歴史の旅・真実とロマンをもとめて

幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組=あだち区民大学塾で講演

 足立区郷土博物館で、区制80周年の記念事業の一環として、令和2年11月29日から令和3年2月23日まで、文化遺産調査特別展『名家のかがやき』が開催された。
 穂高健一著「紅紫の館」(令和3年2月)が発刊された。
「あだち区民大学塾」において、2つの題材を基に講演会が企画されました。

 講演会の主題『幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組』で、10月2日(土)、同月23日(土)、同31日(日)の3回にわたり開催されました。

 講師は3回とも異なり、午後2時~4時であった。

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 第1回は小説「紅紫の館」の作者として穂高健一である
 足立で農家(新田開発)と武士(江戸城の北東部の守り)の両面の役割を担った郷士・日比谷健次郎の活躍を紹介した。


 おなじ武蔵の国の郷士でも、幕末に日野周辺の八王子千人同心から近藤勇、土方歳三などが京都に挙がった新撰組(当初は浪士組)が名高い。
 しかし、武蔵国・足立区においても、千葉道場の免許皆伝者の日比谷健次郎は、内密御用家として江戸防衛に徹し、おおいなる活躍をした。

 なぜ桜田門の変が起きたか、まずはそこから話をすすめた。そして、大政奉還、鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が江戸城を無血で開城したのに、なぜ薩長主体の新政府軍が上野戦争を仕掛けたのか。
 
 それは上野の東叡山寛永寺の貫主・輪王寺宮(りんのうじのみや)が東武天皇に君臨する動きがあったからである。

 京都に眼をむけると、父の孝明天皇が崩御すると、幼帝・睦仁(むつひと)が満14歳で践祚(せんそ)した。ただ、即位の礼を執り行っておらず、天皇ではない。
 ところが、薩長は幼帝・睦仁がさも天皇のごとく好き勝手に扱っている。君側の奸(くんそくのかん)だと、旧幕府が強い反発を抱いていた。(この段階で明治天皇とするが間違いである。会津戦争が終わる寸前まで、幼帝の睦仁殿下である)

 かたや、輪王寺宮能久(よしひさ)は二十歳であり、孝明天皇の義弟ある。天皇になる資格は十二分にある。
 
 奥羽越列藩同盟に呼応して輪王寺宮が天皇になれば、日本に二人の天皇ができる。まさに南北朝時代の再来で、東西朝時代になる。


 新政府軍はあらゆる面で不都合であり、輪王寺宮の抹殺を謀った。そして、やらなくてもよい流血の上野戦争を仕掛けた。
 足立郷士の日比谷健次郎が輪王寺宮の救出に関わった。成功すると、輪王寺宮は榎本武揚海軍の軍艦で奥州へ渡った。そして、仙台藩、会津藩の盟主になった。


 戦争は軍資金がないとできない。上野戦争の前に、「徳川の知能」といわれた旗本・松平太郎が金座、銀座、銅座から百万両余りをもちだす。それを日比谷健次郎が手助けをした。小判と銅銭が新撰組の土方歳三、伝習隊を率いる大鳥圭介など旧幕府軍の軍事費となった。


 幕末から埋蔵金の伝説があり、小栗上野介忠順が江戸城から運び出したという見方が流れていた。その実、運びだした人物は松平太郎である。江戸城が無血開城されたとき、城内の金庫は空であった。新政府側の多くの証言から、それは事実である。


 つけ加えれば、さらにその前の「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城(華城)から慶喜が東帰した直後から、3日間にわたり、榎本武揚の幕府海軍が金銀をすっかり運びだしていた。
 慶喜から戦場を一任されていた大目付・永井尚志(三島由紀夫の曽祖父)が指図し、全軍を江戸への撤兵と、旗本の妻木頼矩(よりのり・目付)には大坂城を長州藩に引き渡しする当日、城の火薬庫を自爆させたのだ。大爆発で、華城は全焼した。新政府は得られる金品がなかった。

 旧幕府には知恵者の人材が豊富だった。大坂城と江戸城の金庫はともに空っぽだった。
 新政府は結果として、資金豊富な旧幕府軍と戦う羽目になってしまった。松平太郎の運びだした資金で奥州戦争、榎本武揚が大坂から軍艦で持ち去った軍資金で函館戦争を戦う。

 かたや、新政府にはまったく金がなかった。戊辰戦争に参戦した西側の諸藩は、戦費がもらえず、薩摩藩、広島藩、土佐藩、福岡藩など、大規模な藩がこぞって贋金づくりに精を出したのだ。日本経済が破綻寸前にまで落ちた。
 
 戊辰戦争が終わると、明治新政府は満足な通貨ももてない赤字財政苦からはじまった。近代化を謳っても金貨がなければ、外国があいてにしてくれない。資本主義とはなにかもわからない。
 最悪はこのさきアジア諸国のように半植民地である。


 当時、西洋式の財務諸事情と資本主義に明るいのは、パリ帰りの渋沢栄一である。かれの上司は徳川慶喜である。新政府は窮地から大蔵省の出仕をもとめざるを得なくなったのだ。
「上様を惨めな朝敵にした新政府だ。断る」
 渋沢は強く拒否した。静岡で謹慎中の慶喜から、
「新しい国家をつくるためだ。もう敵も味方もない、大蔵省に出向きなさい」
 と渋沢は諭されたのである

 ここらを2時間にわたって語った。

         *  

 第2回は日比谷家の子孫である歯科医師の日比谷二朗さんで3.>

足立区の日比谷家の屋敷や数々の文化財について紹介がなされた。特に屋敷・甲冑・雛人形・狩野派の絵画・独語辞典「和独対訳辞林」について。

         *

 第3回は足立区立郷土博物館学芸員の多田文夫さんである。

 新田開発や残された文化財から、日比谷家に止まらず、幕末の足立の郷士は文化の担い手として狩野派の絵画を伝えるなど、文化的にも経済的にも極めて豊かな状況であったことが説明された。


「楽学の会」事務局の糸井史郎さんは、3人の講師による講演会は期待以上の評価が得られました。足立区の江戸時代の文化水準が非常に高かったことを足立区民の方々に知って頂くことができました、と語った。

広島藩「大政奉還建白書」をやっと見つけた = 慶応3年10月6日、十五代将軍・徳川慶喜に提出。 土佐藩に新たな疑問か

 広島藩が提出した「大政奉還の建白書」がやっと見つかりました。約7年かかりました。原文どうりです。現代語訳にして、お使いください。


 芸藩主・松平安芸守(浅野茂長)が、辻将曹をして建白書を板倉伊賀守(勝静)に呈出せしむ。
『兵庫開港・防長処置の儀につきては、すでにご布告の趣もあり、いまさら建議すべきこともなけれども、再三言上せるがごとく、1日も早くご裁許あらんことを、切望の情に堪えず。
 熟(つらつ)ら天下の大勢を考えるに、甲是・乙非、物情背馳し、漸く済(すく)ふべからざる世態に逼迫せり、その原因はもとより一言・半句にて悉(つく)さるべきにあらねど、畢竟大義・名分・明ならずして、国体壊頽せるより起りたれば、いたずらに枝末の些務(さむ)にのみご注目ありて、大本にご反省なくば、木によりて魚を求るがごとく、何事も徒労に属して、時運ご挽回の期あるべからず。
 そもそも我が邦は万国に卓絶し、終古一姓にして、君臣の大義儼(げん)として存するが故、この自然の至理に基き、大義を明にし名分を正し、政柄を朝廷に帰し奉り、公平灑脱(しゃだつ)、天下群辟(ぐんへき)とともに、九重の上に於て万機をご献替あらせられ、いささかも矯勅の嫌(きらい)・壅塞の疑(うたすがい)なきよう、ご反省の実跡を立てられるべきなり。
 事ここに至りてなお旧轍を踏ませられては、内外の不都合を醸(かも)し、遂に滔天(とうてん)の禍害を引き起こして、烈祖のご遺志も泡滅せんかと、深く痛心の情に堪えず、なにとぞご熟慮ありて、ご決断あらんことを願ひ奉る』  徳川慶喜公伝四より

               ※「御」→「ご」もしくは「お」で読みやすくしています。


『補足』

① 後藤象二郎が同年十月三日に神山左多衛とともに板倉伊賀守(勝静)に謁し、山内容堂の建白書を呈出せり。

② 丁卯日記所載 → 板倉伊賀守が慶応三年十月十日付にて松平大蔵大輔に与ふる書簡に、「四日別紙写しの通り建白書差出」とあるのは不審である、と記す。「徳川慶喜公伝四より」。

 想像するに、明治30年代に、渋沢栄一の勧めで自伝に取り組んだ慶喜とすれば、①の山内容堂の名で、後藤象二郎が建白書を提出したと明確に覚えている。
 しかし、翌4日に寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛たち四人の家臣の連署で提出とは箇条書かつ具体的で、はなしができすぎていると考え、ヒアリングした歴史学者に②「不審である。」としたのだろう。


 薩長土肥による倒幕が成功した明治時代に入ってから、土佐藩関係者たちが「(倒幕をまったく考えていない)山内容堂による大政奉還の建白書」があまりに薄ぺらい内容だから、ねつ造したのかもしれない。

 大政奉還が箇条書かつ具体的な理由は、薩摩藩・家老の小松帯刀の口頭での建白だった。

 慶応4年2月、慶喜は上野寛永寺に謹慎した。水戸藩に移るまえに不都合が生じるので、日記はすべて焼却したと記している。よって、渋沢栄一立会いの下で、「丁卯日記」をみせられた慶喜の記憶による確認である。


             *

 このさき歴史家、幕末史愛好者たちが、慶喜の「不審である。」を掘り下げてみると、新発見があるかもしれない。坂本龍馬の「船中八策」が嘘だったように。

「四日別紙写しの通り建白書差出」の原本は国立国会図書館のアーカイブでみられます。
 

 

講演会「渋沢栄一と一橋家」= 衆議院選挙の1週間前で、経済が語りにくかった 

2021年10月24日、葛飾区立立石図書館(小池館長)で、『渋沢栄一と一橋家』について、2時間の講演会をおこなった。
 当初は7月24日に実施される予定だったが、新型コロナ感染が東京オリンピック前でうなぎ上りに急拡大しており、講演会が3か月間延期されたものだ。
 7月時点は「密」を避けるために、35人に絞り、申込者が多く、すぐに締め切ったもの。10月に入ると、参加人数の規制緩和がなされたけれど、
「7月でお断りの方々が多かったので、再募集すると不公平になりますから」
 と主催者は3か月前の申し込みのまま実施した。


 講演タイトルはNHK大河ドラマ「青天を衝け」に近い内容であり、7月の場合は同大河ドラマは、渋沢栄一が京都において一橋家の家臣になる頃の展開だろうし、京都の徳川慶喜の活躍にウエイトを置いた話を予定していた。

 しかし、10月24日は渋沢栄一がパリ万博に行き、資本主義とはなにか、フランス国債、そして自費で株券を買う体験、銀行の産業の役割を知るなど知ったうえで帰国して、静岡で合本会社(株式会社)を作り、大蔵省に引き抜かれるところだった。

 講演会の参加者に、大河ドラマ「青天を衝け」を見ている方に手を挙げてもらうと、大半が視聴していた。
 そこで渋沢が大蔵省に入り、銀行法を作る、外債で鉄道(新橋~横浜)を作る、数々の株式会社を立ち上げる。「日本の資本主義の父」とよばれる経済面を中心にシフトした。
 
 つまり、慶喜が一橋家として家定将軍の継承問題に巻き込まれる、禁門の変、長州戦争、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争という政治中心だったものが、急きょ、明治時代の「渋沢と資本主義」へとシフトさせた。
 
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 現在の経済問題は、GNPの伸び悩み、国民所得が韓国に抜かれた。国債が1100兆円ある。
 もし、現在、渋沢栄一がいれば、どんな手段を講じるか。
「歴史から学ぶ」
 10月31日は衆議院議員選挙があり、不用意な発言はできない。現代に置き換えてケース・スタディ―をおこなえば、アベノミクスの本質的な問題点にも言及する。その事例は自民党批判となり、特定の政権に誘導にもなりかねない。
 ここらは避けて通った。
 
 本来ならば、「廃藩置県」で、わが国は君主制から中央統一国家となり、全国260藩の全借金を明治政府が背負ったのだ。その負債額は天文学的ともいえる膨大なものだった。

 現在の国債発行残高1100兆円よりも、政府ははるかに精神的な負荷がかかっていたはずだ。

 徳川時代の武士は「金勘定(家計)」は女の役目だとして帳簿などわからない。戊辰戦争で勝って政府高官になっても、だれひとり資本主義の理論はわからない。大蔵省といえども、大久保利通や井上馨など、まったく理解できない。
 資本主義を理解しているのは、元幕臣の渋沢栄一くらいだった。

 「廃藩置県」で、武士階級がなくなり、全国の士族100万人が失業した。それをいかに食べさせるか、という当面のおおきな問題がある。

 渋沢は政府が抱え込んだ借金を外債などで対応し、武士階級の失業者には「秩禄処分」で6年間の延払いで切り抜けた。その「秩禄処分」は自由に売買させた。それが債券市場、会社の株を自由に帰る株式市場の発達につながった。
 つまり、政府の膨大な借金が資本主義を加速させた。日本版の産業革命で高度成長し、近代国家となり、貿易収支も黒字へと転換していった。
 
「政治家は歴史から学んでいない」とよく言われる。政治、戦争ばかりでなく、経済面でも途轍もない経験則がある。
 ここらは衆議院選挙のまえで、具体的に語れなかったのが残念だった。

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 一橋家の面にも触れた。徳川慶喜公をどう評価するか。「鳥羽伏見の戦いで、大坂城の慶喜将軍が真夜中に変装し、江戸に帰ってしまった。旧幕府軍は総崩れになり、大敗した」というのが通説だ。慶喜は無責任だ、幕府軍を統率する気がない。なりゆき任せで、場当たり的だ。臆病者だ。
 それが明治時代から人々にすりこまれている。おのずと評価の点数が低い。

 ただ、歴史の通説とは、おおむね為政者に都合よく恣意的に改ざんされたものが多い。現在も解明されていない。
 慶喜は家康の再来とまで言われた聡明な将軍である。大政奉還をなしたあと、慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いが勃発した。その3日後だった。同月6日、慶喜は大阪城から突如として脱出した。
「何のために帰還されたのか。真の目的はなにか」
 慶喜が怯懦(きょうだ・臆病者)といわれても、暗愚(あんぐ)と評価された。いささかも弁解しない。

 有栖川宮が大総督として東征してきたとき、これは薩長が事を構えて朝命を矯めて(ゆがめて)、德川幕府を無理に朝敵としたものだ。
 仮に旧幕府軍の慶喜が迎え撃てば、立場が変わった。勝てば官軍で、薩長側がかえって朝敵になっただろう。
 しかし、慶喜は江戸城の無血開城を命じ、上野寛永寺でひたすら一意恭順で朝命に従うと謹慎した。
「慶喜が真っ先に謹慎するとは、理解に苦しむところだ」
 渋沢栄一すれば、当時はパリに行っており、実態はわからず、永い間の不可解な疑問だった。
    
          *   

 慶喜は大正2年77歳まで生きた。
 15代将軍の慶喜が、このまま真実を語らなければ、王政復古の陰に押しやられた状態で、歴史の真実が永遠に消えてしまう。
 一橋家の元家臣の渋沢栄一が、德川慶喜に伝記の出版を勧めたのである。
「いまさら語ることもなかろう」
 慶喜は拒んだ。
 歳月が経っても、三条、岩倉、大久保、西郷の話題をむけても、慶喜はいつもそしらぬ態度をとっていた。

 渋沢は粘った。明治40年に、百年千年後においても、慶喜公が大決断で大政奉還し、江戸城を無血開城した。その経緯を書き遺すべきです、と渋沢は口説き落とした。
 慶喜は死んでから百年後まで世に出さないという条件で応じた。
 それが「徳川慶喜公伝」(国立国会図書館アーカイブで検索)、「昔夢会筆記(せきむかいひつき)」(平凡社4000円)の2冊である。
 大正4年に、「昔夢会筆記」がわずか25部の限定私版である。編集関係者だけに配られたものだ。
 
 現在では、徳川慶喜が登場する学術書、歴史小説、大河ドラマなどは、かならずこの2冊が底本になっている。

 葛飾区立立石図書館の講演会『渋沢栄一と一橋家』で、「昔夢会筆記」を持参した。関心を高めたようだ。

 私は講演会にはレジュメや教材的なものは作らない主義だ。今回は『一橋家(徳川慶喜)と渋沢栄一の略年表』を作成し、配布した。それというのも、慶喜77歳、渋沢は91歳で、当時としては長寿だが、活躍した時代が大幅にずれている。私の講演に双方の組み合った年表がないと、参加者の理解が難しいと判断したからである。

「感想」

① いままで思っていた慶喜公、渋沢像とちがった観点から聴けて参考になりました。

② 歴史を多方面からみる楽しさを知りました。

③ 大河ドラマと関連づけて講義してくれたので、次回以降の放送がいっそう楽しみです。

④ 渋沢栄一の人間性が良くわかりました。

⑤ 現代とと照らし合わせての考え、発想、これが大切とあらためて刺激を受けました。

⑥ 楽しくて眠くなる時間はなかったです。
 について、2時間の講演会をおこなった。それら書物も紹介した。

 

2022年8月1日から新聞連載小説に備えて、「接続詞」の勉強中

来年(2022)8月1日から、新聞の連載小説がはじまります。某紙で公称80万部、実売50万部。日曜を除く毎日で、一年間の契約です。
 いまは宮部みゆきさんが歴史小説「三島屋変調百物語」を連載中です。その次が私で、題名は『妻女たちの幕末』です。時代背景は天保(1830年)~戊辰戦争(1868年)までです。
 
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写真・左より:篤姫、皇女・和宮、德川美賀子 (ネットより)

 私の近著として『安政維新』(阿部正弘の生涯)、『紅紫の館』があります、一つは老中首座の阿部正弘を主人公にして天保時代の後期から安政時代までを描いています。紅紫の館は徳川史観で、桜田門外の変、からは戊辰戦争まで展開しています。
 2冊を一つに考えれば、幕末そのものです。

 政治や動乱は男の表舞台です。
 女は歴史の裏舞台です。

 2冊は男性の視点だったけれど、3冊目は女性の視点でより史観
に近いところで小説化するものです。きっと薩長史観を逆なでるものだと思います。

 これまで名君と言われていた大名が、女の視点から描くと、女の心を無視した政略結婚を企てる、とんでもない暴君になってしまう。
 かれらは農民から搾取した金で、大奥の女を利用するために、湯水のごとく賄賂をさしむける。とりもなおさず、支配者たちが名誉、権威、威信を得るための欲だった。
 
 幕末史を掘り下げると、男たちの強欲な暴走であり、影で女の欲の底力がある。男と女の対立を描かずして歴史が語れない。
 
           *
  
 私の出自は純文学です。特徴は叙述の文章で心理描写、情景描写文、そして会話文に徹するものです。かたや極力、説明文を排除してきました。
 これは小説の登場人物に、読者の感情移入を誘い込むものです。私の過去の文学賞はすべて純文学でした。

 幕末動乱期には避けて通れない、大きな事件や出来事が連続します。かぎられた新聞紙面で、濃密な心理描写など展開すれば、ストーリーが先に進ません。

 となると、政変、内戦、陰謀、外交、騒擾、事件、貧困、疫病など、これらは説明文を多用し、時間軸の年月を進める必要があります。
 心理描写を圧縮し、事件の概要説明や補足説明などは、下手をすれば、論文調でゴツゴツした内容になってしまいます。

江戸城・大奥
      揚州周延の浮世絵 (上越市立総合博物館)      
 
 新聞の読者からすれば、「妻女」というから艶っぽい、情欲的な小説かと思いきや、「これって、学者が書いたの」という批判にもなりかねません。
 
 私は「よみうりカルチャーセンター」と、「目黒学園カルチャースクール」では、「文学賞をめざす小説講座」を指導しています。
 受講生たちの文体は尊重しながらも、私が得意とする叙述文の書き方の指導になっています。
 説明文は「主語+述語」のかかり方が正確ならば、それでよい、と考えています。提出作品を添削するときに、「主語+述語」がおかしければ、作品に朱を入れる程度です。
 あえて指導はしていません。なぜか。学生から社会人になる段階で、作文、論文、ビジネス文、報告書で、記事など、だれもが一通りマスターしてきている。
 講師の私がなにも説明文の指導する必要がないと考えていました。

 説明文のコツがあるとすれば、巧い接続詞で、文章と文章が溶接されていれば、読者を的確に誘導できます。

 つまり、接続詞とは車のウィンカーとおなじで役目です。右方向に行くよ、後ろに下がるよ、左に曲がるよ、と読み手に予測の提供するものです。

「かれこれ、10年前にもどれば」と接続詞で説明すれば、ひと昔まえにさかのぼる。「江戸奉行は、現代に例えれば、警視くらいである」と使えば、一気に150年後まで高跳びできます。
 このように、時空も自在に展開できます。

 エッセイストが文章の書き方で口にするのが、「起承転結」です。まったくナンセンスだと、私は考えています。自由に思うままに書けば良いので、意味不明な難解な「起承転結」を要求するから、文章を書くことが嫌になってしまうのです。
 
 話をもどせば、私は小説を叙述文で書いて、説明文が排除してきました。それゆえに「接続詞」のボキャブラリーは抱負ではない。

 新聞連載まで、あと10カ月あります。ここは100くらいの接続詞を存分に使いこなせる努力をしたいと考えています。


『接続詞の一部紹介』
 原因・理由(それで)、場面転換(すると)、言い換え(つまり)、相反(しかしながら)、予想外(それにしては)、対比(一方で)、決着(いずれにせよ)、結果(こうして)、次の場面(それから)、・・・・・・

* 接続詞とはまさに車のウィンカーと同じで、タイミングよく出せば、読者に文章の先を上手に、ごく自然におしえられます。

 説明文は接続詞を効果的に入れると、読み易い文章になります。ただ、前後におなじ接続詞をなんども使うと、作品の品質をさげます。そこは要注意です。

講演会の案内 幕末の足立(紅紫の館) = あだち区民大学塾・10月2日

演題「幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組」で、10月2日が講演会がおこなわれます。


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会場 :足立区生涯学習センター(学びピア21)

足立区千住5-13-5 五階 研修室1
受講: 1500円

定員: 50人

申込み方法: info@gakugaku.main.jp
住所、氏名、電話番号、「幕末の足立」と明記

問合せ先 : 03-5813-3759

共催 : NPO法人あだち学習支援ボランティア「楽学(がくがく)の会」

  : 足立区教育委員会


『講座案内』
 桜田門外の変、大政奉還、膨大な徳川埋蔵金、新選組足立屯所、上野戦争、寛永寺貫主の輪王寺宮の「東武天皇の即位」など一連の幕末の出来事が語られます。
 
 その時代に生きた武蔵国足立郡の郷士・日比谷健次郎の活躍を通して、薩長の新政府がつくりあげた歴史の裏側と幕末の足立との関連を明らかにしていきます。

 
       

穂高健一講演会「渋沢栄一と一橋家」日程変更・案内=葛飾区立図書館 

 穂高健一 講演会「渋沢栄一と一橋家」が、7月25日(日)に予定されていましたが、緊急事態宣言のため10月24日(日)に延期となります。


 立石図書館より、下記の案内です。
『こちらの講演会は定員に達したため、申込受付は終了しています。なお新規のお申し込みはありません。事前申し込みされた方のみご参加いただけます


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開催日 令和3年10月24日(日曜日)

時間 午後2時 から 午後4時 まで(開場午後1時30分から)

会場  葛飾区立・立石図書館2階研修室

対象 区内在住中学生以上

定員 35人(事前申し込み・先着順)

講師 穂高 健一氏(作家)

申込方法 終了

費用 無料

特記事項 感染症対策にご協力お願いします

私はなぜ歴史小説を書くのか=あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない

 十年一昔のことわざ通り。この『穂高健一ワールド』の掲載数は約10年間の累積が2730の掲載に及んでいる。(HPは10年目のメンテナンスで、ここ1か月間ほど掲載が止まっていました)。

              *
 
 私の記事のみならず、多くの寄稿作品から成り立っている。読者が、『穂高健一ワールド』を利用してもらう場合には、トップ画面の「サイト内検索」で、キー・ワードを入れてもらえば、数分以内で呼びだせる。
 寄稿者ならば、自分の名前を入れると、過去の掲載作品が一瞬にして表示される。

 歴史に興味ある方だと、事件名、人物名、地域名、あるいは歴史用語などを「サイト内検索」に入れて左クリックすれば、その関連の記事が列記される。

              *

 「歴史」とは過去の事象を描くもの。しかし、裏を返せば、新発見とか、新しい切り口とかで、従来の史観がちがってくる。

「歴史」は時代とともに進歩しているといえる。その面でいえば歴史は、科学や医学の進歩とおなじかもしれない。

 このHPに掲載した歴史関係は、この10年間の流れのなかで、多少なりとも内容が違ってきている面もある。それは新たな取材の裏付け、思いもかけない新発見の史料による歴史の進化があったともいえる。
 ただ、私のテーマは変わっていない。「あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない」という信念と信条は変わっていない。

            *

 約10年ほど前のある日、山口県内の著名な博物館を訪ねた。坂本龍馬の取材で、歴史学者に話を聞いていた。1時間ほど経った。
「長州は、倒幕に役立つ藩でなかったんですよ。萩と長府の分裂で、長州藩内は殺戮の内乱の連続だったんですよ。明治なるまで、藩論統一はできなかった」
 私はえっとおどろかされた。

 その後、調べてみると、長州が幕府に勝ったという第二次長州戦争のあとも、毛利家は朝敵のままだった。これでは倒幕など足も、手も出ない。調べてみると、毛利藩主・世子や長州藩士らは隣の芸州広島藩にすら足を運べなかった。
 木戸孝允ら長州の幹部が広島藩との打合せにいくことすら、幕府の厳しい目があるために容易ではなかった。広島藩世子・浅野長勲(最後の大名)が船に乗り宮島詣でカムフラージュし、新岩国港まで迎えに行かざるを得なかった。
 慶応3年12月9日の小御所会議まで、約一年間、毛利家の家中が京都に足を踏み入れば、新選組、見回り組に斬り捨てられる状況だった。

「長州藩は倒幕に役立つ藩でなかった」
 それは歴史的事実だった。なぜ「薩長倒幕」という用語になったのか。後世の歴史学者のねつ造か。

 それを深く掘りさげると、芸州広島藩浅野家の「芸藩志」(げいはんし)に出会った。実態は薩摩と芸州広島による「薩芸倒幕」と行きついた。そして、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を出版した。

 ここから、私は幕末史の通説を信用しなくなった。
     
            *

 有名な黒船来航においても、通説では、徳川政権の交渉団は弱腰であり、ペリー提督に蹂躙(じゅうりん)された。それによって、わが国は鎖国を放棄し、いやいや開国されたというものだ。
 この定説が教科書にまで採用されて、明治、大正、昭和、平成、令和の現在まで、大手を振ってまかり通っていた。俗にいう、薩長史観である。

 その根拠は「ペリー提督日本遠征記」である。外国に遠征した軍人たちは、不都合なところは隠し、わい曲した自慢話ばかりである。
 明治の御用学者は、薩長閥の政治家たちをヒーローにし、一方で、西洋コンプレックスからアメリカ側の史料をう呑みにしている。黒船の 乗組員の日記・覚書を中心にした「ペリー提督日本遠征記」が我が国の学説の根拠にしている。かたや、幕府側の史料は完全に無視だった。

 当時の徳川家の狩野派などは、世界に通用する繊細な肖像画技術を持っていた。しかし、おもしろ可笑しく人の気を引く「かわら版」のペリー提督の鬼のような似顔絵を教科書に採用されている。

 1853年の「黒船来航」から約160年経った現在、日本側の外交交渉団の『墨夷応接録』(ぼくい おうせつろく)が世に出てきた。
 幕府の交渉団は、アメリカ大統領の国書の扱い、アメリカ側の通商要求などつよく拒否するなど、結果からみた歴史的な事実とぴたり符合できる。

「幕府は弱腰ではなかった。かれらはペリー提督の要求を論理的に、ことごとく打ち砕いていた」
 私たちの想像をはるかに越える幕府の外交は知的な集団だった。

              *

 
 ペリー来航以前においても外国船の来航が数多くあった。イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ベルギーなどの来航が、当時の外交政策におおきな影響を与えている、と私は知った。

 徳川幕府の重要な史料『墨夷応接録』から、私は阿部正弘を追ってみた。日本側の歴史書は信用ならないと、さらに外国側から資料をあさりはじめた。
 オランダの「別段風説書」などすべて目を通した。冒険家マンドナルド(長崎で、通事に英語を教えた)も、貴重な資料を残している。
 さらにジャワやアジアで発行されている英字新聞なども漁った。グーグルの翻訳サイトを使えば、無料で膨大な英字新聞すら数秒で日本語になる。
 「てにをは」はあやしげだが、私は作家であるし、文意は難なく読み取れる。
 発刊した『安政維新』(阿部正弘の生涯)は、これら外国資料と『墨夷応接録』で組み立てている。

          *
 
 私は、薩長史観が幕末英雄を鼓舞した軍事思想になったと、嫌悪に似た感情を持っている。薩長閥の政治家は、教育で軍国少年を作り、「お国のために戦う」と命を投げ捨てる兵士を作り上げた。日本の近代化という名の下に、大陸侵略へと手を伸ばしていった。

 日清戦争、日露戦争、満州侵略、日中戦争、太平洋戦争へと悲惨な結果へとつながった。太平洋戦争だけでも、320万人の戦死者を出した。近隣諸国を含めると、千数百万人の犠牲となった。
 元を正せば、御用学者が作った薩長史観が、悲惨な戦争への道になった。

 令和3年の今、太平洋戦争から77年が経つ。明治新政府の軍事教育から150年が経った。
「150年前の罪だから、忘れてしまったともよい、ということにはならない」
 私たちは人間としてやってはならない倫理、道徳の面で、過去の英雄を裁判にかける必要がある。
『あくどい人間を、いつまでも英雄にしておかない』
 その執筆精神は大切にしておきたい。来年8月から、私は新聞連載のしごとが入っている。無抵抗な市民を殺戮し、政権の座を得た人物は英雄の座から引き下ろしたい。 

藝州広島藩の神機隊を探訪する = 大政奉還論を推し進めた広島藩 ①

 第二次長州戦争から戊辰戦争まで、歴史には謎が多い。謎というよりも、資料が薄く、推測でしか、筋立てが追えない面が多い。
 第一長州征伐が起こる。幕府側の総督・尾張慶勝(元尾張藩主)と、参謀の西郷隆盛(薩摩藩)が、35藩15万人で進攻しながら、曖昧な長州処罰で引き揚げてしまった。ここに徳川幕府が倒れる大きな起因があった。

 歴史学者や歴史作家は、ヒーロー西郷隆盛を悪く言いたくのだろう、倒幕の根源が第一次長州征討の未処理のいい加減さにある、書きたがらない。
 一橋家の徳川慶喜がそれを知って「芋(薩摩)にやられたのだ」と尾張の慶勝に激怒した事実がある。
 明治時代になっても、德川慶喜が『長州・毛利は許せても、薩摩・島津は許せない』と語っている。ここらが本質をよく物語っている。


 孝明天皇は曖昧な長州処罰に不満だった。さいど朝敵の長州・毛利家を討て、と命じた。もはや、と14代将軍の家茂がみずから大阪城まで、出陣するより方法はなかった。ただ、和宮の夫だけに、孝明天皇からすれば、家茂は義弟になる。
 強引な長州征討はもとめず、やや緩やかなものになった。

              *

 1866年6月に第二次長州戦争が勃発するのだが、その前年から、幕府は第二次長州征伐へと進む。15万の幕府軍と500人の長州藩軍の戦いだった。だが、幕府は一つに結束できなかった。

 まず、広島藩は2回目の長州戦争に大義がないと征討に反対した。老中・小笠原長行が幕府軍の指揮を執るために広島にやってきた。広島藩の野村帯刀、辻将曹(つじしょうそう)ら執政(家老級)は、繰り返し戦争回避の建白をする。
 ところが、小笠原老中は、出兵に反対する広島藩の執政(家老)二人も楯突くと言い、謹慎処分にした。これでは藩政府は回っていかない。
 老中の横暴に対して、学問所関係者の若手55人が反発し、『戦争を推し進める老中を打ち取るべし』と小笠原の暗殺を謀る。そのなかに、高間省三がいた。あわや幕府と広島藩の戦争になりかけた。藩主の浅野長訓、世子の長勲が小笠原老中を広島から退去を言い、かつ広島藩の参戦拒否で収めた。

越後高田藩の出兵風景 絵=最後の浮世絵師・揚州周延(橋本直義)、かれも参戦している。
 

 越後高田藩の部隊などをみれば、慶応元年5月に越後から大阪に向けて出発していた。12月に海田(広島県)に到着しました。兵士らは厭戦(いやけ)の気分だった。部隊は延々と海田で待機していた。
 諸藩をみれば、2度にわたる戦費はすべて自前だし、苦境に陥っていた。いつ戦闘が怪死するのか、見通しも、情報もなく、戦う気迫は削がれていた。

 薩摩藩となると、小栗上野助など江戸の幕閣が「長州を討った後、その勢いで薩摩を討て」と主張している。なにしろ、第一次長州征討の毛利家処分なしの総引き揚げは、幕府を嫌う西郷の罠だと思っている。
 
 にらまれた薩摩藩は、もはや幕府の先鋒となって朝敵の長州藩と戦争などしていられない。むしろ、薩長同盟を結んで、ともに耐え忍ぼうとする策にでた。

 それでも長州戦争が勃発する。藝州口では、厭戦気分との彦根藩と高田藩が、広島が抜けた先鋒隊となった。武器は旧式だし劣勢になった。敗走する。しかし、フランス式の軍隊の紀州藩が出てきて、長州を追い返する。藝州口の戦いは互角だった。

            *

 幕府側からみれば、最悪は小倉城だった。肥後熊本藩の大将と老中・小笠原が大喧嘩してしまったのだ。肥後熊本藩は総引き揚げする。他の九州の諸藩も引き揚げてしまった。
 となると、小倉藩だけが長州藩と戦う。沖合の幕府側の戦艦は、射撃の砲弾も高価だと言い、艦砲射撃もしない。戦う気力もなく、傍観していた。

 小倉城は、藩士ら手で自焼した。しかし、ゲリラ戦で、長州藩兵と長く戦っていた。

 14代将軍の家茂が大阪城で死去した。一橋慶喜の命令で勝海舟が広島に休戦協定でやってきた。広島藩の執政・辻将曹(つじしょうそう)が、長州藩にかけあい、宮島で長州藩と幕府との間で、休戦協定がむすばれた。

            *

 江戸の幕閣あたりから、3度目の長州征伐を言い出す。
 広島藩としは藝州口で、甚大な被害をこおむっている。また、戦争をる気か、民が塗炭(とたん)の苦しみに追いいるだけだ。
「こんな徳川幕府はもう政権を朝廷に返上した方がいい」
 広島藩が藩論一致で、倒幕に動き出した。まず薩摩を巻きこんだ。土佐藩は山内容堂の許可が取れなかった。代わりに、朝敵の長州を加えて、薩長芸軍事同盟を結んだ。軍事圧力で幕府に迫るというものだった。

 勘の良い徳川慶喜は、土佐藩と広島藩が出した大政奉還を受けた。慶喜は、ここは一度幕府を解体し、新たな政府をつくる。アメリカ大統領のような頂点を据えた。議会制度をつくる狙いがあった。
 大政奉還は朝廷が認めた。ここで、公家が秘かに動いた。「王政復古」という平安時代のような、武士階級でなく、朝廷を動かす公家による政治を行う。
 主力は岩倉具視で、薩摩の大久保利通と西郷隆盛がそれに乗った。

          *
 慶応3年12月9日に、王政復古新政府ができた。幕府は武力でつぶしておかないと薩摩にしろ、長州にしろ、わが身が危ないと、鳥羽伏見の戦いが起きた。
 広島藩の執政・辻将曹が、「これは薩摩と会津の怨念の戦いだ。広島藩はこれに乗るな」
 伏見に出ていた軍隊には、戦わさせなかった。


                *

 朝廷から、広島藩には備中・備後に出動せよ、と命が出る。藩兵が出動したが、神機隊が300人も出陣した。尾道から笠岡に上陸し、備中の陣屋を占領し、民衆を鎮撫し、一応の役目を果たしてきた。


「伏見の戦いで、辻将曹の実弟・岸総督が失態を犯した。日和見の広島藩が闘いから逃げてしまい、京都の有志から、腰抜けだと嘲笑されている」
 船越陽之介が、その情報を持ち帰ってきた。
「広島藩が笑いものにだと」
 若き神機隊の隊員が激怒した。このうえは、神機隊の全体が一致して、激戦地に出動し、命をかけて戦おう。広島藩の名誉挽回だ。ただちに関東出兵を決めた。

 神機隊の出動は、財政難の広島藩から認められなかった。
「みずから、軍費を負担して出兵する以外に方策はない」
 と家中や豪商・豪農に。軍費調達に走れ、と出兵の準備を着々と整えた。

「神機隊が自費で、戦場に行くなど、広島藩の恥さらしだ」
 藩政府は、請願の裁許を出さない。
「ならば、精鋭として選んだ320人はみな脱藩しよう」
「300余人がいちどに脱藩など、前代未聞だ。広島藩の無策ぶりをみせるようなものだ」
 藩政府は議論百出だった。

                      【つづく】
『予告』

 ◎2回目
 ・広島藩・神機隊の高間省三(二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神)、一橋家の興譲館の館長の阪谷朗盧(開明派の学者)、NHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一(近代日本経済の父)、かれらの知られざる接点。
 ・パリ万博に行く渋沢栄一の「見立養子」となった渋沢平九郎は、上野の彰義隊から分裂した振武軍の副隊長となった。戊辰戦争の飯能戦争(埼玉県)において、平九郎は秩父の山中で神機隊斥候と遭遇し、戦った末に自刃する。割腹した名刀の小刀が神機隊の河合三十郎の手で永く保管され、明治26年に広島で渋沢栄一に渡された。
 拙著「広島藩の志士」には、現地取材で詳しく取り上げられています。
 ・大河ドラマ「青天を衝け」で、この渋沢平九郎が悲劇のヒーローとしてクローズアップされてくるでしょう。

 
◎3回目

 ・自費出兵の神機隊は約21歳の若者たちで、従軍日記にもローマ字で署名するなど、高度の知識と教育訓練を受けた精鋭部隊たちだった。
 ・広島藩主の藩命でないからと言い、総督を置かず、義勇同志とした。武士と農兵との間には身分の上下をつくらなかった。関東征討、奥州の激戦地で戦う若者は、軍律厳しく、侵攻者特有の暴虐は許さず、現地の民に気配りする美談の数々を残す。
 ・令和のいまも、墓前に花が飾られている。

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(下)

  渋沢栄一は、ヨーロッパ帰りで、静岡で商法会所を起ち上げて、資本主義の原点である商工業と銀行業をスタートさせた。
ところが約半年後に、大蔵省の租税正に任命されたのだ。渋沢はかたちのうえで出仕してから、大隈重信に直接面会して、辞意を述べた。

               *
  
「たとえ足下(渋沢)が、充分なる学問がないにせよ、すでに駿河で一商会を組み立てている。それを日本全国に普及させて、日本に実業界を作ってくれ。それにはまず大蔵省で仕組み(法)をつくる。そのためにも、有為な人物が必要なんだ」
 肥前藩出身の大隈重信は、頭が切れるし、強引だった。
「私は静岡で自分流の事業を行いたいのです。官吏にはなりたくない」
 渋沢は新政府の要職は御免だとばかりに、あれこれ申し立てた。

「慶喜公にたいする義理は一応もっともである。だが、慶喜公のみを思うて、天子(明治天皇)にたいする奉公の念はなくても良いのか。大蔵省で財政・金融の仕組みを作ってから、足下(渋沢)が思う存分に実業すればよいことだ」
 薩長土肥の政治家は、資本主義の経済そのものが理解できておらず、日本が今後どの方向に進んでいくべきか、まったくわからないのだ、と大隈はくり返す。


「奉職は引き受けかねます」
「なにを苦しんでおる。足下(渋沢)の考えはちがう。静岡と、日本の将来という大小を比べてみたまえ。わが国は欧米諸国の先進国の谷間で、封建主義の古い体質から変わらないと沈没してしまう。解るだろう」
「私は一橋家に仕えた身です」
「大蔵省は新政府をつくるというよりも、日本の資本主義を作るのだ」
  弁の立つ大隈重信に、渋沢栄一はとうとう口説き落とされてしまった。

           *
  
 ここから4年余り、渋沢は財政・金融の総合プランナーになって、貨幣制度を「両」から「円」に切りかえた。銀行条例を作った。会社組織の条例も次つぎにつくった。

 この間、明治4年には廃藩置県があり、全国から大名支配が消えた。これにともなう数々の新制度を作った。

 租税もお米から紙幣に改正した。鉄道を作るために、外債を発行する。新紙幣は信用をつけるために、ヨーロッパと同様に兌換紙幣にした。新政府の国庫には金・銀の手持ちがない状況下で、実にハイ・リスクである。

 失敗を恐れていたならば、日本経済は死ぬか止まってしまう。渋沢は突っ走った。新事業として、官営冨岡製糸場をつくる。

 写真=冨岡製糸場のHPより

 武士階級が消える。士族には公債証書(有価証券・売買はできる)を発行し、年4分の利息を付けて、6年間は元武士の生活保障をした。


 話を割り込むが、新型コロナウイルスの現在、政府が収入のない中小・小規模企業のみならず、国民に一律の支給する。さらに5年間は無利息・無担保という。
 国民の生活保障をして支えようとしてる。失業した武士を支える。収入がない人にたいする政策努力において似ている面がある。

           * 

「君は生まれつきの経済の天才だ。そのうえ、良く勉強もするし。物事は学問だけではできぬ。経済から近代化を推し進めてくれ」
 激賞する井上馨がとくに後押した。

 大蔵卿の大久保利通が岩倉使節団と海外に行って不在だったから、渋沢の企画がスムーズに採用されていた。貨幣制度、公債発行の方法、銀行の仕組みが整った。

 当時は、外国から招聘(しょうへい)した行政官、教育者(北大・クラーク博士など有名)、産業指導など多分野で指導をあおいだ。しかし、大蔵省だけは、渋沢栄一がいるので、1人も外国人を入れず、財政・金融システムを創りあげた。


 渋沢栄一は、日本が植民地にならなかった最大の貢献者である


 戊辰戦争の勝利者だった薩長土肥の政治家だけでは、渋沢栄一のように資本主義の骨格形成などは、とても迅速にできなかっただろう。疑いもなく、歴史的にもそう言い切れる。

 渋沢栄一は大蔵省を辞してからも、第一国立銀行を創立した。そして、日本の基幹産業の会社づくりに猛進した。印刷業の発展からも、製紙業は和紙から洋紙にするためには必要不可欠な企業だった。「王子製紙株式会社」を設立した。

 物品の海上輸送と荷為替の両立するためには、保険が必要である。「東京海上保険会社」を作る。株券・社債・証券の売買には「株式取引所」を作り、古巣の大蔵省の認可を得た。

 外国から綿糸を輸入していると、外貨がながれでていく。そのためには紡績業の発展が必要だと言い、「大阪紡績株式会社」を設立し、成功させる。

           * 

 明治42年まで、渋沢栄一は約500社の株式会社の設立にかかわった。
 新規の産業となると、リスクもあり、失敗する事業がある。他人から批判されることもあった。それでも、彼はみずから率先し、先進国並みの企業を創立した。

 諸外国で産業革命から200年余りかかったことを、20-30年でやり遂げようとしていた。
 現代にまでつづく大企業が多かった。日本郵船、清水建設、東京電力、東京ガス、IHI、帝国ホテル、東京製鉄、サッポロビール、川崎重工など、書きつくせないほどある。

「私が一人で作ったのでなく、たくさんの企業家、資本家と深い関係をもちながら、創業にかかわったのです」
 渋沢は信頼が財産という考えだった。


 渋沢のすごさは財閥を作らなかったことだ。三井財閥、住友財閥、安田財閥とまわりは巨大化していく。

 日清戦争・日露戦争のあと、渋沢は企業活動から手を引いた。そして、慈善活動、教育活動へとシフトした。数々の大学の設立にかかわった。
 欧米、アジアとの民間外交に専念する。
「外国との協調なくしては、日本の繁栄がない」
 渋沢栄一は、昭和6(1931)年、91で永眠するまで、世界の激しい変化のなかで、民間外交に尽くした。
 2度もノーベル平和賞にノミネートされながら、日本が大正・昭和初期の戦争という路線で、受賞から外されている。

           *

 渋沢栄一が推し進めた資本主義は基幹産業として企業を作ってきた。それが現代日本の根幹だった。
 新型コロナウイルス禍で、新しく日本が生まれ変わろうとしている。これからはテレビ会議、オンライン、ネット文化のなかで、いかなる社会になるのか。
 個々人が独立した起業家になっていく様相を呈している。
「新しい事業には、一直線で無難な進行などないのです。躓(つまず)き、種々の悩みを経て、辛苦(しんく)をなめて、はじめて成功をみるものである」
 新しい分野への道は、いつの時代もまったく同じだろう。

 農民の出で学問はありません、と言いながらも、苦労に苦労を重ねて、率先して「日本を資本主義の大国に導いた」渋沢栄一の一つひとつの言葉は、含蓄(がんちく)があり、「座右のことば」にしたくなるものがたくさんあります。
 そこから読み解いていくと、私たちの将来へのヒントが生まれるでしょう。
 
【了】

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(中)

 渋沢栄一は面白い経歴だった。ここらからひも解いてみよう。

 生れが天保11(1840)年で、武蔵国洗島村(埼玉県・深谷市)の農家(名主)だった。幼少の7歳で、頼山陽の「日本外史」を読んでから尊王思想に魅せられたという。

 武蔵国の豪農の子どもらは剣術をならう。近藤勇、土方歳三などのように。渋沢栄一も武芸として神道無念流を学んだ。
 渋沢は19歳で結婚してから、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場に入門する。そこでも、尊王攘夷の思想に染まり、23歳にして、大胆なことを考える。
 農民はどんなに才知があっても、勤勉しても、政事はつけない。逆の道をいこう。それには、尾高惇忠、後に彰義隊頭取になる渋沢成一郎などとともに、「高崎城を乗っ取り」、その勢いを借りて、外国人の多い横浜の横浜を焼打ちにする。国家が混乱すれば、英雄が出てきて、国政をとるだろう。
 
「暴挙だ、一揆とみなされて、斬首が落ちだ」
 と従弟に反対される。

 高崎城乗っ取りを断念した渋沢栄一は、京都に出て、尊王攘夷の志士活動をしようと決めた。八月十八日の変のあとで、期待した過激派の長州は京の都を追われていた。勤王派は凋落していたのだ。
「持ち金がなくなった。腹がすくし」
 江戸で顔見知りだった一橋家の重臣・平岡円四郎が京都にいる。そこを訪ねた。
「うちにきて、中間でもやれ」
 と手を差し伸べてくれたのだ。ここから人生は尊王攘夷とは真逆になった。
 一橋家の最も下っ端で、足軽以下で、雑魚寝(ざこね)である。すこし昇格して御徒士(おかち)になった。
「一度でよいから、殿さまの慶喜公にお目通しさせてほしい」
 と御用人に頼んでおいた。大胆な希望だった。ところが、そのチャンスを作ってくれたのだ。
「一橋家には軍隊がありません。殿さま(慶喜公)は京都守衛総督でいながら、身辺警備の100人ばかり。京に戦いが起きたら、守衛でいながら役にもたちません。一橋家の御領内から1000人の農民をあつめて、歩兵を組み立てられたらいかがでしょうか」
 と注進した。慶喜はただ無言で訊いていた。

 数日後、歩兵取立御用掛を言いつけられた。つまり、兵士の募集係だ。

 一橋家は飛び地として摂州、泉州、播州、備中、それに関東にもある。御徒士の低い身分の渋沢栄一が出むいても、どこの代官所も協力しない。予想外の難問だった。一軒ずつの農民を口説いても、翌日には断ってくる。1人も集まらない。
 別の領地に出むいて、そこの代官に直接頼んでも、下っ端か、とあなどられてしまう。
 備中井原村(現・岡山県)は一橋領で、興譲館(こうじょかん)があり、阪谷朗廬(ろうろう)という著名な学者がいた。学者から代官に頼んでもらおう。思惑とおり、阪谷は協力してくれた。ここから切り口ができて、総体として450人ほどあつめられた。
 
 この興譲館には、広島・神機隊砲隊長となる高間省三が、学問所の助教のとき遊学していた。もしかすれば、渋沢栄一と顔を合わせていたかもしれない。
 神機隊と渋沢栄一とは戊辰戦争の時、思わぬ関わりが生じるのだ。

           *
 
 渋沢栄一は、小規模ながら、一橋家の軍隊を起こした。さらに、産業奨励にも積極的で、勘定組頭になった。みずから提案した藩札も発行し、金融の実践である。それぞれが成功した。経済が好きな人物になった。
 これが近い将来のヨーロッパ留学で、おおいに役立つのだ。

           *

 厄介なことに、慶喜が15代将軍になったことで、組織は巨大になってしまった。渋沢は望まずして家臣から幕臣になった。とはいっても、幕府内の超下っ端だから、とても産業・金融の仕事などありつけない。
 むろん、将軍・慶喜にも拝謁できない。また、浪人にもどろうか、と渋沢は考えていた。 

 慶応3(1867)年に、パリ万博が開催される。德川将軍の名代として、水戸藩の昭武(あきたけ・最後の水戸藩主)が出むくことになった。慶喜は、年少の昭武には5-6年は留学させる予定だった。
 かたや、水戸藩は頑迷な攘夷派集団だから、外国人嫌いだ。お供の人選に難航していたらしい。かろうじて7人と決まった。一橋家からは、金銭感覚の良い渋沢栄一が加わったのだ。
「経済が学べるぞ」
 夢が一杯だった。貪欲に学びたい渋沢は、まず船中でフランス語を勉強していた。
「なにがなんでも、ヨーロッパの好いところを学びたい」

 一行はパリ万博のほかにスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスと巡回旅行した。
 渋沢は学ぶポイントを絞り込んだ。将来は政事・政策など無縁だし関係ない。ひたすら経済学を修めて金融、運輸、商工業を会得することだと燃えていた。
 
 最大の関心事は、紙幣の流通だった。紙幣が金・銀に替えられる。それも量目も純分も同じある。日本の場合は石高の表示であり、金に換えられない。

 次の興味は銀行だった。他人の金を預かったり、貸したりもする。為替の取り扱いもする。ここらは日本にないシステムだった。
 ヨーロッパの鉄道会社は新規投資に、借用書(社債)を出す。日本では借金を隠すのが一般的だが、ところが、なんと借用証文(公債証書)が公然と売買されているのだ。

 商工業の組織は不特定が株券を買う、株式会社である。つまり、大勢が出資した商工の会社である。
「なるほど、国家の富強は、かくのごとき物事が進歩しなければならないのか」
 と資本主義の骨幹を知った。

 日本は武士が威張っている。だけれど、ヨーロッパの軍人は商工者(実業家)の地位を尊敬している。まるで、日本と逆だ。
「すべてのひとが平等でなければ、たがいに投資して、共同で事業の進歩を成すことができない」
 渋沢は領事官を介して、銀行家、郵船会社の重役に会って話すこともできた。経営者からの視点も得られた。

 こうして学んでいるとき、徳川幕府が倒れてしまった。帰国命令が出たので、一行は明治元年11月に日本に帰ってきた。

 德川慶喜公は謹慎で、駿河の宝台院という寺の汚い一室に、押し込め隠居のような有様だった。出発時には将軍であったひとが、惨めな生活を強いられている、と渋沢は心を痛めた。

 かれには養子に剣術の達人・渋沢平九郎(写真)がいた。戊辰戦争の飯能戦争で、振武軍の副将だった。
 平九郎は敗戦で、秩父の山道を逃げているさなか、広島・神機隊の斥候たちと遭遇した。4人をあいてにして追い払ったが、銃弾を一発足に受けていた。平九郎は観念して自刃した。

 渋沢栄一は慶喜の境遇、平九郎の死という失望感から、田舎に帰り農業するか、駿河でヨーロッパで学んだ産業の実践経営をするか、と迷っていた。

 ちなみに静岡市内の有力者たちに、合同出資を持ちだしてみた。

 ヨーロッパ帰りということで賛同者が得られたので、官民合同の「静岡商法会所」(株式会社)を設立した。渋沢栄一は事務総裁の頭取と名づけて、そこに座った。
 事業は米穀、肥料など商品の売買、そして銀行業務として貸付、預金もひきうける。いわゆる万屋(よろずや)商法であった。

           * 

 明治2年11月、箱館戦争が終結するまえだった。突然、大蔵省に出仕せよ、と藩庁を介して渋沢栄一に厳達がきたのだ。
 かれは拒否した。
「それはならぬ、静岡藩が新政府に楯突(たてつ)くことになる、有為な人材を隠していることにもなる」
 と藩庁は受け付けない。藩主や慶喜公にも迷惑になることだという。

 この当時、大蔵卿(大臣)が伊達宗城、大蔵大輔(実質のトップ)が早稲田の大隈重信だった。その下に伊藤博文、さらに井上馨と続いていた。


 渋沢栄一は静岡藩庁の顔を立てて、ひとまず大蔵省に出仕してから、すぐに大隈重信に辞表をだした。
「これからの日本の経済界を進めていくには、渋沢栄一が必要だ」
(御免こうむりたい)
 渋沢は慶喜公の惨めな姿からしても、新政府に役立つ人間になろうとは思わなかった。
大隈の説諭は執拗だった。

                     【つづく】