かつしかPPクラブ

【 わが町原動力】 消えた都内随一の縁日 (中)=郡山利行

 【 3. 喜多向観音の縁日 】

 喜多向観音は、葛飾区東立石4-15番地にある。立石バス通り(奥戸街道)に面している。『 喜び多く向かい給え 』 とお参りすれば、必ず一つはかなうとの言い伝えがあると、由来看板に書いてある。

 縁日は、奥戸街道の整備が完了した昭和8年頃から始まり、開催日は、毎月7日、17日、27日の、月3回だった。 戦時中一時中止されたが、 昭和23年5月から復活して、50年代初めまで約40年間盛大に行われた。
 都内でも有名な縁日だったが、その後急速に衰退し、今は開催されていない。

 石尾光之祐(みつのすけ)さんは、少年時代(小学校4年生)から学徒動員まで、立石で育った、読書と本がとても好きな人だった。 大正10年生まれで、70才くらいで他界された。
 昭和61(1986)年1月に青木書店から発行された、『古本屋』という小冊子に、石尾さんの記事があり、『日の丸堂』という名の古本屋が登場する。

 筆者がいつも葛飾情報でお世話になっている、岡島秀夫さんの父親が、元気なころのお店の名前である。
 この記事の中に、昭和8、9年ごろの小学5、6年生の石尾少年が見た、喜多向き観音の縁日の話があった。


  国土地理院HP  撮影:1936(昭和11)年6月 



平成10年頃に書かれた、立石大通り商店会の看板

 縁日は、今のアーケード街が奥戸街道と交わる所から、大道橋手前までの約200m(上写真の長○ 印)の範囲から始まり、最初から歩道片側ずつ交代の開催だったと、記されている。  


 最盛期には、上写真の、立石大通り商店会の端から端まで、延長約440mにわたり、バス通りの片側に約200軒の出店がびっしりと並んだ。
 主催者は誰だったのだろう、何人ぐらいの人びとが、月に3回もここにつどったのだろう。

 地域の人、周辺の人達に約40年間にわたり、楽しみと憩いの場面を与え続けていた。その熱意・情熱は、今ではもう容易に想像できない。

 上写真は、山本サトシ著:『東京の縁日風土記』:(講談社、昭和57刊) の、216~218ページにある、ごくごく表面的な訪問記事に添載された、写真である。

『夕方、露天の荷物が運び込まれる 』とのキャプションが付いている。縁日の歴史が、もう華やかではなくなった頃と思われる。

 揚げ物の増田屋3代目主人、中山さんが生まれ育った店は、下写真の○印の家(かまぼこと書いてある)である。
「 子供の頃はそれはもう、楽しみの縁日でした。小銭を握りしめて、いろんな店をのぞきましたよ。 人がぎっしり一杯で、私は背が低くて、まわりが見えず、自宅から迷子になったこともありましたよ 」と、語ってくれた。


 引用:写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社   昭和27年 立石バス大通り


 喜多向観音付近から、渋江方向を見た立石バス通り  平成30年7月10日.

 この喜多向観音の縁日に関する記録資料や写真は、区内の図書館でも現地商店街の数件で尋ねても、目にすることができなかった。
 当時の人々は、日常の生活が必死で、縁日のことを記録に残せなかったのだろうか。
 それでも、人々がここで熱い時を過ごしたことは、多くの人の心には残っている。

 立石の喜多向観音縁日の歴史が、そのまま、ここ立石地区の、更には葛飾区全域の、地場産業工場の盛衰だったともいえるような気がする。

                       【つづく】

【わが町原動力】 立石の旧赤線地帯 (上)=郡山利行

1. はじめに

2. 立石の赤線地帯

3. 喜多向(きたむき)観音の縁日

4. 血液銀行

5. 編集後記・謝辞


【 1.はじめに 】
 2017(平成29)年10月30日に、『 葛飾区史 』が出版された。 1985(昭和60)年3月に発行された『 増補 葛飾区史 』 以来、32年ぶりである。

 前区史の分厚い上・中・下巻3冊の、見た目には辞典のような製本とは著しく異なり、新区史は、A4サイズに大型化して、博物館や美術館のカタログ誌のように、豪華な装丁である。(右写真と写真)。
 大きさは、横21.5cm、縦30.0cm、厚さ2.5cmで、本文全体395ページの上質厚紙製本のため、重さは1.363kgである。

 巻頭言で、青木克徳葛飾区長は、読みやすくわかりやすい区史にすることを心がけたと述べている。 東京23区では初めて、区のホームページに、『ウェブ版区史』 を開設したことと、子ども版区史も別冊で刊行したことを、同区長は、誇らしげに語っている。

 区史は、区役所3階の区政情報コーナーのほか、郷土と天文の博物館と葛飾中央図書館で、購入することができる。
 申し込めば郵送(費用は自己負担)でも可能である。 価格は、『葛飾区史』が2,100円で、『子ども葛飾区史』は1,100円である。

 筆者は、わがまちかつしかの現代史についていろいろな角度から、この数年間にわたり、見たり聞いたり、調べたりしてきた。 しかし今年2018年春にこの葛飾区史(以下新区史と表示)に接してから、わがまちの品格ってなんだろうと悩んだ。
 新区史では、第二次世界大戦後(以下戦後と表示)からの、葛飾の工業振興の代表的存在としてか、玩具産業が4ページにもわたって描かれている。

 しかしながら、多くの人達の生活の中で、存在感がとても強かった施設や行事(本ページ下部に記述)が、まったくとり上げられていない。

『葛飾から全国へ』という青木区長の強いメッセージでは、サッカー少年と亀有駅前交番巡査の二つの漫画と、柴又の食堂家族隣人たちの娯楽映画の紹介が、区史の12ページにも及んでいる。
 反面、日本国内どころか世界中に何人もいないような、技術や技能を持っている人が、区内の各所で今日も元気に活躍されておられる記事は、どこにもない。
 全国を越えて、世界にアピールできる人達なのに。

 さらに昭和22年のカスリーン台風水害での、葛飾区内住宅街の災害写真が、一枚も掲載されていないのは、なぜなんだろうと思わずにはいられない。

 立石地区には、かつて大きな存在であったが、区史をはじめとした、わがまちを報じるほかの公的刊行物で、記録されていないものが三つある。

 ①赤線地帯

 ②喜多向観音の縁日

 ③血液銀行である。

 この三つに共通しているのは、主に戦後に登場したことに始まる。そして、昭和20年代半ばから前半は同時に存在していたことである。 また、立石地区のみならず、葛飾の近隣から、東京を中心とした地域の人達にとっては、性的快楽と、ひと月に3回の娯楽・慰労の場所であり、低所得者の生活費稼ぎの施設だったことでもある。

 わがまちの品格と、こんにちへの人情と活力を考える糸口の情報を知りたくて、取材してみた。


【 2. 立石の赤線地帯 】

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、総武線亀戸駅付近にあった花街は、焼け出された。 そこの業者の一部が、京成立石駅の北側にやってきて、同年6月に新たな店を数件こしらえたのが、立石の花街の始まりである。

 同年8月の終戦直後から、日本国政府は、占領軍向けの性的慰安施設を、積極的に用意した。
 立石には、亀有と同じに、アメリカ軍の黒人兵士だけが送り込まれたが、半年後の1946年3月には、性病のまん延を理由に占領軍兵士は立入禁止となった。

 政府による慰安施設は、公娼制度に基づいて運営されていたが、『施設』ではなくなったあとは、私娼地域として、営業が継続された。 その時、警察がこの地域を、地図上に赤い線で囲んだので、『赤線』 と呼ばれるようになった。 そして、昭和33年の売春防止法の施行まで、存在した。 

 その後、立石の赤線地帯は、飲食店やキャバレー街となり、今日までわずかながら、夜の灯をともし続けている。

 立石の赤線地帯に関する資料は、野中尚子さんによる、平成28年度、かつしか区民大学の『ゼミ 調べて書く葛飾 』 での作品が、詳しい。

画はつげ忠男さんが描いた、立石花街の、お姐さん達である。




 20歳前後の若い女性が大半を占めていたという。筆者がカメラを構えたとき、今にも窓が開いて、「お兄さん、きれいに撮ってよ!」 と、 手を振ってくれそうな気がした。



『散歩の達人 267号』より  つげ忠男:画 (P.24部分)

 つげ忠男さんは、少年の時の思い出を、画を載せた雑誌につづっている。 立石北口商店街の縁日で、アイスキャンデーを売るのを手伝ったとき、花街のお姐さん達がいつも買いに来てくれた。
 そして、くじ引きでセルロイド製のアヒルのおもちゃが当たった時の、彼女たちの無邪気な笑顔が、忘れられないと記す。

熊野神社大祭 立石映画館前にて、立石新地の皆さん 昭和28年頃町の文化と歴史をひも解く会:編  わが町のアルバム(写真集)
『 木根川・渋江・四ツ木・立石 界隈 』  平成27年6月刊 より 

 彼女たちは、交通安全運動や、街のお祭りなどの、地域活動にもかり出されて、宣伝にもなっていた。 

 昭和24年から、27、28年頃までが、立石赤線の全盛期だった。 全国から連れて来られた、彼女たちのその後の人生は、社会に登場してこない。

                        【つづく】

穂高健一先生の出版記念会に、かつしかPPクラブの会員とOBも参加

 年に4回ほど行われる作品発表の例会で、いつも的確なアドバイスをしていただく、講師である穂高健一先生の出版記念会が、立石の居酒屋「あおば」で開催され、かつしかPPクラブの会員やOBも、多くが参加をさせていただきました。

 折しも葛飾図書館では、私たちやOBの制作した小冊子が一般公開されていますが、開催されたのはちょうど中日に当たる、6月15日のハナキン(死語でしょうか?)です。

 午後6時からはじまった即席の会場には、あふれるばかりの来客が、日頃お世話になっている穂高先生を囲み、酒を酌み交わしています。

 まず驚いたのは、日本ペンクラブ会長の吉岡忍先生や、会の発起人である出久根達郎先生、
それに、元朝日新聞論説委員の轡田(くつわだ)隆史先生をはじめとした、そうそうたる顔ぶれでした。

 また、出版に尽力された西元社長や渡辺社長、それに大日本印刷のご担当の方など、普段お忙しい来賓もところ狭しと席を埋め、積極的に先生と話されておられました。


 強烈な個性と豊富な見識に圧倒されてしまい、カメラを持つ手も震えてしまいます。私たちはまるで借りてきた子ネコのごとく、酒場の片隅に固まって呑んでいました。


 すると見かねた穂高先生が、例会のようにやさしく接していただき、あたたかい声を掛けてくださいます。

「きょうは出版記念に名を借りた、単なる飲み会ですよ。楽しく過ごすために、わけ隔てなく席を囲みましょう」

 私たちはほっと胸をなで下ろし、お酒の力を借りて緊張も和らぎ、取材とおなじ気分で来客と接していきます。

 ベテランの文筆家が、芥川龍之介や川端康成のこぼれ話を、わかりやすく解説してくださいます。
 とても高名な作家さんが、若いころ日本や世界を放浪したときの、恋や酒の話に花を咲かせます。気さくなある先生も、明治や大正に活躍した、名もなき庶民の武勇伝を聞かせてくださいました。

 そんな盛りあがる宴席でOBの斉藤さんが、手作りの水ようかんケーキ(あっているかな?)を差し入れてくださると、海千山千の先生方も頬をゆるめ、われ先にと指を伸ばし、なかには両手を使ってほお張るツワモノも現れました。

 穂高先生もそうですが、著名な作家の皆さんって、紳士と少年が体に同居しておられるのですね。(失礼しました!)

 そして酒宴のピークは、吉岡忍先生がお声を掛けられ、会員の秋山さんと伴って現れた賓客の女性です。
 笑顔を絶やさぬその美女は、長年にわたって穂高先生の陰になり、日向になり、苦楽をともにされた奥さまでした。

「奥さんが辛抱したから、離婚されずに済んだのか」
「日頃呑み歩いている俺たちの当てつけだろう」
「家族を大切にして、もっと稼げる小説を書け」

 容赦ないヤジと心のこもった励ましは、穂高先生がこれまでに築かれた、作家仲間のつよい絆だと理解できます。
 そして会員からも、ささやかながら色紙2枚と花束を、先生と奥さまにプレゼントしました。
 先生は恥ずかしそうに、「そんなに気を使わなくても良いのに」とつぶやき、私たちに向かいます。

「この居酒屋はスポーツ選手の色紙ばかり貼られている。店員さんも興味ないみたいだし。
これほど素晴らしい作家が集まっているのに、写真の一枚さえ飾ってくれないんだものな。でも君らに活躍してもらったら、何十年か後には伝説となって、語り継がれる酒場になるかもしれないよ」

 いつもより酔っていた先生が胸を張り、冷静な眼差しで話してくださった言葉が、ふかく胸に残りました。

 私たち、かつしかPPクラブ会員の筆力は、まだまだ穂高先生の足元にも及びません。
それでも、無名の私たちを招いてつくっていただいた、この貴重なご縁を心にきざみ、先生のご期待に添えるよう、精進を重ねていこうと、改めて決意を固める夜となりました。


文章:隅田 昭  写真:郡山利行  出版記念・題字(毛筆):秋山与吏子

帰化   須藤裕子

ナガミヒナゲシ
 ヨーロッパ原産で、1961年に日本への帰化が確認されて以来、全国各地での繁殖が極めて高い。


 
 地域によっては、一面花畑のようになっている所もある。
 根と葉からは周辺の植物の生育を強く阻害する成分のアレロパシーを強く持つ。その一方、一つの実に1千~2千個もある芥子粒のような種をばらまく。これで増えない訳がない。

 葛飾区では特別駆除を呼びかけはしていないが、飯能市では、ホームページで、見つけたら抜くように推奨している。

 コンクリートによってアルカリ性になった道端の土壌を好む特性がある。

 隙間さえあれば、道ばたはもちろん、垂直の切り立った壁面からでも生育する。

 金網の仕切りが、増殖阻止に一役買っているように見える。いや、そこに金網があっただけにも見える。

 かれらは特に、水場を好んで生育している訳ではない。

 「ハナミズキ」と一緒の風景に違和感がない。

 公園入り口の「ナガミヒナゲシ」は、もう、立派な看板娘になっている。

 ところが、「ツツジ」の花壇がもはや「ナガミヒナゲシ」の花壇に代わりつつあるこの風景。旺盛な繁殖力を脅威と見るか、驚異と見るかは人のくらしとのバランス次第だ。

 もしも「この種を煎じて飲んだら、健康にいい」という効用があったなら、たちまち栽培するのが人間なのかもしれない。
 

 アヘンの原料となるケシと同じ仲間だが、「ポピー」や「ヒナゲシ」と同じようにアヘンの原料物質は含んでいない。

 花弁が鮮明で、観賞価値があるため、あえて抜き取る人はいない。

 もう、「我が意を得たり」という増殖ぶり。

 街のいたるところで、こんな風景を見かける。種は白い未熟な状態でも発芽するため、繁殖力が凄い。

 サメの歯を想起するような棘で武装した植物「オニノゲシ」。

 かつて繁殖した「セイタカアワダチソウ」を、最近あまり見かけなくなったのは、自らのアレロパシーで、繁殖できなくなったのだという。「ナガミヒナゲシ」もいずれそうなっていくのだろうか。

 そして、今度台頭してくるのが「アメリカオニアザミ」や「オニノゲシ」か。

 植物も生育し安いところでは「楽」に増える反面、生きていくのに「楽」ではないことがあるのも確かだ。
 脅威的な増殖をする帰化植物「ナガミヒナゲシ」の生育状況を観察しながら、花を育てたり、観る私たちの立ち位置も、行きつく咲きは America いや 「自分First!」?

6月1日(金)から『かつしかPPクラブ』展示会が1か月の開催

 ことし(2018)6月1日(金)から 6月30日(土)まで、葛飾区中央図書館の展示コーナーにおいて昨年度に続いて、「第2回かつしかPPクラブ展示会」が開催されます。展示場所は、葛飾区中央図書館の展示コーナー(受付でも案内しています)。

 開館時間は、月~土曜日 9:00~22:00、日曜日 9:00~20:00です。ただし、6月28日(木)のみが、図書館の休館日となります。

 現会員の作品8冊、OB会員の4作品を併せた16冊の熱のこもった小冊子が、多段に並べられます。現メンバーは8名の少数精鋭ですが、それぞれが日常のもちまえの特技を生かした取材作品を持ち集まります。それを同展示会でそれを発表するものです。

 メンバー各自は、いま展示分担をし、最終日まで精いっぱい盛り上げようと、張りきり、手作りの展示会を盛り上げを図っています。

 第2回「かつしかPPクラブ」展示会は、各作品の紹介パネル、および穂高健一講師の紹介も展示します。なお穂高健一著『芸州広島藩 神機隊物語』、『広島藩の志士』の新刊本も同図書館のご厚意で貸し出しができます。


【関連情報】

 かつしかPPクラブは、さまざまな年齢や職業の人たちで構成されています。毎年、年4回は、プロ作家(ジャーナリスト)の穂高講師による添削と講評があります。
 講座のあとは、有志が講師を交えて夕食を兼ねた楽しい懇親会が開かれています。

 さらなる特徴として、

① ここ数年は、年一度は遠征の取材を行っています。新潟とか、鹿児島とか、岩国・広島・瀬戸内の島々で現地の方々と交流しています。

② 穂高健一講師が日本ペンクラブ広報委員、日本文藝家協会の会員であり、年一度(6月ごろ)は、著名な現役作家たち約15人、かつしかPPクラブ会員+賛助会員ら約15人、併せて30人強で、「立石の飲み会」を実施しています。もはや、6-7年続いています。


 今後とも、同クラブはさまざまな場所で、葛飾区の行事・イベントや場所・景観・人物などを取材し、発表していきます。
 新たなテーマ、他地区との交流会の開催も検討しています。

【入会希望】
 会員になるためには原則として、区民大学『写真と文章と取材の極意』などを受講した卒業生、または当該クラブ員の推薦があり、かつ会長の認可が必要となります。

 展示作品を見て、同クラブで学んでみたい方は、当日、会場では申し込み用紙も用意しています。


 葛飾中央図書館近くにお寄りの際は、ぜひお立ち寄りください。そして、じっさいの小冊子をお手に取ってご覧ください。

◆写真:郡山 利行 ◆文章:隅田 昭


『関連リンク』

隅田昭のエンタメーゼ

穂高健一「芸州広島藩 神機隊物語」を読んで = 郡山利行

「かつしかPPクラブ」の穂高講師が、ことし(2018年)4月1日に、長編歴史小説「芸州広島藩 神機隊物語」を発刊される。

「見本誌が刷り上がったから、作品を読んでみてください。鹿児島とか、御手洗とか、多々、取材に協力してもらったから」
 そう前置きして、同書が私に手渡された。

 私は鹿児島出身である。薩摩と芸州の経済・政治協力が、御手洗の密貿易、贋金などを通して克明に描かれていた。
 著者の芸州広島藩にたいする想い、この著作への熱意が随所にほとばしっている。と同時に、取材のち密さと深さには驚くばかりだ。

 戦場の臨場感がすごい。
 神機隊の若者たちが、「民のために生命を惜しむなかれ」と、戊辰戦争で相馬藩・仙台藩に向かう臨む姿は迫力あるし、感動的だ。

          *

 プロローグでは、広島護国神社の巫女(みこ)と宮司が登場する。愉快な会話で、まず歴史小説の堅苦しさをほどいている。巫女によって、浅野家の家史『芸藩志』が語られる。小説はこの芸藩志を土台に展開されていく。

 広島は毛利のお城だった。関ヶ原の戦いのあと、福島正則が広島城主になったが、すぐに転封となった。代わって、浅野家が紀州和歌山から転封してくる。42万石だが、実高は35万石で、7万石の経済ギャップに、広島藩は毎年苦しむ。貧乏に耐えて耐え抜く。ここに「辛抱と強い団結」という広島の風土が生まれてくる、といかにも広島出身の著者らしい目で、経済、文化にも筆をはこぶ。

 やがて、第二次長州征討が起きる。芸州口の戦いが克明に描かれている。 広島領の民は長州軍と幕府軍のはざまで甚大な被害をうけた。
 つまり、広島藩の武士や農兵は、領内の民を守れなかったのだ。その無念さ、口惜しさが、読者にも伝わってくる。

「ここは民を守れる強い軍隊をつくろう」
 広島藩の若者たちが神機隊を立ち上げた。「民のために生命を惜しむな」。それが神機隊の理念のひとつとなった。
 読者としては、神機隊の身分・職業の出身別の構成が欲しかった。


 大政奉還の前後から、薩長芸軍事同盟まで、ドラマの盛り上がりの一つである。読者の私は、辻将曹・小松帯刀・西郷隆盛らの場に、自分も同席しているような臨場感があった。

             *

 志和盆地での、神機隊の洋式軍事訓練は、興味深く読めた。隊員となった『侍』たちが、よくぞ過酷な訓練に耐え抜いたと、感動的だった。

 かれらの理念は平和主義者だった。なぜ、神機隊は、自費で戊辰戦争に出兵したのか。かれらは、政治的の権力欲や名誉欲のためでなく、「民に安堵を与えるために、この戦いを早く終結させる」という目的だった。

 戊辰戦争が勃発した。もし勝敗もつかないまま5年、10年、20年と戦争が長引けば、国土は荒れ、民は飢餓に苦しみ、秩序も倫理も欠落して人心も荒廃する。やがて、虎視眈々(こしたんたん)と狙う外国の餌食(えじき)になってしまう。

 1日早く戦争を終結させれば、一日早く民に平和と安堵を与えられる。それをもって天皇制の明治新政府が安定する、と信じて疑わなかった。


「仙台・青葉城を陥落すさせれば、会津は降伏する」
  かれらには迷いがなかった。相馬・仙台・旧幕府軍の連合を相手に、連戦・連夜の戦いで、北上していく。すさまじい戦いに挑む。

 神機隊のさまざまな戦闘場面で、読者である私は志和盆地の隊員たちの厳しい訓練の様子が目に浮かんだ。
 私がかつて読んだ幕末・維新の著作は、戦闘の場面となると、大砲か鉄砲か白兵戦ばかりだった。
 しかし、この「神機隊物語」で、著者が負傷兵への救急医療用の野戦病院や出張病院など、軍隊の転戦と外科医の活躍や医療の連動について、詳細に書いていることである。
 最も印象的なもののひとつである。
 
                   *

 高間隊長が浪江で壮絶に死す。それでも、神機隊はくじけず、最後の一兵まで、「この戦争を早く終わらせる。民に平和をもたらすために」と戦に挑む。
 先陣をつねに望む神機隊は死者、戦病死、負傷兵が尽きない。仙台領に近づくほどに、戦える兵士は極わずかになった。

 神機隊の最後の戦闘ともいえる。
 仙台領の駒ケ嶺での一列縦隊突進の場面は、本書のクライマックスである。隊員たちは、抜刀して突っ走る。敵の本陣の中央突破だ。それは亡き高間省三の頭脳的な戦法だった。
「 ここだ、こっちだ!」
  と大声で指揮する、高間省三隊長の姿を見たにちがいない。

                   *
 
 神機隊物語の最後まで、義勇同志として、武士出身者も農商出身者も心ひとつにして戦う。心を打たれる。仙台・青葉城がついに陥落した。数日後、会津も白旗を上げた。

 政権欲がない神機隊のかれらは、無欲すぎた。戊辰戦争のあと、明治政府の中央で権力争いに加わることはしなかった。歴史は勝者が作る。「薩長芸の進発(挙兵)・倒幕」なのに、芸州広島藩が消され、薩長倒幕となった。

 150年経った今日まで、神機隊や広島藩の活躍は歴史から消されていた。

「現代の広島人は、幕末・維新に無力感を持っている。残念ながら、原爆前を知ろうとしない。現代と過去(歴史)との意志疎通ができていない」
 著者が執筆される前に、そう語っていた。

『神機隊物語』で、広島藩の『芸藩志』が世のなかに広まれば、幕末史観が確実にくつがえる、という著者の熱意が読みとれた。それが私の読後感のひとつである。
「御手洗は幕末史の宝庫だよ」
 著者のことばで、鹿児島の人を連れて、もういちど御手洗に行ってみようと思った。
 

「えっ、驚いたね。穂高先生の本が広島で~」=PPクラブ浦沢誠さん談

 昨日つまり2018年4月4日の夜、葛飾区環境課で「花と緑」関連の会合があった。区民記者「かつしかPPくらぶ」の浦沢誠会長(元東京大学、国立科学博物館)と同席した。
 会合のあと、
「おどろきましたよ。広島護国神社で、巫女さんが先生の「神機隊物語」が売っていましたよ」
 と開口いちばんに教えてくれた。

「実は、きのう広島から戻ってきました。わたしの孫が外国にホームステイするので、せめて世界遺産の宮島を見させておこう、と考えましてね、広島に行ってきたんです」と語られていた。

 浦沢さんの話を紹介しておこう。

               *

 4月1日(日)、東京から新幹線で広島に入り、その足で宮島の厳島神社にいきました。世界遺産をたっぷり見学しました。夕方には広島大手町のホテルに入りました。食後、市街地(本通り?)の散策で、大きな書店に入ると、店内に売れ筋のビラがさがっていました。

「おどろきましたよ。穂高先生の「広島藩の志士」が『文芸第3位』でした。妻や子どもに、それを指して、これが私の先生だよ、と教えると、びっくりしていました。
 1位はカーブですから、これはしかたない、当然だと思いました。2位は忘れたけれど、3位とはすごいですね。カメラを持っていなかったから、撮影できなかった」
 と悔しがっていた。

 浦沢さんは、「広島藩の志士」が3月の半ば、「神機隊物語」が4月初旬に出版になると知っていたが、まさか広島でこんなに売れているとは想像していなかったようだ。
 
           *

 翌日はレンタカーを借りた。岩国。3日目は尾道・千光寺、さらに呉市の大和ミュージャムにいくと、火曜日で休館だったという。
「しかたないな、広島にもどろう」
 ハンドルを原爆資料館にむけた。ここも、改装中で一部しか見学できなかった。
「原爆投下のあと、荒廃した焼土に、神社の鳥居が立っているのが、印象的でした」と話す。

 原爆が真上(相生橋)に落ちたので、護国神社の鳥居は縦からの荷重にたいして十二分に耐えられた。もし横からの爆風ならば、吹き飛んでいた。資料館では鳥居の半分しか残っていない写真もあった、と説明していた。

 浦沢さんは理系で、とくに建築分野ではすぐれている。力学の視点で語っていた。


 帰りの新幹線まで時間があるので、レンタカーで「広島城に行ってみよう」とむかった。城址の駐車場に入る、お濠の手前に大きな鳥居があった。
「えっ、お城なのに、なぜ神社の鳥居から入るの?」
 と奇怪だった。

 よくよく見ると、「広島護国神社」と額に書かれていた。「ここが穂高先生から聴いていた護国神社かな。ならば、高間省三が筆頭祭神に祀られている」と思った。

 広島城を登城したが、内部は月並で、さしてみるものはなかった。城址を歩いていると、別の鳥居があった。ここが広島護国神社だった。本殿に、家族4人がお参りした。

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わがまちの 手彫り印鑑 (下)  郡 山 利 行

 葛飾区金町4丁目の井上隆夫さんは、55年間にわたり、印鑑手作り一筋の人生である。
 

 井上さんが掘るさなかの印鑑は、ツゲの16.5mmである。


 手彫り印鑑は、次のような作業手順で作ります、と実演しながら説明していただいた。

1.見本を見せる。

2.字体を決める。

3.納期を確認する。・・・作業日数が決まる。

4.印材を研磨する。

5.字入れ。・・・印材に直接、墨を使って筆で書く。 文字は表裏反対。

6.彫刻する。・・・文字ではない所を削る。 荒彫りという。

7.印面に残った墨を、磨き落とす。

8.印面に、新たに黒か朱色の墨を塗る。

9.文字仕上げの彫刻。・・・最も大事な作業。

10.文字まわりのカス取り。・・・最終仕上げ作業。

11.完成



 作業5は字入れ(印材に墨を使って筆で書く。 文字は表裏反対)で、そして書かれた墨を落とす。細かい目のサンドペーパーで、軽くこする。

 作業7(印面に残った墨を、磨き落とす)段階まで進んできた。

 作業8は、印面に、新たに黒か朱色の墨を塗る。

 印材が水牛の黒ならば、朱色の墨となる。市販の墨汁ではだめで、少し上等の墨をすずりで、とろとろの状態にしたもの。

 それを墨本体で直接印面に塗る。

 井上さんは、修業時代からずっと、『坊主』 という名の作業台で、彫っている。


 作業9は 「文字仕上げの彫刻」である。・・・最も大事な作業で、専用の木製の印鑑固定器ごと、坊主を握りしめて、左手を固定する。

「 これからが勝負です」
 井上さんの仕上げの手彫りが始まった。

 平成29年8月に彫った、画像の印鑑は、「今までの中で、いちばん字数が多く、印材の太さからいっても、最も大変だった製品です」 と、記録を見せてくれた。 

 記録画像の右側は、井上さんが手彫りした、16.5mmのツゲ印鑑の実寸コピーである。

【 4.編集後記 】


 手彫り印鑑作りの、奥義の一端を紹介してくれた 井上さんは、「 お客さんから、望み通りの印鑑を作ってもらえたと、喜ばれたことが何度もあります。
 また、手彫りの製品にこだわって、注文して下さる人達がいらっしゃるので、それに応えるべく、これからも頑張り続けます 」 と、力強く語っていました。 

 忙しいさなかにもかかわらず、時間たっぷり取材に応じていただきました、 ありがとうございました。


【関連情報】

  井上印章店

  名称: 井上印房  井上隆夫
  住所: 125-0042  葛飾区金町4-6-2
  電話・FAX: 03-3627-3710

わがまちの 手彫り印鑑 (上)  郡 山 利 行


葛飾在住の井上さんによる、手彫り印鑑の、文字の仕上げ彫刻作業。撮影:平成30年1月21日


【1.はじめに】

「 朱色ってなにかなァ 」
「 それは印鑑に決まっているでしょう。 朱肉の世界にもつながるでしょう」
「 印鑑もいろいろあるけどなァ 」
「 本物の朱肉は、きちんと使うのがとてもむずかしかった」
 このような会話が、筆者夫婦の間ではずんだ。
 こんかい冊子テーマの≪朱≫についての、始まりである。

 そして、手彫り印鑑を作っている井上さん(葛飾、金町在住)に取材して、印鑑作りの果てしない奥の深さを、紹介してもらった。 


【2.井上さんの仕事】


 井上隆夫さんは、昭和21年生まれの71歳で、この道55年、印鑑手作り一筋の人生である。

 葛飾区金町4丁目の地に、平成3年に店を構えてから27年になる。

 自宅は手彫り印鑑の作業場でもある。 お店の間口いっぱいに置かれた植木鉢の花樹が、花を咲かせていた。


 写真撮影:平成30年1月24日

 井上さんの印鑑作りは、昭和37(1962)年から、墨田区業平(なりひら)の、「中島印房」という印章店での修業から始まった。
 その店で29年間務めたあとに、現在の地で開業した。 
「 中島印房の店の造りを、そっくりそのまま、この金町に新しく作り独立しましたよ 」
 と、井上さんは、当時への思いを込めて、語った。

 店の前が車道で気が散りませんかと、筆者が問いかけたところ、「 業平の店も、目の前が都電が走る道路でしたので、まったく気になりません。 しかもここは、交差点の停止線の横なので、運転手で気にする人がいて、時折店に立寄ってくれます 」
 と、地の利を楽しそうに語ってくれた。


 印鑑作りを習得するのに、最もむずかしかったことは、何ですかと筆者の質問にたいして、井上さんは「 簡単にできたことは何ひとつありません。どんな単純な作業でも、一般の人には絶対にできないのが、この仕事の特徴です 」 と、さらりと答えた。


 井上さんが手彫りする印鑑の材料は、右・写真の左から、ツゲ、水牛(黒)、水牛(白)、象牙の4種類である。
 材料は直径15mmの標準的な実印である。 


 金町の店を構えてから27年間で、およそ8000本の手彫り印鑑を作った。その記録が、≪御印影≫である。(上写真)
「 得意とする製品の型がありますか 」
  筆者の問いに、井上さんは少し考えてから、
「 注文される品物が、広く浅い世界なので、こだわりはありません。自分の腕の範囲内で、精一杯です」
 と、答えた。

 更に、「 近頃、産業ロボットが高性能になったので、人の手で彫るのが必要なくなりつつあるような気がします」
 と、ぽつりと語った。

 印鑑の材質、字体、大きさ、仕事の流れなどによって、使い分けられる彫刻刀である。 
「 刃先の材料は既製品で、専門店で売っていますが、それをすべて自分流に研ぎ変えます。刃先以外の柄は、すべて手作りです」


 印鑑は身分を証明する大切なもの。世のなかには、命の次に大切だと認識する方も多い。

 井上さんは、手彫り印鑑の作業手順(ノウハウ)にも取材に応じてくれた。

                    【つづく】

道草を食う   須藤裕子

まえがき

「バス社会実験:綾02」路線が葛飾区役所と京成バス・タウンバスで協議され、平成29年10月23日(月)から平成30年3月31日(土)まで、実施中だ。

 バスの新路線協議は平成26年から行われており、新しく開設されたり、開設には到らなくてもバス停を増やすという結果が出ている。

 今回、「綾02」路線は1日・27便、新しいバス停を3か所増やし、平日・土休日も走っている。
 果たして新路線になるのか、実験で終わってしまうのか……。

 筆者は1月31日(水)を皮切りに、区役所と綾瀬駅を18分で走る「綾02」に何度か取材で乗車してみた。


お花茶屋駅」バス停前には、平成15年6月に開設した「お花茶屋南自転車駐車場」がある。
 駅周辺の放置自転車対策で設置され、朝6時から夜10時まで、係員が交代で常駐し、663㎡に400台収容できる。

 1か月1500円、3か月3700円、1時預かりだと100円で置くことができ、設備もよく、便利この上ない。
 線路を渡った曳舟川親水公園には、平成15年4月に開設された「地下自転車駐車場」があり、1600台収容できる。

 お花茶屋駅の線路沿いには、さらにもう1か所「西自転車駐車場」もある。整備された自転車駐車場は町のいい景観になり、安心感も生む。


共栄学園」前には、創立80年となる「共栄学園中学高等学校」がある。

 同校のホームページには、『1933年、本田立石に和裁塾を作ったのが始まりで、1938年、本田裁縫女子学校の設立が創立になり、戦後、共栄高等女学校と改組し、2003年、高等学校男女共学化』と紹介されていた。

 同校の校舎には、創立80年を謳う垂れ幕「至誠一貫」とともに、垣根の「サザンカ」が華やかだ。


堀切5丁目」からはスカイツリーが望める。

 スカイツリーの建築はどんなに小さくても、富士山を見つけたような気分になる。なぜだろう?


 新設の「小菅交番前」で降り、長いスロープを登って辿り着いたのが「小菅東スポーツ公園」。
 下水道施設の上部に設置されている373万5097㎡で、テニスコートも備え、堀切水辺公園より広い。
 ここを通って行くだけで運動効果十分だ。

 昼前、公園で遊び終えた親子が家路の途中で、坂を下っていた。
「元気に歩いていますね」
 と、話しかけると、
「行きはいいのに、帰りは抱っこになっちゃうんですよ」
 と、母親が微笑んでいた。

「日本庭園」には東屋・石灯籠・池があり、広々とした景色の中で、冬の日射しを浴びながら男性たちが話し込んでいた。

 高いビルの隙間から見る空とは逆、広く澄んだ青空が広がり、ゆったり感がある。和の空間、やっぱり悪くない。

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