歴史の旅・真実とロマンをもとめて

第3回幕末芸州広島藩研究会=「大政奉還」~「鳥羽伏見」

「幕末芸州広島藩研究会」は広島市の浴(えき)さんが推進してくれている。第1回は15人くらい。第2回は20人、3回はさらに増えて30人くらいと、漸増している。
第3回幕末芸州広島藩研究会

 こんかいは「大政奉還が成立したのに、なぜ鳥羽伏見の戦いが起きたのか」だった。

 慶応3(1867)年10/14の大政奉還から、12/9の京都御所の小御所会議で「王政復古」まで、空白の日本史である。



 日本史のなかで、最もわかり難い一つだ。学校教育の場でも、満足な教え方ができない。それ以前に、学者も、歴史作家もわかっていない。だから、推測ばかり。

 本来は「鳥羽伏見の戦い」をクーデターにするべきところを「王政復古クーデター」としたから、訳わからなくしている。

 明治新政府ができるのに、なぜ王政復古クーデターなのか。論理的に矛盾している。それを平然と語るから、聞く側、教える側も含めて、訳わからなくなっているのだ。


 大政奉還の後、どういう組閣をするか。11/3-7日に、御手洗(広島県・御手洗の新谷邸)で、その構想が組立てられた。京都御所の実質支配の必要性から軍隊の投入が必要である。
薩摩・広島・長州の最新の兵で、京都に上がろうと、6000人の割り当てが決められた。(御手洗条約)。実際に実行される。(土佐は山内容堂の許可が出ず、板垣退助が連れてきたのが遅れている)。

 まさに薩長土芸の軍事行動である。

「60年間は、御手洗の4藩の密議は黙っておれよ」
 と11/7にそう口止めした当人の坂本龍馬が、8日後の11/15に京都で暗殺されてしまった。誰もが口を封じた。だから、歴史の真空地帯になっていた。そこで、『二十歳の炎』には、くわしく書いている。

 新谷道太郎が昭和10年に60年経ったからと言い、その4藩軍事同盟を明かした。


 長州(山口県)出身の奈良本辰也氏(1913~2001年)は、戦後の日本史の大御所である。権威者の学者が「新谷道太郎をでたらめな・嘘つきだ」と全面否定した。

 歴史の証言者を80歳代という年齢だけで、耄碌(もうろく)している、と頭から金槌で否定すれば、真実は土のなかに埋まってしまう。

「新谷道太郎は90歳でも、広島県・竹原小学校にきて、しっかりした講演をしていた」という証言者もいるくらいだ。
 たしかに、新谷の思い違いの面はいくつかある。その瑕疵(かし)だけを取り上げて、奈良本氏は権威を縦にし、明治政府の薩長閥のねつ造を真実とし、片方の新谷を100%全面否定したのだ。


 教科書監修の大物学者の奈良本氏は、長州出身だから、明治政府の薩長閥がねつ造した歴史をそのまま是認させた。つまりは、「王政復古」は大政奉還後の民主的な組閣であるのに、クーデターだとして教えつづけさせた。


 下級藩士の西郷隆盛が、「王政復古」のあと、赤報隊などを使い、德川家がまだ健全な江戸で、庶民を対象としたはげしいテロ活動・騒擾(そうじょう)を行った。かれは民衆が蜂起するとでも勘違いしたのだろうか。

「あなた方が、松本、東京地下鉄サリン事件がくり返されたとき、それは維新のためだと容認しますか。もし警視庁が治安の維持に失敗し、オウム政権ができたとき、サリン事件は正義だとおしえますか」

 それと同じことを西郷隆盛がやったのですよ。庄内藩や会津藩が怒るのは当たり前でしょう。

「会津の松平容保が、天皇への「討薩表」(テロ活動の証拠がある。薩摩藩をうたせてください)と、京都御所への直訴をもって向かっていた。だれもが護衛意識だった。京都で買う土産物の話までも出ていたという。


「薩摩のテロリストの頭の西郷隆盛は、鳥羽街道、伏見街道で待ち伏せしたのですよ。それに御手洗条約で京都にこれた長州が乗った」

 
 王政復古として民主的なルールで明治新政府ができた。ところが、薩長の下級藩士による「鳥羽伏見で軍事クーデター」が発生した。
 本来はこのように教えれば、わかりやすいのだ。

 「攘夷」は白人とみたら殺す、無差別テロ集団ですよ。西郷隆盛らの行動を、サリンの恐怖におびえた現代に置き換えて考えると、偉人かテロリストか、見極めがつくでしょう。
 
「歴史から学ぶ」。これはわが身に置き換えて考えることですよ。奈良本氏や司馬遼太郎氏らの「尊王攘夷」の賞賛とか、薩長の英雄史観はもう見直しましょうようよ。
 
 富国強兵だと明治政府を賛美するけれど、富国とは民から税金を高く取り上げることですよ。その口実の甘美のことばです。
 多少は貧しくても、戦場で人殺しをしない国家の方が正義です、と補足させてともらった。

小田原の歴史を歩く=大久保忠真と二宮尊徳、なにをした人なの?

 2月16日に、小田原城に足を運んだ。ちょうど、梅が満開だった。ことしは梅林に行っていないので、城内の梅の香りを楽しんだ。
 山岳歴史小説「燃える山脈」で、天保の大飢饉があった時の老中は誰かと調べていた。

 天保の改革の水野忠邦は有名だが、天保5~6年ころ、将軍に近い最も権限をもった老中首座(現在・内閣総理大臣)は、小田原城主の大久保忠真(おおくぼ・ただなお)だった。
調べていくうちに、忠真は貧農の二宮尊徳を登用し、藩内の農政改革に熱心だったとわかった。

「どうも名君らしい」
 大久保忠真の実像はなにもわかっていない。他方の二宮尊徳なる人物も、小学校の銅像で有名だというていどの認識である。薪を背負って本を読んでいるから、尊徳はきっと苦学のひとだろう、貧乏育ちだろう、という銅像のイメージを越えていない。

 実際には、尊徳は何をした人なのか、戦後育ちの私たちにはいま一つわかっていない。それで、現地取材をしてみよう、と小田原にむかったのだ。


 二宮尊徳は、幼名は金次郎で、相模国・足柄の山村で生まれ育った。14歳のとき両親を亡くし、伯父の家に身を寄せた。そして、酒匂川(さかわがわ)の氾濫などで荒れ地となった田地を復興させたのだ。
 成人してから、(二十歳後)、奉公先の家老・服部家で、同家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させた。

 それが城主・忠真の眼に止まった。忠真は尊徳に小田原で農政改革をやらせたかった。だが、とりまきの重臣たちは、「身分の低い貧農の二宮尊徳の指図に従いたくない」、と強い反対をした。

 そこで忠真は大久保家の分家である知行所・下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)に送り込んだ。この地はこれまで、小田原から誰を送り込んでも、農政は悪化の一途だった。

 尊徳は荒廃した桜町領の田地を復活し、天保の飢饉で苦しむ領民を救済したのだ。さらには、学びに来た近在(600ヶ村以上)の農村や相馬藩を貧困から救った。

 二宮尊徳には独自の思想がある。名言や格言がたくさん残っている。なるほど、と教示的なものがほとんどである。知識や教養は身につけるだけではダメだ、それを使わなければ役立たない。この精神などは陽明学に近い。小さいことからはじめよ。これらが天保の窮民を救ったのだろう。
 

 私はふと一昨年、「フクシマ」取材を思いだした。相馬藩が大飢饉のさなかに、二宮尊徳から農政を学び、藩を救った。それを聞いた瞬間、「えっ、尊徳は小田原のひとではないの」という驚きをおぼえたものだ。それを思いだしていた。

 内村鑑三著『代表的日本人』で、日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる、苦難の時代の窮民を救った偉人として、二宮尊徳翁を紹介している。

 小田原城の関係者に、
「大久保家と北条家と、どちらが人気ありますか」
 と質問してみた。
「北条一辺倒ですよ。大久保忠真など良い人物はいるんですけれどね。小田原のひとには大久保の認識など殆どないですよ」
 そんなことから、忠真を取材にきたこと自体がおどろかれた。

新・温故知新(4-2)「不平等条約締結」は暗殺の狂気を正当化

『日米修好通商条約は、ほんとうに不平等条約なのだろうか』 
 疑うほどに、陰には怖い仕かけがみえてくる。

 高関税率は、国内のいちぶ特権階級や政商をもうけさせる隠れ蓑(みの)になる。国民は高いものを買わさせられる。輸入関税が高いほど、当事者がやたら儲かる構造になってくる。
 産業が育っていないときには、あまり低関税だと、国内産業のダメージは大きくなる。
 徳川幕府は20%の輸入関税をかけた。これは欧米間の協定とほぼ同じ率である。徳川代表団の優れた能力ともいえる。

 

 6年後に思わぬことが起きた。
 長州がしかけた下関戦争(1863年)と馬関戦争(1864年)で、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊に惨敗し、多大な賠償責任が日本がわに背負わされてしまったのだ。
 毛利家の暴走だが、国家間の損害賠償責任が生じてしまう。それが国際法だ。ペナルティーとして、輸入品が一律5%の低率に押さえられてしまったのだ。

 それから4年後に明治時代になると、長州閥の政治家たちは、みずからまいた種で、苦しむ結果となったのだ。ところが卑劣なのは、「徳川政権はハリスとの交渉力がなかった。日本に関税自主権がなかった」と言い、徳川側の輸入関税20%など触れず、無能あつかいにしているのだ。
 本末転倒も甚だしい。
 下関戦争・馬関戦争さえなければ、日米修好通商条約はなんら不平等条約ではなかったのだ。
 
 同条約には、1872年(明治5年)7月4日に改正とする項目があった。それにもかかわらず、政権をになった薩長の下級藩士たちは英語力と交渉力を持ち合わせていなかった。
 なぜならば、戊辰戦争・上野戦争(彰義隊)で有能な一橋家を中心とした旗本たち(現在の霞が関官僚)を殺してしまったからだ。外交交渉団が組めないのだ。

 同条約改定を先延ばしにして、輸入関税一律5%のままインフレで、みずから苦しむ結果となった。もっとも苦しむのは民だ。江戸時代以上に農民一揆や騒動が起きた。国民の目を生活苦から、西南戦争、日清戦争、日露戦争、へと求心力の強い戦争国家へと向けさせていった。

 日米修好通商条約は、領事裁判権においても、不平等だという。ほんとうだろうか。同条約文を読めば、
『日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。』
 と条文が明記されている。
 別段、不平等でなく、むしろ公平である。

 
 江戸時代には、横浜だけでも、(外人墓地に眠っている)、罪のない外国人が14人も暗殺されているのだ。かれらは母国に帰れば、妻子もいる人たちだ。
「それら外国人がなんの罪を犯したというのだろうか。肌が白かっただけだ」
 攘夷といっても、実態は無差別テロだ。
(現代でも、尊王攘夷によるテロは、『維新』のための正当な行為だと考えている人は多い)。

 一方で、アメリカ人が日本人を殺していない。実害もなかったのに、領事裁判権においては不平等だったと、声高にいう必要などない。なんの不都合もなかったのだから。まさに、作為的に造られたものだ。


 長州は禁門の変で、京都の町を3分の1も焼いた。関門海峡で欧米と戦争をし、明治以降は77年間も戦争の主導的な存在だった。
 毛利家、長州にはあらゆる面で、戦争で自己顕示したがる体質がある。
 
 最も怖いのは、日米通商条約は不平等条約だと言い、井伊大老の暗殺を正当化していることだ。『維新』という酔った言葉で、攘夷思想を美化し、井伊大老の暗殺も歴史の当然のながれとして取り扱っている。
 政治テロ行為を認めている。後世にどんな結果を及ぼしたか。大村益次郎、大久保利通など、次々に暗殺の対象になった。それだけではなかった。

 2.26事件、5.15事件へとつながった。『昭和維新』をスローガンにした軍人が内閣総理大臣まで暗殺する世になってしまった。その原点となるのは、『明治維新』の名のもとに井伊大老の暗殺が正当化されたからだ。

 テロが政治家に襲いかかれば、戦争への道につながる。2.26事件では、文官・政治家たちがテロリストに恐れをなして軍部批判ができなくなった。軍部指導の下で、太平洋戦争へと導かれていった。
 
 温故知新でふるきを訪ねた時、画一的な評価は信じる前に、疑ってみよう。
 この条約を推し進めたのは井伊直弼大老でなく、開国・積極交易派の巨頭の老中・松平忠固(ただかた)である。井伊大老は勅許を優先させよと主張していた。しかし、松平が貿易は国家のためになる条約だと調印させた。
 
 井伊大老が不平等条約を結んだ、と歴史はねつ造された。そして、暗殺が正当化された。

 歴史を折り曲げれば、いつしか数十年後、あるいは一世紀、二世紀後に、かたちを変えて出てくる。それが2.26事件、5.15事件だった。

 いまなお学校教育の歴史教科書でも、不平等条約を締結したと言い、井伊大老暗殺を正当化している。『締結時点はじつに公平・平等』。その後の馬関戦争に問題があるのだ。不平等条約の締結、という文言は早くに外させたほうがよい。

 歪曲された歴史は、国民の将来のためにはならない。偽りは教え込まないほうがよい。

新・温故知新(4-1)「不平等条約締結」は暗殺の狂気を正当化

 1月31日は、雨・雪の不安定な数日がすぎて、からっとした快晴だった。歴史の通説に対してある疑問をもって横浜港に出むいた。
 江戸時代の「横浜村」は、開港前、東海道筋から、渡し舟でしか行けない僻地だった。それはいまから159年前だ。

 日本は安政5(1858)年、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと通商条約を結び、世界と貿易をはじめた。横浜、函館、神戸、長崎、新潟の5港が貿易港となった。
 ここから日本の産業と文化はいちじるしい発展をとげた。どの貿易港も人口は急上昇し、華やかな産業都市となった。

 関連する場所や、「横浜開国資料館」、「横浜市開国記念館」などを訪ねた。

 それら館内に入ると、横浜開港(安政5年6月15日)直後からのにぎわいを謳歌する浮世絵が目いっぱい展示されている。外国人居留地の写真パネルもずらりならぶ。外国人、商人、見物者、業馬、荷物、これでもかこれでもか、と満ち溢れている。

『日米修好通商条約は、領事裁判権や協定関税制度を含む不平等条約』
 館内のパネルにも、図録にも、それは疑問の余地もない雰囲気だった。しかし、歴史は通説ほど、あやしいところがある。
(ほんとうかな)
 と疑ってみる必要がある。


「不平等というからには、日米修好通商条約はなかった方が良かったのですかね」
 私はストレートにある学芸員に質問してみた。とたんに、嫌な顔をされた。

「通商条約は必要でした。貿易がないと、国は発展しませんから」
(そうだろうな)
 横浜村が絹織物の輸出窓口になり、膨大な輸出入で繁栄した。通商後の横浜のにぎわいは1年、2年にして、空前の発展だ。横浜関係者はこの条約を否定できるはずがない。

「ところで、德川幕府の代表団は、15回に及ぶ米国・ハリスとの粘り強い交渉で、インド、中国(各5%)よりも、日本は高い関税をかけている。不平等だというからには、実害は記録として残っているんですか」
 この質問にたいしても、嫌な顔をされた。

「そんな記録は存在しないですね。町人は日記をつけていないから」
 しどろもどろな学芸員は、そんな苦しまぎれな説明をしていた。

(バカなことを言っているな。識字率は世界一進んでいる。農商の商人も、庄屋も、大福帳など記録は小まめに書いている) 
 内心、そんなあなどった気持ちにさせられた。

 この学芸員は明治政府がわい曲した「不平等」という表現をうのみにしているだけだ。独自研究はなされていないな、と思った。


 別の施設を訪ねた。

「なぜ、不平等なんですか」
 私はそう訊いてみた。
「外国の貿易商は、交渉力に優れていました。日本の販売者は海外情報がないから、言いなりにならざるを得なかった。なぜならば、当時は世界を股に跳びはねて、売り歩く力量がなかったから、国際価格など知識不足でした」
 ある館内説明者は、そう説明していた。
(ほんとうかな。横浜を知り尽くしている顔しているが、それはあんたの想像じゃないの)
 私はこころのなかで、そんな想いになった。


(外国人貿易人は、横浜の居留地から出られない。日本各地の養蚕地を訪ね歩けない。これは市場調査はできないから、日本人問屋の言いなりだった)
 日本のしたたかな絹問屋たちは、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの貿易商相手に、見本品をみせて、あれこれ条件の良い商談を推しすすめた。それが群馬、長野、飛騨などの養蚕地に高収益をもたらした。


 日本人がアメリカに渡れば、居留地に押し込められることはない。USAのどの地へも通行が認められている。
『日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。』と同条約にある。
 不平等条約だと声高に言えるのは、アメリカがわのはずだ。日本に有利な面は頬かぶりして、不利な面だけをかもし出そうとしている。
 作為に満ちているな、こんな狡い教科書など、日本人のだれが作ったのかな。

 全員が同じことを言う場合は、なにかしら怪しいのだ。ねつ造された歴史だから、画一的になる、と最近は通説を疑っている。……こうした疑問から、横浜を歩く。

 通商条約で飛躍的な発達をした日本経済である。それなのに、歴史教科書ではなぜ不平等条約だ、悪しき条約だと声高におしえるのだろう。ほとんどの日本人がそういう。この裏には歴史操作の作為とか悪意とかがあるに違いない。


① 明治政府の薩長閥の政治家が、德川幕府は交渉力がないと見下せば、自分たちは高く見える、という子どもによくみられる幼稚な発想だ。

② 不平等条約を結んだ張本人・井伊大老を暗殺した、テロリストの行為を正当化させるためのものだ。


 この2点に絞り込んだ。 
 徳川幕府の代表団と、ハリスとの交渉をみてみると、食料は5%(漁具、建材)と低率にしている。その理由はかんたんだ。過剰人口の日本は食糧難だから、低関税率で輸入を促進するのは当然だ。天明・天保の大飢饉で、日本じゅうに大勢の死者を出している。それは今後ともつづく。食糧の輸入が急務だから、低関税率だ。

 それ以外は輸入品は一律20%であり、酒類は35%の高関税であった。外国を見てみると、イギリス国はインド、中国と一律5%の定率である。西欧の国どうしも、おおむね20%である。徳川幕府の交渉力はアジアではずば抜けて優秀で、一律20%である。

 明治政府は、德川幕府は交渉力がないと見下したいのだろうが、日本側には決して不利な条約ではない。
 しかしながら、現在の教科書でも、悲しいかな、こうした税率を示さず、徳川幕府は不平等条約を結んだの一点張りだ。だから、日本人は画一的に信じ込んでいる。これは恐ろしいことだ。

                             【つづく】

またしても式年造替に出会う=奈良・春日大社

 散策気分で、春日大社を訪ねると、第六十次式年造替(しきねんぞうたい)のさなかだった。大イベントだった。
 かんたんに言えば、20年に一度の神社の全面建て替えである。(本殿リフォーム)。だから、神々を祀るものが、仮の場所・建物に移されている。それらが特別拝観できる。(500円)。

  皇室や神職など特別なお方しか拝殿できない内侍殿(ないしんでん)が、建て替え工事ちゅうは見ることができる。国宝、重要文化財が、仮の場所で狭苦しくならべられている。これらがまじかで、皇室の方々とおなじ立つ位置で拝観ができるのだ。

 神社参りの方には、たまらない魅力だろう。全国の信者にはとてつもない、見学のチャンスだとおもう。

 ちょうど60回という実に区切りのよさから、明治維新から140年間も閉ざされていた「後殿後門」が開かれていた。本殿の真後ろにある5つの神社が拝観できた。
「災難・魔除けの霊感新たな神々」と明記されていた。それらの効能・ご利益もさることながら、140年間にして、という文言には惹かれるものがある。
 
 
 私は2013年にぶらり訪ねた、伊勢神宮でも、ぐうぜん式年造替にあたっていた。同神社所有の森の樹木1本1本が、どの年度の式年造替に使うかと印で決められているという。数十年、数百年先までも見据えた森の管理には驚かされたものだ。
 タイミングの問題だとはおもうが、屋根の檜皮葺(ひわだぶき)は見れなかった。

 春日神社の場合は特別公開で、「ずいぶん貴重なものがすぐ側で見られるのだな」と感慨をうけた。伊勢神宮のときよりも、春日大社の方が惹かれる度合いが高かった。冬場で、拝観者も少なく、パネルなども、しっかり読めた。

「満灯籠」を再現した、「藤浪の屋」(重要文化財)は、素晴らしかった。春日大社には奉納された灯籠はおよそ3000基ある。
 2月の節分、8月14、15日の年3回は、すべての灯籠に灯りがともされる。
 それが再現されている。幻想的だった。
 若宮15社巡りなどは、事前に、ネットなどで、どんな神様か知っていると、目的にもかなうだろう。
「知恵を授けてくれる神様」
「開運財産をお守りくださる神様」
「延命長寿をお守りくださる神様」
「ひらめきの神様」

ちょっと愉快だったのは、
「一言主神様で、一言だけ願えれば、かなえてくれる」
 と明記していた。あれこれ頼んではご利益はないかもしれない。

 同社によると、平成28年11月6日に新装になった本殿に、祀る神々が遷宮されるという。まじかになると、大イベントの多くは駆け込みで、にぎわい、満足にみられないのが常だから。特別拝観は、この春、初夏あたりがチャンスかもしれない。

 同社は藤の花が咲けば、見ごたえあるらしい。その見ごろを狙う方法もある。ただ、奈良のひとは知っているだろうから、それもきっと大勢の人出でにぎわうと予測できる。

宇喜多秀家との出会い=奈良・春日大社の第六十次式年造替で

 春日大社の境内は「第六十次式年造替(しきねんぞうたい)」で、吊り灯籠が寄せ集められていた。歴史上に名を馳せた武将たちが寄進しているのだ。それは見ごたえがあった。
 一つひとつ興味ぶかくていねいに見ていった。思いがけずに出会った武将がいる。それは宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)で、なつかしいな、と吊り灯籠のまえでつぶやいた。

 私は30歳代から作家をめざす習作時代がつづいた。純文学にこだわっていた。筆仲間から、ストーリーテーラーだと言われ、エンターのほうがぜったいに合っているよ、そのほうが早くに世に出るよ、と何度も何人からも言われつづけてきた。
「別に売れる作品(商品)を書きたいわけじゃない」
 とかたくなに受け入れなかった。

 たしかに、私は純文学の粘着質な体質ではない。性格的にはこだわりが少なく、きっと合っていないと自分でもおもう。それでも歳月を重ねれば、筆力はあがり、「人間を描く文学」純文学に近づけるだろう、と考えていた。それだけ世に出るのが遅かったと認識している。

 純文学にこだわるなかで、ふいに歴史的な人物を書いてみたいと思ったのが、宇喜多秀家だった。この人物を通して、人間とは何か、それが探究できるとかんがえたのだ。


 秀家は岡山城の城主として、9歳で家督を相続した。毛利征伐で岡山に出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)から、容姿端麗の秀家は気に入られ、養子あつかいを受ける。やがて、かれは秀吉の養女の豪姫(前田利家の娘)を正室とした。

 秀家は、秀吉の天下取りの戦いで数々の戦功を挙げている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では大将として武勲を挙げたことから、豊臣政権下の五大老のひとり(徳川家康、前田利家らととも)に任じられた。
 名実ともに政権の実力者に名をつらねた。

豊臣と徳川の関ヶ原の戦いは、この秀家が仕掛けたともいわれている。かれは西軍の総大将となった。しかし、豊臣がわは壊滅し、かれは敗走しながら薩摩の島津家へ逃れた。
 3年後に家康に引き渡された。死罪をまぬがれて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。


 まさに奈落の底に落ちた武将だった。
 島暮らしが約50年で、83歳で没した。関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物である。八丈島の流人の秀家には、前田家の豪姫から援助が続けられていた。

 豊臣の頂点に立った秀家が、流人の恥辱のもとで、約50年間にわたり、生きながらえた。この人物を掘り下げれば、「人間の強さ」、あるいは「生きる目的とは何か」、それが究明できるだろう、と考えたのだ。
 秀家と豪姫と会えずしても、支援物資でつながっている。夫婦とはなにか。それらも掘り下げたかった。
 こうした着眼点で、岡山城までも取材にいった。人物が大きすぎて、私の筆が追い付かず、結果として八丈島に取材にいかずして、断念した経緯がある。

 宇喜多秀家の吊り灯籠を凝視しながら、いまならば、どうだろう、武将としてでなく、人間として書けるだろうか、と私は自分の筆力を考えていた。

新・温故知新(3)=景気対策だと国債をつかう、大塩の乱に学ぶ

 国債発行は途轍(とてつ)もない額になっている。1965年度の補正予算で不況脱出の名の下に、赤字国債を発行し、約50年間で、1000兆円を超えた。
 このまま赤字国債が償還できずにいると、いつしかハイパー・インフレ(超物価高騰)になり、円通貨の価値を失う。
 
 当然ながら、諸外国は価値の下落した国家には、物は売りたくない。そうなると、国際通貨基金などは、おもいきった緊縮財政を要求してくるだろう。

 そこでなにが起こるのか。歴史を庶民の目でみる習慣がないと、私たちがどんな生活になるか、想像もつかないはず。大幅な飢餓社会がくるのだ。と同時に、極度な格差が生まれてくる。
 庶民が苦しめば、苦しむほど、巧く立ちまわり、暴利を得るものがでてくる。「うまく儲ける人間」が背後で政治と結びつくものだ。


 いつも、西郷隆盛、坂本龍馬、山本五十六になったような英雄史観で、歴史小説を読んでいると、ハイパーインフレにたいして、『歴史から学ぶ』という目線は育ってこない。なんら予測できず、極貧の渦中に投げ出されてしまう。

 歴史から学ぶとすれば、「大塩平八郎の乱」がわかりやすい。


 江戸時代の天保8年(1837年)に、「大塩平八郎の乱」がおきた。「島原の乱」から初めての反乱であった。
 大坂町奉行所の与力だった大塩平八郎は、現職時代には不正取締りで、德川家の上層部も連座から、わが身をおびえさせた、凄腕だった。
 その後は、家塾の教育者となり、窮民には書物を売って恵み与えていた。
 やがて、かれは為政者の役人と大坂の豪商の癒着(ゆちゃく)と不正を断罪するために、約300人を率いて反乱を起こし、豪商を襲ったのだ。
 半日で鎮圧されます。大塩は後日、自決する。教科書はまずここらあたりまでです。


 このわずか半日が、德川政権崩壊への幕末史のスタートです。
 ペリー提督がきて幕末史がうごく、というのは明治政府が都合よく、自分たちをおおきく見せるためのものです。それ以前にも、アメリカから通商を求めて、長崎にも、江戸湾の浦賀にも、来航してきています。
 アヘン戦争では蒸気船の軍艦がつかわれています。英国と中国の戦争の内容が、日本にも伝わり、老中も、諸大名も蒸気船の存在を知っていました。
 それなのに、明治政府は、ペリー来航に蒸気船の軍艦2隻が加わっていただけで、日本じゅうが恐怖のどん底に落ちたように、わい曲しています。
 その実、浦賀は初の蒸気船で、武士と庶民の見学者であふれかえり、奉行所はその人の整理に苦慮していたのです。


 大塩の乱は、德川政権を震撼させた反乱です。ペリー提督の浦賀来航よりも、おおきな影響を与えています。
 それはなぜか。
 かれが乱を起こす直前に、大坂周辺に、「村々の貧しき農民にまで、この檄文を贈る。天下の民が生前に困窮するようでは、その国も滅びるであらう。』と、文章を撒(ま)いたのです。

 この『檄文』が諸国に伝わると、折からの大凶作で、農民一揆、打ち壊しが各地で多発したのです。つまり、歴史を変える幹が動いたのです。

 歴史はつねに庶民がつくるものです。慶応3年の庶民の「ええじゃないか」運動は物価高騰のハイパーインフレによる庶民の怒りです。
 第15代慶喜将軍が経済政策に手を打てず、庶民を武力弾圧もできず、天皇への「大政奉還」へと及びます。つまり、外交は強い慶喜が内政のハイパーインフレに屈したのです。

 坂本龍馬がひとり「日本を洗濯する」と言い、英雄として描くのはあまりにも、歴史作家が創作しすぎています。尊王攘夷を訴える志士だけで、巨大な徳川政権が倒れるほど、徳川家は弱くなかった。現在も、御三家は脈々と継続しています。

 現在も、諸外国がハイパーインフレに襲われると、政権のトップが入れ替わっています。

 
 大塩平八郎が乱を起す直前に、『檄文』を教科書でおしえてくれると、日本がやがてくるだろう、ハイパーインフレが庶民をいかにどん底生活に突き落とすか、と温故知新で学べるのです。


大塩平八郎『檄文』を抜粋


『政治にあたる器でない小人どもに、国を治めさしておくと、災害(人災)が起こる。
 年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他いろいろ様々の天災(天保大飢饉)が起きて、庶民か飢餓状態にある。それなのに、得手勝手な政治を致し、役人は窮民を救済せず、税金を取り立てることにばかりに熱中している。』


『大坂の金持どもは、諸大名へ金を貸付けて、その利子の金銀ならびに扶持米を莫大に奪い取り、未曾有の有福な暮しをしている。
 餓死していく貧人、乞食もあえて救おうともせず、かれらは山海の珍味を食べ、妾宅等へ入込み、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水ごとき飲ませ、振舞っている。』


 大塩は元与力でだけに、鋭く観察しています。


『一般の民が難渋している時、豪商は絹服をまとひ、芝居役者を妓女とともに迎へて、遊楽に耽つている。なんということか。日々、堂島に相場ばかりをもてあそんでいる。堪忍し難くなった。』

 現代でいえば、財閥級の大金持は株、為替、穀物の相場で、もてあそんで儲けている情況です。


『この頃は、米価が高値になり、市民が苦しむ。それに関はらず、大阪の奉行ならびに諸役人どもは、万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに、得手勝手の政治を致している。
 江戸の廻し米を企らみながら、天子(天皇)御在所の京都へは廻米をしていない。それのみでなく、五升一斗位の米を大阪に買いにくる者すら、これを召捕るという、ひどいことを致している。
 むかし葛伯といふ大名は、その領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したという。それと同様に、ヤミ米取締りは言語道断のはなしだ。
 何れの土地(大坂、京都、江戸、どの諸国)であっても、人民は徳川家御支配のものに相違ないのだ。』


 為政者は立身出世、一家の生活を肥やす工夫のみに知恵をはたらかすと、糾弾しています。具体的には、大坂の町奉行(当時は行政・司法の支配者)が、江戸の德川将軍の威光ばかり気にした政治をしているから、大坂の米価が暴騰するのだ。これは人災だ、と大塩は義憤しているのです。

 
『政権を手にしている者は、不正を取締り、下民を救ふべきである。それができなくて、下民を苦しめている。そんな諸役人はまず誅伐し、おごりに耽っている大坂市中の金持どもも誅戮に及ぶことにした。地頭、村方にある税金などに関した、諸記録や帳面類はすべて引破り、焼き捨てる。』

 大塩の怒りはついに頂点に達し、乱の決行へと及びます。


『この書付(檄文)を村々にまわしてほしい。
 騒動が起つたことを耳に聞いたならば、距離を問わず、一刻もはやく大阪へ向けはせ参じてきてほしい。それぞれに金米を分配し、驕(おごる)者の遊金を分配する。それが趣意である。
 器量、才力あるものは無道の者どもを征伐するために、軍役にも使たいのである。』


 半日で鎮圧された大塩の乱ですが、この『檄文』が全国へと流布していきました。農民一揆、打ち壊し、さらには水野忠邦の失政となり、德川政権の土台が崩れてくるのです。
 つまり、農民・庶民は為政者の言いなりにならない、「抵抗する庶民」へと目覚めさせたのです。これが政権破綻へと結びつくのです。

 
 現代の国債がこのさき2000兆円になったらどうなるのでしょうか。政治家は施策で償還できず、一方で国税、地方税の不足から、税の取立てに躍起になってくるでしょう。国際社会の厳しい緊縮要請からも。

 日本国じゅうに失業者が溢れると、生活保護など期待しても、予算がないと門前払い。多少でも、資産があれば、政治家が資産税金、預金税として取り立ててくる。
 ところが、政治の裏の裏を知る人間だけは、それでもうまく生き永らえる。


 ある意味で、大塩平八郎は為政者からみれば、テロリズムです。しかし、庶民の立場で政治を変えよう、政治を正そうとしたことは事実です。
 ハイパー・インフレ(超物価高騰)になっても、小説上の坂本龍馬など出てきません。龍馬は娯楽ものとして認知する、大塩の『檄文』から、私たちの数十年後を考えた方が、「古きを訪ね、新しきを知る」という温故知新になります。
 

 過去の戦争は、赤字国債で軍備を拡張してきた背景があります。
 その歴史的な反省で、『耐えがたきを耐え』と戦後は国債発行をやめていました。しかし、そこから20年経つと、『景気対策だと言い、国債をつかう』国家になってしまったのです。政治家は景気が冷えることをやたら怖れています。他に方法・施策はないのでしょうか。

 この安易さは天保の飢餓・飢饉への災害とおなじで、国家の破産宣告への道へとつながってしまう。
大塩が見立てた『政治にあたる器でない小人どもに、国を治めさしておく』という人災となるでしょう。

 

新・温故知新(2)=薩長による「倒幕」は、明治政府の欺まんの造語

 徳川政権は内部の腐敗とか、分裂とかで、滅びたのではない。外国からの侵略でもない。日本人がみずからの判断で、政権を天皇に返上した、大政奉還によるものだ。

 現在でも、德川家はしっかり存続している。德川家は倒れていないのに、なぜ、倒幕なのか。そんな疑問を掘り下げれば、明治政府がつくった教科書の「幕藩体制」なども、まやかしだとわかる。


 学校で教わることは正しい。一般人は教科書をうのみにしやすいから、明治政府は歴史教育を戦争への思想教育につかったのだ。「時は経った、明治の為政者にもはや遠慮することはない」。それなのに、戦後教育を受けてきた私たちは、いまだ過去の歴史教育のうえで教えられているのだ。

 歴史的事実に近いところに、正した方が良い。若者や児童に悪影響を与えないためにも。

 
「德川幕府」の表現は、明治政府による造語である。江戸時代は、「公儀」と呼ばれていた。あるいは「徳川将軍家」である。


 明治政府を擁立した薩長閥の政治家たちは、ほとんどが下級武士である。自分たちを背伸びしておおきく見せるためには、德川政権を悪く言い、攻撃し、罵詈雑言をならべたてた。

「大政奉還で、明治政権ができました」
 これでは大きく見えない。

「公儀を倒した」
 これでも、語呂のおさまりが悪い。

「德川家を倒しました」
 戊辰戦争後も德川家は存続しているのだから、それも不自然だ。(きょう現在も德川家は存続しているし、御三家はどこも倒れていない)

「德川幕府を倒幕した」
 こう自慢げに語るほうが、「鎌倉幕府を倒した」に似通っているから、ひびきが良い。そのためには「德川幕府」という表現が必要だった。

 徳川御三家が德川幕府を構成していた、と多くの人は単純に考えている。厳密にいえば、8代徳川将軍・吉宗は、御三家から将軍を出させない仕組みを作ったのだ。
 それが田安家、清水家、一橋家である。

 わかりやすいところで、「一橋慶喜」であり、水戸慶喜でない。慶喜は水戸家からいったん一橋家に養子に入り、将軍になったのだ。

 この政権は譜代大名の老中支配だった。かれらは数年に一度入れ替わり、なおかつ月当番制だった。老中は世襲でない。実務は旗本である。(現在の霞が関の官僚の仕組みは吉宗が作った)。

 薩長が「討幕した」といわれても、将軍も、老中、いずこの大名も一人も殺されていない。徳川家は尾張も、紀州も、水戸家も残っている。

 やはり、大政奉還で、王政復古で、明治政府ができたのだ。「徳川政権解体」。これが正しい認識である。薩長が武力で討幕した、という大きく見せる表現は間違っている。


 ちなみに江戸時代には、「家」制度で、「藩」という表現は用いられていなかった。明治政府が廃藩置県のために作ったものだ。
 長州藩でなく「毛利家」、薩摩藩でなく「島津家」、たにも「松平家」「德川家」である。支配する大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕えるものは家中(かちゅう)、家臣(かしん)などで呼ばれていた。

 山口県人は、なにかと長州藩と胸を張って使いたがる。下関は「長府」、岩国は「吉川」で、萩「毛利」とは別ものである。とても仲が悪かった。
 長府の家臣らに「高杉晋作は殺してやる」と追いまくられている。

 司馬遼太郎は明治の英雄づくり、竜馬を大きく見せるためにも、「長州藩を守る」とか、「長州藩士」とか、書きまくった。面白おかしく小説化している。

 その司馬史観が多くのひとに錯誤を与えている。

 徳川幕府対長州藩の対立構造ではない、間違っている。徳川家と毛利家の「家」の争いである。
 徳川将軍家は、毛利家を改易(取りつぶし)して萩城から追出し、いずこか松平家、浅野家、細川家などの大名と取り換えたかっただけである。

 わかりやすい事例でいえば、赤穂浅野家が改易で、下野国烏山家の永井直敬が入った。赤穂の庶民にはたんに大名が変わっただけである。

 このような「公儀」と「家」の表現で、江戸時代から明治時代の「時の流れ」をみていくだけでも、歴史の真実と欺まんがみえてくる。 

新・温故知新(1)=過去を訪ねて歪曲されていると、知新ならず

 2015年が騒がしく終わる。「戦後70年」と題した、第2次世界大戦の戦争責任問題などがとりあげられてきた。その多くは「満州国」に端を発した、戦争問題に言及している。

 明治維新後から、日本が10年に一度は海外侵略をおこってきた。政治家や日本軍部が「欧米の植民地にならないための施策だった」という擁護論にもつながっている。
 この論じ方は一種のまやかしである。

 もっと遠く、幕末までさかのぼらないと、真の戦争責任は解明できない。

 日本が中国大陸に「満州国」を設立した。他国の領土に、別の国家をつくってよいはずがない。国際連盟の加盟国が総反発した。42か国が非難決議し、常任理事国の日本が脱退し、わが国は経済封鎖された。

 軍部のなかでも統帥部が独走し、当時の政治家はそれを抑えきれず、海軍によるパールハーバーの奇襲攻撃がおこなわれた。軍人・民間人を問わず、国内外に未曾有の大量犠牲者を出してしまったのだ。
 そして、広島・長崎の原爆投下で終了した。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)では、真珠湾攻撃を推し進めた海軍関係者は、司法取引したのだろうか、だれも絞首刑になっていない。
 歴史の真の事実はとかく隠されてしまう。


 そもそも、この満州国擁立の思想はいったいだれから出てきたのか。二度と戦争を起こさないためにも、温故知新で、真の探究をするべきである。いつまでも隠していては、将来の日本のためにはならない。

 幕末の軍事思想家の吉田松陰は、毛利家から狂気の思想家だと言い、萩から江戸町奉行に送られた。ちょうど安政の大獄と重なり、処刑された。

 松陰はそれ以前に松下村塾で、、『幽囚録』(ゆうしゅうろく) を教材として、満州侵略を教えていたのだ。
 山縣有朋や田中儀一など長州閥の政治家たちが、松陰の軍事思想をう呑みにし、松陰すら神として祀り、忠実に満州国を実現しようと、武力で展開してきた。

 ことしはNHK大河ドラマで、吉田松陰が放映された。メディアも、山口県側からも、吉田松陰の功績は声高かにいうが、『幽囚録』を発してこない。
「黙っている、教えない」。それは国民にたいして隠していることと同じなのだ。


 幽囚録(ゆうしゅうろく) 現代語訳

『 日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。

 今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ

 その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。』 

                                (写真の部分)


 明治時代に入ると、長州閥の政治家たちは、北海道の屯田兵、千島列島への侵略、琉球の日本支配(廃藩置県で)、征韓論で朝鮮侵略(伊藤博文・長州閥の総理は暗殺される)、そして満州国へ、さらに台湾へ、と松陰の軍事侵略思想どおり実行してきた。
 
 これが第2次世界大戦(太平洋戦争)の諸悪の根幹である。歴史的事実として、日本国民はみな知るべき内容である。

 多くの大人たちはいまや萩に旅し、吉田松陰神社で賽銭を挙げるなど、信条・思想は凝(こ)りかたまっているだろう。

 となると、将来を担う学生たちに、戦争の惨さと、並行して、吉田松陰著『幽囚録』は教えるべきだ。それが温故知新で、なぜ戦争が起こったかと、もっともわかりやすく理解させやすい。

 あえていえば、「幽囚録」にはインドへの侵略思想が入っている。ここらも、ひも解くと、もっと奥行きがでてくる。
 

幕末・海防政策を取材する=韮山反射炉から 『日本人の恥を知る』

 德川幕府が「韮山(にらやま)反射炉」を作ったのに、なぜ『明治日本の産業革命遺産』なのか。萩の城下町は関ヶ原以降、広島から転封された毛利家の家臣団が街をつくったものだ。明治にできた城下町ではない。松下村塾も、徳川時代だ。他にも長崎関連で数々の文明が德川政権時代にできている。

 それなのに、明治時代からのスタートの遺跡にしてしまう。どう考えても、事実を歪曲したひどい話だと思う。

 明治時代の長州閥の政治家たちは、德川関連の歴史教科書をねつ造した。これもひどいものがある。明治政府が10年にいちどの戦争をくり広げてきた。日本人は言いなりで、政府の暴走を止められなかった。『明治日本の産業革命遺産』が明らかに間違っているとしても、「お上に楯(たて)突かない。間違っても、平伏する」。その精神は明治も、平成も、まったくおなじか、と嫌な気持ちにさせられた取材だった。
 

 アヘン戦争後に、当時の徳川幕府はどのような海防政策を取ったか。幕末小説の執筆の一環で、各地をまわり、細かく取材している。それには、伊豆半島の韮山代官だった江川英龍(えがわ ひでたつ)の掘り下げは外せない。

 德川幕府の直轄領は、すべて勘定奉行所の指揮下にあった。郡代、代官とも、江戸から送り込まれた官吏(旗本)である。
 かれらは数年ごとに変わる。ただ、韮山代官は江川家の世襲だった。

 韮山といえば、伊豆半島の付け根の小さな集落である。しかし、韮山代官の支配地域は、伊豆国、駿河国・相模国・武蔵国に、および幕末には甲斐国も管轄していた。石高は5 - 10万石余。思いのほかおおきく関東一円である。

 徳川家康が関ヶ原の戦いなどの恩賞として世襲を与えたようだ。

 天保11(1840)年勃発したアヘン戦争は、イギリス・フランスの列強が武力で、清国を打ちのめした。同じことが日本で起こるのではないか、と德川政権下で、幕府も、各藩も、それを怖れていた。

 国が植民地化されると、どの藩主も、大名家も支配力施政権を失う。最悪はみずからも奴隷になると恐れた。他人事ではなかった。

 おしよせる欧米列強諸国に対抗するためにも、こぞって軍事力の強化が課題となった。攻め入る外国艦船を砲撃できる大砲がとくに必要だった。

 そんな模索ちゅうに、1853(嘉永6)年には、ペリー提督が浦賀に来航した。老中首座の阿部正弘がすぐさま韮山代官・江川英龍に幕府直営の大砲づくりの軍需工場の建築、運営を命じたのだ。


 多くの藩が長崎へ人材を送り、蘭学に通じた学者たちがオランダなど西洋書物から、鉄製洋式砲の生産の研究と図面づくりからはじめた。

 そのひとり江川英龍は、安政2(1855)年に、死去した。跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、2年後の安政4(1857)年に完成させたのが、韮山反射炉だ。

 このごろ佐賀藩や薩摩藩など、各地に反射炉が作られた。ある意味で、幕府の韮山反射炉よりも優れていたらしいが、現存していない。当時のまま残っているのは、萩と韮山の反射炉のみ。とくに 韮山反射炉は実際に稼働し、大砲を鋳造していたものだ。


 鋳型に融けた鉄を流し込んで、砲を鋳造する。大規模な砲兵工廠があったと記録に残る。だが、現在は反射炉しか残っていない。
 どんな大砲が製造されたか。実物大の大砲が展示されている。銃刀法の関係から、砲身はつぶされていた。

 ことし2015年に、世界文化遺産になった。観光バスできた大勢の見物人が群がっていた。かれらは製鉄知識などみじんも持ち合わせていないから、ガイドにバカな質問やダジャレばかり飛ばしていた。

 歴史をねつ造して世界遺産をきめた政治家にたいしても、疑問すらもたず盲従する見学者たちにもウンザリさせられた。


 世界文化遺産とはなにか。世界に価値ある文化遺産を、世界の人が共有して残そうとするものだ。それには正しい知識の提供がたいせつだ。内容と表記において嘘をついてはいけない。


『アヘン戦争は、植民地主義の欧州の負の財産である』
 かれら列強がアジア諸国へと侵略してくるなかで、徳川政権は必死に植民地回避、海防政策に命をかけてきた。各藩も、こぞって日本列島の沿岸警備に力をつくしてきた。その証しのひとつが、韮山反射炉なのだ。
 これはアヘン戦争という世界史にもからむ重要な遺跡なのだ。単なる日本史の遺跡とはちがう。世界史の重要な史跡なのだ。アヘン戦争に対する日本人およびアジア人の恐怖。世界じゅうから訪ねてくる人たちに知ってもらう。この認識があるべき姿だ。


 安政の開国から15年間も徳川政権はつづいている。アヘン戦争後における未曽有の変動期にできたものまでも、『明治日本の産業革命遺産』と称して、偽りをおしえる必要があるのか。

 おおかた明治政府を大きく見せたいのだろう。だが、世界史まで、折り曲げてはいけない。世界じゅうから、世界文化遺跡を訪ねてくる外国人に、大ウソをつく、背任行為だ。こんな申請をした人物が、日本人のなかにいる。それ自体が実に恥ずかしいことだ。