かつしかPPクラブ

粋な最中(もなか)は「窓の月」 鷹取 利典 


           最中の皮を裏からライトを当て撮った    

《 まえがき 》

 和菓子の「最中(もなか)」は、サクサクの皮に餡(あん)を包んだ和菓子のことである。

 もち米で作った皮の香りと、しっとりとした小豆の餡が絶妙な味わいで、日本人には親しみのある和菓子だ。

 今回の資料集めでは、「最中」を扱った書籍が少ないことに驚いた。
 図書館で和菓子の専門書を調べるも、団子や練り菓子、煎餅などにはページを割いても、「最中」に関する記述はどれも少なかった。しかし、調べるうちに最中のおもしろい過去を発見した。

 葛飾柴又、参道で売られている「最中」の紹介も兼ねて、和菓子「最中」についてひも解いてみた。


 最中の起源 》                    

 「最中」という名の起源は、今から1200年前、平安時代まで遡る。

 宮中の宴で、歌人 源順(みなもとのしたごう)が詠んだ「水の面に照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋の最中なりける」(『捨遺和歌集』秋)の句だと言う。

「寅さんの故郷」 店:代々喜最中 場所:柴又参道 種:薄目、香良し 餡:小豆、甘さ控えめ 1個120円

 それから1000年経った江戸時代、浅草は吉原の煎餅屋「竹村伊勢大掾(いせだいじょう)」が、煎餅種の半端ものに、使い残しの餡(あん)を入れて売り出したのが、現在の「最中」の起源と言われている。

 当時の最中は、中秋の名月に見立て丸い形で、「最中の月」と呼んでいた。

 江戸のお店が掲載料を支払って紹介する『江戸買物独案内(国立図書館 蔵書)』と言う本があった。
 この本には、「最中」と謳った店が数軒掲載されていた。それほど、最中が流行っていたという証しだろう。


《 粋な最中は「窓の月」誕生秘話 》               

 江戸時代の最中は、「最中の月」と呼ばれたように、丸い形が主流だった。そして主に日本橋界隈で販売されていたと言う。

 浅草は吉原の三浦屋に、高尾太夫(たかおだゆう)という遊女がいた。高尾太夫は、丸い最中を四角に造り変え、丸くした餡を種の中央に挟んで馴染み客に出した。
 
 客は珍しがって菓子の名を問うと、「窓の月」と高尾太夫は答えた。確かに、行燈の灯にかざすと最中が「窓」、餡が「丸い月」に見えたのだ。
 それ以来、四角い最中は、「窓の月」と、呼ばれれるようになった。

 「ふとっぱら最中」 店:柴又い志い 場所:柴又参道 種:少し厚め、香高い 餡:大納言、甘さ適当、艶あり、ボリュームあり 1個200円

 当時の遊女の世界は、客から身請けしてもらうか、高利子で莫大な借金を返し終えるか、それとも足抜けするしか逃げる術がなかった。
 人気を博し、大夫になれば、身請けも、借金の返済も可能となる。美貌と、客へのもてなしが重要だったはずだ。そんな遊女の戦略が、「窓の月」を生むきっかけになった。遊女と最中がかかわる、粋な話だ。


 最中の種 》 
                    
 最中は、中身の餡と、周りの皮とでできている。その皮は、「種」、もしくは「種物」と言う。その皮の専門店を和菓子業界では「種屋」と言う。


 「矢切の渡し最中」 店:代々喜最中 柴又参道 種:薄目、香良し 餡:小豆、甘さ控えめ 1個 100円

 最中の美味しさは、ほおばった瞬間、もち米の香ばしい種の香りと、餡の甘い味わい大豆の食感が、口いっぱいに広がることだ。

 種の標準は、内側が白く、外側がこんがり焦がした色に仕上げるが、注文する菓子屋の注文で、焦がし具合も自在に作れる。

 また、食用色素を混ぜ、桃色や引き茶色、小豆色などカラフルな種も作れる。
 見た目にも楽しい最中になる。種の製造過程で、餅を短冊に切って焼くので、出来上がった種には短冊型の跡が見られる。この手作り感が味わいにもなっている。

 最中の弱点は、「湿気、衝撃、灯り」である。湿気と衝撃は分りやすいが、灯りになぜ弱いのか。それは、焦げ色に仕上げた種は、長時間灯りにあたると焦げ色がなくなっていくからだ。
「焦げ」は、微妙な色加減なのだ。


 地元葛飾区には、種屋が高砂と四ツ木にある。その他、東京都内には、足立区椿、台東区駒形、中野区弥生町、板橋区仲宿などにもある。


《 最中のいろいろ 》
                     
 おもしろい最中として、葛飾柴又に、「矢切の渡し最中」がある。江戸川を渡る渡し舟を模した種に、しっとりとした餡が詰まっている。白餡と小倉餡の2種類が選べるのも味変があって楽しい。一口サイズで、一度食べると、二個三個と食べたくなる味だ。

 他にも,路面電車を模した東京都の「都電もなか」や、神奈川県の「江ノ電もなか」がある。

 新橋の和菓子店「新正堂(しんしょうどう)」の、「切腹最中(せっぷくもなか)」は、新橋のサラリーマンに有名だ。苦情を言われた顧客に、冗談半分にこれを持参してお詫びに行くと言う。

「矢切の渡し最中」 店:代々喜最中場所:柴又参道 種:薄目、香良し 餡:小豆、甘さ控えめ 1個 100円

 あとがき 》 

 今回の課題は「窓」。5月に発表されて以来、何をテーマにしようか考えても、なかなかアイデアが浮かばず、締切だけが迫ってきた。

 葛飾区高砂に、最中の皮「種」の専門工場があり、「最中」と課題の「窓」がつながらないかと下調べをしていたら、偶然、「窓の月」のことを発見した。早速、取材を申し込みに行くも、断られてしまった。
 しかし、そこで諦めるのも癪に障るので、今回は資料のみで、冊子を制作した。


《 最中の種切り包丁 》

 種を作る工程に、延した生地を切る作業がある。その生地を切る専用の包丁があった。その名も「種切り包丁」。曲線を画いた刃が、柔らかい生地でも切りやすくする秘密だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
                
                      制作 2019年8月15日


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穂高健一・講演会「開国の真実」、聴衆が熱い眼差しで聞き入る=隅田 昭 

 葛飾区立水元図書館で、9月28日(土曜)午後2時から、穂高健一先生の講演会「開国の真実」が2時間にわたり開催されました。

 定員は50名でしたが、昨年同様に開演前から用意した椅子も足りないほどの賑わいです。私たち「かつしか区民記者」もみなでお手伝いしました。

 講演の内容は、10月15日に全国の書店・ネットで一斉発売される「安政維新」(阿部正弘の生涯)です。

           *

 私はかつしか区民記者(かつしかPPクラブ)の例会や、穂高先生が主催する「よみうりカルチャー・小説講座」で、先生からたびたび、阿部正弘とか、幕末関連の取材を熱心になされておられる様子を聴いていました。
 それでも、講演の内容は新鮮で、目からウロコが落ちる話題でした。

           * 

 今までの学校教育や歴史小説で目にしたのは、次のような内容ばかりです。

「4隻の黒船が、とつぜん浦賀にやって来て、なにも知らぬ民衆は慌てふためいた。男は家の屋根に登って軍艦をながめ、女は部屋に閉じこもり、布団をかぶって夜も眠れず、嵐が過ぎ去る事態を見守った。しかし日本は苦境のどん底に落ちていく。
 ペリー提督が現れると、駆け付けた浦賀の大名たちは英語もわからず、みなどうしたら良いものか悩み苦しんだ。そして、見たこともない武器を突き付けられると、なす術もなく上陸を許してしまい、高圧的なアメリカの軍人に屈せざるを得なかった」

 私(隅田)もそうですが、おそらく聴衆の皆さんも、多かれ少なかれ同じ認識に染まっていたと思います。
 とくに私は近代史に疎いので、聴衆の皆さんのほうがよほど、固定観念が強かったかと思いますが……。


 ところが、「ペリー提督はとつぜん現れたのではない。黒船を見せつけられ、幕府は不平等な砲艦外交に屈したのではない」と先生は言う。
「従来の虚構で塗りつぶされた日本の黒い歴史を、そろそろ見直す時期に来ている」
 と言われると、私はもちろん、聴衆の皆さんもみな食い入るように興味をそそられました。

 阿部正弘といえば、従来の評価ではだいたい次のとおりでした。

「無能な幕府の重鎮は、みな責任を取りたくないので、止むにやまれず、まったく派閥を持たず、若い阿部正弘を交渉役に据えた。
 しかし、英語に堪能だった阿部は、若いがゆえに無鉄砲にアメリカと強気の交渉を重ねつづけた。そうして無理がたたって重病を患った。やがて、不平等条約を押し付けられ、日本が苦境に追い込まれたときには、ひっそりと他界してしまった。
 江戸幕府の悪しき体質に翻弄(ほんろう)され、将来を嘱望された優秀な政治家だったのに、何もできずに散った悲劇の人である」
 先生はその定説をも、つぎつぎに覆(くつがえ)していきました。

 阿部正弘が満25歳ときに老中首座、今でいう内閣総理大臣になった。それから浦賀に来る外国船は、ペリー提督で5番目である。
 幕府はもちろん、浦賀奉行もみな落ち着いて対処していた。阿部も毅然(きぜん)とした態度で、アメリカ側と交渉にのぞんだ。
 当時の幕府は決して弱腰外交ではなかった。交渉記録も残っていて、現代語訳が最近になって世に出てきた(墨夷応接録)と聞かされると、聴衆は身を乗りだし、うなずいていました。

              *

 明治政府とその後の軍事教育は、なぜ阿部正弘の安政政策と近代化路線を否定し、今までそんな嘘をついてきたのでしょうか?

 それは、明治時代以降の為政者が、自分の立場をより大きく見せて、より権力を誇示したいという、つよい意欲の表れではないでしょうか。

 穂高先生は広島の出身なので、原爆投下や第二次世界大戦の経緯にも詳しいのですが、日本の歴史を精査し、見つめ直すことによって、二度と同じ過ちをくり返してはならないという、切望にも似た強い気持ちと情熱があり、私たちの胸にひしひしと迫りました。

 講演会の後半の聴衆との意見交換は、いつもながら活発でした。

 そのおひとりが、「もし江戸幕府が残っていたら、その後の日本はどうなっていたと思われますか?」という提起に対し、先生の回答が圧巻でした。

「たら、れば、という仮定は、ふつう歴史学者は返答を避けるのですが、そのご質問は重要です。もし阿部正弘がもっと長く生きていましたら、おそらく安政の大獄とか、明治からの軍事政権にはならなかったでしょう。
 徳川家はいちども海外戦争をしていません。戦争を嫌った政権のままならば、その精神が生かされて、いずれの国に加担するか、あるいは協力することはあっても、第二次世界大戦には参加せず、真珠湾攻撃、原爆の投下はなかったでしょう。多くの犠牲者も出なかったはずです。
 日本人は本質的に戦争嫌いです。北欧に近い自由主義か、永世中立国になっていた可能性がたかいでしょう。明治から10年に一度の戦争が1945年に終わってみれば、日本列島の地図(北海道~九州)は徳川政権のときとまったく同じです。何のための戦争だったのか。この事実は重いのです。
 質問者から出ましたように、『もし、たら、れば』という歴史の検証がとても重要です。それが過去から学ぶことです。歴史の仮説(シミレーション)が、私たちの将来の道を選択するときの洞察力になるのです」
 聴衆はみな同意して、先生に対する惜しみない拍手が鳴りやみません。

 おまけにいちばん若い男性の方が、「父親からせがまれたので」と、過去に出版された著作に、サインを求めに来られるおまけ付きでした。

 これからも戦争につながる嘘を見抜き、正しい歴史を認識しなければならないという、明確な意思を心に刻んだ貴重な機会になりました。


写真提供 = 郡山利行さん

文=隅田 昭  令和元年10月22日(即位の礼、正殿の儀に記載)

「尾張名古屋は、城で持つ」 浦沢 誠 ・ 田代真智子

 かつしかPPクラブの恒例の年に一度の取材旅行は、名古屋だった。

 
 2019年(令和元年)9月29日(日)、東京駅の14番線ホームから東海道新幹線(のぞみ209号(午前8時20分発)の自由席で、名古屋に向けて4人で出発した。今回は一泊2日である。出発時は曇天だった。

「途中で、富士山が見えたらいいね」などと話をしていると、進行方向右側の車窓に、本当に富士山が見えた。

 今回の計画は、会員の田代さんが立案計画の役で、当初は飛騨高山に行き、帰路は高速バスの予定だった。だが、宿泊場所が確保できず、名古屋取材に変更した。
 新幹線が名古屋に近づくにしたがって青空が広がり、到着すると、さわやかな秋晴れとなっていた。さすが、穂高先生の晴れ男がここで立証された。

 名古屋市内の移動手段は、田代さんお勧めの地下鉄24時間券(740円)だった。まず初めに、駅ビル内の食堂で早めの昼食を摂り、地下鉄で「名古屋市博物館」に向かった。


当博物館では、常設展展示「尾張の歴史」のほかに、特別展「治水・震災・伊勢湾台風」を観た。博物館から先生の誘いで、日中の最高気温は31℃の予報のなか、片側2車線の道路の向かい側にある古本屋2軒に30分ほど立ち寄った。

 その後、博物館側にある、『かき氷』の看板が出ているお店「ヴェール・テーム」に入り、乾ききった喉を潤した。

 店員の話によると「このかき氷専門店は有名で、2~3日前まで、入店待ちの長い行列が連日できていた」と語ってくれた。

 その後、地下鉄を乗り換え、「名古屋港」に向かった。地下鉄・名港線の終点の名古屋港で下車し、取材班は港の方に歩いてゆく。南極観測船の「ふじ」の姿が目に入った。

 埠頭に繫留(けいりゅう)されていた。ここでふじに会えたのは意外だった。船体の脇をしばらく歩いてゆくと、日中は入場料を支払い、船内見学ができると分かった。夕暮れ時(午後5時過ぎ)であり、それは叶わなかった。

 ふじが繫留されている埠頭や、水族館(ウミガメのこどもを飼育していた)一部など取材したうえで、埠頭の反対側にあるショッピングセンターの2階にあるレストラン(お店の名前はRED LOBSTER)に入り、窓越しに埠頭の光景が眺められる。

 港の夜景を眺めながら、小腹を軽く満たした。

 地下鉄で宿泊場所の栄町まで帰り、ホテルに荷物を置くと、すぐさま一日目の最終取材として、繁華街の夜の街に出た。雰囲気は雑然としている。ホテル近くの居酒屋で、一日目の取材の区切りとして晩餐会とした。
 名古屋名物の「味噌カツ」その他の料理を摂った。期待通りだった。

 翌朝は8時にホテル1階のロビーに集合し、レストランで朝食を摂り、9時30分過ぎにはホテルを出発し、地下鉄で熱田神宮に向かった。
 地下鉄名城線の伝馬町駅で下車した。晴天の大通り沿いを5分ほど歩き、東門の大鳥居をくぐる。木陰で小気味よい、砂利敷きの参道をゆっくりと直進した。

 途中の「手水舎」の脇の献酒場所わきに在る、樹齢1千年以上の書き込み看板のある「大楠」は、この神社の歴史の重みが感じられた。

 参道脇では、「神宮と歴史でたどる熱田神宮千九百年の歴史」のパネル展示が開催されていた。それによると「大正期に勅祭社(ちょくさいしゃ)になった」と記されている。木造の本宮はじめ各建物はすべて「白木造り」だった。宝物殿にも立ち寄った。

 熱田神宮の参拝(取材)のあと、名古屋城へと向かった。地下鉄名城線に乗車し、市役所駅で下車した。
 地上に出た瞬間、目の前に名古屋市役所の建物があり、そのすぐわきには愛知県庁舎の建物もあった。いずれも昭和初期の建築だった。

 これも取材だと、昼食は名古屋市役所の食堂でとることにきめた。豪華な価値ある建物で、感動した。ロケなどに使用されていると聞く。同市庁舎4階の奥に食堂はあった。

 午後1時過ぎで、食堂内は閑散としていた。官吏の方は12-13時ぴったりの昼食だろう。
取材班4人は、好みの食券を購入し、中庭に面した窓側のテーブルに座り配膳を待った。
 1時間ほど昼食兼休憩としたあと、重厚な庁舎内を取材してから、隣接する愛知県庁舎の外観も写真撮影してから、道路の対角線上にある名古屋城に向かった。

 城の外堀を通り抜け、東門から入場した。天守閣に通じる通路に面した、平成30年に竣工した本丸御殿(木造総檜木造り)の一般公開の建物を取材した。

 徳川御三家の筆頭尾張藩の居城である。上洛殿(復元)・湯殿書院(復元)・黒木書院(復元)は荘厳だった。

 天守閣は、次期木造への復元の設計・調査や耐震不適格のために入場禁止となっていた。

 城内の出口付近の目立たない木陰には、「名古屋城青松葉事件之遺跡」碑があった。幕末から新政府が誕生したあと、尾張は德川御三家だけに、新政府につくか、旧德川幕府に忠誠するか、と激しい対立があった。
 歴史の一つの史実として、興味深いものがある。

 名古屋城の取材のあと、一行は名古屋駅にむかつた。新幹線口側の駅前ビル内で夕食を済まし、午後6時30頃の東海道新幹線で東京に戻った。
 2日間の取材は、得るものが多かった。
 これから、個々に、編集作業に入る。

             文  浦沢誠
             写真 田代真智子 浦沢誠
  

夢の続き 田代 真智子

お店の名前は、ミニパーク。
『葛飾区立郷土と天文の博物館』から親水公園沿いをお花茶屋駅に向かって歩いていくと右側にひと際、目を引くお店がある。お店の入り口に赤い自動車『ミニクーパー』が飛び出している。車のナンバーを見ると3289 なんともユーモアを感じる演出だ。

さて、いったいお店の中は、どうなっているのだろうか。何のお店なのか、と数回通り過ぎては外から店内を覗いてみるが、よくわからない。
 入口には、ジグソーパズルが何点か飾られている。店頭の看板には、「ホビー」と書かれ、ドアには、「TOMIX」?
 思い切ってドアを開けると、そこには不思議な世界が広がっていた。
店主は、坂本修さん 79才。大阪で生まれで大学まで大阪で暮らす。現在の住まいは高砂で、毎日ジョキングでお店まで通っている。そして週3回は、奥戸で泳いでいるというから驚きだ。

 鉄道模型の機材を売る専門店だった。お店の中央には、ミニチュアのレールがある。そこに『祝30周年』のお祝いの花が飾られていた。
 取材の三日前、7月23日が、開店30周年の記念日だったのだ。
記念日を挟んで数日間ほど、お店を閉めて奥様と記念旅行に出かけていた、と話す。
 坂本さんは、大学卒業後、『東洋インク』に就職し、定年を待たずに早期退職し、このお店を開業した。
 奥様は、反対もせず、快く協力してくれた。お店の看板になっているミニクーパーのエピソードを訊いてみた。インターネットで読んだ(外国で買った)という話しとは、違っていた。
ビックサイト等各地で開かれている『ホビーショー』が、30年前にも年に数回開催されていて、そこで赤のミニクーパーのレプリカを見つけた。看板にどうかと勧められ、ご夫婦で相談して決めたという。それが真相だった。

 電話番号は、「3289」か「3249」を希望していたところ、たまたま「3289」があったのだとか、縁と運命を感じる話しである。

 平成元年7月、いよいよ開店を迎える。世の中は、『ガンダム』『ミニ4駆』『F1』などがブームで、こども向けのプラモデルや『ジグソーパズル』をお店に置いた。
そのパズルがお店の歴史を見守っているかのように今も店頭に飾ってある。
 

 ミニパークのホームページを開いてみた。
【鉄道模型の在庫の最新情報をお知らせする目的で開設】と書かれている。
 毎日、更新される在庫情報を見て、遠方からも問い合わせや注文が来るという。数少ない専門店は、鉄道ファンには、大切な存在であるに違いない。
「遠いとか、近くても来店できない人からも注文が来ますよ」と、全国各地から来る宅急便の控えの束を見せてくれた。

 子供の頃から電車が好きで、よく親戚の人に電車に乗せてもらっていたという。
「模型が大好きだったが、その頃は買いたくても買えなかった」と小学校の頃の思い出を語ってくれた。
 お店をやってうれしかったことや、いやな思い出とか聞かせてくださいと質問すると、にっこり笑って
「好きだった模型が店ごと自分のものになるって感動したな。いやな思いは、それは色々ありましたよ。開店して間もない頃、間違ったものを売ってしまって叱られ、届けに行ったこともあった。」
 物静かな坂本さんは、お客さんとあまり会話をしないようだが、マニアの人には、そんな雰囲気が却ってこのお店の魅力なのかも知れない。親しくなったお客さんや友人と毎年、年賀状の交換をしていると話す。

 去年の年賀状を見せてくれた。
 そこに写る景色は、なんと坂本さんが造ったジオラマだ。
 幼い頃から図工が得意だったと自負するほど、指先は器用である。
 ショウケースの中は、楽しくなるほどのジオラマの数々が並ぶ。 旧歌舞伎座のライトアップもさることながらミニチュアの電車は、軽快にレールの上を走る。

 店内の中央の置かれた鉢植えの奥には、模型用の塗料が、驚くほどたくさん並んでいる。最初に見たときは、(えっ、画材屋さん?)と思った。手作りのミニチュアの数々を見ると、実に細かく巧妙だ。そのためには、微妙な色の違う塗料が必要なのだと納得できた。

 取材の途中でお客さんだ。
このお店に夢を買いにくるのだろうか。そこには、満足感を思わせる幸せそうな会話と笑顔がある。
『ミニパーク』の営業時間は、午後12時から夜の8時。
奥様は、毎日、お昼ご飯を作ってお店にきて、ふたりでテレビを観ながら食事をして過ごすのだそうだ。

 幼い頃、電車が好きだった少年は、手先が器用で模型が好きだった。少年は成長し、大学を卒業し、会社員になった。退職後、まだ整備されていなかった親水公園の横に、小さなお店を開店させた。それから30年の時が流れた。移り変わる社会と流行、風景をお店と供に歩んできた坂本さんに、ロマンを感じずにはいられない取材だった。                

写真・文・編集  田 代 真智子(かつしかPPクラブ)

取材撮影  2019(令和元)年 7月 26日
発  行   2019(令和元)年 9月  2日

日本刺繍画に広がる世界  田代 真智子

『まえがき』

 葛飾シンフォニーヒルズの2階のギャラリーで初めて作品を見て、これが刺繍(ししゅう)?なんて細かい作業なんだろう。
 一体どんな人がこの作品を生みだしたのだろうと思いました。その作者は、私が通る道筋にある美容院とブティックを経営する女性でした。

 何年か前にお店で洋服を買った時、「私が作ったものだけど良かったら使って」と首飾りのヘッドをいただき、親しみを感じたあの女性がここに紹介する日本刺繍画の作者だったのです。


      菅縫ぼたん(すがぬいぼたん)

 京成四ツ木の駅から渋江商店街を抜けた信号を通り過ぎると、右に美容院とブティックがある。

 ここは、日本刺繍画作家『平野恵美子』さんの仕事場兼作品制作のアトリエでもある。平野さんは、岩手県出身で嫁いでこの地、葛飾に住み、現在に至っている。


 女学生の頃から、針を持つのが好きだったという平野さんに日本刺繍を始めたきっかけを訊ねてみた。

 姉の嫁ぎ先が、立川で「紳士・婦人服の仕立て屋」を営んでおりましたから、毎年、休みになると岩手から東京に来て縫子さんに裁縫を教わったりして、洋裁などの勉強をしていました。高校を出て若い時に美容師の資格を取り、着付けの仕事をしていく中で、着物の刺繍に目がいくようになりましたと話す。

 1985年、子どものPTA役員を終え、日本刺繍教室『紅会』に入学し、本格的に日本刺繍の勉強を始めた。

 虎ノ門にあった『紅会』には、月2回15年通った。その後、東京、大阪、名古屋など、各地の展示会に出品し、個展も開催。2005年には『日本芸術学院』でデッサンを学んだ。

 デッサン? と疑問を感じたが、重要な過程と分かった。

 刺繍の制作工程は、図案を決める事が最初にあるが、写真を撮って実際に描きたい大きさに引き伸ばし、それを書き写して刺繍をしていく。当然、絵を描く技術も必要になるのだろう。

     「風車」


             「アネモネ」

 作品は、様々なジャンルで、着物、帯、額に至る。飾りものやコンパクトやキーホルダーなど、注文で作成することもよくあると話される。


            「宙を舞う花」

           「木枯」(こがらし) 

 気に入った作品でも欲しい人がいると譲り、手元に残っていないものもたくさんあるようだ。

 刺繍にしたいと思う絵に出会うと、その画家に刺繍にして良いか了解を得る。そして例えば、色や葉の数、角度等を変え、平野さんの作品にしていく。

 展示会出品の大作完成後は、指を休めるのではなく、休めてはもったいないとキーホルダーのような小さいものを刺すというから驚きだ。

 餅つきの刺繍は、どこかで見たような?数年前に宝くじの図案を描いた画家の作品が元だという。
 そんな絵のカレンダーが店の壁に貼られていた。

              「餅つき」

 瀬川明甫作品集「思い出のふる里」より


 平野さんは、2008年から東京岩手美術会運営委員として活躍し、 現在は、毎年『東京岩手美術展』 に出品している。


   「孔雀」
 
      伊藤若冲の作品から

 『根津・虹の会展』『リアスの風復興展』『東京・銀座大黒屋3人展』『東京・第一美術会展』他にも『東京・NHKふれあいギャラリー』などに出品している。

 7月には、葛飾シンフォニーヒルズで「アート自由六人+3」が控えており、今は、9月に開催する『東京・岩手美術会』の展示会の制作に入っている。


「藤娘」を製作中

 好きな日本刺繍と向き合って作品の一つひとつについて語ってくれた平野さんの瞳は、輝いていた。

 
        「ピエロ」 瀬川明甫作品集から


『あとがき』

 手元を離れてしまった作品が多くあるなかで、今までの作品は、記録として写真に収められていました。
 そのアルバムの写真を見せてもらい、エピソードを交え、お話を聞くことができました。その作風の幅の広さと数にびっくりしました。
 美容院とブティックを経営しながら、これだけの数多くの『日本刺繍画』の制作をする時間は、いったいどこにあるのでしょう。

 多くの作品を残した 画家『ゴッホ』や『モネ』、音楽家『モーツアルト』、浮世絵師『葛飾北斎』などの思い、ああ、これが芸術家なんだと感じました。

 今後、どのような作品ができあがるのか、今から楽しみです。

          取材・撮影  2019年(令和元年)5月18・19日

立石の飲み会【飲み放題・食べ放題、喋り放題】(下)=写真・郡山利行

 過去にはフォーラムをしたり、昭和が残る立石を散策したり。出欠席、参加時間などまったくなし。なぜか。だれが幹事か、わからないからです。  

 立石って、全国区だってね。東京見物に来たら、「立石に連れて行って」だってさ。

 「久しぶりでね」

 「ほんと、半月ぶりだね」

 京成立石に来て、昭和の町を散策するのも楽しい。

 中川(一級河川)の七曲りの美景を知っていたら、本物の「立石通」だね、

 京成立石駅から、徒歩で6分20秒。たぶんそんな近場。

・葛飾伝統産業館(駅から約2分)は職人が丁寧に応対

・昭和二十年代の「のんべ横町」(駅から約1分)、駅前開発で半分ちょん切られて無残です。
 これも文学かな。純文学系のひとは見落としなく。



  立石の語り部は、この夫婦にかぎる。

  戦後文学の舞台(著名作家が立石で売血し飲んだ処)
 ・昼過ぎから、飲み屋はあります モツ煮「宇ち多」
 ・立食い寿司「栄寿司」
 ・ことのほか愛想は悪いが、唐揚げは美味しい「鳥房」(夕方5時~)

  むかし遊郭があった街なのに、暴力団がいない。珍しい町だった。どの店に入っても、ぼられない。それが立石の良さ。

 平均1500~2000円/1人くらい。

   

立石の飲み会【飲み放題・食べ放題、喋り放題】(上)=写真・郡山利行


日時 6月4日(火) 18:00~21:00
場所 大衆酒場「あおば」葛飾区立石

【飲み放題・食べ放題(料理は女将まかせ)、喋り放題】そして、あおば女将に代金を支払って、好き勝手に帰る。

 一番乗りは、出久根達郎さん夫妻です。

 


18時~21時は4000円/1人。
21時以降も、あおばに残れば、+1000円

東京下町の葛飾・「立石の飲み会」は、作家仲間と葛飾を語れる有志とで、7-8年ほど前から、年一度くらい続いています。

目的・テーマは何もありません。

『力まず、ほんわか、草だんご』 (下)  鷹取 利典

  当店は、昔から木の折り入りだ(11個入り700円)。最近はやりの食べ歩きに合わせ、プラ容器で1個60円でも味わえる。味変も楽しんでもらおうと、店頭には、黒蜜ときな粉の小袋(各30円)もおいている。


 他に変わった食べ方はないかと失礼な質問を向けてみた。自分はやらないが、お客さんが焼いて醤油を付けて食べたとか、お鍋に入れ食べたとか聞いたそうだ。


 それも、甘みを入れていない草だんごだからできるのかもしれない。しかし、やはり王道のあんことの組み合わせが、最上である。


  出来立てのおだんご(左)         それを一つひとつ手でちぎる(右)

●吉野家の看板                    

 三代目ご主人の名取さんが、9年前、先代が亡くなった後、お店を改装した。その際、取り替えた看板は、杉板に店名を彫った物だった。
 しかし、板の乾燥が不十分だったためか、黒ずんでしまった。
それを聞いたお客の看板屋さんが、今の看板を作ってくれたと話す。包装紙の文字を使って、立体的な看板になっている。


(左:現在の看板) (右:9年前、杉板に彫ったの看板)

●吉野家の包装紙                  

 吉野家の包装紙は、無地のピンクの紙に、「柴又 名物草だんご 吉野家」と書かれている。(「ご」は、「古」に「”」を付けた変体仮名を使っている。)

 さらに10年ほど前までは、紐で十字に結わえてあった。しかし、今はやめている。

《あとがき》

 追加の取材に尋ねたのは、ゴールデンウィークの初日。季節外れの寒波到来で、少し寒い日だった。それでも帝釈天の参道を訪れる人が多かった。

 お客さんが店頭で「ここ、昔は行列に並ばないと買えなかったのよ。」とお友達に話しかけていた。心の中で(このひとも昔からのファンなんだ。)と呟く。

 次のお客さんが1つだけ買って、店先で食べ始めた。名取さんが「よもぎが、他と違いますよ。」と言うと、「本当、美味しい。」と笑顔で応えていた。

 名取さんに「今のお客さん、嬉しそうでしたね。」と話しかけると、「そうなんです。『ここのを食べたら、他のは食べられない。』と言ってもらえるのが、一番嬉しいです。」と笑顔を浮かべた。

 お客さんの言葉で一喜一憂する客商売。美味しいの一言が聞きたくて、今日も力まず、竈の炎の様なほんわかとした名取さんだった。

「食べログ 東京 ベストスイーツ部門 2014年度」受賞



 「食べログ」というインターネットの食べ物紹介サイトがある。その中で、「東京 ベストスイーツ部門 2014年度」に、吉野家の草だんごが、37位を受賞した。お店の脇に、主催者のシールが貼ってある。しかし、名取さんは、そんなことを一つも自慢しない。見て、食べて、リピーターが増えることが嬉しいと語ってくれた。

                        《了》

『力まず、ほんわか、草だんご』 (上)  鷹取 利典

    力(りき)まず、ほんわか、草だんご

   帝釈天の参道から撮影した店舗と店主、名取さん。 
  恥ずかしがって、最後までマスクは取ってもらえなかった。


《まえがき》

 東京・葛飾柴又と言えば、映画「男はつらいよ」で有名な「寅さん」だが、もう一つ、欠かせない名物に「草だんご」がある。

 それは帝釈天の開山から始まる。帝釈天は、正式には「経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)」といい、日蓮宗の寺院である。下総中山(千葉県市川市)の法華経寺の上人と二人の弟子の僧によって、江戸初期に開山されたと言われている。

 その帝釈天では、下働きしていた人達に草だんごを作らせていた。その後、下働きの一家が、参道で草だんご屋をはじめて大評判になった。当時は「きな粉」をまぶした草だんごを販売していたが、女中が、あんこを添えることを思いつき、今の「あんこ」と「草だんご」の組み合わせになったと言う。

 現在は参道に、草だんごを販売しているお店が5軒ある。そのなかで、ひときわ個性的な草だんごを作り続けているのが「吉野家」だ。


 父から受け継いだ「草だんご」            

 まずは「吉野家」の草だんごを見て欲しい。この濃い緑色の草だんごは、どうやって作り出すのか。


 筆者は、この「吉野家」を自身の開設するホームページで2002年8月に紹介した。その時に、次のように説明している。


                       (写真は2002年撮影)

『ガラスの向こうにあるのが、お団子です。この写真から分るでしょうか。団子の色が。緑。それも濃い緑。それもそのはず、よもぎ(餅草)が、他の店より多い多い・・・。店の前に置かれた『非売品』の文字が物語ってます。
店の方の気持ちが通じますか。ここのお団子は、一度食べたら、癖になります。もう他のは、食べれません。』

 色の濃いのは、よもぎの量が多く、香り豊かで、味もよもぎ特有の苦味も感じさせる。とっても弾力があり、食べ応えも充分だ。ここまでよもぎを強調した草だんごは、なかなかない。

 店主、名取千枝子さんは、三代目だ。先代のお婆さんが、ここ柴又の帝釈天の参道で草だんご屋を始めたのが吉野家の始まりである。初代の頃は、おだんごを店内でも食べられ、他におでんなども出していた。


                      (写真は2010年ごろに撮影)

 そして二代目、お父さんは、お店の他に仕事を持っていたので、毎日おだんごを作れなった。それで庚申の日しか店を開けなかった。その当時は、幻の草だんごとまで言われ、店の脇の路地に長い行列ができた。

 お父さんから引き継いだ名取さんは、店を改装し9年前から毎日店を開けるようになった。しかし、名取さんのご主人が体調を崩し、今年(2019年)4月からは土日と庚申の日のみの営業になった。一日も早く回復され、写真のように、夫婦二人で店を切り盛りできるようになってほしい。       


吉野家のこだわり「よもぎ」              

「吉野家」の売りは、なんと言っても[よもぎ]である。他の店とは違う。

 一般的に、冷凍よもぎを使う店が多いなか、吉野家は昔から、長野県松代産の乾燥よもぎを使っている。冷凍よもぎの8倍もの費用が掛かるが、冷凍ものより香りが良いからだと言う。

 しかし、最近は乾燥よもぎを作る職人が減り、10年前に比べると仕入れ値が2倍にもなった。それでも、この味と香りを守るため、乾燥よもぎを使い続ける。

 乾燥よもぎを使うには手間がかかる。一度茹でて、パットの上で冷ます。その後が大変だ。よもぎは、植物の「葉」だから、葉脈とよばれる筋がある。名取さんは、これを繊維という。一つひとつ手で取り除く、この作業により口当たりが良くなると語る。

 取材に行った日も、名取さんとパートの女性とで、繊維を一本いっぽん手で取っていた。地道な作業だ。機械生産されたよもぎは決して使わない。

 店の脇に「添加物は一切使用していません。翌日には少し堅くなります。日持ちしません。」と表示している。だから、地方発送はしない。購入した、その日に食べていただきたい。こだわりぬいた味と食感、そして香りを感じてほしいという。名取さんの思いがそこにはある。


 3度目の取材で、作業場を見させてもらうと、入口に石臼があった。年季の入った黒く光る臼である。

 むかしはこの石臼と薪を使った竈でだんご蒸していたと懐かしんで名取さんが話してくれた。

 石臼は、先代お婆さんの時代の物だ。竈は、この時代さすがに、煙いと近所から苦情があり、残念ながらガスに変えた。近所から苦情を受ける前に、自分達も煙くて大変だったという。
しかし、薪の燃える炎がほんわかして、良かったと語る。吉野家の草だんごには、そんな懐かしさも、味わいになっていた。

《つづく》

葛飾区民体育大会、「めざせ、オリンピック」  郡山 利行

 4月21日(日)には、葛飾区主催の、第72回葛飾区民体育大会春季陸上競技大会が開催された。

  奥戸総合スポーツセンター体育館の大体育室では、卓球台が32台も並べられ、上記体育大会競技種目の、春季卓球大会シングルスが開催されていた。 
 会場の中央部付近でプレーしたら、どんなに気持ちいいだろうかと、うらやましかった。


 午前10時、男子110mハードル競走で、大会 午前10時、男子110mハードル競走で、大会は始まった。
 国内外の正式大会と同じ基準での競技である。

 私も若かったらなと、夢のようなことを考えながら、シャッターを切った。

 かつて100kmマラソンで、世界のトップランナーだった能城(のうじょう)秀雄
さんは、当日この陸上競技場の管理運営にかかわる責任者だった。
5年ぶりの再会だった。

 「100kmレースの具合はどうですか 」
 「最近は参加していません」
 「先日、区内ジョギング・散策の、詳細な案内図のパンフレットを見ましたよ」
 「以前、郡山さんから、作り方の概要を教えてもらいましたので、やっと完成させました」 と、うれしい会話を交わした。

 2016年3月にオープンした、水元総合スポーツセンター体育館である(写真右)。

 奥戸の総合体育館が、大きな大会やイベントのメイン会場ならば、水元センターは、規模と設備は小さいが、区内青少年達の主要な養成施設会場の役目を、擁してはどうだろうか。

 選ばれた選手候補生達だけではなく、スポーツ全般に夢を抱く青少年達の、駆け出しの場が望ましいと考えた。
 体育館では、バレーボール、バスケットボール、ハンドボール、バドミントン、卓球等の球技のほか、25mプールでの水泳、水球や、道場での柔道、空手、剣道ができる。

 オリンピックを頂点とした、様々な大会での競技施設とほぼ同等の場所である。

 授業やクラブ活動などでも利用できるならば、少年少女達に強い体験の記憶として残るはずである。


 わがまち かつしかには、未来への力のみなもとがある


 わがまちは、奥戸と水元の総合体育施設のほかに、区内各所に点在する公式試合規格に準じる、様々な競技施設を保有している。

 これらの施設を小学校高学年生から中学生達を中心に、積極的に体験利用できる機会を与 
えてほしいと願う。

 生徒たちの会場への移動には、区内公共施設にある、大型のマイクロバスや大型バスを、学校の授業時間帯に活用する。 数が足りなければ、新品車両である必要はないので、レンタルリースの利用もある。 運転手あるいは案内者は、熟年ボランティア者が、十分に期待できると思う。

 その時間帯の、わがまちかつしか区内の道路は、渋滞していない。

 学校単位で、年に1回でも、2回でも、本物の施設で≪競技≫ができる体感に触れさせてほしい。 学校の校庭や体育館と全く異なる、広さや施設や空気の違いなどで、一瞬にしてその場の雰囲気に歓喜するはずである。

 青少年達の、スポーツに取り組むことへの様々な喜びと、その向こうにある人としての感性の豊かさや、高レベルの競技者へのあこがれの育成などへの、力添えとなると信じる。

《了》