歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊テーマ『幕末維新史 広島藩の躍動』= 中国新聞・文化

 中国新聞の3月16日の朝刊「文化」欄に、「穂高さん新小説」と題して、新刊「芸州広島藩 神機隊物語」と、再判される「広島藩の志士」のふたつが紹介されました。記名記事で、林淳一郎さん。



 記事の一部をご紹介します。
 
 新刊「芸州広島藩 神機隊物語」(2160円)が4月初めに刊行される。神機隊は、明治時代へ移り変わる150年前にの内戦で、激戦をくりひろげた実在の部隊だと記す。

 若き隊員たちの足跡を軸に、長州と薩摩だけでは語りきれない、歴史の変革を新鮮に描く。

 新政府軍に加わっていた広島藩は、戊辰戦争で旧幕府軍と戦った。広島藩士や地元農家の志願兵で結成された神機隊の約300人も参戦した。東北へ向かい、現在の福島県浜通り一帯で、激戦を重ねた。

 小説では、内線に至るまでの広島藩の奔走ぶりもたどる。薩長と軍事同盟を結んだほか、大政奉還では徳川幕府にたいして政権を朝廷へ返上するように促す。その建白書も提出した。大崎下島の御手洗(呉市)で密議された出兵計画や、御手洗が薩摩との密貿易の拠点になったいきさつにも迫る。

「中略」

 広島藩の記録「芸藩志」などをひもとき、福島や鹿児島で取材も進めて、ストーリーを紡いだ。
 いずれの登場人物も実在し、描写に心を砕いたと、作者は語る。さらに、プロローグとエピローグで、高間省三を祀る広島護国神社の巫女(みこ)が、浪江へ墓参に向かうシーンなども盛り込んでいる。

 さらに、同記事では「広島藩の志士」(1728円)の再刊にもおよぶ。

 穂高さんは4年前に、高間省三を主人公にした「二十歳の炎」も刊行している。このたび発行元を変えたうえで、3月半ば、広島市東区の南々社が新装版「広島藩の志士」として発行した。

 穂高さんは「神機隊」をテーマにしながら、「埋もれつつある郷土の歴史に、若い人たちの関心が向くきっかけになれば」と願う。

神機隊~志和で生まれた炎~≪5≫隊を創設した木原秀三郎=プスネット連載より 

 木原秀三郎(適處)はどんな人物か。
 東広島市高屋町(旧・檜山村)の庄屋で、志高く、満27歳で長崎に遊学している。その後は江戸で勝海舟の門下生になり、築地の軍艦操(そう)練所(れんしょ)で航海術、砲術を学ぶ。やがて、広島藩・江戸藩邸で抱えられ、応接方(おうせつがた)(藩の外交官)に任命された。広島に帰国して軍艦付となった。

 第二次長州征討のまえ、広島藩の若者たち55人は切腹覚悟で、小笠原老中の暗殺で戦争を止めようとした。木原もいた。しかしながら、戦争が勃発した。

 長州藩兵が岩国から小瀬川(おぜがわ)を越えてきた。芸長の不可侵条約を無視し、幕府軍を追って大竹、大野、廿日市、広島城下近くまで攻めてくる。この間、広島領民にたいして強奪、略奪、放火までやった。

 広島藩の農兵といえば警防団ていどで役立に立たず。やがて、西洋式軍隊の紀州藩兵と幕府海軍の艦砲射撃で、長州藩兵は岩国まで追い返された。

 木原は農閑期のみ訓練をする農兵でなく、毎日、訓練する壮兵(そうへい)(職業軍人)の軍隊をつくるべきだと、約一年前から主張していた。木原は洋学をも学び、世界最強のイギリス軍隊の知識があったのだ。
 
 広島藩庁は、領民の大被害を知り、やっと木原の考え方を理解し、神機隊の創設を許可したのだ。
 志和盆地の地形・風土を知りつくす木原が、本拠地を志和にきめた。

 結成時、志和冠村の庄屋・近藤権之助が山野の練兵所、食糧の確保、兵舎づくりなどおおいに協力した。優秀な家中(浅野家臣)が約30人と、賀茂郡八十八か村を中心に近郊から1200人が隊中として入隊してきた。
 藩庁の許可は200人の費用のみだった。

 差額の隊費は、藩の要人・小鷹狩(こだかり)介之丞(かいのじょう)が配慮し寄付金でまかなった。武器弾薬は、武具奉行の高間多須(たす)衛(え)(省三の父親)が、西洋式最新銃と銃弾を貸与し、志和練兵所の訓練では十二分につかえた。

 神機隊の優秀な家中が交代で、城下から約30キロの志和にきて、数日間は寄宿し、寝食をともにし、思想教育、軍事教育、軍律の厳しい指導にあっても、家中・隊中の人間関係は良好で、日本最強の軍隊をつくりあげていくのだ。

                     【つづく】


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪4≫隊の精神「死を惜しむなかれ」=プ4スネット連載より 

 第二次長州征討まえ、広島藩・執政(しっせい)ふたりが謹慎(きんしん・幽閉)処分をうけた。
 これは幕府の権威主義で、わが広島藩を蔑(ないがしろ)にしたものだと、藩校・学問所の有志55人が怒り、老中暗殺の予告にでた。そこには船越洋之助、川合三十郎、木原秀三郎、高間省三などがいた。
 安政2(1866)年5月23日のことだった。

 神機隊の歴史の始まりでもある。

『諸君、死を惜しむなかれ。もし死を躊躇(ちゅうちょ)するならば、だれが国論の統一を成し遂(と)げられるというのか』
 秀才の星野文平(御手洗出身)が、同窓の船越洋之助、川合三十郎らにいい残し、3年前に割腹していた。死を惜しむなかれ。これが神機隊の精神になった。

『逆党の小笠原壱岐守・室賀伊予守の首級を六月一日までに討取り 神明正道に備へん』
 広島城下の5か所に、かれらは張り紙をだしたのだ。老中の命を狙う、幕府の逆鱗(げきりん)に触れて斬首である。

 これを事前に知った世子・浅野長勲(ながこと)が、そなたらは行動するな、余が小笠原を殺(や)ると止めに入っていた。これが徳川家の耳に入れば、最悪は幕府が長州藩と戦うまえに、広島藩と戦闘になりかねない。

 第11代藩主の浅野長訓(ながみち)はどんな策を取ったのか。広島城に小笠原老中を呼びだし、「広島藩は長州との戦いの先陣だが、参戦しない」といい渡した。
 だれが考えても、火に油を注ぐものだ。
「あなたの身の安全は確保できないから、早々に広島から出て行ってくれ」と冷たくもうし渡した。小笠原老中は反論できず、スゴスゴと小倉に移った。


 豊臣秀吉の正室・寧々(ねね)(北の政所)は浅野家から嫁いでいる。徳川家康すらも浅野家には一目をおいていた。先の第10代藩主の浅野慶熾(よしてる)は、徳川家(いえ)斉(なり)将軍の実孫であり、家慶(いえよし)将軍のオイだった。

 浅野家はき然と幕府にものがいえた格式ある家柄である。老中・松平宗(まつだいらむね)秀(ひで)が5月28日、広島に着任した。
 浅野長訓にいわれて6月2日には執政の辻(つじ)将曹(しょうそう)が謹慎を解かれた。(野村帯刀(たてわき)はそれ以前に謹慎が解かれていた)。
 浅野家が藩論一致で、徳川家の倒幕にうごきだす契機はこの時点にあった。


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪3≫神機隊発足の芽生え=プレスネット連載より 

 長州藩は倒幕の主役ではなかった。毛利家は藩内の内乱ばかりで、明治新政府樹立まで表立って関わっていない。そういえば、「えっ、ウソ」とおどろく人は多いだろう。

 慶応3年10月15日の大政奉還では、長州藩はカヤの外である。同年12月9日の京都の小御所会議(こごしょかいぎ・写真)で、明治新政府が誕生するが、このとき主な長州藩士で京都にいたのは品川弥(や)二郎(じろう)だけである。
 情報収集で潜伏(せんぷく)する品川ひとりをもって巨大な徳川政権を倒した主役だとはいえない。

            *

 倒幕の足音はいつからか。
 天保・天明の大飢饉(だいききん)で、徳川政権の経済基盤が傾き、ペリー提督の来航から鎖国(さこく)防衛ができず、開港へとおよんだときである。

 日米通商条約が締結されると、外国人を排除する攘夷(じょうい)運動が盛んになった。長州藩が朝廷をかつぎだし、国内政治の中心を江戸から京都の天皇へと移させた。
 しかし、長州藩はあまりに過激攘夷すぎて、孝明天皇からかえって排除された(八月十八日の変)。

 毛利家の三家老が失地回復をもとめて、元治元(1864)年、軍隊を引き連れて京都に挙がり、禁門(きんもん)の変(へん)を引き起こした。御所にむけて発破し、藩邸に火を放ち、京都の約半分を大火災にさせた。

 激怒した孝明天皇が、長州を征伐せよ、と家(いえ)茂(もち)将軍に命じたのだ。
 これでは勤王を標榜(ひょうぼう)する長州にとっては台無し。幕府と天皇を敵にまわして倒幕どころか、本州の西端に封鎖された。
 朝敵の毛利家中は京都にも、広島すらいけない禁足が、王政復古による明治新政府誕生までつづいたのだ。
 ところで、第一次長州征討は、長州藩の関係者の切腹・斬首で終わった。その後、長州藩内で高杉晋作など過激派の力が強まり、德川幕府はそれを危険視し、第二次長州征討へむかっていく。

 広島藩が戦争回避の周旋にのりだした。
 小笠原老中が広島に赴いてきた。広島藩の執政(実質・家老)の野村帯刀が小笠原に強く非戦の意見を具申する。逆に謹慎処分にされた。同様に、辻将曹・執政が大儀のない戦争だとくりかえし、謹慎。怒った優秀な若者55人が、切腹覚悟の行動にでた。ここから神機隊発足への芽生えとなった。

                       【つづく】  

 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第3回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪2≫幻の歴史書だった芸藩誌=プレスネット連載より 

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第2回目です。
 
                 *   

 慶応4年(明治元年)7月、戦史にのこる神機隊の激戦は広野駅(宿場)からはじまった。広野は米作の平野で、遮蔽物(しゃへいぶつ)がほとんどない。
 相馬軍・仙台軍・旧幕府軍の連合4000~4500人の大軍団が埋めつくす。朝昼夜、なんどきも銃弾と砲弾が飛び交う。

 新政府軍の鳥取藩軍は、その恐怖から途中で退却した。孤軍となった神機隊280余人の精鋭部隊は、一歩も引かず、全方位の敵兵をあいてに壮絶な戦いに挑む。死傷者が連続する。
4日間の死闘で弾薬がつきてしまう。
 砲隊長の高間省三が、とてつもない奇襲攻撃をかけて、敵本陣の広野駅を奪ったのだ。

 川合三十郎・橋本素助編『芸藩(げいはん)志(し)』には、こうした壮絶な戦場が克明に描かれている。
 明治半ば、浅野長勲(ながこと)(最後の大名)が、幕末の政治活動をともにやった川合と橋本に、幕末・維新の家史編纂(へんさん)を命じた。
 ふたりは藩の応接掛(外交官)で、政治の裏舞台を知りつくす。さらに、志和で神機隊を旗揚げした中心人物である。なおかつ戊辰戦争には隊長で出陣している。

 編集要員は約300人で、完成は明治42年だった。

 当時は、薩長閥の政治家がつよい権力を持つ。かれらはかつて足軽の身分にも満たない中間(ちゅうげん)や貧農の出身者だった。幕末の頃はまだ下級藩士で、政権内部の機密情報など知りえる立場ではなかった。

 やがて総理や大臣になると、自分たちを偉くおおきく見せるために、腐敗していた徳川政権を俺たちが打倒したのだと豪語していた。

 芸藩志となると、かれらが語る幕末史とは真逆が多い。自尊心をへし折られたかれらは強権で即刻、封印させた。
 幻の歴史書だった芸藩志が昭和53年に、300部出版された。すでに「竜馬がゆく」の司馬史観が世のなかで固まっていた。

 わたしには、それら通説をくつがえし、歴史教科書すらも書き換える内容におもえた。明治政府が修正をもとめず封印したことが幸いし、手垢がついていない。
 その認識のもとに、芸藩志により近く、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を執筆した。さらに、「芸州広島藩 神機隊物語」も4月1日に発売予定である。


 【関連情報】

①「広島藩の志士」(定価1600円 南々社)は、二十歳の炎の新装改訂版です。3月12日から全国一斉販売されます。
「まえがき」「あとがき」「口絵」が付加されています。
 この「あとがき」には、おどろくべき幕末の焚書(焼き棄てる)が明記されています。幕末の重要人物の日記がまったくない。誰が燃やし、破棄したのか。
 悪質な歴史のねつ造は誰がやったのか。従来の幕末史観が、真逆になる可能性があります。

 
②㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪1≫戊辰戦争 連戦連勝の軍隊=プレスネット連載より

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第1回目です。

                 *

 広島には、毛利元就から原爆まで、その中間の歴史がない、といわれてきた。なぜか。学校教育でも、郷土史として習っていない。芸州広島藩は倒幕の先駆けで中心的な存在だが、倒幕には無縁だ、と殆どが思い込んでいる。
 慶応3(1867)年9月、広島藩は、徳川慶喜に軍事圧力で政権返上を迫るために、広島・薩摩・長州の薩長芸軍事同盟を成功させた。

 そこで旧来の農兵とちがう、実戦につよい西洋式軍隊が必要となった。藩の有能な応接掛(外交官)たちが、農商の子弟、神官、医者などに呼びかけて神機隊(しんきたい)を結成した。同9月、志和(東広島)で旗揚げする。職業軍人として、日々、実戦型の訓練で、軍律も厳しく、最新武装の軍隊だった。

 この9月から歴史に加速度がついて、大政奉還、三藩進発(挙兵)、王政復古、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと拡大していく。

 神機隊は、広島藩庁に戊辰戦争の出兵を申請した。だが、大政奉還で徳川政権は終わっている、と拒否された。かれらは承服せず、藩から一両も貰えずしても、あえて自費で全隊員約1200人から精鋭300余人を選び参戦した。
 上野戦争、奥州戦争へと転戦し、命を惜しまない壮絶な戦いを行った。


 諸藩が参戦した戊辰戦争だが、神機隊は連戦連勝の最強の軍隊だったと、知る広島県人もまずいない。

 神機隊の砲隊長は高間省三である。かれは18歳にして学問所の助教というエリートだった。満二十歳で、福島県・浪江の戦いで戦死する。この若さで広島護国神社の筆頭祭神に祭られている。

 どれだけ武勇にも優れた人物だったか。

 明治26(1893)年に、『軍人必読 忠勇亀鑑(ちゅうゆう きかん)』が発行された。
 そこには日本武尊、加藤清正、徳川家康など英雄がならぶ。戊辰戦争ではひとり。西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎でもなく、高間省三である。
 幼少の強い性格、頭脳明晰の優れた人物、戦場での大胆な戦い方、浪江の戦いの壮絶な戦死まで紹介している。

「えっ、芸州広島藩に、こんなすごい人物がいたのか」
 実のところ、私自身もまったく知らなかった。

          写真=最新銃をもった高間省三(広島護国神社蔵)


【関連情報】

 ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(下)

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった歴史上の人物らの日記が、奇怪にも存在しないのだ。ことごとく現在進行形の日記がない。なぜないのか。これは焚書(ふんしょ)以外の何ものでもないだろう。

 これまで学者、作家はいったいなにを根拠に学術書、小説などを書いてきたのか。まったく理解できない。

 明治新政府の顔ぶれは、松平春嶽、尾張・徳川慶勝、浅野長勲(浅野家は松平の姓を名乗れる)。山内容堂(佐幕派)、島津忠義(家定将軍の正室・篤姫)というすべて徳川家である。
 徳川公方様のケイキ(慶喜)さんが身を引き、ほかの徳川家の方々に代わられた。人事の一新を図った、という意味合いで、明治時代のひとたちは『御一新』(ごいっしん)と呼んでいた。大正時代まで、その呼称だった。
 
 一般庶民には、徳川慶喜は、ながくケイキさんと慕われてきた。松平容保すら日光東照宮の宮司になった。戊辰戦争で一人も大名が殺されていない。これは徳川倒幕ではない。
 後世の造語である。
 明治維新となると、昭和に入って言われ始めたものだ。2.26事件の青年将校が「昭和維新」と叫んだことから、政府関係者が「明治維新」と後付したのである。
 

 偉人伝で現存する日記に類似する史料は、あらゆるものが後年の聞き取り、あるいは勝海舟の「氷川清話」のように記憶で書いたものである。勝海舟の書で解るように、都合のよいこと、差しさわりのないこと、我田引水ばかりである。

 現在、NHK大河ドラマの主役となった西郷隆盛の日記も存在しない。

「南洲翁遺訓」となると、旧出羽庄内藩の関係者が作成したものだ。庄内藩といえば、鳥羽伏見の戦いの引き金となった慶応三年12月に江戸の薩摩屋敷を焼き払ったことで有名である。
 かれら庄内藩はかつて江戸の治安部隊だった。
 そこに江戸騒擾(強奪、略奪、美女狩り・強姦、二の丸放火)などテロ活動が横行した。江戸を恐怖に陥れさせた西郷隆盛は最大の憎い敵だった。だから、庄内藩は大砲を撃ち、テロリストの多くを惨殺した。
 その庄内藩士が西郷をほめたたえる「南洲翁遺訓」となれば、怪しいものである。戊辰戦争後、恭順した庄内藩が、新政府に媚(こ)びる面が強い。内心は腹立たしいのに。

「動乱の世は、だれも明日がみえない。迷い、疑心暗鬼、試行錯誤が日記に表れるものだ。それが歴史的事実になる」
 歴史を後ろから作り直した聞き書きは、すべてストレートに辻褄(つじつま)が合いすぎている。怪しいものである。


 土佐藩でみてみよう。山内容堂の日記はない。最も重要な史料がないのである。つづく後藤象二郎、板垣退助、福岡 孝弟( たかちか)らも、当時の現在進行形で書かれた日記がない。なにをもって土佐藩を知ることができるのか。
 龍馬は届いた手紙はすべて焼き捨てている。木戸孝允からきた手紙の裏書き一通だけが現存するのである。鉄砲密売の自分から出した手紙など、どこまで真実か解らない。密なる商売の性格から、はったりも、ウソも、駆け引きも、見栄ぱりの面も多々あるだろう。

 幕末の政治改革は、「薩長倒幕」でなく、德川の人事一新である。あるいは「徳川内部崩壊」だとしても、龍馬の活躍など、大半が作り物だと言っても過言ではないだろう。
 ありもしない船中八策など、いい加減な倒幕という創作幕末史に、私たちはごまかされてきたのだ。


 広島の講演で、質問が出た。
「そんな大規模な焚書(ふんしょ)ができますかね?」
「やる気になれば、できますよ。江戸幕府がつぶれて武士は失業し、食い扶持を探していました。全国260余藩の隅々に散っていた公儀隠密だって、食べていくためには、新しい仕事を探す。明治政府の秘密警察に組み込まれたり、あるもは軍隊の憲兵になったでしょう」
「なるほど。なれた職のほうが働きやすい」

「江戸時代の商人は『各藩の紳士録』を持っていました。商いの重要な資料です。これをみれば、260余藩の上級藩士は、一目瞭然でわかります。明治22年以降に、政府が元公儀隠密の秘密警察に、これこれの日記を処分しろ、と命じたとすれば、かれらは水を得た魚のように、天井裏、床下から深夜に忍び込み、いとも簡単に日記を盗み出すでしょう」

「公儀隠密は、それが仕事だったんですよね」
「そうです。江戸時代に公儀隠密という260余年も徳川政権を支える裏と影の組織があった。だから、明治政府があえて新規に作らなくても秘密工作員の土壌があったのです。中野学校のスパイ養成などの教官にもなったでしょう」

「だれが焚書をやったのでしょう?」
「徳川家が内部崩壊なのに、『幕府倒幕』ということばを世の中に発信した人ですよ。ほんとうの意味で倒幕はなかった。その証拠に、薩長土肥の下級藩士は、明治2年ころまで大臣クラスはいない。せいぜい次官か、局長クラスです。とても、倒幕と言えたものではない」

 徳川家の内部における人事の一新を、「徳川倒幕」にすり替えた。なぜか。
「そうしなければならない存在の人物がいたからです」
 身分の低いもの、学歴のなかったものが最も高い政治的な地位に就くと、過去を誇大視し、偉そうに語るものです。
「実際には倒幕していないのに、自分たちは徳川を倒しただの、徳川よりも優れているんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから倒す必要があっただの、と故意に大きくみせる造作の必要を感じた政治家がいたのです。それが焚書のボスです」
 その心理は現代でも同じです。端的な例は、私の先祖はすごい、と自慢したがります。本当に、そうなのか、と疑っても、まま聞き流して終わりにしてしまいます。

 だが、歴史はそうはいかないのです。

 人間は突然変異なことはしないものです。だから、「歴史から学ぶ」ことができるのです。私たちが現在から将来を洞察するとき、過去の事例はとても大切です。人間はだいたい同じことをしますから、歴史の事象は指針づくりにとても役に立ちます。

 しかし、為政者が自分を大きく見せるために、史料を焚書し、歴史的事実をねつ造していると、私たちは将来にたいする判断や指針が狂ってしまいます。
 
「私が調べたかぎりでは、幕末政治の中心にいた人物の肉筆の日記は、いまの段階では確認できていません」
 皆さんで、大名と家老、そして上級公卿たちの現在進行形の日記を探しましょう。発見できなければ、明治時代、あるいはそれ以降の政治家が、自分たちの不都合で焚書したことになります。指示命令した人物が特定できなくても、大規模な「世界三大焚書」として汚名をきることになるでしょう。

 ぞっとすることですが、事実だったら、目を反らすことはできません。後世の国民を裏切った悪質な政治行為ですから。糾弾されるべきです。

                                  【了】

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(上)

 2018年度1月のスタートにおいて、広島市内で、幕末芸州広島藩研究会と、狩留家(かるが)郷土史会の講演があった。
 歴史小説家として、私が前々から疑問に思って調べていた、謎の幕末史について言及した。

 紀元前200年ころ、秦の時代に焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)がおこなわれた。入試には読み方がよく出る。あえてここでは説明しない。

 近代史・現代史において、ナチスドイツと毛沢東が書類や本を焼く焚書(ふんしょ)で有名である。身勝手に、都合よく思想をゆがめたのである。
 まさかと思ったが、日本の幕末史も明治政府によって焚書がなされたはずだと強い確信に至った。そして、『世界三大焚書』と称し、ナチスドイツ、毛沢東、明治政府を並列においた。


 慶応3年12月9日小御所会議に参加した大名の日記が、それに該当する箇所が無いのだ。さかのぼれば、大政奉還から、明治初年の「五箇条のご誓文」あたりまで、小御所会議の5大名や家老たちの日記が燃やされたり、破られたりしているのだ。

 もっと掘り下げると、松平春嶽、徳川慶勝の日記は、慶応3年末の項が抜かれたり焼かれたりしているのだ。浅野長勲、島津茂久の日記も存在しない。小松帯刀も同時期の日記が抜かれている。
 山内容堂の日記は存在しない。主役とされる岩倉具視すら、政変の内情を実証できる日記が存在しないのだ。
 これはどうなっているのか。


 幕末史に関わる主要人物(大名・家老クラス)の日記は、現在進行形で書かれたものはないのだ。徳川慶喜、小栗上野介も無い。


 国立国会図書館のアーカイブの「大久保利通日記」の冒頭には、明治22年に家屋が火災に遭い、日記の本物が焼失した、と明記している。運よく筆写もあったが、その後、霧消したと述べている。

 明治22年ごろから焚書が行われたと推量できる。大久保利通が暗殺されたのは明治11年だから、薩摩藩閥の力が弱まったころだ。
 明治22年は、伊藤博文の憲法発布がなされた重要な年である。

 大久保家の全焼はたんなる失火とは思えない。焚書だろう。その仮想定のもとに、さらに調べてみた。

 木戸孝允は毎日、日記を書いていた人物である。(死ぬ直前まで必ず書いている)。だが、「木戸孝允日記」も、明治元年4月1日以降である。それ以前はない。だれが、それ以前の日記を外したのか、あるいは盗んだのか、この世から抹消したのか。

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった、当時の歴史上の人物は、ことごとく現在進行形の日記がない。これは焚書以外の何ものでもないだろう。
                            
                                  【つづく】   
 

【近代史革命】徳川幕府は自滅だった=薩長倒幕の偽りと龍馬が消える日

 歴史は疑問から入れば、隠されていた真実が浮上してくる。

 幕末・明治維新の当事者は当然ながら、亡き人であり、直接話を聞けない。実証できない。明治時代の為政者が自分たちに都合よく、幕末史をねじ曲げたり、造りかえたり、偽りの仮面をかぶせたりしてきた。それがまかり通ってきた。


 明治維新から150年が経った。「薩長倒幕」がいまなお真実の用語として、大手を振って、歴史の中核に座っている。この用語はいずれ歴史教科書から消える日が来るだろう。

 慶応3年10月15日に、徳川家は朝廷に大政奉還した。同年12月9日には小御所会議で、王政復古の大号令がかかり、明治新政府が誕生した。

 大政奉還のときも、小御所会議の明治新政府が発足したときも、京都にいた長州藩士は潜伏する品川弥二郎が一人だった。

「長州藩士が品川弥二郎たった一人で、薩長倒幕っておかしくありませんか」
 私は、講演や講座で、そう語りかけると、ほとんどが不自然な顔をしている。
「薩長倒幕とは、あまりにも作り過ぎです」


「最近の報道で、驚いたでしょう。坂本龍馬の存在があやしくなりましたね。かれは日本の歴史に影響を与えていない」 
 中高校生の日本史から龍馬の写真が消えてしまう。

 坂本龍馬は大政奉還の提案者でもなければ、倒幕にはさして関わっていない。船中八策は大正時代の土佐・文人の作り物だったのだから、当然でしょう。
「新政府綱領八策は龍馬の署名・実筆です。まちがいなく、龍馬が推し進めたのです」
 こんな反論が聴講生からあった。

「よく考えてみてください。重要な会議・会談・密議の場合は、トップは書き役、つまり書記はしないでしょう」
 龍馬は「書き役」という下っ端の存在だった。現代でいえば、単なる書記だった。
「幕末政治を動かしたのはもっと上の存在の人物です。つまり、龍馬の署名そのものが、下っ端だったという物的証拠です」
 龍馬を推理小説にしても、この程度のことは中学生でも推察できるかな。


 いろは丸事件でも、龍馬は沈没船に金塊・最新銃を積んでいたと大ウソをついて徳川紀州藩から8万3000両を奪った。海底に沈むいろは丸の潜水調査で、詐欺が実証され、150年間にわたる化けの皮がはがれてしまった。


 龍馬は幕府府の目を盗み、法に反した鉄砲密売人で諸藩に兵器を売りさばいていた。非合法で儲ける。アメリカ流でいえば、アールカポネと同じだ。

 龍馬が売りさばいた銃器が戊辰戦争に使われて日本人の大勢の血を流す一端になった。己が儲かれば、違法な鉄砲を売るという利己主義だった。

 こうなると、英雄・龍馬の虚像も崩れてくる。いまや歴史教科書に写真を載せるほど、明治新政府の政権作りに寄与した人物ではないと認識されたのだ。


 従来の龍馬像を信じて疑わない人は、薩長同盟を持ち出すだろう。慶応2年1月22日に京都の小松帯刀邸で、龍馬が仲介し、薩長同盟が結ばれた、これが徳川家の倒幕に役立ったと信じられていた。

 同年6月に勃発した第二次長州戦争で、徳川幕府が負けた、ここから徳川政権が崩壊したというだろう。
「長州藩は長州戦争のさなかに、同年9月に宮島の大願寺で、幕府と休戦協定を結んだ。勝海舟と長州藩の広沢真臣たちだった。その後、長州は朝敵として、本州のはずれの現在の山口県にずーっと閉じ込められたままで、なんら倒幕に関わっていません」


 小御所会議の時、薩長の当事者である薩摩藩家老の小松帯刀、長州藩の木戸孝允が京都にいなかった。つまり、薩長の主要な人物は、政治の大変革のときに姿がなかった。これは何を意味するのか。 

 伊藤博文、井上馨たち長州閥が明治半ばに歴史をゆがめて作った「薩長倒幕」ではなかったのだ。
 
 なぜ、徳川幕府が倒れたのか。

 歴史に先入観のない学生たちに、次の点を掲げて「薩長倒幕」って、ほんとうだと思う? と訊いてみたい。


 世の中の仕組みはビラミット型の三角構図でなく、円いかたちで周囲が回転している。政治の場合は中心点があり、円周を行政、軍事、経済・文化など諸々がまわっている。この中心点は本来一つであるべきなのに、幕末には将軍と天皇という2点があった。
 この不自然さが徳川幕府を弱体化させてしまった。


 この慶応2年に家茂将軍が死去した。それにともなって一ツ橋慶喜が徳川宗家を相続した。しかし、将軍職就任は拒み続けた。譜代大名が老中の輪番制で、統括者がいない、頂点の将軍が不在のまま、それぞれの思惑と模索で政治が動いていた。政策の方向性と統一性が示せず、幕府がどこへ向うべきか解らなかったのだ。


 政治発言力の強かった孝明天皇が同年に崩御した。践祚(せんそ)した明治天皇は幼すぎた。実権もなく、政治力もなかった。

 慶喜が政治の主軸の将軍を受けた。幕府に方向性が出た。知的水準の高い慶喜は家康の再来か(木戸孝允の表現)といわれるほど、まるで人間が変わったように、思い切った幕政改革と近代化を推し進めた。留学も推奨した。兵庫港(神戸)の開国も決めた。目を見張るものがあった。諸侯はだれもその勢いは止めきれず、慶喜には四候会議まで崩壊されられた。

 ロウソクが消える前に、ぱっと火が強く明るくなる。それに似ている。慶喜が将軍になってから、わずか10か月である。
 かれは水戸家出身で、皇国思想の持ち主であった。
「日本人の頂点に天皇がいる。政権の任命権は天皇にある」
 これが皇国思想である。


 慶喜は、慶応3年9月に薩長芸軍事同盟を知った。(薩摩、長州、芸州広島)。これが幕府に対する軍事圧力で、この先、武力倒幕路線に進むことを予知した。

 皇国思想から慶喜は潔(いさぎよ)く政権を天皇に返還し、むしろ徳川宗家の存続のみを図ったのだ。(現在でも、徳川家は歴然と存在する)。それが大政奉還である。一言でいえば、慶喜はみずから幕府を破壊させた。だれもが権力を転覆させられなかったのだ。

 当時、列島の四方は諸外国が虎視眈々とわが国を狙っていた。外交にたけた慶喜が戦火回避で、幕府の自滅させて朝廷に一本化を図ったのだ。さかのぼること、長州戦争を休戦させよ、と宮島に勝海舟を行かせたのも慶喜だった。
 
 大政奉還で政権を託された明治天皇は幼すぎた。何もできない。慶喜将軍が政治支配から手を引いてしまった。政治のふたつの求心力がいちどに無くなってしまったのだ。政治の空白ができた。
 しかし、小御所会議まで、いちども軍事衝突が起きずに明治政府が成立したのだ。この間に、薩長の2藩が表だって政治を転覆させていない。これは明白な歴史的事実だ。

 だれが薩長倒幕だと、幕末史をねつ造したのか。それは明治時代の薩長閥の政治家たちである。


 当時の政治家が作ったものにせよ、偽りの歴史がいつまで続くとは思えない。「薩長倒幕」は明確な権力転覆の根拠はないし、不合理で不自然すぎる。
 歴史家にも良心がある。やがて教科書から「薩長倒幕」が消える日がくる。当然ながら、そうなると、薩長に寄り掛かる坂本龍馬も、完全に抹消されていくことになる。

幕末の御手洗「薩芸交易」の舞台に脚光 

「大政奉還150年御手洗大会」が、 ことし(2017年)10月14日に、広島県・大崎下島の御手洗港で行われた。
 同港の乙女座で、同講演のなかで「薩芸交易」から長州を巻き込んで、「薩長芸の軍事同盟に進み、それが大政奉還へと進んだ」と私が御手洗からの倒幕を語った。
 経済は政治を動かし、歴史を作る。経済の視点から、多くを語った。

 一般に幕末の歴史を語るとき、年表、あるいは政治史から語られてしまう。となると、歴史を後ろから見た辻褄(つじつま)合わせに陥りやすい。徳川倒幕が必然だと結果ありきになってしまう。
「薩長討幕」ということばすら、疑問のひとつも持たない。

 慶応3(1867)年12月9日に、明治新政府ができた。このとき、長州藩士で京都にいたのは、わずか品川弥二郎ひとり。これをもって薩長討幕はおかしくないだろうか。

 明治時代はいつからか。大政奉還、小御所会議の王政復古による明治新政府樹立がなされた慶応3(1867)年であり、、教科書で教えている一八六八年はおかしくないだろうか。

 もし戊辰戦争が終了した時点となると、箱館戦争(はこだてせんそう) 1869年になる。だれがいつ一八六八年と教えはじめたのか。


 それは明白である。
 明治新政府ができたとき、長州藩士で京都にいたのはわずか品川弥二郎ひとりとなると、ここから長州藩が倒幕に関わったとはいえない。
 まして、慶応3年の11月末には、長州藩の軍隊は薩長芸軍事同盟のもとで、御手洗港から進発し、淡路島沖、西宮、尾道で待機していたのだ。待機では、倒幕の主力とは言えない。
 長州藩の家老や藩士は、明治新政府の樹立を聞いたのみだった。ここらは歴史的事実だし、多くが小御所会議にかかわっているから、長州なんて、ひとりもいなかったじゃ、恰好つかない。

 長州閥の政治家としては、明治天皇が「五箇条のご誓文」を誓った一八六八年とするか。こんなところだろう。

 このように歴史は疑ってみることだ。鎌倉幕府だって、今頃になって年号が変わるご時世だ。そろそろ明治維新は、明治天皇が戴冠した、大政奉還、明治新政府の樹立という歴然たる事実がある慶応3年くらいに修正しないと、恰好がつかない。

 広島県の御手洗に話が戻れば、御手洗港は、薩摩の海外密貿易の湊だった。

 薩摩藩は長崎でなく、この島に外国船を入港し、綿やお茶を輸出し、武器弾薬を輸入していた。そのうえ、贋金づくりの地金は広島藩産出の銅・鉄を使う。この御手洗会所から入手していた。

 密貿易、贋金、となると、徳川幕府の下では御禁制である。一つ間違えば、島津家が改易(とりつぶし)に遭う。危険な証拠書類や証拠品はできるかぎり処分している。
 
 中国新聞は11月9日の文化欄で、表題『「薩芸交易」の舞台に脚光』と大きく報じてくれた。林淳一郎記者の署名記事である。

『大政奉還150年、広島藩の役割、解明の鍵』として、私(穂高健一)の後援と、広島県立文書館の広島藩史に詳しい西村晃総括研究員の紹介を載せている。

「薩芸交易について、知る人ぞ知る出来事。おこなわれたのは確かだが、史料は限られ、全容はぼんやりしている」と西村さんの談話を紹介している。
 
 歴史は勝者がつくる。案外、史料は焼却されていないものだ。これから幕末史研究者やファンは御手洗が面白いだろう。
「御手洗から明治維新がはじまった」
 この視点から探れば、掘り出し物が出てくるだろう。

 お金に余裕があれば、オランダ、イギリス、フランスの公文書の史料から『MITARAI』を徹底して調べられると、御手洗の密貿易の実態が浮かび上がってくるだろう。メッキ二分金をつかまされて軍艦、鉄砲を売ったイギリス商人あたりは怒り心頭で、証拠の資料は豊富にあるかもしれない。
 明治2年には、高輪談判(イギリス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐日公使による会談)で、大問題にもなったくらいだから。その調査資料は5か国にはあるだろう。

 幕末の御手洗港の薩芸貿易という経済問題から歴史をみていくと、闇の世界、裏の世界、汚い手口から政治が動くとよくわかる。『MITARAI』から幕末史が変わる可能性は高い。