かつしかPPクラブ

「かつしかPPクラブ」の定例講座の活動模様

「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)は、葛飾区民記者の自主グルーブである。発足から3年が経過した。現在の会員数は16人である。活動内容としては、区内のイベント、神社仏閣などの行事、四季の移り変わり、人物インタビューなどを丹念に取材したうえで、冊子にして関係者などに配付している。

 区民記者として毎月の勉強会、情報交換会を開催し、たがいに切磋琢磨している。他方で、「記事の書き方」「報道写真の撮り方」「インタビューの方法」という3本柱の腕を磨くために、年4回は講座を開いて提出された冊子(表紙・裏表紙+6ページの記事)の講評を行う。

 今年最初の講座は、2月15日(金)だった。場所は同区東立石地区センター2階で、18時30分から21時まで、2時間半にわたって開催された。16人の会員のうち、参加者は15人(1人は海外旅行で欠席)という高い出席率である。
「出席を促さないでも、全員が集まった」と浦沢会長が話す。記者として意欲と熱意の表れだろう。

 今回は、同区教育委員会・生涯学習課の取材要請で、1月19日(土)に開催された『第5回堀切大凧揚げ大会』を取り上げた記事が中心だった。

 同大会の発足は、堀切中学校のOBと現役の生徒が「堀切は花菖蒲で有名だけど、それ以外の何かしらイベントをやろう」、と思慮していた。新潟市南区白根に縁者がいる、OBがいた。白根の大凧は世界最大級である。そこの協力をもって「凧揚げ大会」をやろう、と決まったのだ。

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東日本大震災・2人の友人②=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生として、叙述文にも力を入れています。
  

作者HP
  


東日本大震災・2人の友人②  斉藤永江

 宮城県名取市に住む友人からは、震災3日目に電話が入った。本人とご家族の無事が確認できて私は心から安堵した。
 しかし、福島県南相馬市に住むYちゃんは連絡が取れないままだった。何度か携帯電話から安否確認のメールを送ってはみたが、返事はまったく来なかった。

 1週間が過ぎる頃には最悪の状況が頭をよぎり、怖くてメールができなくなった。私が語りかけている内容は全て空々(そらぞら)しいものに思えた。それどころか、彼女の携帯電話は今存在しているのだろうか・・・・そして彼女も。
(そんな恐ろしいことあるはずない。あってはならない)
 不安な思いが頭をよぎるたびにかき消す。

 私は毎朝起きるとすぐにテレビをつけて、ニュース番組にかじりついた。仕事から帰った後も家事の合間をみては、南相馬市の情報がないかとチャンネルを替え続けた。

 Yちゃんと私が知り合ったのは、2005年8月で、ネット掲示板上への書き込みが切っ掛けだった。
『同年代で悩みを語りあいましょう』
 というコミュニティにふたりは同じ時期に参加したのだ。そこには全国から50人ほどの仲間が集っていた。
『初めまして、東京から参加のIです』
『初めまして福島から参加のYです。よろしくね』
 匿名同士ではあったが、全国に散らばる仲間が、近況や悩みを書き連ね、それに対してコメントを出し合っていた。実際には会うことのないバーチャルな付き合いだった。

『おはよう。東京は良いお天気。今日は仕事だよ。頑張ってくるね』
『おはよう。福島も同じく晴天。今日は休み。孫の世話で1日暮れるかな~』
『広島は宮島の紅葉が真っ盛り。昨日、実家婆と出かけたよ』
『ここ北海道は猛吹雪。外の景色もわからない。寒いよ~』
 そんなたわいもない話から、子育てや自分の健康や悩み、親の介護問題の深い話にまで及ぶ。楽しいことも辛いことも、しがらみなく本心を吐露できる。こうした掲示板への書き込みに私は夢中になった。家にいる時は、朝から晩までパソコンを開き、実際の友人には話せない愚痴や相談ごとを書き続けた。仲間からの的確なアドバイスや優しい言葉には励まされることが多かった。

 本名も年齢も実際に住んでる本当の住所もわからない。もしかしたら男か女かさえ定かではない。書いてることも嘘なのかもしれない。それでも良いと思っていた。実態がどうであれ、私が掲示板の存在に癒され救われていることは事実だった。何よりも部屋にいながら全国の仲間と対話ができる。気心までも知り合える。ネット時代に育たなかった私には、それが遠い未来からの贈り物のように思えた。

 数ヶ月が過ぎたころになると、たくさんの書き込みを通じてお互いの人となりがわかるようになり、信頼関係が育ってきた。

 半年ほど経った頃、誰からとなく、『一度みんなで集まってみない?』という話になった。
 バーチャルだけの付き合いと思って参加してきたが、掲示板の仲間と初めて顔を合わせることになったのだ。そんなことができる世の中なんだ。すごいな。今の時代に生きていて良かった。私は初めて扉を開くような、未知の出会いにわくわくした。

 2006年2月、名古屋で会が催され15人が初めて顔を合わせた。そこで初めて私は同じ年でもある、南相馬市のYちゃんと会った。成人式を迎えたばかりの息子が名古屋に住み、その上の娘にはすでに2人の子がいる。40代にして、もはや2人の孫がいると、掲示板の書き込みから知っていた。

『私は大女だよ。眉がないの。だからちゃんと眉を書かないと怖い顔なの』
 掲示板の通り、身長が170cm近くあり、眉の細い迫力のある顔立ちだったが、すっきり切れ長の目が映える美人だった。
『Yちゃん、綺麗~。姉御って感じだね』
 私はYちゃんの顔を見上げて言った。
『Iちゃんは、小さくて可愛いね』
 Yちゃんはきりっと涼やかな目をして笑った。
 性格があけっぴろげでさっぱりしている者同士であり、初対面にして話がよく合った。

 それから7年の間には、彼女が東京に来ると、浅草や柴又など観光地を案内したり食事にも出かけたりした。私の自宅に寄ってもらったこともあった。
 子育てや家庭の悩みの他にも、プライベートな出来事から内緒の話まで、お互いの秘密を打ち明けあう仲になっていた。
 掲示板上での書き込みも従前どおりで、『名古屋の息子が結婚したよ』、『娘に3人目の孫が生まれるよ』、と彼女の周りにはおめでたい話しが続いていた。

そんな中、東日本大震災が起こった。仲間の心配は尋常ではなかった。
『Yちゃん、確か福島って言ってたよね。どうなの?大丈夫なのかな?』
『今頃どこでどうしているんだろ。誰か連絡取れた?』
 安否を心配する書き込みが続いたが、Yちゃんがパソコンを見られるわけのないことは、みんなわかっていた。それでも問い続けた。

 震災から1ヶ月半が過ぎた4月28日だった。待ちわびたYちゃんからの書き込みがあった。内容よりも何よりも、Yちゃんの名前を発見しただけで、とりあえずの無事がわかって深く安堵した。
「良かった、生きてたんだ・・」

『あの日普通に仕事をしてた。もうすぐ3時の休憩だな~って』
 この文章で始まるYちゃんの書き込みは長かった。でも、内容よりも何よりも状況が知りたくて、私はバァーっと最初から最後まで目を通した。そこにはYちゃんしか体験し得ない大変な内容が書かれていた。
「書ける状況になったんだね。書いてもいいって思ったんだね。ほんとに良かったよ」
 その後に、ゆっくりじっくりと、一言も読み落とすまいと何度も繰り返して読んだ。

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写真で愉しむ、葛飾区のビッグな凧揚げ大会(下)=郡山利行

 凧の無料配布(限定250基)が行われた。今年の土曜日は小学校の登校日と重なったので、配布終了までに時間がかかった。

 それだけに、幼子たちには凧を手にすることができた。もらった子凧に絵をかく、幼児たち。それを見守る親たちの顔が優しい。


 

「まだ、まだ、凧があるよ」係員が子どもらに渡す凧は白地である。

 どんな絵を画くのかな。



 もらった子凧、持ってきた凧、河川敷の現地で作った凧など、快晴の穏やかな風に揚がった。

 「智恵子は東京に空がないといったが、葛飾には青空があった」という想いで、ゆっくり上空を仰ぐ。これも凧揚げ大会の妙味かな。

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写真で愉しむ、葛飾区のビッグな凧揚げ大会(上)=郡山利行

 24畳の巨大な凧(タコ)が快晴の空に、葛飾区内を流れる荒川の河川敷から舞い上がった。23区内では指折りのビッグな「第5回堀切大凧揚げ大会」が1月19日(土)に開催された。凧合戦で知られる、新潟市南区白根の「白根凧合戦協会」の全面協力の下で行われた。主催は同実行委員会と区教育委員会である。
 
 白根凧合戦協会の24畳の大凧のほかに、区立堀切中学校の生徒の手によって制作された凧などが多彩に舞い上がった。
 一般の参加者たちには小さな凧が250個が無料配されて、親子などで和気あいあい愉しむなど、地域イベントとして定着してきた。と同時に、『下町堀切まち歩きと大凧揚げ大会ツアー』もおこなわれるほど、人気は急上昇中である。

 最大級の巨大な凧が東京スカイツリーを背景して舞う。写真にしろ、映像にしろ、観る人を楽しませるだけに、大手報道各社の記者が数多く取材に押しかけていた。

 かつしかPPクラブの区民記者も12人が取材にくり出した。まずは速報として写真で紹介する。


 葛飾区が区制80周年を記念して、特注した、2基の12畳大凧がならぶ。対岸には東京スカイツリーが屹立(きつりつ)する。



凧揚げ会場は野球場と堀切水辺公園である。荒川の左岸河川敷で、ぜいたくなほど広々としている。

河川敷施設の管理運営が同区・教育委員会の生涯スポーツ課と都市整備部の公園課である、とはあまり知られていない。



 第1回は雨のなかで開催された。第2回は東電の高圧送電線に(中学生の)凧が絡まった。こうした経緯がある大会だけに、関係者には愉しさを演じながらも、どこか緊張感が漂っていた。

 大会前には凧職人が、「24畳大凧の組み立て」を行う。伝統ある喧嘩凧だけに、太いロープが威圧感を伴っていた。

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東日本大震災・2人の友人①=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生として、叙述文にも力を入れています。
  

作者HP
  


東日本大震災・2人の友人①  斉藤永江


 平成23年3月11日、14時46分、東日本大震災が起きた。

 職場のテレビで、家屋や木々、飛行機までもが津波に飲み込まれていく映像を見ながら、大変なことが起きてしまった、と恐怖感でいっぱいになった。
 即座に、福島県と宮城県に住む2人の友人の安否が頭をかすめた。
「どこだっけ、2人の住まいは」
 私は、夢中で今年の年賀状を広げた。早く早く、早く確認しなくちゃ。年賀状をめくる手がもどかしく震えた。
「あった。年賀状があった」
 1人は福島県南相馬市、もう1人は宮城県名取市であった。
 私は絶句した。一番、被害が大きい所じゃないの、と。すぐに安否を確認するメールを送ったが、地震当日は届くわけもなかった。

 私は、テレビ画面を食い入るように見た。ニュースから流れる情報を1つとして聞き逃すまいと、全てのチャンネルをくまなく合わせて回し続けた。
 悪夢のような津波映像をじっと眺めながら、生きた人間が流されていく。この現実を想い、やり場のない怒りと悲しみから体が熱くなった。
「こんなことが現実に起きるなんて」
 ニュースの報道は、最悪に最悪を重ね、とどまることのない惨劇を流し続けていた。その日の私は、寝ることもなく朝までニュースの映像を見つめていた。
 翌日になると、更に信じられないニュースが流れた。福島第一原発の事故だ。

「うそだ」
 南相馬に住む友人の職場は、浪江町にあるのだ。
「ありえないわ、なんてこと・・・」
 曖昧とした関係者の記者会見の映像を見ながら、これ以上の惨状にはならないことを強く願った。

 震災から一夜明けた日、2人の友人は、今どこでどうしているのか。もしかしたら・・・と、最悪の事態が頭をかすめる。もう1人の私がかき消す。そんなわけない。あるはずない。あってはならない。
 私は不安な気持ちをどこにぶつけていいのか解らず悶々としていた。

 ニュースでは、被害状況、死者行方不明など、信じがたい現実が少しずつ明らかになっていった。
 翌日は、メールを送らなかった。身内でも親戚でもない私が騒ぎたてても、という思いもあったが、2人の安否を確認するのが怖くなったからだ。
 向こうからの連絡を待つしかないか、と私は一方で観念した。

 震災から3日目、携帯電話が鳴った。名取市の友人からだった。心臓がギクリとして、受信ボタンを押す手が震えた。
「もしもしっ、H君?」
「あーもしもし、のりちゃん?僕は無事です。安心してください」
 東北なまりの朴訥(ぼくとつ)とした懐かしい声を聞き終わる前に、安堵で胸が張り裂けそうになった。
「無事だったのね。良かった。心配してたんだよ。でもこんな時に、私なんかに電話してて大丈夫の?」 連絡をくれてありがとう、という嬉しい気持ちと、大変な時に、わざわざ東京まで電話をくれるなんて、と心配する気持ちが交錯して自分でも複雑な心境だった。
「のりちゃん、心配してると思って」
 その言葉を聞いた後、私は声にならなかった。
                               

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かつしか区民大学・特別講演会=パネラーも「楽しかった一日です」

「楽しかったよ。パネラーも楽しめる、フォーラムだった」
 出久根達郎さん(直木賞作家)が、会場から出て、雨降るなか、葛飾・立石の飲み屋に向かうさなか、開口一番に、そう言った。

 日本ペンクラブの「ペンの日」(11/26)の東京會舘で、各パネラーから声をかけられた。

「いや、良かった。楽しかったよ」
 轡田隆史さん(元朝日新聞論説委員)が笑みを浮かべていた。
「良い写真冊子が届いた、凄いね。かつしかPPクラブのメンバーなの。すごいね」
 吉岡忍さん(ノンフィクション作家)が、郡山利行さんの記事・写真集をべた誉めしていた。
「そんなに、ニコニコ顔だった、ぼくが?」
 吉澤一成さん(日本ペンクラブ事務局長)
「ありがとう。もっと本を持って行けばよかった。20冊があっという間に売れたし」
 新津きよみさん(推理小説作家)の紹介本で、私が会場で掲げて見せた、その文庫本までも販売した。彼女からは、差し上げたものだったからと言い、ていねいにも、その本が郵送で届いていた。

 東京・葛飾区は区制が敷かれて、今年で80年を迎えた。80周年記念行事で、「かつしか区民大学」の特別講演会が11月17日(土)午後2-4時開催された。場所はウィメンズパル(同区・立石)で、タイトルは「日本ペンクラブのメンバーが『下町葛飾・立石』の魅力を語る」である。
        
 各パネラーが「台本なし」で思いのまま語った。私(穂高)はコーディネーターを行った。

 かつしかPPクラブの区民記者が講演録と写真を取っているので、いずれかの機会に、「みんなの作品」コーナーに掲載されます。
 各パネラーの顔の表情とか、二次会の写真とか、その様子も含めて?


                     写真提供:郡山利行、滝アヤ

いちばん好きなこと=井出三知子

作者紹介:井出 三知子さん
      かつしか区民大学「区民記者養成講座」を経て「かつしかPPクラブ」で、取材活動を行う。
      他方で、朝日カルチャーセンター「フォトエッセイ入門」の受講生
      海外旅行と海中写真撮影を得意としています。 


                           いちばん好きなこと PDF


 いちばん好きなこと  井出三知子 

 月に3回は夜7時に迎えに行って、わが家に一緒に帰るようになって、2年が経った。
 彼は星が大好きで、かならず北斗七星を探して教えてくれる。私は移動する星の位置で季節の移り変わりを感じていた。

 8月のある日、いつものように星を探して歩いていると、彼は何を思ったのか、突然に、
「僕は好きな人が3人いるんだけど、いでちゃんが一番好きだよ」
 と言い出した。
 一番好きか、なんて、言われた事も言った事も、その遠い昔にあった。だが、すでに記憶のかなたに埋もれてしまっていた言葉だった。
 久しぶりに聞いた、その言葉の響きが、私の心の中を暖かい風のように吹きぬけていた。
 「3人って誰なの?」
「お母さんと幼稚園のゆうたくんと、そしていでちゃんだよ」
「お兄ちゃんが入ってないの」
「お兄ちゃんはいじわるするから嫌い。いでちゃんが一番好だって言ったことは、お母さんに内緒だよ」
 まったく調子がいいのだから、子ども特有の世渡りの術で、私を喜ばしてくれる。もちろん、母親が一番好きなのは百も承知だ。それでも一瞬でも、彼の口から出た一言は、一緒に過ごした時間が報われたように思えた。

                                     日本大百科全書より


 彼の名前は暖貴君(ハルキ)6歳、しし座、あだ名は物知り博士。好き物はチョコレート、ウルトラマン、トム&ジェリーそして星座である。
 2010年7月に私は、会社を定年で退職した。前から解っていたことだったが、自分を必要としている場所が無くなってしまう、その寂しさでいっぱいになっていた。

 そんな時、葛飾区の子育てボランティアの制度を知り登録した。

 同区が最初に紹介してきたのが、はるき君だった。保育所では7時までしか預かってくれない。おかあさんがその時間まで迎えに行けない時だけ、私が代理で迎えに行った。そして、わが家で預っていた。
 1ケ月3回だったが、それでも必要とされていることがうれしくて、仕事がなくなった私にとって、趣味とは違う緊張感があった。
 一番良かったのは、ボランティアをすることによって、会社生活の枠の中から、新しい生活にスムーズに移行させてくれたことだった。
 まったく地域と係らないで生きてきた私が、地域に溶け込む、第一歩になっていった。はるき君をサポートする立場なのに、実は私がサポートしてもらっていたという思いがある。

 彼は時どき私に質問をする。ウルトラマンは何人いるのか。ポテトチップはどうしてできたのか。夏の雲な何なのか。
「ものしり博士」とあだながついて当然だ、とおもわせるくらい、いろんな事を話してくれる。

 先日、彼の質問の意味がわからなくて、私がパソコンで調べていた。その姿を見ていた彼がパソコンがやりたかったらしい。
 数日後のある日、保育所からわが家の着くと、
「おかあさん遅く迎えにくればいいな」
 と言いながら、パソコンのまえで、あれこれ夢中で検索していた。もちろん、電源の入れ方から私が教えたのだが、脅威的な速さで覚えてしまった。

「僕はいでちゃんが一番好きだけど、いでちゃんは何が一番好きなの」
 とはるき君から質問されて、とっさに
「はるきが一番すきだよ」
 と答えたものの、はるきの言葉が頭から離れなかった。
 いったい私は何が好きなのだろうか。何をしている時が一番好きなのだろうか。何がしたいのだろうかと自問自答していた。

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百年復元・新装東京駅の散歩=郡山利行


 東京駅の「丸の内北口」ドームの下で、丸の内のOLたちがすこし興奮気味に、ドームのデザインや彫り物を眺めていました。

                                           10月4日 


 新装の東京駅です。

 丸の内中央口前は車の洪水と人の波です。

                                          10月17日 


 丸の内・北口はすてきな駅舎ドームです。

 乗降客と観光客がドームを眺めています。

 
 
                                           10月4日 


 東京駅の真ん前にある、新丸ビルからも美しいスポットです。

 2階から1階に降りるエスカレーターから見た情景です。

       
                                        10月17日 


 新丸ビルの7階『丸の内ハウス』のテラスでは、中高年のご婦人方がランチタイムを楽しんでいました。


                                        10月17日 

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葛飾区制施行80周年記念式典=斉藤永江


 葛飾に力あり 葛飾区制施行80周年記念式典
     
 平成24年10月1日、かつしかシンフォニーヒルズで、葛飾区制施行80周年を祝う記念式典がとり行われた。主催は、葛飾区及び同区議会である。
 同区は、昭和7年10月に南葛飾郡の5町2村が東京市に編入され、それらを合併して葛飾区が誕生した。
 当時の人口は、約8万5千人で、現在の約44万人に比べると、5分の1からのスタートであった。

 2階のギャラリーでは、同区の歴史を振り返るパネル展が開催された。80年前と現在の写真が展示され、訪れた人は、興味深く、見入っていた。
 13:30から開始された式典は、国歌、区歌斉唱で始まった。
 その後、同区長、青木克徳氏から挨拶があった。「戦中、戦後、復興、バブル崩壊、3・11震災と、数々の試練を乗り越えて、今の葛飾の繁栄があります。スカイツリー効果もあり、人と人とのつながりを大切にする下町が見直され、その評価が高まっています。高齢化問題、子育て、街づくりと、課題はたくさんありますが、今後の更なる発展のために、皆さまのご支援とご協力を賜りたいと思います」と、力強く語った。

 次に、同区議会議長、梅沢五十六氏から挨拶があった。「昭和7年、葛飾区制施行の年に、初めての区議会選挙が施行され、36名が第1期議員として当選しました。その後、昭和18年の東京都制施行を経て、昭和22年に、23区は特別区になりました。最大期に52名まで増えた議員数は、定数の見直しにより、平成17年からは、現在の40名になっています。
 この間に、数々の重要事項の審議、決定を行ってきました。今後も区民の皆さまとの連携を密にとり、次の世代に受け渡せるように努力していきます」と、力強く語った。

 続いて、衆議院議員・平沢勝栄氏、同議員・早川久美子氏、参議院議員・山口なつお氏、同議員・田村智子氏の4名から、来賓の挨拶があった。

 式典には、地域活動や産業、健康、福祉、教育、文化・スポーツの発展に貢献した、約270団体の代表者が招かれ、区長から特別表彰を受けた。

 シニアピア・傾聴ボランティアの会「きかせて」の、常田恵美子さん(写真右)と、小澤恒美さん。施設や在宅を訪問して、お年寄りの話に耳を傾けている。

「発足は、平成15年10月で、来年で10年目を迎えます。会の中でも、節目の年に何かお祝いしたいねと考えていたところ、このような名誉あるお話をいただいて、大変嬉しく思います。これからも、お年寄りのために、施設や在宅を精力的に回る活動を続けていきたいです」と、笑顔で語った。

 小宮康孝氏(染色家)、山田洋次氏(映画監督・脚本家)、福田千恵氏(日本画家)、秋元治氏(漫画家)の4人が、名誉区民として選らばれ、舞台上にて顕彰式が行われた。

 山田洋次氏は、「今日は、僕にとって忘れることのできない嬉しい日になりました。生まれも育ちも満州なので、僕にはふるさとがありません。寅さんのふるさとを、どこにしようかと全国を歩いて、帝釈天のある柴又の参道にある家を生家と決めました。1968年のことでした。それから、28年にわたって撮影は続き、葛飾とのご縁も深くなっていきました。これからもお力になれればと思います」と、感慨深げに語った。

 秋元治氏は、「山田監督の『男はつらいよ』を見て、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の題名を決めました。『わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です』と聞いたとき、度肝を抜かれるほどの衝撃を受けました。そんなふうに、はっきりと地元名を書けたらいいなと思い、葛飾と亀有を入れることにしました。あれから、36年間続いています。山田監督のお陰です。担当者からは、題名が長すぎて、構成に困ると嫌がられました」と、会場の笑いを誘った。

 4氏には、それぞれ、表彰状と名誉区民記章、記念品が贈呈された。
 和やかな雰囲気の中、表彰式は終わり、第1部の式典が終了した。

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小休止=井出三知子

作者紹介:井出 三知子さん
      かつしか区民大学「区民記者養成講座」を経て「かつしかPPクラブ」で、取材活動を行う。
      他方で、朝日カルチャーセンター「フォトエッセイ入門」の受講生
      海外旅行と海中写真撮影を得意としています。 

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小休止  井出三知子

「京成電車の青砥駅で乗ってね。一番前の車両に居るから」
 成田空港から海外旅行に出かける時は、いつも同じメールが入ってくる。彼女と一緒に海外旅行をするようになって何回目になったのだろう。
 学生時代は全く話をした事は無く、30年ぶりの同窓会で逢って親しくなった。早いものであれから15年もたっている。
 彼女は気功の先生をしていたので私は週1回、夜仕事の帰りに習いに行っていた。
 先生と生徒の関係が淡々と過ぎて2年がたった頃、
「私も海外旅行に行きたいな」
 と言ってきた。

 思いがけない、その言葉に非常に驚いてしまった。彼女は結婚していて両親と一緒に住んでいた。気功が終わるとさっさと帰ってしまうので、お茶に誘うのも遠慮がちだったからだ。だから、泊まりがけの旅行は無理だと思っていた。
 私自身はいつも旅行から帰って来ると、彼女に楽しかった事、失敗した事、空港に降立った時に感じるその国独特の臭い、知らなかった事を知るわくわく感がたまらないから、やめられないなどと熱くしゃべっていた。

「旦那様を置いて大丈夫なの」
「これからは少しずつ自立してやりたいことやっていこうと思っている」
「大賛成、絶対にそうした方が良いと思うよ。」
「だけど行きたいは嫌よ、行こうでなくては」
 今まで「行きたい」「やりたい」などの「たい」にはずいぶんと振回されてきた。本気だろうと思って、私のできることは協力しようと、具体的な話を始めると、一向に話が進まなくなるのだ。そんな事が何回もあったので、経験上「たい」は「おはよう」「さようなら」の挨拶のようなもので、その場の話を円滑にするサービス精神の言葉に違いないと理解するようになっていた。
 また、無駄な労力は嫌だった。

 予想に反して、彼女からは「行くから」とすぐに答えが返ってきた。短期間で行ける近場のソウル3日間のツアーに参加することにした。

 羽田空港の待ち合わせ場所に着くと彼女の隣に男性がいた。だんな様だった。ていねいに挨拶をされた。
「よろしくお願いいたします。危ない所に行かないこと、移動はタクシーで、夜はなるべく早くホテルに……」
 途中から彼の言葉が耳に入らなくなっていた。
 私の頭の中では違う事を考えていたからだ。
「まったく、いい年の大人にそんなこと言うのか、過保護もほどほどでないと、ソウルに着いたら、めいっぱい私のペースで行動しょう。今回でこりて一緒に行かないと言ってもいいから」
 など半分いらつきながら、残りの半分は現地で彼女がどんな反応をするか、楽しみながら作戦を練っていた。
 顔ではまんめんの笑みを浮かべ、「承知しました。安全に楽しんできます」もう一人の私が言った。

 ソウルに着いて自由時間になったとたん、地下鉄の路線図、市内地図を渡し、
「共同作業で地図を見て、観光スポットを探しながら行きましょう。たどり着けなくても、それもまた旅、違う経験をしたと思えばいいから」
 最初は驚いた顔をしていたが、すぐに私の意図が解り
「自分の肌で感じなくてわね」
 と言って笑った。
 そして、朝から晩まで地図とにらめっこして歩きまわった。時には私を引っ張ってくれた。だんな様の前の姿とは想像できない位、たくましく頼りになる別人の友達がいた。最初の旅行で私達は一緒に旅行しても大丈夫だなと思えるようになっていた。

 それから年に2回の海外旅行が恒例になった。
 今年3月に、例年通り8月の予定を決めようとした時、
「8月の旅行が終わったら、しばらくは家を空けられなくなってしまった。ごめんね」
 早かれ遅かれこうなると想像していたので、彼女が何を言い出すかすぐに解った。
 90歳になるお母様がいて介護状態である。気分転換といっても1週間も10日も旦那様だけにまかせておける状態では無くなってしまったからだと思った。私の心は残念な気持ちで一杯だった。彼女との旅行は、今では欠かせない大切な時間になっていからだ。

 8月の最後の旅行は彼女の希望を優先してチロル地方(イタリア、オーストリア、ドイツにまたがる地域)にハイキング付のパック旅行を決めた。

 8月1日に10日間の日程で出発した。
 私は2000m級のトレッキングが3日もあるので不安だったが、また新たな経験ができるのかと思うと期待感で一杯だった。
 今回はオーストリア航空だった。私の席の担当のスチワードさんは背が高くてハンサムで見ているだけでわくわくしてしまう若者だった。
「お飲物は何にしますか」
「ジントニックで」
 あまりにもやさしい微笑みについ、「うすくしてね」と言い忘れてしまった。
気分良く食事が終わった頃から異変がおきた。酔ぱらい状態になってしまい、身の置き所のない状態がその後10時間にも及び、飛行機を降りる時まで続いた。もうすっかり自立した友人に、大笑いされ、こんこんとお説教されて今回の旅がはじまった。

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