歴史の旅・真実とロマンをもとめて

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(中)

 天保10年(1839年)5月に、蛮社の獄(ばんしゃのごく)が起きた。名高い言論弾圧事件である。

 田原藩の国家老だった渡辺崋山は自殺した。高野長英は永久牢獄の処分となった。しかし、牢獄で放火し、逃亡生活を続けていた。やがて見破られて殺された。


 高野長英の『戊戌夢物語』は幕府批判をかわすために、あえて夢物語として、辛辣(しんらつ)に書き綴ったのだ。
 その内容の一部を紹介してみたい。これは中国でアヘン戦争がおこる2年前に書かれたものだ、という認識で読まれると、徳川時代の海外情報力がわかる。

 鎖国だから海外情報は皆無に近い、と思われている人は、なぜ、学校教育で、ここまで教えてくれなかったのか、とつよい疑問をおぼえるだろう。


高野長英著『戊戌夢物語』(現代訳)
 
「イギリス国は、オランダの王都のアムステルダムから180里(720キロ)ほど離れている。気候は日本よりもやや寒い国。人口は1770万6000人。イギリス人は敏掟な身のこなし、理解や判断が早く、物事の勉強を怠らず、文学に勤め、工技を研究し、武術を練磨し、『民を富まし国を彊(つよ)くしていることを第一の努め(目標)としている。
 イギリスの沿岸は浅瀬が多く、外寇が入り難く、近年のナポレオン侵攻も、国民は戦火をまぬがれた。首都のロンドンし繁栄し、町並みが美しく、人家が密集し、人口はおよそ100万人。海運の都合がよい立地で、諸国との交易の中心となっている。
 諸国に航海し、未開の土地で植民を行い、未開の原住民を指導し、服従せしめている。いまや外国の支配下の人口は7424万人で、イギリス本国の4倍にもなる。
 
① 北アメリカという国(カナダ)
② 北アメリカと南アメリカの中間にある、西インド諸島。
③ アフリカ州
④ 日本の極南にある、新オランダ(オーストリア)。
⑤ 南アメリカのブラジル。コイネア(ガイアナ)およびカルホルニア付近。
⑥ 天竺(インド)
⑦  インドのムガールとい、雲南、暹羅(シャム)の南部の地域。
⑦ 日本近海の無人島(小笠原)より南の諸島。

 イギリスは軍艦を利用し、1隻につき4、50門の大砲(石火矢)を備えて、それぞれに役人をさしむけて支配している。軍艦の総数は、2万5860艘。役人は都合17万8620人、下役は40万6000人、ほかに水夫、雑役などを合わせると、100万人ほどになる。

 かれらの航海術はことのほか熟練しており、外国への拡大と交易の道が旺盛にして盛んになっている。
 イギリスは支那(シナ)と前々から交易し、広東のそばに土地を与えられて商館を営み、総督や役人を駐留させている。南海諸島やアメリカの産物を数十艘に積んで、広東に輸送いたし、もっぱらお茶と交換し、それを本国・イギリスに送っている。

 イギリスは雲南、シャムのあたりにも領土を持っており、これが支那の属国と境を接しており、このあたりの住民が騒乱を起こし、国境を越えて、交戦することが時々ある。

 イギリスと中国との交易が盛んになるほど、ポルトガル、オランダは自然と衰退ぎみになってきた。そこでかれらは色々と清国に告げ口をしたり、誹謗(ひぼう)したりしている。
 清国はそのまま誹謗を信用している。しだいにイギリスへの嫌悪感が拡大し、双方の交易量と荷捌きが不振に陥ってきた。そのうえ、乾隆という皇帝の頃から、清の未払い勘定が日増しに増加してきて、いまやイギリスの清との交易は完全に行き詰っている。
 
 イギリス本国でも、広東貿易を完全に中止するべきだという意見が出てきた。片や、イギリス本国では近年お茶を楽しむことが流行し、喫茶が大衆化した。
 イギリス領の南海諸島の島やインド、アメリカのお茶は多く産出する。だけれど、品質が支那に比べてはるかに劣る。広東貿易をやめれば、良質のお茶が入らず、国民への迷惑に及んでしまう。
 
 イギリス政府は清との関係改善を図るために、使節を派遣する。乾隆帝に子(嘉慶帝)が生まれたので、その誕生をお祝いし、貢物を北京の朝廷に献上する名目ができた。
 イギリス政府は人選の結果、ロード・マカートニーなる人物を選んで、彼を正使として清に向かわせることに決めた。清は天文学・医術・物産学が未熟なので、これらの学術に精通した者も選んで同船させている」

 こんなにも優れた情報力が日本にあったのだ。まさに、イギリスと清国と戦争状態に突入しかねない、不穏な空気が克明が高野長英の書物に明記されているのだ。

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(上)

 最近、もっともおどろいたことのひとつは、 高野長英の『夢物語』だった。言論弾圧事件の『蛮社の獄』(ばんしゃのごく)の発端となった書物だ。19世紀の日本はアヘン戦争まえから、イギリス情報をくわしく知っていた。
 同書を読み終えたわたしは、日本の歴史教育へのつよい不信感をおぼえた。それは「徳川時代は鎖国政策で、海外情報にはうとく、無知も同然だった。ペリー提督が来航したときには、幕閣は右往左往し、外圧に大砲外交で、強引に門戸を開かれた」と教え込まれていた。実際はそうではなかった。
 高野長英の書物から、わたしたちの受けた歴教育が、故意に歪曲されたものだった、とこれまで以上に知りえた。がく然とした。


 天保時代には、蘭学、儒学者、為政者を問わずに幅ひろくあつまる尚歯会(しょうしかい)なるグループがあった。医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたって情報交換する場だった。

 
 1837年(天保8年)、国内をゆるがす大きな事件がおきた。日本人漂流民7人を送りとどけにきたアメリカ商船・モリソン号が浦賀に現れたのだ。
「異国船打払令」によって、浦賀から大砲を放ち、その船舶を追い払った事件である。

 1年後に、このモリソン船は日本人漂流民の送還と、通商・布教目的できたとわかったのだ。ただ、この段階でも、イギリス船だと思われていた。


 三河国・田原藩家老・渡辺崋山が、『慎機論』(しんきろん)を書き記した。そこには海外情報が三州渥美郡の南隅の小さい藩でも、外国の噂も入ってくる。外国の動きには敏感だ、と書き記されている。

慎機論』(一部・現代文)

『小国ポーランドが、いまやヨーロッパ列強に食い荒らされている。新興国アメリカはヨーロッパのどの国よりも強大になっている。
 漂民を送り届けた船に砲撃するようなことをくり返せば、「おなじ人間を迫害するのは、人間といえようか」と言いがかりをつけられるだろう。

 それがやがて日本国を滅ぼす原因ともなるだろう。

 現代の清は、明時代の末期のように実学を離れ、典雅風流を尊び、国の危険を忘れている。日本とて例外ではない。
 成り上がりの汚職役人が支配し、儒学者すらも海外からの危機にたいして動こうとはしない。われわれは成すすべき手はないのか』
 という絶望のことばで述べている。

 渡辺崋山は、幕府の排他的な海防政策を批判している。その一方で、海防の不備を痛烈に憂えている。
 この論旨は一貫していない。それは田原藩の家老という立場から、幕府にたいする顔色も無視できず、双方批判にならざるを得なかったのだろう。
 崋山は内心で、開国を期待しながら、海防論者を装っていた、とも解釈できる。

 この小論文『慎機論』は、言論弾圧の折、家宅捜索で出てきたものだ。つまり、世に出ていなかった。
 

 高野長英の『戊戌夢物語』は、尚歯会で読まれており、同書の写本がひろく流布して反響よんだ。
「人道的な船を打払えば、イギリスの報復があるだろう」
 高野長英は同書で、イギリスの産業と軍事力は優れている、と克明に紹介している。そのうえで、江戸幕府の撃ち払いは無謀だと、対外政策をつよく批判しているのだ。

 知識人の集まりの場・尚歯会で、これほどまでに、海外情報が克明に入手していたのか、と私たちの幕末を見る歴史観は変わってくる。少なくとも、ペリー提督が来航する15年前のできごとだ。


 言論弾圧の首謀者の鳥居耀蔵は、その実、個人的な妬(ねた)みから、幕府の鎖国政策を批判した疑いで高野長英、渡辺崋山などを捕えたのだ。
 それが蛮社の獄(ばんしゃのごく)である。


 学校教育の場では、さらっと年表的に通りすぎてしまう。否、くわしく学生に教えるとなると、明治維新の視点からみる日本史教育が、政府の都合の良いように歪曲されたものだと、露呈してしまうからだろう。
 ネット社会だ。「言論弾圧を受けた書物すら、かんたんに読める時代だ」
 それらを掘り下げてみると、隠された真実という思わぬおどろきが発見できる。

                                     【つづく】

朝日カルチャーセンター千葉・公開講座=『知られざる幕末』 6月5日(日) 

 朝日カルチャーセンター千葉で、昨年に続いて、公開講座・『知られざる幕末』を開催します。こんかいはとくに学校教育の場とは違う点を取り上げます。

日時 6/5 (日)  13:00~15:00
会費 会員 2,916円 一般 3,348円


 德川政権は260年間いちども戦争をしなかったのに、明治時代から10年に一度は戦争する軍事国家になった。だれがこんな国にしたのか。これが私のメインテーマです。「薩長閥の明治政府が行った、ねつ造とわい曲の幕末史は国民のためにならない」という視点です。


① 吉田松陰の「幽囚録(ゆうしゅうろく)」を読んだことはありますか。安政時代に、満洲を侵略しろ、と松下村塾で教えたのですよ。

② 日米修好通商条約を読んだことはありますか。学校で不平等条約だと言われて、うのみにしていませんか。

③ 西郷隆盛を上野の銅像のイメージで考えていませんか。西郷は德川家を転覆するといい、江戸・庶民にたいして強奪、略奪、人殺しまでやらせたのです。
 政府転覆を目的にした「地下鉄サリン事件」とおなじことをさせた人間が英雄ですか。

④ 「京都小御所の国政会議による王政復古の大号令」と、「鳥羽伏見の戦い」と、どちらが軍事クーデターだと思いますか。学校では、どっちをクーデターだと教えていますか。


 明治政府が薩長閥に都合よく捏造した歴史教科書が、いまなお現在の学校教育の場で継続しています。かなしいかな、それが現実です。
 「歴史から学ぶ」。その歴史がわい曲されていると、どういう結果になって表れるのでしょうか。

【関連情報】

「知られざる幕末」チラシをダウンロード

朝日カルチャー千葉:千葉市中央区中央1-11-1 千葉中央ツインビル・1号館5階

薩長土肥は、歴史的な最低・最悪の政治選択だった。=広島の幕末研究会の講演

 広島の幕末研究会で、「広島は平和都市とはいうけれど、皆さんは平和を定義できますか?」と問うた。被爆都市だから、平和を声高に言う。これでは、ほんとうの平和はわかっていない。国家の平和と個人の平和と、共通する定義はなにですか。


 講演 タイトルは仏教から神教へ「廃仏毀釈」である。

 德川政権が崩壊し、明治政府に移った。このとき、日本じゅうは大混乱になった。おなじことが、昭和20年の太平洋戦争の終結時でも、同様の大混乱です。

 つまり、日本には大きな政治空白が2度ありました。


 この空白の期間に、政治家たちは新しい政治の仕組みを模索しました。昭和20年の戦後は、「二度と戦争しない、エコノミック・アニマルの経済成長主義」を採用した。戦争なくして、GNPを世界トップクラスまで上りつめさせた。

 明治政府は下級藩士だった薩長土肥の政治家たちによって、ヨーロッパの(英仏、ビスマルク)の悪いところばかりを真似た。そして、戦争国家選択をした。その結果が、10年に一度は海外で戦争する国家になり、未曾有(みぞう)のとてつもない犠牲者を出してしまった。

 明治政府がおなじヨーロッパでも、スイスとか、デンマークとか、そういう国を真似していれば、その後の日本は大きく違っていただろう。


 薩長土肥の政治家は、自分たちを大きく見せようと、「富国強兵」の政策を採った。
 
 富国とはなにか。国民からより高い租税を取り、国家財政を豊かにすることである。その金はどうつかわれたのか。強兵である。軍艦・武器を購入し、軍事比率を高めるばかりだった。
 国民生活の側からみると、一人ひとりが高い税金で苦しむ、生活が疲弊していく、政策なのだ。民の視点からすれば、悪性・苛政になるのだ。
 つまり、為政者には都合がよいが、国民を疲弊させる劣悪な政策である。それなのに、学校教育では、まるで良い政策だと教えられつづけた。


 薩長土肥は廃仏毀釈で、「仏教を排除し、お釈迦様を拝むな」と言い、神道に切り替えろ、と強要した。各家庭には神棚をおかさせた。
 日本書紀、古事記の神話に基づいて、天皇を神とした。その上、天皇には絶対的権限と支配をもたせる統帥権を与えた。かれらは明治憲法で、それを明文化した。

「上官の命令は天皇の命令だ」「お国のために、死ぬのが神のためだ」。その道筋づくりが廃仏毀釈からおこなわれたのだ。

 片や、明治政府は徴兵制を敷いた。10年に一度の戦争国家で、大陸の領地を拡大しつづけた。富国強兵策で生活が疲弊した東北、北陸、信越地方の民が多く送り込まれた。

 このように下級藩士が支配した薩長土肥の明治政府は、徳川政権後に、最も悪い政治の道を選択したのだ。
 今はまだ、薩長土肥の為政者は英雄扱いだが、このさき300~500年の歴史でみれば、劣悪な政治家たちだったと批判されるだろう、間違いなく。


 昭和20年の広島・長崎で、原爆で77年間に及ぶ軍事支配の国家が終結した。
 太平戦争後、国民は虚脱状態に陥った。戦前の通貨は停止した。農作物は大凶作のうえ、大陸からの復員兵が街にあふれ、食料不足の飢餓状態になった。戦争孤児が巷にあふれた。政府は機能していなかった。
 まさに、徳川政権の支配者たちがいなくなり、政治空白になった明治初年度と実によく似ている。


 戦後の日本政府がとった政策は、「二度と戦争はしない」という国民の意思統一による、経済優先だった。
 当初は物まねで、海外製品のコピーばかり。諸外国から批判されつづけた。その反省の下で、商品・製品の自力開発の道が推し進められた。そして、製品は世界に向けて拡大していった。

 優秀な人間は大手メーカー、銀行、商社に入る。世界のビジネスマンになっていく。学力・能力が低いものが、「公務員にでもなるか」という道だった。国民はすべてにおいて経済最優先で、行政の能力にはあまり期待しない社会だった。戦前で、政治や行政優先はコリゴリなのだ。

 つまり、あらゆる舵取りが経済優先で、政治は後ろからついてくる社会だった。

 
 明治政府から77年は10年に一度は戦争してきた。
 
 昭和20年から70年は海外で一人の兵士も殺していない。


 どちらが平和で、豊かな国家になったのか。
 後世の歴史家が、双方の比較をはじめる時期がくる。まちがいなく、明治の薩長土肥の政治家がひどい国家をつくった、と糾弾されるだろう。

 明治政府が捏造した「維新美化の悪夢」から、もう冷めようよ。それが講演のメインテーマだった。


【関連情報】

 この講演がユーチューブに入っています。45分間じっくり聞いて、『明治維新は良い国家』という悪夢から目覚めてください。
仏教から神教へ「廃仏毀釈」

新・温故知新(5)=戦争責任~なぜ日清戦争が起きたか(上)

 過去をふり返ると、歴史のあれこれを批判したり、賛美したり、「結果論ならば」おもいのままに語ることができる。しかし、時代の渦中にいると、明日は判らないし、予測できない面ばかり。国内外には思いもかけない出来事も起こる。外交では、相手の動きもつねに推量しかわからない。

 当事者は苦渋の決断もあっただろう。それが裏目に出ることもあっただろう。
 しかし、いかなる理由があったとしても、戦争の最大の犠牲者は婦女子である。犠牲とは血を流し、飢えることである。
 2度と戦争を起こさないためにも、歴史から学ぶべきである。

 
 日本の歴史をふり返ると、明治政府はどうして軍事侵略の道を選んでしまったのか、と思う。德川政権が倒れたあと、明治新政府にはいくつかの選択肢があったはずなのに……。大きく分けて3つだろう。

① 「多少は貧しくても、質素倹約で、ひと様に迷惑をかけない」という平和・協調主義

② 「産業文化の拡大路線」という資本主義

③ 薩長閥が選んだ軍事強化の「富国強兵」という帝国主義。


 私たちは明治時代を「富国強兵」として美化して教わってきた。この熟語を分解すれば、「富国」とは国民からより高い税金を取ることである。「強兵」とはそのお金で軍備を拡張し、徴兵制で軍人をより多くすることである。
 つまり、高い税金を課して、大陸で武力侵略していく支配体制づくりだった。

 武士社会では『恥を知れ』ということばが、一般的に使われてきた。侵略とはひと様の(土地)ものを奪う、恥ずかしい『恥』の行為だ。「領土」を細分化すれば、殆どが一軒ずつの私有地から成り立っている。銃や刃物で脅して、ひと様がすんでいる土地や家屋を奪えば、泥棒といわれる。
 武士道が消えた明治時代から「恥も外聞もない」侵略戦争を推し進める人たちの政権になってしまったのだ。
 
 考えてみれば、明治政府のトップは、「攘夷」(外国人に対する無差別テロ)で伸してきた下級藩士たちが中心である。人を殺す攘夷思想だから、外国を敵として人を殺し合う戦争「勝った、勝った」の国粋主義は、当然の帰結だったのだろう。


「明治時代、日本が大陸に侵略しなければ、植民地になっていた」
 それはまやかしである。いまだに欺瞞の論理を信じている日本人は多い。

 徳川政権は開国(1854年)した後から、約14年間(1868年)にわたって、植民地になる気配などなかった。四半世紀にわたり、植民地になる兆候もなければ、德川幕府からは『征韓論』という侵略の施策などいちども出ていない。
 むしろ、この間に、輸出入の拡大、外国留学の推奨、外国技師を招きインフラを拡張する「産業文化の拡大路線」をめざしていた。まさに、文明開化の追求である。
 
 明治政府が新たに誕生したとき、厳密にいえば、「征韓論」はなかった。明治天皇が天地神明に誓約する「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が公卿や諸侯、民に示された。(1868年4月6日)。

  一  広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
  一  上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
  一  官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
  一  旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
  一  智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 このように、明治天皇の基本方針のなかに軍事侵略政策などなかった。
 
 すると、誰が戦争国家へと仕向けたのか。征韓論、朝鮮進出、日清戦争への布告へとかじ取りをした人たちだ。悲惨な広島・長崎まで続いた戦争責任が、明治初期の政治家にあるのだ。
 
 外国侵略とは、相手国に迷惑をかける『恥ずかしい国家』の行為である。
 現代の日本人はともすれば、「私たちは戦争を知らない世代だし、戦争責任もお門違いだ」、「もう過ぎたことだ、掘り返しても仕方ないだろう」、「過去のことは水に流す」、という発想などがある。
 
 ドイツの大統領や首脳たちは、常に『後の時代になって、過去を変えたり、過去に目を閉ざすものは、現代も盲目になる』という国民への呼びかけをしている。ナチスドイツによる大量虐殺という「恥」の面と真摯に向かい合っているのだ。
 ドイツ人気質、DNAの血を怖れているから、歴史からより学ぼうとしているのだ。
 

 江戸時代は公儀隠密が大名家の恥部をかぎまわっていた。隠しごとはばれ易かった。そして「いさぎよく認める・腹を斬る」という武士道の世界だった。

 現代の企業人は、偽証してでも、徹底して『負』を隠す。「政府も嘘をつくし、隠す」。現代人は隠されることに慣れてしまった。

  明治時代の為政者がつくった『日本が大陸に侵略しなければ、植民地になっていた』という歴史上の嘘すらも、現代人は疑わない。教科書はすべて正しいと信じる。これでは、「戦争って、こんなふうにして土壌ができるのだ」という戦争責任の原点が掘り起こせない。
 豊臣秀吉の大陸侵略のときも、明治時代も、日本は植民地になる要素などなかった。

「2度と戦争国家にしない」ためにも、日清戦争はなぜ起こったのか、と追及する必要がある。

 

                          【つづく】

第3回幕末芸州広島藩研究会=「大政奉還」~「鳥羽伏見」

「幕末芸州広島藩研究会」は広島市の浴(えき)さんが推進してくれている。第1回は15人くらい。第2回は20人、3回はさらに増えて30人くらいと、漸増している。
第3回幕末芸州広島藩研究会

 こんかいは「大政奉還が成立したのに、なぜ鳥羽伏見の戦いが起きたのか」だった。

 慶応3(1867)年10/14の大政奉還から、12/9の京都御所の小御所会議で「王政復古」まで、空白の日本史である。



 日本史のなかで、最もわかり難い一つだ。学校教育の場でも、満足な教え方ができない。それ以前に、学者も、歴史作家もわかっていない。だから、推測ばかり。

 本来は「鳥羽伏見の戦い」をクーデターにするべきところを「王政復古クーデター」としたから、訳わからなくしている。

 明治新政府ができるのに、なぜ王政復古クーデターなのか。論理的に矛盾している。それを平然と語るから、聞く側、教える側も含めて、訳わからなくなっているのだ。


 大政奉還の後、どういう組閣をするか。11/3-7日に、御手洗(広島県・御手洗の新谷邸)で、その構想が組立てられた。京都御所の実質支配の必要性から軍隊の投入が必要である。
薩摩・広島・長州の最新の兵で、京都に上がろうと、6000人の割り当てが決められた。(御手洗条約)。実際に実行される。(土佐は山内容堂の許可が出ず、板垣退助が連れてきたのが遅れている)。

 まさに薩長土芸の軍事行動である。

「60年間は、御手洗の4藩の密議は黙っておれよ」
 と11/7にそう口止めした当人の坂本龍馬が、8日後の11/15に京都で暗殺されてしまった。誰もが口を封じた。だから、歴史の真空地帯になっていた。そこで、『二十歳の炎』には、くわしく書いている。

 新谷道太郎が昭和10年に60年経ったからと言い、その4藩軍事同盟を明かした。


 長州(山口県)出身の奈良本辰也氏(1913~2001年)は、戦後の日本史の大御所である。権威者の学者が「新谷道太郎をでたらめな・嘘つきだ」と全面否定した。

 歴史の証言者を80歳代という年齢だけで、耄碌(もうろく)している、と頭から金槌で否定すれば、真実は土のなかに埋まってしまう。

「新谷道太郎は90歳でも、広島県・竹原小学校にきて、しっかりした講演をしていた」という証言者もいるくらいだ。
 たしかに、新谷の思い違いの面はいくつかある。その瑕疵(かし)だけを取り上げて、奈良本氏は権威を縦にし、明治政府の薩長閥のねつ造を真実とし、片方の新谷を100%全面否定したのだ。


 教科書監修の大物学者の奈良本氏は、長州出身だから、明治政府の薩長閥がねつ造した歴史をそのまま是認させた。つまりは、「王政復古」は大政奉還後の民主的な組閣であるのに、クーデターだとして教えつづけさせた。


 下級藩士の西郷隆盛が、「王政復古」のあと、赤報隊などを使い、德川家がまだ健全な江戸で、庶民を対象としたはげしいテロ活動・騒擾(そうじょう)を行った。かれは民衆が蜂起するとでも勘違いしたのだろうか。

「あなた方が、松本、東京地下鉄サリン事件がくり返されたとき、それは維新のためだと容認しますか。もし警視庁が治安の維持に失敗し、オウム政権ができたとき、サリン事件は正義だとおしえますか」

 それと同じことを西郷隆盛がやったのですよ。庄内藩や会津藩が怒るのは当たり前でしょう。

「会津の松平容保が、天皇への「討薩表」(テロ活動の証拠がある。薩摩藩をうたせてください)と、京都御所への直訴をもって向かっていた。だれもが護衛意識だった。京都で買う土産物の話までも出ていたという。


「薩摩のテロリストの頭の西郷隆盛は、鳥羽街道、伏見街道で待ち伏せしたのですよ。それに御手洗条約で京都にこれた長州が乗った」

 
 王政復古として民主的なルールで明治新政府ができた。ところが、薩長の下級藩士による「鳥羽伏見で軍事クーデター」が発生した。
 本来はこのように教えれば、わかりやすいのだ。

 「攘夷」は白人とみたら殺す、無差別テロ集団ですよ。西郷隆盛らの行動を、サリンの恐怖におびえた現代に置き換えて考えると、偉人かテロリストか、見極めがつくでしょう。
 
「歴史から学ぶ」。これはわが身に置き換えて考えることですよ。奈良本氏や司馬遼太郎氏らの「尊王攘夷」の賞賛とか、薩長の英雄史観はもう見直しましょうようよ。
 
 富国強兵だと明治政府を賛美するけれど、富国とは民から税金を高く取り上げることですよ。その口実の甘美のことばです。
 多少は貧しくても、戦場で人殺しをしない国家の方が正義です、と補足させてともらった。

小田原の歴史を歩く=大久保忠真と二宮尊徳、なにをした人なの?

 2月16日に、小田原城に足を運んだ。ちょうど、梅が満開だった。ことしは梅林に行っていないので、城内の梅の香りを楽しんだ。
 山岳歴史小説「燃える山脈」で、天保の大飢饉があった時の老中は誰かと調べていた。

 天保の改革の水野忠邦は有名だが、天保5~6年ころ、将軍に近い最も権限をもった老中首座(現在・内閣総理大臣)は、小田原城主の大久保忠真(おおくぼ・ただなお)だった。
調べていくうちに、忠真は貧農の二宮尊徳を登用し、藩内の農政改革に熱心だったとわかった。

「どうも名君らしい」
 大久保忠真の実像はなにもわかっていない。他方の二宮尊徳なる人物も、小学校の銅像で有名だというていどの認識である。薪を背負って本を読んでいるから、尊徳はきっと苦学のひとだろう、貧乏育ちだろう、という銅像のイメージを越えていない。

 実際には、尊徳は何をした人なのか、戦後育ちの私たちにはいま一つわかっていない。それで、現地取材をしてみよう、と小田原にむかったのだ。


 二宮尊徳は、幼名は金次郎で、相模国・足柄の山村で生まれ育った。14歳のとき両親を亡くし、伯父の家に身を寄せた。そして、酒匂川(さかわがわ)の氾濫などで荒れ地となった田地を復興させたのだ。
 成人してから、(二十歳後)、奉公先の家老・服部家で、同家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させた。

 それが城主・忠真の眼に止まった。忠真は尊徳に小田原で農政改革をやらせたかった。だが、とりまきの重臣たちは、「身分の低い貧農の二宮尊徳の指図に従いたくない」、と強い反対をした。

 そこで忠真は大久保家の分家である知行所・下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)に送り込んだ。この地はこれまで、小田原から誰を送り込んでも、農政は悪化の一途だった。

 尊徳は荒廃した桜町領の田地を復活し、天保の飢饉で苦しむ領民を救済したのだ。さらには、学びに来た近在(600ヶ村以上)の農村や相馬藩を貧困から救った。

 二宮尊徳には独自の思想がある。名言や格言がたくさん残っている。なるほど、と教示的なものがほとんどである。知識や教養は身につけるだけではダメだ、それを使わなければ役立たない。この精神などは陽明学に近い。小さいことからはじめよ。これらが天保の窮民を救ったのだろう。
 

 私はふと一昨年、「フクシマ」取材を思いだした。相馬藩が大飢饉のさなかに、二宮尊徳から農政を学び、藩を救った。それを聞いた瞬間、「えっ、尊徳は小田原のひとではないの」という驚きをおぼえたものだ。それを思いだしていた。

 内村鑑三著『代表的日本人』で、日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる、苦難の時代の窮民を救った偉人として、二宮尊徳翁を紹介している。

 小田原城の関係者に、
「大久保家と北条家と、どちらが人気ありますか」
 と質問してみた。
「北条一辺倒ですよ。大久保忠真など良い人物はいるんですけれどね。小田原のひとには大久保の認識など殆どないですよ」
 そんなことから、忠真を取材にきたこと自体がおどろかれた。

新・温故知新(4-2)「不平等条約締結」は暗殺の狂気を正当化

『日米修好通商条約は、ほんとうに不平等条約なのだろうか』 
 疑うほどに、陰には怖い仕かけがみえてくる。

 高関税率は、国内のいちぶ特権階級や政商をもうけさせる隠れ蓑(みの)になる。国民は高いものを買わさせられる。輸入関税が高いほど、当事者がやたら儲かる構造になってくる。
 産業が育っていないときには、あまり低関税だと、国内産業のダメージは大きくなる。
 徳川幕府は20%の輸入関税をかけた。これは欧米間の協定とほぼ同じ率である。徳川代表団の優れた能力ともいえる。

 

 6年後に思わぬことが起きた。
 長州がしかけた下関戦争(1863年)と馬関戦争(1864年)で、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊に惨敗し、多大な賠償責任が日本がわに背負わされてしまったのだ。
 毛利家の暴走だが、国家間の損害賠償責任が生じてしまう。それが国際法だ。ペナルティーとして、輸入品が一律5%の低率に押さえられてしまったのだ。

 それから4年後に明治時代になると、長州閥の政治家たちは、みずからまいた種で、苦しむ結果となったのだ。ところが卑劣なのは、「徳川政権はハリスとの交渉力がなかった。日本に関税自主権がなかった」と言い、徳川側の輸入関税20%など触れず、無能あつかいにしているのだ。
 本末転倒も甚だしい。
 下関戦争・馬関戦争さえなければ、日米修好通商条約はなんら不平等条約ではなかったのだ。
 
 同条約には、1872年(明治5年)7月4日に改正とする項目があった。それにもかかわらず、政権をになった薩長の下級藩士たちは英語力と交渉力を持ち合わせていなかった。
 なぜならば、戊辰戦争・上野戦争(彰義隊)で有能な一橋家を中心とした旗本たち(現在の霞が関官僚)を殺してしまったからだ。外交交渉団が組めないのだ。

 同条約改定を先延ばしにして、輸入関税一律5%のままインフレで、みずから苦しむ結果となった。もっとも苦しむのは民だ。江戸時代以上に農民一揆や騒動が起きた。国民の目を生活苦から、西南戦争、日清戦争、日露戦争、へと求心力の強い戦争国家へと向けさせていった。

 日米修好通商条約は、領事裁判権においても、不平等だという。ほんとうだろうか。同条約文を読めば、
『日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。』
 と条文が明記されている。
 別段、不平等でなく、むしろ公平である。

 
 江戸時代には、横浜だけでも、(外人墓地に眠っている)、罪のない外国人が14人も暗殺されているのだ。かれらは母国に帰れば、妻子もいる人たちだ。
「それら外国人がなんの罪を犯したというのだろうか。肌が白かっただけだ」
 攘夷といっても、実態は無差別テロだ。
(現代でも、尊王攘夷によるテロは、『維新』のための正当な行為だと考えている人は多い)。

 一方で、アメリカ人が日本人を殺していない。実害もなかったのに、領事裁判権においては不平等だったと、声高にいう必要などない。なんの不都合もなかったのだから。まさに、作為的に造られたものだ。


 長州は禁門の変で、京都の町を3分の1も焼いた。関門海峡で欧米と戦争をし、明治以降は77年間も戦争の主導的な存在だった。
 毛利家、長州にはあらゆる面で、戦争で自己顕示したがる体質がある。
 
 最も怖いのは、日米通商条約は不平等条約だと言い、井伊大老の暗殺を正当化していることだ。『維新』という酔った言葉で、攘夷思想を美化し、井伊大老の暗殺も歴史の当然のながれとして取り扱っている。
 政治テロ行為を認めている。後世にどんな結果を及ぼしたか。大村益次郎、大久保利通など、次々に暗殺の対象になった。それだけではなかった。

 2.26事件、5.15事件へとつながった。『昭和維新』をスローガンにした軍人が内閣総理大臣まで暗殺する世になってしまった。その原点となるのは、『明治維新』の名のもとに井伊大老の暗殺が正当化されたからだ。

 テロが政治家に襲いかかれば、戦争への道につながる。2.26事件では、文官・政治家たちがテロリストに恐れをなして軍部批判ができなくなった。軍部指導の下で、太平洋戦争へと導かれていった。
 
 温故知新でふるきを訪ねた時、画一的な評価は信じる前に、疑ってみよう。
 この条約を推し進めたのは井伊直弼大老でなく、開国・積極交易派の巨頭の老中・松平忠固(ただかた)である。井伊大老は勅許を優先させよと主張していた。しかし、松平が貿易は国家のためになる条約だと調印させた。
 
 井伊大老が不平等条約を結んだ、と歴史はねつ造された。そして、暗殺が正当化された。

 歴史を折り曲げれば、いつしか数十年後、あるいは一世紀、二世紀後に、かたちを変えて出てくる。それが2.26事件、5.15事件だった。

 いまなお学校教育の歴史教科書でも、不平等条約を締結したと言い、井伊大老暗殺を正当化している。『締結時点はじつに公平・平等』。その後の馬関戦争に問題があるのだ。不平等条約の締結、という文言は早くに外させたほうがよい。

 歪曲された歴史は、国民の将来のためにはならない。偽りは教え込まないほうがよい。

新・温故知新(4-1)「不平等条約締結」は暗殺の狂気を正当化

 1月31日は、雨・雪の不安定な数日がすぎて、からっとした快晴だった。歴史の通説に対してある疑問をもって横浜港に出むいた。
 江戸時代の「横浜村」は、開港前、東海道筋から、渡し舟でしか行けない僻地だった。それはいまから159年前だ。

 日本は安政5(1858)年、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと通商条約を結び、世界と貿易をはじめた。横浜、函館、神戸、長崎、新潟の5港が貿易港となった。
 ここから日本の産業と文化はいちじるしい発展をとげた。どの貿易港も人口は急上昇し、華やかな産業都市となった。

 関連する場所や、「横浜開国資料館」、「横浜市開国記念館」などを訪ねた。

 それら館内に入ると、横浜開港(安政5年6月15日)直後からのにぎわいを謳歌する浮世絵が目いっぱい展示されている。外国人居留地の写真パネルもずらりならぶ。外国人、商人、見物者、業馬、荷物、これでもかこれでもか、と満ち溢れている。

『日米修好通商条約は、領事裁判権や協定関税制度を含む不平等条約』
 館内のパネルにも、図録にも、それは疑問の余地もない雰囲気だった。しかし、歴史は通説ほど、あやしいところがある。
(ほんとうかな)
 と疑ってみる必要がある。


「不平等というからには、日米修好通商条約はなかった方が良かったのですかね」
 私はストレートにある学芸員に質問してみた。とたんに、嫌な顔をされた。

「通商条約は必要でした。貿易がないと、国は発展しませんから」
(そうだろうな)
 横浜村が絹織物の輸出窓口になり、膨大な輸出入で繁栄した。通商後の横浜のにぎわいは1年、2年にして、空前の発展だ。横浜関係者はこの条約を否定できるはずがない。

「ところで、德川幕府の代表団は、15回に及ぶ米国・ハリスとの粘り強い交渉で、インド、中国(各5%)よりも、日本は高い関税をかけている。不平等だというからには、実害は記録として残っているんですか」
 この質問にたいしても、嫌な顔をされた。

「そんな記録は存在しないですね。町人は日記をつけていないから」
 しどろもどろな学芸員は、そんな苦しまぎれな説明をしていた。

(バカなことを言っているな。識字率は世界一進んでいる。農商の商人も、庄屋も、大福帳など記録は小まめに書いている) 
 内心、そんなあなどった気持ちにさせられた。

 この学芸員は明治政府がわい曲した「不平等」という表現をうのみにしているだけだ。独自研究はなされていないな、と思った。


 別の施設を訪ねた。

「なぜ、不平等なんですか」
 私はそう訊いてみた。
「外国の貿易商は、交渉力に優れていました。日本の販売者は海外情報がないから、言いなりにならざるを得なかった。なぜならば、当時は世界を股に跳びはねて、売り歩く力量がなかったから、国際価格など知識不足でした」
 ある館内説明者は、そう説明していた。
(ほんとうかな。横浜を知り尽くしている顔しているが、それはあんたの想像じゃないの)
 私はこころのなかで、そんな想いになった。


(外国人貿易人は、横浜の居留地から出られない。日本各地の養蚕地を訪ね歩けない。これは市場調査はできないから、日本人問屋の言いなりだった)
 日本のしたたかな絹問屋たちは、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの貿易商相手に、見本品をみせて、あれこれ条件の良い商談を推しすすめた。それが群馬、長野、飛騨などの養蚕地に高収益をもたらした。


 日本人がアメリカに渡れば、居留地に押し込められることはない。USAのどの地へも通行が認められている。
『日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。』と同条約にある。
 不平等条約だと声高に言えるのは、アメリカがわのはずだ。日本に有利な面は頬かぶりして、不利な面だけをかもし出そうとしている。
 作為に満ちているな、こんな狡い教科書など、日本人のだれが作ったのかな。

 全員が同じことを言う場合は、なにかしら怪しいのだ。ねつ造された歴史だから、画一的になる、と最近は通説を疑っている。……こうした疑問から、横浜を歩く。

 通商条約で飛躍的な発達をした日本経済である。それなのに、歴史教科書ではなぜ不平等条約だ、悪しき条約だと声高におしえるのだろう。ほとんどの日本人がそういう。この裏には歴史操作の作為とか悪意とかがあるに違いない。


① 明治政府の薩長閥の政治家が、德川幕府は交渉力がないと見下せば、自分たちは高く見える、という子どもによくみられる幼稚な発想だ。

② 不平等条約を結んだ張本人・井伊大老を暗殺した、テロリストの行為を正当化させるためのものだ。


 この2点に絞り込んだ。 
 徳川幕府の代表団と、ハリスとの交渉をみてみると、食料は5%(漁具、建材)と低率にしている。その理由はかんたんだ。過剰人口の日本は食糧難だから、低関税率で輸入を促進するのは当然だ。天明・天保の大飢饉で、日本じゅうに大勢の死者を出している。それは今後ともつづく。食糧の輸入が急務だから、低関税率だ。

 それ以外は輸入品は一律20%であり、酒類は35%の高関税であった。外国を見てみると、イギリス国はインド、中国と一律5%の定率である。西欧の国どうしも、おおむね20%である。徳川幕府の交渉力はアジアではずば抜けて優秀で、一律20%である。

 明治政府は、德川幕府は交渉力がないと見下したいのだろうが、日本側には決して不利な条約ではない。
 しかしながら、現在の教科書でも、悲しいかな、こうした税率を示さず、徳川幕府は不平等条約を結んだの一点張りだ。だから、日本人は画一的に信じ込んでいる。これは恐ろしいことだ。

                             【つづく】

またしても式年造替に出会う=奈良・春日大社

 散策気分で、春日大社を訪ねると、第六十次式年造替(しきねんぞうたい)のさなかだった。大イベントだった。
 かんたんに言えば、20年に一度の神社の全面建て替えである。(本殿リフォーム)。だから、神々を祀るものが、仮の場所・建物に移されている。それらが特別拝観できる。(500円)。

  皇室や神職など特別なお方しか拝殿できない内侍殿(ないしんでん)が、建て替え工事ちゅうは見ることができる。国宝、重要文化財が、仮の場所で狭苦しくならべられている。これらがまじかで、皇室の方々とおなじ立つ位置で拝観ができるのだ。

 神社参りの方には、たまらない魅力だろう。全国の信者にはとてつもない、見学のチャンスだとおもう。

 ちょうど60回という実に区切りのよさから、明治維新から140年間も閉ざされていた「後殿後門」が開かれていた。本殿の真後ろにある5つの神社が拝観できた。
「災難・魔除けの霊感新たな神々」と明記されていた。それらの効能・ご利益もさることながら、140年間にして、という文言には惹かれるものがある。
 
 
 私は2013年にぶらり訪ねた、伊勢神宮でも、ぐうぜん式年造替にあたっていた。同神社所有の森の樹木1本1本が、どの年度の式年造替に使うかと印で決められているという。数十年、数百年先までも見据えた森の管理には驚かされたものだ。
 タイミングの問題だとはおもうが、屋根の檜皮葺(ひわだぶき)は見れなかった。

 春日神社の場合は特別公開で、「ずいぶん貴重なものがすぐ側で見られるのだな」と感慨をうけた。伊勢神宮のときよりも、春日大社の方が惹かれる度合いが高かった。冬場で、拝観者も少なく、パネルなども、しっかり読めた。

「満灯籠」を再現した、「藤浪の屋」(重要文化財)は、素晴らしかった。春日大社には奉納された灯籠はおよそ3000基ある。
 2月の節分、8月14、15日の年3回は、すべての灯籠に灯りがともされる。
 それが再現されている。幻想的だった。
 若宮15社巡りなどは、事前に、ネットなどで、どんな神様か知っていると、目的にもかなうだろう。
「知恵を授けてくれる神様」
「開運財産をお守りくださる神様」
「延命長寿をお守りくださる神様」
「ひらめきの神様」

ちょっと愉快だったのは、
「一言主神様で、一言だけ願えれば、かなえてくれる」
 と明記していた。あれこれ頼んではご利益はないかもしれない。

 同社によると、平成28年11月6日に新装になった本殿に、祀る神々が遷宮されるという。まじかになると、大イベントの多くは駆け込みで、にぎわい、満足にみられないのが常だから。特別拝観は、この春、初夏あたりがチャンスかもしれない。

 同社は藤の花が咲けば、見ごたえあるらしい。その見ごろを狙う方法もある。ただ、奈良のひとは知っているだろうから、それもきっと大勢の人出でにぎわうと予測できる。