歴史の裏側から、真相が如実に見えてくる = 幕末ストーリーは明治時代につくられた
新聞連載「妻女たちの幕末」が公明新聞で、8月1日から、スタートして、3カ月半が経過してきた。
家斉の大御所時代、そして水野忠邦の「天保の改革」へと進んできた。この時代から、天明天保の飢饉という内憂、アヘン戦争のような外国からの脅威という外患、つまり「内憂外患」の時代になった。
剛腕な水野忠邦を失脚させて、満25歳の阿部正弘を老中首座(現・内閣総理大臣)にさせたのが、大奥・上臈奥女中の姉小路である。彼女は彼女は公家の娘で、悧巧で頭脳明晰で、洞察力に優れていた。
将軍家慶は重要な問題にたいして大奥・上臈奥女中の姉小路に判断を仰いでいる。つまり、彼女は将軍・家慶の政事代行であった。同時に、幕閣の人事、諸大名の養子・婚姻縁組なども、彼女が采配をふるう。たとえば、諸藩が次の藩主を決める際、姉小路の判断が与されていたのだ。
阿部正弘の時代~ペリー来航・家慶死去まで、約10年間は『姉小路の時代』といえる。
姉小路はバランス感覚が良い。彼女の独裁政権ともいえず、老中首座阿部正弘をうまく盛りあげている。二人三脚と称した方が正確かもしれない。私が新聞連載「妻女たちの幕末」で、いまは主人公・姉小路の目で書いている。それだけに、幕末史のねつ造がよく見えてくる。下級藩士だった薩長の武士たちが、明治時代に入り、自分たちに都合よく幕末ストーリーを作ったか、それがよくわかる。
上臈奥女中の姉小路の時代は、薩長閥の政治家にとって不都合なものが多い。むしろ、彼女の時代は教えてはならないものだ。
その一つが徳川幕府がもっている海外情報量の膨大さだ。長崎出島の商館長(カピタン)が毎年、往復約90日間の道のりで、江戸にくる。そして「ヨーロッパおよびアジア情報」を報告する。情報提供がオランダがヨーロッパで唯一貿易を独占できる条件だった。幕府はそれら情報を期待している。
「鎖国とは盲目になることではない。より情報の密度を高めることだ」
その江戸参府はなんと166回に及ぶ。
オランダはキリスト教徒の国だ。商館長らオランダ人は長崎奉行所の官吏らの警護で、長崎を出発し門司へ、瀬戸内海は船便、大坂に上陸し、京都で所司代に会い、東海道、箱根を超えて江戸にでむく。どの宿場町も白人がくると、どこも大騒ぎだ。
幕府はカピタンから詳細を聴き取りするので、かれらの滞在は約1カ月間である。日本橋・本石町の長崎屋に宿泊している。まいにち、江戸っ子が白人をみにくるのである。
日本人の画家は写実主義で、美人画などもきれいに描く。北斎をはじめとして、多くの画家がオランダ人を描いている。実にリアルだ。
これらをなぜ教科書に載せて教えないのだろうか。
いまだに中・高校生の歴史教科書には、幼稚園児が想像で描いたような、ペリー鬼顔を載せている。印象操作(プロパガンダ)もはなはだしい。
狩野派の画家たちも任務で浦賀に行ってペリー提督を実写しているはずだ。それを教科書に載せる。徳川幕府の政権下で、オランダ人166回も江戸にきたとなると、日本人が黒船来航ではじめて白人を見て怖がった。おびえて、ペリー提督に蹂躙された、というストーリー建てのつじつまが合わなくなる。
☆
島津斉彬は藩主としてわずか6年間である。斉彬が領民にどんな良い政治ができたのか。明治以降に西郷・大久保が持ちあげに持ち上げて斉彬を名君に仕立てている。はなはだ疑問だ。西洋に通じていたとするが、幕府が持っている海外情報の質と比べると、足元にも及ばない。
老中阿部正弘が斉彬の西洋知識を当てにしたという創作までしている。阿部正弘を小説にした取材経験からすれば、老中の阿部正弘にしろ、牧野忠雅にしろ、外様大名に海外知識を乞うなど、そんな事実などない。
さらに一橋派(慶喜を将軍跡継ぎ)のストーリーを作った。それが通説となり、安政時代には南紀派と一橋派が将軍継嗣で争う、という筋書きになる。しょせんは無意味な創作である。
徳川将軍は誰にするか。歴代において権力をもった大奥の影響力がおおきかった。絶大なる権力をもっていた姉小路の時代に十四代将軍は慶福(のちの家茂)と決まっていた。
かれは家慶の甥っ子で、家定のいとこ、嘉永2年(1849年)にわずか4歳で御三家の紀州藩主になった。
嘉永5(1852)年に将軍家慶が、三河島の鷹狩に、一橋家の慶喜を連れて行こうとした(継嗣を決める行事)。ところが、姉小路と阿部正弘が、慶喜の鷹狩同行を断らせた。ここで慶喜の将軍継嗣はなくなった。慶福が6歳のときである。
かえりみれば第7代将軍・徳川家継はわずか4歳で将軍になっている。それは新井白石の力によるものだ。姉小路は新井白石よりも影響力をもっていたと認識すれば、嘉永5年に慶福6歳で決着がついていた。7代将軍・徳川家継の事例から、別段、不思議ではなかったのだ。南紀派は余裕綽々だ。
安政5年(1858年)安政大老・井伊直弼(彦根藩主)によって、抗争の末に継嗣問題が決着つけられてというのは、明治時代の創作(歴史捏造のプロパガンダ)は、島津斉彬をより大きくみせるための作為である。
一橋家とは将軍の家門である。一橋家の家主として慶喜は自覚があり、嘉永5年の鷹狩に将軍に不同行で決着付いていると知っている。大奥に嫌われている親父が出てきて将軍家の相続で騒いでほしくなかったのだ。
慶喜はまわりが騒がしいので、江戸城の井伊直弼に確認に行ったくらいだ。
「家茂と決まっている」
と井伊に言われて
「そうだろう(将軍家慶がすでに決めている)」
慶喜は納得して帰ってきているのだ。
strong>なぜ紀州派とか、彦根派とかいわず、「南紀派」というのか。
そこに回答がある。
南紀の大物が嘉永時代にすでに大奥の姉小路、将軍家慶、老中首座・阿部正弘から、14代徳川将軍は幼い紀州藩主・慶福(よしとみ・のちに家茂)と取り付けていたからである。