【歴史から学ぶ】上野戦争(彰義隊の戦い)のあと、東武天皇が擁立されたのか
江戸城の無血開城が、慶応4年4月11日におこなわれた。265年間にわたる徳川政権の象徴だった江戸城の落城である。
安政7年3月3日の桜田門外において、井伊直弼大老が暗殺されたが、それに匹敵するほど、世のなかが激変した日でもある。
この当日に、いったいなにが起こったのだろうか。
15代将軍だった徳川慶喜公が謹慎する上野寛永寺から、元幕臣の高橋泥周(でいしゅう)らの護衛で、水戸へと下っていった。德川将軍の存在が、この世から完全にきえてしまったのだ。
同日、陸軍の歩兵奉行・大鳥圭介(おおとりけいすけ)の指揮する伝習隊(でんしゅうたい)、および緒隊が江戸から脱出していった。伝習隊などは本所、市川、小山、宇都宮、日光へと転戦していくのだ。
松平太郎の極秘作戦で重要な軍資金が、浅草・銀座から秘かに運びだされた。約100万両だったという。
軍隊と軍資金とが、江戸城の無血開城で一気にうごいたのだ。つまり、江戸城の無血開城が旧幕府軍と新政府軍との本格的な交戦へと突入する、おおきなきっかけとなったである。
この2日前の4月9日だった。江戸城の大奥からは実正院(家茂の生母)、静寛院(せいかんいん・和宮親子内親王)が、牛が淵の清水邸に移られた。
翌10日には天璋院(てんしょういん・篤姫あつひめ・家定の正室)、本寿院(家定の生母)が江戸城をでて一橋家にむかった。
これらは大奥政治の終焉(しゅうえん)を意味した。
江戸湾においてもおおきな変化が生じた。4月11日には、榎本武揚が新政府軍にたいする降伏条件の一つ旧幕府艦隊の引き渡しを拒否し、艦隊8隻に遊撃隊などをのせ、品川沖から安房国・館山へと脱走を謀ったのである。
陸上は東征軍の支配下になりつつあるも、関東北部の海上はいまだ旧幕府が制海権を確保していた。
これによって旧幕府軍の江戸湾における兵員の大量輸送が可能となり、このさき小田原・箱根戦争、さらには奥州戦争、箱館・宮古沖戦争へと戦争が拡大していく起因となった。
その意味で、榎本武揚の存在がおおきかった。
明治新政府の総督府は4月11日を機に、東北の諸藩にたいして会津倒幕を命じた。これが大反発を招き、奥羽越列藩同盟の32藩の結束になったのである。
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勝海舟・西郷隆盛による「江戸城無血開城」は、無血ということばの響きから美化されているが、はたしてそうだろうか。
この4月11日は実質的な戊辰戦争のスタートの日となったのだ。日本人どうしが憎しみ、血を流し、国内が分断する大戦争の火ぶたをきることにつながった。
それは西軍と東軍の「関ヶ原の戦い」以上に、長期にわたり、悲惨な戦争であった。
4月11日の江戸城無血開城から、閏4月をはさんで、5月15日の彰義隊壊滅作戦がなぜ強行されたのか。
単一民族の日本人は「和の精神」で平和主義が柱である。「話せば、わかる」という対話による解決精神がある。
「戦争で、一気に白黒の解決をはかる」
総督府が拙速に話合いの精神を放棄し、江戸城開城からわずか2カ月間で、上野の彰義隊の壊滅作戦にでたのである。
この上野戦争が成功事例として、その後の薩長閥の政治のなかに脈々と引き継がれていった。
外交面でも征韓論、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと戦いで解決する方策がとられた。つまり、明治時代以降は双方の話合いよりも、戦争による解決が国論となったのである。
慶応4年5月15日の上野戦争は、単に江戸の戦闘のみでなく、日本人の貴重な「対話の美」という精神が、無残にも破壊されたおおきな出来事だったともいえる。
写真=ウィキペディア(Wikipedia)・輪王寺宮・のちの北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)
上野山は東叡山(とうえいざん)寛永寺といわれる。(京の比叡山、東の比叡山)。寛永二(1625)年に、德川三代将軍家光(いえみつ)が開基(かいき)した。
初代は慈眼(じげん)大師の天海(てんかい)大僧正(だいそうじょう)(初代住職)である。17世紀半ばから、京都の皇族を迎え、住職としてきた。
輪王寺宮(りんのうじのみや)という。
東叡山寛永寺は、日光山、比叡山の三山を管掌する、強大な勢力をもった大寺院である。德川御三家とならぶ格式だった。
4代将軍の家綱公から、将軍家の霊廟(れいびょう)となり、6人が寛永寺に眠る。子院は36におよぶ。寺領は1万1790石で、東叡山の全域は約30万5000坪の広大な敷地だった。
徳川家はなぜ代々、皇族から住職を迎えているか。それは西国の諸藩が、京都の皇族を擁(よう)して倒幕に決起すれば、この関東で輪王寺宮を天皇として擁立(ようりつ)することができる。
裏を返せば、德川家を朝敵にさせないという狙いがあった。
薩長が明治天皇を擁立するのならば、徳川家は輪王寺宮を天皇にする。それ自体は南北朝時代の構図になる。
德川慶喜公が皇国思想の下で、北朝、南朝という天皇家の分断を避けて、水戸にすなおに下って行ったのだ。
しかし、江戸城の無血開城のあと、関東・東北の諸藩から、輪王寺宮天皇を擁立しよう、という動きがあった。
総督府は寛永寺の輪王寺宮能生(よしひさ )、清水家にいる静寛院(せいかんいん・和宮親子内親王)はすみやかに京都に連れもどしたい意向があった。
輪王寺宮天皇が誕生すれば、関東・東北の諸藩が、薩長を朝敵として錦の旗を挙げることも可能だった。
慶応4年5月15日に上野戦争がはじまった。彰義隊の敗北が見えてくると、寛永寺の住職で、皇族の輪王寺宮能生(りんのうじのみや よしひさ)は逃亡を図った。
総督府の探索を潜り抜けた。三河島の植木屋職人の粗末な家、翌日には浅草の東光院と泊した。
彰義隊の脱走兵の多くは、千住から日光方面にむかっている。
格式の高い寺には、護衛団の剣客がいる。かれら寺侍(てらさむらい)は、剣の護衛のみならず、事務も執るのである。
東光院の寺侍の護衛で、輪王寺宮一行は翌17日午前10時に、市ヶ谷の自證院(じしょういん)へむかった。
大胆にも、寺侍たちは上野山下を通る。本郷より、小石川の水戸家邸前を過ぎると、お濠に沿いにいく。
わざわざ江戸城下にひそむ者などいないだろう、という総督府の盲点を突いていたのだ。一行は市ヶ谷の自證院へと入った。
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輪王寺宮はご滞在中、表向きは同寺の徒弟に撤していた。居間には粗末な机、古びた経巻をのせ、座布団も供えず、勉学をする。
元評定所の留役が画策(かくさく)し、軍艦提督・榎本武揚に交渉し、奥州への脱走を図った。
鉄砲州・舩松町2丁目には、回漕業の「松坂屋」がある。屋主の星野長兵衛には義気があり、極秘に手を貸した。
5月25日の夕刻、輪王寺宮一同は松坂屋の裏手から伝馬船をつかって、首尾よく長鯨艦に乗り込んだ。
総督府が目の色を変えて、京都に連れ戻そうとする皇族の輪王寺宮能生は、奥州にむかったのだ。
奥羽越列藩が輪王寺宮を擁して東武天皇に推載(すいたい)した。元号は『大政(たいせい)』と改めた、という法学説がある。
当時のアメリカ公使は「いま、日本にはふたりの帝(みかど)がいる。現在、北方の政権の方が優勢である」と伝えている。ニューヨークタイムスの1868年10月18日に、「北部日本は新たなミカドを擁立した」と報じている。
これが歴史的事実ならば、幕末にはいっとき南北朝の戦乱時代のように、明治天皇、東武天皇と国家が分断していたことになる。
奥州戦争において32藩が皇族の輪王寺宮を奉り、それを精神的な柱とし、総督府軍に激しく抵抗したことは事実である。少なくとも、徳川家のご恩や慶喜公の返り咲きをねがう戦争ではなかったのである。
歴史は為政者によって都合よく書き換えられる。敗者側の真実は闇のなかに消えていくものだ。学者は宮内庁に遠慮して、東武天皇など認めたくないのだろう。
【了】