歴史の旅・真実とロマンをもとめて

教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(4)

 広島藩が、なぜ大政奉還を言い出した。それは広島藩が生み出した頼山陽の思想が、藩校・学問所の思想として根強いていたからである。

 頼山陽の「日本外史」が、幕末志士の必読書だと言われた。なぜか。山陽の皇国史観が、吉田松陰もつよく影響している。松陰は暴力革命と結びつけたが、それが過激な思想となった。

 私は広島市内にある「頼山陽記念館」に取材で訪ねた。「日本外史」の骨子はなにか。それを問うてみた。大義名分論で、おだやかな「大政奉還論」だという。驚いたのは、徳川幕府は発禁処分にせず、松平定信が各藩の教科書として勧めた。親藩の川越藩などは何刷りもしていますよ、と教えてくれた。
 当然、慶喜も読んでいるのだろう。

 私は「日本外史」を多少しか読んでいない。論旨を聞いてみた。

「日本は天皇の国家です。すべての民の頂点に天皇を置いています。家康公は、応仁の乱から150年もの戦国の乱を平定した、その功績で天皇より大政を委任させられたのです」

 日本のあらゆる政権は、平家、鎌倉、足利幕府、德川幕府も、天皇からの政治委託です。人民を統治する能力がなくなると、政権は天皇にもどす。血と血で奪い合うものではない。天皇が新たな政権に委託すのです、という。

 これは江戸時代わりに広く認識されていた。

「幕府は経済政策に失敗した。民がもう塗炭の苦しみにあえいでいます」
 近畿の民は物価の沸騰に苦しみ、関東筋は凶作で流民が多く、農民一揆が多発しています。これらを収束できる能力の人材は、幕閣にはおらず、収拾不能な事態に陥っています。
 幕政改革では、もはや徳川幕府は立ち直れません。ここに至っては、德川家から政権を朝廷に還納させ、王政復古することです。
 武士国家でなく、天皇がみずから政権に返り咲く。慶喜公は身を退いて、藩籍に就いてください。

 慶喜はその論旨は十二分に理解していた。

 10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に、上洛中の40藩の重臣を招集した。そして、大政奉還を諮問した。

「全国諸藩の大名は関ヶ原の戦いの恩賞、群雄割拠の上に260年も居座っています。これは異常です。德川家もふくめて、いずれ諸藩の藩主はいちど天皇に戻すことです。全国すべて廃藩された方が良い(明治の廃藩置県)も促す。当面は、まずは德川家がすみやかに大政を朝廷に奉還することです」

 頼山陽の思想は現代でも脈々と生きている。天皇が国 会開会を宣言し、国会議員に政治を委託する。選挙で新たに選ばれた内閣総理大臣は、天皇が任命する。
 さらには条約の批准も行う。だから、内閣総理大臣が選び直されるたびに、政権が変わるので、その都度、天皇が皇居で認証を行うのだ。

 現代版でも、大政奉還は首相が変わるたびに行われている。そう認識すれば、理解が容易い。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(3)

 芸州広島藩は、なぜ大政奉還を藩論として打ち出してきたのか。
 
 私たちは、歴史を見るとき、つい政治的な視点から追ってしまう。経済的・社会的な視点でみると、大政奉還がしっかり見えてくる。
  現代に置き換えると、でも、民主党の原発の全面廃炉よりも、2-3%の経済成長を民は求めて自民党の安倍政権を選択した。都知事の選挙でもしかりだ。
『経済が政権を変えてしまう』
 それがまさしく大政奉還の根幹だった。

 長州藩は朝敵で、藩士も藩兵も京都にこれない。新撰組などに、長州人だと見破られる切り捨てられてしまう。薩長同盟はまったく倒幕に機能していない。長州が関わるのは鳥羽伏見の戦いからである。それなのに、倒幕=薩長同盟で解こうとしている。とんちんかんな幕末史になってしまう。長州はまったく土俵外だった。
 尊皇攘夷の志士が討つ。それすらも外野の騒ぎだった。現在でいう、警察が懸命にテロリストを探し、逃げ回っているようなものだ。

 民衆が政治を動かす。ヒーローがいない。これが大政奉還である。民衆のエネルギーを過小評価してはダメである。、民衆が大政奉還を成し遂げたのだ、ともいえる。

 幕府は第二次長征の敗北すら認めていなかった。和平交渉は勝海舟が宮島で勝手に決めてきたものだ。無効だ、第三次長州征討もほのめかす。とやたら、強気だ。戦勝した長州藩といえども、自国の幕府軍を追い払っただけだ。京都に挙兵したわけではない。

 慶喜は民衆に負けたのだ。

 広島藩がなぜ大政奉還へと踏み切ったか。『藝藩志』から紹介しよう。

 先の第二次長州征討の戦争は、幕閣の意地とミエと体面だけでおこなわれただけである。参戦した諸藩はいまや金も人も使い果たし、財政圧迫で苦しんでいる。参戦しても、領土や勝利品が貰えるわけでもない。
 遠く長州への人馬に要した1日2食の食費、雑費、宿泊費もそれぞれ自藩が負担し、往復した街道筋の宿から、宿泊費が未払いだと督促を受けている。
 武具や兵器を放り投げて帰藩している。新たに最新の銃を買い揃えるとなると、これまた藩財政を圧迫する。
 その結果が農民などに、苛酷な負担となっている。
 
 戦争を仕掛けた小笠原老中すら幕閣でなお君臨している。幕府の根は腐っている。「幕府の権威はもはや地に落ちた。威厳ばかりで、筋道がなく、でたらめな政治だ。正しい条理に沿った政治ができない。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(2)

 小松は島津久光と同様に、公武合体論だった。しかし、広島藩との接触から、小松が大政奉還論に切り替わってきた。
 大久保利通と西郷隆盛は武力倒幕の考え方だ。小松もそれを認識したていた。薩摩藩は極度に階級制度が厳格だから、大久保も西郷も、小松には異議申し立てできず従ってきた。


『藝藩志』から、やや小説風に読みやすくしてみよう。

 7月1日、広島藩の辻将曹は京都の薩摩邸に小松帯刀を訪ねた。
「辻殿が先般、久光公にお会いになり、広島藩は幕府に、いちど大政奉還の建白書をだされた、とか。その条項とはいかなるものか、お聞かせ願いたい」
 小松は33歳で、眼と眉がきりっとした細面だった。
「政令は1か所から出して、天下の秀才を抜擢し、政務に参与させる。そのためにも、幕府に政権を朝廷に返納してもらうことです」
「おおいに賞賛するところです。ただ、薩摩藩内には、往年の清川八郎、真木和泉らが最初に言い出した、勤王討幕説を持っている人物がいます」
「それが西郷吉之助ですね」
 辻は事前に応接掛から情報収集していた。

「そうです。西郷はもっぱら武力をもって、王室を再興させる考え方です。在京の薩摩藩の藩士を誘い込み、勤王討幕説を一致させる、行動を秘かに展開しています」
 小松はそう辻に語っている。
 在京の薩摩藩邸内でも、一枚岩ではないな。辻の率直な薩摩の印章だった。

 翌日、あらためて辻が小松に会った。、
「土佐藩の後藤象二郎に、広島藩は藩論一致で、徳川家には大政を奉還させる、それをもって倒幕する活動に出ている、と教えました。すると、広島の大政奉還案に乗らせてほしい、と象二郎が申しています。なにしろ、象二郎は四候会議が失敗し、容堂には国もとに帰られてしまい、面子がつぶれて困っておりますから。いかがいたしますか」
「人物の信頼度はいかがですか? 德川はそう簡単に倒れない。腰くだけになれば、德川から制裁を受ける。戦争も辞さない覚悟もできる人物か否か。ここらの信念の座り方はどうです?」
「太鼓で、大きく見せたがる癖はあります。後藤が笛を吹けども、容堂公は踊らず。象二郎の間口は広いが、奥行きがない。予(小松帯刀)が話した時、広島藩の辻どのと、面議したいとつよく申しておりました。会うだけでも、いちど象二郎に会っていただけませぬか」
「土佐はもともと人材が豊富だし……。承知しました」

 翌3日には、辻、小松、後藤、そして西郷が加わった。辻は大政奉還の建白の趣旨を一通り説明した。
「大政奉還の挙は誠に良い。慶喜は15代将軍になったばかり。はやい段階に朝廷に政権返上させる。それを建白書で進言する。これが巧く行けば、天下が収まる。広島、薩摩、土佐の三藩で連署して、これを建白すべきでしょう」
 象二郎がすぐさま乗ってきた。
「西郷吉之助には、意見がありそうだな」
 小松が発言を許した。

「大政奉還の幕府の採否は微妙です。かならずや拒否の意見が渦巻くでしょう。四候会議の換言(かんげん)すら受け入れない慶喜です。建白書だけでは、一蹴されてしまう。まして反幕府勢力だと言い、非常事態(軍事行動)も起こり得るでしょう。
 大政奉還を建白するには、一面では兵隊を出してきて、朝廷をお守りする。もう一面は慶喜が大政奉還を採用しなかったならば、すぐさま兵隊を使って、政権をこちらの手に奪う。これが拙者の意見です」
 西郷は武力にこだわり、さらにこう言った
「幕府の権威は落ちたが、力を失ったわけではない。薩摩、広島、そして土佐が京都へ兵をあげる。そうすれば、大政奉還の建白は実るでしょう。
 朝敵の長州藩の軍隊も挙げてきて、慶喜に圧力を加える。幕閣はいまなお幕長戦争のあとをずるずる引きずっております。これも、一気に解決させる。
 長州軍を京都に挙げる。それが有益な戦法です」

「実にいい考えだ。長州は実戦経験が豊富だ。禁門の変、下関戦争、幕長戦争。これは幕府に強い圧力になる。四藩ならば、幕府を倒せる。こうなれば、感慨無量だ」
 後藤が凱旋して熱に浮かされたような態度だった。
(乗りすぎる性格だな)
 辻は警戒した。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(1)

 私はいま長編歴史小説を書いている。脱稿まで、もうすこし。初稿が書き終えていても、解らないところがあると、現地を訪ねる。先般も、京都に行ってきた。

 ともかく疑問があれば専門家とか、学芸員とか、郷土史家から聴き取りをしている。ただ、なかなかその道に人に出会わない。

 一方で、歴史的な資料や文献は、難解な候文などが多い。漢文形式もある。机に向かいながら、ときには「現代小説」がいかに楽かな、と思う。また「時代小説」のほうが適当に空想にリアリティーを持たせるだけだから、これも楽だな。そんな想いで執筆している。

 歴史小説だから、あまり史観と間違ったことは書けない。「なんだ嘘っぱちじゃないか」となってしまう。逆に調べるほどに、これまでの歴史は「嘘っぱちだ」とわかることがある。
 大政奉還がまさにそれだった。

 坂本龍馬が提唱し、後藤象二郎が板倉老中に出したと言われている。事実なのか。疑わしくなった。一方で、大政奉還の建白書は歴史的事実だ。
 その内容となると、どうなのだろうか。私たちはどのくらい大政奉還の意味を理解しているのだろうか。一通の建白書で、15代将軍・徳川慶喜が政権を投げ出すほど、建白書にはインパクトがあったのか。
 そんな疑問がつねにつきまとう。

 四候(しこう)会議で、当時の四強の大名が束になっても、慶喜将軍にはかなわなかった。すべて押し切られてしまい、山内容堂などは怒って高知に帰ってしまった。

 後藤象二郎の文筆力が、その慶喜に勝るほどすごいかったのか。その疑問が頭のなかに横切っていた。かえりみれば、学生時代から、そんな疑惑があった。

 後藤象二郎は、同年の5月・鞆の浦沖で起きた、龍馬の『いろは丸事件』で、長崎奉行所において、大張ったりをかましている。当事者の龍馬に変わり、象二郎は紀州藩から「金塊、最新銃数百丁を載せていた」と言い、膨大な弁償金を取っているのだ。
 いろは丸にそんなにも大そうなものを積んでいたのか。紀州藩は反発しながらも、当時は証明の手立てがなかった。相互の話し合いの信頼だけだ。

 平成時代に入り、いろは丸を海底調査をすれば、船倉には荷物がなく、船員たちのガラクタな日常品ばかりだった。
 私はそれを京都大学の助教授(潜水した学者)から、写真と一部引き揚げ品の実物を見せてもらった。(3年前)。だから、後藤象二郎なる人物はまったく信用していなかった。
 
 徳川家康いらい最も聡明な将軍だといわれた慶喜は、後藤の建白書をどこまで信じて受け入れたのか。慶喜と象二郎ではあまりにも知的なレベルが違いすぎる。
 どうしても腑に落ちなかった。

 慶応3年の10月15日、慶喜は何を根拠にして、徳川家の政権を朝廷に奉還したのか。後藤の執筆力ではないだろう。容堂は徳川政権の温存の考えだ。佐幕思想だと、慶喜が知らないはずがない。ここにも、後藤の建白書には奇怪な矛盾があった。
 
 大政奉還の建白書は、土佐に遅れること3日で、芸州広島藩の執政・辻将曹が板倉老中に提出している。ここらにカギがありそうだ、と思った。
 広島は原爆で資料が乏しい。だれも、幕末・広島の歴史小説など書こうとしない。広島大学近代史の著名教授すら、長州藩が専門だ。

 4年前から歩きつづけた結果、『藝藩志』の存在を知った。芸州広島藩の大政奉還のながれが詳しく載っている。

 龍馬と象二郎の薄っぺらなおとぎ話とちがう。明治時代に、川合三十郎と橋本素助が十数年にわたって取り組んだ、濃密な文献だった。

 まず驚いたのが、大政奉還が広島藩から、具体的に、藩の統一(藩論)となされて活動したことだ。

 1866(慶応2)年12月29日、広島藩主・浅野長訓の命で、執政(家老級)の石井修理が大政奉還の建白書を持って、宇品港を出発した。
 翌年正月4日に、修理が板倉閣老へ拝謁し、大政奉還の建白書を提出した。
『幕府をして反正治本をもとめる。よって罪を謝罪し、政権を朝廷に返還せしむる
 そんな内容の大政奉還の建白書だ。
 翌5日には菅野肇の飛鳥井伝奏(朝廷への取次)にも上奏書を出した。

 一般に伝えられている土佐藩からの大政奉還の建白書(同年10月3日)よりも、約10か月も早く、広島藩から幕府と朝廷に提出しているのだ。
 私は、えっと疑った。これって教科書では教えていないな、と思った。

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幕末史の謎。密貿易の御手洗港を訪ねる(上)

 歴史には隠れた闇の世界がある。

 幕末期に、日米和親条約、同通商条約で日本が開国した。長崎、函館、下田の三つの港にかぎられている。倒幕運動が盛んになると、兵庫(神戸港)の開港がもめにもめた。ここまでは教科書で出ている。
 しかし、何ごとにも表と裏がある。裏側から見たほうが、正確なときもある。

 瀬戸内海の大崎下島に密貿易港があった。
 密貿易は闇の部分だから、教科書には出てこない。だから、憶えなくてもよい、知らなくてもよい、という発想があると、正しい歴史認識はできない。

 日本の文部官僚は不都合なことは隠す。
 「お役人の作ったことだ、間違いないだろう」と鵜呑みにしてしまうと、日本よりも、外国のほうが正しい日本の歴史認識をもっている場合がある。
 鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の時に、日本最南端の薩摩がなぜ大量の大砲、ライフル銃など最新西洋銃を日本一もっていたのか。幕府軍以上に。ここらは教えてもよい点だ。 


 いきなり脇道にそれてしまうが、江戸幕府はペリー提督が来る前から、19世紀にアメリカと交易をしていた。なぜ、教科書で教えないのだろうか。
 単純に3つの疑問から、たどっていくと、日米貿易が明瞭に見える。
 
 ①日本人は英語に弱い。ペリーが1853年に来て、翌年には和親条約を結んでいる。わずか1年で誰が英文の条約文を読み取り、サインできたのか。万次郎は漁師で身分が低いから同席させていない。幕閣は身分制度にうるさい。長崎から英語専門の通詞(通訳)がきたのだ。かれらは英和辞典を持っていた。どのように辞書ができたのか。

 ②18世紀~19世紀、オランダは海運帝国・イギリスと戦争していた。オランダから日本へ商船などまわせない。ナポレオンがオランダを占領し、オランダ国家がなくなった時がある。
 交易相手の国家がなくなれば、代替えは必要だ。すると、どこの国だ? 

 ③ アメリカの博物館に、なぜ江戸時代の物品がたくさんあるのか。浮世絵、鏡台、下駄、三味線、武者人形、仏像、陶器、絵馬……

 ここから解明していくと、文部官僚は、世界史ではナポレオンがヨーロッパ全土を支配下においた、と教える。しかし、日本史では「日本は中国とオランダと貿易していた」とバカの一つ覚えで教えている、と矛盾がわかる。いつまでも、事実が教えられない日本人は悲劇なのだ。
 
 江戸幕府は優秀な頭脳を持っていた。オランダ国が消えたが、プロテスタントは日本領土侵略の恐れがないからと、長崎出島でアメリカと交易していた。だから、日本の美術品、生活用品など珍しいものは、船員が買って帰り、それらが大量にアメリカで現存しているのだ。

 薩長閥の明治政府は、徳川家は劣悪な政権だったと教えることで、自分たちを優位に見せようとした。ペリー提督が来て、幕府は慌てふためき、大騒ぎ、圧力に屈して開港した。まさに無能扱いだ。

 実態はどうか。アメリカ大統領の親書を持って、1853年にペリー提督が日本にくる、と国家が再建された・オランダから徳川幕府に連絡が入ってきたのだ。黒船艦隊は空の礼砲を鳴らしていた。浦賀には見物人が多く、屋台が出るし、役人が野次馬を整理できず、立ち入り禁止にしたくらいだ。
  
 1846年には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが艦隊を連れて浦賀に来ているのだ。この時も見物人で大騒ぎだ。ペリー提督は2度目だし、だれも恐れおののいていない。
 教科書は嘘を教えているのだ。

 日本はアメリカと交易していたと、もう教えるべきだ。
 安倍首相が長州閥を受け継いでいるにせよ。これを前提にして教えないから、諸外国からつねに日本は正しい歴史を教えていない、と批判されるのだ。

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彰義隊の戦い、敗残兵の視点から不忍の池端を歩く

 カモが泳ぐ、カモメが飛来する不忍池の周辺を歩いてみる。大勢の死傷者がでた戊辰戦争・彰義隊の影など、みじんもない。この光景だけをみると、平和そのものである。

 戊辰戦争という内戦は、必要だったのだろうか。いつも考える。日本人どうしが血を流しあう。敵と味方と別れて、官軍だ、賊軍だと言い、銃の引き金をひく。
 私はこんな無意味な戦争はない、と思う。これらの戦いを通して、日本人が得たものはなんだったのか。

  慶応4年5月15日の「上野の彰義隊」の戦いは、史料も読み取る人によって異なる。西の官軍(新政府軍)からの見方と、徳川家など関東勢(佐幕)からと、2通りある。どちらから見ても、血の歴史である。


 さかのぼること、慶応3年12月の小御所会議で、王政復興の大号令で新政府が誕生した。徳川慶喜から将軍職を取り上げる、領地も没収(返納)する。それが辞官納地(じかんのうち)だった。

 大勢の旗本や関八州の武士たちは徳川800万石の扶持米で生活する。それが無職になり、路頭に迷う。再就職の受け皿などなかなかない。士農工商だから、武士が商人にはなれない。
 人間は食べていかなければならず、強奪・掠奪が起きる。
 
 江戸城を無血開城したものの、西郷隆盛や勝海舟は、これら失業武士の対策も取れず、これぞ、という妙案はなかったのだ。
 結局は、江戸の治安維持に失敗した。


『旗本脱走の輩は、上野の山、その他に頓集する官軍の兵士に、しばしば暗殺し、無辜の民の財産を掠奪し、暴虐を呈し、官軍に抗衡している』

 それを取り締まるために、明治元年(慶応四年)五月12日、大総督府は江戸府判事をおいた。船越洋之助(広島藩士)、木村三郎(久留米藩士)、河田佐久馬(因州藩士)、土方大一郎(土佐藩)、清岡岱作(土佐藩)などである。

 江戸府判事とはいまでいう、副知事クラスである。


『彰義隊約3000人が群れ集まり、恣(ほしいまま)に狂暴化している。官軍に抵抗し、無辜の民の略奪を至極暴れまわっている。民はひどい苦しみに落とし入れている。今般、その害を取り除くために、誅伐する。天下泰平のために、多くの民を安堵するためにも、彰義隊を討つ』

  これらの判事による、お触書である。

 新政府・官軍が江戸市中の佐幕武士を挑発し、上野の山に集結させた可能性もある。そこで、一網打尽に討つ戦略があったかもしれない。


『官軍の兵士を暗殺し、官軍と偽って民の財を略奪している。暴徒以外に何物でもない。実に、国家の治安を乱している。見つけ次第に即刻、討ち取る。秘かに補助したものも同罪だ。あるいは隠したものも、賊徒として同罪だ」

 追い込まれた佐幕派の武士は、刻々と死期が近づいていた。

 軍務官判事の大村益次郎が、「1日で戦争を終結して見せます」と言い切る。
「東叡山寛永寺の徳川家祖廟の位牌や宝物を、他に移すように忠告する」
 これは宣戦布告だった。

 上野の彰義隊はアームストロング砲の大砲を次つぎ撃ちこまれた。そのうち、薩摩、長州、肥後、土佐、備前、築後、伊州、因州藩などが上野の山・黒門から、搦手へと突入する。武力衝突に及ぶ。彰義隊は死力をつくす。しかし、同日夜9時過ぎには、放火して退散する。


 翌日から、残党狩りがはじまる。これが悲惨だった。
 捕まった元旗本たちは、ことごとく斬首(ざんしゅ)だった。斬首とは、後ろ手に縛られる。「止めてくれ。助けてくれ」という命乞いしても、容赦なく、一刀で首を斬り落とす。

 首が飛んで、転がった血だらけの頭があちらこちらにある。首のない胴体も転がっている。

 悲壮な斬首は史料のなかに、折々に、絵図で描かれている。見ていて、気味が悪い。武士道というきれいごとではない。歯をむき出し、目を吊り上げた顔だけの頭部。身震いしてしまう。もうこれ以上は見たくない。それが悲惨な斬首の光景だ。

 こうした死はどう受け止めるべきか。私たちは歴史となると、とかく西郷だの、勝海舟だの、慶喜だの、容保だの、という立場になり切ってしまう。作家はその立場で書いてしまう。

 しかし、庶民は一般に、首を集め、胴体を収集する、土葬する、こうした立場なのだ。私は敗残兵の資料を頭に浮かべながら、不忍池の周りを歩いた。
 ここには数千体の血が地面にしみているのだ。そう思うと、日本人同士が血で血を洗う、やってはいけなかった戊辰戦争だった、と庶民レベルで思う。
 大政奉還で治めるべきだったのだ。

 

教えないことは隠すことだ(下)=明治軍国主義の誕生

 鳥羽伏見の戦いは薩摩藩の仕掛けた。それまで何もしていない長州藩が相乗りしてきた。まさに長州はここがスタートなのだ。

やらなくてもいい無益な戊辰戦争へと突入させる。関東の戦い、奥州の戦いへと、佐幕派の恭順を認めず、ひたすら権力欲から暴走していく。


 会津が落城すると、もう翌月には明治天皇を東京に移し遷都だった。加速度的に、靖国神社を建立し、廃仏毀釈で仏教を弾圧して天皇を神とする(天皇万歳で死ねる兵士への道)、徴兵制度、日清、日露へとすすんでいく。長州の皇国思想と軍事が結び付いたのが、明治維新なのだ。

 この過程で、徳川討幕のみだった西郷は不要な人物にされてしまった。

 薩摩と長州の権力思想は、本質が違う、二つを一つにする「薩長同盟」「薩長」という呼称が、維新をわからなくさせている。
 薩摩は徳川家との対立でみる。京都に生まれた、新政府は継続する考えだった。他方で、長州は軍事力一辺倒からの政権欲のみだ。京都の新政府など、残す気はなかった。

 ふたつを切り離せば、明治軍事政権の本質がわかりやすく見えてくる。

 明治、大正、昭和と資料を追っていた。
 東条英機の国会演説の映像を見た。「東洋の平和を考えるわが国としては、欧米の干渉は許しがたい。平和な国家をつくるのが、我が国の目的だ」と東条の口から、何度も何度も、平和ということばがとびだすのには驚いた。

 戦争の大義名分は、政治家が平和を口にすることから生れる、と東条から教えられた。こうした政治家の裏には戦争の牙がある。
 戦争傾向が強い政治家の芽は、国民がはやくに摘むことだ、それが肝要だと思った。

教えないことは隠すことだ(中)=明治軍国主義の誕生

 1月5日、芝・泉岳寺に出向いてみた。赤穂浅野家は、広島・浅野家の支藩である。だから、同境内には戊辰戦争で亡くなった芸州広島藩の墓がある、という文献の確認のためだった。
 12月は忠臣蔵で、きっと混み合うだろうと思い、あえて翌月にしたつもりだが、それでも大勢の人出に驚いてしまった。正月三が日はずいぶん込み合った、と甘酒屋の店主が教えてくれた。

 慶応4年4月27日、神機隊の300人余りが広島藩船の万年丸で、品川沖に朝4時に到着している。船内待機の後、5月8日には芝・泉岳寺に入り同14日10時の出立まで、滞在している、と同隊士の日記から判明した。(翌15日が上野・彰義隊の戦い)。

 このあたりの史料はないか。泉岳寺の社務所も忙しなげで、問いかけると書面の質問で、と言われた。人出を見た後だけに、予想通りだった。
 同境内には芸州藩士の墓があった。それにしても、赤穂浪士の人気はすさまじい。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた墓碑を見て、可哀そうだからと言い、『表忠碑』を建てた。(慶応戊辰春と明記)。大石力の真横にあった。

 徳川幕府から見れば、赤穂浪士の行為はどこまでも殺人行為だった。かれら47人は打ち首でなく、切腹で武士の体面を保った。庶民は歌舞伎で知り得ても、泉岳寺に表だって義士扱いの墓参りはできなかったようだ。だから、広島・浅野家の家臣が、朽ちた墓碑を憐れんだように廃れていたのだ。

 忠臣蔵と、戦争とは同列に考えられないが、「正義」の討ち入りだと、赤穂浪士は考えたのだろう。戦い、争いは、多くの場合、正義の発想だろう。 
 
 
「正しい歴史認識」そんな驕った気持ちはないが、戦争へと暴走してきた、維新の実態を掘り起こす。過去には薩長土から発掘されてきた。とくに、司馬遼太郎の歴史史観は、それらの藩を中心に展開されている。「薩長同盟」が作品の核になっている。

 薩長同盟は倒幕にさして役立っていない。誇張されている。王政復古で新政権ができても、長州の成果はほとんど無に等しい。

 明治政府以降、司馬史観まで『薩長』と一括りにする。そうして教えられてきた。この史観が明治政府の本質を隠れたものにさせている。ふたつを切り離して、維新史をみれば、その違いがよくわかる。
 
 薩摩藩の西郷・大久保はどこまでも、徳川家を断つ、討幕で推し進んできた。大政奉還の後も、将軍職にとどまている慶喜を討つ。それでないと徳川幕府の終焉はないという考えだった。だから、西郷たちは江戸城開城で、精神的に終わっているのだ。

 長州藩は安芸毛利家が広域支配200万石(実質)から36万石に転赴された。関ヶ原の恨み、徳川を倒して、こんどこそ長州支配の政権をつくる、という考え方だ。目的は政権を奪うことだった。

 ここが薩摩と長州の根本が違う点だ。これを同一視するところに、軍国主義思想の根源をわからなくさせているのだ。

教えないことは隠すことだ(上)=明治軍国主義の誕生

 明治時代以降の歴史教科書は、「大政奉還の後に、なぜ戊辰戦争が起きたの?」という日本人の素朴な疑問に答えていない。わかりやすく教えると、国民に広く明治軍事国家の成立過程がわかってしまうからだ。
 教えないことは隠すことだ。

 政治家・官僚が教えないなら、作家が歴史小説で書く。そんな想いで、第二次幕長戦争~大政奉還~鳥羽伏見の戦い~戊辰戦争へと、歴史小説を執筆ちゅうだ。

 私的に1-5人殺すと殺人者だ。戦争で100人殺せば、英雄になれる。子どもでも、戦争はやったらいけない、と知っている。だけど、戦争が起きてしまうと、人間が人間を平気で殺す。死に逝く人の血にはどんな違いがあるのだろうか。

 戦争を美化しない。戦いの醜さを書く。その執筆姿勢は常に持ち続けているが、私には「人殺しと英雄の差」はいまだわからない。それでも、筆を止めないで、現地取材をし、史料を探し、それを読み込んでは、より事実に近いところで書き続けている。

 戦争を描くだけに、人間の弱さも知ることになる。非戦論だった安芸広島藩士の若者が、あえて戊辰戦争へと身を投じていく。

 重臣が語る、若者へのせりふの一つをいま書き上げた。
「大政奉還で、京都の新政府はもはや既成の政権になった。なにも皇軍の戦いとして、德川家を攻撃する必要などない。これは薩長の下層武士階級の政権転覆だ。新政府が未完成のうちに、別の新しい政権をつくろうと謀(は)っているのだ」

 鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、芸州・広島藩は兵を動かさなかった。薩長土が勇んで戊辰戦争を拡大していく。西側の諸藩は政権に食い込もうと、兵を送り込み、戦いは膨張している。

「わが広島藩が軍隊を差し向けて、権力の一角に食い込む必要などない。この戦争は薩長の下級藩士の権力欲なのだ。適当な距離を置いて、傍観すればよい。これが藩論だ。そなにたちが戦いに加わるにしろ、藩は1両の軍費を出せぬ」
 重役がそうつけ加えた。
「脱藩してでも」
 藩校出身の若手藩士27人が、農兵ら300人余りを募り「神機隊」を結成していた。
「そこまで覚悟しているなら、聴許にとどめおく」

 これら27人は秀才ぞろいだった。寄付金を集め、300人が全額自費で出征する。そして、上野・彰義隊、相馬・仙台藩と戦う。他藩兵士が戦況不利から逃げても、かれらは後退せず、突撃していく。
 出征兵士の死者率では、日本中で最大の犠牲だろう。

 作中で、反戦思想の若者たちが、戦争へと心が傾いていく。私自身が戦争肯定に傾くようで、嫌な気持ちに陥ったりもする。
『戦争が勃発してからだと、戦争反対を叫んでも遅すぎる。戦争は加速し、止めることは至難の業だ。敵味方に渡れてしまうと、反戦など訴えられない』
 私はその想いを強くもった。
 

あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (下)

 一昨年(2011)、江田島(広島県)の元海軍兵学校の『教育参考館』を見学すると、西郷隆盛の肖像が大々的に飾られ、軍人の鏡となっていた。その肖像の威厳さを凝視するほどに、違和感をもった。西郷隆盛が明治からの軍国主義の道を作った張本人なんだ、という認識をつよめた。


 学校で習う「大政奉還」は十五代将軍・徳川慶喜が戦争もせず、江戸幕府の政権を天皇に返還した、平和的な日本をつくった。そのままならば、世界に誇るべき偉業だった。


 鳥羽伏見の戦いは、西郷隆盛ら薩長の貧しい下級(中級)藩士たちが、政権の座を狙った軍事クーデターだ、と私はいま歴史解釈に立っている。
 その直前、徳川家をあえて戦争に巻き込むために、西郷は益満休之助、伊牟田尚平らを江戸に送り込み、江戸や関東の富豪の家から、三千両、五千両と掠奪し、火を放つ。江戸庶民を恐怖に陥れた。
 西郷は戦争を引き起こし、政権掠奪、勝つためには庶民の犠牲などかまわず、手段を選ばない軍人だった。少なくとも、庶民の暮らし向きや安全など、およそ配慮がなされていない。


 鳥羽伏見の戦いだけでは軍事クーデターが成就しなかった。西郷は権謀術策で、己が権力のために、公家たちに根回し、やらなくてもよい東北征討の戊辰戦争をやった。

 全国諸藩の10-30歳代の若者は藩兵士や農兵として関東・東北の戦いに駆りだされた。一方で、東北の若者たちも藩命で受けて立った。そして、数万人が戦死した。
 これら双方の若者は、尊皇と言っても、天皇制自体がわかっておらず、なぜ敵・味方になるか、それすらも解っていなかった。

「官軍で死ねば神として祀られ、東北人は賊軍で路傍の石が墓」
 若者がともに国家(藩)のため、家族のためだと信じて疑わず戦った。国民、庶民の目で見れば、戊辰戦争ほど、無意味な戦いは日本の歴史上にないのだ。


「天皇を手にしたものが、最大の権力者になる」。それが古代からの天皇制による政治の原点である。だから、薩長の下級藩士たちは、会津城が陥落(開城)すると、軍事クーデターの仕上げとして、天皇を京都から連れ出し、江戸城に閉じ込めた。江戸を東京と改め、なし崩しに、明治軍事政権を作った。 京都から東京に正式な遷都もせず、政権がずっと続いてきたのだ。

 江戸幕府は260年間にわたり海外とはいちども戦争しなかった。そして平和裏に政権委譲し、『京都御所の新政府』が誕生した。京都でしっかり育てるべきだった。しかしながら、下級藩士たちのクーデターで、わずか1年間足らずの短命に終わった。それから明治時代に入り、軍事国家になっていった。

 たとえ、短命政権でも、この存在は重要である。いまからでも歴史教科書で、しっかり教えるべきである。平和国家を維持しようとした、重要な役目の政権だった、と。

 ひとたび軍人や軍部が力を持つと、政権は長い。
 
 天皇は軍人でもないのに、大元帥に奉られた。天皇の名の下、大元帥の立場で、10-20年ごとに、海外への侵略戦争の最高責任者とされてきた。その不幸は国民も同じ。成人になれば、徴兵制の下で、戦場へと送られた。大勢が死んだ。
「ぼくは戦争に行きません」
 そう言えば、牢獄しか道はなかった。

 上野の銅像も影響している。西郷隆盛は親しみやすい庶民の姿だ。これが『陸軍大将軍服着用』の姿ならば、鳥羽伏見の戦いから、日本の軍国主義を導いた張本人だ、という説明もたやすいだろう。と同時に、東北人らも上野に上京してきて、戊辰戦争の犠牲者の立場から怨念の目で見たことだろう。
 その意味で、彫刻は歴史上のイメージを変えてしまうから恐ろしい。

 鹿児島にいくと、西郷隆盛の像は軍服だ。ただ、他県から、その西郷像を見学目的にして鹿児島にいく人はほとんどいないと思うけれど……。

 この頃、鹿児島県の出身者から、「西郷隆盛は鹿児島の大切な若者たちを西南戦争で殺してしまった。許せない人物だ」という話をきく機会が多くなってきた。
「勝海舟の卓越した能力があったから、江戸城が開城できた。武闘派で、軍事討幕の最たる西郷だが、勝がいたから、後世で平和主義者に見られている。本質は逆だ』と言い切る人もいる。

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