歴史の旅・真実とロマンをもとめて

西南戦争の田原坂は激戦だった。政府軍の真の勝因はなにか

 2016年7月21日、鹿児島から、熊本を経由し、植木駅前からタクシーに乗り、「田原坂西南戦争資料館(藤本典子館長)を訪ねた。
 明治10(1877)年の西南戦争で、薩摩軍と政府軍の戦いで勝敗を決めたのが、田原坂(同年3月4日~3月20日)の戦いだった。

 取材目的は、芸州広島藩の「神機隊」は戊辰戦争で戦い、さらに西南戦争に出むいて戦死した兵士がいる。戊辰戦争と西南戦争をつなぐものだ。
 ことし5月下旬には、中国新聞の岩崎論説副主幹がこの趣旨の下に、同館を訪ねている。私はそれを引き継いで訪問した。

 同館の中原幹彦学芸員から、まずは西南戦争の全体像を訊いた。
「ブック本などで紹介されている内容は、田原坂の実際の戦いとはかなり乖離(かいり)しています」
 中原さんはそう前置きをされた。

 一般に言い伝えられているのは、政府軍は最新の武器を装備し、軍服が統一されており、片や、粗末な薩摩軍に比べると、圧倒的な差があったとする。

 政府軍の勝因は、兵員と物資の補給力、それに情報力の差だった、と中原学芸員は強調された。

「当時、東京、長崎、植木、熊本まで電信通信網(有線)ができていました。『越すに越されぬ田原坂』と歌にもあるように、田原坂など大激戦で、政府側が不利な戦況が電信で、中央(東京)に即座に伝えられました。熊本城が燃えた。それらもいち早く電信で、中央に報告されたのです」

 1869年(明治2年)には東京・横浜間で、電信による電報の取り扱いがはじまった。明治政府は電信に力を入れており、数年で電信網は全国へと張り巡らされていく。
 西南戦争のときは、熊本、長崎まで有線が敷設されていた。

「政府軍は形勢不利だ、という戦地情報が通信で入ると、北海道、東北から、各地から兵をあつめ、援軍を次つぎに戦場に送り込んだのです」
 明治6年からは徴兵制が制定されていた。政府側は兵士あつめに、この徴兵制が有効にはたらいた、とつけ加えた。

「通信網は、鹿児島までは開通していなかった。この差は大きかったのです」


 田原坂(標高105㍍)は細い坂道である。
 政府軍は大砲を熊本に運び込もうとする。薩摩軍が細い道の両側に待ち伏せをしており、政府軍に襲いかかる。
 至近距離なので、発砲は味方をも傷つけてしまう。そこで、薩摩軍は抜刀で襲いかかった。

 同館の展示室にはかつて「かち弾(だま)」が展示されていた。(弾丸と弾丸が空中でぶつかった)。これをみた観客は銃撃戦を想像してしまう。
 実際には日本刀による戦いが主力だったから、かち玉の展示は引き下げたと話された。

 武器はイギリス製が多かった。大阪、東京にも、軍事工廠があったが、不発弾が多く、海外製品に比べると、質が劣っていた。

 3月29日の日奈久(ひなぐ)へ、政府軍が海上から上陸作戦をとった。軍艦は10隻余り、三菱などから借り上げた徴用の官船が60隻。政府軍が薩摩軍の退路を断った。


 薩摩はなぜ明治政府と戦ったのだろうか。

「島津家は幕末に国力がありました。織物、紡績が盛んで豐かであり、薩摩藩じたいでパリ万博に出展するほどの力がありました。戊辰戦争に勝った自負心があり、日本国の新政府をリードするのは薩摩だという強い意識があったのです。それに西郷隆盛というカリスマがいましたから」
 中原学芸員はそのように見解を述べた。

 薩摩は他に比べて士族・郷士の人口比率が高かった。かれらは幼いころから示現流(じげんりゅう)の軍事訓練を受けている。
「サーベルでは人を斬れなかったようです。簪かんざしみたいで」
 そう説明されてから、示現流の日本刀の威力は強かったという。

 薩摩軍の兵士らには、天皇をトップとした政府を自分たちが作りなおすのだ、という強い意識が底流にあった。


 片や、政府軍の兵士らは、「天皇の下に戦う」という、天皇の意義すらもわからない。「なんで」上官の指示に従うのか、と理解できなかった。
 農業は自営業だから、ふだん誰からも一挙手一投足の働きに口出しされた経験がない。組織で活動。それ自体が理解できない。

 その上、戦地ではいのちをかけた戦いにおびえていた。しかし、恐怖が連日だと、恐怖ではなくなる。練度が上がってくる。
 実戦が連日になると、薩摩の示現流にも立ち向かうほど、政府軍は優秀な兵士に成長してくる。

 西南戦争は7か月間も続いた。結果として、政府軍が勝った。東京・日比谷に意気揚々と凱旋した。
 ただ、政府軍の兵士が長崎で流行っていたコレラを持ち帰り、関西、関東、と全国に広がっていったという付属があった。


「戊辰戦争と西南戦争は切り離せないないし、一体です。戊辰戦争で戦い、西南戦争にも参戦し、そして亡くなった兵士は多い」
 薩摩側の戦没者の研究は進んでいる、と中原学芸員は教えてくれた。

 その一方で、政府軍側で、戊辰・西南戦争で戦った戦没者たちの研究はなされていない、と話す。

 広島の神機隊は戊辰戦争後、明治5年頃に解散している。その後、政府軍として出兵し、戦死した人がいる。こんかいの田原坂の取材を足がかりにした、追跡調査は学術的にも価値がありそうだ。
 

                       写真提供(同行者) = 浦沢誠さん

江戸の飲料水は井戸にあらず。江戸城のお堀の水はどこから?

 江戸城のお堀の水はどこからきているのか。さらには、100万人の住む世界最大級の人口の水は、どのように供給されているのか。単純な質問を私自身にむけてみても、明確な答えは出てこない。


「東京水道の歴史紹介~江戸から東京へ~」、(東京区政会館1階エントランスホール:28年7月12日から8月4日)と、さらに東京都水道博物館に出むいてみた。


 江戸からの歴史を知れば、人間の英知を知ることができる。一方で、ふしぎな疑問も生じてくる。すぐには解明できない。それが歴史の面白さだろう。

 徳川家康が江戸幕府を開いたときから、人口は膨張している。関東ローム層だから、井戸を掘っても、さして水は出てこない。そこで、神田上水や、玉川上水がつくられた。

 玉川上水は、奥多摩・羽村の堰(せき・堤防)から延々と水を引いてくる。

 基本的な考えは、現在の水道管と同様に、木樋(もくひ)や石樋を地下に埋め込み、上水を引いているのだ。

  神田上水が、お茶の水の神田川の上を架けて給水されていく。

  懸樋(かけひ)の技術は、ただ感心するばかりだ。



  参勤交代で江戸にきた大名や家臣、大工、商人、諸々の住民は水がなければ、1日も生きていけない。
 
 武家屋敷、長屋ごとに、大きな円筒の桶(井戸代わり・写真の桶)が造られている。それを汲み上げている。

 江戸全域を考えると、それを網羅(もうら)する、とてつもないぼう大な工事だ。徳川幕府の豊富な資金力が容易に想像できる。


 ちなみに、江戸幕府は身分に応じて大名、旗本、御家人に屋敷、家屋を貸与(拝領居屋敷・上屋敷)していた。ご公儀に盾突くと、「お家とり潰し」で、江戸の住いを幕府に明け渡さねばならない。むろん、国許のお城も、武家屋敷も。

 こういう目線で、武家諸法度をみると、士農工商といえども、武士たちはつねに「路頭に迷うわが身」を案じて、幕府の大目付、目付たちの監視に脅えていたのだ。
 狂気の殿様でもいれば、座敷牢に入れて口塞ぎをした。領内の悪いウワサにも、かれらは敏感に反応し、幕府の目を怖れていた。、

 人間は楽に生きることはできない。
 


 2階は江戸時代。1階が「近現代の水道」である。私たちはふだん水道の蛇口しか見ていない。ダムのみならず、巨大な水道施設をみるほどに、水のありがたみがわかる。


 夏休みに入れば、親子連れなどがたくさん勉強にくるだろう。

 江戸城のお堀の水はどこからきているのか。それは東京区政会館1階のパネル展、東京都水道博物館で、回答が出なかった。

 お城は極秘で作られる要素がつよい。多摩川、神田川から木樋で引いてきたのか。まてよ。現代も、お堀の水はある。

 かつて西新宿の淀橋浄水場から、1日2万トンの水がお堀に流れ込んでいた。この浄水場は1965年に廃止されて、雨水だけだという報道もある。これには疑問がある。

 雨水だけが頼りならば、極度の渇水期が到来すれば、お堀は枯れるはずだ。八木沢ダム、小河内ダムなど、底をみせる年もある。

 ネットで調べると、徒歩で調べた方がいる。神田川から、日本橋を通ってたどり着いたようだ。ただ、お堀の手前で、地下に潜ったようで、目視はできていない。  

 これも歴史ミステリーなのか。

講演「隠された幕末史」~明治政府がねつ造した歴史をあばく~

 シニア大樂「115回公開講座」が、7月5日(火)、東京ボランティア・市民活動センターで、午後1時半から開催された。講師は私を含めて、4人。主催はNPO法人シニア大樂である。

 会場は満席になった。
 
 私の講演タイトルは、「隠された幕末史」~明治政府がねつ造した歴史をあばく~、15:25~16:10の45分間である。

 明治政府がねつ造、わい曲した幕末史が、いまだ大手を振って歩いている。いかに勝者が歴史をつくるとはいえ、目に余ります。


「尊王攘夷」は150年前の正義だ、と思っている人が多い。しかし、攘夷とはいったい何ですか。肌が白い・異国人とみれば、無差別に殺すテロリズムです。

 安政の開国以来、欧米人が横須賀の鉄鋼所、長崎の造船所、建築など技師として多くたずさわりました。かれらは命を狙われました。横浜の貿易商も、外国人ゆえに大勢殺されました。
 
 (2016)7月1日夜、バングラデシュの首都ダッカで、日本人7人を 含む外国人が殺害されました。犠牲者の多くは、開発途上のバングラデシュの支援活動に尽くす方々です。20人殺害テロ事件は、まさに幕末の攘夷(排他主義)の活動家たちとおなじ姿なのです。

 現代に置き換えてみると、尊王攘夷論がとてつもなく危険思想だったか、わかるでしょう。

「尊王」はまだしも、「攘夷」はとんでもない思想です。こんなテロリストたちが政権を取ったから、10年に一度戦争する国家になったのです。尊王攘夷は美化したり、歴史上において正当化してはいけない、危険思想です。


 明治時代の「富国強兵」は文明開化を推進する、良き政策だ、と私たちは教えられてきました。ほんとうでしょうか。
 これは政府を富ますために、民から税金を高くとる政策です。国の収入が主に軍事に使われる。国庫の金が民間への分配にまわす度合いが少ない。つまり、軍国主義の経済政策なのです。

 社会への救済が乏しく、飢えて貧しい、とくに東北、長野・群馬など民は大陸へと押しやられました。富国強兵の政策は植民地政策の裏表なのです。


 明治政府が設立したとき、数々の政策選択がありました。欧米に学ぶにしろ、スイス、デンマークのような平和主義の国家はいくらでもあったのです。
 ところが、明治政府を作った下級藩士たちは、自分たちを武力で大きく見せる植民地、帝国主義をまねて軍事強化を図ったのです。
 
 鎖国主義を取っていた德川政権は、「戦争せず、植民地にもならず、開国」をさせたのです。東南アジアなどをみると、タイ王朝と日本だけです。
 しかし、明治政府は、列強の武力に蹂躙(じゅうりん)されたと德川政権を劣悪に言い、教科書で教え込んできました。だったら、どんな方法があったのでしょうか。鎖国の維持が良かったのでしょうか。


 徳川幕府は海外と一度も戦争していません。
 あえていえば、江戸時代に海外と戦争をしたのは、長州藩と薩摩藩だけです。それも長州藩は下関海峡を通過する商船(民間)に砲弾を撃ちこみ、後日、4か国艦隊から報復の戦争を仕掛けられ、あっけなく占領されてしまったのです。

 薩摩藩士が生麦事件(神奈川)で、イギリス人を殺害した。イギリスから報復で、鹿児島湾に入ってきた軍艦から艦砲射撃をうけました。

 結局のところ、2藩は列強の砲撃に屈しました。それなのに、明治になると、『阿部正弘は列強の軍事圧力の下に、開国させられた』と、幼い子供たちに教えはじめたのです
 
 これって正しい教育だと思いますか。


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ペリー提督の黒船来航より前、アメリカ船は数多く日本に来ていた=浦賀

『明治政府がわい曲した歴史教育は、国民のためにならない』
 それが私の大きなテーマであり、歴史小説でも、このHPでも、常に展開している。

 ペリー提督が浦賀に来た。その後、日米和親条約、日米修好通商条約、開国への道を切り開いた。ところが、明治政府は、遊び半分の、バカげた狂歌を教科書に載せてきた。 
『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず』
 それをもって徳川幕府の上層部は無策で、初めて見るアメリカ船におろおろし、開国を強いられたと。
 明治政府の悪質な策略で、ほとんどの日本人は鎖国は韓国、中国、オランダしか日本に来ていないと信じている。少なくとも、ペリー提督以前は、米国船が鎖国・日本、江戸湾にまったく来ていなかったかのように、教わってきた。

 イギリスと清国が戦争したアヘン戦争(1840年)後、アメリカ船は浦賀にも、長崎にも、北海道にも来ている。そして、徳川支配下の各奉行所の役人はかかわっている。米国との交流はあるし、生鮮食料品、卵、薪水も与えている。

 捕鯨船から脱走して北海道に上陸した漁船員や、冒険家・マクドナルドなどが長崎で、通詞(つうじ・通訳)にネーティブな英語を教えている。

 これらを克明に掘り下げるためにも、浦賀、長崎、北海道に現地取材をしよう、と考えている。まず6月のアジサイが咲く浦賀を訪ねた。

  浦賀は瓢箪(ひょうたん)のように、奥行きの深い湾だった。江戸時代からの良港である。現代でも、渡船が使われている。大人200円、子ども100円。決して高くは感じないほど、徒歩で対岸にいくには、浦賀駅あたりまで遠回り。推定1キロ以上はあるだろう。



 浦賀の渡船に乗りながら、明治政府はなぜ、幕末史をねつ造したのか、と考えた。
 
 徳川幕府が大政奉還下にもかかわらず、薩長土の下級藩士が戊辰戦争を起こし、軍事政権を作り上げた。
 現代風にいえば、山口県・鹿児島県・佐賀県の市役所の刀を差した係長や課長が、東京にきて国政を携わることになったのだ。
 かれらは外国語も話せず、まして外交経験も能力もなかった。でも、大きく見せたい。それには、ことたら徳川政権の施政者たちを無能化してみせることだった。手段の一つとして教育が使われた。

 歴史をわい曲し、教育で、生徒に教えてきた。それが現代にもつながっている。

 現代的にいえば、江戸幕府は有能な旗本を抜擢し、霞が関の外交官にすえた。欧米諸国と修好条約、通商条約を平和裏に結んでいる。そこには武力に屈するとか、不公平とか、おおきな威圧はなかった。

 大政奉還後、一ツ橋慶喜は上野寛永寺で、みずから謹慎した。外交官(旗本)や官僚(現・霞が関・上級職)たち能力の優れたものは、一ツ橋家の関係者(旗本)が多かった。

 かれらは家主・慶喜を守るために上野の山に集まった。大村益次郎の指揮の下、佐賀藩のアームストロングの大砲を、有能な官僚・旗本たちに撃ち込んだ。炸裂弾で、大勢の一ツ橋家のものを殺害した。
 

 明治政府は、彰義隊を反乱軍のように悪く言う。戊辰戦争を正当化し、そのうえで江戸幕府は無策・無能としてきたのだ。
 そのあげくの果てに、下級藩士たちは政権争いで、大村益次郎、江藤新平、大久保利通、西郷隆盛らが殺されていった。血を血で洗う政権だから、その後は『神風が吹く日本国だ』といい、戦争ばかりする国家になった。


 浦賀では、ちょうど『叶神社』がお祭りだった。 ねがいが叶う。そんな想いで、境内には絵馬が多い。いまから150年前、この叶神社から、黒船が見えたはずだ。
 それ以前にも、米国船はこの湾内に来ている。歴史の足を進めた。

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(下)

 文化・文政の頃から、日本列島の周辺には数多く外国船(捕鯨船・商船)が航行する時代になった。鹿島灘の沿岸では、欧米の捕鯨船の乗組員が上陸し、漁民たちと物々交換していたのだ。それが発覚し300人余りの民が取り調べを受けた。

 徳川御三家の水戸藩において、鎖国の禁が破られていたのだ。水戸斉昭は、自藩の取り締まり強化とともに、鹿島灘に近づく外国船を打払う法律が欲しかった。それゆえに、斉昭は攘夷思想をふりまわし、幕府に「異国船打払令」をつくらせた。
 こうした斉昭の自分勝手な強引さが、日本外交の夜明けには反動的で、じつに目障りな存在となっていく。

 1840年のアヘン戦争が勃発から、日本の歴史は大きくうごきだす。

 高野長英が『夢物語』で見通した通り強いイギリスで、大国の清の惨敗だった。1842年に終結した。イギリス側は大砲を使い、死者は一人も出ていない圧勝だったともいう。
 
 アヘン戦争の情報が日本に伝わると、老中首座の水野忠邦は、水戸斉昭の圧力で作った「異国船打払令」を廃止した。他方で、遭難した船にかぎり補給を認めるという「薪水給与令」を出した。それは1842年(天保13年)だった。アヘン戦争の終結と同じ年だ。


 その後も、やみくもに「異国船打払令」にこだわって騒ぐのが水戸斉昭だ。かれはというと家慶将軍から、謹慎処分を受けた。謹慎とは室内に封印されて、外部との交流・手紙からも経たれる処分だ。
 かれには秩序・ルールなど、救命嘆願の手紙を書きまくった。人柄のよい阿部などは集中して手紙攻撃を受けた。『新伊勢物語』として残るが、猫なで声の泣き言ばかりだ。


 阿部正弘は27歳で老中首座になり、大勢の有能な人材を発掘し、それらの意見を聞き、洞察力・決断力、先見性で長期政権をつくってきた。
 バランス感覚の良い人物で、動乱期の幕末なのに、正面からからの政敵はいなかった。あの井伊大老すらも、阿部にはとくに逆らった態度は取らなかった。

「戦争をしないで開国させる」
 その信念の阿部正弘だが、かれの最大の失点は水戸斉昭の謹慎処分を解くことに力を貸して、実現させたことだろう。
 それが斉昭をのさばらせたし、かえって重荷を背負ってしまう結果となった。ある意味で、太平洋戦争の終結まで、尾を引いてしまっているのだ。


 徳川家慶の後を継いだ、家定将軍は知能障害だった? 水戸斉昭がここぞとばかりに徳川御三家の威光をふりまわす。(御三家は政務に口出しをしないのが、家康時代からの暗黙のルールだった)。ルールを守れない性格の斉昭には、阿部正弘はかなりごづっていた。

 アメリカ政府からオランダ経由で、「アメリカ海軍のペリー提督が、大統領親書を持参する」と事前に德川幕府に連絡がきた。
 阿部正弘はそれを一部幕閣に伝えた。

 攘夷論の水戸斉昭が開国に大反対したのだ。阿部は斉昭の攻撃の矛先をかわしながら、ペリー提督と日米和親条約を結んだ。
 それは「薪水給与令」を明文化した程度のものだった。
 
 天保の飢饉以来、過剰人口の日本は食糧不足だった。徳川政権としては海外から食料がほしい。幕府は本気で、交易開始の通商条約締結へと思考をはじめたのだ。
 欧米各国と和親条約を結んだ直後から、庶民は違和感なく外国人との接触をはじめた。国民感情も悪くない。交易の機が熟していた。

 しかし、斉昭は通商の妨害工作に走った。なぜ、日本人が外国と貿易したらいけないのか。ここらは釈然としない現代人は多いだろう。
 それは日本の歴史教科書が、明治政府の軍事政権のもとで作られたからだ。

 阿部正弘の「戦争なき安政の開国」、徳川慶喜の「戦いなき大政奉還」という、戦争のない平和施策は目障りでじゃまで、不都合なのだ。
 
 明治政府は日本史の教科書に、 
『泰平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜も眠られず」
 と面白半分の馬鹿げた庶民の狂歌を織り込んだのだ。

 ペリー提督来航で阿部正弘はおたおた、もたもたしていた。力の外交には弱かったと、徳川政権をあなどってみせた。都合の良い狂歌だった。片や、明治政府は富国強兵で、力強い軍事政権だぞ、と教育で子どもたちを洗脳していったのだ。

 太平戦争が終わった現代教育の場でも、旧態依然として、明治政府が悪用したばかげた狂歌
『泰平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜も眠られず』
 をつかつている。
 だから、現代人のほとんどが、その狂歌から德川政権は鎖国で海外情報なかったと信じ込んでいる。ペリー提督が来航時に、狼狽したと思い込んでいる。

 天保の改革に失敗した、悪名高き水野忠邦でさえも、文化・文政の時代から「異国船打払令」を言いまくるテロリスト型の水戸斉昭を排除したのだ。

 残念なことに、阿部正弘は水戸斉昭のがん細胞は断ち切れていなかった。「異国船打払令」を復活しろ、外国人を殺せ、と狂気のごとく一貫して騒いでいた斉昭は、癌(テロイズム)のごとく、他藩の下級藩士に転移していった。

 国民が貿易拡大を望んでいることなど度外視し、無視し、日米修好通商条約じたいに反対する。そのうえ、桜田門外で、井伊直助を暗殺する。
 犯人はほどんど水戸藩士たちだ。かたちの上で脱藩していたにしろ、水戸藩がつくったテロリスト集団だった。

 19世紀にイギリスが到頭、アヘン戦争で清国を侵略した。
 それは高野長英が危惧していたとおりの道だった。20世紀に入り、日本がまさか同じことをやるとは、高野長英は想像すらできなかっただろう。



 尊皇攘夷者が、明治政府の中核に座ると、品質を変えた。

 尊王・勤王の精神でなく、天皇利用に変わった。人間・天皇は神様の天皇に仕立てられたのだ。薩長土肥の攘夷思想の政治家たちは、天皇を語れば、何でもできる社会を作り上げた。そして、大陸侵略へと侵攻した。

 太平洋戦争の終了後に、天皇は人間宣言をした。あるべき姿の象徴に座られた。

 
 言論弾圧事件となった高野長英「戊戌夢物語」の一節を、学校教育の場で教えてみたらどうだろうか。
 徳川政権は外圧による開国でなく、高い海外情報収集力から、「戦争なくして開国できたのだ」と平和的な評価が高まるだろう。

 反比例して、水戸斉昭と軍事狂歌の明治政府との歴史的評価が下がってくる。

 

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(中)

 天保10年(1839年)5月に、蛮社の獄(ばんしゃのごく)が起きた。名高い言論弾圧事件である。

 田原藩の国家老だった渡辺崋山は自殺した。高野長英は永久牢獄の処分となった。しかし、牢獄で放火し、逃亡生活を続けていた。やがて見破られて殺された。


 高野長英の『戊戌夢物語』は幕府批判をかわすために、あえて夢物語として、辛辣(しんらつ)に書き綴ったのだ。
 その内容の一部を紹介してみたい。これは中国でアヘン戦争がおこる2年前に書かれたものだ、という認識で読まれると、徳川時代の海外情報力がわかる。

 鎖国だから海外情報は皆無に近い、と思われている人は、なぜ、学校教育で、ここまで教えてくれなかったのか、とつよい疑問をおぼえるだろう。


高野長英著『戊戌夢物語』(現代訳)
 
「イギリス国は、オランダの王都のアムステルダムから180里(720キロ)ほど離れている。気候は日本よりもやや寒い国。人口は1770万6000人。イギリス人は敏掟な身のこなし、理解や判断が早く、物事の勉強を怠らず、文学に勤め、工技を研究し、武術を練磨し、『民を富まし国を彊(つよ)くしていることを第一の努め(目標)としている。
 イギリスの沿岸は浅瀬が多く、外寇が入り難く、近年のナポレオン侵攻も、国民は戦火をまぬがれた。首都のロンドンし繁栄し、町並みが美しく、人家が密集し、人口はおよそ100万人。海運の都合がよい立地で、諸国との交易の中心となっている。
 諸国に航海し、未開の土地で植民を行い、未開の原住民を指導し、服従せしめている。いまや外国の支配下の人口は7424万人で、イギリス本国の4倍にもなる。
 
① 北アメリカという国(カナダ)
② 北アメリカと南アメリカの中間にある、西インド諸島。
③ アフリカ州
④ 日本の極南にある、新オランダ(オーストリア)。
⑤ 南アメリカのブラジル。コイネア(ガイアナ)およびカルホルニア付近。
⑥ 天竺(インド)
⑦  インドのムガールとい、雲南、暹羅(シャム)の南部の地域。
⑦ 日本近海の無人島(小笠原)より南の諸島。

 イギリスは軍艦を利用し、1隻につき4、50門の大砲(石火矢)を備えて、それぞれに役人をさしむけて支配している。軍艦の総数は、2万5860艘。役人は都合17万8620人、下役は40万6000人、ほかに水夫、雑役などを合わせると、100万人ほどになる。

 かれらの航海術はことのほか熟練しており、外国への拡大と交易の道が旺盛にして盛んになっている。
 イギリスは支那(シナ)と前々から交易し、広東のそばに土地を与えられて商館を営み、総督や役人を駐留させている。南海諸島やアメリカの産物を数十艘に積んで、広東に輸送いたし、もっぱらお茶と交換し、それを本国・イギリスに送っている。

 イギリスは雲南、シャムのあたりにも領土を持っており、これが支那の属国と境を接しており、このあたりの住民が騒乱を起こし、国境を越えて、交戦することが時々ある。

 イギリスと中国との交易が盛んになるほど、ポルトガル、オランダは自然と衰退ぎみになってきた。そこでかれらは色々と清国に告げ口をしたり、誹謗(ひぼう)したりしている。
 清国はそのまま誹謗を信用している。しだいにイギリスへの嫌悪感が拡大し、双方の交易量と荷捌きが不振に陥ってきた。そのうえ、乾隆という皇帝の頃から、清の未払い勘定が日増しに増加してきて、いまやイギリスの清との交易は完全に行き詰っている。
 
 イギリス本国でも、広東貿易を完全に中止するべきだという意見が出てきた。片や、イギリス本国では近年お茶を楽しむことが流行し、喫茶が大衆化した。
 イギリス領の南海諸島の島やインド、アメリカのお茶は多く産出する。だけれど、品質が支那に比べてはるかに劣る。広東貿易をやめれば、良質のお茶が入らず、国民への迷惑に及んでしまう。
 
 イギリス政府は清との関係改善を図るために、使節を派遣する。乾隆帝に子(嘉慶帝)が生まれたので、その誕生をお祝いし、貢物を北京の朝廷に献上する名目ができた。
 イギリス政府は人選の結果、ロード・マカートニーなる人物を選んで、彼を正使として清に向かわせることに決めた。清は天文学・医術・物産学が未熟なので、これらの学術に精通した者も選んで同船させている」

 こんなにも優れた情報力が日本にあったのだ。まさに、イギリスと清国と戦争状態に突入しかねない、不穏な空気が克明が高野長英の書物に明記されているのだ。

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(上)

 最近、もっともおどろいたことのひとつは、 高野長英の『夢物語』だった。言論弾圧事件の『蛮社の獄』(ばんしゃのごく)の発端となった書物だ。19世紀の日本はアヘン戦争まえから、イギリス情報をくわしく知っていた。
 同書を読み終えたわたしは、日本の歴史教育へのつよい不信感をおぼえた。それは「徳川時代は鎖国政策で、海外情報にはうとく、無知も同然だった。ペリー提督が来航したときには、幕閣は右往左往し、外圧に大砲外交で、強引に門戸を開かれた」と教え込まれていた。実際はそうではなかった。
 高野長英の書物から、わたしたちの受けた歴教育が、故意に歪曲されたものだった、とこれまで以上に知りえた。がく然とした。


 天保時代には、蘭学、儒学者、為政者を問わずに幅ひろくあつまる尚歯会(しょうしかい)なるグループがあった。医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたって情報交換する場だった。

 
 1837年(天保8年)、国内をゆるがす大きな事件がおきた。日本人漂流民7人を送りとどけにきたアメリカ商船・モリソン号が浦賀に現れたのだ。
「異国船打払令」によって、浦賀から大砲を放ち、その船舶を追い払った事件である。

 1年後に、このモリソン船は日本人漂流民の送還と、通商・布教目的できたとわかったのだ。ただ、この段階でも、イギリス船だと思われていた。


 三河国・田原藩家老・渡辺崋山が、『慎機論』(しんきろん)を書き記した。そこには海外情報が三州渥美郡の南隅の小さい藩でも、外国の噂も入ってくる。外国の動きには敏感だ、と書き記されている。

慎機論』(一部・現代文)

『小国ポーランドが、いまやヨーロッパ列強に食い荒らされている。新興国アメリカはヨーロッパのどの国よりも強大になっている。
 漂民を送り届けた船に砲撃するようなことをくり返せば、「おなじ人間を迫害するのは、人間といえようか」と言いがかりをつけられるだろう。

 それがやがて日本国を滅ぼす原因ともなるだろう。

 現代の清は、明時代の末期のように実学を離れ、典雅風流を尊び、国の危険を忘れている。日本とて例外ではない。
 成り上がりの汚職役人が支配し、儒学者すらも海外からの危機にたいして動こうとはしない。われわれは成すすべき手はないのか』
 という絶望のことばで述べている。

 渡辺崋山は、幕府の排他的な海防政策を批判している。その一方で、海防の不備を痛烈に憂えている。
 この論旨は一貫していない。それは田原藩の家老という立場から、幕府にたいする顔色も無視できず、双方批判にならざるを得なかったのだろう。
 崋山は内心で、開国を期待しながら、海防論者を装っていた、とも解釈できる。

 この小論文『慎機論』は、言論弾圧の折、家宅捜索で出てきたものだ。つまり、世に出ていなかった。
 

 高野長英の『戊戌夢物語』は、尚歯会で読まれており、同書の写本がひろく流布して反響よんだ。
「人道的な船を打払えば、イギリスの報復があるだろう」
 高野長英は同書で、イギリスの産業と軍事力は優れている、と克明に紹介している。そのうえで、江戸幕府の撃ち払いは無謀だと、対外政策をつよく批判しているのだ。

 知識人の集まりの場・尚歯会で、これほどまでに、海外情報が克明に入手していたのか、と私たちの幕末を見る歴史観は変わってくる。少なくとも、ペリー提督が来航する15年前のできごとだ。


 言論弾圧の首謀者の鳥居耀蔵は、その実、個人的な妬(ねた)みから、幕府の鎖国政策を批判した疑いで高野長英、渡辺崋山などを捕えたのだ。
 それが蛮社の獄(ばんしゃのごく)である。


 学校教育の場では、さらっと年表的に通りすぎてしまう。否、くわしく学生に教えるとなると、明治維新の視点からみる日本史教育が、政府の都合の良いように歪曲されたものだと、露呈してしまうからだろう。
 ネット社会だ。「言論弾圧を受けた書物すら、かんたんに読める時代だ」
 それらを掘り下げてみると、隠された真実という思わぬおどろきが発見できる。

                                     【つづく】

朝日カルチャーセンター千葉・公開講座=『知られざる幕末』 6月5日(日) 

 朝日カルチャーセンター千葉で、昨年に続いて、公開講座・『知られざる幕末』を開催します。こんかいはとくに学校教育の場とは違う点を取り上げます。

日時 6/5 (日)  13:00~15:00
会費 会員 2,916円 一般 3,348円


 德川政権は260年間いちども戦争をしなかったのに、明治時代から10年に一度は戦争する軍事国家になった。だれがこんな国にしたのか。これが私のメインテーマです。「薩長閥の明治政府が行った、ねつ造とわい曲の幕末史は国民のためにならない」という視点です。


① 吉田松陰の「幽囚録(ゆうしゅうろく)」を読んだことはありますか。安政時代に、満洲を侵略しろ、と松下村塾で教えたのですよ。

② 日米修好通商条約を読んだことはありますか。学校で不平等条約だと言われて、うのみにしていませんか。

③ 西郷隆盛を上野の銅像のイメージで考えていませんか。西郷は德川家を転覆するといい、江戸・庶民にたいして強奪、略奪、人殺しまでやらせたのです。
 政府転覆を目的にした「地下鉄サリン事件」とおなじことをさせた人間が英雄ですか。

④ 「京都小御所の国政会議による王政復古の大号令」と、「鳥羽伏見の戦い」と、どちらが軍事クーデターだと思いますか。学校では、どっちをクーデターだと教えていますか。


 明治政府が薩長閥に都合よく捏造した歴史教科書が、いまなお現在の学校教育の場で継続しています。かなしいかな、それが現実です。
 「歴史から学ぶ」。その歴史がわい曲されていると、どういう結果になって表れるのでしょうか。

【関連情報】

「知られざる幕末」チラシをダウンロード

朝日カルチャー千葉:千葉市中央区中央1-11-1 千葉中央ツインビル・1号館5階

薩長土肥は、歴史的な最低・最悪の政治選択だった。=広島の幕末研究会の講演

 広島の幕末研究会で、「広島は平和都市とはいうけれど、皆さんは平和を定義できますか?」と問うた。被爆都市だから、平和を声高に言う。これでは、ほんとうの平和はわかっていない。国家の平和と個人の平和と、共通する定義はなにですか。


 講演 タイトルは仏教から神教へ「廃仏毀釈」である。

 德川政権が崩壊し、明治政府に移った。このとき、日本じゅうは大混乱になった。おなじことが、昭和20年の太平洋戦争の終結時でも、同様の大混乱です。

 つまり、日本には大きな政治空白が2度ありました。


 この空白の期間に、政治家たちは新しい政治の仕組みを模索しました。昭和20年の戦後は、「二度と戦争しない、エコノミック・アニマルの経済成長主義」を採用した。戦争なくして、GNPを世界トップクラスまで上りつめさせた。

 明治政府は下級藩士だった薩長土肥の政治家たちによって、ヨーロッパの(英仏、ビスマルク)の悪いところばかりを真似た。そして、戦争国家選択をした。その結果が、10年に一度は海外で戦争する国家になり、未曾有(みぞう)のとてつもない犠牲者を出してしまった。

 明治政府がおなじヨーロッパでも、スイスとか、デンマークとか、そういう国を真似していれば、その後の日本は大きく違っていただろう。


 薩長土肥の政治家は、自分たちを大きく見せようと、「富国強兵」の政策を採った。
 
 富国とはなにか。国民からより高い租税を取り、国家財政を豊かにすることである。その金はどうつかわれたのか。強兵である。軍艦・武器を購入し、軍事比率を高めるばかりだった。
 国民生活の側からみると、一人ひとりが高い税金で苦しむ、生活が疲弊していく、政策なのだ。民の視点からすれば、悪性・苛政になるのだ。
 つまり、為政者には都合がよいが、国民を疲弊させる劣悪な政策である。それなのに、学校教育では、まるで良い政策だと教えられつづけた。


 薩長土肥は廃仏毀釈で、「仏教を排除し、お釈迦様を拝むな」と言い、神道に切り替えろ、と強要した。各家庭には神棚をおかさせた。
 日本書紀、古事記の神話に基づいて、天皇を神とした。その上、天皇には絶対的権限と支配をもたせる統帥権を与えた。かれらは明治憲法で、それを明文化した。

「上官の命令は天皇の命令だ」「お国のために、死ぬのが神のためだ」。その道筋づくりが廃仏毀釈からおこなわれたのだ。

 片や、明治政府は徴兵制を敷いた。10年に一度の戦争国家で、大陸の領地を拡大しつづけた。富国強兵策で生活が疲弊した東北、北陸、信越地方の民が多く送り込まれた。

 このように下級藩士が支配した薩長土肥の明治政府は、徳川政権後に、最も悪い政治の道を選択したのだ。
 今はまだ、薩長土肥の為政者は英雄扱いだが、このさき300~500年の歴史でみれば、劣悪な政治家たちだったと批判されるだろう、間違いなく。


 昭和20年の広島・長崎で、原爆で77年間に及ぶ軍事支配の国家が終結した。
 太平戦争後、国民は虚脱状態に陥った。戦前の通貨は停止した。農作物は大凶作のうえ、大陸からの復員兵が街にあふれ、食料不足の飢餓状態になった。戦争孤児が巷にあふれた。政府は機能していなかった。
 まさに、徳川政権の支配者たちがいなくなり、政治空白になった明治初年度と実によく似ている。


 戦後の日本政府がとった政策は、「二度と戦争はしない」という国民の意思統一による、経済優先だった。
 当初は物まねで、海外製品のコピーばかり。諸外国から批判されつづけた。その反省の下で、商品・製品の自力開発の道が推し進められた。そして、製品は世界に向けて拡大していった。

 優秀な人間は大手メーカー、銀行、商社に入る。世界のビジネスマンになっていく。学力・能力が低いものが、「公務員にでもなるか」という道だった。国民はすべてにおいて経済最優先で、行政の能力にはあまり期待しない社会だった。戦前で、政治や行政優先はコリゴリなのだ。

 つまり、あらゆる舵取りが経済優先で、政治は後ろからついてくる社会だった。

 
 明治政府から77年は10年に一度は戦争してきた。
 
 昭和20年から70年は海外で一人の兵士も殺していない。


 どちらが平和で、豊かな国家になったのか。
 後世の歴史家が、双方の比較をはじめる時期がくる。まちがいなく、明治の薩長土肥の政治家がひどい国家をつくった、と糾弾されるだろう。

 明治政府が捏造した「維新美化の悪夢」から、もう冷めようよ。それが講演のメインテーマだった。


【関連情報】

 この講演がユーチューブに入っています。45分間じっくり聞いて、『明治維新は良い国家』という悪夢から目覚めてください。
仏教から神教へ「廃仏毀釈」

新・温故知新(5)=戦争責任~なぜ日清戦争が起きたか(上)

 過去をふり返ると、歴史のあれこれを批判したり、賛美したり、「結果論ならば」おもいのままに語ることができる。しかし、時代の渦中にいると、明日は判らないし、予測できない面ばかり。国内外には思いもかけない出来事も起こる。外交では、相手の動きもつねに推量しかわからない。

 当事者は苦渋の決断もあっただろう。それが裏目に出ることもあっただろう。
 しかし、いかなる理由があったとしても、戦争の最大の犠牲者は婦女子である。犠牲とは血を流し、飢えることである。
 2度と戦争を起こさないためにも、歴史から学ぶべきである。

 
 日本の歴史をふり返ると、明治政府はどうして軍事侵略の道を選んでしまったのか、と思う。德川政権が倒れたあと、明治新政府にはいくつかの選択肢があったはずなのに……。大きく分けて3つだろう。

① 「多少は貧しくても、質素倹約で、ひと様に迷惑をかけない」という平和・協調主義

② 「産業文化の拡大路線」という資本主義

③ 薩長閥が選んだ軍事強化の「富国強兵」という帝国主義。


 私たちは明治時代を「富国強兵」として美化して教わってきた。この熟語を分解すれば、「富国」とは国民からより高い税金を取ることである。「強兵」とはそのお金で軍備を拡張し、徴兵制で軍人をより多くすることである。
 つまり、高い税金を課して、大陸で武力侵略していく支配体制づくりだった。

 武士社会では『恥を知れ』ということばが、一般的に使われてきた。侵略とはひと様の(土地)ものを奪う、恥ずかしい『恥』の行為だ。「領土」を細分化すれば、殆どが一軒ずつの私有地から成り立っている。銃や刃物で脅して、ひと様がすんでいる土地や家屋を奪えば、泥棒といわれる。
 武士道が消えた明治時代から「恥も外聞もない」侵略戦争を推し進める人たちの政権になってしまったのだ。
 
 考えてみれば、明治政府のトップは、「攘夷」(外国人に対する無差別テロ)で伸してきた下級藩士たちが中心である。人を殺す攘夷思想だから、外国を敵として人を殺し合う戦争「勝った、勝った」の国粋主義は、当然の帰結だったのだろう。


「明治時代、日本が大陸に侵略しなければ、植民地になっていた」
 それはまやかしである。いまだに欺瞞の論理を信じている日本人は多い。

 徳川政権は開国(1854年)した後から、約14年間(1868年)にわたって、植民地になる気配などなかった。四半世紀にわたり、植民地になる兆候もなければ、德川幕府からは『征韓論』という侵略の施策などいちども出ていない。
 むしろ、この間に、輸出入の拡大、外国留学の推奨、外国技師を招きインフラを拡張する「産業文化の拡大路線」をめざしていた。まさに、文明開化の追求である。
 
 明治政府が新たに誕生したとき、厳密にいえば、「征韓論」はなかった。明治天皇が天地神明に誓約する「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が公卿や諸侯、民に示された。(1868年4月6日)。

  一  広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
  一  上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
  一  官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
  一  旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
  一  智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 このように、明治天皇の基本方針のなかに軍事侵略政策などなかった。
 
 すると、誰が戦争国家へと仕向けたのか。征韓論、朝鮮進出、日清戦争への布告へとかじ取りをした人たちだ。悲惨な広島・長崎まで続いた戦争責任が、明治初期の政治家にあるのだ。
 
 外国侵略とは、相手国に迷惑をかける『恥ずかしい国家』の行為である。
 現代の日本人はともすれば、「私たちは戦争を知らない世代だし、戦争責任もお門違いだ」、「もう過ぎたことだ、掘り返しても仕方ないだろう」、「過去のことは水に流す」、という発想などがある。
 
 ドイツの大統領や首脳たちは、常に『後の時代になって、過去を変えたり、過去に目を閉ざすものは、現代も盲目になる』という国民への呼びかけをしている。ナチスドイツによる大量虐殺という「恥」の面と真摯に向かい合っているのだ。
 ドイツ人気質、DNAの血を怖れているから、歴史からより学ぼうとしているのだ。
 

 江戸時代は公儀隠密が大名家の恥部をかぎまわっていた。隠しごとはばれ易かった。そして「いさぎよく認める・腹を斬る」という武士道の世界だった。

 現代の企業人は、偽証してでも、徹底して『負』を隠す。「政府も嘘をつくし、隠す」。現代人は隠されることに慣れてしまった。

  明治時代の為政者がつくった『日本が大陸に侵略しなければ、植民地になっていた』という歴史上の嘘すらも、現代人は疑わない。教科書はすべて正しいと信じる。これでは、「戦争って、こんなふうにして土壌ができるのだ」という戦争責任の原点が掘り起こせない。
 豊臣秀吉の大陸侵略のときも、明治時代も、日本は植民地になる要素などなかった。

「2度と戦争国家にしない」ためにも、日清戦争はなぜ起こったのか、と追及する必要がある。

 

                          【つづく】