かつしかPPクラブ

「書道の美、理容師の美」=秋山与吏子

加藤仙郷さん


 書道は墨の濃淡、墨のかすれ、線の太さ細さ、ゆっくり角度を変えるには、スーと筆を立ち上がるようにして力を抜きながら、ふぁ~ふぁーと書く。
 最も大切なのは、紙の白さに黒で書く線の美しさ、バランスよく紙との調和がポイント。そこに書の品位さが表現されるのではないかと思う。

 昨年から今年にかけて、16万字書き指にタコが出来てしまった。今書くのは、汚く、いやらしく、オモシロイ字を書きたいが・・・型にこだわりだして篆書を始めた。
 1冊の篆書を一通り書くのを1回にして、今450回になろうとしているとかたる。


書の表現

臼井望岳さん

 書(しょ)を書(かく)ようになってかれこれ、50年になる書写から離れ、手本通りでなく自分流に書くと、楽しいし、あきない、興味がわき、書いた後でここはどうしよう、考えると放りだすことが出来ない。
 書道は芸術、美しく書くことである。



藤原久美子さん

 私は書道を始めて半世紀になります。

 書くときは常に形にこだわり、角度、速さと、深さに、軽く書くか早く書くか、線の強弱、墨の濃淡、滲み、かすれ、さまざまな技術や方法を使い、美しくなるようにかいています。
 晴れやかな藤原さんの表情には、それらを駆使した堂々たるものを、感じ取りました。


瞬間芸術

 絵と違って、書道は数秒から数十秒の完成作品、付け足すことも、削り取ることも出来ない、一発勝負の瞬間芸術だと思います。

 筆の穂先に集中し、思いを一気に書く。穂先に自分の思いが流れこむような、素晴らしい時、これが書道の美しさだと思う。たどり着く道ではないかと思う。

 気分の乗らない時、体調が思わしくない時、そんな時の作品は、穂先がただ紙の上を黒く塗っているだけ、心身共に健康でないと、心をひきつけるような、美しい字には出来上がらないと思う

サインポール


 理容師のしんぼるの、サインポールは、白は白衣を、青と赤は動脈と静脈を表している。髪をカットしたり、シェビングすることにとどまらず、歯の治療や傷の手当まで行う、中世期の頃の、理容師は外科医を兼ていて、理容外科医でもあった。
 昔の日本は髪結い文化でしたが「断髪令」が発布され、ここから近代理容業の始まりでした。


理容師 杉山正さん

 お客様の好みに応じて、その方の魅力を十分に引出し、いかにその方にぴったり、美しく仕上がった時に、「ありがとう」と言う言葉が返ってきたとき、理容身寄りにつます

講習会


 理容師の組合員が講習会を開き、今年はどんな風なスタイルがいいかと、皆さんで意見を交換して、こんな風にして、はやらしたい。
 昔は7・3にきっちりとわけるスタイルだが、今は7・3に分けても、いかにもくずしたようにそれでいてそろえて自然になるようにセットする。

続きを読む...

人情を 未来へ (下) = 郡山利行

 葛飾の地場産業について、初めて深く学んでみた。 葛飾だけにしかないと言えるほどに成育した業種の、誇りと輝きを、もっともっと区民に認識してもらうべきである。
 そうすることで、区の産業の特性を活かした、次世代への区民生活環境の在り方について、多くの提案が発せられると信じる。


福本ゴム工業社長 福本さん ゴム工場を語る 


 福本ゴム工業株式会社は、お花茶屋の駅の近く、葛飾区白鳥2丁目にある。福本俊一さん、69歳。 工場は、終戦後、外地から帰ってきた親爺さんが、いろいろな仕事を経験した後に始めたと、語った。


「 豆炭を七輪に入れたのが火力で、たい焼きを作るような鋳物の型で、一般工業用ゴム製品(まことに簡単な品物)を手仕事でやっていましたね。 その頃は、同じような工場仲間で、よく助け合っていましたよ 」
「 昭和30年頃、私が小学校5,6年生になった時に、明らかに時代が変わりました。豆炭火力から、工場に電力が入って、機械化が始まりました。 そのため、家の生活全体も変わりましたよ 」

続きを読む...

葛飾・立石の消えた盛大な『縁日』を想う = 郡山利行

 「喜多向観音」は、葛飾区東立石4-15番地にある。立石バス通り(奥戸街道)に面している。

喜び多く向かい給えとお参りすれば、必ず一つは叶うとの言い伝えがあると、由来看板に書いてある。


縁日は、昭和25年頃から始まった。開催日は、毎月7日、17日、27日の、月3回。昭和50年代めまで、約30年間盛大に行われ、その後急速に衰退して、今は開催されていない。 


 『立石大通り商店会』 左端○印が「喜多向観音」

 同商店会の端から端まで、延長約440mにわたり、バス通りの片側に約200軒の出店がびっしりと並んだ。 店の並びは、通りの反対側に、1回づつ交互に変えられた。


「 当時、本田小前交差点にある交番の隣の空き地で、テキヤの親分が出店の番割りをしてましたよ 」
と、岡島さんは語った。

「 この縁日は、10日おきに、多くの店が出て、人出の多さも東京都内で有名でしたよ 」 とも話した。

地域の人、周辺の人達に約30年間、楽しみと憩いの場面を与え続けていた光景と、その熱意・情熱は、今ではもう容易に想像できない。




「喜多向観音」のほぼ上空から、渋江方向を見た立石バス通りである。

続きを読む...

「雄渾(ゆうこん)」の像のもとで(下)=宮田栄子

       2014年わがまち・かつしか【総合スポーツセンター・体育館】

 それぞれにパワー全開

はつらつ講師と頑張る女性(写真・左)

9時~午後9時までやっています。平日の午後3時~5時が比較的にすいてます。
個々のスポーツメニューも作れますので、ぜひご利用ください。 (2時間300円) (写真・右)



―いつでも、どこでも、だれもが、いつまでもできるー「これは、バウンドテニスのスローガンで、広いスペースが無くても充分な運動ができます」と、リーダーの青木さん(74歳)はいかにも楽しそうに語る。

幅3m、長さ10mでネットの高さはなんと50㎝、小さくてスピード感がある、とのことだ。(ラケットボールが原型でテニスと同様のルールである)葛飾には20チームがあり、競い、楽しんでいる。

「68歳からテニスを始めましたが、今はこのバウンドテニスに夢中の89歳です。
モットーは『自分のことは自分でやれる年寄りに』です」


続きを読む...

「雄渾(ゆうこん)」の像のもとで(上)=宮田栄子


総合スポーツセンターの、敷地内の立像に惹かれた。

はるか彼方を見据え、槍をかまえているが、力が入りすぎてなく、のびのびしていて、見ていても気持ちがいい。

「雄渾」と名がついていた。辞書を引いてみると、「力強くて勢いのよいこと」とある。「力・パワー」にぴったりだ。



2014年5月18日、P・Pクラブは、総合スポーツセンターの取材を行った。副センター長の山本和弘さんから、くわしく説明を受ける。


 「この施設は昭和58年の設立以降、私ども(住友不動産エスフォルタ・東洋管材共同事業体)が葛飾区より指定管理者として要請され代行しています。

年間約45万人(体育の日は万単位)の利用者があり、昼間は主に主婦、夕方からは勤め人の方が多いです。毎月第4水曜日が休館になります。

従業員は約40人で2~3交替。受付、運営(駐車場)、トレーニングルーム、設備、警備、清掃などで、それぞれ力を発揮しています。

体育館は、トレーニングルーム、大小体育室、武道場、
(今日は第67回春季剣道大会が開催中で、3歳から大人まで約500余名が参加)

 他に弓道場、アーチェリー場、エアライフル場(これらは、安全管理がしっかりなされ、認定証を取得した人だけが入ることができます)

その他、会議室もあります。

[中川土手沿いに建つ体育館]

熱心に語る 副センター長 山本和弘さん

続きを読む...

人情を 未来へ (中) = 郡山利行

 縁があって取材した人達は皆、親の仕事を受け継いでいる人ばかりだった。
 そして、受け継ぐことを当たり前のこととして、ごく自然に語って下さったことも、共通していた。 

菊島小児科医院 菊島院長の思い


 葛飾区の南西部一帯では知らない人はいないと言ってもいい、菊島小児科医院の菊島秀丸院長は、1958(昭和33)年生まれ、55歳。
 父親の竹丸院長と二人で医院を開業していた時には、先代は、地域の人達から、親しみを込めて≪大(おー)先生≫と、呼ばれていた。

 先代が1957(昭和32)に開業した医院を、1993(平成5)年に引継いで、約20年経った今、≪若先生≫との愛称で、父親に負けない、地域での信頼を得ている。 小さい頃から跡を継ぐように言われて育ち、実際にこの道を選ぶことに、迷いはなかったという。


「 私が高校受験で夜中まで勉強していた時、2階の私の部屋だけいつも電灯が付いていたためでしょうか、小児科なのに、玄関のドアをたたく大人の人が時々いました。 

 この地域の工場で働いている人達でした。 父は、その人達を必ず診察してあげていました。 そのため地域の働く人達には、≪当たり前の先生≫になっていました。 診てもらって安心した患者さん達は嬉しくなって、立石駅の近くの店で、一杯やって家に帰っていたそうです 」と、息子の秀丸院長は、父親院長の思い出を語った。


「 この地域は、商店は自営で、工場は家内工業という、職住一体の生活環境だったので、母親のほとんどは、一日中乳幼児をおんぶしていました。
 そのため、具合が悪くなった子どもの様子が、母親にもよくわからずに 『大変です!』 と駆け込んできました。その時、父は私に、『それぞれの家の生活環境を、具体的にしっかり聞いた上で、診察するんだよ』 と、この地で子どもの治療に携わる姿勢を、語り継いでくれました 」

葛飾区東立石3丁目にある、菊島小児科医院は、地域の人達にとって・・・・・、

続きを読む...

日本の着物の歴史 = 浦沢 誠

  はたちのつどいの参加者の女性は「振りそで」姿、男性は「背広」姿が圧倒的に多かった。
  日本の衣服の歴史を調べると、701年に制定された「大宝律令」と718年に制定された「養老律令」には、礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)が定められていた。


  それぞれの形式・色彩は、地位や役職により違いがあった。時代は移り平安時代後期になると「伴大納言絵詞」には庶民の姿が描かれている。

 男の多くは水干姿で、袴(はかま)は膝下(ひざした)までの丈である。女性は広袖(ひろそで)や小袖(こそで)の着流しで、腰布を巻いた姿もみられた。その後、鎌倉時代になると直垂(ひたたれ)が武家の礼服となった。女性の衣服は、小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。
 
 小袖の上に丈の長い小袖を引っかけて着る打掛(うちかけ)もできた。


  江戸時代前期になると、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。
  庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。また帯や組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。

  鎖国政策により国外から絹を輸入しなくなった、江戸時代後期に入り天明の大飢饉も発生し、1785年に幕府は庶民が絹製品の着用することを禁止した。庶民は木綿製もしくは麻などの
衣服を着用した。


  幕末には、1864年に禁門の変が起こり幕府軍は軍服を西洋式にすることに決め、小伝馬町の守田治兵衛が2000人分の軍服を作り上げた。日本における洋服の大量生産の始まりだった。


服飾史学者の小池三枝によれば、着物は元来「着る物」という意味であり、単に衣服を意味する語であった。
しかし幕末に洋服が移入して以降「西洋服」・「洋服」と区別して「従来の日本の衣服」を「日本服」・「和服」と呼ぶようになり、さらに「着物」の語にも置き換えられた。

続きを読む...

隙間植物 = 須藤裕子


植物の「生きる力」は強く、しぶとく、そして、面白い。隙間に咲く植物は、私たちの周囲のそこかしこに生きている。人間の足音を聞きながら。

「生物」の仲間として・・・・・・。


このひび割れた隙間に、仲間で入れた「ヨウシュヤマゴボウ」はラッキーだ。



「さぁ、出た。これからは、もっと葉を伸ばすぞー」と、思った矢先、不法投棄で置かれていたこの板は、間もなく取り去られた。

隙間植物には、過酷な運命だった。



歩道の端に、「アオギリ」が80センチほどの高さまで育っていた。だが、悲しいかな、そこは雑草としての性。

ほどなく、根元を残してバッサリ切られてしまった。しかし、その根元のアスファルトは、力強くこんもりと盛り上がっていた。

きっと、また、新しい木が伸びてくる。



隙間植物の「ミニアイランド」ができていた。周囲は青い海原ではなく、ごつごつした石の交じった歩道。しかも、堂々と歩道の真ん中だ。

ここまで育つと、踏みつけられるどころか、人が避けて通ってくれる。
「ありがたい。存在感を示したぞ」。

次に目指すは、「ビッグアイランド」だ


続きを読む...

冬の華:山茶花(さざんか) = 須藤裕子


冬に「美」といわれれば、花を連想することはないと思った。が、あった。それは赤い「サザンカ」だ。

冬枯れの色のない景色の中で、緑の葉と赤い花が目立つ。まるで、「冬は、私が主役!」と、言わんばかりだ。

近所には、垣根の「サザンカ」や、1本起ちを見かける。冬、外の風は冷たいが、一緒に、赤い「サザンカ」を愛でてみませんか。


「サザンカ」は沖縄や四国、九州などの南方に白色で咲き、自生していたのが始まりだ。

今では、「冬の華」として日本各地に広がり、その数は、約300にものぼる。

園芸の「華」でもある。


「サザンカ」談義。毎日、ラジオ体操に通う「田島勇二」さん(69歳)は、「サザンカ」の垣根の道を通る。

「サザンカ」の赤い花は目に留まり、花の先(咲き)が気になる。朝の挨拶にも、花が咲く。


                        白い「サザンカ」が、

                        冬の青空に生える。


垣根の役目を果たすサザンカ。しっかり家人を見守っている。

しかし、むかし武家屋敷では、「サザンカや椿は首が落ちる」といい、生け垣には使わなかった。

現代でも、病気見舞いには「首が落ちる」から、と喜ばれない。

それは、「ライオン交通株式会社」で咲く、1本の「サザンカ」。

冬の太陽は陽射しが弱い。わずかな光がサザンカの垣根を温めてくれる。

続きを読む...

人情を 未来へ (上) = 郡山利行

 ≪向う三軒、両隣≫、この表現は、江戸の町の神田、浅草、向島などに代表される、大小の長屋がひしめき合っていた街の、生活風情を表す言葉であり、江戸から遠く離れた、葛飾の地には当てはまらない。 

 撮影、2014(平成26)年4月2日、水元公園にて。 金町地区の保育園児たち。園児一人ひとりが、大きな水筒を身に着けて、いつでも自分で飲めるようにしているのが、ほほえましく見えた。
 先生が、「 そろそろ桜のお絵かき、おしまいよー!」 と声をかけた。


   写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社   昭和38年 子供たち 新小岩


                           *


 荒川の向うに広がっていた葛飾の堀切、新宿、四つ木地区の一部には、江戸下町風の街並みがあったが、ほとんどの地域は、昭和30年代までは、田んぼと畑と沼地が広がっていた。 そこは、産業としての農業と、大企業の数少ない工場と、圧倒的多数を占める各種地場産業の中小零細工場の、職住混在の地だった。

 その後、農業地域にも、工業を営む人たちが流れ込み、最終的には、当時ホワイトカラーと呼ばれた人とその家族が、農地と工場跡地を埋め尽くした。

 農業と新興産業の工場が、時代の流れで共存していた、昭和50年代までは、両産業の中間的存在で、商業とサービス業の人たちが活躍した。

 そして、この地域の人々の毎日の、毎月の、季節ごとのライフサイクルの中で、共通の生活スタイルができあがっていた。
 そのことが、葛飾の地が、過密な住宅地域とは異なる、独特な人情的つながりがある生活の地になったのかもしれない。

 今、失われつつある≪わがまち かつしか≫を、これからの世代に伝えて残すには、まずどのような人情の生活があったのか、知りたくなった。


 立石の岡島古書店 岡島さん 華やかな思い出 


 葛飾の下町と呼ばれる立石で生まれ育っている岡島さん(72歳)、親子2代にわたり、ここ立石1丁目で古本屋を営んでいる。 そのため、立石の生き字引である。 第二次世界大戦の戦後から、
この地域が繁栄を極めた時期の話を聞かせてもらった。

 岡島さんの夢に出てくる子供の頃の場面は、いつも同じとのこと。
「 近所のハスの田んぼから、1本かっぱらって逃げる夢なんですが、泥にはまってどうしても逃げられなくて、目がさめちゃうんです 」と、おおらかな時代の話から始まった。


戦後も時々停電した夜は、親爺さんは、カーバイトランプで店の中を灯していた。 カーバイトは、水に接するとアセチレンガスが発生し、火気があると激しく燃える鉱物である。 

「 そのカーバイトの工場がこの先にありましたが、1947(昭和22)年のキャサリン台風の洪水の時に、燃えちゃいました、すごかったです 」と、つい昨日の出来事のように語った。


 立石から四つ木全体が町工場で、働く人も多かった。 「 古本も、特に大衆物が、ものすごく売れましたよ。 夜遅くまで店を開いて、こっちの商売も頑張りました。 このあたりは、ブリキ製品の工場がたくさんあったので、プレス機械で指が詰まった人がいっぱいいましたね。

お客さんが書棚に手を伸ばした時に、気が付きました 」

続きを読む...