歴史の旅・真実とロマンをもとめて

江戸時代の恐怖の拷問を考える=飛彈高山陣屋

 飛彈の山々の広葉樹が紅葉した10月30日、高山に出むいた。目的の一つは飛彈高山陣屋の内部にある「白州」を確認することだった。刑事関係の取調べ場所である。
 現代は証拠主義だ。江戸時代は「自白主義」だった。
「やつが犯人だ」「こやつが怪しい」と思えば、徹底的に問い詰める。拷問をかけても自白を取る。

 江戸時代は、映画やTVで、町奉行が死罪を命じる場面があるが、それはあり得ない作り話である。死罪は老中の決裁が必要だった。町奉行、勘定奉行、寺社奉行、道中奉行、あらゆるところが罪を裁くが、死罪は老中が決めるのだ。あるいは認める。

 当然ながら、老中決裁は2-3年経つことも多かった。この間に、獄中死すれば、塩漬けにして、老中が決裁を待つ。現代では信じられないが、死体を保持しておいて、「獄門」など死罪が決まると、死体を打ち首にしたり、獄門台にさらしたりするのだ。
 
 遠島、死罪(獄門、磔など)、追放、百叩き、おもだった刑罰はそんなものだから、現代でいう刑事罰は死罪か追放か、二者択一に近い。なにしろ禁固刑や懲役刑がないのだから。

 容疑者は奉行所や代官所などの白州で取ら調べられる。
 現代感覚の些細な窃盗(10両くらい)、使い込みでも、死罪だ。奥さんと不倫も獄門だ。関所破り、贋金づくりなど、ともかく罪を認めれば、死罪で命を捨てることになりやすい。

 どんな拷問を受けても、「ハイやりました」と言わなければ、老中決裁で、死罪はまず成立しない。白州が生命の分かれ道だ。

 農民一揆は気の毒だ。農民たちが、不正な年貢の取立てだとか圧政を訴えて、江戸に出て直訴すれば、死罪だ。拷問の末に、獄門・晒し首だ。

 飛彈高山で、大原騒動が起きた。18年に間に渡る。農民一揆だ。大原とは大原彦四郎郡代、そして息子の大原亀五郎郡代(現在で言えば、県知事)が、弾圧を加える。農民は徹底して抵抗運動をする。幕府は武器で鎮圧する。それでも、農民は武力なしで、死を決した直訴で抵抗する。

 強訴、籠訴、越訴、など身分の高い人(江戸の勘定奉行・老中など)に直訴すれば、その場で捕まる。飛騨に送りもどされる。白州の取り調べが待っている。


 白州は尖った小石が敷かれている。茣蓙を敷いて、その上に朝から夕方まで正座させられて尋問を受けるのだ。
「誰の命令で直訴してた。名主の指示か」と問い詰める。応えないと、洗濯板のような拷問台に座らせて重い石を抱かせる。自白すれば、芋づる式に白州に呼び出される。だから、答えない。

「これでも白状しないのか」と、役人は逆さづりしたうえで、鞭で叩く。

「殺すな」と指図する。拷問で死んでしまうと、こんどは役人が老中の許可なしに、死罪にした、と責任を問いつめられるのだ。
 だから、調べる側も調べられる側も、命がかかっているのだ。

  私はこれまで「大原騒動」はまったく知らなかった。子どもの頃から農業に縁遠かったせいか、「農民一揆」には殆ど関心を持たなかった。

 歴史小説の仮題「天保の信州」の取材をしているうちに、飛騨側からも覗いてみようと、脚をむけた。そして、田沼意次時代の飛彈の農民一揆を知った。膨大な金額の搾取が、田沼に流れていたのだ。大原郡代は武力で農民の鎮圧を計りつづけた。しかし、抵抗は止まない。

 本郷村善九郎(前・上宝村)が18歳の命を散らした。若い妻は身ごもっていた。彼は飢餓で苦しむ村人のために、壮絶な人間ドラマを演じていたのだ。

 縁遠く思っていた飛騨の歴史だが、「人間はここまでやるか」と為政者側と農村側に、かれらの死闘の極限と炎をみた。
 かれが拷問に遭った。白州を見に出かけたのだ。

 壮大なドラマは18年後に、新たな展開を生んだ。老中・松平定信邸の門前に張り出した、農民の直訴の訴状が、定信の目にとまったのだ。

 そこで巡検使、目付、勘定奉行の配下、それらが次々に飛騨に送り込まれたのだ。探索のうえ、領内で農民の証言を聴取し、その上で、飛彈高山の役人をすべて取り調べたのだ。拷問する側だった役人たちが、すべて白州に座ったのだ。

 最大の支配者・大原郡代は遠島となった。遠島とは、切腹もさせてもらえない、武士として最大の恥の処罰だ。上級役人は死罪、さらには末端までも処罰された。
 飛彈の役人は総入れ替えとなった。

 田沼意次時代、松平定信時代。双方の姿勢が、飛彈高山の白州に凝縮されている、と知った。それは新たな発見だった。私の眼はなおさら飛彈から外れなくなった。

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