かつしかPPクラブ

プラネタリウム 番組作り (中) 郡山利行

「葛飾区郷土と天文の博物館」のプラネタリウムは、1991年にオープンしました。以来30年間、わがまちのプラネタリウム番組を、作り続けられた極意は何でしょうか。


「とにかく『作り続けること』の一言です。それに勝るものはないと思います。いろいろなことを試みて、どんどん作りながら、前に進む意気込みです。
 そして『本物』を観て触れることで、感性を磨くことも大切です」と、新井さんは、大変な努力が必要なことを、30年の歴史をかみしめる口調で語られた。


 30年間で百数十本の番組を作り、今でも最新の情報をもとに作り続けて、観客に宇宙との一体感を楽しませてくれます。国内はおろか外国でも例を見ない、他社の配給作品を上映しないプラネタリウムです。

 わがまちプラネタリウムだけの、もう一つの誇るべき特徴は、番組上映時の天文職員による、生の解説です。
 観客と解説者が、映像を見ながらの一体感による、臨場感が得られます。
「解説者は、台本なしで、客席も見ながらアドリブも交えて、語るんですよ」と、館内の空気感を大切にしています。

 新井さんは、プラネタリウムの番組制作ポリシーを、次のように熱く語った。

 ・番組は、大人向けです。まず大人が夢中になり、お子さんに言葉で伝えてください。

 ・主役は星であり、宇宙です。キャラクターや物語には頼りません。

 ・常に海外へも目を向けて、国内のプラネタリウムの常識にとらわれない番組を目指します。

 ・プラネタリウムは『番組の上映装置』ではなく、『宇宙のシュミレーター』であると考えます。

 ・番組は『作品』ではなく、『お客様と解説者が共有する、時間と空間』であると考えます。
 番組を自分たちで作らなければ、こんなことできません。


  
 2020(令和2)年10月現在、番組を上映している、光学式とデジタル式のプラネタリウムを組み合わせた、葛飾オリジナルの設備で、コニカミノルタプラネタリウム製の、≪ジェミニ・スター Σ Katsushika≫です。

【プラネタリウムの宇宙】

 番組の映像の美しさを見て、全天CG映画と間違える人もいる。


 直径18メートルのドームスクリーンで、座席は140席あり、スピーカーシステムは英国製である。


 
 星空に包まれ、宇宙を飛びまわる体験ができる、プラネタリウム。当館でしか観られない映像を見に、国内各地からの来客もいます。

                      【つづく】 

プラネタリウム 番組作り (上) 郡山利行

【はじめに】

 宇宙には、神秘的な魅力とロマンがあります。数千光年も数万光年に思いをはせても、現実的には星座や星雲の彼方まで行くことは不可能です。それを唯一かなえてくれるのが、プラネタリウムです。

 館内のドームに映し出される天体の中で、私たちは愉しく遊び、心が一体化することができます。
 家族でも、学校教育でも、あるは恋人同士でも、共に宇宙の彼方にでかけられます。身近な月や太陽の運動までも、興味深く知ることができます。


 プラネタリウムの内部。番組を上映しながら映像を説明する解説者席。葛飾区白鳥の地から、宇宙の果てまで自由に行ける、宇宙船の操縦席のようです。≪画像は博物館HPより》


 プラネタリウムの映像は、一体どのようにして作られるのでしょうか。東京・葛飾区立『郷土と天文の博物館』の新井学芸員から、ハードとソフトの両面、そして運営について聞くことができました。
 取材(写真含む)は2020年10月7日の午後です。

 
【博物館のプラネタリウム】

 新井達之(たつゆき)さんが博物館の天文分野を担当されています。1964(昭和39)年生まれ、56歳です。

 彼は、小学3年生の時、母親に連れられて大阪のプラネタリウムで、星の世界を見て、『自分が今住んでいるこの場所が宇宙なんだ』と気づいて、すごく感動したという。

 そのことがきっかけで、天体が好きになり、中学、高校、大学でと天文の世界に入り込み、その後1990年6月に現職に就いて、30年間のこんにちに至っています。

「私達は、博物館の職員だからこそ、プラネタリウムの運営にかかわるすべての情報の入手や、番組の制作などを、職員たちの手作業で行っています。これは使命として、開館以来まったくぶれていません」と、新井さんはモットーを語られた。

 新井さんの原点が、『この場所が宇宙だ』ということなので、プラネタリウムで、観客に宇宙を体感してもらいたい想いで制作した番組が、≪かつしかから宇宙へ≫です。

 この番組は、プラネタリウムのリニューアルなど、大切な節目のたびに、改訂版として作り続けられています。
 新井さんにとり、すべての番組作りへの、想いの原点となっています。


「ここに並んでいるパソコンを使って、番組を作っています。すべての番組が、私達のオリジナルです」と、新井さんは強調されました。
 そこで、プラネタリウムで上映する番組の一部分を、実際にパソコン画面で展開してもらいました。


 土星を見たいです、と依頼すると、すぐ画面に映像が現れた。土星の表面から離れて、輪の中を通過していく場面は驚異的で、高速の宇宙船の窓から眺めているような光景です。

                     【つづく】

【木星と土星、397年ぶり奇跡の大接近を目撃】 かつしかPPクラブ:郡山利行

 木星と土星の約400年ぶりの奇跡的な大接近を、この目で見ました。
 時は2020(令和2)年12月21日午後6時、場所は自宅から自転車で5分、東京都葛飾区南水元1丁目にある冨士神社の真横、中川左岸堤防上の遊歩道でした。

 日没後の約1時間半の夜に、二つの星は肉眼で大きな明るいひとつの星に見えました。

 このあたりの川幅は200メートルほどもある中川ですが、この日この時には、川の流れによる波がまったくなく、さらに無風であったことで、水面が鏡のようでした。
 その川面に、木星と土星がひとつになった光が反射して見えたのです。
 付近には誰もおらず、私ひとりだけが見ることができたうえ、奇跡の場面が撮れました。

 

 私の一眼レフカメラの300ミリズームレンズで、二つの星のアップ画像の撮影に挑戦してみました。ただ、三脚が小型であったこともあり、かすかな雰囲気だけの撮影結果に終わりました。

 PCネットのYouTubeなどでは、上記のような画像を見ることができます。
 公転軌道と速度がまったく異なる木星と土星とが、地球からみて大接近して見えるという、天体観測上まれな場面です。
 前回は397年前の西暦1623年でした。和暦は元和9年で、徳川家光が第3代将軍になった年です。
 次のこの大接近は60年後の2080年3月、その次は更にそこから337年後の2417年8月だそうです。

 2020年12月22日、前日とほぼ同じ時刻、この日の日没後の空は雲一つなく、無風ながら空気が澄んでいたので、昨夕と同じ場所に駆け付けました。
 持参したのは、カメラではなく、劇場鑑賞用の小さな双眼鏡でした。

 地球も星たちも動いているので、この日この時には中川対岸の足立区中川5丁目の、氷川神社境内にある大きな樹木に近い高さに見えました。
 中川の水面に星たちの光が映る角度ではありませんでした。
 一日前には土星が右上だったのが、この日は二つの星が横に並んでいました。

 双眼鏡を遊歩道の手すりの上に乗せて、可能な限り固定した状態での観察でした。
 そしてほんの一瞬、土星の輪が見えたような気がしたのです。

 そのことに感激して、あとはもう双眼鏡を固定することができなくなり、星たちへのさよならでした。しばらく肉眼で見て、73才の筆者はその場をあとにしました。

                          【了】

新型コロナ時代に「忘れられた花壇」。そこで見た現実の姿 (下) = 須藤裕子

 手前の芝生花壇にも草がのびのびと生え放題で、もはや、おしゃれな風景ではない。

 草刈りをしない花壇は、草の勢力図の見本となり、ほぼ「セイタカアワダチソウ」の専有地と化してきた。

 いわゆる雑草なのだが、なぜか花壇の花は雑(・)花(・)とは呼ばない。


「ヤブカラシ」が自在にフェンスを蔦って蔓を伸ばしている。読んで字の如し、藪をも枯らす草なのだ。
「まちの植物のせかい」(発行:雷鳥社)によると、
『蔓植物なので、自分で立つ必要も、茎を丈夫にする必要もなく、いろんな場所に摑まっては早く茎を伸ばして、他の植物より早く抜きんでて成長して光を独占してしまう』と紹介されている。

「きゅうり」の蔓のように、1本の巻きひげが途中で分かれて2本になり、それぞれが巻き付くため、簡単には外れない。
 地下茎で、蔓を除去したと思っても、すぐに再生してくる』と、あり、その名前と勢いに納得する。

 草が多いところでは、必ずと言っていいほどよく見かける。

 『この「アカバナユウゲショウ」の英訳は「バラ色のマツヨイグサ」という。

 北米~南米を原産地とする帰化植物で、明治時代に園芸植物として導入されたが、逃げ出して野生化した。花期が長く、太い地下茎だと、畑や空き地で繁殖すると厄介になる』(前書)と記す。

 小さな花からは想像できないなんとも逞しい花だ。ふと、「人は見かけによらぬもの」と言う慣用句が浮かんだ。


 ヨーロッパ原産の帰化植物「ナガミヒナゲシ 別名:虞美人草」が種になっていた。

 観賞用として江戸時代に日本にもたらされた花だが、『まちの植物のせかい』の筆者がこ
の中のけし粒のような種を数え、2858個に驚いてしまう。

 
 梅雨が長かった今夏、「セミ」は土の中で、気をもんでいたのだろうか、それとも、それも自然の営みかとも……。

 8月1日(土)、関東地方では、梅雨明け宣言とともに、堰を切ったように一斉に鳴き出した。

 羽化した「セミ」を見つけて、なんだか安心した。

 滑り台の下の「セイタカアワダチソウ」が目に入った。

 このままでは頭がつかえると案じていたが、迷うことなく順応していた。
 コロナ禍の中、世界中でウィルスが蔓延・増加に不安な今夏、普段目もくれないようなところに、生き物のおもしろさと逞しさがあった。


 ブワーン、キーンと、電動草刈り機が団地で響いていると思っていたら、やっと、公園の草が刈られて、以前の植込み風景に戻っていた。
 
 草に覆われていた「サツキ」も出て来た。ふたたび散髪後のようにさっぱりとなった。何だか、ホッとした気分とちょっと寂しい気分が交差した。

 フェンスには取り切れなかったのだろうか、「ヘクソカズラ」の蔦が残っていた。新型コロナウイルス禍で、STAY HOMEとなり、近所だけを歩き回りながら、草の顔を見つけて、知りあいだったような、気にかけていたようなちょっと明るい気分になった。

 身の回りはこんなことが一杯なのだろう。

                  
          撮影・文書・編集: 須藤裕子

          撮影日:2020年7月~8月
  


               

新型コロナ時代に「忘れられた花壇」。そこで見た現実の姿 (上) = 須藤裕子

 ふだん花壇の手入れをして、花を愛でている人々が大勢いる。

 新型コロナ時代に、私たちの生命をどう守るのか。『三密』が当座の自己防衛になっている。それには外出しない、一か所に固まらないが最善の選択だろう。

 それによって、地域の花壇の手入れが無くなってしまう。

 その結果はどうなったか。

 そこに見え隠れするのは、人間のご都合主義かもしれない。

 


 青戸団地(東京都葛飾区)一帯では、年/3回、業者がやってきて来て、一気に緑地帯の草刈り作業を行う。

 草刈りの後は、散髪したようにすっきりとする。今年も春に、同じ作業が行われた。

 ところが、青戸第3団地の端にある小さな公園は、忘れ去られたのか、作業がないまま、梅雨が明けた。

 「サツキ」が植えられている花壇はどうなったのか。サツキの花の姿は見えず、とうとう雑草然となってきた。

 それもずいぶん進んできた。


「セイタカアワダチソウ」の森林化だ。

 こんなに旺盛な元気を持ち、空に向かってまっすぐ上に伸び、側には、次々に若い苗が育つ。そのパワーに感心してしまう。

 たかが、雑草、されど雑草。テレビ通販で売る若さより、このパワーを感じることで、手前勝手な若さとしたい。

 「ヘクソカズラ」は一度聞いたら忘れない。

 万葉集では「糞かずら」と呼ばれたり、屁糞ではなく屁臭が転訛したとも言われ、その臭いは「メルカプタン」のせいだ。

 これを体に溜め込だ「ヘクソカズラヒゲナガアブラムシ」を、外敵のテントウムシがかじったら、即座にアブラムシを口から離し、唾を吐き出して逃げる、というほど強烈だ。

 だが、この臭いが好きだと言う人もいた。



 初夏から秋に咲く「ヒメジョオン(姫女苑)」。別名:アメリカ草。北米原産の帰化雑草で、他にも貧乏草、戦争草、西郷草……などともいわれる一年草である。

 種子の数が多く、日本全土に分布する。


 似た花「ハルジオン(春紫苑)」は多年生で、花はピンクが多く、蕾が下を向き、葉が茎を抱く。茎を折ると、中が空洞である。

 大正時代に帰化したので、江戸時代以前の日本にはなく、時代考証としておかしいと指摘される草だとされている。

 よく見かけるこの白い花に、妙な親近感と知識を吹き込まれた。


 花は鬼が笑っている顔に見える。

「雑草手帳」によると『別名「早乙女花」。 「ヘクソカズラも花盛り」という諺があり、どんな女性も年頃になれば美しくなることを指して、「鬼も18、番茶も出花」』と、隠れた魅力を教えてもらった。

 
 甘い花の蜜を吸いに、虫も多くやって来る。



 雑草然とした風景になってから、空き缶のポイ捨てが目立つようになった。

 乱雑な風景にゴミは捨てやすいという悪循環をみた。

 気軽に捨てる人の心には、それを誘う環境がある。

自粛の葛飾はいま、「雇用助成金の申し込み12万件対して、わずか50件しか通っていない」 =蘭佳代子

 葛飾区在住の友人とラインをしています。
 その友人Aさんは、会社を経営しています。インタビューしますと、
「10万円の給付金は、未だになんにも支給されていないし、『雇用助成金』にしては12万件対して、50件しか通っていない」
 と明かしてくれました。

「えっ、まさか」と声を上げてしまいました。 

 もうひとりの友人Bさんはシングルマザーです。4月から私立中学に通う子供がいます。私立中学ではオンライン授業を取り入れているそうです。
 さらに、その私立中学では、大量の学習教材が郵送されてきて、数学と英語は既にオンライン授業始めているとのことです。

 外出自粛の約60分ていどで、周辺の情景を拾ってきました。

 子供連れで散歩中の光景は、ほっとさせられます。

 江戸川・河川敷にて、思い思いに過ごしている。

 昼13時頃ですが、若者3人が河川敷で遊んでいたり、親子や高齢者夫婦が散歩していたり、ランニングをしている人、思っていたよりも人が多くいました。

 金町駅南口のスターバックス。店内はいつも座席が埋まっているほどの人気店。ドリンクのテイクアウトも行っていないのが意外でした。

 同店の休業についての案内が、日本語版と英語版で貼られている
 

 いつもはたくさんの自転車がとまっている

 新宿交通公園内は閑散としている。

 交通遊具の貸し出し中止だけではなく、人気のミニSL機関車も走っていない。担当者はどうしているのかしら。

                    * 

 友人Cさんですが、国際結婚をしてイギリスに住んでいます。今日、誕生日でしたので、メールしたところ、『イギリスはロックダウンしていて、1ヶ月以上外に出ていません』という返信です。

 日本は自粛とはいえ、法的な厳しい外出規制していない。それが精神の衛生面で助かります。

             *

穂高健一のコメント

 厚生省HPより『事業主の方は、雇用調整助成金を活用して従業員の雇用維持に努めて下さい』まさに、「仏作って魂入れず」の見本です。


 筆者はAさんに電話取材のみですが、『雇用助成金』にしては12万件に対して、50件しか通っていないという、これが事実とすれば、国も自治体も、「人間のいのちは大切」という別の裏の恐ろしい顔が見え隠れします。

 東京都のトンカツ屋の主人が自殺されました。もし、ドイツ並みにスピーディーな助成金や支援がなされていたら、こんな悲劇は生まれなかったでしょう。法政大学、慶応大学、日本大学大学院までも進まれた方の人生末路としては、あまりにも気の毒すぎます。

 霞が関の厚生労働省の本省職員は、きっと一人も雇用調整助成金の対象者がいない。給料は国家予算からもらえる。だから、庶民の悲痛な叫び声など、他人事(ひとごと)かもしれない。「国民に寄り添った政治」とは、口先だけだ、と批判されるべきものです。

 日々に聞かされる「医療崩壊」まえの医師の安全性も重要です。ですが、同様に、中小・零細業者の生命もとても重要です。
 私たちが日々に商店などで接している大切な方々です。店主もいれば、フリーランスも、アルバイト学生もいます。死活問題の瀬戸際です。

            *

 国家、自治体の職員たちは、なぜ街に出て、「社労士並みの手続支援」ができないのか。それが血の通う政治である。こんな単純な着想は子どもでもわかる。それなのに、担当大臣は「事務の簡素化で」と、それで処理できるような口ぶりの発言をしている。
 それ以前に、12万件が未払いで処理されず、スピード感がない役所の怠慢という自己責任が解っていない。

 歴史的にいえば、役人の怠慢はまさに苛政そのものである。

情けは民の為にあり「八ツ場ダムの歴史と未来」=隅田 昭 

  ~個人向けダム見学会に参加して~

まえがき

 八ツ場(やんば)ダムは群馬県吾妻郡長野原町にあり、紅葉の景観が鮮やかな吾妻川の中間に位置し、2020年3月の完成を予定している。

 マスメディアで大きく報じられた機会は、過去に3回ほどある。
 はじめは昭和40年代、着工する際に地元の川原湯温泉の住民が、反対運動を展開した時期だ。

 次が民主党政権交替時に、国土交通大臣が方針転換をし、ダム建設を棚上げした平成21年ごろである。
 そして昨年は台風19号の豪雨により、10月15日に貯水位583mで満水に達し、再び話題を呼んだ。

 記者は試験湛水前の2019年6月に、同ダムを訪ねているが、紅葉も終わりかけた12月の個人向け見学会にも参加した。それを元に国政や世論に翻弄され続けた、ダムの歴史と将来について考察する。

もくじ

1.まえがき

2.注目あびる八ツ場

3.ダム湖に沈む川原町

4.変わりゆく長野原町

5.白い双璧が広がる

6.庶民が未来を創る

7.新たな歴史がはじまる


【本文はこちらから】

RCC(中国放送)~中四国8局ネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」を聞いて  郡山利行

 広島発 RCC中国放送の中四国ライブネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」が、ことし(2019年)11月17日(日)18:00~20:00に放送されました。

 司会:一文字弥太郎(RCCラジオ)、岡佳奈(RCCラジオ)です。


 2時間番組のなかで、原口泉先生がインタビューに応えられました。原口先生の発言は、番組の27分ころから、約20分くらいです。
 私(郡山)は、原口先生を御手洗にご案内して良かった、ここから幕末史が変わる、と強い感慨を持ちました。

 放送のインタビューを紹介する前に、ちょうど1年前、2018年12月15日、16日と原口先生が2日間にわたり、はじめて広島県の大崎上島と大崎下島にいらっした場面を紹介しておきます。

 原口先生は12月15日に、穂高健一さんの案内で、大崎上島の神峰山の山頂展望台を訪れました。
 その時、原口先生は大きな声で、「ここはすごい! 地乗り航路と沖乗り航路が、両方いっぺんに見られます。そして、御手洗港の位置のすごさも、一目瞭然です」 と叫ぶように語られました。

 翌16日には、原口先生は大崎下島の「御手洗」の港や街並みを見学されました。この港街には1700年代中頃からの保存建物であります。薩摩藩では専売品だった屋久杉が、それら建物にふんだんに使われていたり、庭に立派なソテツが植えてあったり、桜島の溶岩が飾り石に使われていたりしています。

 原口先生は驚きの目で、それら薩摩文化を見られていました。(撮影・郡山:2018年12月16日)

 また、1717年にこの地で亡くなった薩摩の「二階堂十郎兵衛行登」の墓石に刻まれた戒名にも、興味を抱いたようです。そして、薩摩藩が御手洗での船宿としていた「脇屋」の資料を歴史研究者の目で観察されていました。

①1746年、脇屋与右衛門へ申渡した船宿免許状
②当時脇屋が店先に飾っていた船宿旗印

 原口先生は、この二つの展示品を指さして、「この文書と旗印をしっかり撮影してください」と私に依頼しました。
 これから、1年後、RCC(中国放送)から中四国8局ネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」を聞いて、私はつよい感慨を覚えたわけです。原口先生のインタビューのところを紹介します。


原口先生の電話インタビューの発言

「とにかく、明治維新は、広島藩が動いてくれなければ、薩摩は何もできませんでした」

 司会者:一文字さんと岡さん、びっくりして、
「え、いきなり!どういうことですか、原口さん!」
  と、大きな声で叫んだ。

辻将曹(つじしょうそう)という、すごい家老が(広島に)いらっしゃったでしょう。薩摩では、小松帯刀(こまつたてわき)という人がいました。この二人がですね、薩芸交易という薩摩と広島の交易を、御手洗で大々的に行っていたのです

「御手洗という港はですね、潮目がわかるのです。内航路と外回りの航路があり、御手洗で待機して、どう兵を動かすかということを判断できたのですよ。御手洗港ですよね、すごいですよね!」

「薩摩と芸州の交易というつながりは、二人の家老どうしが結ばれいたから……。 薩摩が欲しいのは、お米と銅と鉄です。それを全部広島が持っているのです」

「そして、兵を動かすのにですね、長州は手も足も出ないのですよ、四面楚歌でしたから。三田尻から御手洗に集結して、広島藩の理解がなければ、とても、戊辰戦争の時だって、兵を動かせなかったのです」

「ただね、広島藩は所帯が大き過ぎて、辻将曹も、広島の領民をこの変革に、直接リスクを負わないように、判断されたのでしょう」

【イエス・ノー 問い掛けでの、原口先生の返答】

①アメリカ南北戦争がなければ、明治維新はなかった……?
 Yes

②篤姫は、島津斉彬と阿部正弘に利用された……?
 Yes 「望むところです!」
    
③坂本龍馬がいなくても、薩長同盟は成立していた……?
 Yes 

① について、

「南北戦争でアメリカ南部の繰り綿ができなかったのです。 そうすると、イギリスを はじめとした綿織物工業の、産業革命を推し進めた欧州諸国は、操業停止になり ました。繰り綿の値段が、5倍から6倍に跳ね上がったのです。」
 
「広島藩は、繰り綿の産地でしょう。それを提供してもらいました。申し訳ないですけれども、ぼろ儲けです、上海でですね。 国際価格が暴騰していましたから」


② について

「篤姫は、要するに薩摩藩から江戸城に入って、家茂のお母さんになったのですから、幕末までは、江戸城で一番偉いのですよ。 薩摩藩は、政治的なパイプ・通路を、江戸城に持っていたのです。 長州藩は、パイプはありませんでした」

薩摩藩が欲しいのは、関門海峡の自由な航行権なんです。だからお互いの通路として、同盟を結んだのです


③ について

「まあ、そうでしょうね。 坂本龍馬みたいな人は、だいじで、必要です」

 司会者からの【薩長同盟を結んだ、そのことについて」の質問に応えて。

「薩摩藩は、長州藩のえん罪を解くために、活動していたのですね。長州藩は朝敵ではない、ということを言うために、朝廷に活動していました。それで、長州藩のえん罪を解くために、薩長同盟を結ぶという、一番重要な一致点がありました」


薩摩藩が最も欲しいのは、関門海峡を自由に航行できなければ、外国貿易ができませんからね。広島藩からの、お米と銅と鉄、これがなければ、維新変革はできないわけですからね。 だから一番大きいのは、広島藩の経済的な力を、与え て下さったからです

「ただ、決定的な時に、広島藩は大きな藩ですからね、倒幕の旗印を掲げることはできないでしょうね。福岡藩といっしょですから。長州藩とか、これは朝敵ですから、薩摩藩とか、辺境のところは、倒幕軍ののろしを上げることができました」

「広島藩の辻将曹はですね、やはり広島の領民のことを、考えなければいけないですからね」

「ただ、鳥取藩と岡山藩は、戊辰戦争での鳥羽伏見での戦いでは、最初に戦いましたから、明治維新は、『薩長土肥』ではなく、『薩長因備』(さっちょういんび)です。鳥羽伏見の戦いでは、佐賀も土佐も戦っていません。かれらは、ずっとあとからです。上野戦争からです」

「でもね、とにかく、薩摩藩に力を与えたのは、広島藩ですよ。お米と繰り綿と銅と鉄との、すべてを用意してくださいました」

 司会者が最後の質問として、『明治維新とは何だったのでしょう。ここから私たちは何を学べばいいのでしょうか』 と、原口先生に問いかけた。

明治維新は、やはり、外圧に対抗して植民地にならないための、オールニッポンの体制を作らなければいけなかったのですから、近代的な統一国家を作るためには、広島藩の力も借りましたし、最後は藩をつぶして、一つの国を作るということですからね、すべての藩が犠牲になったのです

「そして、四民平等と、万国に肩を並べる国ができて、今の立憲君主制への、帰結なのではないかと思います」


「あとは、穂高先生に聞いてください!」


 上記のとおり、電話による、原口泉先生へのインタビューは終了しました。


『関連資料』

 
 2018年12月16日の午後開催された、「御手洗歴史シンポジウム」の基調講演をなされた原口先生。(撮影・郡山:2018年12月16日)


中四国ライブネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」   「Youtube」より。

特別な想い胸に 令和元年の伊勢参り 隅田 昭

まえがき

 伊勢神宮は多くの日本人にとって、古くから特別な存在である。

 特に令和元年は新天皇の即位に合わせ、11月14日に皇居東御苑に建てられた、大嘗宮(だいじょうきゅう)において、天照大御神をはじめ、すべての神を招き、陛下自らお祭りなされる一代一度だけの大嘗祭(だいじょうさい)が執り行われた。

 これは斎田で収穫された米、それを元に創られた酒などで、神の威力を授かる重要な儀式である。
 かつしか区民記者の私は、その前に伊勢まで旅行する機会に恵まれた。

 今回は主人公の男性と謎の女性が交流する形式で、伊勢神宮が持つ魅力に迫っていきたい。それには、短編小説の形式がよかろう、と考えた。そこで、登場人物を設定した。


 ・ 慶太(けいた) : 葛飾そだちの28才で、独身男性。別れた父から受け継いだ、デジタル一眼レフでの撮影を趣味に持つ営業マンである。

 ・ 幸子(ゆきこ) : 年齢不詳。神社巡りが好きという謎の女性である。

【短編小説】

 ぼくは慶太(けいた)という。

 生まれは埼玉だが、幼いころ葛飾に引っ越してきたので、もう生粋の葛飾区民と言ってもよい。
 ことしは大型台風が上陸し、関東も多くの被害に見舞われた。
 即位の礼のパレードが延期され、皇居での大嘗祭も11月にずれ込んだと報道されている。

 ぼくの家は両親が熟年離婚した。父からは愛用するデジタル一眼レフと、スポーツセダンを譲ってもらった。ぼく自身も恋人と別れたばかりだ。
 だから令和になって、新たな気持ちになりたかったのだ。
 会社で有給休暇をもらい、土日を挟んだ4連休でどこに旅しようか悩った。選んだのが、両親と子どものころに出かけた伊勢神宮だ。

 国道1号線と東名高速、伊勢自動車道を経由し、朝9時過ぎに外宮に到着した。スマホの検索で「お宮参りは外宮から」と案内されていたのだ。

 ようやく外宮の参道に並んで入る。ほっとしたせいか、腹の虫が「きゅう」と音をたてた。よく考えたら静岡の焼津インターで仮眠する前に、えび天そばを食べたが、それから半日は何も口にしていなかったのだ。

 屋台のかけうどんをすすり、声を上げているボランティアの女性から無料で甘酒をもらった。薄着で来てしまったからだに、人の温もりがしみていく。
 もっと甘い物がほしくなったぼくは、名物の赤福に寄った。
 ずっとアクセルを踏んでいたので、足が腫れてしまい、かるい肉離れも我慢してきたのだ。
 店の長椅子で抹茶をたしなみつつも、顔をしかめて腫れたふくらはぎをさすり続ける。すると、隣席から可愛らしい声を掛けられた。

「あの、だいじょうぶですか?」
 朝からお酒も入っていないのに、若い女性から逆ナンパをされたのは、はじめての経験だった。彼女は白い小袖に、赤の緋袴(ひばかま)を着た巫女姿だ。

「ええ、すこし肉離れをしました」そう答えると、彼女は気の毒そうな顔で、柿渋色の小さな風呂敷から、膏薬が塗られた湿布をとり出した。

「母からもらった旅の常備薬です。よろしければ、これをつかってください」ひとり旅なのか? どうも、伊勢神宮の巫女ではないようだ。

 最近は、旅先でSNSにアップするため、コスプレの衣裳を着る女性もいるらしい。色白で長い黒髪がきらめいている。
 切れ長の目を持ち、清楚ながらも人懐っこい彼女なら、フォローしている人も多いのだろう。

 湿布を足に巻きつけた。不思議なことにみるみる腫れがひいていく。足が軽くなって、旅に出る前よりも、ずっと晴れやかな気分になった。

「よろしければ、湿布をすこし譲ってもらえませんか?」
 ぼくは代わりに赤福の茶代を、彼女のぶんも一緒に払った。
 女性から「幸子(さちこ)」という名だと聞きだす。名古屋生まれで、牛肉で有名な松坂のアパートで、ひとり暮らしらしい。
 彼女は気が向いたときに、ふらっと伊勢まで遊びに来ると語っていた。

幸子が二つの神宮を案内してくれる。前に観光のガイド経験もあるそうだ。

「外宮からお参りするのが、正式な参拝です。ここは、豊受大御神(とようけのおおみかみ)という、天照大御神のお食事を司る、神さまをおまつりしています。衣食住、産業の守り神としても、人々から崇敬されているのですよ」

「なぜ外宮から参拝するのですか」

「昔から外宮先祭(げくうせんさい)といって、天照大御神の御饌都神(みけつがみ)に食事を奉る、ならわしがあるからです。ちょっと、難しいですか?」

 ぼくは「はあ」と言って黙りこんだ。幸子がやさしい口調にかわる。

「わたしは神社巡りが好きですけど、詳しいわけではありません。御饌都神は、万民の食物をつかさどる神徳あり、ひいては農耕生産の守護神なると教える神さまです。鎌倉時代になって武士はもちろん神道とは別思想の僧侶もこぞって参拝しました。あくまでわたしの考えですけど、外宮もいかず内宮だけ拝むのは、失礼にあたると定着したのでしょう」


 正宮の「豊受大神宮(とようけだいじんぐう」は、むろん荘厳な趣きだったが、別宮もそれぞれに、おごそかなたたずまいを持っていた。


   多賀宮(たかのみや)

   土宮(つちのみや)

   月夜見宮(つきよみのみや)

   風宮(かぜのみや)の4つだ。



 都会そだちのぼくは、静けさのなかでしっかり大地に根をはり、天までそびえる大きな樹木を手に触れて、パワーをもらった。

 内宮まで市内のバスを利用した。 

「昼は駐車場が混んでいるから、入るまで時間がかかると思うわ」、そう幸子から教わったからだ。
 いままでは良い天候だったのに、内宮に着いた途端、深い霧が立ちこめる。上着を羽織っていないと、風邪をひきそうな天候だ。彼女は巫女姿で大丈夫なのかと案じた。

「なれているから平気です。ほら、あそこが五十鈴川にかかる、宇治橋ですよ。境内に入るまえから、おごそかな気分にひたれるでしょう?」
 そういえば、この場所で両親と記念撮影した記憶がある。橋のたもとで観光客に一眼レフを渡し、ほほえむ幸子と並んで撮ってもらった。

 懐かしむように玉砂利を踏みしめる。ながい参道を多くの人と一緒に進んだ。英語や中国語、聞きなれない言語もあった。「日本人の心の拠りどころ」と呼ばれる自然の原風景が、ぼくの胸の中にしみこんでいく。

「いまから2千年前に、皇位のしるしとして受けつがれる、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)をご神体として、この地にお祀りしたのです。それ以降は国家の守護神として、伊勢信仰がねづいたのです」

「三種の神器って日本書記でしたね。あと2つはなんでしたっけ?」

「ひとつは熱田神宮のご神体となっている、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。武力の象徴とつたわる存在です。もうひとつは、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。謎がおおくて、平家の武将とともに壇ノ浦の戦いで海に沈んだとも言われています」

 古事記などでは、天津神(あまつかみ)が住む天上界を「高天原(たかまのはら)」と呼ぶ。神々は天皇の孫を下した際に、「この国は天地とともに永遠である」と祝福の言葉を与え、稲穂を授けた。ぼくは(いつの時代でも平和で飢える心配もなく、心が穏やかに過ごせるように)と願をかけた。

 銀鼠色のどんよりとした乱れ雲から、つめたい雨粒が落ちはじめる。ぼくと幸子はいそいで参拝を済ませ、合いあい傘で石の階段を下りた。

「たぶん雨男のぼくのせいです。すみません、こんな天気になって」

「でもひと昔前まで雨男って、貴重な存在でしたよ。農耕に雨は欠かせないですもの。安倍晴明みたいに、雨を降らせない人もいますけど」

「ただ、だいじな時にかぎって雨が降るんです。外回りの得意先で、ずぶ濡れの床を掃除させてしまったり、両親と楽しみにしていた旅行が雨だったり、恋人にプロポーズで断られたりしたときも雨でした」

「わたしも雨女ってよばれていました。産んだばかりの子どもを、雨の日に亡くした女性が自害して、妊婦さんのところに現れるっていう、雨おんばという妖怪もいるらしいですよ。きょうは、たのしかったわ」


 五十鈴川のほとりで清流に心を奪われていると、幸子がぼくの前から姿をくらましてしまった。
 すると、足に貼っていた湿布がはがれ、とつぜん痛みがひろがる。
 彼女からもらった膏薬も、濡れ落ち葉のようで、匂いさえしない。

 一眼レフには橋のうえで笑みを浮かべる、ぼくだけが写っていた。
 幸子は天女だったのだろうか?


        ◆ 写真・文章・編集 :隅田 昭

        ◆ 取材:2019年11月 2日

        ◆ イラスト:Googleイラスト・フリーより

                           発行:2019年11月24日

柴又の手焼き煎餅店(特に測りはしない 生地作り) 鷹取 利典


『浅野屋煎餅店』 葛飾区・柴又・帝釈天の門前町

 まえがき
                          
 一枚食べるともう止められない。『せんべい』と言えば、子供の頃からみんなが食べてきた手軽なお菓子。なかでも醤油味の「煎餅」は、素朴で懐かしい味だ。

 煎餅の起源は古い。平安の初期に僧侶、空海が、唐の長安で食べたせんべいの味が気に入り、京都にもどって和菓子屋に作らせたという説がある。

 庶民に広まったのは、埼玉の草加が発祥と言う。江戸時代、農家では米をつぶし、丸めて干し、塩をまぶして焼いていた。それを日光街道を行き交う旅人に売るようになり、各地に広まった。その後、千葉の醤油で味付けされ、現在の煎餅の原型となったと言われている。

 各地の門前町や神社の参道には、必ず1軒や2軒は煎餅屋がある。葛飾柴又の参道にも3軒の煎餅屋があり、その中でも手焼きにこだわり、玄米から手間暇掛けて生地を仕込む『浅野屋煎餅店』を取材した。


● 煎餅作りは、玄米から
                
「せんべい」は、主に小麦粉で作られるものと、米(米粉)から作られものとに大きく分けられる。米粉を使った焼き菓子でも、うるち米を使ったのが「煎餅」、もち米を使うのが「かき餅」や「あられ」と言われている。しかし、最近は曖昧らしい。

『浅野屋煎餅店』は、今から45年前、1974(昭和49)年に創業した。現在の店主は、2代目、浅野明美さん(58歳)。先代の父親(浅野登さん)が、煎餅が大好きすぎて、柴又6丁目で開業していた牛乳屋を止め、今の柴又の参道に煎餅屋を開いたのが始まりだ。
 登さんが49歳の時である。

 手焼きを謳う煎餅屋は何軒もあるが、多くは生地専門業者から出来上がったものを仕入れている。しかし、浅野屋は、原材料の米、それも「玄米」を使って生地作りから始めている。
 その玄米の仕入れ先にもこだわりがあり、父親の出身地、茨城県産のコシヒカリを創業当時から使っている。

 仕込みは1週間サイクルで、まずは玄米の精米から始まる。創業当時、精米は米屋に持ち込んでいた。米屋の精米機は大型で、前に精米した別の米が機械に残るため、少量でも持ち込んだ米と混じってしまう。

 創業当時、最初は生地の硬さがばらつき、うまく焼けなかった。その原因が精米だと分かり、小型の精米機を店に導入したそうだ。

 1サイクルで使う玄米の量は60キロ(1俵)。少し離れた自宅から柴又の店まで、1袋30キロの玄米を自転車に乗せ、週に2回運ぶ浅野さん。細い腕で30キロの米袋を抱えるのは、大仕事だと言う。


● 重労働の生地作り                 


 煎餅の丸い形は、生地が型抜き用の延し棒を通過させて出来上がる。帆布でできた中段のベルトに、丸くくり抜かれた煎餅生地が、きれいに並んで出来上がる。

 中段のベルトが下に潜るときに、手前の網で受取る。周囲の余り生地は、上段のベルトで、また延し棒に戻し、次の煎餅生地になる。網が一杯になると一旦機械を停め、次の網をセットする。この作業を何度も繰り返す。

 作業には人手が4人いる。無駄がない流れ作業、4人の息が合わないとできない技だ。

 その機械は、先代が店を始める際に、中古で買ったというから、もう50年以上経ったレトロな機械だ。

 この機械について、浅野さんから面白い話を聞いた。鋳物のギヤが延し棒と帆布のベルトを回す仕掛けだが、左右のバランスが合わなくなると、「キーキー」と鳴いて動かなくなる。言うことを聞かない機械だそうだ。
 機械業者に見てもらったが、さじを投げられてしまった。

 しかし、取材の日は調子が良かった。「人が来るといい子になる。」と、浅野さんは笑っていた。
 煎餅作りの作業は重労働だ。60キロの玄米を洗米し米粉を作る。そして蒸して煉って。できたお団子はバケツ5杯になる。
 2階の作業場へ持ち上げるのに電動ウインチを使う。それ以外、全て手作業だ。延し・型抜きの作業日だけは、2人のパートさんに加え、明美さんのお姉さんも駆り出され、4人掛かりの大仕事になる。涼しくなった9月でも、皆、汗だくだった。


● 特に測らない生地の乾燥             

 煎餅生地の乾燥が、一番神経を使うと言う。柔らかいと膨れるばかり。硬いと出来上がりも固くなる。
 生地を灯油炊きの乾燥機で3時間半乾燥させた後、2・3日自然乾燥すると焼けるようになる。その乾燥度合いが煎餅の出来上がりを決めると言っても過言ではない。

 しかし、浅野さんは、温度や湿度などを特に計器で測りはしない。季節や天候を感じながら、勘で決めると言う。まさに職人の術(わざ)である。数値ではない、感覚が、浅野屋の味を決めている。


● 手焼きは暑さとの闘い               

 浅野屋煎餅店の看板を見ると、左に「炉端焼煎餅」と書かれている。今、燃料はガスだが、炉端の形をした焼き台が大小2つある。

 1台は縦横が1メートル程。もう1台は、二回りほど小さい60センチ程の大きさだ。取材時は、小さい方が使われていた。

「とにかく夏場は暑くて辛い。夏は、とても大きい焼き台は使えない」
 だから焼き台の横には、いつも扇風機が欠かせない。焼きは女性の方が強い、と浅野さんは言う。
 なぜかと言うと、女性は料理をするから、熱に強いそうだ。今のパートさんは女性だが、以前は、男性のパートさんがいた。調理師だから火には強いと言うので雇い入れたが、1日で手が水膨れになり、即日辞めてしまったそうだ。

 手焼きと、言っても、焼き方には幾通りかあり、網で挟んで焼くやりかたもある。浅野屋は、炉の上に並べた煎餅生地を焼き加減を見ながら、箸で何度もなんどもひっくり返す方法だ。
 その時、膨らんだり反ったりした煎餅を平らにする道具がいる。それが『押瓦(おしかわら)』である。
 ステンレス製を使っている店もあるが、浅野屋は、瓦材で作ったものを使っている。有人の瓦谷業者に頼んで作ってもらったものだ。持ち手に布が巻いてあるが、持ち手の形が半円形ではなく、手になじむように変形させてある。

 浅野さんの手に、合わせ作られたものだろう。その押瓦で押さえながら、1枚の煎餅を焼くのに、およそ13分掛かる。

 浅野屋には、寅さんの顔を模した「寅さんせんべい」がある。機械の型を変えると、寅さんそっくりの四角い生地ができる。

「寅さんせんべい」は大きいので、大きな焼き台でないと焼けない。それでなくても焼きの作業は暑いから、夏場には作れないと浅野さんはこぼす。それを知らないお客さんからは、「寅さんせんべい」は、いつできるかと聞かれるそうだ。


 あとがき                          

 取材直前の今年9月、浅野屋はNHKの子供向け番組に出演していた。『せんべいは、何から作るの?』と言うタイトルで、煎餅作りを10分間で紹介する番組だった。
その番組で「なぜ煎餅を作っているの」との質問に、浅野さんが言った一言が印象的だった。
「先代が大好きだった故郷の米で煎餅を作り、昔ながらの味を、作る方法を守るためです」
 30年前、先代のお父さん浅野登さんが亡くなり、お母さんと二人煎餅作りを再開したとき、周囲からは、
「(生地から作らず)もっと楽にしたら」
 と助言されたそうだ。

 でも、そうはしなかった。そう、お父さんの味を、作る方法を、今でも守りたいのだ。

 写真は、 雑誌に載った店の写真を見せてくれる浅野さん。(雑誌:月刊EXILE 鈴木伸之さんが来店)


  煎餅を食べる人 モデル:筆者の娘

                 かつしかPPクラブ

                 鷹取 利典

                 制作 2019年11月14日