japan.

The United States of America, and the Empire of Japan, desiring to establish firm, lasting and sincere friendship between the two Nations, have resolved to fix in a manner clear and positive, by means of a Treaty or general convention of peace and Amity, the rules which shall in future be mutually observed in the intercourse of their respective Countries; for which most desirable object, the President of the United States has conferred full powers on his Commissioner,

 私たちは中学、高校、大学で英語を習ってきた。それでも、この条約前文の英語すら完全なる理解はできない。
 徳川幕府は内容も理解もせず、サインしたのか。違うだろう。理解できる人がいたはずだ。
私にとってショックだったのは、ペリー提督が日本にきた最初のアメリカ人ではなかったことだ。「和英辞典」が19世紀から日本にできていた。ほんとうか、と思った。
 辞書を引きながらだと、条約文は理解できるだろう。
 さらには強いショックは、歴史教科書が私たちの学生時代に一行もふれていない。あるいは教えてくれない事実に出会ったことだ。


 ベリー来航の7年前、1846(弘化3)年に、東インド艦隊司令官のビッドル提督が米国大統領の親書を持ってアメリカの軍艦で浦賀にやって来た。
 浦賀奉行所や徳川幕府がそれに友好的に対応している。ビッドル提督のコロンバス号(排水量2440トン)は、ペリー提督の艦船と排水量はほぼ同じ。

 ビッドル提督の米軍艦は初の日本寄港であった。なんで、日本史の教科書で教えてくれないのだ。私は腹立たしくなった。一方で、日本人が正確な日本史を学べない現実が悲しかった。
                                                  【つづく】
 

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』④=消された歴史ほど、政治家は嫌う

 旗巻峠は、標高280メートルだ。仙台藩から相馬中村藩に通じる、戦略的な重要地点だった。

 戊辰戦争で、仙台藩が最大の犠牲者を出したのは、ここよりもひとつ前、浜通りの戦い『駒ヶ岳の戦い』である。熾烈な激戦となり、仙台藩は数百人の死者を出している。のみならず、官軍側も、多くの犠牲者を出している。
 
 広島側の資料を見ると、戦場が「駒ヶ岳山麓」の水田地帯だった。すさまじい仙台の猛攻に対して遮蔽になるものがない。敵から丸見えの広い田園地帯で行われた。仙台藩が総力をかけた、猛烈なる防戦で、一兵も進めない状態に陥っている。
 芸州・神機隊が「ここは駒ヶ岳の関門に向って、正面突破を図ろう」と提案した。すると、「長州藩の隊長はこれには周章(うろたえ)てしまった」と記す。
 
 下関で四か国と戦い、第二次征長でも練磨の、戦い巧者の長州がおびえるほど、仙台藩は強かったのだ。仙台藩は大小砲を激発し「筑前藩も猶予して進まず」。
「この激戦は環視(みているだけ)では解決できず。敵の飛弾を犯し、切り込まざるは利なし。抜刀し突撃するべきだ」
 神機隊はそう主張するが、長州藩、筑前藩の両隊長はついに動かなかった。

『先鋒の神機隊は突貫、突撃した』
 初めのうちは長州・筑前は無謀だと笑っていた。それが驚きになり、やがて賞賛に変わったのだ。
『われらは駒ヶ岳の砲台に登り詰めた。そして、縦横に敵兵を斬殺していく。乱殺に遭った敵は、兵器や屍を放棄して、仙台藩はことごとく敗走していく』

 仙台藩は藩士、足軽のほかに、荷役の雑兵が大勢いる。かれらは銃撃戦だと、胸壁や物陰に隠れていれば銃弾が避けられる。
 しかし、大勢の抜刀で襲われると、鳩の集団に石を投げたのと同じで、一目散に逃げ出す。数百人が駆けだすと、群集心理が伝染し、もはや藩士たちの手に負えなくなるのだ。

 芸州広島藩の神機隊はわずか270人だが、全員が西洋式訓練で鍛えられた職業軍人だった。一か所を突撃で破れば、大勢の敵の雑兵がすぐに逃げる。これは高間省三砲隊長(20)が広野の戦いから、数千人の兵力の相馬・仙台軍を相手に、幾度もとった攻撃方法である。
 連戦連勝で、北上を続けていたが、高間は浪江の砲台を奪った瞬間に、顔面に銃弾を受けて死す。
  歴史長編小説『二十歳の炎』(6月中旬刊行予定)で、これら戦場をリアルに描いている

  高間戦術はその後も生かされ続けたのだ。

 駒ヶ岳から敗走した仙台軍は、旗巻峠を最後の砦とした。ここを破られると、もはや仙台領内の戦だ。犠牲は領民にまで広く及ぶ。だから死守するところだ。

 史跡の文面の一部を紹介すると、

『仙台藩の鮎貝盛房(参政)の指揮の下、米沢藩、庄内藩、旧幕臣を加えた。歩兵15隊の1200兵、大砲4門を持って守備した。8月20日より、椎木大坪間まできた新政府軍を砲撃し、撃退した。
 9月10日夜には、薩摩、長州、筑前、因州鳥取、相馬の西軍が山道を潜行し、仙台藩の夜襲部隊と激突し、翌朝に至り、西軍は隊を二分し、北方に迂回し、山頂に迫る』 
 ここから激戦(血戦と表記)の様子が書かれている。
 そして、仙台藩46人、庄内・米沢藩が15人の戦死を出し、降伏した。

 宮城県文化財専門委員の撰文である。

 ここでも、芸州広島藩の明記はない。このように、広島藩は歴史から消されている。一方で、なんでも薩長で、この戦いに参戦していない薩摩が名を連ねる。
 文化財専門委員すら、こうである。取材で現地を歩いてみると、こうした歴史のねつ造が発見できる。

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仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』③=なんで、ここで忠臣蔵?

 旗巻峠はさかのぼれば、戦国時代は相馬藩領(平将門の血統の地)だった。1585(天正13)年に、伊達正宗が侵攻し、仙台藩となった。その後、現在の宮城県にまで引き継ぐ。
 相馬側には「奪われた土地だ」という意識が300年続いてきた。そして、相馬は戊辰戦争で、官軍に寝返って仙台を攻撃した。

 だから、大勢の仙台藩士が亡くなった。旗巻峠で老人に、そんな話を持ち出すと、薩長が悪いのだと強調する。名君の伊達正宗の相馬領への侵略行為にはふれたくなかったのだろう。


「どこから来たの」
 老人からそう問われたから、広島からです、と出身地で答えてみた。東京在住の作家だと名のりたくない、咄嗟にそんな気持が働いたからだ。
「広島だと毛利だね?」
「関ヶ原の戦いまで広島は毛利です。(毛利元就の出身地)。しかし、戊辰戦争のころの幕末は、浅野家です」
「すると赤穂浅野の関係だね」
 忠臣蔵が有名すぎて、老人は本家が赤穂浅野だったと信じ込んでいる。
「広島浅野は宗家で、浅野は支藩です」
 と話しても、老人はよく解っていない口調だった。
 広島浅野は42万石で、赤穂浅野は5万石である。赤穂藩主の浅野内匠頭の妻・阿久里すら、三次浅野家(広島県)から嫁いでいる。

 元禄・徳川将軍綱吉の時代に、浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で、吉良上野介にたいして刃傷事件を起こした。内匠頭はその日のうちに切腹になった。

 その後の宗家・広島浅野家は、赤穂にたいしてつよい影響力を示した。

 深夜、大勢の町人が略奪目的で、赤穂浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏口に乱入してきた。そこで、広島藩は軍隊を出動し、鎮圧し、上屋敷の治安を取り戻した。
 一方で、妻・阿久里を三次浅野家の屋敷に移させた。


「そんなに広島藩が関わっているの」
「忠臣蔵では、大石内蔵助がすべての主役であり、決断者でないと面白くないからね。宗家や幕府などから言われて、渋々と赤穂城を明け渡した、それだと筋書きは面白くないし」

 広島浅野家から使者が、赤穂城にたびたび出向いている。そして、国家老(大石内蔵助、大野九郎兵)たちに、穏便に開城せよ、と圧力をかけた。むろん、上から目線の強い圧力だ。

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仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』②=歴史は観光にあらず

 宮城県、県境の町の丸森町は、「旗巻の戦い」を観光の売り物などしていない。墓石周辺をていねいに整備していた。
 私とほぼ同タイムで、同町役場職員がライトバンでやって来た。かれらとはかるい挨拶をしたていどだ。
 かれらは清掃道具を下ろす。そして、墓石の周辺で、掃き掃除、側溝の雨グレードなどを外し、落ち葉の詰まりを取りのぞきはじめた。146年前の仙台藩の「霊」を大切にしている。決して観光ではない。そこに心地良さを感じた。
 精勤するかれらの平均年齢は30歳くらいだった。地方の町にしては、若者が働いているのだな、と感心した。同町役場はこの峠を下りきった、阿武隈川の近くにあるはずだ。

 戊辰戦争では、勝者も敗者もうそが多い。
『会津若松城に立てこもり、熾烈(しれつ)な戦いを行った』
 これは観光・会津戦争のつくり話である。
 会津盆地の峠ではたしかに武力戦だった。だが、峠を突破された後、若松城に藩主・松平容保ともども籠城する。城を攻防する悲惨な戦いなどやっていない。

 会津城攻め薩土(薩摩と土佐藩)が中心で、板垣退助が采配を振った。戦略は兵糧攻めで、1日2回、会津城の天守閣にむけて大砲を撃ちこむだけだった。
 もし、本気で重砲の破裂弾を城内に撃ちこめば、『窮鼠(きゅうそ)猫をかむ』ということわざ通り、意外な力を発揮し、強者も苦しめられる。
 高知や鹿児島からはるばる会津に来てまで、死傷したくない、気長に待てば、敵は落ちるのだから。夜の城の出入りも見て見ぬふりをしていた。
 
 奥羽越列藩同盟31藩の中心は、仙台藩だった。最後の砦が「旗巻峠」である。仙台藩が敗れて降伏したのが、9月11日である。それが会津若松城に伝わると、すぐさま同月22日には、松平容保が白旗を上げた。
 板垣退助(土佐藩)は当初から計算ずくだった。

 会津藩は6年間の京都守護職で軍費がかさみ、武士支配階級はやたら威張り、農民の過酷な年貢の取り立てを行っていた。会津戦争のさなかに、農民一揆がおきたり、百姓の多くは官軍側に味方していたとも言われている。
 こうした恥部を伏せたり、籠城を『会津魂』として売り込むのは、歴史のねつ造であり、観光行政で利益を得るためだ。
 白虎隊すら、現地・会津で研究者に聞けば、1か所で自刃せず、バラバラに死んでいたという見方を取っていた。そして、白虎隊精神は戦前の軍国主義に利用されている。
 明治時代の軍国主義は、あらゆる点で歴史のねつ造の上に成立し、国民の大切な生命を軽んじ、戦争で血を流させた。

  旗巻峠の私の視線が満開の桜の脇道に流れた。一人の老人がなだらかな坂を下り、こちらに近づいてきた。
「仙台藩士の墓」の方角だから、お参りかな。郷土史家かな。

 老人はなにか話たげだった。あいさつ代わりに、墓石の場所を聞いた。仙台藩の最後の地を見にきたのです、と史跡の来意をつけ加えた。
 すると、こちらが歴史に詳しいとみなしたのだろう。
「松平容保は朝敵にするのはおかしい。薩長は間違っていた。薩摩こそ、江戸で騒擾(そうじょう)したから、朝敵にするべきだった」
 老人は怒りの口調で言った。
 仙台藩を攻めたのは薩長であり、理不尽だと強調する。
「因州鳥取藩、広島藩、九州各地からきているけど、薩摩藩は、この浜通りの戦いにきていませんよ」
 そういっても、官軍=薩長でひとくくりしていた。なんでも薩長だ。
 ここの郷土史は自分のほうがよく知っている、という態度で、老人の口からは薩長の罵詈雑言がつづいた。

                                        【つづく】

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』①=だれが軍事国家をつくったのか

「旗巻峠」は、福島県と宮城県の境にある峠である。昔流にいえば、相馬藩と伊達仙台藩の藩境にある。戊辰戦争では、東北の雄・仙台藩が攻めてくる新政府軍に対する「最後の砦」になった。重要拠点が破られた。そして、仙台藩は敗れた。

 私は幕末の長編歴史小説を昨年から取材し、執筆してきた。同小説の主人公・高間省三は満20歳で浪江で戦死した。
 小説は歴史書とちがって主人公の死後もだらだら書かず、すぱっと終わる。そんな背景から、執筆上の取材はこれまで広島、京都、東京、甲府、いわき市、浪江に集中していた。とくに、現在の原発被災地の浜通りにはなんども足を運んできた。
 しかし、南相馬、相馬市は、ここらは高間省三の死後だから、さらっと一度出向いただけだった。

 幕末長編小説は『二十歳の炎』とタイトルを決めた。そして、完全原稿(本文、写真、地図、イラスト)として4月14日として出版社に手渡した。すぐさま同日の夕刻には福島県にむかった。夜には郡山市内に前泊した。

 小説が書き終えたから、それで戊辰戦争関連の取材が終わりではなかった。私にはおおきなテーマがあるのだ。
 明治政府の薩長閥の政治家たちが、嘘の歴史をつくっている。それを解き明かしていくことだ。

 260年間、徳川幕府は国内外と戦争を一度もしなかった。しかし、明治政権となると、とたんに征韓論、日清戦争、日露戦争、第一次、シベリア出兵、日中戦争、満州事変、第二次世界大戦とつづいた。
 だれがこんな軍事国家にしたのか。

 軍事国家とは、国民に真実を教えず、国民を血の戦いにかりだすことである。『明治軍事国家』だとひと言もいない。それ自体に嘘があるのだ。

 明治初めから広島・長崎原爆で終焉するまで、わずか70年余りで、日本の政治家たちは軍人・民間人、外地の人々を含めて何千万人殺したのだ。
 日本人はなぜそんな怒りをみずから掘り下げないのだろうか。

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