歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】幕末ベストセラーの頼山陽著「日本外史」は歴史書か、戦記小説か(1/3)

 幕末から明治、昭和太平洋戦争前まで、最も多くのひとに読まれた歴史書はなにか、ご存じでしょうか。それは広島藩の頼山陽が著作した『日本外史』(にほんがいし)です。同書は、幕末の尊皇攘夷運動に、おおきな影響を与えました。つまり、動乱の最中に、命を賭(と)す志士たちの必読書でした。それはなぜでしょう。

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 あなたは「日本外史」をそれを読んだことはありますか。

 歴史好きのひとでも、頼山陽の「日本外史」の現代文(翻訳)を読んだありません、と99%が応えるでしょう。当然です。昭和太平洋戦争までで、その書物の任務は終わったと見なされていますから。

 頼山陽著「日本外史」が、いかなる歴史書なのか、知っておかないと、幕末史は不十分な認識、事実誤解におわってしまいます。
 つまり、ご本人は幕末史をよく知っているつもりでも、重大な用語の「尊王攘夷」はたんにプラカードくらいの認識であり、政治としての歴史の本質がわかっていません。はっきり言い切れます。

              

 幕末の騒乱は、自由と平等をもとめた市民革命でもなく、武士たちの特殊な権力闘争です。樹立された明治新政府のメンバー5人の顔ぶれば、どうでしょう。島津、福井、広島、尾張、土佐の大名は、皆がみな、徳川家もしくは松平の姓ばかりです。これはなにを意味しますか。 そこには市民の代表はひとりも入っていません。歴史的事実です。

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 幕末書には重大な用語(キーワード)として「尊皇攘夷」がくりかえし出てきます。
「あなたは尊王について説明できますか」
「尊皇と勤皇のちがいはわかりますか」
 そうした質問をむけると、大半の歴史通のひとが口ごもってしまいます。

「徳川幕府は天皇の敵でしょう」
 そう答える方はずいぶん多いのです。これは事実認識の欠如が甚だしい一例です。徳川家康が江戸に幕府を開闢(かいびゃく)してから、徳川家は天皇家と敵対していません。有効な関係にあります。
 天皇への扶持、御所が大火災になれば、全額出資で完全回復、260年間にわたり毎年の正月の月には江戸に朝廷の勅使を受け入れています。見帰りに、京都に出向いて、朝廷からありがたく官位を頂いています。良好な関係です。

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 さかのぼれば、大和朝廷の時代から、為政者はみな皇国思想でした。平安時代から武士が台頭しますが、豪族、武将、大名、将軍において、だりも自分が天皇になろうとか、天皇制度を排斥しようとか、そうした行動を取ったひとは誰もいません。

 源頼朝、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康~15代将軍・慶喜ままで、天皇から「征夷大将軍」と権威づけてもらえば、それでよかったのです。

 豊臣秀吉の勢力から判断すれば、かれは朝廷を滅ぼす力を持っていた。しかし、秀吉は天皇にならず、関白にとどめおいた。なぜか。「征夷大将軍」という称号で、国をまとめ、政権を維持することができただから、それでよかったのです。
 秀吉はなにも「自分が天皇になろう」とは思わなかった。関白でとどまった。それでよかったのです。


 現代に飛んで、まわりの方々で「私は天皇になる」と豪語するひとはいますか。きっと皆無だと思います。太平洋戦争のあと、貴族、華族の制度は完全に消滅した。しかし、天皇制度は継続しました。政治体制に関係なく、日本人の頂点に立つ、という存在があったからです。

頼山陽史跡資料館(広島市) 撮影=芸州広島藩研究会・広報・山澤直行

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 江戸時代の初期から、わが国は『皇国』という国名が使われていました。嘉永六年に、ペリー提督が浦賀に、プチャーチン提督が長崎にやってきます。1~2年後に、5カ国と和親条約をむすびます。幕府は海外条約の克明に国名「帝国日本」を使っています。

 阿部正弘の死後、若き外国奉行によって「安政の通商条約」が締結されます。その批准書にも『大日本帝国』がつかわれています。
 大(ダイ)日本(ヤマト)帝(ミカド)の国。天皇の国だと表記されているのです。その後も昭和太平洋戦争の終了まで使われました。江戸時代の国号の表記が「大日本皇御国」だった、明治からだと信じている方が多いのです。
 簡略にいえば、明治政府の国名のパクリで、明治から使われたとするのは、ゆがめられた歴史を教えられけているのです。
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 安政6年の日米修好通商条約が、無断条約締結だと、国内で政治問題化します。
 德川幕府は、天皇から政権を移譲しています。条約の締結そのものは問題ないのです。ただ、孝明天皇の勅許をもらってから、「大日本帝国」ま国名をつかうのが筋だろう、と朝廷側からクレームがついたのです。
 平たく言えば、事務手続きの順序がちがう、という異議申し立てです。その意義の回答に、井伊大老が文書で回答しており、孝明天皇を軽んじていると、建前論でもめはじめたのです。

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 孝明天皇は慶応元(1865)年1月15日に、各国の同通商条約を勅許し、わが国と海外との通商を認めました。ここから開国体制が本格的に推進されます。それは幕府が瓦解する3年前です。日本は急速に通商を盛んにし、近代化、資本主義社会へと推し進んでいくのです。

 ここは正しく理解していないと、明治元年から急激に近代化、文明開化の舵が切られたと錯覚してしまうのです。学校教育の場でも、徳川政権が滅びるまで、孝明天皇が通商に反対していたと、間違った教え方がなされています。

 世のなかかの貧弱な歴史書、明治政府を勝者と賛美する学者や歴史小説家は、孝明天皇が生存中に通商を認めた。ここらを語らず、「徳川政権は無能だった」「文明開化は明治から」と展開してきます。

 歴史は為政者に都合よく曲げてしまう面があります。

【つづく】
 

【歴史から学ぶ】広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち(2/2)= RCCラジオ放送

 広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち= RCCラジオ放送から、文章化したものです。

                *                

 1796年、エドワード・ジェンナー(英国)が牛からの種痘法(しゅとうほう)を発見しました。牛が天然痘になると、乳房に膿(うみ)が生じる。それを人間の幼児の腕に接種するし、生涯にわたって天然痘にならない。しかし、親にとって「膿を打つ」とは恐怖でしかなかったのです。

 それでも、予防接種をつづけてきました。
 
 WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言をおこないました。人類初となる天然痘ウイルスに勝利するまで、人類は約200年も近くかかっています。


            *

② 文政11(1828)年、長崎でシーボルト事件が起きた。シーボルトの愛弟子の高野長英(ちょうえい)は蛮社の獄(ばんしゃのごく)で、囚われの身になっていた。
 入牢する江戸・小伝馬町の牢屋が火事になった。「必ず帰ってこい、罪を減じる」と全員が解き放たれた。

 ただひとり帰ってこない者がいた。それは高野長英である。高野は江戸から逃走し、一路、広島にむかった。長崎で顔見知りだった広島藩医の後藤松軒を頼ってきたのだ。

高野長英の隠れ家 「日渉園」(広島市) (写真=山澤直行)

 松軒は約一か月間にわたり匿(かくま)った。

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 嘉永2(1849)年に、長崎出島のオランダ商館の医師・モーニッケが、佐賀藩医の楢林宗建(ならばやし そうけん)の要請で、牛の天然痘の痘苗(とうびょう)を3人分を持ち込んだ。当然、幕府の許可がいる。当時は、漢方医学の全盛期で「蘭方医学禁止」への政治圧力も強かった。
 
 老中首座の阿部正弘(福山藩主)が、漢方医たちの大反対があったが、1回くらいの輸入は良かろう、と許可したのだ。それが成功したのだ。
 楢林宗建がわが子に接種した。その一つが成功し、長崎の幼児にも試みて、新しい痘苗が数多く採取された。全国に広がっていく。

            *

③ 佐渡出身者の長野秋甫(あきすけ)が、長崎で7年間にわたり医学をまなんでいた。楢林宗建の種痘の成功を見て、「わが佐渡が島にも、天然痘がまん延しているので、出身地まで持ち帰ろう」と、痘苗(とうびょう)をもって帰路についた。

 山陽道の途中で、かれは広島藩の藩校教授・頼聿庵(いつあん)のもとに立ち寄った。頼聿庵は頼山陽の長男だった。能書家で、頼山陽をしのぐと全国的に有名だった。、
 長野秋甫は揮毫(きごう)をもとめて立ち寄ったのだった。
「貴殿は、長崎のオランダ医学を学ばれているとか。有益なことがあれば、ひとつ聞かせてください」
「世にも怖ろしい天然痘を撲滅できる、その痘苗(とうびょう)がわが国で入手できたのです」
 秋甫は牛から採取した天然痘ワクチンを語って聞かせた。
「ひとつ、私の子どもに接種してもらいたい」
 進歩的な頼聿庵は、怖れることなく、佐渡の長野秋甫が長崎で手に入れた天然痘のワクチンを接種してもらったのだ。
 つまり、頼山陽の孫が、広島藩における牛の種痘の第1番目だった。長崎・佐賀に次いで3番目の成功例だった。
   
            *

 広島藩学問所(現・修道高校)の頼聿庵は、後藤松軒にこのことを伝えた。頼聿庵の子どもから、新しい痘苗(とうびょう・ワクチン)がとれた。後藤松軒は、その新種から、広島領内に接種を広める活動にでた。 しかし、後藤松軒の広島藩に高野長英を、三滝「日渉園」(現在・広島大学薬学部の管理)にかくまったことが藩に知られてしまった。

 後藤は停職6か月という、半年間の謹慎処分だった。そのうえ、幕府の漢方医学の圧力もあって、広島藩でも蘭方医学が禁止されてしまった。


 痘苗(とうびょう)は新鮮なうちに受け継がなければ、枯れてしまう。後藤の門人たち三宅春齢(しゅんれい)、津川元敬、喜連(きづれ)良成、小川道仙たちが、隠れて横川村や安芸郡へと引き継いでいった。

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④ 天然痘ワクチンは長崎から京都、大阪へと伝わった。

 足守藩(岡山県)の藩主は、天然痘ワクチンの接種に興味を持ち、緒方洪庵(おがた こうあん)を大阪から呼びもどし、『除痘館(じょとうかん)』を開かせた。
 緒方洪庵の仲間として13人の医師が種痘にたずさわった。

写真提供=小川栄さん(広島市在住)

 そのなかに岡山出身の西夕慶(せきけい)がいた。かれは足守藩の『除痘館』のワクチン医療に携わった実績から、24歳の時、望まれて広島藩医官の小川道仙の後嗣となりました。その名も小川道甫(みちほ)である。

 幕末の変動期には、神機隊の軍医として、上野、奥州等に従軍した。(穂高健一著「広島藩の志士」、「神機隊物語」に登場します)
 
 廃藩置県のあと、神機隊が解散になりました。かれは小川姓のまま草津西家に帰り、草津、高須、古田、庚午、井口、阿瀬波等、広範囲の診療にあたっている。
 小川は和漢の書をひろく渉猟(しょうりょう・多くの書物を読みあさる)し、博学多才、和歌俳句を詠み、医療に尽くしている。
 かれは「仁慈剛直」をモットーとして、「人を医するにあたって薬価を徴することなく、貧者には米麦故衣を与へ、或いは金銭をひそかに恵む」など、世の尊敬を受けた。

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「わが子に種痘を接種すれば、そのうち頭から角が出てくる」
 大勢の民が種痘を嫌がった。長野秋甫が佐渡島に種痘を持ちかえったが、だれもわが子に打たなかったとも言われている。
 
 新型コロナウイルスのワクチンは、はたして全世界から撲滅できるのか。WHOが天然痘の撲滅宣言をしたように、うまく行くのだろうか。
 
 ウイルスは動物を介している。天然痘は牛、エイズは猿、新型コロナはコウモリといわれている。まさに、疫病と医学の戦いだ。

『関連情報』

 
 足守藩(岡山県)の『除痘館(じょとうかん)』(提供:小川栄さん)
                                   

  広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち= RCCラジオ放送           
          

【歴史から学ぶ】広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち (1/2)= RCCラジオ放送

 RCC(中国放送)ラジオで、一文字弥太郎さんのインタビューとして『穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ』が、毎月第2土曜日・午前9時05分から放送されています。
 
 2021年2月13日(土)は広島藩からみた天然痘ワクチンで活躍した人たち= RCCラジオ放送           

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 新型ワクチンの接種が、世界じゅうの話題になっています。人間の歴史は、疫病と戦争の歴史の積み重ねです。ウイルスには根本的な治療薬はありません。病原菌ならば、菌を殺せば、消えます。ウイルスは殺せません。
 私たちの体内に軽くかるくウイルスに感染させ、二度目に発症させない、という手法とるのです。それが抗体です。

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 人間が有史以来、恐怖のウイルスに打ち勝って撲滅しできのは天然痘のみです。『勝者から学ぶ』。天然痘ウイルスはつよい感染力をもち、致死率が約20%~50%と非常に高かったのです。インカ帝国も欧州人が持ち込んだ天然痘で滅びた、アメリカインデアンも種族によって9割が全滅、日本ではアイヌ人が滅亡寸前までなりました。
 
 この天然痘は完治しても、顔など全身に膿疱の痕(あと)が醜く残ってしまう。史上最悪の疫病でした。

 1796年、エドワード・ジェンナー(英国)が牛からの種痘法(しゅとうほう)を発見した。それから完全に撲滅するまで、約200年かかっています。

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 ジェンナーの天然痘が日本に入る初期の頃、広島藩領には牛の天然痘に取り組んだ人物たちがいます。この方々に絞り込んで、ワクチンの普及がいかに困難だったか、歴史をさかのぼってみましょう。

① 安芸国・川尻浦(現・呉市川尻町)の久蔵を紹介します。
  ロシアから日本に伝えるのが、35年も早すぎた。かれは歴史に名を残せなかった人物です。

 安芸国・川尻浦(現・呉市川尻町)の久蔵は貧農の子で、臨済宗の仏通寺(三原市)の小僧にされた。すごした6年間で読み書きができた。

 幼い13歳の禅僧は、寺を出て兵庫で水(か)主(こ)(下級船員)とし摂津国の欣喜(きんき)丸(まる)に乗り込んだ。文化7(1810)年11月、江戸行の酒樽を運ぶ廻船は、紀州沖の大嵐で難破し、3か月間の漂流した。

 文化8(1811)年3月10日、真冬の海にカムチャッカ半島に漂着した。乗組員16人ちゅう9人が凍死するほど酷寒だった。
 ロシア人に発見された生存者は、酷寒のオホーツクの町に送られた。


 凍傷にかかった久蔵は、現地のロシア人医者によって右足の指2本と、左足の甲から5本の指先が切断されて死をまぬがれた。歩行困難に陥ったが、善意で義足がつけられた。

 10代の久蔵は禅僧で学問ができた。3年間で積極的にロシア語を吸収した。医者の助手として種痘の接種を学んだ。その書物も入手した。

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 文化8(1811)年6月に、日本の国後島でゴローニン事件が起きた。

 千島列島を測量するロシア軍艦のディアナ号艦長のゴローニン海軍大尉が、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されたのだ。ゴローニン海軍大尉は陸路を護送されて松前に移されて、監禁されたという事件である。

 文化10(1813)年8月、大物・ゴローニン海軍大尉の捕虜交換として、久蔵はオホーツクにいた他の日本人とともに箱館(函館)に送致されたのだ。


 帰国の前、久蔵はロシア人医師から、ガラス板に挟んだ痘苗(とうびょう・弱毒化した痘瘡ウイルスの液)を5枚もらった。そして、蝦夷につくと、異国人と接した漂流民は罪人扱いで松前や江戸で、厳しく取り調べをうけた。
 ただ、禅僧の久蔵はキリスト教に帰依していなかったので、罪に問われなかったのだ
 
 江戸で調べが終わった久蔵は、文化11(1814)年4月に、芸州広島藩に引き渡された。

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 漂流民で帰還した久蔵は、広島8代藩主の浅野斉賢(なりかた)に呼び出された。久蔵は、とわれるままに、ロシアの文化・生活について語って聞かせた。
 藩主から、強靭な精神とロシア見聞について褒められたのである。

 この折、久蔵は浅野藩主に種痘苗の接種を進言した。

 ところが、牛の天然痘を人体に植えるなど、奇抜すぎたのだ。『牛の角が生えるのではないか』と効能を信じてもらえず、一笑されてしまった。

 藩主は久蔵が持ち帰ってきた地図(アジア地図)とか、ロシアの見聞とか、斬新なものに興味を示した。
 藩の要望で、久蔵は三年間の漂流記を書いて提出している。

 天然痘ワクチンが日本に入ってくるのは、35年後の嘉永2年である。つまり、若き久蔵が持ち帰った天然痘ワクチンの種痘と技術は約35年も早すぎたのだ。それが生かされず、埋没してしまった。

 もし、広島藩主が領内の子どもに接種し、それが拡がっていたならば、久蔵は後世において、ジョン万次郎よりも有名な人物だったことは間違いない。

【つづく】

【歴史から学ぶ】「医療崩壊」の元凶、国民にとって日本医師会は必要なのか (下)

 わたしが二、三十代のころ、腎臓結核を病んでいた。入院ちゅうに聴いた、当時、大学病院の助教授がつぶやいた言葉が、いまもつよく脳裏に残っている。
「医者が開業医になって、ベンツを乗りまわすようじゃ、ダメだな」
 私が通った高校の一年先輩が、偶然、入院病棟の医師だった。
 患者のわたしの目でみても、先輩は静脈注射が看護師より下手で、同僚医師から、治療の段度取りに気がまわっていない、ミスは多いと陰口を叩かれていた。
 再入院したとき、その先輩の姿がみえないので、回診ちゅうの助教授に事情を訊いてみた。静岡の病院に娘婿に入り、ベンツを乗りまわしている、と教えてくれたのだ。

 それから十数年後に、昭和天皇が泌尿器科系の入院治療を受けているときだった。教授になっていた方が、TVのインタビューで、天皇の症状について応えていた。なつかしくもあり、調べてみると、書籍「日本の名医100人」のなかに入っていた。

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 現在、新型コロナウイルスの問題で、日本のみならず、世界中がこの問題に真剣に取り組んでいる。「医療崩壊」という言葉が四六時ちゅう飛びだす。

 日本医師会の会長はつねに声高に「医療崩壊」を叫ぶ。世界でも有数の医療ベッド数を誇りながら、なぜ不足なのかと、ふしぎな疑問だった。
 為政者はつねに「専門家に意見を聞く」と振りまわされている。

 日本医師会の発言は大きい。さも、国民の味方のようなふるまいだ。錯覚を起こさせているのではないか。善人、博愛ぶると、作家の癖で疑問を持ち、本心をのぞきたくなる。
 まず、この会の実態はなんだろうか、と調べてみた。
 全国の医師資格者の約5割強が加入し、執行部は開業医がすべて占めている。かつての武見会長を思い出した。日本医師会はもともと「診療報酬にしか興味がない圧力団体である」、「開業医の利益を優先し、勤務医をないがしろにしている」と強い批判がある。

同会に入っていない勤務医が残り半数なのか。勤務医の代議員は10%程度だ。つまり、開業医たちの団体である。

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 現会長は、医療崩壊を叫んでいる。同会長が経営する札幌市内の病院のHPをみてみた。すると、PCR検査もコロナ患者を受け入れていない。えっとおもった。発熱者の立入禁止だ。
 札幌はクラスターが発生している。それらの対応の努力もせず、民を門前払いか。医療崩壊だけを叫ぶ。国民に寄り添うゼスチャーでごまかす。

 日本医師会会長が自分がコロナ患者の治療もせず、「医療崩壊」を叫ぶ。その本心はいったいなにか。簡単明瞭にみえてきた。
『国民に自粛させよ。新規陽性者を急激に減らさないと、街の診療医のところにまで、コロナ患者が押し寄せてくる。受け入れると、風評被害で医療従事者の経営が圧迫する』
 という趣旨の政治圧力をかけているのだ。
 かたや、ベンツを乗り回している上級国民である。仮面をかぶっているのだ。
 そんな内情を知っている政治家が、自粛がバカバカしいのか、深夜まで飲み歩いている。

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 幕末に、老中首座の阿部正弘が、当時の漢方医たちの政治団体に屈した、という歴史的事実がよみがえってきた。
 疫病の天然痘による幼児の命よりも、利権を主張した漢方医たちだった。
 
 世界を震撼された天然痘だった。牛種痘の接種が発見された。そのジェンナーの牛痘法は極々、軽微な発症ですみ、そのうえ新しい痘種(タネ)がとれるというメリットがあった。
 オランダ医学(蘭方医)から、それら文献が日本に入ってきた。

 福井の松平春嶽や、鍋島藩から幕府に牛種痘の輸入の進言があった。

 嘉永2(1849)年、漢方医と蘭方医の対立が起きた。漢方医は徳川将軍の治療(奥医師)など絶対の権限をもっていた。かれらは老中首座(当時の内閣総理大臣)に対しても圧力がかけられる強い団体だった。
『人の瘡蓋(かさぶた)を粉にし、幼児の鼻から吹き込む人痘法』
 従来の漢方療法を推す。幼児の犠牲が多い。しかし、かれらは権利主張で、オランダ医学の牛の種痘を入れさせない行動をとった。

 漢方医は医学の専門家という立場から、老中首座の阿部正弘にたいして強烈な圧力をかけてきた。それはオランダ医学の禁止という『蘭方医禁止令』と、医学書の輸入も幕府許可制の『蘭学翻訳取締令』という思想弾圧を発布させたのだ。

 ただ、阿部正弘は、松平春嶽の要請から、長崎奉行に天然痘の牛の種痘(たね)の輸入を認可させた。この抵抗が実を結んだ。
 
 漢方医と蘭方医が争うさなか、嘉永2年に、オランダ商館の医師によってジェンナー・牛痘法の種痘(たね)がわずか3人分が輸入されてきたのだ。

 鍋島藩の名藩医の楢林宗建(ならばやし そうけん)が、それをわが児へ植え付けた。3人のうち一人の接種が成功した。
 その若い痘種一つが、長崎の大勢の子どもを通じて数多く新痘種として培養された。そして、長崎から一気に日本各地に広まっていった。

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 佐倉藩(千葉県・佐倉市)にも、天然痘の牛の種痘がとどいた。

 藩主の堀田正睦(まさよし)は蘭学(オランダ学問)に理解があった。「蘭癖(らんへき)」とよばれた堀田は天保14年、堀田は佐藤泰然(たいぜん)を佐倉に招いて蘭医学塾および診療所「順天堂」(現在・順天堂大学医学部)を開かせた。

 佐藤は長崎で蘭学を学んだ外科手術など先端の技術をもっていた。かたや、オランダ語に通じる藩主・堀田正睦は、文献で牛の種痘を知っていた。わが娘に接種し、その安全性を細かく記載し、藩内に通告して、貧農の幼児らにも無料接種したのだ。

「蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ」といわれるほどで、全国から大勢の優秀な人材があつまってきた。「西の長崎、東の佐倉」といわれるまでになったのだ。

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 大阪の緒方洪庵(おがた こうあん)は、オランダ医学と蘭学の両面で最高峰に位置する民間人であった。大坂に天然痘の種痘の治療として「除痘館」を設立した。かれはなんと豪商の力を借りて無料で幼児に接種していた。その後、コレラ治療にも画期的な成果を上げた。
 蘭学(オランダ語)をまなぶ『適塾』(てきじゅく)を主幹し、福沢諭吉など英才を育成した。まさしく、近代医学の先駆者のひとりである。
 現在の大阪大学医学部へとつながった。

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 安政5年5月7日、勘定奉行だった川路聖謨(としあきら)が神田於玉ヶ池の屋敷内に、(現・東京都千代田区)に「お玉が池種痘所」を設立させた。この種痘所はのちに幕府直轄の「西洋医学所」となり、ここから東京大学医学部になっていった。

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 老中・阿部正弘は享年39歳の若さで亡くなる。かれには漢方医にたいする反発と意地があったのか、松平春嶽、堀田正睦たちが重篤になった阿部を見舞いにきて
「漢方医ではダメだ、西洋のオランダ医学による治療を」と勧めたけれど、幕府の方針だと言い、固辞した。
 漢方医にたいするあてこすりか、「わが身を実験台にする」といわんばかりだった。そして、老中の現職で亡くなった。
 若い阿部正弘の死が、井伊直弼の代になり、安政の大獄を起こし、徳川幕府の土台がおおきく崩れていくのだ。
 ただ、安政の5か国通商条約で横浜が開港されると、外国文化が入り込み、オランダ医学、イギリス医学、ドイツ医学が自由化になった。

 阿部正弘が許可した天然痘の治療から、日本の最先端医療の基礎が作られていったのだ。いまや順天堂大学医学部、大阪大学歯学部、東京大学医学部へ、と現代に名をなす。

          *

 令和の日本医師会は、嘉永時代に最先端の医療を禁止した漢方医の団体によく似ている。町の診療所医師の大多数が、新型コロナに対応しない。法律のせいにしている。ならば、その法律を変えようとするのか。逆で権利の主張ばかり。コロナと医者の接触を避けている。

 会長の経営する病院のHPをみて、新型コロナと思われる人は立入禁止など言語道断だとおもった。それで、よく医療崩壊と言えたものだ。コロナに恐れおののく国民に奉仕する精神などみじんもないのだ。

 少なくとも、公的病院に勤務し、コロナと向かい合っている勤務医たちの意見を代弁していない。北海道・札幌に戻り、病院の新型コロナの受け入れ態勢でもつくり、そのうえで、医療崩壊を叫ぶべきだ。
 国民が疫病に恐れているとき、日本の医者を代表している顔などしてほしくない。

         *  
 
 1月末の首相記者会見で、「新型コロナウイルスのワクチン接種が、世界の先進国のなかで最後の最後だ」と追及されていた。
 2月中旬からの接種を目前にし、自治体は医師の数が足りないとあたふたしている。開業医とか、歯医者とかが、国民のために残業してでも、夜なべしても総動員する気はないのか。
 世界一豊富な医療をもちながら、医療崩壊だと言い、自衛隊の軍医に頼っている。恥ずかしいとおもわないのだろうか。

         *

 かつて農業の米も、畜産の肉も、圧力団体が崩壊し、自由化になった。日本医師会という圧力団体も崩壊し、国境がなくなるだろう。
 医師の国際自由化がすすめば、感染病の治療にも恐れない外国人医師が、日本になだれ込んでくる。偉そうぶってベンツに乗りまわす。そんな日本人医師はそっぽを向かれる。

 いまから100年前に、スペイン風邪が日本でも数十万の死者をだす疫病大災害になった。それから3年後には関東大地震が発生した。私たちは災害列島に生きている。いつ何時、大災害が起きるかわからない。使命感のうすい医師はいつしか淘汰される。

 疫病は政治や文化を変える。それは歴史が語るところだ。

画像=ネットより

                       【了】

【歴史から学ぶ】 恐怖の天然痘とワクチン(上)=幕末期の日本人たち

 人類の戦いは、疫病と戦争のくり返しである。疫病は人命を奪い、ときには戦死者以上の犠牲を伴い、国力を弱めてしまう。その渦中にいれば、先行きが見えない心理的な不安と恐怖に襲われる。

 細菌は最新医学の発展で抗菌薬(抗生剤、抗生物質)などが開発されている。しかし、感染病のウイルスの場合、完全な封じ込めた成功例となると、有史以来、天然痘のみである。唯一の人間の勝利ともいえる天然痘撲滅の歴史から、学ぶ点が多い。
 
「天然痘ウイルス」はラクダから人間に入り込み、変異したともいわれている。この天然痘ウイルスはつよい感染力をもち、致死率が約20%~50%と非常に高かった。そのうえ、完治しても、顔など全身に膿疱の痕(あと)がひどく残てしまう。

 気味が悪い顏だ。そうはなりたくないと、発症そのものが恐れられた。徳川将軍でも、何人も罹患(りかん)しているので、身分や生活環境に影響されないウイルスだった。
 
             *

 教科書で習っているとおり、エドワード・ジェンナーが1796年に、牛からの種痘法(しゅとうほう)を考案し、人類初の天然痘の予防ワクチン接種が開発された。ここから天然痘の撲滅への戦いが始まる。決して平たんな道ではなかったのだ。
 WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言をおこなった。天然痘ウイルスに勝利するまで、人類は約200年も近くかかっている。
 
           *   
  
 いま、新型コロナウイルスのワクチン接種が世間の注目をあつめている。世界中の人々が期待と不安で成り行きを見守っている。成功するか、失敗するか。まだ予断を許さない。
 歴史には光と影がある。天然痘ウイルスは成功事例だが、その裏には忘れ去られた失敗や悲劇があるものだ。成功と失敗の双方から検証すると、学ぶ点は多くなる。
 
           *  
  
 天然痘ウイルスとの戦いで、気の毒な人物として案外知られていないが、芸州広島藩の漂流民・久蔵(きゅうぞう)がいる。苗字はない。
 天明7(1787)年に安芸国・川尻浦(現・呉市川尻町)で、僧侶の子として生まれた。
 文化7(1810)年11月の真冬の海だった、かれが13歳の時で、摂津国の欣喜丸が江戸に向かう途中、紀州沖で嵐で遭難したのである。乗船客だったのか、乗組員だったのか。それもわからない。

 真冬の海で黒潮で約3か月におよぶ漂流は想像を絶する。豪雪風の凍りつく2月のカムチャッカ半島(ロシア)に漂着した。乗船員は16人中9人が凍死していた。
 文化8(1811)年3月10日、生存者はロシア人に発見された。そして、カムチャッカ半島の根元を通り、オホーツクの町に送られことになった。

 かれらは途中の豪雪のなかで、埋もれたまま2-3日を過ごした。凍傷にかかった久蔵は、両足が黒ずんだ。現地の医者によって久蔵の右足の指2本と、左足の甲から5本の指先が切断されてしまった。

           *

 文化8(1811)年6月に、日本の国後島でゴローニン事件が起きた。
 千島列島を測量中であったロシア軍艦のディアナ号艦長のゴローニン海軍大尉が、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されたのだ。そして、徒歩で陸路を護送されて松前に移されて、監禁されたという事件が起きた。

 約2年3か月間、ゴローニンは日本に抑留された。ゴローニンが捕虜交換で帰国したあとに執筆した『日本幽囚記』は、ヨーロッパに日本人をより広く知られせることになった。

            *

 かたや、カムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛らの尽力で、事件解決が図られた。
 文久9(1821)年6月に捕虜交換が行われた。歓喜丸の乗務員、松前の商人と名乗る中川五郎治(別名・中川良左衛門)らの日本送致が決まった。

 久蔵は凍傷が治り切っていなかった。欣喜丸の仲間などが働きかけて、いちどは久蔵の乗船が許されたのである。しかし、沖合の船に乗り込んだ久蔵だったが、切断した足の悪臭がただよい、医者の判断でボートで港にもどされたのである。

            *
 
 その後、久蔵はロシア語をおぼえ、イルクーツクへ移された。そこで日本語学校の教師になる予定だった。同校は閉鎖が決まっており、ふたたびオホーツクに戻る。足の手術をした医者の世話になり、天然痘の予防知識を学んだ。

 文化10年8月に、オホーツクにいた他の日本人とともに、久蔵も箱館に送致されることになった。帰国の際に、久蔵は痘苗(とうびょう・弱毒化した痘瘡ウイルスの液)をガラスの容器に入れて持ち帰ってきたのだ。異国人と接したものは罪人扱いで松前や江戸で、厳しく取り調べを受ける。キリスト教に帰依していないか、と。

 江戸で調べが終わった久蔵は、芸州広島藩に引き渡された。

 当時は半ば鎖国状態で、外国の見聞情報は、どの藩でも貴重な情報であった。漂流民の下層階の久蔵だったが、広島8代藩主の浅野斉賢(なりかた)からも、お目通りの声がかかった。
 大黒屋光太夫も、吉宗将軍のまえで簾(すだれ)越しに話している。

 久蔵は、藩主の斉賢にロシア事情を語った。かれが持ち帰った物にはギヤマン、イギリス産とっくり、メリヤス足袋など、珍しいものが多い。そのうえ、ガラス容器のなかに、疱瘡(ほうそう)の種を入れてきていたのだ。
「この疱瘡の種は、ロシアでまだ疱瘡にかかっていない小児に植えております。ほんの少々、疱瘡を出しますが、それきりにて軽い症状ですみます。なおもまた、疱瘡にかかった者にも、植えると軽くすみます。私(久蔵)は、治療法も見習ってきました」
 わが国に、最初に持ち込まれた牛の痘苗(とうびょう・植物の苗の栽培に似た観念)である。


 久蔵は自分も家伝として実行したいので、許可が欲しいと藩主に、種痘苗の接種を進言したけれど、効能を信じてもらえず、一笑されてしまった。
 天然痘そのものが恐怖である。牛の角が生えるのではないか。牛の天然痘を人体に植えるなど、奇抜すぎたのだ。広島藩から天然痘ウイルスの接種が広まることはなかったのだ。

 久蔵は、脚光を浴びることなく極貧のまま生涯を終えている。久蔵の漂流の経緯、ロシア風俗、ロシア語の口述『ロシア漂流聞書』が残されているらしいが、所在は不明である。同藩の役人が聞き書きしたのだろう、浅野家史料のなかに未だ眠っている可能性がある。
   
            * 

 松前商人の中川五郎治にも、筆を運んでおこう。本名は小針屋佐七である。商人だが、択捉島の番人(役人)となった。ロシア軍のニコライに、択捉島が襲撃されて捕らわれた。中川は5年間の抑留の間に脱走したり、捕まったりしている。
 ゴローニン中佐と捕虜交換で、文化6(1812)年に日本に送致された。この直前に、オホーツクで「種痘書」を入手し、医者の助手として技術を会得していた。送還されたあと、かれは松前奉行に仕えた。
 娘のイクに種痘を施した。日本最初のジェンナー式(牛痘)の予防接種である。松前、函館で、種痘法を広めている。

「恐ろしい疱瘡を自分の体内に入れる」
 予防接種の恐怖から、北海道の民にどのていど寄与したのか、不明である。一方で、種痘が金になると言い、中川五郎治は自分の秘術にしたために、数百人にとどまり、医学的には広がりをみせなかったという。

 安芸国の久蔵の行動は浅野藩主に一蹴された。中川は技術の独占を図った。二人の努力は天然痘のワクチンの初期段階という医学上重要な人物だが、それぞれの理由で、広い範囲の天然痘ウイルスの予防には生かされなかった。

 長崎に来日したシーボルトに学んだ医者が、「牛の疱瘡から種が取れる」と聞いたけれど、国内産の牛から疱瘡が見つからなかった。

 文政11(1828)年にシーボルト事件が起きたために、牛痘法は立ち消えになった。そこで、日本人の医者は人痘法を考えた。
 天然痘の罹患者のカサブタを採取し、乾燥し、粉にして、それをワクチンとして鼻の奥に吹き込む。成功したり、本当の天然痘にかかり発狂死したりと、決して安全でなく、むしろ危険を伴うので普及しなかった。
 
 やがて、天保の時代から、嘉永の時代へと入っていく。

写真=ネットより

                  【つづく】

【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(下)

 慶応4(1868)年に、江戸城は無血開城し、德川慶喜が水戸に下った。

 新政府は次なる攻撃目標として、東武天皇(輪王寺宮)と元号・延壽の抹殺だ。同年5月15日に上野戦争を仕掛ける。
 危機一髪、巧妙に脱出した東武天皇は、江戸湾から榎本武揚海軍の軍艦で平潟(福島県)へ、そして仙台藩領・会津藩領に入っていく。
 
 西の幼帝、東の東武天皇。この国家分断の戦いで、いずれが日本制覇をするのか。予測もつかなかった。
 

 上野戦争から2カ月では戦況の予想がつかず、優劣が付いていなかった。西軍は長崎・グラバーから西洋の武器を購入している。奥羽越列藩は横浜港から最新銃を購入している。旧幕府軍の購入量は、統計では長崎よりも、横浜港の武器の輸入が2倍ほど多い。
 ここらは後世の歴史学者が、故意に、西軍は最新銃、東軍は火縄銃だと、嘘でまやかしている。
 榎本武揚海軍が江戸湾から蝦夷まで、制海権をにぎっている。大坂湾に攻め入ることも可能だった。

 歴史は後から見れば、戦争の勝敗は明確にわかる。当事者にはいつも敵に対する恐怖である。決着がつくまで、勝敗はわからないものだ。

 戊辰戦争の決着が見えない段階の7月17日に、新政府から『東京奠都の詔』(正式な名はない)の詔書が交付されたのである。
 幼帝・睦仁(むつひと)親王が8月27日に明治天皇の即位する。そこまでなぜ遷都の発布が待てなかったのか。

 新政府は仙台・会津に勝てるとは思っていなかった節がある。「まさか、新政府が勝てると思っていなかった」(板垣退助)

 仙台・会津など奥羽越列藩が巻き返してきて江戸を奪還する。そして、東武天皇が東叡山(上野)に返り咲く。江戸庶民はそれを強く期待している。

 新政府としては江戸市民の心をつかまないと、厄介な状況になる、と判断したのだろう。明治天皇が即位する40日前に、京都人に予告も了解もなく、『東京奠都の詔』を出して暴走してしまったのだ。
 これが160年後の今日におよんでも、東京遷都が曖昧のままにさせている主たる要因になった。
           * 

『東京奠都の詔』とはいかなるものか。

【原文】

『朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎮四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ』

【現代語訳】

『朕(天皇)は、いまから政治を裁決する。親政をおこなって万民を安らかに鎮める。江戸は東国の第一の大きな都市である。四方から人や物があつまり賑わっている。天皇はみずから江戸に出むいて政治を執る。よって、江戸を東京と称する。ここに、朕は四方を海に囲まれた日本を一つ家族として、東西同一視するところなり。民はこの意向を心に留めて行動せよ』

① 「朕」とは天皇のみが使える用語である。7月17日は天皇不在である。つまり、天皇を語った、あやしげな詔書だった。だれが書いたのか。太政官のトップだろう。

② 「海内一家 東西同視スル」。日本は四方を海に囲まれた単一民族である。一つ家族とおなじである。東と西に天皇がふたりいるから、一人の天皇に統合する。
 ここにおいて東武天皇の存在を認めているのだ。

           * 

 睦仁親王が明治天皇が即位した。9月にはすぐさま東京への東幸が行われた。京都人には明確な説明もなかった。そこで一度、東京から京都に帰る。還幸
 翌明治2(1869)年に、ふたたび東京に行幸する。遷都という言葉がつかわれず、行幸でごまかしてしまう。
 江戸城を東京城に、そして皇城となる。京都の御所は継続する。

 一つボタンを掛け違えると、もはや後には戻れない。既成事実の積み重ねで行く。

 明治天皇の即位まで、あと40日間が待てず、だれかが勝手に『朕』(天皇)を名乗り、詔書を発布した。
 この太政官は一体だれだろう。
 
 太平洋戦争をはさんで、天皇制は大きく変わった。皇室も変わった。一世一元も平成天皇の譲位で終わってしまった。

 一千年の歴史から見れば、天皇制は親しみであったり、政略に使われたり、日本史には欠かせない存在であることだけは確かだ。
 長い歴史のなかで、わずか半年だった東武天皇と元号・延壽(えんじゅ)がどう扱われていくのだろうか。

                 【了】
 

【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(上)

 日本(JAPAN)の首都は東京である。ただ、約千年つづいた遷都(せんと)がなされていない。意味のよくわからない「奠都」(てんと)だという。
「お上のやったことだ」
 日本人はいちど既成事実として受け止めると、150年経っても問題視しない。為政者の取り繕う、言葉のまやかしに弱い。
 
 いまさら、遷都論など陳腐かもしれない。幕末から明治への過渡期に、南北朝とおなじ東西朝の時代があった。『歴史は将来の指針になる』。ごまかしてはいけないという趣旨で、そこを掘り下げてみたい。

 日本人と天皇制は切り離せない。明治政府は、「一世一元の詔」で、天皇一代につき一元号とした。しかし、明治天皇、大正天皇、昭和天皇と3代で、そのルールは終わった。

 元号は古くて、新しい問題として、日本人はつねに向かい合っていく必要性がある。

           *


 わたしたちの日本史の幕末編は、官撰「維新史」(弘化3年から明治4年)が底本になっている。
 明治時代に編纂(へんさん)がはじまり、大正時代を経て、軍国主義の真っただ中の昭和16年12月に全6巻が完成している。大略4000ページで、外交、学事、軍事、経済など諸般の説明におよぶ。

「史実に対し、厳正公平である」と記しているが、日中戦争のさなかで、太平洋戦争(真珠湾攻撃)の直前で軍事一色であった。言論統制の治安維持法の下で、学者や研究者は内容に異議を唱えたり、反対意見を述べたりすれば、反政府主義だとレッテルを押されて国賊とされた時代である。
 中立性と客観性に疑問が持たれている。

 この「維新史」では、遷都でなく、あいまいな表現の「東京奠都」(てんと)がつかわれている。現代の学者、有識者、歴史作家たちは、そのまま東京奠都をつかう。
 ことばの曖昧さの裏には、ごまかしが忍んでいるのが常だ。

 現代においても、為政者はことばの曖昧さで、本筋をはぐらかす。実例は数限りなくある。言葉の裏に敏感になる必要がある。

              *
 
 慶応2年12月25日に、孝明天皇が崩御(ほうぎょ)された。満14歳の幼帝・睦仁(むつひと)親王が践祚(せんそ)された。幼帝に代わって執政が天皇の政務を執り行う。

 慶応3年10月15日の大政奉還で徳川幕府が瓦解した。同年12月9日に、小御所会議で、王政復古の大号令で天皇親政になった。なにをどう考えたのか。幼帝の補佐をする摂政・関白を外したのだ。となると、詔書、勅書、条約の勅許、錦の旗などが正式に出せない。
 天皇の機能がなくなり、天皇の空白時代になってしまったのだ。重大な政治的なカラクリだ。ここを問題視する歴史学者は少ない。ある意味で、タブー視している。
 
           *
  
 かれらは天皇の裁許がなくても、政治が推し進められると考えたのだろう。総裁・議定・参与をもうけた。
 慶応4年正月に鳥羽伏見の戦いが起きた。新政府は東征軍を江戸にむかわせた。全国制覇を目指したのだ。
           *

 ところが新政府を快く思わない旧幕臣、関東一円、奥羽越列藩同盟の諸藩は、小御所会議で決まった「天皇親政」を逆手に取った。
「ならば、天皇による東日本政府をつくろう」
 上野寛永寺の貫主・輪王寺宮能久(よしひさ)を東武天皇として奉じ、元号・延壽(えんじゅ)を発布したのだ。

 輪王寺宮は孝明天皇の義弟で、21才であり、皇位継承権がある。江戸市中では、もともと東叡山(上野)の人柄のよい親王だと評判だった。

 東武天皇とは、東の武(やまとたける)から命名したのかもしれない。江戸から東北まで、東武天皇や元号・延壽がしだいに庶民にまで浸透してきた。

 わが子には南北朝時代という、天皇がふたりいる時代があった。まさに、幕末に皇室が分断した時代が訪れたのだ。
                         【つづく】  

【歴史エッセイ】井伊大老の歴史評価、善か、悪か。あなたはどう見る? ④

 現代の認識は、彦根藩主の井伊直弼大老といえば、「安政の5カ国通商条約」という不平等条約を結んだ人物である。歴史認識は、はたして正しいのだろうか。

 外国との条約とは、こちら側の有利な条件ばかりで成り立たず、双方が妥協点を見出し成立するものである。
「安政の5カ国通商条約」を締結した当時は、日本がわには不平等条約の認識がなく、むしろわが国に優位性があったのだ。

           *       

 フランスのシラク大統領(当時)が、2005年に国賓で来日した。
「日仏修好通商条約(安政5年・1858年)から、やがて150年間が経ちます。これを機会に日仏友好150周年の式典を行いましょう」
 シラク大統領からそう提案された日本側は、びっくりした。

「安政の5カ国通商条約」とは関税自主権を失い、治外法権などが課られた不平等条約だ。首相も外務省の職員も、みなそう思い込んでいたから、日本政府はおどろきと戸惑いだった。不平等条約を祝典する気など、毛頭考えていなかったのだ。


 シラク大統領はさらにこういった。
「この条約は、皇帝ナポレオン三世の命で、ルイ・グロ男爵が日本の幕府と結んだものです。フランスにとって不平等条約でしたが、それはもう過去のものとして、日本とフランスの新パートナーとして大規模な祝典をしましょう」
 フランス側にとっていかに不平等なものだったか。

 日本政府は、不平等を祝うなど国民感情が許すだろうか、と考えた。ともかく、150年目を迎える節目の年として、2008年には『日仏交流150周年記念行事』 が実施された。
 フランス各地では1年を通じて758件もの記念行事が実施された。さらに10年後には「日仏修好通商条約160周年記念行事」として、安倍首相(当時)が訪仏しているのだ。

 なぜ、フランスだけが特別に「安政の5カ国修好通商条約」を華々しい式典を行うのか。きょう現在でも、日本側から他の四カ国に、フランス同様に記念行事をしましょう、と言いだせる環境にはない。
 フランス側との認識はあまりにも、違いすぎる。どちらが正しいのだろうか。

            * 

 徳川幕府は安政4(1857)年から、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとは15回におよぶ日米修好通商条約の交渉を重ねていた。
 隣国ではアロー戦争(1856年~1860年・第二次アヘン戦争)が勃発していた。イギリスとフランスが、自由貿易をもとめて清国との間で戦う第二のアヘン戦争だった。この戦争で清国は不利な条約が結ばれされるだろう。その勢いで英仏が日本に通商条約を迫ってくる可能性が高い(実際に、清国は半植民地化の天津条約が結ばれた)。

 老中首座の堀田正睦(まさひろ・佐倉藩主)はみずから京都に出むいて孝明天皇から条約調印の勅許を得ようと試みた。
 しかし、攘夷派の公家が京都御所のまえでピケを張ってしまった(廷臣八十八卿列参事件)。堀田正睦は天皇から通商の勅許がもらえず、手ぶらで江戸へ戻ることになった。

 老中次席の松平忠固(ただかた・上田藩6代藩主)は、国際情勢をよくみていた。
「この時期を失っては、天下の道を誤る。京都の山のなかで国際認識のない朝廷だ。天皇の勅許など待ってはいられない。アメリカとの間で日本に少しでも有利な内容で、最恵国条約を結んでおけば、イギリスとフランスもそれに従わざるを得ないだろう」
 開国派の松平忠固は、阿部正弘の下で日米和親条約を結んだ時の老中だった。
 強硬路線を主張する松平は、信濃国を代表する人物で、日本は生糸の輸出で豊かになれると、考えていた。

 京都から江戸に戻ってきた堀田正睦は、病床の家定将軍に天皇から条約勅許を得られなかったと報告した。そして、事態打開のために松平慶永を大老に推挙した。
「家柄からも人物からしても、大老は井伊掃部頭しかいない」
 家定将軍から全幅の信頼をうけた井伊直弼が、安政5(1858)年4月23日、大老に就任した。ここから歴史がおおきく動いた。

           *  

 安政5年6月18日に幕閣会議で、井伊大老は、「孝明天皇の勅許を得てから、日米通商条約を調印する」と外交方針をだした。
 外国奉行たちはアロー戦争の情報から強い危機感をもっていた。外国奉行の岩瀬忠震(ただなり)と、井上清直(きよなお)は、
「アメリカのハリスとは、15回も話し合いを行っています。アメリカはずいぶん譲歩してきた。それなのにやみくもに引き延ばしている。日本側には誠意がない、と憤っています」
「あくまで勅許をもらってからにせよ」
 井伊直弼はそれに拘泥した。
「ハリスにそれを伝えて、やむを得ない場合は調印してもよろしいですか」
「その場合は致し方ない。あくまで、天皇の勅許を優先するように」
 岩瀬と井上は翌19日に、ハリスと日米修好通商条約を結んだのである。

 憤った井伊直弼は、6月23日に、まず老中の堀田正睦と松平忠固を罷免した。その後の日蘭、日露、日英、日仏はもはや反対しなかった。ただ、岩瀬たち外国奉行らは左遷されていく。

           *     

 歴史を後ろからみれば、もし京都の朝廷の言いなりになっていると、アロー戦争後の清国のように、半植民地「天津条約」と同様の通商条約を結ばされていただろう。外国奉行には半植民地回避にたいして先見の目と努力があったのだ。

「岩瀬、井上たち全権委員をもった日本は幸福である。彼らは日本にとって(植民地から救われた)恩人である」
 後年、ハリスはそう回顧している。

             *  

 日仏修好通商条約にもどろう。2005年に国賓で来日したシラク大統領(当時)の立場からすれば、フランスとしてはアジアであまりにも不平等な条約を結ばされたのだ。
 戦争で勝ちとった清国の天津条約の優位性など、吹き飛んでしまうものだった。
① 日本人が渡仏すれば、フランスの全領内を自由に通行できる。どの地でも領事館が設けられた。
しかし、フランス人の居留地は横浜、長崎、神戸、函館、新潟に制限された。通行は7里以内で、首都の江戸にもいけない。自由通行権がなく、フランスは極端な不平等の下におかれた。

② フランスはワインの輸出国である。日本は食料などは5%、一般関税が20%だった。

「フランスの最大の輸出品目のワインである。酒類には35%もの高輸入関税をかけてきた」
 シャンペンは水と同様だが、その主張も通らず、同様に35%の輸入関税をかけた。
(中国5%、インドは2.5%)
 日本人は白く濁った酒(どぶろく)を飲み、かたや高品質なワインが関税が高くて飲めず、気の毒である。その主張も通らなかった。

③ 領事裁判権は、日本の幕府側から放棄してきた。「犯罪者は軽重問わず、みな国外退去させる。そちらの国で裁いてくれ」と考えていたようだ。
 訪日したフランス人は攘夷で殺されたが、その犯人は日本の奉行所が裁いていた。決して不平等ではない。
 
 このように、大国フランスとしては、アロー戦争の直後に、アジアの小国から受けた屈辱な歴史的条約だった。
 シラク大統領(当時)の提案から、日本政府は完全に失念していたため、大慌てで準備をしたのが実情だ。
 日仏修好通商条約から150周年、160周年として、日仏両国で盛大に祝われたのだ。

 ところで、アメリカとの「日米修好通商条約の周年祝典」は将来できるのだろうか。日本政府が言いだすには、井伊直弼の歴史評価が変わらないと、無理だろう。

            ※

「安政の大獄」がなぜ起きたのか。最大の理由のひとつは、尊王攘夷論が渦巻きはじめた京都で活躍する薩摩藩士の西郷隆盛である。案外知られていない。

 西郷は『挙兵計画』を極秘で水戸藩の京都留守居役あてに書簡で送っていたのだ。それが幕府側の手に渡った。井伊直弼を怒らせたのである。「安政の大獄」の最大の起因の一つとなった。

 西郷の挙兵計画とはいかなるものか。

「井伊政権の老中・間部詮勝が京都で暴政行うようであれば、薩摩藩の軍勢255騎と大銃4挺を大坂で準備し、伏見に軍勢を移動させる。そして、すぐに「沢山城」(彦根城)に押しかけ一戦で踏み倒す。
 いま赤鬼(井伊直弼)は関東へ藩兵の多くを呼びせているので、沢山城は空虚であり、一戦をもって落城に及ぶ見込みである』
 西郷の密書はすぐさま幕府の隠密の手に渡り、いまも「彦根城資料館」に現存されている。

            *

 自藩の城が攻撃されるとなると、いかなる藩主も怒って当然だ。激怒した井伊大老は、西郷隆盛および関係者の根こそぎ探索を命じたのだ。
 京都の水戸藩を中心に徹底した家宅捜索がおこなわれた。

 証拠品の『西郷隆盛の挙兵計画』をうけとった水戸藩の京都留守居役・鵜飼吉左衛門は気の毒にも斬罪、同助役の鵜飼幸吉も獄門死罪である。

 当の西郷隆盛は、京都の清水寺の「月照」とともに薩摩に逃亡した。そして錦江湾に小舟を漕ぎ出し、船頭に扮(ふん)した藩士がいるまえで、ふたりは海に入水自殺を図った。

 月照が死に、西郷がなぜ助かったのか。歴史ミステリーで想像するしかない。
     
          *   

 現代の歴史作家のほとんどは西郷に忖度(そんたく)し、「沢山城」(彦根城)への『挙兵計画』の密書にふれていない。英雄・西郷隆盛が、「安政の大獄」の火付け役では不都合なのだろう。ふれないことは隠すことである。現代の政治家の忖度のように。

「安政の大獄」を書いたり、語ったりするならば、井伊直弼が善か悪かでなく、『歴史は公平に』ということだろう。

 写真=ネットより引用

【了】

【歴史エッセイ】井伊大老の歴史評価、善か、悪か。あなたはどう見る? ③

 安政5(1858)年から翌年にかけて起きた「安政の大獄」は、将軍継嗣(けいし)問題、日米修好通商条約の違勅(いちょく)問題、「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)問題、という三つが重なり合っている。

           *    

 歴史作家のなかには、徳川将軍家の厳格な掟を知らずして、「安政の大獄」を書く人は実に多い。徳川政権は初期の武家政治から、中期は文治政治になり、法治国家の体制をとっているのだ。その掟や厳格なルールを前提で、歴史関係の筆をすすめるべきである。

 一方で、徳川政権が260余年にわたり、長期政権を維持できた最大要因は、江戸城防衛に徹したからである。
 現代に置き換えながら、徳川将軍家のルールをわかりやすく述べたい。

             *  

 江戸城の防衛は幾重にも障壁を設けている。江戸に近い東海道や関東には、譜代大名か旗本を配置してガードしている。外様大名はその外側に置く。九州には日田郡代や長崎奉行のような防衛と情報拠点を設けている。
 江戸城に通じる五街道には、いずこも「入り鉄砲・出女」に厳しい検問の関所を設けている。

 全国の諸藩の大名正室は、人質として江戸にとめおく。参勤交代で江戸にきた大名は、一年余り在府としてとどまる。大名の将軍お目通りは、正月、五節句、八月一日、月三回と決められている。それは実に厳格である。
 それを破れば、理由を問わず、徳川政権への謀反人とみなす。それは250年間にわたり破られたことのない厳しい掟だった。

           *

 徳川将軍家は老中(大老)政治である。譜代大名のなかから有能な人材を老中に選び、幕政を行わせる。強い権限をもった老中政治である。
 徳川御三家や外様大名には、幕政に関与させない。

 老中首座・阿部正弘が嘉永6年にアメリカ大統領の国書にたいする意見をもとめたのは、例外中の例外であった。

 それが突如として、水戸藩の徳川斉昭、尾張藩の徳川慶勝、福井藩の松平春嶽らが、将軍継嗣問題と、日米修好通商条約の違勅問題から、江戸城に無断登城し、日米修好通商条約は違勅だ、と叫んだ。一ツ橋の慶喜は登城日だった。

 無断登城した行為は、家康の時代から、問答無用で、『将軍家への謀反人だ』と永蟄居など命じられた。これはルールに徹した処罰であり、弾圧ではない。
 そのうえ、御三家や外様は幕政に意見を述べられない規定にも違反している。 
 
 この行為を現代に置き換えるならば、県知事が東京・皇居に無許可で入り、まわりが静止しても大声で自論を述べる。
 たとえ知事でも現行犯逮捕で手錠をかけられて監禁されるだろう。

 井伊大老は無断登城と幕政への介入に対して処罰した。一般にいわれる「安政の大獄」が思想弾圧ではない。祖法の掟破りにたいする厳重な処罰だった。

           *    

 将軍継嗣問題では、福井の福井藩の橋本甚内らが処刑された。
「徳川将軍選びは重大な幕府の政事だ。藩士ごときが裏で画策するのは、重大な反幕行為だ」
 と井伊大老は処罰した。
 現代に置きかえれば、議院内閣制で内閣総理大臣が決まるのに、地方公務員の事務方(政治活動ができない)が、総理候補者の推薦を根回しする行為だった。現代でも違法行為である。
 井伊大老の処罰は、法治行為だった。

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 さらに、孝明天皇も禁裏諸法度にたいして重大な違反をしている。それが安政5年8月8日の「戊午の密勅」事件である。
 朝廷は直截的に諸藩に指示を出してはいけない。かならず幕府を通す掟だった。ところが、孝明天皇が水戸藩にたいして幕政改革を指示する勅書(勅諚)を下賜した事件である。
 幕府の頭越しだったことから、戊午の時代に起きた密勅とされた。

 現代でいえば、今上天皇が内々で茨城県(水戸)知事に政治改革に関する指示書(勅書)をだし、有力な知事に伝えよ、と命じたようなものだ。
 内閣総理大臣は2日後に、その内容を知らせた。

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 井伊大老は「戊午の密勅」は、幕府に対する朝廷の重大な違反行為だ、と断じた。これは孝明天皇のみずからの意思ではないだろう、だれが天皇を動かしたのか、と井伊は疑った。
 これを放置すれば、朝廷が全国の大名に直接命令を出すことになる。幕府の威信がなくなる。
 そこで、井伊直弼は家臣で国学者の長野主膳をつかって「戊午の密勅」に関係した者、仕掛けた者の偵察・探索をさせた。
 水戸藩を中心とした違法行為者が次々と捕縛(ほばく)された。連座を問われて、処罰されたものもいる。

 船橋聖一著『花の生涯』では、井伊直弼の立場から描かれている。側室で美貌の「村山たか」が長野主膳と結婚する。そして、元芸者の彼女は夫・長野のために、尊王攘夷派のだれが「戊午の密勅」に関与したか、と探索に協力するのだ。そのストーリーが運ばれている。
 
 桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、女密偵として「村山たか」は京都の河原に三日間さらされ者にされるのだ。これは事実である。

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 歴史作家・船橋聖一は「花の生涯」は、実直な性格の井伊直弼の立場から、処罰は合法的だったと描いている。先に紹介したようにNHK大河ドラマの第一回として、一年間にわたり放映されているくらいだ。「安政の大獄」とは、井伊直弼が幕府トップの立場から厳格にルール違反者にたいして処罰を課したものである。決して思想弾圧ではなかったのだと、船橋は強調している。
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 船橋聖一とほぼ同時代に活躍したのが、司馬遼太郎である。司馬は薩長史観につよい影響力をうけた作品を発表していく。とくに坂本龍馬を中心とした幕末歴史小説が大ヒットを飛ばした。司馬史観といわれ始めた。
 司馬は井伊大老をことごとく悪人に描いている。
「桜田門外の変における、井伊直弼のテロ暗殺だけは許される」
 と集団テロを容認している。
 司馬史観の影響から、井伊直弼はもはやTVでは悪役にしか出てこない存在になってしまったのだ。
 
           * 

 時代が流れると、歴史上の人物も再評価される。
 大平洋戦争の終戦から76年間が経った今日、明治政府がつくった幕末史観にも懐疑的な影がさしてきた。薩長史観による歴史のねつ造が随所で露呈してきたのだ。
 明治時代を賛美した司馬遼太郎の作品も、ときには薩長に傾きすぎて、小説とはいえ、極端に事実を曲げている、と批判の対象になりはじめた。

 司馬史観は井伊大老暗殺という集団テロを合法化している。

 あなたがもし当時の政権トップの井伊直弼の立場ならば、どう処しますか。船橋聖一か、司馬遼太郎か。どちらを支持しますか。

   写真(京の河原にさらされた村山たか)=ネットより引用

                           【つづく】

【歴史エッセイ】井伊大老の歴史評価、善か、悪か。あなたはどう見る? ①

 井伊直弼(いい なおすけ)は歴史のうえで、善と悪の両極の評価をうけてきた。

 明治時代から一般に、井伊大老は強権的な政治で、思想犯を弾圧してきたという認識がつよい。かたや、横浜市の掃部(かもん)公園には『横浜港の開港の祖』として井伊直弼の立像が巨きな国際貿易港を見下ろしている。
 薩長史観の立場のひとは、井伊大老を暗殺した「桜田門外の変」を過激派水戸浪士の義挙としている。
 為政者の徳川幕府がわからみれば、これは集団テロで殺人事件である。許されない行為だとする。

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 私はことし(2021年)新刊として「紅紫の館」(郷士・日比谷健次郎の幕末)を出版した。徳川がわの人物からみた幕末歴史小説である。
 作家仲間からもらったハガキの一節を紹介しよう。
『紅紫の館は、とても上品な御本に仕上がりましたね。雅な装幀とはまったく異なる「桜田門外の変」からはじまる物語は、読者の意表を突いて興味をそそるものです。幕末動乱のなかで静かに刻まれた真の歴史……』
 紅紫とは、紅と紫の色合いで、孔子の書から引用した「最も美しいもの」という意味合いである。
 第一章が『桜田門外の変』である。徳川幕府の権威を失墜させた重要な事件であり、物語は徳川の視点で徳川政権の瓦解、戊辰戦争(国家分断の戦い)へとすすんでいく。

 この第一章を簡略に説明すれば、
 安政7(1860)年、上巳の日(桃の節句・3月3日)は、大名、旗本らの総登城日である。その日は朝から雪が降り、江戸城の周辺は白く降雪してた。それでも、例年どおり、大勢の江戸市民が見物していた。
 
 井伊直弼大老をのせた大名籠が、彦根上屋敷(現・国会の前庭)から、桜田門の前(現・警視庁の本庁)までやってきた。
 突如として、水戸藩の脱藩浪士のひとりが、「お願いがあります」と訴状の書を掲げて走り寄った。『籠訴』を装ったものだ。
 水戸浪士が一発の単筒(ピストル)を大名籠に打ち込む。それが合図で、十数名の水戸浪士が刀を抜いて、井伊大老の大名籠に襲いかかる。
 見物人からも悲鳴が上がる。
 銃で太ももを撃たれた井伊直弼が、籠のなかから、雪の上に引きずり出される。薩摩藩士がひとり加わっていた。かれが一刀で井伊の首を斬り落とす。
 井伊家の家臣と水戸浪士の双方が斬り合う、大乱闘となった。白い雪が飛びちる鮮血で真っ赤に染まった。

          *   

 多くの歴史作家が、過去から描く井伊大老暗殺の歴史的な事実だ。
 ピストルを使った水戸浪士は、武士道に反する汚点だとする作家もいる。
 司馬遼太郎は短編小説「桜田門外の変」で、「水戸浪士も、井伊大老も、斬られたことによって歴史的な役割を果たした」という。
 遠回しで理解しにくいので、司馬のインタビューを紹介すれば、「暗殺自体は許せない行為だが、井伊大老の暗殺だけは許せる」と述べている。つまり、この暗殺は義挙であるとする。

 
 多くのファンをもった司馬遼太郎は、明治時代を維新として賛美する歴史作家である。その根底には「明治政府は有能で、徳川は無能」という考えが脈々と流れており、特定の人物のヒーローイズムである。
 悪役が必要なのである。それは徳川幕府であり、昭和の日本旧陸軍である。

           * 

 半世紀前から、私の脳裏にはこの司馬史観に対して、
「井伊大老の暗殺は、はたして正義なのか? 居留地の西洋人や洋学をまなぶ日本人を斬りまくった攘夷活動は歴史の必然なのか」
 という疑問として消えなかった。
 いま作家の一翼として歴史小説を書いている。このたびの『紅紫の館』では、井伊家・家老の岡本半介の視点から「桜田門外の変」を描いた。

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 NHKの第一回大河ドラマは、『花の生涯』で、幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品である。原作は舟橋聖一。井伊大老の「安政の大獄」を悪ときめつけた人には、第一回の大河ドラマの主人公が井伊直弼とは、まったく意外だち思われるかもしれない。
 しかし、放映当時の日本人の歴史観として、「安政の大獄」は起こるべきして起きた事件であり、井伊直弼には恣意、強欲、思想弾圧などなかった、徳川将軍のために尽くした人物と見なされていたのである。

 それから数年後、司馬遼太郎が「井伊大老は攘夷派が開国に反対すると、支離滅裂で狂気のように弾圧した」と述べている。つまり、司馬は「井伊直弼=悪人」と色付けしたうえで、安政の大獄を狂気とするものだ。薩長の英雄を誇張するために、井伊大老は殺されても仕方ないと展開するようになった。
 その影響が現代まで及んでいる。

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 私は「紅紫の館」において、井伊大老が暗殺された瞬間「桜田門外の変」からストーリーを運んでいる。さかのぼった「安政の大獄」にはまったく触れていない。
 一方で、近著「安政維新」(阿部正弘の生涯)においても、安政4(1858)年の阿部の死去までである。その作中でも、井伊大老が指揮した「安政の大獄」まで運んでいない。
 私自身にすれば、「安政の大獄」はちょうど空白地帯だ。そこで「穂高健一ワールド」で歴史エッセイとして、彦根藩主で大老となった井伊直弼に、歴史の光を当ててみたい。都合4回を予定している。

     写真(彦根藩主・井伊直弼)=ネットより引用

                            【つづく】