歴史の旅・真実とロマンをもとめて

教えないことは隠すことだ(中)=明治軍国主義の誕生

 1月5日、芝・泉岳寺に出向いてみた。赤穂浅野家は、広島・浅野家の支藩である。だから、同境内には戊辰戦争で亡くなった芸州広島藩の墓がある、という文献の確認のためだった。
 12月は忠臣蔵で、きっと混み合うだろうと思い、あえて翌月にしたつもりだが、それでも大勢の人出に驚いてしまった。正月三が日はずいぶん込み合った、と甘酒屋の店主が教えてくれた。

 慶応4年4月27日、神機隊の300人余りが広島藩船の万年丸で、品川沖に朝4時に到着している。船内待機の後、5月8日には芝・泉岳寺に入り同14日10時の出立まで、滞在している、と同隊士の日記から判明した。(翌15日が上野・彰義隊の戦い)。

 このあたりの史料はないか。泉岳寺の社務所も忙しなげで、問いかけると書面の質問で、と言われた。人出を見た後だけに、予想通りだった。
 同境内には芸州藩士の墓があった。それにしても、赤穂浪士の人気はすさまじい。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた墓碑を見て、可哀そうだからと言い、『表忠碑』を建てた。(慶応戊辰春と明記)。大石力の真横にあった。

 徳川幕府から見れば、赤穂浪士の行為はどこまでも殺人行為だった。かれら47人は打ち首でなく、切腹で武士の体面を保った。庶民は歌舞伎で知り得ても、泉岳寺に表だって義士扱いの墓参りはできなかったようだ。だから、広島・浅野家の家臣が、朽ちた墓碑を憐れんだように廃れていたのだ。

 忠臣蔵と、戦争とは同列に考えられないが、「正義」の討ち入りだと、赤穂浪士は考えたのだろう。戦い、争いは、多くの場合、正義の発想だろう。 
 
 
「正しい歴史認識」そんな驕った気持ちはないが、戦争へと暴走してきた、維新の実態を掘り起こす。過去には薩長土から発掘されてきた。とくに、司馬遼太郎の歴史史観は、それらの藩を中心に展開されている。「薩長同盟」が作品の核になっている。

 薩長同盟は倒幕にさして役立っていない。誇張されている。王政復古で新政権ができても、長州の成果はほとんど無に等しい。

 明治政府以降、司馬史観まで『薩長』と一括りにする。そうして教えられてきた。この史観が明治政府の本質を隠れたものにさせている。ふたつを切り離して、維新史をみれば、その違いがよくわかる。
 
 薩摩藩の西郷・大久保はどこまでも、徳川家を断つ、討幕で推し進んできた。大政奉還の後も、将軍職にとどまている慶喜を討つ。それでないと徳川幕府の終焉はないという考えだった。だから、西郷たちは江戸城開城で、精神的に終わっているのだ。

 長州藩は安芸毛利家が広域支配200万石(実質)から36万石に転赴された。関ヶ原の恨み、徳川を倒して、こんどこそ長州支配の政権をつくる、という考え方だ。目的は政権を奪うことだった。

 ここが薩摩と長州の根本が違う点だ。これを同一視するところに、軍国主義思想の根源をわからなくさせているのだ。

教えないことは隠すことだ(上)=明治軍国主義の誕生

 明治時代以降の歴史教科書は、「大政奉還の後に、なぜ戊辰戦争が起きたの?」という日本人の素朴な疑問に答えていない。わかりやすく教えると、国民に広く明治軍事国家の成立過程がわかってしまうからだ。
 教えないことは隠すことだ。

 政治家・官僚が教えないなら、作家が歴史小説で書く。そんな想いで、第二次幕長戦争~大政奉還~鳥羽伏見の戦い~戊辰戦争へと、歴史小説を執筆ちゅうだ。

 私的に1-5人殺すと殺人者だ。戦争で100人殺せば、英雄になれる。子どもでも、戦争はやったらいけない、と知っている。だけど、戦争が起きてしまうと、人間が人間を平気で殺す。死に逝く人の血にはどんな違いがあるのだろうか。

 戦争を美化しない。戦いの醜さを書く。その執筆姿勢は常に持ち続けているが、私には「人殺しと英雄の差」はいまだわからない。それでも、筆を止めないで、現地取材をし、史料を探し、それを読み込んでは、より事実に近いところで書き続けている。

 戦争を描くだけに、人間の弱さも知ることになる。非戦論だった安芸広島藩士の若者が、あえて戊辰戦争へと身を投じていく。

 重臣が語る、若者へのせりふの一つをいま書き上げた。
「大政奉還で、京都の新政府はもはや既成の政権になった。なにも皇軍の戦いとして、德川家を攻撃する必要などない。これは薩長の下層武士階級の政権転覆だ。新政府が未完成のうちに、別の新しい政権をつくろうと謀(は)っているのだ」

 鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、芸州・広島藩は兵を動かさなかった。薩長土が勇んで戊辰戦争を拡大していく。西側の諸藩は政権に食い込もうと、兵を送り込み、戦いは膨張している。

「わが広島藩が軍隊を差し向けて、権力の一角に食い込む必要などない。この戦争は薩長の下級藩士の権力欲なのだ。適当な距離を置いて、傍観すればよい。これが藩論だ。そなにたちが戦いに加わるにしろ、藩は1両の軍費を出せぬ」
 重役がそうつけ加えた。
「脱藩してでも」
 藩校出身の若手藩士27人が、農兵ら300人余りを募り「神機隊」を結成していた。
「そこまで覚悟しているなら、聴許にとどめおく」

 これら27人は秀才ぞろいだった。寄付金を集め、300人が全額自費で出征する。そして、上野・彰義隊、相馬・仙台藩と戦う。他藩兵士が戦況不利から逃げても、かれらは後退せず、突撃していく。
 出征兵士の死者率では、日本中で最大の犠牲だろう。

 作中で、反戦思想の若者たちが、戦争へと心が傾いていく。私自身が戦争肯定に傾くようで、嫌な気持ちに陥ったりもする。
『戦争が勃発してからだと、戦争反対を叫んでも遅すぎる。戦争は加速し、止めることは至難の業だ。敵味方に渡れてしまうと、反戦など訴えられない』
 私はその想いを強くもった。
 

あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (下)

 一昨年(2011)、江田島(広島県)の元海軍兵学校の『教育参考館』を見学すると、西郷隆盛の肖像が大々的に飾られ、軍人の鏡となっていた。その肖像の威厳さを凝視するほどに、違和感をもった。西郷隆盛が明治からの軍国主義の道を作った張本人なんだ、という認識をつよめた。


 学校で習う「大政奉還」は十五代将軍・徳川慶喜が戦争もせず、江戸幕府の政権を天皇に返還した、平和的な日本をつくった。そのままならば、世界に誇るべき偉業だった。


 鳥羽伏見の戦いは、西郷隆盛ら薩長の貧しい下級(中級)藩士たちが、政権の座を狙った軍事クーデターだ、と私はいま歴史解釈に立っている。
 その直前、徳川家をあえて戦争に巻き込むために、西郷は益満休之助、伊牟田尚平らを江戸に送り込み、江戸や関東の富豪の家から、三千両、五千両と掠奪し、火を放つ。江戸庶民を恐怖に陥れた。
 西郷は戦争を引き起こし、政権掠奪、勝つためには庶民の犠牲などかまわず、手段を選ばない軍人だった。少なくとも、庶民の暮らし向きや安全など、およそ配慮がなされていない。


 鳥羽伏見の戦いだけでは軍事クーデターが成就しなかった。西郷は権謀術策で、己が権力のために、公家たちに根回し、やらなくてもよい東北征討の戊辰戦争をやった。

 全国諸藩の10-30歳代の若者は藩兵士や農兵として関東・東北の戦いに駆りだされた。一方で、東北の若者たちも藩命で受けて立った。そして、数万人が戦死した。
 これら双方の若者は、尊皇と言っても、天皇制自体がわかっておらず、なぜ敵・味方になるか、それすらも解っていなかった。

「官軍で死ねば神として祀られ、東北人は賊軍で路傍の石が墓」
 若者がともに国家(藩)のため、家族のためだと信じて疑わず戦った。国民、庶民の目で見れば、戊辰戦争ほど、無意味な戦いは日本の歴史上にないのだ。


「天皇を手にしたものが、最大の権力者になる」。それが古代からの天皇制による政治の原点である。だから、薩長の下級藩士たちは、会津城が陥落(開城)すると、軍事クーデターの仕上げとして、天皇を京都から連れ出し、江戸城に閉じ込めた。江戸を東京と改め、なし崩しに、明治軍事政権を作った。 京都から東京に正式な遷都もせず、政権がずっと続いてきたのだ。

 江戸幕府は260年間にわたり海外とはいちども戦争しなかった。そして平和裏に政権委譲し、『京都御所の新政府』が誕生した。京都でしっかり育てるべきだった。しかしながら、下級藩士たちのクーデターで、わずか1年間足らずの短命に終わった。それから明治時代に入り、軍事国家になっていった。

 たとえ、短命政権でも、この存在は重要である。いまからでも歴史教科書で、しっかり教えるべきである。平和国家を維持しようとした、重要な役目の政権だった、と。

 ひとたび軍人や軍部が力を持つと、政権は長い。
 
 天皇は軍人でもないのに、大元帥に奉られた。天皇の名の下、大元帥の立場で、10-20年ごとに、海外への侵略戦争の最高責任者とされてきた。その不幸は国民も同じ。成人になれば、徴兵制の下で、戦場へと送られた。大勢が死んだ。
「ぼくは戦争に行きません」
 そう言えば、牢獄しか道はなかった。

 上野の銅像も影響している。西郷隆盛は親しみやすい庶民の姿だ。これが『陸軍大将軍服着用』の姿ならば、鳥羽伏見の戦いから、日本の軍国主義を導いた張本人だ、という説明もたやすいだろう。と同時に、東北人らも上野に上京してきて、戊辰戦争の犠牲者の立場から怨念の目で見たことだろう。
 その意味で、彫刻は歴史上のイメージを変えてしまうから恐ろしい。

 鹿児島にいくと、西郷隆盛の像は軍服だ。ただ、他県から、その西郷像を見学目的にして鹿児島にいく人はほとんどいないと思うけれど……。

 この頃、鹿児島県の出身者から、「西郷隆盛は鹿児島の大切な若者たちを西南戦争で殺してしまった。許せない人物だ」という話をきく機会が多くなってきた。
「勝海舟の卓越した能力があったから、江戸城が開城できた。武闘派で、軍事討幕の最たる西郷だが、勝がいたから、後世で平和主義者に見られている。本質は逆だ』と言い切る人もいる。

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あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (上)

 鹿児島市の『大久保利通の像』を訪ねてみた。鹿児島中央駅から、徒歩で5分ていどの甲突川に架かった高見橋の袂にある。昭和54年9月26日に設置された像は、台座からの高さが9.7mである。彫刻家・中村晋也の製作である。大久保には威厳に満ちた風格が漂う。

  この銅像を建立するにはかなりもめたらしい。
 大久保利通の銅像が、鹿児島市内にまったくないのはおかしい? 明治維新に最大級の功績を遺した人物なのに、他府県ならば、とうの昔にできているはずだ。そんな疑問が鹿児島県以外から出てきたのだ。
 つまり、鹿児島県人はだれも大久保利通の像を作る気がなかったのだ。そんな外部からの話がきっかけとなり、大久保利通の没後100年記念行事で、銅像を建てようと運動がはじまった。
 
「なんで、鹿児島に、大久保の像を立てるんだ。あいつは薩摩人をみな敵にした人物だ。西南戦争で、どれだけ大勢の仲間が死んだと思っているんだ。そんな奴の像が必要なのか。銅像を建てても、壊されるのがオチだ」
 賛否両論が渦巻いたというよりも、大多数の市民が大久保の銅像に不快感を示していた。それほど、大久保利通は100年経っても鹿児島で嫌われていたのだ。


 西南戦争の折、鹿児島軍はいっとき熊本まで攻め入っていた。やがて敗走し、市内まで戻ってきた。追い込まれた西郷隆盛は城山の壕に入り自決に及んだ。まさに、悲劇のヒーローだった。

 西南戦争の戦死者は、優秀な青年が多かった。かれらの遺族は、大切な息子を亡くし、深い悲しみをおぼえた。逆賊ともされたことから、大久保に恨みを持った。100年間も続いた、鹿児島県民たちの怨念となっていた。(西郷隆盛ら戦死者は逆賊扱いで、いまなお靖国神社に祀られていない)。

「大久保の銅像がよく無事に立ちましたよ」
 同市内の、ある高校教師から、30年ほどまえ、そんな話を聞かされた。その時のみならず、その後においても鹿児島を訪ねる機会があったが、大久保の像にはいちども足を運ぶことはなかった。


 私はここ5年ほど幕末ものに取り組んでいる。鹿児島、小倉、下関、萩、岩国、広島、鳥取、岡山、京都、彦根、名古屋、埼玉、福島など、月に1、2度はどこかしら訪ね歩いている。その先々の歴史資料館・公文館・博物館の学芸員、大学教授などから取材していると、意外な事実にぶつかったり、おどろくべき重要な発見があったりする。

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明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(下)=薩長討幕の恥部を知る

 広島藩は徹底して、第二次長州征伐(幕長戦争)を反対した。

 「第一次長州征長で、禁門の変に端を発した、長州問題は解決済みだ。幕府が二度も戦いに挑む必要はない。正当な理由もない。こんな内戦などしていたら、欧米列強に日本は植民地化される。長州も、薩摩も外国と戦って負けているではないか。この戦争は止めるべきだ」
 広島藩の藩主・世子と、執政(家老)・辻将曹、野村帯刀らが大反対を唱えはじめたのだ。

 京都においては応接係が天皇へ働きかける。大阪では、徳川家茂将軍へと、老中を通じて建言を出す。総指揮の老中・小笠原壱岐守が広島に来ているので、何度も長州征討の反対を言う。
 さらには、岡山藩、鳥取藩、池田藩などにも反戦運動の仲間に巻き込む。
 辻と野村は幕府の目や圧力を恐れていなかった。ともかく、戦争回避へと動いた。

 全国の諸藩は広島藩の成り行きを見ていた。やがて、薩摩藩の大久保利通が、この広島の動きを見て、大阪城の老中に対して出兵拒否をしたのだ。

「海舟日記」にも、広島藩の反対運動のすさまじさが記載されている。

 小笠原老中が怒って幕命だといい、辻将曹、野村帯刀を謹慎処分にした。すると、頼山陽の流れをくむ・藩校の学問所の有能な若者(現役・OB)たちが怒り、城下の小笠原老中の宿舎を焼き払い、暗殺すると予告したのだ。そうなると、井伊大老暗殺以来の、重大な事件になる。
 
 広島・浅野家は、赤穂浅野の親藩であり、赤穂浪士の討ち入りもあった。こんど小笠原老中の殺害に及べば、浅野家はいかなる結果になるかわからない。
「ここは広島から退去してください」
 浅野藩主がみずから小笠原に言い、彼は宇品港から軍艦に乗り、小倉へと逃げていったのだ。

 広島藩は正式に出兵拒否をした。薩摩も出兵拒否しているから、各藩の寄せ集め部隊など士気は上がるはずがない。長州に勝ったところで、報奨などないし。
 長州に軍艦を差し向けた諸藩も、大砲を撃てば、それだけ経済的に損をする、藩財政の圧迫になるから、軍艦を沈めるな、極力、大砲の弾を撃つな、という考え方だ。
 これでは幕府が勝てるわけがない。

 将軍家茂が死ぬと、それを理由にして休戦し、和平交渉が行われた。慶喜は仕掛けることはやるが、後始末は苦手で、海軍奉行の勝海舟に押し付ける。広島・宮島が交渉の場になった。幕府と長州との間で、中心になって動いたのが広島藩の辻将曹だった。

「こんな幕府はもう将来がない」
 勝海舟と辻将曹の共通認識になった。

 幕府と長州藩の和平交渉を成功させたあと、辻将曹がその勢いで、大政奉還運動へとエネルギーを使いはじめたのだ。やがて、薩長芸軍事同盟が成立し、軍事的な圧力で、慶喜将軍に大政奉還を迫ったのだ。

 大政奉還後の挙国一致(徳川の藩主たちも含まれる)になった。薩長の下級藩士たちは政治の実権が取れない。
「西郷隆盛を中心とした軍事クーデターが起きるかもしれないぞ。薩長の下級藩士たちが政権の座を狙っている。かれらは京都の新御所政権を継続させる気はない。おおかた天皇を京都から連れ出し、別の場所で新たな政府を作るかもしれない。御所はしっかり守れ」
 辻はそう認識していた。だから、とくに広島藩の藩士たちには、
「西郷には動かされるなよ。偽の勅許を平気で出させる男だからな。それも心得よ」
 と楔(くさび)を打っていた。

 辻将曹は小松帯刀とは親密だが、おなじ薩摩でも、討幕派の西郷隆盛にはたえず警戒心を抱いていた。さかのぼれば、第一次長州征討で、西郷が広島城下にきた時から、この男は和平を望まず、戦いで決着をつけたがっていると見抜いていた。その折には幕府側参謀・西郷と長州藩との間に割って入り、辻は話し合いで幕長戦争を回避させた経緯がある。

 
 実際に鳥羽伏見の戦いが実際に起きた。これは軍事クーデターだった。松平容保らが5、6人の家臣とともに大阪から京都・御所へ直訴にくればよかったのだ。しかし、容保は幕府軍・会津桑名1000人以上の軍隊を引き連れて京都に上ってきた。
 これは禁門の変を起こした、かつての長州藩と同様のミスだった。

 薩長の下級藩士たちの思うつぼだった。
「待ってました」
 とばかりに、西郷隆盛は会津・桑名軍に攻撃を命じたのだ。もし、松平容保が5、6人連れならば、鳥羽伏見の戦いはなかっただろう。
 西郷にすれば、禁門の変、鳥羽伏見の戦いと、二度も京都で戦った、武闘派の人物だ。西洋式訓練を受けた軍人で、幕府側を攻撃する。

 広島藩はまったく動かなかった。薩摩軍や長州軍から、芸州藩の岸九兵衞(きしきゅうべい)隊長に参戦を促しにきた。岸は399人を引き連れていたが、一発の銃も撃たせなかった。
「御所を守る皇軍だ。西郷たちの軍隊ではない」
 ちなみに、岸九兵衞は辻将曹の実弟である。

 この後において戊辰戦争が始まる。広島藩はここでも藩士を出さなかった。農兵・神機隊に、十数人の藩士が飛び込み自費で臨んだ。彰義隊の戦い、相馬・仙台藩の戦いに挑んでいる。

 広島藩としては動かず。明治政府は、神機隊の船越洋之助と池田徳太郎を県知事にしただけである。
 恥部を握る浅野家の藩主や重臣は、明治政府のカヤの外に置かれた。会津落城(開城)の翌月には天皇を東京行幸で、江戸城に連れて行き、明治軍事政権を作ったのだ。戦いを嫌った広島藩の重臣で、この政府に入りたがる人物はいなかった。
 
 勝者が歴史を創る。薩長が都合よく日本史の教科書を作った。倒幕の主体が薩長芸なのに「薩長土肥」に変わり、そして幕末史から広島藩は消えていった。


 江戸時代は260年間は海外と一度も戦争しなかった。平和裏に大政奉還がおこなわれた。しかし、戊辰戦争から、日本は変わった。富国強兵の政策と徴兵制で10-20年ごとに海外と戦争をする軍事国家に膨張していったのだ。
 最後は広島に原爆が落ちた。アメリカは戦争を止めさせるためだったという。その議論は別にしても、幕末には戦争を回避しようとした、執政(家老)・辻将曹が広島にいたのに……。


 あえていうと、広島に原爆が落ちて、広島城も、武家屋敷も、大半の幕末資料も焼けてしまった。でも、全部の広島藩の史料が消えたわけではない。ていねいに掘り起こせば、土佐がねつ造した「船中八策」を否定する資料も、、薩長が封印したかった資料も残されているのだ。


 勝海舟は、幕末には全国を見渡してもろくな家老がいなかったけれど、辻将曹は卓越した能力で、特に優秀だったと語っている。

 
 

明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(上)=薩長討幕の恥部を知る

 幕末の広島藩は薩長芸の軍事同盟を結び、大政奉還で倒幕の中心的な存在だった。なぜ明治以降の歴史から消えてしまったのか

 長州藩は四か国連合艦隊と戦って下関まで占領される、さらに幕府の長州征長で、疲弊し、倒幕への力はなかった。薩摩も同様にイギリスと戦っている。島津家は徳川将軍に正室を出している、身内なのだ。薩摩藩の重役には徳川家を倒す意志などなかった

 芸州・広島藩は第二次長州征討において出兵拒否をした。戦争に対して無傷だったから、軍事力は温存されていた。だから、薩長芸軍事同盟の中心的な動きができた。もう一つには、経済面である。


 広島藩は大崎下島・御手洗港で、薩摩藩と密貿易で深く結びついていた。諸外国と結ばれた通商条約では、開港が下田、函館、長崎などに限定されている。

(スエズ運河の完成が1869年だから、欧米の蒸気船は瀬戸内の海峡など楽に航行できる)

 広島・宮島港では長州藩と交易する。広島藩の船が御手洗と宮島と間で、薩摩と長州の荷を運ぶ。大がかりな三角貿易がおこなわれていた。尾道の豪商から池田徳太郎などに、「御手洗はやりすぎている、薩長貿易を手伝いすぎて、幕府から芸州が睨まれたらどうするのか」といさめる書簡を送っている。
 このように薩長は経済面ではつよく結びついていたのだ。

 坂本龍馬が裏書きした薩長同盟で双方は和解した、と後世には伝えられている。紙っペラ一枚ていどで、数人の交渉で激動期の政治が変わるわけがない。経済が政治を動かす。強い経済的なパイプが国(藩)どうしを結び付けるのだ。

 明治政府の主力政治家は長州人だ。禁門の変で藩士の多くを失っているし、長州の政治家たちはその遺族に対する配慮から、広島藩を通じて薩摩と取引していたと、おおびらにできなかった。
 むろん、明治時代に入っても、夫や息子を亡くした遺族は薩摩を恨んでいる。だから、御手洗の三角貿易の事実はいつまでも隠し通していたかったのだ。

 御手洗での海外密貿易が公になるのは、薩摩出身者たちも好まなかった。広島は明治時代まで薩長の歴史上の恥部をにぎっていたのだ。

 幕府は第一次長州征討を行った。広島藩の執政・辻将曹が仲立ちし、武力解決を回避させた。それでは不満だといい、慶喜や会津・桑名が第二次長州征討を企てた。

【つづく】

坂本龍馬と後藤象二郎が大政奉還を推し進めた? 歴史の虚構か

 10月20日は太平洋側から2つの台風が接近していた。この時期の台風は仕方ないことだと、予定通り鹿児島に出向いた。小松帯刀と芸州・広島藩との連携が知りたかった。私にすれば、珍しくアポのない取材だった。

 大政奉還は広島藩の辻将曹(芸州・家老)と薩摩藩小松帯刀(家老)が推し進めている。(芸藩誌による)。

 そのために薩長芸は軍事同盟を結び、3藩の軍隊を京都に挙げて軍事圧力で、徳川慶喜に大政奉還を迫る、という倒幕の作戦を推し進めていた。

 土佐の後藤象二郎が途中(1867年7月)から、これを知り、京都藩邸に滞在する辻将曹と小松帯刀に、土佐も加わらせてくれ、と言ってきたのだ。ふたりは後藤象二郎に「もし土佐がこの倒幕に加わりたかったら、土佐から1000人の兵を京都に挙げてこい」と指図した。

「山内容堂を口説き、絶対に軍隊を連れてきますから、倒幕に加わらせてください」
 後藤は辻にそう約束している。(芸藩誌)

 8月、9月となると、辻や小松がまだ土佐は動かないのか、と焦る。西郷たち武闘派が「倒幕」でなく、武力による「討幕」の動きを示しているから、早くしろ、と小松は後藤をせかしている。辻も同様だった。
「待ってくれ、待ってくれ」
 後藤は何度もうそをつく。辻将相らは苛立っていた。政変には時期が大切なのだ。

 保守派の山内容堂は徳川幕府温存の考えで、軍隊などを出さないという。薩摩の小松はウンザリしてしまった。あてにならない土佐ならば、と「薩長土同盟」(土は土佐)を9月に解消しまったのだ。つまり、大政奉還の話には土佐が加わらなくてもよい、と三行半を示したので。

 その後、後藤がとった行動は、一人勝手に京都に於いて、徳川将軍・慶喜に拝謁し、大政奉還の建白書を出したのだ。まさに、後藤象二郎がやりそうな、抜け駆けだった。
 怒ったのは辻将曹と小松帯刀で、その3日後には広島藩も薩摩藩も用意している建白書を出したのだ。
 慶喜は後藤ひとりの話など信用していない。二条城にあらためて辻将曹、小松帯刀を呼び寄せ、3者から建白書を提出した根拠と真意を聞き出したのだ。(辻と小松は前座で意見を言う、後藤は後ろの座で聞き役)。
 広島藩(執政・家老と同じ)辻将曹と薩摩藩家老の小松帯刀には、後藤と違い、これまで練りに練った考えがある。なぜ大政奉還なのか。理路整然とした思慮がある。
 幕府が戦いをせず朝廷に政権を返上すれば、欧米列強にすきを与えず、国家の平和解決の道になると進言したのだ。
 慶喜は国内戦争を望まず、それを受け入れた。


『抜け駆けだろうと、何事も一番がたいせつ』

 後藤象二郎が大政奉還の建白書を一番に出した。後世のひとは後藤象二郎ひとりの淡白な能力では考えが及ばない、と誰もがわかっている。山内容堂は佐幕派だし、幕府を倒す考えなどみじんもない。容堂から大政奉還を言い出す根拠すらない。

 後藤象二郎が、広島と薩摩から話をもらいながら、ひとり抜け駆けをやりました。これではあまりにもぶざまだ。土佐人たちが考えた挙句の果てに、坂本龍馬の発案で後藤象二郎が大政奉還を進めたと、虚構を加えてしまったのだ。
 つまり、辻や小松の着想が消されて、坂本龍馬にすり替えてしまったのだ。

 龍馬にはまったく大政奉還の思想はなかった。龍馬はどこから大政奉還の思想を得たのだろうか。推理小説のように、いま現在もメチャメチャな意見が飛び交っている。事実ではなく、史実には1行もないのだから、それに根拠を結び付けようとするから、陳腐な説明になってしまう。
 

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禁門の変で、京都を大火にさせた=歴史の必然か、暴走か

 京都の人にとって、先の戦争と言えば、京都の町を火の海にした、応仁の乱か、禁門の変(1864年8月20日)である。
 第二次世界大戦ではない。米国の文化人類学者のアドバイスで、トルーマンは京都・奈良の空爆を禁止にしたから、京都の町は無傷だったからだ。

 私は10月6日、京都を訪ねた。蛤御門(はまぐりごもん、京都市上京区)に足を運んだ。ここで、「禁門の変」が起こり、日本の近代史を大きく変えたのだ、と深い想いを持って眺めた。
 禁門の変は約150年前の出来事だが、第二次世界大戦にまで影響を及ぼしている。

 幕末、「8.18の政変」が起きた。京都守護職の会津藩と薩摩藩とがクーデターで、長州藩兵を京都・御所の任務を解いて追放した。長州藩は藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。これが一般いわれる、「7卿の都落ち」である。

 幕末の長州藩は、上下の思想がバラバラで、好き勝手な行動とか、対立が目立つ藩だった。藩政治の勢力争いがつねにおこなわれ、藩の統一した見解とか、統一行動がなかった。

 松平容保などを排除するために挙兵し、京都に乗り込もうとする積極派と、慎重派とが対立していた。
 池田屋事件で、新撰組に長州藩士が殺されると、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目にして、挙兵したのだ。
 そして、会津・桑名藩兵とが衝突した。
 長州勢は当初、優勢で中立売門を突破して京都御所内に侵入した。他方で、西郷隆盛が、乾門を守る薩摩藩兵を連れて援軍に駆けつけたことから、形勢が逆転し、市街戦になった。

 敗退する長州は、京都藩邸を焼き払った。会津も長州藩士が隠れていそうな場所に火を放つ。それらが北は一条通から南は七条の東本願寺に至る、広い範囲の街や社寺などが炎上した。約3万戸が焼失するなど、京都人は戦火の怖さを知らされたのだ。

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飯能戦争をご存知ですか=渋沢平九郎の死  (下)

 顔振峠の茶屋の老婆に勧められて、農民姿に変装した平九郎は、下山してきた。黒山三滝の近くで、官軍の芸州・神機隊隊の斥候3人に呼び止められた。そして、尋問を受けた。
「秩父の神官の息子だ」
「嘘つくな。武士だろう」
 見破られた平九郎は剣術の達人で、隠しもつ小刀で3人に斬りかかった。3人それぞれに負傷させた。援軍を求めに逃げる斥候が、銃を放った。
 その一発が平九郎に当たった。神機隊の斥候の話から駆けつけると、平九郎は岩の上で自決していた。
 
 この落ち武者が渋沢平九郎だとわかったのは、神機隊の斥候3人を治療した、医師・宮崎通泰が書き残した1枚の絵からだった。さらには平九郎が袂に入れていた、辞世の歌が3首残されていた。
 これらから、平九郎は渋沢栄一の妻が、実姉であり、その関係から栄一の養子になっていた。つまり、栄一からすれば、わが子が飯能戦争の落武者になり、自決して死んだのだ。

 平九郎の首級が越生の法恩寺の前で晒(さら)されていた。郷土史家の手で書き表されていた。
 
 渋沢栄一は、埼玉県が生んだ著名な人物だ。それだけに、渋沢平九郎の研究者が多い。文献を集めてみると、小説家もどきの創作が随所にある。それでいて、現地から聞き取り調査した資料に基づいているから、信頼度が高い記述だとされている。

 渋沢平九郎が割腹につかった小刀は、神機隊・参謀の川合鱗三が大切に保管しており、明治27年に渋沢栄一に返還されている。

 書き手によって、最期の場面は、ずいぶん想像が入いったりするものだ。

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飯能戦争をご存知ですか=渋沢平九郎の死  (上)

 9月には2度、飯能や越生、毛呂などを歴史取材した。池袋から西武線や東武東上線などで小一時間ばかりだ。ふだん利用しない路線なので、似通った駅名が多く、そのうえ八高線まで入り乱れているので、戸惑ってしまった。

 私の歴史小説のテーマは「芸州藩から見た幕末史」である。その関連で、今年(2013)6月に鳥取県立博物館の伊藤元学芸員を訪ねた。その折、「2、3年前に、幕末の飯能戦争展がありましたよ。ごぞんじですか」と聞かされていた。
「いいえ。新撰組とかかわるのですか」
「彰義隊のほうです」
 小さな戦いだろう、と脇に置いていた。

 上野戦争の彰義隊の戦いは、慶応4年5月15日で、あまりにも有名だ。その直前に、渋沢誠一郎、尾高新五郎、渋沢平九郎らが彰義隊を飛び出し、新たに振武軍を組織した。総勢440人は、飯能村の能仁寺を本陣とし、周辺の五か所の寺を宿舎と定めた。

 大村益次郎の指揮の下で、彰義隊を半日で落おちた。官軍がそのさき向かった先が飯能である。肥前大村、筑前福岡、築後久留米、日向佐土原、筑前岡山、川越、前橋藩の7藩が鎮圧にあたった。5月23日未明から攻撃を開始し、朝方には決着をつけた。

 広島藩・神機隊は、飯能戦争で戦火を交えることがなかった。新政府か佐幕か迷う忍藩(行田)へ回っていたので、越生に着いたのが、同日の午後だったからだ。忍藩には新政府への恭順を決めさせて、藩士たちを越生まで連れてきたのが成果だろう、と思っていた。

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