歴史の旅・真実とロマンをもとめて

歴史の裏側から、真相が如実に見えてくる =  幕末ストーリーは明治時代につくられた

 新聞連載「妻女たちの幕末」が公明新聞で、8月1日から、スタートして、3カ月半が経過してきた。
 家斉の大御所時代、そして水野忠邦の「天保の改革」へと進んできた。この時代から、天明天保の飢饉という内憂、アヘン戦争のような外国からの脅威という外患、つまり「内憂外患」の時代になった。
 剛腕な水野忠邦を失脚させて、満25歳の阿部正弘を老中首座(現・内閣総理大臣)にさせたのが、大奥・上臈奥女中の姉小路である。彼女は彼女は公家の娘で、悧巧で頭脳明晰で、洞察力に優れていた。
 将軍家慶は重要な問題にたいして大奥・上臈奥女中の姉小路に判断を仰いでいる。つまり、彼女は将軍・家慶の政事代行であった。同時に、幕閣の人事、諸大名の養子・婚姻縁組なども、彼女が采配をふるう。たとえば、諸藩が次の藩主を決める際、姉小路の判断が与されていたのだ。

 阿部正弘の時代~ペリー来航・家慶死去まで、約10年間は『姉小路の時代』といえる。

 姉小路はバランス感覚が良い。彼女の独裁政権ともいえず、老中首座阿部正弘をうまく盛りあげている。二人三脚と称した方が正確かもしれない。
 
 

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 私が新聞連載「妻女たちの幕末」で、いまは主人公・姉小路の目で書いている。それだけに、幕末史のねつ造がよく見えてくる。下級藩士だった薩長の武士たちが、明治時代に入り、自分たちに都合よく幕末ストーリーを作ったか、それがよくわかる。

 上臈奥女中の姉小路の時代は、薩長閥の政治家にとって不都合なものが多い。むしろ、彼女の時代は教えてはならないものだ。
 
 その一つが徳川幕府がもっている海外情報量の膨大さだ。長崎出島の商館長(カピタン)が毎年、往復約90日間の道のりで、江戸にくる。そして「ヨーロッパおよびアジア情報」を報告する。情報提供がオランダがヨーロッパで唯一貿易を独占できる条件だった。幕府はそれら情報を期待している。
「鎖国とは盲目になることではない。より情報の密度を高めることだ」
 その江戸参府はなんと166回に及ぶ。
 オランダはキリスト教徒の国だ。商館長らオランダ人は長崎奉行所の官吏らの警護で、長崎を出発し門司へ、瀬戸内海は船便、大坂に上陸し、京都で所司代に会い、東海道、箱根を超えて江戸にでむく。どの宿場町も白人がくると、どこも大騒ぎだ。
  幕府はカピタンから詳細を聴き取りするので、かれらの滞在は約1カ月間である。日本橋・本石町の長崎屋に宿泊している。まいにち、江戸っ子が白人をみにくるのである。
 
 日本人の画家は写実主義で、美人画などもきれいに描く。北斎をはじめとして、多くの画家がオランダ人を描いている。実にリアルだ。

カピタン 長崎屋.jpg

 これらをなぜ教科書に載せて教えないのだろうか。
 いまだに中・高校生の歴史教科書には、幼稚園児が想像で描いたような、ペリー鬼顔を載せている。印象操作(プロパガンダ)もはなはだしい。

 狩野派の画家たちも任務で浦賀に行ってペリー提督を実写しているはずだ。それを教科書に載せる。徳川幕府の政権下で、オランダ人166回も江戸にきたとなると、日本人が黒船来航ではじめて白人を見て怖がった。おびえて、ペリー提督に蹂躙された、というストーリー建てのつじつまが合わなくなる。

                   ☆

 島津斉彬は藩主としてわずか6年間である。斉彬が領民にどんな良い政治ができたのか。明治以降に西郷・大久保が持ちあげに持ち上げて斉彬を名君に仕立てている。はなはだ疑問だ。西洋に通じていたとするが、幕府が持っている海外情報の質と比べると、足元にも及ばない。
 老中阿部正弘が斉彬の西洋知識を当てにしたという創作までしている。阿部正弘を小説にした取材経験からすれば、老中の阿部正弘にしろ、牧野忠雅にしろ、外様大名に海外知識を乞うなど、そんな事実などない。
 
さらに一橋派(慶喜を将軍跡継ぎ)のストーリーを作った。それが通説となり、安政時代には南紀派と一橋派が将軍継嗣で争う、という筋書きになる。しょせんは無意味な創作である。

 徳川将軍は誰にするか。歴代において権力をもった大奥の影響力がおおきかった。絶大なる権力をもっていた姉小路の時代に十四代将軍は慶福(のちの家茂)と決まっていた。
 かれは家慶の甥っ子で、家定のいとこ、嘉永2年(1849年)にわずか4歳で御三家の紀州藩主になった。

 嘉永5(1852)年に将軍家慶が、三河島の鷹狩に、一橋家の慶喜を連れて行こうとした(継嗣を決める行事)。ところが、姉小路と阿部正弘が、慶喜の鷹狩同行を断らせた。ここで慶喜の将軍継嗣はなくなった。慶福が6歳のときである。

 かえりみれば第7代将軍・徳川家継はわずか4歳で将軍になっている。それは新井白石の力によるものだ。姉小路は新井白石よりも影響力をもっていたと認識すれば、嘉永5年に慶福6歳で決着がついていた。7代将軍・徳川家継の事例から、別段、不思議ではなかったのだ。南紀派は余裕綽々だ。

 安政5年(1858年)安政大老・井伊直弼(彦根藩主)によって、抗争の末に継嗣問題が決着つけられてというのは、明治時代の創作(歴史捏造のプロパガンダ)は、島津斉彬をより大きくみせるための作為である。

 一橋家とは将軍の家門である。一橋家の家主として慶喜は自覚があり、嘉永5年の鷹狩に将軍に不同行で決着付いていると知っている。大奥に嫌われている親父が出てきて将軍家の相続で騒いでほしくなかったのだ。
 慶喜はまわりが騒がしいので、江戸城の井伊直弼に確認に行ったくらいだ。
「家茂と決まっている」
 と井伊に言われて
「そうだろう(将軍家慶がすでに決めている)」
 慶喜は納得して帰ってきているのだ。
 
 strong>なぜ紀州派とか、彦根派とかいわず、「南紀派」というのか。
 そこに回答がある。

 南紀の大物が嘉永時代にすでに大奥の姉小路、将軍家慶、老中首座・阿部正弘から、14代徳川将軍は幼い紀州藩主・慶福(よしとみ・のちに家茂)と取り付けていたからである。
 

新聞連載小説「妻女たちの幕末」 = 8月1日より開始

 今年度(2022年)8月1日より歴史小説「妻女たちの幕末」公明新聞で連載されます。
 現在は宮部みゆきさんの小説「三島屋変調百物語青瓜」が7月30日で終了し、そのあと穂高健一「妻女たちの幕末」がはじまります。むこう一年間(日祭日を除く)です。


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 これまで、私を含めて男性側の視点から歴史小説が書かれています。大別すれば、薩長史観&徳川史観という対立構造です。
  
 この世には男性と女性が半々いるし、対立もする。歴史は男だけで動かない。思い切って女性の視点から幕末史にチャレンジします。むろん、随所には男性の活躍も加わります。

「歴史は庶民がつくる』
 現在でも国会議員だけが歴史をつくっているなど、誰も考えていないでしょう。それなのに、歴史となると学術書も、小説も、為政者に偏っています。

 できごと、事件のとき組織の頂点にいだけでしょう。先頭に立つて采配をふるったとか、先見の目があったとか、英雄が創作された。おおむね単なる飾り物か、後世の美化でしょう。

 極限られた少人数の英雄たちだけで、千年もつづいてきた封建制度、および武家政権が短期間に都合よく消えるわけがない。

 そこにはおおきな民衆の力と渦巻く流れがあった。かれら民衆が、やがて徳川幕府を瓦解させた。その本質を忘れ得ずして、市民の目線も加えて展開していきます。


関連関連情報
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 ただし、私の連載小説は日曜日版の掲載がありません。

 

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (下)

 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争を教えず、アメリカの黒船が来航した際の、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔を載せる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。
 それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされている。

           *

 下級藩士による明治政府が、上級武士だった徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『幕府は西洋を知らず、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。まさに明治政府のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる7年前には、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米国大統領親書をもって来航している。

 ほかにも民間の捕鯨船マンハッタン号が日本人遭難者22人を人道的に浦賀に連れてきてくれている(弘化2年・1845年)。イギリスの測量軍艦、意外なところでデンマーク軍艦も江戸湾の入りまで来航している。

            *   

 嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に初来航したとき、交渉に臨んだ香山与力が、{ところで、あなた方の国のパナマ運河にそった地峡横断鉄道はもう完成しましたか」と質問しており、アメリカ側は日本の世界情報収集力におどろいたと記録している。

 このように、アジア(広東・シンガポールで)で発行されていた英字新聞の内容が、幕臣たちにまでも伝わっていたのだ。

 1852年9月28日の記事から、ワシントンでは、日本遠征計画の準備が熱心に続けられていると報じられている。
 当然、日本の幕閣は読んでいる。

 オランダからの別段風説書で、ペリー提督の日本遠征内容の詳細が伝えられた。
『......、最近の情報によりますと、北アメリカ合衆国は艦隊をだして、日本と交易を取結ばんと、御国(日本)へ参上すると申しています。合衆国より日本帝(将軍)へ使節を差しだし、アメリカ天徳(米国大統領)の書簡を奉り、かつ日本の漂流民を連れて参るそうです。

 この使節は、北アメリカの民間交易のために、日本の一つ二つの港に出入りを許されんことを願っています。かつ、また相応の港をもって、石炭の置き場と為す許しを得うて、カルフォニアと中国との間を往復する、蒸気船の用意に備えん、と欲しているとのことです」

北アメリカの軍船が、いま中国周辺の海にいるのは、次のとおりです。
 サスケハナ号    軍用蒸気フレガット船 
 サラトガ号      コルヘット船
 プリモウト号     コルヘット船
 シント、マリス号   コルヘット船
 ハンダリア号     コルヘット船

 上記の船は、アメリカ使節を江戸へ送るように命じられたそうです。また、最近の情報では、艦隊司令長はオーリックでしたが、ペルリと申すものと交代となり、前文の5隻の軍艦のほかに、なお次の軍艦を増加致すそうです。

ミスシシッピ号  蒸気船  指揮官ペルリはこの船で参るそうです
プリンセトウン号 蒸気船 
ペルリ号 ブリッキ船 
シュプリ号 輜重船

 新たな情報が加わり、陸軍の攻城の諸道具も積んでいるそうです。ただし、四月下旬以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聴いています(1852年情報)』

 こうした大規模な派兵だ。アメリカ海軍は陸軍部隊を乗せて、地球の裏側から1年がかりで日本にやってくる。

 阿部正弘はこのオランダ情報に対して、幕閣と対策を考える。
DSC_0509 福山会.jpg 『阿部正弘の末裔・阿部さんと』

「世界情勢をみれば、アジアの国々への列強の侵略がはじまっており、いまや異国船撃攘(げきじょう)の令を出して必勝を期することはできない。もう勝てぬのならば、敵がやってきて、強攻に追い払って負けるならば、恥辱となるだけだ。日本の小さな舟では異国の軍艦に対抗できないのみならず、江戸湾の出入り口をふさがれて、江戸近海の通商が断たれて、食糧欠乏に陥るのみである」
 軍艦を製造できる能力を得るまで、外国との戦争は無謀だと、非戦を決めていた。

 ところが後世学者たちの多く、一年前にオランダからペリー提督来航の情報がありながら、生かされていなかった無策の幕府だと批判する。
 批判のための批判だ。日米の武力の差は歴然としており、外交で勝敗を決する、と非戦を決めた阿部正弘に、学者はいった何をどうすれば、良かったというのだろうか。
 
 それは水戸藩の徳川斉昭の「攘夷論」を称賛し、攘夷論者がやが明治政府を樹立する立役者だったと展開する前ぶれのためだ。
これは七年前の斉昭の書簡にあったものだ。
「異国人と交渉すると見せかけ、白刃一閃(はくじんいっせん)、敵将の首を取り、乱入し、船も人も奪ってしまおうではないか。そうすれば、難問一挙に解決し、軍艦四隻も手に入る。一挙両得の名案だ。これでいこう」
 
 実際にペリー提督が来航すると、
「いまとなれば、(軍艦も作れない、大砲も鋳造できない)、打払いが良いとばかり言えない。衆議をつくして、ご決断せよ」
 これが徳川斉昭の生の声だった。

攘夷だ。外国人は徹底的にぶち殺せ」という過剰な攘夷論は、斉昭の名誉のために、あえて言及すれば、後世の学者のねつ造ではないだろうか。

              *
 
 1853年にクリミア戦争が勃発すると、戦争がアジアに拡大し、当事国の英仏露は軍艦や商船で、わが国の港にひんぱんに来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪を謀り、戦闘までしかけている。
 これには日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

           *
 
 2022年のロシアのウクライナ侵攻戦争が新聞、テレビ、映像などで日々に報じられている。
 いつぞやロシア潜水艦が北方四島近くで、ロケットの発射演習していた。ヨーロッパの戦争がさして遠い話ではない。わたしたちは無関心でいられない。

 嘉永6年、7年(安政元年)の日本人の武士、町人、農民を問わずクリミア戦争が最大の関心事だったにちがいない。幕府の対応をじっくりみていたと思う。

 結果として幕府はよくやった。わが国はクリミア戦争のさなか、地の利を得て、植民地にならず巨大国家の欧米3カ国と、ほぼ同時的に和親条約(平和条約)を結んだのだから。

 この認識に立てたのは、2022年ロシアのウクライナ侵攻戦争で、「歴史は自国の都合で流れない」という原点にもどれたからだ。ウクライナ侵攻があったから実に幕末の対外政策がリアルに理解できたのだ。

 こんにち日本の首相がウクライナ支援とか、経済制裁とか、石炭の輸入禁止とか、石油や駅がガスはどうするか、と世界を飛びまわっている。
 老中首座の阿部正弘も、英米仏露の戦艦がわが国に来航するたびに、現場対応の奉行から早馬がやってきて、内容を吟味し、幕閣と逐一対応を協議する。そして、現地に指示をする。おそらく休む暇もなかっただろう。

                *
 
私たちが1853年の黒船来航からの「幕末史」の書籍を手にしたとき、当時の重要なクリミア戦争が欠落していれば、その学者・作者には世界史観がまったくないか、重大なクリミア戦争という前提がない粗悪商品だ。

 言い方を変えれば、きよう新聞を見て、世界の政治・経済・燃料・食料問題が絡むロシアのウクライナ侵攻が1行も載っていないようなものだ。学術書といえども、既成の攘夷思想が正しいと刷り込まれた、薩長史観に感化された作品に違いない。歴史の中心・コアが欠落した、内容の希薄な、架空、想像で書かれた不良品だろう。
 私たち日本人は、これまでそんな類の幕末史に染められてきたのだ。


 『明治のプロパガンダ』とはなにか。
 いまも薩長史観で、1868年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっている。
 明治以降の日本人を悪くした原因は、権謀に富み、事実を隠蔽し、嘘で歴史を作り上げた薩長人の天下を取り成したことをいう。
 国民は騙されて、戦争国家の兵員として利用された。

 平成・令和の世でも、政治家らが重大な事実を隠し、公文書を隠蔽し、賄賂と癒着政治をおしすすめていても、時間が経てば国民が忘れるという思想が底流にある。これらは明治プロパガンダが未だに清浄されていないからである。、

                      (了)

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (中)

『1853年はなにが起きましたか』
 学校で問われれば、
「アメリカインド艦隊のペリー提督の黒船来航です」
 日本の学生のほとんどがそう応えるだろう。

 世界各地の学校教育の場で問えば、
「1853年は有名なクリミア戦争です」
 と答えるはずだ。
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 クリミア戦争とは1853年に勃発したイギリス・フランス・オスマントルコと、帝政ロシアが戦った戦争である。
 その起因は、ロシアが聖地エルサレムの管理権を要求して南下してきた。そこでイギリスがクリミア半島に出兵した。ここから起きたヨーロッパ最大級の大戦争である。
 それゆえに、『クリミア戦争』と呼称されている。

 イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心を抱いており、英仏の艦隊がロシア海軍を追撃しアジアまで侵攻してきたのだ。
 1853~56年の3年間にわたり、カムチャッカ半島で戦闘がおこなわれている。

 戦争は歴史的な領土問題、宗教問題、経済利権など、双方が自国の利を追及することで起きる。
『戦争はやらないで、外交で解決すべきだ』
 ひとたび
『戦争がはじまれば、勝つことだ』
 敗戦国となってしまえば、膨大な戦争債務を背負うとか、最悪は植民地になるとか、その差は子々孫々まで影響する。戦勝国の言いなりで、国民は悲惨なことになる。

 英仏露の艦隊はアジアで有利な戦いをするために、戦略面から兵站、食糧、燃料基地として日本の港の開国は喉から手が出るように欲しかったのだ。
 日本は立地的にも、戦略的にも、とてつもなく有利な立場になった。
            
 当時の日本は世界にたいしてブラインドを下ろしていない。老中首座・阿部正弘は、長崎奉行からオランダ出島・ジャワを通じて「わが国はクリミア戦争にたいして中立である」と世界に発信した。これは日本が孤立していたわけでもなく、世界の一員であるというメッセージである。

 日本史・教科書から『鎖国』という表現が近々に消えていく。「鎖国」は薩長史観の明治政府の御用学者の創りだしたものだからだ。
 日本人の海外渡航は将軍家光の時代から厳禁だったが、アジア(清国)・ヨーロッパ(オランダ)ともに貿易をおこなっていた。海外情報の収集にたいして実に熱心であった。
            *

 さかのぼれば、阿部正弘は老中首座になった弘和2(1845)年から、アジアの数か所(広東・シンガポール)で発行されている英字新聞を、貿易国・オランダに英語→蘭語に翻訳させて日本にもってこさせていた『別段風説書』。長崎と江戸では幕府の官吏が蘭語→日本語に直す。
 こうして欧米系の新聞内容が、日本語に翻訳されて幕府から徳川御三家・御三卿、親藩に伝えられた。
 一方、長崎の通詞(つうじ・翻訳者)が小遣い銭稼ぎとして、外様大名の長崎駐在員「聞き役」という役職に翻訳内容をながしていた。
 日本の多くの大名・重臣たちは世界の流れをむさぼり読んでいたのだ。

 当時の日本人は鎖国で何も海外情報を知らないというのは、あまりにも無謀な論理だ。だから、鎖国が教科書から消えるのだ。

 かりに高校2年の世界史の問題を、幕府関係者や諸大名に問えば、ナポレオン侵略、アメリカ独立戦争、スエズ運河の開削、イギリスフランスの海底ケーブル、産業革命など、充分に応えられるだろう。
 なにしろ、大名たちは別段風説書(英字新聞が原本)で、世界を知っているのだから。
 その証拠に、安政時代に開国すると、徳川幕府の幕臣たちは海外の予備知識が十二分にあるので、こぞって使節団をなんども出されている。鉄鋼・造船などの海外技術者らも現地で招聘してくる。

 歴史書では薩摩藩留学生19人や長州ファイブが取り上げられているが、幕臣らは数百人も渡航しているのだ。
 まるで薩摩・長州しか海外体験をしていない書き方だ。それ自体が抜本的に狂っているけれど。
 
DSC_0490 京都.jpg

 嘉永6(1853)年に話をもどすと、同年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチン提督が長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)も従えていた。
 英仏露米にとって『クリミア戦争』の勝敗にも影響するので、イギリス、フランスの軍艦もゾクゾクやってくる。
 日本の歴史書はまるでペリー艦隊だけが、ふいに日本に来航してきたようなねつ造をしている。大違いである。

            *

 ペリー提督、プチャーチン提督の2カ国はともに国書を受理するが、来年返答するから、1年後にまた来てくれ、と伝えて艦隊を去らせている。
 日本とすれば、自国の体制におおきな影響をするので、即決せず、アメリカ、オランダの言い分を熟慮検討する必要があって、1年の猶予は当然である。
 これこそ幕府の余裕である。

 ペリー提督が持参したアメリカ国書のなかで、難破船の船員が日本で虐待されていると記している。アメリカ捕鯨船の難破した船員虐待は事実無根だと突っぱねた。
 日米和親条約は、かれらの要求する通商を認めなかった。
 その実、条文の内容は、『薪水給与条例』を和親条約に変えたていどだった。

 ......天保13(1842)年に、当時の老中首座・水野忠邦が、オランダを介して世界に発布した『薪水給与条例』(しんすいきゅうよ じょうれい)がある。
 それは遭難船の入国はいずれの港も認める。そして薪と水と食料を提供するという博愛主義的な内容だった。
 日米和親条約は、遭難船でなくとも、米国船(主に捕鯨船)が指定する伊豆下田、箱館港に入れば、合法的に薪、水、食糧を提供する。ただし船員の休暇目的の場合、決められた数里の範囲しか行動できないものとする。

            * 
 
 おなじ嘉永7(1854)年に、イギリス艦隊が長崎港に入港してきた。(外交交渉の船は長崎に自由に寄港できた・決して鎖国ではない)。
 英国艦隊司令・スターリングは、イギリス軍艦の燃料・食料の供給基地として、長崎港と函館港の利用をもとめた。

「貴国がこの場でアメリカと同一の条文で、和親(平和)条約を結ぶならば、2か所の港は利用させる。条約を結ばずして、貴国の軍艦が長崎・函館に立ち寄る行為はいっさい断る。わが国はクリミア戦争に中立であると、すでに世界に通達している」
 長崎奉行は高飛車な姿勢をつらぬいた。

 艦隊司令スターリングは、日本側の条件を受け入れた。
 ここで怒ったのが、東洋全域を管轄するイギリス香港総督である、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港においたて日本の法律に従うと明記されている。これはイギリス政府と国民にたいする屈辱の条約である」
 と破棄の添え書きをつけて、本国政府にその締結内容を送ったのだ。

 イギリス国会は、クリミア戦争に勝つことが最優先だ、日本の港が利用できるメリットは大きいとスターリングが言っているのだからと言い、日英和親条約を批准してしまったのだ。

 アヘン戦争における清国の立場と比べると、わが国の優位性は雲泥の差である。

 その翌年は元号が嘉永から安政に変わる。敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場から、「日露和親条約」をむすんだ。かれらが民俗学的にもロシア系アイヌ人の領地だと主張する択捉島・国後島を日本領土としたのだ。

 現代のロシアは、クリミア戦争当時の弱り目・祟り目の条約で、北方四島が日本に奪われた、という意識なのだ。ただ、ニコライ1世が批准した条約だから、戦時の無効だと言いだし得ない。歯ぎしりしているのだ。

 このようにクリミア戦争は、日本にとって実に有利な風が吹いたのだ。米、英、露という大国の3カ国と、ほぼ同時的に和親=平和条約を結べたのだ。

                             【つづく】

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (上)

銀閣寺 ①.jpg 歴史は自国の都合だけでうごかない。かならず世界情勢および隣国との関係で政治・経済・文化は連動して推移していく。
 2022年のロシア(プーチン大統領下で)、ウクライナ侵略がなされた。全世界が驚愕し、世界中の人々が、この先どうなるのか、と案じた。
 ある人は戦略核が使用されるのではないか。あるいは第3次世界大戦にまで拡大するのではないか。ロシア・ウクライナの小麦を中心とした穀物輸出の大幅に減り、アフリカなど食糧飢饉になるのではないか。あるいは餓死の悲惨な状況に陥ってしまうのではないか。

 日本においても、ウクライナ侵略に触発されて、中国が「一つの中国を掲げ、台湾に侵攻し、日本も、その戦争にまきこ乗れるのではないか」と案じた人たちがとてつもなく多い。
 中国・台湾が戦争になれば、米軍の出動が沖縄からになる。中国は敵基地攻撃で沖縄を攻撃する。日米安保は軍事同盟だから、あるていどの覚悟が必要だ。

 沖縄を守るために、今の自衛隊員だけで日本防衛ができるのか。日本の成人男子は戦闘要員として与しないと、またたくまに兵員不足で惨敗するだろう。
 これはGNPの軍事予算比の問題でなく、「60歳まで徴兵制で、日々の厳しい野戦軍事訓練で、戦場らおもむいては命を賭せますか」という、あなたへの問いかけになっている。
DSC_0440 銀閣寺 ②.jpg
              *
 このようにヨーロッパ大陸のロシア・ウクライナの2カ国の戦争が、またたく間にアジアに波及し、日本への影響、庶民の暮らしに跳ね返ってくる。むろんきょう現在も石油や食糧の不足から、物価は高騰し、日常生活にまで直結して影響している。

『歴史は自国の都合だけでうごかない』という格言が、2022年2月のロシアウクライナ侵攻で、得られた実感である。

               *

 明治以降に編纂された幕末史が、いかに大嘘だったかと、白日の下に晒されている。政府や学者や歴史作家は、裏を返せば、いかに嘘の幕末史で国民をだましてきたと、それが実証された。

 さかのぼると約170年前、現在のロシア・ウクライナ侵攻とまったく同じことがヨーロッパで起きたのだ。それが1853年の世界史でも最大級に有名なクリミア戦争である。
「野戦のナイチンゲールが活躍で有名な戦争ですよ」
 といえば、ああ、なんとなく解る、という方も多いだろう。
 それほど有名な戦争である。
                             【つづく】 
 

 

クリミヤ戦争 = 黒船来航 =  北方四島 =  ウクライナ侵攻 ②

 日本人の特徴は、「過ぎたことは水にながす」である。これは木の文化(燃れば、きれいさっぱりなくなる)だからであろう。
 かたや、西洋の特徴は長い歴史の上に現在がある、という考え方である。これは風化しない石の文化である。もめ事も風化しない、恨みもいつまでも忘れない。だから、同質の戦争がくり返しがおこなわれる。
 
 欧州と日本の違い。それは木の文化と意志の文化の違いである。

 西洋の戦争でいえば、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島、紀元前からの中近東の不安定な対立がつづく宗教戦争であったり、国境・領有権の争いであったり、十字軍からの未解決問題が、いまだに歴史的に解決できない争いとなり、なにかの拍子に火を噴く、これが周辺国も巻き込み、連鎖して拡大して大戦争にまでおよぶ。

  日本人的に一口いえば、いつまでも西洋の戦争は執念深いのである。

             *

 執念深い西洋は、日本と戦争をどう見ているのだろうか。
『ヨーロッパが戦争のさなかに、アジアから目を離せば、日本は抜け駆けで領土を奪う国家である。油断もスキもない」
 これがほぼ共通認識だろう。

 第一次世界大戦のさなか、日英同盟を口実にして、日本軍はドイツ領・青島に奇襲攻撃をかけた。そして山東半島のドイツの利権と南太平洋の島々を奪い取った。目が離せない。青島攻撃.jpg
青島の攻撃 大正3(1914)年10月31日 ~ 11月7日

 イギリスは欧米諸国から反発されて、ワシントン条約で「日英同盟」の破棄になった。裏を返せば、欧米諸国からイギリスは圧力をかけられ、明治時代に結んだ条約を破棄させられたのだ。

 第二次大戦でも、
 ナチスドイツがポーランドに侵攻した、すると、日独伊軍事同盟にもとづいて、日本は突如として仏領のインドネシアに侵攻し、石油資源などを奪い取った。さらに捕虜の英仏兵を虐待した。

 これが戦争犯罪だとみなされた日本軍将校は、太平洋戦争の終戦のあと、B級C級犯罪者として裁かれたのである。

             *

 木の文化の日本は、太平洋戦争から77年も経っている。日本人のほとんどは過去の出来事だと思っている。
 西洋は石の文化である。17世紀以降の歴史は近現在なのだ。だから100年、200年はまだ自分たちの歴史のなかにあるのだ。

  このたび(2022年2月)のロシアがウクライナにに軍事侵攻をおこなった。ロシアの動きをみていると、『ヨーロッパが戦争に突入すると、アジアから目が離れる。日本は抜け駆けの戦争を仕掛けてくる』という固定観念が色濃く出ている。
 ウクライナ侵攻の直後から、極東ロシアによく現れている。ロシア海軍が北方四島、日本海での軍事演習を行っている。軍事演習とは軍事的に日本を威嚇しているのだ。

 かれらはきっと日本の自衛隊が北方四島に上陸・侵攻し、日米安保条約の下に米軍の支援をもとめて居座り続けるだろう、とロシアは本気で真剣に考えているのだろう。
 歴史をみれば、日本のシベリア出兵もある。
シベリア出兵.jpg
 大正7(1918)年には、ロシア革命に干渉するため、日本はシベリアに軍隊を送った。米・英・仏が撤兵したのちも、日本は駐留をつづけた。国内外の非難により1922年に撤兵している。
               *
  
 ロシアがウクライナに簡単に勝利できず、苦戦しているならば、極東の陸海軍をウクライナに回せば、それなりに有利な展開はできるだろうに。
 日本人の大半は戦争解決など望んでいないし、この機会に北方領土を攻めよ、という国論などない。ところが、
「日本はシベリア、千島列島が手薄になれば、何をしでかすかわからない」
 ロシアの警戒心がゆるまないのだ。
 
 日本政府は「北方四島はわが国の固有領土だ」と主張する。固有領土。このことばは実に危険な用語だ。長い歴史のなかで、いつから固有領土なのか。それに応えられる日本人は少ない。政府の受け売りだ。
 領土問題は微妙なだけに、客観的に公平に吟味しておかないと、双方の交渉のテーブルは常にかみ合わず、挙句の果てには「武力で盗られた領土は武力で解決する」という、剛腕なナショナリストの為政者が出かねない。
 ウクライナ侵攻のあと、ロシアが平和条約交渉の破棄を伝えてきた。これを契機に、日本側はしっかりした歴史認識をもつ必要がある。
 次回はそれについて深堀をしてみたいい。
                      『つづく』
 

                  『つづく』   

クリミヤ戦争 = 黒船来航 =  北方四島 =  ウクライナ侵攻 ①

 あなたは、「1853年」と聞いて、なにを思われますか。
「クリミア戦争と黒船来航の年です」と答えられば、日本史と世界史に精通している方です。

 わが国の歴史教育といえば、嘉永6(1853)年6月に、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が浦賀に来航した。わが国は開国か、攘夷か、と国内対立が起こた、としっかり教える。
ペリー提督.png 最近の教科書から消えだが、明治10年に読まれた狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず」とか、鬼の顔のようなペリー提督の顔を教科書に載せて、日本人がはじめてアメリカ人に接し、恐れ、慄いたと教えられていた。

それはバカバカしいほど歴史的矛盾である。まさに、下級武士を主体とした明治政府が自分たちを大きく見せたくて、故意に江戸幕府を陥れるプロパガンダ教育だった。「ペリーの砲弾外交に蹂躙(じゅうりん)されて、おろおろ開国した」と刷り込んだのである。

 この歴史をわい曲したプロパガンダ教育は、最近は批判されつつあるが、少なくとも、明治、大正、昭和、太平洋戦争まで軍国少年づくりに使われたし、平成においても未だ私たちは偽りを教え込まれてきたのだ。

 教科書の嘘にたいして国民は実に弱いものだ。小・中・高生は歴史的事実としてうのみに信じなければならないのだから。

               * 

 嘉永6年に話しをもどせば、同年7月にロシア海軍のプチャーチン提督が長崎に来航し、開国をもとめた。ペリー提督も、プチャーチンも、米・露ともに黒船(蒸気船)と帆船であった。
 
 この1853年のクリミア戦争はナイチンゲールが活躍したことでも有名である。わが国の幕末は、世界の動き(戦争)とリンクしている。歴史は自国の都合だけで動かない。

プチャーチン.jpg プチャーチンが2度目に来航したのが翌年(元号がかわり安政元年)の下田港だつた。なおクリミア戦争のさなかだった。そこで日露和親条約がむすばれた。
 百数十年にわたり、蝦夷地、千島列島、樺太の国境が不明瞭であり、双方が武力のいざこざが起きてきていた。そこで、日露和親条約をもって択捉、国後は日本領であり、クルルからきたの千島列島はロシアと決めた。樺太は線引きせず、双方が共同管理で使うと決められた。

 ここまでの学校教育が正確におこなわれていたならば、2022年2月に勃発したロシアのウクライナ武力侵攻戦争は、日露でも無縁でないと理解できるだろう。

              *  

 ロシア国防省がことし5月から、ロシア太平洋艦隊が日本海で、新型対潜水艦ミサイルの発射演習をくりかえし実施している。ロシアは海軍力がさして強くない。それだけに同国としては規模が大きい。
 ふつうに考えれば、日本海・千島列島近くで、ロシアは軍事演習などしないで、黒海ににまわし、ウクライナ・クリミア半島の海軍力強化につなげればよいのに、とおもってしまう。ましてや、黒海で旗艦・モスクワが沈没させられたのだから。北海道のまわりで、巡行ミサイルなど飛ばしていないで。

 ロシアが単に日本の対露経済制裁を強化する日本に反発している面だけでないし、歴史的な日露戦争までさかのぼっている領土問題があるのだ。

                             《つづく》

賀正 : 徳川慶喜将軍の正式な官位はご存知ですか = これにはおどろいたな

 明けましておめでとうございます

 ここのところ、歴史小説の中編(400字詰め換算80枚)に没頭しており、年末の大掃除も、除夜の鐘も、さらに初詣もいけなかった。家庭内で、あれこれ用事を言いつけられるたびに、
「予定よりも遅筆になってしまった。ほんとうは大晦日を待たず、原稿を仕上げて入稿する予定だったんだ」
「毎年じゃないの。よその御主人は、年末いろいろ手伝ってくれているというのに」
「結婚を決めるまえに、相手を選ぶ目がなかったんだな。それは自業自得というもの。それに男運がないんだよ。あきらめが肝心だ」
 そんな軽口をたたいている間にも、日本ペンクラブ(以下・PEN)の有志による文藝誌『川』の締切りが刻々と近づいてくる。
 2022.1.6.001 川.jpg全員がプロ作家だし、編集長も元大物だ。週刊誌なみに締切りは厳守だ。次号に回されると、3~4か月先だ。

『商業誌は売れるものしか書かしてくれない。それは商品で、文藝とはいわない。むかしの文学同人誌・白樺派(志賀直哉・PEN3代目会長)のように本物の文学を目指そう』
 作品の筆者は印税、原稿料はナシ。その上、一人50,000円を出す。
「自費出版かよ」
 本は50冊/一人の割り振りだ。
「定価1,000円をつけているから、自分で手売りして、ちゃらにして。生活費は別の出版社で稼いで」
 発起人(小中陽太郎・元PEN専務理事)のムシの良い話からスタートとした。
「どうせ、3号で、廃刊だ」
 だれもがそう信じていたし、私もお付き合いだと思い、創刊号から仲間に入っていた。初期の合評会はいつも、これで最後のような打上会の雰囲気だった。酔いが回ったところで、世話人(高橋氏・純文作家)はやや呂律がまわらず、勢いから、
「次回も、だそうか」
 また50,000円取られて書くのか。中村氏(早稲田大を除籍になり、なぜか皇室のいく大学卒)がそう声を張り上げながらも、今回の8号まで来ている。
「うれしい誤算だったよな。『川』に書きたいという希望者が増えてきているし。女性も含めて。この調子だと10号まで行くよ」
 世話人がおどろくくらいだ。裏を返せば、プロ作家がいかに商業誌でなく、自費でも本物の文学を志向しているかだろう。
 また、本気で書き、気合が入っているし、内容が充実しているから、定価1,000円は高すぎるという苦情もきていないようだ。

 私はこんかい福地源一郎を取りあげた。明治初期の大物記者である。個人的には、かれの反骨精神が好きだ。

【タイトルは・ネタバレするので割愛】
 書き出しは下記のとおりです。

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 甲板の手すりに寄りかかるジャーナリストの福地(ふくち)源一郎は、すでに三十歳になっていた。旧幕臣だった福地は、日本人にしてはめずらしい洋装である。出港まえから、デッキの上で、かれは乗客の話題にも聞き耳を立てていた。
 2022.1.5.001fukuchi.jpg「薩長の役人たら、江戸(いまは東京・トウケイ)で、悪口を言いたい放題じゃない。口惜しいったら、ありゃしない」
 和装の女性がそう語る。
「鳥羽伏見の戦いで、四日目に慶喜公が逃げて江戸に帰ってきたから、幕府軍が総崩れになった、と言っておる。だから、愚公(ぐこう)な将軍だと吹聴(ふいちょう)しておる」
「薩長の政治家のいうことはホラが多いし。おなじことを百回も聞かされたら、嘘もほんとうになるというし」
「そもそも、慶喜公が大政奉還で、なぜ二百六十年もつづいた政権なのに投げだしたのか。かわら版を読んでも、それがよくわからない」
 紋付姿の男がはなす。
 永代橋のたもとで、横浜への蒸気外輪客船が、朝九時の出航の銅鑼(どら)を鳴らした。腹にひびく音だった。船尾の日章旗が、十二月の風ではためいている。
 東京と横浜をむすぶ航路を開設させたのは、徳川幕府で、慶応三(一八六七)年一〇月だった。稲川丸が初就航した。ことし(明治三年)は、あらたに横須賀製鉄所で建造された二五〇トン・四〇馬力の木造外輪船が加わったのだ。
 上等席は金三分、並みは金二分だった。
「太政官の役人は威張(いば)りくさって、文字はもろくに読めやしないで。あんなのが天下を取ったなんて、世も末ね。慶喜(ケイキ)さん、なんで頑張れなかったのかしらね」
 この夫婦は身なりからして豪商らしく、横浜の海外貿易で財産を成したのだろう。
 両腕をくむ福地は、記事ネタの生の声として、頭のなかに書き込んでいた。最近は、これに類似した話題が多く耳に入ってくる。
「おおきな徳川幕府が倒れるなど、だれも考えておらなかった。まさか、だったな。十五代慶喜将軍は水戸老公の息子のなかで、一番頭がよくて、回転が速く、家康の再来(さいらい)だとか言われていたんだろう。いまでは幕府をつぶした愚か者だと、江戸っ子からも、わしらの幕府をつぶしたと、焼けくそで、悪口がでるようになった」
 夫婦の話は出帆しても、つづいていた。
 福地の耳は夫妻に、目は頭上の飛ぶ白いカモメを追う。中央の煙突から、黒い煙が青空に舞い上がり、十二月の潮風のなかで消えていく。ガタゴトと両輪の音がおおきくなった。船脚が早まってきた。
 福地源一郎は旧幕臣だけに、自分にもやりきれなさがあった。
 この福地はどんな人物なのか。文久元(一八六一)年に文久遣欧((ぶんきゅうけんおう)使節団の通訳として参加した。慶応元(一八六五)年にも、ふたたび幕府の使節団として欧州に出むた。かれはロンドン、パリで発行されている新聞にふかい興味をよせた。さらに西洋の演劇や文化にも関心をむけた。
 慶応三年十月の大政奉還をきいた福地は、幕府の将来に見切りをつけ、ジャーナリストに転向した。そして、慶応四年閏四月、江戸が東京になる直前だった、『江湖新聞(こうこしんぶん)』を創刊した。翌月には上野戦争がおきている。
 福地は明治新政府にたいして辛辣(しんらつ)な批判記事をつづけざまに掲載した。
『明治政府は良い政権だというが、徳川幕府が倒れて、ただ薩長を中心とした幕府が生まれただけだ』
 これら記事が明治政府の怒りを買った。『江湖新聞』は発禁処分になり、福地は逮捕された。明治初の言論弾圧事件である。
 参議の木戸孝允(たかよし)がとりなして、江湖新聞は廃刊にする条件で、福地は獄から放免となった。
 
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 ※ 福地源一郎の関連資料を読むさなか、徳川第15代慶喜将軍の官位がありました。とても珍しいので、紹介します。

『従一位太政大臣近衛大将 右馬寮御監淳和奨学両院別当 源氏長者征夷大将軍』 
  おぼえられますか。それ以前に読めるでしょうか。

「じゅういちい だじょうだいじん このえたいしょう うめのりょうぎょかんじゅんな しょうがくりょういんべっとう げんじのちょうじゃ せいいたいしょうぐん」

  官位ご昇進の式で、朝廷から賜る将軍の宣下(せんげ)です。

2022.1.5.002fukuchi.jpg 慶喜は当時としては長寿です。大正2(1913)年11月22日で亡くなりました。戒名は御存じでしょうか。
 大僧正から授与された立派な長い長い戒名だろうな、さぞかし。ところが慶喜は神式による葬祭なので戒名がないのです。

 ちなみに、慶喜は上野戦争前に東叡山寛永寺で謹慎しました。しかし、死後は同寺の歴代将軍の区画墓地に入れてもらえません。なぜならば、神式で、仏教徒ではないからです。
 すぐちかくの谷中墓地に、慶喜の墓が前方後円墳に模して埋葬されています。
「これだと、仏教のお寺に入れてくれないな」
 と納得できます。
 
 戊辰戦争を戦わなかった慶喜は『天皇(当時は幼帝)に弓を引かない』という「恭順謹慎」の態度で、江戸城を無血開城します。天皇陵のような前方後円墳の墓をみれば、慶喜が皇室の血だとわかります。
 かれの実母は日本の皇族であり、織仁親王第12吉子女王(よしこじょおう)です。慶喜は七男です。

 歴史は物語風に、勝者に都合よく造られています。このたびの福地源一郎を使った《川》の作品はそれがテーマになっています。

 薩長史観の小説は、とかく慶喜がまるで天皇の敵、尊皇思想の西郷隆盛などが追討令を盾に「慶喜を殺す」と口にしたかのような描かれ方です。イギリスのパークス公使が「先の慶喜将軍の刑死は認めない。ナポレオン一世すら殺されなかった」と新政府軍に殺害を止めさせたとか。

 慶喜は皇室の正統な血筋であり、静寛院・和宮とともに、はじめから殺害などできない高貴な存在なのです。

                      了
 
        
 

 

 

幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組=あだち区民大学塾で講演

 足立区郷土博物館で、区制80周年の記念事業の一環として、令和2年11月29日から令和3年2月23日まで、文化遺産調査特別展『名家のかがやき』が開催された。
 穂高健一著「紅紫の館」(令和3年2月)が発刊された。
「あだち区民大学塾」において、2つの題材を基に講演会が企画されました。

 講演会の主題『幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組』で、10月2日(土)、同月23日(土)、同31日(日)の3回にわたり開催されました。

 講師は3回とも異なり、午後2時~4時であった。

足立講演会.jpg
 第1回は小説「紅紫の館」の作者として穂高健一である
 足立で農家(新田開発)と武士(江戸城の北東部の守り)の両面の役割を担った郷士・日比谷健次郎の活躍を紹介した。


 おなじ武蔵の国の郷士でも、幕末に日野周辺の八王子千人同心から近藤勇、土方歳三などが京都に挙がった新撰組(当初は浪士組)が名高い。
 しかし、武蔵国・足立区においても、千葉道場の免許皆伝者の日比谷健次郎は、内密御用家として江戸防衛に徹し、おおいなる活躍をした。

 なぜ桜田門の変が起きたか、まずはそこから話をすすめた。そして、大政奉還、鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が江戸城を無血で開城したのに、なぜ薩長主体の新政府軍が上野戦争を仕掛けたのか。
 
 それは上野の東叡山寛永寺の貫主・輪王寺宮(りんのうじのみや)が東武天皇に君臨する動きがあったからである。

 京都に眼をむけると、父の孝明天皇が崩御すると、幼帝・睦仁(むつひと)が満14歳で践祚(せんそ)した。ただ、即位の礼を執り行っておらず、天皇ではない。
 ところが、薩長は幼帝・睦仁がさも天皇のごとく好き勝手に扱っている。君側の奸(くんそくのかん)だと、旧幕府が強い反発を抱いていた。(この段階で明治天皇とするが間違いである。会津戦争が終わる寸前まで、幼帝の睦仁殿下である)

 かたや、輪王寺宮能久(よしひさ)は二十歳であり、孝明天皇の義弟ある。天皇になる資格は十二分にある。
 
 奥羽越列藩同盟に呼応して輪王寺宮が天皇になれば、日本に二人の天皇ができる。まさに南北朝時代の再来で、東西朝時代になる。


 新政府軍はあらゆる面で不都合であり、輪王寺宮の抹殺を謀った。そして、やらなくてもよい流血の上野戦争を仕掛けた。
 足立郷士の日比谷健次郎が輪王寺宮の救出に関わった。成功すると、輪王寺宮は榎本武揚海軍の軍艦で奥州へ渡った。そして、仙台藩、会津藩の盟主になった。


 戦争は軍資金がないとできない。上野戦争の前に、「徳川の知能」といわれた旗本・松平太郎が金座、銀座、銅座から百万両余りをもちだす。それを日比谷健次郎が手助けをした。小判と銅銭が新撰組の土方歳三、伝習隊を率いる大鳥圭介など旧幕府軍の軍事費となった。


 幕末から埋蔵金の伝説があり、小栗上野介忠順が江戸城から運び出したという見方が流れていた。その実、運びだした人物は松平太郎である。江戸城が無血開城されたとき、城内の金庫は空であった。新政府側の多くの証言から、それは事実である。


 つけ加えれば、さらにその前の「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城(華城)から慶喜が東帰した直後から、3日間にわたり、榎本武揚の幕府海軍が金銀をすっかり運びだしていた。
 慶喜から戦場を一任されていた大目付・永井尚志(三島由紀夫の曽祖父)が指図し、全軍を江戸への撤兵と、旗本の妻木頼矩(よりのり・目付)には大坂城を長州藩に引き渡しする当日、城の火薬庫を自爆させたのだ。大爆発で、華城は全焼した。新政府は得られる金品がなかった。

 旧幕府には知恵者の人材が豊富だった。大坂城と江戸城の金庫はともに空っぽだった。
 新政府は結果として、資金豊富な旧幕府軍と戦う羽目になってしまった。松平太郎の運びだした資金で奥州戦争、榎本武揚が大坂から軍艦で持ち去った軍資金で函館戦争を戦う。

 かたや、新政府にはまったく金がなかった。戊辰戦争に参戦した西側の諸藩は、戦費がもらえず、薩摩藩、広島藩、土佐藩、福岡藩など、大規模な藩がこぞって贋金づくりに精を出したのだ。日本経済が破綻寸前にまで落ちた。
 
 戊辰戦争が終わると、明治新政府は満足な通貨ももてない赤字財政苦からはじまった。近代化を謳っても金貨がなければ、外国があいてにしてくれない。資本主義とはなにかもわからない。
 最悪はこのさきアジア諸国のように半植民地である。


 当時、西洋式の財務諸事情と資本主義に明るいのは、パリ帰りの渋沢栄一である。かれの上司は徳川慶喜である。新政府は窮地から大蔵省の出仕をもとめざるを得なくなったのだ。
「上様を惨めな朝敵にした新政府だ。断る」
 渋沢は強く拒否した。静岡で謹慎中の慶喜から、
「新しい国家をつくるためだ。もう敵も味方もない、大蔵省に出向きなさい」
 と渋沢は諭されたのである

 ここらを2時間にわたって語った。

         *  

 第2回は日比谷家の子孫である歯科医師の日比谷二朗さんで3.>

足立区の日比谷家の屋敷や数々の文化財について紹介がなされた。特に屋敷・甲冑・雛人形・狩野派の絵画・独語辞典「和独対訳辞林」について。

         *

 第3回は足立区立郷土博物館学芸員の多田文夫さんである。

 新田開発や残された文化財から、日比谷家に止まらず、幕末の足立の郷士は文化の担い手として狩野派の絵画を伝えるなど、文化的にも経済的にも極めて豊かな状況であったことが説明された。


「楽学の会」事務局の糸井史郎さんは、3人の講師による講演会は期待以上の評価が得られました。足立区の江戸時代の文化水準が非常に高かったことを足立区民の方々に知って頂くことができました、と語った。

広島藩「大政奉還建白書」をやっと見つけた = 慶応3年10月6日、十五代将軍・徳川慶喜に提出。 土佐藩に新たな疑問か

 広島藩が提出した「大政奉還の建白書」がやっと見つかりました。約7年かかりました。原文どうりです。現代語訳にして、お使いください。


 芸藩主・松平安芸守(浅野茂長)が、辻将曹をして建白書を板倉伊賀守(勝静)に呈出せしむ。
『兵庫開港・防長処置の儀につきては、すでにご布告の趣もあり、いまさら建議すべきこともなけれども、再三言上せるがごとく、1日も早くご裁許あらんことを、切望の情に堪えず。
 熟(つらつ)ら天下の大勢を考えるに、甲是・乙非、物情背馳し、漸く済(すく)ふべからざる世態に逼迫せり、その原因はもとより一言・半句にて悉(つく)さるべきにあらねど、畢竟大義・名分・明ならずして、国体壊頽せるより起りたれば、いたずらに枝末の些務(さむ)にのみご注目ありて、大本にご反省なくば、木によりて魚を求るがごとく、何事も徒労に属して、時運ご挽回の期あるべからず。
 そもそも我が邦は万国に卓絶し、終古一姓にして、君臣の大義儼(げん)として存するが故、この自然の至理に基き、大義を明にし名分を正し、政柄を朝廷に帰し奉り、公平灑脱(しゃだつ)、天下群辟(ぐんへき)とともに、九重の上に於て万機をご献替あらせられ、いささかも矯勅の嫌(きらい)・壅塞の疑(うたすがい)なきよう、ご反省の実跡を立てられるべきなり。
 事ここに至りてなお旧轍を踏ませられては、内外の不都合を醸(かも)し、遂に滔天(とうてん)の禍害を引き起こして、烈祖のご遺志も泡滅せんかと、深く痛心の情に堪えず、なにとぞご熟慮ありて、ご決断あらんことを願ひ奉る』  徳川慶喜公伝四より

               ※「御」→「ご」もしくは「お」で読みやすくしています。


『補足』

① 後藤象二郎が同年十月三日に神山左多衛とともに板倉伊賀守(勝静)に謁し、山内容堂の建白書を呈出せり。

② 丁卯日記所載 → 板倉伊賀守が慶応三年十月十日付にて松平大蔵大輔に与ふる書簡に、「四日別紙写しの通り建白書差出」とあるのは不審である、と記す。「徳川慶喜公伝四より」。

 想像するに、明治30年代に、渋沢栄一の勧めで自伝に取り組んだ慶喜とすれば、①の山内容堂の名で、後藤象二郎が建白書を提出したと明確に覚えている。
 しかし、翌4日に寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛たち四人の家臣の連署で提出とは箇条書かつ具体的で、はなしができすぎていると考え、ヒアリングした歴史学者に②「不審である。」としたのだろう。


 薩長土肥による倒幕が成功した明治時代に入ってから、土佐藩関係者たちが「(倒幕をまったく考えていない)山内容堂による大政奉還の建白書」があまりに薄ぺらい内容だから、ねつ造したのかもしれない。

 大政奉還が箇条書かつ具体的な理由は、薩摩藩・家老の小松帯刀の口頭での建白だった。

 慶応4年2月、慶喜は上野寛永寺に謹慎した。水戸藩に移るまえに不都合が生じるので、日記はすべて焼却したと記している。よって、渋沢栄一立会いの下で、「丁卯日記」をみせられた慶喜の記憶による確認である。


             *

 このさき歴史家、幕末史愛好者たちが、慶喜の「不審である。」を掘り下げてみると、新発見があるかもしれない。坂本龍馬の「船中八策」が嘘だったように。

「四日別紙写しの通り建白書差出」の原本は国立国会図書館のアーカイブでみられます。