かつしかPPクラブ

歴史&現代の京都の町を取材で歩く  浦沢 誠(下)

 京都取材は、2日目(5月16日)です。
 観光でなくも、じっくり取材できる。写真が撮れる。それで決まったのが、銀閣寺、哲学の道(約2km)、南禅寺です。

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銀閣寺で管理の仕事をしている職員の方に、境内の美しい波線の銀沙灘に関する文化と、台形の『向月台』の作り方について取材する穂高先生です。

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 滋賀県の琵琶湖から水を引いている「水路橋」は明治23年に竣工したものです。
 近代化に突っ走っていた時代だけに、土木技術は進んで、巨大な「水路橋」が高架で、南禅寺のなかを通り抜けています。

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 平安神宮の赤い大鳥居。目立ちますよね。高さ24m、幅18mの大鳥居です。

 建設は平安時代ではありません。

 昭和3年に、昭和天皇御大礼の記念事業として造られました。

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 コロナ禍から解放されて、さすが京都です、修学旅行生が目立ちました。

歴史&現代の京都の町を取材で歩く  浦沢 誠(上)

 2022年(令和4年)に、かつしかPPクラブで、京都を取材旅行にでむました。

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 京都市役所のまえにきたならば、桂小五郎像にいこうよ。元長州藩屋敷のあった場所です。
 禁門の変で、敗戦濃厚になった長州藩士らが、藩邸を自焼しました。いま、京都ホテルオークラです。

 その敷地のなかに桂小五郎の像が立っています。

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 鴨川と三条大橋。このネーミングだけでも、気持ちは幕末の志士たちに近づけます。

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 先斗町通りにて。

『富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も」という『お座敷小唄』が思い出します。
 それは昭和生まれの証拠なのかな。

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 四条花見小路の付近で、昼食の店をさがしまわました。結構、あちらこちら、と。
「ここにしよう」「この店は、あたりだね。さがし甲斐があったね」
 おもわず笑いが出てきました。

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 今回の最大目的地は、予約して入場できる「京都仙洞御所(せんとうごしょ)」です。

 太上天皇・法皇など、主に退位(譲位)した天皇の御所です。ただ、平成天皇はここでなく東京です。

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 京都仙洞御所の池の縁に佇む、幻想的な「青鷺」です。

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 三条河原町通りの、旧池田屋跡は、いまは居酒屋『池田屋』です。
 ここを夕飯場所に決めました。

待望の京都へ、いざ取材旅行へ =  蘭佳代子

 かつしかPPクラブは、年に一度はきまって遠距離の取材に出かけていました。思いつくままに列記すると、新潟の凧揚げ大会、鹿児島の歴史をたずね、広島および瀬戸内海の島々巡り、岩手県の3.11被害者をたずねて、と北から南へと歩いていました。
 
「足で書く」これをモットーとしているだけに、取材は写真と記事と両面で展開しています。

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 世界的なコロナ禍の下で、遠距離も、東京都内においても、ほとんど取材ができなかったので、じつに開放感に満ちた旅行です。

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 最近は新撰組人気で、「池田屋事件」が脚光を浴びています。かつては薩長史観、さらには皇国史観から、新撰組は悪の権現に扱われたそうです。

 幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、尊攘派の志士を大勢殺害したかどで。

 きっとおじいちゃん・おばあちゃん世代は、「新撰組なんてね」とおおむね嫌いでしょうね。
 
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 宿泊予定地のホテルに、荷を預けてから、歩きはじめて数分で、「あれ。ここに本能寺がある?」妙にひっそりした門です。

 織田信長が明智光秀に殺害された、あの有名なお寺です。
「ほんものかな。子寺かな」
 そんなことを言いながら、まずは四人で境内に入りました。実は裏門でした。

 広い境内と、いまでも信長人気がわかる本能寺で、大勢の方々が参拝していまいた。歴史の流れ、というか、戦国時代の大事件を感じとれた一瞬でした。

 写真は本能寺の正門です。

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  今晩はここに決まり。食事と軽くアルコールを入れて、「あすは何処にまわりましょうか」と語り合う、楽しいひと時です。

≪東日本大震災≫ 10年間の思い  ① 郡山利行

【 1.はじめに 】

 2011(平成23)年3月11日、東日本大震災(以下、大震災または震災)の発生から、10年の歳月が流れました。筆者にとって大震災とは何だったのだろうと考え、この10年間を振り返ってみました。


 大震災発生の日の情報は、テレビ映像からの衝撃で始まりました。

 大震災発生の日の午後2時46分、筆者は、葛飾区立石6丁目にある区立のシニア活動支援センターで、高齢者を対象とした『回想法』のボランティア活動をしていました。
 地震の揺れが続いている時に、『窓ガラスから離れて、部屋の壁のほうに移動して!』と、回想法に参加されていた方々に叫んだのを、昨日のように思い出します。
 付近の街の状況は、特に異常が見られませんでしたが、すぐ近くの京成線は、高架でもありましたので、恐らく当分運行できないことが予測できました。また道路にも異常はなかったようですが、バスの運行の状況まではわかりませんでしたので、高齢者の方々には、『安全を確認しながら、ゆっくり歩いて帰宅してくださいね』と、見送りました。

 筆者は、区の中央を流れている中川の右岸道路を、自転車で帰宅しましたが、河川災害は生じていませんでした。

 その後は、聴取していたラジオ番組の被災地支援イベントや、筆者が居住している地元町会の、支援行事への参加がありました。
 また、かつしかPPクラブでの活動を経て、福島県飯舘村の菅野村長への取材と、津波被災地の2年半後の状況取材を実行しました。そして、これらの行動で感じた体験は、風化させないために、この10年を1冊に記録しました。

≪写真説明≫  『巨大津波襲来』宮城県名取市 2011年3月11日
  第52回2011年報道写真展記念写真集より
   【3.11 津波襲来の瞬間】特別賞(新聞協会賞) の1枚です。

【 2.TBSラジオ番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』 】 

 番組途中で呼びかけられた、乾電池電源式小型ラジオを、被災地の避難所に届けるキャンペーンに、呼応しました。

 2011年3月18日午前11時、筆者は、東京都港区赤坂にあるTBS本社前広場の、特設会場に駆け付けました。持参した物は、イヤホン式小型ラジオ、非常用ライト付きラジオ(単2乾電池4個)、強力ライト(単1乾電池4個)、中型電卓、ポケット型電卓でした。すでに150~200台の様々なラジオが、多くの人達から届けられていました。


【 3.地元中之橋町会の震災避難者支援活動への参加 

 福島県からの避難者が、葛飾区水元学び交流館に入館しました。その直後に、2011年3月20日、避難者が希望する品目メモが、水元地区の民生員連絡網に、FAXで送られて来ました。

 その翌日、筆者は次の物品を届けました。
 ハンガー、歯ブラシ、ひげ剃り、爪切り、洗濯ばさみ、ひも、便せん、鉛筆、消しゴム、コピー用紙、米、食用油、しょう油、食料品若干など。

 
 同年4月9日(土)には、筆者居住の葛飾区水元中之橋町会が、上記水元学び交流館で避難生活中の、16世帯約50名の、昼食炊き出し活動を行いました。当日は、区と町会連合会の役員の見舞い挨拶もありました。筆者は地元町会長から、記録写真撮影を依頼されました。


 4.東電福島原発事故からの避難 鈴木會子(あいこ)さん 】

 福島県双葉郡楢葉(ならは)町は、福島第二原発の西側に位置します。その町から葛飾区四つ木地区に避難してきた鈴木さんは、2012年から「かつしかPPクラブ」に入会して、同年2月から2013年5月まで、6回の課題作品を作成しました。パソコンは使わず、手書き手作りの冊子は、鈴木さんの人柄そのもののような、きりりとした取材記事でした。

 2013年2月19日、立石居酒屋≪あおば≫にて。右から二人目が鈴木さんです。


 2013年5月19日、『ここに、この人 ありがとう』の冊子で、鈴木さんは四つ木地区でお世話になった人達への、お礼の気持ちを記事にしました。
 この年の夏に、鈴木さんは、楢葉町に近づいた、福島県いわき市へ移住しました。短い期間の出会いでした。クラブ員として、思い出深い方です。

 
【 5.飯舘村全村避難 菅野典雄村長への穂高先生取材に同行 】

 東京電力福島第一原子力発電所の、津波による災害直後、低気圧による南東からの風は、原発災害発生現場から北西に30~50kmも離れた飯舘村に、放射能を運んで飛散させました。この時には村人達は、『うちの村は原発とは全く無関係、だから絶対安全だ』と、信じ切っていました。

 ところが、2011年4月10日の夕方、菅野村長は、内閣の福山官房副長官から電話で、飯舘村は【計画的避難区域】に設定されたと聞かされました。これは、1ヶ月以内に全住民が、村から避難することという通告でした。村役場の移転は、同年7月から2016年6月までの、5年間でした。飯舘村の、輝かしい小規模農村作りの、努力と成果が、全て消えました。

 2013年7月4日(木)午後4時から、福島市飯野町に移転していた、飯舘村役場飯野出張所での取材でした。
菅野村長は、「放射能による災害と、地震・津波による災害には、大きな違いが二つあります」と、語り始めました。
 「一つ目は、地震・津波での災害は、家族を亡くした、家が流失した、家が壊れたなど、目に見える物理的災害です。重い軽いという表現ならば、放射能の精神的災害より何十倍も重いです。でも、何年か経れば、必ずゼロからのスタートができる時がきます。しかし私達は、どれ位のマイナスの規模かわかりませんけれども、ゼロに向かって、おそらく世代を超えて何年もかかって、不安と戦いながら、そしてまた汚された土地での生活苦とも戦いながら、生きていかなければなりません。そのことが、放射能による災害が、他の物理的災害と全く違うことです」

「二つ目は、地震・津波などによる災害は、家族も地域も自治体も、復興への力が結束して、『力を合わせて頑張ろう』となります。
 ところが放射能では、それと全く逆で、心の分断の連続となってしまうことです。家族の中でも、年寄りと小さい子供を持った若い人達と、考え方がぜんぜん違います。
 夫と妻とも違ってきて、かなりの数の離婚にまでなっています。同じ自治体の中で、放射線量が高い所と低い所で、避難先から帰る時期が違い、賠償金の額まで違ってくるので、大きな問題になります。また、避難生活は賠償金で行われていますので、労働への意欲がどんどんなくなりつつあります。農村で育った人達が、突然都市部で生活を始め、都会での便利さに急速に慣れてきたので、身も心も病んできているのが現実です」


 菅野村長が語った多くの事がらの中で、東日本大震災での、原発放射能とそれ以外の災害とでは、村の人々がこうむった精神的被害の決定的な違いという対比が、強く心に残りました。    そのほか避難先を決めた時の事、村内各地区での意見交換会の様子、村の将来に向けての事などを、約束の1時間の中で、熱く語りました。
 穂高先生は、質問とメモ筆記に集中されていましたので、菅野村長は筆者に向かって語り続けられました。その目には、穏やかさの中の力強さを感じました。
【つづく】

≪東日本大震災≫ 10年間の思い  ④  郡山利行

8. 大災害から生まれた教訓は、将来の生命を守る貴重な財産。災害は忘れていた明日、あなたの身に起こるかもしれない


宮城県気仙沼市立小泉小学校にて≫ 

 同小学校の正門横に建てられた、【津波の教え】碑です。碑の左下の表示板には、次のように書かれています。

 未来の人々に 2011年3月11日午後2時46分、

 東日本大震災が起こり、大津波が太平洋沿岸に

 襲来した。気仙沼市小泉地区は大被害を受け、

 多くの命と家を失ってしまった。学んだことは、

 「地震があったら津波が来る」。ともかく上へ上へ
 と逃げること。「てんでんこに逃げよ」。

 その教えを伝えたい。
 

≪7月6日に宿泊した、南三陸温泉、ホテル観洋≫

 同ホテルは、大震災から7日目の2011年3月17日に、宿泊客全員のチェックアウトを完了させると同時に、家を流失したホテルのスタッフや関係者の、避難生活所になりました。また、多くのボランティア団体やスタッフが、ホテルを拠点として活動し始めました。
 同年5月5日から8月31日までは、南三陸町の地元被災者約600名の二次避難所となり、南三陸町地域での、被災地対応総合拠点の役割をも果たしました。
 夕日写真は、宿泊した日の、虹もかかった夕暮れです。この光景に、大震災で亡くなられた方達への冥福と、復興への期待を、素直に念じました。


【 8.あとがき 】


 写真は上が宮城県女川町、下が岩手県池田町です。

 巨大な津波の容赦のない力を、目の当たりにしました。三陸沿岸津波被災地の、典型的な光景でした。
 大震災発生の日から2年4ヶ月、復興に向けての被災跡地の整備が、行われていました。豊かな海に沿って生きていく人たちにとって、新しい歴史になるような、居住空間ができることを願いながらの、取材行動でした。


【追悼 犠牲になられた方に、お悔み申し上げます】


【関連情報】

 上記9冊は、2011年4月20日から、同年8月5日までに出版された、大型の東日本大震災の写真誌です。各出版社の特徴に基づき編集制作された本です。画像としての記録を自分の手元に置いて、時折眺めながら後世に残したいとの思いで、買い揃えました。本のページを開くと、10年前の現実が、目の前に広がります。

≪東日本大震災≫ 10年間の思い  ③ 郡山利行

≪岩手県大船渡市にて≫

 かつての大船渡駅 PCネット画像より
 JR大船渡線、大船渡駅があった駅前の、ユニットハウス軽食堂のお姉さんが、「それまでの駅は、交番も一緒になった建物だったの。それが駅前通りを100mほど流されて、国道45号線の交差点で止まったの。駅と交番が国道を塞いだって、皆で笑ったのよ」と、そして、近くの大船渡市商工会館や周りの建物には、流木が矢のように突き刺さって、針ネズミみたいでしたよと、ほがらかに語ってくれました。
  

≪岩手県釜石市の海岸にて≫

 小さな入り江の集落です。海沿いの家屋が、津波で無くなってしまった光景です。似たような状況が、沿岸地で数多く見られました。


≪岩手県下閉伊郡山田町にて≫

 アパートの2階まで津波被災した、海沿いの住宅地です。
 バラの花が、津波に負けず、この年も勢いよく咲いていました。


≪岩手県宮古市の南側神林港にて≫

 買い物帰りの高齢の女性が、「この堤防をね、2,3メートル超えて海が来たのよ。私の家はここからすぐ近くでね、1階がそれはそれは見事に柱だけ残って、すかすかになったわ」と、その後の避難所生活の事などをも含め、明るく語ってくれました。

              【つづく】

≪東日本大震災≫ 10年間の思い  ②  郡山利行

【 6.穂高健一先生『海は憎まず』『二十歳の炎』を出版 】

 2013年3月11日、穂高先生は、震災直後から現地取材しての著作『海は憎まず』を、2年後の日に、日新報道社から出版しました。
  本書の帯では、当時日本ペンクラブの専務理事だった、吉岡忍さんが、『災害文学!』と感嘆しました。

  2013年2月19日、立石居酒屋≪あおば≫にて。穂高先生は『海は憎まず』の表紙原稿の刷り上がりを、喜び笑顔で、出久根達郎さんに見せました。

 2014年6月30日に、日新報道社から出版された『二十歳の炎』は、芸州広島藩の高間省三の小説です。
 高間省三の墓は、東電福島第一原発から4kmも離れていない、自性(じしょう)院にあります。穂高先生は、許可を得て、放射能防御の装備を身に着けて、墓の取材をしました。


 大震災発生後ただちに、現地取材に取り組んだ穂高先生の行動を知り、筆者も一人の土木技術者として、津波災害をこの目で確かめなくては、との思いがつのりました。

【 7.東日本大震災 津波被災した三陸海岸沿岸の取材ドライブ 】

 2013(平成25)年7月6,7日、大震災の日から2年4ヶ月経った時に、筆者は宮城県の松島から岩手県の宮古市まで、約350kmの、津波被害沿岸の取材に向かいました。それは、巨大津波による被災とその後の現況を、この目で確かめたいとの、強い思いでした。

≪岩手県上閉伊郡大槌町にて≫
 役場の壁時計は、津波が襲って来た時刻、午後3時20分頃で止まったままです。
 大槌町の旧役場です。震災当日、正面玄関横が災害対策本部テントでした。活動を始めたら津波が押し寄せて来て、町長以下40名の役場職員が亡くなった所です。
 建物屋内写真の木製カウンターは、とても立派な物でした。職員と住民との談話が聞こえてきそうな気がして、しばらくたたずみました。

≪宮城県気仙沼市にて≫
 津波被害を受けなかった、JR気仙沼駅前の観光案内所受付の若い女性が、『有名な、あの船、もうすぐ解体がはじまりますので、必ず見ていってくださいね』と、元気な大きい声で教えてくれました。

 気仙沼港岸壁から、約800mの内陸に流されてきた、第十八共徳丸、330トンです。かつてこのような光景を、見たことも想像したこともありません。現実にこの目で見て、その場に立ったことが信じられません。


≪宮城県牡鹿郡女川町にて≫

 地域医療センターの駐車場から、女川の街の全貌を見ることができました。

 筆者が駐車場の売店で、『この場所からは、どの付近まで津波が来たかを、眺めることができたのですか』と聴きましたら、『この売店は、天井まで水が来て、流されちゃいました』と、女性店員さんがほがらかに答えてくれました。

 津波で横転した、七十七銀行女川支店です。十二名の銀行職員が亡くなりました。

 津波で被災された人達は、飲み水でつらい思いをされたようです。慰霊祭檀には、缶ジュースやペットボトル等、飲み物がいっぱいでした。


 道路斜面写真の、右上にある表示板には、『2011.3.11.東日本大震災 津波浸水深ここまで』と書いてあります。

≪岩手県陸前高田市にて≫

 かつてその美しさで有名だった海岸線の松が、大震災の津波で、市街地を襲った凶器となりました。

 その日から2年4ヶ月、その残骸が、むざんな街の跡地に、まだ山積みされていました。

≪宮城県 JR気仙沼線、清水浜駅付近にて≫

 
 鉄道線路の、新設工事現場ではありません。海から200mほどの距離にある、被災したJR気仙沼線の線路です。津波は、レールの軌道は跡形もなく、土で盛られた線路の路体まで、そっくり全部、水で崩して流失させたのです。


≪宮城県石巻市門脇町、称法寺にて≫


「もともとお寺の本堂は、空間が大きいがらんどうですよね。そのためこのお寺は、まともに被災してしまいましたね。私らが仕事をしているお墓の修復でも、びっくりするような重たい石が、信じられないくらい遠い所に流されています。私の家は、ここから少し離れていますので被災しませんでした」と、墓石職人さんが、一緒にお寺を眺めながら語ってくれました。

≪宮城県石巻市立湊第二小学校にて≫

 
 津波で被災した開口部の保護合板に書かれた、児童達の絵やメッセージです。津波を受けたにもかかわらず、故郷の海は憎んでいないようです。

 同校の校歌碑です。校歌の一番から三番までの歌詞の後半は、3行の同じ言葉で、高らかに唄われています。
 われら湊の若い芽だ
 ほら海が
 太平洋が呼んでいる


 同校は、2014(平成26)年4月、同市立湊小学校に統合されて、閉校となりました。

【つづく】

東京で二軒のみ 手作りの久寿餅 (2/2) 鷹取 利典 

   久寿餅を食べる女性  モデル:筆者の娘


● 久寿餅は、和菓子で唯一の発酵食品                     

 関西風「葛餅」は、葛粉と砂糖を水で溶き、火にかけ練っていくと、とろりとした半透明になる夏の菓子である。吉野葛を使ったものは高級品だが、家庭でも市販の片栗粉を使って作れる。

 関東風「久寿餅」は、葛は使わない。小麦粉グルテンを分離させ、浮き粉(でんぷん質)を長期間発酵させて作る。そう、久寿餅は、和菓子で唯一の発酵食品。だから、納豆やチーズなどと同じで、独特の風味と酸っぱい発酵臭がある。発酵に使う菌は、善玉菌ラクトバチルス乳酸菌。植物由来の乳酸菌で、久寿餅を食べるとお腹の調子が良くなる、とも言われるのは、その理由だ。

 保存の問題から昔は冬しか作られなかったが、今では通年作られている。しかし、無添加で 作ると日持ちしない。消費期限が2日とうたう店が多いのはそのせいだ。



   久寿餅と売り場「東京で二軒のみ」のポップ

「久寿餅」の字は、江戸時代後期、現在の東京都の東部で作っていたことから、葛飾郡(下総国)の「葛」に由来して、関西の葛餅と区別するため「久寿(くず)」の字を当てたと言う説がある。


 また、天保(1830~1840年)のころ、麦の産地として知られていた川崎に久兵衛という者がいた。濡れ損じた小麦粉を樽に移し放っておき、翌年、取り出してみると純良なでんぷんが沈殿しているのを見つけた。
 それを蒸しあげたところ、風変わりな餅になった。久兵衛の「久」の字に、無病長寿を記念して「寿」の字を付け、久寿餅としたと言う説もある。



 
 川崎大師周辺には、久寿餅の店が多い。それは、かつて化学調味料工場が近くにあって、製造工程で久寿餅の原材料になる小麦でんぷんが、副産物として多くできることから、安く手に入ったからという話もがある。
 
 現在、久寿餅を作る多くの店は、生麩の製造工程でできる小麦でんぷんを使っている。出所はどちらでも、副産物を有効に使った昔の人の知恵はすばらしい。


● 洋菓子と和菓子のコラボ               

 親の背中を見て育つとは、このことか。息子さんの石井久喜さんは、京都の和菓子店「仙太郎」で4年間修行した後、100のレシピも抱え戻ってきたのは、5年前だ。仙太郎の和菓子は、ただ美味しいだけではない。体を養う正しい食べもののみが本当の意味でおいしいとの考えだ。

   息子さんが作る「米米ロール」


 その考えを作品にしたのが、「米米(こめこめ)ロール」だ。カステラ由来の伝統製法で作る米粉の生地と、生地に振りかけた和三盆糖をバーナーで一気に炙り、香ばしいおこげのような和の風味を加えるところは職人技だ。
 和と洋の知恵とがコラボした逸品だ。


  《あとがき》                       

 かつしかPPクラブに入会し早1年が経った。取材は5件になった。その取材も一回でまとめ上げることはない。
 文章化すると疑問点や聞き漏らしたことに気付き、また取材に伺う。数回通ううちに、「次は、ここに取材に行くと良いよ。」とか、「この人と知り合いになると、柴又のこと教えてくれるよ。」などと話してもらえるようになる。今回取材させてもらった石井さんをはじめ、人情味溢れる人たちに出会えたことに感謝したい。

 
   参道入口に掛かる看板と提灯 
  

 取材の最後、ご主人に対して幸せですねと言った。京都の名店で修業をした息子さんが店を継いでくれて。その息子さんが「い志い」の和菓子に新風を吹き込んで、先代を超えようと頑張っておられる。

 今、多くの商店は後継者がいないため、年老いた店主が辞めれば閉店となることが多い。原因は、経営だけではないはずだ。結婚せずに子供がいない店主もいる。商品と社会のニーズの不一致など原因は様々だ。
 石井さんが、『10年後、いや5年後に、この参道のお店はどうなっているんだろうと。』とつぶやいた一言が印象的だった。

                     【了】    

東京で二軒のみ 手作りの久寿餅 (1/2) 鷹取 利典 


 帝釈の天参道に

   昔の質朴な風情あり


    帝釈天参道に面する店舗と屋根の看板    


 《まえがき》

「くずもち」と言えば「葛」と想像されるが、葛粉から作る関西風「葛餅」と、小麦粉を発酵させた関東風「久寿餅」とがある。
 どちらも黒蜜やきな粉をかけると一層美味しくなる。

    盛り付けた「い志い」の久寿餅

 関東風「久寿餅」の製法は、とても手間と時間が掛る。

 半年、1年と発酵させた小麦粉でんぷんを、さらに分離するため何度も水を入れ替え、型に流し入れ蒸篭で蒸す。東京都内の「久寿餅」を扱う店のなかで、昔ながらの工法で提供する店は数少ない。その一軒が、葛飾柴又の参道に店を構える和菓子「い志い」だ。


● 「い志い」の久寿餅の始まり              

「い志い」の久寿餅は、今は亡き二代目ご主人が、戦後、食べ物に関わる商売をしたいと茶屋を開業し、そこで提供したのが始まりだ。

   昭和58、59年当時の店舗


 現在、三代目のご主人の石井久夫さん(昭和22年生まれ)ご夫婦と、京都の和菓子店で修業された息子さんご夫婦と四人が切り盛りされている。

 久寿餅は地味ではあるが、手作りで昔ながらの味がする。そして手間が掛かるが、今も手作りにこだわり、その味を守り続けている。

「い志い」は、江戸時代 文久二(1862)年が創業という。創業前までは、何代も続く呉服店だった。屋号は「以志ゐ呉服店」と言った。

 そして、現在の建物は築約200年の木造で、江戸の商家建築の特徴である「出桁造り(だしげたづくり)」である。さらに前土間、揚戸(あげど)の出入り口も残す。重厚な佇まいが、和菓子店に似合っている。


● 久寿餅づくり                     

 久寿餅作りは、まずネタ作りから始まる。原材料は、生麩(なまふ)の副産物で、でんぷんが主成分。板状で粘土みたいなものだ。これを大きな樽に入れ機械で攪拌、沈殿したところで上水を捨てる。この灰汁抜き作業を何度も繰り返す。

   久寿餅のネタ   

「い志い」では、かつて原材料の保管に子供用プールぐらい大きな箱を使っていた時期があった。だが、今はその10分のいち。昔のように、売れなくなったとご主人はつぶやく。

 1週間ほど灰汁抜き作業を続けると、でんぷんが発酵し粘り気が出て、やっとネタと言えるようになる。そのネタを布を敷いた蒸篭に盛り、蒸し器で蒸す。冬場は、蒸し器の蒸気で、部屋一面真っ白になるという。

   久寿餅の作業工程を説明するご主人    
 
 今回、狭い作業場のため、実際の作業風景ではなく、取材のためだけに作業工程を実演してくれた。ボイラーから蒸気が出ると、作業場は湯気で真っ白になった。

 15分程蒸しあげたら、竹を敷いた作業台に移し、粗熱を取れば久寿餅の出来上がりである。
ご主人に、失敗することがありますかと質問した。
 すると、単純作業だからと言いながら、「隣の蒸し器で芋羊羹用の芋をふかしていると、いつの間にか蒸しすぎて、柔らかくなりすぎたことがあった」と、笑って話してくれた。

                   【つづく】

プラネタリウム 番組作り (下) 郡山利行

【天体ショー】

「葛飾区郷土と天文の博物館」のプラネタリウムでは、天上をできらめく天体ショーがご覧になれます。
 巨大な銀河から、銀砂のような細かい無数の星が深淵の底に光ります。また、天空を滑り落ちる流星群も感動です。

 水の惑星、青い地球の美しさ。この地球に生きているのだと実感させられます。(左)。

 この中秋の名月は2020年10月1日の再現です(右)。

 漆黒の空の無数の星がリアルに輝き、地球の大気の影響での、星のまたたきまでも見られます。
 地球軌道を離れた宇宙船は、太陽系の惑星空間を自由に巡る。七夕の話でその名を知られる天の川は、はるか彼方からは、銀河系という名の星雲です。

≪プラネタリウムの幼児用上映と学校学習用上映≫

 幼稚園・保育園、小学校・中学校・高等学校・特別支援学校の理科教育の一環として、新井さんとスタッフが制作した番組の、タイトル画像です。

 プラネタリウムでの上映時には、各園・各学校での天文学習の進み具合や要望に応じて、専門の職員が生の解説をしています。


【 4.編集後記 】

 筆者が、故郷鹿児島での小学4年生の時(1957(昭和32)年、教室の天井に星形の紙で、下の画像のように、北斗七星と北極星とカシオペア座の星が貼り付けてありました。そのおかげで、二つの星座と北極星の位置関係を覚えられました。
 インターネットより


 大人になってから、国内のいろいろな場所での星空で、北極星をぴたりと見つけて、得意になったことが何回もあります。 

 1991年8月14日、博物館開館の25日後に、筆者夫婦は小学4年の息子を連れて、プラネタリウムを観に行きました。

 いまや、わが子は番組内容の記憶は、どうも宇宙のどこかに置いてきたようです。


 今回は新井さんへの取材で、誇るべきプラネタリウムを認識したので、足しげく通うことにしよう。
 
 今年2020年10月7日に、新型コロナウィルス対応の中、新井達之さんには、取材に快く応じていただきました。
 設問取材から、事務所でのパソコン設備と開演前のプラネタリウム内部の写真撮影、そして博物館HPの画像活用のお願いまで、承諾していただいたことに感謝いたします。

                               【了】