歴史の旅・真実とロマンをもとめて

地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨(3)

 マルタの近衛兵はソフトな感じだ。長く植民地支配に甘んじていたらしく、刺々しさはない。マルタの治安はすこぶる良好である。
 バックなど路面において撮影していても、不安感はない。日本とおなじ治安の良さを感じる。


 イタリア・ローマを悪くいうわけではないが、観光地には小銃を持った軍人が要所、要所に立って警戒している。ホームレスの物貰いの老婆を怒鳴りつけていた。あの嫌悪感はマルタにはなかった。

「騎士団長の宮殿」の学芸員を訪ねてみる。ふたりの学芸員が応対してくれたが、第一次世界大戦の資料はないという。バレッタの市街地には、探し求める高間完が通っていたmr.Dimeche一家に該当する本屋もないと話す。

 実際に、それらしき本屋は街中になかった。事前のマルタ観光局の説明通りだった。

 

 高間完の目線で、マルタ人の気質とか、町を知りたいと、バレッタの街なかを歩きまわった。最先端の海岸にいくと、観光馬車の客引きがいた。30ユーロだという。ひとことで言えば、浅草の観光人力車の類だった。

「戦争博物館(Malta at War Museum )にいきたい」というと、知らないという。本当かな。地図でスリーマを示すと、ここらは大きな湾曲の対岸だから、バスで行っても30分は費やすという。たしかに、地図上では極端な深いリアス式海岸だ。

 橋が架かっていなかった江戸時代に、左岸から右岸に行ってくれ、といわれても、簡単にはいけない。わたしなりに、地形からそう理解した。むろん、イギリス大英帝国の海軍の軍港として、地中海における最高の地形だったのだろう。

「フェリーに乗れば、簡単に対岸に渡れるよ」

 海上から100年前の軍港をみてみたかったわたしにすれば、念願の船に乗れる機会がおとずれたのだ。それならば、と馬車に乗った。

 馬の蹄(ひずめ)が、カタコト・カタコトと鳴る。高間完たちは海軍の軍人と言えども、乗馬の訓練は受けているだろう。スリーマの軍港から、バレッタの本屋に向かうときはボートだろうが、ときには乗馬で移動することもあったのかな、と思う。
 マルタ人に訊いても、ここらの詳細はまったくわからない。当時は軍人の移動すら軍機密だろう。


 
 ここがフェリー乗り場だという。閑散としていた。少女が次のフェリーを待っていた。発着時間表もあったので、馬車の案内は間違っていなかった。

 次第に客が集まってきた。ほとんどが観光客だが、船賃は生活の足として1,5ユーロ(日本円で約220円)と安かった。

 日本海軍の駆逐艦が、100年前に、このスリーマ港のイギリス基地に入港していたのか、とおもうと、特別な感慨が持てた。
 
 上陸すると、坂道を徒歩で10分ほどでマルタ戦争博物館に着いた。受付で、訊ねると、
『第一次世界大戦のころは、マルタは植民地でした。戦争関連資料は現地にはありません。イギリス・ロンドンで調べないと出てきません』
 まさしく、そうだろう。第二次世界大戦のとき、日本は朝鮮を植民地にしていた。朝鮮人に、日本帝国海軍の動きや資料などわたっているはずがない。そう思えば、すべて納得だった。

 受付嬢が「日本の作家が100年前のマルタ人を探しに来た」といい、奥から女性学芸員を呼び出してくれた。とても喜んでくれた。

 彼女は難解な用語は避けてくれたり、言い回しを変えてくれる。結果は皆無だが、高間完のスペルを教えてほしいとか、わたしのメールアドレスとかを訊き、日本海軍の高間完がわかれば、連絡をしてくれるという。

 地中海派遣では犠牲になった日本軍人がいる。かれらが眠る墓地へと向かう。戦争博物館前のバス停で、路線バスN03だと教わった。近くまで行ったけれど、閑散として案内板もなく、目標物もないし、通行人も皆無だし、とうとう断念した。

 高間完の新しい発見はなにもなかった。
 明治・大正・昭和の戦争の政治・経済などからみた起因はそれなりに知識はある。だが、戦場となると、戦争賛美になるようで、書く気すらもないし、軍艦名すら関心がなかった。わたしとすれば、高間完という将校と民間人との心の交流が知りたいのだ。相手は本屋さんなのだ。

 恩師の伊藤桂一氏は戦記物で直木賞を取っているけれど、わたしにすれば、戦争に対する考え方と体質がちがう。
 
 日本に帰化した外国人作家C.W. ニコル著「特務艦隊 」は、日英同盟をもとに日本海軍が、地中海に艦隊を派遣した、戦場そのものを扱っている。成田からローマへの往路の飛行機で斜め読みしていたが、とおく足元にも及ばなかった。


 墓地は見つからないし、タクシーはないし、復路でやってきたバスに乗りこみ、バレッタに帰ってきた。
  

 夕方、フェリー乗り場では、2隻の大型客船の同時出航の風景が見られた。

 目の前で、入航時とは真逆の180度旋回し、豪快に出航していく。ふと思いついて、動画に収めた。

マルタ島・バレッタ港から出航する大型客船が狭い航路だけに、ど迫力である。

              【つづく】

 


地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨(2)

 マルタ島は、イギリス支配下が長かった。それだけに、英語が母国語なみに通じる。こちらの質問があやふやでも、文法通りでなくても、相手は充分くみ取ってくれる。

 日本に来た外国人から、「知っている、銀座」と問いかけられても、この人は銀座に行きたいんだな、忖度(そんたく)して、交通機関を教えてあげられる。
 それとおなじ。こちらがネーティブな英語の答えを聞き取れるヒアリング力さえあれば、5W1H的な質問で、十二分に通用する。

 マルタ島のホテルは、リゾート地で、アメリカ資本の豪華なホテルだった。およそ、Dバッグの旅行者には似合わない。これならば、ツアーの約2倍だ、と妙に納得させられた。

 フロントの女性から、いきなり「お水を飲みますか」と問われた。戸惑う。どういう意味ですか、と聞き返しても、同様のことばしか返ってこない。
 わたしは久しく使っていない英語が理解できないのかな、と思った。
 すると、グラス・コップを見せられた。『駆けつけ一杯の日本酒』ならば、即座に理解できたはずだか、フロントで水を勧められる習慣にはおどろかされた。

 わたしはかつて米国を旅したとき英語で質問できても、答えが聞き取れなかった。その反省からしゃべれなくてもよいと思った。東京はFEN(横田基地の米軍放送)が聞ける。ニュースをカセットに録音し、毎日2時間、3年半にわたって英語のシャワーを浴びている。

 thなど、日本人の発音のないものはとうとう聞き取れなかったが、ニュースの速さでも、かなりところついていける。ただ、耳で受け止められても、頭のなかで翻訳しようとすると、止まってしまうけれど……。

 駆けつけ一杯の水から、わたしの英語の日々がスタートした。

 地理を知るためにも、欧米人の雰囲気になれるためにも、翌朝、宿泊ホテルで「1日乗り放題の観光バス」の乗り場とチケットの購入方法を訊いた。


 首都・バレッタに近づいた。そろそろ観光バスから降る算段をした。乗り継ぎ自由だから、気が楽だ。

 メイン通りはにぎわっていた。マルタ島には日本人・中国人らしき東洋人が皆無だ。ナイジェリアなど近いはずだが、アフリカ系のひともいない。まわりは欧米系とマルタ人だけだ。

 ローマの東洋人の多さのうんざり感から、1日で解放された。と同時に、ケータイ通信がないし、現代の日本など、どうでもよくなった。スムーズに100年前の世界への連想に入り込めた。
 
「100年前の高間完中尉は、目のまえにある風景や人物に接し、どんな気持ちになれたのか」
 わたしはつねに自分の思慮をそこにおくことができた。


 バレッタのメイン通りの左右はすべて傾斜道だった。事前にマルタ観光局から仕入れた知識によると、古代の騎士団の防御のために作られた地形らしい。数千年の歴史がある都市だから、100年前の日本軍人がみた地形と同じ、と教わっていた。その目で凝視できた。

 高間完はこのバレッタの街を左右を見ながら、歩いたのだろう、と感慨を持てた。

  
 かたや、石造りのアパートで、ほとんどが低層だった。「木の文化」の日本人ならば、スクラップ・アンド・ビルドで、まずは全部取り壊してしまうだろう。湿気が多い、日本で数百年の石の家にしろ、かび臭くて、耐えられないだろう、と現代人の目にもなってしまう。
 

 わたしには寺院の興味がない。高間完は晩年にはキリスト教徒になったと聞いている。となると、聖堂を訪ねている可能性は高い。バレッタでも名高い一つに足を向けた。
 ローマのように数百人の列だったら、時間の無駄で止める気でいた。ちょうど12時の昼食どきだったので、20人ほどの列だった。

 聖堂の内部は撮影が自由で、フラッシュだけは禁止だった。
 一眼レフならば、うまく撮れるのにな、と思ったが、Dバッグ一つでは古いデジカメだけだ。そのうえ、画素数の高いスマホカメラは失くしている。「写りが悪いな。ぶれるな」とカメラの静止に工夫を凝らしながら、シャッターを押していた。
 それでも、日本のように、なんでも撮影禁止とちがい、心地よい。

 高間完はどんな想いで聖堂のなかを鑑賞していたのだろう。

西洋人は、首を高く曲げて、感心して魅入っている。だが、わたしのほうは宗教画を観ながら、日本の浮世絵とか、春画とかと比べていた。

 日本が安政時代に開国すると、大量の浮世絵がヨーロッパに流れた。宗教に拘束されたヨーロッパの画家たちは、日本の天真爛漫な絵師の体質に驚いた。
 江戸時代は13-14歳で女子は嫁に行く。春画は嫁入り道具と一緒に持たされる類のものだ。日常生活のなかに溶け込んでいた。

 宗教画の画家などが、浮世絵に飛びついた。つまり、日本が浮世絵を通して自由主義を輸出したのだ。ヨーロッパでは絵から、科学技術、思想、政治へと発展した。

 明治時代の日本人は、ヨーロッパの自由主義の絵だと言われても、およそなにが自由なのか、よくわからなかったのだ。

 現在でも、多くの日本人は、「自由主義は欧米から来た」と勘違いしている。宗教画を凝視するほどに、浮世絵の果たした役割が実感できた。 

地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨 (1)

 地中海に浮かぶマルタ島はかつてイスラム帝国、スペイン、フランス・ナポレオン、そしてイギリスの植民地だった。第二次世界大戦後も久しくイギリス支配がつづいた。1964(昭和49)年にマルタ共和国として独立している。
「地中海の美しすぎる島」と呼ばれているけれど、海外通の日本人ですらも、名まえは知らっているが、同国を訪ねたひとはほとんどいない。

 わたしはことし(2018年)10月2日から、空路・ローマ経由でマルタ島に入った。目的はちょうど100年前に、地中海にやってきた旧日本海軍の若き将校・高間完(たもつ)の足跡を訪ねる取材だった。
 予備知識で、この春先には東京・新橋にあるマルタ共和国観光局を訪ねた。そこで、高間完中尉が1919年に撮影した写真と、その裏書を示した。
『寄港地のマルタの首都・バレッタで大きな書店を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈った同一(焼増し)のものだ』と記する。
 さらに付箋紙で、こう書かれていた。
『かつては、俺にも、こんな青春(26才)があったのだ。然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼ (八十五歳誕生日 偶感)』

 担当局員が懇切丁寧に、ネット、関連資料などで調べてくれた。「現在は、該当するmr.Dimecheなる本屋さんはありませんね」という気の毒な表情の顔だった。

 
 ふつうならば、ここで取材はあきらめる。100年前の高間完がマルタ島で、現地人とどんな空気感をもって接していたのか。軍人と民間人。それがやみくもに知りたくなった。日々に、マルタ共和国に行きたい気持ちが募るばかりだった。

           ☆

 私は取材型で小説を書く。架空や空想で書くのは3、40代の習作までだった。プロ作家となってから、より事実に近いところで書く、それを読者に示す姿勢が漸次強まってきた。いまでは、取材無くして、小説を書けないところにまで来ている。

「現地を歩けば、なにか得られるだろう」
 それが思わぬ真実の発見であったりする。歴史小説にはとくに有効だった。

 ただ、取材コストに見合った印税など、おやそ縁がない貧乏作家だ。子どもの頃から「おまえは欲がなさすぎる。ゼッタイに商売人にはなるな」と実母からくり返し言われたものだ。
 講座や講演でも、求められたら舞い上がり、コストの観念などはどうでもよくなる。国内ならば、いざ知らず、海外取材となると、金銭のねん出がむずかしい。
 まずはパスポートを作り、わたしは自分を鼓舞した。そして、金策を考えた。妻にむかって、「死んだときにしか入らない生命保険を解約してもいいかな。取材費に使いたい。どうせ死後、子供にわたっても、2~3日でバーッと使われておしまいだろう」と持ちかけた。

「好きなようにどうぞ」と一つ返事だった。それは本音か否かの詮索など不要だ。その言質を取ると、すぐさま旅行会社に申し込んだ。

 数少ない企画・マルタ島ツアーを勧められた。わたしには企画通りの旅など毛頭、思慮になかった。

 8日間の日程に合わせた航空券とホテルを手配してもらった。その金額はツアー・バックの2倍くらい。ずいぶんと高いものだなと一瞬思ってもみたが、生命保険の解約金額からみれば、割安感たっぷり。

 あきれ顔の妻の質問は、からめ手だった。「息子が、もし父親がマルタかどこかで死んだら、僕が引き取りにことになるの? と聞かれたけれど」と問う。
「取材先で死んだら、ボディを探したり、引き取りも拒否すればいいさ。墓など作らなくてもいいよ」

 わたしはかつて「山で死んでも、遺体は探すな、捜索費用が高いから」とつねに家族に言いおいてきた。だから50代まで、家族に登る山岳は教えなかった。
 最近は登山カードがうるさいご時世だし、社会批判も強い。だから、それはやめて、登山計画書は残していく。

「ボディも、墓も不要」
 わたしの考えが息子にうまく伝わったかどうか知らない。息子は早大時代にきな臭いアフガンとか、パキスタンとかに放浪し、数か月、連絡がとれずにいた。母親(妻)がいたずらに心配していた。血筋だろうか。父親の生死など案じるはずがない。
「この10月に転職するから、いきなり、マルタ島なんて行けないって」と妻経由で、予想通りの回答がきた。
 子どもはわが道を行けばいいのさ、と思う。

          ☆

 ヨーロッパは初めての経験だ。軽登山用30LのDバッグ一つ。パソコンと資料を入れたら、あとは下着は上下一組。乗り継ぎ先のローマで1日過ごそう。そして、下着を買い揃える。航空券はその手配だった。あとはクレジットカードがあれば、なんとでもなる。

 観光地のローマでは寺院旧跡に出むいてみたが、入場の長い列とダフ屋が群がっている。日本人と中国人の観光客ばかりで、うんざりした。

 わたしは遺跡に興味ないし、噴水とか、広場とか、ぶらぶらしてから、好奇心で、観光地に群がる客引きの乱暴なタクシーに、ものは経験で試乗してみた。むろん、値段を決めてから乗り込んだ。
 運ちゃんは想像通り、道交法などあって無いような運転で、人間やバイクはドケドケ、道を空けろ、という荒っぽい運転だ。怒鳴りまくっている。若くて美しい娘がいると、スピードを緩め、車窓から冷やかしと口笛を吹く。
 わたしは面白がっていた。カード支払いは危ないので、現金のユーロにした。下車の際にケータイを落してしまった。
「悪名高きローマだ。東京とちがって、遺失物が出てくるはずがない」
 すぐにあきらめた。

 予備のタブレットを持っていた。だが、3年前に無駄な通信費だと回線は切っている。つまり、電話はできない。メールだけである。欧州で使えるWH-FIを起動させたが、「LINE」のパスワードを忘れており、立ちあがらず、ライン電話はできない。

 高所登山、冬山では、生死を分けるアクシデントが起きても、落ち着いた判断と行動する能力がつねに求められる。それは瞬時に、気持ちを切り替えることである。
「こんなアクシデントは旅の良い想い出になる。ありがたい」
 そのままマルタ島に入った。

             ☆

 高間完とは、拙著「二十歳の炎」「広島藩の志士」「神機隊物語」で主役で登場する、高間省三の弟の子である。つまり、高間省三の甥っこである。

 完は、広島高等師範付属中学から、江田島の海軍兵学校に進み、海軍士官、太平洋戦争の勃発時には戦艦「榛名」の艦長だった。昭和20年には中将で、のちに勲一等を受賞している。

 軍歴を見れば、海軍の超エリートだった。
 
 20世紀に入ると、第一次世界大戦が勃発した。大戦後半に入ると、ドイツ潜水艦のUボート300隻が地中海で暴れ回った。英仏の軍用艦を華々しく優勢に攻めたのだ。連合軍の商船が、魚雷で延べ5300隻も沈没させられている。

 日英同盟の下で、日露戦争の海戦で勝った日本海軍が、危険なヨーロッパ戦線に派兵をもとめられた。日本国内は賛否両論。加藤友三郎海軍大臣(神機隊の加藤種之助の実弟)が第1~第3の特務艦隊をつくり、その最も危険な海域のマルタ島に、日本海軍を援軍として派遣したのである。 
 高間完中尉は第二特務艦隊の司令官のひとりだった。そして、駆逐艦の橄欖(かんらん)に乗船し、独Uボートの攻撃から、英仏の輸送船や艦船を守る任務についた。
 かれにすれば、約一年半におよぶ遠征だった。

 日本海軍の護衛活動は、英仏の連合軍諸国から、後々まで高く評価されている。

 

 高間完が80歳の晩年にしての、思い出は軍人の手柄話でなかった。太平洋戦争の軍艦「榛名」の艦長の語りでもなかった。

「これが俺の青春だった」と書き残したのは、第一次世界大戦のさなかヨーロッパに派遣された27歳の中尉の想い出である。

 地中海の孤島・マルタ島のバレッタにすむ民間人の書店主と『親友』という交流が、かれの生涯の財産だったのだ。つまり、植民地民族の人と心を通わせていた。その精神が、わたしには魅力ある人物に思えるのだ。

 1919年のマルタ島の書店主。当然ながら、当人は生存していない。それでも、Dバッグひとつで地中海に出むいたのだ。

         【つづく】


『講座・案内』 穂高健一「幕末・維新を動かした人たち」=朝日カルチャー・千葉

朝日カルチャー千葉 第3回「幕末・維新を動かした人たち」

 講師=穂高健一

 開催日= 第3週・土曜日 13:00~15:00

 参加費= 3回 会員 9,072円 一般 10,368円


 10月20日(土) 13:00~15:00

  坂本龍馬と長州戦争

 坂本龍馬が介在した薩長同盟と、第一次長州戦争と第二次長州戦争の実態はいかなるものだったのか。長州は幕府の休戦協定後、表立って徳川倒幕への動きはできなかった。

 龍馬は、藩論一致で倒幕を決めた芸州広島藩に傾倒していった。

11月17日(土) 13:00~15:00

 徳川慶喜と大政奉還

 江戸幕府は260余年も安泰がつづいた。
 15代将軍・徳川慶喜が独断で、政権を天皇家にもどした。二条城で、慶喜はだれにも文句を言わせず押し切った。慶喜は家康の再来といわれた実力者だった。明治に入っても、「ケイキさん」と庶民に慕われた。


12月15日(土) 13:00~15:00

  岩倉具視と王政復古

 岩倉具視は孝明天皇から謹慎処分を受けていた。
 突如として、岩倉が明治新政府に座ったことで、予想外のことが起きた。親政が日本書紀、古事記の律令政治の再現までさかのぼった。明治天皇が神さま。かかげた祭政一致が、岩倉の政治権力づくりの狙いだった。


 この「幕末・維新を動かした人たち」は、人物の視点・思想から歴史をとらえる、連続講座です。

第1回目

 4月21日(土) 大塩平八郎と天明・天保の大飢饉
 5月19日(土) 阿部正弘とペリー提督来航
 6月16日(土) 岩瀬忠震と日米通商条約

第2回目

 7月21日(土) 吉田松陰の軍事思想と中国侵略
 8月18日(土) 島津久光と薩摩藩の贋金づくり
 9月15日(土) 木戸孝允が武門政治の終結させた。

そして、こんかいが第3回目です。

【申し込み】
朝日カルチャー千葉「幕末・維新を動かした人たち」

【講演・案内】穂高健一講演「德川が育てた人財たち~近代化の真の立役者~」=神奈川県・大和市 =

 こんねん(2018)10月28日(日曜日)午前11時から、穂高健一が「德川が育てた人財たち~近代化の真の立役者~」演目の講演をおこなう。

 この企画は『明治維新150周年記念・プロジェクト幕末』のシリーズもので、わたしが第8回「幕末の徳川家」に招ねかれて、講演の部を受け持つものである。

 主催者=一般財団法人天文郷芸術文化財団

 場所=和食&中華『DINING華』
    神奈川県大和市中央5-6-1

 参加費=5000円 (幕末ゆかりの和食コースメニューをご用意)

 箏演奏=酒井悦子さん
 国際的な演奏活動をおこなう。世界各国の来賓の歓迎レセプションなど迎賓館で演奏する。


 申込み= TEL&FAX 046-204-8141

【講演・案内】~知られざる幕末から明治維新=葛飾区立水元図書館

 穂高健一の幕末講演会『知られざる幕末から明治維新』が、葛飾区立水元図書館で、平成30年9月22日(土曜)午後2時から4時まで開催されます。

【詳細】

講師・穂高健一

日時 9月22日(土曜)午後2時から4時
      開場時間*午後1時30分

会場 葛飾区立水元図書館2階「水元集い交流館」
   葛飾区東水元1-7-3
    
アクセス JR金町駅・京成金町駅 駅前からバス 「葛飾総合体育館前」で下車

定員  50人(当日先着順)

入場料 無料

お問い合わせ先 03-3627-3111

 掲載写真 2018年1月28日、葛飾区立立石図書館、約100人の参加者です。

 3月・東広島市、5月、広島市・船越、9月8日(土曜)広島・五日市ともに約150人の参加者がありました。

 水元の会場はやや狭くて、定員がありますから、お早めに入場ください。
  
   
 
  

【幕末・維新フォ-ラム】芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕=9月8日・広島県五日市

『幕末・維新フォ-ラム 』として、『芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕』が9月8日(土)に、広島市佐伯区の五日市で開催されます。

 禁門の変から長州戦争へ。戦いの舞台となった大竹、五日市、廿日市の戦火、そして御手洗へと、倒幕への流れができていく。
 広島藩の若き志士たち、桂小五郎、大久保利通、坂本龍馬たちが大崎下島・御手洗に集まり、四藩軍事同盟の密議をおこなった。そして、いよいよ倒幕へと火の手が上がった。

 そこから150年間にわたり、なぜ突如として慶應3年11月末に、芸薩長の6500人の西洋式軍隊が京都に挙兵できたのか、とまさに歴史の空白だった。

(同年・同月15日には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されている。かれらは1週間前の御手洗密議に参列していた)
 大河ドラマでは決して語られない歴史の空白だった。その真実が現地の郷土史家の方々によって今明らかにされます。


日時:平成30年9月8日(土)13:00~16:00


場所:光禅寺(🏣731-5127 広島市佐伯区五日市2丁目1-1) TEL:(082) 921-0011


 入場 : 無料

13:00~13:10(10分)  あいさつ・講師紹介ほか


13:10~14:10(60分) 《第一部 基調講演》~穂高健一

            ☆

14:20~16:00(100分)《第二部 パネル・ディスカッション》

 司会:(コ-ディネ-タ-)穂高健一

 パネリスト(各20分)

「西国街道と長州戦争」~佐々木卓也さん(五日市西国街道散策倶楽部・指導員)

「芸州大竹口と戦跡」~畠中畃朧さん(大竹市歴史研究会・会長)

「日本遺産 御手洗の果たした役割」~

 尾藤 良さん(御手洗 重伝建を考える会・会長)

 井上 明さん(御手洗 重伝建を考える会・理事)

《質疑応答》

  ☆

主催:一般財団法人 中国地方郵便局長協会(🏣730-0016 広島市中区幟町3-57)

後援:広島県教育委員会・広島市教育委員会・中国新聞社

協賛:光禅寺・五日市西国街道散策倶楽部・大竹市歴史研究会・御手洗 重伝建を考える会・てくてく中郡古道(狩留家・三田・井原・落合郷土史会)ほか


【光禅寺へのアクセス】

●JR山陽本線・五日市駅(北口)より徒歩10分

●広電宮島線 佐伯区役所より徒歩6分


《お問い合わせ先》

 (一財)中国地方郵便局長協会:事務局

  竹内 TEL 090(7120)0998

星野 TEL 090(2804)9968

鹿児島・廃仏毀釈はまやかしで贋金づくり=南日本新聞、神機隊物語

 平成30年(2018)4月に発刊された拙著「芸州広島藩 神機隊物語」のなかで、薩摩藩の贋金(にせがね)問題を掘り下げている。

「薩摩はここまでやったのか。汚い手口だ。薩摩の倒幕はさして威張れたものではない」
 わたしにはそんな怒りがあった。

              ☆

 【鹿児島市にはお墓があっても、お寺がまったくない】。仏教国のわが国としては、あまりにも異常である。明治時代の廃仏毀釈でとりつぶされたというのが、これまでの通説だった。しかし、一般庶民が、きのうまで信仰していた対象物を徹底して建物ごと破壊できるものだろうか。それも、すべての寺だ。人間として、それができるのだろうか。
 これがわたしの最初の疑問だった。


 第2の疑問は、薩摩藩は慢性的に大赤字である。桜島、霧島の火山灰が降り積もった痩せた田地である。
 過去には豪商から「500万両、無利息250年分割払い』している。武士は人口の4割(不労)。江戸時代末期に、なぜ急激に最新鋭の武器、軍艦をもち得たのだろうか。

  これまで沖縄・奄美諸島のサトウキビの収穫、琉球の密貿易だと説明されてきた。しかし、慶長14年(1609年)侵攻から250年余経っている。
 幕末に急激に、琉球密貿易が増えたわけではない。


 第3の疑問は、文久2(1862)年、島津久光が1000人の兵をつれて江戸にあがっている。軍事圧力を幕府にかけて、一ツ橋慶喜を将軍後見人、松平春嶽を総裁職に推挙した。これを「文久の改革」と称している。

 しかし、不可解なのは、同藩は前年(文久1年)に、参勤交代の費用が捻出できず、芝の薩摩屋敷をみずから放火し、それを理由に参勤交代の免除をねがいでている。
 それなのに翌年は、1000人の兵をもって江戸にくるのは不自然すぎる。裏には何かある。

 久光が、慶喜・春嶽の推挙で、2カ月半も江戸に滞在することも長すぎる。
 これらは現代感覚におきかえてみると、わかりやすい。『1日3食1万円』。久光が引き連れた1000人が江戸に滞在すれば、1日一千万円である。2か月半で7億円強だ。
「久光とて人間である。貧乏の藩が九州の南端から、他人のために、こんな出費をやるはずがない。どこかでつよい利害があるはずだ」
 
 文久の改革は表むき、裏にはきっと何があるはずだ。私がつねに大切にしている、人間の行動からみた『歴史の勘』である。

 当時の老中や勘定奉行の幕閣から調べてみた。勘定奉行の小栗上野介に、久光が「琉球通報」の貨幣鋳造を申し出ている。
 しかし、小栗上野介は「鋳造権は徳川家が160年間安泰できた、最大の武器だ」と徹底して反対している。すると、久光は1000人の兵で水野 忠精(みずの ただきよ)を脅し、小栗上野介を町奉行に配転させたうえで、水野老中から、3年間限定の「琉球通宝」鋳造許可を得ている。
 
 それが久光の最大目標である。同行していた小松帯刀家老、大久保利通らが贋金づくりに絡んでおり、この3年間の「琉球通宝」で終わらず、なんと偽・薩摩天保通宝、メッキ二分金となり、明治初年まで拡大していったのだ。それらが倒幕資金になったのだ。

                 ☆ 

 歴史の真実はとかく隠される。真相追及は、刑事とか検事の手法によく似ている。まず疑問としっかり向かい合う。

①『刑事の勘、つまり歴史の勘」という嗅覚だ。怪しい。この裏には何かあると疑う。人間はこんな行動をするだろうか、と自問してみる。

② 刑事の現場100回とおなで、『足で書く』に撤する。取材は惜しまず、全国各地にフットワークを利かせる。

③裁判所の証拠採用とおなじで、「証拠を積み重ねていく」手法をとる。

 この三つを中心に根気よく追求すると、真相が浮上してくる。事実が向こうから近づいてくるのだ。


              ☆

 歴史年表をもとにヒーロー小説を書けば、それは通俗歴史小説になる。

 歴史とは政治・経済・文化・思想の4つの要素で動くものだ。私は、それぞれの角度で史料・資料をあつめてきて複眼的な視点から、疑問に向かいあう。そして、小説化する。

 「芸藩志」、「広島県史」など精査していると、島津家は鋳造総裁の市来四郎を御手洗、広島藩に出張させて、広島藩から正金10万両の貸し付けと見返りに、中国産地の鉄と銅を購入した、という歴史的事実がでてきた。

 大崎下島・御手洗は薩芸交易で栄えた港である。足で歩けば、近年、住吉神社の改築工事がなされた。「薩摩天保通宝」がたくさん出てきたという。(重伝建を考える会・理事)。実証だ。


 島津家は鹿児島のすべての寺をつぶし、広島藩から買いつけた銅鉄で、290万両という膨大な贋金を使った。倒幕の基軸が薩摩の贋金づくりにあったのだ。つまり、贋金が亡国をなす。

 メッキ二分金が三井組から近畿地方に流れて、ハイパー・インフレ(超インフレーション)を引き起こした。民は物価高騰で困窮し、打ち壊し運動になった。

 これは徳川家の経済政策に大打撃となった。「ええじゃないか運動」を引き起こした。慶喜が、とうとう経済政策に行き詰まり、政権を朝廷に返上する大政奉還となった。
 経済が政治を動かす。典型的な事例だ。

 薩摩藩はニセ2分金で、長崎のグラバーなど貿易商から、大量の武器と軍艦を購入している。同時に、国内の諸藩にも売り渡していた。
 そのうえ、薩摩の倒幕派が贋金で密輸入した武器を、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で使っていたのだ。


 問題は島津家の贋金が世界中にまわっていたことだ。明治新政府の重大な外交問題になった。どのように回収するか。

 徳川幕府にも、明治新政府にも、薩摩の贋金は政治の根幹を揺るがした歴史的重大事件となった。

 負の側面にしろ、「日本史の教科書」にも記載すべき重要な出来事である。それでなければ、なぜ徳川政権が、安政通商条約で貿易量を急激に伸ばしながら、経済政策に行き詰まったのか。
 民の生活を根幹から弱体化(塗炭の苦しみ)させたのか、という真実が国民に示されないことになる。
  

                ☆  

 わたしが『神機隊物語』を発刊しても、鹿児島がわは、「贋金づくりは、おらが県の恥部だから」ときっと頬被りだろう。まして、NHK大河ドラマ「西郷ドン」の放映ちゅうだから、島津家の贋金による倒幕は発信されないだろう。そう思い込んでいた
 
 鹿児島の知人が、「南日本新聞」(6月21日)を送ってくださった。

 同紙は、『維新鳴動─かごしま再論─』という一面をつかっていた。【廃仏毀釈】と称し、『薩摩から寺が消えた』と野村貞子さんの記名記事である。

 書き出しからは、明治時代の平田国学、祭政一致、神仏分離令、廃仏毀釈という月並みな展開が延々と続く。それだけでは、江戸時代の島津家による「1066寺の取り壊し」、すべての寺が消えた理由は説明できない。

 囲い込み記事『俯瞰図 大砲や銅銭になった梵鐘』において、德川斉昭(なりあきら)が攘夷を主張し、水戸藩内の梵鐘や仏像、仏具といった銅製品を求めて、反射炉でつぶして大砲を作った。
 薩摩藩はこれに見習ったという。


 水戸の寺つぶしと、薩摩とは本質がまったくちがう

 
 水戸藩はペリー来航以前から、鹿島灘の沿岸に、英仏の捕鯨船の船員が上陸し、住民らと生鮮食品などと物々交換していた。水戸藩はそれに苦慮していた。
 徳川斉昭が、御三家の立場から、これら外国船を追い払う必要に迫られた。寺をつぶし、大砲を作って、外国船を威嚇したのである。
 水戸藩の場合は大砲づくりの寺つぶしで、貨幣の鋳造を行っていない。
 
 
 記事は詭弁的、言い訳の記事におもえるほど、孝明天皇(こうめいてんのう)の意志表示、岡山藩なども持ちだす。島津家の贋金づくりの目的と、廃仏毀釈による寺つぶしとは本質がちがう。時代も違う。

 「1066寺の取り壊した贋金づくり」をオブラートに包む。鹿児島の新聞社として、やむを得ないところか。

 記事のラストになって、本来のテーマであるべき内容が出てくる。

『島津斉彬の急死のあと、文久3年(1863)年から、薩摩領内において、寺から鐘や花瓶、香炉などの仏具をあつめられた。錢つぶされて銅銭「琉球通宝」として活用されたことが知られている』と記す。

 これが1066の寺が破壊された主要な歴史的事実だから、新聞記事のメインであって、リード文で大々的に書き出すべきである。末尾で、ごまかしの感がある。


 記者は、従来型の薩長倒幕論や、坂本龍馬英雄史観は、いまや歴史のまやかしだと批判される時代に来たと認識しているのだろう。

 「琉球通宝」だけにとどまっているが、贋金問題へと第一歩を踏み出したもの、と評価はできる。

 このさき薩摩が徳川家のご禁制の「天保通宝」を大量に作った。さらに世界中に薩摩の「メッキ二分金」がばらまかれたと、南日本新聞から発信されるまで、もうすこし時間がかかるのだろう。

 いまの段階では、鹿児島の女性新聞記者には勇気がないだろう。 否、編集トップの顔色や地元民の反応を考えれば、彼女なりに精一杯頑張ったのだろう。

              ☆  

『広島藩の志士』において、長州は徳川倒幕に表立って役立っていないと論陣を張った。『神機隊物語」では、薩摩の贋金が徳川家の経済政策に大打撃を与えたと暴露した。

 広島藩から見ればみるほど、国が編さんした官制幕末史が崩壊してくる音がきこえる。

【近代史革命】軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(下)

 戦後から70余年が経ったいま、私たちは江戸時代、明治時代、大正、昭和、平成という時代を、公平、客観的にみられる立場になった。
 明治時代から太平洋戦争の終結までの77年間に活躍した方々も、大半が鬼籍に入り、現存者は数すくない。明治~戦前まで、もはや史料や資料、写真や文献で検証する、近代史の領域に入ってきた。

 江戸時代は武家社会である。封建社会であり、古い体質であったことは事実だ。しかし、庶民は貧しいなりにも、戦争のない国で助け合って生きていた。


 明治時代から太平洋戦争の終戦まで、総理大臣、大臣、統帥部、参謀本部など、日本の政治を動かすひとは軍人である。それゆえに、歴史的事実として、侵略国家となった。

 歴史とは、現代をふまえたうえで、過去への問いかけである。つまり、現在の基準から、歴史の裁断が必要である。


 現代の歴史教育から、通俗「幕末小説」まで、とかく『明治時代は素晴らしい』と薩長閥政治家の作った国体・歴史教育の延長線上におかれている。

 つまり、いまだに明治政府が意図的・恣意的に作った軍国主義をすりこむ歴史教科書の影響をつよく受けつづけている。
 そこから脱皮するのが、「近代史革命」である。

           ☆

『軍国主義77年間』は、富国強兵政策で、国家の財政収入が国民の生活に直結しないところ、巨額の軍事費にまわった。
 台湾出兵、日清戦争、日露戦争からはじまり、太平洋戦争まで、朝鮮、中国、東南アジアなど領土の拡大が政治の最大目標であった。
 戦争はぼう大なお金がかかる。国家収入の数倍も戦費につかい、国民が飢える、最悪の経済環境に陥ったのである。

           ☆

 明治後半には、義務教育制度が男女とも確立し、就学率は90%を超えた。教科書は検定制度となり、修身、国語、地理、歴史が最優先して行われた。

 教育勅語で代表されるように、軍国少年の育成だった。国の規格の押し付けや規制のなかで子どもらは育った。
『お国のために、天皇のために死す』。多くが若き兵隊となり、命を散らした。

 昭和16(1941)年の真珠湾の開戦当初は、『祖国を守る』ことは、外国から奪った侵略地の利権を守ることだった。
「祖国ということばは、まやかしであり、すり替えがあったのだ」

 少なくとも、本土防衛が叫ばれた戦争の後半まで、軍人政治家が描いた祖国とは侵略地の死守だったのだ。

           ☆

「軍国主義77年間ほど、ひどい国家づくりはなかった」
 日本史1千年の歴史から見ても、この海外侵略思想は最悪だった。豊臣秀吉の朝鮮征伐も、ひどかった。なにが征伐か、私たちには理解不能だ。この侵略イズムは、徳川家康は朝鮮通信使を招くなど、戦争のながれを絶った。数年で侵略は終わった。


 終戦後のドイツは、なぜ第二次世界大戦に及んだのか、ナチスドイツがなぜ国民に熱狂して迎えられたのか。政治家から民までが深く検証した。
 日本人は過ぎたことに、あまり振りむかない体質がある。「軍国主義77年間」の総括がなされていないまま今日に及んでいる。
 だから、「明治時代は近代化に進んだ素晴らしい」という価値基準に照らして、いまだ幕末・維新が語られているのだ。


 NHK大河ドラマ「西郷ドン」は、通俗歴史小説の娯楽で楽しむもの、とすれば、そのまま英雄史観で楽しめばよい。
 ただ、主人公・西郷隆盛にはなにかというと、「新しい国を作る」と叫ばしている。

「おいおい、明治に入ると、薩長政権が暴走し10年に一度外国に侵略戦争国家になるのだ。これが新しい国家か」
 と思わざるを得ない。
 林真理子著「西郷隆盛」を読んでいないので、なんとも言えないが、この女性作家は、明治政府のつくった歴史教科書「明治時代は素晴らしい」という呪縛から、解放されていないのだろう。

                ☆

 いまだもって尊王攘夷運動が美化されている。日本を開国にすすめた井伊大老の暗殺を必要悪としている。最悪の歴史観だ。

 勘定奉行だった小栗上野介ら徳川家のエリートたちが、遣米使節団(77人)として米国大統領、国務大臣にも面談している。そしてイギリス・フランスをみて世界一周してきた。

 副使だった村垣範正「遣米使日記」には、大統領が市民の選挙で選ばれる、護衛もなく、一人でホテルに訪ねてくる、女性を大切にしているなど、米国の政治・社会システムが克明に記されている。
 小栗や村垣たちは、こうした国家を目指して帰国したのだ。

 ところが最初に聞いたのが、開国派の井伊大老の暗殺だった。さらには、開国した横浜港で外国人人殺しが横行していた。

 外国奉行となった小栗は、なぜ外国人の命を狙う必要があるのだ、日本の近代化・工業化のために招聘(しょうへい)した技師まで、なぜ殺すのだ、と怒った。

「攘夷、攘夷と孝明天皇が開国を嫌うならば、承久の乱のように、天皇を隠岐の島に流してしまえ、日本は選挙で選ぶ大統領制にしたほうがいい」
 とまで公言している。
 
 私たちは、いまだ幕末の尊王攘夷(尊攘)理論が正しいと思い込んでいる。どの時代においても、他国の非武装のひとを殺して、正義などあるはずがない。

 小御所会議で明治新政府ができた。このあと西郷隆盛が仕掛けた鳥羽・伏見の戦いがあった。歴史の流れを変えた。

 近代化の祖である小栗上野介が、真っ先に殺されてしまった。

              ☆

 薩長の下級武士らは、武力で威厳をみせる、名誉と権力をとる。そして軍国主義の政権を作っていったのだ。
 それらを確固たるものにすべき、明治後半には義務教育を通して、軍国主義に洗脳された軍国少年たちをつくっていった。
「お国ために、武器をもって戦うのが正義だ」と教育されたのだ。たしかに、突撃に突撃、死の怖さを越える日本軍は強かった。玉砕もお国のためだと死す。
 その拒絶や反発は出なかった。それだけ軍事教育が、子どもの人格権を無視して徹底されていたのだ。

                ☆

 日本が中国大陸に満州国をつくったから、国際連盟の加盟国、つまり世界じゅうからバッシングをうけた。経済封鎖をうけた。外国債券などは発行できない。
 このとき取る道は、戦争か、外交努力による平和解決か。2つに一つ。

 日本の国策や戦争のグランド・デザイン(全体構想)を推し進める政治家トップは、すべて軍人である。軍人は悲しいかな、奪った土地は死守しようとする。
 民間人がいなかった。ここに日本の不幸があった。

 戦争回避をするならば、満州国から段階的な撤兵を条件にした、外交交渉術があった。
「勇気ある撤兵が戦争回避になる」
 しかし、軍人政治家は、撤退を恥だとしていた。

 外交解決の道は閉ざされた。そのうえ、日独伊三国同盟を結んだ。あげくの果てには、神風を信じた海軍元帥(天皇陛下の次に偉かった)が1、2年の攻撃のあと、外交で有利な解決できると思い込み、連合艦隊でハワイ島を攻撃したのだ。

 これは最悪の選択で、物資の豊富な米国と大規模戦争になった。長期化の様相をみせるが、どの国からも、どの国際機関からも、和平・休戦の仲介など現われなかった。アテが外れたのだ。ここらは開戦に突っ走った海軍元帥の読みちがえである。


 ちなみに大日本帝国憲法には内閣の規定はない。内閣総理大臣はお飾りで、大臣の任命権はない。開戦の判断は作戦を練る「統帥部」であり、総理は口出しはできなかった。
 総理の権限は現行憲法とまったくちがう。歴史認識として知っておかないと、真の戦争責任者は歴史家にごまかされてしまう。


 赤紙1枚で兵隊はあつめられる。いのちの使い捨てだ。子どもたちには鬼畜(きちく)英米だと叫ばせる。人間を鬼畜よぶようでは、もはや異常な軍人政治家たちだった。

 日本は神の国じゃない。思い上がりだという批判をすれば、官憲が思想弾圧する。
 
               ☆

 神風は吹かなかった。東京大空襲、本土各地が空爆をうける。理性ある政治家がわが国には不在だった。沖縄は奪われているのに、まだ戦争を終結しようとしない。

 明治時代からの軍国主義の延長77年間の代償は大きかった。昭和20年は東京大空襲、全土の空爆、広島・長崎の原爆。日本は神の国じゃなかった。思い上がりだった。

 国土の廃墟から昭和20年8月15日、日本は米国に無条件降伏を受け入れた。同年9月にはミズリー号で降伏文書に署名する。

 翌・昭和26年には昭和天皇が人間宣言する。極東軍事裁判が始まり、明治時代から続いた軍人政治家、軍国主義者が舞台から退いていった。日本軍はすべて解体となった。そして、日本国憲法が成立する。

 27年、憲法に基づいた参議院、衆議院の総選挙がおこなわれた。

                ☆

「戦争に負けてよかった。軍隊・軍人が解散した」
 戦後の日本人は、この解放感からスタートした。
 サンフランシスコ講和条約で独立を成して、昭和30年代の所得倍増計画から輸出に勢いがついた。軽産業、重工業製品、ハイテック産業の輸出へと躍進し、つねに貿易収支の大幅黒字から、円為替が強くなり、国民が豊かになった。


 私たち戦後組は、それをもって父、祖父たちが各国に迷惑をかけた賠償金を支払いながらも、なおも高度に成長した国家へと進んできた。
 結果として、戦争せず、経済発展をすれば、国民が豊かになれると証明できた。自信を回復し、確固たる地位を確立したのだ。


           ☆

 太平洋戦争の肯定型のひともいる。日本軍の東南アジアの侵略戦争によって、イギリス、フランスを植民地から追いだした、と功績を主張する。はたして、各国は感謝したのだろうか。

 日本がインドシナ半島に侵略しなくても、世界の流れをみれば植民地主義は19世紀後半から後退しており、太平洋戦争が終結したあと、アジア諸国はごく自然に次つぎ独立国家になっていただろう。
 アフリカ諸国のように10年~20年のタイムラグはあったにせよ、植民地支配からの解放がなされていたはずた。
 遅いか、早いかの違いだ。

               ☆

 日本がやがて高くて強い経済力を買われてサミット国に選ばれた。

 アジア諸国は羨望のまなざしで、一斉に日本の戦後復興に見習い、経済成長を主眼にし、欧米と競う時代になった。平和的復興が良い手本になったのだ。

 いま、この時代から、『軍国主義77年間』の諸悪はだれかと問い詰めれば、維新後に政権の中枢に座った薩・長・土・肥の要人である。
 明治半ばからは、海軍=薩摩、陸軍=長州と独壇場になり、政権を牛耳(ぎゅうじ)った。これが太平洋戦争の終結までつづいた構図だ。

 薩長は戦争国家を選択した、途中でストップすらさせなかった。軍人政治家として自らの権力の維持に努めたのだ。
 あげくの果てに日本を焼土にした。終戦後、みずからの懺悔(ざんげ)もなく、外国人による極東の裁判をうけて政治の舞台から立ち去って行った。

 私たちがいま、この歴史認識の下で、「明治時代は素晴らしい」という薩長美化の呪縛(じゅばく)から解放される、批判するときがきたのだ。つまり、真逆の歴史評価が主流になり、後世に正しい歴史評価を伝えていく役割をもっているのだ。
 それが近代史革命である。

【近代史革命】 軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(中)

 日本人はとかく、お上(政府)がいうから従う、教科書に載ったから正しい、メディア(当時は新聞)が伝えるから、信ぴょう性があると信じる傾向にある。

 この無警戒な国民性が、明治維新から太平洋戦争終結まで77年間にわたり、薩長閥を中心にした軍人政治家たちに、逆手に取られた。国民は軍事支配下に置かれてしまったのだ。

 薩長閥の明治の政治家たちは、かつて下級武士だった。かれらは徳川家の為政者よりも自分たちを大きく見せようと、御用学者を使って徳川政権をひどくこき下ろした。


 鎖国日本は、黒船来航のアメリカに蹂躙(じゅうりん)されたものだ。日米通商条約は不平等だ。こんな弱腰の政権で腐敗していたから、自分たち薩長は徳川政権を倒した。これは正しい道だった、という幕末史観で統一した。

 これらは果たして歴史的真実だろうか。

 ペリー提督が来て、日本中の大名・水戸斉昭、島津斉彬(なりあきら)など99%のひとが武勇で打ち払えという主張だった。
 阿部正弘は老中首座にいた。将軍は家定である。阿部老中は、わずか1%の意見、開国論者の高島秋帆(しゅうはん)の意見を選択した。それも高島は長崎町人で、鳥居耀蔵(とりい ようぞう)に陥れられて謹慎(きんしん)の身であった。

 高島秋帆は約10年前まで、長崎出島の海外交易のトップにいた人物であり、オランダを通して諸外国の事情を最も熟知している。それを知る阿部老中は、高島秋帆の謹慎の罪を解き、江川太郎左衛門に預けの身にした。そして、高島の上書を採用したのだ。


『高島の嘉永上書(かえい じょうしょ)』を紹介しておこう。

 わが国が仮にペリー黒船艦隊を一度は打ち払えたにしろ、アメリカはゴールドラッシュの国ですから、軍艦を大量に建造し、第二波、第三波の攻撃を仕掛けてくるでしょう。同盟国のイギリス、フランスにも呼びかけて連合艦隊で日本に襲いかかってきます。となると、国破れて山河在り。

 アメリカは、太平洋航路の蒸気船でつかう石炭と飲料水を求めているだけです。ここで日本側が開国しても、天保時代の薪水令の延長にあるうえ、さして不利益はないはず。むしろ、貿易で、日本が外国と取引したほうが利益は出ます。
 天明・天保の大飢饉にみるように日本は、周期をもって飢餓に襲われます。貿易をすれば、外国から食料が買えます。国民の飢えが救えます。

 このような趣旨の高島上書から、阿部老中首座はまわりの反対を押し切り開国してみせたのだ。
 99%の戦争論者よりも、1%の平和主義者の選択は、途轍もない強い勇気が必要だ。現代人が企業内で、それを置き換えてみれば、1%のジャッジメントがどれほど勇気がいるかわかるだろう。阿部正弘は老中首座の権限で、それをやってみせたのだ。


『日本は植民地になる可能性があった。だから、軍事強化する』
 これは明治政府の詭弁(きべん)である。いまだに信じている日本人は多い。世界史と日本史を結び付ければ、一目瞭然で偽りだとわかるものだ。


 19世紀から20世紀にかけて、欧米の植民地支配は後退していた。資本主義の理念は貿易で儲けるである。あいての国土は奪う必要はない。

 植民地となると、施政する有能な人物の派遣、駐留する軍事費のエンドレスな負担、貧困の社会保障費など、膨大な費用がかかる。デメリットが大きい。さらに、反政府活動に対する騒動・騒擾から、常に軍隊と警察がふりまわされる。

 植民地政策よりも、自由貿易で利益を得る。そのほうがリスクがなくて、国益になる。欧米はしだいにアジア・アフリカからの撤退の検討に入った。もはや、新たな植民地は必要ない。欲しいのは貿易港である。 
 

 日本で国内を二分する戊辰戦争がおきた。欧米6か国・イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、オランダ、プロイセン(ドイツ)はみな局外中立を貫いた。

 当時の万国公法(国際法)では、戦争国の国内のどちらにも味方せず、公平な態度をとる、内政干渉をしない法規があった。日本占領はありえなかった。
 そもそも欧米6か国はどこも厄介な植民地・領土支配など背負いたくないのだ。
 それは明治政府の為政者はみな知っていたのに、義務教育化した教科書において、日本は植民地化される恐れがあるから、軍備を強化すると教え込んだ。

 
「国民は弱いし、ごまかせる」というのが、世界の歴史で軍国主義者に共通するものだ。明治政府は富国強兵策を謳(うた)った。
 それは国税収入を軍備優先でつかう最悪の選択肢だった。そして、これ見よがしに10年に一度は戦争する国家になった。朝鮮を植民地にし、やがては満州国を作る。

 災害列島にすむ日本人は、税は治めるが自分たちにさして還元されない。政府は戦費優先で、被災復興の手立てすら、ほとんど受けられなかった。『食べられないものは満州に行け』。これら困窮者の新天地開発が侵略・植民地主義へと加速させた。そして、太平洋戦争の要因となった。


『歴史から学ぶ』。太平洋戦争の直前に軍人政治家が、阿部正弘に学べば、「アメリカはゴールドラッシュの国だから、軍艦を大量に建造する能力がある」。それにたいする戦争回避の行動が取り得たはずである。

 国際連盟の加盟国が一致団結して要求する満州国からの撤退。少なくとも、アメリカとの最終交渉において、真珠湾攻撃よりも、段階的な満州撤退を提示したならば、第二次世界大戦突入は回避できた可能性は十二分にある。


 ところが、当時の内閣や海軍統帥部は勇ましい武勇伝を採用したのである。

 この諸悪の根源は、明治政府の薩長閥の政治家にある。平和開国を選択した勇気ある阿部正弘を弱腰だと言い、歴史を折り曲げたところに原因があるからだ。

 学ぶべき歴史が虚偽だと、重大な破壊におよぶ。太平洋戦争に突入した為政者たちは、阿部正弘老中首座が、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて開国したと信じて疑わなかったのだ。

 いちどは真珠湾を攻撃したが、開戦2年後から、豊かな国の米国の軍艦・空母の建造率は途轍もなく急上昇した。日米の海軍保有比率が75%から25%まで急降下した。
 むろん、航空機の保有機数も同様である。
 これは高島秋帆の嘉永上書どおりである。


 歴史を折り曲げれば、後世に多大な災難を及ぼす。歴史は真実でなければならない。最も顕著な事例である。

                       【つづく】

 写真:上段 戦艦・三笠(横須賀市)

    中断 大和ミュージアム(呉市)

    下段 広島平和公園(広島市)

     いずれも、2017年に撮影