歴史の旅・真実とロマンをもとめて

鳥居耀蔵(ようぞう)のワナにはまった天草の豪商=石本平兵衛

 2016年7月22日は天草下島一周のさなか、まさか鳥居耀蔵の毒牙にかかった人物と出会うとは思いもよらなかった。
 私は、幕末に開国させた『阿部正弘』を書くために各地を取材している。すでに、4-5の歳月をかけている。むろん、そればかりに時間を費やしているわけではないけれど。

 狙いは、阿部正弘は戦争せずに開国したけれど、もし鎖国にこだわり、西洋列強を武力で排除する策に出たならば、どうなっていたか。まちがいなく日本列島は戦禍で、国土を乗っ取られる。
 しかし、後世の評価は、阿部正弘は西欧列強に蹂躙(じゅうりん)された、ひ弱な政治家だと見なしている。むろん、明治政府のねつ造だけれど。

 阿部は、德川政権下の有能な人材を惜しみなく大胆に登用した。その知恵を絞り、きわめて重大な局面を救った、歴史上まれなるり有能な政治家だった。
「西洋には武力でなく、優秀な人材で対抗する」
 誇大に阿部正弘を持ちあげる気はないが、「元寇を撃退した北条時宗と同様に、阿部は日本を救った」という見方には賛成している。それを小説で、表現したい。


 こんかいの取材中に、天草の豪商・石本平兵衛を知った。かれは長崎の海外貿易で、巨大な経済力を持つにいたり、大名貸しはつねに100万両を越えるほどにまでなった。
 九州各地の財政顧問の地位にまで、石本は登りつめている。

 ところが、高島秋帆(しゅうはん)事件に連座し、石本は江戸に送られていた。そして、天保14(1843)年、57歳で獄中死している。


 老中・阿部正弘と、高島秋帆事件は無縁でない。私の関心は一気に高まった。これは、小説の素材のひとりになる人物だとも思った。なぜ、石本平兵衛は連座を問われたのか。


 まず高島秋帆事件とはなにか。

 中国大陸でアヘン戦争(1840~42年)が起きた。翌年、長崎会所(後の長崎税関)・調役頭取の高島秋帆が、『イギリス軍が清国に圧勝したのは大砲の差である。わが国も砲術の近代化と西洋化を図らなければならない』と意見書を長崎奉行に提出した。

 それが江戸に送られた。「目付」の鳥居耀蔵は、洋学が大嫌い人間だった。かれは精神主義で文武奨励で西欧列国に対峙できると言い、高島秋帆の意見をとるに足りないものだとした。

 しかし、数人の砲術家が、老中首座の水野忠邦に「高島の砲術を見分してみてはどうだろう」と進言した。そこで、天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国・徳丸原(板橋区)で、大砲の演習が行われた。
 演習見学は水野忠邦、各大名、さらに囲いの外では一般の群衆の見学も許されていた。


 わが国の砲弾は鉄製の球形が飛んでくるだけだ。しかし、高島の造った大砲は洋式で、約800㍍先の目標に着弾すると、火薬が炸裂する。死傷者は数多く出る。

 徳丸原ま演習では、不発弾は一発もなかった。火薬技術の優秀さを物語っていた。

 当時の日本は、火縄銃だと誰もが知るところだ。
 秋帆の指揮の下で、97人のゲーベル銃が一斉射撃する。さらに、剣付ゲーベル銃で、銃隊を組んで突き進む。

 これら西洋式の兵器の威力は、幕閣たちをおどろかさせた。
「これでは、清国はイギリスに負けるはずだ」
 だれもがそう認識させられた。

 阿部正弘は後に、高島の砲術を賞賛し、「火技中興洋兵開基」(読み方は不明)という称号をあたえている。つまりは、「高島秋帆なる者は西洋式の砲術・洋兵法の開祖である」と認定したのである。

 老中首座・水野忠邦は、江川英龍への伝授を認めた。さらに、砲術の専門家として、幕府・諸大名の家臣に、自由に砲術の伝授を認めた。

 当時は、西洋の船が日本沿岸にきたら撃ち払う、という「異国船打払令」だった。相手が軍艦だったら、艦砲射撃で応戦される。とても太刀打ちができない。水野忠邦は、「異国船打払令」から「薪水給与令」に切りかえるのだった。


 高い評価を得た秋帆にたいして、おもしろくないのが、忠邦の腹心の鳥居耀蔵だった。
 鳥居はなんと「高島は外国と結託し、日本を攻撃する、謀叛を計画した」という、根も葉もない事件をでっち上げたのだ。親せき筋にあたる長崎奉行・伊沢政義に取調べを命じた。しかし、そんな疑いはない、と回答した。

 鳥居耀蔵の頭脳は良かったが、性格が良くなかった。かれは洋書を学ぶ者を儒学の反逆者とみなし、根絶やしにしようとしたり、陰険な手段で追い払ったりする人物だ。
 その上、執念深いから、「だったら、江戸で調べる」と、井沢長崎奉行に高島秋帆を逮捕させ、江戸送りにさせたのだ。

 石本平兵衛も、同事件の連座で、江戸送りになった。「オランダから輸入した大砲は、長崎貿易を仕切っていた石本平兵衛が、密貿易で購入した」と言い、讒訴(ざんそ)したのだろう。


 水野忠邦が天保の改革の失敗で、失脚すると、阿部正弘が27歳の若さで老中首座(内閣総理大臣)になった。
 阿部は、鳥居を片腕にしてきた水野忠邦の失政を糾弾し、さらに高島秋帆事件を再調査させたのだ。その結果、鳥居が仕組んだねつ造事件だと断定した。

 勘定奉行の座にいた鳥居を解任させたうえで、丸亀藩(現香川県)に軟禁した。(明治になるまで、20年間にわたり丸亀藩に軟禁されていた)。


 高島秋帆は軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に幽閉された。しかし、ペリー提督来航の折、高島は免罪になり、江川太郎左衛門の手付となった。阿部は翌年(1854)のペリー来航の間、諸藩に意見をもとめた。ほとんどが異国排斥を唱える攘夷論だった。


 高島秋帆は平和主義による開国「嘉永上書」を幕府に提出した。
「いま、外国と戦争してはなりません。交易は両国に利潤があります。外国は貿易を望んでいるのです。銀・銅で支払った通商で、医術などが進歩し、国益が増進します」
 阿部は高島の意見を尊重し、安政元(1854)年の日米和親条約の締結へと臨んだ。


 鳥居耀蔵は「蛮社の獄」などで、有能な人物を無実で獄に入れるなど、日本史のなかでも特筆される、悪辣(あくらつ)な人物の一人だろう。

 その罠にはまった、天草の豪商・石本平兵衛ははやくに獄中死した。石本家は断絶させられた。気の毒なかぎりだ。

 それが私の天草旅行で、最も心に残る切ない想いだった。

                                 【了】

淑徳大学・公開講座「知られざる幕末史」=7月30日より

 淑徳大学の2016年夏・公開講座で、『知られざる幕末史』の募集が行われている。

場所は淑徳大学・池袋サテライト・キャンパス(池袋東口から徒歩3分)

期 間  平成28年7月30日~9月24日 (6回)

曜 日   土曜日

時 間 13時15分~14時45分

受 講 料 12,000円

『講演のポイント』

 江戸時代は260年間、戦争しない国家だった。明治に入ると10年に一度海外と戦争をする軍事国家となった。原爆投下まで77年間続いた。日本人は戦争好きの民族に思われてしまった。誰がこんな国家にしたのか。

 明治政府は歴史教科書で、うそと歪曲した幕末史を教えた。それが未だ続くから、高校で日本史が必修科目にならない。

 学校教育で事実・史実を教えないならば、作家は小説で教えていく。それが歴史作家の役目だ。
幕末歴史小説『二十歳の炎』、『燃える山脈』の著者が、明治政府が隠ぺいした歴史を掘り起こします

【講座内容】

1. 7月30日 幕府、藩という呼称は江戸時代になかった。幕府=公儀、領=大名家である

2. 8月 6日 ナポレオン侵攻でオランダが滅びた、日本はアメリカと貿易していた

3. 8月27日 薩長同盟は軍事密約ではない。薩摩側はいちどの口約束に過ぎなかった

4. 9月10日 鎖国から開国、安政改革へと、徳川時代から文明開化がスタートした

5. 9月24日 朝敵の長州藩は京都に入れず、政権交代の大政奉還もカヤの外だった

6. 10月8日 軍事思想家の吉田松陰「松下村塾」が、明治からの戦争国家をつくった


【申し込み先】

淑徳大学エクステンションセンター(池袋サテライト・キャンパス)

TEL 03-5979-7061

FAX 03-3988-7470

〒171-0022
東京都豊島区南池袋1-26-9 第2MYTビル7F


               写真提供:川上千里さん

德川家の金融支配力と抜擢主義をひも解く=石本平兵衛

 徳川家はなぜ260年間も、幕府を維持できたのか。家康からはじまり、十五代将軍慶喜まで、つねに260余藩(家)の頂点に立っていた。
「金の力が政治権力の源である」
 これは疑いようもない事実である。

 歴代の德川将軍の能力が、個人的に出来ふできに関わらず、財政・金融政策が優れていたから、長期政権が維持できた。あえて言えば、大政奉還後も、德川家は滅亡せず、現在も脈々と子孫は資産の一部を保持できている。

 2016年7月21日~22日の天草訪問で、坂本龍爾さん(世界平和大使の会・理事)の案内で天草下島を一周した。とくに興味を引いたのが、豪商・石本平兵衛だった。

『石本家の屋敷は約1,200坪(約3,900㎡)。御領石を加工した石垣』


 敷地内には、石本平兵衛の偉業をたたえる歴史案内板があった。興味ぶかく、じっくり読んだ。そして、希代まれなる巨大な豪商に伸し上がった背景を推量した。


 平兵衛は天明7(1787)年に、同島・御領村の旧家・石本家の5代目の長男として生まれている。かれは少年時代に長崎で学び、語学、経済、財政、貿易を学んでいる。

 天草、長崎はともに幕府直轄領で、江戸・勘定支配の影響力がつよい。石本の卓越した能力が幕府側の官吏に認められたのだろう。

 德川政権の特徴の一つは、、『人材抜擢システム』があった。勘定奉行所(大蔵省・法務省・外務省の機能)は、農商出身者でも、有能、秀才となると、家柄、身分制度を超えた登用をおこなう。そして、精鋭たちは能力を発揮しながら、競争で這いあがってくる。それは吉宗将軍がつくった制度で、能力主義である。


 ちなみに、日田代官所(現・大分県)の小役人の倅だった川路聖謨(としあきら)は、貧しく育った。父親とともに江戸に出てきた。やがて勘定奉行所に採用となり、抜群の能力を発揮し、奈良奉行、佐渡奉行、勘定奉行となっていく。
 水野忠邦、阿部正弘の政権では欠かせない人物になった。日露和親条約ではエトロフ・国後を日本領土に決めた、幕末史には大きく登場する人物である。


 あまり語られていないが、現代の官僚システムよりも勝る、し烈な抜擢主義である。役高が付き、御家人、旗本と身分も上がってくる。発掘された有能な人材、卓越した人材の厚みが、260年間にわたり、德川政権を維持できた所以(ゆえん)の一つである。

「天草・島原の乱」の以降は、天草は長崎代官所、日田代官所の支配下にあり、石本平兵衛と川路聖謨の超出世とは折重なるものがある。



 長崎と天草で商いを行う石本平兵衛は、「松坂屋」の屋号をもらっている。長崎出島の海外貿易にたずさわり、さらには九州各地の年貢米の取扱、産物の専売権を保有し、巨大な金融力をもった。
 天保5(1834)年に、幕府勘定奉行所から御用達を拝命されている。かれは当時の三井、住友、鴻池と肩をならべる金融大資本家になった。薩摩藩・島津家をはじめとした九州諸藩の『大名貸し』をおこなった。


 德川家は表だって、直接、大名貸しをしていない。幕府直轄領には巨大な豪商をおいて、そこから大名貸しをおこなっている。
 諸大名が豪商から金を借りる時は、いまならば銀行に金を借りる際に財務諸表を提示するように、その台所情報をだす。返済の繰り延べなど、大名の負債がみえてくる。それら情報が代官所を通じて江戸勘定奉行に集められるシステムになっていた。
 
 このように幕府領の豪商には、諸大名の金融情報の収拾(スパイ活動)の責務が負わされていたのである。

 飛騨高山でも、大坂の豪商でも、諸国の天領の豪商でも、石本もそうだが、天明・天保の大飢饉のときには、かれらの利益の一端が難民救済にまわされている。
 こうした利益の再配分の義捐救済は、幕府の指図だと推量できる。各地には、商人の個々人の顕彰碑が立ち、現在に言い伝えられている。


 幕府直轄領を取材する私が出した、結果として、
『幕府は金融に顔を出さず、商人を前面におく、という建前をつらぬいている』
 という点である。
 徳川はどこまでも武士支配による農本主義で、金・銀・銭をあつかう商業主義を低くみている。支配構造として、「士農工商」という身分制度の維持が根底にあるからだ。
 

 天保13年(1842)4月、石本平兵衛は『高島秋帆事件』に連座し、逮捕されて江戸送りとなった。天保14年(1843)、獄中死している。57歳。

「鳥居耀蔵(とりい ようぞう)の罠に、はめられたな」
 私は思わずつぶやいた。

                                  【つづく】


  
 

 

天草・島原の乱と、その後の幕府直轄領の善政を知る

 江戸時代の天草といえば、「天草・島原の乱」(1637) 、そして「隠れキリシタン」が有名である。あまりにも、有名な事象があると、それ一色に染まり、他の有益な史実が陰に隠れたり、研究者が不在で、歴史的な重要な事実が消されたりするものだ。

 2016年6月21日に、熊本から遠距離バスで天草を訪ねた。松岡さん(目黒学園カルチャーの受講生)がセッティングしてくれたので、本多康二さん (天草市観光文化部文化課 管理係長)と歴史的な意見交換ができた。

 本多さんは古代史が専門である。天草には恐竜が存在していた。その肉片が出てきたので、世界的にも珍しいものだと、説明してくれた。私はひたすら聞き役で、古代ロマンのひとときを過ごした。

 天草・島原の乱が終結した後に、天草は幕府直轄領になった。「2度と天草・島原の大乱」をおこすな、という趣旨で、江戸勘定奉行所から、特別な優秀な人材が送り込まれたはずですが、と本多さんに質問をむけてみた。

 というのは、私が『燃える山脈』で、飛騨高山を取材したときに、ひとつの特徴をつかんだからである。飛騨国では18年にわたる大原騒動が起きた。当時の大原(代官、後には郡代)は、一般にいう悪代官の典型だった。
 それが終結後から、勘定奉行所から派遣される官吏(現代の大蔵官僚)は、みな有能だった。大井帯刀郡代、小野朝右衛門(山岡鉄舟の父)など、農民の立場を斟酌(しんしゃく)し、農民に目をむけた施政ができる人材である。

 天草・島原の乱が農民一揆だとすれば、幕府はきっと有能な人材を送り込み、二度と大乱を起こさせない前向きな施策を取ったはずである。

「たしかに、そうです。初代代官に任じられたのが鈴木重成(しげなり・京都代官)です。寛永18(1641)年。かれは荒廃した天草の復興に尽力し、現在も「鈴木さま」と慕われています」と本多さん

「どのような施策ですか」
 私は質問してみた。

 
 天草・島原の乱前の天草は、唐津藩・寺沢家の支配下にあった。悲惨で過酷だった。秋の刈り入れの米が全部年貢にとられてしまう。これでは農民が生きていけない。年貢滞納者には両手を縛って蓑(みの)を着せ、火をつけて生きたまま殺す。「蓑踊り」などの惨刑を科していた。
 それら苛政が天草・島原の乱となった。

 幕府軍の鎮圧で、農民たち3万7千人が殺された。天草では人口が2万人から約8千人にまで激減したと推定されている。働ける農民が少なくなった。

 初代の鈴木重成代官は、他からの移民を推しすすめる。
 
 片や、天草領地の検地を実施した。実高が2万1千石なのに、4万2千石になっている、と判明した。税率は石高に応じて4割から6割である。石高(収穫)が2倍だから、収穫期に全部、年貢にもっていかれてしまう。この重税が天草の人々を苦しめ、「天草・島原の乱」の元凶だったと言い、鈴木代官は「石高半減」を幕府に嘆願した。

 しかし、唐津藩領から徳川幕府直轄領になり、とたんに石高を減らす(年貢の減となる)のは前例がないと、幕閣は聞き入れなかった。
 鈴木代官は江戸でくりかえし抗議し、書面を残し切腹して果てたのだ。

 旗本が農民のために切腹まで為した。幕府はおどろいた。他方で、天草の人々は、鈴木重成代官の死が伝わると、みんなして号泣したという。

 重成は老中・松平信綱の信任が篤(あつ)かった。本来ならば、切腹した場合にはお家断絶だが、病死扱いにし、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を天草の2代目代官にすえた。

 重辰は同様に繰り返し天草の石高半減を訴えて、それに成功している。そこから天草の人々は平穏な生活にもどった。天草は幕府直轄領として、江戸の色彩が強くなっていく。


 一般の認識では、天草・島原の乱は、『キリシタンの反乱(宗教戦争)』と捉えられている。否定はできないけれど、主要な要因は島原藩主・松倉勝家の苛酷な年貢搾取だった。過酷な支配に対する農民一揆である。
 江戸幕府は島原の乱をもって、その後のキリシタン弾圧の口実に利用した。

 (天草四朗たちが立ち上がった、本渡城~富岡城への海岸線を走る)

 悪い奴、政治をかく乱した奴、戦争を起こした奴は歴史に名を残す。民を犠牲にするほど、英雄になる。片や、善政・善人はいつしか歴史から消えていく。

 現地取材すると、歴史認識が変わる。「鈴木さま」と崇められる人物を発見できたように、消えた人物の掘り起しにもなる、と私は再認識させられた。

 極貧の庶民・農民の立場になり、いのちを投げ出した鈴木さまの、善政には感動させられたし、聞くほどに胸を打たれてしまう。『燃える山脈』の飛騨国・大井郡代と重なり合うものがあった。


 

西南戦争の田原坂は激戦だった。政府軍の真の勝因はなにか

 2016年7月21日、鹿児島から、熊本を経由し、植木駅前からタクシーに乗り、「田原坂西南戦争資料館(藤本典子館長)を訪ねた。
 明治10(1877)年の西南戦争で、薩摩軍と政府軍の戦いで勝敗を決めたのが、田原坂(同年3月4日~3月20日)の戦いだった。

 取材目的は、芸州広島藩の「神機隊」は戊辰戦争で戦い、さらに西南戦争に出むいて戦死した兵士がいる。戊辰戦争と西南戦争をつなぐものだ。
 ことし5月下旬には、中国新聞の岩崎論説副主幹がこの趣旨の下に、同館を訪ねている。私はそれを引き継いで訪問した。

 同館の中原幹彦学芸員から、まずは西南戦争の全体像を訊いた。
「ブック本などで紹介されている内容は、田原坂の実際の戦いとはかなり乖離(かいり)しています」
 中原さんはそう前置きをされた。

 一般に言い伝えられているのは、政府軍は最新の武器を装備し、軍服が統一されており、片や、粗末な薩摩軍に比べると、圧倒的な差があったとする。

 政府軍の勝因は、兵員と物資の補給力、それに情報力の差だった、と中原学芸員は強調された。

「当時、東京、長崎、植木、熊本まで電信通信網(有線)ができていました。『越すに越されぬ田原坂』と歌にもあるように、田原坂など大激戦で、政府側が不利な戦況が電信で、中央(東京)に即座に伝えられました。熊本城が燃えた。それらもいち早く電信で、中央に報告されたのです」

 1869年(明治2年)には東京・横浜間で、電信による電報の取り扱いがはじまった。明治政府は電信に力を入れており、数年で電信網は全国へと張り巡らされていく。
 西南戦争のときは、熊本、長崎まで有線が敷設されていた。

「政府軍は形勢不利だ、という戦地情報が通信で入ると、北海道、東北から、各地から兵をあつめ、援軍を次つぎに戦場に送り込んだのです」
 明治6年からは徴兵制が制定されていた。政府側は兵士あつめに、この徴兵制が有効にはたらいた、とつけ加えた。

「通信網は、鹿児島までは開通していなかった。この差は大きかったのです」


 田原坂(標高105㍍)は細い坂道である。
 政府軍は大砲を熊本に運び込もうとする。薩摩軍が細い道の両側に待ち伏せをしており、政府軍に襲いかかる。
 至近距離なので、発砲は味方をも傷つけてしまう。そこで、薩摩軍は抜刀で襲いかかった。

 同館の展示室にはかつて「かち弾(だま)」が展示されていた。(弾丸と弾丸が空中でぶつかった)。これをみた観客は銃撃戦を想像してしまう。
 実際には日本刀による戦いが主力だったから、かち玉の展示は引き下げたと話された。

 武器はイギリス製が多かった。大阪、東京にも、軍事工廠があったが、不発弾が多く、海外製品に比べると、質が劣っていた。

 3月29日の日奈久(ひなぐ)へ、政府軍が海上から上陸作戦をとった。軍艦は10隻余り、三菱などから借り上げた徴用の官船が60隻。政府軍が薩摩軍の退路を断った。


 薩摩はなぜ明治政府と戦ったのだろうか。

「島津家は幕末に国力がありました。織物、紡績が盛んで豐かであり、薩摩藩じたいでパリ万博に出展するほどの力がありました。戊辰戦争に勝った自負心があり、日本国の新政府をリードするのは薩摩だという強い意識があったのです。それに西郷隆盛というカリスマがいましたから」
 中原学芸員はそのように見解を述べた。

 薩摩は他に比べて士族・郷士の人口比率が高かった。かれらは幼いころから示現流(じげんりゅう)の軍事訓練を受けている。
「サーベルでは人を斬れなかったようです。簪かんざしみたいで」
 そう説明されてから、示現流の日本刀の威力は強かったという。

 薩摩軍の兵士らには、天皇をトップとした政府を自分たちが作りなおすのだ、という強い意識が底流にあった。


 片や、政府軍の兵士らは、「天皇の下に戦う」という、天皇の意義すらもわからない。「なんで」上官の指示に従うのか、と理解できなかった。
 農業は自営業だから、ふだん誰からも一挙手一投足の働きに口出しされた経験がない。組織で活動。それ自体が理解できない。

 その上、戦地ではいのちをかけた戦いにおびえていた。しかし、恐怖が連日だと、恐怖ではなくなる。練度が上がってくる。
 実戦が連日になると、薩摩の示現流にも立ち向かうほど、政府軍は優秀な兵士に成長してくる。

 西南戦争は7か月間も続いた。結果として、政府軍が勝った。東京・日比谷に意気揚々と凱旋した。
 ただ、政府軍の兵士が長崎で流行っていたコレラを持ち帰り、関西、関東、と全国に広がっていったという付属があった。


「戊辰戦争と西南戦争は切り離せないないし、一体です。戊辰戦争で戦い、西南戦争にも参戦し、そして亡くなった兵士は多い」
 薩摩側の戦没者の研究は進んでいる、と中原学芸員は教えてくれた。

 その一方で、政府軍側で、戊辰・西南戦争で戦った戦没者たちの研究はなされていない、と話す。

 広島の神機隊は戊辰戦争後、明治5年頃に解散している。その後、政府軍として出兵し、戦死した人がいる。こんかいの田原坂の取材を足がかりにした、追跡調査は学術的にも価値がありそうだ。
 

                       写真提供(同行者) = 浦沢誠さん

江戸の飲料水は井戸にあらず。江戸城のお堀の水はどこから?

 江戸城のお堀の水はどこからきているのか。さらには、100万人の住む世界最大級の人口の水は、どのように供給されているのか。単純な質問を私自身にむけてみても、明確な答えは出てこない。


「東京水道の歴史紹介~江戸から東京へ~」、(東京区政会館1階エントランスホール:28年7月12日から8月4日)と、さらに東京都水道博物館に出むいてみた。


 江戸からの歴史を知れば、人間の英知を知ることができる。一方で、ふしぎな疑問も生じてくる。すぐには解明できない。それが歴史の面白さだろう。

 徳川家康が江戸幕府を開いたときから、人口は膨張している。関東ローム層だから、井戸を掘っても、さして水は出てこない。そこで、神田上水や、玉川上水がつくられた。

 玉川上水は、奥多摩・羽村の堰(せき・堤防)から延々と水を引いてくる。

 基本的な考えは、現在の水道管と同様に、木樋(もくひ)や石樋を地下に埋め込み、上水を引いているのだ。

  神田上水が、お茶の水の神田川の上を架けて給水されていく。

  懸樋(かけひ)の技術は、ただ感心するばかりだ。



  参勤交代で江戸にきた大名や家臣、大工、商人、諸々の住民は水がなければ、1日も生きていけない。
 
 武家屋敷、長屋ごとに、大きな円筒の桶(井戸代わり・写真の桶)が造られている。それを汲み上げている。

 江戸全域を考えると、それを網羅(もうら)する、とてつもないぼう大な工事だ。徳川幕府の豊富な資金力が容易に想像できる。


 ちなみに、江戸幕府は身分に応じて大名、旗本、御家人に屋敷、家屋を貸与(拝領居屋敷・上屋敷)していた。ご公儀に盾突くと、「お家とり潰し」で、江戸の住いを幕府に明け渡さねばならない。むろん、国許のお城も、武家屋敷も。

 こういう目線で、武家諸法度をみると、士農工商といえども、武士たちはつねに「路頭に迷うわが身」を案じて、幕府の大目付、目付たちの監視に脅えていたのだ。
 狂気の殿様でもいれば、座敷牢に入れて口塞ぎをした。領内の悪いウワサにも、かれらは敏感に反応し、幕府の目を怖れていた。、

 人間は楽に生きることはできない。
 


 2階は江戸時代。1階が「近現代の水道」である。私たちはふだん水道の蛇口しか見ていない。ダムのみならず、巨大な水道施設をみるほどに、水のありがたみがわかる。


 夏休みに入れば、親子連れなどがたくさん勉強にくるだろう。

 江戸城のお堀の水はどこからきているのか。それは東京区政会館1階のパネル展、東京都水道博物館で、回答が出なかった。

 お城は極秘で作られる要素がつよい。多摩川、神田川から木樋で引いてきたのか。まてよ。現代も、お堀の水はある。

 かつて西新宿の淀橋浄水場から、1日2万トンの水がお堀に流れ込んでいた。この浄水場は1965年に廃止されて、雨水だけだという報道もある。これには疑問がある。

 雨水だけが頼りならば、極度の渇水期が到来すれば、お堀は枯れるはずだ。八木沢ダム、小河内ダムなど、底をみせる年もある。

 ネットで調べると、徒歩で調べた方がいる。神田川から、日本橋を通ってたどり着いたようだ。ただ、お堀の手前で、地下に潜ったようで、目視はできていない。  

 これも歴史ミステリーなのか。

講演「隠された幕末史」~明治政府がねつ造した歴史をあばく~

 シニア大樂「115回公開講座」が、7月5日(火)、東京ボランティア・市民活動センターで、午後1時半から開催された。講師は私を含めて、4人。主催はNPO法人シニア大樂である。

 会場は満席になった。
 
 私の講演タイトルは、「隠された幕末史」~明治政府がねつ造した歴史をあばく~、15:25~16:10の45分間である。

 明治政府がねつ造、わい曲した幕末史が、いまだ大手を振って歩いている。いかに勝者が歴史をつくるとはいえ、目に余ります。


「尊王攘夷」は150年前の正義だ、と思っている人が多い。しかし、攘夷とはいったい何ですか。肌が白い・異国人とみれば、無差別に殺すテロリズムです。

 安政の開国以来、欧米人が横須賀の鉄鋼所、長崎の造船所、建築など技師として多くたずさわりました。かれらは命を狙われました。横浜の貿易商も、外国人ゆえに大勢殺されました。
 
 (2016)7月1日夜、バングラデシュの首都ダッカで、日本人7人を 含む外国人が殺害されました。犠牲者の多くは、開発途上のバングラデシュの支援活動に尽くす方々です。20人殺害テロ事件は、まさに幕末の攘夷(排他主義)の活動家たちとおなじ姿なのです。

 現代に置き換えてみると、尊王攘夷論がとてつもなく危険思想だったか、わかるでしょう。

「尊王」はまだしも、「攘夷」はとんでもない思想です。こんなテロリストたちが政権を取ったから、10年に一度戦争する国家になったのです。尊王攘夷は美化したり、歴史上において正当化してはいけない、危険思想です。


 明治時代の「富国強兵」は文明開化を推進する、良き政策だ、と私たちは教えられてきました。ほんとうでしょうか。
 これは政府を富ますために、民から税金を高くとる政策です。国の収入が主に軍事に使われる。国庫の金が民間への分配にまわす度合いが少ない。つまり、軍国主義の経済政策なのです。

 社会への救済が乏しく、飢えて貧しい、とくに東北、長野・群馬など民は大陸へと押しやられました。富国強兵の政策は植民地政策の裏表なのです。


 明治政府が設立したとき、数々の政策選択がありました。欧米に学ぶにしろ、スイス、デンマークのような平和主義の国家はいくらでもあったのです。
 ところが、明治政府を作った下級藩士たちは、自分たちを武力で大きく見せる植民地、帝国主義をまねて軍事強化を図ったのです。
 
 鎖国主義を取っていた德川政権は、「戦争せず、植民地にもならず、開国」をさせたのです。東南アジアなどをみると、タイ王朝と日本だけです。
 しかし、明治政府は、列強の武力に蹂躙(じゅうりん)されたと德川政権を劣悪に言い、教科書で教え込んできました。だったら、どんな方法があったのでしょうか。鎖国の維持が良かったのでしょうか。


 徳川幕府は海外と一度も戦争していません。
 あえていえば、江戸時代に海外と戦争をしたのは、長州藩と薩摩藩だけです。それも長州藩は下関海峡を通過する商船(民間)に砲弾を撃ちこみ、後日、4か国艦隊から報復の戦争を仕掛けられ、あっけなく占領されてしまったのです。

 薩摩藩士が生麦事件(神奈川)で、イギリス人を殺害した。イギリスから報復で、鹿児島湾に入ってきた軍艦から艦砲射撃をうけました。

 結局のところ、2藩は列強の砲撃に屈しました。それなのに、明治になると、『阿部正弘は列強の軍事圧力の下に、開国させられた』と、幼い子供たちに教えはじめたのです
 
 これって正しい教育だと思いますか。


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ペリー提督の黒船来航より前、アメリカ船は数多く日本に来ていた=浦賀

『明治政府がわい曲した歴史教育は、国民のためにならない』
 それが私の大きなテーマであり、歴史小説でも、このHPでも、常に展開している。

 ペリー提督が浦賀に来た。その後、日米和親条約、日米修好通商条約、開国への道を切り開いた。ところが、明治政府は、遊び半分の、バカげた狂歌を教科書に載せてきた。 
『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず』
 それをもって徳川幕府の上層部は無策で、初めて見るアメリカ船におろおろし、開国を強いられたと。
 明治政府の悪質な策略で、ほとんどの日本人は鎖国は韓国、中国、オランダしか日本に来ていないと信じている。少なくとも、ペリー提督以前は、米国船が鎖国・日本、江戸湾にまったく来ていなかったかのように、教わってきた。

 イギリスと清国が戦争したアヘン戦争(1840年)後、アメリカ船は浦賀にも、長崎にも、北海道にも来ている。そして、徳川支配下の各奉行所の役人はかかわっている。米国との交流はあるし、生鮮食料品、卵、薪水も与えている。

 捕鯨船から脱走して北海道に上陸した漁船員や、冒険家・マクドナルドなどが長崎で、通詞(つうじ・通訳)にネーティブな英語を教えている。

 これらを克明に掘り下げるためにも、浦賀、長崎、北海道に現地取材をしよう、と考えている。まず6月のアジサイが咲く浦賀を訪ねた。

  浦賀は瓢箪(ひょうたん)のように、奥行きの深い湾だった。江戸時代からの良港である。現代でも、渡船が使われている。大人200円、子ども100円。決して高くは感じないほど、徒歩で対岸にいくには、浦賀駅あたりまで遠回り。推定1キロ以上はあるだろう。



 浦賀の渡船に乗りながら、明治政府はなぜ、幕末史をねつ造したのか、と考えた。
 
 徳川幕府が大政奉還下にもかかわらず、薩長土の下級藩士が戊辰戦争を起こし、軍事政権を作り上げた。
 現代風にいえば、山口県・鹿児島県・佐賀県の市役所の刀を差した係長や課長が、東京にきて国政を携わることになったのだ。
 かれらは外国語も話せず、まして外交経験も能力もなかった。でも、大きく見せたい。それには、ことたら徳川政権の施政者たちを無能化してみせることだった。手段の一つとして教育が使われた。

 歴史をわい曲し、教育で、生徒に教えてきた。それが現代にもつながっている。

 現代的にいえば、江戸幕府は有能な旗本を抜擢し、霞が関の外交官にすえた。欧米諸国と修好条約、通商条約を平和裏に結んでいる。そこには武力に屈するとか、不公平とか、おおきな威圧はなかった。

 大政奉還後、一ツ橋慶喜は上野寛永寺で、みずから謹慎した。外交官(旗本)や官僚(現・霞が関・上級職)たち能力の優れたものは、一ツ橋家の関係者(旗本)が多かった。

 かれらは家主・慶喜を守るために上野の山に集まった。大村益次郎の指揮の下、佐賀藩のアームストロングの大砲を、有能な官僚・旗本たちに撃ち込んだ。炸裂弾で、大勢の一ツ橋家のものを殺害した。
 

 明治政府は、彰義隊を反乱軍のように悪く言う。戊辰戦争を正当化し、そのうえで江戸幕府は無策・無能としてきたのだ。
 そのあげくの果てに、下級藩士たちは政権争いで、大村益次郎、江藤新平、大久保利通、西郷隆盛らが殺されていった。血を血で洗う政権だから、その後は『神風が吹く日本国だ』といい、戦争ばかりする国家になった。


 浦賀では、ちょうど『叶神社』がお祭りだった。 ねがいが叶う。そんな想いで、境内には絵馬が多い。いまから150年前、この叶神社から、黒船が見えたはずだ。
 それ以前にも、米国船はこの湾内に来ている。歴史の足を進めた。

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(下)

 文化・文政の頃から、日本列島の周辺には数多く外国船(捕鯨船・商船)が航行する時代になった。鹿島灘の沿岸では、欧米の捕鯨船の乗組員が上陸し、漁民たちと物々交換していたのだ。それが発覚し300人余りの民が取り調べを受けた。

 徳川御三家の水戸藩において、鎖国の禁が破られていたのだ。水戸斉昭は、自藩の取り締まり強化とともに、鹿島灘に近づく外国船を打払う法律が欲しかった。それゆえに、斉昭は攘夷思想をふりまわし、幕府に「異国船打払令」をつくらせた。
 こうした斉昭の自分勝手な強引さが、日本外交の夜明けには反動的で、じつに目障りな存在となっていく。

 1840年のアヘン戦争が勃発から、日本の歴史は大きくうごきだす。

 高野長英が『夢物語』で見通した通り強いイギリスで、大国の清の惨敗だった。1842年に終結した。イギリス側は大砲を使い、死者は一人も出ていない圧勝だったともいう。
 
 アヘン戦争の情報が日本に伝わると、老中首座の水野忠邦は、水戸斉昭の圧力で作った「異国船打払令」を廃止した。他方で、遭難した船にかぎり補給を認めるという「薪水給与令」を出した。それは1842年(天保13年)だった。アヘン戦争の終結と同じ年だ。


 その後も、やみくもに「異国船打払令」にこだわって騒ぐのが水戸斉昭だ。かれはというと家慶将軍から、謹慎処分を受けた。謹慎とは室内に封印されて、外部との交流・手紙からも経たれる処分だ。
 かれには秩序・ルールなど、救命嘆願の手紙を書きまくった。人柄のよい阿部などは集中して手紙攻撃を受けた。『新伊勢物語』として残るが、猫なで声の泣き言ばかりだ。


 阿部正弘は27歳で老中首座になり、大勢の有能な人材を発掘し、それらの意見を聞き、洞察力・決断力、先見性で長期政権をつくってきた。
 バランス感覚の良い人物で、動乱期の幕末なのに、正面からからの政敵はいなかった。あの井伊大老すらも、阿部にはとくに逆らった態度は取らなかった。

「戦争をしないで開国させる」
 その信念の阿部正弘だが、かれの最大の失点は水戸斉昭の謹慎処分を解くことに力を貸して、実現させたことだろう。
 それが斉昭をのさばらせたし、かえって重荷を背負ってしまう結果となった。ある意味で、太平洋戦争の終結まで、尾を引いてしまっているのだ。


 徳川家慶の後を継いだ、家定将軍は知能障害だった? 水戸斉昭がここぞとばかりに徳川御三家の威光をふりまわす。(御三家は政務に口出しをしないのが、家康時代からの暗黙のルールだった)。ルールを守れない性格の斉昭には、阿部正弘はかなりごづっていた。

 アメリカ政府からオランダ経由で、「アメリカ海軍のペリー提督が、大統領親書を持参する」と事前に德川幕府に連絡がきた。
 阿部正弘はそれを一部幕閣に伝えた。

 攘夷論の水戸斉昭が開国に大反対したのだ。阿部は斉昭の攻撃の矛先をかわしながら、ペリー提督と日米和親条約を結んだ。
 それは「薪水給与令」を明文化した程度のものだった。
 
 天保の飢饉以来、過剰人口の日本は食糧不足だった。徳川政権としては海外から食料がほしい。幕府は本気で、交易開始の通商条約締結へと思考をはじめたのだ。
 欧米各国と和親条約を結んだ直後から、庶民は違和感なく外国人との接触をはじめた。国民感情も悪くない。交易の機が熟していた。

 しかし、斉昭は通商の妨害工作に走った。なぜ、日本人が外国と貿易したらいけないのか。ここらは釈然としない現代人は多いだろう。
 それは日本の歴史教科書が、明治政府の軍事政権のもとで作られたからだ。

 阿部正弘の「戦争なき安政の開国」、徳川慶喜の「戦いなき大政奉還」という、戦争のない平和施策は目障りでじゃまで、不都合なのだ。
 
 明治政府は日本史の教科書に、 
『泰平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜も眠られず」
 と面白半分の馬鹿げた庶民の狂歌を織り込んだのだ。

 ペリー提督来航で阿部正弘はおたおた、もたもたしていた。力の外交には弱かったと、徳川政権をあなどってみせた。都合の良い狂歌だった。片や、明治政府は富国強兵で、力強い軍事政権だぞ、と教育で子どもたちを洗脳していったのだ。

 太平戦争が終わった現代教育の場でも、旧態依然として、明治政府が悪用したばかげた狂歌
『泰平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜も眠られず』
 をつかつている。
 だから、現代人のほとんどが、その狂歌から德川政権は鎖国で海外情報なかったと信じ込んでいる。ペリー提督が来航時に、狼狽したと思い込んでいる。

 天保の改革に失敗した、悪名高き水野忠邦でさえも、文化・文政の時代から「異国船打払令」を言いまくるテロリスト型の水戸斉昭を排除したのだ。

 残念なことに、阿部正弘は水戸斉昭のがん細胞は断ち切れていなかった。「異国船打払令」を復活しろ、外国人を殺せ、と狂気のごとく一貫して騒いでいた斉昭は、癌(テロイズム)のごとく、他藩の下級藩士に転移していった。

 国民が貿易拡大を望んでいることなど度外視し、無視し、日米修好通商条約じたいに反対する。そのうえ、桜田門外で、井伊直助を暗殺する。
 犯人はほどんど水戸藩士たちだ。かたちの上で脱藩していたにしろ、水戸藩がつくったテロリスト集団だった。

 19世紀にイギリスが到頭、アヘン戦争で清国を侵略した。
 それは高野長英が危惧していたとおりの道だった。20世紀に入り、日本がまさか同じことをやるとは、高野長英は想像すらできなかっただろう。



 尊皇攘夷者が、明治政府の中核に座ると、品質を変えた。

 尊王・勤王の精神でなく、天皇利用に変わった。人間・天皇は神様の天皇に仕立てられたのだ。薩長土肥の攘夷思想の政治家たちは、天皇を語れば、何でもできる社会を作り上げた。そして、大陸侵略へと侵攻した。

 太平洋戦争の終了後に、天皇は人間宣言をした。あるべき姿の象徴に座られた。

 
 言論弾圧事件となった高野長英「戊戌夢物語」の一節を、学校教育の場で教えてみたらどうだろうか。
 徳川政権は外圧による開国でなく、高い海外情報収集力から、「戦争なくして開国できたのだ」と平和的な評価が高まるだろう。

 反比例して、水戸斉昭と軍事狂歌の明治政府との歴史的評価が下がってくる。

 

言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(中)

 天保10年(1839年)5月に、蛮社の獄(ばんしゃのごく)が起きた。名高い言論弾圧事件である。

 田原藩の国家老だった渡辺崋山は自殺した。高野長英は永久牢獄の処分となった。しかし、牢獄で放火し、逃亡生活を続けていた。やがて見破られて殺された。


 高野長英の『戊戌夢物語』は幕府批判をかわすために、あえて夢物語として、辛辣(しんらつ)に書き綴ったのだ。
 その内容の一部を紹介してみたい。これは中国でアヘン戦争がおこる2年前に書かれたものだ、という認識で読まれると、徳川時代の海外情報力がわかる。

 鎖国だから海外情報は皆無に近い、と思われている人は、なぜ、学校教育で、ここまで教えてくれなかったのか、とつよい疑問をおぼえるだろう。


高野長英著『戊戌夢物語』(現代訳)
 
「イギリス国は、オランダの王都のアムステルダムから180里(720キロ)ほど離れている。気候は日本よりもやや寒い国。人口は1770万6000人。イギリス人は敏掟な身のこなし、理解や判断が早く、物事の勉強を怠らず、文学に勤め、工技を研究し、武術を練磨し、『民を富まし国を彊(つよ)くしていることを第一の努め(目標)としている。
 イギリスの沿岸は浅瀬が多く、外寇が入り難く、近年のナポレオン侵攻も、国民は戦火をまぬがれた。首都のロンドンし繁栄し、町並みが美しく、人家が密集し、人口はおよそ100万人。海運の都合がよい立地で、諸国との交易の中心となっている。
 諸国に航海し、未開の土地で植民を行い、未開の原住民を指導し、服従せしめている。いまや外国の支配下の人口は7424万人で、イギリス本国の4倍にもなる。
 
① 北アメリカという国(カナダ)
② 北アメリカと南アメリカの中間にある、西インド諸島。
③ アフリカ州
④ 日本の極南にある、新オランダ(オーストリア)。
⑤ 南アメリカのブラジル。コイネア(ガイアナ)およびカルホルニア付近。
⑥ 天竺(インド)
⑦  インドのムガールとい、雲南、暹羅(シャム)の南部の地域。
⑦ 日本近海の無人島(小笠原)より南の諸島。

 イギリスは軍艦を利用し、1隻につき4、50門の大砲(石火矢)を備えて、それぞれに役人をさしむけて支配している。軍艦の総数は、2万5860艘。役人は都合17万8620人、下役は40万6000人、ほかに水夫、雑役などを合わせると、100万人ほどになる。

 かれらの航海術はことのほか熟練しており、外国への拡大と交易の道が旺盛にして盛んになっている。
 イギリスは支那(シナ)と前々から交易し、広東のそばに土地を与えられて商館を営み、総督や役人を駐留させている。南海諸島やアメリカの産物を数十艘に積んで、広東に輸送いたし、もっぱらお茶と交換し、それを本国・イギリスに送っている。

 イギリスは雲南、シャムのあたりにも領土を持っており、これが支那の属国と境を接しており、このあたりの住民が騒乱を起こし、国境を越えて、交戦することが時々ある。

 イギリスと中国との交易が盛んになるほど、ポルトガル、オランダは自然と衰退ぎみになってきた。そこでかれらは色々と清国に告げ口をしたり、誹謗(ひぼう)したりしている。
 清国はそのまま誹謗を信用している。しだいにイギリスへの嫌悪感が拡大し、双方の交易量と荷捌きが不振に陥ってきた。そのうえ、乾隆という皇帝の頃から、清の未払い勘定が日増しに増加してきて、いまやイギリスの清との交易は完全に行き詰っている。
 
 イギリス本国でも、広東貿易を完全に中止するべきだという意見が出てきた。片や、イギリス本国では近年お茶を楽しむことが流行し、喫茶が大衆化した。
 イギリス領の南海諸島の島やインド、アメリカのお茶は多く産出する。だけれど、品質が支那に比べてはるかに劣る。広東貿易をやめれば、良質のお茶が入らず、国民への迷惑に及んでしまう。
 
 イギリス政府は清との関係改善を図るために、使節を派遣する。乾隆帝に子(嘉慶帝)が生まれたので、その誕生をお祝いし、貢物を北京の朝廷に献上する名目ができた。
 イギリス政府は人選の結果、ロード・マカートニーなる人物を選んで、彼を正使として清に向かわせることに決めた。清は天文学・医術・物産学が未熟なので、これらの学術に精通した者も選んで同船させている」

 こんなにも優れた情報力が日本にあったのだ。まさに、イギリスと清国と戦争状態に突入しかねない、不穏な空気が克明が高野長英の書物に明記されているのだ。