かつしかPPクラブ

どっこいしょ(葛飾の富士山と富士講)=宇佐見幸彦

はじめに


 国際教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、平成25(2013)年6月22日に富士山とその25の構成資産を、世界文化遺産への登録を正式に決めた。
 富士山は奈良時代末から平安時代にかけて、頻発した噴火を神の怒りと感じ祭祀を行って鎮めようとしたのが、富士山信仰の始まりである(国学院大学笹生衛教授・日本宗教史)。

 火山活動が沈静化してから修験者(山伏)の修行の場となった。その後、富士山の偉大な自然のもと、当時様々な制約を受けていた人々に対して、身分や男女の別もない平等の思考が信仰に結びつき信仰登山は庶民に広がり、江戸時代には多くの富士講が出来た。講のメンバーは資金を積み立て順番に登山を行った(代参講)。

 娯楽の少なかった江戸庶民にとっては、「信心半分、物見遊山半分」の言わば旅行サークルの体になり明治、大正、昭和の初期まで盛んに行われた。

 登山者は白の登山装束に六角の杖を携え、“六根清浄”と声を掛けながら登った。六根とは「眼・耳・鼻・舌・身・意」で、これらを清めるための掛け声で、年配者が立ち上がったりするときに、つい発してしまう‘どっこいしょ’の語源と言われている。

 また、登山に行かれない人のために富士山を模した「富士塚」が作られ、模擬登山が行なわれた。東京23区内でも約50か所が現存している。葛飾区内には南水元浅間神社跡(現富士神社)の飯塚富士、東金町葛西神社の金町富士、立石熊野神社の立石富士の3か所がある。


1. 南水元富士神社と富士講


 東京・葛飾区南水元2丁目にある正慶元年(1332)に創建された富士神社は、毎年7月1日の富士浅間神社の山開きにあわせ例大祭が執り行われ、富士講の行事も行われる。
神社拝殿の背面の墳丘状の浅間山の上に、明治12(1879)年に富士講の人達により高さ4mほどの盛り土をしている。面積約650㎡、高さ約8.6mの富士塚である。普段は立ち入り禁止であるが山開きの当日は開放される。

            葛飾区指定史跡(昭和56年2月22日指定)

  山頂への道のりは、途中、灯篭や祠、石碑がある厳しい岩石を積んだ階段の登山道と外周をまわる山道とがある。
 その塚の頂上には、浅間社の石祠と天狗の石像一躯が安置されている。

 外周をまわる登山道の途中には、富士講の登山者を模した白い登山装束姿の石像が藪の中に佇んでいる。
 平成17年建立の飯塚富士講の石碑には富士講の19名の名が刻まれているが、今では講仲間の数も減っている。

 神社責任役員の嶋村茂さん(80歳)は、
「富士山の世界遺産登録の影響から、氏子だけでなく一般の人も例年より大勢来て、喜ばしいしい」
 と話していた。

 昭和の頃までは、講の仲間の家々をまわって祭文を唱えた後、飲食をする月次行事も、今では社務所で2~3か月に一度になっている。


 毎年7月1日には「七富士参り」が行なわれ、講中に神社の氏子の人も加わり、現在も継続されている。
 七富士とは、埼玉県草加市瀬崎、同八潮市大瀬、同三郷市戸ヶ崎、千葉県松戸市小山、東京都江戸川区篠崎、同葛飾区西水元浅間神社、同南水元(旧飯塚)浅間神社(現富士神社)を巡拝する。今ではもはや徒歩ではなく、バスを仕立てて朝出発し、夕刻に戻って来るという。
(問い合わせは、同神社社務所へ)

 普通の神社は社殿の奥にご神体が祀られているが、当神社では御幣の先に登山道、頂上に浅間神社の石祠が鎮座している。

 飯塚の富士講 葛飾区指定無形民俗文化財(平成7年2月22日指定)


2 葛西神社金町富士


 葛飾区東金町6丁目の葛西神社は、祭囃子(葛西囃子)発祥の地として有名である。神田囃子、深川囃子などの流儀を生んでいる。社殿の右奥に 金町富士がある。

 富士塚は明治19(1911)年の建造である。江戸川の改修で一時取り壊されたが、昭和35年(1964)に再建された。高さは2.5mと低いが、良く整備され参道の途中には三合目、四合目などと刻された岩もあり、何時でも登れる。


3 熊野神社立石富士


 東京・葛飾区立石8丁目にある旧立石村の鎮守で区内でも古い神社の一つである。社伝によると、長保年間(999~1003)に陰陽師の阿部晴明によって熊野三社権現を勧請し創建された。

 神紋は丸の中の五角形に八咫烏(ヤタガラス)が描かれている。この三本足の八咫烏はサッカー日本代表のシンボルでもる。
 境内の敷地は五角形をしている。晴明の万物は「木、火、土、金、水」の五要素からなるという五行説からである。

 境内の一画に立石富士がり、大正13(1924)年の築造で区内の富士塚では最も新しい。山道を登り途中右に折れると、そこが頂上で道のりは約5mほどで、高さは2mもない。
頂上には社と立派な石碑が立ち大きく”浅間神社”と刻まれている。

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白根の風 = 宮田栄子

<想い・前>

2013年1月、東京・葛飾で『第5回堀切大凧揚げ大会』が行われた。P・Pクラブとして取材をおこなった。凧の大きさには圧倒され、大会の最後には綱を引かせてもらった。そして、大凧の、綱の強さに感動した。

新潟県の白根大凧合戦実行委員会は、大凧持参で、毎回、葛飾まで指導に来てくれる。同委員会の佐藤会長をはじめ、多くの方々から熱い話をうかがった。

一方で、PP記者はその日のうちに、「本場白根の大凧合戦を取材に行こう」と決まった。そして、約半年後の6月6日、P・Pクラブの記者仲間7名が白根にむかった。

      

                   しろね大凧と歴史の館


新幹線で燕三条に行き、そこからは車で南区(旧白根市)へ向かう。まず『しろね大凧と歴史の館』を訪ねてみることにした。

館内には白根大凧はもちろん、国内、海外の珍しい凧が4000点余り収蔵、展示されている。世界最大の博物館だ。
同館には白根地区の歴史民俗資料も展示されている。

江戸時代から約300年にわたり、受け継がれる「凧人」の心意気が、この館からすでに十分伝わってくる。 


同館より凧揚げ会場まで、シャトルバスが出ている。車中で、席が隣り合わせたとなった保科さんから話が聞けた。
「勤務先の会社で組をつくり参加していましたが、不景気などの理由で今は撤退してます。自宅からは遠いのですが、やはり見たくて毎年来てしまいます」と語ってくれた。

区民記者として葛飾から取材に来たと伝えると、喜んでくださり
「1人でも多くの人に、白根の凧合戦を知らせて欲しい」
と話された。

                      街をあげての大パレード

同日、12時30分より晴天の下でパレードが開始された。

各小、中学校よりスタートし、本町通を中心に、1時間をかけ中ノ口川会場まで歩くコースである。

色とりどりの衣装を身に着けた、緊張気味な小学生。少し照れ気味ではあるが、演奏はしっかりした中学生。両者とも誇らしげな顔だった。



                真剣に見入る園児たち


歩道では、保育園児が大勢の大人にまじって、目を輝かせて見ていた。
「自分たちもいつか将来、あのパレードの中にいる」と思っているのだろう。今、ここにいる観客を含めて、全員がすでに大凧合戦に参加しているのだ。


                   いよいよ開戦式 

                   昨年の優勝チームより優勝旗の返還


13時30分から、いよいよ開会(戦)式だ。
遠藤南区長の挨拶からはじまる。その区長と共に葛飾に来てくれた佐藤実行委員長も「くれぐれも怪我のないように」と声を大にして呼びかける。それだけ合戦は危険なのだ。

昨年の優勝チーム、「桜蝶組」の優勝旗返還が行われる。その目はすでに、奪還に燃えていた。

大凧は24畳(5×7m)約50㎏、元綱(径2.5cm×130m)約40㎏だ。

今年は、東軍6組、西組7組である。ひと組でおよそ15枚から40枚の凧を用意する。その大凧の合間を縫って巻凧(六角凧・2.2×2.8m)も揚がるのだ。

熱気の中、開戦の火ぶたがきられた。6月6日より10日まで、5日間にわたって熱戦が繰り広げられた。

                   大凧よ 風をつかめ     

                  凧が風をつかまえた。走れ


合戦のルールについて、実行委員の島倉さんから説明を受けた。

「中ノ口川(川幅80m)の両岸から大凧を揚げ、空中で絡ませるのです。と同時に、凧を川に落とし、相手の凧綱が切れるまで引きあう、合戦です」

最初に東軍(女に例え)が西軍(男に例え)の堤防めがけて揚げられる。そして、低空で相手を待つ。やがて、西軍の凧が揚がり、上空から相手(東軍)の凧綱と交差させ、水面に落下させる。これが空中戦である。

(西軍はタイミングが合わないと、川に落ちる確率が高い。だから、凧を多く作る)

互いに綱を引き合って、相手の綱を切ったほうが勝ちとなる。

通算勝数の多い組が優勝、同点の時は勝綱の長さで決める。


                    なんとも贅沢な凧合戦

大凧は1枚15万円。

(そのつど川に落とし壊れる)

元綱は1本200万円(約100日かけて作る)寿命は勝てば5年。


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色被せ(いろきせ)ガラス = 吉沢 希明 

吉沢 希明さん=長野県出身、シニア大樂「写真エッセイ教室」の受講生
            かつしかPPクラブ会員

  色被せ(いろきせ)ガラス  吉沢 希明 

 ある新聞記事に目が止まった。
 記事の地名が江戸川区平井とあり、私の住む所と同じ、江戸川区名産品の紹介で、色被せガラスで作成した「ぐいのみ」が人気だという紹介記事だった。

 さっそく場所や連絡先を確認し、見学と取材の申し込みを行う。社長の中村弘子(69)さんから、快諾を頂き、話を聞くことができた。


「 色被せガラスの特徴はなんですか?」

 ガラスの上に、色の違うもう一枚のガラスを重ねて模様を付け、ガラス容器等の製品にするものです。被せるガラスの厚さは0.2から0.3ミリで、紙の厚さくらいです。これが特殊技術で、熟練した作業員が、手作業で作るために大量生産はできません。

 一人は吹く担当の方、もうひとりが色をつける担当と二人の息を合わせることが肝心です。当社の特徴ですが発色の良さで高い評価を頂いています。

 赤色を出すのが一番難しいのです。

 私の父、金蔵が色被せの技術を開発したものです。この特殊技術が使えるのは日本で2社しかありません。

 類似の工法で製造しているところもあるようですが、職人気質の父は特許には関心がなく、「よければ皆で使えばいいや」という、おおらかな気持ちの人でした。

 社名も父の名前の文字を一字もらいまして「中金硝子」と命名させてもらいました。


「御社は創業何年になりますか?」

 法人にしてから62年ですが、創業は私(社長)の祖父の時代ですから200年近くになろうかと思います。


「御社の後継者は決まっていますか?」

はい。息子が工場部門を担当しておりまして、伝統の技術を会得して、次の世代の若い人を育てています。小学生の孫が「ぼくも、この仕事をやるんだ」と言っているそうです。

 若い心強い後継者が決まっているのは頼もしい限りだ、と思う。


「最近のヒット商品はなんですか?」

 江戸川の花火が、「どーん」と上がるのをイメージした作品を考えてみました。ところが、これは花火が開いた時の表現が難しくて、上手く出来ませんでした。

 この体験を活かして、「逆さ富士」のぐいのみ(トップの写真)を作成しました。富士山の世界文化遺産に登録されたこともあって、人気となり製造が追いつかない程に、なっています。

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猛暑の企画ミスから端を発し、「立石で飲もう会」に21人の酒友

 朝日カルチャセンター千葉は特別企画『昭和が残る立石を歩く、撮る、語る」を募集した。7月17日(水)午後2時に集合だった。ここ連日は猛暑で、熱中症が連日報道のメインになり、外出を控えるように言われている。
 私が企画したのだが、日時の設定ミスだった。参加応募者がわずか3名だった。当初は梅雨を心配してたいたが、猛暑となると、当然だろうな、と思った。
 12日(金)なって、この企画は最終的に流れた。

 ただ、石井朝日カルチャー社長、轡田隆史さん(元朝日新聞論説委員)も、参加を予定していた。こうなれば、私的な飲み会にしよう、と即判断した。集合時間は同日夕刻4時とし、仕事などの都合があれば、来れる時間とした。かつしかPPクラブ(6人参加)から声をかけてもらう。岡島古本屋の店主、石戸さん(かつしかFMに1時間番組をもっている)など、町を良く知る人が来てくれる。

 私の方は作家仲間の高橋克典さんを誘う。とならば、ストリップ作家の牧瀬茜さん、在日作家の金子京花さん。読売エッセイ教室の受講生だった、高橋さんも呼ぼう。葛飾区教育委員会の佐藤さん。

 朝日カルチャセンター千葉の大岩さん、栗原さんも「いらっしゃいよ」と声掛けする。当初申し込んでいた夏目さんも来てもらう。轡田さんはニュースステーション時代のディレクターを誘われていた。 

 あおばの女将には、事前に「飲み放題・食べ放題3500円」で、4時半から10時半まで借り切る、と話を通しておいた。
「何人来るの」
「わからないな。最低でも7~8人。多ければ、15人かな」
 こんな曖昧さだ。

 同日4時には、京成立石駅に10人が集まった。葛飾区伝統産業職人館を見た。夕刻から雨が振りはじめたことから、奥戸橋から東京スカイツリーでも眺めて、と思っていたが、それはやめた。呑んべ横丁から、踏切を渡り、仲見世を通って、あおばの方角へと向かう。


 仲見世で、桜井惣菜店の桜井さん(店主)とちらっと立ち話をした。彼は会うたびに、「立石をしっかり報道してね」と言われる。
 5年ほど前、立石の斜陽化が進んでいた。京成電鉄の高架が目前まで来ているので、商店街が消えていく危機感が漂っていた。
 住民の私は歳月の流れの中で、次第にさびれてく立石を見ていた。このままだと、ドロップダウンが加速するだろう。私なりになにかしら昭和が残る町を残せないか、寄与できないか、と考えていた。

 ネット・ニュースの企画ものとして、「立石仲見世の理事長・理事の『正月座談会』を行った。それも連載ものにした。若手理事の桜井さんは、先行きの暗さを最も語っていた人物だ。

 ホリエモン人気に乗ったネットニュースで、私は何度も「昭和の残る葛飾・立石はいいぞ、いいぞ」と記事にしていた。(読者層は若者だった)。四季の立石のイベントも取り上げた。
 酒場の紹介となると、日本ペンクラブの作家仲間に立石に来てもらい、杯をかわし、下町・立石の感想を載せた。と同時に、かれらの執筆の中で取り上げてもらったり、女性作家にはミステリー小説の舞台に立石を使ってもらったりしていた。
  

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苦闘する飯舘村・菅野村長にインタビュー(下)=郡山利行

 「災害の重い軽いという表現ならば、津波被害の方が放射能災害よりも、何十倍も重いです」
 福島県・飯舘村(いいたてむら)の菅野村長は、そう語る。
 大地震・大津波で、家族を亡くした、家が流出した、家が壊れた、それらは目に見える災害です。放射能の拡散は目視できない被害が内在しています。


 三陸など大津波被害は何年か経てば、ゼロからのスタートができます。と同時に、「地震や津波は天災だからしかたがない」と思うことが出来ます。

 でも、放射能被害を受けた私達は、ゼロ以下です。どれ位のマイナス規模なのか、それすら未だにわかりません。このゼロの段階に向かって、世代を超えて何年もかかるかもしれません。不安と戦いながら、汚された土地での生活苦とも戦いながら、私たちは生きていかなければならないのです、と菅野村長は強調した。

 ゼロのラインにいつ戻れるのか見通せない。それが放射能災害が、他の災害と違うことです、と再度強調した。
 もう一つ大きな違いがあります。大地震・津波による災害は、家族も地域も自治体も、復興への力が結束して、≪力を合わせて頑張ろうな≫となります。 ところが放射能では、それとは全く逆で、心の分断の連続となってしまうことです。

 家族の中でも、年寄りと、小さい子どもを持った若い人達とでは考えが違います。 夫と妻とでも違ってきています。かなりの数の離婚が出ています。
 自治体の中においてすらも、放射線量が高い所と低い所で、避難先から帰る時期が違います。賠償金の額までも大きく違ってくるので、それ自体も大きな問題になります。 

 
 避難生活はいま賠償金で行われているので、労働への意欲がどんどん喪失してきています。農村で育った人達が突然、都市部で生活を始めると、都会の便利さに急速に慣れ、身も心も病んできています。これが現実です。

 この二つの違いの事を、国をはじめとした行政はまるで理解していません。
「最もわかっていない、理解できていないのが国会議員です。 これだけの≪有事≫なのに、今までの≪平時≫の規則や決まりでやろうとしている」
 こちらから提言しても、誰も自分から進んで変更しようとしません。

 菅野村長は日々の村内の各地区での意見交換会の様子、村の将来に向けた施策、模索など、面談した一時間たっぷり語ってくれた。
  村長の語った放射能被害のむごさが、痛切に私の心に響いた。この人物ならば、村人のほとんどは信頼して付いて行くだろう、と指導力を高く評価したい。
 他方で、飯舘村の現況を知らず、同村を訪ねずして、メディア情報のみ(概念)で判断し、村長に批判メールを送り込む無責任な人たちが多いようだ。そこに憤りすら覚えた。少なくとも、放射能被害の真の苦しみを理解できない、しようともしない人たちだろう。

 小説家・穂高健一氏が≪海は憎まず≫の次の作品に、菅野村長のインタビューをどのように描くのか、とても楽しみとなった。

苦闘する飯舘村・菅野村長にインタビュー(上)=郡山利行

 福島県・飯舘村(いいたてむら)の菅野典雄村長は7月4日、午後4時から1時間の単独インタビューに応じてくれた。私は小説家・穂高健一氏に同行取材した。菅野村長は、3・11フクシマ原発事故から2年半たった現状と、これまでの過程を語ってくれた。

 避難先を決めた時のこと、津波災害と放射能災害の違い、飯舘村が置かれた苦境、ゼロへの戦いに対する批判や誹謗中傷にもくじけず、挫折せず、突き進む姿勢と精神を熱く語った。
「全村避難の苦境と痛みとが、きちんと理解してもらえていない」という辛さが私たち村民にあります。嘆くだけではどうにもなりません。私たちは毎日、現行の国の規則の中で、最大限どうやって動くか、ゼロの水準(村にもどれる、生活の足がかりを得る)に向かって、進んでいます。

 穂高健一氏は質問とメモ筆記に集中したので、菅野村長は私に向かって語り続けていた。直視する村長の目は、穏やかさの中にも、気迫が満ちあふれていた。 


『美しい村に放射能が降った』
 2011年8月に、菅野典雄村長が出版した本のタイトルである。サブタイトルは、『飯舘村長・決断と覚悟の120日』である。
 飯舘村は合併しない≪自主独立の村づくり≫を進め、小規模自治体の良さを生かした子育て支援や環境保全活動、定住支援などユニークな政策を展開してきた。とくに畜産業の黒毛和牛≪飯舘牛≫は、ブランド牛として高い評価を得ていた。

 過疎化・高齢化が進む、ごく普通の農業の村だった。飯舘村で生まれ育った菅野さんは、1996年に村長に初当選して以来ずっと同村を牽引してきた。2010年には『日本で最も美しい村』連合に加盟した。村づくりの更なる発展へと弾みになるはずだった。 

 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東京電力福島第1原子力発電所(以降、第1原発)の原子炉と建屋が次々と爆発炎上した。核施設の未曾有の大惨事から、飯舘村の輝かしい小規模農村づくりの努力と成果がすべて消えてしまったのだ。


 第1原発災害直後、低気圧による南東の風が吹き、原発災害現場から北西に30kmから50kmも離れた飯舘村までも、放射能を運んでまき散らしたのだ。しかも、爆発した時点でも、村にはなんら通報がなく、それだけに『うちの村は原発とはまったく無関係だから、絶対に安全だ』と、村人たちは信じ切っていた。
 
 菅野村長は、2011(平成23)年4月10日の夕方、福山官房副長官から、飯舘村が「計画的避難区域」に設定されたと聞かされた。1ケ月以内に全住民は村から避難せよ、という通告である。

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『白根大凧合戦』は激闘だ。白根は燃える(上)=写真で観戦

 大凧は揚げるものではない。戦う、武器なのだ。80メートルの川幅の中ノ口川を挟み、にらみ合い、ライバル心むき出しで、合戦する。

「時には敵意すら抱くのでは」
 現代ではそこまでも、憎し合うことはないです。

 合戦が終われば、仲良くなります。


 東岸は新発田藩領、西岸は村上藩領だった。

 起源は江戸時代中期に及ぶ。諸説あるようだが、中ノ口川は人工掘削である。用水と上水を主とした、生活の川なのだ。
 完成した時、新発田藩の殿様から凧を頂戴し、それを土手で上げていると、対岸の村上領の農家の畑に落ちて荒らしてしまった。

 怒った村上領の農家が仕返しで、凧を揚げて、今度は西岸の田畑を荒らしたのだ。これが凧合戦の由来だと、一般的に言われている。


 24畳の大凧を上げて、双方が空中戦を行う。巨大な凧はすべて勢いで、舞い上がる。「どけ」「どけ」「どけ」と全力疾走する。


 低空で飛ぶのは東方だ。西軍は高いところから猛禽類のように急降下で、襲いかかる。太い25mmのロープが絡み合う。そして、川面に墜落する。

 ここで勝負は終わらない。第2ラウンドだ。綱引合戦で、相手方の麻ロープを奪い合うのだ。

 一本が約200万円以上もする高価なものだ。4回勝負で、もし4回とも相手方にとられると、800万円の損失となるとる。



  凧の裏側を見ると、巨大です。孟宗竹の骨組みと、和紙と、頑丈なロープとが使われています。


   青春の爆発です。


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高齢者 語り継ぐ 戦争体験『心、人 として』=郡山利行

1924(大正13)年生まれ、88才。
 旧東京府向島区寺島町(現、墨田区向島)で生まれ育った。昭和14年、早稲田実業学校に入学。昭和19年同校卒業後、旧満州の関東軍に軍属として入隊。昭和20年8月11日ソ連軍の攻撃により右肘を負傷し、その後ソ連軍の野戦病院から中共軍の日本人管理施設での抑留生活を送り、昭和23年10月20日、長崎県の佐世保港に引き揚げ帰国した。

 昭和25年葛飾区の堀切に居を構え、現在はお花茶屋に在住。以下は、杉浦さんが語った、戦争体験の一部である。


【早稲田実業学校時代 (15才~19才)】
 
学友と市電(現、都電)の中で、授業で習った≪全体主義≫のことについて、大声で語り合っていたら早稲田大学のとある教授が『 君たち電車の中でそんな事、大きな声で話したらいけないよ』と、注意してくれたという。また、授業での≪貿易≫は、ほとんどの専門用語が外国語だったので、昭和16年の太平洋戦争開戦後も、卒業まで英語を学ぶことが出来た。


写真18年、5年生。富士山麓での軍事教練。 生徒と教官。 
『全員、帽子取れーっ! 笑えーっ!』 の号令が聞こえる

【旧満州 関東軍へ】

昭和19年1月 新京(現、長春)の関東軍司令部へ赴任 20才

 昭和19年10月、建国大学での講義受講が終了したので、司令部から、ソ連ウラジオストック西方約100kmにあるコンシュンの師団司令部に配属になった。そしてそこから更に北方約10kmにあるトンニンという所で、物資輸送中継地点の構築に携わった。
 そこは、ソ連のウラジオストック軍港の動向を監視する目的の作戦地で、重要拠点だった。

 そして、昭和20年8月9日、ソ連軍が太平洋戦線に参戦し、旧満州国に攻め入った。
この越境攻撃により、8月11日、杉浦さんは右肘に被弾負傷した。

 8月15日が終戦日だったが、所属部隊は、8月17日にソ連軍に降伏して武装解除され、そこから更に北方約50kmにあるソイフェンホーという場所で、機関銃で包囲された野営状態で収容された。


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東日本大震災・2人の友人③=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生として、叙述文にも力を入れています。
          
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作者HP
  


東日本大震災・2人の友人③  斉藤永江


 名取市と南相馬市に住む、2人の友人の無事がわかって深く安堵した。他方で被災地のために何かしなければ、何かしたいという焦りにも似た思いが常にあった。

 平成7年1月17日に起きた阪神淡路大震災の時には、長女が7才、長男が1才になったばかりだった。現地におもむくボランティアの人たちの映像を見ながら、私に同じ気持ちはあっても、実際には動くことのできない無力な自分がはがゆかった。

 しかし、今は違う。長女は社会人となり、長男も大学生になった。母親がいなくても大丈夫だろう。
 私は3.11の被災地に行くことばかりを考えていた。それでも、仕事の日程やライフワークとしている傾聴ボランティアの活動日を照らし合わせると、長期に渡る瓦礫(がれき)処理の手伝いや炊き出しに行くことは容易ではなかった。

 私はネットで自分が参加可能なボランティア団体をくまなく探し始めた。4年前から参加しているSNS(ソーシャルネットサービス)の中でも、想いを同じにする同年代の仲間たちが『東北震災支援ボランティアの会』を立ち上げていた。

 代表は同い年のG君だった。彼とは面識があり、飲み会やイベントの席で何度か話しをしたことがあった。大柄で恰幅(かっぷく)がよく堂々としていて、いつも会の中心にいた。代表者欄に彼の名前を見つけたとき、「やっぱり・・彼らしいな」と私はつぶやいた。

 私はすぐに入会を決めた。震災から1ヶ月が過ぎようとしていた。
「こんにちは、G君。いてもたってもいられなくって・・私にできることをしたい。仲間に入れてください」
 携帯にメールを送るとすぐに返事がきた。驚いたことに、被災地の大船渡に向かう途中の車内からだった。
『信じられない光景です。皆さんのお力をお借りしたい』
 そのメールには、無残にもくずれ落ちた鳥居の写真が添付されていた。

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朝日新聞・書評委員会メンバーの立石ツアー・深夜まで悦に(下)

 朝日新聞・書評委員会のメンバーが、京成立石駅からアーケードを抜けた先の、奥戸街道に面した居酒屋「あおば」に着いた。(駅から2分)。書評委員、編集委員、記者が三々五々と集まる。
「あおば」は昭和が残る・下町の、昼の定食屋が夜に居酒屋になった感がある。終戦直後からの「のんべ横丁」に驚嘆していたメンバーだが、この「大衆酒場」という古い表現が似合う「あおば」も即座に気に入ったようだ。

 気取らない店内で、壁面にはメニューが豊富に短冊でならぶ。アジフライ、鴨つくね、串カツ、ハムカツ、潮から、まぐろ 味噌焼き、竹輪揚げ、はんぺん、ヤッコ、イカ焼き、ナス焼き、もろきゅう、と200~500円以内の品がずらり。立石地区では一軒のメニュー数としては最大の店だと思う。昨年、出久根さんと、初めて立石にきた作家(吉岡さん、轡田さん)が『ここは良いね、一品ずつがポリームがあって、500円以内。料理が出てくるのが早い』と称賛していた。

 書評委員会・立石ツーは13人だった。さらには飛び入りでドイツ人・女性ジャーナリストと、通訳の早大女性教授も加わる。だれもが肩の力を抜いて飲める、大衆酒場だから、すぐさまなごやかな雰囲気にとけこむ。

 出久根さんの声がかりで、かつしか区民記者「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)の男女メンバー6~8人がそれぞれ日中の仕事を終え、三々五々と「あおば」にやってきた。思いおもいに座る。

 同PPクラブの男女メンバーが加わり、立石の下町風情、気質、歴史などがごく自然にテーブルの中心話題になってくる。郡山PP副会長は酒が入り、顔を真っ赤にし、写真を撮りまくる。書評委員は著名人だし、「報道の自由」の朝日の記者だし、だれもが「個人情報」など、やぼったいことは一言も発しない。むろん、PPメンバーも。

 個人情報保護法はそもそもジャーナリストによって政治家のプライバシーが丸裸になる、それを嫌った政治家の先生が自分たちの私事を守るために、それを明文化し、国会にごり押ししてできたもの。その法律が世のなかで勝手に独り歩きしてきた。学校や社会の会・名簿などはまったく違法ではないのに……、一般市民のプライバシー保護で作らない、と勘違いされている。

 そんな小理屈や法律論は抜きにし、郡山さんは好き放題に撮影していた。

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