かつしかPPクラブ

≪大久保利通とその時代≫展で、初めて見た物 (下)=郡山利行

 (2) 利通暗殺資料

 1878(明治11)年5月14日朝、大久保利通は、赤坂仮御所に向かう途中、清水谷(現在千代田区紀尾井町)で、石川県士族島田一郎らの襲撃を受け、暗殺された。


 暗殺時に所持していたため血痕が付いた書簡
 明治11年5月13日付 楠本正隆書簡


 起業公債発行についての内容。 楠本正隆は大村藩士出身で、この書簡の当時は、東京府知事。


 大久保利通が、馬車に乗る時には置いていたという、護身用の拳銃。

 アメリカ、レミントン社製のデリンジャー上下2連先折式。襲撃を受けた時、使われたという記録はない。


 松方正義・鮫島尚信宛中井弘書簡

 日付はないが、大久保暗殺の直後である。

 元薩摩藩士の工部省大書記官中井弘が、当時フランスに滞在・出張中だった同郷の、松方正義(大蔵大輔)・鮫島尚信(特命全権大使)に、凶変を知らせたものである。


 「大翁ノ死ハ実ニ皇国ノ安危ニ関シタル一大事件ナリシ翁ノ死体ハ翁ノ居間ニ臥サシメ伊東方成等刀創ノ破裂ヲ補針シ白木綿ヲ以テ捲キ居レリ翁ノ頭上三ケ所ノ刀痕ハ深サ六寸右ノ腕ノ根ト首トノ間ニ大ナル刀痕突キタル者アリ又右ノ足ノ膝下ヲ半分程又背ノアバラノ脇ニ一大刀痕アリ左右ノ手ハ尽ク刀痕アリ是ハ翁ガ支エタル時ノ刀創トイハサル然トモ顔色平時ニ変ラズ僕一見以テ悲惨ノ情胸ニ満チタリ西郷大山等モ内閣連モ追々来リ集リ又後事ヲ議スルノ外ナカリシ伊藤ハ殊外涙ヲ流シ翁ノ非命ヲ嘆息セリ」
 などと、実見した遺体の状況や、集まった人々のようすを伝える。


 (3) 写真・肖像画



 維新当時の大久保利通写真

 1868(明治元)年頃の撮影とされる。

 唯一残された、和服姿の写真。


 パリの大久保利通写真
 1873(明治6)年撮影  

  オリジナルのプリントを複写拡大したもの。



 
 キヨソネ画大久保利通肖像
 1879(明治12)年

  大蔵省印刷局

 1873(明治6)年にパリで撮影された大礼服姿の写真をもとに、勲一等旭日大綬章を描き加えて完成されたもの。原画のコンテ画も現存する。

 孫の利謙(としあき)によれば、大久保家ではこの肖像画は「お写真様」と呼ばれ、子ども達は毎朝お辞儀をさせられたという。


【編集後記】

≪大久保利通とその時代≫展で、初めて実物の日記を見た。書いてある内容ではなく、筆記する場面に合わせたような、大小さまざまな形の、恐らく手作りと思われる日記帳そのものに、感嘆した。

そして、激動の時代の流れの中で、己のこと身の回りのことを、克明に筆記している姿を思い浮かべると、大久保利通が描いて実現しようとした日本の姿について、改めて自分なりに学んでみようかと、考えさせられた。

 1878(明治11)年5月14日の朝、想像を絶する刀痕で命を絶たれた大久保利通の状況資料は、完全に初めて接したので、衝撃ですらある。
 どうしてこんなむごい殺し方をしたのかと思う。

 大久保利通の代表的な3枚の、写真・肖像画を並べてみると、厳しい人生を駆け抜けた人であることが、一目瞭然である。

 キヨソネ画の肖像が、西郷隆盛のそれと同様に、広く知られることを望む。

新津きよみ・穂高健一の講演・対談『葛飾を歩いてみて~』

 新津きよみ&穂高健一による『葛飾を歩いてみて~ふたりの作家が語る講演会』が2015年10月4日に、鎌倉図書館にておこなわれた。
 


『新津きよみ』 柴又の散策では、久しぶりのうなぎをご馳走していただいて、とても美味しかったです。
(会場・笑い)

 柴又に訪れたのは2回目です。前回は十数年前に、信州の両親を連れて柴又を案内しました。その時はまだ渥美清さんがご存命で、しかも休日でしたから、満員電車のなかを歩くくらいの混雑ぶりでした。

 ただ、今日も予想外の人出でしたので、とても驚きました。

 

『新津きよみ』
 柴又をミステリーに使うのは難しいと思います。柴又を出しただけで「何かあるな」と、想像されてしまいますし、逃走犯が逃げるには、ちょっと有名すぎるかもしれません。

 となり近所が親しいので、知らない人がいたら、警察にすぐタレコミされてしまうでしょうね。
(会場・笑い)

 とは言っても、相変わらず食べ物屋さんは混雑していましたし、とても楽しい街なので、スリリングな場面に限らず、それらをいつか描写したいです。


『穂高健一』 新津さんの小説「指名手配」の作中で、僕が生活する立石が舞台となった場面があります。それを書かれたときの作者の心境について、聞かせていただけますか。

『新津きよみ』 私は本も好きですが、お酒も大好きです。
(会場・笑い)

 それを穂高さんに話したら、「立石に来ればいいよ」と言い、案内されました。あの時は昭和の顔を持つ街というテーマで、ご案内していただきましたよね。

 私が生まれたのは長野県大町市という田舎ですが、初めて来たのに、どこか懐かしさを覚えました。
 それで書いたのが「指名手配」です。この小説を読んでご紹介くださった読者の方が、今年5月15日の朝日新聞東京版に、逃亡犯の住まいはここだと掲載されていました。まさに、探偵の方みたいで、編集者ともどもおどろきました。

 その方は小・中学校の教師なんですよね、と新聞のコピーをみせる。

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葛飾区・花の町づくり(下) 花のまちづくり協議会 = 浦沢誠


  曳舟親水公園の花壇。
  花のまちづくり推進協議会と都立農産高等学校が協働で造った植え込み。
  2015年(平成27年)6月初旬撮影。
  
 花のまちづくり協議会


  15年位まえから活動を開始しています。写真2列目の中央にキャップをかぶっている3人のうち右端の方が会長の伊藤勝美さん(83歳)です。会長歴10年です。
  活動場所は亀有駅南口「コチ亀」前、曳舟親水公園とお花茶屋駅前の3か所です。この会は都立農産高等学校との協働で活動しています。

 写真は2015年(平成27年)6月2日(火曜日)お花茶屋駅前で撮影。

お花茶屋駅前の花壇に植え付けをしている伊藤会長と会員の女性


都立農産高等学校の学生たち

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葛飾区・花の町づくり(上)亀有花風船の会 オープニング=浦沢誠

 亀有花風船の会オープニング

2015年(平成27年)5月25日(月)快晴のもと、午前9時からこの会のオープニングセレモニーが亀有駅南口わき両津巡査長坐像裏の公園で、行われた。その後は3か所に
分かれて花の植え付けを行い、最後に地区センター第一会議室で茶話会と講演会があり、午前11時過ぎに散会した。
 会代表の本宮宏会長の挨拶、青木克徳区長の祝辞のあと記念植樹と記念撮影が行われた。
 花風船の会の名称の謂れは、今から35年前に子どもの幼稚園の卒園式に、中庭から七色の風船に花の種を乗せて飛ばしました。それが届いた埼玉県加須市の人との縁で地場産業の鯉のぼりを頂いた。その後も全国に花の美しさと花を大事にする心を伝えるために名付けました。と副会長の近藤文子さんは語った。
    

開会式直前の区長に、区が今年の4月から立ち上げた「かつしか花いっぱいのまちづくり」のホームページについて取材した。

 10年位前に区の企画部長だったころ、なんとか花で町を綺麗にしたいとの思いがありました。今日まで少しずつ区民の方と協働で花の苗木を育て、植樹しまちに花を植えて綺麗にする運動を進めてきました。

 今年の4月には「花いっぱいのまちづくり」のホームページを立ち上げました。
 一方では、「かつしか花いっぱいレポーター制度」もスタートさせ、区民のかたのボランティア活動による取材もしていただいているところです。
 また、「同推進協議会」も100以上の団体が参加しており、区民の団体、町会の団体その他多くの花づくりの輪が出来つつあります。みんなで楽しみながらこの運動を続けて行きたい。青木区長はそのように熱く語っていた。

写真: 亀有2丁目の緑化推進委員の近藤文子さんが縫製したエプロンを着用している青木区長


本宮会長は、代表の挨拶ので、この会は町会の枠を超えた連合町会の形で出来たものです。皆さんと一緒に仲良く、まちをきれいにしてゆきたい。

 駅前には両さんの像もあります。ここ2~3年のあいだ、アジアの国の人たちも増えてきて
います。亀有のまちが花いっぱいできれいだと言ってほしい。
この町がさらに発展していって欲しい。と語った。

写真:イベント直前の本宮宏会長                   
                        


 


 北口駅前の歩道脇の植樹帯で作業しているのは、西亀有4丁目町会所属の小関さんです。

「花が好きです。今年の1月に埼玉から引っ越してきました。」と話っていた

写真:小関清久(58歳)さん


 南口駅前三菱UFJ銀行脇花壇での植え付け作業をしているのは亀有1丁目から来られた平田真弓さんです。

  マリーゴールド、ペチュニア、千日向、ジニアを植えていました。

「今回初めて参加しました。公団亀有団地自治会長の小林さんから勧められました。」と語る。

写真:左側が平田真弓さん

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地域安全の窓口=鈴木ゆかり


 金町消防署の庁舎の窓が、目を引くデザインだったので興味を持ち取材を申し込んだ。



 
 平成27年7月21日(火)。この日は、葛飾納涼花火大会の日で、多くの署員が花火大会に向かう忙しい日だったが、特別にお話を伺う事ができた。
 取材に応じてくれたのは、金町消防署 予防課の肥(ひ)塚(づか)真理子消防士長と小島由美子さん。

金町消防署の歴史・活動、新庁舎のデザインコンセプトなどのお話が伺えた。

 新庁舎は、約3年の工事を経て平成25年3月15日に開署した7階建の素敵な建物だ。新庁舎をデザインしたのは、協立建築設計事務所の鈴木俊作氏。

 先の写真の青い窓は、江戸時代、火消しに使われたまといの形をモチーフに考えられた。内部は職員の待機宿舎などに使われている。

 大きな窓が飛び出ている部分は、食堂である。

 庁舎内は明るく、シンプルな感じがしたが、都民相談室や防災教室などのスペースがあり、地域の相談窓口など多くの機能を持った消防署である。


 金町消防署の歴史は、昭和9年4月に金町機関員派出所が設置され、当時はポンプ車1台、機関員2名だけだった。

 現在の庁舎の前身は、昭和44年4月から41年間にわたり使用されてきた。

 平成25年2月に現在の新庁舎が完成し、消防車5台、救急車1台が配備されている。222名の隊員の方がいて、昼夜を問わず区民や近隣地域のために働いてくれている。


「夏は、熱中症などの対応で救急車の出動が多い。地域連携の制度はあるが、台数には限界があるので、もし救急車を呼んだほうがよいのかと迷ったら、救急相談センター(#7119)へ問い合わせて欲しい。」

 話を聞いて救急処置が必要な場合は、相談センターから救急車を手配してくれる。


写真右の冊子「救急受診ガイド」は、年に数回ある消防イベントや学校、幼稚園などで配布されている。消防署でも手に入れる事ができる。

 ガイドは、チャート式で、症状ごとの対処法が書かれている。日頃から手元に置いて、読んでおくと、いざという時の心強い味方になってくれると思った。

 金町消防署のイベント情報などは、消防署のHPに掲載される。

 HPも沢山の窓で構成されていて興味深い。



 館内の様子(写真上)。階段の踊り場には、ポールがあるが、滑り降りる事は出来ない。

 以前は、消防署といえば、このポールが象徴的だったが、現在は危険なため使われていない。
 また、この階段は、江戸火消しのはしごをモチーフにデザインされている。江戸の面影を残す洗練されたデザインだ。


 外観にも工夫があった。

 消防署の出っ張り部分と前にあるトヨタ自動車の流線部分が中川の形を表現していると教えて頂いた。
 双方の間を通る水戸街道が中川の流れになる。何とも葛飾らしい発想だと思った。

 写真左は、金町消防署の守り神?“だるまもるん”。地域の方から寄贈され、公募で名前がつけられた。消防署の外に堂々と鎮座している。


 記者は、日頃の疑問をお二人に聞いてみた。火事でもなさそうなのに、なぜか消防車が来ている。
 そんな場面に遭遇する。もしかしたら、消防車に急患を搬送できる設備があるのかと、ずっと疑問に思っていた。

「消防車に急患を運べる設備はありませんが、隊員は全員救急救命の資格を持っているので、応急処置が必要な場合の対応が出来ます。救急車が到着するまでの応急処置で先行しているのです。」
 と教えてくれた。

 さらに「今まで亀有消防署には救急車が配備されていませんでした。今年10月1日からは、亀有消防署にも最新鋭の救急車が配備され、隊員も高度な資格を持った隊員が配属になります。」
 と最新情報も教えてくれた。なんとも頼もしいかぎりである。

                    平成27年8月 鈴木ゆかり

わがまち・かつしか・窓編「のぞいてみる?」=宮田栄子

猫の指定席

 吾輩は猫である。
吾輩は、お育ちがいいから外になんぞには、出ない。
日がな一日、こうして窓辺に座る。

 四季の移ろい、雨やはれ、そして何より、道を歩く人間、犬、猫、飛んでいく小鳥。見ていて飽きさせない。

 こら、いつも、写真を撮っていく、そこのおばさま。手招きして吾輩を外の世界に誘惑しないで。
 この窓は、吾輩のお気に入りの指定席。(東水元)
 

雫も窓にし 雫の中に


 雨上がりの庭で、雫がいっぱいのグミの葉をみつけた。

 マクロレンズをつけたカメラで覗くと、雫の中にまるで閉じ込められたように、淡い黄色のグミの花が幻想的に写りこんでいた。

 雫にも、窓がある(立石)


木枠の景色

 木の幹が交差して、変形の窓枠ができていた。見慣れた公園の景色も、雰囲気が変わってくる。

 夏の盛りの、蝉のぬけがらは、風通し良く涼しそうだ。(水元公園)


小さな世界


 最近に建てられた住宅は、あまり開放的でなく、小さい窓だけの家が多くみられる。外見からも、息苦しく感じないかと思ってしまうほどだ。

 だが、写真の窓は見ていて何故か楽しい。一面に並んだ10の窓は、室内から眺める人には、10の小さな世界を、見せてくれるにちがいない。(東水元)

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いろんな窓 = 馬塚志保子


病院の窓から見る景色  撮影 2015.4.30


まえがき
 
私は喫茶店の窓から、人が行き交う通りを、眺めるのが好きです。

今回は日々、病院と自宅を往復、という限られた中で、何が取材できるのか。「いや、それだから、書けるものがある」と自問自答していました。

 
「来た!」

 5月24日14時50分、ヘリコプターがやって来た。みんな窓際に寄って来て、病室は大さわぎである。向かいは朝日新聞社の屋上だ。一回だけ着陸し、すぐに離陸した。人の乗り降りはない。ほんの数分間の出来事である。
 月に1~2度現れて、この離着陸の訓練を行うという。

 ヘリは何故か、数メートル上がってホバリング。ちょっと前進し、これも少し後退して、そのまま昇って行った。室内には音は全く聞こえない。

 実は5月16日の夕刻、筆者はこのビルの下で、バタバタという爆音を聞いた。すぐにカメラを構えて見上げたが、ヘリはビルのかげにかくれてしまったのである。「残念」。

「これですか」と同室のNさんが、その時の絵を見せてくれた。
「えっ 写真に撮りました?」
「いいえ、じぃーっと見ていて、あとで描きました。あの時は、あの黒い建物から2、3人が出てきて、ヘリに乗り込みましたよ。荷物を持っていたから、訓練ではありませんね。いつもは人を乗せません」

 74歳(男性)のNさんは、もうすぐ退院の予定だ。「窓からの景色を絵日記として描いています。これを、コピーしてはがきに貼り付けます。退院の時にポストに入れて、お見舞いをいただいた方々へのご挨拶にします」
 その自慢の作品を見せてもらった。やさしい絵である。

「スケッチを始めたのは2010年ごろからです。絵具は100円ショップで買います。これが一番いいのです。線は万年筆(これも100円)で描きます。スペアインクも一緒に買わないと、後で手に入らない時がありますからね」と話した。



  病棟の食堂には、こんなすてきな窓もある

「何だ? これは」


 まるで屋根の上を、車が走っているようだ。これは16階の窓ガラスに反射した映像が、下の屋根に映っている現象である。
 どこを走っている車かと探してみた。

 なんと、屋根から500mも離れた交差点であった。軒下の車は、どれが本物か、影なのか見分けがつかない。


ここは、廊下の片隅にある小部屋。時たまこの窓際に座って、外を眺めている人がいる。

 屋根の車の映像が見えるのは、左のガラス(写真)、見る位置と角度があるのだ。いわば、知る人ぞ知る、不思議なガラス(空間)である。


 汐留シティセンター 

 病室から眺める、超高層ビルは芸術的だ。汐留シティセンターは、その中で一番高い。曲線を描いた、緑がかったガラスに、映った建物たちがとても美しい。そこで、病院の帰りに、途中下車して汐留を撮りに行った。

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性同一性障害・りりーさん = 斉藤永江

 2014年8月、『性同一性障害・友子さん』の記事を書いた。金髪でミニスカート姿で現れた奇抜さには驚き、筆者はインタビューを願い入れた。当時は彼女の現状を伝えるだけの内容であった。

 あれから1年が過ぎた。
 友子さんとの交流は続いた。定期的に会い、お酒を飲みながら親交を深めた。


 趣味や思想に加え、悩みや葛藤も、未来の夢に至るまで赤裸々に語る彼女の口跡を書き記したい。

「以前は金八先生の桜田友子役に憧れて友子と名乗っていました。これからは、リリーと呼んでくださいね」
 映画『男はつらいよ』のマドンナ、浅丘ルリ子演じるリリーが最終的にめざす女性像なのだと言う。
 性同一性障害の、りりーさんのその後を追ってみた。

 リリーさんは、2004年4月から2008年9月まで葛飾区立石の渋江公園で路上生活を送っていた。NPO法人自立サポートセンターに保護され現在は青戸のアパートに住んでいる。

 8万円の生活保護費で全てを賄う。
「お金を頂いたその日に、1か月分の食料を買います。おもに100円ローソンの餃子と焼売。そのまま冷凍保存できますからね。あとは大好物の納豆を買い込みます。納豆を韓国のりで巻いて食べるのが好きなのですが韓国のりまで買うお金がないんです」と笑う。

 居酒屋の席でビニール袋からごそごそと何かを出している。
「拾ったタバコです。毎晩12時になるとタバコの吸い殻を探しに散歩に出るんです。まだ吸えそうな長さのものを拾います。こうしてハサミで吸い口だけ少し切り落として吸うんですよ」
 3㎝にも満たない短いタバコを器用に指にはさんで吸っている。

「危ない、短くなってるよ、リリーさん。やけどするよ」
 そう心配する声に、
「慣れてるから大丈夫なんです」と笑う。

 リリーさんについて話す近所の人の話を耳にしたことがある。『夜中にたばこの吸い殻を拾って清掃活動をしてくれている偉い人』という解釈だった。
 なるほど、まさか、数センチにまで短くなった吸い殻を集めて吸っているとは想像できないはずだ。

「雨が続くと吸い殻がだめになってしまうので辛いんです。でも、ごくたまに、コンビニの手つかずのお弁当が捨てられているご馳走にありつけることがあるのです。そんな時は本当に嬉しいですね」

 リリーさんは外出時、必ずヘッドホンを耳にして音楽を聴きながら歩く。
「わたくしのいで立ちへの偏見は今だに強く、通り過ぎぎわで、気持ち悪いとか、あっちへ行けとか、死ねとか、ひどい言葉を浴びせられることがしょっちゅうです。それらの声が聞こえないように常に音楽を流しています。洋楽から演歌まで何でも聞きますよ」
 読書も趣味の一つだ。
「お酒のつまみは本を読むことなんです。図書館の貸出は、30冊までですよ。本を読みながらお酒を飲みます。語学の本や西洋美術の写真集が好きです。読み聞かせの活動もしてみたいです」

一人で過ごす時間が多いリリーさんには趣味が多い。

 その一つに日本古来の武器の収集がある。
「育った家の床の間に日本刀が飾ってあった影響で興味を持つようになりました。父と母が亡くなって家を売り払ったお金で買い求めました」
日本刀、ヌンチャク、手裏剣、一つ一つの詳しい使い方の解説が始まる。実際に振りかざしながら真剣に語る姿には、武術道に対するリリーさんの熱い思いを感じた。

「経済的な余裕があれば、武術学校に通いたいのですが、趣味に回せるだけの余裕が今の私にはありません」
 リリーさんは残念そうに語った。

 日本では、2003年7月10日に『性同一性障害者特例法』が成立し、翌年7月16日に施行されている。
 これにより、一定の条件を満たせば戸籍上の性別変更が可能になった。法務省の統計によれば、2012年までに約4000人が性別を変更している。

 しかしながら、世間の偏見と差別は根強いものがあり、職探しは困難を極める。
「今まで200社あまりに断られてきました。その1部をお見せしますよ」
 そう言って数枚の封書を差し出した。

「どの会社も対応は良くしてはくださるんです。でも採用の人がOKを出してくださっても、社内の上層部に理解をもとめなければいけないという理由で結局は断られてしまうのです。浅草寺境内の掃除の話はいいところまでいっていたのですけどね。観光客の目を考えると難しいという理由でだめでした。60才になる前には正職につきたいと焦っているのです」
 現在は担当のケースワーカーと連携をとりながら、ハローワークへも積極的に足を運んでいる。

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隙間植物シリーズ  その2 = 須藤裕子

写真には、撮影者の心が表われる。
心が写真という「窓」を通して外とつながる。
「窓」といえば気になるのは、「隙間植物」。
窮屈そうに、コンクリートの隙間に生える草たち。
だが、
うまく適応して生きている。
狭ければ、狭いなりに、日当たりがよくなければ、それなりに。
なんという柔軟さ!
草の人生に、
人間の生きざまが重なって見えた。


草の緻密な模様。
こんな柄の服はどうかな。
このままでいい?
いや、
違う草が入っても面白そう。


まるで、牢獄に捕らわれた草。
が、
ここで肝心なのは、
くれぐれも、
伸び過ぎないこと。


とかく目立つ方には目がいくけれど、
目立たず、
小さく、
それなりに生えて、生きている草がいる。
「やっほー!
クローバーと一緒に撮ってもらったよ!」
・・・・・・と言っているのかどうか。

個性がない生え方というけれど、
団地に住んでいる住民と、
さほど変わらないような気がする。



苦労続きだったのだろう。
なぎ倒される度に立ち上がり、
とうとう、
花を咲かせた「セイタカアワダチソウ」。
ひと花咲かせた。
これはもう
立派なものだ。
今度は
花粉をいっぱい飛ばそう!


まぁ、住めば都。
・・・・・・というか、住んだもの勝ち。


おーっと、
暗い排水管を出たら、
外は明るく、広い。
そばを通る人の足音が聞こえる。
どっちに伸びていくかは自分が決める。


あーあ、
引き抜かれちゃった。

一年経ったら、
「ヘクソカズラ」が2本出てきて、花をつけた。
さて、どこまで伸びるか、
もっと生えてくるか。

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『平和の願い・被爆70年』長崎平和祈念式典記事に想う=郡山利行

 今年2015(平成27)年8月10日の朝日新聞朝刊の第1面に、前日に開かれた被爆70年の『長崎平和祈念式典』の模様が掲載された。

 紙面の中央に、被爆者代表として、『核廃絶の思い 覆そうとするもの許せない』と、「平和への誓い」を読み上げた、谷口稜曄(すみてる)さん(86)の記事がある。

 掲載された谷口さんのお顔を見て、約5年前の出来事を思い出した。

 2010(平成22)年9月25日、筆者は葛飾区南水元の自宅近くにある、東京都立葛飾総合高校(葛総高)の文化祭に行き、そこで目を見張る展示に出会った。

 一つの教室全体に飾られた大小の真っ白い折り鶴。何の説明もなく、廊下側の窓から眺めるだけの展示で、タイトルとして「平和の教室」とだけ、掲示されていた。

 展示は、翌年2011(平成23)年の春に、長崎へ修学旅行に行く2年生の、修学旅行委員会のものだった。生徒達は、二日間の文化祭終了と同時に、折り鶴を大きさごとに箱に分けて保存し、旅行出発前に千羽鶴にしたという。
 そして、2011年2月初旬に、修学旅行先の長崎で、原爆資料館に千羽鶴を納め、谷口さんから平和講話をしてもらった。
 講話終了後、修学旅行委員長のMさんが、谷口さんに「平和の教室」写真をプレゼントした。


 
 この写真は筆者が撮影して、文化祭当日に葛総高にプレゼントしたものである。
 後日2010年12月、その年の読売新聞社主催の、『よみうり写真大賞』の≪ニュース・ドキュメンタリー部門≫で、佳作に入選した思い出の作品でもある。

 4年半前の高校生たちの、修学旅行での「平和学習」を通して、今なおご活躍中の谷口さんに、間接的ながらお会いしたような気がしてならない。
 これからも核廃絶の語り部として、活躍されることを願う。