歴史の旅・真実とロマンをもとめて

教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(1)

 私はいま長編歴史小説を書いている。脱稿まで、もうすこし。初稿が書き終えていても、解らないところがあると、現地を訪ねる。先般も、京都に行ってきた。

 ともかく疑問があれば専門家とか、学芸員とか、郷土史家から聴き取りをしている。ただ、なかなかその道に人に出会わない。

 一方で、歴史的な資料や文献は、難解な候文などが多い。漢文形式もある。机に向かいながら、ときには「現代小説」がいかに楽かな、と思う。また「時代小説」のほうが適当に空想にリアリティーを持たせるだけだから、これも楽だな。そんな想いで執筆している。

 歴史小説だから、あまり史観と間違ったことは書けない。「なんだ嘘っぱちじゃないか」となってしまう。逆に調べるほどに、これまでの歴史は「嘘っぱちだ」とわかることがある。
 大政奉還がまさにそれだった。

 坂本龍馬が提唱し、後藤象二郎が板倉老中に出したと言われている。事実なのか。疑わしくなった。一方で、大政奉還の建白書は歴史的事実だ。
 その内容となると、どうなのだろうか。私たちはどのくらい大政奉還の意味を理解しているのだろうか。一通の建白書で、15代将軍・徳川慶喜が政権を投げ出すほど、建白書にはインパクトがあったのか。
 そんな疑問がつねにつきまとう。

 四候(しこう)会議で、当時の四強の大名が束になっても、慶喜将軍にはかなわなかった。すべて押し切られてしまい、山内容堂などは怒って高知に帰ってしまった。

 後藤象二郎の文筆力が、その慶喜に勝るほどすごいかったのか。その疑問が頭のなかに横切っていた。かえりみれば、学生時代から、そんな疑惑があった。

 後藤象二郎は、同年の5月・鞆の浦沖で起きた、龍馬の『いろは丸事件』で、長崎奉行所において、大張ったりをかましている。当事者の龍馬に変わり、象二郎は紀州藩から「金塊、最新銃数百丁を載せていた」と言い、膨大な弁償金を取っているのだ。
 いろは丸にそんなにも大そうなものを積んでいたのか。紀州藩は反発しながらも、当時は証明の手立てがなかった。相互の話し合いの信頼だけだ。

 平成時代に入り、いろは丸を海底調査をすれば、船倉には荷物がなく、船員たちのガラクタな日常品ばかりだった。
 私はそれを京都大学の助教授(潜水した学者)から、写真と一部引き揚げ品の実物を見せてもらった。(3年前)。だから、後藤象二郎なる人物はまったく信用していなかった。
 
 徳川家康いらい最も聡明な将軍だといわれた慶喜は、後藤の建白書をどこまで信じて受け入れたのか。慶喜と象二郎ではあまりにも知的なレベルが違いすぎる。
 どうしても腑に落ちなかった。

 慶応3年の10月15日、慶喜は何を根拠にして、徳川家の政権を朝廷に奉還したのか。後藤の執筆力ではないだろう。容堂は徳川政権の温存の考えだ。佐幕思想だと、慶喜が知らないはずがない。ここにも、後藤の建白書には奇怪な矛盾があった。
 
 大政奉還の建白書は、土佐に遅れること3日で、芸州広島藩の執政・辻将曹が板倉老中に提出している。ここらにカギがありそうだ、と思った。
 広島は原爆で資料が乏しい。だれも、幕末・広島の歴史小説など書こうとしない。広島大学近代史の著名教授すら、長州藩が専門だ。

 4年前から歩きつづけた結果、『藝藩志』の存在を知った。芸州広島藩の大政奉還のながれが詳しく載っている。

 龍馬と象二郎の薄っぺらなおとぎ話とちがう。明治時代に、川合三十郎と橋本素助が十数年にわたって取り組んだ、濃密な文献だった。

 まず驚いたのが、大政奉還が広島藩から、具体的に、藩の統一(藩論)となされて活動したことだ。

 1866(慶応2)年12月29日、広島藩主・浅野長訓の命で、執政(家老級)の石井修理が大政奉還の建白書を持って、宇品港を出発した。
 翌年正月4日に、修理が板倉閣老へ拝謁し、大政奉還の建白書を提出した。
『幕府をして反正治本をもとめる。よって罪を謝罪し、政権を朝廷に返還せしむる
 そんな内容の大政奉還の建白書だ。
 翌5日には菅野肇の飛鳥井伝奏(朝廷への取次)にも上奏書を出した。

 一般に伝えられている土佐藩からの大政奉還の建白書(同年10月3日)よりも、約10か月も早く、広島藩から幕府と朝廷に提出しているのだ。
 私は、えっと疑った。これって教科書では教えていないな、と思った。

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幕末史の謎。密貿易の御手洗港を訪ねる(上)

 歴史には隠れた闇の世界がある。

 幕末期に、日米和親条約、同通商条約で日本が開国した。長崎、函館、下田の三つの港にかぎられている。倒幕運動が盛んになると、兵庫(神戸港)の開港がもめにもめた。ここまでは教科書で出ている。
 しかし、何ごとにも表と裏がある。裏側から見たほうが、正確なときもある。

 瀬戸内海の大崎下島に密貿易港があった。
 密貿易は闇の部分だから、教科書には出てこない。だから、憶えなくてもよい、知らなくてもよい、という発想があると、正しい歴史認識はできない。

 日本の文部官僚は不都合なことは隠す。
 「お役人の作ったことだ、間違いないだろう」と鵜呑みにしてしまうと、日本よりも、外国のほうが正しい日本の歴史認識をもっている場合がある。
 鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の時に、日本最南端の薩摩がなぜ大量の大砲、ライフル銃など最新西洋銃を日本一もっていたのか。幕府軍以上に。ここらは教えてもよい点だ。 


 いきなり脇道にそれてしまうが、江戸幕府はペリー提督が来る前から、19世紀にアメリカと交易をしていた。なぜ、教科書で教えないのだろうか。
 単純に3つの疑問から、たどっていくと、日米貿易が明瞭に見える。
 
 ①日本人は英語に弱い。ペリーが1853年に来て、翌年には和親条約を結んでいる。わずか1年で誰が英文の条約文を読み取り、サインできたのか。万次郎は漁師で身分が低いから同席させていない。幕閣は身分制度にうるさい。長崎から英語専門の通詞(通訳)がきたのだ。かれらは英和辞典を持っていた。どのように辞書ができたのか。

 ②18世紀~19世紀、オランダは海運帝国・イギリスと戦争していた。オランダから日本へ商船などまわせない。ナポレオンがオランダを占領し、オランダ国家がなくなった時がある。
 交易相手の国家がなくなれば、代替えは必要だ。すると、どこの国だ? 

 ③ アメリカの博物館に、なぜ江戸時代の物品がたくさんあるのか。浮世絵、鏡台、下駄、三味線、武者人形、仏像、陶器、絵馬……

 ここから解明していくと、文部官僚は、世界史ではナポレオンがヨーロッパ全土を支配下においた、と教える。しかし、日本史では「日本は中国とオランダと貿易していた」とバカの一つ覚えで教えている、と矛盾がわかる。いつまでも、事実が教えられない日本人は悲劇なのだ。
 
 江戸幕府は優秀な頭脳を持っていた。オランダ国が消えたが、プロテスタントは日本領土侵略の恐れがないからと、長崎出島でアメリカと交易していた。だから、日本の美術品、生活用品など珍しいものは、船員が買って帰り、それらが大量にアメリカで現存しているのだ。

 薩長閥の明治政府は、徳川家は劣悪な政権だったと教えることで、自分たちを優位に見せようとした。ペリー提督が来て、幕府は慌てふためき、大騒ぎ、圧力に屈して開港した。まさに無能扱いだ。

 実態はどうか。アメリカ大統領の親書を持って、1853年にペリー提督が日本にくる、と国家が再建された・オランダから徳川幕府に連絡が入ってきたのだ。黒船艦隊は空の礼砲を鳴らしていた。浦賀には見物人が多く、屋台が出るし、役人が野次馬を整理できず、立ち入り禁止にしたくらいだ。
  
 1846年には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが艦隊を連れて浦賀に来ているのだ。この時も見物人で大騒ぎだ。ペリー提督は2度目だし、だれも恐れおののいていない。
 教科書は嘘を教えているのだ。

 日本はアメリカと交易していたと、もう教えるべきだ。
 安倍首相が長州閥を受け継いでいるにせよ。これを前提にして教えないから、諸外国からつねに日本は正しい歴史を教えていない、と批判されるのだ。

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彰義隊の戦い、敗残兵の視点から不忍の池端を歩く

 カモが泳ぐ、カモメが飛来する不忍池の周辺を歩いてみる。大勢の死傷者がでた戊辰戦争・彰義隊の影など、みじんもない。この光景だけをみると、平和そのものである。

 戊辰戦争という内戦は、必要だったのだろうか。いつも考える。日本人どうしが血を流しあう。敵と味方と別れて、官軍だ、賊軍だと言い、銃の引き金をひく。
 私はこんな無意味な戦争はない、と思う。これらの戦いを通して、日本人が得たものはなんだったのか。

  慶応4年5月15日の「上野の彰義隊」の戦いは、史料も読み取る人によって異なる。西の官軍(新政府軍)からの見方と、徳川家など関東勢(佐幕)からと、2通りある。どちらから見ても、血の歴史である。


 さかのぼること、慶応3年12月の小御所会議で、王政復興の大号令で新政府が誕生した。徳川慶喜から将軍職を取り上げる、領地も没収(返納)する。それが辞官納地(じかんのうち)だった。

 大勢の旗本や関八州の武士たちは徳川800万石の扶持米で生活する。それが無職になり、路頭に迷う。再就職の受け皿などなかなかない。士農工商だから、武士が商人にはなれない。
 人間は食べていかなければならず、強奪・掠奪が起きる。
 
 江戸城を無血開城したものの、西郷隆盛や勝海舟は、これら失業武士の対策も取れず、これぞ、という妙案はなかったのだ。
 結局は、江戸の治安維持に失敗した。


『旗本脱走の輩は、上野の山、その他に頓集する官軍の兵士に、しばしば暗殺し、無辜の民の財産を掠奪し、暴虐を呈し、官軍に抗衡している』

 それを取り締まるために、明治元年(慶応四年)五月12日、大総督府は江戸府判事をおいた。船越洋之助(広島藩士)、木村三郎(久留米藩士)、河田佐久馬(因州藩士)、土方大一郎(土佐藩)、清岡岱作(土佐藩)などである。

 江戸府判事とはいまでいう、副知事クラスである。


『彰義隊約3000人が群れ集まり、恣(ほしいまま)に狂暴化している。官軍に抵抗し、無辜の民の略奪を至極暴れまわっている。民はひどい苦しみに落とし入れている。今般、その害を取り除くために、誅伐する。天下泰平のために、多くの民を安堵するためにも、彰義隊を討つ』

  これらの判事による、お触書である。

 新政府・官軍が江戸市中の佐幕武士を挑発し、上野の山に集結させた可能性もある。そこで、一網打尽に討つ戦略があったかもしれない。


『官軍の兵士を暗殺し、官軍と偽って民の財を略奪している。暴徒以外に何物でもない。実に、国家の治安を乱している。見つけ次第に即刻、討ち取る。秘かに補助したものも同罪だ。あるいは隠したものも、賊徒として同罪だ」

 追い込まれた佐幕派の武士は、刻々と死期が近づいていた。

 軍務官判事の大村益次郎が、「1日で戦争を終結して見せます」と言い切る。
「東叡山寛永寺の徳川家祖廟の位牌や宝物を、他に移すように忠告する」
 これは宣戦布告だった。

 上野の彰義隊はアームストロング砲の大砲を次つぎ撃ちこまれた。そのうち、薩摩、長州、肥後、土佐、備前、築後、伊州、因州藩などが上野の山・黒門から、搦手へと突入する。武力衝突に及ぶ。彰義隊は死力をつくす。しかし、同日夜9時過ぎには、放火して退散する。


 翌日から、残党狩りがはじまる。これが悲惨だった。
 捕まった元旗本たちは、ことごとく斬首(ざんしゅ)だった。斬首とは、後ろ手に縛られる。「止めてくれ。助けてくれ」という命乞いしても、容赦なく、一刀で首を斬り落とす。

 首が飛んで、転がった血だらけの頭があちらこちらにある。首のない胴体も転がっている。

 悲壮な斬首は史料のなかに、折々に、絵図で描かれている。見ていて、気味が悪い。武士道というきれいごとではない。歯をむき出し、目を吊り上げた顔だけの頭部。身震いしてしまう。もうこれ以上は見たくない。それが悲惨な斬首の光景だ。

 こうした死はどう受け止めるべきか。私たちは歴史となると、とかく西郷だの、勝海舟だの、慶喜だの、容保だの、という立場になり切ってしまう。作家はその立場で書いてしまう。

 しかし、庶民は一般に、首を集め、胴体を収集する、土葬する、こうした立場なのだ。私は敗残兵の資料を頭に浮かべながら、不忍池の周りを歩いた。
 ここには数千体の血が地面にしみているのだ。そう思うと、日本人同士が血で血を洗う、やってはいけなかった戊辰戦争だった、と庶民レベルで思う。
 大政奉還で治めるべきだったのだ。

 

教えないことは隠すことだ(下)=明治軍国主義の誕生

 鳥羽伏見の戦いは薩摩藩の仕掛けた。それまで何もしていない長州藩が相乗りしてきた。まさに長州はここがスタートなのだ。

やらなくてもいい無益な戊辰戦争へと突入させる。関東の戦い、奥州の戦いへと、佐幕派の恭順を認めず、ひたすら権力欲から暴走していく。


 会津が落城すると、もう翌月には明治天皇を東京に移し遷都だった。加速度的に、靖国神社を建立し、廃仏毀釈で仏教を弾圧して天皇を神とする(天皇万歳で死ねる兵士への道)、徴兵制度、日清、日露へとすすんでいく。長州の皇国思想と軍事が結び付いたのが、明治維新なのだ。

 この過程で、徳川討幕のみだった西郷は不要な人物にされてしまった。

 薩摩と長州の権力思想は、本質が違う、二つを一つにする「薩長同盟」「薩長」という呼称が、維新をわからなくさせている。
 薩摩は徳川家との対立でみる。京都に生まれた、新政府は継続する考えだった。他方で、長州は軍事力一辺倒からの政権欲のみだ。京都の新政府など、残す気はなかった。

 ふたつを切り離せば、明治軍事政権の本質がわかりやすく見えてくる。

 明治、大正、昭和と資料を追っていた。
 東条英機の国会演説の映像を見た。「東洋の平和を考えるわが国としては、欧米の干渉は許しがたい。平和な国家をつくるのが、我が国の目的だ」と東条の口から、何度も何度も、平和ということばがとびだすのには驚いた。

 戦争の大義名分は、政治家が平和を口にすることから生れる、と東条から教えられた。こうした政治家の裏には戦争の牙がある。
 戦争傾向が強い政治家の芽は、国民がはやくに摘むことだ、それが肝要だと思った。

教えないことは隠すことだ(中)=明治軍国主義の誕生

 1月5日、芝・泉岳寺に出向いてみた。赤穂浅野家は、広島・浅野家の支藩である。だから、同境内には戊辰戦争で亡くなった芸州広島藩の墓がある、という文献の確認のためだった。
 12月は忠臣蔵で、きっと混み合うだろうと思い、あえて翌月にしたつもりだが、それでも大勢の人出に驚いてしまった。正月三が日はずいぶん込み合った、と甘酒屋の店主が教えてくれた。

 慶応4年4月27日、神機隊の300人余りが広島藩船の万年丸で、品川沖に朝4時に到着している。船内待機の後、5月8日には芝・泉岳寺に入り同14日10時の出立まで、滞在している、と同隊士の日記から判明した。(翌15日が上野・彰義隊の戦い)。

 このあたりの史料はないか。泉岳寺の社務所も忙しなげで、問いかけると書面の質問で、と言われた。人出を見た後だけに、予想通りだった。
 同境内には芸州藩士の墓があった。それにしても、赤穂浪士の人気はすさまじい。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた墓碑を見て、可哀そうだからと言い、『表忠碑』を建てた。(慶応戊辰春と明記)。大石力の真横にあった。

 徳川幕府から見れば、赤穂浪士の行為はどこまでも殺人行為だった。かれら47人は打ち首でなく、切腹で武士の体面を保った。庶民は歌舞伎で知り得ても、泉岳寺に表だって義士扱いの墓参りはできなかったようだ。だから、広島・浅野家の家臣が、朽ちた墓碑を憐れんだように廃れていたのだ。

 忠臣蔵と、戦争とは同列に考えられないが、「正義」の討ち入りだと、赤穂浪士は考えたのだろう。戦い、争いは、多くの場合、正義の発想だろう。 
 
 
「正しい歴史認識」そんな驕った気持ちはないが、戦争へと暴走してきた、維新の実態を掘り起こす。過去には薩長土から発掘されてきた。とくに、司馬遼太郎の歴史史観は、それらの藩を中心に展開されている。「薩長同盟」が作品の核になっている。

 薩長同盟は倒幕にさして役立っていない。誇張されている。王政復古で新政権ができても、長州の成果はほとんど無に等しい。

 明治政府以降、司馬史観まで『薩長』と一括りにする。そうして教えられてきた。この史観が明治政府の本質を隠れたものにさせている。ふたつを切り離して、維新史をみれば、その違いがよくわかる。
 
 薩摩藩の西郷・大久保はどこまでも、徳川家を断つ、討幕で推し進んできた。大政奉還の後も、将軍職にとどまている慶喜を討つ。それでないと徳川幕府の終焉はないという考えだった。だから、西郷たちは江戸城開城で、精神的に終わっているのだ。

 長州藩は安芸毛利家が広域支配200万石(実質)から36万石に転赴された。関ヶ原の恨み、徳川を倒して、こんどこそ長州支配の政権をつくる、という考え方だ。目的は政権を奪うことだった。

 ここが薩摩と長州の根本が違う点だ。これを同一視するところに、軍国主義思想の根源をわからなくさせているのだ。

教えないことは隠すことだ(上)=明治軍国主義の誕生

 明治時代以降の歴史教科書は、「大政奉還の後に、なぜ戊辰戦争が起きたの?」という日本人の素朴な疑問に答えていない。わかりやすく教えると、国民に広く明治軍事国家の成立過程がわかってしまうからだ。
 教えないことは隠すことだ。

 政治家・官僚が教えないなら、作家が歴史小説で書く。そんな想いで、第二次幕長戦争~大政奉還~鳥羽伏見の戦い~戊辰戦争へと、歴史小説を執筆ちゅうだ。

 私的に1-5人殺すと殺人者だ。戦争で100人殺せば、英雄になれる。子どもでも、戦争はやったらいけない、と知っている。だけど、戦争が起きてしまうと、人間が人間を平気で殺す。死に逝く人の血にはどんな違いがあるのだろうか。

 戦争を美化しない。戦いの醜さを書く。その執筆姿勢は常に持ち続けているが、私には「人殺しと英雄の差」はいまだわからない。それでも、筆を止めないで、現地取材をし、史料を探し、それを読み込んでは、より事実に近いところで書き続けている。

 戦争を描くだけに、人間の弱さも知ることになる。非戦論だった安芸広島藩士の若者が、あえて戊辰戦争へと身を投じていく。

 重臣が語る、若者へのせりふの一つをいま書き上げた。
「大政奉還で、京都の新政府はもはや既成の政権になった。なにも皇軍の戦いとして、德川家を攻撃する必要などない。これは薩長の下層武士階級の政権転覆だ。新政府が未完成のうちに、別の新しい政権をつくろうと謀(は)っているのだ」

 鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、芸州・広島藩は兵を動かさなかった。薩長土が勇んで戊辰戦争を拡大していく。西側の諸藩は政権に食い込もうと、兵を送り込み、戦いは膨張している。

「わが広島藩が軍隊を差し向けて、権力の一角に食い込む必要などない。この戦争は薩長の下級藩士の権力欲なのだ。適当な距離を置いて、傍観すればよい。これが藩論だ。そなにたちが戦いに加わるにしろ、藩は1両の軍費を出せぬ」
 重役がそうつけ加えた。
「脱藩してでも」
 藩校出身の若手藩士27人が、農兵ら300人余りを募り「神機隊」を結成していた。
「そこまで覚悟しているなら、聴許にとどめおく」

 これら27人は秀才ぞろいだった。寄付金を集め、300人が全額自費で出征する。そして、上野・彰義隊、相馬・仙台藩と戦う。他藩兵士が戦況不利から逃げても、かれらは後退せず、突撃していく。
 出征兵士の死者率では、日本中で最大の犠牲だろう。

 作中で、反戦思想の若者たちが、戦争へと心が傾いていく。私自身が戦争肯定に傾くようで、嫌な気持ちに陥ったりもする。
『戦争が勃発してからだと、戦争反対を叫んでも遅すぎる。戦争は加速し、止めることは至難の業だ。敵味方に渡れてしまうと、反戦など訴えられない』
 私はその想いを強くもった。
 

あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (下)

 一昨年(2011)、江田島(広島県)の元海軍兵学校の『教育参考館』を見学すると、西郷隆盛の肖像が大々的に飾られ、軍人の鏡となっていた。その肖像の威厳さを凝視するほどに、違和感をもった。西郷隆盛が明治からの軍国主義の道を作った張本人なんだ、という認識をつよめた。


 学校で習う「大政奉還」は十五代将軍・徳川慶喜が戦争もせず、江戸幕府の政権を天皇に返還した、平和的な日本をつくった。そのままならば、世界に誇るべき偉業だった。


 鳥羽伏見の戦いは、西郷隆盛ら薩長の貧しい下級(中級)藩士たちが、政権の座を狙った軍事クーデターだ、と私はいま歴史解釈に立っている。
 その直前、徳川家をあえて戦争に巻き込むために、西郷は益満休之助、伊牟田尚平らを江戸に送り込み、江戸や関東の富豪の家から、三千両、五千両と掠奪し、火を放つ。江戸庶民を恐怖に陥れた。
 西郷は戦争を引き起こし、政権掠奪、勝つためには庶民の犠牲などかまわず、手段を選ばない軍人だった。少なくとも、庶民の暮らし向きや安全など、およそ配慮がなされていない。


 鳥羽伏見の戦いだけでは軍事クーデターが成就しなかった。西郷は権謀術策で、己が権力のために、公家たちに根回し、やらなくてもよい東北征討の戊辰戦争をやった。

 全国諸藩の10-30歳代の若者は藩兵士や農兵として関東・東北の戦いに駆りだされた。一方で、東北の若者たちも藩命で受けて立った。そして、数万人が戦死した。
 これら双方の若者は、尊皇と言っても、天皇制自体がわかっておらず、なぜ敵・味方になるか、それすらも解っていなかった。

「官軍で死ねば神として祀られ、東北人は賊軍で路傍の石が墓」
 若者がともに国家(藩)のため、家族のためだと信じて疑わず戦った。国民、庶民の目で見れば、戊辰戦争ほど、無意味な戦いは日本の歴史上にないのだ。


「天皇を手にしたものが、最大の権力者になる」。それが古代からの天皇制による政治の原点である。だから、薩長の下級藩士たちは、会津城が陥落(開城)すると、軍事クーデターの仕上げとして、天皇を京都から連れ出し、江戸城に閉じ込めた。江戸を東京と改め、なし崩しに、明治軍事政権を作った。 京都から東京に正式な遷都もせず、政権がずっと続いてきたのだ。

 江戸幕府は260年間にわたり海外とはいちども戦争しなかった。そして平和裏に政権委譲し、『京都御所の新政府』が誕生した。京都でしっかり育てるべきだった。しかしながら、下級藩士たちのクーデターで、わずか1年間足らずの短命に終わった。それから明治時代に入り、軍事国家になっていった。

 たとえ、短命政権でも、この存在は重要である。いまからでも歴史教科書で、しっかり教えるべきである。平和国家を維持しようとした、重要な役目の政権だった、と。

 ひとたび軍人や軍部が力を持つと、政権は長い。
 
 天皇は軍人でもないのに、大元帥に奉られた。天皇の名の下、大元帥の立場で、10-20年ごとに、海外への侵略戦争の最高責任者とされてきた。その不幸は国民も同じ。成人になれば、徴兵制の下で、戦場へと送られた。大勢が死んだ。
「ぼくは戦争に行きません」
 そう言えば、牢獄しか道はなかった。

 上野の銅像も影響している。西郷隆盛は親しみやすい庶民の姿だ。これが『陸軍大将軍服着用』の姿ならば、鳥羽伏見の戦いから、日本の軍国主義を導いた張本人だ、という説明もたやすいだろう。と同時に、東北人らも上野に上京してきて、戊辰戦争の犠牲者の立場から怨念の目で見たことだろう。
 その意味で、彫刻は歴史上のイメージを変えてしまうから恐ろしい。

 鹿児島にいくと、西郷隆盛の像は軍服だ。ただ、他県から、その西郷像を見学目的にして鹿児島にいく人はほとんどいないと思うけれど……。

 この頃、鹿児島県の出身者から、「西郷隆盛は鹿児島の大切な若者たちを西南戦争で殺してしまった。許せない人物だ」という話をきく機会が多くなってきた。
「勝海舟の卓越した能力があったから、江戸城が開城できた。武闘派で、軍事討幕の最たる西郷だが、勝がいたから、後世で平和主義者に見られている。本質は逆だ』と言い切る人もいる。

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あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (上)

 鹿児島市の『大久保利通の像』を訪ねてみた。鹿児島中央駅から、徒歩で5分ていどの甲突川に架かった高見橋の袂にある。昭和54年9月26日に設置された像は、台座からの高さが9.7mである。彫刻家・中村晋也の製作である。大久保には威厳に満ちた風格が漂う。

  この銅像を建立するにはかなりもめたらしい。
 大久保利通の銅像が、鹿児島市内にまったくないのはおかしい? 明治維新に最大級の功績を遺した人物なのに、他府県ならば、とうの昔にできているはずだ。そんな疑問が鹿児島県以外から出てきたのだ。
 つまり、鹿児島県人はだれも大久保利通の像を作る気がなかったのだ。そんな外部からの話がきっかけとなり、大久保利通の没後100年記念行事で、銅像を建てようと運動がはじまった。
 
「なんで、鹿児島に、大久保の像を立てるんだ。あいつは薩摩人をみな敵にした人物だ。西南戦争で、どれだけ大勢の仲間が死んだと思っているんだ。そんな奴の像が必要なのか。銅像を建てても、壊されるのがオチだ」
 賛否両論が渦巻いたというよりも、大多数の市民が大久保の銅像に不快感を示していた。それほど、大久保利通は100年経っても鹿児島で嫌われていたのだ。


 西南戦争の折、鹿児島軍はいっとき熊本まで攻め入っていた。やがて敗走し、市内まで戻ってきた。追い込まれた西郷隆盛は城山の壕に入り自決に及んだ。まさに、悲劇のヒーローだった。

 西南戦争の戦死者は、優秀な青年が多かった。かれらの遺族は、大切な息子を亡くし、深い悲しみをおぼえた。逆賊ともされたことから、大久保に恨みを持った。100年間も続いた、鹿児島県民たちの怨念となっていた。(西郷隆盛ら戦死者は逆賊扱いで、いまなお靖国神社に祀られていない)。

「大久保の銅像がよく無事に立ちましたよ」
 同市内の、ある高校教師から、30年ほどまえ、そんな話を聞かされた。その時のみならず、その後においても鹿児島を訪ねる機会があったが、大久保の像にはいちども足を運ぶことはなかった。


 私はここ5年ほど幕末ものに取り組んでいる。鹿児島、小倉、下関、萩、岩国、広島、鳥取、岡山、京都、彦根、名古屋、埼玉、福島など、月に1、2度はどこかしら訪ね歩いている。その先々の歴史資料館・公文館・博物館の学芸員、大学教授などから取材していると、意外な事実にぶつかったり、おどろくべき重要な発見があったりする。

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明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(下)=薩長討幕の恥部を知る

 広島藩は徹底して、第二次長州征伐(幕長戦争)を反対した。

 「第一次長州征長で、禁門の変に端を発した、長州問題は解決済みだ。幕府が二度も戦いに挑む必要はない。正当な理由もない。こんな内戦などしていたら、欧米列強に日本は植民地化される。長州も、薩摩も外国と戦って負けているではないか。この戦争は止めるべきだ」
 広島藩の藩主・世子と、執政(家老)・辻将曹、野村帯刀らが大反対を唱えはじめたのだ。

 京都においては応接係が天皇へ働きかける。大阪では、徳川家茂将軍へと、老中を通じて建言を出す。総指揮の老中・小笠原壱岐守が広島に来ているので、何度も長州征討の反対を言う。
 さらには、岡山藩、鳥取藩、池田藩などにも反戦運動の仲間に巻き込む。
 辻と野村は幕府の目や圧力を恐れていなかった。ともかく、戦争回避へと動いた。

 全国の諸藩は広島藩の成り行きを見ていた。やがて、薩摩藩の大久保利通が、この広島の動きを見て、大阪城の老中に対して出兵拒否をしたのだ。

「海舟日記」にも、広島藩の反対運動のすさまじさが記載されている。

 小笠原老中が怒って幕命だといい、辻将曹、野村帯刀を謹慎処分にした。すると、頼山陽の流れをくむ・藩校の学問所の有能な若者(現役・OB)たちが怒り、城下の小笠原老中の宿舎を焼き払い、暗殺すると予告したのだ。そうなると、井伊大老暗殺以来の、重大な事件になる。
 
 広島・浅野家は、赤穂浅野の親藩であり、赤穂浪士の討ち入りもあった。こんど小笠原老中の殺害に及べば、浅野家はいかなる結果になるかわからない。
「ここは広島から退去してください」
 浅野藩主がみずから小笠原に言い、彼は宇品港から軍艦に乗り、小倉へと逃げていったのだ。

 広島藩は正式に出兵拒否をした。薩摩も出兵拒否しているから、各藩の寄せ集め部隊など士気は上がるはずがない。長州に勝ったところで、報奨などないし。
 長州に軍艦を差し向けた諸藩も、大砲を撃てば、それだけ経済的に損をする、藩財政の圧迫になるから、軍艦を沈めるな、極力、大砲の弾を撃つな、という考え方だ。
 これでは幕府が勝てるわけがない。

 将軍家茂が死ぬと、それを理由にして休戦し、和平交渉が行われた。慶喜は仕掛けることはやるが、後始末は苦手で、海軍奉行の勝海舟に押し付ける。広島・宮島が交渉の場になった。幕府と長州との間で、中心になって動いたのが広島藩の辻将曹だった。

「こんな幕府はもう将来がない」
 勝海舟と辻将曹の共通認識になった。

 幕府と長州藩の和平交渉を成功させたあと、辻将曹がその勢いで、大政奉還運動へとエネルギーを使いはじめたのだ。やがて、薩長芸軍事同盟が成立し、軍事的な圧力で、慶喜将軍に大政奉還を迫ったのだ。

 大政奉還後の挙国一致(徳川の藩主たちも含まれる)になった。薩長の下級藩士たちは政治の実権が取れない。
「西郷隆盛を中心とした軍事クーデターが起きるかもしれないぞ。薩長の下級藩士たちが政権の座を狙っている。かれらは京都の新御所政権を継続させる気はない。おおかた天皇を京都から連れ出し、別の場所で新たな政府を作るかもしれない。御所はしっかり守れ」
 辻はそう認識していた。だから、とくに広島藩の藩士たちには、
「西郷には動かされるなよ。偽の勅許を平気で出させる男だからな。それも心得よ」
 と楔(くさび)を打っていた。

 辻将曹は小松帯刀とは親密だが、おなじ薩摩でも、討幕派の西郷隆盛にはたえず警戒心を抱いていた。さかのぼれば、第一次長州征討で、西郷が広島城下にきた時から、この男は和平を望まず、戦いで決着をつけたがっていると見抜いていた。その折には幕府側参謀・西郷と長州藩との間に割って入り、辻は話し合いで幕長戦争を回避させた経緯がある。

 
 実際に鳥羽伏見の戦いが実際に起きた。これは軍事クーデターだった。松平容保らが5、6人の家臣とともに大阪から京都・御所へ直訴にくればよかったのだ。しかし、容保は幕府軍・会津桑名1000人以上の軍隊を引き連れて京都に上ってきた。
 これは禁門の変を起こした、かつての長州藩と同様のミスだった。

 薩長の下級藩士たちの思うつぼだった。
「待ってました」
 とばかりに、西郷隆盛は会津・桑名軍に攻撃を命じたのだ。もし、松平容保が5、6人連れならば、鳥羽伏見の戦いはなかっただろう。
 西郷にすれば、禁門の変、鳥羽伏見の戦いと、二度も京都で戦った、武闘派の人物だ。西洋式訓練を受けた軍人で、幕府側を攻撃する。

 広島藩はまったく動かなかった。薩摩軍や長州軍から、芸州藩の岸九兵衞(きしきゅうべい)隊長に参戦を促しにきた。岸は399人を引き連れていたが、一発の銃も撃たせなかった。
「御所を守る皇軍だ。西郷たちの軍隊ではない」
 ちなみに、岸九兵衞は辻将曹の実弟である。

 この後において戊辰戦争が始まる。広島藩はここでも藩士を出さなかった。農兵・神機隊に、十数人の藩士が飛び込み自費で臨んだ。彰義隊の戦い、相馬・仙台藩の戦いに挑んでいる。

 広島藩としては動かず。明治政府は、神機隊の船越洋之助と池田徳太郎を県知事にしただけである。
 恥部を握る浅野家の藩主や重臣は、明治政府のカヤの外に置かれた。会津落城(開城)の翌月には天皇を東京行幸で、江戸城に連れて行き、明治軍事政権を作ったのだ。戦いを嫌った広島藩の重臣で、この政府に入りたがる人物はいなかった。
 
 勝者が歴史を創る。薩長が都合よく日本史の教科書を作った。倒幕の主体が薩長芸なのに「薩長土肥」に変わり、そして幕末史から広島藩は消えていった。


 江戸時代は260年間は海外と一度も戦争しなかった。平和裏に大政奉還がおこなわれた。しかし、戊辰戦争から、日本は変わった。富国強兵の政策と徴兵制で10-20年ごとに海外と戦争をする軍事国家に膨張していったのだ。
 最後は広島に原爆が落ちた。アメリカは戦争を止めさせるためだったという。その議論は別にしても、幕末には戦争を回避しようとした、執政(家老)・辻将曹が広島にいたのに……。


 あえていうと、広島に原爆が落ちて、広島城も、武家屋敷も、大半の幕末資料も焼けてしまった。でも、全部の広島藩の史料が消えたわけではない。ていねいに掘り起こせば、土佐がねつ造した「船中八策」を否定する資料も、、薩長が封印したかった資料も残されているのだ。


 勝海舟は、幕末には全国を見渡してもろくな家老がいなかったけれど、辻将曹は卓越した能力で、特に優秀だったと語っている。

 
 

明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(上)=薩長討幕の恥部を知る

 幕末の広島藩は薩長芸の軍事同盟を結び、大政奉還で倒幕の中心的な存在だった。なぜ明治以降の歴史から消えてしまったのか

 長州藩は四か国連合艦隊と戦って下関まで占領される、さらに幕府の長州征長で、疲弊し、倒幕への力はなかった。薩摩も同様にイギリスと戦っている。島津家は徳川将軍に正室を出している、身内なのだ。薩摩藩の重役には徳川家を倒す意志などなかった

 芸州・広島藩は第二次長州征討において出兵拒否をした。戦争に対して無傷だったから、軍事力は温存されていた。だから、薩長芸軍事同盟の中心的な動きができた。もう一つには、経済面である。


 広島藩は大崎下島・御手洗港で、薩摩藩と密貿易で深く結びついていた。諸外国と結ばれた通商条約では、開港が下田、函館、長崎などに限定されている。

(スエズ運河の完成が1869年だから、欧米の蒸気船は瀬戸内の海峡など楽に航行できる)

 広島・宮島港では長州藩と交易する。広島藩の船が御手洗と宮島と間で、薩摩と長州の荷を運ぶ。大がかりな三角貿易がおこなわれていた。尾道の豪商から池田徳太郎などに、「御手洗はやりすぎている、薩長貿易を手伝いすぎて、幕府から芸州が睨まれたらどうするのか」といさめる書簡を送っている。
 このように薩長は経済面ではつよく結びついていたのだ。

 坂本龍馬が裏書きした薩長同盟で双方は和解した、と後世には伝えられている。紙っペラ一枚ていどで、数人の交渉で激動期の政治が変わるわけがない。経済が政治を動かす。強い経済的なパイプが国(藩)どうしを結び付けるのだ。

 明治政府の主力政治家は長州人だ。禁門の変で藩士の多くを失っているし、長州の政治家たちはその遺族に対する配慮から、広島藩を通じて薩摩と取引していたと、おおびらにできなかった。
 むろん、明治時代に入っても、夫や息子を亡くした遺族は薩摩を恨んでいる。だから、御手洗の三角貿易の事実はいつまでも隠し通していたかったのだ。

 御手洗での海外密貿易が公になるのは、薩摩出身者たちも好まなかった。広島は明治時代まで薩長の歴史上の恥部をにぎっていたのだ。

 幕府は第一次長州征討を行った。広島藩の執政・辻将曹が仲立ちし、武力解決を回避させた。それでは不満だといい、慶喜や会津・桑名が第二次長州征討を企てた。

【つづく】