歴史の旅・真実とロマンをもとめて

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(上)

《再掲載の理由》
 2020年5月9日にRCC(中国放送)ラジオで、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」で放送されたものです。
 このたび、葛飾区立図書館から今年7月に『渋沢栄一と一ツ橋家』(2時間)の講演依頼が寄せられました。館長がこのHP 『日本の経済・文化が変わる=渋沢栄一からヒントを得る』を読まれたそうです。
 現在、NHK大河ドラマ「青天を衝く」で、渋沢沢栄一が放映されています。視聴者にも、参考になるかと思い、再掲載しました。


【本文】

 新型コロナウイルスの感染拡大で、日本中の経済・文化・学術活動が思いもかけず急ブレーキがかかった。ここ2~3か月間は外国への往来の航空機も、物流の船舶も止まった。経済活動があらゆるところで停止した。
 経済が動かなければ、世のなかは沈んだ状態になる。多くのひとは「お金(紙幣)」の重要性が身に染みている。
 全国民に1人当たり10万円の支給と言い、一万円札が10枚並んで大写しになる。その肖像画はいま福沢諭吉である。2024年から渋沢栄一に変わる。
 福川諭吉といえば多くが知る思想家であり、慶應義塾大学の創設者、「学問のすすめ」と矢つぎばやに答が出てくる。
 しかし、渋沢栄一となると、「日本の資本主義の父」という概念くらいで、かれの具体的な業績はあまり知られていない。
 封建主義から資本主義に変えたうえ、日本を産業革命に導いた。そして、世界列強という大国にまで伸し上げさせた。それが渋沢栄一である。
 日本人の慈善家として、2度もノーベル平和賞の候補にもなった。


 紙幣は厳密にいえば「日本銀行券」である。渋沢はその中央銀行の発足にも最大限にかかわってきた。真っ先に、紙幣の肖像画に採用されても良かった。
 過去からなんども肖像画の候補になりながら、顔に顎(あご)髭がない理由から採用されなかった。伊藤博文のように、繊細な頭髪や顎髭は、贋金(にせがね)防止のために必要とされてきたからである。

 いま流通する福沢諭吉の紙幣は、顎髭がなく、精巧で贋金防止ができた。ならば、大本命の「渋沢栄一」で行こう。当然の成り行きだ。

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 私たちはウイルス禍を機に、今後の社会は変化する、と感じている。なにが、どのように変わるのか。いまの段階で、誰も、これだと見通せない。
 かえりみれば、現代社会は企業の力を強くすることで国の富を増してきた。
 私の想像だが、企業や組織よりも、個人の力を底上げすることで、国が豊かになる時代の到来かもしれない。
 これまでは企業とか、チームとか、国とかの枠や後ろ盾(バックボーン)が重要視されてきた。しかし、これからの世のなかでは、多くの人が個々に技量を磨き、プロフェショナルという職業人になってくる、と思われる。
 本人の自由意思で働く、「フリーランス時代」というべきだろうか。営業マンにしろ、介護士にしろ、店員にしろ、プロとして自立して、ネットを通して自分を売る時代だ。ある意味で、お呼びがかかる、全国、世界に渡りあるく時代になりそうだ。
               
            *

 私の憶測とか、推測よりも、歴史を読み解いてみたい。そのなかに将来へのヒントがあり、教訓とか、学ぶこととかがあるだろう。
 それには150年前、新しい経済の偉人・渋沢栄一に向かいあってみよう。そこから英知をもらおう。

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 令和2年は新型コロナ禍で、社会が一律に元気を失い、消沈している。これとよく似た歴史が、幕末から明治時代に突入したときである。
 戊辰戦争で国中が疲弊し、社会全体が活気を失い、経済が停滞していた。幕藩体制の崩壊で、武士は給料(扶持・ふち)をもらう相手がいない。どのように生きたらよいか、まったく見通せない環境におかれていた。
 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允は、「明治の三傑」かれらは地方の下級藩士で、全国統一の政権運用の経験がない。そのうえ、「武士はそろばん勘定ができない」の類で、西洋の資本主義の実務がまったくわからなかった。
 
            *
 「明治の三傑」たちは尊王攘夷論者で、鎖国にもどれと叫んでいたから、新政権となって、いきなり近代化路線をとった。といっても、外貨、外債、利回りとか、資本主義の経済用語そのものが理解できない。
 ひとまず王政復古で、奈良・平安時代に使われた「大蔵省」を名づけた。ただ、1000年も昔の仕組みなど、19世紀にはなんの役にも立たない。

 薩長土肥の新政府の要職たちは、中央集権の経験がない。とはいっても、外国人と対面する必要がある。
「拙者は100石取りである」
「イギリス・ポンドに換算にすれば、いくらになりますか」
「外国紙幣なんて、見たこともない。紙幣そのものを使ったことがない」
 かれらは資本主義の仕組みすらわからない。
 ならば、
「外国人を雇い入れると、良いのだ。しかし、資本主義の仕組みの金融・財政で、外国人を招聘(しょうへい)すれば、アジア各国はみな都合よく半植民地にさせられている」
 この二の舞は避けたい。
「だれかいないのか」
 長州ファイブといえ、1、2年留学したくらいで財政・金融の理論と実務までわからない。現代でいえば、大学の経済学部の2-3年生が大蔵省や日本銀行の実務などできないのと同じである。
「だれか適任者はいないか」
「農民出身ですが、渋沢栄一がいます」
「農民の出か。どこにいる」
「静岡の一橋家です」
「德川慶喜の下にいるのか」
 慶喜といえば、15代德川将軍で、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、さらには追討令まで出している。そして、駿府(静岡)の70万石に閉じ込めた。新政府とすれば、最大の敵としてきた人物である。
 渋沢栄一はその静岡県で、ヨーロッパ仕込みの会社を起こしていた。とても、巧く行っているようだ。しかし、いまさら慶喜に頭を下げたくない。
「静岡県令に命じて、渋沢栄一を大蔵省に出させよ」
 予想通り、渋沢は断ってきた。

【つづく】

【徳川幕府瓦解への道を検証する】② 第二次長州戦争が大きな災いになる

 歴史小説家は、想像で書くことで、読者の高揚感を持ち上げて、一気に読んでもらう手法をとる。最も楽な方向は、英雄を立てて、ワクワク、ドキドキ、と読ませていくことだろう。
 ただ、怖いのは読者がそれを史実として認識してしまうことである。

 戦争は突き詰めれば、「お金の問題」、つまり「経済問題」である。慶応二年の第二次長州戦争は、「薩長同盟」で語られる。そうだろうか。薩摩が薩英戦争のあと、イギリスに賠償金を払う金がなかった。幕府から借りて支払うくらいだ。

 第一次長州戦争で、全権委任の総督・徳川慶勝と、参謀・西郷隆盛が、そのまま滞在し、京都の朝廷に奏聞(意向を図り)しておけば、孝明天皇の意向による処置で、解決できたはずである。
 尊攘派の慶勝・西郷が独断で、慶応元(1862)年正月四日、長州問題を未解決で、あいまいなまま総軍を撤収してしまった。それが幕府の再征討におよんだ。
 これが幕府にとっては、災いを大きくして命取りになってしまったのだ。

 第二次征討においても、薩摩藩の賛美や「薩長同盟」賞賛が目につくけれど、しょせん西郷隆盛が薩摩藩の小松帯刀家老に進言し、長州戦争に突入すれば、巨大な軍費がかかると言い、非戦を進言したから兵を出さなかったのである。
 薩摩は経済的な打算が理由であった。
 
 広島藩、薩摩藩、肥後藩(九州・小倉口では肥後藩が老中・小笠原と喧嘩になり、引き揚げ)が非戦の態度をとり、攻撃に大きな穴を開けた。これでは勝てるわけがなかった。
 ここから、幕府瓦解(かがい)が加速していくのだ。


【第二次長州戦争の検証】

①  幕府は、毛利敬親の父子と、八月十八日クーデターで都落ちした公家(長州に五卿がいた)を江戸に招集し、幕閣がみずから長州処分を解決しようとした。
 それがかえって諸藩や朝廷の反発を招いてしまった。

② 広島藩などに、「毛利敬親などを捕縛して、江戸に連れてくるように」と命じた。広島藩はとても実行不可能だと、固辞した。

③ 幕府は慶応元年五月十六日に、再征討をきめた。紀州藩など11藩に出陣を命じた。先の総引き揚げから約五か月後の出陣は反発が大きかった。
 京都にいる慶喜と江戸の幕閣とで、意見の不統一があり、諸藩に不評を買った。

④ 幕府と長州の仲介役の広島藩は、再征討の大義名分がないし、いったん戦端が開かれると、周辺諸国も戦場化し、人民が塗炭(とたん・苦しい境遇)になる、と反対した。

⑤ 大目付役・永井尚志や老中・小笠原長行が広島にきて、長州藩の使者を呼びだす。不調だった。仲介の広島藩は、藩主・長訓、世子・長勲、執政の野村帯刀や辻将曹らが、「第一次長州戦争で、幕府の全権委任が徳川慶勝が解決済みとした。長州への再征討は大義名分かぼなぃ」と戦争に強く反対した。

⑥ 広島藩内で、物価が高騰し、庶民生活が苦しくなった。学問所の55人が、広島藩執政を次々に謹慎処分したと言い、老中・小笠原を暗殺予告をする長勲が止める。
 かれらが後に神機隊創立の母体になる。

⑦ 薩摩藩は、西郷隆盛が家老の小松帯刀にたいして、薩英戦争後で戦費もイギリスに払えておらず、ここで長州の戦いをすれば無駄な戦費になると、戦争回避を進言した。
 大久保利通が老中首座の板倉勝清に、戦争不参加を申し渡す。
 長州への四境戦略のうち、萩への海上攻撃がなくなる。

⑧ 先陣の広島藩が出兵拒否をする。旧式武器の彦根藩と越後高田藩が先陣になる。

⑨ 幕府海軍は、寄せ集め隊で、軍艦からの砲撃は、弾の消費になると、攻撃を惜しんだ。

➉ 肥後藩の司令官が、小倉で、小笠原老中と大げんかし、九州の大半が引き揚げてしまった。小倉城は自焼する。

⑪ 慶応二年七月に、家茂将軍が亡くなる。

⑫ 慶喜は八月に自ら広島にでむく予定だったが、家茂将軍が亡くなり、小倉も不利と見て、出陣を止めてしまう。

⑬ 勝海舟が宮島にきて、休戦協定を結ぶ。

⑭ 広島藩は従軍しなかったが、長州藩と紀州藩とが芸州口で戦い、大竹から五日市など住民に死傷者をだし、田地を荒廃させてしまった。

 この後において、孝明天皇が12月に崩御し、翌年、広島藩は薩摩と手を結び、朝敵の長州を巻き込んで「薩長芸軍事同盟」をむすぶ。そして、大政奉還運動へと加速していくのだった。        

【徳川幕府瓦解への道を検証する】① 第一次長州戦争で、無責任な引き揚げ

 徳川長期政権が、ペリー来航から15年で、またたくまに瓦解した。この間、全国の260余藩において、いずれも開国・佐幕派と尊皇攘夷派とに分断した。そして、多くの藩で同じ藩内で血なまぐさい内乱に近い殺し合いがあった。

 徳川政権がわずか15年間で崩壊したのか。三大要因とすれば、

① 鎖国から開国へ = 阿部正弘による。水戸藩から尊皇攘夷思想が広がる。

② 安政の大獄と桜田門外の変 = 井伊大老の暗殺が起きて幕府の権威が低下した。

③ 薩長芸による大政奉還と王政復古=新政府の樹立

【第一次長州征討】

 八月十八日のクーデター後、長州藩が復権を目指し、約2000人の兵で上洛した。幕府と千さうになり、長州藩の兵士が京都御所に銃を放った。
 孝明天皇の怒り、毛利家が「朝敵」となった。そして、長州・毛利を征伐せよ、という勅書が幕府に出された。

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 尾張徳川家の徳川慶勝が長州征討の総督に選ばれたのだ。このは慶勝は小さな支藩の高須(たかす)松平家・3万石から、慶勝は尾張藩・61万953石に抜擢されてきた人物である。

 ただ、高須に入った父親・母親とも、水戸藩の人物であり、慶勝は尾張徳川家の血筋ではなかった。徳川斉昭の甥ッ子である。
 それゆえに、ガチガチの尊皇攘夷派であり、安政の大獄で、水戸斉昭と徳川慶勝はともに不登城の行動を起こし、謹慎処分(武士の犯罪者)を受けた。
 井伊大老の暗殺後、慶勝はわが子を尾張藩主にし、藩政を実質支配していた。
              
              *

 参謀の西郷隆盛は、薩摩藩にあって、公武合体派の島津久光からにらまれるほど、過激な尊皇攘夷派だった。寺田屋事件で久光は攘夷派の家臣を惨殺し、西郷隆盛を島流しにしたくらいだ。
              *   

 長州藩といえば、水戸藩の徳川斉昭・藤田東湖の尊皇攘夷思想を導入している。過激な尊王攘夷派が藩政を奪り、京都では全国の注目の的になっていた。孝明天皇の勅書を偽造し、八月十八日のクーデターで失脚したのだ。

 このように第一次長州戦争において、攻める幕府側のトップも、責められる側の毛利家も、ともに過激尊皇攘夷派だった。
 ここに幕府の重大な人選ミスがあったのだ。

 長州征討に広島にでむいてきた徳川慶勝、西郷隆盛は、ふたりして長州藩の尊皇攘夷派に心が通じるものがあったのだ。根っこから一つ尊攘夷派で、戦意などなかったのだ。

 広島藩の国泰寺において、禁門の変の責任者処罰として「3家老の切腹、4参謀の斬首」で終えてしまった。肝心な孝明天皇の命の「毛利家処分」には、まったく手をつけず、問題を先送りしたのである。
 長州藩を取り囲んだ約35藩15万の兵力を総引き揚げしてしまったのだ。

「毛利家を未処分のままでは、問題が大きくなります。なんのために、約35藩15万の兵力の出兵です。毛利家の処分を明確にされる方がよろしい。」
 広島藩主の浅野長訓、そして広島にきていた幕府・大目付役の永井尚志(作家・三島由紀夫の曽祖父)らは、総督の德川慶勝に留意をもとめた。しかし、德川慶勝と西郷隆盛は、総引き揚げをしてしまったのだ。

 水戸藩出身の一橋慶喜が、徳川慶勝を推薦しただけに、ここまで慶勝がひどいとは思わなかったといい、激怒した。長州問題が未処分では孝明天皇に示しがつかず、第14代家茂将軍がみずから陣頭指揮を執ってもらうことになった。
 そして、家茂は江戸から大坂にでむいてきた。
                            【つづく】

【歴史から学ぶ】解決を先送りすると、滅亡の悲運に至る = 「下」

 第一次長州戦争の幕府軍の総督は、徳川慶勝(よしかつ)は、第14代の尾張藩主だった。尾張藩は62万石である。ただ、慶勝の両親とも水戸藩の血筋だった。

写真=尾張藩・元藩主 德川慶勝  ネットより

 つまり、慶勝は徳川斉昭の甥であり、尊皇攘夷派に固まったていた。生前の老中・阿部正弘から、尾張藩の徳川慶勝、福井藩の松平春嶽のふたりは、呼び出されて、
「徳川御三家と徳川親藩の藩主でありながら、水戸藩の老公のように、攘夷論をふりまわりし、まわりを煽るな」
 と、きつく注意を受けたことがある。

 阿部正弘の目を気にしていた慶勝だったが、正弘は老中の現職で早死にした。

 安政5(1858)年に、安政の大獄が起きた。その起因は一橋家の慶喜を将軍に推したい水戸藩の斉昭らが、江戸城に不時登城して井伊大老に抗議している。このなかに、甥っ子で、尾張藩主の慶勝がいた。決められた日以外に、江戸城に登城するのは、重大な規律違反だった。井伊大老から、慶勝は尾張藩主から外れる謹慎処分をうけている。慶勝の子が藩主になった。

「桜田門外の変」で井伊大老が暗殺されると、慶勝は元藩主として藩政に返り咲いていた。

           *

 広島藩の浅野家は、尾張藩と深い縁があった。
 
『尾張名古屋は城で持つ』といわれるほど、築城の歴史は輝いている。
 この初代の尾張藩主は、德川義直(よしなお)で、藩祖として尊敬されている。義直は徳川家康の九男で、正室は紀伊和歌山藩・初代藩主の浅野幸長(ゆきなが)の娘・春姫である。(ふたりの仲は良好だったが、子どもがいなかった)。
 この婚姻を機に、浅野家は豊臣家から徳川家に鞍替えしている。徳川の親族として幕末まで存続してきた。その縁があった。
 ちなみに、浅野幸長が早くに病死したことから、浅野長政の次男の浅野長晟(ながあきら)が、紀伊和歌山藩2代藩主となった。そして、元和5年(1869)に、安芸国広島藩の初代藩主として42万石で転封してきた。

            * 

 広島藩の浅野長訓は、長州藩と幕府の周旋役をひきうけた。戦火なく、平和裏に事態を収拾したいと裏と表の両面の舞台で動いた。世子の浅野長勲(ながこと)、執政の辻将曹(つじしょうそう)、野村帯刀など、応接役の家臣の船越洋之助、藩主密使の池田徳太郎などが、活発に、目まぐるしく双方の仲介に動いた。
 岩国の吉川家とも密なる連絡をとっていた。

 幕府が総攻撃する日が、元治元(1864)年11月18日と決まった。総督の徳川慶勝は大坂を出て広島に向かっている。猶予の時間はない。
 広島藩の執政・辻将曹と、追討軍参謀の西郷隆盛は協調し、「事ここにいったては、禁門の変の責任を取り、出陣した三家老の切腹しか、収拾の道はない」と岩国藩の吉川経幹を通じ、萩にいる毛利敬親に伝えた。

           *

 山口から萩に引っ込んだ毛利敬親は、益田右衛門介、国司信濃、福原越後に自刃を命じた。萩の野山獄において、四参謀を斬罪にさせた。三家老の首級が広島に送られた。
 吉川経幹(つねまさ)も、弁明のために広島にやってきた。

 11月14日、広島城下の国泰寺で、三家老の首実検が行われた。このとき、慶勝はまだ広島に到着しておらず、尾張藩の付家老・成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)が総督の名代になった。幕府の大目付・永井尚志(なおゆき)、目付は戸川鉡三郎(とがわはんざぶろう)だった。広島藩・辻将曹と薩摩藩の西郷隆盛は次室に控えていた。

 翌日、大目付の永井尚志による尋問がおこなわれた。岩国藩の吉川経幹にたいして藩主・毛利敬親と世子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)ことと申しわたした。吉川は顔面蒼白となり、「この上はよんどころなく死守する」と答えた。つまり、防長の武士と人民は、そんな条件が付くならば、徹底抗戦すると回答したのだ。
 ここらが戦争寸前における特有のかけひきである。

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 総督・德川慶勝がこの日に、広島に到着した。浅野家の筆頭家老・浅野右近の屋敷を宿所および本営とした。11月18日に、総督・慶勝があらためて三家老の首実検をおこなった。浅野長勲も立ち会った。
 
 この二度目の首実験が、長州人には耐えがたい屈辱であり、幕府への恨みにつながっている。

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 総督の慶勝は、30諸藩の重臣から、「長州藩処分」に関して意見を聴取した。防長二州を没収せよ、毛利家を改易させよ、十万石の封地をさせよ、多くはこうした処分案だった。

 参謀の西郷隆盛から、慶勝にこう進言があった。
「長州処分を実施するには、公儀の指揮を待つ必要があります。この間、数万の兵を広島に残す必要がある。むなしく日を過ごし、いたずらに疲弊するだけです。ここはすみやかに撤兵したほうがよろしいかと存じます」
「さようだな。幕閣に後事に委ねよう。重要な長州処分だ、江戸の幕閣がやるだろう」
 慶勝は西郷の意見を受け入れたのだ。
 型通り山口と萩の視察を行なわさせた。そして、毛利敬親(たかちか)の自筆の謝罪書をうけとると、慶勝は深追いもなく、討ち入る気もなかった。孝明天皇から命じられた長州問題にはまったく手をつけず、処分未決のまま、征討軍15万の兵を早ばやと総引き揚げをしてしまったのだ。
 大目付の知的な永井尚志などは、あきれ果てて、江戸への帰路に就いた。
 
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 この撤兵を知らない江戸の幕閣が、「長州藩の毛利敬親・親子を江戸で裁く。都落ちの公家も江戸に連行せよ」という指令を広島に派遣してきた。大目付永井尚志とおなじ考えだ。途中で、慶勝に出会った。もはや、征討軍の全軍が引き揚げたあとで、すべてが手遅れだった。

 一橋家の徳川慶喜が、徳川慶勝に激怒した。
「それでも全権委任の総督か。毛利家を改易するとか、10万石の削減するとか、なんら処分をするべきだろう」
 まさに幕府の権威を傷つけられたとおなじだと、慶喜は怒り心頭だった。
 ふたりは水戸藩の徳川斉昭の血筋で、従兄弟どうしであった。幕府内に不統一の傷が深まった。
 ふたたび長州征討という第二次長州戦争へとすすんでいく。それが幕府滅亡の悲運へと重大な結果を招いたのだ。

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 たてつづけに2度の長州戦争で、兵をだす諸藩の疲弊は藩の財政圧迫に苦しんだ。
 畿内は大勢の兵士が集まり、米穀の消費が増えて、米価格が狂乱した。民衆の打ち壊しが多発し、関東の秩父や深谷地区まで飛び火した。人心が幕府から一気に離れていく。まさに、幕府瓦解へと加速度を増していったのだ。

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 第一次征討軍の総督と参謀による撤兵は、徳川側からみれば、罪深いものがある。「追って公儀が協議するだろう」と、ふたりの無責任ともいえる、他人任せの軽率な判断が倒幕を早めさせたことは間違いない。

 德川慶勝と西郷隆盛は、このさき明治新政府の擁立者となった。戊辰戦争で新政府が勝利者になったがゆえに、問題視されていない。むしろ、平和解決だったと美化されている。
 それは歴史の事実を覆い隠していないだろうか。


 私たちは、第二次長州戦争の戦禍に眼がとらわれがちだが、第一次長州戦争にも目を向ける必要がある。そこには貴重な教訓がある。
 歴史はくりかえす。現代社会でも、戦争はいつ起きるかもわからない。歴史から学び、戦争回避する。それには全権委任者が自己の判断と読みと、わが身を挺(て)でも決断する、という精神が必要不可欠だ。
 みずから責任をもって解決の道筋をつける。その気構えと勇気がなければ、結果として戦火を呼ぶことになるだろう。
                       【了】
 

【歴史から学ぶ】解決を先送りすると、滅亡の悲運に至る = 「上」

 私たちは、難問に出会うと、とかく解決を先送りにする傾向がある。戦乱や動乱のなかでは、未解決のままにすると、政治的におおきな命取りになることがある。
「難題は逃げないで、しっかり解決しておく」
 それは、私たちの生き方の教示にもなるだろう。

 265年も長くつづいた德川幕府が、ペリー提督の来航からわずか15年間で、あっという間に瓦解(がかい)してしまう。
 幕府滅亡の原因のひとつが、第一次長州戦争にある。

絵画=第一次長州戦争  ネットより

 長州征討の総督が徳川慶勝(尾張元藩主)、参謀が西郷隆盛(薩摩藩)である。このふたりには「長州問題の断固決着」という気迫が乏しかった。無責任ともいえる、政治的な未解決、先送りがそれである。

 芸州広島藩主の浅野長訓(ながみち)は、文久3(1863)年に薩英戦争、下関戦争が起こると、すぐさま家臣を視察に出している。西洋の兵力のすさまじさから、わが国がいま幕府と長州で戦争をしていると、亡国か、殖民地になると危惧していた。
 長州戦争の総督府が広島になっただけに、長訓は戦争回避への信念をつよく持っていた。
 
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 第一次長州戦争まで、簡略に歴史を追ってみよう。
 ペリー提督の浦賀来航のあと、幕府は鎖国から開国へと政策を変えた。やがて、安政5(1858)年に日米通商条約に勅許なしの締結、将軍継嗣の問題が重なった。井伊大老の弾圧から、「安政の大獄」が起きた。
 水戸藩が唱えた尊皇攘夷論が、全国の津々浦々まで吹き荒れた。そして、安政7(1860)年に桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威がいちじるしく失墜した。
 
 かたや、尊王論から天皇・公家による朝廷政治が台頭してきた。政治に素人だった公家らが、地位の改善を図り、処遇を良くしようと、尊皇派の武士の眼を京都にむけさせようと謀った。
 薩摩、長州、土佐らが朝廷政治の主導権争いをはじめた。幕府すらも、和宮降嫁による公武合体で、朝廷の力を借りようとした。

 京の都には、過激攘夷思想の脱藩藩士や草莽(そうもう)の志士たちがあつまり、「天誅」「斬奸(ざんかん)」「夷人切り」「義挙」という血なまぐさいテロ事件がおきた。

 朝廷政治の中核に座った長州藩は、過激攘夷派で、德川14代家茂(いえもち)将軍を上洛させたうえで、文久3年5月10日を「攘夷決行日」をきめさせた。
 その日から、長州藩は馬関(下関)海峡で、アメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦につぎつぎ砲弾を撃ち込んだ。外国船が事実上、馬関海峡が航行できなくなった。
 攘夷決行を真に受けていたのは、長州藩だけである。他の藩はどこも従わなかったのだ。

           *     

 孝明天皇は長州の過激行動を危険視した。このころ長州藩は、孝明天皇の詔書など無断で乱発していた。さらに、天皇親政による攘夷戦争を仕かける計画を企てていた。
 過激な長州藩を嫌う。孝明天皇はさすがに暴挙だと見なし、薩摩藩と会津藩に命じて、文久3年8月に、「八月十八日の政変」をおこす。京都から長州藩と尊攘派の公家を追い出す、クーデターであった。
 
           * 
 
 水戸藩では、安政の大獄で永蟄居処分をうけた徳川斉昭の死去を境に、藩内で内部分裂がおきていた。攘夷派の「天狗党」と幕府寄りと、血なまぐさい殺戮の応酬であった。元治元(1864)年に、天狗党が筑波山で挙兵した。
 
 天狗党の乱に刺激された長州藩は、同年に、復権をはかる意図で、約2000人の軍隊を上洛させた。元治元(1864)年7月、京都御所の近くで幕府と武力衝突が起きた。この「禁門の変」で、長州藩は惨敗した。
 同年8月に、馬関海峡の攘夷・砲撃の報復から、四か国連合艦隊による「下関戦争」が起きた。これも惨敗だった。

 孝明天皇が、「禁門の変」で長州軍が御所に銃をむけたことから、「朝敵」となった。10月に、天皇が幕府に長州征討を命じた。この朝命で、幕府は21藩に出軍の準備を命じた。のちに30余藩になる。 
 そして、幕府軍は15万の兵で、広島城下に総督府をおいた。

           * 

 長州藩は、京都の「禁門の変」と四か国連合艦隊の「下関戦争」、ふたつの戦いで大敗している。そのうえ、征討軍の約15万の兵に取り込まれる。深刻な存亡の危機にあった。

 幕府側は、負ける要素など何もなかった。まさに勝ち戦で優位にあった。強い軍事圧力の下で、長州藩に要求を突き付け、それをのませる立場にあった。

  戦争には仲介役が必要である。長州藩の毛利敬親は、長州藩の親戚筋の筑前藩、宇和島藩に依頼したけれど、両藩とも、幕府の怒りを買うことを怖れて、これを断っている。

 同年9月8日に、毛利敬親は、岩国藩の吉川経幹(きっかわつねまさ)を広島郊外の草津・海蔵寺に使わし、広島藩の浅野家に幕府との周旋を依頼してきたのだ。
 
 平和解決の態度を示す芸州広島藩には、幕府と長州の仲介役を引き受ける、理由が別にあったのである。
                  
                   【つづく】
                   
 

【歴史に学ぶ】疫病が政治を変える (下) = 文久の改革は麻疹(ましん)大流行の副産物だった

 安政5(1858)年のコレラ大発生の死者よりも、文久2(1862)年の麻疹(ましん)死亡者のほうが多い、と明記されている。学術名の麻疹は、一般に「はしか」ともいう。

 德川政権下の文久時代に、百万都市の江戸では身分を問わず、4人に1人が亡くなっている。
 全国諸藩の江戸詰の藩士らも罹患(りかん)し、大勢が亡くなっている。

 武家屋敷、民家を問わず、一家全滅したところも数多い。さらに、当時の東海道、中山道など主要な街道には人影もなく、庶民は恐怖に震えている、と記録されている。

絵画=薩摩藩、島津久光  ネットより


『島津久光一行と麻疹の検証』

 前年の文久元(1861)年、薩摩藩は芝・薩摩屋敷に故意に火を放ち、それを理由に参勤交代逃れしていた。幕府は、火付け犯人を特定した。犯人(堀・謀)はそれを察知し、鹿児島に帰ってしまい、放火事件はあいまいになった。

 参勤交代を断った翌年、文久2(1862)年3月16日、島津久光が膨大な経費がかかる千人もの兵を従え、鹿児島を出発したのだ。狙いは何か。裏の裏があった。
 同3月には長崎では、異国船が麻疹(ましん・はしか)を上陸させていた。おなじ九州である。

 久光一行が、その麻疹の運び屋になり、大阪、京都、江戸、そして鹿児島に災いをもたらしている。
 現代では、ほとんどの歴史学者が口を閉ざしているところだ。ここらをくわしく検証してみよう。

            *

 久光一行は文久2(1862)年4月16日に京都に着いた。この4月から大坂、京都では麻疹が大流行している。
 久光が4月23日に、有名な寺田屋事件を起こす。薩摩藩士が同胞を寺田屋で殺すのだ。
 この事件の起きた同4月には、久光が鹿児島の愛娘に手紙を送り、京都で麻疹が流行していると記す。(現存する)。

           * 

 翌月、5月21日には久光一行は、勅使・大原重徳に随行し、江戸にむかう。先触れが江戸の薩摩屋敷に入ったのが、5月末である。
 江戸で、この月から麻疹の感染が確認されている。
 久光自身は6月7日に江戸に着く。ここから江戸で麻疹が大流行し、とてつもない死者を出した。(江戸だけでも、24万人の死者が出している)。

                 *
  
 この恐怖の被害は、たんに京都・大阪・江戸だけではなかった。鹿児島でも大流行しているのだ。

 島津久光は年3月16日に鹿児島を立つとき、家臣の西郷隆盛に、「下関で待っておれ」と命じていた。
 その西郷が倒幕挙兵をめざす平野國臣らとともに、九州から大坂にむかっていた。それを知った久光が激怒し、4月6日に姫路に到着すると、家臣らに西郷の捕縛を命じた。ここらは幕末の西郷伝ではかならず描かれる。

           *

 薩摩藩士らは4月10日に西郷を逮捕し、船で薩摩へ強制送還した。鹿児島・山川港に入港すると、西郷は久光からの処分待ちとなった。
 この一連の行動のなかで、麻疹が鹿児島に上陸したのだ。

 西郷隆盛の処罰が決まり、6月14日に喜界島(鹿児島県)へ出帆する。

           * 

 鹿児島城二の丸で、同年7月3日に島津家の三女の24歳の於珍(おとき)が亡くなった。さらに、同月27日には四女の二十歳の於寛(おひろ)が死去した。二女の二五歳の於治(おはる)の夫も亡くなっている。

 かたや、江戸の薩摩藩では、久光一行の約半数が麻疹に感染しており、薩摩屋敷で寝込んでいた。
 島津久光の一行は同年8月21日には江戸を立ち去った。同日に生麦村において、無辜(むこ)のイギリス人を殺傷したのだ。被害者のイギリス人一人は死亡、二人は重体。一人の婦人は馬で逃げ切っている。

 久光一行は鹿児島を出立するときは千人の兵だった。しかし、帰路の生麦事件では400人余り。つまり、往き復りで半減以下の家臣になっていたのである。
 西南戦争で資料が焼失したと言い、正確な死者数まで、わからない。


『文久の麻疹の状況』

 麻疹(ましん・はしか)による子どもの致死率は高い。大人でも幼少時に麻疹にかかっていないと、罹患すると次々に死亡する感染病だった。
 男よりも、女のほうが重症になる。妊婦はほとんど死す。手の尽くしようがない。毎日、朝から夕方まで葬儀の連続である。

 麻疹禁忌に指定された遊郭・蕎麦屋(そばや)・魚屋・八百屋・風呂屋・床屋など、ことごとく失業状態に陥り、経済的混乱が起こる。

 現代の新型コロナウイルス禍の視点でみれば、ロック・ダウンだろう。

「かわら版」が売れる。「はしか絵」が飛ぶように売れる。江戸じゅうに、麻疹薬の看板が出現した。漢方薬は飛ぶように売れる。神社仏閣はこぞって麻疹除けの御札を売りはじめる。もうかる職種があるのだ。

 町人ら建物の軒下に斎竹を立てて、奉燈の桃灯をつり、鎮守の神輿の獅子頭をわたし、神楽所をしつらえて神をいさめ、この禍を追い払う。

           * 

 麻疹に良いとされた生薬と食べ物は、投機対象となって急騰し、諸物価の高騰がおきた。有徳のひとの善行が行われている。貧しい人には麻疹薬、米、麦、銭の施しがあった。
 幕府はくり返し、便乗値上げの禁令を出すが効果はない。

 “麻疹特需”が起きている。
 
 現代において、厚労省がなかなか新型コロナの新薬を認可しない。先進国では最低のワクチン接種率だと批判されても、どこ吹く風だ。コロナの罹患率が高くならないと、新薬は儲けが出てこない。
 国民には自粛・自粛で、ウイルスを拡大させる。一方で、厚労省は製薬会社から新薬の申請があっても、まず書類審査がかかり、そこから安全性を理由に膨大な審議をくりかえす。「特例」など認めず、諮問機関の薬事審議会、食品衛生審議会などにかけていく。延々と時間を浪費する。印鑑の数は認可まで、きっと数百個だろう。次の印鑑を捺すまで、それぞれ机上で滞留する。責任は、その印鑑の数だけ不明瞭になる。
「薬害のリスクは背負わない」
 厚生役人、技官らの御身大切の精神だ。

           *

 新型コロナ禍で、わが国でヨーロッパ並みに1日数万人の感染者が出れば、厚労省はきっと国内の一部製薬会社の新薬を認可するだろう。ならば、「新薬の特需」でぼろもうけできる。
 こうした体質は官民の癒着が起きやすい。……。

 自粛を謳う厚労省が、深夜まで大宴会をやっていた事実がある。とりもなおさず、江戸時代の特定の漢方薬・医者が、幕閣の一部の癒着し、ぼろ儲けしていた構図によく似ていると思えてくる。

 歴史から学ぶとすれば、革命・革新は旧来の前例を壊すことからはじまる。新型コロナ対策の有効手段は、厚労省にまん延した「前例」という用語を取りはらうことだ。それは役人でなく、政治家のしごとだ。

 歴史にのこるような有能な政治家が、今、現れたならば、『前例にとらわれるな。薬害のリスクは私が背負って立つ。国内の製薬会社の新薬、既存薬の認可を早めよ、それも複数の治療薬とワクチンだ。国民の命を救え』と号令をかけるだろう。
「前例」を壊す。コロナ死者の少ない、いまからでも遅くない。それがわが国において世界的な大流行の、コロナ感染被害を最小限で抑えきる有効手段だ。
 
           * 
 
 江戸時代の文久の麻疹・大流行にもどろう。
 幕府の役人らは、24万人の死者を出す麻疹による生活苦に対しても、その救済処置にも躍起になる。そこには身分の差など関係ない。
「村や町の会所で、救済用に備蓄した米穀蔵を開いて、貧農、貧民に配ろう。浪人武士たちにも施す」

           *
 
 庶民は疫病の苦しみから解放されたくて、「はしか絵」の情報に頼る。食べて良いもの、悪いもの。現代からみれば、首を傾げたくなるが、庶民は信じた。
 さらには、車楽を曳渡し、伎踊(手踊り)、邌物(れいもの・祭礼で、街なかをねり歩く行列や山車(だし)を催す。諸所の神社にも、臨時の祭りが執り行われていた。
 この催しが伝統行事になり、現在に伝わっているお祭りもある。

           * 

 人間は千年経っても、二千年経っても、類似的な行動をとる。一つ言えるのは、疫病の不幸で、かえって儲かっている人がいる。どの時代でも、同じである。

 疫病が政治を変える。
 文久時代に、薩摩藩が持ち込んだ麻疹の大流行なければ、また、外様大名家のいかがわしい仮面をかぶった「文久の幕政改革」がなければ、徳川政権の瓦解はもっと先だったと思われる。
 おそらく日本人どうしが国家分断で殺しあう戊辰戦争などなかった。德川政権はすでに開国しており、西洋の議会制度が導入され、有能な人材が選ばれていく民主国家へと、ソフト・ランディングしていたかもしれない。

 疫病が政治を変える。現代もおなじ、しっかり時代と為政者を見据えておこう。

                             【了】
 

 

【歴史に学ぶ】疫病が政治を変える (上) = 文久の改革は麻疹(ましん)大流行の副産物だった

 人類は疫病(えきびょう)、戦争、飢餓(きが)との戦いの歴史である。現在、新型コロナウイルスが世界的な流行で、2020年初には我が国にも外国から入ってきた。それから1年余りが経っ。しかし、同コロナの収束の気配はない。
 いまなお、ヨーロッパなどではロックダウンなど、政治の施策の中心が疫病対策である。

                 *

 疫病がどのように政治を変えたのだろうか。
 わが国では奈良・平安時代において、中国貿易から疫病が入り、とてつもなく死者を出してきた。中世は流行り病との戦いである。
 ところが、鎖国政策をとった徳川幕府は、それなりに外国からの疫病防御になっていた。
 
             *

 疫病が政治を動かした面で、顕著な事例が幕末史のなかにみいだせる。歴史から学ぶ。それを紹介してみたい。
 ペリー提督の浦賀来航から、わが国は鎖国政策を放棄した。欧米列強と和親条約をむすび、開国した。一方で、徳川御三家でありながら水戸藩を中心に、無理難題な鎖国にもどらせ、と叫ぶ「尊王攘夷運動」が全国に拡大した。

 日米修好通商条約の勅許(ちょっきょ)問題から、将軍の世継ぎ問題から、国論を二分する「安政の大獄」が起きた。かたや、天皇・公家の権力が強まり、朝廷政治へと傾きはじめた。
 薩摩・長州・土佐の雄藩が台頭してきた。

            *            ・

 和宮の降嫁による公武合体から「坂下門の変」が起きた。そして、薩摩藩の島津久光が1000人の兵を連れて上洛(京都)、東下(江戸)へとやってきた。
「文久の幕政改革」を求めて慶喜・慶永政権が生まれる。
 この久光一行は帰路に、生麦事件(現・神奈川県横浜市)を起こした。それがイギリスとの薩英戦争につながった。

 この「文久の改革」とは、薩長の力が強くなり、幕府の権威が失態していたからだと、私たちは教えられてきた。
 幕府が、なぜ、無冠の久光の要求を受け入れたのか。背景には何があったのか。幕府は薩摩藩の1000人の兵、京都で台頭してきた朝廷が怖かったわけではないのだ。


絵画=江戸時代の麻疹・火葬場でに棺桶が山積みになる。 ネットより
 
 薩摩藩の島津久光は、文久2年3月、鹿児島を発ち、大兵を率いて京都に上洛した。その途中で、長崎に上陸した麻疹(ましん・はしか)のウィルスを京都、江戸に運んできたのだ。
 江戸では、とたんに麻疹の死者が急激に広がった。感染病は身分など選ばない。武士も町民も恐怖のどん底に突き落とされた。

「一橋家の徳川慶喜を将軍の後見人に、松平春嶽を政事総裁にする。勅使の大原殿の意思である。勅答をいただきたい」
 久光は朝廷の勅使を背景にし、幕府を脅す。
「勅使といえども、幕政の関与はお断りする」
 老中や幕閣たちは当初から要求を拒否していた。
 そもそも、九州の果てから江戸にやってきたきた無冠の島津久光など、かまっていられない。麻疹の感染で、江戸が混乱していたのだから。

「めんどくさい奴らだ」
 江戸は麻疹の大流行で、5人に一人は発症している。

 久光は延々と居座る。
 日本橋かいわいは棺桶の列だ。1日、棺が橋を渡ること200におよぶ。荼毘(だび・火葬場)の煙は絶えず、寺院は葬式を行ういとまがない。疫病対策といっても、神仏にすがるしか方策はない。

「幕政をあれこれ政権の内部を変える時期ではない。庶民を守ることが優先だ」
 江戸では文久二年7月より、大流行している。
 麻疹絵と呼ばれる色鮮やかな錦絵や、麻疹をネタとした戯作、「麻疹なぞなぞ集」、麻疹道化百人一首、麻疹養生書など、さまざまな出版物が氾濫(はんらん)した。

 当時の資料では、こう記す。 
『病ことさら盛んにして、いのちを失う者幾千人なりや、量ることができない。三昧の寺院、さる丑年、暴瀉病(ぼうしゃびょう・コレラ)の流行の時に倍して、公験(きって)をもって火を約し、病状は重いし、死者の数が多い。しごとも干上がっておる』

「わかった、わかった。慶喜・慶永を幕府のトップにすえる」
 そんな風な態度だったのだろう。
 銭湯、風呂屋,髪結いには客がない。新吉原の花街の娼妓はそれぞれ患う。女郎買いの来客を迎えられない楼閣が多い。
 現代の新型コロナ対策でいう、休業処置のさなかだ。

「鋳造権をよこせ」
 薩摩は下心がありすぎる。琉球通宝を認めれば、徳川家は最も重要な利権を弱めることになりかねない。
 勘定奉行の小栗上野介忠順は、琉球通宝のあと、諸々の贋金を造る糸がみえていた。これを認めれば、将来に遺恨を残す。幕府の土台を壊してしまう、と大反対だった。
「薩摩藩77万石の民は、極貧である。地獄に落ちる寸前である。薩摩が苦しんでいるのに、幕府がそれを助けないのは、おかしい」
「琉球の密貿易を行いながら、なにを白々しい」
 小栗上野介は反対する。
 過去に、幕府が鋳造許可をあたえた例外が一度だけある。それは天保の大飢饉で苦しむ、仙台伊達家に期限付きで認めたものだ。
「仙台藩の事例があるではないか」
 島津久光が江戸にきた最大の狙いは、まさに贋金づくりである。
 久光の腹の底を見抜いていた勘定奉行(大蔵大臣)の小栗上野介、徹頭徹尾、反対していた。
「老中首座の水野忠精どの。勘定奉行は変えられたほうが良い。小栗は頭から鋳造権は、徳川家の独占だと言い、耳を傾けない。諸藩の希望に聞く耳をもたぬ、そんな人物は幕府のなかのガンである」
 久光は江戸に駐留する千人の軍事軍事威圧で、水野忠精との面談にもちこんでいたのだ。小栗上野介は勘定奉行から町奉行に転出させられた。
『琉球通宝の鋳造は、内分で聞きおく。ただし3年間かぎりである。監視役もつける』
 水野忠精が折れたのである。

           *

 島津久光一行は、鋳造許可を鹿児島にもちかえると、何をしたのか。同行してきた幕府の監視役をすぐさま犯罪人として屋久島へ島流ししている。
「琉球通宝」の鋳造の鋳型の文字を『天保通宝』に変えて、大量に贋金をつくった。そして、広島・御手洗港、大坂の三井組を通じて、流通させたのだ。
 偽金を幕府の正金に両替した。

 鹿児島の贋金工場では千数百人が働いていた。幕府からの監視役は屋久島送りだ。国越えの関所は、鹿児島弁でない者は問答無用で斬り殺し、機密をまもる。
 さらに悪乗りして薩摩藩はメッキ2分金の贋金をつくった。それを長崎に運び武器商人のグラバー、横浜のマセソン商会から、大量の蒸気軍艦を買いつけたのだ。

           ※

 これが島津一行による「文久の改革」の姿だった。
 明治になり、薩長政権になると、文久改革が久光によって成したと、美化される。まさに、歴史は勝者によって改ざんされる。

             *

 当時の「武江年表」によると、文久2年には、江戸市内の各お寺が受付けた麻疹による新墓は、23万9862基と報告されている。

                     【つづく】

RCC(中国放送)3月13日(土) 「頼山陽著『日本外史』は歴史書か、戦記小説か」=穂高健一語る

 RCC(中国放送)において、3月13日(土) 一文字弥太郎の週末ナチュラリストで、朝9時05分から『穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」が放送されました。☎インタビューで受け答えです。

 当番組の私は月1回のレギュラー・シリーズです。昨年4月から、ちょうど1年になりました。

 この回は、「頼山陽著『日本外史』は歴史書か、戦記小説か」というタイトルです。
 放送のあと、「ポッドキャスト」が公開されました。

  

 趣旨は、「日本外史」は武家の盛衰史です。幕末に広く愛読されました。なぜ、愛読されたのか。RCC放送では、そこらを中心に語っています。

「日本外史」は、文章が簡素明瞭で、かれいな描写力と会話文ですから、ハラハラ、ドキドキ、一気に読めます。現代でいえば、小学5~6年生の学力(漢文)があれば、原文は漢文ですが、当時は「四書五経」の漢文を勉強していますから、楽に読めました。


写真=幕末芸州広島藩・広報・山澤直行



 明治時代から太平洋戦争の終了まで、多くの人に読まれた。RCCでは明治からは時間の制約で語っていません。そこの概略を記しておきます。
 
 明治政府は「日本外史」「大日本史」の皇国史観を利用します。天皇崇拝、天皇権力を利用して、軍事強化、教育勅語の制定へとむかいます。
 
 明治、大正、昭和の初期へと、皇国思想が「絶対正義」となります。天皇の絶対権力を疑うこと自体が、犯罪者で、国賊になります。

「天皇を奉じて、命をすてて米英を撃つ」。国民男女を問わず全員が戦う、若者の特攻隊、祖国のために戦う以外、日本人の生き方はない、という皇国史観が全国民に行きわたります。

 結果として、大平洋戦争では数百万人、アジア諸国まで入れると、数千万人の犠牲を伴いました。

 昭和20(1945)年の太平洋戦争の終了をもって、「日本外史」「大日本史」の皇国史観が完全に排除されました。
 と同時に、大和・奈良・平安時代から『朝廷』を牛耳ってきた公家・貴族・華族の制度も完全に消滅しました。
 存続するのは皇族のみに限定されました。

 戦後は、新たに「人間・天皇」および「象徴天皇」という、日本人の国民が支持できる皇室観へとかわりました。平成さらに令和の時代へと歩み、いまや国民と直接向かい合う天皇となっています。

「放送を聞くには」

「頼山陽著『日本外史』は歴史書か、戦記小説か」こちらをクリックしてください。

【歴史から学ぶ】幕末ベストセラーの頼山陽著「日本外史」は歴史書か、戦記小説か(3/3)

 日本外史を著した頼山陽とは、どんな人物だったのか。安永9(1781)年~ 天保3(1832)年、徳川中期の人物です。         
 
 頼山陽は、広島城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育ちました。結婚して所帯を持っていながら、山陽は20歳で突如として脱藩を企てたのです。
 無断の脱藩は本人は死刑のうえ、家が潰される。頼家にとっては重大事件でした。叔父の頼杏坪(きょうへい)らが、京都の潜伏先から山陽を連れ戻してきました。

 広島藩から死罪の刑は免れたけれども、山陽は離婚のうえ、廃嫡((家を相続させない)、さらに座敷牢に閉じ込められたのです。

頼山陽像     撮影=芸州広島藩・広報・山澤直行

 幽閉された山陽は、足かけ五年間にわたり、ひたすら歴史関係書を読みあさりました。浅野藩は大藩で膨大な蔵書があり、それが貸し出しされたのでしょう。かたや、山陽は青少年たちにも読める日本通史を書こうと、『日本外史』(初稿)の執筆に取り組みます。

 監禁から解かれた頼山陽は、いつとき広島藩の藩校の助教になります。だが、27歳で福山にでむき儒学者・管茶山の簾塾(れんじゅく)で、教鞭をとります。その境遇でも満足できず、2年間で京都へ出奔します。これも2度目の脱藩あつかいになります。生涯に、4回脱藩し、藩も見棄てています。しかし、山陽は他藩には仕えず、京都で塾を開きます。

 35歳の時、九州に行脚する。日田の咸宜園(かんぎえん)の広瀬淡窓(たんそう)の知遇を受けています。4年後には京都にもどり、屋敷を構えて、「日本外史」の執筆に専念します。約20年間にわたり、考証とか、修正を加えています。

 文化10(1827)年に、頼山陽「日本外史」が完成させます。源平二氏より徳川家に至る、武家700年間の武家の盛衰史です。父・春水(しゅんすい・儒学者)の知己だった松平定信に献上されました。

 定信が称賛してくれました。そして、2年後には、大阪の3書店から全22巻が発刊されました。川越藩も独自に出版しました。

          *
 
 頼山陽著「日本外史」が、なぜベストセラーとなったのでしょうか。

 平易な漢文で、若年層にも読めるうえ、群雄割拠の治乱の世、山陽が名づけた「日本三大奇襲」など、波乱に満ちた紀伝が次々に描かれています。

 登場する武将たちの心理描写や、創作の会話体などを織り交ぜた強い文章の求心力で運ばれています。考証に難があっても、ドラマチックな歴史書です。
 源平の争いから始まり、源頼朝の鎌倉幕府、足利尊氏の足利幕府、信長、秀吉、徳川家康の徳川幕府は10代将軍・家治まで、家系ごとに分割されており、一気に読ませます。


        *

 徳川時代中期には天明・天保の大飢饉がつづきます。さらに中国・清国ではアヘン戦争が勃発し、内憂外患の時代がとなります。
 水戸藩の徳川斉昭が声高に「攘夷」(じょうい・異国を打ち払え)と幕府に迫ります。やがて、水戸藩の藤田東湖が「尊王攘夷」を打ちだします。


 水戸藩は光圀の時代から「大日本史」を編纂をはじめていました。御三家でありながら、水戸藩の底流には皇国思想がながれていました。
 「大日本史」神武天皇から後小松天皇の南北朝まで。完成したのが明治39年、全397巻226冊と膨大です。水戸光圀が史局を開いてから249年を要しています。この「大日本史」は出典も明らかで,考証も念入りに行われた、学術書です。
 徳川時代には100巻(全397巻)しかできておらず、全国の藩校のうち、50藩に配付されたていどです。
 後世でいわれるほど、水戸藩「大日本史」は読まれていなかったとおもわれます。
 

頼山陽が幽閉されて「日本外史を書いた部屋」  撮影=芸州広島藩研究会・広報・山澤直行

         
 尊王攘夷の「尊王」とは何ぞや。その疑問に応えてくれるのが、「日本外史」でした。読みやすく、現代でいえば、小学5、6年生が読める平易な歴史物語です。
 渋沢栄一は7歳のとき、桂小五郎もたしか8歳の頃、篤姫は10歳の頃、むさぼり読んだと記録されています。
 尊王が理解できる国民的な人気になりました。

 物語ですから、歴史編纂の面で時代考証に難があると言われていますが、現在の「歴史小説」と同じで、武将の心理描写、会話など、当人に取材していませんから、そこらはフィクションです。でも、ワクワク、ドキドキ、面白く読めて、歴史の流れがわかるのです。
             *

 かたや、水戸藩「大日本史」は幕末において100巻揃ったところで、(4分の1)の段階で印刷し、全国の藩校50か所に配布されています。この配布部数からしても、特定の学者の目にふれたにせよ、倒幕にさして影響を及ぼした国史と言えないでしょう。

 とくに通商条約、安政の大獄、桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、若者たちは強く政治に関心を持ちました。
 日本外史」が波乱に満ちたドラマチックな歴史小説として読みやすかった。それだけに、幕末の志士に強い影響をあたえました。
 
 若者たちは、「尊王攘夷」という熱気のなかで、自分は遅れたくないと、武士階級以外でも<「日本の歴史」を知りたくて、「日本外史」をむさるように読みました。
《我が国の最大の権威者は徳川将軍だと信じて疑わなかった》しかし、「国民の頂点に天皇がいる。幕府に政権を委託しているにすぎないのか。徳川幕府が、唯一、絶対の政権ではない。栄枯盛衰で、徳川家も永遠不滅ではない」
 それを読み取った若者らは、250年にわたる徳川政権に疑問を持ち、国家のあり方を問いはじめたのです。青春とは、既成の政治に不満をもちます。改革、革命へと突っ走ります。世界共通です。

 武士階級の者でも脱藩したり、農商階級の子弟でも草莽(そうもの)志士となったり、「尊皇攘夷」を掲げ、己の信念・信条で、激しい政治活動に加わってきました。

                *

「日本外史」が読まれるほどに、革命の勢いがついてきました。当初の欧米を撃ち払えという鎖国攘夷が、やがて尊王攘夷になり、尊王倒幕へと昇華していきます。さらに、天皇の親政国家へと運動が加速していったのです。

 ペリー来航から、わずか15年にして、徳川政権は瓦解(がかい)します。そこには、「日本外史」の英雄史観がおおきく関わっています。
                      【了】
                  

【歴史から学ぶ】幕末ベストセラーの頼山陽著「日本外史」は歴史書か、戦記小説か(2/3)

 幕末史が大好きなひとは、「尊王攘夷」を口にします。
 尊王とはなにか。攘夷とはなにか。それぞれの用語を問われると、満足に答えられず、曖昧(あいまい)になってきます。

                *

 尊王攘夷=倒幕思想。そのように鵜呑みしています。徳川幕府はアンチ天皇制(敵対する)、と勘違いしている人が多いのです。

 幕府はけっして天皇家と敵対していない。その認識がないと、幕末史の事実誤認が起きてしまいます。

頼山陽=写真・ウィキペディアより

 NHK大河ドラマの主人公になるような、篤姫、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文、渋沢栄一など、社会の改革、もしく革命家たちは、幼いころに親に「日本外史」を買ってもらっています。そして、むさぼるように読んでいます。
 それほど国民的な爆発的な人気書でした。

       *

「日本外史」は、平安時代の源平争乱からはじまり、徳川家康が江戸に幕府をひらく頃までです。この間の天皇や武士たちの戦記を中心に綴っています。
 頼山陽は、徳川政権の打倒への暗示もなければ、それに類したことなど1行も触れていません。
 
 では、なぜ幕末志士たちに愛読されたのでしょうか。

 徳川中期以降の武士階級の教育は、藩校での座学で暗記です。倫理、道徳の儒学が中心であり、たとえば、中国の史書、詩経などの文章を素読で丸暗記する勉強法です。
 教材にはまったく日本史(通史)はありません。それがおどろく点です。せいぜい日本書紀を学ぶくらいです。
 特定の国学者ならば、独学で、天皇の名まえを時系列で覚えていたかもしれません。それでも、天皇がどんな事件と深くかかわっていたのか、とまで理解できていません。

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 鎌倉幕府、足利幕府、徳川幕府の将軍の側から、天皇とはどのように関わったていたのだろうか。德川幕府ができる以前の歴史書がなかったのですから、藩校の優秀な生徒すら、天保の改革と享保の改革はどう違うか、こうした当時の現代史すらわからなかったのです。


 たとえば、現代の私たちは大学入試で、名前を時系列で答えられても、ような考えで社会と関わっていたか、と問えば、答えられません。裏返しに、各将軍の政治、経済、文化、思想の面で、殆どわかっていません。

 中国の司馬遷「史記」や司馬光「真治通鑑」は、中国語(漢文)で習っていました。ですから、現代の西洋史、日本史はどの藩にも、歴史教科書(通史)の科目がなかったのです。

 この大全体が大切です。



頼山陽の住居(頼山陽史跡資料館)  撮影=芸州広島藩研究会・広報・山澤直行

 頼山陽著は「日本外史」が寛政時代に完成しました。それが広島浅野藩主、老中首座の松平定信に献上されて、広く拡がりました。
 時代は平安時代後期の源平争乱から、德川政権の初期までです。文学的な価値が高く、歴史小説の形態を取り入れています。当時の青少年に読めるレベルで、天皇と武士の事件がドラマチック、エキサイティングに描かれています。

 漢文ですが、かれの文体は平易で最も読み易い。難解な漢字、表現はさけれている。天照天皇、ヤマトタケル、神武天皇、大和朝廷など硬苦しい時代、小難しい学術書ではなかった。
 源平合戦の歴史ドキュメントからです。

「生れて初めて、歴史書を読んだ」
 だれもが、朱子学の藩校の授業でなく、小遣いをためて買って読む。
         
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 幕府や武将は、歴代の天皇と出来事や事件や合戦で関わっていたのか。それを知る衝撃は想像を超えるものでした。

 頼山陽の情熱的な文章てせす。……湊川の戦いでは、楠木正成が天皇のために命を亡くす場面は、読み手の高揚感が強まります。天皇のために死す。楠木が全滅の場面などは涙なしに読めないところです。
 読者は自分を重ね合わせ、「後醍醐天皇のために、命をかける」と感情移入し、むさぼり読んでいく展開となっています。

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 德川後期になると、青年層の間で「日本外史」を読まなければ、尊王志士ではないといわれるほど、国民的な人気書になったのです。
「天皇のために、国民のために命をいとわない」
 頼山陽の日本通史(平安末期)から、学び、天皇崇拝と尊皇思想が全国にまたたくまに拡散したのです。
 
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 「日本外史」は現代にたとえれば、司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』(土佐藩脱藩の坂本龍馬)、『燃えよ剣』(新選組副長の土方歳三)にちかい高揚感に似ています。それ以上かもしれません。
 司馬史観の小説を歴史書だ、と思っているひとはわりに多くいます。竜馬が好きだ、土方だ好きだ、という表現になります。

 頼山陽が学術書でなく、歴史小説と描いたのが成功したのです。青少年にはワクワク、ドキドキ、波乱万丈で、寝ないで一気に読んでしまう。そんな興奮する場面が連続します。

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『日本外史』では、登場する天皇のすべてを、頼山陽は賛美しているわけではありません。天皇をヒーロー、英雄扱いもほとんどしていません。
「天皇は権力者たちに担ぎ出されている」
 と厳しい面があります。
 島流しになったり、山奥に逃げ込んだり、とリアルに展開しています。さらに、天皇の陰謀を取り上げたり、天皇親政は成功したためしがない、と厳しい。
 
 ただ、天皇制の本質をついています。天皇の人間らしさ。天皇の権威。武士よりも、天皇が上位にある。なぜならば、わが国が皇国であると、一貫して書き貫かれています。

「平家にあらずんば、人にあらず」という最強の平家も、頼朝・義経の手で短期に滅亡されます。屋島、壇ノ浦の戦いなど、つよい求心力のタッチで描かれています。

 平家を倒す、義経の活躍の場面などは、読み手のこころが躍る。かたや、徳川幕府も栄枯盛衰の運命にある、とだれもが「日本外史」から読み取ったことでしょう。

 ペリー来航後に、「日本外史」の尊王論が攘夷論と結びつきます。それが「尊王攘夷」の思想となり、熱風のごとく国内に吹き荒れます。

 頼山陽の「日本外史」が広く一般に読まれて、歴史ドラマを通して、ごく自然に「皇国思想」が育ったのです。
『徳川政権は絶対ではない。歴史をまなべば、栄華盛衰のくり返しだ』
 皇国思想が、德川幕府の根幹を揺さぶったぶったのです。

 わずか15年後には、徳川家が支配する巨きな幕府が瓦解(がかい)します。まさに、後期はとてつもない現実の歴史ドラマとなります。

               【つつく】