かつしかPPクラブ

1500人普通救命講習会に参加(中)=郡山利行

『1500人参加による普通救命講習会 身につけよう応急手当』(1月19日)において、胸骨圧迫と人工呼吸の講習と実技がおこなわれた。

 (1)胸骨圧迫
 胸の真ん中にある胸骨を、片方の手の根元で他方を重ねて、1分間に100回のテンポで行う。

   この圧迫動作はかなり速くて、思ったより大変だった。

(2)人工呼吸
 感染防止用の人工呼吸用マウスピースを用い、気道を確保して鼻をつまみ、胸の上りが見える程度に2回吹き込む。(写真)

 実際の場面では、胸骨圧迫30回と人工呼吸2回の組合せを繰り返して、続けることになる。


 特別ゲストとして蝶野正洋さんがサプライズ登場した。
 蝶野さんは、救急医療活動への協力で、消防総監感謝状をもらうなど、この活動にも積極的に参加している、プロレスラーである。
 救急車が到着するまでの間の、一般の人による救命救急活動の重要性を語った。
「誰かが倒れた時に、辺りの人が声を掛けあって、応急対応ができる、思いやりのある社会にしていきましょう」
 と生命の大切さを強調した。

                                              【つづく】

1500人普通救命講習会に参加(上)=郡山利行

 『1500人参加による普通救命講習会』が2014(平成26)年1月19日(日)に東京都・有明の「東京ビッグサイト」の西ホール3で開催された。サブタイトルは『身につけよう応急手当』で、13:00~16:00の3時間にわたった。

 この講習会は、東京マラソン2014の関連イベントである。同マラソンを安全に開催するとともに、都民に応急手当の普及啓発を推進することを目的に計画されたものだ。主催は東京マラソン財団、東京防災救急協会、東京都医師会、都福祉保健局、東京消防庁、他である。参加費は1400円。募集対象者は既に決まっている東京マラソン・ランナー、およびボランティア活動参加者たちである。

 当日の参加者数は1305人である。インターネット通信でも行われた。

 1月19日は、よく晴れた日だった。東京ビッグサイト西ホール入口から、誘導員の指示に従って、座るべき場所へむかう。参加者たちはそれぞれの位置に座り、静かにテキストに目を通していた。

 参加者たちは12人で1グループに分けられた。そして、1グループに1人の実技指導員がついた。蘇生人形と訓練用AED(自動体外式除細動器)は、1グループに2組が配置されていた。

 普通救命講習の具体的な解説指導を行ったのは、東京防災救急協会の武本由季子さんだった。はっきりした声の軽快なテンポで、1300人もの参加者を見事にリードした。

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屋久島・縄文杉訪問登山 郡山利行

屋久杉は、成長が遅いので密度が高く、樹脂分が多いので、腐りにくく、多雨多湿の中でもほとんど朽ち果てないといわれています。

かなり古い倒木でも、ユニークな形で残っていました。


2013(平成25)年11月1日(金)午前6時、 登山開始

鹿児島県熊毛郡屋久島町 ≪荒川登山口≫ 標高670m

女性2人と男1人、平均年齢63才。

天候、終日、曇り時々晴れ。


「 あ、シカだ!」

ヤクシカで、島内全域に生息している小型のシカです。 

厳しく捕獲規制されたので、ヒトを全く気にせず、たびたび見かけました。

低地部では、農・林業への被害が問題になっているとのことでした。


安房歩道の途中、小杉谷集落跡までは、不揃い間隔の枕木軌道を約1時間歩きます。

慣れるまでの約30分くらいは、つまづかないように足元を見ながら、歩かざるを得ないので、目が回りそうでした。


この女性二人は、約50年前に屋久島で生活したことがあります。

『 昔のトロッコに積まれた屋久杉丸太に乗っかっているつもり』になりました。



屋久島は、島全体が花崗岩ですので、高地では樹木が生育する土の≪地表≫がとても薄いために、屋久杉の根は、このように這わざるを得ません。

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どっこいしょ(葛飾の富士山と富士講)=宇佐見幸彦

はじめに


 国際教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、平成25(2013)年6月22日に富士山とその25の構成資産を、世界文化遺産への登録を正式に決めた。
 富士山は奈良時代末から平安時代にかけて、頻発した噴火を神の怒りと感じ祭祀を行って鎮めようとしたのが、富士山信仰の始まりである(国学院大学笹生衛教授・日本宗教史)。

 火山活動が沈静化してから修験者(山伏)の修行の場となった。その後、富士山の偉大な自然のもと、当時様々な制約を受けていた人々に対して、身分や男女の別もない平等の思考が信仰に結びつき信仰登山は庶民に広がり、江戸時代には多くの富士講が出来た。講のメンバーは資金を積み立て順番に登山を行った(代参講)。

 娯楽の少なかった江戸庶民にとっては、「信心半分、物見遊山半分」の言わば旅行サークルの体になり明治、大正、昭和の初期まで盛んに行われた。

 登山者は白の登山装束に六角の杖を携え、“六根清浄”と声を掛けながら登った。六根とは「眼・耳・鼻・舌・身・意」で、これらを清めるための掛け声で、年配者が立ち上がったりするときに、つい発してしまう‘どっこいしょ’の語源と言われている。

 また、登山に行かれない人のために富士山を模した「富士塚」が作られ、模擬登山が行なわれた。東京23区内でも約50か所が現存している。葛飾区内には南水元浅間神社跡(現富士神社)の飯塚富士、東金町葛西神社の金町富士、立石熊野神社の立石富士の3か所がある。


1. 南水元富士神社と富士講


 東京・葛飾区南水元2丁目にある正慶元年(1332)に創建された富士神社は、毎年7月1日の富士浅間神社の山開きにあわせ例大祭が執り行われ、富士講の行事も行われる。
神社拝殿の背面の墳丘状の浅間山の上に、明治12(1879)年に富士講の人達により高さ4mほどの盛り土をしている。面積約650㎡、高さ約8.6mの富士塚である。普段は立ち入り禁止であるが山開きの当日は開放される。

            葛飾区指定史跡(昭和56年2月22日指定)

  山頂への道のりは、途中、灯篭や祠、石碑がある厳しい岩石を積んだ階段の登山道と外周をまわる山道とがある。
 その塚の頂上には、浅間社の石祠と天狗の石像一躯が安置されている。

 外周をまわる登山道の途中には、富士講の登山者を模した白い登山装束姿の石像が藪の中に佇んでいる。
 平成17年建立の飯塚富士講の石碑には富士講の19名の名が刻まれているが、今では講仲間の数も減っている。

 神社責任役員の嶋村茂さん(80歳)は、
「富士山の世界遺産登録の影響から、氏子だけでなく一般の人も例年より大勢来て、喜ばしいしい」
 と話していた。

 昭和の頃までは、講の仲間の家々をまわって祭文を唱えた後、飲食をする月次行事も、今では社務所で2~3か月に一度になっている。


 毎年7月1日には「七富士参り」が行なわれ、講中に神社の氏子の人も加わり、現在も継続されている。
 七富士とは、埼玉県草加市瀬崎、同八潮市大瀬、同三郷市戸ヶ崎、千葉県松戸市小山、東京都江戸川区篠崎、同葛飾区西水元浅間神社、同南水元(旧飯塚)浅間神社(現富士神社)を巡拝する。今ではもはや徒歩ではなく、バスを仕立てて朝出発し、夕刻に戻って来るという。
(問い合わせは、同神社社務所へ)

 普通の神社は社殿の奥にご神体が祀られているが、当神社では御幣の先に登山道、頂上に浅間神社の石祠が鎮座している。

 飯塚の富士講 葛飾区指定無形民俗文化財(平成7年2月22日指定)


2 葛西神社金町富士


 葛飾区東金町6丁目の葛西神社は、祭囃子(葛西囃子)発祥の地として有名である。神田囃子、深川囃子などの流儀を生んでいる。社殿の右奥に 金町富士がある。

 富士塚は明治19(1911)年の建造である。江戸川の改修で一時取り壊されたが、昭和35年(1964)に再建された。高さは2.5mと低いが、良く整備され参道の途中には三合目、四合目などと刻された岩もあり、何時でも登れる。


3 熊野神社立石富士


 東京・葛飾区立石8丁目にある旧立石村の鎮守で区内でも古い神社の一つである。社伝によると、長保年間(999~1003)に陰陽師の阿部晴明によって熊野三社権現を勧請し創建された。

 神紋は丸の中の五角形に八咫烏(ヤタガラス)が描かれている。この三本足の八咫烏はサッカー日本代表のシンボルでもる。
 境内の敷地は五角形をしている。晴明の万物は「木、火、土、金、水」の五要素からなるという五行説からである。

 境内の一画に立石富士がり、大正13(1924)年の築造で区内の富士塚では最も新しい。山道を登り途中右に折れると、そこが頂上で道のりは約5mほどで、高さは2mもない。
頂上には社と立派な石碑が立ち大きく”浅間神社”と刻まれている。

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郷土史家 石戸暉久さん = 郡山利行


 石戸暉久さん。1944(昭和19)年生まれ、68歳。
 
 親子二代に渡る貴金属宝飾加工業を本業としながら、生まれ育った四つ木地区の郷土史を、多くの仲間たちと研究している。

また史跡案内などの活動も積極的に行なっていることで、この地域では、石戸さんを知らない人はいない。

 名刺の裏には、活動範囲を示す自筆の地図が印刷されている。



2013(平成25)年5月19日、かつしかPPクラブ員に、葛飾区東立石3丁目の渋江公園から四つ木地区を、案内してもらった。

『この渋江公園はですね、大正3年に始まるセルロイド工業の発祥の地なんですよ。セルロイドは、太陽光線で自然発火した火事が、とても多かったのです』  
 と案内解説の第一声だった。



写真の右側の道路が、四ツ木橋の手前で水戸街道に通じる≪旧官道≫である。左側は、≪四つ木商店街≫の道路で、現在の京成押上線が出来る前の、京成線の線路跡である。

                     *

四つ木地区には、4ヶ所の木製標識があるという。江戸時代では一番軽い罰だった≪百叩き≫が行われていた場所である。
戊辰戦争の上野の彰義隊残党が≪腹切り≫をした場所などである。

                     *

地元の人にはいい話ではないので、その歴史はほとんど語られない。

葛飾区長に直接、(4ヶ所の木製)標識の更新を願ったが、実現されていない。
『最終的には、自分でやろうという覚悟があります』と、声高に語った。

                     *

街角とか、史跡で、足を止めては丁寧に説明してくれる。かつしかPPクラブ員はメモを取り、写真を撮っていく。


 取材した5月19日は、渋江白髭神社の 御祭禮の日だった。

 取材の 連絡を受けた宮司(春日さん) が、急いで出てきて、神社の由来をていねいに説明してくれた。

 『渋江という場所は、江戸後期から 栄えましてね、浅草の吉原から船に乗って1時間の、物見遊山の地でもあったのですよ』と、柔らかい内容も話す宮司さん。


 江戸祭り囃子(おかめ会)の演奏者たちに挨拶して、言葉を交わす石戸さん。

 午後2時からの本番を前にした演者達は、とてもくつろいだ様子で、笑顔を返していた。地域の伝統と誇りを共有している人達の、交流の一瞬だった。


地元の友人、岡島さん(写真右)は渋江公園のすぐ近くにある古本屋のご主人。ふたりは週に2回は会って、懇談している仲だという。

ともに立石・四つ木地区での生まれ育ちであり、親の代からの職業に携わっている。
地域の歴史にとても詳しいので、葛飾区郷土と天文の博物館学芸員達の≪情報源≫であり、≪指南役≫でもある。


『戦後、この公園の場所に税務署が出来ることになり、上棟式直後の台風で、未完成の建物が壊れたの。 そうしたら中小企業の大人達が、 「 税務署が倒れた 」と言ってやんやと喜んでいましたよ 』
 と岡島さんが幼い日の思い出を語った。

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白根の風 = 宮田栄子

<想い・前>

2013年1月、東京・葛飾で『第5回堀切大凧揚げ大会』が行われた。P・Pクラブとして取材をおこなった。凧の大きさには圧倒され、大会の最後には綱を引かせてもらった。そして、大凧の、綱の強さに感動した。

新潟県の白根大凧合戦実行委員会は、大凧持参で、毎回、葛飾まで指導に来てくれる。同委員会の佐藤会長をはじめ、多くの方々から熱い話をうかがった。

一方で、PP記者はその日のうちに、「本場白根の大凧合戦を取材に行こう」と決まった。そして、約半年後の6月6日、P・Pクラブの記者仲間7名が白根にむかった。

      

                   しろね大凧と歴史の館


新幹線で燕三条に行き、そこからは車で南区(旧白根市)へ向かう。まず『しろね大凧と歴史の館』を訪ねてみることにした。

館内には白根大凧はもちろん、国内、海外の珍しい凧が4000点余り収蔵、展示されている。世界最大の博物館だ。
同館には白根地区の歴史民俗資料も展示されている。

江戸時代から約300年にわたり、受け継がれる「凧人」の心意気が、この館からすでに十分伝わってくる。 


同館より凧揚げ会場まで、シャトルバスが出ている。車中で、席が隣り合わせたとなった保科さんから話が聞けた。
「勤務先の会社で組をつくり参加していましたが、不景気などの理由で今は撤退してます。自宅からは遠いのですが、やはり見たくて毎年来てしまいます」と語ってくれた。

区民記者として葛飾から取材に来たと伝えると、喜んでくださり
「1人でも多くの人に、白根の凧合戦を知らせて欲しい」
と話された。

                      街をあげての大パレード

同日、12時30分より晴天の下でパレードが開始された。

各小、中学校よりスタートし、本町通を中心に、1時間をかけ中ノ口川会場まで歩くコースである。

色とりどりの衣装を身に着けた、緊張気味な小学生。少し照れ気味ではあるが、演奏はしっかりした中学生。両者とも誇らしげな顔だった。



                真剣に見入る園児たち


歩道では、保育園児が大勢の大人にまじって、目を輝かせて見ていた。
「自分たちもいつか将来、あのパレードの中にいる」と思っているのだろう。今、ここにいる観客を含めて、全員がすでに大凧合戦に参加しているのだ。


                   いよいよ開戦式 

                   昨年の優勝チームより優勝旗の返還


13時30分から、いよいよ開会(戦)式だ。
遠藤南区長の挨拶からはじまる。その区長と共に葛飾に来てくれた佐藤実行委員長も「くれぐれも怪我のないように」と声を大にして呼びかける。それだけ合戦は危険なのだ。

昨年の優勝チーム、「桜蝶組」の優勝旗返還が行われる。その目はすでに、奪還に燃えていた。

大凧は24畳(5×7m)約50㎏、元綱(径2.5cm×130m)約40㎏だ。

今年は、東軍6組、西組7組である。ひと組でおよそ15枚から40枚の凧を用意する。その大凧の合間を縫って巻凧(六角凧・2.2×2.8m)も揚がるのだ。

熱気の中、開戦の火ぶたがきられた。6月6日より10日まで、5日間にわたって熱戦が繰り広げられた。

                   大凧よ 風をつかめ     

                  凧が風をつかまえた。走れ


合戦のルールについて、実行委員の島倉さんから説明を受けた。

「中ノ口川(川幅80m)の両岸から大凧を揚げ、空中で絡ませるのです。と同時に、凧を川に落とし、相手の凧綱が切れるまで引きあう、合戦です」

最初に東軍(女に例え)が西軍(男に例え)の堤防めがけて揚げられる。そして、低空で相手を待つ。やがて、西軍の凧が揚がり、上空から相手(東軍)の凧綱と交差させ、水面に落下させる。これが空中戦である。

(西軍はタイミングが合わないと、川に落ちる確率が高い。だから、凧を多く作る)

互いに綱を引き合って、相手の綱を切ったほうが勝ちとなる。

通算勝数の多い組が優勝、同点の時は勝綱の長さで決める。


                    なんとも贅沢な凧合戦

大凧は1枚15万円。

(そのつど川に落とし壊れる)

元綱は1本200万円(約100日かけて作る)寿命は勝てば5年。


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色被せ(いろきせ)ガラス = 吉沢 希明 

吉沢 希明さん=長野県出身、シニア大樂「写真エッセイ教室」の受講生
            かつしかPPクラブ会員

  色被せ(いろきせ)ガラス  吉沢 希明 

 ある新聞記事に目が止まった。
 記事の地名が江戸川区平井とあり、私の住む所と同じ、江戸川区名産品の紹介で、色被せガラスで作成した「ぐいのみ」が人気だという紹介記事だった。

 さっそく場所や連絡先を確認し、見学と取材の申し込みを行う。社長の中村弘子(69)さんから、快諾を頂き、話を聞くことができた。


「 色被せガラスの特徴はなんですか?」

 ガラスの上に、色の違うもう一枚のガラスを重ねて模様を付け、ガラス容器等の製品にするものです。被せるガラスの厚さは0.2から0.3ミリで、紙の厚さくらいです。これが特殊技術で、熟練した作業員が、手作業で作るために大量生産はできません。

 一人は吹く担当の方、もうひとりが色をつける担当と二人の息を合わせることが肝心です。当社の特徴ですが発色の良さで高い評価を頂いています。

 赤色を出すのが一番難しいのです。

 私の父、金蔵が色被せの技術を開発したものです。この特殊技術が使えるのは日本で2社しかありません。

 類似の工法で製造しているところもあるようですが、職人気質の父は特許には関心がなく、「よければ皆で使えばいいや」という、おおらかな気持ちの人でした。

 社名も父の名前の文字を一字もらいまして「中金硝子」と命名させてもらいました。


「御社は創業何年になりますか?」

 法人にしてから62年ですが、創業は私(社長)の祖父の時代ですから200年近くになろうかと思います。


「御社の後継者は決まっていますか?」

はい。息子が工場部門を担当しておりまして、伝統の技術を会得して、次の世代の若い人を育てています。小学生の孫が「ぼくも、この仕事をやるんだ」と言っているそうです。

 若い心強い後継者が決まっているのは頼もしい限りだ、と思う。


「最近のヒット商品はなんですか?」

 江戸川の花火が、「どーん」と上がるのをイメージした作品を考えてみました。ところが、これは花火が開いた時の表現が難しくて、上手く出来ませんでした。

 この体験を活かして、「逆さ富士」のぐいのみ(トップの写真)を作成しました。富士山の世界文化遺産に登録されたこともあって、人気となり製造が追いつかない程に、なっています。

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猛暑の企画ミスから端を発し、「立石で飲もう会」に21人の酒友

 朝日カルチャセンター千葉は特別企画『昭和が残る立石を歩く、撮る、語る」を募集した。7月17日(水)午後2時に集合だった。ここ連日は猛暑で、熱中症が連日報道のメインになり、外出を控えるように言われている。
 私が企画したのだが、日時の設定ミスだった。参加応募者がわずか3名だった。当初は梅雨を心配してたいたが、猛暑となると、当然だろうな、と思った。
 12日(金)なって、この企画は最終的に流れた。

 ただ、石井朝日カルチャー社長、轡田隆史さん(元朝日新聞論説委員)も、参加を予定していた。こうなれば、私的な飲み会にしよう、と即判断した。集合時間は同日夕刻4時とし、仕事などの都合があれば、来れる時間とした。かつしかPPクラブ(6人参加)から声をかけてもらう。岡島古本屋の店主、石戸さん(かつしかFMに1時間番組をもっている)など、町を良く知る人が来てくれる。

 私の方は作家仲間の高橋克典さんを誘う。とならば、ストリップ作家の牧瀬茜さん、在日作家の金子京花さん。読売エッセイ教室の受講生だった、高橋さんも呼ぼう。葛飾区教育委員会の佐藤さん。

 朝日カルチャセンター千葉の大岩さん、栗原さんも「いらっしゃいよ」と声掛けする。当初申し込んでいた夏目さんも来てもらう。轡田さんはニュースステーション時代のディレクターを誘われていた。 

 あおばの女将には、事前に「飲み放題・食べ放題3500円」で、4時半から10時半まで借り切る、と話を通しておいた。
「何人来るの」
「わからないな。最低でも7~8人。多ければ、15人かな」
 こんな曖昧さだ。

 同日4時には、京成立石駅に10人が集まった。葛飾区伝統産業職人館を見た。夕刻から雨が振りはじめたことから、奥戸橋から東京スカイツリーでも眺めて、と思っていたが、それはやめた。呑んべ横丁から、踏切を渡り、仲見世を通って、あおばの方角へと向かう。


 仲見世で、桜井惣菜店の桜井さん(店主)とちらっと立ち話をした。彼は会うたびに、「立石をしっかり報道してね」と言われる。
 5年ほど前、立石の斜陽化が進んでいた。京成電鉄の高架が目前まで来ているので、商店街が消えていく危機感が漂っていた。
 住民の私は歳月の流れの中で、次第にさびれてく立石を見ていた。このままだと、ドロップダウンが加速するだろう。私なりになにかしら昭和が残る町を残せないか、寄与できないか、と考えていた。

 ネット・ニュースの企画ものとして、「立石仲見世の理事長・理事の『正月座談会』を行った。それも連載ものにした。若手理事の桜井さんは、先行きの暗さを最も語っていた人物だ。

 ホリエモン人気に乗ったネットニュースで、私は何度も「昭和の残る葛飾・立石はいいぞ、いいぞ」と記事にしていた。(読者層は若者だった)。四季の立石のイベントも取り上げた。
 酒場の紹介となると、日本ペンクラブの作家仲間に立石に来てもらい、杯をかわし、下町・立石の感想を載せた。と同時に、かれらの執筆の中で取り上げてもらったり、女性作家にはミステリー小説の舞台に立石を使ってもらったりしていた。
  

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苦闘する飯舘村・菅野村長にインタビュー(下)=郡山利行

 「災害の重い軽いという表現ならば、津波被害の方が放射能災害よりも、何十倍も重いです」
 福島県・飯舘村(いいたてむら)の菅野村長は、そう語る。
 大地震・大津波で、家族を亡くした、家が流出した、家が壊れた、それらは目に見える災害です。放射能の拡散は目視できない被害が内在しています。


 三陸など大津波被害は何年か経てば、ゼロからのスタートができます。と同時に、「地震や津波は天災だからしかたがない」と思うことが出来ます。

 でも、放射能被害を受けた私達は、ゼロ以下です。どれ位のマイナス規模なのか、それすら未だにわかりません。このゼロの段階に向かって、世代を超えて何年もかかるかもしれません。不安と戦いながら、汚された土地での生活苦とも戦いながら、私たちは生きていかなければならないのです、と菅野村長は強調した。

 ゼロのラインにいつ戻れるのか見通せない。それが放射能災害が、他の災害と違うことです、と再度強調した。
 もう一つ大きな違いがあります。大地震・津波による災害は、家族も地域も自治体も、復興への力が結束して、≪力を合わせて頑張ろうな≫となります。 ところが放射能では、それとは全く逆で、心の分断の連続となってしまうことです。

 家族の中でも、年寄りと、小さい子どもを持った若い人達とでは考えが違います。 夫と妻とでも違ってきています。かなりの数の離婚が出ています。
 自治体の中においてすらも、放射線量が高い所と低い所で、避難先から帰る時期が違います。賠償金の額までも大きく違ってくるので、それ自体も大きな問題になります。 

 
 避難生活はいま賠償金で行われているので、労働への意欲がどんどん喪失してきています。農村で育った人達が突然、都市部で生活を始めると、都会の便利さに急速に慣れ、身も心も病んできています。これが現実です。

 この二つの違いの事を、国をはじめとした行政はまるで理解していません。
「最もわかっていない、理解できていないのが国会議員です。 これだけの≪有事≫なのに、今までの≪平時≫の規則や決まりでやろうとしている」
 こちらから提言しても、誰も自分から進んで変更しようとしません。

 菅野村長は日々の村内の各地区での意見交換会の様子、村の将来に向けた施策、模索など、面談した一時間たっぷり語ってくれた。
  村長の語った放射能被害のむごさが、痛切に私の心に響いた。この人物ならば、村人のほとんどは信頼して付いて行くだろう、と指導力を高く評価したい。
 他方で、飯舘村の現況を知らず、同村を訪ねずして、メディア情報のみ(概念)で判断し、村長に批判メールを送り込む無責任な人たちが多いようだ。そこに憤りすら覚えた。少なくとも、放射能被害の真の苦しみを理解できない、しようともしない人たちだろう。

 小説家・穂高健一氏が≪海は憎まず≫の次の作品に、菅野村長のインタビューをどのように描くのか、とても楽しみとなった。

苦闘する飯舘村・菅野村長にインタビュー(上)=郡山利行

 福島県・飯舘村(いいたてむら)の菅野典雄村長は7月4日、午後4時から1時間の単独インタビューに応じてくれた。私は小説家・穂高健一氏に同行取材した。菅野村長は、3・11フクシマ原発事故から2年半たった現状と、これまでの過程を語ってくれた。

 避難先を決めた時のこと、津波災害と放射能災害の違い、飯舘村が置かれた苦境、ゼロへの戦いに対する批判や誹謗中傷にもくじけず、挫折せず、突き進む姿勢と精神を熱く語った。
「全村避難の苦境と痛みとが、きちんと理解してもらえていない」という辛さが私たち村民にあります。嘆くだけではどうにもなりません。私たちは毎日、現行の国の規則の中で、最大限どうやって動くか、ゼロの水準(村にもどれる、生活の足がかりを得る)に向かって、進んでいます。

 穂高健一氏は質問とメモ筆記に集中したので、菅野村長は私に向かって語り続けていた。直視する村長の目は、穏やかさの中にも、気迫が満ちあふれていた。 


『美しい村に放射能が降った』
 2011年8月に、菅野典雄村長が出版した本のタイトルである。サブタイトルは、『飯舘村長・決断と覚悟の120日』である。
 飯舘村は合併しない≪自主独立の村づくり≫を進め、小規模自治体の良さを生かした子育て支援や環境保全活動、定住支援などユニークな政策を展開してきた。とくに畜産業の黒毛和牛≪飯舘牛≫は、ブランド牛として高い評価を得ていた。

 過疎化・高齢化が進む、ごく普通の農業の村だった。飯舘村で生まれ育った菅野さんは、1996年に村長に初当選して以来ずっと同村を牽引してきた。2010年には『日本で最も美しい村』連合に加盟した。村づくりの更なる発展へと弾みになるはずだった。 

 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東京電力福島第1原子力発電所(以降、第1原発)の原子炉と建屋が次々と爆発炎上した。核施設の未曾有の大惨事から、飯舘村の輝かしい小規模農村づくりの努力と成果がすべて消えてしまったのだ。


 第1原発災害直後、低気圧による南東の風が吹き、原発災害現場から北西に30kmから50kmも離れた飯舘村までも、放射能を運んでまき散らしたのだ。しかも、爆発した時点でも、村にはなんら通報がなく、それだけに『うちの村は原発とはまったく無関係だから、絶対に安全だ』と、村人たちは信じ切っていた。
 
 菅野村長は、2011(平成23)年4月10日の夕方、福山官房副長官から、飯舘村が「計画的避難区域」に設定されたと聞かされた。1ケ月以内に全住民は村から避難せよ、という通告である。

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