かつしかPPクラブ

わがまち かつしか2016「 時の流れが見える」(中)=郡山利行

「30分から60分計が、私の所で作ることができる、最も大きな砂時計です」
 金子硝子工芸社の社長の金子實さん(69)は、原材料のガラス管と、加工が終った<ひょうたん>を手に取って見せてくれた。


2-3 砂入れ



 砂入れ作業前の、準備作業は、水洗い、乾燥、ふるい分けが基本であり、とても入念な作業である。
 砂の種類によっては、時計に使えるように調整するのに、苦戦することもある。


『社長の手作りの、ガラス製砂入れ工具』


 次は、円筒形・ひょうたん型のガラスに、所定時間分の砂を入れる作業である。
 砂を多めに入れて、規定時間で落下させ、残った砂を出すことを、何回か繰り返すことで、正確な砂時計にする。
「砂鉄の時計では、3分計なら3秒、5分計なら5秒までの誤差に納めるような精度を確保しています」
と、金子社長は力強く語った。


2-4 枠取付け

 砂入れが終ったガラスの本体を、 保護する目的もある木枠(金属枠もある)は、別会社が作った製品である。



 取付けは、ノギスを使って高精度で、組み立てられる。

 砂の準備作業にかかる時間と作業を別にすると、ガラスパイプの切断から枠の取付けで完成である。
 砂時計作りは、金子さんの工場では、1日に50~60個である。

 
『PCインターネットでの問合せや、注文のメッセージを確認する、金子社長』

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わがまち かつしか2016「 時の流れが見える」(上)=郡山利行

 1.はじめに 

 歳を重ねるほどに、月日が経つのが速く感じられるようになった。

 現役サラリーマン時代は、月日の流れを、日常的にはさほど強く感じなかった。ところが仕事から離れて、しばらく経過した今日この頃は、何でもない当日の行動予定を、いちいちはっきりと意識してしまうのである。
 それが時には、わずらわしく余計なことに思うこともある。



 『春季限定、桜シリーズの3分砂時計。 ガラス表面は、グラスリッツェンという技法で、描かれたもの』


 この時の流れの意識を、なんとか遠ざけて、ささやかなものにできないかと、筆者は思い悩んだ。
 そこで、時を刻む流れの代表的な物に気が付いた。
 砂時計である。 あの優しく美しい、そしてとてもか細い砂の流れである。ゆるやかな時の流れに身を任せて、時間の経過を忘れたくなる。

 時計のない生活の行動について、ドイツの作家E・ユンガーは、著書<砂時計の書>で、次のようなことを言っている。
『子供は、呼ばれるまで飽きるまで遊ぶ。 陽が沈み、夕闇と共に不気味さが、遊びの魅力にとってかわるまで遊ぶ。
 私達は魚釣りや狩猟をする時、種蒔きや刈り入れをする時、時計に従って行動はしない。
 私達は夜明けとともに起き、野獣を倒すまで、あるいは取り逃がしてしまうまで狩場を去らないし、また最後のわら束を荷車に積上げるまで、畑にとどまっている』

 葛飾区東立石4丁目在住の、砂時計職人、金子實(みのる)さんを取材した。


 社長の金子實さんは、1946(昭和21)年生まれ、69歳である。 自宅工場は葛飾区東立石の住宅密集地にある。
 ひょうたん型砂時計を作れる職人は、日本国内では二人だけである。もう一人は区内奥戸2丁目で同じ仕事をしている、社長の弟(治郎)さん。
 世界中でも数少ないのでは、との問いに対して、
「そうですね、イタリアあたりにひょっとしたら、何人かいるかもしれませんね」
 と、さらりと答えた金子社長だった。


 同社は、昭和23年頃に、現在地で社長の父親が創業した。
 砂時計を作り始めたのは、昭和30年代前半だった。先代社長が貿易会社の依頼で、米国向け3分時計エッグタイマーを製造したのが始まりである。
「父と母が夜中まで、砂を選ぶのに試行錯誤していました」
 と、帆布製の前かけ作業着姿の金子社長が、思い出を語った。


主な作業工程


2-1 材料
 
 砂時計にとって最も大切なのが砂である。 作業場の壁の棚は、実に様々な砂が入った、ペットボトル等でいっぱいだった。
 時計用に調整された、今でも使える貴重な材料である。


 『アフリカを旅行した人達からの、サハラ砂漠やその他各地の砂漠の砂』

 平成7年にTVの取材で、「粒子状になっていれば、大抵の物は砂時計にすることができます」 と発言したことで、全国から 「この砂で・・・」 と、オリジナル砂時計の注文が来るようになった。

 甲子園球場の砂、南洋戦地跡の砂、旅先の海の砂、ペットの遺骨などまで、さなざまな砂での注文を受けている。
 昨年は、梶田さんのノーベル賞受賞記念関連で、岐阜県のカミオカンデがある神岡鉱山跡の岩石を砕いた砂での、注文があった。

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翼の勢い・サッカー熱は高まるか =  櫻井孝江

 葛飾区は、映画「男はつらいよ」の車寅次郎や漫画「こちら葛飾公園前派出所」の両津勘吉、更に漫画「キャプテン翼」の大空翼を使った町おこしに力を入れている。

 キャプテン翼の名前が入ったサッカー大会まで、葛飾区主催で開かれることになった

 葛飾区と同教育委員会が主催したのは、「U-12ジュニアサッカー大会キャプテン翼カップ かつしか2016」である。

 正面スタンドの大会の優勝トロフィーは誰の手に渡るのか。

  関東の12チームが参加して優勝を争った。


                   
 
 予選が1月9日(土) 決勝トーナメントが翌10日(日)に、葛飾区総合スポーツセンターの陸上競技場で行われた。

 

 10日(日)には、キャプテン翼ゆかりの地の「物産展」が開かれ、有名人による「エキシビジョンマッチ」も行われた。

 鹿角市(秋田県)のゆるキャラと楽しむ光景。

「U-12ジュニアサッカー大会キャプテン翼カップ かつしか2016」の結果として、

  優勝 大宮アルデイージャジ

  2位  FCトリプレック渋谷ジュニア

  3位  Wings U-12
   
             
 この機会に葛飾区観光課が、作者・集英社と協力して作った地図を頼りに「キャプテン翼」の銅像巡りの取材も行ってみた。  

 立石から四つ木と歩くと、大変わかりやすい地図であったが、2か所でうろうろと探したり、人に聞いたりした。

漫画に出てくる人物が7人いる。

 大空翼は2つあるので、日向小次郎、石崎了、ロベルト本郷、中沢早苗、岬太郎、若林源三郎の8体の像である。
             

  足形は、地元の修徳高校OBで、元サッカー日本代表の北沢豪さんのものである。

 四ツ木駅の側にあると記しているが、見つけられず、駐輪場のおじさんに聞くと
「地元に住んでいるけど、見たことないねえ。薬局できいてごらん」

 と言われたので、さっそく、薬局で聞いてみた。

 奥さんがその場所まで案内してくれた。

 そこは記者が何度も探して行き来したところだ。
「漫画を描いた人は、この近くに住んでいたけど、(我が家の近くだったわ)今は、越してしまったの。金町の方とか?立石に事務所もあったそうですよ。」
 奥さんはが教えてくれた。


「これかせ銅像巡りですか?」
 奥さんに聞かれたので、地図を持って歩く人が他にもいるようだ。
 しかしながら、お天気の良い日であったけれど、翼のファンらしい人を見かけることはなかった。



 町なかに、サッカーの幟や看板はよく見かける。ただ、公園で目にしたのは、祖父と幼児との野球だった。葛飾地区はまだサッカーより野球が人気あるのかな。


 亀有まで足をのばしてみた。両さんの銅像の前で写真を撮っている。よくよくみると、中国からの旅行者が互いに写真を取り合っていた。

 漫画「キャプテン翼」が、同区内でも、勢いをつけるにはまだ時間がかかりそうである。

「かつしかPPクラブに激励のことば」青木葛飾区長に単独インタビュー = 郡山利行

「第2回かつしかふれあいRUNフェスタ2016」が、2016(平成28)年3月13日(日)に、荒川左岸河川敷の葛飾区堀切水辺公園をメイン会場として開催された。

 主催は葛飾区、葛飾区教育委員会、かつしかふれあいRUNフェスタ実行委員会などである。

 車いすの部では、スターターは青木区長だった。

 ふれあい健康RUN(制限時間なし)

① 1km:小学生以上から一般男女まで

② 3km:小学生以上から一般男女まで

③ 5km:中学生以上から一般男女まで

④ 10km:高校生以上から一般男女まで

⑤ 車いす1km:

ファミリーRUN2km


コースとしては、荒川河川敷道路がつかわれた。

 堀切水辺公園(スタート) ~ 荒川河川敷 ~ 堀切水辺公園(フィニッシュ)


チャレンジRUN

① 10km:イベント当日16歳以上の一般男女(制限時間:2時間)

② ハーフ:イベント当日18歳以上の一般男女(制限時間:3時間)


 開会式終了直後に、青木区長に短時間の単独インタビューをした。

「かつしかPPクラブの郡山です、写真を1枚撮らせてください」と、来賓席の椅子にまだ座っていた、区長の目の前でお願いした。 快く了解してくださった。

「PPクラブのみなさんは、いろいろな場所で活動していますね。ありがとう」
 同区長から励ましのメッセージをもらった。
 

一輪の桜花を見つけた。勝手に東京に開花宣言

 寒月を越えた。3月に入れば、とたんに春の時季を感じる。桜がいつごろ咲くのか、と気になってくる。下旬か、あるいは4月にもつれ込むのか。心待ちに予測してしまう。
 うす紅色の桜(そめいよしの)が満開になれば、寒い冬から心身が脱皮し、開放的になれる。それだけに、日ましにその期待がつよまる。

 多くの日本人は桜が好きだ。十月桜、寒桜、河津桜など、はやくに咲く桜の種類は数々あれども、青空を背にした絢爛繚乱のそめいよしの、湖水や川面に映るうす紅色の桜でないと、どうも納得できない。みな似た気持ちだろう。

 春うららな陽光の下で、葛飾区内の中川(一級河川)沿いに歩いてみた。黄色いレンギョウが暖かい陽の下で咲く、樹高が高いモクレンはあと数日で大きな紫の莟(つぼみ)を割って咲くだろう。

 奥戸・立石の中川(一級河川)には、観光名所になるほどの、延々とした桜並木など、もはや残っていない。古老の思い出話しか存在しない。護岸工事でとっくに伐採されている。
 それでも、申し訳ていどに5~10数本の並木が残存する。笹箒(ささぼうき)のような拡がった枝に、無数の小粒の芽をだし、その硬さはほぐれ、うすく色合いすら感じさせてくれる。

 ことしは3月下旬には間違いなく咲くだろう。でも、この季節の東京には雪が降るし、寒戻りになれば、開花はどうなるかな。私は桜の莟(つぼみ)段階から愛でている自分を意識した。


 同月5日(土)の夕刻、中川の散策から、葛飾区役所通りへと足をのばしてみた。立石駅方面から狭く曲がりくねった生活道路は、夕刻の買い物客でにぎわう。自転車がいきかう。子連れの主婦なども多い。

 葛飾区内でも、数少ない桜の名所の一つ。ソメイヨシノの大樹は老齢で、ごつごつした樹皮である。
「えっ、こんなところに、桜がついている」
 素朴な一輪の桜を発見した。

 目線の高さの巨きな幹に、極小の花弁が咲いていた。視るほどに華麗である。愛でた。

 気象庁の「開花宣言」の標準木ではない。もしそうだったとしても、頭上の枝でなく、大樹の茎に寄生するような咲き方だと、無視されるだろう。でも、この1輪が私の心に、春を呼び込んでくれた。

 

『顏』 さまざまな表情を写し撮る = 須藤

 ま え が き 

 撮影者は、写真を通して自分の気持ちを表わす。

「きれいな花だな」とか、「いい景色だな」とか、「すごい建物だな」とか。でも、人は人が気になるという。
特に、人の「顔」。

 笑顔が返ってくると嬉しいし、ホッとする。嫌な顔だと、ドキッとしたり、妙に気にかかったりする。コミュニケーションツールの「顔」は大事だ。


 そして、いろいろな「顔」に出くわすのも街。「顔」を見つけてハッとし、別の「顔」の自分と話す。
これがなかなかいい。



 ドキッとする。

 あまり感じがよくないな。

 そんな目で見てほしくないけれど、

 雨の滴じゃ仕方がない。



 
 何か企てているの?

 堅い決意の目つきだけれど・・・・・・。



「長くて、黄色い鼻が魔女みたい。
 それとも長―い鼻じゃなくて、くちばし? 触覚にも思える。

 とにかく、その顔で、その目で見られたら、「NO!」なんて言えないな」。

「眼(・)蓄」あり。


 セミが這い出た後の地面の穴。
   空に向かって

「セミたち、頑張ってこいよー!」
   と、声援する顔。

 眉間の木くずが微妙な位置。
   気遣うようなエール。



 楽しいの?
 笑って、いっぱい話している。

 見ているだけで、こちらから話しかけたくなる。
 笑顔は安心の特権。




 じっと見つめる目。まるで監視ロボットの目だ。

 冷たく、見逃しはしない、現代は監視カメラの時代。

 街のいたるところに取り付けられている。監視カメラを、こんな風に感じますか?


 あちゃー! ぶつかっちゃった。

 これほどの怪我じゃ、治すのが大変だ。こうなる前は、すーいすい走っていた。

 あの頃の、快速・快走・軽快の「車魂」は、ぐしゃりと潰された。



「大変だ、大変だー!」
「何が? どうしたんだ?」
「とにかく、大変なことになっているんだー!」
「そうなんですか。

 何が大変なんですかね。
 気持ちを鎮めてから、話してください」。



 目は口とともに語り、問いかけてくる。
 何げない一言で。

「ちょっと、あなた!
 ちょっと、よく生きてる?
いつも見ているのよ」

「えっ?」

 顔に似合わぬ哲学的な問い。身近な風景に、潜む人生の鋭い問いかけ。
 自省とも自誓ともとれる。
 風景からの拾い物。



 何を聞いても、口を開こうとしない。
 きゅっと、固く閉じた口。
 ここから、噂は出ないし、広がらない。
「口は禍(わざわい)の門」ともいう。


                                        メタリックフェイス。
 メンタルな話はできそうにない。
 面倒なことには一切関わらない。
 めちゃくちゃ楽しいのに、それを隠している訳でもない。むろん、目力がある訳でもない。
 一体、何を考えているの?

「はい、その言葉、そっくりあなたにお返しします!」



 
「 あ、 い、 う、 え、 お 」
「 か、 き、 く、 け、 こ 」
  ・
  ・
  ・
 口を閉じて「ん」
 は、どうですか?


あとがき

  景色の中に「顔」を見つけると、「やぁ!」と挨拶する。何か言っている「顔」だから。
ししかし、そう思って見ている「顔」は、自分の遊び心が写るだけだ。

これは、単に、好奇心というのだろう。

「スポーツ魂」とか、アート作品に「魂」を入れて完成!とは違う。顔のお気軽「魂」感触といったところか・・・・・・。


 平成23年12月~平成27年10月まで

伝統工芸・第31回葛飾区産業フェア = 浦沢 誠 


  「葛飾区伝統産業職人会」 2階の会場入り口のデザイン展示です。

 立石にある同会館の改修に伴う、リニューアルオープンは12月10日です。


『まえがき』

  今回は「たましい」というテーマなので、テクノプラザかつしかで開催されていた第31回葛飾区産業フェアのうち、「農業・伝統産業展」を取材した。

  取材内容は主に、伝統産業の物づくりの技を引き継ぎ、過去から現在および未来にむけて取り組んで行く精神(たましい)について取材をした。


  2015年(平成27年)10月25日(日)快晴で迎えた同左の最終日、会場の人出は昨年の東京理科大学金町新校舎の12万人に次ぐ平年並みの7~8万人との区職員の話。


 葛飾区伝統産業職人会会長 福島政山さん


  会場の2階では、「同職人会」による32ブースでの実演・販売が行われていた。

  この会場での展示作品は、江戸時代から日常生活に必要なものを造ってきたものがほとんどで
す。
 この「江戸木彫刻」は、江戸時代には宮大工が行っていた、と語る西新小岩5丁目在住の福島 政(まさる)(78歳)さんです。
  この仕事を始めて今年で60年目。東京オリンピックの年までは頑張って現役でいたい。

やりがいは、お客様から喜ばれることが一番です、と熱く語った。
 


  銅版仏画の柳 富治さん


 葛飾区四ツ木在住、職人会副会長の柳さん(77歳)は、15歳の時からからセルロイド会社に住み込みで15年間修業し、30歳から独立し、一代で現在まで約30年間この道一筋にやって来た。

  2年前には「現代の名工」を頂いた。また、腐食彫刻の賞を世界でただ一人、フランスのルーブル美術館から頂いた。さらに厚生労働省からも賞を頂きました。

  是非、本物を見て下さいと語る柳さん

 以前に清龍山薬王院 浄光寺 木根川薬師(きねがわやくし)から開山1150年記念法要の目玉として1.5m角の銅版仏画を依頼された。

  5年がかりで制作・奉納しました。毎年4月のお釈迦様の日だけ御開帳しています。


 清龍山浄光寺は天台宗に属しています。 また、日本にある曼荼羅で最も古いのものは、天台宗の京都にある「三十三間堂」にあります。


  江戸型彫の矢田幸蔵さん

 右端の半纏(はんてん)を着ているのが矢田さん


  職人会副会長の矢田さん(60歳)は、 新小岩在住です。

 3代目で、40代の頃から始めて20年目、初代から数えるとこの家業は今年で100年目となります。


  先代は昭和4年生まれの86歳です。

  型紙の材料は、柿渋を染み込ませた和紙を3枚重ね合わせたものです。それを小刀で切り込みを入れて型紙を創ります。

 人間国宝の「江戸小紋の小宮康孝(やすたか)」さんの着物や日本橋に株式会社「竺仙(ちくせん)」の5代目の注文も受けています。 

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≪大久保利通とその時代≫展で、初めて見た物 (上)=郡山利行

 千葉県佐倉市にある、国立歴史民俗博物館で、企画展示されていた、『大久保利通とその時代』展を、今年2015年12月3日に見た。

 当博物館では、展示という形で、大久保利通関係資料を、全面的に公開する機会はなかった。

 今年2015年に、大久保家から新たに貴重な資料が寄贈され、歴史的価値の高さを伝えるべく、初めて全体像が展示された。
 

 私は、実物展示品の中で、大久保利通の日記帳と暗殺資料と、彼の写真・肖像画に、興味を抱いた。
 企画展示の館内では、ストロボを発光しなければ、撮影可能だったので、文書写真はすべて、私の撮影である。
 大久保利通の肖像写真と画像は、当企画ガイドブックの電子コピーであり、文書の内容解説は、同ガイドブックによる。

(1)日記

 桜田門外の変について記した、大久保利通日記   1860(万延元)年3月条


「有村次左衛門一挙の節、比類なき有功は如前条次第二而」 云々と記されている。

 次佐衛門の兄、有村雄助は、幕府の追及を恐れた薩摩藩の命令により、切腹したが、大久保はその死を嘆いた。

30歳、勘定方小頭

 生麦事件について記した、大久保利通日記   1862(文久2)年、8月21日条

「夷人生麦村二而御行列先キ江騎馬二而乗懸、壱人切捨他者逃去候由、神奈川辺別而及騒動候」と、淡々と記している。大久保も、行列のなかにいた。

32歳、御小納戸頭取


 天狗党の処刑について批判した、大久保利通日記   1865(元治2)年3月11日条


 水戸藩天狗党が、幕府に降伏後、越前敦賀で、無慈悲にも処刑されたことについて、腐敗した権力の残忍さを強く批判するとともに、幕府滅亡の兆候を見て取っている。

35歳、御側役


 四侯会議について記した、大久保利通日記   1867(慶応3)年5月17日条


 上洛中の島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城は、土佐藩邸で会議した。

 幕府が長州征討 という失策を反省し、朝廷から長州藩に対する寛大な処置を下すというのが順序であるというのが、四侯の意見だったが、慶喜によってその目論見は打ち砕かれた。

37歳

 琉球藩使節の上京嘆願について記した、大久保利通日記   1875(明治8)年10月25日条

 
 明治政府は、この年の7月、琉球藩に、清国との冊封・朝貢関係を廃止することなどを命じた。

 首里王府は、従来通りの日清両属を認めてもらうため、同年9月に使節を東京に派遣して、1年半も滞在して直接政府に訴えたが、拒否され続けた。
 大久保は、使節に、文明開化の進展を示して、彼らを啓蒙しようとした。

45歳、地租改正事務局総裁


小松帯刀 日記帳

 小松帯刀の「文久三己亥二月十九日ヨ御上京御供中日簿」  1863(文久3)年3月14日条

 同年2月から3月、約700人を率いての島津久光の上洛に供奉した際の日記。 京都に到着した3月14日には、久光が近衛邸で、中川宮朝彦親王・関白鷹司輔煕・一橋慶喜らと対面したこと、小松帯刀も召し出されて、料理を下されたことなどが、記されている。

 この時28歳で弁天波止場受持、この年の5月に御側役、10月に御改革御内用掛となり、藩政改革に取り組んだ。配下に、大久保利通がいた。 

                                     【つづく】

≪大久保利通とその時代≫展で、初めて見た物 (下)=郡山利行

 (2) 利通暗殺資料

 1878(明治11)年5月14日朝、大久保利通は、赤坂仮御所に向かう途中、清水谷(現在千代田区紀尾井町)で、石川県士族島田一郎らの襲撃を受け、暗殺された。


 暗殺時に所持していたため血痕が付いた書簡
 明治11年5月13日付 楠本正隆書簡


 起業公債発行についての内容。 楠本正隆は大村藩士出身で、この書簡の当時は、東京府知事。


 大久保利通が、馬車に乗る時には置いていたという、護身用の拳銃。

 アメリカ、レミントン社製のデリンジャー上下2連先折式。襲撃を受けた時、使われたという記録はない。


 松方正義・鮫島尚信宛中井弘書簡

 日付はないが、大久保暗殺の直後である。

 元薩摩藩士の工部省大書記官中井弘が、当時フランスに滞在・出張中だった同郷の、松方正義(大蔵大輔)・鮫島尚信(特命全権大使)に、凶変を知らせたものである。


 「大翁ノ死ハ実ニ皇国ノ安危ニ関シタル一大事件ナリシ翁ノ死体ハ翁ノ居間ニ臥サシメ伊東方成等刀創ノ破裂ヲ補針シ白木綿ヲ以テ捲キ居レリ翁ノ頭上三ケ所ノ刀痕ハ深サ六寸右ノ腕ノ根ト首トノ間ニ大ナル刀痕突キタル者アリ又右ノ足ノ膝下ヲ半分程又背ノアバラノ脇ニ一大刀痕アリ左右ノ手ハ尽ク刀痕アリ是ハ翁ガ支エタル時ノ刀創トイハサル然トモ顔色平時ニ変ラズ僕一見以テ悲惨ノ情胸ニ満チタリ西郷大山等モ内閣連モ追々来リ集リ又後事ヲ議スルノ外ナカリシ伊藤ハ殊外涙ヲ流シ翁ノ非命ヲ嘆息セリ」
 などと、実見した遺体の状況や、集まった人々のようすを伝える。


 (3) 写真・肖像画



 維新当時の大久保利通写真

 1868(明治元)年頃の撮影とされる。

 唯一残された、和服姿の写真。


 パリの大久保利通写真
 1873(明治6)年撮影  

  オリジナルのプリントを複写拡大したもの。



 
 キヨソネ画大久保利通肖像
 1879(明治12)年

  大蔵省印刷局

 1873(明治6)年にパリで撮影された大礼服姿の写真をもとに、勲一等旭日大綬章を描き加えて完成されたもの。原画のコンテ画も現存する。

 孫の利謙(としあき)によれば、大久保家ではこの肖像画は「お写真様」と呼ばれ、子ども達は毎朝お辞儀をさせられたという。


【編集後記】

≪大久保利通とその時代≫展で、初めて実物の日記を見た。書いてある内容ではなく、筆記する場面に合わせたような、大小さまざまな形の、恐らく手作りと思われる日記帳そのものに、感嘆した。

そして、激動の時代の流れの中で、己のこと身の回りのことを、克明に筆記している姿を思い浮かべると、大久保利通が描いて実現しようとした日本の姿について、改めて自分なりに学んでみようかと、考えさせられた。

 1878(明治11)年5月14日の朝、想像を絶する刀痕で命を絶たれた大久保利通の状況資料は、完全に初めて接したので、衝撃ですらある。
 どうしてこんなむごい殺し方をしたのかと思う。

 大久保利通の代表的な3枚の、写真・肖像画を並べてみると、厳しい人生を駆け抜けた人であることが、一目瞭然である。

 キヨソネ画の肖像が、西郷隆盛のそれと同様に、広く知られることを望む。

新津きよみ・穂高健一の講演・対談『葛飾を歩いてみて~』

 新津きよみ&穂高健一による『葛飾を歩いてみて~ふたりの作家が語る講演会』が2015年10月4日に、鎌倉図書館にておこなわれた。
 


『新津きよみ』 柴又の散策では、久しぶりのうなぎをご馳走していただいて、とても美味しかったです。
(会場・笑い)

 柴又に訪れたのは2回目です。前回は十数年前に、信州の両親を連れて柴又を案内しました。その時はまだ渥美清さんがご存命で、しかも休日でしたから、満員電車のなかを歩くくらいの混雑ぶりでした。

 ただ、今日も予想外の人出でしたので、とても驚きました。

 

『新津きよみ』
 柴又をミステリーに使うのは難しいと思います。柴又を出しただけで「何かあるな」と、想像されてしまいますし、逃走犯が逃げるには、ちょっと有名すぎるかもしれません。

 となり近所が親しいので、知らない人がいたら、警察にすぐタレコミされてしまうでしょうね。
(会場・笑い)

 とは言っても、相変わらず食べ物屋さんは混雑していましたし、とても楽しい街なので、スリリングな場面に限らず、それらをいつか描写したいです。


『穂高健一』 新津さんの小説「指名手配」の作中で、僕が生活する立石が舞台となった場面があります。それを書かれたときの作者の心境について、聞かせていただけますか。

『新津きよみ』 私は本も好きですが、お酒も大好きです。
(会場・笑い)

 それを穂高さんに話したら、「立石に来ればいいよ」と言い、案内されました。あの時は昭和の顔を持つ街というテーマで、ご案内していただきましたよね。

 私が生まれたのは長野県大町市という田舎ですが、初めて来たのに、どこか懐かしさを覚えました。
 それで書いたのが「指名手配」です。この小説を読んでご紹介くださった読者の方が、今年5月15日の朝日新聞東京版に、逃亡犯の住まいはここだと掲載されていました。まさに、探偵の方みたいで、編集者ともどもおどろきました。

 その方は小・中学校の教師なんですよね、と新聞のコピーをみせる。

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