明と暗の歴史を遺す広島湾を歩く(中)=原爆孤児を収容した似島
似島(にのしま)は、広島湾に浮かぶ孤島である。広島の市街地からでも、似島の安芸小富士(標高278 m)が形よく三角錐で確認できる。
わたしは広島県の離島で生まれ育っているから、瀬戸内の島嶼(とうしょ)がより身近な存在だ。幼いころ親や教師などから「原爆孤児」を収容した島で、大勢が白血病で亡くなり、焼却された島だと聞かされてきた。
「気色悪いな」という子ども心が残り、似島にはいちども足を踏み入れたことはなかった。ある意味で、大人になっても行きたいと思わなかった。
そうした気持ちが剥離(はくり)したのは作家という職業柄だろう。
ことし(2019)4月21日(日曜)に、広島港の宇品から、約3kmの沖合にある似島に上陸した。案内してくれたのが、藤井啓克(広島市在住)さんである。
同島は広島市だから、離島振興法の対象外であり、人口は約800人くらい。集落は、西と東と、2か所にある。
宇品港を出発した連絡船の船上で、「この島の西側には、サルベージ船の船主が多いので、お金持ちなんですよ」と藤井さんにおしえられた。
連絡船が最初の寄港地に着くと、たしかに豪華な一軒家が建ち並んでいた。
藤井さんは昭和20年代後半から、この似島の都市計画に携わってきた。島内の公園設計と施工管理である。
「当時は、原爆の生々しさが残っていました。原爆病で亡くなった児童たちが火葬された、焼却炉が幾つもありました」
かれは公園指定地を決めたり、デザイン設計をおこしたりした。そして、業者が施工に入ると、人骨が次から次に掘り出された、と語る。
当時の状況を聴くほどに、島の全域が墓地にすら感じさせられる。
藤井さんは同島に泊まり込んでのしごとだから、さぞかし夜は不気味だったことだろう、と思う。
島には平地が少なく、海水が透明な快い砂浜がある。
「この島には、明治28(1895)年から、旧日本陸軍の似島検疫所が置かれていました。大陸から帰還した人はまずこの島に上陸し、すべての服を脱いで、検疫をうけました。だから、衣類の焼却炉などがあったのです」と話す。
原子爆弾が投下されたあと、宇品の暁部隊(陸軍船舶部隊)から船舶衛生隊の将兵約102名で編成され、被爆者たちは似島に次々に搬送された。
検疫所が臨時の野戦病院として使用された。その数は1万人とも言われている。
被災者が似島に運び込まれたあと、多くの死者がでた。そして、埋葬された。慰霊碑も設置されている。
検疫所跡地には、両親やきょうだいを失った原爆孤児たちに対する福祉を目的とした「似島学園」が設立された。