歴史の旅・真実とロマンをもとめて

ホロコースト(ドイツ)および一億総玉砕(日本)

 ことし(2023年)11月1日、私は羽田からロンドン・ロンドン・ヒースロー空港経由でドイツに向かう航空機のなかにいた。この間、機内で折々にニュースを見ていた。いずれもトップニュースがイスラエルと・ガザの問題である。

 ドイツ取材の時期が悪いな、と私はつぶやいた。
 この問題は複雑である。端緒は紀元前からつづくユダヤ問題である。近年では、1933年から始まった1945年の第二次世界大戦のホロコーストがつよく影響している。

 ナチス・ドイツ政権と同盟国や協力者が、ヨーロッパ全土のユダヤ人を約600万人に組織的な迫害および虐殺した痛ましい悲劇である。
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  凱旋門、かつて東西ベルリンに分断されたところ 

 私はベルリン自由大学と、フンボルト大学ベルリンの二校の教授らに「明治初期のお抱え外国人のドイツ人」関連の取材を申し込んでいる。

 明治4年の岩倉具視使節団がベルリンに着いた時、ドイツ統一のビスマルクに対談する。
 当時のドイツはフランス、オーストリアに勝利し、輝かしい国家にみえていた。明治政府はビスマルクの戦歴を称賛し、英仏から次第にドイツに傾倒していく。医学、科学、さらには大日本帝国憲法へとあゆむ。

 このたびのドイツ取材において、明治政府が模範としたビスマルク宰相は外せない。ただ、ビスマルク精神はやがて第二次世界大戦のヒットラーへとつづくものだ。

 ヒットラーはホロコーストでユダヤ人の民族壊滅を図った。

  私は当時の日本に目を向けた。
 日本の武士は古来、大和魂を重んじた。切腹文化があった。己の名誉と贖罪のため、死をもって償う。恥を嫌って自刃(じじん)する

 外国では日本文化・風習として「腹切り」として知られている。太平洋戦争に突入すると、これは単なる精神論で終わらなかった。

 この武士道が戦陣訓(せんじんくん)として、昭和十六年には、陸軍大臣・東条英機が陸訓一号として、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と通達した。

 法律で、死ぬまで戦え、捕虜になるな、と法規範になった。国民は法の下で生きているから、この規範から逃げられず、玉砕や自決を選んだ。
〈一億総玉砕(そうぎょくさい)〉という、日本民族がこの地球上から消える、という選択肢にまで及んだ。

 このたびのドイツ取材は日独の歴史である。明治初期から第二次世界大戦で、同じような歩みをした。ドイツは空爆で、ヒットラーの自決で終わる。日本は広島・長崎で終焉した。
 両国は1945年をもって壊滅な亡国に近い状態となった。ドイツは東西に分断される、日本はGHQの統治下におかれた。双方とも、進駐した軍隊によって政治支配された。

 ここまで顧みると、日本人はホロコーストを批判できる立場にない。なにしろ、一億総玉砕と叫んだのだから。
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  ベルリン自由大学の構内の食堂で
 
 ある教授はこう言った。
「日本の方はドイツ人とよく似ている、というそうですが、まったく違います。日本には個人の自由がない。ドイツ人は自由を大切にします。真逆です」
 
 ホロコーストをおしすすめるヒットラー政権に反対した大学生たちを含め、約2万人がドイツから逃亡したと聞かされた。

「日本人は逃げましたか」
「いいえ。私が知るかぎりでは、一人として聞いていません」
 当時の日本は朝鮮、台湾、満州国など統治し、パスポートなしで大陸に行ける。逃げる気になれば、中国経由で逃亡もできた。
 私はこう説明した。
「戦時下の大学生たちは、文系ですと、一億総玉砕の政策に反対せず、学徒動員で徴収されて特攻隊などで命を失くしています」
「日本人とドイツ人とは根本がちがいます。日本人は個人(自分)の考えで行動しない。現代でも同じです。日本人は会社の命令で転勤します。ドイつの会社は転勤がありません。勤めれば、おなじ場所です。奥さんが病気になれば、会社に電話して休みます。当然の権利ですから」
 ここら個人の権利とか、自由の考え方とかが、ドイツ人と日本人はまるで似ていないな、と思った。
 
 ベルリンの取材で、私は日本人はぜったいに戦争してはならない民族だとつよく思った。
 なにしろ上官がぼけていても、戦術を間違っていても、国際法に違反した命令でも、(意見をいう自由がなく)従ってしまう。
 歴史的にみて、日本人はおなじ道を歩むだろうから。

 国民が軍事政権(ヒットラー、東条)を熱狂的に支持し、かたやホロコースト、こちらは一億総玉砕という、民族壊滅まで進んでしまったのだから。理由は問わず戦争に巻き込まれないことだ。

 現代の岸田政権は支持率が30%とかありません。これは日本にとって、とても良いことです。この支持では、「戦争をやるぞ」といえば、政権崩壊ですから。一方的に戦争に進めません。
 プーチンのように80~90%の支持があれば、己の判断で、戦争への道はたやすいのです。高支持率は独裁者になれますから。

 私がそういうと、ドイツの学者は苦笑していた。

 ドイツ国民の高支持率がヒットラーの独裁を許し、歴史の悲劇を生んだのだ。それはわかっているだろう。

「妻女たちの幕末」は、通説の裏舞台をよみとく内容が豊富である。①

 新刊「妻女たちの幕末」は、どんな小説だろう、読者は本を手にしてまず目次をみる。ここに工夫を凝らした。

 プロローグ~11章~エピローグまで、縦書きでならぶ。と同時に、新聞小説の挿絵(イラストレーター中川有子・298回)から抜粋して挿入している。

 ビジュアルに、幕末のどんな内容が描かれているのか、読者には多少なりとも連想ができる工夫をしている。大奥一辺倒の小説ではないとわかる。

 幕末史に関心がある読者は、きっとあの場面だなと想像も沸き立つ。

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 本文を読んでみないと判らないのが、女性が武士に手打ちになる挿絵だろう。「将軍家慶の側室・お琴が大工と不倫して処刑される」。ここらは知りたいところだな、と思うだろう。

                   *
 
  徳川将軍に謁見の場は、絵が小さいけれど、これは13代徳川将軍・家定である。かれはとても有能で、数々の業績を残している。
 ところが、明治政府には徳川幕府を卑下するするために、故意に家定を病身で無能扱いでこき下ろし、この背景には何があるのだろうか。
  
  この家定は「5か国の通商条約」を3か月で一気に締結させる道筋をつくった将軍である。というのも、日米修好通商条約の締結を前に、老中・堀田正睦(まさよし)がみずから京都に出向いて、天皇から通商条約の勅許をもらう行動に出た。しかし、結果は膨大なお金を公家にバラまいただけで終わった。

  将軍・家定は、京都から帰ってきた老堀田を外し、井伊直弼を大老にすえた。むろん、家定の思し召しであった。(彦根藩の井伊家の資料)

 井伊は国学に陶酔する尊王主義者であった。
「天皇の勅許を待ってから、日米の通商条約を締結したい」
 と家定に申した。

 家定は外国通である。世界の流れをよく知っている。
「堀田が京都にいって朝廷や孝明天皇に説明したが、勅許が得られなかったではないか。何年先まで天皇の勅許を待つつもりだ。中国をみよ、インドをみよ、ベトナム、ラオス、インドネシア、近年ことごとく植民地になっているではないか。植民地になってから勅許をもらっても手遅れになるのだ」とかたくなに突っぱねた。
 
 すると、井伊直弼が大老職の辞表を提出した(井伊家資料六)。

 家定は辞表を受理せず、「これは日本の将来のために必要だ」といい、この日のうちに岩瀬や井上に日米通商条約の締結を命じた。こうして勅許なし通商条約の締結を押し切った将軍・家定である。外国奉行たちは将軍の意向だといい、5か国の言語が違う国と外交交渉をもってわずか3か月という超人的な技で「安政の5か国通商条約」を締結させたのだ。

 そのさなかに、家定は急死した。(当時は毒殺されたとみなされた)。

 安政の大獄の後、水戸藩の浪士が井伊大老を暗殺した。

 ところで、家定・井伊が亡きあとも、開港・開国の流れは加速した。血で洗う尊王攘夷派さえも、海外との交流を止めきれなかった。幕府は、世界の流れから亡き老中阿部正弘が掲げた「富国強兵」をめざし、西洋の近代的な政治、軍事、商業、産業などを模範とすることにきめていた。万延、文久、万治、慶応と幕臣たちの英語、フランス語を習わせる。
 かたや、旗本から抜擢した有能な人材を遣米使節にくりだす。留学生もくり出す。その数は数百人にも及ぶ。

 長州ファイブというがわずか5人、薩摩もその数は19人、幕府の海外視察や留学生の足元にも及ばない。

 幕府は留学生だけでなく、お雇い外国人を招聘し、横須賀に大規模な近代的な造船所をつくる。長崎に製鉄所を作る。築地には豪華なホテルを作る。アメリカには蒸気機関車と鉄道網の敷設を依頼する。近代化に突っ張りはじめた。
 フランスには軍事教練の指導者を招き、歩兵、騎馬、砲兵の編成をする。
 
 小栗上野之助などは、西洋流の群県制を樹立し、政治の近代化を目指した。
 
 財政難の徳川幕府が困難な政治・経済上の条件の下で、西洋文明を取り入れることに鋭意努力し、新しい日本の建設の先駆者になったのである。

 明治時代になると、下級藩士たちによる新政府が樹立したが、かれらには確固たる政治理念がなかった。そこで、幕府の近代化路線を引そのままき継いだ。
「明治から文明開化」と提唱するには、将軍・家定が先見の目がある外交通りの有能では困るのだ。「将軍は無能で、井伊が強引だった」という筋書きが必要であった。

                   * 

 ここで利用されたのが、春嶽の随筆「逸事史補(いつじしほ)」である。明治3年から12年に書かれたものだ。そのなかで、将軍・家定に冷遇された腹いせから、「平凡の中でも最も下等」 と嘲っている。

 家定の継嗣問題が起きた時、春嶽は一橋派擁立しようと画策した。将軍・家定から罰せられ、謹慎・勅許となった。となると、憎き家定なのだ。

 南紀派の勝利で13歳の将軍家茂が誕生した。若き将軍上洛を企画したのが春嶽である。それは長州藩・毛利敬親の建言によるもの。春嶽が京都に一足先に着くと、「天誅の血の世界」の光景があった。つまり、「将軍上洛は攘夷決行日を決めさせる」長州藩の陰謀のである。それがわかった総裁職の春嶽は、自身が計画した将軍上洛なのに、家茂をほっぼり、真っ先に京都から逃げて福井に帰った。これを知った大名たちも雪崩現象を起こし、京都から次々に立ち去った。

 将軍・家茂は孤立し、窮地に陥った。

 この前代未聞の春嶽の醜態にたいし、幕閣は怒り、春嶽の辞表は受理せず、処罰したのである。窮地に立つと醜く逃げまわり、さらに徳川家が瓦解寸前という重要な局面で、新政府側に寝返ってしまう。これが春嶽の実像だ。
 
 随筆「逸事史補」を読めば、数多くの言い訳が羅列されている。幕閣を貶(けな)し、自分を高ぶって見せる、挙句の果てには明治政府の要人には美辞麗句のゴマをすっている。

  故意に酷評した家定と、明治の三傑との評価の落差には、とても正常の知能とは思えない。春嶽はさすがに死に際において、良心が痛んだのか、「逸事史補はぜったい世に出さないで燃やしてくれ」と遺言した。

 ところが明治の学者が、春嶽の遺言を無視したのだ。これは前政権の幕府を攻撃する格好の材料だといい、「幕末期の知られざる逸話」として、随筆・逸事史補を史実として悪用したのである。

 そして、「家定無能だから、一橋派の擁立が正当だった」という筋書きをつくったのだ。それというのも、一橋派の面々が新政府の要人になったからである。
 歴史小説「妻女たちの幕末」において、このように通説の裏舞台を克明に描いている。

歴史小説「妻女たちの幕末」がことし(2023)11月1日から、全国一斉販売

 新聞連載小説「妻女たちの幕末」が単行本となり、南々社から11月1日に全国一斉販売されます。
 定価は2300円+税です。

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 1年間の連載小説ですから、手にして見た瞬間「厚い本だな」という印象があります。

 私は当初、上・下の分冊も考えたけれども、読者の常として「下」は買わない、読まない、と割っているので、一冊にしました。

「ソフトカバーで、ずっしりとして読み応えがある。歴史小説は重みがあっていいですよ。薄ぺらな歴史小説は味わいが少ないですからね」
 意見がいただけのは、出版業界に詳しい元編集長の平木さんだ(日本N・P・Eクラブ会員)。

 表紙カバーなどの装丁は好評です。

これまでの歴史教育は変わる。ペリー提督の黒船来航は日本の学術開国であった

 新聞社から「妻女たち幕末」の連載依頼を受けてから、私は徹底してアメリカ側の史料・資料を調べつくした。ペリーの来航目的が「日本の学術開国」にある、とわかった。
 読者から新聞社に寄せられた投稿の中で最も多かったのが、このペリー来航に関するものだった。

 一部を示したい。
                   *

 日本遠征はジョン・オーリックが特使だった。不祥事から解任された。そこで退役軍人ペリーに代将(提督)の話が持ち込まれた。面談した米海軍長官から、アメリカ大統領国書を日本側に手交し、平和条約を締結せよ、という任務の説明があった。
 
 海軍長官はこういった。「ただ、武器の威嚇により日本と条約を締結しても、アメリカ議会の多数派の民主党がそれを承認しない。最悪は批准されず、日本遠征が水泡に帰す。あくまでも平和的な交渉のみ有効だ」と念押しされた。
 大統領は少数政党であった。
 メキシコ戦争の英雄ペリーとすれば、軍人の最高の名誉はまず戦争に勝つことだ。武威をもって臨むならば、ペリーは鎖国日本にたいして合衆国に有利な条約締結を成功させる自信はあった。
「自分は軍人だ。外交官ではない。戦争はするなと言われたら、どうする? 話術は巧くないし、デベート力(交渉術)は得意でない。平和使節による交渉の任として、自分は不適切な人選だ」
 ペリーは二カ月間ほど熟慮し、悩んだ。

               *  

 ある日、親しいハーバード大学の植物学者・エイサ・グレイ教授を訪ねた。そして、日本遠征の話を語った。
 教授は身を乗りだしてきた。

 日本列島はカムチャッカ半島の近くから台湾付近まで、七千余の島がある。海流は複雑だし、気候も、森林も、降水量も、特殊な地形だ。日本は二百数十年間も鎖国状態である。世界に知らてれていない品種の宝庫だ、と教授は熱く語った。
「北半球の温暖地帯の植物分布において、日本以上に興味深いところはない」
 さらにこういった。
300px-Asa_Gray.jpg「オランダが二百余年も、日本の学術研究を独占してきた。これは欧米の学者にとっても、人類にとっても、不利益なものだ。ペリーが日本に行かれるならば、世界の学者に有益となる、七千余島の日本を学術開国させることです。それこそ、アメリカ人のフロンティア精神です」
 日本を学術開国させなさいと推奨された。

 ペリーはグレイ教授の話から日本遠征の任命を受託した。
 これを新聞が報じた。世界中の著名な学者から乗船希望が殺到した。日本をよく知っているというオランダのシーボルトもいた。シーボルトは必要ないと、ペリー提督は断った。

 米軍艦に民間の学者を乗せるのは本来の海軍の趣旨に反する。そこで、記録のために画家ハイネ、銀板写真家、一部の植物学者などに乗船を限定した。あとはどうするか。
「私(ペリー)は航海中に優秀な海軍士官、海軍軍医、従軍牧師らに、通常の任務遂行のほかに、動植物学、博物学、民俗学、火山学、天文学、水深測量など、七十数科目の研究を割りふった。そして、かれらに理解と協力をもとめた。快く応じてくれた。ただし、各々の論文は国務省に帰属する」とした。

                    *
 アメリカ東インド艦隊が、ニューヨークを発って地球を三分の二回ってくる寄港地、喜望峰、セイロン、沖縄、小笠原、あらゆるところで半月、ひと月、学術研究で滞在することができた。日本遠征は急がない。植物、鳥類、魚類など学術的な採取とか、スケッチとか、各地の農業に関して現地民からの聞き取り調査をおこなった。
「私は日々かれらの研究論文を読むにつれて、気持ちが高ぶった。これは人生最後の大仕事で、アメリカの学術独占でなく、世界の学術研究なのだという強い決意に変わった」

                    *

 初来航のペリー提督は、久里浜でアメリカ大統領の国書を渡し、わずか9日間で立ち去った。

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 翌(1854)年に、再来航した。横浜で日本側と交渉の席に着いた。

 ペリー―は捕鯨船の遭難時の救助要請を行った。聞けば、日本は海難民を虐待しているという。許さないと息巻いた。日本側代表の林復斎は「日本は人道に関しては世界で最も優れている。アメリカと敵対する気持ちはない。嵐で遭難の危機になれば、日本のどこの港には入ってもよろしい。食料と水は差し与える。これが日本の人道精神である」

 ここで林復斎は日本側の抗議を持ち出した。初来航の折、江戸湾の測量など違法行為である、アメリカの侵略行為の一つとして考える、と。

                 *

「昨年の浦賀の初来航(1853年)は、私(ペリー)としては、日本沿岸の複雑な水路の海図の作成に集中した。世界中から学術調査船が日本にやってきたとき、とくに江戸湾の水深の海図は欠かせない。この海図作成を最優先にした。小型ボートに乗った海軍士官や海兵らは、浦賀奉行所の監視船の官吏から刀を抜かれて妨害されながらも、数日間にわたり、測量をしてくれた。この海図は米国の独占とせず、世界に配布する」
「幕府はスパイ行為だと警戒したものです。学術開国のためだと知り、いま誤解が解けました」
 ペリー来航の真意が江戸城の老中に伝えられた。

 老中首座の阿部正弘の決断で、アメリカの捕鯨船および米艦の寄港地として箱館・下田港を提示した。下田追加条約で、植物・動物の採取などを認めた。
「日本は海軍力がない。それなのに科学発展の学術開国をしてくれた。このさき英仏露などが、海軍力がない日本を攻めてきたら、アメリカ大統領が日本を守る」
 ペリーはそう約束して日本を立ち去った。
 4年後、その約束がタウゼント・ハリスにしっかり引き継がれていた。日米修好通商条約第二条に記載された。

第2条

  ・日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。
  ・日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。
  ・またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。

 この第2条が現代の学校教科書に記載される日がくれば、ペリー提督が求めてきた「学術開国」に徳川幕府が応じて開港・開国の道へと進んだ、と正しい認識ができるだろう。
 従来の教育で刷り込まれた「癸丑(きちゅう)以来の国難」という明治以降のプロパガンダの呪縛から解き放される。
 
 「妻女たちの幕末」の新聞掲載に関して、読者の投書で黒船来航の真実を知った驚きがもっとも多かった。
 

新聞連載の「妻女たちの幕末」は、原稿用紙で何枚くらいですか

新聞連載の歴史小説「妻女たちの幕末」が昨年(2022)8月1日から、ことし(2023)年7月末まで一年間つづいた。そして完結した。日曜日をのぞく毎日で、298回である。
 
 数多くの読者から、「何枚くらいですか」あるいは「400字詰めしてどのくらいですか」と質問される。
 単行本を出版してくれる南々社においても、同様の質問を受けた。

 執筆さなかの私は、日々に与えられた文字数(縦19文字・横26行:これは全国紙・朝日や毎日とおなじ)で、その枠内で書き出しと結末でエッセイのように完結型にさせる。そこに重点をおいていた。
 文字数は気にしなかった。

 第一行目にはつよい求心力に気をつかった。
「疫病が歴史をおおきく変えることがある」
 きょうから連載を読みはじめた方にも、連載の入り口になるように誘い込む。

「ペリー艦隊は初来航で9日間しかいない。それも国書を手交するわずか1日だけである。理由わかるだろうか」
 こうした疑問形で誘い込む。

「大奥の廊下の黒煙が逆巻(さかま)き、奥女中らに襲いかかってくる」
 まさにいま、危機に置かれている、と読者の感情移入を呼び込む。

「天保の改革を知らずして、幕末史を語るべからず、といっても、いい過ぎではない。幕末史における重要な根っ子である」
 ときには2行で引き込む。、
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 一日分は四00字詰めで2枚+5~7行くらいで、約1000文字である。

 1日の結末は明日の紙面への期待につながらないと、連載もそこで断ち切られてしまう。
「長文のぶった切り」では、読者が不完全なモヤモヤ感(未消化)に陥ってしまう。この点はことのほか気をつかった。
 その理由は簡単である。
 私が約15年ほどカルチャーセンターの小説講座の講師として指導している。受講生のほとんどが一気に書き下ろし作品として完成できず、「つづき」ものになる。そのほとんどが単なる「ぶった切り」作品がなる。
 講師としてはつねに未消化な気持ちにさせられる。

「次が読みたくなるような区切り方にしなさい、伏線を張っておきなさい」と口酸っぱくいっている。
 こうした小説指導が、私の新聞連載の1日分のなかで完結型へと重要なチェックポイントとなっていた。

 むろん、「妻女たちの幕末」は全部が全部、1日で完結とはいかないけれど、せめて3日分くらいで政治的な出来事・事件のひとつ舞台としてロットの区切りがつくように思慮した。

「妻女たちの幕末」は298回において四百字詰め原稿用紙に換算すれば、685枚である。ちなみに拙著「安政維新・阿部正弘の生涯」(2019年10月発行)は530枚である。役、3割増しの厚さである。

新聞連載小説「妻女たちの幕末」、一年間の完結。文化部長より、「成功でした」とコメント

 新聞連載小説「妻女たちの幕末」が昨年8月1日に、作家・宮部みゆきさんから引き継いで連載を開始しました。この7月31日で完結しました。日曜日をのぞく毎日で合計298回でした。
 かえりみれば、コロナ禍のなかで歴史講演などが止まり、その分の約2年間は「妻女たちの幕末」の関連資料の読み込みに集中できました。むろん、京都や新宮や都内の各所に必要不可欠な取材には出むいています。

二人の天皇.jpg 幕末史と言えば、明治政府の薩長閥の政治家に迎合した御用学者たちが、事実を歪曲し、ねつ造した。「薩長史観」で腕力・武力に勝れたものが勇者だとした。明治から、それを教育で使った。義務教育から軍国少年がつくられた。かれらは兵学校・士官学校を目指し、やがて首相や海軍・陸軍大臣になった。当然ながら、軍人が政治に関与する軍事国家になった。
明治・大正から太平洋戦争終結まで、政治家も、軍人も、国民も、「薩長史観」の英雄崇拝の歴史を信じたことで、国民一致の戦争に突入した。


 現在も少なからず、薩長史観が信じ込まれています。私たちはいかにねつ造の歴史から抜け出せるか。これが連載小説の目的でした。

                          *

 そこで私は、外国関連の文献・当時の古新聞など可能なかぎり追いもとめました。通説の英雄史観にある事象から「人間って、独りで、こんなことはできないな」という私の純文学の頭脳で、まず疑問を抽出し、外国から傍証(ぼうしょう)する作業に費やしたのです。

 AI時代です。関連文献や新聞が見つかれば、即座に日本語に変換できる。ありがたかったです。これは過去の著名な歴史学者・歴史小説家(海音寺潮五郎氏、吉川英治氏、司馬遼太郎氏など)にはできなかったことです。

「妻女たちの幕末」の冒頭において、、
『江戸城が無血開城した。それなのに、なぜ上野戦争(彰義隊&新政府軍)が起きたのか。その答えは海外にもとめることができる』
と記しています。

 これこそ、まさにIT時代が幕末史の通説を変える典型的な傍証でした。......明治政府がひた隠しにしたもの、日本に二人の帝(天皇)が誕生したという記事であった。瞬間的にしろ、南北朝時代の到来である。当時のニューヨークタイムスの記事で、それを知ることができたのです。(イラスト:中川有子さん)

 なぜ、現在でも教えたくないのか、私たち国民が考えることです。
 
                          ☆  

 私は国内関係は極力一次史料にまで手を伸ばし、丹念に読み込みました。すると、徳川将軍家の史料に軍配が挙がるのです。
 幕府の昌平黌(しょうへいこう)出身や教授らなど超エリートたちが外国奉行になった。来航する外国人よりも、ディベート力(論理と頭の回転の速さ)ははるかに勝っていた。どの条約も日本側の希望がほぼ通っている。安政の通商五カ国条約など、それぞれ五か国とも言語がちがう条約締結を3カ月でやってしまう。
 現代の外務省や各省庁など、徳川政権の頭脳と交渉力は足元にも及ばない。

 一例として、フランスは主要輸出品目・ワインに35%も輸入関税をかけられた。中国・インドはわずか5%なのに。日本には屈辱の不平等条約をむすばされてしまった。と、現代のフランスは、当時の歴史をそう捉えている。(シラク仏大統領)。

                    *

 掲載してくださった新聞社の社会部長から、7月末日に、「特に後半は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じます」とコメントが寄せられた。新聞社はおおむね辛口ですから、「成功」という言葉は、このさき幕末史が大きく転換する契機になるかな、と思います。

                    *

「穂高健一ワールド」は、その新聞小説が後半に入り初めころから、意識して停止しました。
 なぜならば、複数の方が、私のアーカイブを使い(パクリ)で、書籍出版されています。平気でパクる心無い歴史家に、「妻女たちの幕末」の新しい歴史観がかれらの自説を付加し汚されないためのものでした。

 たとえば、老中・若年寄が7-8人では、幕府による諸藩の統率「武家諸法度」および順守など、少人数の幕閣で力を発揮できるはずがない。登城した勤務時間は約5時間くらいで、なおかつ老中の月番担当制だ。となると、だれが行ったのか。

 一例として御三家・御三卿・300藩の大名家のすべて婚姻は幕府の許可がいる。旗本・御家人の婚姻もある。さらに、大名家が朝廷から冠位をもらう幕府側の申請手続きもあるし、多々、輻輳(ふくそう)している。
 これらの処理は老中(男の政事)に持ち込まれても、対応できるはずがない。それならば、だれがやるのか。大勢の女性が処す集団的組織が向いている。それが千数百人を抱えた大奥(奥の政事)の機能だった。論理的にも、そこには矛盾なかった。当初は推量から入り、(刑事が見込み捜査をする手法)、多面的に傍証(証拠)をあつめて構築しました。
 裏付けが次々にとれました。幕府内人事や大名昇格権(官位)の窓口・対応など、歴代将軍が大奥に付与してきた。だから、大奥には老中を左遷させるほどの実権があった。

 ついては、心無い作家たちに、新吉原か、大奥か、将軍ハーレムのごとき通説の作り話で歴史が汚されたくない、と「穂高健一ワールド」を半年間ほど休止いたしました。

                        *  

 なお、「妻女たちの幕末」は南々社から、10月か11月には単行本で出版する予定で作業に入っています。「安政維新・阿部正弘の生涯」とおなじ出版社です。

 連載の7月末の「エピローグ」で、最後の数行のなかで、
『あらためて徳川幕府が二百六十余年も政権を維持できた背景を問う。表の政事(男)、奥の政事(女)の両立が寄与した寄与した側面がある』
 と記しています。

 上臈御年寄・姉小路の女の視点「妻女たちの幕末」、阿部正弘の男の視点「安政維新・阿部正弘の生涯」と二つを併用して読むと、いっそう克明に幕末がとらえられるからです。

                                              「了」
 
 
 、

 

新聞連載「妻女たちの幕末」= 論説委員がコラムで、歴史の新たな視点と評価 

 「歴史の謎を解く」その精神で「妻女たちの幕末」に取り組んでいる。
① なぜ、そのような事件が起きたのか。
② どうして、そんな結末になったのか。

 新聞の連載のさなかか、動機と結末に、多くの疑問をもち、双方を記すようにつとめている。
 年表だけで書かない。通説に、私は支配されない、影響されないという考え方である。
 公明新聞の一面のコラムで、論説委員の方が、執筆精神を評価してくれている。

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「穂高健一氏の小説『妻女たちの幕末』は、歴史を見るうえで、新たな視点を提供してくれる。一つは近世の封建社会で、男性の陰に追いやられていたと思われがちな女性が、たくましい活躍をしていたという一面だ。小説に描かれる幕末の女性たちは、したたかなほど躍動している。また、黒船来航をきっかけに、明治政府によって進められたとする日本の国際化、近代化が徳川時代にすでに大きな胎動になっていることも挙げられる。
  《中略》
 歴史、学問の通説をくつがえす発見や研究は耳目を引く。一方で、私たちは、自分が関わった時代の真実が何であったかを見極め、正しく次世代に伝える責任があることも強く感じる。

 論説委員の方が、作品の役割までも、評価してくれたことはありがたい。

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 原稿の入稿は、ひと月分くらいまとめて前の月に入稿している。ちょうど、ペリー提督の初来航を執筆中である。

「歴史の謎を解く」
 ペリー提督が1852年11月にアメリカ合衆国のニューヨークから、大西洋、喜望峰(ケープタウン)、インド洋、ジャワ、上海、沖縄を経由し、東京湾に7カ月もかけてやってきた。かれらは太平洋横断の航海技術を持っていなかったから。

 それなのに、上陸できたのが大統領国書を手渡せた久里浜の数時間である。そのうえ、わずか9日間でさっさと立ち去っている。

「おい、おい、鳥類、魚介類、植物学の権威の学者たちは、遠路やってきて日本に上陸もできなければ、研究の役目が果たせないじゃないか」

 欧米の軍人は実業家、議会の議員、学者よりも身分が低く扱われている。ペリー提督は、ハーバード大学の著名な博士などに頭が上がるはずがない。
 なぜ、合衆国東海岸から膨大な経費と数千人の乗組員を要して浦賀にやってきて、かれらは逃げるように立ち去ったのか。

 私は、ここに明治政府のプロパガンダ(歴史のねつ造)を見出した。

 

新聞連載「妻女たちの幕末」= 歴史は国民の財産。曲げられた歴史を糺す

 歴史から先人の知恵を学ぶ。だから、『歴史は人間の財産だ』といわれる。ただ、その歴史が曲げられていると、どうなるのか。
 空恐ろしてことである。
 
 明治後期から手がけられた「官営・維新史」が刊行されたのが、昭和14年である。太平洋戦争の2年前である。これがいまの歴史教科書の幕末のベースになっている。ねじ曲げられたところが随所に散見できる。

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 明治時代に入ると、薩長閥の政治家たちが幕末史の編纂に号令をかけた。下級藩士から成りあがった自分たちを、徳川幕府を見下し、自分たちを大きく見せるための手段でもあった。

「妻女たちの幕末」はより多くの史料・資料から、真実に迫ろう、という執筆精神でのぞんでいる。
 事実をあからさまにわい曲すれば、嘘だとばれやすい。だから、教えない、伝えない、隠すことで、歴史的事実が消えてしまう。

 連載小説では、隠された事実をほりおこす、という信条でのぞんでいる。

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 読者の投稿欄に、

 堺市の木村功さんは、「連載小説を楽しみにしている」と前置きしてから、そのきっかけを書いてくださっている。

「天保の改革を断行した幕府の老中首座・水野忠邦が、黒船来航よりも10年早く、蒸気機関車と蒸気船の導入計画をし、長崎のオランダ商館に働きかけていたという衝撃の事実が、この小説で明かされたことであった。
 明治5年に新橋~横浜間の鉄道が開通したことが引き合いに出されるが、そのむ29年も前に検討が始まっていたのである」

 このように、ペリー以前を伏せる、教えないことで、近代化は明治政府からだと、薩長閥の政治家たちは義務教育のはじまった少年・少女たちにすり込んだのだ。

 私たちの世代が教科書で習った有名な狂歌がある、
『泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず』は明治10年に町人がつくられた創作であり、当時の史実とはちがうと、いまでは教科書から削除されています。

「妻女たちの幕末」の作品のなかでも、私はあえてそれを指摘している。

 手元にある「新しい社会 歴史」(東京書籍・令和4年2月10日発行)がある。広島県・志和中学校で講演するために、入手した『日本人がえがいたペリー』(神奈川県立歴史博物館蔵)が掲載されている。誰もが知る鬼の顔をした鼻が高いペリーである。

 同館の学芸員にだれが描いた絵ですか、と問合せすれば、「作者は不明です。ただ、アメリカ人の嫌悪・憎悪を書き立てるもので攘夷派の可能性が高いですし、それを利用したのは明治政府以降のプロパガンダですよ。まだ教科書に載っているんでか」と応えてくれた。

 このように歴史は時の政権に都合よく利用される、という側面がある。太平洋戦争の軍国主義のときにできた「官営・維新史」から、私たちは解放されるときにきた。

 私は「妻女たちの幕末」で、こうしたプロパガンダはできるかぎり指摘し、後々に『歴史は人間の財産だ』と役立つようにしたい、という信条を持っている。

 
 

新聞連載「妻女たちの幕末」= 為政者だけでなく、庶民の目も加える

 タイトル「妻女たちの幕末」と銘打っているが、江戸城大奥の女どうしの葛藤という通俗小説の側面はほとんどない。
 
 この作品は一つ出来事、事件、政治変革にたいして男の視点、女の視点、さらには庶民の目も入れており、複眼的に筆をすすめている。
 つまり、立体的にみないと、歴史の本筋がみえないからである。

 歴史は後ろからみて「なぜ、そんなことがわからないのだ」という歴史上の人物を批判する人が、あんがい多い。
 歴史の渦中にいる人たちは、明日がわからない。

 政治の変革は運命的なもの、必然的なものではない。その時代に生きている人たちが、大名も、農民も、町人たちも、手探りで歴史の流れを作っている。

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 投書欄に、

「連載を楽しみにしています。天保の改革といえば、水野忠邦という知識はありました。しかし、倹約令の詳細については知るよしもありませんでした。連載小説では、江戸幕府の大奥の動きや江戸庶民の生活を通して、詳細に表現されており、まるで映画のスクリーンの光景を見るように読み進むことができます」(中津市・田尻一男さん)

 庶民を描くことで、水野忠邦が先鋭的・斬新な改革をおしすすめながら、理念はよかったが、庶民の大反発をかってしまい、老中首座を下ろされてしまった。
 取締っていた鳥居耀蔵(とりい ようぞう)も同様に失脚した。

  庶民が歴史をつくる。その認識は不可欠である。

 私たちは今のいま、政治家をみれば、かれらは支持率を気にし、国民に沿うような施策をおこなっている。頭から、「殊勝だぞ。いうことを聞け」という自己本位な考えで庶民を無視すれば、バッシングされて短期政権になる。
 
 いつの時代も同じで、政治のトップ(水野忠邦)だけを描いても、ほんとうの歴史にはならない。
 このたびの新聞連載では、折々に庶民を登場させている。

 
 

歴史小説・新聞連載「妻女たちの幕末」=  140回を進行中

 歴史小説「妻女たちの幕末」が、公明新聞で2022年8月1日から連載がはじまった。日曜日をのぞく毎日、読者に読んでいただいている。
 令和4年の年を越し、いまは約半分ほど進行中である。
 
 連載は大づかみに、ペリー提督の黒船の前を半分とし、それ以降は多くの幕末ファンが知るところだし、半分としている。

 とかく私たちは、教科書、歴史書、小説をはじめとして、ペリー提督の蒸気船・黒船がきてから、幕府はおどろきアタフタとして日米和親条約が締結されたと刷り込まれている。

 それ以前にも、アメリカ海軍や捕鯨船、さらにイギリスの測量船など外国艦船が江戸湾に来航し、幕府がしっかり対応している。そこらは、多くのひとが知り得ていない。むしろ、隠されている。

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ペリー提督以前をただしく知らないと、薩長史観のねつ造された歴史観になる。端的にいえば、明治政府のプロパガンダに染まってしまう。

 徳川幕府が倒れたのは、わずかな英雄たちの倒幕活動のよるものではない。戦国時代の群雄割拠のまま、徳川政権がつづいた封建制度が、欧米の近代化という資本主義にそぐわず、政治システムがつぶれたのである。

 それゆえに、徳川幕府の内部崩壊である。そこらの認識のもとに、政治・経済・文化の面からも、新聞連載で丹念に展開している。

 ただしい日本の歴史を知ろう、という信念で、丁寧に描いている。