かつしかPPクラブ

隙間植物 = 須藤裕子


植物の「生きる力」は強く、しぶとく、そして、面白い。隙間に咲く植物は、私たちの周囲のそこかしこに生きている。人間の足音を聞きながら。

「生物」の仲間として・・・・・・。


このひび割れた隙間に、仲間で入れた「ヨウシュヤマゴボウ」はラッキーだ。



「さぁ、出た。これからは、もっと葉を伸ばすぞー」と、思った矢先、不法投棄で置かれていたこの板は、間もなく取り去られた。

隙間植物には、過酷な運命だった。



歩道の端に、「アオギリ」が80センチほどの高さまで育っていた。だが、悲しいかな、そこは雑草としての性。

ほどなく、根元を残してバッサリ切られてしまった。しかし、その根元のアスファルトは、力強くこんもりと盛り上がっていた。

きっと、また、新しい木が伸びてくる。



隙間植物の「ミニアイランド」ができていた。周囲は青い海原ではなく、ごつごつした石の交じった歩道。しかも、堂々と歩道の真ん中だ。

ここまで育つと、踏みつけられるどころか、人が避けて通ってくれる。
「ありがたい。存在感を示したぞ」。

次に目指すは、「ビッグアイランド」だ


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冬の華:山茶花(さざんか) = 須藤裕子


冬に「美」といわれれば、花を連想することはないと思った。が、あった。それは赤い「サザンカ」だ。

冬枯れの色のない景色の中で、緑の葉と赤い花が目立つ。まるで、「冬は、私が主役!」と、言わんばかりだ。

近所には、垣根の「サザンカ」や、1本起ちを見かける。冬、外の風は冷たいが、一緒に、赤い「サザンカ」を愛でてみませんか。


「サザンカ」は沖縄や四国、九州などの南方に白色で咲き、自生していたのが始まりだ。

今では、「冬の華」として日本各地に広がり、その数は、約300にものぼる。

園芸の「華」でもある。


「サザンカ」談義。毎日、ラジオ体操に通う「田島勇二」さん(69歳)は、「サザンカ」の垣根の道を通る。

「サザンカ」の赤い花は目に留まり、花の先(咲き)が気になる。朝の挨拶にも、花が咲く。


                        白い「サザンカ」が、

                        冬の青空に生える。


垣根の役目を果たすサザンカ。しっかり家人を見守っている。

しかし、むかし武家屋敷では、「サザンカや椿は首が落ちる」といい、生け垣には使わなかった。

現代でも、病気見舞いには「首が落ちる」から、と喜ばれない。

それは、「ライオン交通株式会社」で咲く、1本の「サザンカ」。

冬の太陽は陽射しが弱い。わずかな光がサザンカの垣根を温めてくれる。

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人情を 未来へ (上) = 郡山利行

 ≪向う三軒、両隣≫、この表現は、江戸の町の神田、浅草、向島などに代表される、大小の長屋がひしめき合っていた街の、生活風情を表す言葉であり、江戸から遠く離れた、葛飾の地には当てはまらない。 

 撮影、2014(平成26)年4月2日、水元公園にて。 金町地区の保育園児たち。園児一人ひとりが、大きな水筒を身に着けて、いつでも自分で飲めるようにしているのが、ほほえましく見えた。
 先生が、「 そろそろ桜のお絵かき、おしまいよー!」 と声をかけた。


   写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社   昭和38年 子供たち 新小岩


                           *


 荒川の向うに広がっていた葛飾の堀切、新宿、四つ木地区の一部には、江戸下町風の街並みがあったが、ほとんどの地域は、昭和30年代までは、田んぼと畑と沼地が広がっていた。 そこは、産業としての農業と、大企業の数少ない工場と、圧倒的多数を占める各種地場産業の中小零細工場の、職住混在の地だった。

 その後、農業地域にも、工業を営む人たちが流れ込み、最終的には、当時ホワイトカラーと呼ばれた人とその家族が、農地と工場跡地を埋め尽くした。

 農業と新興産業の工場が、時代の流れで共存していた、昭和50年代までは、両産業の中間的存在で、商業とサービス業の人たちが活躍した。

 そして、この地域の人々の毎日の、毎月の、季節ごとのライフサイクルの中で、共通の生活スタイルができあがっていた。
 そのことが、葛飾の地が、過密な住宅地域とは異なる、独特な人情的つながりがある生活の地になったのかもしれない。

 今、失われつつある≪わがまち かつしか≫を、これからの世代に伝えて残すには、まずどのような人情の生活があったのか、知りたくなった。


 立石の岡島古書店 岡島さん 華やかな思い出 


 葛飾の下町と呼ばれる立石で生まれ育っている岡島さん(72歳)、親子2代にわたり、ここ立石1丁目で古本屋を営んでいる。 そのため、立石の生き字引である。 第二次世界大戦の戦後から、
この地域が繁栄を極めた時期の話を聞かせてもらった。

 岡島さんの夢に出てくる子供の頃の場面は、いつも同じとのこと。
「 近所のハスの田んぼから、1本かっぱらって逃げる夢なんですが、泥にはまってどうしても逃げられなくて、目がさめちゃうんです 」と、おおらかな時代の話から始まった。


戦後も時々停電した夜は、親爺さんは、カーバイトランプで店の中を灯していた。 カーバイトは、水に接するとアセチレンガスが発生し、火気があると激しく燃える鉱物である。 

「 そのカーバイトの工場がこの先にありましたが、1947(昭和22)年のキャサリン台風の洪水の時に、燃えちゃいました、すごかったです 」と、つい昨日の出来事のように語った。


 立石から四つ木全体が町工場で、働く人も多かった。 「 古本も、特に大衆物が、ものすごく売れましたよ。 夜遅くまで店を開いて、こっちの商売も頑張りました。 このあたりは、ブリキ製品の工場がたくさんあったので、プレス機械で指が詰まった人がいっぱいいましたね。

お客さんが書棚に手を伸ばした時に、気が付きました 」

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はたちの式典  =  浦沢 誠

  2015(平成27年)1月12日(月・祝)は快晴の青空のもと、かつしかシンフォニーヒルズにて「はたちのつどい」が開催された。主催は、葛飾区・葛飾区教育委員会・葛飾区選挙管理委員会主催である。


 「美」と若い人たちの晴れ着姿や現在感じていることなどがどう結びつくのか。「はたちのつどい」に参加した、小・中学生時代の同級性グループを中心にした、新成人の男女を取材した。

 取材・撮影場所は、かつしかシンフォニーヒルズの周辺。


            国歌斉唱をする新成人
   
      
  式典会場は、かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールです。式典は、午前11時から約1時間行われました。

  当日の天候は、快晴。最低気温1℃、最高気温9℃。北風が強く、日本海側では風雪の強い一日でした。

式次第は、国歌斉唱、区歌斉唱のあと青木克徳区長から励ましの言葉があった。

  青木区長は、今年成人になったのは4155人です。この20年間は厳しい状況であった。20年前のバブル崩壊、阪神淡路大震災、最近では中国の問題、高齢化の問題、4年前の東北大震災など、日本はそれらを克服し、一歩一歩前進 してきている。
素晴らしい葛飾をつくるため活躍してください。


  かつしかは、下町で人と人の付き合いを大切にしています。友達を大事に、夢を実現してください 。葛飾の基本計画のテーマは「協働」としています。皆さんの手で素晴らしいまちにしてください。と語った。

  続いて、久保区議会議長及び来賓の衆議院議員の平沢勝栄、参議院議員山口なつお、衆議院議員田村とも子さんから祝辞があった。



 新成人の司会者で祭典が勧められた。司会者たちは葛飾吹奏楽団(指揮者は大貫久)で、演奏も披露する。

  水橋 岳さん(左)と長嶋 葵さん(右)。


 ゲストに葛飾総合高校の校歌を作曲した、

 千葉県市川市生まれのシンガーソングライターの「建吾」が、曲目[星空の向こう」他2曲を披露した。


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銭湯の光=宮田栄子

「ひかり」をテーマに思案に暮れていた時に、出かけた帰り道、ひときわ明るい「ひかり」を見つけ、立ちつくした。ひかり、みーつけた・・・・・・それは、銭湯の大窓だった。

30年ぶりの銭湯

 記者はこの取材のために、30年ぶりに銭湯に浸かった。場所は葛飾区立石2丁目の「富の湯」だった。番台で迎えてくれたおばあちゃんは、30年前もそこに座って待っていてくれた。
「おじいちゃんがいなくなって、もう、風呂屋をやめるつもりだったんだけどね。娘夫婦が続けようって言ってくれてさ……。でも、私がいなくなったら、もうやめなって、言ってるんだよ。大変な仕事だもの」

 懐かしい番台の阿部俊子さんは88歳だが、元気な屈託のない笑顔で言った。

 銭湯は広い。そして、明るい。広い窓から、光があふれている。
 「明るすぎて、テレビも満足に見えないよ」
  阿部俊子さんは、むしろそう語る。


  壁の絵は当然ながら富士山だと思っていた。ところが、「隣の男湯の方がすごいんだよ、天下の剣の『箱根の山』だよ」という。
「写真、撮っといで」
 そう言われて尻込みしながら遠くから撮った。

 しかし、その箱根の山の写真は残念ながら、使えるものではなかった。記事だけとは、実に残念な想いだった・・・。

 大きな湯船は、湯のあたりが柔らかい。井戸水を汲み上げ、薪(集めた廃材)で沸かしているという。
 昔は、湯の温度が高くて、水道の水を出しっぱなしで入って、周りから白い眼で見られたが、この日の湯は やさしかった。

 いつの間にか、番台にいたおばあちゃんが隣で浸かっていて、よもやま話に花がさく。湯からあがると、定番の瓶入りコーヒー牛乳。甘露、甘露。130円なり。

煙突は銭湯の目じるし

 記者が10代の頃、どこの銭湯も、芋を洗うがごとくの状態だった。30代(30年前)に、葛飾のアパートに越して来た時、1軒おいた隣に「富の湯」があった。その頃もけっこう混んでいて、みな譲りあいながら入っていた。地理に慣れないうちは、出かけた帰りによく迷子になり、「富の湯」の煙突を見つけてはホッとししたことをおぼえている。



富の湯の煙突からは今日も力強く煙が出ていた。

銭湯の光

 葛飾区内の銭湯は、最盛期の昭和43年には156軒あったが、平成26年42軒が、かろうじて残るのみとなっている。立石、東立石地区は、60年代に16軒となり、現在、立石に4軒、東立石に1軒だけとなった。

 人口が増え、住宅が密集してきたにもかかわらず、内風呂付き住宅が当然の時代となり、銭湯に行く人がめっきり減ったことが、その原因だ。

 庶民の地といわれる葛飾で、この状態である。日本全国の銭湯があやぶまれている。

 昼は見落としてしまいそうだが、陽が落ちると遠目にも光が誘う。大窓からの光が嬉しい。愛国湯・同4丁目・ビルの1階


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『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り(下)=郡山利行

 鹿児島・日置市日吉町の泥にまみれて、豊作を願う、せっぺとべはさらに盛り上がってきた。

 お田植え祭りは、ことし(2014)年6月1日(日)に行われた  

 神社境内に作られた臨時の神田での 『せっぺとべ』は、祭りがまだ始まったばかりなのに、せっぺとべ衆の顔は「さあ、これからだ!」と輝いていた。


 神田でのせっぺとべが終る寸前、4人の若い衆が、最後の元気を振り絞って、見事に一緒に、ダイビングした。

 せっぺとべ衆は跳ね終ると、昔からやっているように、神田の横を流れている大川で、泥を洗い流した。 

 その爽快感を想像するだけで、身震いがする。

 神社へ帰る行列の、最後部。この時、時刻は正午だった。
 神社での祭典が午前9時半に始まってから、たった2時間半の、お田植え祭り「せっぺとべ」だった。

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『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り(中)=郡山利行

 鹿児島県日置市日吉町 八幡神社の400年つづくお田植え祭りは、ことし(2014)年6月1日(日)の行われた。

 お祭りは一段と盛り上がってきた。


 神田への御下り。

 神社での祭礼が終ると、直ちに神田へ、決められた順番で向かった。

 全ての団旗竿としべ竿が立ち並び、その下で、ほぼ全員のせっぺとべ衆が、円陣を組み、歌いながら、飛んで跳ねた。

 田植えがしやすいように、田んぼの土をこねらす意味と、田んぼの中の害虫を踏みつぶす意味があり、泥にまみれて今年一年の豊作を祈願する。

 精一杯の元気で、「せっぺとべ」踊りをすると言い伝えられている。

 この瞬間が、お田植え祭りでの、参加している者と見る者がそれぞれに、気持ちの高ぶりが最高潮に達した時だった。


 神社境内に作られた臨時の神田では、若い父親が仲間たちに見守られて、念願の長男(10ヶ月才)の両足を、どぼりと付けた。

 若い衆が、ぬる湯割りの焼酎を飲み、田の中で円陣を組み、唄を歌いながら勢いよく飛び跳ねる。

 竿が倒れそうになった時、それを防ぐ多くの仲間たちの動きが、泥田んぼの中でとても珍しく、観客から喝采を浴びていた。

 先端のしべは、絶対に田んぼに付けてはならないので、集団の名誉にかけて、せっぺとべ衆は必死である。

そして、この儀式が無事に終った瞬間に、彼らは田んぼの中で、弾かれたように飛んで跳ねる。 せっぺとべ!


 神田で、身体全体が真っ黒になった一人が、小さな女の子に泥をなすり付けようとしたら、少女は火がついたように泣き叫んで、お母さんにしがみついた。

 泥がつくと、一年が無病息災で過ごされるという、おまじないである。

 お母さんは子供の泣き叫びをかばい、写真右端のお父さんは苦笑い。

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『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り(上)=郡山利行

2014(平成26)年6月1日(日)に、鹿児島・日置市日吉町の八幡神社(はちまんじんしゃ)で、祭りが行なわれた。泥にまみれて豊作を願う。

 せっぺとべは、1595(文禄4)年、当時の日吉地域の領主だった、日置島津三代常久が、八幡神社を日置総鎮守社と定めて、御神田を寄付した頃から、この地に伝わる「お田植え祭り」である。

 ちなみに、「せっぺとべ」とは、「精一杯跳べ!」の鹿児島弁である。

 八幡神社は、神田から約300m離れた所にある。祭りに参加する町内各地の、自治公民館ごとの集団は、それぞれの「団旗竿」と「しべ竿」とともに、まず神社に参拝する。

 竿の長さは十数メートルの唐竹である。今年は5つの集団が、「せっぺとべ」に参加した。


≪しべ≫とは、材料はクロマツで、長さ85cm、幅3cmの角材をカンナで薄くすき起こしたもの。

 竹へらで反りを取り、先端15cmほど食紅で染めている。

 祭りのあと、人々はこれを3、4枚手に入れて、家の床の間に飾る。

 しべには、五穀豊穣と家内安全と書いてあるが、昔から「蛇が家の中に入ってこない」と云われている。



 午前9時半になると、神社拝殿では、祭典が始まる。境内では同時進行で、各集団別に、笹踊り、虚無僧踊り、棒踊り、鎌踊りが奉納された。

 踊りの種類は、各集団ごとに決まっており、今年は8つの集団が奉納した。


 昔は15歳の元服の成年男子で、それぞれ編成して踊っていた。近年は過疎や少子化の影響で、小学低学年から中学生までの編成になっている。 

 現在では、集団によっては少女も編成に入っていた。

 祭典終了後、各集団はそれぞれ、町内の主要な商店や民家をまわって踊りを披露し、祝儀をいただく。


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クイーン・エリザベス号 まず鹿児島寄港=郡山利行

2010年に就航した、イギリス船籍の、世界に名を知られた豪華客船「クイーン・エリザベス号」が、2014年3月15日午前7時、鹿児島市のマリンポートかごしまに着岸した。

 同船は、イギリスの海運会社、キュナード社が運行する、大型客船である。同名船の第3代であり、総トン数90,400トン、全長294mで、乗員乗客計約3000人を乗せて、パプアニューギニアから航海してきた。今年2014年1月10日に、イギリスのサウサンプトンを出港して、5月9日までの120日間で、地球を西回りする、世界一周クルーズの途中である。

 そして同船は、1940年に登場した初代のクイーン・エリザベス号以来、初めての日本訪問である。

 キュナード社による、当初の運行計画では、日本での最初の寄港地は、高知だった。
(オセアニア・東アジア地区の運行予定図、参照。)それが、昨年(2013年)10月初旬、突然変更になり、鹿児島になったという。

 私は、故郷が鹿児島県であり、更に、亡くなった父が、世界一周航路の貨物船の船長だったこともあって、クイーン・エリザベスが、真っ先に鹿児島にやって来ることが、歓喜だった。そこで、最初の寄港地が、なぜ高知から鹿児島に変わったのか、興味を抱いた。

 まず、オーストラリアから横浜までの、クルーズ・ツアーを企画していた、日本のRTSクルーズデスク社に、電話で問い合わせた。そこでは、「 理由は全くわかりません。 昨年(2013年)10月初旬に、キュナード社を傘下にしているアメリカの船会社カーニバル・コーポレーション社から、寄港地を鹿児島に変更するとだけの通達があっただけです。」とのことだった。
 そして、「 高知か鹿児島の港湾事務所に聞けば、わかるかもしれませんね 」と、教えてくれた。

 高知県土木部港湾振興課でも、上記のRTSクルーズデスク社と同じように、10月初旬に通達を受けただけだったという。 高知港では、超大型客船用に、岸壁拡張工事中で、まだエリザベス級の船は接岸できず、完成時期は未定とのことだった。
「 高知港は、太平洋から全く障害なしに、いきなり入港できる最高の条件なんです。これからの港です 」と、誇らしげに語ってくれた。 

 当初の運行計画を立てたキュナード社が、この接岸できないことを知らなかったとは、今日の情報化の時代では、とても信じ難い。鹿児島県土木部港湾空港課では、「 昨年(2013年)の10月の初め頃にですね、アメリカの船会社(カーニバル・コーポレーション)の鹿児島市内にある代理店から、今年(2014年)3月15日の、港湾施設使用の許可申請があり、許可しただけですので、背景については全くわかりません 」とのことだった。
 その代理店に聞いても、おそらく、『通達に従って、許可を取っただけです』と言われることが予測できたので、ここで追跡はあきらめた。


 なぜ、『クイーン・エリザベス』というイギリス女王の名の船は、初めてニッポンという国を訪れるのに、真っ先に立ち寄る港を、鹿児島にしたのか。

 私は考えた。
 今から151年前、文久3年、1863年の8月に、イギリスと薩摩藩は、その前年の生麦事件に結着をつけるべく、この鹿児島港のあたりで、海上と陸上から大砲を撃ち合った。薩英戦争である。
 当時の鹿児島城下はほとんど焼失して、物的損害が甚大だったが、イギリス艦隊も損害・死傷者(63人)があり、軍艦からの砲撃をやめて、戦闘を中止した。

 この戦争で、薩摩藩側は、欧米文明と軍事力の優秀さを身をもって再認識し、イギリス側は、その後の講和交渉を通じて、薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていくことになった。 2年後の1865年には、パークス公使が薩摩を訪問し、その時の通訳官アーネスト・サトウは、その後数多くの薩摩藩士と個人的な関係を築き、イギリスと薩摩藩は、友好関係を深めていった。 鹿児島は、歴史的に記念すべき場所なのである。

 その時代のイギリスは、大英帝国として世界の海に君臨した、海運国だった。 軍艦以外の貨客船では、キュナード社とP&O社の2社が、国を代表する海運業者だった。今回、キュナード社は、日本訪問の半年前に、突然と云われてもしかたがないような行動で、鹿児島に変更した。
 最初から高知は、仮の港だったのかもしれない。というのは、今回の日本国内クルーズの寄港地は、すべて、幕末維新の時に、イギリスが大活躍した舞台だからである。

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1500人普通救命講習会に参加(下)=郡山利行

2014(平成26)年1月19日(日)『1500人参加による普通救命講習会』において、講習後半は『AEDの使用』だった。

 AEDを使う(除細動を行う)対象者は、反応がなく、普段通りの呼吸のない傷病者である。 講習では、救助者が複数いて、救助者の一人が心肺蘇生を続けながら、別の一人がAEDの操作をする状況が想定された。
 そして前半の『心肺蘇生』講習と同じように、2組に分かれて指導員の指導に従い、次の行動を実技した。

1.AEDの到着の確認

2.傷病者の腹部から胸部の肌を露出させる

3.AEDの電源を入れる

4.AEDの音声メッセージ通りに行動する


(1)電極パッドを傷病者に貼る(1枚は右鎖骨の下側、もう1枚は左の脇の下から5cm位下側)

(2)AEDが心電図解析を行うので、傷病者に触れないようにと、大きな声で叫び、そのあとAEDが電気ショックの必要を音声で指示したら、ショックボタンを押しますと、叫ぶ。(写真・右)

(3)電気ショックを実施した後は、直ちに胸骨圧迫から心肺蘇生を再開する       
今回の講習では、胸骨圧迫を数回行うところまでを1サイクルとした。


『AEDの使用』実技講習の最後では、会場の全グループがいっしょに、蝶野さんの掛け声で、胸骨圧迫を行った。

 筆者のグループの指導者が、何回も熱心に語ったのが、講習会テキストの8ページにある【AEDを用いた心肺蘇生の流れ】のフローチャートである。
「これをよく覚えて、この通りに動いて下さい、頑張りましょう」

 最後は「気道異物除去」と「三角巾の使い方」である。だれもが即座に役立つ、応急手当の方法だ。それら手法がより具体的に紹介され、学ぶことの多かった講習会は終了した。


 1305人の参加者を3時間にわたって実技指導した、約120人の指導者達に、感謝。(写真・上)
 講習会場の出口で、救命技能認定証を受け取った。


 筆者には初めての、『心肺蘇生』と『AEDの使用』の講習会受講だった。
 胸骨圧迫と人工呼吸とAEDの使い方を入門編的に知ったことで、今までの傷病者が目前で発生した場面に遭遇した時の、自分には何もできないという情けない不安が、かなり和らいだ。