歴史の旅・真実とロマンをもとめて

日露和親条約からみた、阿部正弘(上)=明治政府が偽った評価

 このところウクライナとロシア問題のニュースが世界中に駆け回っている。ロシアと日本は、北方領土問題が未解決で、平和条約が結ばれていない。
 大国間どうしが、半世紀以上も国交条約がない不自然さ。解決ができない、日本の政治家の能力が問われる。

 世界中の学生に、1853年の出来事は何か、と問えば、クリミア戦争の勃発と答えるだろう。
 不凍港を求める南下政策のロシア帝国と、黒海を支配するオスマン帝国が激突した。それに英仏が参戦した。近代史上稀にみる、第1次世界大戦前に起きた世界規模の大戦争となった。

 日本人となると、1853年はペリー来航と答えるだろう。老中首座(現代の内閣総理大臣)の安倍正弘が右往左往し、翌年には開国を押し付けられた。そんな優柔不断な正弘の行動だったのだろうか。意図的に歴史をひん曲げていないだろうか。

 同年(1954)、正弘はむずかしいロシアと北方領土問題を解決してみせた。相手はプチャーチン提督である。
 正弘は尊皇攘夷を唱える水戸斉昭を抑え込んで、日露和親条約を結んだのだ。さらに、日米和親条約、日露和親条約、日英和親条約、すべて天皇の勅許をとった。
 斉昭は攘夷思想の元祖なのだ。さらに水戸家は皇国思想だと自負しながらも、天皇の勅許では正弘に完全に無視されたのだ。

 尊王攘夷派の志士が作った明治政府は、正弘の開国の実績を認めたくなかった。攘夷派をコケにした正弘だけに、明治政府は歴史教科書で、偽りの低い評価をした。
『大平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず』
 こんな無意味な川柳すら、教科書で紹介している。

 正弘は老中首座になってから、約10年間、上海・香港で発行されている英字新聞を、オランダ商館に必ず日本に持ち込ませていた。

 鎖国ほど、国の舵取りをするトップは世界情勢の情報を求めるし、必要だし、敏感だ。まして、ペリー提督、1か月違いでプチャーチン提督が来航した頃、ヨーロッパでは世界戦争に類するクリミア戦争が勃発してきているのだ。
 条約を結んだ年には、英仏艦隊が、敵国のロシアに対してカムチャッカ半島やシベリアに攻撃を仕掛けているのだ。むろん、大英帝国だし、ペリー艦隊より勝る、黒船の最新鋭の軍艦だ。

 写真:ロシアのプチャーチン提督(Wikipediaより)

「歴史の旅・真実とロマンをもとめて」トップへ戻る