かつしかPPクラブ

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(2) 郡山 利行

 水泳競技を終えたジャージー姿の外国人女性選手が、とても魅力的で、サインをもらいたくても、私には近寄る勇気がなく、少し離れて眺めるばかりの高校生だった。

    オリンピック栄光の記録より : NHKサービスセンター

 国立競技場での開会式は、10月10日だった。 自宅のカラーテレビで中継を見た。

 聖火最終ランナーの坂井義則さんの走るフォームがとても美しかった。そして式典終盤での、航空自衛隊ブルーインパルス飛行隊による、完璧な空中五輪には、世界への誇りを意識した。

 小関裕而(ゆうじ)作曲の、『オリンピック・マーチ』 の軽快な行進曲は、今でも聞くと、身体中に響き渡るような気がする。 


      国立代々木競技場第1体育館  撮影:1964年10月13日
  
        
 高校は中央線武蔵小金井駅にあり、自宅は東横線学芸大学駅だった。水泳会場の≪代々木オリンピックプール≫は、山手線の原宿にあった。

 競技期間の10月11日から18日は、ほとんど毎日途中下車して、代々木体育館会場周辺の、オリンピック空気を楽しんだ。
 様々な国の人達の顔と服装を、見ることができた。


国立代々木競技場の広場にて   撮影:1964年10月13日

《つづく》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(1) 郡山 利行



【 1.はじめに 】

 第32回オリンピック競技大会が、来年(2020年)7月に東京を中心地にして、開催される。
 第18回オリンピック東京大会は、1964(昭和39)年10月に開催された。
 私は当時、高校2年生、17才だった。

 私にとって、東京オリンピック1964とは何だったのだろうかと思いを巡らし、その記憶をたどってみた。
 そして、現在のわがまち かつしかへの期待を考えてみた。

【 2.オリンピックの時は、高校生だった 】

 1963年10月、オリンピックの前年、私が高校1年生の時、東京国際スポーツ大会でのサッカー会場の国立競技場で、毎日午後6時から9時、スタンドのごみ清掃をした。

 在校していた中央大学附属高校の生徒による、学校公認のアルバイトだった。 オリンピック本番での、スタンド清掃の時間調査が目的だったと、後日聞いた。

 初めて稼いだ6日間で3,525円は、いいお小遣いになった。


 1964年9月20日、東京オリンピック開催の20日前、中大附高 体育祭

 2年生だった私。写真上、〇印。

 応援合戦で、2年生は浴衣着用で、当時大ヒットしていた三波春夫の 『 東京五輪音頭 』を、踊った。

 体育祭の1ヶ月位前から、授業をさいての時間に練習を重ねた成果発表だった。♪♪ 四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない ・・・・ことのほか楽しんで、踊った。

     《つづく》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(3) 郡山 利行

【 4.1964年10月15日 国立競技場にて 】

 陸上競技日程の二日目、私の母、姉二人(長女と次女)と私は、家族4人で観戦した。


入場券は、オリンピック開会直前、銀座4丁目の小さなチケット売店に姉(次女)と徹夜して並んで買った。


     ≪写真のうえで、左クリックすれば、拡大できて、文字が読めます≫    

 オリンピック競技の入場券を担任の先生に提示したら、その競技当日は、出席扱いだった。

     TOKYO OLYMPIADO 1964 : 共同通信社

 写真右は、同日午後3時40分、男子100m決勝の、スタートの瞬間である。 スターターのピストルの白煙が残っているのが確認できる。

 女子走り高とびは、スタンドの目の前での競技だった。

 1m90cmをクリアして、優勝が決まった瞬間、マットの上で両手を挙げて喜んだ、バラシュ(ルーマニア)選手の姿が、今も目に焼き付いている。


 1966年6月12日、私が入学した中央大学は、体育を受講している

 全学部学生の授業の一環として、国立競技場で運動会を行った。会場入り口で、出席票を渡され、記名して学部学科ごとの箱に入れたら、『出席』 だった。

 競技への参加は、自由だった。
 800メートル走で、先頭を二番手で追っ駆けているのが、1年生の私である。
 1年半前のオリンピックの時、各国の選手達が走ったアンツーカーのトラックを、今自分も走っているという喜びは、生涯忘れないだろう。


【 5.思い出の選手たち】

 オリンピック競技開始の直後、真っ先に金メダルを獲得したのは、三宅義信選手だった。 重量あげが、緊迫感に満ちたスポーツだと、日本中に教えてくれた。

 ・女子体操のチャスラフスカ(チェコスロバキア)選手は、圧倒的な実力だった。今回のオリンピックで、こんなに存在感が強かった選手がいただろうか。

 ・陸上女子800メートル決勝で、優勝したのは全く無名の、パッカー(イギリス)選手だった。 彼女はゴールしたらそのまま、第1コーナー付近にいた、同国の婚約者ブライトウェル氏に駆け寄り、喜びの抱擁を交わした。

 そのシーンは、とても話題になった。

 ・男子柔道の無差別級の決勝で、日本の神永選手に勝ったのは、ヘーシンク(オランダ)選手だった。
 彼は、試合終了の瞬間に、寝技を組んだままの体勢で、母国応援席の熱狂を、右手で制止した。

 あざやかな態度だった。

 ・女子バレーボール決勝で、ソ連チームに勝ったのは日本チームだった。 勝利直後に泣きじゃくった彼女たちの姿は、魔女ではない『東洋の魔女』 選手たちだった。

 ・オリンピック最終日の男子マラソンで、優勝したのはアベベ(エチオピア)選手で、ローマ大会に続き二連覇だった。

 ・円谷幸吉選手は、ゴールの国立競技場内で、ヒートリー(イギリス)選手に抜かれて、3位だった。
 彼は4年後、栄光のマラソン人生を、自ら閉じた。悲しい報道だった。

                      《了》

同じ蕎麦はない 蕎麦作りのこだわり 《やぶ忠》=葛飾・柴又 鷹取 利典

 まえがき

 現在の蕎麦は、約400年前、蕎麦掻き(そばがき)が、蕎麦切り(そばきり)に進化したものと言われている。
 元禄15年(1703年)赤穂事件の折、集合場所に向かう前に「亀田屋」という店で蕎麦切りを食べたと記録されている。江戸時代中期からは、会席や鰻屋に比べると安価だと、屋台の蕎麦屋が庶民の間にひろまった。
 戦後の復興と共に、丼物も行う蕎麦屋が広まった。

【木彫りの看板の店名は、ご主人(日髙安邦さん)が彫った】

 現在、厚生労働省による調査では、蕎麦・うどん店の事業所数は全国で3万1869軒あり、市場規模では微減傾向にある。だが、外食産業のなかでは、変化の少ない有望な市場という発表である。

 そんな蕎麦業界で、足立区梅田で修行された初代が40数年前、葛飾区柴又に店を構えた蕎麦屋が「鶯庵 やぶ忠」だ。

 いまは二代目のご主人・日髙安邦さんで、ご夫婦が17年前、帝釈天の参道に開いた店舗で切り盛りされている。

「鶯庵 やぶ忠」のご主人は、創業者の親父さんがこだわった自家製粉 石臼引き、手打ちの蕎麦作りを受け継いでおり、「今でも修行中だよ」と頑張っておられる。


● 同じ蕎麦はない 蕎麦作りのこだわり                

 やぶ忠の蕎麦は、なんといっても自家製粉で石臼引き、手打ちが売りである。

 多くの蕎麦屋は粉を買って蕎麦を作るが、やぶ忠は、新潟の農家から、殻付きの蕎麦の実「玄そば」を仕入れている。まずは磨き、そして自前の機械で殻剥きをし、さらに選別をして自家製粉とする。

「挽きたて、打ち立て、茹でたて」の蕎麦を称して「三たて」と言う。「挽きたて」とは、製粉したばかりのそば粉を使うことだ。
 蕎麦粉は香りや風味の劣化が速い。だから、挽きたての粉にこだわるのは、職人として自然な思いで、大変な手間がかかる。
 自家製粉することで、こだわりの蕎麦が作れる。


【参道から見えるガラス張りの作業場】

 蕎麦の実は、外側から殻(果皮)、蕎麦粉(挽き割り)、花粉(打粉)、そして中心の御膳粉に分かれ、味と香り、つながりやすが変わる。夏は粉が乾燥する時期なので、つながりにくい。
 そこでつなぎ(挽き割り)を多めにして打つ。逆に冬はつながりやすので、あえて殻を入れる。新蕎麦だから白いと思われるが、味や香りを考え殻を入れるので、田舎蕎麦のように黒くなる。
 新蕎麦に見えないとご主人の日髙さん(40才)はこぼす。

 蕎麦作りの難しさで、もう一つはこねても固まらないことだ。蕎麦にはグルテンがないため、水を入れこねても粘りが出ない。
 そこで小麦粉を加え粘りを出す。他店ではワカメや山芋を使うこともある。

 【手前から、こね鉢、石臼】

 やぶ忠の蕎麦は、外二(そとに)と言って、蕎麦が10に対し、つなぎが2の配合だ。
 二八(にはち)よりも、つなぎの量が少ない。だが、それも季節により変える必要があると語る。暖かい蕎麦は、つなぎを多めにしないとのびて溶ける。はしが持ち上がらない。
 特に高齢者は温かい蕎麦を好むので、つなぎを多くすることもある。

 こだわりと物作りの葛藤だ。正解がない。だから『うまい』と言ってくれる人の話だけしか聞かない、とご主人は語ってくれた。

 一元の客か常連かによっても、蕎麦の好みが違うと言う。万人に合わせるのは難しい。毎朝、店のスタッフと話しながら決める。
 しかし、水加減は計ったことはない。季節や天候、気温などを考えて、自分の勘で決める。だから、毎日、同じ蕎麦にはならない。その感覚が分かるまで、6年や7年はかかるとご主人は語る。

 その次の工程が、伸ばしと広げの作業だ。のし板の上で、手早くめん棒で薄く伸ばしていく。通常は、1キロ程度を伸ばすのがせいぜいらしい。
 それをご主人は、3.5キロ(約一貫)の蕎麦を広げる。帝釈天の参道から見えるように作られた作業場ののし板はそれほど広くない。
 3.5キロを伸ばすと、かなり蕎麦がはみ出るが、それを2本目のめん棒で巻きながら、見事に伸ばす。

 蕎麦打ちも、伸ばしの技術も、先代の父親から受け継いだそうだ。他のやり方を知らないから、大変な技術であっても、今はそれが普通だとご主人は言う。

 蕎麦を伸ばす際中、私は横にいて写真を撮っていた。その間も、いろいろな話しをしてくれるご主人。
 緊張しますかと聞くと、「いや。いつも見られているからね。」と自然体だ。確かに、ガラス張りの作業場は、参道を歩く観光客から毎日見られている。「さすが、職人。」と感じた瞬間だった。

 取材中、試しに切ってみないかと蕎麦包丁を渡された。こま板という当て板に包丁を当てて切るのだが、巾がそろわない。太くなったり、細くなったり。不揃いの蕎麦は茹でて、ご主人が切った蕎麦と比較するように、皿を分けて出してくれた(右の皿が私が切った蕎麦)。
 太い蕎麦は、噛む必要があり、のど越しは悪い。しかし、蕎麦の生地が良いので、味は美味しかった。

   【左、ご主人が切った蕎麦。右、作者】


 次の世代につなぐ「そばの花観察運動」        

「やぶ忠」店内のレジ前に、手書きの取材日記が吊り下げてあった。奥様に聞くと、「そばの花観察運動」だと言う。
 全国そば組合(※)が主催する活動で、全国の小学校にそばの種子を配布し、授業や家庭で栽培してもらう。写生画を募集し、厳正な審査により優秀な作品を描いた子どもに奨学金を贈呈している。
 2018年で第32回を数え、応募数は1324点だった。(そば組合のホームページより)

【組合の月刊誌「麺」で発表された入賞者の作品。ご主人の地元、柴又の小学生も入賞している】

 同そば組合の活動は絵の表彰までだが、さらにやぶ忠のご主人は、地元の小学校の家庭科室で、近所の蕎麦店主も誘って収穫した実を使った蕎麦打ち体験を教えている。

 同店のレジ前に吊り下げてあった手書きの取材日記は、その活動に参加した小学5・6年生が作ってくれたものだと教えてくれた。店も、この日だけは休みにして蕎麦打ちの体験を引き受けている。次の世代の子供たちに蕎麦打ちを伝える。
 それを楽しみしているご主人が、嬉しそうだった。


 あとがき

 取材のきっかけは、今年(2019)の正月だった。自宅マンションの友達(居住者)と柴又で飲んだ帰り、締めに蕎麦を食べようとなり、帝釈天の参道に面した「やぶ忠」に入った。

 その時、取材を申し入れ、早1ヶ月近く経ってしまった。公私に忙殺され、なかなか伺えず、とても気になっていた。やっと休みが取れ、アポなしでいきなり店に伺ったが、快く取材に応じていただいた。
 蕎麦切の体験、その蕎麦を茹でててくれたりと、とても親切にしていただき、日髙さんの暖かい人柄に、感謝しています。

 【やぶ忠の1階にあるテーブル】

 テーブルは大きな檜の丸太を半分に割ったもの。知り合いのお店から譲り受けたと言う。こんなに重いものをスタッフだけで高砂から運んだそうだ。私も、欲しい・・・。

◆取材は、2019年1月26・30日、2月11日「やぶ忠 帝釈天参道店」にて。
◆写真は、2019年1月26・30日、2月11日 


 参考・引用資料
 厚生労働省2005年9月発表「飲食店営業(そば・うどん店)の実態と経営改善の方策」

 ※ 全国そば組合=日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会

ピーナッツ菓子「豆板」のこだわり 《やぶ忠》=葛飾・柴又 鷹取 利典

 そば処の《やぶ忠》、ピーナッツ菓子「豆板」のこだわり
 
 豆板とは、ピーナッツと水飴を煉って、板状にした昔懐かしい菓子である。
 ピーナッツの香りが香ばしく、一度食べたらやめられない菓子だ。蕎麦屋なんだけど、この菓子を自家製にこだわり今も続けている。そこが面白いとご主人が語る。

 そば処の《やぶ忠》でなぜピーナッツ菓子「豆板」を、と疑問をむけてみた。

 始めは、先代の父親さんが、足立にあるお菓子屋から仕入れ売っていた。しかし10年前のこと、菓子作りを廃業されることになった。

 そこで先代の親父さんは、自分が継承したいと考えた。だが修行を依頼するも最初は断られた。
 ご主人曰く「結局は職人気質だ。そのまま終わられたほうがいいと、その職人さんは思ったのだろう。」と語る。
 先代は、半年間、掃除や手伝いをしながら通って、やっと作り方を教わったという。


【昭和に作られた機械。メーカーも「よく残っていた」と感心するほど】

 割れないようにと、硬く作るのは簡単らしい。熱いうちに延ばせば、薄くても割れない豆板が作れると、ご主人は語る。

 平らにする技術は、蕎麦を伸ばす技術に通じている。代わりに包装は多少折り目があってもしかたない。昭和の機械。ときには言うことを聞かなこともあるのだろう。

 それより、中身で勝負。安価で美味しい豆板をみんなに食べてほしいとご主人の気持ちが、強く込められている。

 取材で同店に伺うたび、豆板を買ってかえる。そこで気付いたことがある。日によって、豆板の香ばしさが違うのだ。
 豆板も蕎麦と同じ。毎日作っていても、同じ豆板はできない。

 ご主人は店先で『試食してみてください。今日の豆板ですよ。』と客に呼び掛ける。そう、「今日の出来栄え、今日の味」なのだ。

心を桜が受る 秋山与吏子


 美しく咲いている、桜を見ていると、子供達の入学式の頃を思い出す。

 子供への夢と希望に満ち溢れていた頃、弾む心をそぅと包みこんで、見守りつづけている八重桜。桜を見ていると新鮮なさわやかな気持ちになります、と東立石の中川さん。



 花にはあまり興味がなかったけれど、3年前に桜吹雪の真っただ中に遭遇し、それ以来は桜吹雪の虜になり、今年もその幻想の世界に、浸りたく遠回りをして来てます。

(花びらで首飾りを作るの)と。
 小さな女の子の手のなかには、舞い降りた桜の花びらは一歩ずつ首飾りに近ずいている。桜への思いは首飾りから始まり、その想いは四方八方へ深まって行くような気がします。


 家族一家で桜の花の美しさを見物に来て、花の美しさを年々見て、子供達が大きくなった時、家族皆で花見見物をしたことを、心の何処かに残してあげたい、と若きパパが熱く語って下さつた。

 私達は、2年前に上野の桜を見に行き、そこで知り合いました。
 いいお付き合いが出来、今年はゴールいんになるかも。私たちを結び付けた、満開の桜に「いえー 、 幸せたよ」と叫びたいと、初々しいカップルは溢れんばかりの笑顔で語ってくれた。



心を桜が受ける:PDFですべてが見られます。

京成立石駅(葛飾区)は変わる いまはむかし  秋山与吏子

昭和43年の立石駅

  京成電気軌道開業 大正元年(1912)11月3日に開業。
  京成電鉄押上~伊予田(江戸川)支線、曲線(高砂~柴又開通)



立石バス通り

昭和27年頃(1952)

  上野広小路行きのバスがはしる。立石大通り、終戦の頃のバスが懐かしい、現在は奥戸街道と呼ばれている


英語で駅名の書かれた立石駅

  昭和22年(1947)キャサリン台風で利根川が決壊し、その泥水が二日後に立石を襲ったと主人が言っていた。
  立石駅が英語で書かれているなんて、とても信じられない。終戦後のアメリカかぶれを物語っている。


現在の立石駅

  立石駅。どこから来たのか中年夫婦地図を見ながら、何処にしようか、昔の名残のある立石か、何処にする。
  えきは夢と希望の出発点です。


 「昭和が残る立石」も、高架線工事が進んでいます。現在の立石駅も、ここ数年のうちに、「いにしえの駅」なります。

秋の短歌大会 秋山 与吏子

願いのかなった人たち



雷鳴に負けじとひびく蝉の声
命の限りを思い鳴くのか

高点歌唱賞  植木一江 さん(写真・右)


餓ゑを知る今も直らぬ夫の癖

明日のためにと一口残す

  高点歌賞  植木洋子 さん(写真・左)



点滴の車を押して廊下行く

見舞いの夫(つま)を見送るために

講師賞 高点歌賞

   田中弘子 さん



秋の日に
干す白足袋の
かがやけり
金婚式の
想ひとどめて

高点歌賞  安部巳佐子 さん

欲張らぬ
余生ときめて
波立てず
とは言え少し
おもしろくなし

「講師賞・高点歌賞」

宮田昌武 さん



秋の短歌大会  PDFで作品のすべてが見られます

「ナイチャーも同じシマンチュウ」民話の宝庫・宮古島一周の旅 隅田昭

まえがき

 記者の祖父は日中・太平洋戦争で中国を転戦したあと、宮古島に3年ほど従軍した。

 葛飾の正月は何処も居酒屋が開いておらず、祖父は家で夜遅くまで呑んでいた。「戦争はつらかった。ただ宮古島だけは、いい思い出だ。死ぬ前に一度行ってみたい」というのが口癖だった。
その祖父は十年前に亡くなり、ついに宮古行きは叶わなかった。

 今回は七草明けに、記者は長期休暇がとれたので、日頃のリフレッシュも兼ねて、取材半分、観光半分の宮古ひとり旅を計画した。


 伊良部大橋の記念碑ちかくで、たまたま見つけた珍しい岩である。記者は勝手に「亀の子岩」と名付けた。

 観光ガイドには載っていなかったが、取材を進めると、宮古は民話の宝庫でもあり、将来に残すべき多くの知恵にあふれていた。

*短編「結び岩」

*のんべーの楽園

*雨でも収穫あり

*現代に通じる話

*なんくるないさー

 ノンベーの楽園

 宮古に着いた日は22℃で、おだやかな天候に恵まれた。

 空港のレンタカーショップで従業員に、「観光客が知らない所に行きたいのですが」と聞き込む。
まず腹ごしらえだと、情報収集のため、市内でいちばん大きなショッピングモールまで出発した。

 イオンモール内の『なびい食堂』で、名物の「宮古そば」に舌鼓をうちながら、女性店員の『国仲さん』に話をうかがう。
「なびい」とは、村人が集まって食材を持ち寄り、ひとつの鍋を囲んで楽しく呑みながら、歌ったり踊ったりする場という意味らしい。

 いま店で流行しているのが、「なーふぃー」という風習だそうだ。宮古にはなかったが、沖縄本島から移住した人が定着させたという。

 赤ちゃんの首がすわり無事に育ったら、近所の人や友だち、親類らを集め、赤ちゃんの名前を宴席でお披露目する行事だそうだ。

「宮古の人はおおらかで、イベント好きですから。なにかと理由をつけて、大勢で騒ぐんですよ。まあノンベーにとっては、最高の場所じゃないでしょうかねえ」
 島内では古希で赤いチャンチャンコを着て、特大ハンバーガーを切り分け、祝う団体客もいる。英語がペラペラの高齢者も多く、欧米の観光客と仲良くなる方もいるらしい。


 雨でも収穫あり
 2日目、3日目はあいにく、はげしい雨と風に見舞われた。

 宿泊先『宮古温泉ホテル』の女性従業員で長野から移住した『竹内 望さん』から聴いた。
「民話や史実を調べるなら、島にひとつしかない『城辺(ぐすくべ)図書館』ですかね。池間島(いけまじま)と、来間島(くりまじま)にも橋ができ、車で行けますが、大神島(おおがみじま)は漁船でしか行けません」
 スコールのなか図書館を訪ねると、職員が快く応じてくれた。海軍兵舎が近隣にあったらしく、慰霊塔がひっそりと天に伸びている。

「宮古は平坦地ばかりです。この丘は見晴らしが良く、戦時中は敵の偵察に使っていました。村人の戦死者が多く、食糧不足で苦労されたのですが、軍人や進駐米兵とは良好な関係だったと聞いています。民話を知りたいなら、食堂か土産物屋さんに訊けばよいでしょう」

 4日目にようやく晴れ間がのぞいた。前浜村近くの食堂で宮古ヤキソバを食べ、知りあった店員の「上地さん」が語った。
「伊良部島(いらぶじま)と下地島(じもじじま)にいけばいいや。あたししゃ、伊良部の出だけど、通り池が有名さー。ママッコ伝説とかね。いまは飛んでないけど、まえはパイロットの訓練もしてたさー。ほかの島はなーんもないよ。サトウキビとか、カツオ節つくるぐらいだわ」

 現代に通じる話

 通り池は下地島の西にあり、天然記念物に指定されている。

 大小2つの円形の池は地下でつながっており、天候や水質でさまざまな色彩に変化する。
多様な魚介類が生息しており、ダイビングスポットで人気も高いが、上級者向けである。
「ママッコ伝説」はこんな内容だ。この地に住む漁師が妻に先立たれ後妻をもらった。やがて後妻は先妻の子をうとましくなり、寝ていたその子をそっと池に沈める。ところが実際は我が子だった。絶望した継母は池に飛びこみ命を絶ち、しばらくの間は幽霊が出たという。

 通り池近くの『ホテルていだの郷』で雨やどりをして、コーヒーと軽食を注文し、マネージャーの『川口 信也さん』から話を伺った。 

「以前は修学旅行生ばかりでしたが、最近はアジア近隣の観光客が多いですね。私は奈良の出身です。大学卒業後は那覇に赴任し、そのあと宮古に定住しました。
 昔は内地から来た者を『ナイチャー』と呼び、好奇な目で見られていました。でも近頃は頑張って働いたせいか、同じ『シマンチュウ』と思われています。沖縄本島の方も内地の者も、みな島国育ちですから」
 私たちも外国人労働者を、色眼鏡で見ていないだろうか。しばし考えさせられた。


短編「結び岩」PDF

*写真・文章・編集: 隅田 昭

*撮影:平成31年1月15~18日

*発行:平成31年2月10日

短編「結び岩」・ 民話の宝庫・宮古島一周の旅より 隅田 昭

「与那覇前浜村(よなはまえはまむら)」に、クインというたくましい男と、ユウナという、うるわしい女が暮らしていた。
 たがいの親は裕福な家に住み、顔見知りだった。そこで、ふたりを結婚させようと話を進める。ふたりは恋人がいなかったため、親のねがいに従った。そして20歳どうしで結婚し、ともに村いちばんの働き者だと評判になる。

 クインは漁師で、沖にでればサバニと呼ばれる小舟が、いっぱいになるほど魚をとった。ユウナも機織りが得意で、着物の出来栄えがすばらしく、町から注文が来るほどだった。 
 ところが何年経っても、ふたりには子どもができない。

 たがいの親は「はやく跡継ぎがほしい」と催促するが、ふたりの仲は日に日に悪くなり、困り果てるばかりだった。

 3月になったばかりのある日だった。たがいの親はふたりに対岸の「来間島(くりまじま)」まで、磯遊びに出かけようと持ちかける。
 村の長老に相談して、その島に古くから伝わる「結び岩」という御嶽(ウタキ)に願をかければ、子宝に恵まれると聴いたからだ。
 クインの父は長老の言うとおり、大きなくり舟を用意していた。
その日は雲は出ていたが日差しもあったので、6人は朝から舟をこぎはじめ、昼すぎにようやく来間島の岸までたどり着いた。

 島に着くと両親は、クインとユウナに磯釣りをすすめた。しかし、相変わらずふたりは、目も合わさず、口もきかずに竿を垂れている。
 夕方ちかくになり、あつい雲が垂れこめ、雷鳴もこだました。
クインの父が険しい顔をして、「あすの漁が心配だから、くり舟ですこし沖にでて、潮の流れを見にいく。親どうしでだいじな話もしているから、おまえ達はしばらく、あそこの岩陰で待っていなさい」と、いちばん大きな岩にを指さした。
 それは長老から聴いていた、あの結び岩だった。

 
 ふたりは親たちに言われるがままに従う。たがいのからだは離れたまま、じっと様子をうかがっていた。
 とつぜん大きな雷が光った。舟はみるみる沖に向かって、進んでいくではないか。
「おれたちを残して、なぜ行ってしまうのですか」
 クインはありったけの声をふり絞った。
「おいていかないで。たすけてください」
 ユウナも声をあらげ、舟に向かって叫ぶ。

  しかし、何も聞こえないように、舟は海の彼方に消えてしまった。
「おれたちは親に見捨てられた。ここで生きていくしかない」
「こんな何もない、離れ小島でなんか、暮らしていけないわ」
「こうなったのも、子どもをつくらなかった、俺たちが悪いんだ」
「いまそんなことを言っても仕方ないわ。忙しかったじゃないの」
 
 ふたりはそれから黙ったきり、沖をみつめ、ぼう然と座っていた。
 しだいに大粒の雨がふり出し、北風がかたい岩肌を叩きつけ、白波がはげしく舞い上がる。
 見知らぬ鳥が鳴き、獣のうなり声も聞こえる。ふたりは岩深くまで逃げこみ、恐ろしさに震えながら、じっと耐えつづける。

「うすい服しか着てこなかったから、このままでは凍えて、朝までに死んでしまうかもしれないわ」
 ユウナはながい黒髪をかき上げ、頬に大粒の涙をながし、からだを小さく丸めた。
「だいじょうぶだ。おれが守ってやる。すぐに温めてやるから」
 クインは厚手の作務衣(さむえ)を脱ぎ、鍛えあげた胸板を突きだし、ユウナの肩にそっと掛けた。
 クインはユウナの背中をさすり、口から白い息を吐きつづける。
 ユウナは作務衣の袖を握りしめ、クインにじっと目を合わせた。
 
「どうした? 苦しいところでもあるのか?」
「いえ。これは、あなたにはじめて織った、作務衣でしたね」
「ああ。これがいちばん温かい。漁のときはいつも着ている」
「ずっと大切にしてくれたのね。ごめんなさい。わたしは、意地をはっていたんだわ。働き者のあなたに、負けてはならないって」
「いや、あやまるのは、おれのほうだ。おまえがいつも家にいないから、ふてくされていた。暮らしが楽になったのはおまえのお陰だ」

 ふたりは後悔する一方で、はじめて心が通ったと感じ、かけがえのない夫婦になれた喜びをかみしめる。
「もしここで命をおとしても、あの世では仲よく暮らしましょう」
「ああ、もちろんさ。ほかに、誰がいるんだ」
 ふたりは唇を重ね、嵐の音が聞こえぬほど、つよく抱きあった。

 やがて嵐は静まった。空から太陽が昇り、波はすっかり穏やかになった。色とりどりの小鳥がさえずり、風に乗った蝶が楽しげに舞う。白い砂と碧い海が、朝の日差しにきらめいている。
 沖からくり舟とサバニが、浜に向かって近づく。それぞれの舟には、たがいの親が分かれて乗っていた。
「ああ、神さま。わが子は無事でしょうか」と、母が声を震わす。
 父が岩に向かって指さし、「おい、あそこにいるぞ」と、叫んだ。

 ふたりはひとつに重なり、ぐったり倒れている。
 両親が岸に上がり、結び岩に近づく。するとふたりは岩陰で、たがいの手を握りしめ、おおきな寝息をたてていた。
 クインの父がサバニと結び岩を、荒縄でしっかり括りつける。両親は御嶽に感謝の祈りをささげたあと、くり舟で沖まで引き返した。

 ※ 宮古民話「夫婦結びの岩」などを参考に、記者が創作しました