かつしかPPクラブ

秋の短歌大会 秋山 与吏子

願いのかなった人たち



雷鳴に負けじとひびく蝉の声
命の限りを思い鳴くのか

高点歌唱賞  植木一江 さん(写真・右)


餓ゑを知る今も直らぬ夫の癖

明日のためにと一口残す

  高点歌賞  植木洋子 さん(写真・左)



点滴の車を押して廊下行く

見舞いの夫(つま)を見送るために

講師賞 高点歌賞

   田中弘子 さん



秋の日に
干す白足袋の
かがやけり
金婚式の
想ひとどめて

高点歌賞  安部巳佐子 さん

欲張らぬ
余生ときめて
波立てず
とは言え少し
おもしろくなし

「講師賞・高点歌賞」

宮田昌武 さん



秋の短歌大会  PDFで作品のすべてが見られます


「ナイチャーも同じシマンチュウ」民話の宝庫・宮古島一周の旅 隅田昭

まえがき

 記者の祖父は日中・太平洋戦争で中国を転戦したあと、宮古島に3年ほど従軍した。

 葛飾の正月は何処も居酒屋が開いておらず、祖父は家で夜遅くまで呑んでいた。「戦争はつらかった。ただ宮古島だけは、いい思い出だ。死ぬ前に一度行ってみたい」というのが口癖だった。
その祖父は十年前に亡くなり、ついに宮古行きは叶わなかった。

 今回は七草明けに、記者は長期休暇がとれたので、日頃のリフレッシュも兼ねて、取材半分、観光半分の宮古ひとり旅を計画した。


 伊良部大橋の記念碑ちかくで、たまたま見つけた珍しい岩である。記者は勝手に「亀の子岩」と名付けた。

 観光ガイドには載っていなかったが、取材を進めると、宮古は民話の宝庫でもあり、将来に残すべき多くの知恵にあふれていた。

*短編「結び岩」

*のんべーの楽園

*雨でも収穫あり

*現代に通じる話

*なんくるないさー

 ノンベーの楽園

 宮古に着いた日は22℃で、おだやかな天候に恵まれた。

 空港のレンタカーショップで従業員に、「観光客が知らない所に行きたいのですが」と聞き込む。
まず腹ごしらえだと、情報収集のため、市内でいちばん大きなショッピングモールまで出発した。

 イオンモール内の『なびい食堂』で、名物の「宮古そば」に舌鼓をうちながら、女性店員の『国仲さん』に話をうかがう。
「なびい」とは、村人が集まって食材を持ち寄り、ひとつの鍋を囲んで楽しく呑みながら、歌ったり踊ったりする場という意味らしい。

 いま店で流行しているのが、「なーふぃー」という風習だそうだ。宮古にはなかったが、沖縄本島から移住した人が定着させたという。

 赤ちゃんの首がすわり無事に育ったら、近所の人や友だち、親類らを集め、赤ちゃんの名前を宴席でお披露目する行事だそうだ。

「宮古の人はおおらかで、イベント好きですから。なにかと理由をつけて、大勢で騒ぐんですよ。まあノンベーにとっては、最高の場所じゃないでしょうかねえ」
 島内では古希で赤いチャンチャンコを着て、特大ハンバーガーを切り分け、祝う団体客もいる。英語がペラペラの高齢者も多く、欧米の観光客と仲良くなる方もいるらしい。


 雨でも収穫あり
 2日目、3日目はあいにく、はげしい雨と風に見舞われた。

 宿泊先『宮古温泉ホテル』の女性従業員で長野から移住した『竹内 望さん』から聴いた。
「民話や史実を調べるなら、島にひとつしかない『城辺(ぐすくべ)図書館』ですかね。池間島(いけまじま)と、来間島(くりまじま)にも橋ができ、車で行けますが、大神島(おおがみじま)は漁船でしか行けません」
 スコールのなか図書館を訪ねると、職員が快く応じてくれた。海軍兵舎が近隣にあったらしく、慰霊塔がひっそりと天に伸びている。

「宮古は平坦地ばかりです。この丘は見晴らしが良く、戦時中は敵の偵察に使っていました。村人の戦死者が多く、食糧不足で苦労されたのですが、軍人や進駐米兵とは良好な関係だったと聞いています。民話を知りたいなら、食堂か土産物屋さんに訊けばよいでしょう」

 4日目にようやく晴れ間がのぞいた。前浜村近くの食堂で宮古ヤキソバを食べ、知りあった店員の「上地さん」が語った。
「伊良部島(いらぶじま)と下地島(じもじじま)にいけばいいや。あたししゃ、伊良部の出だけど、通り池が有名さー。ママッコ伝説とかね。いまは飛んでないけど、まえはパイロットの訓練もしてたさー。ほかの島はなーんもないよ。サトウキビとか、カツオ節つくるぐらいだわ」

 現代に通じる話

 通り池は下地島の西にあり、天然記念物に指定されている。

 大小2つの円形の池は地下でつながっており、天候や水質でさまざまな色彩に変化する。
多様な魚介類が生息しており、ダイビングスポットで人気も高いが、上級者向けである。
「ママッコ伝説」はこんな内容だ。この地に住む漁師が妻に先立たれ後妻をもらった。やがて後妻は先妻の子をうとましくなり、寝ていたその子をそっと池に沈める。ところが実際は我が子だった。絶望した継母は池に飛びこみ命を絶ち、しばらくの間は幽霊が出たという。

 通り池近くの『ホテルていだの郷』で雨やどりをして、コーヒーと軽食を注文し、マネージャーの『川口 信也さん』から話を伺った。 

「以前は修学旅行生ばかりでしたが、最近はアジア近隣の観光客が多いですね。私は奈良の出身です。大学卒業後は那覇に赴任し、そのあと宮古に定住しました。
 昔は内地から来た者を『ナイチャー』と呼び、好奇な目で見られていました。でも近頃は頑張って働いたせいか、同じ『シマンチュウ』と思われています。沖縄本島の方も内地の者も、みな島国育ちですから」
 私たちも外国人労働者を、色眼鏡で見ていないだろうか。しばし考えさせられた。


短編「結び岩」PDF

*写真・文章・編集: 隅田 昭

*撮影:平成31年1月15~18日

*発行:平成31年2月10日

短編「結び岩」・ 民話の宝庫・宮古島一周の旅より 隅田 昭

「与那覇前浜村(よなはまえはまむら)」に、クインというたくましい男と、ユウナという、うるわしい女が暮らしていた。
 たがいの親は裕福な家に住み、顔見知りだった。そこで、ふたりを結婚させようと話を進める。ふたりは恋人がいなかったため、親のねがいに従った。そして20歳どうしで結婚し、ともに村いちばんの働き者だと評判になる。

 クインは漁師で、沖にでればサバニと呼ばれる小舟が、いっぱいになるほど魚をとった。ユウナも機織りが得意で、着物の出来栄えがすばらしく、町から注文が来るほどだった。 
 ところが何年経っても、ふたりには子どもができない。

 たがいの親は「はやく跡継ぎがほしい」と催促するが、ふたりの仲は日に日に悪くなり、困り果てるばかりだった。

 3月になったばかりのある日だった。たがいの親はふたりに対岸の「来間島(くりまじま)」まで、磯遊びに出かけようと持ちかける。
 村の長老に相談して、その島に古くから伝わる「結び岩」という御嶽(ウタキ)に願をかければ、子宝に恵まれると聴いたからだ。
 クインの父は長老の言うとおり、大きなくり舟を用意していた。
その日は雲は出ていたが日差しもあったので、6人は朝から舟をこぎはじめ、昼すぎにようやく来間島の岸までたどり着いた。

 島に着くと両親は、クインとユウナに磯釣りをすすめた。しかし、相変わらずふたりは、目も合わさず、口もきかずに竿を垂れている。
 夕方ちかくになり、あつい雲が垂れこめ、雷鳴もこだました。
クインの父が険しい顔をして、「あすの漁が心配だから、くり舟ですこし沖にでて、潮の流れを見にいく。親どうしでだいじな話もしているから、おまえ達はしばらく、あそこの岩陰で待っていなさい」と、いちばん大きな岩にを指さした。
 それは長老から聴いていた、あの結び岩だった。

 
 ふたりは親たちに言われるがままに従う。たがいのからだは離れたまま、じっと様子をうかがっていた。
 とつぜん大きな雷が光った。舟はみるみる沖に向かって、進んでいくではないか。
「おれたちを残して、なぜ行ってしまうのですか」
 クインはありったけの声をふり絞った。
「おいていかないで。たすけてください」
 ユウナも声をあらげ、舟に向かって叫ぶ。

  しかし、何も聞こえないように、舟は海の彼方に消えてしまった。
「おれたちは親に見捨てられた。ここで生きていくしかない」
「こんな何もない、離れ小島でなんか、暮らしていけないわ」
「こうなったのも、子どもをつくらなかった、俺たちが悪いんだ」
「いまそんなことを言っても仕方ないわ。忙しかったじゃないの」
 
 ふたりはそれから黙ったきり、沖をみつめ、ぼう然と座っていた。
 しだいに大粒の雨がふり出し、北風がかたい岩肌を叩きつけ、白波がはげしく舞い上がる。
 見知らぬ鳥が鳴き、獣のうなり声も聞こえる。ふたりは岩深くまで逃げこみ、恐ろしさに震えながら、じっと耐えつづける。

「うすい服しか着てこなかったから、このままでは凍えて、朝までに死んでしまうかもしれないわ」
 ユウナはながい黒髪をかき上げ、頬に大粒の涙をながし、からだを小さく丸めた。
「だいじょうぶだ。おれが守ってやる。すぐに温めてやるから」
 クインは厚手の作務衣(さむえ)を脱ぎ、鍛えあげた胸板を突きだし、ユウナの肩にそっと掛けた。
 クインはユウナの背中をさすり、口から白い息を吐きつづける。
 ユウナは作務衣の袖を握りしめ、クインにじっと目を合わせた。
 
「どうした? 苦しいところでもあるのか?」
「いえ。これは、あなたにはじめて織った、作務衣でしたね」
「ああ。これがいちばん温かい。漁のときはいつも着ている」
「ずっと大切にしてくれたのね。ごめんなさい。わたしは、意地をはっていたんだわ。働き者のあなたに、負けてはならないって」
「いや、あやまるのは、おれのほうだ。おまえがいつも家にいないから、ふてくされていた。暮らしが楽になったのはおまえのお陰だ」

 ふたりは後悔する一方で、はじめて心が通ったと感じ、かけがえのない夫婦になれた喜びをかみしめる。
「もしここで命をおとしても、あの世では仲よく暮らしましょう」
「ああ、もちろんさ。ほかに、誰がいるんだ」
 ふたりは唇を重ね、嵐の音が聞こえぬほど、つよく抱きあった。

 やがて嵐は静まった。空から太陽が昇り、波はすっかり穏やかになった。色とりどりの小鳥がさえずり、風に乗った蝶が楽しげに舞う。白い砂と碧い海が、朝の日差しにきらめいている。
 沖からくり舟とサバニが、浜に向かって近づく。それぞれの舟には、たがいの親が分かれて乗っていた。
「ああ、神さま。わが子は無事でしょうか」と、母が声を震わす。
 父が岩に向かって指さし、「おい、あそこにいるぞ」と、叫んだ。

 ふたりはひとつに重なり、ぐったり倒れている。
 両親が岸に上がり、結び岩に近づく。するとふたりは岩陰で、たがいの手を握りしめ、おおきな寝息をたてていた。
 クインの父がサバニと結び岩を、荒縄でしっかり括りつける。両親は御嶽に感謝の祈りをささげたあと、くり舟で沖まで引き返した。

 ※ 宮古民話「夫婦結びの岩」などを参考に、記者が創作しました
 

東日本大震災を忘れるなかれ、岩手・宮城の両県を現地取材する

 東日本大震災は、東京・葛飾においても、他人ごとではない。
 最近、各家庭に災害時のハザードマップが配布された。東京下町の葛飾、足立、江戸川、江東区などは危険地帯として真っ赤に染まっている。「どこに逃げるの?」。千葉県の市川、松戸も真っ赤である。一目瞭然で、逃げ場所がない。
 
 かつしかPPクラブは、2018年度の遠距離・取材として岩手、宮城の大津波被災地で、被害者から生の声を聞く取材活動をおこなった。
 

 11月10日(土)上野駅発7時22分の「はやて119号」一ノ関駅着・9時30分で、現地にむかった。車で出迎えてくれたのが、大和田幸男さん(写真・左)だった。

 陸前高田駅はすっかり消えた。駅舎のあった場所で、チリ地震の最高水位がここでした。しかし、3.11の大津波ははるかに高かったのです、と大和田さんがリアルに語る。

 

 かつしかPPクラブは、葛飾区内を中心に活動しているが、年に一度は、遠征・取材している。これまで新潟、鹿児島、広島に次ぐもの。

 費用はかかるけれども、それだけに真剣な取材で力量をつけることができる。という考え方です。、 

 一ノ関から陸前高田まで、距離が長い。途中、昼食を兼ねて名所・猊鼻渓で、船下り約1時間ほど楽しんだ。



 渓谷の絶景である。かつては砂金が取れた。

 岩手は平泉が物語るように、黄金文化が栄えたところだ。

 

 東京を早立ちしてから、14時頃に陸前高田に着きました。大和田さんがさっそく陸前高田の被災地・一本松に近い丘陵に案内してくれ、3.11当日と現在の復興状況などを語ってくれた。

 丘陵の高台に新築の家を建てている方からも、話しを聞くことができた。



 
 地元の有力な製材所を経営していた大和田幸男さんは、工場・事務所のすべてを失くした。
 
 「ここが工場敷地でした」

 大津波に負われた私の逃げの姿が、ユーチューブで見ることができます。

 大津波で破壊された中層マンション。最上階だけが、津波にまぬがれたのが確認できる。



 
 
 箱根山展望台から、三陸のリアス式海岸へと大津波が襲ってきた方角が確認できます。
 方位盤からも確認するなど、取材は念入りです。

 

 大船渡市の碁石海岸に案内していただいた。

 真正面の沖合が、3.11震源地になる。波はダイレクトに押し寄せて、この一帯の漁師さんたちの集落は破壊されてしまったという。

 

 なぜ、碁石海岸なのか。

 砂浜でなく、岩石が大波で粉砕されて、長い年月の間に、ちょうど碁石の大きさになったもの。自然の破壊力を海辺で実感する。 
 

 ふだんでも荒い波が押し寄せる。


 カメラワークも、たいせつな取材だ。

 大学生らしき団体もやってきた。

 磯を洗う大波には、だれもが驚嘆していた。 

 大船渡、気仙沼の市街地は回復しており、3.11を感じる痕跡はほとんど見当たりません。すべて自己責任の範囲で、家を建てる。行政は住民コントロールを失ったのでしょうか。

 日没が早く、17時頃に陸前高田のキャピタルホテルに入りました。

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生命の力 田代 真智子



見頃を迎えた蓮の花

はじめに
掲載写真
12月の不忍池
2月の風景
4月の様子
5月の動物たち
6月開花を待つ蓮の花
7月池いっぱいの蓮の花
  (フラミンゴの赤ちゃん)
8月満開の蓮の花
10月秋の不忍池
表紙 
台風や地震などによる被害のニュースが、日本だけでなく、世界のあちこちで流れている。
家屋に居ても安心できず、いつ車が飛び込んでくるかわからない。飛行機が落ちてくるやもしれない。裏山が崩れたり、かかっていた橋や道路が突然なくなったりする。
朝が来ることが当たり前と思ってはいけないと痛感する。とともに朝の陽光に感謝したい気持ちでいっぱいになる。
上野の不忍池に咲く大きな蓮の花を知る人は多い。とは言ってもいつも咲いているわけではなく、一年の間にいろいろな姿を見せてくれる。

【下記のPDFをクリックしてください1~4まで、写真とキャプションが楽しめます】

写真とキャプション PDF1


写真とキャプション PDF2>


写真とキャプション PDF3>


写真とキャプション PDF4>

平成30年「葛飾花と緑のはがき」コンクール表彰式 須藤裕子

 平成30年度「葛飾花と緑のはがきコンクール」授賞式が、11月14日(水)午後4時~5時まで、「かつしかエコライフプラザ研修室」で行われました。

 絵画の部、押花の部、写真の部、3部門の表彰です。

 青木葛飾区長の手から表彰状が授与されました



 絵画・押花は小学生、中学生、一般の部があります。写真の部は区分なしです。合計38人が喜びの受賞をしました。

 たがいに受賞を喜び合う高校生たち。さわやかですね。


絵画の部 ☆小学生の部 少女のこころは嬉しくても、表情がこわばってしまう。緊張ぎみですね。

 葛飾区の職員が、緊張感のただようなかで、式の進行、説明を穏やかで喜びのムードをかもしながら行いました。

  写真の部 受賞者たち。うれしいですよね。

 三部門にわたり、葛飾郵便局長賞、葛飾新宿郵便局商が授与されました。

  絵画の部  審査委員長・沽野(うるの)洋子さん  日本絵手紙協会 公認講師
 
  応募点数は962点です。選ぶのは大変ですね。

 主催者の環境課・担当者から記念撮影です。広報などに掲載されます。 

  葛飾区職員が緊張感の漂う中、式の進行・説明を和やかで喜びのムードをかもしながら行いました

写真の部 審査委員長・穂高健一さん  日本写真協会会員
 
 今年は写真への応募が昨年の2倍と、関心が出てきました。来年が楽しみです。

 葛飾区緑化推進協力員会 会長賞の授与です。表彰状は年齢に関係なく、いつもらってもうれしいものです。

 会場の受賞式、講評の様子、記念撮影などのスナップです。皆さん、来年も頑張ってください。   

喜ぶ笑顔が見たくて 田代 真智子

まえがき

一度きりの人生をどう生きるかは、人それぞれ違う。
♪ ケセラセラ~ なるようになる~ ♬

この歌が多くの人に好かれるのは、泣いても笑っても明日は来る。それならば、笑って楽しく生きたいと思うからなのか?
十人十色の楽しいひと時を探してみたくて、周囲を見わたしてみた。


 JR京浜東北線王子駅から徒歩15分、北区立中央公園に来た。駅から川沿いの遊歩道を抜け、公園に入るとこんもりした丘の上に3頭の木曽馬が目に入った。大都会の公園にこんな景色が目に入るとは驚きである。

 訪れたのは、『さわやかポニークラブ』というボランティアの定期乗馬会だ。『チップの広場』という丘の上には、小田原のサドルバック牧場の馬3頭がいる。動物学校の先生やインストラクターが、その馬たちの毛並みの手入れをしている。


 遠くには3頭の馬が乗せられてきた青い車が見える。


 この日は、5月の風が心地よく吹いていた。続々と集まってくるさわやかポニークラブのボランティアのメンバー。馬が大好きな人たちが集まって「障がい者に乗馬を楽しんでもらう」活動をしている。準備が終わる頃になると、家族に付き添われて同クラブのメンバーらがやってきた。

 この日は、4クールに別れ、1人の障がい者にインストラクター、リーダー、サイドウォーカー3名の計5名が付いて約40分の乗馬体験をしてもらう試みだ。

 公園の中を歩いたり、ゲームをしたり、その乗り手に合わせたメニューを楽しませてくれる。乗り手の得意そうな表情や嬉しそうな顔を見ていると、取材に行った私まで幸せな気分になってきた。


 途中で馬が糞(ボロと言う)をしてしまうと、手の空いた人が塵取りと熊手に似た道具を持ってきてすみやかに片づける。

木の枝に下げたシフト表を確認する人や全体を見るタイムキーパー。

 お茶とお菓子で談笑するメンバーや家族。乗馬会の様子を見に公園に訪れた人達もいる。自転車を降りて馬が通り過ぎるのを待つ人の姿もあった。
 そしてこの日のすがすがしい風と日差しは、まるで映画やお話しの世界のようだ。そこにいる人たちのやさしさとゆっくり過ぎていく時間に感銘を受けた。
 この日参加した人はみんな、今日を楽しんで幸せな気分で帰ったに違いない。

「次は誰なの?」乗り手をじっと待っている

(青々とした草を見て)早く草がたべたいよ~。

みんなが来る前に水分補給しなくちゃ


 
あとがき

お金をかけた楽しみや時間をかける楽しみなど色々ある。けれど、人ぞれぞれの価値観が違うのだからどれも比べられない喜びである。


(取材・撮影2018年5月20日)


【原口 泉・吉岡 忍 夢の歓談、ついに実現】(下) 浦沢 誠、郡山利行

 そして原口さんは、穂高先生とは、広島藩と薩摩藩との貿易の舞台だった、御手洗港についての最新情報を交換しました。


 吉岡さんが、「原口さん、予定表なのか記録簿なのか、その冊子、すごいですね」と問いかけましたら、原口さんは、「昔から、このパターンで、予定と行事記録にしていますのでね」と答えていました。

 元々の姿は、B5版で1週間見開きの行動予定帳だそうです。 


 吉岡さんとの会話の途中で、何かを調べようとして頭をかかえている、原口さんです。


 歴史学者とドキュメンタリー作家の、トップ会談のような場面でした。 お互いに、ご自分の自慢話はまったくなく、著作作りの苦労話や、日本国中の近未来での過疎・高齢化での、自分の在り方などについても、語り合っておられました。


 西新宿≪渡邊≫での2時間のあと、京王プラザホテルのティールームで1時間ゆったり過ごして、午後4時ごろ解散しました。
 「それではまた!」と声をかけあった、吉岡さんと原口さんでした。


【了】

【原口 泉・吉岡 忍 夢の歓談、ついに実現】(上) 浦沢 誠、郡山利行


  葛飾区立石・居酒屋≪あおば≫にて 2012.11.17. 


 平成24(2012)年11月17日に開催された「葛飾区制施行80周年記念 かつしか区民大学特別講演会 『昭和が残る下町 葛飾・立石の魅力を語る」 後の懇親会です。

 底抜けの明るさで、身ぶり手ぶり豊かに、流れるような語りで、同席者全員を朗らかに弾ませたのが、当時、日本ペンクラブ副会長の吉岡忍さんでした。


  鹿児島市≪サンロイヤルホテル≫にて  2016.07.19. 

  一昨年(の平成28(2016)年7月、かつしかPPクラブの講師の穂高健一先生と、浦沢、郡山の3人は、真夏の鹿児島で、薩摩藩明治維新の背景を取材しました。

 私(郡山)の知人である田中さんと満冨(みつとみさん・ともに鹿児島在住)が、鹿児島市にある志學館大学の原口泉教授(写真・前列中央)との懇談の機会を設けて下さった。


 ここで実現したのが、近代史・小説作家の穂高健一先生と、歴史学者原口さんとの初対面対談でした。
 このとき。私はこのお二人に、ノンフィクション作家の吉岡さんを交えたら、どんな会話になるのだろうかと、夢みたのでした。

             *

 そして時が流れて、平成29(2017年)の年末から、翌年(ことし)の春にかけて、私が穂高先生に、吉岡さんと原口さんとの歓談を提案しました。

 いつの間にか『10月19日の午後新宿で』という日程が決まったのです。


 新宿区西新宿・手打蕎麦≪渡邊≫の店内で、2018、10、19 以下・おなじ。


 吉岡さんへの具体的な行動予定の確認は穂高先生が、原口さんへは私が連絡を取り合って、この日が実現したのです。

 2018年10月19日の午後1時から2時間の場面です。 信州佐久出身の、吉岡さんお気に入りのお店でした。

 私(郡山)は、感激のあまり、くしゃくしゃ顔で喜んでいます。 昼食として、おろしそばと柔らかくやさしい味のそばがきを食べました。

 穂高先生を含むPPクラブ3人は、控えめにビールをいただきましたが、吉岡さんと原口さんは、その後の予定の都合で、アルコールなしでお茶だけでした。

 お二人はそれぞれに、日本酒と焼酎をたんと好まれると聞いていますので、もし今日の都合がなかったら、どのような盛り上がりになったか、想像がつきません。

 初対面の原口さんと吉岡さんは、とてもそうとは見えないなごやかさで、いきなりものすごい勢いでの歓談が始まりました。

 まず原口さんが、昨日18日に、時代考証をやっていたNHK大河ドラマ『せごどん』の収録が終わり、出演・関係者全員での記念写真撮影が行われたことを語り始めました。

 28年前から今回で4作目の、時代考証の苦心談でした。

 吉岡さんは、日本ペンクラブ発足当時の話や、現在の外国のペンクラブや日本のペンクラブ活動についての説明が、語りの始まりでした。

 2010年の第3回国際ペンクラブ総会が日本で開催された時、開会式で鹿児島県の奄美高校生徒による、竹太鼓の演奏が大好評だったことを、原口さんに熱く語りました。
          
                    「つづく」

【 わがまち原動力】 戦後栄えた血液銀行の証言者たち(下)=郡山利行

【 4. 血液銀行 】

 日本製薬(株)は、1950年代から、本社ビルがあった立石8丁目で、国策による輸血用の血液採血を実行するため、国民からの売血を受ける施設、『 ニチヤク血液銀行 』 を開設した。

 この跡地が、現在(2018年)の財務省国税庁の葛飾税務署である。平成2(1990)年9月30日に、売血制度が完全に廃止されるまでは日本製薬(株)葛飾工場だった。

 左の写真がかつての日本製薬(株)の跡地である。
 現在は、葛飾税務署となっている。

 日本で最後の 『ニチヤク血液銀行』 だった。売血に訪れる人が絶えなかった。 地元立石の人達は 『バンク』 と呼んでいた。


・ 1956(昭和31)年に、貴重なヒトの血液を原料とした、『ガンマグロブリン』という血液製剤の開発を成功させ、製造販売の事業を拡大させた。

 1966(昭和41)年の頃、アメリカ軍がベトナム戦争の最前線で、この緊急輸血用の血液製剤を、大量に消費していた。

 昭和41年の国会の予算委員会で、血液製剤の輸出内容について、審議された歴史がある。


・  沢田教一写真集:ベトナム戦争 1989刊 より


  『散歩の達人 267号』より (P.25)

 右写真は、つげ忠男さんが、若い頃、地元立石の血液銀行で働いていた時のことを書いた雑誌に載せた、写真である。

 キャプションには『 製薬会社社員の着替え部屋から見えた風景で、社員も売血すると400円もらえ、半休ももらえたんです 』 と、書いてある。

 昭和30年代前半頃の、血液銀行の一角である。そして、つげ忠男さんは、当時の必死に生きる人々を間近に見られたことが、自分の漫画の肥やしになってなっていると思いますと、この雑誌につづっている。
 著作の単行本、『つげ忠男劇場』:(ワイズ出版、1998年刊)は、葛飾区では中央図書館に1冊しかない。


  松竹映画 『 張込み 』 :1958(昭和33)年1月公開  


 上写真は、1958年公開の松竹映画 『 張込み 』 の一場面である。 この場面は葛飾区立石にあった、本物のニチヤク血液銀行の中を使って撮影された。

 松本清張原作、同名の短編小説の映画化であり、新潮文庫、松本清張短編集(5)に作品がある。 10ページの12行目に『・・血液を売ったりした。・・』 の活字がある。

 映画では、刑事が犯人石井の身もとを洗う場面である。
 当映画のDVDビデオ映像では、スタート後、37分54秒から、13秒間1カットの固定カメラ映像である。

 昭和30年代前半頃、血液銀行にやって来た売血者は、一日600人~800人、まれには1000人を超える日もあったという。
 映画の画面に見える待合室は、実際には順番を待つ人で、大混雑していたであろう。

 必死の思いで、比重試験に合格した人が、200ccの採血で得た金額は400円である。2018年現在のお金に換算してみると、約20倍とすれば、8000円になる。ぜいたくしないで食べて飲むだけなら、いい稼ぎだったにちがいない。


≪人びとは、血液銀行へ、京成立石駅から、この道を歩いた≫

 筆者は平成30年7月10日、血液銀行への道を歩いてみた。


 バンクへ向かう時、400円ふところにして立石駅へ帰る時、みんな何を考えながら、この道を歩いたのだろう。

 立石駅への帰り道、なかには貧血で倒れてしまった人も、多くいたという。 

 知らせを受けたバンクから、すぐに看護婦が駆けつけて、バンクに連れ戻して手当てしたという。 薄い血の方が、血液製剤の原料として貴重な時代もあったので、だいじに扱ってもらえた。

 血を売る人の中には、女性もいた。さほど多くはなかったが、ほとんど赤ちゃんをおぶった人だった。 彼女たちは弱い立場だったので、採血の順番を都合付ける、仕切り屋に付いた。そして、ピンハネされていた。

 
 立石駅からバンクへの途中には、お菓子屋(食品店)があった。

 山崎パン屋が毎朝店の前に、パンが入った箱を置いていく。良からぬ売血者が、そのパンをバンクの待合所で売っていたのがばれて、バンクの職員がいつもお店にあやまりに行っていたという。

 売血者の血液型の中で、Rh(-)の人がいたら、それはもう大変な待遇で、特にAB型の人の時は、会社役員が出てきて、完全な特別待遇だったという。

 昭和40、50年代の頃、筆者の知人が、病院に入院して手術を
することになった時、その人と血液型は違っても、200ccとか400
ccとかを、その病院に献血しに行った記憶がある。 近年では、
エイズウィルス感染のチェックを兼ねて街頭での献血が、ブーム
のようになったことも思い出した。


【 5.編集後記・謝辞 】
 わがまちでは、京成立石駅の北側と南側に、新しい区役所を含む、商業施設と高層住宅に造り変える≪再開発≫という名の計画が、進められている。

 北側は、かつて赤線と呼ばれた歓楽街もあった街であり、こんにちでは、その名を知られた立石独特の飲食店が、数多くにぎわっている。
 南側には『昭和』 の名残りとして特に名高い、飲食・商店街が、人気高く残っており、区内外の多くの人達から、親しまれている。



 立石という街に、これだけのメスを入れるのであれば、この街の、戦前から戦後の復興史での、部分的な封印の姿勢を解くべきである。

 この街と人々の生活の歴史を、消滅させてしまう前に、わがまちは、かつて都道環状7号線工事の関連で実施した、遺跡調査活動のようなエネルギーで、口述記録、写真画像・映像、生活物品などの記録を、探し出して保存してほしい。

 いま生活している私たちの先輩たちは、戦後のきびしい生活環境の中を、生き抜いてきて、こんにちの、わがまちかつしかの生活風土を、築き上げてきた。
 誇るべき歴史の歩みと言える。

 このようなことにきちんと取り組んで、区民に広く情報公開することが、わがまちの、文化的品格を向上させるための責務である。
 再開発施設の中に、ぜひとも立石博物館を作ってほしい。


 本冊子で取り組んだ3件について、岡島秀夫さん(76才、立石で古書店を営んでいる)と、石戸暉久(てるひさ)さん(74才、町の文化と歴史をひも解く会で活動中)には、歴史の口述から図書・資料の拝借までお世話になった。

 特に、血液銀行については、石戸さんからは、『張込み』という映画の1シーンが、実際の建物がロケ地だったことを教えてもらった。
 岡島さんからは、親類の方が3名もバンクに務めておられ、その方達の口述記録のメモを見せてもらった。感謝多大です。

 数年前から、どうしても取組んでみたかった、立石地区の封印されている歴史の糸口を、やっと少し見ることができたような思いである。


≪参考資料・図書≫
・ 野中尚子 『立石の赤線地帯を通して見る日本の公娼制度』
   平成28年度 かつしか区民大学 ゼミ調べて書く  葛飾区教育委員会 
・ 石尾光之祐 『日の丸堂・その他』: 青木書店、昭和61年 【古本屋】創刊号
・ つげ忠男 『つげ忠男劇場』:ワイズ出版、1998年1月
・ 『散歩の達人 No.267』: 交通新聞社、2018年6月

                                          【了】